「日本資本主義分析論争」について

 (最新見直し2006.6.20日)

 戦前の日本マルクス主義運動にあって貴重な論争が為されていた。「日本資本主義論争」であるが、論争が馴染まない我が風土の中でかなり積極的に行われ、戦後にも尾を引き、見ようによっては今なお中座しているだけという息の長いものとなっている。何が問われていたのかというと、マルクス主義的革命運動の向うべき方向であり、具体的には「ブルジョア革命か社会主義革命か」という問題であった。

 その背景に明治維新以来の歴史をどう把握するのかという問題が横たわっていた。甚だ奇妙なことであるが、当時の日共党中央及びそのイデオローグ「講座派」の方が直接的社会主義革命時期尚早論を唱え、その前にブルジョア市民革命を経由させるべきであり、その闘いを最優先させるべきだという二段階革命論を主張し、社会主義革命運動に棹差している。

 これに対し、日共党中央からドロップアウトした「労農派」及びそのイデオローグの方が直接社会主義革命を唱え、明治維新以降まがりにもブルジョア市民社会を現出していると見なすことが出来るとして、今後の闘争は社会主義革命運動を目指していくべきだという論で「講座派」を批判した。「労農派」は論をここから急カーブさせ、社会改良運動へと向う。

 奇妙さはそれだけではない。これが実践となると、社会主義革命時期尚早論を唱える
日共党中央及び「講座派」の方が時の支配権力に対し急進主義的に闘い、直接的社会主義論を唱える「労農派」の方が学究的世界に閉じこもるなり時の支配権力に対し妥協的になりお茶を濁した。

 つまり、「日本資本主義論争」の捻じ曲がり現象として、理論と実践が逆向きになっているという分かりにくさがある。この相互にもつれ合いながら相互にあらぬ方向へ運動を指針させるという二重の反革命性が日本左派運動に混乱と停滞をもたらし、同じ時期の中共がこういうヘンチクリンに煩わされず理論と実践を統一させつつ革命闘争に励み、艱難辛苦を乗り越えて遂に建国革命に至ったという好対照を見せている(中共の場合、その後の経済革命で失敗し、今日なお予断を許さないが)。

 れんだいこはそういう認識をしている。以下、「日本資本主義論争」の概要をスケッチしていくことにする。

 2005.1.7日 れんだいこ拝


 「日本資本主義論争」考察の前段階として、当時の「31年テーゼ草案」→「32年テーゼ」の経過問題から解き明かさなければ状況が見えてこない。以下概述する。

 「31年テーゼ草案」は、当時のコミンテルンより発表されたが、後にも先にも党が直接プロレタリア革命を戦略志向させたのはこの時限りとなる、党史上初めての一段階(直接)革命論によるプロレタリア社会主義革命(「直接社会主義革命」)を指針させていた。

 概要「日本資本主義はすでに高度に発達し、帝国主義の段階にあり、その支配権力は、金融資本の覇権の下におけるブルジョア地主の手中にあるが、この政権は迫りつつある深刻な経済的危機、植民地の反抗、ソ連邦の成功、太平洋における諸問題等によって不安と動揺に晒されており、同時に、農村における土地問題の解決に迫られているが、この解決はブルジョアには不可能である」、「当面する革命の性質は、ブルジョア民主主義的任務を広範囲で包容するプロレタリア革命でなければならぬ」と規定していた。実践的には、「資本主義没落説」の生硬なまでの強調とこの観点から来る社会ファシズム論による社民との闘いを重視していた。その限りで相対的に天皇制打倒のスローガンが穏和化されていた。

 ところが、この当時「祖国」ソビエトにおいてスターリンの粛清が吹き荒れ、「31年テーゼ草案」の提案者であったサハロフがトロツキストであるとして追放された。こうした煽りを受けてコミンテルンの方針もジグザグすることになり、「31年テーゼ草案」ほどなくして新テーゼの作成が模索されることになった。クーシネンが主宰し、日本代表として片山潜、野坂参三、山本懸蔵、岡崎定洞、山本正美らの参加の元に討議が進められた。こうして翌32年(昭和7年)5月に「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(いわゆる「32年テーゼ」)が発表された。この「32年テーゼ」が、1951(昭和26年)の「51年綱領」までの日本共産党の指導テーゼとなる。

 「32年テーゼ」は、革命戦略論において先の「31年テーゼ草案」を批判し、再び「27年テーゼ」の線に戻していた。その一方で、天皇制打倒の強調においては生硬な理論付けをしているところに特質があった。帝国主義戦争の性格を分析し、日本の支配体制を「地主」及び「独占ブルジョアジー」そのブロックの上に相対的独自性を持つ「軍部およびこれと密接に関連し、部分的には金融資本から独立した天皇制」の役割を見据え、日本の国家権力を絶対主義の一種としての「絶対主義的天皇制」と規定した。この規定から、「日本においては独占資本の侵略性が絶対主義的な軍事的・封建的帝国主義の軍事的冒険主義によって倍加されている」云々と分析し、「君主制の打倒と地主的土地所有の廃止のための闘争」が優先的課題となるとの指針に導き、当面する日本革命の性質を「ブルジョワ民主主義革命」と規定した。但し、「社会主義革命に強行的に転化する傾向を持つブルジョワ民主主義革命」へと関連付けていた。これを「二段階革命論」と云う。

