45272 毛沢東―角栄会談秘話】と田中角栄の悲劇性

 (最新見直し2007.5.9日)

【毛沢東―角栄首脳会談の秘話】
 2002.11.27日付けで講談社より青木直人著「田中角栄と毛沢東」が初版されている。時期を同じくして日経BP出版より三浦康之著「頂に立て!田中角栄とニクソン上・下」も初版されている。いずれも、ロッキード事件を通じて口を極めて批判されてきた田中角栄の見直しに資する良書である。本来もっと注目されても良いが、我が社会に牢として形成されている「角栄包囲網」の幻影に禍(わざわい)されてマスコミに登場する機会が少ない。まことに惜しまれることである。 

 さて、「田中角栄と毛沢東」は、「毛沢東―角栄首脳会談」の内容が、実は世間に流布されている遣り取りではなく、真相は極めて大胆且つ高度な政治的遣り取りをトップ・シークレット的に為していたことを暴露しており、極めて衝撃的である。「現在でも、この夜の会談内容の詳細は謎に包まれている」と云う。

 以下、青木直人著「田中角栄と毛沢東」を下敷きにしながら、れんだいこ風に纏める。(より読みやすいように漢字変換、句読点、段落変え、解説部分削除、多少の意訳をしております―れんだいこ)
 昭和47.9.27日午後7時半、北京の迎賓館でくつろいでいた田中首相一行のもとへ、中国外務次官の漢念竜から電話がかかってきた。日本外務省の橋本中国課長が取り次ぐと、「毛沢東首席がお会いします。田中総理と大平外務大臣にお越しいただきたい」という電話の内容であった。それを聞いた田中は、即座に云った。「二人だけというのはダメです。二階堂官房長官も一緒に来ているのだから、行くのなら一緒に参ります。そう応えてくれ」。

 午後8時、周恩来首相が「先ほどは失礼しました」と云って、姫鵬飛外相と共に迎えに来た。この時、ちょっとした悶着が起った。田中の護衛官が、必死の形相で、「私を連れて行ってた下さい。そうでないと、日本からついて来た私の職責が果たせません」と田中の袖にとりすがって、再三哀願した。田中は、「いいんだよ」と軽く振り払おうとするが、護衛官はそうはさせじと頑張った。田中は、彼の顔を真正面から見据え、概要「いいんだよ。分かっている。ここまで来れば煮て食われようと、焼いて食われようと、いいじゃないか」と云って、ニッコリと笑った。こうして三名のみが出発したが、突然の予定変更であった為、二階堂の車にはホストが不在だった。


 午後8時半、日本側首脳と毛沢東主席(78歳)との会見がセットされた。日本側は田中・大平・二階堂、中国側は毛、周、姫、りょう、これに通訳・記録係として王効賢(外務省アジア局所属)と林麗雹(共産党中央連絡部所属)の二人の女性が加わった。日本側の事務方は出席していない。会見は約1時間にわたった。田中が辞去するとき、毛は用意していた「楚辞集注」大巻を贈った。

 青木直人著「田中角栄と毛沢東」は次のように記している。
 「この二人の会談を契機に、それまで足踏みしていた国交正常化交渉は一気に進展し、二日後には共同声明の発表にまで漕ぎつけることができたのだ」、「1972.9.27日、両雄の一度だけの会談は僅か1時間で終わっている。それは日本と田中角栄の運命を決める長い1時間でもあった」。

 会談の冒頭、毛は、「周首相との喧嘩はすみましたか」と切り出した。「喧嘩はしなきゃ駄目ですよ。互いに云うべきことを主張し喧嘩してこそ仲良くなれるものです」と続けた。田中答えて曰く、「ええ、周恩来首相と円満に話し合っております。いいたいことは、一つ残さずに話したつもりです」。毛曰く、「そう、それで結構、喧嘩をしてこそ仲良くなれます。本当の友情が生まれます」の遣り取りが為された。

 田中首相のスピーチにあった「多大な迷惑」を廻る周首相との鞘当も話題になり、次のように遣り取りされている。れんだいこが、現在漏洩されている情報から類推して再現してみる。
毛主席  概要「迷惑をかけたという問題はどう解決しましたか。若い人たちが、ご迷惑をかけたという表現は不十分だといって拘っております。それも無理は有りません、中国では女性のスカートに水をかけた時に使う言葉ですから」。
田中首相  概要「日本語の迷惑は中国の意味と少し違います。日本語の中で使われている漢字は元をただせば中国から入っておりますが、その後日本的用例も生まれております。日本語的意味では万感の思いを込めてお詫びする時にも使います。いずれにせよ、このことに拘られるのであればここで揉めても仕方ないので中国の習慣的解釈に添って改めるよう準備を進めております」。
毛主席  概要「わかりました(明白了)。迷惑の言葉の使い方は、あなたの方が上手なようです。いろいろ困難は有りますが、歴史的大義に向って邁進しませう」。

 続いて雑談が少々続き、毛は、「いろは、アイウエオ。平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です。今日本語の勉強をしています。日本に留学したいと思っているのですよ」と述べている。大平が、「では、私たちはどうやってあなたの世話をしたらいいのですか。難しいですよ。やはり他の国に留学してください」と茶化し、毛曰く、「大平先生は友好的でないですね」と応えた。会談時の友好ムードが伝わる逸話である。

 その他、中国の伝統墨守的弊害、日本の選挙制度等々にも話題が及んだ、と伝えられている。
 ひと通リの挨拶と雑談が終わると、毛沢東は田中角栄の目の前で、やおら右手を頭上にあげた。その手を左右にゆっくりと振る。田中達の前で何度か同じ動作を刳り返した後、彼は視線を泳がせるようにしながら口を開いた。「田中先生、日本には四つの敵があります」。

 この発言を耳にして、田中は辟易し、内心ではくど過ぎると思ったと云う。「四つの敵」という言葉は、中国を訪問する前に行われた外務省のブリーフィングで、何度も聞いていた言葉だったからだ。当時、中国共産党は日本に対して盛んに「アメリカ帝国主義」、「ソ連修正主義」、「日本軍国主義」、「日本共産党宮本修正主義」の「四つの敵」と戦うよう訴えていた。いわば、中国革命外交のキーワードだった。しかも、日本の軍国主義については、中国訪問の当日からさんざん説明し、中国側の理解も得たはずのテーマである。

 だが、毛の口から出た「四つの敵」は田中の想像を裏切るものだったのである。毛は右手の指を一本ずつ折り始め次のように語った。
 「最初の敵はソ連です」。親指が曲がった。「二番目がアメリカです」。人差し指がたたまれる。「そしてEC(ヨーロッパ)です」。中指を折りながら、発言が続いた。「最後が」と言いつつ、毛の薬指が曲がった。「それは中国です」。

