角栄の原発政策としての柏崎刈羽原発誘致説の真偽

 更新日/2018(平成20).11.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「角栄の原発政策としての柏崎刈羽原発誘致説の真偽考」をものしておく。

 2011.9.6日 れんだいこ拝


【「角栄と原発との関わりの真相」考】
 「原発と地震—柏崎刈羽『震度7』の警告」(新潟日報社特別取材班・講談社刊)は、角栄の原発との関わりを次のように記している。
 「原発利権を、いわゆる土建屋的な見地で利用したのが田中角栄元首相だ。地元の新潟に柏崎刈羽原発を誘致する際、田中氏は土地取引で4億円の利益を上げたことが知られている」。

 これを補足して次のようなコメントが付与されている。
 「発立地の地元にカネを落として住民を懐柔する、電源三法(電源開発促進税法、特別会計に関する法律、発電用施設周辺地域整備法)交付金の仕組みを作ったのも、自民党の有力者だった田中氏である。原発建設はゼネコンや地元の土建業者に大きな利益をもたらし、それがそのまま選挙における票田になる。選挙の際には、電力会社やメーカー、建設会社の下請けや孫請けの業者が、マシーンとして作用してきた。そういう田中氏の手法を引き継いだのが、その弟子である竹下登元首相らであり、さらに渡部恒三元衆院副議長や、小沢一郎元民主党代表らに受け継がれていった」。

 この言は俗耳に入りやすい。しかしながら検証されていない。そこで、本稿で、「角栄と原発との関わりの真相」を分かる範囲で解明しておく。

【角栄政治としての柏崎刈羽原発誘致政策考】
 「角栄と原発との関わりの真相」を知る為に「角栄の原発政策としての柏崎刈羽原発誘致説の真偽考」をしておく。果たして真相は世評と少し違うのではなかろうか。
 角栄の柏崎刈羽原発誘致画策の動きを確認しておく。
 2001年1月 15日付け赤旗の「72年の自民党総裁選時 新潟・柏崎刈羽 田中元首相に渡した原発用地転売で5億円。元越山会幹部が証言」を転載しておく。 
 東京電力柏崎刈羽原子力発電所(新潟県柏崎市、刈羽村)の用地買収をめぐって、田中角栄元首相(故人)が自分のファミリー会社で買った土地を一九七一年に東京電力に転売、五億円をこす利益を得て、自民党総裁選(一九七二年)に投入していた事実がわかりました。五億円を田中邸に運んだ田中氏の元後援会幹部が本紙に証言したもの。原子炉でプルトニウムを燃やそうという危険なプルサーマル計画に住民の不安が高まっている同原発建設の裏側を示す証言として注目されます。証言したのは、元首相後援会「越山会」の幹部だった木村博保元自民党県議(73)。木村氏は、一九六三年から約五年間、刈羽村の村長をつとめました。
 
 登記簿などによると、木村氏は、村長在任中の一九六六年七月、のちに柏崎刈羽原発用地となる砂丘地約五十一万五千平方メートルを製紙会社から買い、七一年十月に東京電力に売ったことになっています。しかし、同氏の証言によると、この土地の実際の所有者は田中角栄氏でした。木村氏は、当初、この土地を農業構造改善用地として買収しますが、資金がなく、田中氏に相談。田中氏は「おれが買っとく」といい、田中氏のファミリー企業である室町産業の名義で買い、六六年九月に登記しました。しかし、室町産業が、信濃川河川敷買い占めなど田中金脈事件に登場する幽霊企業として批判されたため、木村氏は田中氏と相談のうえ登記の「錯誤」として室町産業の名前を抹消。木村氏所有地にして田中氏との関係をひた隠しにしてきました。その後、東京電力が原子力発電所を建設する計画が浮上。用地買収のさいには、田中氏が木村氏らを東京・文京区の田中邸に呼び、「坪三千五百円でどうだ」とみずから売値を決めた、といいます。
 
 買収から転売まで約五年。田中氏側の取得価格について、木村氏は「正確な記憶がないが、当時の砂丘地の相場は坪百五十円ぐらい。三千五百円となるとすごい利益だった」と語ります。約二十三倍の高値で転売して得た利益は五億円を超え、表面上の所有者だった木村氏は一気に七一年度の県所得番付のトップに。転売後、木村氏は自民党総裁選挙に出ることになった田中氏から「金がいるからすぐ持ってきてくれ」といわれ、約五億円の現金を銀行からおろし、ボストンバッグや大きな手提げ袋に入れて二人がかりで東京の田中邸に運びました。「すごく重かった。田中先生は『ありがと、ありがと』といって喜んだ」と木村氏は証言しました。

  2001年1月 15日付け赤旗の「30年間の沈黙“苦しかった” 柏崎刈羽原発用地転売 元越山会幹部の証言 〈詳報〉」を転載しておく。
 「三十年沈黙してきたが、二十世紀は終わった。

 歴史として語っておきたい」――。一面所報、田中角栄元首相の後援会「越山会」の元幹部、木村博保氏(73)は、そういって本紙の電話インタビューに口を開きました。
東京電力柏崎刈羽原子力発電所の土地転売をめぐる木村氏の証言要旨は次のとおりです。
 
 私が刈羽村村長(一九六三年から六八年)のとき、北越製紙の所有する砂丘地を買い取ろうとした。農地として、農業構造改善に使いたかったからだ。

 「おれが買っとく」。
 
しかし、村も私も資金がない。そこで田中先生(田中角栄元首相)に頼んで、無利子で金を借りようとした。田中先生は、金を貸すのはだめといい、「おれが買っとくわ」といった。村議会とも協議し、将来、買い戻す条件をつけて買ってもらうことにした。(六六年九月)土地登記簿に所有者として室町産業の名前が出てくるが、それは田中先生のことだ。この室町産業がのちに土地転がしだ、金脈だ、などと騒がれた。それで、私の方から「先生、もうだめだから、登記を間違ったことにして私に戻してください」と申し出た。先生は「できるか」と喜んだ。登記所に行って錯誤訂正(六七年一月)し、登記簿上は自分の名前にもどした。その後、私自身が矢面に立って新聞でも「土地ころがし」とたたかれた。だけど弁解ひとつせずに今まで三十年間ずっと苦しかったが、黙ってきたんだ。私が村長をやめ、県議になったあと農業構造改善の話は進まず、東京電力が砂丘に原子力発電所をつくる計画が出てきた。私のあとの村長が原発誘致に傾いたこともあって、私も認めざるをえなかった。原発計画と田中先生との関係は私にはわからない。
 
