宮顕派と志田派の通底考

 志田派の研究は案外と重要である。志田派とは、徳球系伊藤律派に対抗する形で登壇し急速に形成された派閥であり、「50年分裂」時の武装闘争を最も精力的に担った武闘派である。

 この志田派について、れんだいこには何やら胡散臭い面が付き纏っているのが見える。どういうことかというと、伊藤律派は宮顕派と天敵の如く死闘したが、より急進主義的な登場の仕方をした志田派は宮顕派と通底していた気配があるということである。それは1955年の六全協以前の話であるから、実にケッタイなことになる。以下、これを検証していくことにする。
 「宮地氏の日本共産党問題、社会主義問題を考える」は、2003.3月頃「藤井冠次氏証言・北京機関と自由日本放送」サイトを立ち上げた。その補足として、増山太助氏の「藤井冠次−同志と加害者」も付け加えている。どちらも極めて重要な示唆と証言をしているので抜書きと要約をしてみたい。

 藤井冠次(かんじ)とは、1915年生まれ、東京・御徒町の小間物問屋の息子で、旧制浦和高校を経て東大文学部国文科を卒業してNHKに入社したが、すぐ入隊。敗戦後復員して報道部に所属し、現地取材の第一線で活躍していた。1946年放送ストに参加。敗北後、再建放送単一労組書記長となり日共入党。1950年レッドパージで失業。その後党の要請により日共非合法活動に従事。北京機関で働き、「自由日本放送」のデスク兼プロデューサーとして活躍した。

 藤井氏は北京機関での「自由日本放送」の様子を後世に伝えており、「伊藤律と北京・徳田機関」(三一書房、1980年、絶版)を発行している。ここに氏の史的価値がある。
特に、伊藤律の排斥過程を不十分ながら証言している点で貴重である。藤井氏は、この「北京機関内における重大な政変」過程を反伊藤律派として立ち回り、野坂の指示により「伊藤律粛清報告」を国内の持ち帰る任を受け、志田派に報告したという重大な役割を引き受けた当の人物であった。つまり、余人を持って変え難い役割を果たしていることになる。

 伊藤律は党内失脚したばかりでなく、第8回党大会で概要「伊藤は、文化大革命の初期、北京の刑務所で孤独と病気のため獄死した、と確信めいた発表をされている」。ところが、「獄中苦節25年余より奇跡の生還」を遂げて伊藤律は突如1980.9月に帰国してくる。藤井は己の所業を恥じ、伊藤律に詫びる。伊藤律は「当時の情況において、藤井もまた路線闘争に巻き込まれた被害者である」として許す。この遣り取りの後、藤井は倒れている。
 
 もう一つ、、「伊藤律と北京・徳田機関」は、「志田派と宮顕派の通謀関係」を微かに証言している点で、稀有な情報となっている。「50年分裂時の武装闘争時代」において、「主流派・志田派と徹底抗戦分派・宮顕派の通謀関係」は史実から完璧に抹消されている下りであり、本書が不十分ながらそれを証言している点で白眉なものがある。

 そういう一部始終の経過を、
宮地氏はこの本の一部を写本しサイトアップしてくれた。以下、れんだいこがこの読解に取り組んでみる。


【藤井冠次証言「北京機関と自由日本放送」の重大な指摘(一)、「北京機関と自由日本放送」】
 まず、藤井氏の党内的立場を位置付けておきたい。れんだいこの見るところ、当人がどれほど正確に意識していたのかどうか別にして、徳球系内志田派の渓流にあり、この立場からその後の党内的遊泳を図った人物であるという認識が必要である。このことを当人が次のように示唆している。「私は昭和二十六(一九五二)年十二月下旬、内地の残留主流派が指導部・志田重男(以下敬称略)の組織部から、党が近く〈人民の放送〉を出すのでその任務(編集長)についてほしいとの指名要請をうけた」。つまり、北京に赴くのは大変ではあったが、「志田の組織部」から引き立てられ派遣されたということを証言していることになる。藤井氏のこの立場がその後も投影していくことを見ないわけにはいかない。

 さて、藤井氏が北京機関に赴いたときに既に、「徳田球一(中国名孫・そん)、野坂参三(丁)、伊藤律(顧・くう)、西沢隆二(林・りん)、土橋一吉(周・しゅう)ら主流派の幹部と、内地から彼らと前後して随行した日共党員、その他中国の東北(トンペイ・旧満洲)出身で機関の要請をうけて参加した日本人同志合せて十余人の人々がいた」と証言している。そして、伊藤律が「事実彼は徳田の承認をうけて、前房(幹部)と後房(平党員)の細胞全員を掌握し、機関の渉外事務から工作・人事のすべてを管理して、実務的に切り通していたのである。さながら前線司令部の参謀か部隊副官のごとくにである。私はその事実に二度おどろかされた」とも証言している。

