田中角栄語録 |
(最新見直し2007.4.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
「田中角栄の思想、人となり」、「議会政治家の申し子としての角栄」、「」その他でも取り上げているが、ここでは、田中角栄語録を項目別に採録する。角栄の実像の一端に迫ることが出来ればとの思いから記した。別サイトに「田中角栄の人物評」を設けた。 角栄その人の実像を知らぬまま「角栄元凶説」が根強く流布されており、れんだいこは本サイトでその盲を啓くことにする。「或る人」かく語りき。
それを思えば、以下の角栄の言葉は全て自分で験し味わった上での角栄の生身の言葉である。心して聞け。 2004.11.30日 れんだいこ拝 |
目次
(別章)【田中角栄語録】 | |
(別章)【田中角栄演説】 | |
(別章)【田中角栄の思想と政治姿勢、資金源、人脈考】 | |
田中角栄の慧眼的人物評 | |
(別章)【諸氏百家の角栄評考】 | |
田中角栄逸話 | |
角栄映像 | |
田中角栄研究著作本 | |
インターネットサイト |
(私論.私見)
【政治家及び政治能力論】 | ||||
角栄は、政治家たる所以の任務を次のように諭している。
1952(昭和27)念から角栄の秘書を勤めた佐藤昭子女史の「田中角栄−私が最後に伝えたいこと」は次のように記している。
政治の任務について次のように述べている。
角栄はかく述べ、側近の早坂茂三氏や新聞記者に常日ごろ語っていた。大衆政治家の面目躍如の言であろう。 その上で次のように抱負している。
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【政府の予算案づくりに関わってきたとの自負】 | |||
ある時、角栄は次のように豪語した。
角栄の予算編成目通しは本当の話であり、次のような逸話で裏付けられる。
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【政治家の演説の際の心構え】 | |
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【総理の器】 | ||
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【政治における考え方の基本について】 | |
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【政治家の能力について】 | |
角栄が政策研究に余念が無かったことを裏付ける福田赳夫の角栄評がある。
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【政策研修制度の確立について】 | ||||
角栄は、「責任政治を目指した」。その為に、日頃から政策研修を怠らなかった。次のように述べている。
という考えから、党の各委員会、小委員会、分会の「勉強会」以外に、田中派内にも各分野の勉強会を連日開かせ、一人一人に専門分野の知識を、その道の専門家と丁丁発止で討論ができるように育てていった。これが、後に、田中派が「総合デパート」と云われるようになる下地となった。ちなみに、勉強会の費用を飲食代まで全て派閥事務所が負担した。「勉強会」は、「同じ釜の飯を食った仲間意識」の醸成にも役立つこととなった。 このことにつき、浜田幸一氏が「日本をダメにした9人の政治家」の中で次のように裏付けている。
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【議会制民主主義の生命力について】 | |
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【議会における討論の重視について】 | ||||
角栄は、「議会討論を重視し、率先した」。角栄の議会に対する態度を物語る当人の国会弁舌がある。1947年、初めて登院した衆議院本会議で「自由討議」(フリートーキング)をテーマにしての演説である。
「自由討議」(フリートーキング)制度は、新憲法が制定された当初、国会法第78条において「各議院は、国政に携わる議院に自由討議の機会を与えるため、少なくとも、二週間に一回その会議を開くことを要する」と定められ開始された。ところが、わずか数回行われただけで、1955年の国会法改正によって実益の無い制度として削除された。このようにして、国会から自由清新な議論が消えていった。これについては、「自由討議」でもう少し詳しく見ておくことにする。 |
【政策論争好みについて】 |
角栄は、政策論争を好んだ。若手議員を掴まえては政策論争したと伝えられている。政策がおかしければ、おかしいとはっきりと口にした。発想力の豊かさに感心したと伝えられている。自然と門下生教育となった。 |
【選挙の要諦について】 | |||||
これを裏付ける角栄自身の次のような語録がある。
角栄らしい物言いとして次のような演説がある。
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【大衆政治論】 | |
新潟出身の友人に連れられて田中角栄さんの目白の家に行ったとき聞かきれたハナシ。
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【金権政治論】 | ||
福田と総理を争ったときに、麓と早坂秘書に言った言葉。
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【政権取りの戦略戦術としての中間地帯論】 | |||
角栄は、政権取りの戦略戦術として「中間地帯論」を述べている。いわば「政界操縦遊泳術」と云え、自民党のみならず野党対策にも適用された。
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【野党批判論】 | |
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【責任政治論】 | ||
角栄は”舌先三寸”政治を嫌った。次のように述べている。
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【単なる反対ではいけない論】 | |
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【現実政治論】 | |||
角栄は、「理想と現実」について次のようなコメントを残している。
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【体当たり政治論】 | ||||||||||||||||||
日中国交回復交渉の際の角栄の言葉。台湾国府の取り扱いが揉めにもめて一頓挫していた時である。二日目の夕食は日本側の田中、大平、二階堂、外務官僚・橋本の4人だけが共にした。田中はマオタイ酒をぐいぐいと呑む。大平は交渉不調のためかシュンとなっており、食事に箸をつけなかった。田中はそんな大平に言う。
この時、橋本は角栄を凄い人だと思った、と伝えられている。この大仕事はこの人にしか出来ないと、橋本はこの時痛感したとも伝えられている。 |
【官僚論】 | ||||||||
角栄は、官僚の優秀さを認めたうえでその限界も知り、官僚に使われるのではなく、使いきろうとした。次のように述べている。