 先生が値段決めた

 ただ、よく覚えているが、(一九七一年十月に)東京電力に土地を売るとき、値段を決めたのは田中先生だった。当時、地元で売却価格がなかなかまとまらず、私と柏崎市長が東京の田中邸に呼ばれた。私と市長を前に先生は、「坪三千五百円ということでどうだ」と言った。それで値段は決まった。私の名義になった土地が五十町歩(五十万平方メートル)を超えていたと思う。坪平均三千五百円とすると、五十町歩で五億三千万円ぐらい。最初(一九六六年七月)に北越製紙から買った値段はよく覚えていないが、当時の相場は坪百五十円ぐらいだった。それが五年後に三千五百円だ。大きなもうけだった。当時、この所得を届け出たらいきなり県内所得番付トップになったぐらいのもうけだった。
 
 5億円持って上京

 私も正直言って、あとで少しはもらいましたが、もうけのほとんどは田中先生のところにいった。金が入るとまもなく、田中先生が自民党総裁選(一九七二年七月)に打って出ることになり、「金がいるからすぐ持ってこい」と連絡を受けた。私は新潟の銀行から約五億円の現金をおろし、ボストンバックや大きな手提げ袋につめこんで上京し、田中邸へ運んだ。重いので二人がかりだった。先生は「ありがと、ありがと」といって喜んでいたのをよく覚えている。
 
 関連情報として、「★阿修羅♪ > 原発・フッ素16」のgataro氏の2011.9.17日付け投稿「<シリーズ 原発の深層>第1部 原発マネー⑨/田中邸に消えた5億(しんぶん赤旗)」を転載しておく。
 <シリーズ 原発の深層>第1部 原発マネー⑧/田中邸に消えた5億 「しんぶん赤旗」 
 2011.09.11 日刊紙 1面

 新潟県の佐渡島を望む日本海沿いの砂丘地が、世界最大の東京電力柏崎刈羽かしわざきかりわ原発(出力821万㌔㍗)へと変貌した背景について、地元では自民党政治家の“黒いうわさ”が語り継がれてきました。

 元県議の証言

 柏崎市(旧西山町)出身の田中角栄元首相の土地転がし疑惑です。本紙2001年1月15日付は、田中氏の後援会「越山会えつざんかい」幹部だった木村博保氏(元自民党県議)の証言で裏付けました。原発用地の売却資金5億円が、東京・目白の田中邸に運ばれ、1972年7月の自民党総裁選に投入された事実を明らかにしました。柏崎に原発誘致を働きかけた人物として、田中氏が「深い交際」(『私の履歴書』66年)をした東電顧問の桧根宗一氏がいます。地元紙は、松根氏が63年当時の柏崎市長・小林治助氏に誘致を勧めたと報じています。

 田中氏は、後に原発用地となる砂丘地約52万平方㍍を66年9月、「室町産業」名義で購入。同年10月、日本共産党が国会で、信濃川河川敷買い占めを追及、「室町産業」を幽霊企業だと暴露すると、田中氏は翌67年1月、登記「錯誤」として「室町産業」の名前を抹消し、木村氏名義に。71年10月、東電に用地を売却した際、土地の値段を決めたのも田中氏自身だったと木村氏は証言します。

 ハコモノ次々

 田中氏は地元の講演で「(柏崎刈羽と巻の)二つの原発ができると新潟県は一大電力供給地となり、税収は豊かになるッ」と叫びました。人口9万人の柏崎市に電源3法交付金だけでも32年間で1133億円も注ぎこまれ、図書館、博物館、体育館やスポーツ施設が次々と造られました。

 日本共産党の持田繁義市議は「電源3法交付金で、ゴミ捨て場だった池をわざわざ野球場にしたため、照明施設も作れず、外野が沈み、当初は毎年500万、800万円レベルで地盤沈下対策に追われました。(07年の)中越沖地震による大規模改修費用もかさんでいます」と指摘します。

 現在、原子炉7基中2基が稼働する柏崎刈羽原発の構内は、福島第1原発事故後の対応として、「練馬」「八王子」ナンバーなど、東京都内の東電営業所からかき集めた電源車12台が待機。東電は、次の地震に戦々恐々としています。持田市議は言います。「原発を誘致した結果、ハコモノをつくれば仕事をしていると錯覚する人たちをつくりだしました。原発は、住民の団結、自治をお金で阻害している」(つづく)

(私論.私見)
 この赤旗の記事の信憑性の裏はとれていない。そういう意味で参考情報として取り込んでおくことにする。以下、柏崎刈羽原発誘致経緯を確認しておく。

 1、元首相後援会「越山会」の幹部にして元自民党県議、1963年から約5年間、刈羽村の村長をつとめまた木村博保氏が、のちに柏崎刈羽原発用地となる砂丘地約五十一万五千平方メートルを、村長在任中の1966.7月、農業構造改善用地として製紙会社から買う。

 2、1969.3月、柏崎市議会で原発誘致決議。同6月、刈羽村議会でも原発誘致決議。

 3、1969.9.18日、東京電力が未開の砂丘地に柏崎刈羽原発を建設する計画を正式発表する。同11月、「柏崎刈羽地点原子力準備事務所」を設置する。

 4、1971.10月、木村博保氏が製紙会社から買収していた土地を東京電力に売る。

 この経緯に於いて、角栄が能動的に動いた形跡は見当たらない。これを裏付ける田中角栄の原発政治家ぶりを新潟日報で学ぼう」に出くわした。次のような興味深い記事が為されている。
 「原子力産業の発展を目指して五六年に設立された日本原子力産業会議(原産会議。現:日本原子力産業協会(原産協会))の元専務理事・森一久(81)は考え込んだ。森は原産会議に設立時から約50年間勤務した。業界の生き字引的存在だ。約50年前にあった原子力に関する国の審議会答申内容をよどみなく語る森だが、田中が表立って誘致に動いた記憶はないという。柏崎刈羽原発建設に携わり、同原発所長も務めた宅間正夫(70)は推測する。『(誘致の経緯を記した)書物で田中さんの名前を見たことはない。政治問題にさせないため、表に出るのを避けたのだろうか』。

