履歴その6、党の要職時代

 更新日/2016.11.8日


1957(昭和32)年、角栄39歳

2.25  【第一次岸内閣発足】石橋首相が突然病に倒れ、岸が後を引き継ぐことになった。角栄は、後年「岸内閣は僕が作ったんだ」と述べている。
3.29  【国土開発縦貫自動車道路建設法成立】角栄が提出者。
3.31  特定多目的ダム法公布】角栄が立案に参画。
4.25  【高速自動車国道法公布】角栄が立案に参画。
4.27  【北海道東北開発公庫法公布】角栄が立案に参画。
5.17  【東北開発促進法公布】角栄が立案に参画。
7.5  【岸内閣就任5ヵ月後の第一次岸内閣改造で郵政大臣に抜擢される】
 ◎テレビ局の予備免許問題を解決する。
 角栄が39歳で郵政大臣に就任。30代の大臣誕生記録は戦後最年少で、明治の尾崎行雄以来であった。ここまで裏方の党務で能力を発揮していた角栄の政治的才能が、この郵政相時代に堰を切ったように表舞台で噴出する。

◎次のような7.10日の弁が残されている。
 「大臣になれるとは思ってもいなかったよ。40歳だ。アメリカ流の満では39歳ッ。30代で大臣になったのは尾崎がく堂先生一人であります。マァ、若い大臣なんて使いものにならんと云われるような前例だけはつくれんッ。これからの人に迷惑だからナ。大いに頑張るよ。若さと情熱でぶつかるだけだ」。

 真偽不明であるが、「田中は入閣の際に『岸にいくらゼニを持っていくか』と聞いた。『3百万円でどうだ』と話が決まり、リュックに札を詰めていった」(古くからの田中支持者)とも伝えられている。

 岸は、後日この時の角栄の抜擢について次のように述べている
 「私は30代の田中君を郵政大臣にしたことを、間違ったことをやったとは思っていない。又、その後の田中君は党の幹事長や大蔵大臣といった重要な職に就いて、てきぱきとやるし、才能もあると思うんだ。人間的にもなかなか面白い人物ですよ」。

 就任翌日の朝日新聞朝刊は「馬力あり」と評して、次のような「横顔」記事を掲載している。
 「口ひげを生やしているせいか年齢の割に老けて見え、口の利き方もませている。しかも土建業で叩き上げてきた経歴にふさわしいかのように馬力があり、アクも強い。競馬に賭けても大勝負を試みるなど、『小型河野(注、河野一郎元副総理)と云う評があるゆえんだ。ともあれ、30歳前後の若さで土建会社を起したり私鉄の社長に納まったりした来歴が示すように、なかなかの腕利きである。政界に入ってからも、『あの若さで』と意外の感を与えるほどの手腕を見せたことがある。第22回特別国会で衆院商工委員長だった当時、難航を予想された石炭合理化法案の審議を政府の希望した日程の通りに進めて、社会党に反撃の機会を失わせてしまったあたり、通産省では近来にない名委員長と評している。しかも別の法案では、時に雲隠れ戦術を用いて都合の悪い議決を引き伸ばしたりする駆け引きの才も見せた」。
◎当時、麻布の狸穴の東京貯金局に同居していた郵政省に初登庁した田中大臣は、玄関に「全逓労働組合中央本部」の大きな看板がかかっているのを咎め、「大家よりでっかい看板を出す奴があるか」と叱る。前任者の平井太郎から事務引き継ぎを終えると、直ちに郵政所幹部を集めて、過去の郵政大臣の実績報告を求め、次のように述べている。
 「私1回大臣になれば、明日にでも辞めて悔いはない。諸君ッ、これからはすべからく話し合いでいこうではないか」。

◎角栄は郵政省全職員を講堂に集め、次のように訓示した。
 「私は、新潟県柏崎の生まれで、まだ39才。未熟者であることは云うまでもない。だから有能老練な平井先輩の後を受けて果たして上手くやれるかどうか、心配している。しかし、まだ若いのであるから先は長い。前大臣と比較するような意地悪をせず、先を見て、まぁ使い甲斐のある男だと思ってもらいたい」、「最終責任は私が取る。だから皆さんはそれぞれの仕事に全力投球して欲しい」。
◎訓示が終わると、全逓三役(委員長・野上元、副委員長・宝樹文彦、書記長・大出俊)が会見を申し入れた。角栄は、「私の方から挨拶しようと思っていたら、君たちの方からやって来た。バカに手回しがいいじゃないか」と出迎えた。ところが、全逓の看板を無断で取り外した件につき「抗議に来た」と云う。浅野賢澄・文書課長に問い糺すと、「看板一枚保管仕候、郵政大臣官房文書課長」名で全逓執行委員会あてに庁内郵便局から書留速達済みとのことだった。全逓三役は告訴を取り告げることにしたものの、「どうしてそんな乱暴な実力行使をするのか」と抗議し始めた。角栄は、「どこの国に大家より大きい表札を掛けている店子がある。一体、君たちは家賃を払っているのかね」と切り込む。しどろもどろの全逓三役に次のように述べている。
 「私はそういうところから正していくよ。しかし私にも労働の経験がある。だから労働組合を抑えようなどという先入観はない。ただ日本の労働運動を理想的なものにしたいと願っているだけだ」、「本部はどこかに引っ越した方がいい。終戦直後の混乱期ならいざ知らず、全逓もこれだけ大きくなったのだから、みんなでカネを出し合って本部会館を造ったらどうだ」、「これからは君たちに会見を申し込まれれば私はイヤとは云わない。その代わり、私の方から会見を申し入れた時はノ―と云わないでくれ。ギブアンドテイクでいこうや」(今井久夫「角栄上等兵とヒトラー伍長」)。
 この日、第一次岸信介内閣で戦後初めて30代で大臣に就任した若手代議士角栄が郵政省の講堂で就任挨拶をし、降壇した時、兵役時代の上司の小野澤氏が駆け寄り、「オイ、田中二等兵じゃないか!」、「あっ! 小野澤伍長」。およそ15年ぶりの再会にお互い相好を崩し喜び合った。その場で角栄は「オレの秘書になってくれよ」と頼み、その一声で小野澤氏は郵政大臣の秘書に抜擢されることになった。角栄が郵政大臣を務めていたのは1年ほどで、小野澤氏は70歳まで郵政省に勤めている。
◎事務次官は小野吉郎であったが、次官が大臣室に足を運ぶしきたりにこだわらず、角栄のほうから足を運んでくることもちょくちょくであった。小野次官は次のように回想している。
 「普通、新任の大臣に、仕事の説明をして理解してもらうのに凡そ一ヶ月ほどかかる。が、田中に対しては、ほとんど一週間もかからなかった。小野側の説明は、ごく簡単で済んだ。むしろ、田中のほうから、要点を説明し、逆に小野に質問した」。
◎当時、郵政省内には二大派閥(郵務局長派の松井一郎と経理局長派の八藤東喜)が横行し、主導権と人事抗争に明け暮れていた。

 角栄は、省内を精査した上で、「この省内のだらけた空気は、真面目に働こうという人間の集まる環境ではない。それもこれも、二大派閥とかいうボスが元凶なんだ。派閥が、局長から課長まで、役職にある人間の縄張り意識を増長して、まともな人間の労働意欲まで奪っているじゃないか」と叱り、二大派閥のボスを「勇退」させ、省内の空気を一新させた。
◎「省内の派閥をあっという間に片付け、春闘の責任を問う全逓処分もこれまでにない厳しいものを打ち出したが(全逓労組幹部7名の解雇、297名の停職、減給200名、戒告404名、訓告2万1567名と云う組合員の約1割にも及ぶ大量処分)、全逓との労使関係正常化を成し遂げている。まぁ交渉のやりがいのある相手だった」(当時の全逓副委員長・宝樹文彦)。この当時の全逓委員長は野上元、書記長は大出俊。
7.15  新潟日報の本社編集局長・中野氏のインタビューを受け、次のように語った記事が掲載された。
 「(郵政大臣の抱負については)そういうものは持ってないですナ。だいたい、郵政大臣にはなりたくなかったんだから。総理からは『それなら労働大臣、自治庁長官は』と言われたが、いずれもイヤだと言って、結局、郵政となったんだ。抱負、経緯を述べるとすれば、もう1週間待ってもらいたい。今、郵政省の幹部に、郵政省のボス、戦後の衆参両院の逓信委員で特に立法に関係した人、俗に言うウルサ型でなく、すんなりした人の名前を挙げてくれと言っておる。テレビ免許の陳情もたくさん受けたが、これは全く白紙です。前大臣からの事務引継ぎも握手だけで、向こうが作った書類は机の引き出しに入れてある。いいものは取るが、断ち割るべきものは断ち割るつもりですよ」。
 「大体、労働政策というものはだナ。演説をブッタ、壁にぶつかったから仕方がないということじゃぁ、労働政策にはならんのです。ところでねぇ、実は私は労働組合と云うものにかなりの好意をもっておるつもりですよ。もっとも一番に敬意を表しているのは記者クラブの諸君ですがね(笑)。大臣認証式の翌日、私は早速全逓の諸君と話し合いましたよ。『私は若いから、要らざる闘争は努めてやらぬことにしておる。ただでさえ、ファイトが盛んだから』と言った。が、『若いからといって、またシロウトだからといってナメてはいかんッ』ともやっておいた。それから、『全逓は名誉ある秩序正しい組合と承知しておる。その名誉あ全逓が経済闘争の範囲内で要求するというのなら、私も赤旗の前に立とう』とやったんです。まァ、和気アイアイのうちに、帰りには拍手で送ってくれましたよ。逃げ腰の大臣はざらだが、進んで組合に出掛けてきた大臣は珍しいそうです。もっとも、『いいことばかり言ったようだが、君らの言うことも国家の立場でガマンしてもらわねばならんこともある』と付け加えるのは忘れなかったですがね」。
 「まァこれまでの私の人生観は10代、20代、30代と分けて説明しなければならないですね。まず10代では、『大仕事を遂げて死なまじ。熱情の若き日は叉と来はせじ』というもので、これは小学校6年の時に年賀状で友人に書いた。20代は、『末遂に海になるべき山水も、しばし木の葉の下くぐるなり』だった。これが30代になると、『岩もあり木の根もあれどさらさらと、たださらさらと水の流るる』となったが、さて40代はどうなるかだ。マァ、人生、死ぬ前の十年間くらいはうんと楽しみたいものだとは思っていますよ」。
 【153局の民放テレビの申請を39局に纏めて大量一括予備免許を一挙に認可】

