引用転載に絡む事件史考
「易論研修会事件」考、「大塩の乱資料館事件」考、「晒し刑事件」考

 (最新見直し2007.3.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで「易論研修会事件、大塩の乱資料館事件、晒し刑事件」を取り上げるのは、正邪を糾す為ではない。元々れんだいこの引用、転載行為に対するクレームであり、通説的理解ではれんだいこに非がある。そういう意味では、れんだいこの恥を晒すだけである。その恥晒しを敢えて引き受けるのは、これらの遣り取りを通じて著作権法の正確な理解を得たいが為である。

 れんだいこの理解の方が変調なのかも知れない。そういう不安もあるが、著作権法を読む限り、れんだいこ理解の方が正確なのではないのか。現代著作権法を推進する著作権万能適用論者のそれは、あたかも日本国憲法9条の規定がなし崩しに改憲解釈され、野放図に進展している軍備、派兵の様と似ていないか。もう一度原点に戻る必要があるのではないのか。彼らのその多くは日本国憲法9条の拡大解釈に反対姿勢を示しているが、こと著作権法理解に於いては同様の拡大解釈で如意棒をふるっているのではないのか、それはオカシナ現象ではないのかという関心と通底している。

 そういう意味で、当事者の実際例を通じてこれを叩き台にして著作権法理解にアプローチしてみたい。本サイトの意義はここにある。

 2004.8.23日、2006.3.20日再編集 れんだいこ拝


【「易論研修会事件」考】
 れんだいこに実際に発生した問題として「泰占会事件」(実際には「易論研修会事件」)がある。言い訳は趣味ではないが、正確を期すためあらかじめはっきりさせておく。

 れんだいこは、「陽明学の研究」サイトを立ち上げた時、インターネット検索から
「易学と東洋思想」サイトを呼び出し、これにリンクを貼り、一部文章を引用元明記で引用した。その個所は思想内容に関わるところではなく、朱子学のその後の歴史的経過に関する系譜的な記述のところ数行であり(ページ使用と非難されたが、云われるほどのものでもない)、引用元も明示しておいたしそう目クジラされるほどでも無いと思っていた。そのうち書き換える暫定のつもりであった。人にもよるのだろうが、れんだいこなぞ逆にされると光栄でありうれしいくらいだ。従って、これが問題になるとは夢にも思わなかった。

【ステップ1】
【れんだいこの引用に対する抗議その一】
 実際に引用したところは次の下りである。元文は残していないので復元できないが、現在次のように引用している。
 「中国では、早くから儒教・仏教・道教の三教を どう扱っていくかが大問題となっていました。 南北朝期は、仏教と道教が徒に対立を繰り返したため、 三教を儒教に収斂させる『三教帰儒』が取られたこともありました。また、道教と仏教がせめぎあった唐朝期には、 三教帰一(三教は一つの流れよりおこった、とするもの)や 三教融合がとられました。明朝のこうした状況のなかで、道教や仏教と儒教を一つの教義とする三教合一の考えが生じていきます」(易論研修会)。

 ところが、れんだいこのこの所為に対し、無断リンクであり、マナー違反による引用転載であるとして、かような措置に出られた。以下がその文である。
 『泰占会ホームページ リンクフリーではありません。当会は他のいかなる団体とも関係ありません。「れんだいこ」なる個人または団体とは関係ありません。当会は陽明学の団体ではありません。"http://www2.justnet.ne.jp/~shoshin1/" で始まるWEBページ以外のサイトとは無関係です。政治団体でもありません』

【れんだいこの引用に対する抗議その二】
 もう一つ次のようにも表記されている。(現在はこの部分が削除されている)
 易論研修会より 「れんだいこ」さんのHPより来訪された方へ 易論研修会は「れんだいこ」なる個人または団体とは関係ありません。 当方の了承なく、 当方のトップページおよび儒教のページにリンクをされ、 また、ページを使用されています。 この件に関しましては連絡もいただいておりませんし、了承もしておりません。 これは、著作権云々の問題ではなく、 ネットのマナーの問題ではないか?と思います』。

【れんだいこの引用に対する抗議その三】
 以上。云いたいこともあるが、暫く自重自戒を込めてここに転載しておくことにする。ここはひとまずお詫びしとこと思っているが、ご丁寧なことにメールが出来ないように措置されており、メールリンクを開けると以下の一文がお目にかかるようにされている。
 警告 当方にウイルス入りのメールが発信されました。OutlookExpressのアドレス帳をもとに、ウイルス入りのメールを送りつけるというタイプのものです。当方はOutlookExpressを使用していませんでしたが、IEの情報を元にメールを送りつけ、あるいは送りつけようとしていました。回線を物理的に遮断し、ウイルス駆除ソフトによってウイルスを駆除しました。 このため、当方のメールボックスは当面閉鎖いたします。 あしからずご了承ください。 また、 メールのタイトルで返信を示す「RE」のみのもの、 あるいは「RE」のあとに意味不明の漢字や壊れた文字があるもの、 に関してはそのまま、削除されたほうがよいでしょう。 なお、ウイルスに関する情報は、トレンドマイクロ社やシマンテック社のHPに アクセスして入手されるとよいと思います。 ウイルス対策ソフトをお持ちの方も、安心なさらず、 発売元・開発元のHPなどを確認し、最新状態に更新されることを お勧めいたします。 また、PC雑誌の最新号などを入手され、その情報を頼りに、 インターネットエクスプローラのVer6.0をダウンロードなさり、 同時にダウンロードされるOutlookExpressの ツールバーから、「表示」→「レイアウト」でプレビューをOFFにされるとよいでしょう。 また、「ツール」→「読み取り」で 「プレビューウインドウで表示するメッセージを自動的にダウンロード」をOFFにされることを お勧めします。 このダウンロードはADSLだとかなり早いようですが、 それ以外ですと時間がかなりかかります。 マイクロソフトさんがPC雑誌などについてくるCD-ROMに 入れてくれることを望むばかりです。 よくお分かりにならない方は、PC雑誌の最新号などで 手取り足取りわかりやすく教えてくれているものを選ばれて購入されるとよいでしょう。

 
なお、「れんだいこ」なる個人または団体とは関係ありません。 当方の了承なく、 当方のトップページおよび儒教のページにリンクをされ、 また、ページを使用されています。 この件に関しましては連絡もいただいておりませんし、 了承もしておりません。
(私論.私見) 「抗議その三」について
 これの問題性は次のことにある。メール欄を押せばいきなり上記の文章に出くわし、メールができない。その癖、「 この件に関しましては連絡もいただいておりませんし、了承もしておりません」とれんだいこをなじる。れんだいこは一体どうすれば良いのだ。メールできない措置が講ぜられており、その上で「この件に関しましては連絡もいただいておりませんし、了承もしておりません」と批判する。故意か偶然かえらい手が込んでいるわな。こういう遣り方に対してれんだいこは一体どうすればよいのでせう、逆質問しておく。儒教精神あるいは陽明学精神とどない関係があるんやろとか、思わぬ訳でもない。

 2002.6.10日 れんだいこ拝

【ステップ2】
 易論研修会より 「れんだいこ」さんのHPより来訪された方へは最近(2002.9.1日付け)次のように書き改められている。正確を期すため次の一文もここに転載することにする。