 【親密な付き合い】

 ただ、森は田中と原発との接点と考えられる人物を1人挙げた。森が長年仕え、原産会議副会長も歴任した松根宗一(故人)だ。1954年、理研ピストンリング工業(現・リケン)の会長に就任すると同時に東電顧問となる。63年に柏崎市長になったばかりの小林治助(故人)に原発誘致を勧めた人物である。松根は愛媛県宇和島市出身。日本興業銀行に勤めた後、理研に入った。電力業界でつくる電気事業連合会副会長にも就いた。「電力業界生え抜き以外の副会長は松根さんの後にも先にもいない」と森。屈指のエネルギー事情通だった。森は、松根と田中が同席した場面に一度だけ立ち会ったことを覚えている。田中は「松根さん。娘(真紀子)をもらってくれる人が決まって本当に良かった」と喜んでいたという。だが、原子力の話はなかった。森は「松根さんは『今日、角栄さんがこんなことを言っていた』とよく私に話してくれた。2人は非常に親しかった。自宅も近かった」と振り返り、原発誘致に関する推測を口にした。『どちらかというと松根さんが勧め、田中さんが話に乗ったのではないか』。

 田中の地元筆頭秘書を務め国家老と呼ばれた本間幸一(85)は松根との面識はないと言う。『うち(田中)は理研とのつながりはあった(俺注:確か田中が土建屋時代、理研の工事を請け負っている)。東京で何かあったのかも知れないが、松根さんがどう絡んだのかは知らない」と話し、「(田中から)原発誘致に関する指示を受けた記憶はない』とする。参院選の演説で父角栄の誘致関与を示唆した真紀子。しかし、発言内容を確認すると『周辺の人から伝え聞いただけ。父はエネルギー政策は重要とよく言っていたが、父から原発の話を聞いたこともないし、個別に話したこともない』と答えた」。

(私論.私見)
 これを踏まえれば、角栄と柏崎刈羽原発誘致の関わりについては、「角栄が資源外交に努めていたのは確かだが、柏崎刈羽原発誘致についてどこまで立ち入っていたのかはっきりしない」の評こそが正しいように思われる。

 赤旗記事をもってしても、角栄が土地を斡旋したのではなく、むしろ金主として登場していることが判明する。赤旗記事は転売時の不当利益に言及しているものであって、東電の代理人的に土地取得に絡んでいるのではない。こういう場合、「角栄が
柏崎刈羽原発誘致を斡旋した」とは云わない。即ち「角栄の柏崎刈羽原発誘致斡旋」の裏はまだ取れていないことになる。ところがタイトルだけは「東京電力柏崎刈羽原子力発電所建設は田中角栄が暗躍」としている。ここが日共赤旗の臭いところである。こう印象づけたいという意図だけが伝わる政治主義的なペンのマジック暴力記事と云うことになる。いつもの嫌らしい日共流政治主義性ではある。この連中は何を書かせてもこういう按配に書く癖がある。
 
 2013.7.20日 れんだいこ拝

【角栄政治としての柏崎刈羽原発誘致政策考】
 「田中角栄の原発政治家ぶりを新潟日報で学ぼう」を転載しておく。
 「新刊紹介:「前衛」11月号(追記・訂正あり)」

 http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20111016/5421309876、で少し紹介しているが。

 新潟日報 新聞協会賞受賞・長期連載「揺らぐ安全神話柏崎刈羽原発

 ■第3部 なぜ未開の砂丘地に

 東京電力が未開の砂丘地に柏崎刈羽原発を建設する計画を発表したのは1969年9月だった。それから38年目の今年(注:2007年)7月、同原発は中越沖地震による激しい揺れに襲われ、大きなダメージを受けた。地元が地域振興の夢を描いて砂丘地に導いた同原発は依然、全号機の運転停止が続き、日本海から吹く季節風にさらされたまま、静かに年を越そうとしている。首都圏などを電力供給エリアとする東電がなぜ、遠く離れた本県の砂丘地に進出したのか。地元はなぜ誘致に動いたのか。未開の砂丘地をめぐる駆け引き、原発建設の妥当性が争われた地盤論争を含め、立地に至る経緯を関係者の証言をたどりながら探った。

 http://www.niigata-nippo.co.jp/jyusyou/report/04_04.html

 ■第3部・第4回 電源三法『元首相が「生みの親」、誘致は理研人脈を発端に』(2007年12月14日)

 「責任を感じている。柏崎に原発を呼んできたのは父ですし…」。東京電力柏崎刈羽原発が被災した中越沖地震の発生から10日後の7月26日。元首相田中角栄の長女で衆院議員の真紀子(63)は新潟市のホテルで、参院選を戦う民主党候補の応援演説の中でこう語った。同原発の建設予定地をめぐる土地売却益約4億円が届けられた元首相邸。主の田中は原発誘致にどうかかわっていたのか。地元が誘致を決議した1969年当時、自民党幹事長として抜群の政治力を示していただけに、さまざまな憶測を呼んできた。

 「どこまで立ち入っていたのかはっきりしない。資源外交に努めていたのは分かるが…」。原子力産業の発展を目指して五六年に設立された日本原子力産業会議(原産会議。現:日本原子力産業協会(原産協会))の元専務理事・森一久(81)は考え込んだ。森は原産会議に設立時から約50年間勤務した。業界の生き字引的存在だ。約50年前にあった原子力に関する国の審議会答申内容をよどみなく語る森だが、田中が表立って誘致に動いた記憶はないという。柏崎刈羽原発建設に携わり、同原発所長も務めた宅間正夫(70)は推測する。「(誘致の経緯を記した)書物で田中さんの名前を見たことはない。政治問題にさせないため、表に出るのを避けたのだろうか」。

