れんだいこの「文系頭脳の原発批判論」

 (最新見直し2013.06.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこの「文系頭脳の原発批判論」を書きつけておく。2011.3.11の福島原発事故に遭ってもなお原発続投論にシフトして恥じない政治が続こうとしている。手前の身が福島被災民と同じ目に遭っても同じ主張するのなら一貫はしている。いざその時になってから原発反対論を云うようでは情けない。福島被災民は遭ってしまたが、今なお原発村であったことを有り難がっているのだろうか。我々は、遭わぬ前から是々非々しておかねばならない。原発の悲惨は遭ってからでは遅すぎる。

 2011.08.24日 れんだいこ拝


れんだいこのカンテラ時評№985  れんだいこ  投稿日:2011年 8月26日
【「文系頭脳の原発批判論」その1、原発法廷を開け】

 2011.3.11日の三陸巨大震災、中でも福島原発事故に際して、れんだいこが何を思ったのか「文系頭脳の原発批判論」としてシリーズで書きつけておく。理系的な原発論については既に原子物理学者・小出裕章氏他の優れた論考が出ているので、新しい観点の文系的アプローチをして見たい。「東電・原発おっかけマップ」(鹿砦社、2011.8.6日初版)その他を参照する。

 文系的アプローチが最初に申しておくべき肝要事は、被災民が公然と生体モルモットにされたと云うことである。福島原発事故勃発の際の手際と今日までの経緯を見れば、こう断言せざるを得ない。どこで判断できるかと云うと、枝野官房長官のメルトダウンなし大丈夫論による被災民足止め、当初のガソリン供給制限、軍警察その他による交通規制、疎開政策の不採用その他の状況証拠による。

 この判断がウソかマコトか、検証の為の原発法廷が開かれるべきである。れんだいこはマコトと考えており、事と次第によって菅政権の閣僚、原子力行政責任者、東電経営責任者が喚問され、政治責任を問われねばならないと考えている。不可抗力的な事故であり、それ故の処理であり、高度な政治判断故に司法判断に馴染まないと云うことが立証されれば免責される。

 問題は、仮に不可抗力的な事故であったと認めたとしても、事後対応が余りにも粗雑、且つ逆対応であったことが判明すれば、その過失の程度に応じて有責が問われ裁かれるべきではなかろうか。そういう意味で、菅政権、保安委、原子力安全委、東電責任者の対応が俎上に乗せられ吟味されねばならないと考える。

 これには福島被災民の命と生活がかかっており、全国各地の同様運命に置かれている予想被災民の命と生活が掛っているのであるからして、この審議を疎かにしてはなるまい。先の大東亜戦争につき戦勝国側の軍事裁判を許したが、何事も自国のことは自国が主体になるべきと考える。

 事故調査報告書が既に策定され、今後もより詳細なものが出てくるであろう。だがしかし、これを原発推進派が作成すればロクなことにはなるまい。1985.8.12日発生の日本航空123便墜落事故の報告書と同じく、真相を隠蔽し、原因をどうでも良いようなことにすり替えて曖昧糊塗にしたものにされるのがオチだろう。こういう報告書を幾ら提出しても意味がない。原発推進派と反対派が等分の割合で委員構成した機関が報告書を作成すべきであろう。

 こういう報告がないままの東電救済の為の国家予算の投入、各界への補償は論理的に杜撰過ぎる。応急手当的なものは良い。本格的な国家救済となると、その前に第一義的に東電責任、次に電力会社全体の業界責任が要請されるべきであると考える。当事者の電力会社が血反吐を吐くまで補償の責任を負い、その経緯を経て初めて足らずのところを国家が対応すべきであろう。

 且つ、国家予算をつぎ込むからには、福島原発事故関係者の責任割合に応じて資産没収、逮捕、刑罰まで課せられるべきであると思う。そういうケジメに対する緊張感がない政治は堕落以外の何ものでもない。目下の政治は堕落の極みを演じているように思われる。これが常態化しているので奇異に思われないだけのことではなかろうか。以上、簡単ながら「原発法廷を開け」の弁とする。

 2011.8.26日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№986  れんだいこ  投稿日:2011年 8月27日
【「文系頭脳の原発批判論」その2、東電会長・勝俣恒久の恥部考】

 東電会長の勝俣恒久(かつまたつねひさ )に対する不審を書きつけておく。この御仁は、1997(平成9).3.19日に発生した東電OL殺人事件に妙に絡んでいる気がしてならない。事件発生当時の被害者W泰子(39歳)の直属の上司が当時取締役企画部長の勝俣であった。

 W泰子は慶応大学経済学部卒の才媛であり、東京電力入社後、異例の昇進続きのエリートコースを歩み女性初の総合管理職に就任していたと聞く。企画部経済調査室副長が最後の肩書である。そのW泰子が夜な夜な徘徊し渋谷区円山のラブホテル街をシマとする売春婦になっていたと云う。

 ここに尋常でないものを嗅ぎ取るべきではなかろうか。彼女をそのような身にせしめた背景事情を探らねばならないと思う。上司の勝俣との対立を説く記事が出ているがヤラセ記事の可能性がある。仮に彼女が晩年時の局面で対立し始めていたとしても、それまでの異例の出世の秘密を探るべきであろう。何かあるとするのが自然ではなかろうか。

 勝俣はその後もトントン拍子に出世している。1998年6月に常務取締役、1999年6月に取締役副社長、2002年10月、原発データ改竄事件で引責辞任した南直哉の後任として東京電力の第10代社長に就任。2006年末、第二次データ改竄事件を引き起こし、事故隠し工作に手腕を振う。2008年2月、柏崎刈羽原子力発電所のトラブル、28年ぶりの赤字決算の責任を取り引責辞任する。代表権を保持したまま会長就任と云う履歴を見せている。東大経済学部卒の東電花形の企画部出身であることからすれば、この出世に異常はないのかもしれないが、W泰子が売春婦に化したこととの繫がりの点と線を詮索せずんば気が済まない。

 東京東電OL殺人事件の容疑者としてネパール人男性ゴビンダが逮捕され現在も収監されている。ゴビンダは、W泰子との性的関係は認めているものの殺人を強く否定している。終始冤罪であると訴え、獄中から東京高裁に再審を請求している。

 れんだいこが注目するのは、法廷でのゴビンダ証言である。それによると、W泰子が金儲けで買春していたのではない様子を明らかにしている。こうなると、東電勤務中のトントン拍子の出世過程に何らかの秘密が隠されているのではなかろうか。具体的には判明しようもないが、自らを売春婦化せしめるに至る性事情が隠されているような気がしてならない。

 そういう意味で、ゴビンダ裁判は、冤罪究明と同時にW泰子の売春婦化までの経緯をも究明せねばならないと考える。当然、勝俣はW泰子の性事情に関する知る限りの証言をする為に証言台に立たねばなるまい。ゴビンダ裁判はこう云う風に裁判を構成するべきであろうが司法は取り組むだろうか。聞くところによると、勝俣にW泰子の一件を質すのはタブーだと云う。ならば余計に証言台に起たせねばならないと考える。白なら堂々と弁明すれば良いだけのことではなかろうか。

 もとへ。こういうことを記すのは、三陸巨大震災、中でも福島原発事故に際して見せた菅政権、原子力安全保安院、東電責任者に揃いも揃って人間資質的な意味でのお粗末さを見て取ることができるからである。異常性を訝るからである。勝俣を挙げたのは一例に過ぎない。

 保安院の広報として枝野並に登場し饒舌した西山英彦審議官然りである。経済産業省の女性職員とのスキャンダルを週刊誌に報じられ失脚したが、原発事故対応、被災民救済にてんやわんやの頃の裏で進行していた密会であることを考えると尋常な神経ではなかろう。

 原発推進派連中は揃いも揃って元々がトンデモな奇形人間たちであり、そういう連中によって原発が運用されているのではないかと訝るべきではなかろうか。安全でもクリーンでもない否最も危険でダーティーな原発を、その虚構を知りながら平気で安全喧伝し、行政的に推進してきた連中であり、己の立身出世と財力と権力の為に何をしでかすか分からない連中なのではなかろうか。こういう御仁に説教とか改心を願う方が無理であり、放逐と厳粛な裁判こそが相応しい。

 原発は、社会的良心を持つ新人材によって運用され見直されるべきであると考える。目下のイカガワシイ連中による事後対策は無駄ゼニを天文学的に費消するだけのことであろう。アレバ社を始めとする国際金融資本系にン十兆円かすめ取られるだけのことであろう。且つどんな仕掛けをされるか分からない。こういうことを気にしない連中が経営陣や監督官に就任している。

