45214 代議士模索時代

 (最新見直し2005.6.23日)

1941(昭和16) 年、角栄23歳
◎兵役解除、病気回復した角栄は、大正元年生まれで角栄より6歳年長のかって一緒に仕事をしていた中西を訪ねた。中西は、中島飛行機や早稲田大学の仕事を請け負っていたが、その仕事の一部を廻してくれた。
10.8 ◎中西の紹介で飯田橋にあった建築業者坂本氏の家の一部を借り受け、田中建築事務所を開設。理研との仕事を復活させた。この時家主の坂本家には娘はながいた。はなと運命の出会いをしたことになった。

◇理化学研究所とは

 1917(大正6)年、渋沢栄一氏ら財界人の提唱で「総合科学研究所」の機運が高まり、政府や皇室、産業界の支援を受けて東京・駒込に設立された。当初は土星型原子モデルで有名な長岡半太郎、当時の世界最強磁石「KS鋼」を発明した本多光太郎、ビタミンB1を分離した鈴木梅太郎の3氏が在籍し、「理研の三太郎」と呼ばれた。ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎両氏も理研で研究の礎を築いた。

 昭和初期から終戦にかけては理研の発明を工業化するさまざまな事業体(通称、理研コンツェルン)があり、産業基盤の強化に寄与した。製品はエンジンのピストンから感光紙、飛行機用部品、ウイスキーに及び、「理研」の名は一般にもなじみが深かった。OA機器メーカー「リコー」などこの企業群にルーツを持つ会社は現在もある。

 敗戦で理研コンツェルンはGHQにより解体された。また原子核物理学者の仁科芳雄氏が開発した円型加速器「サイクロトロン」はGHQから軍事研究の嫌疑を受け、東京湾に沈められるという事件もあった。

 戦後、理化学研究所法の施行により特殊法人化され、施設は埼玉県和光市に移った。現在の理研は脳科学や遺伝子解析、発生・再生学、放射線の高度利用などの先端分野に力を入れる。研究拠点は国内に計7カ所あり、研究スタッフは約2000人に上る。「横浜研究所」(横浜市鶴見区)は、日本有数の「ゲノム研究拠点」として国内外に知られる。日本原子力研究所と共同で兵庫県内に建設した大型放射光施設「SPring―8」は、和歌山市・毒物カレー事件の亜ヒ酸の鑑定に使われ、注目を浴びた。