 「れんだいこ」さんのHPより来訪された方へ

 易論研修会は「れんだいこ」なる個人または団体とは関係ありません。 当易論研修会のサイトはリンクフリーではありません。 当会は他のいかなる団体とも関係ありません。 "http://www2.justnet.ne.jp/~shoshin1/" で始まるWEBページ以外のサイトとは無関係です。 政治団体でもありません。 また、易論研修会は「泰占会」の分派でも別名称でもありません。 泰占会ならびに関係者の皆様にご迷惑をおかけ致しまして お詫び申し上げます。
(私論.私見) 「易論研修会の訂正文」について
 これによると、「上記の易論研修会によるれんだいこへの警告文」に対して、その文筆主体の責任を廻って易論研修会と泰占会との間で議論が為されたということであろう。1・易論研修会と泰占会は別団体であり、2・こたびの抗議文は易論研修会が為したものであり、3・泰占会は何ら関係ないということを明記せよ、という抗議が為された模様である。

 この泰占会の抗議により、易論研修会がわざわざ「易論研修会は『泰占会』の分派でも別名称でもありません。 泰占会ならびに関係者の皆様にご迷惑をおかけ致しまして お詫び申し上げます」と詫びを入れた格好になっている。

 しかし、これはこれで更に問題がややこしくなる。つまり、れんだいこの易論研修会サイトへの無断リンク、文章の無断一部転載を批判した易論研修会が、無断で泰占会の名を使っていたことになる。実際の正確な関係は分からないが、「易論研修会は『泰占会』の分派でも別名称でもありません」とあるので別団体なのだろう。

 となるとちょっと待てよ。一体、他団体の名前を「無断で」勝手に使って、れんだいこのリンクと転載が「無断である」との抗議をするようなそういう抗議があってたまるかよ。まっ世の中こういうことは多いのかも知れない。何やら説教強盗の上前を行くような臭いがする。  

 2002.9.7日 れんだいこ拝

【ステップ3】
 ところで、事はこれでは終わらない。次のような一文にも出くわす。「メールの閉鎖について」が新たに言上されており、上述の「ウイルス入りのメール」に対する注意文が記載された後で、「このため、当方のメールボックスは2001年12月より閉鎖いたしております云々」とあり、末尾でかように書かれている。
 なお、「れんだいこ」さんに関する情報をhpの管理者が不用意にここに記しました為、あたかも「れんだいこ」さんのサイトから ウイルス入りのメールが送られてきたかのようなイメージを与えた趣旨の文章が「れんだいこ」さんのサイトに掲載されておりました。 その旨お詫びいたします。

 当易論研修会のサイトはリンクンクフリーではありません。
(私論.私見) 「易論研修会のお詫び」について
 こうなるとまた一言せねばならない。「あたかも『れんだいこ』さんのサイトから ウイルス入りのメールが送られてきたかのようなイメージを与えた趣旨の文章が『れんだいこ』さんのサイトに掲載されておりました」とあるが、どの文章のことだろう。掲示板にそれらしいことを書いたのか既に記憶が薄れている。少なくともここのサイトの文にはそういうことは書いていない。

 例えば、どなたかが、「あたかもれんだいこさんのサイトからウイルス入りのメールが送られてきたかのようなイメージを与え、これではあんまりではないか」と世話を焼いてくれた者がいるというのなら分かる。それならそう記せば良いだろう。しかるに、「(そういう)趣旨の文章が『れんだいこ』さんのサイトに掲載されておりました」と記す。れんだいこにはその該当文が分からない。れんだいこは抗議した覚えもない。こういうのって、これは、著作権云々の問題ではなく、 ネットのマナーの問題ではないか?と思いますという言葉をそのままお返ししたくなる所為ではなかろうか。

 2002.9.7日 れんだいこ拝

【ステップ4】
 この結末は次のように落ち着いた。易論研修会は、2002.9.8日改訂で、
 「なお、「れんだいこ」さんに関する情報をhpの管理者が不用意にここに記しました為、あたかも「れんだいこ」さんのサイトから  ウイルス入りのメールが送られてきたかのようなイメージを与えた趣旨の文章が「れんだいこ」さんのサイトに掲載されておりました。」 と記しておりましたが、これは当方の誤読でした。重ねてお詫びいたします。
 と訂正している。
(私論.私見) 「易論研修会の再度のお詫び」について
 つまり、自分で書いてれんだいこの不快を予想し、その不快につき抗議が為されたものと誤読した上で書き方が不適切であったとお詫びし、れんだいこがそういう抗議をした覚えがないと指摘すれば、誤読で申し訳なかったと重ねてお詫びするという流れになっている。こういうのを「自作自演転び」というのだろう。ブザマというより他ない。

 とはいえ、元々れんだいこの無断リンク及び引用から始まったことで、それに付き相手先に不愉快な思いをさせたという意味で、れんだいこはここで相手先がそう感じた以上は申し訳有りませんでしたと一言添えておきたい。今日なお不愉快というのであれば、当サイトからリンク及び数行の引用を全抹消するつもりですので、その旨ご連絡ください。

 2002.9.16日 れんだいこ拝

【ステップ5】
(私論.私見) 「易論研修会の『リンクフリーではありません』、『政治団体でもありません』」について
 ついでであるが質問しておきたい。「リンクフリーではありません」に意見を申し述べておく。それが当人の意思であっても、インターネットを利用するにつき不可避であることを弁え、むしろ本望と思うべきではなかろうか。リンクされたり引用されるのがどうしても嫌なら、トップページは致し方ないとしても、それより先は会員制のパスワード方式にされたら如何かと思う。

 れんだいこには理解できないところであるが、改竄・歪曲引用ならともかくリンクとか引用元明記の引用の場合、誉れであっても逆ではなかろう。批判される形で引用される場合でも、引用自体は原文通りに引用されているのなら致し方なかろう。要約引用の場合ややこしいが、趣旨が反していない限り目くじらするほどのことでもないとか思う。

 そういう気持ちから見ると、「リンクフリーではありません」はかなり一風変わった願望であって且つ法的裏づけもない。そういう意味で、「リンクフリーではありません」に拘る思想的論拠について質問してみたい。

 もう一つ、「政治団体でもありません」が目に付くが、何を云おうとしているのだろうか。「政治団体であったらなぜいけないのか」 、「そも政治というものをどのように理解しておられるのか」等々疑問が次々湧いてくる。「当サイトは純然たる研究を目的としているものであり、特定の政治団体との繋がりはありません」ということを云いたいのだろうか。それならそう書けばよいのにと思う。

 れんだいこ観からすれば、易と祀り、祀りと政治はその昔混交しており、政治団体は政治と繋がっている訳だから関係ないとは云えない。「政治団体でもありません」をことさら断り書きする必要性が分からない。書くのなら趣旨がよく分かるように書くべきではなかろうか。いらぬお節介であるが、何かと関係が出来たのでこのことも質問してみたい。

 2002.9.16日 れんだいこ拝

【ステップ6】
 2002.10.26日現在、「易論研修会」より何らのコメントが出ていない。れんだいこは構わないが、近々本サイト「著作権問題考」を論文集の中にアップするつもりである。れんだいこが恥をかくのかかかないのか分からないが一応お伝えしておきます。

 
「盗聴法について考える」Link Freeは、れんだいこの所為に対するかなりの弁護論となっている。他にも同種見解を探すのはそう困難では無い。「インターネット・サイトのリンク、引用、転載について」で考察してみた。易論研修会は、これらの見解に対して何らかの態度を表明するのが嗜みだろう。

【ステップ7】
 2006.10.20日現在、「易論研修会」は封鎖されており、検索すると代わりに「易論研修会 易学 目次」が出てくる。トップページ末尾に次のように記されている。
 当易論研修会のサイトはリンクフリーではありません。
 政治団体でもありません。  
 泰占会さんとは交流はございますが易論研修会が泰占会を名乗ったり  
 泰占会さんが易論研修会を名乗ることはございません。  
 以前リンクページの構成の関係から誤解を受けたようです。 泰占会さんや関係者の皆様にはご迷惑をお掛けしまして申し訳ございません。  
 2002年11月21日改訂
 