 こう云う風に思えば、この間、冷や飯を食わされてきた原発警鐘乱打派にして初めて事後処理の任に当たることができるとすべきである。政治は、こういうものを登用する為にするものであり、逆に対応する政治を何と呼べばよいのだろうか。

 ちなみに、事故当日の3.11日、勝俣は中国に居た。マスコミのОB26名を引き連れての7日間の観光旅行中だった。参加者の中に元木昌彦(週刊現代元編集長、現代記事が面白くなくなったのは、こういうことか)、花田紀凱(週刊文春元編集長、マルコポーロ廃刊事件時の編集長、現在Willの編集長、論調が妙にぶれるのも、さもありなんか)、石原萌記(月刊自由発行人、昔からナベツネと気脈通じていると云う)、他に毎日、西日本、信濃毎日、中日新聞社のОBら。

 こういう東電仕立てのツアーは既に10年続いていると云う。日頃公私ともに世話になっている裏舞台が露見したことになる。東電がそうなら他の電力も同じようなことをしているのではなかろうか。官僚の接待批判をする連中のこれが実態であることを確認しておこう。この系の連中がこぞって「小沢どんの政治とカネ問題」に執拗に食いついているのはどういう訳か。相当の恥知らず者とみなすべきではなかろうか。

 2011.8.27日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№987  れんだいこ 投稿日:2011年 8月28日
 【「文系頭脳の原発批判論」その3、理系頭脳の粗雑を嗤う】

 文系的アプローチが次に申しておくべき肝要事は、原発推進派の頭脳のお粗末さに関してである。れんだいこは文系人間である。未だにテレビがどういう仕組みで映るのか、なぜ鉄の船が浮かぶのか、飛行機が空を飛ぶのか、車が走るのか、海をまたぐ橋がどういう構造計算でできるのか、パソコンの仕組みも知らない。そういう意味で理系人間を尊敬してきた。

 福島原発事故は、その理系の粋であると思われる原子物理学者を大勢テレビに登場させたが、初めて理系頭脳の粗雑ぶり、社会的責任感のエエ加減さを知らせることになった。これは発見であった。ひょっとして原発従事者、推進者は必ずしも理系人間ではないのかも知れない。そう思えば相変わらずれんだいこの理系頭脳崇拝は続く。が、否原発こそ理系頭脳を象徴的に表象していると思うこともできる。この場合は理系頭脳を嗤うことができる。以下、これについて思うところを記したい。

 原発の危険性を、原子論や原発構造論の観点から専門的に述べるのは小出裕章(京都大学原子炉実験所・助教)、今中哲二(京都大学原子炉実験所・助教)氏らの良心的な理系学者に任せる。反原発活動家の広瀬隆(早大理工学部応用化学科卒)、第一次ブント活動家の藏田計成(早大)氏らも早くから警鐘運動している(藏田氏は文系かもしれない)。れんだいこは、文系頭脳で原発の非を警鐘乱打させてみたい。原発危険論は理系知識の観点からのみ語られる必要はない。文系からも次のように批判することができる。

 原発がなぜイケナイものかと云うと悪魔科学であるからである。これが結論になる。こういう判断は理系頭脳の発想からは出てくまい。理系と文系にはこういう違いがある。原発がなぜ悪魔科学なのか。それは悪魔の習性を見事に備えているからである。その悪魔が纏いついているとしか思えない科学であるが故に悪魔科学と見定め、手を染めてはいけないと弁えるのが知恵と云うものだろう。原発理論の創始者とも云えるアインシュタイン自身がこのことを鋭く指摘している。

 悪魔はどういう風に取りついているのか。それは、文明に便宜を与えるものとして囁きながら、便宜以上の不幸を背中合わせにして住みつき吸血していることにある。この吸血は何も原発にばかり取りついているのではない。軍事にも政治経済文化精神のあらゆる分野に見られるのが近現代史の特徴である。

 原発で云えば要するに、電力生成中に地球環境に馴染まない冷却水を使用し続けねばならず、これを廃棄しようにも最早廃棄できない種類の放射能汚染にまみれており、これを承知で稼働している。その冷却水をこっそり排出しているということであろう。尋常感覚では、こういうものを商品化したり使用してはいけない。

 次に、これが最も驚くべきことだが、使用済み核燃料の最終廃棄物の科学的分解処理ができず、何と地中奥深くに格納する以外に方法がないと云う極めて原始的無責任な後始末方法のままに稼働されていることにある。青森県の六ヶ所村が処分地になっているが、この地は今後とも永久に厄介な荷物を抱え続けて行く宿命を担わされており、もはや如何ともし難い。しかも、既に満杯と云うことのようである。そういうこともありモンゴル平原の地中に埋める計画が進行中とのことである。

 原発がそういう不完全性のものであれば人類が手を染めてはいけない。少なくとも研究段階に止める代物である。これが文系頭脳の弁えである。ところが、原発推進系の科学者は、これを意に介さずお構いなしに今日まで原発開発を続けており、行政がこれを後押ししている。最近では輸出に精出している。将来、トンデモの国家間賠償が予見されよう。これを平気で押し進める理系頭脳のお粗末さを嗤うだけでは済まされない。子々孫々にまで害を及ぼしタタる科学を当面の利益の為に平然と導入して恥じない没倫理観、価値観を糾弾せねばならない。

 思えば、理系頭脳には、手前が関わる研究が社会にどういう影響、効果、利福あるいはその逆のものなのか、これを問う能力が欠損しているのかも知れない。しかしまてよ、同じ理系でも医学の場合には生体実験、臓器移植等において生命倫理基準が課せられている筈である。最近とみに杜撰になりつつあるが、かって脳死判定を廻って各界の識者が叡智を寄せたのは衆知の通りである。

 それを思えば、原発系理系頭脳と云う風に限定的に捉えるべきかも知れない。原発系理系頭脳には社会倫理が異常に欠損している。脳内にこれを顧慮するコードがないのかも知れない。これを非として強く糾弾しておきたい。

 こたび初めて原発推進組の生身の姿を映像で確認することができた。テレビに次から次に登場したが、推進派の誰一人からも知性を感じ取れる者はいなかった。終始云い訳と大丈夫論を奏でていた。逆に原発批判派にこそ叡智と良心を感じた。

 同じ科学者でも原発推進派と批判派を比べれば、推進派の手合いは、研究費と生活費と出世と小権力さえ与えられれば、後のことは知らんと云って容易に済ませられる精神の破廉恥漢ではなかろうか。理系頭脳の中でも極めつきの倫理観の欠如した連中なのではなかろうか。

 ヒゲヅラで登場する者がかなりいたが、ヒゲを取ればかなり間抜けな顔をしていたのではなかろうか。肩書は立派だが、肩書をはずしてじっくり観察すれば驚くべく知能が低い連中なのではなかろうか。こういう連中が我が物顔で世渡りしながら、人類の前途を台なしにさせるような危険な仕事を平気の平左でしていることを弾劾せねばならない。

 電力なければどうするんだとの反論が聞けそうだが返答しておく。そのロジックは、原発推進派がエコエネ開発の芽を摘み、規制し続けてきた悪事を踏まえて云わねばならない。少なくとも原発に投ずる費用と等分のものをエコエネ開発にも投じていたら、既に日本はこれほどまでに原発に偏る電力供給体制にならなかったのではないのか。否既に不要になっているかも知れない。

 そういう悪事を働いておりながら、電力不足論を云うのは悪代菅の言であろう。つまり、電力をどうするんだと詰問されれば、止むをえん当座は認めよう、但し急速度でエコエネ開発に転換せねばならない、お前はこのことを認めるのか認めないのかと逆に詰(なじ)ってみたい。

 2011.8.28日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№989  れんだいこ 投稿日:2011年 8月30日
【「文系頭脳の原発批判論」その4、汲み取り式トイレマンション考】

 日共の不破が、原発は「トイレのないマンションである」云々と批判していた。れんだいこは違うと思う。リストラの時に残業問題を持ち出す例のすり変え論法と同じであり焦点がぼかされていると考える。そこで云い方を変える。原発とは、「汲み取り式トイレマンションである」。そういうマンションがあるのかどうか分からないが、れんだいこの見立てによれば、こうなる。原発マンションにはトイレがないのではない、汲み取り式トイレなのだ。ここが臭い。

 しかも、このトイレは、汲み取りが定期に来るのは来るが自然界への放流ができない、浄化槽センターで処理することもできない、地下深くに格納するしかできない、そういう曰くつきの末代タタリのトイレである。ここに問題がある。人は果たしてこういうマンションに暮らして良いものだろうか。普通には、こういうマンションは売れないしそもそも製造できない。行政権力を使って強権的に普及させている故に存在するものでしかない。