 角栄の管掌による。やがて通信情報の時代が来るという読みが背景にあった。4年越したなざらしにされていた懸案事項であった。これについては、「民放テレビ36局の一括予備免許の一挙認可」で詳述する。
◎この頃、等級コンツェルンの創始者五島慶太と知り合い、田中・小佐野・五島の兄弟杯が生まれている。
◎角栄は、大臣になるなり、レコードを集めるほどファンであった浪曲の玉川勝太郎を大臣室に招き、選挙区の人たちが何人か来ていたが、「なぁ、一席やるから、聞いて直してくれ」と言ったかと思うと、玉川のおはこの「天保水滸伝」の一席をうなり始めた。これを聞いた玉川は、「いや、覚えのいいのなんのって、その時聞いていて、思わず、これは俺よりうまいやっと言ったもんですよ」と述懐している。(戸川猪佐武「君は田中角栄になれるか」)。
8.9  佐藤昭が角栄との子を生む。女児で敦子と名づけられる。
8.28 ◎NHKラジオの人気番組であった宮田輝司会の「三つの歌」にゲスト出演、浪花節を披露する。当初は別の歌を歌おうとしたが、途中で支えてしまい、そこで得意の浪曲「天保水滸伝・鹿島の棒祭り」を披露。
 「常陸(ひたち)鹿島の明神さまのォ 年に一度の棒祭りィ〜 近郷近在遠国からも 集まる顔役親分衆ゥ 賭場に小判の雨が降るゥ〜」。

 この後の続きがあったが、この文句のところで「時間となりました」となり終わってしまった。NHKに抗議電話が殺到し、曰く「教育放送を口にする郵政大臣たるものが、『賭場に小判が乱れ飛ぶ』とはナニゴトか」。後に国会で問題にされている。角栄は、「賭場の一節は祭りの描写の為なんで、バクチそのものをいいと思ってやった訳じゃぁないんだがね、参ったね」と頭を掻いたと云う。
 この直後の徳川夢声との週刊誌対談で次のように述べている。
 「私はあの『天保水滸伝』をウナる直前、さすがにちょっと考えたんです。放送の教育性を言っている手前、ホントにこれでいいのかと。かといって『杉野兵曹長の妻』は少し懐古趣味だし、『壷坂霊験記』がいいかなと思っておったら、司会者が『ちょっと天保水滸伝でも』と言ったんで、そのォ、向こうの顔立てたワケですナ。玉川勝太郎さんは日本人的な哀調を帯びた、しかも歯切れの良い『投げ節』でね、低い声で抑揚がなく男に向くんです。始めて、いい調子だ、これでいいかと思ったらエライことになった。今度やるときは、文芸浪曲調で『南部坂雪の別れ』でやろうと思っていますよ。しかし、そのォ、全国からいろんな手紙をもらっていますナ。全逓の諸君からも来てるんです。『ラジオでアレを聴いて、初めて我々の大臣だという気持ちになった』と。こういうものをもらっているから、ナニクソッと思っていますよ」。(週間実話、2016.7.14日号、小林吉弥「田中角栄 侠(おとこ)の処世」bQ6)
9.25 ◎郵政大臣名で、「郵政職員の皆様へ」という要望書を全職員の家庭に郵送。
10.15  【NHKの教育テレビ局に予備免許を許可】角栄の管掌による。
10.22  【テレビ放送局の大量予備免許を許可】これにより民間テレビが各県で視聴可能となる。角栄の管掌による。
11.7 ◎全逓の秋季・年末闘争が早期解決。
11.8  【FM放送用実験局の予備免許を許可】角栄の管掌による。
12.1  【郵便貯金の総額制限を引き下げ】角栄の管掌による。
12.8 ◎角栄の分身とも云われるほど田中を支えてきた曳田照治秘書が死去。「陳情や要望の窓口は曳田だった。死後は山田泰司が引き継ぐ。越山会も曳田が東京でまかなっていた。それを引き継いだのが後の越後交通社長、田中勇だ」(地元筆頭秘書・本間幸一)。この時、後任に大出全逓書記長を起用しようとしていたが、郵政省事務当局の反対論「大臣と組合が仲良くするのはいいが、組相の現職三役の一人を秘書官にするのは将来必ず不当労働行為として問題のタネになる」で断念する。
12.26 【NHK及びNTVのカラーテレビ実験局の予備免許を許可】角栄の管掌による。
12.31  大晦日のNHKテレビ「紅白歌合戦」に審査員として出演。司会者の「大臣、どちらに軍配ですか」の問いに、「男性軍が二重丸(二ジョマル)ですナ」と答えている。角栄の郵政大臣在職中のテレビ、ラジオ出演回数は、結局十数回に及んでいる。
 世界銀行から日本道路公団への道路借款を取り付け

1958(昭和33)年、角栄40歳

3.27  【ソ連でフルシチョフ第一書記が首相を兼任、フルシチョフ体制確立】
3.31  【道路整備緊急措置法公布】角栄が立案に参画。
4.1  【簡易保険加入限度額の引き上げ、簡易保険の重度障害による保険金支払い制度を創設】角栄の管掌による。
4月初旬 ◎角栄が小佐野と密談。この時長岡鉄道・中越自動車・栃尾鉄道の三社合併案構想が練られた模様。これに東急コンツェルンの総帥・五島慶太が噛んで株の買占めが始まることになる。
4.25  【工業用水事業法公布】角栄が立案に参画。
4.25  【衆議院解散】
4.28 全逓・野上委員長ら2万2476名の大量処分を行う。
4.28  【首都圏市街地開発区域整備法公布】角栄が立案に参画。
 「第28回衆議員総選挙の選挙公報」にこう書いている。
 「私は世界的政治家や総理総裁になって一党を率いようというような派手な夢や考えは持ちません。私が道路や橋や川や港、土地改良等に力を入れるので、一部の方々は『田中は土方代議士だ』と云われるが、私は原水爆禁止運動も世界連邦運動も結構だが、『まず足元から』という気持ちで敢えてこの批判に甘んじておるわけであります」。
5.22  【第28回衆議員総選挙】角栄がトップ当選。以来トップ当選を続けることになった。初の8万票台を突破して(新潟3区ではこれまで7万票を得た候補者はいなかった)8万6131票。前回よりも3万票を伸ばしている。郵政大臣効果が重なった。

 自民党党紀委員、党新潟県連会長に就任。大河内記念館理事に就任。この時竹下登・金丸信・安倍晋太郎が初当選している。
6.12  【第二次岸内閣発足】
7.6 自民党党紀委員、自民党新潟県支部連合会長に就任
7.10 ◎エレクトロニクス協議会設置に尽力。
◎郵政大臣としてお国入りしていた角栄は、信濃川河川敷の耕作権を持つ農民グループから陳情を受ける。これが後の「信濃川河川敷問題」の始まりとなる。
10.8  【警職法騒動】政府が警職法を提出し、第30回臨時国会が混乱。
12.23 333メートルの東京タワーが完成した。郵政相の角栄が立ち腐れになっている鉄骨を見て、地上31mの高さ制限による建築基準法違反で工事が中止になっていることを聞き、次のように批判して許可させた経緯がある。
 「建築基準法を立案したのは私だ。テレビ塔は普通の建物ではない。広告塔である。高さ制限の対象ではない」。
12月 ◎再選を目指す岸内閣に、池田の入閣を説得、池田はこれに従う。この時、角栄は次のように述べたと伝えられている。
 「(岸は本当に俺の言うことを聞くのかとの池田の言に対して)ああ、聞くとも。大臣というものは、なりたいと思ってもなれないときもある。ここでなっておかんと、官僚というものは干乾しになる。官僚なんていうものはその地位から外れたら、全く無価値なんだから、就いてなきゃ駄目だよ」。
12.25 公共用水域の水質の保全に関する法律、工場排水等の規制に関する法律公布】角栄が立案に参画。
◎この年の暮れ、角栄は、佐藤派だけでなく他派閥の議員にまで指導料という名の「モチ代」を配っており、佐藤派内田中派の萌芽的な動きを見せている。

1959(昭和34)年、角栄41歳

3.17  【首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律公布】角栄が立案に参画。
3.30  【特定港湾施設整備特別措置法公布、九州地方開発促進法公布】角栄が立案に参画。
4.9 【皇太子殿下ご成婚】
4.14  【首都高速道路公団法公布】角栄が立案に参画。
 【福田赳夫幹事長になる】
5月 ◎中越自動車会長に就任。「東急社長の五島慶太に呼ばれ、『中越の株を取ってしまえ』といわれた。田中はオレと別筋で動いた」(当時の東急常務・田中勇)。「長岡鉄道による中越自動車の買占めで、合併が決まった。裏で長鉄に資金を出したのが小佐野賢治だった」(元小出町長・桜井貞一)。
6.11 ◎小出只見線全通期成同盟の大会。会長に田中がなった。この時田中のエピソードとして、「県議が只見線全通を田中に陳情した。田中が『天下の代議士に頼むんだ、わかっているだろうな』と云ったんで、町では『いくら包むか』と論議した」(小出町の老社会党員)がある。
9.10 ◎角栄が佐藤派の代表として二度目の自民党副幹事長に就任。川島幹事長を補佐する。幹事長室に詰めっきりで深夜国会の連続。
9.15  【米ソ首脳会談開催される】
10.25  西尾末広氏ら社会党を離党。
11.20 ◎大河内記念館理事となる。