 明らかに、前年の「31年テーゼ草案」の「直接社会主義革命」と比較してかなり穏和化した戦略・戦術を指針させていたことになる。ただし、この新テーゼは、 他方で「天皇制打倒」を第一の任務として課すという強硬方針を掲げていたことから、運動としては急進主義的な部分をも取り込んでいた。また、「日本における『革命的決戦』が切迫しているという主観主義的な情勢評価」や「『社会ファシズム』論をいっそうはっきり定式化」していた。



 「32年テーゼ」は7月に日本語訳で発表された。その経過は加藤教授の政治と情報――旧ソ連秘密文書の場合の 「7、32年テーゼの情報伝達ルートをめぐって」の稿で詳しく明らかにされている。僅かに早くこれに立て合うかのように1932(昭和7)年5月から33(昭和8)年にかけて、日本資本主義の運動法則や構造分析を解明しようという目的で、野呂栄太郎を主筆とする「日本資本主義発達史講座」(全7巻・岩波書店)が刊行されている。これに拠った執筆者は、野呂栄太郎、平野義太郎、服部之総、羽仁五郎、山田盛太郎、小林良正、内田穣吉らであり、俗に「講座派」と呼ばれている。この『講座』は、「32年テーゼ」見解と符号しており、これを学問的に裏付ける内容となっていた。「党はその普及のため大衆の中での党活動を精力的に発展させる仕事に取り組み、『日本資本主義発達史講座・全7巻』の刊行を始めた」との評価があるごとく、知識人や、青年、学生に大きな影響を与えた。

 他方、これが刊行されるや、雑誌「労農」の理論家、大内兵衛、向坂逸郎、櫛田民蔵、荒畑寒村、有沢広巳、土屋喬雄、岡田宗司らが批判的見解を発表し、大論争となった。この連中を「労農派」と云う。講座派と労農派の論争は、時の日本左翼のトップクラスの頭脳を結集して行われたことに特徴があり、この論争経過は「日本資本主義論争」と呼ばれている。れんだいこはこの時の論戦手法を分析してみたいが、精通していないので出来ない。

 云える事は、日本のマルクス主義運動は地に足が着いた頃のこの当初より、現状分析及び社会変革手法を廻っての対立が発生しており、この両派の対立を越すような理論が生まれぬまま未決着課題として戦後まで持ち越され、戦後左派運動もまたこの呪縛にとらわれたまま経過し続け、はるけき今日まで続いているという理論的貧困の位相にある、ということであろう。

 この時の論争の論点を大別すると、@・日本資本主義の構造的本質の解明、A・農業問題、B・明治維新の性格づけ、C・来るべき革命の性質等々を廻って大きく対立していた。@については、「封建制と資本制の共存的にして後進的な日本資本主義」の特質の分析において、講座派は、概要「一国史的発展論の立場からする特殊日本資本主義の特徴として、『後進性が封建制に根ざしていることを踏まえねばならない』という観点を重視させた」。これに対し労農派は、一様ではないものの概要「日本資本主義の構造的土台は既に資本主義的賃労働に依拠しており、『本来の資本主義社会モデル』から見て『不純な要素』は、今後の資本主義的発展によって取り除かれていく傾向にあるので、封建制の過度の強調は誤りである」あるいは「一見後進的であるのは世界資本主義的発展の辺境であるがゆえであり、封建制によってではない」としていた。

 Aについては、講座派は、日本農業の本質的生産関係を「封建的」とし、労農派は、封建的諸関係を基本的に解決済みとして新しい「前資本的」なものに移行した、としていた。Bについては、講座派は、「極めて不完全なブルジョア民主主義革命であり、君主制の確立へ道を開いた」としていた。これに対し、労農派は、「不完全ながらブルジョア民主主義革命」である、としていた。Cについては、講座派は、「ブルジョア民主主義革命、しかる後に社会主義革命への強行的転化」とする二段階革命戦略を指針させた。労農派は、「直接社会主義革命を目指すべき」とする一段階革命戦略を指針させた。

 両派の論争ないし対立で奇妙なことは、理論的に見れば社会主義革命を指針させる意欲において講座派の方が右派的であり、労農派の方が左派的である。ところが、実際の運動方針となると講座派の方が反政府運動に急進主義的であり、労農派の方が妥協的穏和式になるという風に立場が逆転する。ここに日本左派運動のへんてこりんな特徴が認められる。

 講座派の見解は、コミンテルンの日本の情勢規定に合致しており、当然日本共産党の立場を擁護していた。労農派の見解は、『非』あるいは『反』日本共産党的立場に依拠しており、戦後は社会党に繋がって行く系譜となる。してみれば、日本左翼運動は、生みの頃から「アナ・ボル」論争、「講座派・労農派」論争を巻き起こし、今日にも至るこの表見的な対立が底流的に続いているという構図が判明する。