12.8 【太平洋戦争始まる】真珠湾攻撃とともに第二次世界大戦に突入。
1942(昭和17) 年、角栄24歳
3.3 ◎家主の娘坂本はなと結婚。はなは当時31歳、8歳の年上で離婚歴と9歳になる女の子の連れ子がいた。角栄は、はなさんのつつましやかな挙動と、内に秘められた芯の強さに惚れた。このはなが糟糠の妻となる。結婚時、次のような「三つの誓い」をさせられた、と伝えられている。この約束が角栄とはなとの夫婦の契りとなった。
 概要「一つ、出て行けと云わぬこと。二つ、足蹴にしないこと。三つ、将来田中が二重橋を渡るときは彼女を同伴すること。その三つを守ってくださるなら、それ以外のことについては、どんなつらいことにも、耐えてついていきます」。
11月 ◎長男正法誕生。
1943(昭和18) 年、角栄25歳
12.1 ◎坂本組の業務も引継ぎ、田中土建工業株式会社を設立。妻の実家の坂本組を改組しての出発となった。
◎「おれのように若い社長がふんぞりかえっていては従業員がついてくる訳が無い」と、「社員と一緒になって資材を運んだり、徹夜で設計図を書き上げたりしていた。仕事の面だけではなく、ヤミ酒を手に入れ、社員と一緒になって車座で飲んだりもしていた。分け隔てのない経営者だったから、社員は兄貴といった感じでついていったよ」(中西正光)
◎「なにしろ、活気がありました。私は三井物産系の会社からスカウトされた形で、田中土建に入ったのですが、田中社長から何度もどなられました。社長自ら材木かついで働くのですから、大会社にいた私などはベースが合わずにとまどったものです」(この頃の社員小林凡平談話)。
◎軍関係の工事などを受け日曜祭日もない忙しさとなる。理研にも食い込んだ。理研幹部星野一也らが窓口となった。田中土建は急成長し、1943(昭和18)年の年間工事実績で全国50社に数えられるようになる。
◎顧問に満鉄の副総裁を務めた人物を戴いた関係から「政界きっての寝業師」と云われていた大麻唯男との交際が始まる。
1944(昭和19) 年、角栄26歳
1.4 長女真紀子誕生
暮れ ◎陸軍航空本部が理研工業の内地施設を満州や朝鮮に移すよう軍令を出し、田中が王子神谷町の工場施設一切の移設工事を引き受ける。総工費2400万(現在で約100億円)の大工事となった。軍の命令で興銀が着手金を支払う。
1945(昭和20) 年、角栄27歳
2月 ◎理研の工事を請け負った角栄は、幹部5名を引き連れて韓国に渡る。
8月 【ソ連軍が国境を越えて進入】
8.15 【終戦】満鮮国境近くまで木材買い付けなどに飛び歩き、工事に取り掛かったところで終戦となった。概要「工事費2400万円のうち、約1500万円送ったところで終戦になった。現地採用の社員百余人を広場に集めて、現地の全財産、資材を「新生朝鮮に寄付すると宣言して、引き上げ準備に入った」。これによれば、900万円を手元に残したことになる。
8.18 ◎汽車でプサンに向かう。概要「帰国直前の混乱の中、田中は直前に軍票を現金に換え、その大金を手に帰国したはずだ」(理研幹部星野一也)とあり、莫大な金を手にして帰国したことになる。
8.20 ◎朝鮮・太田市から引き上げ。角栄一行7名は、プサン−舞鶴連絡線に運良く乗り合わせ出来帰国。「角栄」が「菊栄」と読み間違えられ、女子供優先にあやかったと伝えられている。予定を変更して青森港に着いている。
8.25 ◎青森から汽車で東京に向かう。一面焼け野原の東京に佇む。幸いなことに飯田橋にあった事務所や住宅は無傷で残っていた。角栄は、この時の思いを次のように記している。
 「(その運の強さに驚き)私は、それもこれも神様の思し召しと思いながらも、世の中のために、私のなしうる何かをしなければならないと、心の奥で激しく感じた」(私の履歴書)。


1945(昭和20) 年、角栄27歳
 この頃の逸話と思われる。荒船清十郎(後の自民党代議士、衆院予算委員長)が、30歳代で埼玉県議会の議長を務め、県下一、二の山林地主として羽振りを利かせていた頃、ある日、若いくせにチョビヒゲをはやし、騎兵のような長靴をはいた男が「木を売ってくれ」と訪ねてきた。「売ってくれって、どれほど欲しいんだい」と尋ねると、「お前さんが持っている山の木全部だ」と云う。秩父で一軒しかなかった牛ナベ屋に一升瓶を持ち込んで一杯やり始めた。頃合に抜け出し、警察電話を使って新潟の警察に身元照会したら、「若いけれど仕事は出来る男で、信用してよろしい」という返事だった。そこで商談に入り杉と檜を売った。田中は切り出される木を見て、一目で見分け、良質の檜はどこ、杉はどことたちどころに送り先を決めて指示していた。その采配振りを見て、「こいつはただの山師では終わらん男だ」と舌を巻いた。角さんは俺の山で一儲けしたので、以来俺に一席設ける費用は全部あちら持ちにしてもらうことになった云々。
10.9 【幣原喜重郎内閣発足】
11月 ◎理研の大河内正敏社長の紹介で以前から会社の顧問になってもらっていた進歩党顧問で町田忠治の側近だった大麻唯男と新橋の料亭・秀花で会う。大麻は、東条英機内閣の国務大臣を経験しており、政界の「寝業師」と呼ばれていた策士型の政治家で、町田忠治を担いで進歩党の根回し役をしていた。

 「12.31日に、占領軍の命令で衆議院が解散になる。そこで、新たに進歩党を結成した。総裁には、一番早く300万円の資金を調達した者がなる約束だ。自分は町田忠治を押している。ついては、300万円献金してくれないか」。このように資金提供を申し出られ、「その三百万円、全部出させていただきましょう」と300万円(現在の20億円相当)を献金している。「頼まれれば、越後人はどこへでも米搗きに出向く」情があった。
12.18 【衆議院解散】この時角栄は、大麻から進歩党公認候補としての立候補を要請され、同意する。「あんたは、資金を出して政治家を助けるよりは、ぜひ自分で政治家になんなさい。政治家に向いとる」。以後選挙運動を始める。「15万円出して、黙ってお御輿に乗っていれば当選」と口説かれ出馬することになったと伝えられている。