 「ご意見・ご質問 こちらへ」とあるが、「易論研修会のメールボックス閉鎖について」に辿り着くだけのことである。それにしても煮え切らない御仁ではある。

 2006.10.20日 れんだいこ拝


【「大塩の乱資料館事件」考】
 2004.2.8日、「大塩の乱資料館事件」が勃発した。れんだいこが種々の考究において必要な知識を著作からインターネットサイトからいただいてきていることは確かである。極力れんだいこ的に咀嚼しており、引用、転載の場合はその旨記す作風を良しとして実践しているつもりである。場合により漏れているところもあるかも知れず、気づき次第あるいは指摘され次第に訂正するつもりでいる。あるいはまたいずれ取り込みたいと思い欄外末尾で全文転載しておく場合もある。この際は、極力リンク掛けして引用元を明らかにしている。

 れんだいこは、これらの作風で何ら非難を蒙るいわれはないと考えている。逆にそうされた場合には光栄であり喜ばしいこととして受け取っている。しかし、世の中はそうは受け取らず逆に非難の対象にしたがっている者も多い。前述の易論研修会事件の場合もそうであるが、こたびの「大塩の乱資料館事件」のように、歴史上体制反乱者の事跡考究の際にもいわゆる著作権適用なる観点から掣肘を受けたのは初めてである。

 「大塩の乱資料館」サイト主催者に尋ねてみたいが、貴公が大塩平八郎の事跡研究為すのは勝手であろうが、貴公がその文章に付き著作権壁廻らすに付き大塩平八郎が喜ぶのは想像し易い。貴公が著作権適用で他者の容喙を拒否したり権威的に望む事態に対して、大塩平八郎は何と思うだろうか。大塩平八郎の精神を思うに付き、最もその精神に違背した精神を貴公は弄んではいないか。

 貴公の潔癖論理に従えば、そもそも貴公は史上の実在人物大塩平八郎に何らかの形で接触を試み、排他独占的に飯の種にすることの了承を得、一筆取り付けておく必要がありはしないか。それは叶わぬことだろう、つまり貴公の著作権なぞ得手勝手が過ぎる「他人のふんどしで相撲を取る、しかも独善的な典型」ではないのか。

【ステップ1】
 2004.2.8日、れんだいこの主催する左往来人生学院掲示板に次の書き込みが為された。投稿人は、曾根崎新地のひろ氏であり次のような文面であった。
 「大塩の乱資料館の内容が・・・」という題名、URL先表記で、「突然ですが、私のやっている「大塩の乱資料館」のあるページがまるごと とりこまれているようですが、お間違いではないでしょうか」。
(私論.私見) 「曾根崎新地のひろ氏の掲示板への書き込み」について
 これまでメールで為されたり、当該サイト上で抗議されたりしたことはあったが、れんだいこ掲示板にこのような形で指摘されたのは初めてである。しかし、末尾の「お間違いではないでしょうか」なる文意が不明である。了承を取り付けていないという事に対する批判か、事実は別として「ページがまるごととりこまれている」事自体に対する批判なのか、他の意味での婉曲表現なのかやや不明である。

【ステップ2】
 れんだいこは、該当サイトを検分し、同日付け「ページのまるごと とりこみについて」という題名で、早速に次のレスを送信した。
 「曾根崎新地のひろさんちわぁ。大塩の乱についてのサイト検索で「大塩平八郎資料館」に行き当たり、これから知識を得た部分もあることを、末尾の【大塩の乱研究サイトないし著作】に「大塩平八郎資料館」を明記することでご容赦願っているつもりですが、お怒りでせうか。

 該当サイトはここです。http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_12.htm

 文面からするとご不満のようですので、書き直したいと思います。どの箇所が「まるごと とりこまれている」のでせうか。ご指摘願えますか。記憶を辿りますのに、このサイト作成に当たっては幾種類からの知識を寄せ集め、れんだいこ的に要点整理した形になっていると思います。

 丸ごと引用、転載の場合には極力その旨明記するように心がけておりますが、漏れているのかも知れません。今読み直してみまして、どこの部分の事を指摘されているのか思い出せません。ご不満がおありのようですので、ご指摘箇所によっては確認しだいに全文削除するか、ご理解願うかどちらかの方法で処したいと思います」
(私論.私見) 「れんだいこの掲示板での返信」について
 この事件も易論研修会事件と同じ臭いがするので早速ここへ書きつけておくことにした。曾根崎新地のひろ氏がどこの部分を指摘してくるのか分からない。しかし、その指摘箇所が「ページのまるごと とりこみ」のようには思わない。今読み返してみたが、曾根崎新地のひろ氏のサイトから学んだ事はさほど多くない。貴重情報のところはいただいた気がする。しかし、末尾のところでサイト名明記とリンク掛けしているのだから、クレームをもらうことはないと思っている。れんだいこなどは逆にされるとうれしいくらいだ。なぜ、気難しく責め合う関係に向かおうとするのだろう。

 大塩平八郎氏は歴史的実在の人物である。この彼を評論するのに後世の者が著作権を振り回すのはおこがましいのではなかろうか。曾根崎新地のひろ氏が著作権を云々したいのであれば、せめて自身に纏わる私秘情報とか自伝とか創作物に関して限定すれば良いのに。第一、大塩平八郎氏が曾根崎新地のひろ氏のクレームを知ったなら、俺はお前にそのような権限与えた覚えもないし、俺の乱の意義をそのように狭量に扱われたくはないと逆に抗議するのではないのか。

 曾根崎新地のひろ氏の第一報は抑制がかかっているので、その真意はまだ明記されていない。しかし、「あるページがまるごと とりこまれている」という大げさな物言いは、本サイトで考察している前の二事件にも共通なパターンである。恐らくこの線で何事か云い始めるものと思われるので、今から身構えておこうと思う。

 2004.2.8日 れんだいこ拝

ステップ3
 れんだいこは、次の文面を、曾根崎新地のひろ氏主宰の「大塩の乱資料館掲示板」に投稿した。
 「管理人さんはじめまして。れんだいこと申します。私の主催する掲示板に「3749 返信 大塩の乱資料館の内容が・・・ 曾根崎新地のひろ URL 2004/02/08 13:26」、「 [New] 突然ですが、私のやっている「大塩の乱資料館」のあるページがまるごと とりこまれているようですが、お間違いではないでしょうか」との書き込みが届いております。

 これを承りいろいろ思案しておりますが、こちらの管理人さんからの投稿でしたのでせうか。まず確認させていただきたくこの投稿を送らせていただきました。レス賜ればありがたく存じます」。
 送信ボタンを押すと、次のような表示が為された。
 「書き込みの内容は、「大塩の乱資料館」に関するもの、大阪の歴史に関するもの、「大塩の乱資料館」へのリンクのお知らせなどに限らせていただきます。管理人が不適当と判断するものは、掲載しませんので、ご了承ください」。
 「投稿ありがとうございます。 ただ今投稿された記事は直ちには公開されません。内容を確認の上、管理者によって正式公開されますのでしばらくお待ち下さい。内容によっては掲示されないことがあります。投稿記事を削除したい場合には、記事が公開された後、削除用パスワードを用いて削除して下さい」。
(私論.私見) 「れんだいこの大塩の乱資料館掲示板への投稿」について
 今後どう展開するのか分からないが、「史上の実在人の評論に対する著作権発生の是非論」という未踏の分野のやり取りが為される事になりそうである。れんだいことしては、まず、左往来人生学院への投稿が曾根崎新地のひろ氏当人によって為されたものかどうかの確認から始めることにした。次の展開を刻々に記して行こうと思う。

