反原発基地闘争の歩み

 更新日/2016.03.04日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後日本の反戦平和運動は、原水禁運動に関連して新たに原子力発電をどうみるかという問題に直面し、抗議運動を組織していくことになった。この問題の要は、1・原発や再処理工場からでてくる放射性物質汚染いわゆる「汚染水と死の灰による環境汚染問題」、2・現代科学が危険放射性廃棄物の最終的処分能力を持っていないのに開発を押し進めることへの警鐘にある。

 日本政府は、「日本の原発は25基に達し、発電能力1827万キロで世界第4位となった」と自慢するが、使用済み燃料の再処理問題、高レベル廃棄物の処理、低レベル廃棄物の処分などいわゆる「ダウンストリーム」に関してはまったくお手上げのままこれを押し進めている。これは狂気の沙汰と云うべきであろう。今後、原発が増え、その稼働が長びいてくれば、この問題はいよいよ深刻な難問になっていくに違いない。

 ところが、この問題を廻っても「原水禁」と「原水協」が対立した歴史がある。「原水禁」が反対姿勢を打ち出したのに比して、「原水協」はむしろ協力的姿勢を採った。政府の原発政策を容認し、「民主・自主・公開の原則が守られればこれに賛成する」という態度をとった。しかし、それは、政府・電力資本の原発政策を裏から容認するもの以外の何物でもなかった。宮顕ー不破系日共党中央が日本左派運動に果たす役割がここでも透けて見えてくる。

 2006.5.22日 れんだいこ拝


 「反原子力発電闘争の歩み」は次の通り。「原水禁運動の歩み(2)」その他を参照する。

 1953年、アイゼンハワー米大統領が国連総会で「原子力平和利用」を演説する。

 1954年3月、国会で2億3500万円の原子力開発予算が提案され採決された。

 アメリカのノーベル賞受賞者ライナス・ポーリングは、「核実験でつくられた放射性物質が人類に大きな遺伝子的損失をもたらす」と判断し、アメリカの原子力委員会(AEC)の核実験を強く批判した。ソ連のサハロフ博士も、自分たちのつくりあげた水爆の実験が人類に被害を与えていることに責任を感じ、反核運動に乗り出していくことになった。


 原水禁が、反戦平和運動の観点からの原水禁運動のみならず、核の放射能汚染それ自体を問題に採り上げ、本格的な運動を取り組み始めたのは1969年からである。反原発の市民運動が、原潜が寄港し、放射性物質が港湾を汚染する危険性、原潜が放射性物質を海水中に放出していることに対して抗議運動を開始し、反原発の運動に着手した。原潜が海水中に放出した放射能は、たとえ微量であって食物連鎖を通じて濃縮され、生態系へ被害をもたらす。と同様に、原発もまた放射能による環境汚染の元凶となる危険性を十分に持つと判断した。

 この頃、日本列島各地に原子力発電所が強行的に建設されていった。当時、プルトニウムの危険性などをまったく無視して、再処理工場計画や高速増殖炉(実験炉)の建設計画が進められていた。稼働する原発がふえ、その使用済み燃料の再処理過程が進めば、膨大な余剰プルトニウムが生じる。プルトニウムを燃料とする次の原子炉(高速増殖炉)が確立されない限り、原子力発電を動かす核物質の流れは回らない。日本の原子力利用の核心となる物質がプルトニウムである。

 この点に着目した原水禁は、反原発運動を盛り上げるとともに、一連の核燃料サイクルに戦略的攻撃をかけるために、プルトニウム・キャンペーンを開始した。A・タンプリン博士やT・コックラン博士は、プルトニウムの恐るべき危険性に警告を発しており、「わずか数グラムあれば3億人に肺ガンを発生させる危険がある」として、「プルトニウム防護基準を10万倍きびしくせよ」と主張した。

 現在日本での計画されている原発は、1・安全性が立証されておらず危険である。2・たとえ事故がなくとも日常運転で生じる放射性物質の環境放出自体危険である。3・放射性廃棄物の処理方法もない、ことを問題にして反対運動を進めることになった。各地の住民運動間の「情報連絡センター」的役割を果たすとともに学習会や活動者会議などを開き、反原発運動の輪の拡大に努めた。

 1971年以降、反原発のスローガンが、夏の原水禁世界大会の主要なスローガンの一つとなった。「原水禁運動の歩み(2)」は次のように述べている。

 「だが、この運動は集会やデモだけで片付くものではない。地元における住民の強力な反対運動がなくてはならないし、この住民運動と協力することなしには発展しない。こうして、各地域に発生してきた地元反対同盟との協力・提携が、反原発闘争の組織方針の基本となる。

 さらに反原発闘争においては、原発に関する知識、放射線障害に関する知識、核分裂とは一体なにを意味するかという一定の理解をもたなくてはならない。なぜなら、政府や電力はいわゆる専門家を動員しデタラメな数字を並べ、一方的な理屈でその安全性を主張してくる。国民一般や僻地の住民たちはこれでゴマ化されつづけてきたのである。革新系の地方議員すらこのゴマ化しにのって原発誘致運動すらしてしまったのだ。この政府・電力のゴマ化しの理屈を見抜き、これに反論する知的能力を蓄えなくては、運動はできない。ビラ一つ書けなくなる。

 こうして原水禁は、各所で反原発の学習会を開き、理論的武装のためのパンフレットを発行してきた。あるいは学者・専門家などの協力をえて理論的活動にも手がけてきた」。

 該当地の各県原水禁からも問題が提起されてきた。1969年の柏崎集会をはじめとして、1970年の活動者集会(茨城・東海村)、1972年の活動者集会(敦賀市)を経て「原水禁」としての反原発闘争の方針が固められていった。反原発運動が拡大していくうえで原発裁判闘争の果たした役割は大きい。愛媛県伊方町では、地元の原発反対同盟が四国電力の「おどし」や「ダマシ」に屈することなくつづけられてきたが、1973年、「原発の許可取消」の裁判を起した。この裁判闘争では、関西地方の多数の学者・弁護士の支援の下に大々的な論戦を展開していった。法廷における証人たちの証言は説得力をもち、さながら学術論争の観を呈し、政府側証人の護謬や安全審査のズサンさを暴いていった。

 大阪軍縮協はこの裁判への支援運動を開始し、傍聴動員やカンパ運動を展開した。1976年から原水禁世界大会の名で裁判支援カンパが行なわれ、伊方原発裁判は全国的なものへと発展していった。この裁判は1978.4.28日の判決で敗れはしたが、この裁判は政府の原子力行政のズサンさをいかんなく暴くことになった。これと平行して、東海村における反原発裁判も開始され、これまた関東規模での裁判支援運動が展開された。

 1974.5月、原水禁は、原子力委員会に対して、「プルトニウムに関する公開質問状」を提出し、「プルトニウムの被害から国民の健康を守るために『プルトニウム目やす線量』を10万倍きびしくした『防護基準』をつくること」を要求した。

 1977~78年は、反原発の運動がさまざまな形で噴出してくる。この時期、「核燃料輸送廃止」、「再処理工場のストップ」、欠陥原子力船「むつ」廃船など、反原発・反核の諸運動が盛り上がり、これらの運動がマスコミに報道されない日の方が少ないという状況となった。国際的にも反原発の水位が上昇してきた。1978.9.25日、西ドイツのカルカー高速増殖炉反対集会には6万人が参加した。同年のオーストラリアのウラン採掘反対デモにも8万人が参加している。

 こうしたなかで、1979.3.28日、アメリカ、スリーマイル島(TMI)原発の大事故が起こった。この原発事故は、「給水系が停止」し、「冷却材が喪失」してしまい、炉心全面溶融(メルト・ダウン)の寸前までいった大事故であり、大量の「死の灰」を環境中に放出する結果となった。いまや、このTMI事故は「二重、三重の安全装置があるから起こりえない」とされた大事故が起こりうることを実証した。

 原発の安全性とともに、放射線の有害さについて国民の関心も増大してきた。ハンフォードの核施設で働いていた約3万5000人の労働者を10年間にわたって調査してきたピッツバーグ大のマンクーゾ博士たちは、低線量被ばくとガン発生の間には明らかな因果関係があるとして、ガン発生の「倍加線量」は従来の値よりも二ケタないし三ケタ低いと発表した。また、バーテル博士は、核施設の多いニューヨーク州では、ガン発生率が他の州より多い(男性2・5倍、女性4・2倍)ことをつきとめている。

 1980年になると、原発で働く労働者の放射線被曝問題がもはや放置できないものとなりはじめてきた。このころ発行された「原発ジプシー」や「被曝日記」などはその深刻さを証言している。

