日本に於ける原子力政策史その1

 (最新見直し2012.02.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこの理解が弱くスケッチ風にしか書き込めないが次の要点を確認しておく。広瀬隆・著「腐食の連鎖」、「オウム事件の本番」、藤田祐幸(慶応大)氏の「日本の原子力政策の軍事的側面、「2004年日本物理学会第59回年次大会 社会的責任シンポジウム 現代の戦争と物理学者の倫理とは」、「阿修羅原発版」、有馬哲夫氏の「原発・正力・CIA」その他を参照する。

 日本の原子力史を検証して判明する事は、日本の原子力行政が、「正力-中曽根コンビ」によって推進されたということである。しかも、恐ろしいほど政治政争絡みであり、原子力と軍事防衛と宇宙開発が三点セットで推進されていったということである。「我が国における原子力行政の闇」の部分であり、以下、二人の動きを中心に見ていくことにする。

 2007.7.21日、2008.3.30日再編集 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評386 れんだいこ 2008/03/30
 【日本の原子力発電史考】

 たまたま有馬哲夫氏の「原発・正力・CIA」を入手し、新たな知識、情報を得た。判断を伴う見立ての部分はれんだいこ独眼流で焼き直し、「原子力発電決別考」の「日本に於ける原子力政策史考」に取り込んだ。

 この一連の検証で次のことが判明する。日本への原子力発電敷設が、CIA絡みで意図的故意な政治力で暴力的に持ち込まれている。これに正力と-中曽根コンビが暗躍している。原子力発電が、軍事防衛と宇宙開発の三点セットで持ち込まれている。それは思うに、どれもが大型プラントを伴うものであり、政商には垂涎の事業になっている。利権問題を論うなら、これにメスを入れない利権論は気の抜けたビールのようなものにしかならない。

 目下、道路利権の摘発がかまびすしい。が、他の省庁の利権に向かわない、特に原子力、軍事防衛、宇宙開発の三大利権に向かわない旧建設省関連に特化させた摘発運動は為にする謀略的なものではなかろうか。れんだいこはこの間一貫して、その胡散臭さを告発している。

 道路特定財源制の歴史的進歩性を否定して、元の木阿弥的一般財源制に戻そうとする与野党一致の翼賛政治の非を警鐘乱打している。こういう動きは臭いと思うべきだ。ところがいけない、かの社共が率先旗振りしており、民主党、自民党小泉派含めてまもなくそれを云い始めたのはうちの方が先だと本家争いしそうな勢いである。

 馬鹿ばかしいったらありゃしない。この国はなんで本来の正義が通らず、変な正義ばかりがもてはやされるのだろう。あまりにも不思議で、れんだいこが狂っているのかも知れないと、段々寡黙にならざるを得ない。21世紀がまさか、こんな世の中になるとは思ってもみなんだ。

 2008.3.30日 れんだいこ拝


【中曽根の原子力行政端緒】
 1945.8.6日、中曽根康弘は高松で広島のきのこ雲を遠望した。この時次のように思ったと云う(中曽根康弘「天地有情-50年の戦後政治を語る」(文藝春秋、1996年)の166~1722頁の「原子力推進の原点になった原爆雲遠望」の項参照。中曽根については「中曽根康弘」で確認する)。
 「私が戦争中海軍に動員されて高松にいた時、広島の原爆雲を見た。この時私は、次の時代は原子力の時代になると直感した」(中曽根康弘「政治と人生―中曽根康弘回顧録」講談社P75)
(私論.私見)
 何と中曽根は、広島原爆のきのこ雲を見て、広島被災に思いを馳せるのではなく、「次の時代は原子力の時代になると直感した」と云う。人の感性は自由であるが、素っ頓狂な話ではある。

1951(昭和26)年の動き

【戦後の原子力行政始まる】
 1951.9.8日、サンフランシスコ講和(対日平和条約)、続いて日米安保条約が調印され、翌1952.4.28日に発効した。その直後の5月、吉田首相-自由党は科学技術庁設立案を明らかにした。その付属機関は核兵器を含む科学兵器、原子力の開発研究を目的とすることが明記されていた(原子力年表・原産会議編)。こうして、広島・長崎の惨禍からわずか7年後、日本は自ら核開発に乗り出すことを明らかにした。

1952(昭和27)年の動き

【戦後の原子力行政始まる】
 1952.10月、この動きに対し、竹谷三男は、雑誌「改造」に「日本の原子力研究の方向」と題する論文を発表し、原子力平和利用開発の三原則(民主・自主・公開)を提唱した。

 10.24日、この提案を受ける形で開かれた学術会議の総会で、原子力委員会の設置を求める「茅・伏見提案」が提起され、強い抵抗に会い撤回された。

1953(昭和28)年の動き

【中曽根-正力ラインによる原子力予算上程までの動き】
 1953年、復員後政治家になった中曽根に、マッカーサー司令部のCIC(対敵国諜報部隊)に所属していたコールトンが接近し、ハーバード大学で開催されたキッシンジャーの主催するセミナーに招聘した。この時、中曽根はネオシオニズムの黒子であるキッシンジャーに認められ、将来の出世と権力が保証されるエージェント契約を結んだ形跡がある。

