三重県芦浜原発阻止37年闘争考

 (最新見直し2016.03.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「三重県芦浜原発阻止37年闘争」を確認する。明日への伝言:昭和のあの日から 芦浜原発 計画断念まで37年の闘争(毎日新聞/橋本明記者、 2009年5月13日 中部朝刊)」、1997年10月4日「原発反対三重県民会議97年総会への報告と提案」、「紀勢町住民主権の会の記録」、「海亀の来る浜、「1Q74 1967年芦浜」その他を参照する。

 2016.03.12日 れんだいこ拝


 吉備太郎の三重県芦浜原発阻止37年闘争考  投稿日:2016年 3月16日
 先の「吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争考」で「完全勝利での決着済みは「鹿久居島原発阻止千日闘争」だけかも知れない」と記したが、これは吉備太郎の不明さを知らしめるところで実はそれなりに事例があることが分かった。しかし知らなかったのは何も吉備太郎一人ではあるまいと思う。以下、その代表的事例である「三重県芦浜原発阻止37年闘争考」を書き添えておく。原発阻止闘争史は「反原発闘争の歩み」に記す。

 1963(昭和38)年、中部電力(以下、単に中電と記す)が、熊野灘への原発建設計画を公表した。

 1964年、中電が、三重県旧南島町(現南伊勢町、古和浦)と旧紀勢町(現大紀町、旧錦町)にまたがる芦浜地区を原発計画地に決定した。この地は伊勢志摩国立公園の西数kmに位置する熊野灘の一角の美しい砂浜地でありウミガメの産卵でも知られている。以降、37年間に及ぶ長い原発闘争が始まった。

 原発計画が来る前の村は平和だった。漁村というものは一つの生活共同体であり、その結束力は非常に強い。芦浜に漁業権を持つのは古和浦と紀勢町錦の両漁協であった。この両漁協と漁民に対する凄まじい懐柔作戦が発動された。賄賂金、ただ酒、結婚式・葬式の際の持参金、「原発視察」という名目の招待旅行、漁協総会での1票10万と云われる票買い等々による篭絡であった。中電は徐々に受容派を増やしていった。

 これより住民間に対立が始まった。この頃、南島町議会と町内7漁協は反対、紀勢町議会は誘致と云う相対立する決議を採択している。南島町と紀勢町がいがみ合う事態となり暴力的な事件に発展し機動隊が出動する騒動を引き起こしている。反対運動のリーダーが二度も自宅を襲われ、駆けつけた警官が暴漢の身柄を拘束せず自宅に帰す「羽下橋事件」。何者かがゴム印を使って注文し漁業組合長の自宅に次々と宅急便が送り届けられる嫌がらせ事件などが起こっている。

 しかし反対派はあきらめなかった。彼らの心情が次の言葉に言い表せられている。      

 「わしらは昔からこの海で生きてきた。海はわしらのもんやない、先祖から受け継いで子孫に残すもんや。わしらに海を売る権利はない。子孫に災いを残してはいかん」。

 1965年、中電は密かに芦浜の用地を買収した。※芦浜は現在も中電の所有地であり、立ち入り禁止となっている。

 1966.9.19日、原発推進を主導してきた中曽根康弘団長、渡辺美智雄議員らの衆議院科学技術特別委員会の芦浜現地視察団がテコ入れに来県した。一行は名古屋から紀伊長島を訪れ、長島港から海上保安部巡視船「もがみ」で芦浜沖へ入ろうとした。

 これを南島町の漁船150隻が取り囲み実力阻止した。沖合いには別に350隻の漁船も待機していた。これを「原発長島事件」と云う。反原発闘争のリーダー達25人が起訴された。被告は「町を救った勇士」であり、「起訴は反対派をより強固にし一枚岩にした」。起訴された25名は後に有罪判決を受けている。

 高谷副知事が南島町民との話し合いで、原発建設には南島町住民の同意が得られることが必要だという内容の文章に捺印した。副知事はこれにより更迭された。

 1967年、原発推進の紀勢町でもリコールで町長が辞職させられた。同年9.26日、当時の田中覚知事が「原発問題に終止符を打つ」と宣言し、原発計画を再度棚上げした。原発阻止闘争の勝利となったが、これは最初の勝利に過ぎなかった(芦浜原発阻止闘争勝利1)。

 この年、中電浜岡原発計画が進行し、(反対が少なかったため)1971年着工が決定されている。この年、新潟水俣病の患者が昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に損害賠償を提訴した(新潟水俣病第1次訴訟)。四大公害裁判の始まりである。

 1969.6.14日、熊本水俣病患者・家族のうち112名がチッソを被告として熊本地方裁判所に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第1次訴訟)を提起した。

 1971年、新潟水俣病1次訴訟の判決があり、有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して住民にメチル水銀中毒を発生させた昭和電工に過失責任があるとして原告勝訴の判決が下された。公害による住民の健康被害の発生に対して企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。