 この証言は、藤井氏が志田派の立場に立ってその観点から「徳球―伊藤律ライン」を反目視していることが判明する。「後にわかったことであるが、――(つまり、その時点では私にもわからなかった背後事情であり、非合法組織特有の秘密に属するため当事者にしかわからない虚相の一つ。以後、私は必要に応じて、この種の虚相にも言及するつもりである)内地の状況などを綜合して考えて見ると、彼は(徳田に呼ばれて北京に来た)とは言明しているが、実は内地の残留主流派(志田指導部)から、徳田の律召還を奇貨として追放(海外隔離)同然に無理矢理渡航させられた形跡が濃厚である」と穿った見方を披瀝しているのが、これを証左している。

 藤井氏が伊藤律派と志田派の抗争に関してどのように認識していたかについて、次の一文が参考になる。「しかし、当時の国内では、志田指導部は律を解任しても、地下の非合法組織では律の監視もままにならないため、要注意者として律を持て余した恰好となっていたから、放送問題と徳田要請を渡りに舟として、律に渡航の因果を含めたことは、「書記長に呼ばれて来た」という律の言明からも推測される。同時に、志田は土橋あるいは便に托して、律のスパイ容疑による失脚(五全協での政治局解任)を徳田に報告し、内地での書記長代理を自認していた志田自身の立場から、徳田に律の身柄を一任するか、律の査問と自己批判を要請したであろう。律が志田指導部から忌避され、律もまた彼を出し抜いた志田に反撥して対抗意識を強めていたことは、北京での「書記局」の存在と彼自身の「書記長代理」の権威を誇示した言動からも、この時私に直感されたのである」、「この律と徳田との中枢の二人の関係と、内地の志田と対立する律との横の関係が暗黙に交錯して、律を事実上の執権とする機関の工作に複雑な影響を及ぼし、彼が専制的に振舞えば振舞うほど、機関内部に分裂主義の傾向を強めていったのである」。つまり、かなり正確に認識していたということが分かる。

 藤井氏が伊藤律をどのように認識していたのかが次の一文で分かる。「律は志田指導部からスパイ容疑によって忌避され、要注意者として送られて来たのである。私ははじめ、律に随行した土橋の存在を不審に思い、目付役として護送の任に当ったのではないかと思っていたが、私が内地に還ってから数年後、その心証を確認するような次の事実を、偶然の機会に知った」、「もしこの事実に誤りがないとしたら、岡田が志田の意志の通りに、律のスパイ容疑・分裂当時の〈分派狩り〉の責任追及・政治局解任と国外追放の処置・さらに徳田による査問と律自身の厳正な自己批判の必要などを徳田に要請したことは疑いを容れない。したがって、問題は、もし徳田が岡田から律についてそのような報告をうけていたのなら、なぜ敢て律を重用したか、徳田自身の主観のあり方に疑問が移るのである。そして、それこそが、この機関の運命を決定したのである」。つまり、志田派の観点から、伊藤律の胡散臭さを見続けとしており、更に徳球自身をも疑惑している姿勢が見て取れる。

 藤井氏は、伊藤律を挑発者とも見なしていたことが次の一文で判明する。「律のような挑発者が党破壊に乗ずる隙は充分にあったので、律はただそれを早めたにすぎないと見ることもできた。徳田機関も自由日本放送も、その例外ではなかった」。

 藤井氏は、「自由日本放送」に気負いこむ徳球の意図に比して、その効果がさほどでなかった様を次のように証言している。「その当時、私などには、徳田は何よりも、絶対的権威をもつスターリン綱領を手中にし全党に明示したことによって、分裂した内地の党が速やかに統一を回復し団結をとり戻すことを彼自身は主観的に確信しているように見えた、それだけではなく、党が分裂前のもとの状態に戻ればすぐ新綱領の全面的実践に移ることを予期してその指導手段にこの放送を用意していた気負いさえ彼の言動から直観させられたのである。それだからこそ、徳田はしきりに内地からの反応を求めたのだが、肝腎の内地の志田指導部は笛を吹けど踊らず、というより分派との統一促進に寧日なく、また自由日本放送の普及に組織を動員する余裕さえもたなかった。第一、非合法の放送を公然と普及することなど組織上できない相談だった。それよりも、内地では降って湧いたような人民広場の血のメーデー事件の対応に大童(わらわ)だったのである」。