 なぜ行政が取り組むのか。そこに利権があるからとしか考えられない。これなしには推進は有り得ないと思う。いわゆる原発村は、この利権の巣窟である。どういう利権なのか。それは公共土木事業の数億、数十億、数百億なぞ比ではない一件当り5000億の商戦が介在しているところに特徴がある。イージス艦一艦の購入と同じ金額であり、これにその他諸々のオプションが上積みされる。成約報酬として1割が関係者にバラまかれたとせよ、約500億円が按分されると云う桁違いの利権を生む仕掛けになっている。この仕組みが余りにもオイシイのでフィクサーが暗躍し、政治家が口利きすることになる。この仕掛けなしにはイージス艦も原発基地も導入されなかったと思え。ちなみにこの仕掛けは中曽根政権来のものである。イージス艦購入は中曽根と小泉時代に決定されている。

 人は角栄の公共事業利権を口をきわめて罵(ののし)るが、中曽根―小泉の軍事、原発利権には反応しない。れんだいこは、エエ加減にして貰いたいと思う。角栄の公共事業利権を精査すれば、案外と身ぎれいでさえあるのが分かる。来るもの拒まず届けられるもの拒まずであったが、工事の見返りとして強制したものではない。角栄はむしろ自力調達型であった。その限りで土地転がしを得意としていたが許容範囲ではなかろうか。むしろ財界からの献金を忌避している。ヒモつきになると云うのが理由であった。

 この歯止めをなくしたのが竹下―金丸以降である。他方、中曽根式利権の何たる野卑なことか。大概が税金からのバックマージンを懐にしている。軍用機商戦リベートなぞその最たるものだろう。話が飛ぶが、ロッキード事件で角栄が貰ったとされる5億円は中曽根サイドへ渡っていたものがすり替えられているのが真相ではなかろうか。冤罪は充分考えられる。これが、れんだいこのロッキード事件観である。

 もとへ。原発電力安価論を唱える者が居る。それにはこう答える。これまでに原発に費やした費用、現に費やしている費用、今後費やす費用、こたびの事故のような補償費用を考えても見よ。原発に費やす費用をエコエネ開発に費やせば、却ってエコエネの方が安いのではないのか。よって、原発電力安価論からする原発続投論は論理的に成り立たない。経済学者は、こういうところを解析せねばなるまい。

 これをせずに増税支援の弁論ばかり奏でている。原発屋と同じ穴のムジナである。原発電力安価論をマジに唱えるのなら、電力会社の全責任で補償費用の面倒も見させる見地に立ってから云うべきだろう。これにより初めて原価対比ができる。これが普通の論理式である。都合の良い入口計算だけで安価論を奏で、その間を電力事業体が総員でオイシイところだけ取って、高給取りし贅沢三昧に耽り、いざ事故となると知らんでは虫が良過ぎるのではないのか。これは一種の経済犯罪なのではなかろうか。

 更に云おう。原発行政はむしろエコエネ開発を抑制規制してきた気配が認められる。日本は割合早くにエコエネ開発に着手してきており、元々は原発一辺倒ではなかった。オイルショック後、原発に目が向かったのは史実である。だがしかし、原発一辺倒ではなかった。それが1980年代の中曽根政権の登場と共に原発行政一本化のレールが敷かれた気配が認められる。これにより現在では原発輸出国にまで成長しているが、他方でエコエネ先進国の地位を喪失している。

 政治力でこう云う風にして来たのが1980年代の中曽根政権以降である。中曽根のやったことは軍事と原発の二頭立てであり、国債の乱発であり、消費税の導入の試みであった。靖国神社に公式参拝するなどして愛国者ぶっているが、正体は、正力松太郎、児玉誉士夫系譜のキッシンジャーにより育てられた国際金融資本エージェントそのものではないのか。

 もとへ。今からでも遅くない、日本はドイツを見習いエコエネ大国に向かうべきである。福島原発事故を奇貨として、こう云う風に舵取りするのが政治である。世界の真の態勢は、軍事と同じく原発からの撤退へと向かっている。今や原発体制から如何に上手に転換しエコエネ開発に向かうべきかの競争が始まっている。日本人は「バスに乗り遅れるな」が得意なはずなのに、原発撤退に関してはスローモーな動きを見せている。これはどういう訳だろう。余りにオイシイ原発利権の味が忘れられないと云う理由によってしか考えられない。つまり政治が逆走しており、これによって原発続投が堅持されているとしか考えられない。こういう逆走政治をするのなら政治家は要らない。既に迷惑な存在であり半分でも多過ぎよう。

 原発を廃止すると電力不足に陥るなる論は為にするものでしかなく、原発行政が抑圧してきたエコエネに転換すれば案外早く十年内にも解決するのではなかろうか。それまでの間、原発はとにかく廃止し、水力、火力の補助によらねばならないかも知れない。しかしその割合を計画的に低減させ、日本はエコエネ自立国にならねばならぬ。幸い日本は潮流発電、地熱発電、風力発電、太陽光発電等々の天然資源に恵まれている。事と次第によってはエネルギー大国になる可能性がある。これを論証し指針するのが政治家であり官僚であろう。そして、仮に技術者に社会倫理感が乏しくても、政治の指針で導けば良い。ここに文系頭脳と理系頭脳のミックスせねばならない理由がある。二種の頭脳はこう云う風に提携し合うべきはなかろうか。

 なお、前稿で原発の悪魔科学性を素描したが、この悪魔科学がどういう風に登場し、現在なお威勢を振っているのかをみれば、何とこれを推進してきたのがネオシオニストどもであり、連中は宗教的に悪魔崇拝教であると云う辻褄になっている。この解析については別稿で行うものとする。

 2011.8.30日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№990 れんだいこ 投稿日:2011年 8月31日
【「文系頭脳の原発批判論」その5、原発から脱兎の如く転換するしかない】

 2011.6.6日、福島原発事故を見て、ドイツのメルケル政権がそれまでの逡巡を棄て「早期に脱原発へ政策転換を図る方針」即ち「原発廃棄」へと政策転換した。ドイツ国内にある17基の原発すべてを遅くとも2022年までに閉鎖する、旧式の7基は再稼働しないとしている。これは賢明な政治判断であり、当事国の日本が未だに原発続投を姿勢としているのと比べて鮮やかな対比ではなかろうか。これに比べれば日本の優柔不断は度し難い。

 付言しておけばドイツは賢い。いつの間にか東西ドイツを併合している。朝鮮半島では南北朝鮮が一時の雪解け太陽路線に入っていたがいつの間にか元の木阿弥に戻って戦争状態を繰り返している。日本で、糸魚川線で東西に国別れし反目する事態なぞ考えられるだろうか。祖国統一できない連中はお粗末としか言いようがない。世界の紛争なぞ意図的故意に造られていると思った方が良い。

 もとへ。世界の原発基地数は2010年現在で、1位・アメリカ104、2位・フランス59、3位・日本54、4位・ロシア31、5位・韓国20、6位・イギリス19、7位・カナダ18、9位・ドイツ17、10位・ウクライナ15、11位・中国11、12位・スウェーデン10となっている(詳しくは「原子力発電所」参照のこと)。国際金融資本の影響力の強い国で積極的なことが分かる。日本は3位であり、相当入れ知恵されていることになる。

 世界の風力発電GWは2010年現在で、1位・中国42、2位・米国の40、3位がドイツの27、4位・スペイン20、5位・インド13、6位・イタリア5、7位・フランス5、8位・英国5、9位・カナダ4、10位・デンマーク3。日本は出てこない。世界の地熱発電MWは2007年現在で、1位・アメリカ2534、2位・フィリピンの1930、3位・メキシコ953、4位・インドネシア797、5位・イタリア790、6位・日本535、7位・ニュージーランド435、8位・アイスランド172、9位・コスタリカ162、10位・エルサルバドル151。日本は6位。2008年末の太陽光発電の総設備容量はドイツが1位で540万キロワット、2位がスペインで230万キロワット、日本は197万キロワットでドイツのわずか40%弱という状況とのことである。

 こういうエコエネになぜ転換できないのか。上記の指表を見ればできない訳がない、やる気がないだけと云うことが分かる。技術的に充分可能であり現に稼働していることを見てとらなければなるまい。遅れを取っている真因が原発利権族の圧力規制によることについては前稿で確認した通りである。してみれば、原発村に寄生する魑魅魍魎を解体し一掃するしかない。大胆な政治能力が問われる所以である。政治家は口先では国民の生活が大事と云う。云いながら反対のことばかりしているのが生態である。つい先日まで菅の政治履歴に食傷してきたが、典型的な道化政治だったであろう。