 興味深いことは、両派の明治維新に対する評価である。江戸時代の日本社会を封建制であると分析することについては異論無いとしても、講座派は、32年テーゼに則り明治維新を絶対主義的な改革と捉え、その後の明治憲法体制を絶対主義的天皇制と規定する。つまり、明治維新は封建制を継承しておりその最終的段階に至った体制であると見なしていた。この分析によって、次にやってくるのはブルジョア革命であり、その次の段階として社会主義革命が想定されるとして二段階革命を戦略指針させた。もっとも、ブルジョア革命から社会主義革命には「強行的に転化する」としていた。

 従って、明治新政府の諸改革に対しても、「五箇条のご誓文」の実施として開明的なものとしてみなすよりも、江戸時代の儒教的道徳を引きずった「五傍の掲示」の方の流れを重視し、ブルジョア的改革が「不徹底のまま温存されている」とみなした。江戸時代の百姓一揆及び明治以降の農民一揆の革命的闘争を評価するが、封建制との戦いの範疇でこれを理解した。

 これに対し、労農派は、明治維新を「まがりなりにも一種のブルジョア革命」と見なし、明治新政府の諸改革に対しても講座派よりは高い評価を与えた。「廃藩置県」、「四民平等」の政策を「前進的」だったと捉え、「明治維新によって、ブルジョアジーが国家権力の主導権を握ることになった。封建制との闘争は過去形態となり、次の課題は社会主義革命である」として一段階革命を戦略指針させた。もっとも、その手法においては穏和主義に依拠するという按配で、理論と実践を乖離させていた。

 こうした錯綜が生み出される背景が不明であるが、このようにして「日本資本主義論争」が続いた。その故にかどうか両派による論争は決着がつかず、戦後の左派運動にもそのまま持ち込まれていくことになった。そういう経過をみせるが、日本左派運動史上当代の頭脳が本格的な学問的論争を繰り広げたこの功績は今も光芒を放っている。

 但し、一般の人にとっては現実分析に役立たない何やら小難しい論争であり、「五十歩百歩」の観があった。その要因を尋ねるのに、マルクス主義の史的唯物論の見地の押し付けで明治維新の皮相的分析に終始しており、その価値を総合的複合的な観点から正当に評価しきれていなかった、ことにあると思われる。れんだいこの明治維新評価は別章に譲るが、主義的理論で現実を測るのでは無く現実を理解するのに理論を援用するという立場から挑もうと思う。講座派・労農派の「日本資本主義論争」は、ある種の理論的教条による互いの観点の披瀝に過ぎなかった、のではなかろうか。

 付言すれば、戦後の日本共産党運動の当初を指導した徳球指導部は「32年テーゼ」の流れに沿う二段階革命戦略・戦術を指針させていた。今日の宮顕・不破指導部もその流れを継承している。では、両者の違いはどこに認められるのか。結論は、徳球系の方が、当面の革命の性質を「社会者義革命に『強行的に転化する』ブルジョア民主主義革命論」見地に立っていたのに対し、宮顕・不破系の方は、「社会者義革命に『漸進的に転化する』ブルジョア民主主義革命論」へと移行させていた、と云う違いにある。その意味で徳球系の方がやや急進系で、宮顕・不破系の方は穏和右派主義とみなされるだろう。

 驚くべきは、宮顕・不破系の戦略・戦術はその後本音が吐露されるに従い、革命の漸進性を果てしなく長期の期間と見なし始め、今日段階においてはたかだか利益の分配を廻っての手直しを要求するという程度の「資本主義体制の枠内での修正主義運動を当面の目標にする」と云い出していることである。こうなるともはや革命論ではなく、言葉尻を借りただけの社民主義運動それも更に俗悪化させたものでしかなかろう。序々に巧妙にマルクス主義的見地が換骨奪胎させられており、左派運動とは縁もゆかりも無いものに転化させられている、ということであろう。恐るべき腐敗というか「白色」異邦人ぶりである。

 2002.5.19日れんだいこ拝



 菱山郁朗氏のサイト「構造改革論の思想的意義と現実的課題」に、「日本資本主義論争」に関する要領よい解説が為されている。以下抜粋し、これから学ぶことにする

(前略)ところで、日本の資本主義構造をいかにとらえるかという問題は、『構造改革論』の導入によって始めて提起された問題ではない。それは、すでに戦前戦後を通じて、日本の左翼陣営の間で、さまざまな「日本資本主義論争」という形で発展してきた。そのことは、日本資本主義構造の分析が、我が国の階級関係の特質についての科学的把握を意味し、社会主義革命への展望を切り開く最も重要な前提となったからである。日本資本主義構造の分析をめぐる論争は、そのまま我が国左翼陣営において、最も重大な「革命論争」をも意味した。そこで、日本における『構造改革論』をこうした論争の観点からとらえるために、戦前戦後を通じて繰り広げられた、そして今もなおくり広げられている、日本資本主義論争について歴史的に分析してみることが必要である。