 2004.2.10日現在、曾根崎新地のひろ氏から何の反応もない。送信したはずの投稿も掲載されていない。しかし、送信したはずの投稿が掲載されていないことは、氏がれんだいこの左往来人生学院への投稿当事者であることを逆に知らせる。以上を踏まえて次のように云うことができる。

 一般に、この種の抗議者は非常に姑息であり、メール送信できない措置にしているか、掲示板を持っていても「管理人が不適当と判断するものは、掲載しませんので、ご了承ください」なる特殊的専横権を駆使する癖がある。

 自称知識人の底の浅さ、度量偏狭さ、得手勝手主義等々が共通して見て取れる。「大塩の乱資料館事件」の場合は更に特殊で、本来喧伝されるべき対象の考察において著作権如意棒を振り回している。仮にマルクスでも同じであろうが、マルクスは自著作に対してこれが広範に大衆的に普及されるべき事を念願しつつ営為した生涯の軌跡を残している。ところが、後世の者が勝手に著作権網を張り巡らし、わが国の場合でも日共系の出版社が版権元になり、大衆的普及阻害に向かっている。

 明らかに倒錯現象であるがこの倒錯を訝らず、正義と権利の名の下に睥睨せんとする輩が跋扈する。おかしいではないか。この問いを持ち続けるれんだいこは、他方ではよりマナールール遵守に洗練しようと思うと同時に、一方ではこの種の倒錯者とは何の遠慮もなく闘おうと思う。なぜなら、彼らの論法は社会柱に巣食うシロアリのそれだから。

 2004.2.10日 れんだいこ拝

【ステップ4】
 2004.2.11日、曾根崎新地のひろ氏よりレスが為された。当人の主宰する大塩の乱資料館掲示板に前述のれんだいこ投稿文が掲載され、これに対し、次のようなレスが付けられた。

 ご訪問ありがとうございます。http://www.marino.ne.jp/~rendaico/siso_toyosiso_yomeigaku_saha.htm に「洗心洞通信 25」が取り込まれています。「洗心洞通信」は、大塩事件研究会の了解のもとに大塩の乱資料館に掲載しています。

 前に画像がまるごと、しかもゆがめて取り込まれていることがありました。連絡先もわからないサイトで、しかたなく、ブロバイダーに連絡してもらいました。主宰者からは何の連絡もありませんでしたが、かなりたってから削除されたようです。
 続いて、れんだいこの主宰する左往来人生学院掲示板に次のようなレスが投稿された。 
 3753、大塩の乱資料館の内容利用について、曾根崎新地のひろ、2004/02/11 09:46
 ときどき「大塩の乱」についての新しい情報を検索エンジンで探しますが、それで行き当たりました。

 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/siso_toyosiso_yomeigaku_saha.htm

 中野三敏氏も寄稿されているすごいサイトだ、と最初は思いました。

 ところが「洗心洞通信 25」が丸ごと取り込まれていますので、不思議に思ったのです。 「洗心洞通信」は、大塩事件研究会の了解のもとに大塩の乱資料館に掲載しています。 削除していただいた方がよいでしょう。

 李卓吾についてのページのようですが・・・。 構成が理解しにくいですね。

・「私論私見」ではなく「他論他見」でしょうか。
・「洗心洞通信 25」を丸ごと転載の意味がわかりません。
 なお、「引用」というのは、「一部」を自分の主張のために使うことで、 「丸ごと」は引用とは言えないでしょう。

 それで、ご自分のメモにしておくつもりで、間違って公開してしまったのかとも思ったのですが・・・。削除していただいた方がいいでしょうね。大塩の乱資料館は未完成ですが、参考にしていただくのはありがたいことと思います。

【ステップ5】
 れんだいこは、次のようなレスを付けた。
 3754、Re:大塩の乱資料館の内容利用について、れんだいこ、2004/02/11 11:55
 曾根崎新地のひろさん返信有難うございました。どこの箇所のご指摘か分からなかったのですが、意外なところを教えられうーーむと腕組みしております。

> http://www.marino.ne.jp/~rendaico/siso_toyosiso_yomeigaku_saha.htm

 
これについては、れんだいこの知識が皆目ないところで本文なしのまま末尾にて全部転載をしたまま放置した形になっております。

>  中野三敏氏も寄稿されているすごいサイトだ、と最初は思いました。

 
そのように受け取られる恐れがあるのなら、今後必ず無断転載の旨表記した方が賢明だなと教えられました。

> ところが「洗心洞通信 25」が丸ごと取り込まれていますので、不思議に思ったのです。「洗心洞通信」は、大塩事件研究会の了解のもとに大塩の乱資料館に掲載しています。削除していただいた方がよいでしょう。

 
サイト管理人当人がそう望むなら、そしてこの場合は無条件で、削除しようと思います。しかし、大塩平八郎という史上人物の性格を思えば、大塩事件研究会さんの会の性格が一風変わっている気がします。「死人に口無し」ではありますが、大塩氏はそのような研究会を喜びますか。

 檄文は社会に広く伝えられる事を願って配布されたように思いますが。王陽明、陽明学にしても然り。これは学に対する知識以前の感性的な問題ですが、特に大塩学、陽明学の場合には根幹に関わる問題と考えております。が、いろんな感性をも認められるべきでせうから、これ以上の発言は慎みます。


> ・「私論私見」ではなく「他論他見」でしょうか。

 
これは恐らく善意の、誤解でせう。れんだいこサイトの構成は、末尾に「私論私見」を付けておりますが、その以下の文が「私論私見」というのではありません。本文に適宜に「私論私見」を付けるようにしております。本件の場合は、一本線を引いておりますので、そして内容的に見てれんだいこの「私論私見」とはみなされないとは思うのですが、こういうクレームを招かないよう対応を考えようと思います。

> ・「洗心洞通信 25」を丸ごと転載の意味がわかりません。

 
れんだいこ的には、値打ちがあると認めた文を全部転載することは、むしろ宣伝役を引き受けたつもりでおり、感謝される事はあっても抗議されることは心外です。逆に、れんだいこ文がそのように紹介されているのを見ればうれしい限りです。

 現に、れんだいこの知らないところで、れんだいこ評論が為されておりますが、当人のれんだいこはこれを喜んでおります。しかし、そう受け取らない方も居られるのは事実で、過去にもそういう事例があります。著作権から見て両者の言い分のどちらが認められるのかを問うこともできますが、臭いとして不毛のような気がしており削除いたします。


>  なお、「引用」というのは、「一部」を自分の主張のために使うことで、「丸ごと」は引用とは言えないでしょう。

 
それはその通りですが、れんだいこは、「引用」したのではなく、全部転載し残置しているだけです。それを「引用」と云ってみたり、盗作的にれんだいこ文として世間に押し出ししているのでもありません。この辺りは正確に批判していただきたく存じます。

>  それで、ご自分のメモにしておくつもりで、間違って公開してしまったのかとも思ったのですが・・・。

 
別に「間違って公開してしまった」というわけではありません。後日の参考資料として転載しておいただけです。既に述べましたが、それは喜ばれるか無関心で受け取られる事はあっても、抗議される覚えは無い、と考えているからです。

>  大塩の乱資料館は未完成ですが、参考にしていただくのはありがたいことと思います。

 
有難うございます。極力リンク掛けでご交流させてもらいたいと思っております。もし無断リンクはお断りいたしますというポリシーでございましたら、リンクをも遠慮させてもらおうと思います。その旨意思表示くだされば仰せの通りに従います。