 諸外国の例の中でニュージーランドの電力行政が注目に値する。同国の有電力会社であるジェネシス・エナジー(Genesis Energy)がニュージーランド北島キャッスル・ヒル(Castle Hill)近くでの600メガワット規模の風力発電所建設計画を明らかにしている。今後、詳細な検討を進め、風力タービンや発電所の設計、建設などに関する具体的な計画を2011年半ば頃までに決定する見込み云々。ニュージーランド風力エネルギー協会(New Zealand Wind Energy Association)によると、同国は2009年末時点で511メガワットの風力発電設備を導入。既に発電能力全体の4,9%を占めており、今後も続々と導入計画が進んでいると云う。

 他にも世界最大の地熱発電設備を計画している。日本企業の富士電機と住友商事が地熱発電プラントを受注している。地熱発電は太陽光や風力と違って天候や気象条件に左右されない利点がある。ナ・アワ・プルア地熱発電所内の地熱発電プラントが稼働すれば地熱が占める電力比率は14%に高まる見込み云々。Mighty River Powerは8つの水力発電所と4つの地熱発電所などを運営する発電企業であるが、同国の電力の2割弱を発電しているという。ニュージーランドは国を挙げてエコエネに力を入れており、総発電量の57%を水力、11%を地熱、4,9%を風力で賄っている。エコエネが総発電量に占める割合は実に72,5%にも及ぶ。元々原発を導入しておらず、それどころか今や10年間に渡って天然ガスや石炭を燃やす火力発電所の新規建設を禁止している。既に国営発電所で天然ガスを燃料とするものは禁止されており、一般企業にもまもなく適用されるようになる云々。

 こういう例は西欧でも見られるのではなかろうか。特にドイツが抜きんでようとしている。してみれば、世界は今や原発組と反原発組が二手に分けれて、それぞれが定向進化し始めていることになる。日本は福島原発事故の深手にも拘わらず原発輸出に向かい始めている。鳩山―菅政権時代の動きであり、安全クリーンのエコエネとして売り出しているが、後々世紀の愚策と判断され、天文学的な国家間賠償に引き込まれる恐れが強い。鳩山―菅派政治のお粗末さは既に見て来た通りである。

 これを止めさせるのは主権者の確固とした見識に基づく回天革命運動によるしかない。原発利権組を掣肘し大胆に反原発エコエネに乗り出すしかない。まだまだ言及したいことがあるが、これにてこの稿をひとまず終える。

 2011.8.31日 れんだいこ拝

【「文系頭脳の原発批判論」その2、東電会長・勝俣恒久の恥部考補足】
 【「文系頭脳の原発批判論」その2、東電会長・勝俣恒久の恥部考】補足として、以下の一文を転載しておく。後日、整理したい。
 「阿修羅★阿修羅♪ > エネルギー2」のtaked4700氏の2009.10.20日付け投稿「佐藤栄佐久前福島県知事の裁判と二つの事件、日本のエネルギー政策を左右する影
 (

 佐藤栄佐久前福島県知事の裁判が話題になっている。警察による冤罪事件ではないかというものだ。福島県は二つの原子力発電所に合計10基の原発がある。更に、2基が建設中および計画中だ。そして、佐藤前福島県知事は、プルサーマルなどの原子力政策に反対していた。他にも、佐藤前福島県知事はかなり目立っていたらしいから、いろいろと狙われる理由はあったのかも知れない。しかし、一応、原子力政策に対する反対が理由だと仮定して、他の事件を見てみると、あるひとつのリングが見えてくる。

 まず、佐藤栄佐久前福島県知事が異を唱えていたプルサーマルについて述べる。プルサーマルとは、熱中性子(thermal neutron)によりプルトニウムを核分裂反応させて発電を行う原子炉のことを指す。なおプルサーマルとはプルトニウムのプルとサーマルリアクター(軽水炉)のサーマルを繋げた和製英語(plutonium thermal use)である。(この部分は、ウィキペディアのプルサーマルの項から。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AB)つまり、簡単に言ってしまえば、原子力発電で大きなネックになっている二つの問題、つまり、原子力資源であるウランが輸入に頼っていることと使用済み核廃棄物であるプルトニウムの処分方法の両方を一挙にほぼ解決するものなのだ。つまり、輸入に頼るウランを一度燃やしてできたプルトニウムを再度燃料に使えるので、日本においては二重の意味で有利な発電方法なのだ。しかし、普通の原子炉に、プルサーマル燃料と通常の燃料の二種類が混ざって装填されるため、制御が難しく、特に地震などの際に安全性が確保されるかどうかが問題になる。

 そして、日本においてプルサーマル計画が大きく動き出したのが1997年だ。この年の2月4日、核燃料サイクルについて了承するという閣議決定がされ、同2月21日には電力11社によるプルサーマル全体計画が発表されるのだ。以降、プルサーマル計画の説明が新潟、福島、福井県に対してされていく。(この部分は、
 http://www.rist.or.jp/atomica/data/pict/17/17010608/01.gif
を参照のこと)

 同じ1997年の3月8日、東電OL殺人事件が起こっている。こちらは、東京電力の上級女子社員が売春客に殺されたという事件だ。東電という一流企業のそれも上級社員が何年間にも渡って売春をしてい、時には売春客を拾う路上で放尿までしていたとして、マスコミで大騒ぎになった事件だ。しかし、この事件には、大きな矛盾がいくつもある。もっとも大きな矛盾は、なぜ被害女性が売春をしていたのかというものだ。39歳で年収が1000万円以上あり、金銭的に困っていたとは思えない。また、自分が書いた経済リポートが賞を受けるなど、仕事上でも十分にその才能が認められていたはずなのだ。また、もし売春が事実だとしても、事件は殺人事件でありその被害者なのだから、たとえ刑事裁判の公判ではそのことを言わざるを得なくても、報道についてはそのことを伏せるという配慮がされてもよかったし、東京電力が大企業であることから、自社のスキャンダルを報道させないという圧力をマスコミにかけることもできたはずだ。更に、被害者は自分が東京電力の上級社員で経済レポートなどを書いている再三再四売春客に語っていたとされる。それならば、なぜ、そういったうわさが東電本社に伝わらなかったのか、または、週刊誌にネタとして売られなかったのか?更に、事件が起こってからマスコミが大騒ぎすることに対し、被害者の母親が、「娘がそういうことをしていたことを自分は知らなかった。殺人事件の被害者なのだから静かにしてほしい」という趣旨の手紙をマスコミに送っているのだ。しかし、刑事裁判の場で警察は、被害者が自宅に帰らなかったため、母親が捜索願を出しに来て、「娘は売春をしているのでその関係で事件に巻き込まれたのかもしれない」と言ったと証言しているのだ。しかし、自らも東京の一流私大を出て、東大出の東京電力の管理職にまでなった夫を持っていた母親が、娘に東京電力社員ありながら売春をさせるだろうか、少なくとも何年間もそういった状態を続けることを許すだろうか?更に、刑事裁判の場で証言した売春客はすべて本名や顔を隠しての証言だった。つまり、本当にそれらの証言が正しいものかどうかの検証は一般人にはできないのだ。また、彼女が売春によって稼いだはずのかなりの金額の金についてもうわさを除いてきちんとした検証はまったくされていないのだ。

 更に、東電OL殺人事件の犯人であるとされるネパール人は、犯行を否認してい、実際、第一審では無罪判決を受けているのだ。殺人事件自体の経過でさえ、さまざまな矛盾点があり、事件後12年を経た現在でも冤罪事件であると言う主張がされている。つまり、東電OL殺人事件も、売春と言う実態があったとは到底思えず、一種の作られた事件であるはずだ。(以上の記述は佐野真一著「東電OL殺人事件」、「東電OL症候群」と言う新潮文庫の本から。以降も、東電OL殺人事件について記述は、この2冊の本から。)

 では、なぜ、東電OL殺人事件が起こったのか?被害女性の父親は、やはり東京電力に勤めていて、1977年にがんで亡くなっている。その2年前、工務部全体を統括する副部長と言う管理職になりなぜか一年で降格され、その一年後のガンでの死だ。そして、この時期は、原子力の危険性が世界中で言われていた時期なのだ。1974年、アメリカでもタンプリン(A.R.Tamplin)及びコクラン(T.B.Cochran)がプルトニウムの細かい粒子が肺に及ぼす影響を警告している。
 (http://www.jaea.go.jp/04/nsed/ers/radiation/refa/dresa/term/bp002290.htmを参照)
 また、同年、カレン・シルクウッド事件という、プルトニウム燃料工場での放射線被爆に関する内部告発者が事故死すると言う事件が起こる。
 (http://www32.ocn.ne.jp/~everydayimpress/Video/Silkwood.htmを参照)
 更に日本においては、原子力船むつで放射能漏れ事故が起こったり、浜岡原発や福島の原発で配管に亀裂が生じていた疑いが出るなどのことがあった。
 (http://www.rist.or.jp/atomica/database.php?Frame=./data/bun_index.htmlを参照)