1960(昭和35)年、角栄42歳

1.19  【日米新安保条約等調印】
1.24  西尾末広氏らが民主社会党結成。
2.20 ◎売春対策審議会委員に就任。
3.31  【治山治水緊急措置法公布】角栄が立案に参画。
4.26  【四国地方開発促進法公布】角栄が立案に参画。
4月  中越自動車会長に就任。
5.19  【衆議員本会議、警察官を導入して自民党議員のみで会期延長を決議】
5.20  【岸内閣が新安保条約を衆議院で強行採決】
6.15  【60年安保闘争】全学連主流派学生約7千名が国会突入、警官隊と衝突。樺美智子氏死去、重傷者多数発生事件へと発展した。
6.16 【アイゼンハワー米国大統領訪日延期】
6.23  【日米新安保条約発効】
6月 ◎第二次岸内閣退陣声明。
6月 ◎総裁のイスを廻って池田と佐藤が先陣争いを始めた。ある日、七賢堂と名づけた神奈川県大磯の自宅に引き込んでいた吉田茂が角栄を呼んだ。吉田は、駆けつけた角栄に書を渡す。池田に「呑舟の魚は支流に遊ばず」、佐藤に「燕雀は知らず天地の高さ」、角栄に「*竜、雲雨を得」。
6月 ◎総裁のイスを廻って池田と争った佐藤に対し、ここは池田に譲れと画策し功を奏している。この時の角栄の伝は、「佐藤さん、おまえさんは必ず(総理に)なる」との力強い予言であった。
7.14  【自由民主党大会の総裁公選で、池田隼人氏が総裁に選出される】
7.19  【第一次池田内閣成立】
9.25  【東海道幹線自動車国道(東名高速道路)建設法公布】角栄が立案に参画。
10.12  【浅沼社会党委員長刺殺事件】浅沼社会党委員長が、日比谷公会堂で演説中に右翼青年によって刺殺される。
10.19 ◎長岡鉄道と中越自動車と栃尾電鉄の三社が合併し、越後交通となる。資本金5億750万円、従業員1700名。田中が会長に就任する。社長には東急の総帥「強盗慶太」の異名を持つ五島慶太の「懐刀」といわれた田中勇、専務には長岡鉄道の関藤栄、取締役に小佐野賢治が座った。

 この頃、越山会が本格的に組織され始め、越後交通が角栄の後援会「越山会」の母体となって経済的なささえにもなっていくことになる。ここに本間が陣取り、越山会を統括していくことになった。選挙結果の査定、冠婚葬祭、就職の斡旋。迅速な被災地見舞い等の司令塔となった。新潟県越山会会長。初代・田中勇、2代目・庭山康徳、3代目片岡甚松。

 佐藤昭子の「私の田中角栄日記」は次のように記している。
 「田中の頭の中は、すでに王道を歩むという気持ちが、戦略的にあった。国対委員長をやらないかという話は、これまで何回も来ていて、なろうと思えばいつでもできた。しかし、田中は『党7役にはならない』といって、ずっと断り続けた。(略)政治団体を作ったのも田中の長期戦略の一つだった」。

10.24  【衆議院解散(安保解散)】
11.20  【第29回衆議員総選挙】池田自民党が296議席を得て圧勝する。角栄が7回目の当選。8万9892票。角栄は、新潟日報の「私は県民に約束する」で、次のように述べている。
 「否応なしに、予算面から現実的な約束を果たさねばならない。その内容としては、基本的には新安保を国民から承認されたという立場から、アメリカを中心とする自由主義陣営との結びつきによる繁栄政策に対応する予算編成、国内的には裏日本の後進性を打破する地方開発、農山漁村の所得倍増、社会保障関係では都市中心主義的な性格を改め、もっとも恵まれない地方も平等に潤うようなものに改めたいと考える。

 例えば、農村の家屋構造を改造して生活の根本的改善を目指すといった面や、母子家庭が潤うよう方向へもっと保障の重点を向けて生きたい。叉、中小都市の中小企業者にも社会保障が行き渡るように、網の目を張っていよう努力したい。

 とにかく、私の場合は当選7回であり、新人のように新しく議員としての試験台に立つということより、信任投票されたという形なので、その意味でも県民に対する約束は単なるキャッチフレーズだけでなく、本当に実践の伴った公約を、責任を持って果たしていきたいと思っています」。
12.8  【第一次池田改造内閣発足】。池田首相が所得倍増計画打ち出す。
12.14 ◎自民党水資源開発特別委員長に就任。
12.27  【国民所得倍増計画を閣議決定】
12.27  【北陸地方開発促進法公布】角栄が立案に参画。

1961(昭和36)年、角栄43歳

◎この年、衆院北陸地方開発特別委員長に就任。
3.31  【港湾整備緊急措置法公布】角栄が立案に参画。
5.26 日本電建社長に就任。「電建社長の寺尾芳男は、岡田と相談して田中を後継者に決めた。岡田御三家(塚田十一郎、渡辺良夫、田中角栄)の中で商売に向くのは田中だった」(岡田知事時代の秘書課長・前田実)。
6.2  【後進地域の開発に関する公共事業に係る国の負担割合の特例に関する法律公布】角栄が立案に参画。
7.18  【第二次池田勇人内閣が成立。自民党政調会長に抜擢される】
 ◎日本医師会の保険医総辞退問題を解決する。
 角栄が自民党政調会長に就任。この時43歳の若さで、初の党三役入りであった。福田が外され、田中が座った。この時の党三役は、赤城宗徳(川島派)総務会長、前尾(池田派)幹事長。

 角栄は、私邸で次のように述べたと伝えられている。
 「前尾、赤城というのは、素晴らしい頭脳の持ち主だが、口下手でね。僕がエンジンをかけたり、ホースを引っ張り、筒口を持って火の中へ飛び込むことになりそうだ」(私邸で)。鉄道建設審議会委員ならびに小委員長兼任。

 佐藤昭子の「私の田中角栄日記」は次のように記している。
 「当選回数を重ねれば、誰でもいずれ大臣のイスに座れる。しかし、党三役になると話は別だ。(略)たとえ田中が大臣を1回か2回やるだけで終わる平凡な政治家であったとしても、秘書を辞めないであろう。けれど、この人は絶対に大物政治家になる。私がどこまでも一緒に走り続けなければいけない。という気持ちに変わったのは、政調会長になってからだ」。
◎鉄道建設審議会委員ならびに小委員長兼任。
7.31 ◎角栄は、就任後1週間にして自ら医師会館に乗り込み、武見太郎日医会長らと会談し、こじれていた保険医総辞退問題解決に向けて動き出した。「隣村同士の出身だから知っていたし、面識もあった。だから、(対決ではなく)気楽に話し合った」(日本医師会会長武見太郎)の伝がある。角栄開口一番次のように述べ協力依頼した。
 「私は初めて横綱に立ち向かった十両のようなものです。この案を承知してくださらんと、政府自民党とも、医師会を見捨てざるを得なくなると云う事態も考えられます。私としては真剣に成案を考えたい」。

 武見は、「同じ新潟県人のキミに乗り込んで来られては喧嘩にならんなぁ」と受け止めた。以降、両者の胸襟を開いた折衝が続いて行くことになった。後日、角栄が最終的成案を提示し、武見医師会がこの収拾案を基調とし、「医師保険制度の根本的改正」、「医学研究と教育の向上と国民福祉の結合」、「医師と患者の人間関係に基く医療の精神」、「医療懇談会の設置」といった付帯事項をつけることで歩み寄った。「保険医総辞退」を掲げて政府と対決していた当時の難問題であった健保問題はこうして解決し、角栄が実力を見せつけ「タダ者ではない」との評を得た。これについては「健保問題解決」で詳述する。
8月 ◎新星企業を設立。
8.18 ◎「災害復旧を合理的に解決するため、国土庁を新たに設置したい。これは、水資源問題や地方格差是正にも密接な関係を持つもので、毎年の災害が2千億円に及ぶことを考えれば、思い切って設置することが必要だ」(中越地方の水害視察の為來県した時の弁)。
9月 ◎鳥屋野潟湖底地買収が具体化、翌年購入。
11.13  【低開発地域工業開発促進法、水資源開発促進法、水資源開発公団法公布】角栄が立案に参画した両方案が第38国会で成立した。
12.29  【昭和37年度総予算閣議決定】角栄が尽力した政策は、@・大規模減税、A・教科書無料配布、B・新全国総合開発計画の策定、C・恩給のベースアップ、D・農地被買収者に対する特別融資。

1962(昭和37)年、角栄44歳

◎皇室経済会議員、関税審議会会長、財政制度審議会会長、資産再評価審議会会長、外資審議会会長、外国為替審議会会長を務める。
1.7 【ガリオア・エロア返済協定調印】9.11日よりガリオア・エロア債務の支払いを開始。
1.23 ◎田中政調会長が、衆院で池田首相の施政方針演説に対する代表質問に立ち、池田式所得倍増政策に対し次のように補論している。
 「経済成長があまりにも高い時には、力のある者がますます伸び、格差が拡大する傾向にあり、逆に景気が後退する時は、これまた優勝劣敗が顕著に現れ、格差が拡大するものであります。(中略)戦後、農山漁村は振興致しました。しかし、都会にはだしで登校する子供は居ないが、農山漁村にははだしで登校する子も少なくはないのであります。都会で子供を使うと児童福祉法違反となる。しかし、農山漁村の子供は学校から帰るやいなや仕事に追われるのであります。漁村の12、3歳の男の子は、一人で船を操る危険を敢えて致しております。それは農村漁村が豊かでないからであります。都会の妻は、小さな部屋の掃除と、そして子供を育てることが大変だと言います。農山漁村の妻は大きな家の掃除をし、親や子供の面倒を見る。しかも出稼ぎに出た夫に代わって農耕漁労をひねもす精を出す。近年都会に流出する子女が多過ぎ、農家の長男に嫁の来てがない。私はそんなことではいけないと存じます。小さな産業都市がたくさんできて、夫は家庭から通勤し、勤労の余暇に妻とともに農漁にいさしむ、そんな理想的な姿こそ農山漁村の所得倍増政策でもあり、愛の政治だと存じます」。