1964年、44才で大蔵大臣に就任した角栄は、時間、局長以下、大蔵省の幹部を前に次のような挨拶をしている。
マックスウェーバーの言に、「フランスやアメリカの腐敗した官吏制度、イギリスの非常に侮辱されている夜警統治、部分的には腐敗した官吏制度をもって民主的に統治されている国は、高度に道徳的な官僚制よりはるかに大きな成功をおさめてきた」というのがあるが、まさにマックスウェーバーの言を地で行ったのが角栄政治であった。
角栄の秘書の一人早坂茂三氏は、「宝石・平成元年12月号」の「」の中で次のように評している。
大蔵大臣就任早々の頃の大蔵大臣室での、田中角栄と藤原弘達の会話。
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【自民党論】 | |
角栄の真骨頂とも云うべき軽妙洒脱な自民党論に次のような言い回しが有る。
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【田中派論】 | |
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【公約責任論】 | |
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【財源政策論】 | |
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【財政政策論】 | |
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【規制緩和論】 | |
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【結論と理由付けの仕方について】 | ||
仕事に関わる角栄の手紙は極めて率直、簡潔、事務的であった。拝啓のくだりは無くいきなり本題に入る。一、お申し込みの件、調査の結果、解決策は次の三案しかありません。以下、三案について触れた後、二、この三案の利害損得は左の通りであります。いずれを選ぶかは、貴殿のご自由で有ります。一、何月何日までに本件に関して、ご返答を煩わせたい。 次のような逸話もある。角栄の幹事長時代、三木派長老にして総務長官の白井荘一が訪ねて来た。白井が腰を降ろすのに合わせて、角栄はそれまで座っていた椅子から立ち上がり、話が始まった。沖縄問題に関する話が半分にも至らないところで、「わかった、わかった」を連発し始め、白井は毒気を抜かれて不首尾のまま引き返した。この時の角栄の言葉が次のようなものであった。
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【最近の議員の資質について】 | |
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【北方領土論】 | |
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【自由主義市場論】 | |
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【起業家へのまなざしについて】 | |
エスエス製薬を中心とした泰道グループの創業者・泰道照山氏の一周忌法要参列時の挨拶。
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【歴史哲学について】 | |
田中角栄の秘書を勤め、76年12月に田中の支援を受けて国会議員となった鳩山邦夫氏の回想弁。
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【総合判断力こそ真価が問われる】 | |
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【間の大事さについて】 | |
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【待ち合わせ時間の厳格さについて】 | |
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【器量について】 | |
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【人物について】 | |
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【下積み苦労の重要性について】 | |
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【勤労の重要性について】 | |
昭和48年の総理大臣時の全国勤労青少年会館の開館式での角栄の挨拶。
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【国家有為人材形成について】 | |
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【人の面倒み哲学について】 | |
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【本音の信頼を目指せ】 | ||
ある時、早坂秘書に対して次のように語っている。
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【公と私情について】 | |
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【情報収集の大切さについて】 | |
角栄は、常日頃の情報収集の大事さを心得ていた。新聞代に対する次のようなコメントを残している。
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「末ついに海となるべき山水も、しばし木の葉の下くぐるなり」(角栄が好んで色紙に書いた句) | |
「人生は間だよ。一本調子では何事もうまくいかない」 | |
「私は越後の生まれです。頼まれればどこにでも米搗きに雇われ、出稼ぎに行く」。 | |
「俺は節を曲げてまで出世しようとは思わない」。 | |
「カゴに乗る人、かつぐ人、そのまたワラジを作る人」 |
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「念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い」 | |
「父は政治は数だ、とはいってましたが、数は金だと申したことは一度もありません」(田中真紀子) | |
「ここまでは役人の作文。次からが私の言いたいことです」と云って人を笑わせた。 | |
「人は実感したものを信用する」 |
【陳情政治について】 | ||
田中角栄は、若いころはもちろん闇将軍となってからも、日に100件、およそ300人の陳情をさばいていたという。陳情について田中はある新聞でこう語っている。
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【角栄の経済合理主義について】 | |
角栄は、各社の望みをよく聞き、その実現に努めた。全員の希望通りにならなくても、ここはA社に泣いてもらい、B社にも我慢してもらい……ときて、最後のE社を決して切り捨てることがなかった。このことを角栄は次のように表現している。