 「徳田が、北京と内地との矛盾に気づいて中波増強を決意したのは、日共三十周年記念日の後であった。当夜、彼が五月以来心血を注いで執筆した統一のための論文「日本共産党三十周年に際して」を放送したが、内地から何の反響もなく、それ以前から何を放送しても梨の礫で、虚空に消えてゆく放送というもの、それにたいして音なしの構えをつづけている志田指導部の沈黙にも不安を感じた。後に私が内地に帰ってからわかったことだが、その頃内地では潜行幹部にたいする当局の追及がきびしく、自衛警戒が厳重になる一方、破防法反対闘争の高まりがあり、志田指導部は、国内指導に追われて、放送対策どころではなかったのである。日共主流派は、内地での党の統一を回復するよりも、主流派幹部自体が内地と外地とに分裂し、それぞれの活動を充実しあうため二正面作戦で奔命に疲れている感があった」。

 藤井氏は、「自由日本放送」に吹き込む内容について、伊藤律と野坂・藤井連合が対立していた様子を次のように伝えている。「内地の状況からいっても、〈人民広場奪還のデモ〉がそんなに簡単に計画できるとは思えなかった。その時、律の書直したニュース原稿の放送が問題となり、野坂の提案で、事件の評価をめぐって徳田の御前会議となり、両者の意見が対立したが、結局徳田が日共三十周年記念論文に〈革命運動発展の過程〉としてとらえることで落着し、律の意見が通った。が、その後、破防法反対闘争と火焔ビンを結びつける律にたいして、私がその便宜主義に反対し、またもや対立したのである。しかし、彼らはあくまで上級者であり、結局彼らに同調せざるを得なかった私自身の中にも、組織本位の主観主義の誤りがあったことを自分で反省している」。

 藤井氏は、「自由日本放送」の主導権が西沢へ移っていった様子を次のように伝えている。「
やがて秋口から中波増強の工作に入り、増員の人選に入った頃、文芸番組の必要が痛感され、西沢が文芸(娯楽)の指導に乗り出すことになった。十一月頃であったろう。 この時のある日、徳田が外出先から発作を起して担ぎこまれるという例の故宮事件が起り、間もなく全員五十余名にふくれ上った機関は、城外西地区に新築された洋館に移転することになった。一九五二年十二月のことである。以後、自由日本放は律の手から西沢隆二の指導権に移り、中波番組製作のため文芸工作に重点を志向するようになる」。

 藤井氏は、「自由日本放送」の主導権を廻る西沢後の動きを次のように証言している。「これより先、自由日本放送の責任者は、西沢隆二が六全協準備のため多忙となってから、聴濤克巳が第三次責任者になり、昭和二十九(一九五四)年九月頃から、袴田里見が主管する第四次の時代に入った(袴田「私の戦後史」)」。

 藤井氏は、「自由日本放送」の解体について次のように証言している。「自由日本放送は、越えて六全協の年、昭和三十(一九五五)年十二月三十一日、内地の非合法部隊の解散の後を追って終焉し、電波をぷっつり絶った。放送開始から、三年八カ月の生命であった
」。



【藤井冠次証言「北京機関と自由日本放送」の重大な指摘(二)、「伊藤律追放の証言」】

 増山太助『藤井冠次−同志と加害者』で補足する。次のように明らかにされている。「五三年に徳田書記長の病状が悪化、再起不能とみた野坂参三、西沢隆二、安斎庫治らは伊藤律を『スパイ容疑』で中国の監獄に閉じ込め、西沢は藤井に命じて『伊藤律の〈除名追放処分〉』の文案を『内地の志田重男に伝え』」させた」。この役目を引き受けたのが藤井氏である。

 藤井氏は、西沢からの要請で、一旦帰国し志田の下へ行くよう指示されている。このことを次のように記している。「それは私が上海で西沢から要請されて、志田に協力を得るよう委託された次のような任務である」。

 藤井氏は、その際徳球が病床にあることを西沢に報告している。このことを次のように記している。「そういう彼らから見れば、徳田書記長たちが、党綱領を決定した上で自前の放送を出した功績は認めるが、内地の困難な状況と自分たちを置き去りにして、その現実の状況もよくわからないで、海外から大声叱咤(しった)しているような印象をうけるらしかった。そのドン・キホーテがすでに病床にあることを(志田以外の)誰も知らない。ただ内地における彼らのたたかいの現実感や、深まってゆく精神的疲労度に対照して、徳田機関の存在そのものがすでに親近感を失って迂遠なものとなっており、徳田自身が考えたようには、権威も信頼も保たれていなかったのである」。