 「原水禁運動の歩み(2)」は次のように述べている。

 「原発の放出する放射能の環境汚染も住民の不安のタネであったが、これに関してはわが国ではユニークな運動がはじめられた。市川定夫埼玉大教授(現在・原水禁副議長)の提唱したムラサキツユ草による環境放射能の測定である。1974年、浜岡原発に取り組んでいた永田教諭は、このムラサキツユ草を原発周辺に植えて、雄しべの毛の突然変異を観測し、周辺の放射能が中部電力の発表(線量目標値年間5ミリレム以下)に反して、それを上回っていることをつきとめたのだった。原発推進側の発表する数値は信頼できるものではなく、放射能の環境汚染は確実に進んでいることがわかった。いまやこのムラサキツユ草による測定運動は、浜岡をはじめ、島根、高浜、大飯、東海村など各地にひろがり、毎日、放射能による環境汚染を暴きつつあるのである」。

 1980年、政府は、原発に対する国民の不安や原子力行政への批判の高まりを受け、従来の強行的買収的原子力行政を若干修正し始めた。「公開ヒアリング」導入もその一つである。だが、政府の採用した「公開ヒアリング」とは、1・予め陳述人を選定し、2・回答に対する再質問を禁じ、3・討論を避けるという「意見のいい放し方式」でしかなかった。つまり、「原発を設置することを予め決めておき、この結論をくつがえすことのできないヒアリング」だった。この「おしきせまやかし公開ヒアリング」に対する反対運動が組織された。

 現在、政府や電力側は、「下北半島にウラン濃縮、再処理工場、低レベル廃棄物貯蔵施設を設置する」という計画を発表したり、北海道幌延に「高レベル廃棄物の施設をつくる」ことを打診しはじめている。「ダウンストリーム問題」が未解決なままの政府行政の裏に何があるのだろうか。原子力利権は当然として、「国際ネオ・シオニストによる日本民族溶解政策」まで視野に入れないと解けないのではなかろうか。 

 1982年、全国各地に草の根的な脱原発グループが誕生し活動を開始していた。「ジョン・ウェインはなぜ死んだか(82年)」、「東京に原発を!(83年)」などの著者である広瀬隆氏の主張も広く知られるようになった。

 2006.5.22日 れんだいこ拝


 こういう年表及び一覧表が欲しかったところ、格好のサイト「【年表4】原子力発電所建設との闘い―立地反対運動と原発訴訟(富永智津子)」に出くわした。この労作の意義を称えたい。以下、これを参照する。このサイトに問題があるとすれば、社共運動全体に対して共産党の活動ばかりに偏った記述をしていることであろうか。追っ付け社会党のそれも確認しておく必要があろう。
(1)茨木市阿武山関西研究用原子炉設置計画反対市民運動/1958年、白紙撤回。
(2)関西電力/兵庫県御津市(現たつの市)
(3)日本原電/福井県川西町(現福井市)三里浜
(4)中部電力/三重県紀勢町(錦漁協・現大紀町)・南島町(古和浦漁協・現南伊勢町)にまたがる芦浜
(5)東北電力/福島県双葉郡浪江町・小高町
(6)関西電力/兵庫県香住町(現香美町)
(7)関西電力/和歌山県日高町阿尾(あお)・小浦(おうら)地区(クエの漁場)
(8)関西電力/和歌山県古座町(現串本町)
(9)関西電力/福井県小浜市(若狭湾)
(10)四国電力/愛媛県津島町(現宇和島市)
(11)関西電力/和歌山県那智勝浦
(12)関西電力/福井県小浜市(若狭湾)
(13)四国電力/徳島県海南町(現海陽町)
(14)中国電力/岡山県日生町(現備前市)鹿久居島
(15)関西電力/京都府舞鶴市(若狭湾)
(16)中国電力/山口県豊北町(現下関市)
(17)東北電力/新潟県巻町(新潟市)
(18)中部電力/三重県熊野市井内浦
(19)四国電力/愛媛県窪川町(現四万十町)
(20)関西電力/京都府久美浜町(現京丹後市)
(21)中部電力/石川県珠洲(すず)市(北陸電力・中部電力・関西電力)
(22)関西電力/和歌山県日高町日置川(ひきがわ)町(現白浜町)
(23)四国電力/徳島県阿南市
(24)中国電力/山口県祝島―上関原発反対闘争(スナメリなど希少動物の生息地)
(25)中国電力/山口県萩市
(26)九州電力/宮崎県串間町
 上記の原発建設の動きに併走して原発の建設、運転を中止させるため、国や電力会社を相手に闘う原発訴訟がある。これには大きく分けて行政訴訟と民事訴訟がある。行政訴訟は原発などの設置許可をした経済産業大臣ら(国)に対して許可の取り消しを求める訴訟で、処分があった日の翌日から60日以内に異議申し立てをすることが前提である。一方、民事訴訟は電力会社などの設置者に対して住民が人格権や環境権に基づいて施設の運転や建設の差し止めと求める訴訟である。この両者を併合したもんじゅ訴訟のような事例もある。

 もんじゅ訴訟の名古屋高裁と志賀原発2号炉金沢地裁、および高浜原発3,4号機福井地裁での原告勝利はあったが、その後、上級審でなお係争中であり、最高裁で結審した案件はすべて棄却されている。しかし、判決理由の中で、原子力推進の立場から積み上げられてきた様々な安全神話の矛盾やまやかしや嘘が少しずつ明らかになってきていたことは注目に価する。他方、棄却の理由が判例として原告に不利な方向で援用されて行くことになった。加えて、裁判長の不自然な交代や、最高栽のダブルスタンダードなど、裁判の複雑なからくりや裏舞台を読み解く作業も欠かせない。原発訴訟の歴史を見ると、一度建設された原発や建設許可が出た原発を、住民が差し止める手段はまずないと言って良い。これにどう立ち向かうべきかが問われている。


 №1、茨木市阿武山炉設置計画反対市民運動
 1957年、「茨木市阿武山原子炉設置反対期成同盟」発足。委員長、田村英茨木市市長。商工団体、農協、婦人団体、青年団体、医師会、歯科医師会、文化団体などを網羅した運動を展開。武谷三男と服部学が現場に入り、「原子炉は本質的に危険なものである」と明言。全国25大学の140名に及ぶ専門研究者が連名で白紙撤回を求める要望書を提出。1958年、白紙撤回。
 【解説】財界や一部大学の工学部を巻き込んだ原子炉導入に向けての取り組みが加速され、その研究用原子炉設置の候補地となったのが京都府宇治市だった。しかし、大阪府知事、大阪市長、大阪財界、大阪大学などが大阪市民の水源地が脅かされるとして反対し、阿武山案となったといういきさつがある。その途端に反対していた大阪知事らが積極的誘致を表明。大都市の発展の為に小都市や過疎地を犠牲にする論理が、この時に確立された。この論理は政府の「原子炉立地審査指針」に「公衆が原則として居住しない区域であること、低人口地帯であること、人口密集地帯からある距離だけ離れていること」といった表現で盛り込まれている。武谷(たけたに)三男(物理学者・科学史家・原子核・素粒子論専攻)は後に、阿武山への設置に反対する茨木市民運動は「日本の公害反対運動のトップだった」と述べている(武谷1981年、273頁)。
 神山治夫「阿武山原子炉設置反対茨木市民運動―原子炉と住民の意思と科学者」原発なくそう 茨木2011年12月28日 
 (http://blog.goo.ne.jp/agoraibaraki2/e/948e65bee709de05d35fa07332910af5) 

 №2、関西電力/兵庫県御津町(現たつの市)
 1958年、東海村1号炉につぐ全国で2番目の原発候補地として兵庫県の複数の町に白羽の矢がたてられ、誘致の動きが始まり、1960年12月、関西電力が御津町を最有力候補地にあげたことが新聞報道で表面化した。原発の安全性への疑問が議論され、学習会や宣伝資料が配布され反対運動がひろがる。町長が反対し計画は沙汰止みになった。
 【解説】「建設計画が発覚したきわめて初期に共産党の主導によって計画を断念させた事例」となっている。
 「住民と力あわせ原発誘致阻止/兵庫民報2011年4月24日」

 №3、日本原電/福井県川西町(現福井市)三里浜
 1957年4月、県は有識者による県原子力懇談会を創設し、京都大の研究用原子炉の誘致に乗り出し、川西町が福井県内で最も早く原発誘致に名乗りを上げた。日本原電の東海原発に続く商業用2号炉の建設計画を察知し、熱烈な誘致運動を展開した。高度経済成長期に入っても、農漁村は取り残されていた。当時の山田十左衛門町長(故人)は活性化の起爆剤として原発に着目。町長に引っ張られるように各区長もみんな賛成していった。建設予定地は五つの区にまたがる農林地約165ヘクタール。中でも石橋区は意思決定を町長に一任した。建設の前提となる岩盤の有無の確認が必要となり、県開発公社によるボーリング調査が始まった。

 1962年春、日本原電が福井県川西町(現福井市)三里浜を原発候補地として発表した。調査が進むうちに危険性が判明し、町民の池端さんが、受け入れを伝えた区長に対し、「勝手にそんなことしていいのか。行政はあんたに任せたかもしれんが命まで預けた覚えはない」と酒席で食ってかかった記録が遺されている。