 2004.2.11日 れんだいこ拝
(私論.私見) 「曾根崎新地のひろ氏との遣り取り」について
 2004.2.13日現在何も無い。指摘していないが、「前に画像がまるごと、しかもゆがめて取り込まれていることがありました。連絡先もわからないサイトで、しかたなく、ブロバイダーに連絡してもらいました。主宰者からは何の連絡もありませんでしたが、かなりたってから削除されたようです」は、どういう意味で書きつけているのだろう。れんだいこは、「画像がまるごと」も、「ゆがめて取り込み」も、「連絡先もわからないサイト」でもない。そういう例を挙げて何の足しになるのだろう。

 2004.3.3日現在、その後の動きはない。れんだいこの方からレスするつもりはないので、このまま何となく風化するのだろうか。

 2004.3.3日 れんだいこ拝


【「晒し刑事件」考】
 2004.7.23日、グーグル検索していると、れんだいこの論考文における無断引用、転載箇所を廻って、坂東千年王国氏(HON)より「びっくり ぎょうてん ! 晒し刑に処する次第」で新たに叱責されていることが分かった。そこで、本サイトを設け、総合的に考究してみることにする。

 これは、れんだいこの明治維新の研究明治維新の史的過程考(2―1)(伊藤体制から憲法発布まで)サイトで、北村透谷の自由民権運動家としての側面につき貴重な論及をしていた幻境の碑を引用元不明示、リンク掛け無しのまま全文転載していたところ、「びっくり ぎょうてん ! 晒し刑に処する次第」で叱責されたものである。

 本件は、それまでの諸事件と趣が異なり、「引用元不記載、リンク掛けなしのままの全文転載」であったところに特徴が認められる。れんだいこの重度過失であるが、これが「泥棒呼ばわり」されたところにこの事件の特質がある。

【ステップ1】
 「坂東千年王国掲示板過去ログ-9」の 「びっくり ぎょうてん ! 晒し刑に処する次第」に次のように書かれている。
203びっくり ぎょうてん ! 晒し刑に処する次第 HON- 2004/07/11 17:47
インターネットの普及で何か調べるのにホームページを検索するのは常識に なってますが、その反面、著作権等も厳しくいわれています。

それにも関わらず、びっくり ぎょうてん ! するような事もあります。検索していたら、あるサイトに自分の書いたものと似た文章が出てきた。 どこまで読んでも同じだ。最期の行までソックリさん !

【北村透谷の苦悩】 というページで、冒頭をコピペするとこうなる。

北村透谷(本名門太郎)は明治元年十一月十六日、小田原藩士族の家に生まれた。明治十四年一家の転居により有楽町の泰明小学校へ転校する。この学校は現在もあり、玄関前に多大な影響を与えた四歳下の島崎藤村の名と並べて「幼き日ここに学ぶ」と刻んだ碑がある。透谷の名も学校の隣にあった数寄屋橋の「すきや」をもじって号した。

□ 最初のロマン主義詩人・評論家として知られる北村透谷は、多摩に足を踏み入れることによって生まれたといえる。明治十六年神奈川県会の臨時書記となったころ、神奈川自由党の組織者石坂昌孝の子公歴や八王子の教員大矢正夫と親交を結び、自由民権運動に参加していった。

わたしの「多摩川流域」の「幻境の碑」のページはこうなっています。

 北村透谷(本名門太郎)は明治元年十一月十六日、小田原藩士族の家に生まれた。明治十四年一家の転居により有楽町の泰明小学校へ転校する。この学校は現在もあり、玄関前に多大な影響を与えた四歳下の島崎藤村の名と並べて「幼き日ここに学ぶ」と刻んだ碑がある。透谷の名も学校の隣にあった数寄屋橋の「すきや」をもじって号した。

 最初のロマン主義詩人・評論家として知られる北村透谷は、多摩に足を踏み入れることによって生まれたといえる。明治十六年神奈川県会の臨時書記となったころ、神奈川自由党の組織者石坂昌孝の子公歴や八王子の教員大矢正夫と親交を結び、自由民権運動に参加していった。

明らかに「パクリ」である。その証拠は文章が同じであるばかりでなく、ニ段落目の「□ 最初のロマン主義詩人」の頭に「□」が入っている。コピペするとこれが尽くように埋めてあることまで気づくめー、というところです。

何処のどいつかトップページを開いてみると

  『左往来人生学院』編集部・主宰れんだいこ同人
  (E-mail: rendaico@marino.ne.jp)http://www.marino.ne.jp/~rendaico

とあって、ご丁寧に

   リンク、引用むしろ歓迎フリーサイト。 同志求む。れんだいこ地文につき転載歓迎むしろ頼むのこころ。

「引用むしろ歓迎フリーサイト」をうたうの手前の勝手だが、引用どころか全文パクッた上に転載元の承諾もアドレスも入れないとは、あきれ果てた。よって、ここに晒し刑に処する次第。
(私論.私見) 「坂東千年王国氏の叱責」について
 れんだいこは、これに対し「リンク不掛け失念」を詫びた。その概要は、「れんだいこの無断引用、転載、出典元不記載、リンク不掛けに伴う叱責考」に記した。

【ステップ2】
 その後もインターネット検索していると、「びっくり ぎょうてん ! 晒し刑に処する次第」に続いて、「坂東千年王国掲示板過去ログ-10」で、穂国幻史考管理人より「盗人にも○分の魂?」と題して次のような嘲笑が為されていることが判明した。ここに至って、著作権法の理解を廻ってれんだいこ見解を再披瀝する必要を感じ、これを転載掲載しておく。
204盗人にも○分の魂? 穂国幻史考管理人- 2004/07/13 20:06
もないですね。
 自分で生産したもの(創作した著作物)、あるいは、仕入れたもの(著作権の譲渡を受けたもの)を店に並べてご自由にお持ちくださいならともかく、 これでは、盗んだ品物を店に並べて、ご自由にお持ちください出すね。

 れんだいこ氏、見たところ、いろんなルートから盗んできているように思えます。著作権をはじめとする無体財産権は、その名の通り、形がないだけに占有ができないことから、盗んだものをご自由にお持ちくださいは、困りますね。

 れんだいこ氏の場合、「故意」が認められますから著作権法119条に基づき告訴をすれば、懲役三年以下または百万円以下の罰金に処せられます。

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/

 なお、上記の投稿を受けて、坂東千年王国氏(HON)が、次のようなレスを付けている。
205Re;盗人にも○分の魂? HON- 2004/07/14 10:55
クソ熱い梅雨のない梅雨明けだというのに、車載クーラーが壊れた ! ガスが全部漏れて、分解しないと何処が故障か不明とはデーラーの弁。とっくに走行十万キロ突破のポンコツ軽でも、エンジンは快調だからしょうがないとしても、設備から傷むのはビルとおんなじだ。新築はボチボチ、やたらリニュアール工事の多い都内を走り廻るにはポンコツが似合いか。ま、リコール隠しに会わないだけでもマシだ。

ポンコツ車の盗人はいないけど、チャリンコの新車を盗むヤツもいる。二年前の盗人にコリて、軽にも載る折りたたみのチャリンコを手に入れた。これで銀座通りやお台場をスイスイ走るのはカイテキだぞ。でも、六段ギヤー付きだがワッパが小さいから、ママチャリに追い抜かれるのだ。