 セミナーの帰路、中曽根は、コロンビア大学に留学していた旭硝子ニューヨーク駐在員の山本英雄に会って原子力の情報を仕入れた。山本は、次のように述べている。
 「彼はとりわけ原子力兵器、しかも小型の核兵器開発に興味を持っていました。中曽根氏は再軍備論者でしたから、将来、日本も核兵器が必要になると考えていたのかも知れません」。

 帰国後中曽根は、川崎秀二、椎熊三郎、桜内義雄、稲葉修、際等憲三などと諮り、原子力予算の準備を始めた。 


【アイゼンハワー大統領が国連総会で原子力の平和利用を提唱する】
 12月、米国のアイゼンハワー大統領が、国連総会で原子力の平和利用(アトムズ・フォー・ピース)を提唱する。

1954(昭和29)年の動き

【中曽根-正力ラインによる原子力予算上程までの動き】
 1954年元旦、読売新聞が、原子力の平和的利用を訴える「ついに太陽をとらえた」記事を掲載。

 当時中曽根は改進党に属していたが、自由党は過半数を割っており、改進党などの同意なく予算審議を進めることはできなかった。改進党の修正予算規模は50億円、そのうち原子力関係として3億円を提示し、3.1日の三党折衝であっさりと承認された。この日、焼津のマグロ漁船第五福竜丸がビキニ環礁で、米国の水爆実験により被災していたが、14日の帰港まで国民はそのことを知らされなかった。

 3.2日、改進党の若き代議士・中曽根康弘、斎藤憲三(TDK創立者)、稲葉修らによって日本の国会に始めて原子力予算が上程された。両院議員総会で、科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金2億3500万円、ウラニウム資源調査費1500万円、計2億500万円の予算案提出の合意に達し、予算の名称は「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」と決定した。翌3.3日の衆議院予算委員会に、全く突如として自由党・改進党・日本自由党の三党共同修正案として提出され、3.4日の衆議院本会議で提案趣旨説明が行われ、予算案は修正案も含めて一括採択された。


 4月、予算案が可決され、「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」(この時の原子力予算は235億円ともある)。が認められた。以降、日本の原子力政策は巨額の税金を「利権として吸い上げる」構造的汚職の巣窟と化して行くことになる。  

 4.23日、学術会議は、研究者の意思を無視した予算成立に対し抗議の意思を明らかにすると同時に、平和利用三原則を改めて表明した。

【中曽根-正力ラインによる原子力行政推進】
 中曽根のこの動きを背後で操っていたのが読売新聞の社主・正力松太郎である。(正力履歴については、木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」、れんだいこの「読売新聞社史考」、「正力考」で確認する)

 正力は、戦後、戦犯として訴追され、政治生命を断たれた。その正力が戦犯解除されるに当たってCIAとエージェント取引したことが考えられる。早稲田大学の有馬哲夫教授(メディア研究)が2005年、米ワシントン郊外の国立第2公文書館から発掘したCIA(米中央情報局)機密文書の一節には正力が「ポダム」の暗号名で登場している。同じような経緯で取引した者には戦前の特務機関系右翼の児玉誉士夫、同じく右翼の笹川良一、後に首相となる岸信介、戦前は里見機関、戦後は電通を率いた里見甫がいる。

 正力は、戦犯訴追解除後、古巣の読売新聞社に復帰し、その後衆議院議員になり、日本テレビ放送網社長、第2次岸内閣の原子力委員会議長、科学技術庁長官を務めている。初代の原子力委員会委員長に就任していくことになる。

 この正力の意向を受け、「1954.3.2日、中曽根康弘によって日本の国会に始めて原子力予算が上程された」と考えられる。4月、日本初の原子力予算2億3500万円が計上された。以来、中曽根と正力は、政界における原発推進の両輪となって動いてきたという経過がある。中曾根と読売新聞社の関係にはただならぬものがある。(これに日共の宮顕を加えれば「闇のトライアングル」を形成している、と云える。ここではこの件の考察はしない) 中曽根が原発推進のためにいかに尽力したか、その苦労話が次のように記されている。
 「私は科学技術庁長官になった正力松太郎さんを助けて働きました。それから、原子力委員会設置法、核原料物質開発促進法、原子力研究所法、原子燃料公社法、放射線障害防止法、そして科学技術庁設置法といった法体系をつくったわけです」(「天地有情-50年の戦後政治を語る」170頁)。

 正力-児玉誉士夫-中曽根ラインは、CIAコネクションを形成する。そこから政官財三界に巨大原子力推進人脈が形成されている。これは軍事利権人脈ともほぼ重なっている。この連中がピラニアのように軍事防衛、原発利権に群がり、国家を私物化しつつ食い尽くして行くことになる。まさに「権力を私する魑魅魍魎の妖怪ども」である。