 1962年6月5日、日本原電が、ボーリング調査の結果、深さ46メートルで岩盤に到達したが立地に必要な厚さには足りなかったとして、川西町不適による建設断念を表明した。最も熱心だった川西町の原発誘致は幻に終わった。日本原電は敦賀半島を新たな候補地として調査すると明らかにした。

 同年6月、敦賀半島への誘致が水面下で進められ、川西町建設断念表明からわずか21日後、敦賀市の立石、浦底、色浜の3区が土地売買に同意し、県開発公社と正式調印を交わした。7月、北栄造知事は、県会答弁で、他県にも誘致の動きがあったとし、「(川西町の)後の候補地がないとなると、本県としては不利な立場になる。下調査がすむまでは秘密にせざるを得なかった」と釈明した。敦賀市も県から事前に計画を聞いていた。畑守三四治市長は春頃、市会各会派に誘致への協力を求めた。当時市議だった「高速増殖炉など建設に反対する敦賀市民の会」の吉村清代表委員は「突然の話だった」と語る。9月、敦賀市会は原発誘致を決議。出席した24人中20人が賛成。吉村さんら4人は退席した。後発の原発と異なり、用地買収を県開発公社が担うなど県、市を挙げて誘致を後押しした。「県が表に立ち、企業(原電)は見えなかった。地元も安心して地面を売った」と吉村さんは指摘する。建設候補地とされてから70年の営業運転開始まで8年足らず。異例のスピードだった。
 2011年11月17日「川西への原発誘致、幻に終わる 極秘で敦賀立地進行 1章(2)」。

 №4、中部電力/三重県紀勢町、南島町にまたがる芦浜 
三重県芦浜原発阻止37年闘争考
 2009/6/11日、「長島の自然を守る会 スナメリ通信」の「芦浜原発 計画断念まで37年の闘争」。「ウィキペディア芦浜原子力発電所」。

 №5、東北電力/福島県双葉郡浪江町・小高町
 1966年、大熊町議会、原発誘致を決議。双葉町議会、原発誘致を決議。
 1967年、浪江町議会、原発誘致を決議。
 1968年、東北電力、浪江町棚塩地区に原発建設を決定し、用地買収を依頼(ほぼ99%が浪江町、小高町の土地は境界線をはさんでごく一部)。

 棚塩地区全戸が原発誘致反対を決議し、「浪江原子力発電所誘致絶対反対期成同盟」を結成。浪江町棚塩地区の原発立地反対運動の背後には、核科学専門の物理学者高木仁三郎、原発現場で指揮・監督するプロの技術者平井憲夫、そして原発学習に取り組んだ枡倉隆がいた。棚塩地区の住民は当初、この3人をオピニオン・リーダーとして地区一丸となって原発阻止に取り組んでいた。但し、電力会社、政府、県と町の推進派の攻勢によって反対同盟を離反する者が続出し、反対派は苦しい闘いを強いられた。そんな反対派の戦略の要となったのは、原発建設用地の買収をめぐる攻防戦だった。舛倉らの反対派が建設予定地内にある住民81人の共有地について「全員の同意がなければ売却できない」とする確約書を取り付け対抗した。共有地や入会地を死守することによって電力会社による建設予定地の買収に歯止めをかける戦略は、その後上関闘争などでも展開されている。
 1969年、舛倉隆、反対期成同盟2代目委員長に就任。
 1970年、県開発公社と東北電力、用地取得についての委託契約を締結。
 1972年、反対期成同盟、県の予定地内測量を実力阻止。
 1973年、東北電力、棚塩地区で個別訪問開始。東電福島第一原発一号機で放射能廃液漏れ事故。棚塩地区内に原発賛成者を中心に地権者協議会発足。
 1974年、舛倉隆、反対期成同盟委員長に再度就任。
 1975年、舛倉委員長、手作り機関紙『原発情報』発行。
 1977年、原発問題をめぐる意見対立から棚塩地区、南北に分裂。
 1979年、棚塩公民館で高木仁三郎博士の講演会。スリーマイル島原発事故。
 1980年、福島第一原発海域のホッキ貝からコバルト60とマンガン54を検出。東電との補償交渉まとまる。空気中からもコバルト60検出。
 1981年、敦賀原発の放射能廃液大量漏洩事故発覚。
 1982年、舛倉が無償譲渡した原発建設予定地内の土地が、反原発運動家一三人の共有地として登記される。
 1986年、チェルノブイリ原発事故。
 1989年、枡倉、共有地の持ち分登記を求めて富岡簡易裁判所に提訴。
 1991年、福島地裁いわき支部で和解成立。東北電力の共有地買収が事実上不可能となり、反対期成同盟の勝利確定。
 1997年、舛倉隆死去。
 2000年、高木仁三郎死去。反対派が世代交替するなか、電力会社は執拗に用地買収を進め、地権者の同意の取り付けを進めた。
 2006年、小高町、原町市と鹿島町と合併して南相馬市に。
 2010年、着工先送り、35回目。
 2011年、東日本大震災。南相馬市長、新規立地は受け入れないとして電源立地など初期対策交付金の辞退を表明。東北電力、原発建設を断念。津波と放射能に追われるようにして、浪江町民の離散がはじまった。東北電力の原発建設を拒否した浪江住民が、東京電力福島第一原発の放射能によって多大な被害を被った無念は想像を越える。

 №6、関西電力/兵庫県香住町(現香美町)
 1967年11月、県と町が香住町下浜地区に関西電力の原発を誘致する方針を発表した。日本共産党兵庫県委員会がただちに「誘致反対」に動き、県議会で「ひとたび事故が起これば…深刻な被害を及ぼす」、「関西電力の言い分をまるごと飲み込むような政治的な態度はおかしい」と厳しく質した。香住町住民の有志による講演会や集会やデモが繰り広げられる。1970年9月、町長が議会で誘致棚上げを表明し棚上げした。続いて隣町の浜坂町の居組などが次の建設候補地にあげられたが建設を許さなかった。

 №7、関西電力/和歌山県日高町阿尾(あお)・小浦(おうら)地区(クエの漁場)
 1967年、和歌山県日高町阿尾に原発建設計画が持ち上がる。大信製材という会社が製材所をつくるといって用地を買収を始めた。関電に転売される予定だった。町議会が満場一致で誘致決議。当初誘致に賛成していた住民が、町長との懇談後、「阿尾地区原子力誘致反対同志会」(愛郷同志会)を立ち上げる。

 1968年、阿尾地区総会で反対決議可決。区長ら役員総辞職。比井崎漁協で反対決議。日高郡の他の14漁協も「かかる全世界人類最大の危険物の誘致に対し漁民の真意をよく御諒察いただき・・」(汐見2012、48頁)との反対決議。町長ら推進派、原発建設を白紙にもどすことを了承。阿尾地区総会と漁協総会の反対決議で頓挫した。

 1970年、町の予算を使って用地を買収、町長名義で登記、関電関連会社に転売する動きが先行した。

 1972年暮れ、県南の日置川町(現・白浜町)で町の開発公社が用地買収を開始、その名目は自然保護のため国定公園にするということだったが、新聞記事が土地が関西電力に転売されると報じた。

 1975年、阿尾に隣接した日高町の小浦地区と日置川町に原発建設の計画が再燃した。建設用地は観光開発の名目で関連会社が75年頃から買収を始めていた。

 1975.6月、計画打診をうけると、議員・区長・住民の原発ツアーを重ねた。12月、議会は「原発調査研究特別委員会」を設置した。

 1976年、比井崎漁協が臨時総代会で「誘致につながる調査研究は絶対反対」と決議した。

 1978年、小浦地区が陸上事前調査受け入れを決議。関電、建設スケジュールを発表。関電、比井崎漁協の条件付き事前受け入れで、漁協口座に3億円を預金(漁協の赤字財政につけこむ)。日高町の女性たちが「原発に反対する女の会」を立ち上げる。「熊取6人衆」の久米三四郎氏の講演会が開催された。11月、阿尾地区の漁師たち130人が「比井崎の海を守る会」(男限定)を結成した。和歌山市の汐見文隆さんら市井の科学者も多く運動に参加した。

 1979年、スリーマイル島原発事故。町長、事前調査凍結。「原発に反対する和歌山市民の会」結成。

 1980年、資源エネルギー長官から「原発は安全」との県知事への書簡。日高町長、事前調査凍結解除。反対派による京都大学原子炉実験所小出裕章講演会。12月、「日高町原発反対連絡協議会」結成。

 1981年、2地区労や日本科学者会議御坊分会と共催した浜辺の決起集会を経て、6月、「和歌山県原発反対住民連絡協議会」結成。

 1982年、町長選挙、反対派候補善戦するも敗退。比井崎漁協の再建案をめぐって、補償金を当てにする推進派と自主再建をめざそうとする反対派が対立。

 1986年、チェルノブイリ原発事故。

 1987年、「日高原発反対30キロ圏内住民の会」結成。日置川の女性たち「ふるさとを守る女の会」結成集会。

 1988年、日高医師会の医師31人が連名で新聞に反対意見広告を出す。全国各地から応援あり。比井崎漁業組合事務所前での女性たちの座り込み。漁協総会、紛糾・混乱の末、事前調査の話は白紙撤回され、漁協の役員総辞職。この年、立地計画が実質的に撤回された。