 この時、政界の寝業師として鳴っていた大麻は、九州弁で次のように口説いたと伝えられている。
 「あたしはね、田中しやん、あーたに惚れた。頭は切れる。実行力もある。こういうしぇい年(青年)こそ、今の日本は求めておるのだ。しかるに、我が党はなかなかよい候補者がおらん。あーたは前にあたしを助けてくれたが、今度はしぇい年として、何とか国家の再建に力を貸してもらえんものか。ぜひ、立候補してくれましぇんか。君は15万円だけ出して、一ヶ月間黙ってお御輿に乗っておるだけでよろしい。あたしが当選をうけおいましゅ」。
1946(昭和21年) 年、角栄28歳
1月 ◎田中土建工業新潟支店を柏崎に開設、選挙準備を本格化。「田中は若いのにヒゲを立てて、東京と柏崎を頻繁に往復していた。地元の知り合いを中心に、10人ぐらいの陣容だった」(新潟支店に勤めた山田栄)。
3.14 進歩党公認で立候補。定員8名のところ37人の乱立となる。この時新潟鉄工から本間幸一氏が田中の秘書として移ってきている。二田小学校の恩師草間先生も応援に駆けつけている。

 この時、大麻の紹介で選挙参謀を依頼していた塚田十一郎氏が、角栄と同じ選挙区から自由党公認候補として出馬し、裏切られることになった。政界の権謀術数、一寸先は闇を地で行く寝耳に水の事態出来であった。

 
演題は「若き血の叫び」。「自壊一歩手前の祖国を、民主主義精神によって生かす政治家の政策綱領は、空念仏やお題目であってはいけないッ」で始まり、「若い私の命を賭けた実行力を信じてください!」で結ぶ演説をしていた。最初の立会演説会は野次にあって立ち往生させられている。「立会演説会で、『オレはちゃんとした教育がない。どうしたら政治の勉強ができるだろうか』と聞かれた。反対党の私に質問する太っ腹というのか、バイタリティーの塊みたいだった」(一緒に立候補していた猪俣浩三)。
◎この時、選挙活動の途次で佐藤昭と運命的な出会いをしている。佐藤昭から応援弁士の紹介を得ている。

◎この時、戦前の衆議院議員、貴族院議員を務めた立志伝中の人物高鳥順作に挨拶回りをしている。角栄の次のような述懐が残されている。
 「初選挙のとき、俺は、きみ(高鳥修)の実家まで行った。かって民政党代義士であったきみの祖父に、郷里の先輩ということで支援を頼んだんだ。その時、きみのおじいさんかに励まされたことを忘れないよ。『しっかり頑張れ』と云われ、その選挙では1万数千票、きみのじいさんの力でもらえたんだ。結局、その時は落選したが、その時の印象が、いつまでも残っていて忘れられないよ。なにしろ、海のものとも山のものともわからぬおれを、助けてくれたんだからな」。

 高鳥修は、この時のことを祖父から次のように聞かされている。
 「田中角栄という若いのが、挨拶にきたけど、あれは、なかなか覇気のある見どころのある男だ。今度の一回目の選挙では、駄目かも知らんが、次からは間違いなく当選する。将来ひとかどのものになるだろう。よく見ておくといい」。
4.10 【第22回衆議員総選挙】角栄は、得票3万4600票の11位の次点で落選。塚田十一郎氏は5万8812票で4位当選。生涯でたった一度の不覚となったが、支持者の前で、次のような落選の弁を述べている。
 「自分の力が足りませんでした。不徳の致すところでありますが、次の選挙では捲土重来を期すつもりであります」。

 
敗因は、佐藤三千三郎候補も理研をバックにしていた為、票が割れたこと、御輿を担ぐはずであった参謀役の塚田や地区責任者の吉沢、吉田らが、運動資金を手にすると自ら立候補し、角栄組織が分裂した。肝心の選挙参謀がこのていたらくで苦労することになった。