 中曽根には次のような特別縁戚関係が見て取れる。原子力行政の旗振り役が中曽根であるが、その受注主力企業は鹿島建設(現・鹿島)である。高速増殖炉「もんじゅ」、「ふげん」、福島第一原発、1号、2号、3号、4号、5号、6号、福島第二、1号、2号、3号、浜岡1、2、3号、女川1号、浜岡1,2,3号、伊方1,3号、柏崎1,2,5号、島根1、2号、東海1、2、大飯1、2号、泊1,2号、これらは全部「鹿島」の建設である。

 中曽根と鹿島の関係には深い絆がある。鹿島建設の創業者・鹿島守之助の娘婿が渥美健夫で元会長。その息子直紀が結婚したのが中曽根康弘の娘美恵子。日本の原子炉建設トップ企業と日本の原子力政策の推進者が「血族」として繋がっているという訳である。

九電力体制の生みの親・木川田一隆の原発政策呼応
 「佐高信・氏のシンポジウム「みやぎ100年ビジョン討論会」での発言」が次のように記している。
 「東京電力の,今度は平岩さんという相談役,経団連会長をやった人も辞めるわけですけれども,平岩さんの親分だと言われた人が木川田一隆というミスター東京電力と言われた人ですけれども、この人は福島県のお医者さんの息子です。この木川田さんが最初原子力発電に対して反対だったんですね。『原子力はだめだ、絶対にいかん』と。『原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が,あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない』と言ってずっと反対していたんです。それを部下が一生懸命説得して,最後は『しようがないか』ということになるんですけれども,『悪魔のような代物』という緊張感というのを木川田さんはずっと持っていたわけです。それが,その後,そういう緊張感というのはやっぱりなくなっていく」。

 田原総一朗氏の「ドキュメント東京電力企画室」が次のように記している。(「佐高信さんの木川田一隆元東電社長礼賛について」参照)。

 「皮肉といおうか、日本の原子力推進、反対の相反する運動がいずれも1954年3月2日を基点としてスタートしているのである。そのころ副社長だった木川田は就任したばかりの気鋭の企画課長成田浩(現・電力中央研究所理事長代理)に『わが社も原子力発電の開発に着手すべきだ』とせめたてられていた。 成田はアメリカから取り寄せた数多くの資料を木川田に示して、『早晩、必ず原子力時代がくる。そのために一刻も早く開発体制を確立するべきだ』と執拗に木川田を口説いた。成田は、夕闇が濃くなる副社長室で、電燈をつけないまま、何時間も木川田と討議したことを覚えている。木川田は、電気がもったいない、といって、普段でも、よほど暗くならないと部屋の電燈をつけなかったのだ。『原子力はダメだ。絶対にいかん。原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない』。成田が、言葉を尽くして説得しても、木川田の態度は変わらなかった。暗がりの中で、木川田がまるで自分自身に言って聞かせるように、『原子力はいかん』と、何度もつぶやいているのを聞いて、成田は、あきらめざるを得ないと思った。

 ところが、『原子力は悪魔のような代物』だといっていた木川田が、ある日、突然、成田を読んで、『原子力発電の開発のための体制づくりをするように』と命じた。豹変である。何が、一体、木川田の姿勢を変えさせたのか。だが、そのことは、成田にとって、現在でも"謎"のままである。

 東京電力の社長室に原子力発電課が新設されたのは1955年11月1日。なぜ、木川田が『悪魔』と手を結ぼうと豹変したのか、その本意は、木川田を口説いた当人の成田でさえ『わからない』のだから捉えようがないが、その翌年1956年に入るや正力松太郎原子力委員長が陣頭に立って、第一号大型発電用原子炉導入の動きが、俄然活発になるのである。この第一号大型原子炉こそが、イギリスのコールダホール型炉で、その導入をめぐって『国家対電力会社の遺恨試合、泥仕合』がくりひろげられるわけだ。あるいは木川田は、正力委員長などの動きをいちはやく察知して、"戦争"に参加する資格、権利を得ておこうと判断したのではなかろうか」。

(私論.私見)
 九電力体制の生みの親にして「ミスター東京電力」と云われた木川田一隆が当初、原発に対して「子力はだめだ、絶対にいかん。原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない」と云っていたとするこの話が本当であれば、何と的確にも悪魔科学だとしてみなして導入を拒否していたと云うのだから興味深い。問題は、1953年以降の「中曽根-正力ラインによる原子力行政推進」に対する呼応ぶりにある。この経緯に何があったのか、ここが解明できれば初期原発行政の闇が解明できよう。故郷の福島に原発を集中導入し、それが2011.3.11日の三陸巨大震災時の原発事故に繫がる。木川田を原発批判者として説く佐高信・氏の木川田論は臭過ぎるのではないのか。付言しておけば、木川田は財界の中で飛び抜けた反田中角栄であったことでも知られている。この裏に「瀬島龍三―正力―中曽根―木川田一隆ライン」の動きを見てとらねばなるまい。