 1990年、町長選挙で反対派の町長が当選。

 2002年、原発反対の町長当選。2003年、使用済み核燃料の中間貯蔵施設を日高町隣の御坊市に建設する計画が明らかになり、これに対する反対運動も続けられた。

 2005年、国が小浦の「開発推進重要地点」解除。実質的に建設が不可能となり公的に白紙撤回された。
 紀伊水道の海に面した日高町の阿尾で、次に小浦で関電が原発建設を計画。町を二分した闘いが展開された。約40年を経て、ついに原発の火種を消したのは、豊かな海を守るという原点をみつめて、巨額の補償金で住民の分断を図った関電と闘った住民・医師・漁師の連携だった。反対派に「アカ」というラベルが貼られるのは、他の事例でも散見されるが、ここでもそうした政治がらみの誹謗中傷が展開されたという(URL③)。 そうした誹謗中傷をものともせずに立ちあがった女性たちがいた。女性たちは、地区を越えた共闘体制をつくり(県下10団体が「紀伊半島に原発はいらない女たちの会」に結集)、勉強会を通して啓蒙活動を行いながら、各戸にビラを配布する活動を90年の日高町長選挙まで続けた。
 2012年11月18日、「【書評】『原発を拒み続けた和歌山の記録』(寿郎社)―勝利した現地闘争からまなぶべきこと 」。
 

鈴木静江(日高町「原発に反対する女の会」)は、『女から女への遺言状』にこう記している。「阿尾は白紙撤回したけれど、その時は賛成の人、反対の人がほんまにもう、顔つきあわせてももの言わない状態になって、村が二つに割れてね、双方傷だらけになってしまった。・・・そういう状態が何年も続いていたんですからね」(P233)、と。日高町の阿尾地区は6年、そして小浦地区は90年までの15年、苦しい闘いとコミュニティの分裂を強いられた。


 №8、関西電力/和歌山県古座町(現串本町)
 1968年、計画浮上、町議会、原発誘致を決議。1969年、近隣の太地町議会、原発反対決議。太地町住民「太地町原子力発電所設置反対連絡協議会」結成。古座漁協を中心に四漁協が「紀南漁民原発反対協議会」を結成。1972年、漁民による大規模な海上デモ。陸上でも反対派の決起集会。町議会、原発誘致決議を白紙に戻し、誘致・設置に反対する特別決議を可決。1976年、反対派3団体が結束して「紀南原発反対連絡協議会」結成。町議選挙で反対派後退。漁船135隻による海上デモ。「補償欲を捨てて紀南の海を守れ」、「企業より人間を守ろう」との横断幕。古座漁協、推進に傾斜。1977年、古座町に隣接する古座川町で原発反対決議。1978年、古座町が原発誘致反対決議を白紙撤回。1979年年、米国スリーマイル島原発事故で危機感高まる。1980年、古座町議会議員選挙で推進派が多数を占める。1983年、古座町長選挙で共産党、社会党の推薦を受けた元共産党町議が保守系の二候補を破って当選。1986年、チェルノブイリ原発事故。1990年、古座町議会、原発設置反対の決議を行い、関電建設計画を断念する。

 №9、関西電力/福井県小浜市(若狭湾)ウィキペディア「小浜市」(2013年2月参照)
 1968年、内外海半島の入り江にある田鳥に建設計画。市長は推進姿勢。住民も田鳥から市街地まで車で行ける道路がなかったことから、道路整備を求めて誘致に傾く。一方、内外海漁協が反対の声をあげる。1969年、小浜市議会に原子力発電所誘致のための委員会設置。・「内外海原発設置反対推進協議会」発足。反対派(発起人角野政雄、支援者明通寺住職中嶌哲演)の熱意により県道が開通。県道の開通が誘致の口実にされないための反対派の行動だったが、推進派はあきらめず。1971年、「原発設置反対小浜市民の会」結成、労働組合、教職員組合、宗教者団体、共産党を含め九団体が大同団結。1972年、署名運動開始、3ヶ月で有権者の半数を越える1万3000人の署名が集まる。これを受けて市長が誘致断念を表明したが、市議会は請願を不採択。1975年、市議会に発電所安全対策調査研究委員会が設置され、立地調査推進決議案が提出される。1976年、市民の会を中心に反対運動再燃。新市長、誘致拒否の結論を出す。
 「〈福井県・小浜市〉真言宗御室派棡山明通寺住職中嶌哲演さんに聞いた(その2)」「マガジン9」
 (http://www.magazine9.jp/genpatsu/tetsuen/

 №10、四国電力/愛媛県津島町(現宇和島市)
 1968年、四国電力は津島町が適地だとの結論を出せず。

 №11、関西電力/和歌山県那智勝浦 
 1969年、那智勝浦町議会が原発誘致決議。原発に反対する住民「那智勝浦町原発誘致反対町民会議」を結成する。1971年、町長選挙で、推進派候補が僅差で当選。共産党の反対派候補善戦。勝浦下里の母親ら「子どもを守る母親の会」を結成。その後も次々に反原発運動が生まれ、広範な反対運動を展開。那智町議会が原発反対の決議。1972年、環境庁長官が、那智勝浦町における原発計画について国立公園内の地質調査を認めるとの見解を明らかにする。反対派、長官へ陳情。反対派、知事に陳情。反対派女性、知事夫人に陳情。1974年、原発反対全国集会が那智勝浦で開催される。1981年、町長が「設置反対」を町民に回答し、原発計画は消滅した。
 那智勝浦町は、当初誘致に動いた町議会が住民の動静を汲み、比較的早い時期に反対決議を行い、設置反対を決めた事例。その背景には、「子どもを守る」ことを反原発運動の基軸に据え、国の介入を撥ねつけた母親らの広範な反対運動があった。「母親の会」代表の佐竹美代さんは次のように語っている。
 「それはそれは、毎日集まりました。敷布を集めて鉢巻やタスキ、旗づくりもしました。堅調はもちろん、当時の大石環境庁長官に直訴するために上京もしました。初めて経験することばかりでした。町は賛成と反対で真っ二つに分かれ、気持ちがそぐわんいやーな気持ちがずーっとつづきました。しかし、こればっかりはと思って頑張りました」(汐見2012、173頁)。

 №12、関西電力/福井県小浜市(若狭湾)
 1968年、内外海半島の入り江にある田鳥に建設計画。市長は推進姿勢。住民も田鳥から市街地まで車で行ける道路がなかったことから、道路整備を求めて誘致に傾く。一方、内外海漁協が反対の声をあげる。1969年、小浜市議会に原子力発電所誘致のための委員会設置。「内外海原発設置反対推進協議会」発足。反対派(発起人角野政雄、支援者明通寺住職中嶌哲演)の熱意により県道が開通。県道の開通が誘致の口実にされないための反対派の行動だったが、推進派はあきらめず。 1971年、「原発設置反対小浜市民の会」結成、労働組合、教職員組合、宗教者団体、共産党を含め九団体が大同団結。 1972年、署名運動開始、3ヶ月で有権者の半数を越える1万3000人の署名が集まる。これを受けて市長が誘致断念を表明したが、市議会は請願を不採択。1975年、市議会に発電所安全対策調査研究委員会が設置され、立地調査推進決議案が提出される。1976年、市民の会を中心に反対運動再燃。新市長、誘致拒否の結論を出す。

 №13、四国電力/徳島県海南町(現海陽町)
 1970年、四国電力が調査の中止を決定。

 №14、中国電力/岡山県日生町(現備前市)鹿久居島
岡山県日生町鹿久居島の原発阻止千日闘争考

 №15、関西電力/京都府舞鶴市(若狭湾)
 1971年、県境を越え「原発反対若狭湾共闘会議」の結成。1972年、敦賀市にて反核運動家百名による「原電・核燃料再処理工場設置反対全国会議」開催。1982年、共産党、関西電力の立地調査計画を暴露、調査計画が頓挫。

 №16、中国電力/山口県豊北町(現下関市)
 1971年、原発計画が明るみに出るも漁民の反対が強く計画は見合わせとなる。1977年、再度原発計画が表面化、県も推進姿勢をとるも漁民の反対やストライキが起こる。1978年、反対派の町長が当選し、町議会も建設拒否を可決、県と中国電力に建設拒否を通告。1994年撤回