 視線は四本の指を折り曲げた自分の右手に向けられたまま、田中らを見ようともしない。その姿は、瞑想に耽っているようだった。列席した人の中からは咳き一つ聞こえない。田中だけではない。大平も二階堂もこの言葉に沈黙していた。静寂の中、毛の声だけが室内に響いた。

 毛は更に話を進めた。意外な人物の名前が毛の口から発せられた。
 「あなた方はヒットラーをご存知ですね。今でもヒットラーは西側の一部では尊敬されていますが、私の見るところではバカな男です。彼はイギリス、フランスを敵に回し、ソ連に挑み、最後にアメリカと衝突したのです。中国人民もまた敵になったのです。彼は全世界を敵に回してしまったのです。なんと愚かな男でしょうか」。

 次に槍玉に挙がったのが、日本の東条英機だった。
 「お国の東条も同じでした。まず最初に中国と戦いました。アメリカに戦争を挑み、イギリス、フランスとも衝突しました。最後にはソ連とも戦う羽目に陥ってしまった。世界中が日本の敵になったのです。みんなを敵にして、東条は自滅していったのです」。

 彼らの名前を挙げて、毛は田中にこう聞いた。
 「あなた方はもう一度ヒットラーや東条の歩んだ道を歩むのですか。よく考えなくてはいけません。世界から孤立して、自暴自棄になって自滅していくのですか。アメリカ、ソ連、欧州、そして中国。この四つを同時に敵に回すのですか」。

 ここから先は、れんだいこが会話を推理する。毛沢東は次のように述べたのではなかろうか。
 「今後の世界は、アメリカ、ソ連、欧州、中国が基軸になります。この4大国は歴史的に観ても互いに相容れず、今後とも協調しつつ対立していくことになるだろう。さて、日本は、この4大国とどう関わりあうのか、それが問題だ。4大国全てと仲良くすることは出来そうでできない。それはどの陣営とも腹蔵ない関係に立っていないことを証左しているに過ぎない。奥深いところで、どちらかの陣営と連合する以外に生き延びることができない」。

 毛沢東の話は続いた。
 「あなた方がこうして北京にやってきたので、どうなるのかと、世界中が戦々恐々として見ています。中でも、ソ連とアメリカは気にしているでしょう。彼らは決して安心はしていません。あなた方がここで何を目論んでいるのかが分かっているからです」。

 二つの大国が日本と中国の接近の行方を注視している。毛はこう云うのだった。
 「ソ連と較べると、アメリカはまだ幾らかはましでしょう。しかし、田中先生が来たことを愉快には思っていない」。

 ソ連が日中接近を警戒するのは分かる。日本と中国という、ソ連に対して友好的ではないアジアの二大国が関係を正常化することにモスクワは神経を尖らせていた。アメリカはなぜ気分が悪いのか。
 「ニクソンはこの二月、中国にきましたが、国交の樹立まではできませんでした。田中先生は国交を正常化したいと言いました。つまり、アメリカは、後から来た日本に追い抜かれてしまったという訳です。ニクソンやキッシンジャーの胸にはどのみち気分の良くないものがあるのです」。

 毛は笑いながらアメリカとソ連の心中を解説して見せたのだった。
 概要「田中先生、何十年、何百年かけても話し合いがまとまらないこともありますが、たった数日で合意することもありますよ。さて、今後の世界はどうなるのか。五十年、百年先を見通さねばならない。それを思いやれば、究極、民族的に近いところが提携するのが一番理に適っている。どうですか、田中先生、我々と組もうではありませんか。組むというなら徹底して組もうではありませんか」。

 毛沢東の口から出たのは日中同盟論だった。即答できるような話ではなかった。

 こうして会談は終わった。最後の言葉で、日中国交正常化交渉の成功は約束されたも同前だった。時間にして一時間。しかも通訳が入るので実際の会話は三十分にしかならなかった。毛の自宅を辞した田中は大きく息を吸い込んだ。政治抜きと伝えられた日中首脳会談は、徹頭徹尾政治的なものだった。(以上)

(私論.私見) れんだいこの「毛沢東―角栄会談秘話」考

 この「秘話」は極めて重要なメッセージを告げているように思われる。れんだいこ観に拠ると、稀代の戦略家・毛沢東は、田中角栄に同じ資質を見出し、恰も同志的もてなしをしていることに気付くべきである。その上で、「トップ・シークレット的百年の計」を授けようとしている、と読み取るべきである。この視点によってこそ「毛沢東―角栄会談」の凄さが見えて来る。「角栄の左派的資質」―ここにキーワードが隠されている、とれんだいこは観る。

 毛沢東の日中共同論は、実際にはもっと凄い内容であったことも考えられる。例えば、現代世界を裏から支配している国際金融資本ーネオ・シオニズムの動向に対する言及が為されていたのではなかろうか。その上での日中共同論がぶたれていた可能性が有る、れんだいこは観る。


【毛沢東の角栄に対する並々ならぬ関心】
 毛沢東は、田中角栄に対する並々ならぬ関心を持ち続け、その後も角栄の動向に慈愛を注いでいた様子が「田中角栄と毛沢東」で明らかにされている。

 1976(昭和51).2.4日、突如ロッキード事件が発覚した。この時既に毛は最後の闘病の日々を送っていた。その後日本の政界は未曾有の政治危機に直面していくことになった。同年7月、毛は中国を訪れたタイのククリット首相に、「私が実際に会って褒めた人は、国に帰るとみな災難に遭っている」と云いながら、ウォーターゲート事件に巻き込まれたニクソンと金脈追及で辞任した田中角栄の名を挙げた、とある。

 もう一つのエピソードが次のように明かされている。毛は最晩年まで身辺から書籍を離そうとしなかった。病床にあっても意識はまだはっきりしていた。身辺の看護を担当していた愛人の張玉鳳は、毛が選んだ本を朗読することが日課になっていた。では、毛が人生の最後に接した書籍は何であったか。諸説有るが、「三木武夫」であったという説がある。これは何を示唆しているのか。読み解くのに、毛は、田中角栄逮捕となった日本のロッキード事件に並々ならぬ関心を持ち、角栄訴追の急先鋒を勤める政治家三木の分析に向かおうとしていたのではなかろうか。

 青木氏の言をそのまま借りれば、「毛は田中をロッキード事件で追い詰めている三木という政治家の経歴や思想からロッキード事件それ自体の政治的構造を推理したかったのだろうか」ということになる。これが死の前日のエピソードであり、毛は翌日の1976.9.9日に生涯を閉じている。