 2011.7.24日 れんだいこ拝

第五福竜丸の被曝事件に対する米国の秘密文書
 5.26日、米国のアイゼンハワー大統領がダレス国務長官に覚書を送り、第五福竜丸の被曝事件後の「日本の状況を懸念している」と表明、日本での米国の利益を増進する方策を提示するよう求めている。これに基づき、国務省極東局は、「日本人は病的なまでに核兵器に敏感で、自分たちが選ばれた犠牲者だと思っている」と分析したうえで、「原子力の平和利用を進展させる二国間、多国間の取り組みに着手し、日本を早期に参画させるよう努めるべし。放射能に関する日米交流が日本人の核への感情や無知に対する最善の治療法」等々論じる秘密文章が2011.7.23日、公開された。

 これにより、20万ページに上る原子力関連文献の日本への供与や日本人科学者の米国原子力施設視察が始まった。1955.11月以降、自治体やマスコミと協力しながら、日本各地で原子力平和利用博覧会が開催され、世論工作が周到に進められた。

 6.27日、ソ連が、世界に先駆けてオブニンスクで原子力発電を開始する。


 8月、 第五福竜丸の被曝と、南太平洋の核実験の放射性物質が国内にまで降下したことにより、杉並区の主婦が始めた原水爆禁止署名運動が発展し、全国協議会(会長安井郁)が結成された。平和利用三原則を提唱した科学者達がこれに合流した。


 8.30日、アメリカで、原子力の民間開放を主とする新たな原子力法が成立した。これにより、機密管理規則が緩和され、アメリカ企業が外国に原子炉を輸出することができるようになった。


 9月、米国原子力委員会のマレー議員が、「広島と長崎に加えた原発による殺傷の記憶を遠ざける為にも日本への原発建設進めたいと」と提言する。


 11月、スミス国務省特別補佐官が「日本人の米国施設視察は嫌米感情を緩和する」と発言。12月、最初の海外原子力調査団が出発する。


 12.31日、後の日本テレビ専務・柴田秀利が、東京の某所でCIA局員「D・S・ワトソン」と秘密会談し、米国の原子力導入に向けてエージェント契約している。


1955(昭和30)年の動き

 1955(昭和30)年、読売新聞が、原子力の平和利用に向けての啓蒙キャンペーンを展開する。


 1955.1.15日、読売新聞が、設立予定の国際原子力機関にソ連とイギリスが原子力発電に関する情報の提供を申し出ている事を報道する。


 2.27日、第27回衆議院総選挙が行われた。この時、正力が富山2区から出馬し初当選した。


 4.29日、正力が、原子力平和利用懇談会の立ち上げを宣言し、自ら会長に納まる。5.9日、アメリカの原子力平和利用使節団が来日すると、正力がテレビを中心に大々的なキャンペーンを張る。


 この頃、政界大変動が発生しており、原子力導入が微妙にこれに連動している。概要は、「戦後政治史検証」の「1955年」に記す。


【中曽根ら4党議員団が、国連が主催する原子力平和利用国際会議に参加】

 8.8.日から20日まで、スイスのジュネーブで国連が主催する原子力平和利用国際会議が開催され、中曽根康弘(民主)、志村茂治(左社)、前田正男(自由)、松前重義(右社)の四人の衆議院議員が派遣された。ジュネーブの国際会議は米・素・英・仏・加などの原子力研究についての精神国が従来ほとんど機密にしていた原子炉計画、発電炉計画などを公開し、各国から170名あまりの参加者が集まり、次々と原子力の開発計画について発言した。日本の代表団は何も発表する材料もなくただ圧倒されただけであった。

 四党議員団は会議終了後、フランス、イギリス、アメリカ、カナダの原子力施設を見て回り、9.12日に帰国した。この視察旅行の間に保革4党の議員は一致して原子力推進の方策を協議した。帰国後の記者会見で、4人は次のような声明を発した。

 「1・.超党派的に長期的年次計画を確立し、これを推進して本問題は政争の圏外におくこと。2・.綜合的基本法たる原子力法を至急制定し、平和利用及び日本学術会議の所謂三原則の基本線を厳守するとともに、資源、燃料、技術の国家管理、安全保障、教育及び技術者養成、国際協力等の事項を規定すること」。

 その他を含めていわゆる5項目の大綱を明らかにし、直ちに原子力基本法などの策定に着手した。


【原子力基本法成立、正力が初代委員長に就任】
 11.1日、「原子力平和利用博覧会」が、東京日比谷公園で開催され、連日長蛇の列となった。12.12日、42日間の会期を終え、総入場者数は36万7696人に登った。この博覧会はその後3年間わたつて、地方へ会場を移して全国20箇所で行われた。