 角栄は、落選はしたがこの選挙で多くの知己を得た。「まったくよい勉強になった」とこの落選を振り返っている。次のような言葉も残している。
 「そこでやめておればね、政治家にならないで済んだよ。ところが、もうやめられない訳だ、そうなりゃね。---これは孤軍奮闘ですな」。
 「今考えると、この時が私の人生の岐路でもあった。踏みとどまりえたとすれば、私も普通の社会人であり、そして平和な家庭人になっていたであろうことは、確かで、かすかであるが、悔やまれることもある」(「私の履歴書」)
5.22 【第一次吉田内閣成立】
秋頃  大下英治著「*友・小佐野賢治の昭和戦国史」(講談社)では、この頃、正木亮弁護士の紹介で、角栄と小佐野賢治が出会っている。二人が飯田橋の田中土建事務所を訪れた、と云う。この時、正木は次のように述べている。
 「小佐野さんは実業家として、田中さんは政治家として、ともに一筋の道を進みなさい。お互い同じ境遇だから、丁度いい。手を繋いで、仲良くやりなさい」。
11.3 【日本国憲法公布】施行は翌年5.3日。
1947(昭和22) 年、角栄29歳
3.31 【衆議院解散】第一次吉田内閣は、「憲法内容を民意に問う必要がある」とのGHQの意向を受けて衆議院を解散し、総選挙となった。

この時角栄は果然、進歩党が改組した民主党公認で立候補した。新潟3区で出馬したが5議席に11人が立った。前回の教訓から「選挙は人任せでは駄目だ」として自前占拠に乗り出し、柏崎と長岡に田中土建の出張所を設け、100人近い社員を採用し稼動させている。いわば選挙の組織化、事業化発想であった。

 後の国家老秘書・本間幸一は、この時の事を次のよう回顧している。
 「本当に一升ビンをぶらさげて、部落を回り、集会の席では一人一人に酒をついで回った。肌で触れて、獲得した票が多い。こういう苦労を最近の若い代議士がやっているかどうか、心配になることもある」。
◎この時角栄は、「若さが誇る熱と意気にものをいわせ」一日9会場を駆けずり回り、全部で90余の言論戦をこなした。演題は「祖国愛に訴える。その際の演説の一節は次の通り。
 「この新井田と群馬にある三国峠を切り崩してしまう。そうすれば日本海の季節風は太平洋側に抜け、越後には雪が降らなくなる。みんなが大雪に苦しむことはなくなるのであります。ナニ、切り崩した土は日本海に持っていく。埋め立てて佐渡を陸続きにしてしまえば良いのであります」。
◎この時角栄は、「辺境の地」へ足を踏み入れることをいとわなかった様子が伝えられている。当時の選挙参謀の一人は次のように伝えている。
 「中心部は先輩政治家に押さえられ、とても田中が入り込む余地はなかった。田中に残っていたのは、南北魚沼などの山奥や沢づたいに点在する、僅かな戸数という『陸の孤島』がほとんどだったんだ。それでも、田中は『行けるところまで行くぞ』と、率先して山へ入っていきましたよ。それまで他の代議士が一度も入ったことのないような『陸の孤島』で、たった5、6人を前に熱弁をふるったことも多々ある。こうした田中の熱弁は、辺境の人たちの共感を得るには十分だった」。
◎この時、早稲田大学の大塚学生課長が、雄弁会の幹事長・新井明(後に、日本経済新聞社代表取締役社長、会長となる)氏に角栄の応援演説に向かうよう依頼している。その理由は次のようなものであった。
 「空襲の時、焼夷弾で校舎の屋根が焼けただろう。その補修を、田中さんが経営する田中土建にお願いした。インフレの最中だったが、田中さんは、契約価格を上げないでやってくれた。だから、田中さんは、早稲田大学にとって恩人なんだ。ぜひ頼む、応援してやってくれ」。
 「落選した田中角栄なる人物が再起を期して頑張っている。田中は土建会社を経営しているが、早稲田の復興の雨漏りを塞ぎ、授業再開に漕ぎ着けようと奮闘してくれている。しかも、このインフレにもかかわらず、管理費改定を求めず賢明の努力をしてくれている。早稲田大学として何とか彼の当選に協力してあげたい」(「政治記者の目と耳」)。