 つまり、被害女性の父親は、原子力発電の危険性を指摘して管理職から降格された可能性が強いのだ。彼は、高圧の地中送電線を東京都内に引く責任者を務めていたというから、地震の地盤への影響についても詳しかったはずだ。そして、父親がガンでなくなった1977年、彼女は大学二年生だった。だから、この時期、彼女が原発に関する父親の見解を聞いている可能性は強い。父親の死後3年の1980年、彼女も東電に入社する。

 ちなみに、スリーマイル島原発事故が1979年、チェルノブイリ原発事故が1986年である。青森県六ヶ所村での核燃料廃棄物再処理工場の建設が始まるのが1993年、そして、1995年、阪神大震災が起こる。多分、阪神大震災を見て、彼女は日本における原発の危険性を東電内部で発言し始めたのではないだろうか。阪神大震災の一年ほど前、「東京イニシアチブ」と言う論文が発表され、そこには、「高温岩体の地熱発電への研究開発資金を大幅に増やせば、日本国内に大きなエネルギー資源が見つかるかもしれません。北海道と本州の4300平方キロメートルの地域が高温岩体の井戸に適した条件を持っているそうです(1992年電中研ニュース)。2000メートルから4000メートルの深さまで掘ることによって、約40万メガワットの発電が可能。この発電力は日本全体の発電能力の2.5倍。この電力の予測価格は、キロワット時あたり13円でした」
 (http://eco.nikkei.co.jp/column/maekita_miyako/article.aspx?id=MMECcc005002082007を参照)
 と書かれていたと言うから、彼女も日本における地熱発電の可能性について理解していたはずであり、原発の代わりに地熱発電をと言う主張はそれなりに説得力がある。

 しかし、これらのことは、東電OL殺人事件発生当時、まったくマスコミに取り上げられることはなかった。マスコミの関心は、その後、神戸連続児童殺傷事件によってまさに乗っ取られていくからだ。

 神戸連続児童殺傷事件は1997年5月24日、14歳の中学男子生徒が11歳の知的障害のある男子児童を殺害し、翌25日その児童の首を切り落とし、26日未明に男子生徒の通学していた中学の正門前にその頭部を犯行声明文とともに置いたという事件である。そして、これら一連の事件は、東電OL殺人事件の容疑者とされるネパール人が逮捕された5月20日の直後と言うタイミングなのだ。つまり、東電OL殺人事件の犯人逮捕がされ一応事件のけりがついたとされた直後に神戸連続児童殺傷事件が起こるのだ。しかし、神戸連続児童殺傷事件にしても、とても14歳の男子中学生の犯行とは思えない事件だ。11歳の児童を連れて自宅そばの丘に登りそこで殺害して首を切り、その首を中学の門に置くと言う一連の犯行は、一切目撃されていないし、指紋などの直接的な証拠も一切ない。唯一あるのは少年の自白なのだが、その自白さえも多少でもきちんと見れば矛盾点だらけという代物だ。これらのことについては、神戸小学生惨殺事件の真相(http://w3sa.netlaputa.com/~gitani/pamphlet/kyumei.htm)にかなり詳しく述べられているし、「神戸事件を読む 酒鬼薔薇聖斗は本当に少年Aなのか?」という熊谷英彦と言う方が書いた本にもかなり説得力を持つ論理が展開されている。

 そして、これらの事件が起こった1997年は、新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法が作られた年でもある。4月に成立しているが、そこでは、それまで国庫補助の対象であった地熱発電がはずされたのだ。その後、この法律は、2002年に改正されているがその際も地熱発電は補助対象にならずバイオマス発電などが補助対象として新たに指定されたのみである。更に、2008年にも改正が行われているが、その際には、地熱発電の内小規模発電に適しているバイナリー発電のみが補助対象として指定されている。そのため、1990年代後半から地熱発電の新規開発は止まってしまうのだ。ある程度の規模のある最も新しい地熱発電所は1993年から企画され1997年に自然公園法の認可を得た500kwの九重地熱発電所で大分県の九重町にある九重観光ホテルでやっているものだ。

 以上のような経緯を見たとき、佐藤栄佐久前福島県知事の裁判がいかにも非論理的であり、反原発を主張する人々を黙らせるためのものであるということが、ある程度納得いくのではないだろうか?

 つまり、東電OL殺人事件は、日本の電力会社関係者を始め、政策立案に当たる役人や政治家に対する圧力として起こされたのだ。だからこそ、徹底的に被害者の人格を貶める必要があったのだ。ただ、基本的にはすべてでっち上げであったから、いつまでもこの騒ぎを続けることができなかった。殺人犯としてネパール人を仕立て上げたのも、日本国内に仲間がいない人でないと、事件そのものがおかしいと言う反論をされてしまうため。多分、被害女性の関係者から何らかの反論がされそうになったので、急いで、かねてから用意されていた神戸連続児童殺傷事件が起こされたのだ。そうすることで、マスコミや世間の関心を新たな事件に向け、東電OL殺人事件そのものの風化を狙ったはずだ。2009/10/21 10:02
 02. 2011年1月12日 07:39:49: bmpI9gJ3xk
 新潮文庫「東電OLシンドローム」には、犯人とされたネパール人の方が、被害者との買春を認めたと書かれています。これは、典型的なマインドコントロールでしょう。田中森一の「反転」幻冬舎アウトロー文庫の207ページに次のように書かれている。
「他の事件でも手法は同じ。狭い拘置所の取調室で、被疑者に同じことを毎日教え込むと、相手は教え込まれた事柄と自分自身の本来の記憶が錯綜しはじめる。最後には、こちらが教えてやったことを、さも自分自身の体験や知識のように自慢げに話しだすのである。そういう被疑者を何人も見てきた。」
 03. 2011年3月28日 16:09:36: E4le7lINB6
「木村永佐久+裁判」というキーワードで、検索していてこの頁に到達した。現在最高裁で審理中か?
 以下、コメント
 → 記述内容の重大性にもかかわらず、憶測、あるいは推測で語られている部分が多いのではないか?特に、決定的に重要な部分、「かねてから用意されていた神戸連続児童殺傷事件が起こされた」という、くだりについては、もう少し慎重な表現にした方が良いのではないか? 私としては、その部分への評価は保留するが、その前段までの部分については、基本的に賛成する。いずれにせよ、日本のマスコミに対する監視を、強めていく必要があることを、この投稿は示唆している。マスコミが我々をあざむき、権力者にとって有利な方向に誘導するために利用されることは、前々から言われていることであるが、特に日本では、権力との癒着が深刻であることを、肝に銘じて我々市民は、マスコミに接する必要があるのだろう。そのための一つの武器が、ネットであると思う。
 06. 2011年5月20日 19:49:52: iUHxUxxaDY

 >邪魔者であれば、注目を浴びるようなセンセーショナルな事件にせず、交通事故や自殺を装うんじゃないかな。

 記事の投稿者のtaked4700です。

 被害者の父親はがんで亡くなったわけです。まさしく「注目を浴びるようなセンセーショナルな事件にせず、交通事故や自殺を装う」形で亡くなられたのです。そして、次に、1995年、阪神大震災を引き起こした兵庫県南部地震が起こりました。これにより、日本列島は地震の活動期に入ったと言われました。また、石橋克彦教授により地震が原発震災を引き起こすと警告がされたのが1997年です。多分、そのことも被害者には伝わっていたのでしょう。ともかく、電力業界の中でも、学者や政治家の中でもそして官僚にも、原発が危ないと言う危機感を多く持った人たちがかなり出てきたはずなのです。多分、このことはかなり常識的なことです。なぜなら、原発が大きな地震に直撃された例は世界で一例もなく、日本は世界の地震の1割とか2割が起こる地震国ですから、原発直下の地震が日本で起こるかもと心配し、日本の原発が原発の耐震性の実験台になりつつあると思うはずだからです。なお、チェルノブイリ事故が直下の地震により起こされたという「デンマークのミルトン・メディア及びデンマーク放送協会が制作したドキュメンタリー」はやはり1997年のものだそうです。(『巨大地震が原発を襲う』船瀬俊介著、地湧社62頁)

 よって、こういった動きを封じるためには、明白な脅しが必要であり、徹底して被害者を貶める必要があったのでは?そういった仮定をしないと、あまりにも東電OL殺人事件は不可解ですし、サカキバラセイト事件も同様です。そして、日本における原発政策も同様に不可解なのです。