 【親密な付き合い】

 ただ、森は田中と原発との接点と考えられる人物を1人挙げた。森が長年仕え、原産会議副会長も歴任した松根宗一(故人)だ。1954年、理研ピストンリング工業(現・リケン)の会長に就任すると同時に東電顧問となる。63年に柏崎市長になったばかりの小林治助(故人)に原発誘致を勧めた人物である。松根は愛媛県宇和島市出身。日本興業銀行に勤めた後、理研に入った。電力業界でつくる電気事業連合会副会長にも就いた。「電力業界生え抜き以外の副会長は松根さんの後にも先にもいない」と森。屈指のエネルギー事情通だった。

 森は、松根と田中が同席した場面に一度だけ立ち会ったことを覚えている。田中は「松根さん。娘(真紀子)をもらってくれる人が決まって本当に良かった」と喜んでいたという。だが、原子力の話はなかった。森は「松根さんは『今日、角栄さんがこんなことを言っていた』とよく私に話してくれた。2人は非常に親しかった。自宅も近かった」と振り返り、原発誘致に関する推測を口にした。「どちらかというと松根さんが勧め、田中さんが話に乗ったのではないか」。田中の地元筆頭秘書を務め国家老と呼ばれた本間幸一(85)は松根との面識はないと言う。「うち(田中)は理研とのつながりはあった(俺注:確か田中が土建屋時代、理研の工事を請け負っている)。東京で何かあったのかも知れないが、松根さんがどう絡んだのかは知らない」と話し、「(田中から)原発誘致に関する指示を受けた記憶はない」とする。参院選の演説で父角栄の誘致関与を示唆した真紀子。しかし、発言内容を確認すると「周辺の人から伝え聞いただけ。父はエネルギー政策は重要とよく言っていたが、父から原発の話を聞いたこともないし、個別に話したこともない」と答えた。

 【総辞職の半年前】

 柏崎刈羽原発誘致に限っては具体的な動きが見えない田中。だが、首相時代の74年6月、原発立地自治体に多額の交付金を配分する電源三法を「生みの親」として成立させ、原発推進の表舞台に立つ。田中内閣総辞職の半年前だった。

 電源三法の発案者は柏崎市長・小林とされる。69年の誘致決議を機に原発建設への行程は順調に進むかに見えた。だが、大きな試練が小林を待ち受けていた。

 http://www.niigata-nippo.co.jp/jyusyou/report/04_05.html

 ■第3部・第5回 地盤論争再燃『中越沖で活断層発覚、国の審査に不信廃炉論も』(2007年12月16日)

 東京電力柏崎刈羽原発建設当時に既に存在していた活断層疑惑。初の原発震災を引き起こした中越沖地震は疑惑を再燃させた。東電は5日、地震後の海域調査を踏まえ、柏崎刈羽原発の設置許可申請時の評価を覆して活断層と認めた。同時に、2003年には原発周辺の海底に活断層の疑いがある断層7本の存在を把握しながら公表せず、隠ぺい体質を露呈した。

 柏崎刈羽原発反対地元3団体の佐藤正幸(63)は「立地場所を決めてから東電が地盤を調べる。途中で地盤の劣悪さが指摘されても後戻りせずに安全審査は進んだ」と国への不信感を語る。「1号炉真下に断層 新潟大教授が判定」「東電側は確認せず」。東電が柏崎原発建設の用地買収をほぼ終えようとしていた1974年8月、本紙は社会面トップで報じた。69年の誘致決議と相前後して各地に反対組織が結成されていた地元には衝撃が走った。この時期を境に反対派と東電との間で建設予定地の地盤論争が一気に熱を帯びた。

 【角栄の地盤だ】

 原発誘致を実現した柏崎市長・小林治助(故人)は苦況に立たされる。自宅には脅迫電話も掛かってきた。小林の長男正明(66)=後に治助に改名=は「おやじは『(誘致に動いた)選択が本当に正しかったのか。これだけ説明してなぜ理解されないのか』と苦悩していた。口にはしないが、後ろ姿を見れば分かった」と父の心情を代弁した。柏崎原発反対同盟(70年結成)などは新潟大学教授らの協力を得て、地盤調査に乗り出し、原発敷地の「地盤は劣悪」と早くから主張。後に活断層の存在を指摘した。現在、最高裁で係争中の1号機設置許可取り消し訴訟に発展する柏崎刈羽は、東電が自ら原発用地買収に当たる初のケースとなった。県が用地買収を担った福島原発とは事情が異なる。そこに地盤論争という新たな重圧が加わり、買収に七年の歳月を費やした。1号機訴訟の一審で原告団長を務めた元県議の田辺栄作(94)は「東電は、田中角栄の地盤だから反対運動はひどくならないと思ったのだろう」と振り返る。

 【県に判断求める】

 74年11月、小林は一つの決断をする。住民の地盤に対する不安に応え、国への設置許可申請の手続きに待ったをかけた。東電に申請保留を申し入れ、第三者の県に地盤問題の判断を求めた。県は翌75年2月、「小断層はあるが工学的にも処理できる。支障はない」との見解を発表。東電は、1カ月後にようやく国に設置許可申請をした。小林自身に地盤への不安はなかったのか。長男正明は「父は孤立無援の中で頑張り通した。実際、ぐらぐらしたときもなかったわけではない。説明すれば分かるというスタンスで、市民合意を重視した」と話す。柏崎商工会議所の前専務理事・内藤信寛(67)も「反対派にも必ず面会した人。市長の心身はぼろぼろになった」と打ち明ける。