 1972.12月、田川亮三氏が三重県知事選挙で初当選した。 田川知事は福島原発を視察し、安全性確信教育を受けて帰県した。以降、「電源開発四原則三条件」(地域住民の合意など)を示し、中電と県が一体となって推進工作を強めた。この頃、南島町はそれまでの真珠母貝の養殖からハマチ養殖に切り替えつつあり、これが奏功し町のあちこちに「ハマチ御殿」が建ち始めていた。漁民は「宝の海が汚染されてはたまらない」と述べて原発誘致に耳を貸さなかった。

 1973.3.20日、熊本水俣病第1次訴訟に対して原告勝訴の判決が下された。被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、従って過失責任はない」と主張していたが、判決は、「化学工場が廃水を放流する際には地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有する」として、公害による健康被害の防止についての企業責任を明確にした。

 1976.2月、田川知事が電源立地三原則を打ち出し、間もなく国の「要対策重要電源」に指定された。田川知事は、芦浜原発に反対する住民を「井の中の蛙(かわず)」呼ばわりし、「原発を勉強せよ」と逆さ説教し続けた。

 1977年、国は芦浜地区を要対策重要電源に指定した。

 1978年、町長と中電の贈収賄事件が発覚した。町民は町長を辞職に追い込んだ。次の町長は「凍結」を公約し当選を果たした。紀勢町長は「推進寄り」と「凍結」を互いに繰り返していった。

 1979.3.28日、米国東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原発事故発生。

 1982年、中電が再び蒸し返し始めた。1983年頃、町長が中電と立地調査協力協定を勝手に結んだ。町議会が事後承認した。こうして芦浜原発計画がぶり返した。これに対し、「芦浜原発を考える町民の会」、「海を守る会」、「有志会」などが次々と結成された。

 1984年、三重県も原発関連の予算を計上し、県議会も立地調査推進を決議した。これに対し、「原発いらない三重県民の会」、名古屋の「反原発きのこの会」による月1回の紀勢町全戸チラシ入れを84年から85年にかけて行い対抗した。この年の暮れ、四国の窪川でできた町民投票条例を紀勢町でも作ろうと、「町民の会」が中心となって直接請求を行った。結果は、当時有権者数の3分の1強の1600名余の署名を集めたが、町議会は丸1年にわたる継続審議の末、否決した。

 1985.6月、中電が三重県に対し正式に協力要請した。同月、三重県議会が原発立地推進を決議した。漁民たちは烈火のごとく怒った。7.12日、危機感を強めた南島町7漁協の漁民1500名が漁船500隻を熊野灘に連ね壮大な海上デモを展開して抗議した。県議会へバスを仕立てて抗議、傍聴に押し掛けた。対立の溝は一気に深まった。中電は環境調査申し入れを行えなかった。

 1986.4月、ソ連チェルノブイリ原発事故が発生した。はるか2万kmのかなたからお茶の名産地の度会の地に放射能が降り注ぎ茶栽培農家は大被害をこうむった。反対運動が強まり、漁民は再び海上デモを繰り広げた。

 同年12月、東京のテレビキー局の一つでハマチ・バッシング番組が報道された。曰く「養殖ハマチは薬漬けのうえ、漁網防汚剤として使われている有機スズがハマチの奇形を起こす原因だ」云々。他にも時期がはっきりしないが、ハマチ養殖の餌に混ぜられた抗生物質のせいで漁師の指が腐り落ちたなどと報道されている。指が落ちた一人はハマチの餌であるミンチをつくる機械に指をはさまれ、もう一人は全然別の原因だった。

 このマスコミ報道が養殖ハマチの単価の大暴落を引き起こした。1400円/kgだったハマチの値段が600円/kgまで暴落した。これがハマチ漁民の生活基盤を不安定化させ、特に南島町の打撃が大きく、経済的苦境に立たされた漁師が保証金目当てに推進勢力に呑み込まれていった。中電は借金を抱えた漁業組合員215名に対し漁民連帯にして金を貸す案を持ちかける等、手を替え品を替え工作を進めた。これよりマスコミが情報操作の道具として使われていることが判明する。我々はマスコミの時事報道の裏にある深層の真相を勘ぐる必要があろう。

 1993.12.16日、中電は、反対派の南島町古和浦漁協に対し「原発調査実害保証金」の前払い金として2億円を預託した。覚え書きには海洋調査に同意すれば補償金に振り替える、つまり返さなくて良いとしていた。要するに賄賂だった。古和浦漁協は受け取り、正組合員1名につき100万円を渡した。反対の本丸だった古和浦漁協が落城させられた。

 1994.5.31日、「三重県環境影響評価の実施に関する指導要綱」が公告された。環境アセスメントの実施手続きとして、その第2条に「知事及び関係市町村に通知しなければならない」と規定するだけだった。この規定では通知すればよく、知事や町長の同意はいらないという解釈になる。一方で、県は住民との間で「四原則三条件」の一つに「地域住民の合意」を掲げていた。