Re:【毛沢東―角栄首脳会談の秘話】 れんだいこ 2003/03/31
 帽子屋さん皆さんちわぁ。毛沢東的世界観についてですが、思うところを書き付けてみます。毛沢東は、この時点において、根っからソ共を嫌悪しております。これを推測するのに、建国以来ソ共の指示に従った政策のことごとくが失敗に帰し、その他諸々のことを思案した結果、本質的にロシア大国主義でしかないのに左派的言辞を弄ぶ最も油断のならない社会主義的帝国主義国家であると位置づけていたのではないでせうか。

 それ故に、この時点では、ソ連を明確に敵性国家とみなしております。そうすると、そのソ連と対立しているアメ帝とどの程度まで関係修復するのか、これが課題となりますがやはりイデオロギーが違いすぎるので難しい。しかし、カードとしてはこの切り札を切り始め、キッシンジャーの訪中、続いてニクソン訪中が実現します。その結果、最も親密な盟友林彪派がその左派性ゆえに粛清されることになります。

 むしろ、毛沢東は、奇跡の復興を遂げつつあった日本に熱い視線を送ります。アメ帝との軍事同盟下にありながら、平和的国際協調的憲法精神に則り没イデオロギー的に経済発展を遂げつつある日本を羨望していた感があります。歴史的に繋がりも深いこの日本と提携していくことが、中国のためにもなり日本のためにもなるという国家百年の計による文明的判断を確立していたように思います。要するに、日中ブロックを形成して西欧諸国と伍していくという青写真を構想していたのではないかと思います。

 しかし、このシナリオは当の中国でも我が日本でも困難がありました。その後の流れを見ると、両国ともこのシナリオの徹底的破壊方向に向かったことで分かります。周恩来はこのシナリオの合点者でしたが、ケ小平以降現政権に至る系譜は親米派で固められていきます。日本も同じです。今や、日中はアメ帝を媒介せずには何も手が打てないところまで楔を打ち込まれております。

 話を戻します。70年代前半のかの時、日本に田中角栄内閣が登場しました。首相・角栄、外相・大平、官房長官・二階堂の布陣ですが、戦後日本政治史上ハト派系が頂点に達していたのがこの時でした。考えて見れば、よりによっていずれも貧農出身の戦後秩序ならでは頭角を現すことの出来た好人物であったことが分かります。皆生き様が良いですね。

 れんだいこは、この勢力を日本の土着型社会主義者集団ではないかと推定しております。この観点から戦後史を見ていくと、既成の政治史家の学問ではさっぱり役に立たないことが分かります。どんな党派のものであろうと大御所のそれでも納得できるものがありません。

 それはそれとして、毛沢東ー角栄会談とは、中国の土着型社会主義者と日本の土着型社会主義者が邂逅した後にも先にも無い一回こっきりの歴史的意義深いものであったということになります。緊張し且つ緊迫した中にも旧知の間柄の肝胆相照らす同志的雰囲気が漂っていたと推測されます。

 面白いことに、時のニセモノ左翼がこれに如何に対応したか。ニセモノ度の強さに応じて金切り声を上げ罵倒している、あるいは陰に陽に価値を貶める策動している様が見えてまいります。後日発生したロッキード事件で誰が最も執拗に反角栄的動きをしたか、申すまでもありません。この観点から当時の裏づけを取る作業をして見たいのですが、時間がありません。

>「靖国」などで注文をつける中国政府は、右派には評判が悪いですが、要するにこの観点からすれば「なぜ、漁夫の利を取らせるような日中対立に持ち込みたいのか?」という疑念があるのでしょうね。

 れんだいこ史観に拠れば、「靖国」などで注文をつける中国政府は、かっての毛沢東的世界観とは反目の渓流です。旧日本軍部の所業を批判する観点は、毛沢東時代にも当然ありましたが、そもその目線が違います。今日の中国政府の海外からする何でもかんでも批判は、別の人種達による歴史責任追及であり、それはかなり得手勝手なものがあると思っております。

 しかしこの連中と宮顕ー不破系日共とは思想が合うようで、最近は招いたり招かれたりして小手先の体制修復運動を賛美しあって居ります。よほどウマが合うのでせうね。

 【「日中の戦略的同盟提起した毛沢東 田中角栄と毛沢東」 】
 「阿修羅 国家破産38」の2005.1.30日付け愚民党氏の投稿文で「21世紀ジャーナル」「日中の戦略的同盟提起した毛沢東」の一文が紹介されている。これを転載しておく。

 最近読んだ中で一番感銘を受けた本だった。これまで知りたいと思っていたことや、おぼろげながら感じていたことに明快な答えを与えてくれたからだ。

 ひとつは日中国交回復をめぐる真実。もうひとつはロッキード事件の真相。ともすれば田中角栄の“功罪”、“光と陰”のような形で言及されるこの二つの出来事は、実は、「アメリカの従属下にある日本の自立」という点でひとつにつながっていた。アメリカの世界戦略にくさびを打ち込もうとする革命家、毛沢東の壮大な戦略的思考は、その当時の世界情勢の客観的実際から出発し、その矛盾関係を分析して打ち出されたものであり、唯物弁証法哲学に基づく政治の実践であった。

 著者が「民族派宰相」と形容する田中角栄は、独自のエネルギー資源確保をめぐって、みごとに毛沢東の戦略に沿った動きを開始し、アメリカの怒りを買って失脚する。

 1974年、国連でケ小平が演説した「三つの世界論」は、新しい時代に対応する毛沢東の世界戦略であった。アメリカとソ連の二超大国を第一世界、ヨーロッパと日本の先進国を第二世界、アジア・アフリカ・中南米の発展途上国を第三世界と規定したこの戦略は、第三世界が団結し、第二世界をいかに味方につけて第一世界に反対する世界的包囲網を築くかというものであった。

 われわれが住む日本は第二世界に属しており、「三つの世界論」からすれば第三世界の側に獲得して第一世界との矛盾を拡大していくべき存在であった。日本国内で労働運動や“革命運動”に取り組んでいた俗人たちの目から見ると、「アメリカに従属して日本人民を支配している日本独占は敵」であり、“獲得する対象”と言われても、にわかには理解しがたいことであったに違いない。

 だが、毛沢東は違っていた。アメリカと共同で日本人民を支配しているとは言え、実際には自分自身もアメリカの支配下にある日本独占の中には、“親米独占”と“反米独占”とがあると見た毛沢東は、その矛盾を利用して日本独占を分断し、アメリカに対抗する勢力として中国と世界人民の側に獲得しようとした。

 ニクソン訪中時をはるかに上回る歓待をし、戦争賠償請求権をあっさりと放棄し、日米「安保」条約の存在をも認めて田中を驚かせた周恩来の外交は、毛沢東の戦略に沿って第二世界である日本を獲得するという強い方向性に裏付けられたものであった。