 続いて社会党を攻撃。社会党鈴木訪中団が、3年前の「米帝は日中両国人民の共同の敵」とした浅沼発言を新たに確認して帰国したことを採り上げ、「社会党は積極中立さえ捨て、中共の片棒をかつぎ、反米闘争の一翼を担った」と批判。
2月 黒又分水中止の地元補償金を廻り、県会が紛糾。北魚沼郡小出町議会は、真相究明へ百条委員会を組織。
2.6日  ロバート・ケネディ司法長官が来日し、政調会長の角栄、中曽根、江崎真澄、石田博英、宮沢喜一、山中貞則ら当時の自民党中堅が非公式に懇談した。その席で、司法長官は、日本の防衛力増強を持ち出した。この時、角栄は次のように述べている。
 「アメリカが沖縄を返すに当たっては、アメリカが日本に憲法改正、再軍備を提起し、日本がそれを受け入れることが必要だ。日本の憲法が改正され、再軍備して共同の責任で防衛体制をとらねばできない」。

 こうも述べたと伝えられている。
 概要「なるほど、あなたの云うのは理屈だ。ただ防衛力増強と云われるが、アメリカが敗戦国である日本に押し付けた憲法は、我が国に根付いてしまった。今や大木に成長している。大きな枝ぶり一本でも伐ろうとすれば、内閣の一つや二つは吹っ飛ぶ。根こそぎ倒そうとすれば、世の中がひっくり返る。しかし、我々にしても、あなたたちにいつまでも『おんぶに抱っこ』では申し訳ない。だから、どうしても防衛力を増やしてくれ、と云うのなら、アメリカから名本国民に対し、改めて日本国憲法の成立過程について一言あってしかるべきではないか」(佐藤昭子「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」)。

 このオフレコ懇談会での発言を、後に秘書になる早坂茂三記者がスクープし、新聞東京タイムズに掲載され、角栄は記者会見の席での弁明を余儀なくされた。「私の真意をよく伝えておらん。もう、いらんことは一切言いませんよ」。予算委員会で問題にされ、角栄が「私が直接、釈明の答弁に立つ」と述べ答弁しようとしたところ、池田首相が押えて次のように釈明した。
 「田中政調会長は、沖縄、小笠原返還の前提条件に、仮にアメリカから憲法改正、再軍備強化などの要求を出されると大変なことになる、と発言したのが真意である」。

 「失言の池田と云われる俺が尻拭いするとは」と池田からお目玉を食らい、角栄は「髭でもそるか」としょげ返る。これに対して、アメリカ留学中の長女・真紀子が「ヤジ、ヒゲソルナ」と電報を打ってきたとの逸話が遺されている。
2.9日 ◎日本の憲法改正・再軍備発言(2.6日ロバート・ケネディ司法長官との懇談)に関連し、衆院予算委理事会で、角栄が「発言は遺憾であった」と釈明、辛くもケリをつけた。
3.12 ◎越後交通会長に就任。
◎初陳情から4年経ったこの頃角栄は、「全員が土地売却に同意するなら買おう」と申し出、新設した室町産業を通じて農民グループ全員と契約した。価格は坪当たり一律500円。この土地がおお化けし、疑惑を呼ぶことになる。
3.31  【豪雪地帯対策特別措置法が成立】角栄が立案に参画。
5.10  【新産業都市建設促進法公布】角栄が立案に参画。
7.18  【第二次池田内閣改造で大蔵大臣に登用される】
 ◎IMF(国際通貨基金)の「8条国」移行問題、OECD(経済協力開発機構)への加盟問題、山一證券倒産危機による金融恐慌回避問題を解決する。
 角栄が大蔵大臣就任。44歳の蔵相は史上最年少となった。以降、佐藤内閣の40.6.3日まで連続4期努めることになる。この時大平は外務大臣となり、田中−大平コンビが誕生している。

 
「池田総理から『君達3人(田中、大平、前尾)で相談し、幹事長、大蔵大臣、外務大臣を3人でやれよ』という話が開口一番あったのにはびっくりした」(自署『大臣日記』)。 
 
記者インタビューで、大蔵省としての懸案事項について次のように述べている。
 「(外資導入について)特に外人株式の送金制限が懸案だが、とにかく緩和する」。「(38年度予算編成方針は)財政難だと云われているが、飛び上がるほど大変だとは思っていないし、超均衡予算で引き締めに追い討ちをかけることは考えていない」、「公債発行は研究していかねばならないが、今の段階で公債発行は考えていない」、「景気調整政策は無制限ではないが、引き続きとっていく」。

 
この時の記者質問に対して次のように弁じている。
 「まぁ今度は受けて立つ側と云うことだ。責任の重大さは感じていますよ。大蔵省の伝統にも溶け込んでいきたいでいナ。でもねぇ、私ゃ『勇み足、勇み足』って云われるけど、今までそんな勇み足やっちゃないんだ。勿論私ゃ政策的には積極論者だけど、自分で事業やっておったから辻褄の合わんことはやらないんですよ。頭の切り替えなんて、どういうことないですナ。私ゃね、大蔵省には12、13年前から出入りしておって、まぁ無給嘱託みたいなもんだったしね」。
 「全国民の台所を預かる大任を引き受け、身の引き締まる思いだ。私は、刈羽の貧乏人の子として生まれ、人生の苦しみも味わっている。今後、納税する国民の立場から政治を行いたい」(私邸)。

 角栄は、皇室経済会議議員、関税率審議会長、財政制度審議会長、資産評価審議会長、外為法審議会長、外資審議会長などを兼任した。
 この頃の弁に「天下を取れるかもしれないぞ」が伝えられている。
◎学歴なしの44歳の角栄が官僚中の官僚とも云われる大蔵省に乗り込むことになった。この時、大蔵官僚は、蔵相人事に対して1・副総理級の大物代議士であること、2・財政金融について経験知識が有ること、3・或る程度、年配であること、4・党や各省の要求に対してノーと云える実力者であることを上申していた。この条件を全て欠いていた角栄が次官、局長以下、大蔵省幹部を前にした大蔵省大講堂での就任スピーチは次の通り。
 「私が田中角栄であります。諸君御承知のように小学校の高等科しか出ていない。しかし、世の中の経験は多少積んでいるつもりである。まッ、諸君は日本中の秀才の代表であり、財政、金融の専門家揃いだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。これからは、もし私に会いたいときは一々上司を通して来ることはない。こう思う、これはオカシイ、これを考えたなんてことがあれば遠慮せずに来てくれ。そして、国家有事の現在、諸君は思い切った仕事をしてくれ。これは局長も課長も同じだ。できることはやる。できないことはやらない。事の成否はともかく、結果の責任は全て大臣であるこの田中が取る。今日から、大臣室のドアは取っぱずす。以上」。

 秘書として後に長く角栄に仕えることになった朝賀昭・氏は、学生時代に詰襟の学生服を着て一番後ろでこのスピーチを聞き、「鳥肌が立った。今でも忘れられない」と述懐している。

 この時の角栄の猛勉強振りは語り草になっている。大蔵官僚が一週間かかって読む財政案をたった一晩で読み切ったとか、事務次官以下課長以上クラスの人の一人一人と会っての徹底論議、大蔵官僚を論破することも肝胆通じ合う仲ともなり、最後には大蔵官僚がその有能さに舌を巻いたとも云われている。


 事務当局の大臣ご進講に対して、次のように述べている。
 「俺は国会答弁での想定問答集なんか読まんよ。そんなに資料見ながら答えたら、『土方大臣』と云われるのが関の山だ。今までは答弁に局長、次長クラスまで動員したらしいが、これからは大抵の答弁は俺一人でやるッ。だいたいそんなことすれば事務能率の低下だ。私はね、金融はともかく財政はクロウトだ。この12年間に、予算編成に立ち合わなかったのはたった2回だけだね。私が立ち合わなかった時に限って、編成作業はモメているんだ」。

 昭和38年度予算案の作成を前にして、事務次官、主計局長たち大蔵官僚が次のように進言した。
 「蔵相と云うものは、どんなことでも、一応反対するのが仕事です。歴代蔵相は皆、そうして参りました。それが通り相場になっておりますので、大臣がノ―と云っても決して不思議ではありません。そのおつもりで、***に臨んでいただきます」。

 これに対して、角栄蔵相は、次のように述べている。
 「私は以前から、積極派の田中と云われてきた。今更日銀みたいな慎重論を云う訳にはいかない。今日の政府は政党内閣だ。政党の政策を基本にして、政府は政策を作り、それを実行する為に予算案を組む。予算を作るのが目的で、その為に政党の政策を否定するようなことがあつてはならない」。
 「大蔵大臣になったある時の国会答弁で、答弁書が見つからなくて、角栄が立ち往生する場面があった。佐藤一郎官房長との間で、国会想定問答集を渡した渡さないというやりとりが起きる。『前日、お渡しした資料の中に書いてあります』。『いや、書いていない。昨日貰った分には見当たらない』と云う応酬の末、角栄は椅子から立ち上がり、涙をぼろぼろこぼほしながら、『僕は、君たちのくれるものを全部読んでいるんだよ』と口にした。その後、大臣室にこもったが、出てきたときは明るい顔で、『さぁ、やろう』と仕事に取り掛かったと云う」(「文芸春秋1971.9月号参照」)。
◎この当時大蔵省には池田人脈(森永貞一郎、石野信一、谷村裕)と福田赳夫人脈(佐藤一郎、澄田智、橋口収)が確立されていたが、これに割ってはいるかのように相沢英之、鳩山威一郎らの大蔵官僚を引きつけていった。
 角栄の答弁のソツのななさにシビレを切らした民社党の春日一幸が次のように批判している。
 「田中蔵相は政調会長時代に比べて角が取れ過ぎている。これでは田中角栄にあらずして田中丸栄である」。
7.23  【ブラジルのウジミナス製鉄所に大幅増資を決定】角栄の管掌による。
7.27  社会党・江田書記長が「新しい社会主義のビジョン」を発表、党内論争起こる。
8.4 ◎「ガリオア・エロア問題」を片付け、才覚を発揮した。
9.17 ◎大蔵大臣としてIMF(国際通貨基金)の年次総会(第17回)に出席。前々から「演説を英語でやるッ」と言い出しており、娘の真紀子と柏木雄介参事官の手ほどきを受け本番を度胸でこなした。世界銀行から日本道路公団への道路借款を取りつけている。