 №17、東北電力/新潟県巻町(新潟市) ウィキペディア「巻町」(2013年2月参照)
 1971年、原発計画の発表。
 1977年、町議会が建設同意。
 1980年、町長が建設同意。
 1994年、原発予定地中心部の町有地を東北電力に売却しようとしたことに対し、住民有志が「巻原発・住民投票を実行する会」を立ち上げるも町議会により拒否され、新たに「住民投票で巻原発をとめる連絡会」を結成し、自主管理による住民投票実施に踏み出す。
 1995年、自主管理の住民投票実施。有権者の45%が投票し、そのうちの43%が反対に投票。町議選で、住民投票条例制定派多数当選。町長が住民投票の実施を拒否したため町長のリコール運動が始まる。人口約3万のうち1万人以上が署名し、町長辞職。
 1996年、原発反対派の町長が当選し、東北電力の買収・供応・利益誘導・締め付けが行われる中、住民投票が実施され反対票が61%を占める。
 1999年、町長、原発予定の町有地を反対派住民に売却。これを違法として推進派が提訴。
 2003年、最高裁、推進派の上告を不受理。原発建設は不可能となる。
 「住民投票で巻原発を阻止した住民運動」原発問題住民運動全国連絡センター代表委員・原発問題全国連絡センター代表委員藤泰男氏の講演(要旨)
 (http://daemon.co.jp/~nagai/kenminkaigialles/fujimaki.htm
 「新潟・巻原発建設計画の断念―長年の住民運動、実結んだ。原発バブルに頼らない町へ」(『しんぶん赤旗』2003年12月31日)
 (http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-12-31/03_01.html
 正阿彌崇子(論文)「市民主役の社会のための「住民空間」―新潟県旧巻町原発を巡る住民の動向をてがかりに―」
 http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/   (2013年1月参照)

 №18、中部電力/三重県熊野市井内浦
 1972年、市議会が調査拒否を決議。

 行政訴訟/伊方原発(四国電力)
 1973年、1号炉設置許可取り消し訴訟。
 1978年、松山地裁が棄却。判決直後、科学者グループ、原告団、弁護団が『原子力と安全性論争―伊方原発訴訟の判決批判』(技術と人間、1979)を出版。地震と立地審査、炉心燃料、蒸気発生器、圧力容器、一時冷却系配管、放射線の危険性など、今日の原発安全論争の原点がまとめられている。
 1984年、高松高裁が棄却。
 1992年、最高裁が棄却。

*判決の判断基準は、行政の裁量判断を広く認めていること、審査の対象を基本設計に限定していることを除けば、取り返しのつかない災害の性格を踏まえ、かなり高いレヴェルの安全性確保を要求した点は評価されている。その背景にはスリーマイル島とチェルノブイリにおける原発事故に伴う社会的関心の高まりがあった。


 行政訴訟/東海第二原発(日本原子力発電株式会社)
 1973年、設置許可取消訴訟。
 1985年、水戸地裁棄却。
 2001年、東京高裁棄却。*地震と耐震設計が大きな争点となったが、国側証人の意見を認めて安全性を肯定。
 2004年、最高裁棄却。

 №19、四国電力/愛媛県窪川町(現四万十町)
高知県佐賀町、窪川町の原発阻止闘争史考
 猪瀬浩平「原子力帝国への対抗政治に向かって―窪川原発反対運動を手掛かりに」(明治学院大学帰還リポジトリ2012年3月31日)
 (http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/handle/10723/1162
★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK130」の氏の日付け投稿「高知闘う民衆の歴史/「高知生コン事件」アニメ化/原発施設を3度退けた県民」を転載しておく。

 原発マネーに負けなかった男 (高知)

 高知県民は、過去の放射能との困難な戦いで、実に3連勝している。窪川原発(1988・1・28 窪川町)、高レベル放射性廃棄物(2007・4・22 東洋町)、低レベル放射性廃棄物(2009・2・4 大月町)をその入り口で追い返した。最初の窪川原発については、私はほとんど何も知らなかったが、昨年11月30日に高知大学で行われた島岡幹夫さんの講演を聴き、その直後に1時間ほど彼と話す機会があり、さらに執筆を開始してから確認の電話を5回したので、およその経緯を知ることができた。それは、語るに値する「サクセス・ストーリー」であった。

 ○ 島岡さんたちの反対運動が、豊かな自然を残した。

 1975年、旧窪川町に原子力発電所建設計画が持ち上がった。島岡幹夫さん(当時38歳)は、この時、高知県窪川町自民党支部広報副委員長だった。25歳までは大阪府警の警官だった人である。この種の話は、一般の人が知る前に保守系の有力者の間で根回しされるのが常である。ある会合で計画を打ち明けられた時、町の有力者がだれも反対しない中で、彼だけは、「ちょっと待ってください!」と異議をはさんだ。放射能が気がかりだったのである。その時、放射線治療の末に52歳で亡くなったお母さんの死体を思い浮かべたと言う。有機農業をやっていたから生理的に放射能を嫌ったということもあったかもしれない。

 「窪川町には、当時、農業と畜産で80億、林業で30億、縫製工場などの加工産業を合わせると、150億近い収入があったのです。四国有数の食糧生産地なのに、たかだか20億や30億の税収に目がくらみ、耐用年数30年程度の原発のために、2000年続いてきた農業を犠牲にするのは、愚の骨頂であります」というのが、島岡さんの主張であった。しかし、窪川町自民党支部の中で、彼のこの正論に同調する人はなく、彼は孤立感を深めていった。

 島岡さんは、孤立して思案に暮れる人ではなかった。彼は、共産党の反対集会に乗り込んで行って、こう言った。「この町の有権者は13000人、革新は3000人、保守は10000人、革新が運動を主導したら、原発は建設されてしまいます。この反対運動は、私のような保守系の人間が中心にならなければ、大きな力になりません。私を反対運動の代表にしてください」。そして、彼は、窪川町原発反対町民会議の代表になった。まもなく、彼は、自民党窪川町支部に呼び出され、除名処分を言い渡された。

 賛成派と反対派、町を2分しての骨肉相食む長い闘いが始まった。賛成派は、13億の宣伝費、接待費を使ったと言われている。一方、島岡さんは、「郷土懇談会」と名付けた学習会を毎週のように開き、住民といっしょに原発を学習することから始めた。「岩波新書の『原子力発電』(武谷三男)を教科書にして勉強しました。あの本は、私たち反対派のバイブルになりました」と当時を振り返る。

 原発は未来に禍根を残す。原発反対町民会議は、任期4年の町長や町議会に建設の議決を委ねず、全町民有権者の投票によって決する住民投票条例の制定を要求した。先駆的な試みであった。「その時の町長は、当選して1年半後、公約に反し、賛成派に回っていたのです。その町長は、私の家内のいとこでしたが、私はリコール運動の先頭に立ちました。1981年3月の解職投票で、賛成6332、反対5844で、私たちが勝ちました。しかし、私たちに油断があったのでしょう。その後の出直し選挙では、私たちの立てた候補者が899票差で解職町長に負けてしまったのです。1票5万円だったと言います。当時の窪川町の民度は高かったですが、浮動票がかなりあり、金をもらったら、そちらに投票する人もいたのです。私たちは再び危機に陥り、町は一層混乱していきました」。

 住民投票条例は、出直し選挙の年に成立した。町長が出直し選挙の公約にしていたからである。しかし、町長は賛成派であった。では、町議会の方がどうなっていたのかと言うと、24議席の内、賛成-20、反対-4という状態であった。そこで、島岡さんは、1983年2月1日、町議会議員になり、「議会改革」に乗り出した。「議員としての収入は、女房には申し訳なかったけれど、すべて原発反対運動に使いました。日本全国の原発を訪ねて、住民の意見を聞き、原発の問題点を調査研究しました。その研究成果を議会での質問に使ったのです。だから、町長も大変だったでしょうね」と当時を振り返る。彼は、原発建設を阻止するために急きょ町議会議員になったのだが、7期28年間務め、終わりのころの2年間は町議会議長を務めた。彼の奮闘があって、22議席のうち、賛成―12、反対10まで追い上げたが、やはり、反対派は議会内では劣勢のままであった。

 私は、東洋町の高レベル放射性廃棄物の反対運動の時(2007・4・22)も、1票に5万円が動いた、と聞いた。東洋町の町長選挙の出陣式の日、私は、2mほどのブロック塀の上に登って写真を撮っていたが、下を走る車の中が丸見えであった。鋭い目つきの男の隣には誰も座っていなかったが、5万円くらいに小分けされた1万円札の束の山が無造作に積まれていた。

 選挙では勝てなかったが、島岡さんたちの学習会をベースにした地道な反対運動は、徐々に反対派を増やしていった。県原発反対漁民会議は、「海洋調査が強行されるなら、5000隻の漁船を動員して、海上封鎖する」と宣言していた。そして、島岡さんたちの反対運動に順風が吹いた。1986年4月、レベル7のチェルノブイリ原発事故が起こったのである。・・・。1988年1月、反対の世論に包囲された藤戸進町長は、「窪川原発は今日的課題ではなく、海洋調査を棚上げにする。私は、公約の責任をとって辞任する」と発表した。こうして13年間に及んだ窪川原発建設計画は、原発反対町民会議の地道な活動によって、阻止されたのであった。

 ○ 焼肉パーティーを兼ねての学習会風景。和子夫人の「ちらし寿司」も活躍した。

 島岡さんが原発反対運動に走り回っていたのは、13年間である。急発進した車を道路に転がってかわしたこともあった。その筋の人たちが10人ほど町に入り込んでいたのである。柔道、剣道の有段者である彼は、呼子をいつも首からつるし、暴力にも屈することなく、己の正義を貫いた。「島岡幹夫なくして、窪川原発は阻止できなかったであろう」 多くの関係者に聞いたが、異口同音にそう言う。