 07. 2011年5月20日 20:32:30: iUHxUxxaDY
06です。一部コメントに間違いがありました。

http://www.ailab7.com/log/eqlog1151-1170.htmlの下の方に石橋教授の投書の文章が載っていました。これを読むと1999年の投書であるように思えます。JCO事故が1999年のものですから、1997年ではないですね。ただ、石橋教授が1997年から原発震災を警告してきたのは事実であるようです。
http://historical.seismology.jp/ishibashi/opinion/2011touhoku.html
には「私は、大地震によってこのような事態が生ずることを憂慮し、1997年から警鐘を鳴らしてきましたが、こんなに早く懸念が現実化してしまうとは思いませんでした。」と、教授自身の言葉として書かれています。

 以下は、 http://www.ailab7.com/log/eqlog1151-1170.html より引用:

 今こそ「原発震災」直視を 石橋克彦

 九月末に茨城県東海村の民間核燃料加工施設で起きた臨界事故の真の散訓は、原子力の本質的な恐さを見据えて、あらゆる面での安全性を総点検し、それを踏まえて原子力政策を根底から考え直すことだろう。しかし現実は、ずさんな施設の安全性確保や小規模事故の防災体制といった議論にとどまっている。小論では、見過こされている「原発震災」の現実的可能性を直視すべきことを訴えたい。それは、原子力発電所(原発)が地震で大事故を起こし、通常の震災と放射能災害とが複合・増幅しあう破局的災害である。

 政府・電力会社は、原発は「耐震設計審査指針」で耐震性が保証されているから大地震でも絶対に大丈夫だという。しかし、その根底にある地震(地下の岩石破壊現象)と地震動(地震による揺れ)の想定が地震学的に間違っており、従ってそれに基づいた耐震性は不十分である。

 そもそも、日本列島の地震の起こり方の理解が進んだ今となっては、列島を縁取る一六の商業用原発(原子炉五一基)のほとんどが、大地震に直撃されやすい場所に立地している。日本海東縁~山陰の地震帯の柏崎刈羽・若狭湾岸・島根、 「スラブ内地震」という型の大地震が足下で起こる女川・福島・東海・伊万、東海巨大地震の予想震源域の真っただ中の浜岡などである。原子炉設置許可の際、過去の大地震や既知の活断層しか考慮していないが、日本海側などでは大地震の繰り返し年数が非常に長いから、過去の地震が知られていない場所のほうが危険である。

 また、活断層が無くてもマグニチュード(M)7級の直下地震が起こりうることは現代地震科学の常議であるのに、原発は活断層の無いところに建設するという理由でM6・5までしか考慮していない。しかも実ほ、多くの原発の近くに活断層がある。最近、島根原発の直近に長さ8キロの活断層が確認されたが、中国電力と通産省は、それに対応する地震はM6・3にすぎないとして安全宣言を出した。しかし、長さ八キロの活断層の地下でM7・2の1943年鳥取地震が起こって大災害を生じたような実例も多く、この安全宣言は完全に間違っている。

 要するに、日本中のどの原発も想定外の大地震に襲われる可能性がある。その場合には、多くの機器・配管系が同時に損傷する恐れが強く、多重の安全装置がすべて故障する状況も考えられる。しかしそのような事態は想定されていないから、最悪のケースでは、核暴走や炉心熔融という「過酷事故」、さらには水蒸気爆発や水素爆発が起こって、炉心の莫大な放射性物質が原発の外に放出されるだろう。一般論として原発で過酷事故が起こりうることは電力会社も原子力安全委員会も認めている。一方、米国原子力貴制委員会の報告では、地震による過酷事故の発生確率が、原発内の故障等に起因する場合よりずっと大きいという。

 例えばM8級の東海地震が起これば、阪神大量災を一ケタ上回る広域大震災が生じ、新幹線の脱線転覆などもありうる。そこに浜岡原発の大事故が重なれば、震災地の救援・復旧が強い放射能のために不可能になるとともに、原発の事故処理や近隣住民の放射能からの避難も地震被害のために困難をきわめ、彼災地は放棄されて真大な命が見殺しにされるだろう。また、周辺の膨大な人々が避難しなければならない。浜岡の過酷事故では、条件によっては、十数キロ圏内の九〇%以上の人が急性死し、茨城県や兵庫県までの風下側が長期居住不能になるという予測もある。

 このように原発震災は、おびただしい数の急性および晩発性の死者と障害者と遺伝的影響を生じ、国土の何割かを喪失させ、社会を崩壊させて、地震の揺れを感じなかった遠方の地や未来世代までを容赦なく覆い尽くす。そして、放射能汚染が地球全体に及ぷ。この事態に対して、臨時国会に提案されるという原子力防災法案は、本紙(注-朝日新聞)の報道で概略を知る限り何の役にも立たない。地震活動期に入りつつある日本列島で51基もの大型原子炉を日々動かしている私たちは、ロシアンルーレットをしているに等しい。この地震列島・原発列島に暮らすすべての人々が、この現実を正しく知って、どうすべきか考える責任がある。 (神戸大学教授・地震学=投稿)

 11. 2011年7月21日 16:29:02: ieWTAudjoA

 わかる人だけに分かる、血も凍るような見せしめですか。一昨年秋の平岡都さん事件も手が込んでいますし。昔から、世の中をうすうすおかしいとは感じていましたが、あることをきっかけに芋蔓式にこちらのサイトを知り、現実に自分は恐るべき世界に住んでいたのだと実感しました。もはや知らぬが仏で天寿を全う出来ないのは、幸なのか不幸なのか? 知った以上は仕方ない。「義を見てせざるは勇なきなり」。納得できる世の実現のためにほんの僅かでも役に立ちたいです。
  「★阿修羅♪ > エネルギー2」のtaked4700 氏の2009.10.27日付け投稿「「東電OL殺人事件」を読み直して

(回答先: 佐藤栄佐久前福島県知事の裁判と二つの事件、日本のエネルギー政策を左右する影 投稿者 taked4700 日時 2009 年 10 月 20 日 06:40:31)

 ここ数日、何冊かの本を読んでいる。その内のひとつが「東電OL殺人事件」だ。何年か前に読んだものを改めてもう一度読み直したのだが、徹底した悪意が事件を作り上げているのだなと改めて考えた。そういった悪意は神戸連続児童殺傷事件にも、桶川女子大生殺人事件にも感じるものだが、そこまでの悪意を生むものとはいったいなんだろうという疑問が浮かんできてしまう。そういった悪意が生まれるはずがないというのではない。そういった悪意を持ってしまった場合、それが通用しなくなるという不安を感じないのだろうかという疑問だ。余りに徹底的に相手を叩きすぎていて、その反動が自分に向かうのではという危惧を抱かないのかという疑問だ。

 もう一つ気が付いたのが、盗聴法とか共謀罪などの法案審議がされたのと和歌山毒カレー事件がシンクロしていたということだ。

 終戦後、一時期の労働運動許容期を過ぎて、下山事件、三鷹事件などGHQが絡んでいたとほぼ認めることが出来る謀略事件が多発したが、ソ連崩壊と同時進行したバブル崩壊以降に日本で起きたさまざまな事件も、同じような構図であるように思う。太平洋戦争後の事件は主に日本社会の共産化を妨害するために起こされたものだったが、1990年代ぐらいから起こっている事件は日本を植民地化するための、主に経済的な利益を狙って起こされた事件だ。

 10年とか20年を振り返ってみるといかに激動の時代だったか、いまさらながらに再度認識する次第だ。いかに自分が世間知らずだったか、現実の世界で何が起こっていたのかを知らずにいたのかを今一度思い知った次第。  


れんだいこのカンテラ時評№1069  投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年10月12日

【「文系頭脳の原発批判論」その6、国際ユダヤの悪徳商法そのものとしての原発利権を弾劾せよ

 れんだいこは既に脱原発に向けての論考「文系頭脳の原発批判論」を№1から5まで発信している。

 れんだいこの「文系頭脳の原発批判論」
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/genshiryokuhatudenco/jicojikenco
  /2011sanriku/bunkeizunonogenpatuhihanron.html)

 本論考で世の迷蒙を撃ったつもりでいるが、原発利権族の蠢動が止まらない。批判の舌鋒がなお足りなかったと反省し№6を添えることにする。我々はなぜ脱原発に向かわなければならぬのか。その科学的地球環境的文明的批判は既にかなり為されているので、本稿で未だ為されていないと思われる反ユダヤ主義観点を付け加えることにする。

 2012年10月現在、日本政界の保守系政党と財界は、福島原発事故の後処理がままならぬ最中に於いて原発続投を掛け声している。民主党政権は「2030年脱原発」を掲げているが、脱原発に力点を置いているのか、2030年までの引き延ばしを画策しているのか態度が曖昧である。れんだいこには、引き延ばしの方に重点があるように見える。我々はそろそろ日本の政財界を覆う原発続投が何に起因するのかを問わねばならないのではなかろうか。