 藤井氏は、伊藤律査問報告の件で内地に帰り、早速志田の下に出向いている。このことを次のように記している。「私はその年の夏、律の査問報告の件で内地に帰ることになり、徳田も律も不在となったあとの機関の放送工作は、すべて野坂参三と西沢隆二の管理と指導に委ねられることになった。私の方は、内地に帰ってようやく地下の志田に対面し律の一件を報告した時、志田から『これからあなたはどうしますか?』と訊かれて、自由日本放送のことを話した」。



【藤井冠次証言「北京機関と自由日本放送」の重大な指摘(三)、「志田派と宮顕派の通謀関係証言」】
 「徳球生没、伊藤律失脚」後、志田指導部は、紺野与次郎・河田賢治・宮本太郎ら主流派幹部を北京に派遣している。「彼らは北京で野坂・西沢と合流し、モスクワで袴田里見と共に、六全協決議の原案を作成したといわれる」。袴田里見の「私の戦後史」がこれを証言している。

 
志田指導部は、伊藤律の除名決議を契機に、統制委員会の指導による(第二次総点検運動)を地下に展開する。

 
六全協の一年前」の頃から、志田指導部が宮顕系との折衝に入っていたことを証言している。このことを次のように記している。「それから、暫く空白の期間がつづいたと思う。後に考えると、志田指導部が六全協決議の原案と分派との統一に全神経を集中していた時期で、私たちには何もわからなかったが、ただ自分たちの任務と部署とを守って、惰性的に非合法の形態を保っていた期間があった。六全協の一年前だった

 「志田派と宮顕派の折衝」については、西沢隆二の「ぬやま・ひろし同志の遺稿」(「無産階級」第十二号・一九七八・七・一五)証言も引き合いに出してこれを傍証している。
「おれ(西沢隆二)は敵の前で味方の陣営が二つに割れて争っていることは正しくないという主張にもとづいて志田重男と宮本顕治を説得し、政治路線の討議なしに二人を団結させてしまった」。

 藤井氏は、これを「馴れ合いの妥協」、「これは明らかに無原則的な団結である」と評定している。「だから結果としては修正主義者宮本顕治に対して革命派が武装解除して屈服することになってしまった。同時に、山村工作隊に参加し生命を賭して闘った同志たちを切り捨てる結果を生んだ。 これはきわめて重大な誤りである」とコメント付けている。

 ちなみに、れんだいこ評価に拠れば、西沢は徳球の娘婿でありそうしたこともあって信任を得ていたが、戦前の党活動時より宮顕との濃密な関係があり、徳球晩年時には蛇蠍の如く嫌われていた。事実、徳球の信頼する伊藤律追討に動き、志田派、野坂派、宮顕派と通謀し、六全協後の党内出世会談を登っていく。この時期、西沢は「志田・宮本の二人を戦前からの同志として無条件に信頼していた」形跡がある。しかし、その後宮顕の党内地位の磐石化が促進し、それに応じて個別撃破的に春日(庄)系、志賀系が放逐された後、中国派西沢自身も対立し始め結果的に追放されることになる。そういう意味で、西沢の党活動全体にヌエのような党活動をしてきた胡散臭さがある。西沢とはそういう人物である。案外典型的な無能であったのかも知れない。

 その西沢の痛苦な自己批判が紹介されている。西沢が親中派対外盲従分子の名目で除名されてから7年後の1973年に書かれたものである。「つまり、おれは(獄中の)十二年間、大衆闘争からはなれ、理論学習からはなれ、しかし、権力に対する個人的抵抗だけはつづけていた。そのことは、おれを無政府主義的要素をもった共産主義者として鍛えていったといえるだろう。詩集“編笠”はこの期間に作られたものだ。しかし、いちばん必要なことは、こうした無政府主義者が、極く数少い非転向共産党員の一人として生き残ったということである。しかも、宮本顕治の裏切りによって、いまでは、ただ一人の戦前からの非転向共産党員として生き残っているということである。戦後党が再建されるとき、党は、この事実に対する正しい分析と理解を欠いた」(「ぬやま・ひろし同志の遺稿」)。