【原子力利用準備委員会が方針を打ち出す】
 11月、原子力利用準備委員会が、次の方針を打ち出した。
 日米原子力協定に基く輸入第1号原子炉を、ウォーターボイラー型研究炉とする。
 輸入第2号炉はCP-5型研究炉とする。
 関西方面の原子力研究に資するため、輸入3号炉としてはスイミングプール型研究炉を考慮する事。
 これと並行的に国産原子炉が摂家委員会に於いて提案された国産第1号原資炉(天然ウラン重水型)を1959年までに建設する事。

【原子力基本法成立、正力が初代委員長に就任】
 11.15日、自由党と民主党が合同し自由民主党が結成される。「自由民主党立党宣言」と共に「党の政綱」を発表し、「原子力の平和利用を中軸とする産業構造の変革に備え、科学技術の振興の格段の措置を講ずる」ことを、憲法改定などとともに党の基本原則として位置付けた。

 11.22日、自民党政権としての第三次鳩山内閣が成立した。この時、両院原子力合同委員会委員長を務める中曽根康弘が自由民主党副幹事長に就いた。中曽根は自由民主党憲法調査会理事も兼務していた。正力松太郎が北海道開発庁長官、科学技術庁長官に抜擢された。「中曽根・正力コンビ」が、50年代前半の原子力政策を牽引することになる。これは強力な政治主導で行なわれた。

 12.19日、日本政府は、学術会議の要請を受けて平和利用三原則を盛り込んだ原子力基本法を保革全議員の署名を得て議員立法として成立させた。

 原子力推進が挙国一致体制で取り組まれた背景には、正力松太郎の野心と読売新聞による世論操作があった。ビキニ被爆事件が原水爆禁止運動へと波及し、それが次第に反米の色彩を帯びた頃、読売新聞社主であった正力松太郎の片腕であった柴田秀利の前にD.S.ワトソンと言うアメリカ人が現れた。ワトソンの素性は判然としないが、ホワイトハウスと直結する機関から派遣され、ビキニ被爆により日米関係に決定的な亀裂が入ることを回避する任務を帯びていた柴田はワトソンに、「原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない」と告げた。早速アメリカからは原子力平和利用使節団が派遣され、日比谷公園で大規模な博覧会などが開催された。読売新聞と読売テレビはこれを大々的に取り上げ、原子力の夢を喧伝した。


 12月、藤岡由夫を団長とする初の調査団が欧米の原子力事情調査のため出発し、翌1956.3月に帰国する。


 12月、日本原子力研究所の用地選定が始まる。経済企画庁が、「関東地方の国有地で、約50万坪の広さを持つところ」が要件とされ、約20箇所の候補地が挙げられていた。国会の原子力合同委員会メンバーの中曽根の地元、群馬県高崎や、同じく委員の志村茂治(社会党)の神奈川県武山が誘致運動を始めた。原子力委員会は、最終的に「武山を第一候補地とする」と政府に報告した。


1956(昭和31)年の動き

【原子力委員会が発足し、初代委員長に正力松太郎が就任】
 1956.1.1日、総理府原子力委員会が発足し、初代委員長に正力松太郎が就任した。1.5日、第1回原子力委員会が開催された。

【正力が衆院選に初当選】

 1956(昭和31).4.5日、自民党第2回臨時党大会が開かれ、鳩山が正式に初代自民党総裁に選出された。正力は一年生議員であるにもかかわらず、保守合同後の自民党鳩山政権の国務大臣に抜擢された。


 4.6日、鳩山政府が、原子力委員会報告に「再考を促す」と返答し、覆す。結果的に一転して茨城県の東海村に決まった。


 4月、通産省工業技術院に原子力課が新設される。経団連は、「原子力平和利用懇談会」(藤原銀次郎会長)を発足させ、財界も原子力利用調査に乗り出す。5月、藤原調査団が報告書を提出し、天然ウラン重水型の多目的原子炉の建設と、ウラン・重水・黒鉛の国産を提言した。


【原子力三法が成立する】
 5.4日、原子力三法(日本原子力研究所法、核原料物質開発促進臨時措置法、原子燃料公社法)が施行されている。

【正力が科技庁長官に就任し、原子力委員長と科技庁長官のポストを手にする】

 5.19日、科学技術庁発足。正力は、原子力委員長と科技庁長官のポストを手にして、原子力推進の権限を独占した。

 正力は科学者たちの自主技術開発路線を無視して、コールダーホール型原子炉の導入に突き進んだ。高純度プロトニウム生産可能な黒鉛炉の導入に対し、科学者たちは軍事転用の可能性を指摘することも無く、正力の豪腕に屈することになる。ここに平和利用(軍事転用反対)路線は破綻し、科学者たちの武装は解除された。この後の科学者の運動は核兵器廃絶運動を専らとするようになり、原子力の問題は軍事的な警戒感を失い、安全性論争へと収斂していくことになった。