 既に原発続投派のロジックは至るところで破綻している。原発なしに電力の安定供給が覚束ないと云うのであれば、何故にドイツでは2022年までに原発ゼロを目指すことが可能なのかを問わねばならない。ニュージーランドはかなり早くより脱原発国家になっており今日では脱火力さえ目指す先進エコエネ国家になり得ているが、なぜ可能なのかを問わねばならない。既に原発登場時に比してエコエネ技術の発展が目覚ましく、官民共同総力で取り組めば脱原発は案外と容易なのではなかろうか。然るに何故に執拗に原発続投が画策されているのか、これを問わねばならない。

 出て来る解は、国際金融資本の圧力である。それしか考えられない。では国際融資本とは何者か。これを簡略に説明すれば要するに、近現代史を操る裏世界政府だと思えば良い。そのようなものが存在するのか、実体があるのか。こう問うこと自体が封印されている。世に云う陰謀論批判がこれを援護射撃している。しかしながら、この禁断の扉を開けて見えてくるのは然りの解である。但し、この解は論者によって色々に語られる。ここに大田龍が登場する。大田龍は丹念な歴史考証によって裏世界政府の正体を明かした。それによると、近代史に於いて西欧諸国家を金融コントロールすることで財を為したロスチャイルド系国際金融資本を頂点とする財閥及びその閨閥が裏世界政府の実体であると。本当にそのようなものが存在するのか。れんだいこは然りと答える。

 日本は永らくの間、極東の小さな島国として、ロスチャイルド系国際金融資本を廻る西欧史的抗争に巻き込まれることなく経緯して来た。西欧史的な抗争の扉が最終的に開かれたのは1853年の黒船来航と翌年の日米和親条約によってであり、その後も国際金融資本特有のスティルス的間接支配により捉えにくい為に連中の策動を認め難いのであろうが、西欧史の戦争と革命の動乱史、世界分割植民地史を紐解けば一目瞭然である。極東の小さな島国の日本の常識で測っていては真相が見えないだけのことである。かく自覚せよ。

 もとへ。原発は国際金融資本の生み出した発電装置であり、元々は原子爆弾に由来する。第二次世界大戦後、原発の爆発エネルギーの電力化として生み出されたものが原発である。その際頻りに平和的利用が云われたが原義は平和にあるのではない。軍事用の原子爆弾を非軍事的に利用すると云う利用すると云う意味での平和的利用に過ぎない。そういう意味で、便宜的用語として平和が冠せられたものに過ぎない。原発導入時、原発が果たして平和的なものであるのか、正しい冠詞であるかどうかの詮議が必要なところ、その論議は封殺された。アインシュタインを始め多くの原発学者が原爆の平和的利用はあり得ない、そもそも稼働中の危険、有害物質排出、最終核廃棄物の不具合を指摘し未完の科学でしかないとして強く反対したのは衆知の通りである。これらの危惧を封印して無理やりに生み出されたのが原発である。原発誕生経緯のこの不正を再確認せねばなるまい。

 原発はあろうことかその後、地球環境汚染が云われ始めるや安全クリーンエネルギーとして喧伝され始めた。この時も、原発が本当に安全クリーンエネルギーなのかどうかの詮議は為されなかった。表面的な石炭、石油の化石燃料に比しての排出ガス量の比較でのみ、これを排出しない原発の優位性を誇ったものに過ぎない。学問が本来の学問であれば、化石燃料的ガスを排出しない原発固有の長所と環境を放射能汚染し続け且つ最終核廃棄物の処理ができていない短所とを比較検討し、石炭、石油その他燃料との総合比較をせねばならぬところ、有利な一指標でのみ測り、安全クリーンエネルギーとして喧伝したに過ぎない。

 れんだいこが注目するのは原発推進勢力のこの詭弁(きべん、sophism)である。この論法、論理はどこかで聞き覚えがある。敏(さと)い読み手は気づくであろうが、西欧圏世界でその昔にイエスが論争したパリサイ派の論法、論理そのものである。かの時、イエスは、パリサイ派の神義学の不正と虚偽を論難し抜いた。「神の名を騙りながら神を欺く不敬の輩」としてパリサイ派教義を論駁し抜いた。本稿はこれを確認するものではないので割愛するが、イエスがパリサイ派の信仰を人類の厄病神信仰、悪魔主義信仰であるとして批判したことを結論的に共有したい。

 但し、イエスの論難をもってしてもパリサイ派を排撃できなかった。否排撃されたのはイエスの方であった。但し、イエスの論難は捻じ曲げられた形でキリスト教へと転化させられ、西欧諸国家はキリスト教国家として秩序形成して行くことになった。西欧史ではこの時代を中世と云う。その間、パリサイ派は雌伏を余儀なくされた。但し、したたかに歴史に生き延びた。そのパリサイ派が台頭し西欧圏で猛威を振い始めるのが近代である。この流れが現代へと続いており今日へと至っている。これを逐一論じると紙数を増すばかりなので割愛するが、要するにパリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰はロスチャイルド系国際金融資本の教義となり、ロスチャイルド系国際金融資本は、この教義を元に今も世界を造形しつつ裏世界政府となって各国を支配していると云う認識を持ちたい。国際金融資本が頭脳であり、パリサイ派の教義がイデオロギーである。

 かく踏まえた次に確認せねばならないことは、原発とロスチャイルド系国際金融資本の関連性である。れんだいこは、原発はパリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰がもたらした悪魔科学の産物であると認識している。かような禁断科学に手を染めること自体がパリサイ派教義の為せる業であり、世界広しと雖もパリサイ派以外には見当たらない。パリサイ派教義の賜物としては他にも軍事科学がある。まさに軍事科学と原発科学とはパリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰がもたらした双頭の鷲である。かく認識したい。

 パリサイ派、現代国際金融資本が何故に原発と軍事科学に飛びつくのか。これを興味ある論考課題である。本稿は、これを論証するものではないので結論だけ記すとすれば、要するに典型的なユダヤ商法であり、その旨味(うまみ)が手を染めさせていると云わざるを得ない。ユダヤ商法とは手っ取り早く巨額に儲け、後は野とななれ山となれで、食い散らした後は別天地で稼げば良いとする乱攫式金貨思想を得手としている。原発と軍事科学がこの商法と相性が良い。故に原発と軍事科学ほどパリサイ派、現代国際金融資本のらしさを具現するものはない。

 例えばこういうことである。イージス艦1艦、原発1基の建造コストが共に約1兆円で単体として巨額である。これに一取引当たり数千億円の利権が絡んでおり、故にこれに群がることになる。それによる被害者達が発生するとして彼らは寸毫も顧慮しない。彼らの眼(まな)差しは虐待的で、ユダヤ民族以外は犬猫畜生類に等しいゴイムに他ならないとする選良主義、その裏返しとしての家畜主義に基づいている。要するに「神の特別の恩寵に預かる民」以外には悼みを感じないように育てられている。その根源にあるものは、一宿一飯の温情に対して義理を感じるのではなく逆に恩を仇で返す悪知恵であろう。これを幼児より仕込むと云う特殊な教育を良しとして誇っている。

 れんだいこが原発に思うのは、そのような悪魔主義性である。このようなものは幾ら目先に便宜であっても利用してはいけない。このようなものが地球のあちこちに敷設されるのはまことに人類の危機であり、麻薬的薬物中毒の千倍万倍の申し合わせで警鐘乱打せねばならない代物である。2010.3.11福島原発事故は、そういうユダヤ商法に対する根本的疑義を差し挟む契機にせねばならない。これを文明史的に見れば、パリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰のもたらした双頭の鷲の片方である原発政策からの一刻も早い撤退を促すべく警告する事案となって突きつけられているということである。福島原発事故は脱原発への好機であり、日本及び世界の神々の人類への警告と拝することができる。

 こう理解するのが普通ではあるまいか。これを逆に云うと、今なお原発続投、原発再開に固執する者は根深いパリサイ派信者と云うことができる。現代国際金融資本に飼いならされ、立身出世と引き換えに御用聞きが契約義務化させられている雇われに過ぎない。こういう連中との対話は徒労であるが一応はせねばなるまい。彼らが強権で原発を押し付けてくるならば力づくで放逐する以外にはない。世界からパリサイ派が放逐されれば世界は如何に平和的になれることだろうか。原発は、原発のみに止まらぬこういう文明史的設問を投げかけていると云わねばなるまい。


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れんだいこのカンテラ時評№1146  投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 6月13日