 7月、中電が錦漁協へ3億7千万円を無利息で貸しつけている。本金は海洋調査受け入れの場合補償金にあてるとする覚書がついていた。漁協は受け入れ組合員に200万円ずつ渡している。

 この年、激しい買収工作の結果、原発絶対反対だった南島町に7つある漁協のうちの一つ古和浦漁協執行部の理事も推進派が多数を占め、30年間守り続けてきた「芦原原発反対決議」を白紙撤回し、紀勢町の錦漁協と共に中電の海洋調査の受け入れに同意した。しかしなお各漁協で対応が分かれていた。この後、中電は古和浦漁協と元々推進派だった紀勢町の錦漁協に損害補償金及び協力金の名目で15億円(古和浦漁協が6億5000万円、錦漁協が8億5000万円)支払っている。漁協から個々の組合員に凡そ200万とも300万とも云われるカネが分配された(古和浦は当時、正組合員215人)。

 8月初旬、紀勢町の反対派が初めて十人が寄り合いを持った。盆明けに新たに組織を作ること、具体的には住民投票条例を作ることを目標にすること、見通しとして過半数の署名を集めれば可能だろうなどが話し合われた。9.23日、「紀勢町住民主権の会」(会報発行責任者/柏木道広)発足が決議された。9.24日、「主権の会」発足。11.13日、第1回ちらし折り込み。(11.30日、中電が海洋調査申し入れ)、12.3日、抗議集会、12.5日、抗議文手渡し、住民投票条例を求める陳情署名を開始した。

 海洋調査開始の日(いつかは不詳)、反対派及びこれに加勢する人達が大勢訪れ2000人に達し海洋調査阻止座り込みを行い実力行使を敢行した。小さな町だけの問題でなくなり三重県全体の問題へと発展した。

 1995.2.20日、署名集約が2316名となり有権者の過半数を超えた(94/9/1現在、有権者数4363)。2.22日、提出(2312名、2/24追加5名計2317名)。

 1996年、「南島町芦浜原発阻止闘争本部」を結成。県民の過半数に及ぶ81万2335人の反対署名を北川正恭知事に提出した。県史空前の反対署名が県議会を動かした。南島町、紀伊長島町など原発反対を掲げる自治体が形成され、南島町、紀勢町では原発立地住民投票条例が制定され、反対の砦が構築された。

 ここまで回顧して言えることは、中電、政府、県が膨大な宣伝、カネ、権力、工作員などを総動員したが、結局は反対運動を潰すことができなかった。逆に反対派は不屈に闘い、これに連帯する反対運動が各地に広がり逆に切り返したと云うことだろう。反対派は、原発が麻薬と同じであること、財政難の過疎地に誘致をもちかけ電源三法による交付金を過疎の町に落とすものの、そのうち再び財源不足になり新しい原発を建てるしかなくなると云う繰り返しで原発が増えて行くことを学んでいた。

 1997.3月、県議会が調査・建設の冷却期間を置くよう求めていた南島町の請願を全会一致で採択した。同年7月、県は中電に対して立地予定地からの社員引き上げを正式に要請し、芦浜原発立地活動は1999年末まで「冷却期間」に入った。又も原発阻止闘争勝利となったが、これは2番目の勝利に過ぎなかった(芦浜原発阻止闘争勝利2)。

 1998.2月頃、浜岡原発調査ツアー。4月頃、原発問題を考えるシンポジウム開催。

 1999年、北川知事が国内やドイツの原発を視察した。帰国後、南島町、紀勢町から意見聴取を行った。9月、東海村JCO臨界事故が発生した。この5日後、隣接の紀伊長島町議会が、原発広報安全等対策交付金を使って二泊三日の原発視察に福島県の広野町に出かけていた。同時期に大内山村議会は北海道の泊原発を視察していた。11.16日、北川知事が、紀勢、南島両町に入り、賛否両派住民から直接、原発問題の聴き取り調査をした。何と、芦浜原発計画浮上後、36年にして「県知事が初めて現地入り」した。

 2000.2.22日、北川知事が県議会で「対立はゴールなきマラソン。計画の推進は現状では困難、白紙に戻すべきだ」と白紙撤回を表明した。その理由として、計画発表から37年もの間地元住民を苦しめてきたことにつき県にも責任がある、「電源立地にかかる四原則三条件」を満たしていないと述べている。当時、県民の53%、南島町民の86%が原発に反対していた。一方で紀勢町では原発推進派の勢いが勝っていた。中電は原発を浜岡1ヶ所に頼っていると現状打破として芦浜地区にも建設したいという思惑があったが、知事発言を受けて太田宏次社長が計画を白紙に戻すことを表明した(芦浜原発阻止闘争勝利3)。