 その間、彼に代わって本業の有機農業をやっていたのは和子夫人で、「働き過ぎて背中が曲がってしまった」と言う。高校時代、彼は、2年間生徒会長を務めていた。その同じ高校の2年先輩だった和子夫人いわく 「父ちゃんはえらい。私は父ちゃんを誇りにしています」。 

 ○ 自宅前の島岡幹夫さんと「内助の功」で反対運動を支えた和子夫人

 (筆者の感想)

 島岡幹夫さんは、現在73歳だが、まだ現役で、席の温まる暇がない。会えばわかるが、全身からエネルギーをほとばしらせていて、話し出したら止まらない。彼は、現在、日本国内はもちろん、韓国の反原発運動を応援しているが、韓国の空港に降り立つと、両側に公安警察がピタリとついて迎えてくれると言う。また、自宅には、月に1度、黒いスーツを着た2人の高知県警の公安が訪れると言う。日韓両国の公安が彼の動静をマークしているのである。しかし、25歳まで彼自身がその公安警察だったのである。

 ○ 韓国・光州市で開かれた反原発の集会で講演している島岡さん

 また、彼は、「大地を守る会」国際局の要請を受けて、タイ東北地方のタラート村に毎年、有機農業の指導に出かけている。自ら泥にまみれて、「立体農業」を指導している。村人の笑顔が増えることを楽しみに、私費を投じて、タラート村の生活改善に貢献している。今年で14回目だと言う。

 ○ タイ国の島岡農業塾で幹部のミーチャイ君と打ち合わせ

 また、彼の1枚65円の名刺には、「朝霧森林クラブ会長」とも書かれている。仲間を募って、植林の間伐にボランティアの汗を流しているのである。「窪川ジャガイモクラブ会長」でもある彼は言った。「経済を繁栄させるために農業を犠牲にしてエネルギーをつくりだそうとするのは、根本的に間違っています。私は、農業を基礎にした国づくりを考えるべきだと思います。日本の農業を破壊するTPPには、絶対反対です」

 徳川封建時代が長かったからだろうか、日本では、「長いものには巻かれろ」という処世術の人が多い。いわゆる「大勢順応型」である。しかし、時々、社会の価値観に自分を合わせるのでなく、自分の価値観に社会を合わせようとする人が出てくる。島岡幹夫さんや澤山保太郎さん(高レベル放射性廃棄物から東洋町を守った)は、そういう日本人離れした怪物である。己の正義を信じて、郷土の敵に立ち向かう「命知らず」が1人いること、それが原発マネーに負けない必要条件であるように思った。


 №20、関西電力/京都府久美浜町(現京丹後市)
 1975年、関電、事前環境調査を町に申し入れ。
 1987年、町長選挙で、反対派候補者善戦するも敗退。
 1990年、有権者の7割を超える反対請願署名、推進派町議による不採択。
 1995年、前年から95年にかけて推進派による原発学習会が計8回開催され「安全神話」を振りまく。  2001年、町長選挙で、反対派候補者(共産党)善戦するも敗退。
 2004年、久美浜ほか5つの町が合併して京丹後市誕生。
 2006年、市が関電に「旧久美浜町以外の住民に久美浜原発立地の理解を求めるのは困難」として、計画撤回を申し入れ、関西電力が断念を表明。
 「〈原発撤退へ 立地拒否した町で〉京都旧久美浜町(現・京丹後市)「つくらせなくてよかった」推進派の下議員ら」
 (http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-08-19/2011081904_01_1.html

 №21、中部電力/石川県珠洲(すず)市(北陸電力・中部電力・関西電力)
 ウィキペディア「珠洲市原子力発電所」(2012年1月参照)
 1975年、原発計画の浮上。市議会全員協議会において「原子力発電所、原子力船基地等の調査に関する要望書」を議決。市議会で議決した要望書を石川県知事の中西陽一に提出。
 1983年、市議会において、珠洲市長の谷又三郎が原発推進を表明。
 1984年、北陸、中部、関西の3電力会社が原発立地調査を珠洲市に申し入れ。電力三社共同で運営を予定していた
 1985年、北陸電力珠洲営業所内に「珠洲電源開発協議会」を設置。
 1986年、市議会で原発誘致を議決。
 1987年、珠洲市議会議員選挙。定数18名の中、反原発の国定正重が初当選して1議席を奪還。  
 1988年、北陸・関西両電力が珠洲市に高屋地区での立地可能性調査を申し入れ。
 1989年、関西電力が高屋地区での立地可能性調査に着手。 建設反対派住民が珠洲市役所内で座り込みを開始、その後40日間続けられる。関西電力が立地可能性調査を一時見合わせることを表明。
 1991年、統一地方選挙で反対派県議会議員1人誕生(その後援会長をつとめたのが、高屋地区の塚本真如(まこと)住職。
 1993年、珠洲原子力発電所1号機、2号機を国が要対策重要電源に指定。市議会が電源立地促進を議決。珠洲市長選挙で開票作業の混乱から不正選挙裁判へ。
 1996年、93年4月に実施された珠洲市長選挙の無効訴訟で最高裁が上告を棄却。やり直し選挙で当選した市長、誘致に積極的姿勢。
 1999年、電力会社に土地を売った地主の脱税が発覚し、土地買収が明るみに。地主は有罪確定(03年)。
 2003年、電力三社が珠洲市長へ珠洲原子力発電所計画の凍結を申し入れた。事実上の断念。(電力会社側の理由①電力自由化を目前に、建設費の莫大な原発による経営悪化を懸念、①地元の合意が不十分、③電力需要の伸び悩み)

 行政訴訟/福島第二原発1号炉(東電)
 1975年、設置許可処分取り消し訴訟。
 1984年、福島地裁棄却。
 1990年、仙台高裁棄却。
 1992年、最高裁棄却。

 №22、関西電力/和歌山県日高町日置川(ひきがわ)町(現白浜町)
 1958年、台風に伴う水害の一環として、日置川上流に関電が建設した殿山ダムの放流によって大洪水が起こり、関電はその責任を取らず不信感を醸造した(汐見 2012、32~34頁)。
 1976年、日置川町臨時議会にて原発誘致を前提に町有地を関西電力へ2億5900万円で売却する議案が、傍聴者を閉めだして可決。住民は翌日の新聞報道で初めて知る。町長と関電との間で土地売買契約の締結。日置川漁協、直ちに質問状を町長に提出。反対派住民「原発反対共闘準備会」を結成。
 1977年、町長選挙で反対派の阪本町長当選。公約通りに関電の調査申し入れを拒否。
 1980年、阪本町長二期目にして推進派に変節。
 1982年、「日置川原発反対協議会」の結成。「反原発新聞」の発行。
 1983年、町政の混乱により町長辞職。出直し選挙で阪本町長三選を果たす。
 1984年、阪本町長、財政難・過疎を口実に関電の環境事前調査受け入れを前提に予算案を組む。町議会、予算案を否決。但し、否決は町議員の原発反対を意味せず(単なる阪本降ろし)。町長選挙で推進派の宮本町長当選。
 1986年、町長、電源三法交付金による町財政建て直しを図る。チェルノブイリ原発事故後も「安全神話」に依存。原発推進派「日置川原子力発電所立地推進協議会」を結成。
 1988年、町長選挙で、自民党が支援する候補に対し、反対派の三倉候補(もともとは保守)を支持したのは共産党県議や元代議士の他自民党県議ら。「紀伊半島に原発はいらない女たちの会」(県下の10にのぼる婦人団体で構成)のメンバーを中心とした「女たちの交流会」開催。反対派町長の当選。和歌山県知事、原発誘致をあきらめず。関電も引き続き地元の理解を得られるよう努力するとの社長の談話発表。 1992年、町長選挙で、推進派は原発を争点としない作戦(原発隠し)をとる。反対派の三倉候補、73票差で当選。
 1995年、日置川町議会、原発計画を「長期基本構想」から削除。
 2005年、日置川町、電源開発促進重要地点としての指定から外される。結果、建設が阻止された三重県の芦浜原発も含め、紀伊半島には1基の原発もない。
 「原発の火種消した町・漁師、医師ら四〇年のたたかいー和歌山県日高町」(民医連新聞2012年1月2日)
 (http://www.min-iren.gr.jp/syuppan/shinbun/2012/1515/1515-05.html

『原発を拒み続けた和歌山の記録』である(注1)。

和歌山の闘いの歴史的意味について、中西さんはこう書いている。「いまから振り返れば、昭和63年(1988年)の紀伊半島と高知(窪川町)の闘いが日本における原発立地をめぐる推進派と反対派の天王山の闘いであった。『昭和の終わり』とともに、そこで日本の原発立地の流れが変わっていったのである。すでに原発の作られている地域での増設はあっても新規立地はほとんどできなくなってしまった」(P213)、と。


