履歴その3、兵役時代

 (最新見直し2005.6.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後日本の首相の中で、田中角栄だけが従軍している。る。このときの経験で、戦争における一兵卒の悲哀を知っていると見られる。角栄は、戦後保守系政治の中でハト派に位置したが、思えば、タカ派の福田、中曽根らは官僚であったり主計官であったりして現場の経験が無い。そういう訳で、いつも無責任な放言をし続けているのではなかろうか。二世、三世の末裔達も然りであろう。

 2005.1.14日 れんだいこ拝

1938(昭和13)年、角栄20歳
4.9 ◎徴兵制度により20歳を越えた角栄に呼び出しがあり、柏崎で徴兵検査を受け甲種合格。
9.30 ◎錦城商業学校4学年中途退学。
1939(昭和14)年、角栄21歳
3.20 ◎盛岡騎兵第3旅団、第24連隊、第一中隊に入隊した。以降、戦友と誼を得るが、このご縁が後に「愛馬会」の組織、「越山会」の結成へとつながっていくことになる。
◎広島に集結した後、宇品から瀬戸内海、日本海を抜けて北朝鮮の羅津港まで運ばれた。その後、松江省付近に駐屯する。
4月 ◎ソ満国境近くの北満州(中国東北部)富錦(フーチン)へ。「はじめは皮膚に当たる満州の風は春とは名のみ、刺すように強い寒さであった」。16年まで軍隊生活に入る。
◎着任の日落ち着く間もなく内務班の班長の私物検査を受け、角栄は財布の中に入れてあった米女優ディアナ・ダービン(「オーケストラの少女」で人気女優)のプロマイドを見つけられ、「好きなタイプで、こんな女を将来のワイフにしたい」と答えて、突然張り飛ばされている。以降も不遜な態度にピンタを見舞われている。角栄にとって「内務班生活」は厳しい試練の日々となった。不遜、型破り、反骨的であったようである。
◎当時の上官(陸軍士官学校出の中隊長)片岡甚松は次のように証言している。
 「見習士官として赴任した私の隊に田中上等兵がいた。事務能力が素晴らしく、酒保係りや食糧管理を扱う助手をさせていた。射撃は下手で、よくしかられていたが---」。
 「訓話の後で、普通の兵隊はそんなことがないのに、田中先生は平気で質問する。他の将校が、あれは共産党ではないかと云っていたくらい、大胆、研究心旺盛だった。或る晩、酒保に行くと、田中先生はじめ5、6人の兵隊が酒を飲んでいた。文句を言おうと思ったら、先生がさっと『輸送中、ビンの底が抜けたんで、処分しとるところであります』と言った。なるほど、一升ビンの底が壊れていた。計画的にそうしたのか、本当にそうだったので機械的にそう答えたのか、とにかく頭の回転が早い人物だった」。
 この片岡は、帽子を被らないで上官に敬礼した角栄にピンタを見舞ったのが出会いとなった。後に、角栄は、戦後の初立候補に当たって、この片岡を選挙参謀に迎えている。後に越後交通に招き、副社長、社長に収まっている。「越山会」の3代目会長に就任し、解散の日まで長く「越山会」を支えることになった。
◎酒保係りをしたいた時のこと。夜陰に乗じて軍曹や伍長といった下士官が盗みに入ってくる。大方は見て見ぬふりをするのだが、田中二等兵は「誰だ」と銃剣を突きつける。下士官は「ハッ」と挙手の礼をする。そこを間髪いれず、菓子袋一つをさっと差しだして持たせてやると、喜んで帰っていく。「いい気持ちだったなぁ」と思い出話をしたことがある。
◎田中上等兵は捕虜の監視当番を命ぜられていた時のこと。富錦の夜は零下30度まで下がる。ある晩、捕虜が「寒くて眠れない」と訴えるので牢から出して火の有る部屋で暖を取らせていた。そこへ当番士官が見回りに来た。見ると同じ新潟県出身の細井宗一(後の共産党中執、2.1ゼネスト時の指導者の一人)であった。細井は田中を外に連れ出して、細井「おい、エライことをしてくれたな」。田中「いいじゃあないか」、細井「困るーーー後で俺がもう一度見回りにやって来るまでに牢の中に戻しておけ」、田中「よしきた」という具合で落着させた。角栄の人道主義が分かる逸話である。
5.12 【第一次ノモンハン事件】角栄の所属部隊も出動し、多くの戦友が戦死するのを目撃している。日本陸軍の初めての負け戦となった。「5月中旬から自然停戦になった同月の末頃までの僅かな半月の間に、出動した在満師団の騎兵連隊のほとんどが壊滅した。私の入隊した騎兵24連隊からも、古兵の半分以上が動員されたが、出動3、4日後には戦死の公報がどんどん入り、戦争の激しさが身にしみて理解できた」と田中は回想している。
◎この頃、妹のユキエ死亡の知らせ浮ける。
7月 【第二次ノモンハン事件】角栄は酒保、糧食、支那事変第三次功績係りなどの勤務で実戦には行かなかったが、部隊は平陽鎮、金剛台を移動。
9.3 【英仏が対ドイツ宣戦布告し、第二次世界大戦勃発】
1940(昭和15)年、角栄22歳
3.1 ◎騎兵上等兵になる。
11月末 ◎勤務中に倒れ野戦病院に入院。病名は「クルップス肺炎に。右乾性胸膜炎を併発」と診断されている。旅団本部のある宝清の陸軍病院に入院した。
1941(昭和16)年、角栄23歳
2月 ◎転々と移動した後、大連の近くの柳樹屯の病院に移送される。
2月 ◎内地送還となる。大阪天王寺にあった日赤病院に入院する。その後40度近い高熱が続いた。
3.3 【国家総動員法改正公布】
春頃 ◎この頃小康を得ていたが、妹のトシ江の危篤の知らせで外出許可を得て帰郷する。見舞った後再び大阪に戻ったが、無理をしたせいで日赤病院に戻った晩から高熱でうなされるようになった。
4.1 ◎仙台陸軍病院宮城野分院に送られる。41度の高熱危篤状態で死線をさまよう。この間妹トシ江死亡の知らせが届く約2週間後、奇跡的な回復をし始めた。「私の宿業を妹が背負っていつてくれたに違いない」と記している。
8.1 【アメリカが、対日石油輸出を全面停止】
秋頃 ◎母フメと姉のフジ江が見舞いに来ている。この頃は病状がすっかり回復していた。
10.5 ◎退院と同時に除隊となり帰郷。三晩実家に留まったきりで再度上京した。
10.18 【東条英機内閣発足】




(私論.私見)