 戦後、早稲田大学の校舎は老朽化し、あるいは戦争中に焼夷弾で焼かれたりなどして、雨漏りで授業ができないほどだった。大学は業者に修理を依頼するが、どの業者も仕事を引き受けようとしなかった。何しろインフレがすごいので、資財の値上がりを待っていたほうが儲かった。そんなとき角栄の会社が契約通りの価格で仕事を請け負ってくれた。こうしたことがあったので角栄は信用され、その一部始終を見ていた大塚学生課長は田中角栄に恩義を感じていた。

 大塚学生課長の要請により、早稲田大学雄弁会が立ち上がった。こうして早稲田雄弁会の10名ほどの面々が三班に分かれて新潟三区を遊説して廻ることとなった。
4.25 新憲法下初の第23回衆議員総選挙角栄、初当選。定数5名中の3位当選で、3万9043票を獲得していた。「今までの保守系にあきたらず、革新には二の足を踏むような人が、みな田中に入れた。若いしバリバリしたやり手に新鮮な魅力を感じたのだろう」(後塩沢町の助役・長尾信二)。同期に中曽根康弘、鈴木善幸。衆院建設委員になる。

 この時社会党が大躍進し、第一党(143議席・片山哲委員長)になる。自由党が第二党(131議席・吉田茂)、民主党が第3党(124議席・芦田均)、国協党が第4党(29議席・三木武夫)、共産党が4議席となった。
5.3 【新憲法施行】
5.24 【社会党の片山哲を首班とする連立内閣(社会党・民主党・国協党)が誕生】

◎田中の所属していた民主党は、連立に傾く芦田・与党派と自由党と手を組もうとする幣原・野党派に分かれて抗争していた。党内は連立の芦田派が優勢であったが、田中は、この時幣原派に属している。
5月  後に角栄の女参謀となる佐藤昭と夫が上京。
7.10 衆院本会議に、初当選の新人ながら民主党を代表して初登壇、自由討議を行う。「議会政治のあり方」、「経済政策のあり方」、「戦後復興のあり方」を演題とする。
初夏 ◎6.2日に国際興業を発足させた小佐野賢治氏(後の社主)が顧問弁護士の正木亮を仲介人として角栄に会いにきた。この二人も運命的な出会いとなった。
 この頃、金満津の芸者・辻和子の旦那となる。
9.8 ◎長男正法死去(5才)
9.25 衆院本会議「自由討議」の場で、「中小企業振興対策」演説。
10月 ◎片山哲内閣は、炭鉱国家管理法案を成立させようとしたが、国会は紛糾した。この時田中は、「黒い石炭を赤くするな」と叫んでこの法案の成立に反対する急先鋒の役割を果たしている。
11.28 ◎炭鉱国管法案決議の際、幣原派は造反して反対票を投じ、民主党を脱党して僅か28名の「同士クラブ」を結成した。田中も移籍する(民主党の分裂)。幣原率いる同士クラブ28名は斎藤隆夫派らの無所属議員8名を加えて民主クラブを結成し、その後吉田茂が率いる日本自由党112名に合流、その他を加えて152名で民主自由党を結成していくことになった。この民主自由党が院内最大勢力となり政局を動かし始める。  
12.4 ◎国土計画委員会で、建設院設置法案の審議に参画。片山首相に「家を与えずして何が民主主義か!」と追及。
1948(昭和23) 年、角栄30歳
2.10 【片山内閣総辞職】(社会党左右両派の内紛が原因)。
3.10 【芦田内閣成立】社会・民主・国民共同3党の連立政権。
3.12 【民主クラブを結成】幣原率いる同士クラブ28名は斎藤隆夫派らの無所属議員8名を加えて36名で民主クラブを結成した。
◎一年生代議士の角栄が会計係を担当することになった。この頃、田中土建工業の業績はすこぶる順調で新潟、長岡、福島、九州の福岡へ支社を持ち、資本金も500万円に増え、都内でも三本の指に入る有望会社に成長していた。その資金能力が期待され、会計係になったものと思われる。
5月 【第一次保守合同】◎幣原率いる民主クラブ28名が、吉田茂が率いる日本自由党112名に合流、その他を加えて152名で民主自由党(総裁吉田茂、幹事長山崎猛)を結成。第一次保守合同と云われる。この時、民主クラブは日本自由党の僅か四分の一勢力でしかなかったが、吉田は対等合併の配慮を見せている。この民主自由党が大発展していくことになる。 

