角栄と小泉対照比較論

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後歴代の首相の国民的人気度は角栄と小泉を双璧とするだろう。誰しもこれには異存有るまい。れんだいこは、ふと興味を覚え、この二人を比較対照してみたくなった。角栄と大平、角栄と福田、角栄と中曽根についてなら考察の意味もあろうが、「角栄と小泉論」なぞ思いもよらなかったが、比較対照してみねばならないと思うようになった。

 云える事は、「角栄と小泉論」は、「角栄と中曽根論」と同じ系譜になるだろうということと、中曽根の国民的人気の今ひとつさに比べて小泉人気の高さはナヘンにありや、という考察が為されねばならないということである。次に、ハタと気づいたことは、この二人は戦後日本の移り行くその時の姿を象徴する「時代の顔」足りえているのではなかろうか、ということである。戦後の廃墟から高度経済成長時代を写していた和顔の角栄、中曽根式国際的大国的責任論から始まる80年代から今日までの一連の売国時代を写している洋顔の小泉ということになろうか。

 その対比が面白く思うので、以下、この観点からの「角栄と小泉論」に向うことにする。恐らく、何から何まで違う二人の素顔が垣間見えるだろう。時代が見えてくるのではあるまいか。

 2005.9.13日 れんだいこ拝


【角栄と小泉対照比較論その1、作る角栄と壊す小泉】
 「角栄と小泉対照比較論その1」は「作る角栄と壊す小泉」にする。これは興味深い点で、角栄は自民党も国家も作る方に関心を持った。新潟は「餅つき出稼ぎ」で知られているが、角栄まさに「日本の餅つき」に向けて身を起こし各地に出かけた感がある。これに対し、小泉はどうだ。「自民党をぶっ潰す」という物騒なセリフで総裁選を駆け上がり、本当にぶっ潰し始めている。

 しかし、「解体あればこそ再建有り」という全共闘的論法も有る訳だから、「自民党をぶっ潰す」自体は批判されるべきではなかろう。問題は、その言葉が真に意味するものにこそある。多くの人は未だに、自民党という権力を壊し、官僚を壊し、国家を壊し云々という改革者イメージで小泉を捉えているのだろう。賢者は既にこれを「小泉マジック」と称しているが、更にその先を詮索しているようには見えない。

 よって、れんだいこが補足しておく。「小泉マジック」によって小泉が為そうとしているものは何か、これの詮索の方が肝心である。実は、小泉の「自民党をぶっ潰す」の真意は、自民党そのものを潰すというのではなく、自民党が依拠していた「ハト派とタカ派の世帯共同」式雑居性を破壊し、タカ派一色に塗り潰し染め上げるというところにあるように思われる。まさに名は体を表すで、「純一郎」なのである。

 ならば、国家的事業体の民営化の真意はナヘンなにあるのだろうか。これも又「日本式旧権力と国際金融資本の新権力の世帯共同」式雑居性破壊し、国際金融資本の新権力の旗の下に塗り潰し染め上げるというところにあるように思われる。まさに名は体を表すで、「純一郎」なのである。

 この問題の厄介さは、この「純一郎」の特異なサイコパス性が持て囃され、本人も取り巻きも当然の事ながら国際金融資本も国民も御輿(みこし)担ぎの熱狂の中に有るということであろう。疾風怒涛の空騒ぎの後に残ったものは、目ぼしい企業がハゲタカファンドに掴まえられており、稼げども稼げども追いつく貧乏神に苦しめられる重税国家日本、そういう中で世界に出稼ぎする自衛隊、東京都心部は既に国際的にして植民地的雰囲気、その中に日本売りのエコノミスト大和撫子と男娼が芸者風に宴席勤めしてはしゃぎ廻っているという寒々とした風景ではなかろうか。

 これが、れんだいこの眼に映じてくる「明日の日本」である。まことに「明日の日本」論者の頭脳とは、この程度の青写真に芯から相槌打てる程度のものでしかない。その気になってマスコミに登場する評論士の知性を観察すればよい。どれも間抜けな顔している奴ばかりではある。こういう手合いが道徳説教と財テクを語る時代になった。悲しむべしというよりも傷ましい。

 ところで、建設と破壊のどちらが容易だろうか、云うまでも無かろう。この理屈が分からないほどに脳軟化させられているのが「戦後60年の日本」の姿ではなかろうか。「縁の下の力持ち」という言葉も死語になりつつある。新たに「札束小脇に知ったかぶりで食い散らすグルメ講釈士」という手合いが勢揃いして跋扈しそうな気配である。

 角栄については云い足りなかったが、とりあえず以上を確認しておく。

 2005.9.15日 れんだいこ拝







(私論.私見)