 一方、反対同盟元代表で小林との交渉でも先頭に立った元柏崎市議・芳川広一(84)は、県に見解を求めた小林の判断には複雑な思いがある。「市では判断できず、県に調査を預けた。われわれは地盤の弱さは想定済みだった。中越沖地震の揺れを想定外と言う東電に原発を造る資格はなかったのだ」と憤りを隠さない。市民の合意形成に苦しんだ小林は75年に4選を果たすが、その後体調を崩し、79年8月、市長退任からわずか4カ月後にこの世を去った。世界最大級の柏崎刈羽原発に初めて大きな震災を引き起こした中越沖地震は、国の安全審査への信頼性を根底から覆し、「廃炉論」まで出ている。その激震は、原発直下の活断層をあぶり出し、「砂上の原発」の存続基盤を大きく揺るがせている。(文中敬称略)

 ■主な参考文献=順不同

 「評伝柏崎市長小林治助」(吉田昭一)「明日への創造」(柏崎商工会議所)「柏崎市史」(同市)「東京電力三十年史」(東京電力)「関東の電気事業と東京電力」(同)「田中角栄研究全記録」(立花隆)「泥田の中から」(田辺栄作)「田中角栄の元側近36年目の衝撃証言」(森省歩=現代・2002年5月号)ほか。


【角栄政治としての柏崎刈羽原発誘致政策考】
 「東電柏崎刈羽原発ができるまで その1 -4」を転載しておく。
 東電柏崎刈羽原発ができるまで その1
 東電柏崎刈羽原発ができるまで その2

 さて、刈羽村長・木村博保氏が購入した52haの土地は、1ヶ月もしない66年9月9日に所有権が移された。新たな所有者として登記されたのは室町産業株式会社。室町産業といえば、新潟県出身の政治家、後の総理大臣、田中角栄氏のファミリー企業である。ところが翌67年の1月13日に、この所有権移転登記は錯誤だったとして抹消手続きがとられ、所有権は再び木村村長に戻された。この不可解な所有権の移転は、錯誤ではなかった。木村氏は、この土地を信用金庫からの融資で購入した、しかし返済の目途が立たなくなったので田中先生に購入をお願いしたと、後年の取材でそう答えている。

 錯誤という奇妙な理由で登記を取り消したのは、国会の動きが原因だった。所有権が室町産業に移った直後の10月20日に、共産党所属の議員が、同社の信濃川河川敷買い占め疑惑を追及したのだ。もしこの時、木村村長の52haの土地のことも明らかになっていれば、大きな政治問題となって、柏崎刈羽原発は建たなかったかもしれない。実際、国会では、次の追求は原発の土地だという噂が飛び交っていたという。その後、この土地はいったん農業振興のための用地と位置づけられ、県の認可も得て砂丘地を耕作地に変える計画が進められていくが、その裏で、原発計画は着実に進められていった。

 刈羽村長から新潟県議会議員に転身した木村氏は、69年1月、東電中津川第一・第二発電所(水力発電所)の地元である中魚沼郡選出の祢津文雄県議の紹介で、東電の筆頭常務・小松甚太郎氏と面会。ここで東電からの具体的な原発建設計画の話がもたらされたという。原発が欲しい柏崎市と刈羽村。原発を作りたい東電。ここに相思相愛の関係が出来上がった。

 東電柏崎刈羽原発ができるまで その3
 
 元刈羽村長・木村博保県議と東電常務の面会の直後から、柏崎市・刈羽村両自治体では、原発誘致のための根回しが急ピッチで進められていった。69年3月、柏崎市議会で原発誘致決議。6月、刈羽村議会でも原発誘致決議。9月18日、東電による原発建設計画正式発表。11月、「柏崎刈羽地点原子力準備事務所」設置。さらに71年10月8日、木村県議は、村のために買ったと言ってきた52haの土地を、あっさりと個人的に東電に売却してしまった。翌9日、所有権移転登記完了。 この年の木村県議の申告所得は4億5486万円。うち3億9495万円が土地売却によるものだったが、この金は全額、木村県議と角栄氏の地元筆頭秘書・本間幸一氏によって、東京目白の田中邸へと運ばれた。“錯誤”として登記は取り消されたものの、やはり実質的な土地所有者は室町産業、さらに実質的には田中角栄氏だったのだ。 後に田中真紀子氏は、中越沖地震で柏崎刈羽原発が全停止し、あわや大惨事となりかけたことに関して、「責任を感じている、柏崎に原発を呼んできたのは父ですし」と述べているが、その裏にはこうしたいきさつが隠されていた。

 この年、地元の一部有力者は、木村県議(角栄氏)の約4億円には及ばないものの、同様の土地転がしで巨額の利益を上げていた。71年度の県内長者番付は、1位の木村県議に続く第2位も東電への土地転がし組だった。他にも、先祖伝来の土地として所有していたもの手放して「プチ原発長者」になった人は少なくなかったらしい。不毛の砂地が一転して富を生み出したわけだが、その景気はかつての石油景気以上に一時的なものだった。その後の柏崎・刈羽地域は、原発のもたらす資金で“ハコモノ”は充実した。しかし、発展の活気や実績は、他地域に比べて見劣りの感が否めない。交付金に頼って地域を興す努力を怠ってきた、原発がかえって地域を衰退に向かわせている、こう指摘する人は少数ではない。[続く]

 東電柏崎刈羽原発ができるまで その4

 74年8月、地元紙・新潟日報の社会面トップに、「1号炉真下に断層 新潟大教授が判定」の見出しが踊った。「柏崎原発反対同盟」をはじめとする反原発市民が、新潟大学教授らの協力を得て地盤調査に乗り出し、その結果が発表されたのだ。

 柏崎市で原発誘致の先頭に立ってきた小林治助市長は苦悩した。どうしても原発を誘致したい。しかし地盤調査の結果を知って不安を訴える市民の声は無視できないレベルに達していた。

 11月、小林市長は、県に対して地盤問題の判断を求めた。市が判断すべきことを県に丸投げとはおかしな話だが、大学教授が示した科学的根拠ある調査結果に対抗するには、それに匹敵する権威ある材料が必要だったのだ。市長はそれを県に求めた。

