党中央分裂と武装闘争の空転

 戦後革命史の第二期は、「50年初頭のスターリンによる日共批判から始まり、党中央大分裂に至る。朝鮮戦争前夜レッドパージに見舞われ、党は非合法化時代に突入する。『臨中』が後事を託され、徳球、野坂、追って伊藤律ら旧指導部は中共の庇護に入る。地下司令部となった『北京機関』は武装闘争を指導するが空転する。この間内地の党内は次第に志田派が台頭し、伊藤律派を放逐し始める。この志田派は宮顕系と意思疎通しており、55年六全協で合同する。この期間までを戦後革命史の第二期とする。問題は、この第二期を更に仔細に見てどう識別するかである。れんだいこは、次のように整理したい。

第@期 【党中央分裂】  「50年問題の発生」から始まる。これより党は未曾有の内部抗争に突入する。51.6.7日徳球グループが地下に潜り、その名代として椎野悦郎を議長とする「臨時中央指導部」が設置される。このコミンフォルム論文の衝撃から党中央の非公然体制への移行期を経て「四全協」までの期間を【 戦後党史第二期】の 【ミニ第@期】とする。
第A期 【徳球系が武装闘争突入】

 1951(昭和26)年2.23日の第4回全国協議会(「四全協」)で武装闘争路線が採用されてから党は未経験の内乱的死闘路線へと向かう。この道中は、更に武闘化するのか議会闘争を軽視しても良いのか暗中模索となった。徳球書記長の信任の下に伊藤律が主に活躍したが、51.10.16日からの「五全協」で志田派に主導権を奪われる。この期間を【 戦後党史第二期/ミニ第A期=党中央「四全協」後の新方針で極左路線志向とみなすことができる。

第B期 志田派の軍事路線  分裂した党中央の旧執行部であった徳球―伊藤律系は512.23日の「四全協」で武装闘争路線を採用する。この間伊藤律が党を指導したが、51.10.16日からの「五全協」で志田派に主導権を奪われる。以降、党中央は軍事路線に突っ走りことになるが組織された軍事戦にならずことごとく失敗する。やがて53.10.14日徳球書記長が亡命先北京で客死する。後ろ盾を失った伊藤律は失脚させられ、志田派のワンサイド天下になる。この期間を【 戦後党史第二期/ミニ第B期=志田派の軍事路線とみなすことができる。
第C期 志田派が党中央完全掌握  3月突如スターリンの死去発表され、10には徳球書記長も亡命先北京で客死した。こうして一つの時代が終わった。伊藤律が失脚させられ、この後党内は伊藤律派と志田派の後継争いが激化し、志田派が実権を握る。志田派は、更なる武闘路線を目指しつつも成果が上がらず、その反動として党内の整風化に注力し「党内点検運動」に向かう。この経過で志田派と宮顕派の野合が画策され、55.7.28「六全協」で党の再統一が為される。この期間を【ミニ第C期】とみなすことができる。





(私論.私見)