 話を戻す。 「志田派と宮顕派の無原則的な団結の裏舞台」について次のようにコメントしている。「
したがって、この事実を志田の立場からいうと、志田はスースロフの助言を前提にして、新綱領による錦の御旗を正統性の象徴とすることによって、党を統一し合法性を獲得したことになる。一方、国際派の宮本は、それを承認することによって、事実上は左翼冒険主義の非難を強め、名よりも実をとって、自己の不名誉を挽回し正統性を奪回することになる。異母兄弟がそろって相続権者になったようなものである」。

 「しかし、徳田時代、冷飯を食わされつづけた宮本の方が、一枚役者が上であったかもしれない。幹部間で六全協討議が続行する間中、宮本は事実上の左翼冒険主義を糾弾することによって志田に批判を集中し、志田は孤立無援になった結果、綱領と正統性とを放棄してついに党を離脱し失脚する羽目に陥ったからである」。

 ここまでの証言は買えるが、藤井氏はこの後に続けて次のような凡俗な評論している。
「この軌跡を戦前に辿ると、戦闘的で果敢な正統派の非常時共産党が治安維持法とのたたかいに破れて獄中につながれ、合法的で路線修正を主張する転向派に足をすくわれた昭和八年頃の破局とそこからの脱出を想起される。それは、換言すれば、伊藤律が必死に足掻きつづけた幻想的な路線であった。だから、これを六全協の時点で、一概に回帰現象と呼ぶことはできないが、敗戦の年十月に解放された彼ら非転向の党幹部たちが、戦前に見残した青春と革命運動の、つまり見果てぬ夢の追体験とはいえないだろうか」。

 「立党以来、日本共産党は非合法の存在の自由さえ許されず、たえず負(マイナス)の世界に追いこまれて来たから、彼らをそうさせた政治権力への抵抗は、実存的人間としての個人的存在にしかありえず、それだけに、たとえ非合法でも反体制的存在としての社会的地位を求め執着しつづけたであろう。非運の宿命を担った彼らは、一様に自己の権力への意志を夢見ていた。しかも、彼らに輸入されたイデオロギーは、純粋なマルクス主義ではなく、コミンテルンによるスターリン主義であったから、ここに日本の革命運動における合法と非合法との方法的制覇の争いは、国家権力の様相をおびた修羅のたたかいにならざるを得ず、逆にいえば、彼らは自己の運命を党と一体化することによって真理のために抵抗し、何よりも党の合法的(民主的)地位を求めて、彼らだけの革命運動をつづけたのである。志田も西沢も、宮本も伊藤律もみな、そういう非望に野心を燃やし、とり憑かれた人間であり、戦後の党再建の時、それが不死鳥のように甦らない筈はなかった。各人各様の夢と追体験の願望があり、六全協はその共同幻想にもとづく妥協の産物であった。自己を正しとする権力への意志は、たえず仲間を裁くことによって目的を達する。が、そこでは、目前の共通の利害のために、真理の名において、検察官も同志的な裁判官の馴れ合いに屈した。六全協において、誰一人幹部の峻烈な自己批判がおこなわれなかったのはそのためである」。

 
六全協の行われる年の正月」に出された「党の統一とすべての民主勢力の団結」論文の衝撃を次のように伝えている。概要「
元日の朝、彼がおいていったアカハタをひろげるそこに『党の統一とすべての民主勢力の団結』と題する論文が出ていた。『この際、われわれが過去において犯し、また、現在もなお完全に克服され切っているとは言えない、一切の極左的な冒険主義とは、きっぱり手を切ることを、ここで卒直な自己批判とともに、国民大衆の前に、明らかに公表するものである』。これは、敗戦を告げる天皇の詔勅を聞きながら、まだ敗戦を自覚しえない心理状態とよく似ている。それが私にとっての六全協の前ぶれだった。袴田里見『私の戦後史』によれば、この志田論文が、六全協決議の(モスクワ原案)を下敷きにして書かれたことは明らかである。志田はこの論文で、左翼冒険主義との訣別を宣言して、六全協への脱出路をひらいたわけだが、その規範となった『新綱領』については、是非を言及していない。後に六全協で採択された決議文は、当初の〈モスクワ原案〉に、国際派宮本顕治・主流派志田重男らの幹部が検討を加えて練り直したものといわれているが、その経緯は正確にはわからない」。



【藤井冠次証言「北京機関と自由日本放送」の重大な指摘(四)、六全協の衝撃証言】
 「六全協決議そのものの成立過程」を次のように証言している。概要「二つの証言がある。その一つは、袴田里見の『私の戦後史』証言であり、それによれば、モスクワのブルガーニン別荘で、袴田・西沢・紺野らが原案を作成中、ソ連党中央委員会書記で理論家のスースロフが突然姿を現わし、ただ一言、『五一年綱領(新綱領のこと)は正しかった、という一項を入れてほしい』と要求した」。つまり、後の宮顕派として頭角を現す「袴田・西沢・紺野」が志田派と共に「六全協決議」作成に参画していたことが証言されている。