 翌年2月、県からの回答があった。小断層は存在する、しかし施工方法で対処できるので支障はないという、市民を納得させるのには実に都合の良い回答だった。

 地盤調査の結果も一部認めながら、安全性については100%のお墨付きを与える。相手の言い分を全否定はせず、巧妙に過小評価して自己の主張を正当化する材料に組み入れる。政治的な駆け引きに慣れた人物の「作文」であったことがうかがえる。

 ちなみにこの時の新潟県知事は、自民党所属の参議院議員だった君健男氏。単なる支持・推薦の関係で自民党を与党にしているのとは異なる、生粋の自民党の政治家だった。

 東電は、早くも翌3月に1号機の設置許可を国に申請。こうして柏崎刈羽原発は本格的に着工されていくことになった。

 従来、原発が設置される場所は、慎重の上にも慎重を重ねて詳細に調査された、最も安全な場所だと思わされてきた。しかし実際は、政治家による土地転がしの末に東電に渡った土地が、そのまま建設用地になっていた。

 しかも、科学者が指摘する地盤の危険性をも、安全無視の「政治判断」が一蹴。この“利権優先”、“まず原発推進ありき”の政治のあり方は、昔も今も変わらない。

 こうして、欲とカネにまみれた砂地の上に建てられた、文字通りの砂上の楼閣。それが東電柏崎刈羽原発だ。そこに、全7基、出力合計821万2千kWという、世界最大の原発が置かれている。[一応おわり]


【角栄政治としての柏崎刈羽原発誘致政策考】
 「★阿修羅♪ > 原発・フッ素45」の魑魅魍魎男氏の2016 年 4 月 29 日付投稿「柏崎刈羽原発は田中角栄が土地買占めでボロ儲けするために誘致された 旧油田地帯で地盤は最悪 即廃炉にせよ」を後日の証の意味合いで転載しておく。
 最近、田中角栄は米国にはめられた、無罪だと主張する愚かな連中がいるが、角栄が犯した最大の犯罪はロッキード事件ではなく、土地買占めでボロ儲けするために地盤の悪い旧油田地帯に柏崎刈羽原発を誘致したことである。たしかに受託収賄罪は犯罪ではあるが、それにより人が死んだり、環境が回復不可能なほど汚染されることはない。下手をすれば国家を崩壊させる原発の誘致とは深刻度が全く違うのである。

 田中角栄の地元である柏崎・刈羽周辺は、古くから石油が採れることで有名であった。柏崎刈羽原発から数キロ山にはいると、草生水(くそうず)献上場がある。「くそうず」とは臭い水という意味で、昔の人は石油のことをそう呼んだのである。日本書紀には天智天皇の時代に越の国から草生水が朝廷に献上されたと書かれている。草生水は珍重され長らく原始的な手掘りで石油を採っていたが、明治時代になると、欧米から近代的な石油採掘技術が導入され、この西山一帯は国内でも屈指の油田となり、石油やぐらが林立した。残念ながら、昭和の始めには石油は枯渇し油田は閉鎖され、いまではその面影はない。柏崎刈羽原発から10キロほど海沿いに北上した尼瀬という所に、石油産業発祥地として石油記念館・公園があり、油田が栄えていた時代を知ることができる。

 このようにちょっと掘れば石油が出てくるような所であり、しかも付近には活断層がいくつも走っていて土地の隆起・沈降も当たり前のように見られる土地である。しかもこの一帯は地震の巣で、今まで大小の地震が数え切れないほど起きている。1964年には新潟地震(M7.5)が、2004年には中越地震(M6.8)が起きている。原発を建設するのは最悪と言ってよい場所であるが、なぜ誘致されたのか。以下、書籍からの引用である。

 「この新聞記事を、柏崎市議の芳川広一(社会党)に解説してもらった。『あの土地に、最初、田中角栄は自衛隊の施設所を誘致するのだといいましてね。施設所は戦争する施設じゃなくて、災害のときに出動する部隊なのだから、安全だというのですよ。その、田中発言があるとすぐ、一帯を木村が買い占めた。『朝日新聞』が"田中側近"と書いているのは、当時刈羽村の村長だった木村博保のことです。木村は、田中角栄の"越山会"の有力者なのですよ。"越山会"と室町産業の間で、キャッチボールして、坪一〇〇円の土地を二、六〇〇円につり上げた。こういうのを『転がし』というのだそうですね。誰の懐に入ったかは、いうまでもないでしょう』。坪一〇〇円の土地が二、六〇〇円になり、すると自衛隊施設所が原子力発電所に変わった。原子力発電所だと、住民たちが土地を売らないという配慮があったのだろうか」 (田原総一朗著・ドキュメント「東京電力企画室」 文春文庫)

 「72年7月5日 田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫の4人が出馬 佐藤栄作の後継者を決める自民党総裁選前に 新潟県議木村と角栄が示し合わせ法外な値段で東電に売却した柏崎刈羽原発の用地代金「4億円」を ばらまき角栄は総理大臣に就任した」(広瀬隆著・持丸長者「戦後復興編」 ダイヤモンド社)。

 要するに田中角栄が土地ころがしでボロ儲けするために誘致されたのが柏崎刈羽原発だったのだ。そしてこの金を自民党内にばらまいて角栄は首相の地位を得た。一政治家の野望のために、危険極まりない軟弱な地盤の上に原発が建設されたのだ。地質調査は申しわけ程度、危険な活断層など不都合な真実はすべて御用学者が隠ぺいした。地質がどうであれ、角栄がボロ儲けするためには、この土地に原発を建てなければならなかったのだ。しかもその後、拡張、増設を繰り返し、1号機から7号機までの7基の合計出力は800万キロワット超、世界最大級の原発になってしまったのである。これを狂気と言わずして何と言うのか。

 2007年7月におきた中越沖地震(M6.8)では、かろうじて原子炉は緊急停止したものの、予想された通り、敷地のいたるところに隆起・陥没、地割れが生じた。これは東電が公表したデータであるが、おそらく福島第一のように地盤の隆起・沈下はもっと大きいだろう。東電はひた隠しにしているが、原子炉や燃料プールなどが、安全審査を通らないほど、傾いてしまったのは確実である。