 2001.9月、「原発を止めた町 三重・芦浜原発三十七年の闘い」(北村博司/ 現代書館)が出版された。

 37年という闘争を振り返って、長島事件で反対派として被告の一人となり、その後、推進を主張した古和浦漁協の上村有三組合長(81歳)は次のように述べている。       

 「その時々を真剣に考え、懸命に生きてきた。今も中部電力の担当者と顔を合わせることもあるが、会話は世間話だけ。町内の対立も消えつつある」。

 反対派の或る主婦は笑みを浮かべながらも幾度もうなずきつつ次のように述懐している。

 「昔のいい町に戻りつつあるなあ。でも芦浜が中電の所有地としてある限り気は抜けんのさ」。

 美容院を営みながら古和浦漁協組合員として夫とともに闘った小島紀子さんは次のように語っている。

 「まず無言電話に悩まされました。特に夜が辛かったですね。・・宅急便も困りました。注文もしていないのに毎日のように4個も5個も届くんです。一番小さいものでは痔の薬、一番大きいのはダブルベッドでした。中に請求書が入っているので持ってきた人にすぐに返す必要があります。留守にすることができませんでした。それからゆうメール。毎日100通くらい届きます。・・・差出人のない手紙にはカミソリの刃が入っていた時もありました。・・中電は漁協の中に原発推進派を増やすために、通常総会の委任状の買い取りまでやりました。1人分10万で売れたそうです。・・・町の中が推進派と反対派に二分されてしまって苦しんでいます。なぜそんなにがんばれたのかと、よく聞かれます。ウチは代々の漁師です。先祖から受け継いできた海を、きれいなままで次世代に渡したい。原発などにわたすわけには行きませんよね」(「婦民新聞」2013年10.10日・20日合併号)。

 2011.2月、中電が今後の経営ビジョンに芦浜原発計画を再々浮上させようとした形跡が認められる。これまで不思議なほどに芦浜原発が動きはじめると1979年に米国スリーマイル島原発事故、1986年にソ連チェルノブイリ原発事故が発生している。こたびも直後の3.11日、東日本大震災(三陸巨大震災)が発生している。これを「お伊勢の祟り」と言わずして何と言うべきか。
 和歌山県の原発:http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-0c7a.html 参照

三重県芦浜原発阻止37年闘争
 1962(昭和37)年4月、中部電力(以下、単に中電と記す)が、リアス式海岸の熊野灘に面し、いずれも漁業の町である三重県旧南島町(現南伊勢町、古和浦)と旧紀勢町(現大紀町、旧錦町)にまたがる芦浜海岸に原発建設計画を公表した。この地は伊勢志摩国立公園の西数kmに位置する熊野灘の一角の美しい砂浜地でありウミガメの産卵でも知られている。1963年、候補地として芦浜、城の島、大白浜が選ばれる。1964年、中電が、芦浜地区を原発計画地に決定した。これより「三重・芦浜原発37年の闘い」が始まる。

 原発計画が来る前の村は平和だった。漁村というものは一つの生活共同体であり、その結束力は非常に強い。芦浜に漁業権を持つのは古和浦と紀勢町錦の両漁協であった。この両漁協と漁民に対する凄まじい懐柔作戦が発動された。賄賂金、ただ酒、結婚式・葬式の際の持参金、「原発視察」という名目の招待旅行、漁協総会での1票10万と云われる票買い等々による篭絡であった。中電は徐々に受容派を増やしていった。


 これより住民間に対立が始まった。この頃、南島町議会と古和浦漁協らの町内7漁協は原発反対決議、紀勢町議会、長島町議会は誘致と云う相対立する決議を採択している。推進派の紀勢町錦漁民と反対派の南島町古和浦漁民がいがみ合う事態となり暴力的な事件に発展し機動隊が出動している。反対運動のリーダーが二度も自宅を襲われ、駆けつけた警官が暴漢の身柄を拘束せず自宅に帰す「羽下橋事件」が発生している。これを機に「錦女に古和男」と称された両地区の親密な関係が壊れ古和浦に来た嫁は里帰りができなくなったと云う。他にも何者かがゴム印を使って注文し漁業組合長の自宅に次々と宅急便が送り届けられる嫌がらせ事件などが起こっている。


 しかし反対派はあきらめなかった。彼らの心情が次の言葉に言い表せられている。
 「わしらは昔からこの海で生きてきた。海はわしらのもんやない、先祖から受け継いで子孫に残すもんや。わしらに海を売る権利はない。子孫に災いを残してはいかん」。

 1965年、中電は密かに芦浜の用地を買収した。南島町・新桑竈部落が中電の秘密工作に応じ、共有地を原発用地として売却したことにより、真珠養殖の作業員として働いていた地区住民は解雇された。※芦浜は現在も中電の所有地であり、立ち入り禁止となっている。1966年、紀勢町錦漁協が原発建設の前提となる精密調査に「条件付き同意」を決議している。

