45212 上京時代

 (最新見直し2005.6.23日)

 尋常高等小学校卒の学歴しか持たない角栄の上京。その徒手空拳時代の「裸一貫」の生き様を見よ

 2005.1.14日 れんだいこ拝

1934(昭和9)年、角栄16歳
3.26日 ◎理研コンツェル創始者・大河内正敏子爵を頼って上京。井上工業東京支店を訪ね、吉田支店長のお世話で神田旅籠町の旅館に一泊する。
3.27日 ◎一泊後の翌日、大河内邸を訪ねるが住込人に門前払いをくらう。子爵に面会できず、書生になる夢を捨てる。
3.27日 ◎その後井上工業東京支店を訪ね、支店長に「私は学校に行くため上京したので、このまま故郷に引き返すわけには行かない。ここに置いて使ってもらえませんか」と頼み込み、田中の必死の面持ちに支店長頷く。
◎日本橋の土建会社・井上工業東京支店に住み込み、夜は神田猿楽町の私立中央工学校土木課に通う生活をスタートさせる。大河内邸の書生となって中学に編入して貰うつもりだった予定の変更であったが、朝5時から夕5時まで工事現場で働いた後自転車の飛び乗って学校へ通うことになった。
◎「かんかん照りの太陽の下でも、どしゃ降りの中でも、労働に対して苦痛を感じなかった」、「土用の最中の田の草取りや、長い吹雪の冬に耐えて、一言の愚痴さえ言わぬ故郷の母を思えば、この程度のことはなんのことはないのである」と記している。
◎この時二つ年上の先輩小僧として入内島金一氏がいた。入内島氏は新宿の工学院(今の工学院大学)土木科に通っていたが、この入内島と生涯の「竹馬の友」となる。その入内島の角栄評は「目から鼻に抜ける利発さがあった。労働はきつく、賃金は安かったが、愚痴は言わなかった」。
ある時、角栄と入内島二人で小舟から倉庫までの瓦運びをしたことがあった。揺れる踏み板をあぶなっかしく渡っている時、「おーい、若いの、腰だ、腰だ」と怒鳴られ、云われた通りに腰を使うとうまく運べた。この言葉が終生耳に焼きつくことになり、「人生は小手先ではなく腰使いに妙がある」ことを学ぶことになった。
夏頃 ◎ある時の仕事でスレート工事を手伝っていたが、その時のいざこざで井上工業を止める。
◎「保険評論」という雑誌を発行していた小山哲四郎氏の求人募集新聞広告を見て面接、採用された。ここに住み込み、保険の実務や理論について勉強した。この間土木学校へはきちんと通っている。
◎小山事務所に勤めて半年経った頃、故郷の母フメの体の具合が悪いことを知らされ、「あまりものをいわず、じっと運命に耐えているような母が自ら病気だとしらせてきたのだから争闘重いに違いない」と思い5、6日の暇を申し出たが断わられ、退職して帰郷。故郷に戻ってきた角栄を見て母は元気になった。再び上京。
◎高砂商会(五味原松太郎社長)という貿易商会社に就職。スチールウール研磨材や高級カット・グラス製品などの取り扱い卸商であった。日本橋の高島屋への配達を手がけた。ここで角栄は可愛がられている様子である。
◎高砂商会に世話になってから3、4ヵ月目の頃、角栄は故郷に帰ったことがあり、この折母親フメに、海軍軍人に憧れていると進路を相談している。フメは、「お前は自分の将来をしっかり自分で決めるだけの能力を持っていると思う。私のことは案じないで、わが道を進みなさい。私はお前の言うことは何でも信用している」との答えをもらったと伝えられている。
◎その後円満退社し、海軍兵学校の受験目指して猛勉強する。「巡洋艦の艦長が望まれる最高の夢であった」と記している。身体検査を受け、身長5尺4寸1分(約164cm)・体重16貫3百匁(もんめ・約61kg)で身体検査合格した。ところがこの時母発病の知らせが届き、学科試験の受験を断念する。
1935(昭和10)年、角栄17歳
◎この頃、研数学館、正則英語学校、錦城商業学校などへ次々通い、本人の弁によると「洪水がほとばしるような勢い」で勉強した。
1936(昭和11)年、角栄18歳
3.24 ◎中央工学校土木科を卒業。
◎土木学校での勉学振りが認められ、中村勇吉氏に設計技術者として抱えられる。中村事務所は、偶然にも幸運なことに小河内理化学研究所の仕事をしていた。この時小河内社長に見出される。運命の不思議さであった。「その頃から、目に見えない糸に結ばれた大河内先生と私との、この世における深いつながりはいよいよ現実のものとなって展開してゆくのである」と記している。当時の理研は、科学者・技術者・実業人としての大河内氏を筆頭にサイクロトンの仁科芳雄博士、ビタミンの鈴木梅太郎(農博)、鋼鉄の本多光太郎、原子物理学の長岡半太郎、医学の武見太郎という錚々たる博士を擁して隆運気にあった頃であった。
◎社長の中村氏が突然応召になったり、同僚の泥酔死等が重なり退社する。
1937(昭和12)年、角栄19歳
3.1 ◎共栄建築事務所を開設、独立。当初は墨田区にあった日本特殊機械の新工場や機会の据付工事を受注していたが、再び偶然が重なり大河内氏の肝いりとなり、理研関係の建築設計を次々請け負い、采配に能力を振るうことになった。新潟県にも小千谷、宮内、柿崎、白根、柏崎に理研の工場があり、駆けずり回る日々となった。
◎いつの間にか、月収が、月によっては500円にもなった、とある。雇われでいたら50円の頃である。かなり難しい仕事を引き受け、徹夜の連続で「真正面から取り組んだ」結果であった。
◎この時の角栄の猛烈な仕事振りと率先垂範の働きぶり、社員との車座での宴会等の様子が伝えられている。
1938(昭和13)年、角栄20歳
◎角栄は20歳の頃、荒船清十郎氏(代議士)の元へ材木買い付けに行ったことがある。「えらく算術が早かったな、山のような材木の金額を暗算でパッと出してしまう。(商売が終わると天下国家を論じ)普通の20歳の青年とはどこか違っておって、将来政治をやれば総理に、金儲けをやらせれば三井、三菱くれえの大物になると睨んだものだ」。
◎(この頃の逸話)角栄が若い頃、恋人とテートすることになった。果物屋の前で待ち合わせしたが、恋人は来なかった。30分まつことにしたが来なかった。角栄は帰り支度に入った。30分を1分過ぎた頃、向こうから彼女らしい姿が見えた。角栄はさっとタクシーを拾って帰った。




(私論.私見)