 「『原発が傾いた!』ー柏崎刈羽原発 地盤沈下と隆起」 (よくわかる原子力)
 http://www.nuketext.org/news_1.html

 この中越沖地震は巨大地震ではなかった。東日本大震災のようなM8-9級の大地震であったら、ひとたまりもなく、福島第一のように炉心溶融、大爆発が起きていた可能性が高い。放出された放射性物質の8割は太平洋に落ちた福島原発事故と異なり、その大半は北陸、中部、関東、東北の広大な地域に降り注ぎ、日本は壊滅状態になっていただろう。日本が今日まで存続しているのは、たまたま運がよかったからにすぎない。たまたま我々は生きているのだ。

 角栄の実家から原発までは10キロも離れていない。そんなところに原発を誘致するのは危険だという常識、良識は、彼には通用しない。とにかく金、金、金。子孫が障害者になってもいいから金儲けをしたいという下着ドロ大臣の親父と同じである。もっとも、そういう考えの人は今や少数で、新潟県民の大半は、お金よりも何よりも新潟の自然環境を守りたい、危険な原発を再稼働するのはやめてくれと思っているだろう。それは再稼働を認めない泉田新潟知事が県民に強く支持されていることからもわかる。角栄が首相になるために、地盤の悪くまわりは地震の巣である最悪の土地に柏崎刈羽原発は誘致された。そして中越沖地震により建屋も原子炉も傾いてしまった。豆腐の上に建っているのだから、いくら補強工事をしたところで無駄である。それほど大きくない地震がもう一度襲えば、致命的なダメージが生じ、原子炉を安全に停止できず、炉心溶融、爆発が起きることは明らかである。柏崎刈羽原発の再稼働は言語道断であり、即、全7基とも廃炉にすべきである。

 (関連情報)

[1] 「草生水献上場(くそうずおんじょうば) 日本書紀の記録に残る石油自噴地の1つ」
(石油・天然ガス自噴湧出地・・・新潟県刈羽郡西山町大字妙法寺字草生水)
 http://www.city.kashiwazaki.lg.jp/sightseeing/kanko/shiru/nanakaido/1503231400.html

[2] 「石油産業発祥地」 (発祥の地コレクション)
 http://hamadayori.com/hass-col/tech/Sekiyusangyo.htm

[3] 「新潟エネルギー街道を行く」 (探検コム)
 http://www.tanken.com/oil.html

[4] 「角栄政治としての柏崎刈羽原発誘致政策考」 (れんだいこ)
 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/gyosekico/dengensanpo.html

[5] 「柏崎原発周辺も地震が凄いぞ!」 (阿修羅・地震くん 2015/3/8)
 http://www.asyura2.com/15/genpatu42/msg/201.html

[6] 「地質調査は全くせず、政治家の"ご都合"で原発建設地が決まる大地震国ニッポン」
(拙稿 2014/9/8)
 http://www.asyura2.com/14/genpatu40/msg/246.html

[7] 「柏崎刈羽原発と中越沖地震について」 (イソップ・岩田清氏ウェブ 2014/6/6)
 http://yoshi-tex.com/Kashiwazaki/

[8] 「後藤政志氏による柏崎刈羽の災害状況の説明」 (原子力資料情報室 2011/3/31)
 http://www.ustream.tv/recorded/13679820

[9] 「柏崎刈羽原発の揺れ、想定の2.5倍…最大2058ガル[読売新聞]」 (阿修羅・feel 2007/7/30)
 http://www.asyura2.com/07/genpatu4/msg/310.html

[10] 「中越沖地震後の柏崎刈羽原発に行ってきました」 (庶民の弁護士・伊東良徳のサイト 2007/7/23)
 http://www.shomin-law.com/katudoukashiwazakichuetsuoki.html

[11] 「恐怖の柏崎刈羽原発」  (きっこのブログ 2007/7/17)
 http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2007/07/post_ed96.html
(私論.私見)
 角栄と柏崎刈羽原発誘致の関わりについて、「角栄が資源外交に努めていたのは確かだが、柏崎刈羽原発誘致についてどこまで立ち入っていたのかはっきりしない」の評こそが正しいのに、どう悪酔いしてかしらんが角栄=柏崎刈羽原発誘致説で弁舌している。くだらん評論である。

【角栄の原発との関わりの程度考】
  」の2012年3月22日 by Hisato Nakajima田中角栄元首相執筆の『日本列島改造論』(1972年)における原発問題ー東日本大震災の歴史的位置」。
 ここで、1970年代に目を移しておこう。1970年代初めは、全国的に高度経済成長の負の面が露呈し、反公害闘争が闘われ、さらに都市部においては革新自治体が数多く成立する時代であった。高度経済成長最優先という姿勢からの脱却が求められた時代であったといえる。

 そのような中、高度経済成長を支えた池田内閣、佐藤内閣で保守政治家として成長を続けてきたのが、田中角栄であった。田中は、自民党総裁選直前の1972年6月に出版した著書『日本列島改造論』において、成長のみを過去の政治家は追求してきたとしつつ、経済成長を前提におきながら、過密ー過疎の格差是正や福祉向上を提唱した。田中は『日本列島改造論』出版時には通産相であったが、翌月の自民党総裁選で勝利し、首相に就任した。いわば、田中のマニュフェストといえるであろう。この『日本列島改造論』について、財政・地域開発を専攻した宮本憲一氏は、次のように指摘している。

 列島改造論は、過密になやむ住民には、経済の集中にかえて分散をうたい、過疎になやむ住民には、悪名たかいコンビナート都市にかえて内陸工業基地=25万都市構想をしめし、一見、従来の地域開発とちがう新鮮な感じをあたえている。だが、開発の思想は全く従来の地域開発の思想にもとづいている。すなわち、「新全総」(1969年策定の新全国総合開発計画。二全総ともよばれる)にもとづく巨大開発をすてるのではなく、そのプロジェクトは一層規模を大きくして実現する。そして、そのプロジェクトと結びつけて地域格差是正の拠点として工場再配置によって中小規模の産業基地をつくり、そこに25万都市を建設しようというのである。このあとの考え方は旧全総(1962年策定の全国総合開発計画。一全総ともよばれる)の拠点開発方式である。(宮本憲一『地域開発はこれでよいか』、1973年、p208)