 
角栄は次のように述懐している。
 「後で、俺の英語が分かったかと訊いたら、皆、どうにか通じたらしいと云うんだ。ところで、その席で、実は困ったことがあった。俺の演説が終わったら、議長がだね、各国の代表に向かって、『日本の代表に質問がありましたらどうぞ』と言ったんだ。もし、英語で質問が飛び出したら、さぁ、こちらはまるで分からなくなる。どうなることかとハラハラしたいたが幸いに質問はなかった。全くあの時は冷や汗ものだったよ」。

 世銀総裁を中心としたお別れパーティーの席で、ジャパニーズ・ソング村田英雄の王将を歌い、「吹けば飛ぶよな将棋の駒を」と朗々と歌いあげ盛んな拍手を得ている。ヤコブソン専務理事が、「あの人は将来、大物政治家になるかも知れない」と批評したと伝えられている。10.11日、帰国。
10.22  【キューバ危機発生】
12月 ◎東京タイムズ社記者早坂茂三が角栄の秘書になる。
12月 ◎室町産業を設立。信濃川河川敷買占めの窓口とする。長岡鉄道総務部長・小林文雄は、この時の角栄の次のような弁を伝えている。
 「河川敷き農民から買い上げ陳情を受けるたび、田中は『難しいがやってみる』と答えた。陳情団が帰ると『あの連中は今はオレの支持者じゃないが、目をかければこちらになびく。第一、ツツガムシのいるあの畑じゃ、連中も可哀想だ』と言っていた」。
12.30 ◎角栄は、蔵相1年目のこの時、38年度予算の政府原案を早々と年内に纏めあげ、臨時閣議で決定された。この頃より「歩くコンピューター」と評されるようになった。この頃より、自民党内に角栄の異能振りが知られるようになり、金丸、竹下、二階堂らと誼を通じている。 
 他省庁閣僚との復活折衝では、河野一郎建設大臣とのやり取りで、河野が道路に110億円、治山治水に45億円、下水道に10億円の復活要求をした際、田中大臣は腕組み30秒後、「エー〆(しめ)て165億円、ええです。付けようじゃねぇですかッ」と返答し、「1秒当り5億5千万円の復活折衝」として話題になった。

1963(昭和38)年、角栄45歳、新潟県への政府補助金154億円で4位。

冬季  【新潟地方に「38豪雪」被害角栄は、この時の豪雪被害に「激甚災害」指定し、救援物資その他の対策を迅速に手当てし、評価を高めた。以降、新潟県への公共事業投資が活発になる。
2.20  【中ソ対立、国境問題で表面化】
 【首都高速道路など高速交通体系整備】IMF資金によって東名高速道路、首都高速道路など今日の高速交通体系が整備された。当時の国家財政は今のような他国へのODA(政府開発援助)どころか、借金しなければ事業ができなかった時代だった。
7.10  【近畿圏整備法公布】角栄が立案に参画。
7.11  【老人福祉法公布】8.1日施行。
7.12  【新産業都市、工業整備特別地域を指定】
7.20  【関越自動車道建設法公布】角栄が立案に参画。
9.20 ◎カナダ及びアメリカへ外遊。
10.23  【衆議院解散】
11.21  【第30回衆議員総選挙】角栄は8期目当選。11万票台を越す11万3392票を得る。橋本龍太郎と小渕恵三が共に26歳の2世代議士として初当選。
12.9  【第三次池田内閣発足】角栄は、大蔵大臣留任
 「私は大蔵大臣として国の財政責任者の立場にある。この機会をはずしては雪が法律上の枠に入ることはないかも知れない、私は先人達の多年の夢を実現すべく積極的に行動した」(自著「大臣日記」)。
 「予算復活折衝での手際」。

1964(昭和39)年、角栄46歳、新潟県への政府補助金183億円で4位。

◎小佐野がこの頃児玉と知り合っている。「児玉先生と私、昭和39年頃ですか、京成の株をめぐりまして、お知りあいになって以来、ごじっ魂いただいているんです」(東京地裁での田中彰治事件の公判廷での証言)。
1.9  【日韓会談予備折衝が再開される】
1.27  【中国とフランスが外交関係を発表、多極化時代が始まる】
2.29  【日本鉄道建設公団法公布】角栄が立案に参画。
4.1  【IMF8条国へ移行を決定】正式に世界で25番目の「8条国」になった。
4.16  【新潟大地震】
4.25 父角治死去(79歳)。
4.28  【日本が経済協力開発機構(OECD)に正式加盟】世界で21番目の加盟国になった。
7.3  【工業整備特別地域整備促進法公布】角栄が立案に参画。
7.10  【河川法公布】角栄が立案に参画。
8.4  【米空軍、北ベトナム爆撃始める】
8月 ◎昭和40年度の予算編成で、自然増収4500億円を計数し、それに見合う政策を先取させた。但し、健全財政主義を堅守し、予算編成期ごとに出てくる公債発行論を叩きつぶした。健全財政主義を堅守しながら財源を増やし、積極財政化させるのが田中財政論であった。
9.1  【名神高速道路(一宮−西宮)開通】
9.7  【IMF・世銀の東京総会を主催する】角栄が大蔵大臣として次のように宣言している。
 「」。
9.8  朝日新聞記者のインタビューで次のように答えている。
 「カネはね、必要とあれば作れるんです。しかし、カネを作って積極政策をやれば、勢い物価は上がり景気を刺激する。それは日本の経済にとっても、国民生活にとっても困るんですよ。となれば、現在の予算の枠の中で財源を生み出し、効率的に使うしかないじゃないか。世人よく、生産者米価は上げろ、消費者米価は上げるな、しかし減税はしなさいと云うが、小学校の算術とにはこんな計算は無いッ。これを高等数学で結論を出すのが大蔵大臣の務めということだろうが、難しい。財布を持つ母親の苦労もかくやと、密かに思うこともあります」。
10.1  【東海道新幹線開業
10.10  【オリンピック東京大会始まる(24日まで)】
10.15  【フルシチョフ・ソ連首相解任される】
10.25  池田首相が退陣表明。
11.9  【第一次佐藤内閣発足】角栄が、大蔵大臣留任
11.17  【公明党結成大会】
 「信濃川河川敷問題について」。

1965(昭和40)年、角栄47歳、新潟県への政府補助金241億円で4位

1.1  新潟日報が次のような角栄語録を元日掲載している。
 「これまでの経済政策は、東京、大阪へカネを注ぎ込むことが一番効率的だという考え方だったが、実はこれは効率的じゃない。元は効率的だったが、今は効率的じゃない。なぜか。人口が、そしてぶんが集中しすぎて、とにかく地下鉄工事をやれば最低キロ当たり45億円も掛かる。ところが、オリンピック高速道路一本にかけたカネを九州へ持っていくと、九州中の道路が全部舗装、改良できる。すると、東京の一本の道路による経済指数より、南九州の道路整備による工業化の方が効率が良いと云う指数がはじかれる。沼田ダムを造ると、東京の水の状態は確かに良くなるが、それだけのカネを四国四県に投資すれば、四国県民の所得が20倍に跳ね上がるんだ。

 僕はね、今や明治から百年続いた財政政策の転換だと思うんです。予算には額は少ないかもしれんが、とにかく地域開発重視の方向を始めて取り入れましたよ。鉄道、道路、港湾などの公共事業長期計画をもう一度検討して、集中投資をやろうと決めたんです。

 新潟県のこれからという問題なれば、とにかく東京の電車を新潟県民が動かしている。例えば、県民が米の出荷をストップさせたらどうなるか。之一つ考えたって、他県に無い新潟県の特性なんだ。水も豊富でしょ、一定の距離を置いて東京と結びついている。立地条件がいいんです。

 私は新潟の新産都市は全国13地区のうちで岡山県南地区と共に一番大きくなると思っていますよ。国道17,18号線の改良、上越線の複線化、越後線の急行化、富山−長岡間の電化など、いずれもここ二、三年から45年度くらいまでできるようにした。直江津−六日町間の北越線も、遠からず着工させる段取りだ。そうなると、県にとって不要な通貨貨物のハケ方が早くなる。これによって、県の工業化が10倍になつても輸送力はOKという状態になります。

 まァねェ、関越自動車道は僕の次の大蔵大臣の問題です。ここまで考えて、なおかつ新潟県は発展するかどうかと疑問を持つ人があれば、石橋を叩いても渡らん人ということだろう」。
1.29  【道路整備5カ年計画を決定】角栄が立案に参画。
2.18 ◎田中角栄の大蔵大臣時代、2.18日から日本テレビで「大蔵大臣アワー」(毎週木曜夜11時から30分)番組が始まった。田中角栄がレギュラー出演し、「政治と台所を結びつける」ことを狙った。スポンサーは、宇部興産、八幡製鉄、富士製鉄で、政府広報番組ではなかった。アメリカであれば好評を得るところ、番組私物化の遣り過ぎのPR番組であるとして国会でも問題となり、半年分のスポンサーが決まっていたところを13回で打ち切りとなった。