 「田中角栄と毛沢東」と題するこの本の最大の焦点は、これまで「政治の話はいっさいなかった」とされていた二人の会談の本当の中身を、ねばり強い取材によって明らかにしたことである。ページ数にしてほんの2ページほどにしかならないこの部分の記述は、これまでのどの記録にも記されていないものであり、毛沢東が「組むというのなら徹底して組もうではありませんか」と田中に日中同盟を呼びかけるという大胆なものであった。

 「三つの世界論」が、単に世界を解釈するためのものではなく、世界の矛盾関係を換えるための戦略であるということの意味はこういうことなのか。感銘を受けたのはまさにこの点であった。

 中国から帰った田中は、その後、シベリアやインドネシアをはじめとする世界中の油田を回り、アメリカをはじめとするメジャーが独占していた石油資源に挑戦する。田中は総理大臣になるはるか以前から、日本が自立するためには資源を自前で確保しなければならないと考えていたが、日中国交回復を含むその後の資源外交は、民族派宰相としての使命を担ったものであったに違いない。

 石油メジャーや金融資本を傘下におき世界を支配するアメリカの“闇の権力”にとって、日本の自立を目指す田中の動きはとうてい許されるものではなかった。日本の裁判の慣例にはなじまない方法で進められたロッキード裁判は明らかに田中の政治生命を絶つためにアメリカが仕組んだものであった。田中は「やられた」とつぶやいたという。全てを承知の上での田中の行動だったのであろう。

 最近の日本の政治は、骨のないどうしようもないものになっており、日本中をおおう閉塞感を打ち破る方向を示し得ないでいる。しかし、その元凶が、85年のプラザ合意に端を発するアメリカの日本政策であり、日本が稼いだ金はアメリカに環流するばかりで全く日本再生のためには回ってこないことが明らかになりつつある。言論界には堂々と日本の自立を口にする人も出始めている。

 しかし、政治の世界では、自立を指向していたと思われる田中真紀子が、父親のように失脚させられ、今のところ、正面切って自立を訴える政治家は見あたらない。世界を見ても、毛沢東がしたように地球規模でものを考え、歴史の発展方向を見すえて大胆に行動するものはいない。

 そのように考えたとき、田中角栄と毛沢東の会談は、ほんの短い時間であったにもかかわらず、世界の矛盾関係を変えようという歴史に残る壮大なものだったのだということがわかる。

 あれからすでに30年が経つが、この会談を通じて毛沢東が示したことは今もまだ通用する。というよりもむしろ、「今こそその時」ではないか。この本を通じて毛沢東がそう語りかけているように思った。  日本の対米自立のためのHP http://www.21c-journal.net/index.html


【「その夜、新たな歴史がひらかれた 毛―田中会談を再現する (横堀 克己)」】
 「阿修羅 国家破産38の2005.1.30日付け愚民党氏の投稿文で横堀克己氏のその夜、新たな歴史がひらかれた 毛―田中会談を再現する日中の戦略的同盟提起した毛沢東の一文が紹介されている。これを転載しておく。
●特集 国交正常化から30年 新世紀の中日関係を築くために

 30年前の9月29日午前10時――これは永遠に史書に記載される時刻であろう。中日両国政府が北京で、『共同声明』に調印した瞬間である。この時を期して、半世紀以上に及んだ両国の対立と抗争、さらに「戦争状態」にピリオドが打たれ、両国の国交が回復した。中日両国の人々は喜びにわきかえった。中日関係の長期にわたる友好の一ページが開かれたのである。

 30年来、中日関係の道はデコボコや曲折があったが、「友好」を奏でる主旋律が止むことはなかった。国交正常化当時の、両国の各階層、各団体の人々が果たした数々の努力に想いをはせ、さらに今日の中日関係を考えるとき、私たちは中日の友好と平和な環境をつくるために力を尽くしたあの「井戸を掘った人々」を忘れることはできない。

 中日関係は「和すればすなわち利あり、闘えばともに傷つく」。知恵も能力もある中日両国の人民は、この新しい世紀に、引き続き中日友好協力の新たな「交響曲」を創作し続けていくに違いない。

 その一 その夜、新たな歴史がひらかれた 毛―田中会談を再現する   横堀 克己

 中国の毛沢東主席と日本の田中角栄首相が初めて握手を交わしたのは、30年前の、1972年9月27日の夜のことであった。この歴史的な会見によって、中国と日本が長かった「戦争状態」を終わらせ、正式に国交を正常化することが最終的に確定したのである。

 北京・中南海の毛主席の書斎で行われた毛―田中会談に同席した人は、日本側は大平正芳外相、二階堂進官房長官、中国側は周恩来総理、姫鵬飛外相、廖承志中日友好協会会長である。だが残念なことに、いまはみな、この世を去ってしまった。

 会談の内容は、終了後、二階堂長官が日本の随行記者団にその模様をブリーフィングし、それが翌朝の日本の新聞に載っただけで、中国側からのくわしい発表はなかった。はたして二階堂長官が言うように「一切、政治的な話は抜きだった」のだろうか。本当は何が話し合われ、どんなやりとりがあったのか。

 それを知る二人の生き証人がいる。通訳・記録係としてこの会談に同席した二人の中国女性だった。王效賢さんと林麗雹さんの二人である。日本側の事務方は参加していない。

 二人の記憶などをもとに「歴史的一夜」を再現してみた。すると、これまで伝えられていなかった両国首脳の、生き生きとしたやりとりがわかってきた。ユーモア溢れる和やかな雰囲気の中にも、国交正常化のためにはゆるがせにできない問題も、この会談で真剣に話し合われていたのである。(文中の肩書きはいずれも当時)


 周総理の細かい心配り

 田中首相一行が泊まっていた釣魚台の迎賓館に、毛主席が会うとの知らせがあったのは、一行が中国を訪問してから三日目の夕刻だった。その知らせは「突然やってきた」と、日本側は受け止めている。大平外相の回想によると、招かれたのは田中首相、大平外相だけだったが、日本側の要望で二階堂長官も加わることになり、三人は車で迎賓館を出発した。

 田中首相の一行は9月25日に北京空港に着き、ただちに田中首相と周総理による第一回首脳会談が開催された。26日には第二回会談が、27日には第三回会談が挙行されたが、中国の最高指導者の毛主席はずっと姿を見せなかった。第三回会談の直後、毛主席が会見するということは、交渉が基本的にまとまったことを予感させるものであった。

 当時、外交部アジア局に勤めていた王效賢さんと、中聯部(中国共産党中央対外連絡部)で働いていた林麗ウンさんは、自宅に帰っている暇はなかった。二人とも、その他の中国側のスタッフとともに、交渉が行われた人民大会堂の中にある部屋に泊り込んで仕事をしていた。第三回会談が終わったあと、突然二人は「これから毛主席のところに行く」と告げられた。