 1966年、9.19日、原発推進を主導してきた中曽根康弘団長、渡辺美智雄議員らの衆議院科学技術特別委員会の芦浜現地視察団がテコ入れに来県した。一行は名古屋から紀伊長島を訪れ、長島港から海上保安部巡視船「もがみ」で芦浜沖へ入ろうとした。これを南島町の漁船150隻が取り囲み実力阻止した。沖合いには別に350隻の漁船も待機していた。これを「原発長島事件」と云う。1週間後の9.26日、家宅捜索と逮捕が始まる。91名が逮捕または取り調べをうけ、その内の反原発闘争のリーダー達25人が起訴された。全員が保釈となったのは11.14日だった。被告は「町を救った勇士」であり、「起訴は反対派をより強固にし一枚岩にした」。起訴された25名は後に有罪判決を受けている。

 11.13日、中部電力は紀勢町から芦浜精密調査の合意を取りつける。しかし漁民たちは300隻を動員して3度目の海上デモを敢行、運動の拡大を背景に全国汚水対策漁業者会議は絶対反対の決議を行っている。この間、紀勢町が中電の調査を受け入れ、同町の錦漁協が条件付き賛成に転じていたが、残る関係7漁協の態勢は少しも揺るがなかった。


 高谷副知事が南島町民との話し合いで、原発建設には南島町住民の同意が得られることが必要だという内容の覚書「南島漁協役員全員協議会が納得しない限り、熊野灘沿岸で精密調査をさせず、従って中電が、内閣総理大臣に建設許可申請書を出すことはあり得ない」に捺印した。副知事はこれにより更迭された。その後、田中覚知事が原発計画を棚上げにした。

 1967年、原発推進の紀勢町でもリコールで町長が辞職させられた。9.21日、田中覚知事が県の方針を180度転換し、原発問題に終止符を打ちたいと表明した。9.26日、当時の田中知事が「原発問題に終止符を打つ」と宣言し、原発計画を再度棚上げした。原発阻止闘争の勝利となったが、これは最初の勝利に過ぎなかった(芦浜原発阻止闘争勝利1)。

 ここまで、63-67年を第1期 とする。石原義剛氏はこう書いている。
 「苦痛の多い、むくわれぬ勝利であった。紀勢漁民や新桑区民との心の傷は開いたままだ。勝って新たに得たものは、自らの団結を除いてなにもない」。

 この年、中電浜岡原発計画が進行し、(反対が少なかったため)1971年着工が決定されている。この年、新潟水俣病の患者が昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に損害賠償を提訴した(新潟水俣病第1次訴訟)。四大公害裁判の始まりである。

 1968年、田中知事が豹変し、「終止符」を「棚上げ」する。

 1969.6.14日、熊本水俣病患者・家族のうち112名がチッソを被告として熊本地方裁判所に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第1次訴訟)を提起した。

 1971年、新潟水俣病1次訴訟の判決があり、有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して住民にメチル水銀中毒を発生させた昭和電工に過失責任があるとして原告勝訴の判決が下された。公害による住民の健康被害の発生に対して企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。


 1972.12月、田川亮三氏が三重県知事選挙で初当選した。 田川知事は福島原発を視察し、安全性確信教育を受けて帰県した。以降、「電源開発四原則三条件」(地域住民の合意など)を示し、中電と県が一体となって推進工作を強めた。この頃、南島町はそれまでの真珠母貝の養殖からハマチ養殖に切り替えつつあり、これが奏功し町のあちこちに「ハマチ御殿」が建ち始めていた。漁民は「宝の海が汚染されてはたまらない」と述べて原発誘致に耳を貸さなかった。

 1973.3.20日、熊本水俣病第1次訴訟に対して原告勝訴の判決が下された。被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、従って過失責任はない」と主張していたが、判決は、「化学工場が廃水を放流する際には地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有する」として、公害による健康被害の防止についての企業責任を明確にした。


 1974年、中電が、紀勢町と公共協力費1億円の寄付協定を締結する。保育園や体育館などの建設費用に当てる。

 1976.2月、田川知事が電源立地三原則を打ち出し、間もなく国の「要対策重要電源」に指定された。田川知事は、芦浜原発に反対する住民を「井の中の蛙(かわず)」呼ばわりし、「原発を勉強せよ」と逆さ説教し続けた。この年、中部電力芦浜調査事務所駐在員が、紀勢町長に300万の宣伝費を手渡す。

 1977年、国は芦浜地区を要対策重要電源に指定した。

 
1978年、紀勢町長と中電の贈収賄事件が発覚し、町民は町長を辞職に追い込んだ。紀勢町長選挙で、かつての反原発運動の闘士・縄手瑞穂氏が「凍結」を公約し当選を果たした。以降、紀勢町長は「推進寄り」と「凍結」を互いに繰り返していった。