 6.23日、イギリスが、コルダーホールの第1号原資炉が商業発電に入る。


 6.15日、日本原子力研究所発足。8.10日、原子燃料公社設立。後の1967.10.2日、動力炉・核燃料開発事業団(「動燃事業団」)が発足し統合される。


 6月、日米原子力協定が締結され、米国から原子炉と濃縮ウランが提供される道が開かれた。米国は日本に提供するウランについて「いかなる場合にも、U235を最大限20%まで濃縮したウランの中に含まれるU235の量において6キログラムを超えないものとする」(第三条A項)として兵器転用に歯止めをかけていた。


 8月、運輸省も原子力船建造に意欲を見せ、同じ頃、三菱金属鉱業の高橋孝三郎を理事長に原子燃料公社が設立された。この原子燃料公社が後の動燃の母体となる。

 1956年までの政府の方針は、米国の裏指示と協力を得ながら、ウランと原子炉の開発を目指して行った。原子燃料公社は精力的に国内のウラン鉱の探査を行ない、原子炉開発は東海村の原子力研究所(原研)の研究者の手に委ねられた。そこには平和利用三原則を基本法に盛り込むことに奔走した科学者達が結集していた(「」参照)。


1957(昭和32)年の動き

【1957年、岸政権時代の原子力政策】

 自民党政権は、鳩山から石橋湛山に移り、更に1957.2.25日、岸第1次内閣が誕生した。4.26日、岸首相は、政府見解として「攻撃的核兵器の保有は違憲」であるとの統一見解をまとめたが、5.7日、岸首相は、参議院の質疑で、「自衛権の範囲内であれば核保有も可能で合憲」であると発言し、これがその後の日本政府の統一見解として確定した。

 1957.6月、岸内閣が、長期防衛計画を策定し、超音速ジェット戦闘機を1958年から5ヵ年計画で300機、国内でライセンス生産することを決定した。

 7.10日、岸が内閣改造し、正力が再び原子力委員長、科学技術庁長官、国家公安委員長に就任した。JRR-1が日本に初めて原子力の灯をともす。

 7.29日、国際原子力委員会が発足し、日本が理事国になる。12.7日、JRR-1で、国産初のアイソトープが生産される。

 10.4日、ソ連が、人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功する。11.3日、ソ連が、1号の6倍の重量を持つスプートニク2号を打ち上げ、宇宙開発をアピールした。「スプートニク・ショック」と云われる。

 11月、国策会社である日本原子力発電㈱(資本金40億円、電源開発㈱20%、民間80%出資、社長安川第五郎)が設立された。電力9社はそれぞれ原子力発電計画の策定に入った。日本原電は、東海村にガス冷却黒鉛炉であるコールダーホール型原発と、敦賀にBWR型原子炉を建設して、受け皿としての役割を終えることになる。

 これにつき、吉岡斉・氏が「脱原子力のための社会史」(「東電・原発おつかけをマップ」)文中で次のように述べている。

 「57年、日本の原子力政策で最初に商用炉の導入を図る際、政界では国家管理論(国管論)と民営論の対立が起った。商用開発の国管論を唱えたのは河野一郎で、民営論の主導者は正力松太郎だった。つばぜり合いの末、勝ったのは正力の民営論だった。これにより日本最初の商用開発は民間電力会社が80%を出資し政府が20%を出資することになった」。

1958(昭和33)年の動き

【1958年、岸政権時代の原子力政策】

 1958.正月、岸は念頭最初の行動として、伊勢神宮でも靖国神社でもなく、東海村の原研を視察した。岸は回顧録の中でこのときの心境を次のように述べている。

 「原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用もともに可能であるどちらに用いるかは政策であり国家意思の問題である。日本は国家・国民の意思として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器は持たないが、潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を強めることが出来る」。

 1958.6.12日、岸首相が第2次岸内閣を組閣する。6.16日、日英・日米原子力協力協定が調印される。

1959(昭和34)年の動き

【1959年、岸政権時代の原子力政策】

 1959.3.2日、岸首相は、参議院予算委員会で、「防衛用小型核兵器は合憲である」との判断を明らかにした。


1960(昭和35)年の動き

【1960年、岸政権時代の原子力政策】

 1960年の安保騒動の最中、岸政権は、核兵器保有は合憲との判断を政府見解として確立した。

 「自衛のための必要最少限度を越えない戦力を保持することは憲法によっても禁止されておらない。したがって、右の限度に止まるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わずこれを保持することは禁ずるところではない」。


【池田政権時代の原子力政策】
 1960(昭和35).7月、原子力委員会は、原子力開発利用著紀計画の基本方針を決定した。9月、日本原子力産業会議が、原子力産業開発に関する長期計画を決定した。

 1961(昭和36).2月、原子力委員会は、初めての総合計画となる「原子力開発利用長期計画」を公表し、1961年から70年の10年間に百万kWを建設する現実的目標を打ち出した。

 1962(昭和37).8月、原子力委員会が、動力炉専門部会を設置し、国産動力炉としての炉型の開発体制の検討を開始した。
 1963(昭和38).7月、正力は、池田内閣の科学技術庁長官に任命された。原子力船「むつ」の騒動の最中であった。佐藤はこの時期から高速炉に関心を示し、フランスなどへの調査団を派遣している。