 一般に「日本資本主義論争」という場合、それは、一九二七年(昭和二年)頃から三七年頃にかけての約十年間に亘って、日本のマルクス主義理論戦線の上で、当面する革命の戦略とそれを規定する諸要因(例えば、国家権力の性質や農業の封建制、日本資本主義の歴史的、構造的特質)をめぐって、大規模に行われた論争を指して言うが、戦後においても、一九四六年(昭和二一年)頃から現在に至るまで、色々な形でひきつがれ、常に古くて新しい重大なテーマとして提起され続けている。

 戦前における論争は、第一期と第二期とに分かれ、第一期は、その重点がとりわけ戦略問題すなわち、当面する革命の性格の問題であったので、一般に「民主革命(又は戦略)論争」と言われている。そして、この論争の展開は専ら『マルクス主義』、『プロレタリア科学』、『労農』、『日本経済研究』などの党機関誌或いは準機関誌を通じて行われた。しかし、その後、戦争と弾圧が激しくなり、革命の戦略問題を公然と論議することが困難となったため、論争は第二段階に入り、その重点は次第に革命戦略の方針を基礎付ける日本資本主義の構造や農業生産関係の特質、さらに幕末=維新史の問題、日本資本主義分析の方法論へと移り、論争も『歴史化学』、『経済評論』、『改造』、『中央公論』などの合法的理論誌、総合雑誌を通じて行われた。

 論争の一方の当事者は、日本共産党ないしその系統の学者、理論家であり、その主張が一九三二年(昭和七年)から翌三三年にかけて岩波書店から刊行された『日本資本主義発達史講座』に網羅されたことから、「講座派」と呼ばれる。他方は、はじめ日本共産党内の分派的存在であったが、後に党から分離して、社会民主主義左派となり、雑誌『労農』を機関誌としていたことから、「労農派」と呼ばれる。「講座派」を構成した主要な論陣は、野呂栄太郎、山田盛太郎、平野義太郎、山田勝次郎、服部之総、小林良正、羽仁五郎らであり、「労農派」は猪俣津南雄、櫛田民蔵、向坂逸郎、大内兵衛、土屋喬雄、岡崎三郎、岡田宗司らであった。

 論争の第一期と言われる「民主革命論争」においては、「講座派」が日本における「封建制」の残存を重視し、日本農業における半封建的地主制の支配とそれを基礎とする絶対主義天皇制の権力支配を認め、ここから当面の革命を「社会主義革命へと急速に転化するブルジョア民主主義革命」(いわゆる「二段階革命論」)を強調したのに対し、「労農派」は「封建制」の残存を軽視し、農業の近代化と天皇制のブルジョア化を認め、ここから革命の性質を「民主主義の任務を伴う社会主義革命」(いわゆる「一段階革命論」)と規定した。この論争は、一九三二年、コミンテルン(注)が「三二テーゼ」として、「二段階革命論」を明確に打ち出したことによって、さらに活発化したが、戦争と弾圧の相次ぐ激化によって、公然たる革命論争はやや下火となり、論争の第二期と言われる「日本資本主義論争」へとひきつがれるに至った。 (注)コミンテルン=共産主義インターナショナル(第三インターナショナル)の略称。第一次大戦の勃発に際し、第二インターが事実上消滅したのを見たレーニンは、《戦争を革命へ》をスローガンに各国共産主義者の国際組織化を指導し、一九一九年、三月モスクワにロシアのボルシェヴィキ党を中心とする三〇カ国の共産党と左派社会民主主義者の代議員を集め、ここにコミンテルンが創設された。

 第二期の日本資本主義論争においては、『日本資本主義発達史講座』が論争の主要な対象となり、日本資本主義の歴史的、構造的特質の問題、小作料と小作制度の規定を含む農業生産関係の特質の問題、土地問題とマニュファクチュア問題を含む幕末=維新史の問題、日本資本主義分析に関する方法論の問題など広範多岐に亘る論争が展開された。その根底には、日本における封建制が日本資本主義の政治、経済構造の全面に亘ってどのような形で横たわっているかの把握、すなわち日本資本主義における「半封建制」の評価がかかっていた。しかし、この論争は、日本軍国主義の嵐の中で、一九三六年夏の"講座派検挙"(いわゆる「コム・アカデミー事件」)、三八年はじめの"労農派検挙"(いわゆる「教授グループ事件」)の二つの弾圧事件を契機に事実上終了せざるを得なくなった。

 こうして、「講座派」と「労農派」との間で活発に展開された日本資本主義論争は、太平洋戦争への突入とファシズムによる弾圧の激化によって、ついに一時的に終止符を打たれることとなった。この論争の意義は、日本資本主義の構造的特質をマルクス主義経済学の立場を通じて歴史的に把握し、そこから革命の方向を規定することによって、日本における社会主義思想の発展に大きく貢献した点にあった。