盗人市は昔噺かと思っていたら、百鬼夜行のサイトにはやはり盗人市もありますね。

「厚顔無恥」を『広辞苑』で引いてみた。
 こう‐がん【厚顔】
 面(ツラ)の皮のあついこと。あつかましいこと。鉄面皮。「厚顔無恥」
 む‐ち【無恥】
 恥を恥とも思わないこと。恥しらず。「厚顔無恥」

今度、多摩川流域に「盗人」のページを用意しよかな。また厚顔無恥な盗人に「盗人」も盗まれたりして。
(私論.私見) 「坂東千年王国氏と穂国幻史考管理人両名による嘲笑」について
 こうなるとさすがにれんだいこは猛然と抗議せざるを得ない。次のように返歌してみたい。

 穂国幻史考管理人はご丁寧にも著作権法について」なるサイトを設け、著作権法について考察している。これを読んでみて、れんだいこ理解による著作権法と穂国幻史考管理人のそれがあまりにもかけ離れていることに気づいた。以下、穂国幻史考管理人の著作権法理解に対する疑義を述べてみることにする。

 れんだいこは、これを「著作権法での主要な論争点」で反論を試みている。ここでは、両名による「盗人呼ばわり」について考察する。

 始めに云っておきたいことは、一体、ご両名のサイトはどこから知識を取り寄せたのであろうか。この原点から問いかけてみたい。一般に、知識は、先人の労作から学ぶ以外にない。近時の著作権法の拡大解釈に則り、「哲学、思想、宗教、政治、歴史」を論述するとすれば、かなりややこしい技が要求されることになる。著作権法適用以前の時代の対象を考察する場合には幸いであるが、著作権法適用以降の時代のそれらを考究するとなると厄介なことこの上なかろう。この場合、両名の関心が専ら著作権以前の時代の研究だから当方には関係ないというのでは勝手が過ぎよう。

 仮に歴史関係に対象を絞って見る。史上の知識から自己流の創意表現
に書き上げ直すことはできる。しかし、それも非著作権時代の知識の恩恵あってこそであろう。自らはそういう恩恵に預かりながら、自己の著作物に対しては著作権壁を廻らし、関所を設ける。この作法こそ「盗人の論理」ではなかろうか。例えて云えばこうだ。親の世話で成長した子供が成人になって、俺は誰の世話にもなっていない、俺は自分で生きて大きくなってきた、恩返し精神など持ち合わせていない、親の面倒見るに及ばず、我が人生のパフォーマンスこそ最大目的と云っているに等しい。しかし、誰しも寿命があるのに、明日は白骨のみぞ残れる哀れな存在であるかも知れぬというのに滑稽なことだ。

 それはともかく、仮に、イエス・キリスト、カール・マルクス、大塩平八論の例を取り上げる。これら三者の思想、行動、それら営為を見れば、人民大衆への限りない啓蒙、凡そ自身の利害特質からかけ離れたところの人民的財産として資するよう願って歴史にその生を刻印していることが分かる。その研究者も又彼らの意思に応え、その法理を灯し続けてきた。それが最近になってどういう訳か著作権全方位適用論者によりあちこちに関所が設けられ始めている。

 ならば問おう。著作権全方位適用論者の権利は何処より発生しているのか。史上の当人が望まずのものを否むしろ最も否定してきたその種のものを勝手に権利化する精神は何によってか。それは当人に申し訳ない越権行為ではないのか。だいたい貴公らの論理ではどうやって承諾を取るのか。この件では実際に、聖書のサイト化を廻って論争されている。

 著作権法を得手勝手に解釈し、「書き物全体が即著作権発生」なる自己都合主義的便宜的に読み替え、学的発展、普及に資する見地を喪失している者こそ文明に対する盗人そのものではないのか。よって、盗人が「盗人呼ばわり」している愚を見せているのは貴公らの方ではないのか。

 こたびのれんだいこの所為に対してはリンク不掛けをなじるべきであるところ、「盗人呼ばわり」して共鳴する両名の痴態こそ恥じよ。れんだいこはその当初、リンク不掛けについては詫びを入れた。しかし、「厚顔無恥」、「盗人呼ばわり」の合唱にまで至っているとなると、原点における吟味から説き起こし反論したくなるのも道理であろう。

 お望みなら、
穂国幻史考管理人の著作権法について」の珍妙解釈につき逐条反論を為してみたい。どちらが恥を晒すか競ってみようか。

 2004.8.23日 れんだいこ拝

【ステップ3】
 「晒し刑事件」に関連して、れんだいこが主催する「人生学院掲示板№2」に次のような投稿が入ってきた。
235 坂東千年王国氏 平家蟹 2007/09/26 17:36
れんだいこ様、突然の割り込み、失礼します。
坂東千年王国で検索していたら、この掲示板を探し当てることが出来ました。坂東千年王国の「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」を興味深く読んでいましたが、同時に、花田清輝氏の「小説平家」の中の、海野小太郎幸長について書かれたことと、「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」が内容的に酷似しているという印象を受けました。れんだいこ様も暇があれば読んでみてはいかがでしょうか。しかも、坂東千年王国氏が挙げた参考文献の中に、「小説平家」は含まれていないのです。

 れんだいこは次のようにレスした。
236 Re:坂東千年王国氏 れんだいこ 2007/09/26 18:36
 平家蟹さんちわぁ。

> 坂東千年王国の「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」を興味深く読んでいましたが、同時に、花田清輝氏の「小説平家」の中の、海野小太郎幸長について書かれたことと、「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」が内容的に酷似しているという印象を受けました。れんだいこ様も暇があれば読んでみてはいかがでしょうか。しかも、坂東千年王国氏が挙げた参考文献の中に、「小説平家」は含まれていないのです。

 貴重情報有難うございます。これが事実ならケッタイなことになりますね。れんだいこは、著作権強権論者とは付き合いを避けるよう努力しております。今更とも思いますが確認してみます。今後ともよろしくね。

 2007.9.26日 れんだいこ拝

 れんだいこは早速、
坂東千年王国氏のサイトの該当箇所「一向一揆戦線」の兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」を確認してみた。小文なので転載しておく。

海野小太郎は平安朝末から鎌倉時代の人で、海野家は嫡流が小太郎を世襲した。

その名を初めは海野小太郎幸長といった。海野一族は信濃国の大豪族であった。一族が確実に信濃国へ根を下ろすのは、天暦年間(947-57)左馬権助滋野幸俊が望月の牧監として下向、その子の信濃介幸経が海野庄の下司となってからである。

そして、幸経の嫡男小太郎幸明が海野家、次男小次郎直家が根津家、三男重俊が望月家と、それぞれ興した。海野幸明四世の幸親のころには、海野一族は信濃屈指の豪族であり、幸親の嫡男小太郎幸長は海野白取庄角間郷に生まれた。

吉田兼好が『徒然草』の第弐百廿六段に、信濃前司行長「平家物語を作りて、生佛と言ひける盲目に教へて語らせけり」とさらりと書いた「行長」こそ、海野小太郎幸長である。一族の祖、滋野幸俊以来、嫡流は「幸」が代々通字であった。

小太郎幸長が青雲の志を立てて都へ登り、五位以上の者の子弟なら志願して許可される大学寮へ入ったのは、何歳のときか判らない。いづれにしても文章博士として藤原一門の勧学院教授になり、その名も進士蔵人通広と称した。 自著『仏法伝来次第』跋の略歴によると、その後、勧学院を辞職して叡山黒谷で出家して最乗房信救と号し、北国へ修行の後、南都に移ったという。南都興福寺で得業の僧位をとってからは、得業信救と称した。