 『日本列島改造論』については、別の機会に、より詳細に検討したい。ただ、ここでは、『日本列島改造論』に明記された開発計画が地価高騰を招いたこと、しかしながら、高速道路・新幹線など、その後の国土開発の原型をなしたことを指摘しておく。

 さて、今まであまり指摘されてこなかったが、『日本列島改造論』では、原発についても言及している。田中は、すでに「一寸先はやみ、停電のピンチ」(『日本列島改造論』p38)と述べ、電力需給が楽観を許さないとしている。田中によれば、1971年には工場などの電力の大口需要家に対して休日振替を実施させたが、不満が続出し、長期にわたって実施できる対策ではないとしている。そして、「電力需要をまかなうためには、電力会社が希望する電源開発が計画どおりに推進できることが前提になる。」(同上p39)と指摘している。しかし、電源開発は計画通り実現できていないとし、その理由を次のように説明している。

 こうした計画の実施がおくれているのは、火力発電所の立地の場合は、重油の使用による硫黄酸化物の発生で大気が汚染したり、温排水で漁民の生活が脅かされるなど地域住民の反対によるものである。原子力発電所の場合も、放射能の安全性にたいする疑問や自然環境が壊されるという心配、さらに温排水で魚でとれなくなるという漁民の反対などから立地が困難になっている。このような問題を解決しない限り、電力需給のひっ迫を解消することは困難である。(同上p40)

 つまりは、火発や原発の公害や安全性への危惧から発生する住民の反対が、電源開発が進まない原因であることを、田中は認めているのである。このような反対をおさえて、火発や原発の建設を如何に進めていくか。まず、田中は次のように主張している。

 これからの電源立地の方向としては、大規模工業基地などに大容量発電所を集中的につくり、大規模エネルギー基地の性格を合わせて持たせるようにしたい。電源開発株式会社を中心にいくつかの電力会社が参加し、火力発電所や原子力発電所を共同で建設し、そこで生みだされる電力を大規模工業基地で使う。同時に、基幹的な超高圧送電網をつくって消費地に広く配分し、融通する方向も考えたい。(『日本列島改造論』p101)

 いわば、『日本列島改造論』の電力版である。地域開発においては、火発や原発をあわせて建設し、発生する電力を工業基地で使うとともに、送電網を通じて消費地へ送られることになっているのである。と、いいつつも、田中は「こうした大規模エネルギー基地を含めて、地元の抵抗がなく電源立地を円滑にすすめるにはどうしたらいいだろうか」(『日本列島改造論』p102)と疑問を発する。田中は、次のように指摘している。

 新しい火力発電所や原子力発電所の建設に地元の反対が強いのは、まず、大気汚染や放射能の危険を心配するからである。…もともと発電所は従業員がすくなくてもすむので、地元の雇用をふやすにはあまり役に立たない。そのうえ発電した電力は、ほとんど大都市へ送電される。結局、地元はうるものがすくなくて、公害だけが残るというのが地域住民のいい分である。(同上p102)

 つまり、田中角栄という、当時次期首相になる人物も、原発を含んだ発電所全体が、公害や安全性が危惧されるだけでなく、雇用もあまり生みださず、電力も地元に還元されないなど、地元にメリットが少ないという意見があることを認めているのである。このような反対について、田中は「ここで、まず、第一に考えたいのは、公害の徹底的な除去と安全の確保である」(同上p102)としている。公害除去については、集塵装置・脱硫装置の開発・利用や冷却水規制など、具体的にあげている。ただ、原発の放射能問題については、「海外の実例や安全審査委員会の審査結果にもとづいて危険がないことを住民に理解し、なっとくしてもらう努力をしなくてはならない」(同上p102)として、原発の安全性を向上させるというよりも、安全性を住民に納得させることをあげていることには注目しなくてはならない。田中の考える原発の「安全対策」とは、結局のところ、「安全神話」の普及だったようである。田中はさらに、次のように主張している。

 しかし、公害をなくすというだけでは消極的である。地域社会の福祉に貢献し、地域住民から喜んで受け入れられるような福祉型発電所づくりを考えなければならない。たとえば、温排水を逆に利用して地域の集中冷暖房に使ったり、農作物や草花の温室栽培、または養殖漁業に役立てる。豪雪地帯では道路につもった雪をとかすのに活用する。さらに発電所をつくる場合は、住民も利用できる道路や港、集会所などを整備する。地域社会の所得の機会をふやすために発電所と工場団地をセットにして立地するなどの方法もあろう。次項で述べるインダストリアル・パークと同様の立地手法でエネルギー・パークづくりも考えたい。急がばまわれである。

 実際に、このようなことは実現していっている。養殖業で原発の温排水は実際に使われている。特に、田中内閣期の1974年に成立した電源交付金制度は、電力料金に付随して電源開発促進税を徴収し、原発周辺自治体の施設整備を中心に支出するものである。この電源交付金制度の原型は、すでに1972年の田中角栄『日本列島改造論』に表明されているのである。原発のリスクを交付金というリターンとバーターで糊塗するという発想を田中角栄がすでにもっていたことを、ここでは確認しておきたい。

(私論.私見)
 まずまずの論考なのだが、末尾の「原発のリスクを交付金というリターンとバーターで糊塗するという発想を田中角栄がすでにもっていたことを、ここでは確認しておきたい」がいただけない。角栄の原発論を語るには、1、かの時代の限界として原発推進派であったこと。2、角栄の偉いところは同時にエコエネにも注目しており支援育成していること。3、原発行政に対し住民に役立つようなあり方を指針せしめていること。最低限この三点から言及するのが筋だろう。「原発のリスクを交付金というリターンとバーターで糊塗するという発想」と評するのは言い掛かり評論だろう。

 2016.11.12日 れんだいこ拝





(私論.私見)