 しかし、その反面、この論争の前提には、両派による政治方針と労農運動の展開における明確な対立点があり、しかも、論争の後期においては、それが書斎的、経済主義的性格に陥ったため、単なる教条主義、公式主義の応酬による論争のための論争という不毛な方向を辿ったことも事実であった。だからこそ、この論争が、その理論分析においてはきわめて高度な内容をもっていたにもかかわらず、それを社会主義の思想、或いは運動として広範な一般大衆を含む、具体的、実践的運動へと転化することが出来ず、戦争の進行と軍部ファシズムの抬頭を許す結果となったのである。このことは、その後の社会主義思想及び運動の発展にとって、ほとんど致命的なマイナス効果となった。(戦後の論争については、「日本資本主義分析(戦後篇:従属派VS自律派)論争」にて解析する)

 (追加補記)

 永井和氏の「日本現代史序説講義ノート 参考:日本資本主義論争

 元来は、日本の共産主義運動の目標と戦略および組織論をめぐる共産主義者内部(ただし日本共産党系と反日本共産党系)の路線闘争であったが、治安維持法体制下ではそのような論争を公然と行うことが困難だったこともあり、とくに後期には表面的には日本の資本主義の性格規定をめぐる学問的な論争のかたちをとっておこなわれた。

 日本共産党系は野呂栄太郎、平野義太郎、山田盛太郎らによって編集された『日本資本主義発達史講座』(1932‐33)に結集したマルクス経済学者や羽仁五郎、服部之総らの歴史学者が中心となり、一般に講座派と呼ばれた。これに対し、非日本共産党系は、雑誌『労農』に結集したので、労農派とよばれている。山川均、猪俣津南雄、向坂逸郎、、櫛田民蔵、土屋喬雄などがその代表的論客であった。

 講座派は明治維新はブルジョア革命ではなく、封建的土地所有の単なる再編過程にすぎない考えた。その結果、農村には封建的ないし半封建的土地所有や農奴制が寄生地主制として存続し、それらが日本における資本主義の発展を束縛したため、日本の資本主義は先進国のそれに比べて奇形的な発展をとげることになった。したがって日本では、社会主義革命の前に、まずブルジョア民主主義革命を実現することがし課題であり、そのためには絶対主義的天皇制の転覆こそ不可欠であるとした。この立場を鮮明に打ち出したのが、日本共産党のいわゆる「32年テーゼ」である。

 労農派はまったく逆にほぼ次のように主張した。明治維新は一種のブルジョア革命であり、したがってそれ以後は日本でも基本的には土地所有よりも資本の運動に社会の構造が規制されるようになった。日本でも資本の論理により農民の両極分解が進みつつあり、農民は賃金労働者に転化しつつある。寄生地主制は封建制的土地所有ではなく、近代的な地主制であり、ただ日本の資本主義のおかれた時代的条件のために封建的な要素が残存しているにすぎない。資本主義の進展にしたがって、現在残存している封建的諸関係も将来必ず分解され、消滅するであろう、と。



 「戦前の3二年テーゼは、このような世界資本主義の発展段階に規制された後進資本主義たる日本資本主義の歴史的特殊性を、独占資本主義と寄生地主的土地所有との機械的分離らまで一般化してしまったのであった。あまつさえ、山田盛太郎の『日本資本主義分析』のように、寄生地主的土地所有関係に基づく封建的生産関係と資本主義的生産関係との並行的拡大再生産という講座派的図式を成立させ、農業革命を資本制生産の打破と分離した自己完結的な課題として設定してしまったのであった。そして、寄生地主制に物質的基礎をもつ『絶対主義天皇制』の打倒を革命の戦略目標に掲げたのであった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。





(私論.私見)



返信 訃報:内田穣吉さん90歳=元奈良県立短大学長 飯田橋学生 2002/02/13 03:43
 内田穣吉さん90歳(うちだ・じょうきち=元奈良県立短大学長、元富山大教授、元毎日新聞記者)11日、呼吸不全のため死去。葬儀は12日、近親者のみで行った。「内田さんをしのぶ会」は3月16日、奈良市法蓮町757の2の春日野荘。時間は未定。自宅は東京都昭島市つつじが丘3の2の2の306。喪主は長男宗吉(そうきち)さん。

 1912年福井県生まれ。和歌山高等商業卒。大阪毎日新聞(現毎日新聞)経済部記者などを経て富山大教授、奈良県立短大学長、日本学術会議会員などを務めた。専攻は日本資本主義分析で、戦前、マルクス主義経済学の「日本資本主義論争」に講座派の側で参加。著書に「日本資本主義論争」「戦後日本独占資本主義史論」など。

[毎日新聞2月12日] ( 2002-02-12-23:29 )

元共産党系知識人がまた一人逝きました。

返信 Re:いわゆる労農派対講座派論争について れんだいこ 2002/02/13 09:20
 飯田橋学生さん皆さんおはよう。『革命の挫折』を読み進めておりますが良書ですね。これを取りこむとなると3ヶ月ほどはかかりそうです。れんだいこ風な良いのができると思われますが、そんな時間が無いので恨めしく思っております。