 1979.3.28日、米国東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原発事故発生。

 1980年、紀勢町議会が「原発誘致決議確認」動議を可決する。

 1981年、縄手紀勢町長が、新聞報道の「反原発」を断固否定する。


 1982年、中電が再び蒸し返し始めた。1983年頃、町長が中電と立地調査協力協定を勝手に結んだ。町議会が事後承認した。こうして芦浜原発計画がぶり返した。これに対し、「芦浜原発を考える町民の会」、「海を守る会」、「有志会」などが次々と結成された。三重県で「原発いらない三重県民の会」が発足する。中電が、長島町漁協に5000万円預金、その後逐次増額する。

 1984年、縄手紀勢町長が、町議会で「条件付き原発受け入れ」を表明。田川知事四選。三重県が原発関連の予算を計上し、県議会も立地調査推進を決議した。これに対し、「原発いらない三重県民の会」、名古屋の「反原発きのこの会」による月1回の紀勢町全戸チラシ入れを84年から85年にかけて行い対抗した。この年の暮れ、四国の窪川でできた町民投票条例を紀勢町でも作ろうと、「町民の会」が中心となって直接請求を行った。結果は、当時有権者数の3分の1強の1600名余の署名を集めたが、町議会は丸1年にわたる継続審議の末、否決した。

 1985.6月、中電が三重県に対し正式に協力要請した。自民党県議団、公明、民社、無所属議員団と共に県議会に「原発立地調査推進決議案」提出、賛成多数で可決した。反対討論をしたのは社会党県議1名のみだった。三重県議会が原発立地推進を決議した。紀勢町と中電が、田川知事立ち会いの下、三重県庁で「芦浜原発調査協定」改訂を調印し、原発立地のための調査協力を了承する。見返りに中電が町事業に資金援助を約束した。

 この動きに対し、長島町漁協総代委員会が反対決議する等、古和浦など各地区に漁民の有志会組織続々結成された。同じ頃、次々に結成された各地区の母の会組織と共に第二次闘争の中心戦力となった。南島町で18年ぶりに芦浜原発反対決起集会。参加者2000人。7.12日、危機感を強めた南島町7漁協の漁民1500名が漁船500隻を熊野灘に連ね壮大な芦浜沖海上デモを展開して抗議した。「古和浦郷土を守る有志の和」(富田栄子代表)、「方座浦郷土を守る母の会」(三浦礼子代表)が紀勢町錦で街頭デモで呼応した。県議会へバスを仕立てて抗議、傍聴に押し掛けた。対立の溝は一気に深まった。中電は環境調査申し入れを行えなかった。


 1986年、紀勢町長選挙で、原発慎重論の谷口友見氏が当選した。但し、後に推進派に転じる。4月、ソ連チェルノブイリ原発事故が発生した。はるか2万kmのかなたからお茶の名産地の度会の地に放射能が降り注ぎ茶栽培農家は大被害をこうむった。谷口町長が「原発を認める方針に変わりはない」声明をしている。紀勢町議会が原発住民投票条例制定直接請求を全会一致で否決。反対運動が強まり、漁民は再び海上デモを繰り広げた。

 同年12月、東京のテレビキー局の一つでハマチ・バッシング番組が報道された。曰く「養殖ハマチは薬漬けのうえ、漁網防汚剤として使われている有機スズがハマチの奇形を起こす原因だ」云々。他にも時期がはっきりしないが、ハマチ養殖の餌に混ぜられた抗生物質のせいで漁師の指が腐り落ちたなどと報道されている。指が落ちた一人はハマチの餌であるミンチをつくる機械に指をはさまれ、もう一人は全然別の原因だった。


 このマスコミ報道が養殖ハマチの単価の大暴落を引き起こした。1400円/kgだったハマチの値段が600円/kgまで暴落した。これがハマチ漁民の生活基盤を不安定化させ、特に南島町の打撃が大きく、経済的苦境に立たされた漁師が保証金目当てに推進勢力に呑み込まれていった。中電は借金を抱えた漁業組合員215名に対し漁民連帯にして金を貸す案を持ちかける等、手を替え品を替え工作を進めた。これよりマスコミが情報操作の道具として使われていることが判明する。我々はマスコミの時事報道の裏にある深層の真相を勘ぐる必要があろう。

 1989年、反対派の南島町古和浦漁協が3年間で赤字1億5000万円を計上した。1990年、中電が古和浦以外の各地の漁協に続々大口預金をした。計23億円。1991年、古和浦漁協で攻防続く。中電が、錦漁協に預金2億円追加、計12億円となった。