 「六全協決議」におけるソ共の関与による影響を次のように証言している。「しかも、それ以上の〈原案〉についての議論は何もしない。土壇場で、またしてもソ連の党の干渉である。もともと暴力革命を宣言した〈五一年綱領〉は、スターリンの肝いりで生まれたものだし、中国の党もその成立には大いにかかわりをもっている。それに、日本の党は自主独立路線の立場にはなかった。その結果、決議の冒頭に、次の一節が入ったという。『新しい綱領が採用されてからのちに起ったいろいろのできごとと、党の経験は、綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している』」。

 六全協の衝撃を次のように証言している。「
六全協の当時、無任所の私は本部の書記局事務にいたが、私たち下部組織の者がうけた衝撃は、一様に、それまでのコッペパンを噛って骨身を砕いた活動がすべて虚偽の誤りであったという苛酷な決定にたいする驚愕であり、私たちはわずかに〈決議〉の新綱領の正しさを認めて継承するらしい空文(それがスースロフ助言によるものとは誰も知らない)を信じて、無駄ではなかったと慰め合ったものである」、「私の場合は幸せであったが、この時機関を降りて復員し、あるいは失意のまま脱落した同志たちは何名いたことだろう。西沢遺稿にいう山村工作隊だけが(切り捨てられた)のではなかった。野戦部隊の兵士少くとも数百名が草莽(そうもう)の魂を残して消えた」。


【藤井冠次証言「北京機関と自由日本放送」の重大な指摘(五)、「六全協決議」考】
 藤井氏は、「六全協決議」を自由日本放送が次のように伝えたことを証言している。「六全協の直後の昭和三十(一九五五)年八月十五日夜、自由日本放送が、四カ月後の放送廃止の運命をまだ予期せず、日本の空に向けて放送した、六全協の決議についての〈解説〉の一部分である。この記録は、当時自由日本放送を全文速記収録していた世界ニュース社発行のパンフレット『自由日本放送の解説・第九集・国民の輝かしい前進のために』の一冊が、偶然手許に残されていたため、その中から抜萃したものである。放送文章としては、まだ漢語が多くぎごちないものがあるが、当時の解説調のアナウンスを示すため、あえて原文そのままに採録した

 「去る七月二十九日、日本共産党は党の創立者であり、三十一年間党を指導してきた徳田球一氏の死を発表しました。この知らせは共産党のみでなく、多くの国民にたいして大きな驚きをあたえました。徳田球一氏はわが国の労働者、農民、その他あらゆる民主主義運動のなかで比類のない強力な指導者として働く人民のほとんどすべての人びとから信じられていたのでした。

 私たちの祖国がアメリカ帝国主義の不法な占領と圧制のもとで独立を失ってから十年になります。祖国の独立と民主主義のための米日反動勢力にたいするたたかいが重要な段階にたっているこんにち、私たちにとって徳田球一氏のような偉大な指導者を失ったことは非常に大きな痛手であります。私たちは徳田球一氏の死を心からかなしむものでありますが、しかし同時に私たちは、かれのなき後には、かれがつくりそだてた力強い共産党があることを知っています。党の指導のもとに徳田球一氏の残した事業を完成するためにいっそう奮闘しなければならないという決意が、何十万という人びとの心のなかにかためられたと信じます。

 日本共産党は七月二十七、八、九日の三日間第六回全国協議会を開催した後で、会議で決定された決議文と、つぎの大会で決定される規約草案と、新しい指導部が選出されたことを発表しました。徳田球一氏のなき後に新しく選出された指導部の構成を見ますと、これらのすべての人びとが非常に長い期間にわたって徳田球一氏とともに日本の反動勢力やアメリカ占領軍とのくるしいたたかいのなかでためされた人びとであることを知ることができます。

 一九五〇年から五一年にかけて、日本共産党の指導的な人びとの間には重大な意見の対立がありましたが、こんどの第六回全国協議会ではそれらの問題は完全に解決したことがこの新しい指導部の構成のなかにもはっきりと証明されています。このことは他のいろいろな政党の役員を決定する際によくやられる取引や政略できめられたものとは根本的にちがうものであることはいうまでもありません。日本共産党が、独立と平和と民主主義をかくとくするためのアメリカや日本の反動勢力とのたたかいに、幾百万という国民を団結させるというこの上もない重大な任務をなしとげるために、まず共産党自身が一枚岩のようなかたい統一と団結を築き上げたということは、非常に重大な意義のあることだと思います。