 同8月、日本原子力船開発事業団が発足した。

 同10.26日、日本原子力研究所の動力試験炉で初めての試験発電が成功した。

 同12月、通産省の総合エネルギー調査会が、「今後のエネルギー政策のあり方」報告書を発表し、その中で原子力発電を将来安価且つ安定供給できるエネルギー源と評価し、将来に備えて積極的な開発をすべしと提言した。

 1964(昭和39).8月、第3回原子力平和利用会議がジュネーブで開催され、米国政府及びGE、WHなどの米国企業の代表が、商業原子力発電の時代が到来したことをキャンペーンした。且つ刻に於ける新型転換炉、高速増殖炉の開発の進展振りが明らかにされ、日本の動力炉開発への取り組みが急がれることになった。

【佐藤政権時代の原子力行政】

 1964.11.9日、佐藤栄作が、病気を理由に退陣した池田勇人を継いで首班指名を受け首相に就任する。佐藤首相は、沖縄返還に政治生命をかけることを公言し第一政策課題と位置づけた。同時に、日本の原子力政策を大きく転換させることになる。

 1965.1月、佐藤首相が訪米し、ジョンソン大統領との会見の後、別室でラスク国務長官や椎名悦三郎外相らとアジア情勢の協議に合流した。この時、ラスク国務長官からから、「中国が核武装したことに日本はどのように対応するか」と問われ、次のように答えている。

 概要「日本人は日本が核を持つべきではないと思っている。一個人として佐藤は、中国共産党政権が核兵器を持つなら、日本も持つべきだと考えている。しかし、これは日本の国内感情とは違うので極めて私的にしか言えないことだ」(2001.9.23日付け朝日新聞)。

 1965(昭和40).5月、原子力発電の東海発電所が、臨海に達し、11月に初の送電に成功した。日本に於ける本格的な商業原子力発電の時代の幕開けとなった。

 8月、佐藤首相は、戦後の首相として始めて沖縄の土を踏み、沖縄返還の決意を内外に示した。この時、「沖縄の祖国復帰なくして日本の戦後は終らない」との名せりふを残した。当時のマクナマラ国防長官は、「問題は返還ではなく米軍基地にある」(「楠田實日記」・中央公論社)と発言し、中共の脅威に対する沖縄基地の役割を強調し、施政権の返還は容認しつつも核を含めて基地の存続を強く求めた。佐藤首相は、沖縄が返還されれば国内法と日米安保が沖縄においても適用されることになるとして、「核抜き、本土並返還」を国民に約束した。他方、もし米軍が沖縄から撤退すれば日本は独自に核武装する道を選択肢として残していた。

 1966(昭和41).1月、渡米した佐藤は、ジョンソン大頭領の前で、中国の核実験に対し日本も核武装すべきと考えると述べ、核カードを外交の手段として使った。帰国後直ちに核武装の可能性の調査を各方面に命じた。
 沖縄返還交渉を始めるその最初の段階で、佐藤栄作は日本の核武装を外交カードとして使ったことになる。そして、これが単なる“はったり”ではなかったことも後に明らかになる。当時のアメリカ政府は日本の核武装を容認してはいなかった。
 1965(昭和40).5月、原子力発電の東海発電所が、臨海に達し、11月に初の送電に成功した。日本に於ける本格的な商業原子力発電の時代の幕開けとなった。

 1966(昭和41).1月、渡米した佐藤は、ジョンソン大頭領の前で、中国の核実験に対し日本も核武装すべきと考えると述べ、核カードを外交の手段として使った。帰国後直ちに核武装の可能性の調査を各方面に命じた。

 ニクソンドクトリンの洗礼を受けた佐藤は、米国の外交政策の不変性に疑念を抱いており、独自の核武装政策をひそかに追及していた。佐藤政権時代に、防衛庁、外務省、内閣調査室などがそれぞれ、日本の核武装の技術的可能性や、日本が核武装した場合の外交的情勢分析の調査などを行っていた。

 1966(昭和41).4月、原子力発電の第2番目として、敦賀発電所(BWR型)に設置許可が下りた。6月、原子力委員会は、動力炉開発のため臨時推進本部を設け、高速増殖炉及び新型転換炉の開発をスタートさせた。9月、東海発電所が営業運転に入った。9月、日米原子力協力協定が改定され、三菱、日立、東芝などが燃料製造プラントの建設準備に入った。12月、関西電力の美浜発電所1号炉、東京電力の福島第1号炉の設置許可が下りた。

 1967(昭和42).4月、原子力開発利用長期計画が改定され公表された。5月、東芝、日立、GE社合弁の核燃料加工会社が発足した。9月、電力7社及び原子力発電が、カナダとウランの長期購入で合意した。10月、原子力発電東海発電所が営業運転を開始した。