 原発推進組の歴史大罪をどう処罰すべきか考

 れんだいこは、これまで、「れんだいこの文系頭脳の原発批判論」と題して、何故に原発に手を染めてはならないのか、今や一刻も早く原発から手を引くべきであることを縷々発言した。
   http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/genshiryokuhatudenco/jicojikenco/2011sanriku/bunkeizunonogenpatuhihanron.html

 しかしながら、れんだいこの弾劾をよそに時の政治権力は原発再稼働、原発輸出に向かいつつある。世論がこれを許容しつつある。堪らず、れんだいこが再度告発しておく。同じ論調では意味がないので、これでも分からんかと別角度から論じてみることにする。「国際ユダヤの悪徳商法そのものとしての原発利権を弾劾せよ」でも動じない連中相手には次のように云うしかない。

 原発推進者は歴史大罪者である。故に、政治が真っ当なものであれば、そういう者は即刻引き立てられ、昔なら即死刑、今なら歴史法廷に立たされるべきである。今は世の中が狂っているので、歴史大罪者を告発する者が逆に逮捕されたり冷や飯食わされ続けている。この不正を一日も早く正常なものにせねばならない。

 考えてもみよ。人を一人殺せば最高刑として死刑まで用意されているのが刑法である。人を複数殺せば、その数が増すに応じて死刑判決の可能性が強くなる。それを思えば、原発犯罪は人を数十万人以上死に追い込み、人を郷土の土地ところに住めなくし、国費を数十兆円、数百兆円注ぎ込ませ、なお且つ先が見えないと云う正真正銘の歴史大罪を犯しているのだから、死刑でも物足りないのは当たり前のことである。いかなる極刑をもって遇するべきか。

 それをどう狂ってか、そういう死刑必至者が依然として日本政治をままにしている。福島原発対策ままならぬ中で再稼働論を唱え、こたびは原発輸出に精出している。安倍首相の愚挙であるが、多くの国会議員が後押ししている。れんだいこは、これほどの不正はかって史上に存在しないと考える。

 世間では山口組を広域暴力団云々する向きがあるが、原発組こそ正真正銘の広域歴史犯罪団ではないのか。本来なら、せめて蟄居が当然のところ、連中は意気ますます軒昂にして反原発、脱原発征討戦に乗り出している。これが現実の実際である。この対抗関係において、原発推進組の蛮勇をいつまでのさばらせていて良いのかが我々に問われている。かく設問すべきではないのか。

 思えば、我々が慣らされてきた戦後民主主義は、この歴史犯罪に対して何の効能もないことがはっきりしてきた。戦後民主主義は、普通選挙による代議士制を通じて、国権の最高権力である国会で与野党が丁々発止のやり取りをしながら国政を担っていくのを理想としているが、与野党ともどもが「或る政治勢力」に飼い馴らされ、国会とても一見の対立を演出しながら「裏で決められた通りのもの」を形式上審議するだけの機関に過ぎないことがはっきりしてきている。

 最近では代議士制始発の選挙不正も目立ち始めており、先の衆院選では堂々たる開票操作が行われていた形跡がある。これを否定するのなら、疑惑の選挙区の再開票をして確認すれば良いところ、選管がそういう采配をした例を知らない。選管の表の役目はともかく裏のそれは、不正選挙を見逃し再開票確認させないために飼われていると思った方が良い。そもそも先の衆院選の投票用紙が厳重に保管されているのかどうかさえ分からない。不当に不利益を受けたとみなされる側からの再開票確認請求の動きもない。共にオカシな話しではなかろうか。

 もとへ。そういう下劣な政治の質であることを前提として、本来なら即刻逮捕、死刑必至の歴史犯罪者である原発推進者が依然として権勢を振るっている。戦後民主主義がこれに対して何の効果もないことにつき既に述べた。今や、即刻逮捕、死刑必至の歴史犯罪者である原発推進者をどのように芋づる式にお縄につけるのか、逆にこちらがつけられるのかを廻って、もっと真剣に戦うべきときではなかろうか。

 安倍首相の原発輸出政策は、来る相手国側からの損害賠償攻勢を考えるとき、許容できる話しではない。安倍及びその一族郎党、電力会社重役が私財を擲(なげう)って済む話しでもない。従軍慰安婦問題で詫びを入れさせられるより数万倍重責の話しである。従軍慰安婦問題で正義ぶる連中が、原発再稼働、原発輸出に批判のトーンを弱めるなど許されることではない。

 こういうことが云いたかったのだけれども、共認いただけるだろうか。もはや議論の段階でもないような気がする。歴史大罪者の悪事をどのようにして成敗するのかの実践的な課題と向き合ってもっと真剣に決着つけねばならないのではなかろうか。時代が必要としている処方箋を生み出さない社会は壊死させられる。れんだいこは、これを憂う。
 
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/

【黒沢明・氏の原発安全論批判ノート考】
 「★阿修羅♪ > 原発・フッ素33」の妹之山商店街氏の2013.9.21日付け投稿「黒澤明 死して15年 直筆ノートにあった“メッセージ”」を転載する。

 黒澤監督の直筆ノート(1985~86年)

 人間は間違いばかり起しているのに、これだけは絶対間違いは起さないなんてどうして云えるだろう。それも、もし間違ったらおしまいだと云うのに、どうしてそんな事が云えるんだろう。

 高い木に登って、自分のまたがってる木の枝を一生懸命切っている阿呆に似ているね。

 猿は火を使わない。火は自分達の手に負えない事を知ってるからだ。ところが、人間は核を使い出した。それが、自分達の手に負えないとは考えないらしい。火山の爆発が手に負えないのわかっているのに原子力発電所の爆発ならなんとかなると思ってるのはどうかと思うね。

 「原発は安全だ」「危険なのは操作のミスで原発そのものに危険はない」「絶対ミスは犯さないから問題はない」ってぬかした奴等許せない。

 原子力発電が安全だなんて云っていた奴等は、今、どうしてやがるんだろう。そいつ等の顔が見たいね、全く!

 没後15年、黒澤明監督のメッセージ
 http://www.tv-asahi.co.jp/dap/bangumi/hst/news/detail.php?news_id=35320

 1990年に公開された黒澤明監督の『夢』の中に『赤富士』という作品がある。これは、黒澤監督自身が見た夢を映画化したものだ。原発が爆発し、逃げ惑う人々の姿が描かれている。黒澤監督の長男・久雄さん(67)によると、父親の中で、原発や原子力問題は大きな位置を占めていたという。『夢』の製作に携わったスタッフや関係者が、今年で没後15年になる黒澤監督の原子力に対する考えを語った。さらに、今回、埋もれていた黒澤監督直筆のノートを発見。そこには、黒澤監督の率直な思いが綴られていた。

 黒澤 明(くろさわ あきら)は、1998.9.6日、脳卒中により死去している(享年88歳)。それより十数年前の1985-86年時点で、このような見解をノートしていることになる。今の福島原発事故、その後の対応のテイタラクをどう見ているのだろうか。


【植田義弘氏の「原発異常科学論」考】
 天理教教祖中山みきの研究家として知られる植田義弘氏の「中山みき 泥海古記の真実」(学研、2013.9.11日初版)に次のような「原発異常科学論」が発信されている。これを転載しておく。
 「さらに恐るべきは、自然、生命、意識に共通する守護に反して、『理』を乱用、悪用することである。たとえば『切る理』は物質分子や細胞の分解、分裂の為になくてはならない働きだが、原爆は自然にはあり得ない方法で原子核をムリに分裂させて破壊の為にエネルギーを爆発させる。原発も目的は発電にあるとしても、自然に反して『切る理』を応用した技術である故に、天地自然に存在しない危険な放射能汚染を生み出している。その結果、生命存続に欠かせない遺伝子を切断し、異常な細胞に変化させるのは必然である」(165P)。
 「福島第一原発は前代未聞の放射能事故であった。人工的に無理やりに原子核を分裂させた結果、自然に存在しない放射線を大量に発生させる結果となった。また自然に存在しない原子力エネルギーを発生させるための人口核燃料し、自然に循環できないため安全に処理する方法がない。逆に太陽は核融合によって光と熱をあまねく地球に放射している。とすれば、事故の危険性とかリスクを云々する以前に、原発そのものが反自然的技術の産物であり、自然を相手に戦争を仕掛けるような無謀な事業と云わなければならない。いわば『切る理』を逆手にとって、この世、人間を創造し守護されている親神に反逆している姿に他ならない。人工的に起こして発電する技術は、まさに自然に抗う戦争であり、放射能汚染は紛れもなく自然を相手とする戦争に敗れた結果であった。にも拘わらず政治、経済の権力層や情報発信の責任者が目を覚まさなければ、今度こそ第四の刻限が到来することを予想せざるを得ない」(184P)。




(私論.私見)