 「周総理が自ら『私の車に乗りなさい』と言い、人民大会堂から高級乗用車の『紅旗』で、中南海にある毛主席の住居に向かいました。前の座席に運転手と護衛が乗り、後ろの座席に周総理と私たちが乗ったのです」と二人は言う。

 周総理は、事務方で働く人たちに細かい心配りをする人であった。林さんは、以前にも周総理の車に乗せてもらったことがあった。

 それは1956年、日本・神戸で教育を受けたあと、「祖国建設のため」中国に帰国した林さんが、初めて毛主席の通訳をしたときのことである。それまでは中聯部の趙安博氏が毛主席の通訳を勤めていたが、この日、突然、通訳せよと言われたのだ。だが毛主席の言葉は、湖南の訛りが非常に強く、同じ中国人でも、慣れないとよく聞き取れない。

 「一瞬、頭が真っ白になって、なにがなんだかわからなくなってしまった。するとそばにいた周総理や廖承志会長が、『小姑娘、落ち着いて』と励ましてくれたのです。西郊賓館での会議の後、中南海へ戻るとき、周総理が自分の車に乗せてくれました。夕暮れの西単の十字路にさしかかると、時計塔の時報が聞こえてきました。それを今でもはっきり覚えています」と林さんは当時を振り返る。

 王さんもまた、周総理の心配りを思い出す。

 日本との国交正常化交渉が始まる少し前、王さんは林さんといっしょに、毛主席と周総理が話し合う場に連れていかれた。「毛主席の言葉は難しいので、耳ならしをしておいたほうが良い、という周総理の配慮だった。そういうチャンスが二回ありました。おかげで交渉が始まるときには毛主席の言葉はよくわかるようになっていました」と言うのである。


 主席のユーモアが空気を変えた

 周総理と王さん、林さんを乗せた『紅旗』は、中国の指導者たちが住み、執務する中南海にすべり込んだ。

 会見場所は毛主席の住まいの中にある書斎だった。毛主席をはじめ中国側の要人はすでに書斎の中にいた。毛主席と周総理、姫外相は薄いグレーの中山服、廖会長だけが濃いグレーの中山服を着ていた。毛主席は顔色もよく、足取りもしっかりしていた。

 壁の書棚は、中国の古い書籍でいっぱいだった。毛主席はすでに読んだ本に白く小さな付箋をつけていた。大きなスタンドの灯りはこうこうと輝き、部屋はとても明るかった。床には赤い絨毯が敷かれ、椅子には薄いピンクのカバーがかけられていた。九月末なのに暑い夜だった。

 「書斎といってもとても広々としていた。声が聞こえないといけないので、私たち二人は椅子を動かして、毛主席に近いところに座りました」と林さんはいう。

 それからどれほどの時間が経ったか、はっきりしない。午後八時、田中首相の一行が到着した。

 「毛主席は田中首相を迎えるため、部屋の外に出て、立って待っていました。田中首相は顔の汗をハンカチで拭きながらやってきました。二人はしっかりと握手し、それを中国のカメラマンがフラッシュをたいて写しました。撮影は一回だけでした」と王さんは回顧する。

 田中首相は毛主席に大平外相を紹介し、二人は握手を交わした。そのときである。毛主席が「天下大平」と言ったのだ。「大平」を「太平」にかけたのだ。林さんはこれを「天下泰平ですね」と訳した。この当意即妙のユーモアに、笑い声が起こった。最初は厳粛な顔をしていた田中首相の顔がほころび、それ以後、和気あいあいとした雰囲気となった。

 テーブルには杭州の竜井茶が入れられた。愛煙家の毛主席だったが、タバコに手を出さなかった。暑がりで有名な田中首相も、このときばかりは愛用の扇子を取り出さなかった。


 「喧嘩はすみましたか」

 会談が始まった。最初に口を開いたのは、毛主席だった。後に有名となるあの言葉である。中国語ではこう言った。

 「チャオ(口に少)完架了マ?総是要チャオ一些的。天下没有不チャオ架的嘛」

 (喧嘩はもうすみましたか。喧嘩は避けられないものですよ。世の中には喧嘩がないわけはないのです)

 二階堂長官のブリーフィングでは、最後の一句はなく、「喧嘩してこそ初めて仲良くなれます」と言ったことになっている。

 「喧嘩」とは何を意味するのか。それは国交正常化に当たって、戦争の終結をどう宣言するか、台湾をどう位置付けるか、などを巡って中日間に大きな意見の隔たりがあり、首脳会談で激しい論戦が交わされたことを指す。

 これに対し田中首相は「少しやりました。しかし、問題は解決しました」と答えた。三回目の首脳会談で、双方が知恵を出し合い、大筋で合意を見たことを述べたのだった。

 すると毛主席は、大平外相と姫外相を見やりながら「ト續c他打敗了ーノ」とユーモアをこめて尋ねたのだ。「あなたは、相手を打ち負かしたのですね」というわけだ。

 大平外相はあわてて答えた。「いいえ、打ち負かしてはいません。我々は平等です」。こういい終わるや、大平、姫両外相は声を合わせて笑った。

 周総理がこの会話をひきとって「両国外相很努力」と言った。「両国の外相はともに大変よくがんばった」とその労をねぎらったのである。田中首相もこれに続けて「両国の外相は、大変努力して、多くの仕事を成し遂げました」とたたえた。

 すると毛主席は、姫外相を指差しながら「他是周文王的后代」と言った。「彼は周の文王の末裔だ」というのである。

 周の文王は、周王朝の基礎を作った名君と言われ、姓は姫、名は昌といい、太公望呂尚をはじめ多数の人材、賢者がその下に集まったことで知られている。周の勢いを恐れた殷の紂王のために捕らえられたこともあるが、虞とワヌの両国の争いを裁いてから勢力を伸ばした。在位五十年といわれ、その子の武王が天下を取る基礎を築いた人物である。

 歴史に詳しい毛主席らしい、人物紹介である。

 すると周総理が「周文王姓姫 他不姓我這個周」と言った。「周の文王の姓は姫で、私のような周姓ではありません」ということだ。「これを聞いてみんなが笑った」のを王さんは覚えている。

 周総理がこう言った理由は何か。中国の歴史や氏姓に詳しくない日本側に、毛主席の発言の意味を解説したのか、それにとどまらず、もっと深い含意があったのか、それはよくわからない。周総理は、自分は周の文王のような人物でない、と謙遜したのではないだろうか。


 「添了麻煩」はどうなった

 今度は廖会長の話になった。二階堂長官の話では「毛主席は廖会長を指差しながら『彼は日本で生まれたので、今度帰る際にはぜひ連れていってください』といい、田中首相が『廖承志先生は日本でも非常に有名です。もし参議院全国区の選挙に出馬されれば、必ず当選するでしょう』と応じた」という。