 №23、四国電力/徳島県阿南市
 1976.6月、四国電力が、徳島県と阿南町に原発立地の可能性を答申する。1977年、革新系市議の椿町豊野の椋本貞憲氏(当時37歳)が反対運動の先頭に立って「原子力発電所建設を阻止する椿町民の会」を結成した。福井県の敦賀原発の反対運動との連携。同年10月、冊子「燃えあがる 蒲生田原発反対闘争」を発行。曰く「放射能は目に見えないし、においもない。汚染に気づいたときは手遅れ。原子力は恐怖の対象でしかなかった」、「椿の自然が汚染されたら農業も漁業もできなくなる。若い人が古里を捨て町が廃れてしまう、と皆が必死だった」。手作りの新聞を発行し原発の危険性を広報。市役所や県庁へ「子孫に安全な海を遺したい」と陳情した。椋本市議は、松山地裁に行政訴訟を起こして敗訴した愛媛県の伊方原発阻止闘争の経験から、「地元住民らが簡単な調査の承諾書に押印したために原発建設が強引に進められた」ことを反面教師として学び完全中止を一歩も譲らない姿勢を貫いた。定例会が開かれるたびに登壇、時には激しい口調で市長に「断念」を求めた。一般質問で市長発言に食い下がった。当時の阿南市長が市議会で行った休止宣言が議事録に残っている。椋本さんの厳しい追及は、何度となく読み返しても迫力がある。1979年、市長と知事が「地元住民や反対請願団体の同意が得られない限り、環境調査をしない。会社(四国電力)には地域住民が疑惑を招くことをしないよう求める」との「休止宣言」で終止符を打った。「あの運動で住民一人一人が古里への愛着を深めた。このまま平和な町であり続けるよう願うだけ」。椋本さんは、かみしめるように語った。(編集委員・三谷徹)
 2007/6/2日付けブログ「原発阻止し町を守る」。  

 行政訴訟/伊方原発2号炉訴訟(四国電力)
 1978年、設置許可取消訴訟。2000年、松山地裁棄却。

 1979年、米国スリーマイル島原発事故。


 行政訴訟/柏崎刈羽原発1号炉訴訟(東京電力)
 1979年、設置許可取消訴訟。1994年、新潟地裁棄却。2005年、東京高裁棄却。2007年、新潟中越沖地震刈羽原発すべてに損傷。2009年、最高裁棄却。住民側は国側に答弁書の提出を求めたが、口頭弁論が開催されないまま訴訟は終了した。

 民事訴訟/女川原発1、2号機(東北電力)
 1981年、建設・運転差止訴訟。1994年、仙台地裁棄却。*津波被害の危険性を指摘するも、地裁は「被控訴人が想定する津波の最大波高が相当でないとすることはできない」とした。1999年、仙台高裁棄却。*判決文の中で経済性より安全性を重視すべきことが明快に指摘された。2000年、最高裁棄却。

 №24、中国電力/山口県祝島―上関原発反対闘争(スナメリなど希少動物の生息地)
山口県上関町の原発計画阻止闘争考
 1982年頃、祝島(いわいじま)と眼と鼻の先の田ノ浦湾に面した上関(かみのせき)に原発設置計画の話が浮上した。上関町長が、町民の合意が得られればと誘致を示唆した。上関原発建設反対運動の構図はいたって明快で、上関町議会、漁協、山口県知事が誘致に動く中、唯一祝島のみが一貫して反対闘争を繰り広げた。8漁協中、祝島漁協のみが反対を通し、最後まで漁業補償金の受け取りを拒否したことは、その原発反対のゆるがぬ意思を象徴している。その背景には、祝島集落の真正面にひろがる「奇跡の海」「生物多様性の宝庫」と呼ばれる田の浦を守ろうとする島民の固い決意が感じられる。女性たちによる月曜デモが始まった。
 1983年、祝島漁協、賛成派の組合長をリコールし、原発反対決議。
 1985年、上関町議、原発誘致を決議。
 1988年、上関町長、中田に原発誘致を申し入れ中電これを受諾。
 1992年、「上関原発を建てさせない祝島島民の会」発足。
 1994年、国の総合エネルギー対策推進閣僚会議、上関原発を要対策重要電源に指定、中電の環境影響調査の開始。
 1998年、8漁協のうち祝島を除く七漁協が漁業補償金の交渉開始。
 2000年、祝島、改めて漁業補償金の受け取り拒否。
 2001年、山口県知事、条件付きで上関原発計画に同意し、経産大臣が電源開発基本計画に上関原発を組み入れる。
 2005年、中電、原子炉設置許可のための詳細調査を開始(~09年1月)。
 2008年、山口県知事、原発建設のための海の埋め立て工事を認可。
 2009年、埋め立て工事に反対する漁民の抗議活動続く。生物研究の三つの学会が、工事の一時中断と生物多様性保全のための調査を中電に要望した。間接的に島民の反対運動の支えとなった。
 2010年、山口県の本州側や広島県からの支援、あるいは反対運動に共鳴した全国からの署名運動で、遂に100万筆を越えた。
 2011年、中電の埋め立て工事、東日本大震災で中断。
 2013年、祝島漁業者による公有水面埋め立て免許取り消し裁判、四代八幡山裁判(地元神社「八幡宮」が所有していた山林を2004年に中国電力に売却したが、住民は入会地として利用していたと権利を主張)、自然の権利訴訟という3つの裁判が同時進行している(裁判の詳細は「原発訴訟」の年表を参照)。
 着手され始めた田の浦埋め立て工事妨害にかけた漁師たちの執念。工事用の台船を漁船で包囲、それをかわそうとする台船との攻防戦は何度となく繰り返された。その妨害行為に海上保安庁の保安官が投入され、立ち入り検査も行われている。

 №25、中国電力/山口県萩市
 1984年、要対策重要電源初期地点に指定される。
 1986年、市議会が立地調査を求める住民の請願を採択するも、反対派住民は計画中心部の土地を共有登録するなどして抵抗。
 1995年、中国電力が地元情勢などを理由に事実上断念。

 行政訴訟/もんじゅ訴訟(日本原子力研究開発機構)
 1985年、設置許可無効確認+民事運転差止訴訟。〈原告適格に関する判断〉。1987年、福井地裁却下。1989年、名古屋高裁金沢支部一部差し戻し。1992年、最高裁が原告適格を認め、地裁に差し戻し、被告上告棄却。(1995年、ナトリウム漏出・火災事故発生)〈実体部分〉2000年、福井地裁(併合)棄却。2003年、名古屋高裁金沢支部、許可処分の無効が確認され原告全面勝訴。*次の三点について安全審査の看過しがたい過誤と欠落を指摘。①ナトリウムによる腐食を考慮せず。②蒸気発生器破損の可能性。③炉心崩壊事故をめぐる判断に過誤。2005年、最高裁、高裁判決を破棄、原告控訴棄却。*勝手につくりかえた事実を前提として前記3つの事象についての安全審査の過程には何ら過誤、欠落はないとした。

 1986年、チェルノブイリ原発事故。


 行政訴訟/六ヶ所村使用済み核燃料再処理施設(原燃産業、のちに合併して日本原燃)
 1988年、「核燃サイクル阻止1万人訴訟原告団」が再処理工場などの事業許可取消を求めて国を提訴。・再処理工場・高レヴェル放射性廃棄物処理施設(青森地裁)2015年6月現在係争中。・低レヴェル放射性廃棄物処分場(最高裁)2009年7月、住民側敗訴。・ウラン濃縮工場(最高裁)2007年住民側敗訴。

 民事訴訟/志賀原発1号炉(北陸電力)

 1988年、建設・運転差止訴訟。1994年、金沢地裁棄却。1998年、 名古屋高裁金沢支部棄却。*判決文の中に「原子力発電所が負の遺産の部分を持つことは否定しえない」との記述あり。しかし、原子力の当否は裁判所が判断すべきことではないとした。2000年、最高裁棄却。


 民事訴訟/泊原発1、2号機(北海道電力)
 1988年、建設・運転差止訴訟。1999年、札幌地裁棄却・確定。*判決文の中に「事故の可能性を完全に否定することはできない」、「原子力発電所周辺の住民だけでなく、国民の間でも、原子力発電の安全性に対する不安が払しょくされているとはいえない」との文言あり。   

 行政訴訟/六ヶ所村ウラン濃縮工場(原燃産業、のちに合併して日本原燃)
 1989年、加工事業許可取消訴訟。2002年、青森地裁棄却。2006年、仙台高裁却下/棄却。2007年、最高裁棄却。

 行政訴訟/低レヴェル放射性廃棄物処分施設(原燃産業、のちに合併して日本原燃)
 1991年、埋設事業許可取得取消訴訟。2006年、青森地裁却下/棄却。*事業主の原燃産業(のちに合併して日本原燃)が断層隠しのためにボーリングデータを意図的に隠蔽し、申請書にも嘘を書いたことを認定。2008年、仙台高裁棄却。2009年、最高裁棄却。