 内田穣吉さんについて、れんだいこは知りません。講座派と労農派の日本資本主義分析論争もまとめておきたいテーマですが、なんでもかんでも手を出すのはなぁとか思います。但し、いつも思うのですが、こういう大事な史実に対して、観点の良いガイドブックが無い。それは何も『日本資本主義分析論争』だけでなく、凡そ全項目に云えることのように思います。やたら難しいのはあるようですが、云いまわしと構成だけが難しく中身は頼りないというのが多過ぎるといったら反発受けるかな。

 ところで、れんだいこは、講座派と労農派の論争の場合、講座派の視点は無茶だったと思っております。変な話ですが、本来なら、共産党の立場は労農派的な見解に拠るべきだと考えております。なんかねじれているんですよね。そのねじれは、実践指針になるとさらにねじれます。労農派見解は当面する日本の革命は社会主義革命的性格を有するものであるべきだとする以上急進主義運動に向かうのかと思えば、構造改革路線と言うか穏和系運動に依拠しようとします。他方、講座派の方はかなりステロタイプな規定で現実に役に立たない見解に立ちますが、対権力闘争では非妥協的な立場に依拠しようと致します。一見左翼風に見えますが、理論的には頑迷な公式主義でしかないと思われます。

 その性格が良く現れるのは、幕末志士活動から明治維新の流れに対する見解を廻ってでせう。概ね労農派は積極的に評価し、講座派は過小評価致します。れんだいこ観点に拠れば、近いところで西欧のルネサンス運動、フランス革命、アメリカ独立戦争、ロシア十月革命等々と並ぶ世界史的意義を持つ革命であった評されるべきものと考えております。この点で、両理論にしても『宝の持ち腐れ』的な弱さを示しているように思っております。むしろ、右派系の方が明治維新史をよく研究しているという変なことがまかり通っているように思われます。

 そういうことから、れんだいこは、現代の左派系インテリ自称者を全然信用していないのです。難しく語るのにも訳があるとか思っております。いつもここに戻りますが、宮顕論さえ的確にできない者が何の知性ぞと思ったりしています。はっきり物言う方が分かりやすいのでこう書いておりますが、本当では無いでせうか。

 飯田橋学生さんに送ってもらった雑誌の中に、広松渉の日本共産党批判インタビューがありましたが、元国際派として宮顕の指導を仰いでいた関係から誼が通じており、批判の矛先がにぶるにぶらないの遣り取りが為されておりましたが、新左翼のイデオローグと云えどもこういう按配なようで、これではろくな運動が創出できない、できなかったのにも訳が有ると思ったりしています。ここまで小気味良く書くと各方面からご批判いただけるでせうか。

返信 日本資本主義論争の参考書 飯田橋学生 2002/02/14 01:21
検索してみると、こういうのがあります。

『日本資本主義史論』大石嘉一郎/著 東京大学出版会 ISBN:4-13-020090-9 1999年5月 5,800円
大石嘉一郎は東大の経済史の教授だった人で、おそらく共産党だと思います。同じ出版社から『日本帝国主義史』全3巻もあります。東大の経済史は現在でも共産党の領地です。

『日本資本主義論争の群像』長岡新吉/著 ミネルヴァ書房 ISBN:4-623-01562-9 1984年10月 2,000円
長岡新吉は北海道大学教授退官、北海学園大学教授。この人も共産党か?

『日本資本主義論争史』小島恒久/著 ありえす書房 ISBN:4-900103-45-4 1986年 1,800円
小島恒久は九州大学名誉教授。この人は新社会党の機関紙に登場しており、向坂逸郎との共著『学習「共産党宣言」』(労働大学)もあることから、明らかに社会主義協会系の論客。労農派の立場からの著作と思われる。

『日本資本主義論争の回顧』小林良正/著 白石書店 1978年 価格:1,500円
小林良正は戦前の講座派論客で検挙歴あり。

『天皇制国家の透視 日本資本主義論争 1』青木孝平/編著 社会評論社 ISBN:4-7845-3129-7 1990年4月 2,524円
『世界農業問題の構造化 日本資本主義論争 2』河西勝/編著 社会評論社 ISBN:4-7845-3130-0 1990年4月 価格:2,524円
青木孝平、河西勝はいずれも宇野派論客と思われる。

返信 飯田橋学生 労農派と講座派 2002/02/14 01:38
 講座派の主張が間違っていたことは、戦後改革を見ても明らかだと思いますが、労農派も間違っていました。講座派と労農派はともに、「あるべき資本主義」の姿を想定して、日本資本主義が、封建遺制を克服してそれに向かいつつある(労農派)か、日本は封建制を克服できないので資本主義ではない(講座派)とするかという袋小路に陥っていました。これは一国主義的観点の誤りだと思います。ただし野呂英太郎は最初は、「明治維新は広汎にして徹底せるブルジョア革命であった」と主張していました。その後、コミンテルンの観点に合わせて封建制を強調し始めます。