 この合流劇の背景には、「社会主義は終わった。これから先は通らない。先の読めるのは保守党だ」との判断が働いていたと伝えられている。
田中は、党選挙部長、県支部幹事長の役を引き受ける。田中は、異能異才を発揮し、選挙事情を網羅した全国選挙地図を作成している。議員の生年月日、学歴、家族構成、人脈、資金力、選挙区の人口構成、有権者数、支持率、その地区の産業構造、所得水準、選挙参謀の動きまで調べ上げていた。全国の選挙区の情報、情勢がインプットされたことになる。

 このデータ・ベースをもとに選挙戦略を定め、仲間の代議士に示唆していくのが大好評を博した。「選挙に経営の手法を取り入れたところが斬新だった」(三浦康之「頂きに立て!田中角栄とR・ニクソン)とある。
◎この頃、角栄が30万円入りの紙封筒を持って同期議員たちに挨拶回りしている。
10.7 【芦田内閣崩壊】後継首相を廻ってあひるの水かき始まる。
10.13 ◎10.10日、総務会が開かれ、GHQの筋書きによる山崎擁立に向けた議事が進行し吉田の総裁辞意表明が為されようとしていた。ところが、この時一年生議員田中角栄が「ちょっと待った。会長、発言を求めます」と立ち上がった。発言の認可を得た後、「私には、何としても解せません。もちろん、我が国は敗戦国だ。が、いかに敗戦国だろうと、筋が違う。いかに占領軍とはいえ、日本の総理大臣に誰がいかんなどというのは内政干渉では無いか。アメリカの内政干渉をやらせてはいけない。総裁である吉田首班で行くのが憲政の常道ではないかと私は思う」と主張した。続いて、「外交官である吉田総裁に聞きたいが、占領軍がこのような内政干渉をするのはいかがなものか」と述べ、吉田総裁の見解を仰ごうとした。

 ここから議論の流れが一変し、「吉田首班で行け!」、「GHQの遣り方は間違っている」という結論になった。この時よりGHQより睨まれることになった。
10.19 【民主自由党の少数単独政権で第二次吉田内閣成立】角栄は、この時法務省政務次官になる。議院歴1年余であった。これまでの数ある功績と「総務会発言」が認められての論功行賞的抜擢であった。

 吉田首相の「あのチョビひげを生やした若いのを、どこかの政務次官にはめ込むように。チョンガリ(浪曲)風の声からしてなかなか宜しい‐‐‐そう、その田中君をだ、どこかの政務次官に起用してくれたまえ」と時の副総理・林譲治に命じ、ツルの一声で決まったと云われている。こうして、弱冠29歳の角栄が法務政務次官に抜擢された。

 後日の判明で、幣原と池田セイヒン(池田成彬・三井財閥の大御所)の推薦もあったと伝えられている。「吉田茂は、小学校卒で土建屋上がりの田中が法律にめっぽう詳しいのに感心して、一年生議員をいきなり法務政務次官に抜擢したと云われている」(田原「使える男・角栄誕生」)
11.27 ◎田中土建工業を取り仕切っていた「刎頚の友」入内島金一が逮捕された。
12.13 次官就任後二ヶ月足らずで、炭鉱国管疑獄事件で業者から100万円(現在の4千万円相当)受け取った疑いで、他の2名の代議士と共に逮捕される。

 GHQの差し金説もある。片山内閣が炭鉱国有化を狙って提出した臨時石炭管理法案を廻って議会は紛糾。田中はこの法案に反対する急先鋒となったのはいいが、業者から百万円を収賄した容疑をかけられ逮捕された。しかし、田中は百万円の受領事実は認めたものの、賄賂としてのそれではなく工事請負代金として受け取ったと主張し争った。逮捕前の弁として「心境は悠々たり、天地のごとしだ。容疑の点には反証があり、業者からの小切手、百万円は事業の金だ」。弁護士正木亮氏も動き、後無罪となる。
11.28 法務政務次官を辞任
12.22 角栄、収賄罪で起訴される
12.23 【衆院解散】角栄は、総選挙告示と同時に小菅刑務所から獄中立候補。秘書の曳田照治が立候補届を出す。「ギカイ カイサンス タノム タナカカクエイ」の電報を主な後援者に届けた。
1949(昭和24) 年、角栄31歳
1.13 ◎選挙戦最中の投票日まで残り10日のこの日保釈となり、秘書の曳田と二人で選挙区へ向かう。この時、田中土建工業の経営が悪化していた。信濃川の護岸工事を請け負っていたが、インフレで資材が値上がりし、土木作業員への給金も支払えないほど経理が窮迫していた。役員の一人であった入内島氏より、概要「金は全てはたいても30万円しかない。これで選挙はできるだろうが、使ってしまうと田中土建は潰れる。選挙を取るのか、田中土建を取るのか」と迫られている。田中は、政治の世界を選んだ。