 №26、九州電力/宮崎県串間町
 1992年、原発立地構想が表面化。1993年、市民投票条例の制定。1997年、九州電力が計画の「白紙再検討」を表明。2011年、東日本大震災により4月に予定されていた原発立地の是非を問う住民投票を先送り。事実上串間原発計画は終焉。

 1997年、舛倉隆死去。


九州電力宮崎/串間 /1997年断念 南部/串間市

 民事訴訟/志賀原発2号炉(北陸電力)

 1999年、運転差止訴訟。2006年、金沢地裁運転差止(原告勝利)。*耐震設計の適否が重大な争点となり、原告らの立証に対する被告の反証は成功していないとの理由で原告勝利。2009年、名古屋高裁金沢支部棄却。2009年、最高裁棄却。


 民事訴訟/島根原発1、2号機(中国電力)

 1999年、運転差止訴訟。2010年、松江地裁棄却。*地裁、国の指針類の合理性を無批判に肯定。2015年6月現在、広島高裁松江支部で係争中


 2000年、高木仁三郎死去。


 民事訴訟/浜岡原発1~4号機(中部電力)
 2003年、運転差止訴訟。2007年、静岡地裁棄却。*中越沖地震は地裁の結審の直後に発生したにもかかわらず、その後の判決文には中越沖地震には全く言及がなされなかった。判決と同時に出された仮処分決定では、「刈羽原発で数多くの損傷・トラブルの発生が報告されているとしても、同発電所の安全上重要な設備に根本的な欠陥が生じたことは報告されていない」との判断がなされた。2008年、東京高裁から公式に和解の打診がなされた後、中部電力は1、2号機の廃炉を決定。3、4号機に関しては2015年6月現在、係争中。

 民事訴訟/山口・上関原発(中部電力)
 2005年、所有権移転登記の抹消登記手続き、および入会権確認などの請求訴訟を山口地裁岩国支部に起こす→2013年、広島高裁で控訴棄却の判決。最高裁への上告受理申し立てを行う→2014年、原告の竹広盛三氏死去。自然権訴訟(原告:長島の自然を守る会、祝島島民の会その他、被告:山口県)、2015年6月現在係争中。その他、中部電力が祝島島民を、準備工事妨害や作業船の妨害禁止や埋め立て工事妨害の損害賠償訴訟を起こす。和解が成立した案件もあるが、2015年6月現在、係争中の案件もなおいくつかある。

 民事訴訟/玄海原発3号機(プルサーマル裁判)(九州電力)
 2010年、佐賀地方裁判所に差し止め訴訟。2015年、3月20日、佐賀地裁、差し止め訴訟を棄却

 民事訴訟/鹿児島川内原発「温排水」訴訟(九州電力)
 2010年、鹿児島地裁に提訴。2012年、同地裁で却下。

 2011年、東日本大震災(三陸巨大震災)。


 民事訴訟/大間原発(電源開発)
 2014年 ・4月、函館市長工藤壽樹、建設差止訴訟を東京地裁に起こす。自治体が原告となった全国初の原発訴訟。2015年6月現在、係争中。

 民事訴訟/大飯原発再稼働差止訴訟(関西電力)
 2014年、大津地裁、仮処分申請を棄却。2015年6月現在、名古屋高裁金沢支部で係争中。

 民事訴訟/高浜原発再稼働差止訴訟(関西電力)
 2015年、4月14日、福井地裁、高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の再稼働を認めずとの福井地裁の仮処分決定。2015年6月現在、福井高裁で係争中。

 民事訴訟/鹿児島川内原発操業差止訴訟(九州電力)
 2015年、4月22日、原子力規制委員会の新規制基準に基づく審査に合格した九州電力川内原子力発電所2号機(鹿児島県薩摩川内市)の運転差し止めを住民らが求めた仮処分申請を、鹿児島地裁却下。

 原発建設に係わる法的な手続き。建設候補地が長期的な電力供給地としてふさわしいということが政府から認められねばならない。そのうえで、陸上と海上の「環境調査」を行い、「安全審査」を受けるなどして認可をうることが義務づけられている。地元に対しても①立地の同意を得る、②用地を取得する、③漁協の同意を得る(漁業の補償をする)という3条件をクリアしなければならない。この3条件に関する権限は都道府県知事にあり、立地される市町村は原発関連施設を認可したり却下したりする法律上の権限を有していない。住民の意思を反映させる手段として住民投票条例策定の動きが現れる。しかし、新潟県巻町の事例のように、市町村の議会で可決され実施されても、その結果は法的拘束力を持つとは限らない。地元が推進派と反対派に分断されることによる人間関係の破壊が見られる。この破壊は家族や親族、あるいは漁協内部に及び、原発問題が終息した後も続き、容易にその溝は埋まることがない。

 反対運動が勝利する為には、様々な戦略を駆使せねばならない。例えばデモ、署名運動、調査妨害、用地買収阻止、他の原発反対運動との連携、裁判闘争等々。リーダー、研究者の存在も欠かせない。女性たちの結束には瞑目すべきものがあった。スリーマイル島やチェルノブイリなどの原発事故が反対闘争の節目節目に起きて闘争の追い風となった。反対運動の理念については、まずは公害・環境問題として始まり、放射能の危険性への認識が高まるにつれ、子孫に負の遺産を遺さない、子どもの命を守る、といった「命」の問題へと収斂していった。

 福島の原発事故は、究極の原発廃止へと国策の転換をもたらすと多くの人々は考えたが、2012年末の衆議院選挙で圧勝した自・公民政権は数カ月も経ずして、原発の再利用を考え始めている。海外での原発売り込みも加速している。原発安全神話に乗って、多額の交付金や補償金と引換えに原発を誘致し、そのくびきから脱却する手立てを見失っている町の将来をも視野に入れた脱原発運動を展開し、脱原発社会を実現するために、われわれは何をなすべきか。原発立地に反対し続けた事例から学ぶことは多い。


 「Gさんの政経問答ブログ」の「勝利した反原発闘争――現地、現地闘争とはなにか?」。

 稼働中の原発は全国に地域・自治体は16カ所で54基ある。現在、計画から建設までのプロセスにある
のは東北電力の浪江、小高。東京電力の東通。中国電力の上関、電源開発の大間の4カ所である。
 以下、建設を阻止した原発を確認しておく。世上7箇所と云われているがそんな数ではなかろう。


原発名/所在地

電力会社

発表年月

中止年月

1956年、原子力基本法が施行される
阿武山/茨木市阿武山 1957 1958
御津/兵庫県御津市(現たつの市) 関西電力 1958 1960
三里浜/福井県川西町(現福井市) 日本原電 1962 1962
芦浜 /三重県紀勢町、南島町 中部電力 1962 2000.02
鹿居島/岡山県日生町鹿居島

中国電力

1962 1972.3.13
浪江/福島県双葉郡浪江町、小高町 東北電力 1966 2010
香住/兵庫県香住町(現香美町) 関西電力 1967 1970
阿尾/和歌山県日高町阿尾、小浦 関西電力 1967 2005
古座/和歌山県古座町(現串本町) 関西電力 1968 1990
10 小浜/福井県小浜市(若狭湾) 関西電力 1968 1976
11 佐賀/高知県佐賀町 四国電力 1969 1974.12.25
12 海南/徳島県海南町(現海陽町) 四国電力 1970 1970
13 舞鶴/京都府舞鶴市(若狭湾) 関西電力 1971 1982
14

豊北/山口県豊北町

中国電力

1971

1978.06

15 巻/新潟県巻町 東北電力 1971 2003.12
16 熊野/三重県熊野市井内浦 中部電力 1972 1972
17 窪川/高知県窪川町 四国電力 1974 1988.6月
18 久美浜/京都府久美浜町 関西電力 1975 2006.02
19 珠洲/石川県珠洲市 関西/中部 1975 2003.12
20 日置川/和歌山県日置川町 関西電力 1976 2005.02
21 阿南/徳島県阿南市 四国電力 1976 1979
1979年、スリーマイル島原発事故。
22 上関/山口県祝島―上関 中国電力 1982 1982
23 萩/山口県萩市 中国電力 1984 1995
1986年、チェルノブイリ原発事故
24

串間/宮崎県串間市

九州電力

1992

1997.03

2011年、東日本大震災(三陸巨大震災)


 参考文献

朝日新聞津支局 1994 『海よ―芦浜原発三〇年』風媒社
海渡雄一    2011 『原発訴訟』 岩波新書
恩田勝亘    2011  新装版『原発に子孫の命は売れないー原発ができなかったフクシマ浪江町』七つ森書館
北村博司    2011 『原発を止めた町―三重・芦浜三十七年の闘い』 現代書館
汐見文隆監修・「脱原発和歌山」編集委員会編  2012 『原発を拒み続けた和歌山の記録』寿郎社
武谷三男    1981 『現代技術の構造』技術と人間
中林勝男    1982 『熊野漁民原発海戦記』技術と人間
山秋 真    2012 『原発をつくらせない人びと』 岩波新書
『婦民新聞』2012年10月10日・20日合併号






(私論.私見)