 1993年、古和浦漁協で、推進派が主導権を握った。中電が古和浦漁協に2億5000万円を預金する。12.16日、中電が、反対派の南島町古和浦漁協に「原発調査実害保証金」の前払い金として2億円の資金を提供する。覚え書きには海洋調査に同意すれば補償金に振り替える、つまり返さなくて良いとしていた。要するに賄賂だった。古和浦漁協は受け取り、正組合員1名につき100万円を「越年資金」として渡した。反対の本丸だった古和浦漁協が落城させられた。南島町臨時議会が、「原発町民投票条例」(再修正案)を可決した。(南島町議会が「環境調査に反対する決議を求める請願書」を採択。請願書には町内有権者の75%が署名)田川知事が段階的調査実施容認の発言をしている。


 1994、5.31日、「三重県環境影響評価の実施に関する指導要綱」が公告された。環境アセスメントの実施手続きとして、その第2条に「知事及び関係市町村に通知しなければならない」と規定するだけだった。この規定では通知すればよく、知事や町長の同意はいらないという解釈になる。一方で、県は住民との間で「四原則三条件」の一つに「地域住民の合意」を掲げていた。

 7月、中電が錦漁協へ3億7千万円を無利息で貸しつけている。本金は海洋調査受け入れの場合補償金にあてるとする覚書がついていた。漁協は受け入れ組合員に200万円ずつ渡している。


 この年、激しい買収工作の結果、原発絶対反対だった南島町に7つある漁協のうちの一つ古和浦漁協執行部の理事も推進派が多数を占め、30年間守り続けてきた「芦原原発反対決議」を白紙撤回し、紀勢町の錦漁協と共に中電の海洋調査の受け入れに同意した。しかしなお各漁協で対応が分かれていた。この後、中電は古和浦漁協と元々推進派だった紀勢町の錦漁協に損害補償金及び協力金の名目で15億円(古和浦漁協が6億5000万円、錦漁協が8億5000万円)支払っている。漁協から個々の組合員に凡そ200万とも300万とも云われるカネが分配された(古和浦は当時、正組合員215人)。長島町漁協、海洋調査反対請願採択。古和浦漁協、海洋調査受け入れ。中電から補償金2億5000万円・協力金4億円。一人300万円配分を承認。 

 この年、南島町で、町ぐるみ反対組織「南島町芦浜原発阻止闘争本部」が発足する。南島町民約1500人が名古屋の中電本店へ抗議デモしている。

 8月初旬、紀勢町の反対派が初めて十人が寄り合いを持った。盆明けに新たに組織を作ること、具体的には住民投票条例を作ることを目標にすること、見通しとして過半数の署名を集めれば可能だろうなどが話し合われた。9.23日、「紀勢町住民主権の会」(会報発行責任者/柏木道広)発足が決議された。9.24日、「主権の会」発足。11.13日、第1回ちらし折り込み。(11.30日、中電が海洋調査申し入れ)、12.3日、抗議集会、12.5日、抗議文手渡し、住民投票条例を求める陳情署名を開始した。

 12月、古和浦漁協臨時総会で、漁協は海洋調査受け入れを議決しようとしていたが、女性を中心とした住民が徹夜で漁協玄関前に座り込み、機動隊のごぼう抜きに抗して闘いぬいた。海洋調査開始の日(いつかは不詳)、反対派及びこれに加勢する人達が大勢訪れ2000人に達し海洋調査阻止座り込みを行い実力行使を敢行した。小さな町だけの問題でなくなり三重県全体の問題へと発展した。

 1995年、三重県知事選で北川正恭氏が当選する。この年、県が関連町村に働きかけて女川原発視察に職員を連れていった。11月、本部長を町長とする南島町の闘争本部が全県的な「芦浜原発計画廃棄署名運動」を開始する。それを三重県平和、環境労組会議(教組が中心)や、市民グループを結集した県民署名ネットワークがバックアップ、署名は7ヶ月で81万人を突破した。県人口の半ばを越え、有権者だけでみても58%に達していた。ここで全県的な運動の態勢が確立、県の動きをしばることになった。紀勢町議会特別委員会が町民投票条例案を可決。紀勢町議会が原発町民投票条例(修正案)可決。

 1996年、「南島町芦浜原発阻止闘争本部」を結成。反対闘争本部長らが「芦浜計画の廃棄」を求め、県民の過半数に及ぶ81万2335人の「三重県に原発いらない県民署名」を北川正恭知事に提出した。県史空前の反対署名が県議会を動かした。南島町、紀伊長島町など原発反対を掲げる自治体が形成され、南島町、紀勢町では原発立地住民投票条例が制定され、反対の砦が構築された。

 ここまで回顧して言えることは、中電、政府、県が膨大な宣伝、カネ、権力、工作員などを総動員したが、結局は反対運動を潰すことができなかったと云うことであろう。反対派は不屈に闘い、これに連帯する反対運動が各地に広がり逆に切り返した。反対派は、原発が麻薬と同じであること、財政難の過疎地に誘致をもちかけ電源三法による交付金を過疎の町に落とすものの、そのうち再び財源不足になり新しい原発を建てるしかなくなると云う繰り返しで原発が増えて行くことを学んでいた。