 この時の角栄の様子が次のように伝えられている。
 「田中は小菅から出たばかりで6日町に来た。ゼニなんか何もない。スッポンポンの丸裸なんだ。身銭出し合って田中にやったら、涙流さんばかりに喜んでいた」(改良区理事長・関美宗)。
 「何しろ、角さんは小菅から出たばかりで、ゼニも何もない。金権どころではない。だから支持者たちが身銭を切って選挙資金を作った。角さんは涙を流して喜び、感謝した。『アンタたちは、本当にオレの心の同志だ』と、一人一人拝むようにして、両手で握手した」(新潟日報記者・石塚英一の後日談)。
 「田中は雪の中を石打から5日町まで、一日かけて歩いて街頭演説ぶってきた。さすがにヘトヘトになって駅前の旅館にのめりこむように倒れた。すごい気迫だった」(土建業・井口慶吉)。

 増田氏の「伝説の角栄」は次のように記している。
 「『あの時の選挙ぐらい苦しい選挙はなかった』と後年、田中はわれわれ番記者に述懐している」。

 この時、吹雪の中を可能な限り駆け回った。小千谷の立会演説会の時には吹雪で上越線が不通となった。角栄は他の候補者が思いとどまる中を鉄橋伝いに片貝町まで足を運び、演説会場へ向かった逸話が伝えられている。なお、この時会場の雰囲気に合わせて、浪花節をうなり、それが受けに受けたとも伝えられている。
1.23 【第24回総選挙】角栄は得票数4万2536票を獲得し2位当選。逆境の選挙であったにも関わらず順位も獲得投票数も上げたことになる。

 この選挙後、官僚出身者と党人を混交させたいわゆる吉田学校が急速に勢力を増していくことになる。池田隼人や佐藤栄作氏が初当選。田中は政界2年ほどのこの頃連絡将校のような働きを見せていくことになる。この選挙で、新潟4区から田中彰治が当選。以降『爆弾男』の異名をとる議員活動に向かう。

◎建設委員、決算委員を務める。
2.16 【2.11日、第二次吉田内閣が総辞職】、【2.16日、第三次吉田内閣が組閣】この時池田隼人蔵相、増田甲子七を官房長官に抜擢した。民主党連立派から2名入閣。単独政権の基礎を築くことに成功した。

 池田隼人は47年に石橋湛山蔵相の抜擢で大蔵省主税局長から事務次官に抜擢され、このたびの選挙で初当選したが、いきなり蔵相に抜擢されたことになる。
これには田中角栄、吉田の娘婿浅生太賀吉、根本龍太郎の「池田さんこそ、適任ではないでしょうか」の後押しがあったことが判明している。池田は認証式のあと「政界に出て、一番最初に狩を受けたのは、きみだ。君への感謝は忘れない」
と角栄に言ったことが伝えられている。

 この時より官僚政治家の登場となる。主なメンバーは、池田隼人(大蔵次官).佐藤栄作(運輸次官)、岡崎勝男(外相次官)、増田甲子七(北海道長官)、大橋武夫(戦災復興院次長)、前尾繁三郎(造幣局長)、西村直己(高知県知事)、遠藤三郎(農林省総務課長)、坂田英一(食糧配給公団総裁)、福田篤泰(総領事)、吉武恵市(労働次官)らであった。

2.19 建設常任委員になる。
5.13 ◎炭管事件初公判。
5.16 建設委員会理事になる。
9.15 建設委員会地方総合開発小委員長に就任。この頃議員立法活動に専念
10.1 【中華人民共和国成立】
10.24 ◎建設委員会で、地方総合開発小委員会報告を行い、この報告がわが国の国土総合開発の基本構想となる。
10.28 決算委員会理事になる。





(私論.私見)