 つぎにこのあいだ開かれた第六回全国協議会が発表した「党活動の総括と当面の任務」という決議文について概略をお話したいと思います。この決議文では、まず共産党が新しい綱領を採用した一九五一年以来、労働者や農民、その他一般国民の生活をまもるたたかいや、平和ようごの運動、軍事基地反対、その他アメリカの不法な圧迫にたいする闘争において党が重要な役割を果してきたことをのべた後、他方それらの運動のなかでうまれてきたいろいろなあやまちや欠点について、きわめて大たんに、しかも卒直に自己批判をしています。

 共産党は朝鮮戦争が起きた後の日本の内外情勢についてあやまった評価をしました。それは米日反動勢力が国内的にも、国際的にも孤立化して非常に弱くなったと判断し、他方共産党やその他の民主勢力のカが非常に強大となって、アメリカ帝国主義者を撤退させて日本の独立をかちとり、日本の反動勢力の支配をうち破り、革命が近い将来に成功しうるというあやまった判断を下したことです。事実が証明しているように、連合しているアメリカと日本の反動勢力の力はまだまだけっして、そのように弱いものではありません。この点について決議文はつぎのようにいっています。

 『民族解放運動のある程度のたかまりや、労働者のストライキおよび農民闘争の増大という事実から、党は国内に革命情勢が近づいていると評価した。党は日本の反動勢力がまだまだ強く、しかもアメリカ占領者の支持に依存していることを十分考えにいれなかった。同時に、わが国の革命の力がまだまだ弱く、日本の労働者階級と共産党はいままでに革命の闘争の十分な経験をもっていないこと、労働者・農民大衆のなかには、社会民主主義者とブルジョア諸政党の影響が非常に強いが、共産党の立場はまだまだ弱いということを考えにいれなかった。

 その結果、党はそのおもな力と注意をあやまった方向へむけた。党は革命のための力を結集し、労働者階級の多数を思想的にかくとくし、農村における党の影響を決定的に強め、民族解放民主統一戦線をうち立てるという革命の勝利のために第一に必要なことをおろそかにした。』決議文はこのようにいっています。

 第六回全国協議会は、党がこのように内外情勢にたいしてあやまった評価をした結果、共産党員やその周辺の比較的少数の人たちでおこなった極左的、冒険主義的活動がもっとも大きなあやまりであったとみとめています。私たちは共産党が自分のおかしたあやまりをこのように公然と、しかも卒直にみとめたということについて深い感銘をうけるのであります。共産党以外にどんな政党が自分のおかしたあやまりをはっきりとみとめたためしがあるでしょうか。

 日本には共産党以外にいろいろな政党がありますが、そのなかでもとくに自由党や民主党のような日本の国の独立までも外国に売り渡し、きたない取引にうき身をやつしている反動政党は、いろいろな悪事を働いておりながら少しも恥ずるところがありません。共産党が卒直に自分のあやまちを自己批判できるのは、この党だけがあらゆる圧迫されている人民を解放するために、また大衆の利益に奉仕するためにのみ存在する党であるからです。

 第六回全国協議会は、今後の日本共産党の活動がますますひろく深く大衆のなかに入りねばり強い不屈のたたかいをつづけることを強調しています。

 日本共産党には古くから革命というものを安易に考え、せっかちな方法でやられるという思想があったことをみとめ、これは党内にもちこまれた有害な小ブル的な思想であることを指摘しています。しかし党内にこのような有害な小ブルジョア的思想があったにもかかわらず、党が不滅の歩みをつづけて発展してきたのは、党がつねにマルクス・レーニン主義の原則をよりどころにし、平和をまもり、祖国を愛し、人民の解放のためにたたかいつづけてきたからであるといっています。こんどの全国協議会は党内からこのような極左的な有害な思想を排除して本当に大衆のなかに根をおろし、大衆のいろいろな要求をみたすために奮闘し、大衆からとびはなれて先にすすむのではなく、幾百万大衆とともに一歩一歩前達しなければならないことをのべています。