 同番組は田中角栄の地元、新潟放送から毎週木曜6時と金曜午後の2回にわたってスポンサーなしで放映されていた。地元放送局による田中角栄のワンマンショー番組であった。これを「『田中角栄によるマスコミ支配』を象徴する事件のひとつであった」と評する剥きもるが、そういう論は視野が狭いというべきだろう。
2月  椎名外相が韓国に派遣される。
4月
5.10  【山村振興法公布】角栄が立案に参画。
5.21 【山一證券倒産の危機】新聞各紙の夕刊に山一證券の経営不振が報じられた。
5.28  田中は、日銀法第25条発動で「無制限無期限」の日銀特別融資を即決し、倒産を救った。この時の日銀総裁は宇佐美洵。実際の融資は5.29日。これについては「山一證券倒産の危機からの救済」で詳述する。
5月  大宅壮一の連載「人物料理教室」に角栄大蔵大臣が招かれ、「幹事長をやれと云われれば、やりますか」と訊ねられ、次のように答えている。「私には、全軍に号令をかけるということは、ちょっと難しいかもしれないな。大の虫を生かすためには、小の虫を殺すということはできないから」、「幹事長は、小刀やカミソリじゃダメだね。やっぱりナタでなくちゃ。だから政治家としては、なかなか難しい仕事ですな」。この発言の翌月、幹事長に就任することになる。
6.2  【佐藤内閣第一次改造】角栄は、蔵相辞任、自民党幹事長(一期目)に就任。65.6.2日付け朝日新聞夕刊は、次のように評している。
 「佐藤首相が『私の片腕』と呼び、幹事長は総裁派からと云うことであれば、これは当然の人事であろう。蔵相を3年、その前が政調会長だったが、当時、党内閣の実力者を入れた“実力者内閣”に対し、田中政調会長らは“軽量執行部”と呼ばれた。3年を経た今日、重厚とは言われないまでも、もはや軽量と評する者はいない。一方、決断のはやさ、読みの深さ、政財界人への顔の広さの三つに裏打ちされた実行力があると、褒める人は云う。決断の速さは予算折衝での手際のよさにもみられた。読みの深さは、池田内閣に佐藤派が協力、その後佐藤内閣へという手順を誤らなかった当の立役者だったことでも分かる。ただ、時に行動力がたたっての勇み足の心配がないではない。また、ハラと策略を重んじるのが保守党旧派であるとすれば、政策と実行を軽視しない新しい感覚もある。が、若いときから鼻下にヒゲ、ナニワ節をうなり、将棋を指し、しかしゴルフはだめと、新旧両面が同居している奇妙な魅力も醸し出す。いつも陽の当る場にいるので、佐藤派の中でも風当たりがやや強くなっているが、ちょっとやそっとでへこたれぬシンの強さも持つ」。

 福田が角栄に代わって大蔵大臣に就任。福田は、池田内閣時代に岸前首相の強い要望で政調会長になっていたが、池田の所得倍増論に真っ向から反対して外され、その後冷や飯を喰わされ続けていた。佐藤に再抜擢された福田は、「経済の福田」を自認しながら、この時戦後初の赤字国債2500億円を作り出している。
この頃の角栄の伝。
 「議員というものは努力、勉強すれば、大臣、幹事長まではなれる。しかし、総理総裁というとそういう訳にはいかない。それは運命だ」。この頃の佐藤昭子の伝。「幹事長となった田中は、まさに水を得た魚のようだった。恐らく彼の生涯の中で一番活き活きしていた時代といっていい」(「私の田中角栄日記」)。
 幹事長時代の角栄に対して次のような証言が残っている。
 「幹事長の元には、国会議員はじめ46都道府県の知事、市長、県会議員などの陳情が連日、押し寄せてくる。田中は受けられるものは、『よし、これはやる』、無理なものは、『これは出直しだ。練り直して持って来い』と、イエス、ノーで片っ端から捌いていた。とにかく“コンピューター”だから、一度でも視察に行ったところなどはすべて頭に入っている。ある県会議員などは、『君のところのあの川の川幅は、あと何メートル伸ばさなきゃいけないんじゃないか』などと逆質問され、田中が10年近く前に一度見ただけの場所の問題点を指摘され、『どんな頭の構造なんでせう』とクビをひねっていたもんだ。田中の凄いのは、こうした次から次への陳情客を相手にしながら、しっかりとその人物がその県でどの程度の実力者なのかを事前に調べ上げていたことにある。そあした実力者にはできるだけ要望を聞き入れることで、この幹事長時代に全国に有力人脈を築いたということだった。これが、後に指揮を執った数々の選挙で、圧倒的勝利を収めた大きなよういんとなっている」。(週刊実話2016.11.3日号、小林吉弥「田中角栄 侠の処世」bS1)
 越山会の金庫番・佐藤昭子は次のように証言している。
 「田中は、新潟3区のことしか考えない地元利益第一の政治家のように云われたけど、とんでもない。新潟と同じように、経済的に恵まれない貧しい地方にどうやって陽を当てるか、全国津々浦々に目配りをしていた。また、そういった地方の問題や選挙のみならず、中央の人事、外交、内政に関わる国の重要課題も、時を移さず処理していった。霞ヶ関の官僚たちも、風呂敷に包んだ書類を提げて事務所にやって来る。田中に説明に来るのではなく、指示を仰ぎに日参してきたのです」。(「新潮45」平成6年10月号)

 小林吉弥のインタビューに次のように証言している。
 「田中が生涯の中で最も充実、活き活きしていたのが幹事長時代でした。まさに、水を得た魚、行動の一つ一つが自信に満ち溢れていた」。
6.22  【日韓条約調印】角栄はこの頃、党内の意見調整に尽力。
6.29 ◎へき地校への給食補助の決定に尽力。
7.8  河野一郎死去。
8.13  池田隼人死去。
8.19 ◎国会終了後、佐藤首相らと沖縄訪問。佐藤首相が「沖縄の復帰なくして戦後は終わらない」の発言を遺した。
8.27 し尿、ゴミ処理5ヵ年計画の決定に尽力。
10.5  日韓国会(第50回臨時国会)始まる。
11.12  【日韓条約可決】衆議員本会議で、議長が日程を変更し、混乱のうちに日韓条約を可決。12.11日、参議員本会議で可決。
12.3 元社会党委員長の河上丈太郎がくも膜下出血のため死去(享年76歳)。葬儀の日、雨が降った。自宅は路地に面しており車の出入りが不自由だった。角栄は傘をささずに立ち続け、他の参列者がこれに倣った為、車が通れるようになった。この時のことを江田三郎・社会党書記長が、「どうして自民党が強いのかよく分かった」と語っている。
暮れ  角栄が初めて幹事長になった年の暮れ、院内紙(ブラックジャーナリズム的ミニコミ紙)に、お歳暮として一律5万円ずつ贈り、「こんなハシタガネが受け取れるか」と反発を買う。それまで歴代の幹事長は五十万、百万贈っており、以来院内紙にしばしば攻撃される身となった。
 角栄は、父親の血を引いたか、なかなかの競馬好きで、幹事長時代も秘書を馬券売り場に走らせ、しばしば的中させていた、と伝えられている。この年、持ち馬「ペロナ」(名義上は妻のハナが馬主)が第26回オークスを制している。他にも何頭かの馬を持ち、愛娘の真紀子の名前を冠しての「マキノホープ」でダービー制覇を狙ったこともある。

1966(昭和41)年、角栄48歳、新潟県への政府補助金296億円で4位。

 【日経の「私の履歴書」に登場】この頃、日経の「私の履歴書」に登場している。角栄は、他の多くの者がゴーストライターを用意しているのに自ら書き上げている。「最初の5回分は口述筆記の原稿に手を入れたものを載せたが、読んで自分でも気に入らなかったのだろう、6回目からは自ら筆をとって書いた。本人の書いたものは俄然面白くて読みやすい。かなりノッて書いたようで、予定の30回では終わらず5回分を追加している」とある。

 それを読んだ「近代批評の神様」と云われる文芸評論家として名高い小林秀雄が日経新聞編集局に次のような葉書を寄越した。
 「貴紙連載中の田中角栄氏による『私の履歴書』を愛読しております。文章は達意平明、内容また読む者の胸を打つ。筆者によろしくお伝えください」。
 この葉書が編集局長から政治部を通して早坂茂三秘書の手に渡ったと早坂著「オヤジとわたし」に記されている。当時大学生の長女真紀子さんがそれをききつけて「パパ、小林秀雄がパパの文章をほめてたそうよ」と云いに行ったら、角栄は「そうかい、へえー。・・・で、小林秀雄って誰だい?」と聞き返したという逸話が残っている。「オヤジとわたし」では、その遣り取りは早坂秘書と角栄で為されたものであり、それを知らされた真紀子が翌日に早坂秘書に電話を入れ、「あれ、本当に小林秀雄さん?」との確認が有った云々と記されている。
6.25  【国民の祝日法改正(建国の日など)成立】
6月  社団法人日本空手協会会長に就任。(1968年5月辞任)
7.1  【国土開発幹線自動車道建設法、中部圏開発整備法公布】角栄が立案に参画。
7月 ◎自民党幹事長ー川島副総裁とのコンビで政局に対応する。
8.1  【第一次佐藤内閣改造】角栄は、幹事長留任(二期目)。
8.5  【虎ノ門国有地払い下げ事件】虎ノ門国有地払い下げ問題で田中彰治代議士(新潟4区選出)逮捕される。馬場検事総長指揮下の東京地検特捜部によって恐喝罪で逮捕された。田中彰治代議士は小佐野賢治を脅していた。これを虎の門事件と云う。
11.30  【黒い霧国会(第53回臨時国会)始まる】
 虎の門事件に続いて深谷工業団地事件、大阪拘置所事件、共和製糖事件など政界の一連の不祥事件が浮上。農林大臣・松野頼三の海外出張時の家族連れラスベガス豪遊事件、防衛庁長官・上林山栄吉の派手なお国入り事件が重なる。
12.1  佐藤首相が自民党総裁に再選される。
12.2 これら一連の政界黒い霧事件で、川島副総裁と共に幹事長(2期目)を引責辞任させられたこの時、次のように述べている。「いいんだ。佐藤政権の泥はオレが全部かぶる」。後任に福田赳夫氏が就任。
12.3  内閣改造。角栄は、暮れから幹事長にカムバックする1968年までの丸2年間を雌伏することになる。この間、砂防会館の個人事務所で過ごす時間が増え、麻雀はせず小沢一郎や梶山静録六らとの早指し将棋の逸話を残している。
12.27  【衆議院解散】

1967(昭和42)年、角栄49歳、新潟県への政府補助金351億円で4位。

1.29  【第31回衆議員総選挙】田中角栄は9000票増えて、12万2756票獲得のトップ当選9期目。自民党14減の280、社会党参減の141、民社党7増の30、 公明党が初めて衆議員へ進出、25人当選(国会のキャスチングボートを握る)、自民党得票率50%を割る→多党化時代始まる。