 王さんも廖会長に関してこういう趣旨の話があったことを確認している。当時の参議院は、全国区と地方区に分かれていて、全国区の候補者は、知名度の高い人物が当選しやすい制度だった。

 この後、中華料理や中国茶、テゥ台酒の話になったという。田中首相が「テゥ台酒は六〇度といわれますが、とてもおいしい」と言うと、毛主席が「誰が六〇度と言いましたか。テゥ台酒は七五度ですよ」と応じ、さらに中国の歴史の話や日本の選挙などについて「ユーモアを交えた和やかなやりとりが続いた」と二階堂長官は紹介している。だが、王さんも林さんも、こうしたやりとりを覚えていない。

 しかし、二階堂長官が言わなかった重要なことを、二人はしっかり記憶していた。それは「添了麻煩」(迷惑をかけた)に関するやりとりである。

 毛主席が「添了麻煩的問題 怎マ解決了」(「添了麻煩」の問題はどうなったのか)と言い出したのだった。そして書斎の後ろの方に控えていた毛主席の英語の通訳で、若い女性の唐聞生さんを指差しながら「女同志有意見」(彼女たちは文句を言っているのです)と言ったのだった。しかし毛主席の口調は、厳しいものではなく、穏やかだった。

 「添了麻煩」の問題は、田中首相が中国訪問の初日に、人民大会堂で開かれた歓迎宴で、こう演説したことに端を発する。

 「過去数十年にわたって日中関係は、遺憾ながら、不幸な経過をたどってまいりました。この間、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものであります」

 日本側通訳が「多大のご迷惑をおかけした」を「添了麻煩」と中国語に訳したとき、宴会場にざわめきが起こった。中国側の日本語通訳を担当していた林さんに、英語の通訳の唐さんが「『添了麻煩』なんて軽すぎるのではないの」とささやきかけたのだ。

 確かに「添了麻煩」という表現は、「女性のスカートに水をかけてしまったときに使われる」程度の軽い言葉とされている。「周総理もこれを聞いて憤慨した」と、周総理周辺にいた人たちは証言している。日本の侵略による戦争でもたらされた被害と責任について日本側がどう認識しているかを、この表現は端的に示していた。だから首脳会談では、これをめぐって激しい議論が交わされてきたのである。

 毛主席のこの問いに大平外相が答えた。「これは、中国側の意見に従って改め、解決しました」

 確かに中日双方の激しい議論の末、九月二十九日発表された『共同声明』では、「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国人民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記されたのだった。日本側が「添了麻煩」という表現をやめ、中国側の主張に歩み寄ったことは明らかだ。

 二階堂長官は、「政治的な話はなかった」と言ったが、これこそまさに政治的なやりとりだった。

 だが、二階堂長官の苦労も察してあげなければならないだろう。この時点では、双方の意見は大筋で合意に達したものの、『共同声明』の文言をめぐって最終的な詰めの作業がまだ続いていた。それが随行記者団に漏れれば、思わぬ結果を引き起こすかもしれない、と心配したに違いない。

 一時間に及ぶ会見は、和やかな雰囲気のうちに終わりに近づいた。

 毛主席は、書棚の中から糸とじ本の『楚辞集注』六巻を取ってくるよう服務員に言いつけ、立ち上がってそれを田中首相に手渡した。『楚辞集注』は、楚の宰相であり詩人でもあった屈原らの辞賦を集めた『楚辞』に、南宋の学者、朱熹が注釈を付けたものである。

 なぜ『楚辞集注』を贈ったのか。さまざまな憶測が流れた。「屈原に引っかけて、国民の利益のため決然として訪中した田中首相の愛国心を称えたのだ」という見方もあった。真相はよくわからない。しかし「主席はこの本が大好きだったからに違いありません」と王さんはみている。

 毛主席は、田中首相が強く固辞したにもかかわらず、書斎から玄関まで一行を見送りに出た。毛主席の足取りは速く、遅れまいと、林さんは小走りについて行ったという。

 こうして「歴史的な会見」は終わった。


 原点に帰れ

 あれから三十年。中国と日本はそれぞれ発展し、中日関係も貿易や人の往来の面で飛躍的な伸びを見せた。しかし、教科書問題や歴史認識、靖国神社への首相の参拝などで、中日関係に波風が立っている。

 「歴史的会見」に同席した王さんと林さんは、いま、何を考え、どんな教訓を引き出しているだろうか。

 王さんはこう言う。「中日両国はどんなことがあっても戦争してはいけない。戦争で被害を受けたのは両国の人民であり、ごく少数の日本軍国主義者とは区別すべきだ。歴史を過去のものにし、前に向かって進む必要がある。そのためには、日本は過去の侵略の歴史を承認し、反省する。そこに『中日共同声明』の原点がある。教科書問題などが起こるたびに『原点に帰れ』と私は思う」

 林さんはこう言う。「周総理は、『飲水不忘掘井人』と言われた。今日の中日関係を考えるとき、その井戸を掘った人たちの苦労を忘れてはいけない。国交正常化に到るまでも、民間交流が大きな役割を果たした。民間大使と言われた西園寺公一先生は、国交正常化が実現するまで禁煙を続け、『共同声明』が発表されてからタバコに火をつけて、おいしそうに一服吸った。国交正常化という仕事は、容易ではなかったのです」

 筆者略歴
  1941年9月、東京生まれ、朝日新聞北京支局長、論説委員を経て現在、『人民中国』編集顧問

 林麗ウンさん
 1933年3月、台湾・台中生まれ、40年から52年まで、日本・神戸の小、中、高校で学び、神戸中華同文学校の教員となる。52年に中国に帰国し、北京大学で生物学を学ぶ。53年から中連部に勤務し、局長となる。全国人民代表大会常務委員を五期つとめた後、現在、中国共産党中央委員、中華全国帰国華僑連合会副主席、中国国際文化交流センター副理事長。

 王效賢さん
 1930年6月、河北省生まれ。北京大学で日本語を学び、53年から外交学会、71年から外務省勤務。外務省日本課長を経て83年から86年まで、駐日中国大使館に勤務。86年から中日友好協会副会長兼秘書長、中国人民対外友好協会副会長をつとめ、現在は中日友好協会副会長、政治協商会議全国委員。


(私論.私見) 【毛沢東が角栄に「楚辞集注」を贈る、その心情考】

 ここに一つの逸話がある。角栄は首相就任時に「決断と実行」を掲げ、その言葉通り日中国交回復交渉に取り組み北京へと飛んだ。道中の剣呑さをも見事こなして堂々と帰国したのは衆知の通りである。ところで、ここで見落としてはならないエピソードがあるので以下記す。