時代は平氏の絶頂期、正に以仁王挙兵の時であった。以仁王を迎えた三井寺から興福寺へ援軍の依頼がくると、その返事には「そもそも清盛入道は、平氏の糟糠(酒粕と米糠)、武家の塵芥(ちりとあく)なり」と扱き下ろした上、同心と援軍派兵を約した。

この返事を書いたのが元文章博士の得業信救で、噂を聞き付けた清盛入道は、暗殺者を放って信救を付け狙ったというのは『源平盛衰記』の話である。強烈な風刺で清盛の怒りを買った信救のとった手段は、事も有ろうか、自ら漆を身に浴びて顔を癩病人にごとく変形させ、ふらふらと東国へ落ちのびたという。


得業信救は漆を浴びて癩病人にごとく膨張した顔を持て余しながら、一年がかりの海道下りの末、三河の国府で新宮十郎蔵人行家と出会った。

行家は以仁王の平家追討令旨を諸国の源氏へ回状した後、自らも都へ攻め上ったが、墨俣川の戦いで平氏に打ち落とされ、三河国へ落ち延びてきたところだった。沢蟹をすりづぶして信救の身体に塗り、以前の健康に戻ると、二人は語らって信濃国に挙兵した木曽義仲を頼った。

そのころ義仲と頼朝は源氏の棟梁をめぐって、一触即発の危機にあった。とりわけ、頼朝と仲違いした行家が義仲の元へ転がり込んだことが、頼朝の癇に障ったらしい。頼朝軍は信濃善光寺まで十万余騎の大軍をもって乗り込んだが、義仲は上田の城を出て、越後境まで退いて相手にしない。

そればかりか、義仲は頼朝に対して異心はないと使者を送り、その証しとして十一歳の嫡子、清水冠者義高を人質に差し出したことだった。そのとき義高に付き従った者に、海野・望月・諏訪などの兵がいた。

木曽義仲が信濃国に蜂起したとき、真っ先に応じた一人が海野行親(幸親)であったいうのは『平家物語』である。海野幸親とは小太郎幸長すなわち得業信救の父親であった。頼朝の人質として鎌倉へ行った清水冠者義高に従った海野の兵とは、幸長の嫡男小太郎幸氏であったから、海野一族がこぞって義仲軍に投じたことになる。

僧得業信救は義仲軍にあって大夫房覚明と改名、祐筆として仕えた。そのいでたち「濃紺の直垂に黒革威の鎧着て、漆黒の太刀をはき、くろぼろの矢負ひ、塗籠藤の弓脇にはさみ」小硯と懐紙取り出し、義仲の御前にて願書をものする「あっぱれ文武ニ道の達者かな」と自画自賛する『平家物語』である。

実際、覚明は陣中にあって有名な「木曽殿願書」を書いた。義仲が信州で挙兵後、越後から越中へ出て、加賀へ攻め込む倶利伽羅峠の戦いのとき、勝ったら所領を寄進するからと、白山へ願書を出した。

しかし、義仲は都へ上って頼朝よりも先に征夷大将軍に成ったものの、義経軍に攻めたてられ、薄氷の張った泥田の中で、額を射抜かれて斃れてしまった。そのとき祐筆大夫房覚明も戦死したと思いきや、諸国を流浪の果て、密かに坂東へ潜入、名も信救に戻し、ちゃっかり箱根権現社におさまっていたことだった。


箱根権現社の成り立ちは複雑である。その『箱根山縁起』を別当行実が述作、僧得業信救が誌した。縁起の末尾には二人の名と建久二年七月の日付がある。

縁起は非常に荒唐無稽な仙人の話だから、その全体まで信用されない向きもあるが、仙人が出てくること自体、仏教以前の姿を映していると見なすことができる。

箱根連山の主峰といえば駒ケ岳で、ここに聖占仙人が駒形神仙宮をつくったのが最初という。次いで、神功三韓征伐の後、武内宿禰が異朝の大神を勧請して天下泰平ならんことを祈願すべしと奉上して、百済明神を日向国へ、新羅明神を近江国へ、高麗大神和光を相模国大磯の高麗山に奉斎した。そして高麗山と箱根山は異名同跡であるという。

高麗(こま)と駒形に掛けていることは明白だが、要は箱根権現社は大磯の高麗神社から勧請された同神であるという。さらに、近江国の新羅明神とは三井寺 (園城寺)の旧新羅善神堂こと新羅神社に他ならず、この縁起を作った別当行実と僧得業信救は、箱根を舞台に鎌倉殿頼朝と隠微な抗争を展開した結果なのか、その前哨戦なのか、と見ると興味深いものになる。

因みに、頼朝の流人時代から従っていた加藤次景廉の兄弟ともいわれる伊豆の走湯権現社、現在の伊豆山神社の文陽房覚淵に頼朝は師事し、伊東祐親の娘に手をつけて追われた時、北条政子が山木兼隆との婚礼を放棄した時など、いづれもここへ逃げ込んだ。

そんな関係から鶴岡八幡宮の当初の別当は、走湯権現社の専光房が務め、後に頼朝の曾祖父義家の外孫にあたる円暁を近江国の園城寺(三井寺)から呼ばれ、以後代々同寺から鶴岡の別当になった。園城寺新羅善神堂前で元服したのが義家の同母弟新羅三郎という因縁もあった。そればかりでなく、走湯権現社の縁起もまた、箱根権現社と同様、大磯の高麗神社から勧請されたと独自に主張しているのである。


それはともかく、箱根権現社の別当行実は為義・義朝と源氏累代の親派ではあったが、何故か頼朝には冷たい仕打ちをしている。頼朝が挙兵して石橋山の敗戦後、追っ手を受けなから、命からがら箱根山へ逃げ込んで来ると、行実は弟が敵に味方しているから、ここに居ては危険だと称して、頼朝を体よく追っ払ってしまったのである。

信救はそんな行実の元にいて、箱根権現社の名僧に化け、大旦那である鎌倉殿頼朝夫妻のために、縁者供養などの導師を神妙に務めていたものだ。

それより前の事だが、木曽義仲が越前で敗死してから数ヶ月後、頼朝の人質になっていた義仲の嫡男、清水冠者義高は鎌倉から脱出した。そのとき義高の身代わりとなって、双六に興じる振りをして周囲を誤魔化したのは、同じ歳で義高に従って来た海野小太郎幸氏、つまり信救の嫡男であった。

この主人思いの若者、その後、頼朝の近侍に加えられて本領安堵され、後に曽我兄弟が巻狩の場へ討ち入った際、兄弟十番斬りの八番目に渡り合い、膝を割られたと『曽我物語』にある。幼い五郎を出家させるべく預けられたのも、仇討ちに先立って祈願したのが、僧得業信救の居た箱根権現社で、神仏分離後の現在の箱根神社に曽我神社も祭られている。

そして、兄十郎の想い女は大磯の虎といい、兄弟が討ち死にした後、箱根権現社へ詣でて兄弟を供養し、出家を遂げた。その後、諸国行脚して晩年は大磯へ戻って、高麗寺の山奥に庵を結んだといわれる。『曽我物語』は箱根・駒ケ岳で創られたとされるが、ここにも僧得業信救が関わっていたのではないかと、あらぬ妄想も湧いてこようというものだ。

義高脱出には、幼妻の大姫はじめ女房たちが共謀して、女装した義高を取り囲んで連れ出し、他所に蹄を綿で包んで隠した馬で郭内から逃したと、『清水物語』を踏まえた『吾妻鏡』は記している。

こんな大胆な脱出計画と実行を、女房たちや若侍たちだけで為しえたのか、という疑問は、もしかして箱根権現社の信救が手引きしたのではないかと思わざるを得ない。何しろ相手は頼朝の手にかかって滅ぼされた、木曽殿の若殿である。かつて清盛入道でさえ敵に回した信救のこと、そのくらい大胆な事は考えかねないであろう。