 この時山下元利が滋賀県全県区から初出馬で当選している。堤康治郎の地盤を継いでいたが、この禅譲に角栄の骨折りがあった。

 共産党は5名当選。123名立候補。得票数219万票。
2.17  【第二次佐藤内閣発足】
2月 ◎この頃佐藤首相に勧められてかゴルフを覚えている。早坂秘書伝によると、ゴルフを覚えたのは幹事長時代であり、早坂氏が勧めたという。当初角栄は、「何だ。止まっている球を打つのか。あんなものはアホでもできる。年寄りと金持ちがやるもんだ。ブルジョアの遊びだ」と拒否したが、足腰の強化になるというのが決め手になり、「よし、ゴルフをやる。ついてはゴルフの本を三貫目ほど買って来い」ということになり、ゴルフの味を覚えることになったとある。
 佐藤首相の子息の佐藤信二が次のように証言している。
 「親父(佐藤首相)が一番初めに勧めたんだが、田中さん『ワカッタ、分かりました。そのうち』と云いつつ、陰では『あんなもん、オレは絶対やらん』と言い張っていた。ところが、一度コースに出てからはすっかり病みつき、後には『世の中でゴルフくらい面白いもんはないッ』と言い放っていた。後は田中さんの性格通りで、何事にもやるとなったら一生懸命、全力投球、『やるからにはシングルを目指すッ』と意気込んでいた」。
3.9 ◎柏崎原発建設予定地の土地転がし、柏崎市会で追及。
3.16 自民党都市政策調査会長に就任都市政策の立案に着手。「都市問題は今や政治全般の焦点であり、都市改造と地方開発は同義語である。私も積極的に取り組むが、皆さんも勉強に務めて欲しい」(第一回総会での挨拶)。
4.15  【東京都知事選で、革新系社共統一候補の美濃部亮吉氏が当選】自民党は独自候補の擁立を見送り、民社党が推す松下正寿を応援し敗れた。
5.10 ◎「中央公論」6月号に「自民党の反省」と題した一文を発表。「今日、東京で起きていることは、明日、全国に広まる」と危機感を訴え、「この敗北を契機として、我々は地べたから起きあがり、泥を落とし、ほこりをきれいに払った後、時代に対応した近代的な政策、思想内容、国民多数に密着した党組織、『新しい保守党』の建設を目指して、一歩ずつ進みたい」と書き上げている。
6.15  【都市計画法公布】角栄が立案に参画。
7.27  【健保国会(第56回臨時国会)始まる】
8.1  【外国貿易埠頭公団法公布】角栄が立案に参画。
8.5  【社会党佐々木委員長・成田書記長が辞任】健保法改正案をめぐる議長斡旋の党内取りまとめに失敗し責任を取った。

1968(昭和43)年、角栄50歳、新潟県への政府補助金376億円で4位。

 角栄の無役時代。
3.8 自民党米価調査会会長に就任
5.22 日本列島改造論の原型である「都市政策大綱」を発表「37年夏に田中と酒席を共にした時、『オレは新しい国家改造論を作りたい』と漏らし、『一緒に書くと約束した。その後発足した調査会は高度成長のひずみの是正が狙いだった。大綱発表で、全国に通用する日本の田中になった』」(田中の元秘書・麓邦明)。5.27日党総務会で承認される。
7.7  第8回参議院議員通常選挙。石原慎太郎が全国区から出馬し初当選。
9.9  【自由民主党が、田中・米価調査会長の意見により総合農政調査会を設置】
11.27  佐藤首相が自民党総裁に三選される。角栄の陣頭指揮による多数派工作が奏功し、佐藤が第1回目の投票で過半数を獲得し、三木、前尾を退け3選を飾った。
11.30  【第二次佐藤内閣改造】角栄が、自民党幹事長に再度就任(三期目)。この時一回りも二回りも大きくなっていた。1971(昭和46)年まで通産5期務める。後の首相・小渕恵三が次のように証言している。
 「この幹事長から首相の座に就くまでの約4年間が、田中さんの政治生活で最も輝き、充実した時期だった」。
 政治評論家の小林吉弥が、この頃の佐藤体制について次のように評している。
 「当事の佐藤を支えた体制は、『閥務に優れ政策にも明るいリアリスト』の田中角栄、『経済』の福田赴夫、『寝業師で調整能力に秀でる』保利茂、『政策マン』として聞こえた愛知揆一、そして『忠臣』の橋本登美三郎という『五本柱』であった。佐藤は、中でも田中、福田、保利のポスト『三本柱』を重視し、これをチェック・アンド・バランス、即ち常に競争、牽制、均衡の中に置く手法を用いたのである。(中略)佐藤の戦後首相最長在任期間7年8ヶ月は、こうして維持されたということであった」。(週間実話2016.12.1月号「田中角栄 侠の処世」bS5)
12.27  【第61回通常国会始まる】

1969(昭和44)年、角栄51歳、新潟県への政府補助金433億円で4位。

1.10  【東大紛争】東大安田講堂で学生と機動隊が衝突。この頃学園紛争が激化。
4月 ◎長女真紀子が、鈴木直人元衆議院議員の3男・直紀と結婚。直紀は田中姓を名乗る。
6.3  【都市再開発法公布】角栄が立案に参画。
5.24 【自動車新税成立】角栄はこれに尽力。鉄道・道路建設を促進させるためにその資金手当てとして軽自動車からトラックまでの全車種に新税を課すという角栄の構想は、当初は実現困難と嘲笑され、業界からの反発も強かった。
6.10  【米価据え置きなどを決定】
7.14  【衆議員本会議で、健保法改正案を混乱のうちに可決。参院は8.2日可決】
7.29  【衆議員本会議で、大学運営法案を徹夜審議で強行採決。参院は8.3日可決

 これについては「大学管理立法「大学臨時措置法」の強行採決」で詳述する。
10.10  読売新聞インタビューに答え、日米安保自動延長論を述べている。
11.10  藤原弘達氏の「創価学会を斬る」刊行される。
11.17  【佐藤首相訪米、21日の日米共同声明で3年後の沖縄返還がうたわれる】
12.2  【衆議院解散(沖縄返還解散)】
12.27  【第32回衆議員総選挙(師走選挙)】角栄が10期目当選。13万3042票。この時、自民党は303議席を獲得し大勝した。この時、羽田孜、小沢一郎、梶山静六、渡部恒三、奥田敬和、高島修、佐藤恵、石井一氏らが初当選している。田中派以外では森喜朗、浜田幸一、野党では社会党の土井たか子、共産党の不破哲三らが初当選している。佐藤派は、福田−保利ラインと田中−川島コンビとに分かれつつあった。
◎「太平洋側どころか、日本列島全体が産業基盤にならねばならない。このためには関越高速道、上越新幹線が絶対必要だ。54年までにケリをつけたい」(新潟日報社とのインタビュー)の弁がある。

1970(昭和45)年、角栄52歳、新潟県への政府補助金533億円で3位。

1.13  【第三次佐藤内閣発足】角栄が自民党幹事長に留任(四期目)
2月  自民党と財界がホテルニュー大谷で新春懇談会。
3.14  大阪吹田市で日本万国博覧会開幕(9.13日まで)。
3.17  【核拡散防止条約を調印】角栄が自由民主党内の意見調整に尽力。
3.17 ◎創価学会出版妨害問題の収拾に乗り出す。
3.31  赤軍派学生が日航機よど号をハイジャック。
4.24  【沖縄の国政参加法成立】角栄が自由民主党内の取りまとめに尽力。
4.24  【過疎地域対策緊急措置法公布】角栄が立案に参画。
5.18  【全国新幹線鉄道整備法公布】角栄が立案に参画。
5.20  【本州四国連絡架橋公団法公布】角栄が立案に参画。
6.23  【日米安保条約が自動延長継続となる】
◎自民党党則の総裁任期2年を3年に改正。角栄は、一内閣一仕事論の立場から、これを後押しした。
8.20 ◎田中−福田の「ゴルフ巌流島の戦い」が南軽井沢ゴルフ場で、総裁選の思惑がらみで行われた。福田側の立会人倉石忠雄農林大臣と田中側の立会人鈴木善幸総務会長とでプレーが行われ、ゴルフ決戦は田中が勝った(この時のスコアは、角栄51ー46、福田61ー56)。二人がいっしょにゴルフをした最初で最後となる。
9月中旬

幹事長田中角栄に近い一年生議員23名が結集してつくられた“きさらぎ会”の青年部研修会のレセプションが、党本部九階で行なわれた。若手議員の選挙区をまもる若き後援者約五百名が集い、むんむんする雰囲気のなかで、顔を上気させた田中幹事長が党の近代化を訴える熱気のこもった挨拶をした。この時、田中内閣実現を誓って乾杯音頭が為されている。「国民の期待する党の近代化を実現し、思いきった政治の若返りを断行するためには、近い将来我われの手によって若い党人政治家田中角栄に天下を取らせよう」。

 当時、政界の情勢は、佐藤派の長老橋本運輸相(現幹事長)の発言によって佐藤四選が確実視され、総裁候補としては、福田、三木、前尾の三氏が話題の中心であった。マスコミは福田氏を佐藤内閣のクラウン・プリンスと呼び、角栄の出番はその後のことと考えられていた。しかし、佐藤政権の官僚型政治があきられつつあり、逆に党人派の若い政治家、たとえば田中角栄、中曽根康弘、石田博英らが注目される機運を醸成しつつあった。

9月  産経新聞の購読を通じた党への支持を求める幹事長通達を、「取扱注意・親展」で全国の県支部連合会と支部(党所属衆議院議員)に出していた事が発覚。11.4日、参議院決算委員会で和田静夫に取り上げられる。
10.29  【佐藤首相が4選される】353票の圧倒的多数。
11.5  【川島副総裁逝去】川島副総裁が喘息による心臓麻痺で逝去(80才)。田中を支持していた死は打撃となった。
11.24  【公害国会(第64回臨時国会)始まる】角栄が、環境庁の設置を含む公害関係法律14件を成立させるために尽力。
11.25  三島由紀夫氏が、市ガ谷の自衛隊内で割腹自殺。
11.11  【北陸自動車道(新潟−長岡)の路線発表】角栄尽力する。
12.18  【公害国会で、公害関係16法案成立】角栄尽力する。
12.29 角栄が自民党幹事長に留任(五期目)