 角栄は、この時毛沢東主席と会談した際に、自筆の墨書き4行詩で「国交途絶 幾星霜、修好再開 秋将到、隣人眼温吾 人迎、北京空晴 秋気深」(国交が絶えて久しかったが今国交回復の機が到来した。中国人民の眼は温かく、北京の空は晴れ秋の香りがする)としたためた漢詩調の詩文を毛主席に手渡している。毛主席が会談の別れ際に直接、そのお返しにくれたのが、詩経とならぶ中国の詩文の古典「楚辞集注」(「屈原詩註・4冊」)であった。

 世上、この毛沢東の田中角栄に対する「楚辞集注」プレゼントの意味を様々に解釈している。れんだいこを得心させるものは無い。れんだいこは、毛主席が「楚辞集注」を渡した寓意を次のように解く。

 当時の角栄は首相就任直後の飛ぶ鳥をも落とす勢いの頃である。日中国交回復は日中共に利益のあることであったが、それを纏め上げることにはかなり難易度の高い外交問題が胚胎しており、日本側の田中−大平コンビ、中国側の毛−周コンビでなければ到底解決し得なかった。せいぜい先送りの糸口を作った程度で物別れに終わるのが関の山であったであろう。それを、譲るべきところは譲り引かざるところは引かず、ものの見事に纏め上げた角栄の手腕は剋目すべきものであった。毛主席はそれらのことを踏まえた上で、角栄の尋常ならざる有能性を見抜き、最大級のもてなしを意味する会見の場を設けた。その場で渡されたのが「楚辞集注」であった。

 「屈原というのは中国楚の時代の辺境県に頭角を著していた詩人であるが、君主に経綸を奏上して容れられず、讒言によって官位を追われ、その不遇を訴えるかの如くに入水して果てた人物」である。これをもう少し詳しく見れば次のように伝えられている。

 概要「屈原は正直で神経質な性格であり、国を憂いて度々、懐王に進言を行ったが、聞き入れられないばかりか、かえって疎んぜられるようになってしまった。後に懐王は秦の張儀に騙され虜囚となり、新しく頃襄王が立ったが、屈原はこの王にも疎んじられ、追放されてしまう。屈原は放浪の旅を続けた後、国家を将来を案じながら、汨羅江の淵に身を投げた。5月5日の端午の節句にちまきを食べる風習があるが、5月5日は屈原を偲んでの事始めとなっていると云われている。つまり、屈原が当時の民衆から支持されていたからこそこうした伝承が生まれたものと思われる」。

 これらは司馬遷の史記・屈原賈生列伝に記されているものであるが、このように屈原の生涯は党人といわれる君側の小人たちの嫉妬や讒言と君主の不明によって、追放の悲運に会い、山野水辺を放浪し、憂愁と憤懣のうちに入水自殺するという不遇なものであった。

 「楚辞」のそういう内容を踏まえれば、れんだいこが何を云いたいのかもはや明らかであろう。中国衰亡の危機を救った英傑毛沢東は、「英雄は英雄を知る」の心情によってか、角栄の本質的に見ての左派的気質、その上に立つ切れすぎる能力、それ故に政治的な立脚基盤の危うさを見て取っていたのではないのか。まさに角栄は「楚辞」文中の屈原であることを見抜いていたと思われる。そういう警句を込めて「楚辞集注」を贈ったと考えられる。

 毛沢東が観た角栄とはこの屈原像であり、その予感は奇しくも当たった。その後のロッキード事件に翻弄されていく角栄は屈原そのものだったのではなかろうか。毛沢東の慧眼を恐るべし、角栄の悲哀を知るべしではなかろうか。

 しかし、世の識者はれんだいこのように読み取らないようである。毛主席が角栄に「楚辞」を渡した意図について、日本の大手新聞社記者のコメントは、角栄が読み上げた漢詩を念頭に置いて、「漢字を連ねただけでは詩にならない。少し漢詩の作り方を勉強しなさい、という毛主席の皮肉を込めた返礼である」と書いて愚にもつかぬ論評をした者がいた。そういう風にしか受け止められなかった凡俗インテリ記者は、いくら勉強を重ねても事の機微が分からない輩でしかないことを自己暴露している。

 あるいは、「迷惑論争」で揺れた経緯を踏まえて、中国語の用法がふんだんに使用されている「楚辞」を贈ることにより中国的文意を知らせようとの配慮から贈られた、という解釈も為されている。そういう風にしか受け止められない評論士は、いくら勉強を重ねても事の機微が分からない輩でしかないことを自己暴露している。

 今後どんな新解釈が生まれようとも、れんだいこ的「角栄の本質的左派政治に注目し、屈原になぞらえた毛沢東の慧眼」を見ようとしない論評は的から外れることになろう。

 2004.7.10日再編集 れんだいこ拝

【楚辞について】
 楚辞について「『楚辞』〜中華文明の黎明期〜」(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/soji.html)が参考になるのでこれを転載する。
 楚辞は、詩経(前9-7世紀の詩)に次ぐ前4-2世紀の詩文集であり、次のように評価されている。始皇帝による中国全土の統一以前の代表的詩集が『詩経』と『楚辞』であり、現在三千年以上経過して、そのメロディーは失われてしまったものの、その詩に盛り込まれた思想・哲学は、今日の中国人その影響を蒙った日本人の価値観や文化の基底を為すものである。

 『詩経』が古代中国の北部すなわち黄河流域で生まれた最初の文学であるのに対して、『楚辞』は約三百年遅れて南部の長江流域で生まれた文学である。『詩経』の成立後、諸子百家による思想や理論の散文、春秋左氏伝など歴史記録の散文が勃興し、詩歌は途絶えた状態にあった。それは当時の時代が詩歌に適さなかったためであるが、それを乗り越えて文学性の高い詩が生まれた。それがすなわち『楚辞』である。『楚辞』とは、楚の国の唱え言という意味であり、それは『詩経』のような節をつけて唱われた歌謡ではなく、朗読を目的とした韻文であったと言われる。

 楚の国は、春秋初期には文化程度の低い野蛮な国とされていたが、春秋中期には経済的にも文化的にも力をつけ春秋五覇に数えられるまでになった。『楚辞』は、この様な状況を基盤に、雄大な構想で激烈な感情を唱った楚特有の抒情的韻文として成立した。『楚辞』の重要な作者は屈原である。彼は楚の王族であり、重臣でもあった。当時の楚は、北方の秦に脅かされ、国家として非常に危険な状態にあった。屈原は正直で神経質な性格であり、国を憂いて度々、懐王に進言を行ったが、聞き入れられないばかりか、かえって疎んぜられるようになってしまった。後に懐王は秦の張儀に騙され虜囚となり、新しく頃襄王が立ったが、屈原はこの王にも疎んじられ、追放されてしまう。屈原は放浪の続けた後、国家を将来を案じながら、汨羅江の淵に身を投げたと伝えられている。これらは司馬遷の史記・屈原賈生列伝に伝えられるものであるが、このように屈原の生涯は党人といわれる君側の小人たちの嫉妬や讒言と君主の不明によって、追放の悲運に会い、山野水辺を放浪し、憂愁と憤懣のうちに入水自殺するという不遇なものであった。