 資本主義というのは一つの世界体制で、典型的なブルジョア革命がなければ資本主義にならないというのではなく、前資本主義的政治体制を維持したまま上から資本主義が導入されることもあるのです。それが日本の特殊性だったと思います。帝政ロシアにしてもツアー体制を維持したまま上から工業化が行なわれていますし、ドイツにしても封建的な体制が完全に廃止されたのは第一次大戦後でしょう。

 宇野弘蔵は、三段階論の立場から日本資本主義論争を止揚したそうですが、私は勉強してないので分かりません。

返信 Re:日本資本主義論争について。 れんだいこ 2002/02/14 09:30
 飯田橋学生さん皆さんおはよう。まもなく「革命の挫折」を読み終えます。この本ではロシア革命の経過とそれ以降の歩みを概括しております。気づいたことは、レーニン主義とは情況に相応しい戦略戦術を駆使することにより守旧派政権転覆を目指す軍事革命戦争派なんですね。スターリンはこのレーニン指導に「時期尚早論」を唱え『右派』の立場から反対していた。トロッキーはこのレーニン指導に「ソビエト内協調論」を唱え危ぶんでいた。にも関わらず強力なレーニン指導の方が時代を切り開き、「十月革命」へと突き進んだ。この間奔放に党内党外で喧喧諤諤論争が為され、方針がその都度決議されている。当初ボルシェヴィキ内でもレーニン主義が否決されていたが、次第に支持を増して行き、しまいにはうねりとなっていった。

 レーニン死後、この路線を継承する者は無く、スターリン主義的に向かうのかトロツキー主義的に向かうのかが争われ、その結果は衆知のところです。何を云おうとしているのかと言うと、右派的なスターリン主義の時代に入って『二段階革命論』が生まれておりますが、この戦略戦術はあくまでスターリン主義でしかないと云うことが云いたいわけです。この方針がコミンテルンを通じて各国の共産党の金科玉条として押しつけられました。これを受けて、この指針に合うように、我が国では日本共産党ー講座派が歴史を叙述してきた。してみれば、講座派の観点は、いわばスターリン主義的な公式論に添う形で、マルクス主義的観点を機械的に適用したものと云えるのでは無いでせうか。

 もっとも、労農派がこの観点と無縁であったということが、トロッキー主義的であったとか、レーニン主義的であったとかを意味しません。むしろ、知的主義的に講座派観点を叩くということが単に自己目的にされていた面があったのではなかろうか。なぜなら、『左派』的に論を対置し、ロシアで繰り広げられたようにその後の運動を創造していった形跡が乏しいからです。

 してみれば、我が国では大学の講壇世界でのゲバルトであり、いかにも日本的と云えば日本的な知識人の牧歌的の論争であった、とか云えるのではないでせうか。

返信 Re:日本資本主義論争の参考書 帽子屋 2002/02/16 22:55
 困るなあ。きちんと読んでから書いてよ。

> 『日本資本主義史論』大石嘉一郎/著 東京大学出版会 ISBN:4-13-020090-9 1999年5月 5,800円
> 大石嘉一郎は東大の経済史の教授だった人で、おそらく共産党だと思います。同じ出版社から『日本帝国主義史』全3巻もあります。東大の経済史は現在でも共産党の領地です。

 大石嘉一郎は、講座派的視角をひきつぎつつもこれを動態的にあらため、日本資本主義の再把握を行なおうとした経済史家。ちなみにその本は大石の論文集。まあ、中に彼が確か日本資本主義講座復刊のとき書いた論文(?)がのってるから日本資本主義論争の参考書にはなるとおもうけどさ。

> 『日本資本主義論争の群像』長岡新吉/著 ミネルヴァ書房 ISBN:4-623-01562-9 1984年10月 2,000円
> 長岡新吉は北海道大学教授退官、北海学園大学教授。この人も共産党か?

 日本資本主義論争の党派性を批判し、日本資本主義論争の史学史方面を再整理したすんばらしい名著だよ、だまされたとおもって読んでみなさい。おれは今までこれより感動した学術書はおめにかかったことがない。もう山田盛太郎の満州紀行や、猪俣の窮乏の農村のくだりには涙、涙。小林良正のは面白くなかった

返信 Re:日本資本主義論争の参考書 飯田橋学生 2002/02/16 23:22
 帽子屋さんはじめまして。どこかの板で会ったこともあるような気がします。『日本資本主義論争の群像』長岡新吉について教えて下さってありがとうございました。この人の政治的立場は何ですか? 『日本資本主義史論』大石嘉一郎は、古本屋で購入したのですが、まだ読んでません。小山弘健の『日本資本主義論争の現段階』という、50年くらい前の本もただ同然の値で購入しましたがまだ読んでません。

 大石嘉一郎は、共産党員だと思いますが違いますか?東大の経済史は現在でもほぼ共産党の領地ですし。(現在、教授/助教授のうち岡崎哲二教授を除いて土地制度史学会/共産党と思われる。)土地制度史学会の機関誌って、「オイオイ、これのどこが土地制度なんだ?」というような論文で埋め尽くされてますね(笑)東大は、経済史は共産党ですが、理論経済学のマル経は宇野派ですね。(現在の教授は小幡道昭)マル経の教授ポストはついに一人にまで減らされたか、、、