 1997.3月、県議会が調査・建設の冷却期間を置くよう求めていた南島町の請願を全会一致で採択した。7月、県は中電に対して立地予定地からの社員引き上げを正式に要請し、芦浜原発立地活動は1999年末まで「冷却期間」に入った。又も原発阻止闘争勝利となったが、これは2番目の勝利に過ぎなかった(芦浜原発阻止闘争勝利2)。ここまで、67-97年を第2期 とする。

 1998.2月頃、浜岡原発調査ツアー。同年4月頃、原発問題を考えるシンポジウム開催。


 1999年、北川知事が国内やドイツの原発を視察した。帰国後、南島町、紀勢町から意見聴取を行った。9月、東海村JCO臨界事故が発生した。5日後、隣接の紀伊長島町議会が、原発広報安全等対策交付金を使って二泊三日の原発視察に福島県の広野町に出かけていた。同時期に大内山村議会は北海道の泊原発を視察していた。11.16日、北川知事が、紀勢、南島両町に入り、賛否両派住民から直接、原発問題の聴き取り調査をした。何と、芦浜原発計画浮上後、36年にして「県知事が初めて現地入り」した。紀勢町議会原発問題特別委員会が「原発受け入れ」を報告。南島町議会臨時議会が「原発反対決議再確認」している。

 2000.2.22日、北川知事が県議会で「対立はゴールなきマラソン。計画の推進は現状では困難、白紙に戻すべきだ」と白紙撤回を表明した。その理由として、計画発表から37年もの間地元住民を苦しめてきたことにつき県にも責任がある、「電源立地にかかる四原則三条件」を満たしていないと述べている。当時、県民の53%、南島町民の86%が原発に反対していた。一方で紀勢町では原発推進派の勢いが勝っていた。中電は原発を浜岡1ヶ所に頼っていると現状打破として芦浜地区にも建設したいという思惑があったが、知事発言を受けて太田宏次社長が計画を白紙に戻すことを表明した(芦浜原発阻止闘争勝利3)。ここまで、「92-00年」を第3期とする。

 2001.9月、「原発を止めた町 三重・芦浜原発三十七年の闘い」(北村博司/ 現代書館)が出版された。この年、その後も島町に隣接する海山町商工会が大白浜原発誘致請願書を議会に提出。海山町が誘致に乗り出し、紀勢町が単独誘致に乗り出すなど、芦浜原発をめぐる闘争は、その後も混乱が続いた。 長原発反対海山町民の会、反対請願書を議会に提出。住民投票の結果、反対派が勝利した。錦漁協が「海洋調査早期実施・紀勢単独立地決議」を再確認している。

 37年という闘争を振り返って、長島事件で反対派として被告の一人となり、その後、推進を主張した古和浦漁協の上村有三組合長(81歳)は次のように述べている。
 「その時々を真剣に考え、懸命に生きてきた。今も中部電力の担当者と顔を合わせることもあるが、会話は世間話だけ。町内の対立も消えつつある」。

 37年の重みを知る反対派の或る主婦は笑みを浮かべながらも幾度もうなずきつつ次のように述懐している。
 「昔のいい町に戻りつつあるなあ。でも芦浜が中電の所有地としてある限り気は抜けんのさ」。

 美容院を営みながら古和浦漁協組合員として夫とともに闘った小島紀子さんは次のように語っている。

 「まず無言電話に悩まされました。特に夜が辛かったですね。・・宅急便も困りました。注文もしていないのに毎日のように4個も5個も届くんです。一番小さいものでは痔の薬、一番大きいのはダブルベッドでした。中に請求書が入っているので持ってきた人にすぐに返す必要があります。留守にすることができませんでした。それからゆうメール。毎日100通くらい届きます。・・・差出人のない手紙にはカミソリの刃が入っていた時もありました。・・中電は漁協の中に原発推進派を増やすために、通常総会の委任状の買い取りまでやりました。1人分10万で売れたそうです。・・・町の中が推進派と反対派に二分されてしまって苦しんでいます。なぜそんなにがんばれたのかと、よく聞かれます。ウチは代々の漁師です。先祖から受け継いできた海を、きれいなままで次世代に渡したい。原発などにわたすわけには行きませんよね」(「婦民新聞」2013年10.10日・20日合併号)。

 2011.2月、中電が今後の経営ビジョンに芦浜原発計画を再々浮上させようとした形跡が認められる。これまで不思議なほどに芦浜原発が動きはじめると1979年に米国スリーマイル島原発事故、1986年にソ連チェルノブイリ原発事故が発生している。こたびも直後の3.11日、東日本大震災(三陸巨大震災)が発生している。これを「お伊勢の祟り」と言わずして何と言うべきか。
 2012.7.31日、「【書評】北村博司『原発を止めた町』(現代書館)-原発現地の闘いをどう発展させるか」。






(私論.私見)