 屈原の思想は、古代の聖天子のような英明な君主をいただき、優秀な人材を官僚として登用し、法の規範に則って政治を行うというものであった。ところが政争に敗れ、党人の讒言によって失脚し、放逐され、彼は楚の国の現状や王と側近に対して批判と怒りの念を強く抱いた。また、彼は自己の才能・業績については大きな自信を持ち、自分が受けた不当な処遇に対して憤懣を抑えかねていた。これらの批判・自信・憤懣の感情は強烈な個性となって詩に表出し、楚の文芸形態を体系化し『楚辞』という文学が成立したのである。

 『楚辞』は屈原だけの作品集ではなく、その一派や模倣者の作品も含むアンソロジー・総集であるが、中核をなすのは屈原の作品であり、彼をのぞいては『楚辞』の性格を考えられない。中でも「離騒」は傑作であり、中国における最も長編の抒情的叙事詩である。楚の国の運命を嘆く強烈な感情が全編の主軸であるが、前半と後半とでは色調が著しく異なる。前半には現実世界の描写や積極的な儒教主義の政治観などが強く主張されているが、後半には幻想的な神話の世界が展開されている。『詩経』など他の文学が静かな基調を特徴としている点からすればむしろ例外的に強烈な詩である。熱情的であり、またそうした激烈な感情を示すために、強烈な語彙が選択され用いられている。結局は幻想にも破れ楚の国の前途に失望することになる。いわば屈原の遺言的な作品である。

 「九歌」は神舞歌劇の脚本のような短型の歌詞十一編であり、これも屈原の作品と言われる。「天問」も屈原の作で百七十二の問いを設け、宇宙・人生に関する疑いを天に問うというものである。放浪中に廟で休息したおり、そこに天地山川や神霊の奇異な様子、古代の聖賢や怪物の行状を描いた壁画があり、それを見て浮かんだ疑問を壁に書き付けたものと伝えられる。いわば図讃の類であるが、そこからは屈原の博い知識や浪漫的な精神そして彼の思惟や主張をも知ることができる。「九章」は内容・形式ともに離騒と共通点も多く、離騒の小型版あるいは部分的なものと言える。しかし諸編に盛られた流浪の憂愁や絶望の念は離騒よりも深く濃い。希望が失われてしまった後の悲嘆のみが綴られている。上記三作に「遠遊」・「卜居」・「漁夫」を加えると、漢書の芸文志にある屈原賦二十五篇という数に合致する。しかし、今日、遠遊・卜居・漁夫は屈原の作とは考えられていない。他に「九弁」「招魂」「大招」「惜誓」「招隠士」などの作品が、王逸章句や朱子集注に挙げられているが、屈原作品の様な魂の叫びとも言える強烈な熱情を見ることはできない。特に惜誓や招隠士は漢代の作品である。

 このように『楚辞』は、屈原の作品だけでなく、ほぼ同時代の楚の文人や、屈原の後継者・模倣者である宋玉、景差の作品と、漢代の文人の模倣作によって構成される。これ以前の文学作品が、『詩経』の様に詠み人知らずの作品の集合であったのに対し、『楚辞』は特定個人の創作によるものである。つまり、作者の自我や思想・感情が、文学作品に表明され定着された最初のものと言うことができる。

 『詩経』の詩は、あくまで現実の生活に即したもので、空想的・幻想的な要素が無く、厳しい華北の現実生活の中に生まれた古代社会生活の規範を示した古典としての色彩が強いが、『楚辞』は南方の神話伝説の豊かな地方に生まれ、汚濁し不正の横行する現実を捨てて、天上をめぐるという様に極めて古代浪漫的な要素を持つ。また、詩としての形式面では、『詩経』が四言句を基本句型としていたのに対して、『楚辞』の基本句型は六言や七言と長く、豊かな抑揚を持った活発なリズムが生まれた。また「兮」などの助字が句中や句末に置かれて、口調を整え、同じ六言句や七言句にあっても句調・語調の変化を生み出した。こうした句型が、次の漢代の文学である賦などに継承され、後世に伝えられたといえる。

 さらに、長編の詩や連作も多く、詩人の雄大な構想力・創造力が充分に活かせる形式が保障されていたことも判る。また、表現技巧についても、現実と空想世界を織りまぜて表現したり、動植物や自然現象などを用いての比喩表現や擬人法表現、神話・伝説・史実などを豊富に引用していることなど、斬新なものも多い。

 『楚辞』が後代に与えた影響の大きさははかり知れないものがある。屈原のあと、宋玉らが、その跡を嗣いで『楚辞』を作ったが、彼らの時代になると、屈原の深刻な悩みや絶望の悲しみは無くなり、楚王の宮廷に仕え、遊戯的な要素が濃くなる。この傾向がやがて漢代の賦の文学の流行へと繋がる。それらの賦には、屈原の後を行く抒情を主とする作品も存在するが、装飾的な要素を盛り込んだだけの作品も多い。古今集の序文では賦を数え歌と翻訳しているが、漢代の賦には、様々なものを列挙してゆくだけの退屈なものも多い。

 また、屈原の作品に登場する香草や霊獣は、全てこれに託するところがあったのに対して、後の時代のものは単なる文字の羅列となっているものが多い。つまり、『楚辞』の形式は継承ものの、その精神については必ずしも継承していないものが多いと言えるのではないだろうか。

 屈原の存在を否定する見解もあるらしいが、中国では国家危急存亡の時、必ず屈原が回想され、彼の憂国熱情が人々を奮起させたという。それだけではなく、『楚辞』あるいは屈原の影響は以後の中国文学史の多くの時期に現れる。例えば、司馬遷・李白・杜甫・陸遊などにも屈原の影響が見られ、魯迅や郭沫若などの現代の諸作家にもその影響が及んでいる。日本でも端午の節句の粽など屈原縁の風習もあり、彼の悲劇的な生涯は多くの日本人の関心を集めている。しかし、これは源義経の悲劇的生涯が人々の同情を誘うといういわゆる判官贔屓と同種のものである。今後は屈原の文学性と社会性を両立させ相乗的に高めた作品についても注目しなければならないと思われる。なぜなら、屈原の詩の題材となっている様々な悲愁や非条理は、今日の日本の社会にも通じるものが多いからである。

 このように、中国の古代詩歌は、今日の中国文学や中国人の価値観の基底となっていることはもちろん、日本人の意識の根底においてもなんらかの影響をおよぼしているものである。この中国の古代詩歌を振り返ることの重要性を説明するには、「温故知新」という孔子の言葉を借りるまでもないであろう。





(私論.私見)