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【角栄の金の使い方について】 | ||
角栄は金の使い方について次のように指導している。
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【マスコミ論】 | |
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【福祉充実論】 | ||||
「日本列島改造論」の中で次のように述べている。
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【ロッキード裁判について】 | |
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【ロッキード事件について】 | |
1983(昭和58)年、角栄は、柏崎市で支持者を前に次のように述べている。
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【「田中首相が外人記者クラブで記者会見】 | |
1974.10.22日、田中首相は、東京外国特派員協会の外人記者クラブで記者会見した。会見直前、「文芸春秋11月号」の立花論文やその関連資料の英訳版が何者かによって特派員たちに配布され、会見のテーマは「金脈問題」に関する質問攻めの場になった。記者の質問は、「文芸春秋」記事に集中し、一種査問委員会のような雰囲気となった。
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【「学生運動上がり」の登用考】 | ||
角栄はどうも「学生運動上がり」を重宝にしていた形跡がある。早坂記者の秘書入りのエピソードもこれを物語っている。早坂茂三氏は早稲田大学時代全学連の有能なオルガナイザーの一人であり、卒業後東京タイムズ記者をしていた。昭和38.12.2日、その早坂氏を田中が秘書になってくれないかとスカウトしている。この時の言葉が次のような角栄節であった。
斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」を経営)もその例である。元「全共闘」闘士で、一転「田中イズム」のとりこになったことから田中角栄の懐に飛び込み、その後、長く目白の田中邸への出入り自由となった。 |
【フランスのル・モンド記者の証言】 | |
早坂秘書は、著書「オヤジの知恵」の中で次のように記している。1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。「あの学生達を同思うか」。この問いに、角栄は次のように答えている。
私を指差して話を続けた。「彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕事を手伝ってくれている」。ギランが「ウィ・ムッシュウ」と微笑み、私は仕方なく苦笑した。 |
【理想と現実の処世法】 | |
「頑固な私の総括」に次の逸話が披露されている。れんだいこ風に意訳して照会しておく。
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【田中政治の無理について】 | |||
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【首相権限、首相能力について】 | ||
自民党の加藤紘一元幹事長は、新著の「テロルの真犯人」(講談社)で、「言葉には、おそろしいほどその政治家の地金がでる」と述べ、大物政治家たちの印象的な一言をまとめている。その中に角栄語録が採り上げられている。1972.7月、田中が福田赳夫との激しい総裁選を制した直後の記者会見で、記者の一人が、「佐藤政権で幹事長などを務めたあなたは、佐藤栄作前総理とどこが違うのか」と質問した。田中は一瞬キッとなって次のように答えた。
民主党の藤井裕久前代表代行(元蔵相)は、田中政権の官房長官秘書官を務めていた時、田中が次のように述べたことを明らかにしている。
(「岩見隆夫の近聞遠見:角栄が残した『いいもの』」参照) |
【自己分析について】 | |
1970.9月、角栄は、政治評論家・戸川猪佐武のインタビューに答え、次のように語っている。週刊大衆10.8日号に掲載された。(小林吉弥「角栄がゆく」、徳間書店、1983.6.30日初版より)
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【叱り方について】 | |
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【イエスノーについて】 | |
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【会議について】 | |
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【上に立つ者の仕事と人気について】 | |
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【人と会うことについて】 | |
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【自分の言葉で話せ】 | |
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【待ち合わせ時間の厳しさについて】 | |
1970(昭和45)年、一期生代議士で駆け出し中の佐藤守良代議士(後の農水相)が、田中角栄に日商会頭の永野重雄を紹介、引き合わせて貰ったときの逸話。
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【間について】 | |
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【小沢一郎への言葉】 | |
1969(昭和44).12月の総選挙で初当選を果たした弱冠27歳の小沢一郎に対して、角栄が与えたはなむけの言葉。
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【早稲田大学の某サークルの学生達のインタビューを受けたときの言葉】 | |
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【公私の分別について】 | |
昭和55.5月、社会党が、大平内閣に対する不信任案を出し、自民党の三木派、福田派の大勢が本会議採決を欠席、事実上の賛成に廻り、衆院が解散されたときの角栄の言葉。
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【総理の器について】 | ||
角栄の言葉。
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【仕事について】 | |
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【カネの使い方について】 | |
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(私論.私見)