だが、清水冠者義高が入間河原で討ち果たされたと、幼妻の大姫に伝えられたのは、脱走から六日後であった。しかし、不思議なことに、義高を討って功績があったはずの堀藤次親家の郎従は、それから二ヶ月後に梟首されているのだ。義高が殺されたというのは、嘆き悲しんで食って掛かる大姫に手こずり、頼朝をして「哀れ持つまじき者は、女子なり」と嘆息さけたそれを、納得させる為だったのではないか。そして、義高はまんまと逃げおおせたのかもしれない。

妻政子の妹の追善供養の帰途、頼朝は落馬して半月後に没した。しかし、その前後三年間の記録は『吾妻鏡』から脱落している。それ故、木曽殿の残党達が清水冠者義高を旗印に頼朝に復習したのではないなどと、誰がいえようか。

もっともその頃、僧得業信救は元木曽殿祐筆大夫房覚明と幕府に見破られて、さっさと京都へ舞い戻っていた。


僧得業信救が京都に舞い戻って現われた先は、兼好が「慈鎮和尚、一藝ある者をば、下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり」と書いた様に、比叡山天台座主慈円の元であった。そこで今度は法然の弟子となって円通院浄寛と号した。

叡山の教学から出た法然のそれは、難しいことは抜きにして、ただ念仏を称えれば極楽往生できると説いた専修念仏であった。弟子に公家や御所の女官も有り、鎌倉御家人も多く出入りしたものだから、幕府は頼朝の妻政子を通じて、専修念仏の何たるか、法然に問いただしたほどだった。そして法然弾圧がはじまり、結局、法然は朝廷から讃岐へ、弟子の親鸞などは越後国府へ配流された。

そのとき浄寛はどうしていたのか。実は、数多ある法然や親鸞の消息や研究には、浄寛の名は出てこないのである。例えば、親鸞生存中の弟子の名簿とされる『親鸞聖人門侶交名牒』に乗る四十八人の中には、信濃国の弟子は皆無である。無論、小太郎七変化のどの名も無い。ただ、在所不明が一人、西願という名があるのみである。

浄寛は親鸞の弟子となって、坂東各地へ布教の後、故郷の信濃国海野庄へ戻り、今度は西仏坊を名乗り一庵を建立したというのは、この一庵の後身と伝えるところの康楽寺関係の文書である。西仏房は、親鸞の事跡をつぶさに記録し、子の浄賀に譲ったとされ、本願寺から覚如が訪れた時、画才にとんだ浄賀は、西仏房の残した記録をもとに親鸞の一生を絵で表すことを願い出たという。

この康楽寺が世に知られるのは、親鸞の曾孫で本願寺第三世覚如が塩崎に移った康楽寺の画僧浄賀に描かせた、親鸞の生涯をつづる『親鸞伝絵』によってであった。伝絵上巻の第八段に「御弟子入西房・聖人、親鸞の、真影をうつしたてまつらんと、おもおこころざしあって云々」と、確かに西房の名も出てくる。また別に『康楽寺略縁起』なるものがあって、開基は「木曽大夫坊覚明円通院浄寛西仏坊」などと仰々しくも長ったらしい名をつらねた、実は木曽大夫坊覚明・円通院浄寛・西仏坊」をつなげただけのものだが、上に述べてきたものの概略が伝えられている。

縁起はともかく、問題は『親鸞伝絵』が成った経緯というよりも、その背景である。伝絵の文章を書いた本願寺三世覚如の頃、所謂「本願寺教団」なるものは無きに等しかったのである。本願寺教団が世に知られ、一世を風靡するには、本願寺八世蓮如の出現を待たなければならない。親鸞の正しき血統に連なる覚如の一家といえども、当時は親鸞の遺骨を祀る大谷廟堂の留守職、有態にいえば墓守でしかなかった。しかも、廟堂の持ち主たるや、親鸞から面授によって直弟子と認められて、正しき血脈を伝える関東門人たちである。

そんな中で本願寺創建をめぐる骨肉の争いと、関東門人から親鸞正統を奪い返すべく企図されたものが、皇室や摂関家との関係、親鸞の神秘的な伝説で、祖父の生涯を聖人に飾り立てた伝記、それが『親鸞伝絵』であった。

最早それは西仏房の関わり知らぬことであった。波乱万丈、流転の長い生涯、如何なる権威にも屈しなかった海野小太郎の名においてこそ記憶されるべきなのだ。 (海野小太郎七変化/終)


付記  本論はHP「一向一揆戦線」開設に先立って掲示板に連載したものの再録です。

 平家蟹さんの指摘を確認するためには、この文章と花田清輝氏の「小説平家」の中の海野小太郎幸長について書かれた文章との一致度を判別せねばならない。残念ながら、「花田清輝氏の「小説平家」の中の海野小太郎幸長について書かれた文章」が分からない。いずれ分かる日があろうから、ここに記帳しておく。

 今グーグル検索「海野小太郎幸長」で次の箇所が出てきた。これを転載しておく。
 花田清輝/昭和42・5

 さてもさてもこの世のかわりの継ぎ目に生れあいて、世の中の眼前にかわりぬる事をかくけざけざと見侍る事こそ、世にあわれにもあさましくおぼゆれ。
――『愚管抄』――

 第一章 冠者伝
 一

 かねがね、わたしは海野小太郎幸長の伝記をかいてみたいとおもっていた。ことわっておくが、「幸長」であって、「行長」ではない。信濃の国海野白取の庄に住んでいた海野一族の先祖は幸明といった。信濃守と号していた幸明四世のかれの父親が、幸親といい、かれの息子が幸氏と名のっていたことをおもうと、かれが「行長」ではなく「幸長」だったことはあきらかである。家々の系図は、元来、口から耳へ語りつたえられてきた。したがって、いちがいに、「幸長」が正しく、「行長」がまちがっているとはいえないと考えるようなひともあるかもしれない。なるほど、それは、一見、どちらでもいいようにみえる。当時の武士たちが、弓矢とる身は名こそ惜しけれと信じていたからといって、べつだん、わたしまでが、かれらにつきあって、辺境のちっぽけな領主の名にこだわることはないといえばいえよう。しかし、わたしには、ひとりの半可通が、「幸長」を「行長」とかきあやまったところから、まぎれもない傑作である波瀾万丈の物語が、作者不明のまま、後世にのこされるにいたったのが残念でたまらないのだ。それは、作者にとっては、むしろ、望むところだったでもあろう。かれが、かれのかいた物語に、大して重きをおいていなかったことだけはたしかである。そのころは、いまとちがって――いや、いまでもそんな傾向がまったく地をはらってしまったとはいえないかもしれないが、物語をかくといったような行為は罪悪であるとおもわれていた。
(続きは書店または図書館にて...)
 「4代目高知BBS : 生活情報交換」の「【情報】質問すれば誰かが答えるスレ part2 【共有】」の次のような一文。
258: 名前:bleacherism投稿日:2005/09/04(日) 11:52
>257
簡単に言うと、内容としてこれは、花田の「小説平家」の海野小太郎幸長について書かれた部分を、まとめただけのものであって、記述や言い回しもそっくり、使われている部分もある。本人に知らせれば、すぐに削除すると思うが、世の中の怖さを教えるためには、そうしないで、段々、知れ渡っていく方が良いと思うのだが。ちなみに、読んで比較したい人のためには、花田清輝全集は、県立図書館の書庫にあることを知らせておく。

 2007.9.26日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)