 日本共産党の第六回全国協議会のこのような決議が真実実際におこなわれていくなら、これは日本共産党のためにも、そして全日本のあらゆる民主主義運動の将来にとっても非常にすばらしい結果がもたらされるだろうことを考えないわけにはいきません。それだからこそ、政府や検察庁や警察や一切の反動どもが、日本共産党のこのような決議にしたがっていまだかつてないほどかたい団結をもって前進することを恐れているのです。かれらにとっては、共産党が極左的な、あるいは冒険主義的な活動をしている方がまだ安心なのです。なぜならそれは、それらの活動は何百万という大衆と無関係なものだからであります。どんな困難をも恐れない何十万という共産党員が、一枚岩のような団結をもって幾百万、幾千万の国民の利益のために奉仕し、その大衆の信頼をかちえてゆくなら、民族の独立と、保守反動勢力を打倒するたたかいに国民を団結させることは、かならず可能であることはうたがう余地はありません」

 日本共産党の第六回全国協議会の決議について・第一回(過去四年間の活動の総括に関する部分)解説全文・八月十五日放送。

 ここでは、上述の自由日本放送が伝えた「六全協決議」を批判しないが、宮顕特有の道学者ぶった嫌らしい言い方と右派的投降主義的路線が巧妙にメッセージされていることを指摘しておく。


【藤井冠次証言「北京機関と自由日本放送」の重大な指摘(六)、伊藤律生還後の藤井との遣り取り考】
 増山太助氏の『藤井冠次−同志と加害者』は、次のような秘話を公開している。それによれば、伊藤律の奇跡の生還に最も動揺を示したのが藤井氏であった。彼は、それまでの立場を変え、伊藤律に素直に詫びるという挙に出た。俗に、死んでも死にきれない思いの胸の支えを降ろした訳であるが、藤井氏が見せたせめてもの償いであり誠意であった。それを、伊藤律は「私もあなたも同じ犠牲者」という目線で温かく迎えている。この遣り取りを経て後、藤井氏は脳血栓で倒れ、以来言語障害におかされた。以下、もう少し詳しく見てみる。

 藤井は帰国後『伊藤律と北京徳田機関』を出版し、週刊誌にも登場して数々の証言をおこなっていたが、伊藤の帰国によって事態が一変した。自分が伊藤の〈除名追放処分〉を「内地の志田重男に伝えたのは、私自身が党執行部から命じられたことだから、納得できるも何も、私個人の介入する余地のないことだが、事件の終始に立ち合った証人として、私には律の処分があまりにも過酷であり不当なものに思われ、彼の罪状が私自身に納得できないもの」になった。そして、「もし、党の決定が律にたいして不当なものであるなら、私は結局彼にたいして同志としての信義を裏切り……加害者になるのだ……」と思いつめて深刻な悩みにとらわれ、彼自身も脳血栓で倒れ、言語の構造障害におかされた。

 私が見舞いにいったときにはすでに九分九厘筆談でなければ話が通じない状態で、夫人が雑貨商を営んで家計を支えていた。しかし、それでも藤井は伊藤と五、六回も往復書簡を交換して事実の究明に執念をもやし、著作にまとめあげる努力に専念していたが、伊藤が自分の「手紙はみだりに公開してもらいたくない」という「条件」を付けたので、藤井は「私の理解した範囲」でまとめた文章を文中に挿入し、出版にこぎつけたのが『創作・遠い稲妻−伊藤律事件−』であった。

 そのなかで伊藤は藤井に「君が私(律)にたいして自分を加害者とするのは当っていない。君は党の決定を忠実に履行したのだから、君も私と同じ党の犠牲者である。それなのに、君の告白にたいして現在の党が政治的責任をとらないから、君は政治的半生を棒にふったのだ。君の立場は悲惨である」、「事件の本質は誰彼の故というのではなく、日共創立以来の宿痾(しゅくあ)路線論争から発している。結果的に私は路線論争に破れたわけだが、それにしても、本人の弁明反論を聞かずに、一方的に除名追放を決定し、中共の監獄に長い歳月の間置き去りにした事実は、どう考えればいいのか。人権問題を言うなら、私の人格は未だに恢復されていない。私は中共の監獄で三度死に損(そこな)った」と述べ、藤井は「この内容の手紙を読んで、私は自分の頬から血が引き、現実の地盤が崩れるような衝撃をうけた。殊に……彼が路線論争に破れたことを認めながら、革命家としての信念の再生に意識を集中させているくだりに真情が吐露されているように思われた」と注記している。

 私はガンテツ(丸山鉄雄)さんやNHKの友人たちと田村町近辺の飲み屋で何度か盃を酌交したことがあるが、話が藤井のことや「伊藤律事件」にふれると、みんな涙ぐみ、なかには声をだして泣きだす者もいた。





(私論.私見)