 1967年の秋深い頃、読売新聞科学部記者石井恂は、上司の指示を受けて、民間の各施設を使って核兵器が製造できるかの調査を行った。そこには、ウラン爆弾ではなくプルトニウム爆弾が、東海村原電1号炉の使用済燃料の再処理を行うことで生産可能である、運搬手段のロケット開発に遅れがある、など具体的に述べられている。この文書はその後大幅に加筆され「わが国における自主防衛とその潜在能力について」としてまとめられ、政府部内で読まれていたようである。

 1968(昭和43).7.15日、朝雲新聞社から「日本の安全保障」1968年版が出版された。これは安全保障調査会によって発行され、1966年から年次報告として9年間続いた。「調査会」の中心人物は国防会議事務局長・海原治で、防衛庁内外の人材を集めた私的な政策研究グループであった。

 1969(昭和44)年、外務省が「わが国の外交政策大綱」をまとめ、その中で核兵器政策について次のように記している。

 「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、1・.当面核兵器は保有しない政策を採るが、2・核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、3・.これに対する掣肘を受けないよう配慮する。また核兵器一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの主旨を国民に啓発することとし、将来万一の場合における戦術核持込に際し無用の国内的混乱を避けるよう配慮する」。

 内閣調査室の報告では、現在核保有を推し進めることによる国際世論、とりわけアジアの世論の悪化が懸念されることを指摘している。

 この一連の調査報告は1967年から70年頃までの間に集中している。その後の佐藤政権は、動燃と宇宙開発事業団を科技庁傘下の特殊法人として立ち上げ、高速炉開発と人工衛星打ち上げのための技術開発に当たらせることになる。あくまでもこれらの開発は平和目的のものであるとして掣肘を受けないよう配慮して行われた。

 1969年、自民党幹事長だった田中角栄が東京電力柏崎刈羽原発の建設誘致に動く。

 2004.8.12日、2007.7.22日編集見直し れんだいこ拝


【佐藤政権時代の「非核三原則】

 6月、沖縄返還交渉が大詰めを迎え、佐藤首相は若泉に信任状を作成し、秘密の個人特使としてホワイトハウスに送り込んだ。ここで、表向きは「核抜き・本土並み返還」を表明しつつ、背後では基地の核付き現状維持の密約が成立することになる。

 1969.10.9日、正力が、療養先の国立熱海病院で逝去する(享年84歳)。

 1969.11.19日、佐藤ニクソン会談が行なわれ、沖縄返還の基本合意が成立した。いわゆる核抜き・本土並みが貫かれた。11.26日、佐藤首相は、帰国後、改めて非核三原則の堅持を国会で表明した。

 1970.3.14日、日本初の商業用軽水炉として、日本原子力発電の敦賀1号機が大阪万博開幕に合わせて稼働し、万博会場への送電を開始した。


 1971.11.24日、社会党の欠席の元に沖縄返還協定が成立し、同時に非核三原則が付帯決議として衆議院で採択された。吉田茂以来日本政府は一貫して核保有は合憲であると言い続けてきたが、佐藤政権は初めて国策としての非核を鮮明にした。これが1974年の佐藤栄作ノーベル平和賞受賞に結実する。

 ところで、ノルウェーのノーベル賞委員会が20011年に出版した「ノーベル平和賞・平和への百年」の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」などとして、「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」であったとして当時の選考委員会を批判している(2001.9.5日、朝日新聞)。

 2004.8.12日、2007.7.22日編集見直し れんだいこ拝


【田中政権時代の原子力行政】

 1973年、田中政権時代、第1次オイルショックが発生した。1970年代、2度のオイルショックを経て日本は原発一辺倒に突き進む。

 1974.6月、田中政権下で、原発の立地支援のための交付金などを定めた電源3法を成立させた。


【その後の原子力行政】

 動燃による核燃料サイクル計画は、東海再処理工場の運転に対してカーター政権の介入を受けしばらく停滞した。

 1979年、米スリーマイル島事故。

 1986年、ソ連(現ウクライナ)でチェルノブイリ事故。

 1980年代に入って高速炉「もんじゅ」の建設に着手し、そのブランケット燃料の再処理のための施設「RETF」の建設も行われ、青森県六ヶ所村には巨大な再処理工場の建設が行われるにいたった。しかし、1995年の「もんじゅ」におけるナトリウム炎上事故により、佐藤栄作以来の広壮な計画は頓挫した。

 政府は核燃料サイクル計画の頓挫を受けて、軽水炉でプルトニウム燃料を燃やすプルサーマル計画へと重心を移しながらも、再処理工場の建設工事を継続し、「もんじゅ」の再開の機会を図りつつある。技術的にも経済的にも成り立ち得ないこれらの計画を国策として推し進めるその背後には、一貫した核政策が背後にあることを見逃すことができない。核燃料サイクル計画に対し、軍事転用の技術的可能性を論ずることが、反原発運動や反核兵器運動の内部においてタブー視される傾向があったことも、指摘しておかねばならない

 日本は97年ごろまで毎年150万キロワットのペースで原発を拡大させ続けた。

 2007.7.22日編集見直し れんだいこ拝





(私論.私見)