1971(昭和46)年、角栄53歳、新潟県への政府補助金663億円で3位。

正月 ◎目白の年始パーティーで、木村武雄が「田中内閣万歳!」を叫び、「佐藤の『待ち』の官僚政治では民衆本位の政治はできない。拠らしむべし、知らしむべからずの官僚政治に対する国民の苛立ちが限界に達している。官僚政治をぶち壊すのに、学閥も閨閥も皆無のエネルギーの塊のようなリーダーが是非必要なのだ」とぶちあげている。
1月 田中の所属する鉄道建設審議会で、上越、東北、成田の三新幹線基本計画答申。「新幹線駅誘致の陳情にずいぶん目白に行った。先生は盛んに『難しい、難しい』といっていたが、昭和46年秋に出向いた陳情団に『大和町浦佐の毘沙門天様もやがて世に出るかもしれない』と漏らしてくれた」(大和町議会議長・関孝一郎)。
2月  成田の新東京国際空港公団、用地の強制収容騒ぎ。
3.31  最高裁の裁判官会議で、青法協加入の判事補の再任を拒否、紛糾。
5.31  【自動車重量税法公布】角栄が立案に参画。
6月  公明党の竹入委員長が訪中して周恩来と会談。
6.17  【ワシントンで沖縄返還協定調印】
6.21  【農村地域工業導入促進法公布】角栄が立案に参画。豪雪地帯特別措置法改正(特別な補助金を支給する制度の創設)の成立に尽力。
6.27  【参議院選挙】自民党は63名の議席で改選前の64を1議席下回った。その後無所属当選者の入党と繰上げ当選で改選議席を辛うじて上回ったものの、前々回(昭和40.7)の71、前回(昭和43.7)の69議席から見ると低落傾向に入ったことになった。この時、細川護照(もりてる)が初当選している。
6.29  【訪中の竹入公明党委員長が周恩来首相と会談、日中国交回復促進で合意】
6.29 6.27日の参院選敗北の責任を取り幹事長辞任。この時の心境を次のように歌っている。「末ついに 海となるべき 山水も しば木の葉の下くぐるなり」。角栄の幹事長就任は、通算5回、昭和40.6.3日から41.12.1日まで、43.12.1日から46.7.5日までの計4年1ヶ月。これは歴代幹事長のうち最長の記録である。この期間は佐藤政権の時代で、角栄は主流派の幹事長として采配を振るったことになる。
「政治にはタイミングが必要だが、それを捉えるのが実にうまい。幹事長を辞めたとき、野党の書記長が慰労会を開いたが、歴代保守政治家では初めてじゃないか」(民社党書記長時代の佐々木良作)。

 ◎角栄の幹事長辞任が参議院の重宗議長も四選断念の呼び水となり、河野新議長が生まれることになった。
7.1  【環境庁設置】
7.5  【第三次佐藤内閣の第一次内閣改造で通産大臣抜擢される】
 ◎日米繊維交渉を纏める。
 角栄が通産大臣に就任。この時、福田は大蔵大臣から外務大臣になった。保利茂幹事長、竹下登内閣官房長官の布陣となった。通産相に就いた角栄は、通産官僚たちをこんな就任スピーチで笑わせた。
 「私は東大を出ていない。しかし、仮に東大を出ていれば卒業年次は(昭和)16年前期だ。今の次官は16年後期。私は大臣として初めて後輩の次官と相まみえることになった」。
7.15  キッシンジャー米大統領補佐官が極秘で訪中、ニクソン大統領の訪中を決定した。
7.15  【ニクソン訪中発表(第一次ニクソン・ショック)】
7.17  参院議長に河野謙三が当選。
8.15  【第二次ニクソン・ショック】ニクソン大統領が、ドル防衛策によるドルと金との交換禁止、金ドル本位制からドル本位制への切り替えを発表した(第二次ニクソン・ショック)。同時に米国への輸入品に15パーセントの課徴金を課す政策を発表した。為替市場は大混乱し、8.16日東京証券取引所は史上最大の暴落となる。
8.17  政府が「円対策8項目」実施を発表。
8.28  政府が円の変動相場制移行を実施。
9.9  【第8回日米貿易経済合同委員会】第8回日米貿易経済合同委員会がワシントンで開かれ、角栄も出席。
9.23 ◎ドル・ショックに対応するため、臨時中小企業対策本部長に就任。商工中金、中小企公庫、国金の融資規模を1500億円枠に拡大する等の緊急対策を実施。
9.27  天皇・皇后両陛下がヨーロッパ外遊。
10.4  通産省、初の資源白書を発表。
10.6  日米繊維問題で、自民党三役、野党書記長らと会談、政府の方針を説明。
10.8  ドルショック対策として、中小企業の輸出成約促進を目的とした外為銀行への外貨預託の実施を閣議決定。
10.12  昭和46年度補正予算を閣議決定。160億円の減税追加などを内容とする中小企業への支援措置が決められた。
10.15 日米繊維交渉決着させる(本協定は翌47.1.3)。

 
「火中のクリを拾い、自分の責任において結論を出し、見事に裁く」好例を見せつけた。宮沢喜一、大平正芳の二人の通産大臣が解決できなかった難問であったが、国内の繊維業界の廃業した機械を国で買い上げるという発想で切り抜けた。「世界の流れは流れとして受け入れ、後は徹底した国内生産者対策を練り上げる」、「それは我々が全く考えが及ばないほどの、大胆且つユニークなものであった」(竹下登談話)というのが識見としてあった。これについては「
日米繊維交渉」で詳述する。
10.16  沖縄国会(第67回臨時国会)始まる。
10.19  「政党政治研究会」が佐藤派の長老木村武雄の音頭で創立された。
10.25  国連で、日米が画策した「逆重要事項指定決議案」が否決され、「中国加盟、国府追放」を決議可決した。
10.27  衆議院本会議で田中通産相の不信任決議案を否決。11.9日参院でも否決。
11.24  衆院で沖縄返還協定可決承認。社・共両党は欠席した。参院は12.22日。
12.22  参院本会議で、沖縄返還協定を承認。
12.29  第68回通常国会始まる。

1972(昭和47)年、角栄54歳、新潟県への政府補助金806億円で3位。

1.5  カリフォルニア州サクラメント(サンクレメンテ)で日米首脳会談。日本側は佐藤首相、福田外相、田中通産相、水田三喜男蔵相、佐藤文生・自民党新聞局長が同行す。米国側は、ニクソン大統領、コナリー財務長官、キッシンジャー大統領特別補佐官。1.8日、共同声明。5.15日、沖縄返還決定。
1.25  荒船衆院副議長が辞任。1.28日、原労相が辞任。
2.3  佐藤首相、札幌での記者会見で、国会終了後の引退を示唆。
2.19  連合赤軍による浅間山荘篭城事件。
2.21  ニクソン米大統領が訪中。毛・周と会談。2.27日米中共同声明。
2.29  田中通産相が、閣議で、「対中国輸銀使用を認める」方針を決定。
3.7 ◎永年在職議員として衆議員より表彰される(12名)。
5.9 田中派が旗揚げ(衆院40名、参院41名)、柳橋の料亭「いな垣」に集う。
5.15  沖縄返還協定の調印式。沖縄施政権復帰。
5.29  下水道事業センター法公布。角栄が立案に参画。
6.2 ◎田中・大平会談で、総裁選挙の相互協力を確認。
6.9  佐藤首相が、総裁選調整工作のため、田中通産相、福田外相と個別会談。
6.11 田中通産相が、「日本列島改造論」を発表する。これについては「日本列島改造論」で詳述する。
6.16  【工業再配置促進法、工業再配置産炭地域振興事業団法公布】角栄が立案に参画。
6.17  佐藤首相が退陣表明。7年8ヶ月の長期政権に幕を閉じた。佐藤派の福田支持グループが「周山クラブ」結成。大平正芳氏が総裁選立候補を表明。この頃の角の弁に「総理の座はなろうと思ってもなれるものではないし、なりたくないと思ってもやらなければならない事もある」が伝えられている。
6.18  佐藤首相が、福田支持工作をはじめる。
6.19  中曽根総務会長が田中支持を表明。
6.20  佐藤退陣表明の三日後、「日本列島改造論」が発売され、たちまちベストセラーになった。福田が立候補を表明。
6.21 田中が総裁選の事務所開きに出席し、正式に立候補を表明。
 「私たちは今、内外二重の転換期を迎えております。『第二の開国』ともいうべき試練に直面しております。この時に当たり、私は時代の要請をひしひしと感じ、国民のための新しい政治を実践するために、自由民主党総裁選挙に立候補することを決意致しました。(中略)

 政治は国民全体のものであります。70年代のどの課題をとってみても、国民の参加と協力なくして解決できるものは有りません。国民の生活感覚に基く大衆政治をよみがえらせてこそ、政治不信は解消できるのであります。また、政治は国民の英知と活力を吸収できるのであります。

 70年代の政治には、強力なリーダーシップが求められております。新しい時代には新しい政治が必要であります。政治家は国民にテーマを示して、具体的な目標を明らかにし、日限を切って政策の実現に全力を傾けるべきです。しかし、民主政治の下では、個々の政策がいかに優れていても、国民の理解と支持が無ければ、政策効果をあげることはできません。私は国民の皆さんと一緒に考え、熟慮し、断行いたします。

 最善のために時間がかかれば、次善を取ります。右顧左眄は致しません。時には苦いものであっても、それが真実であればありのままを皆さんに訴えます。結果についての責任は私が負うつもりであります。政治責任の明らかな決断と実行の政治こそ、私の目指すところであります。

 私は日本中の家庭に笑い声があふれ、老いも若きも明日に希望を繋ぐことができる社会の建設に、全力を挙げてまいります。国民の皆さんのご理解とご支援をお願いいたします」。

 三木氏も表明。中曽根氏が総裁選不出馬と田中支持を表明。
6.23 ◎角栄が、「国民への提言」(私の十大基本政策)発表。
7.2 田中・大平・三木候補が三者会談。政策合意と決選投票での3派「上位協力」で合意。




(私論.私見)