返信 読んでみました 帽子屋 2002/05/19 21:11
 一応意見ですが
@労農派には有沢広巳も入れた方が良いのではないでしょうか?一応記念賞のある有名人です。
A「講座」には労農派も執筆しているのでその辺を少しいれた表現をした方が良いと思います。
B一応32年テーゼは32年7月に日本語訳で発表されたのに対し、講座刊行開始は6月と、執筆期間を考えると「講座」をコミンテルンの司令にもとづくとするのはちと無理です。むろん野呂は知りうる立場にあり、野呂の理論的指導が相当入っているとする見解もありますが。
C講座派的見解と労農派的見解の差異は、手法的差異について言えば、一国史的発展論の立場をとり後進性が封建制に由来すると考える講座派に対し、世界資本主義的発展の辺境であるがゆえといちずける労農派という点にあるといえるでしょう。
 不毛な論争ではあるのですが、未だに素晴らしい学問的論争ともいえるのです。

(この指摘に基づき、記述を一部変更した―れんだいこ)

返信 Re:RE:講座派的見解と労農派的見解の差異 帽子屋 2002/05/20 09:10
> >講座派的見解と労農派的見解の差異は、手法的差異について言えば、一国史的発展論の立場をとり後進性が封建制に由来すると考える講座派に対し、世界資本主義的発展の辺境であるがゆえと といちずける労農派という点にあるといえるでしょう。
>
> そうなのでしょうか?
> 「世界資本主義的発展の辺境であるがゆえ」というのは、むしろ戦後の新左翼とか宇野派とかの見解ではないでしょうか。労農派の見解がそういう見解に接続しやすい親和性はあったでしょうが。
>
> 戦前の労農派の主張は、「本来の資本主義社会」というモデルを設定し、それに日本は遅れているが、「不純な要素」は資本主義発展によって取り除かれていくのだ、という見解だったように思います。向坂がはっきりそういう見解を述べています。
>
> 戦前には、スターリン的な一国発展史観に労農派も講座派もとらわれていたように思います。

 確かにそうですね。宇野派を労農派とべつにみればその通りだと思います。ぼくは戦前の宇野の学説を労農派と捉えているもので。(確か戦前、移入された工業化における農村労働力の農村滞留について書いていたと記憶しています)


 長島伸一続・千曲河畔にて

 第19回 犬と猫、どちらが資本主義的?

 著名な経済学者として知られた宇野弘蔵。1930年代は、日本の学会で「封建論争=日本資本主義論争」が活発に繰り広げられていた時代だった。封建論争とは、日本の資本主義の構造や性格をめぐって、講座派と労農派の間で行われた論争のこと。両派互いに譲らず、論点も多岐にわたったが、きわめて大雑把にいえば、次のようになる。

 封建派とも呼ばれた講座派は、遅れて資本主義化した戦前の日本社会は、封建的ないし半封建的性格をもつと考えた。農業における地主・小作関係をみれば、ヨーロッパの先進資本主義国のような近代性を備えていない、と。

 対する労農派は、確かに遅れている面はあるが、それは後発国に特有なもので、時が経てば解消される封建遺制に過ぎない。だから、日本の資本主義は、近代前期的ないし前資本主義的性格をもつ、というのが労農派の主張であった。

 宇野弘蔵のエッセイは、この論争の渦中で書かれている。それによると、猫は封建的、犬は資本主義的であるという。なぜか。猫をつれて散歩する人はいないが、散歩は資本主義の産物の一つである。また、「或る有名な西洋の学者の説によると犬が喰い余した骨を地中に埋めて置くことから人間は資本の蓄積を学んだということだが、犬は何といっても資本主義的である」。映画で犬が活躍することはあっても、猫はスクリーンになじまない。蓄音機の前に犬を配したビクターの登録商標も、猫に変えては様にならない。

 エッセイの前段は、多少のユーモアを交えながら、大略、以上のような説明が進んでいく。猫好きの読者なら、多分、反論もあるのではないか。――犬はしつけをすれば飼主によく従う。主従関係が徹底していた封建社会にぴったりだが、猫は個人主義的で独立性が高い。猫を飼うのも、そういう近代的な面が魅力だからだ、と。

 しかし、このエッセイのおもしろさは、予想される反論とは無関係に、日本資本主義論争に関わった講座派と労農派の重鎮たちを、猫派と犬派に分けて、両者が見事に対応していることを「発見」している点にある。講座派の堺利彦は猫好きだった。労農派の山川均、荒畑寒村、向坂逸郎は大の犬好きである。「先年来の封建論争で最初はかなり山田(盛太郎)君に感心して居られた大内兵衛氏はその時分までは猫を飼っておられたようだ。その後間もなく労農派の重鎮として奮闘せられるようになったが、それはセッパードの立派なのを飼われてからのことだ。……ことによると山田盛太郎君なども最近まで猫を飼っていたのかも知れない」。

 最後はかなり強引な推量である。講座派の重鎮山田は、猫好きのはずだ、と。それにしても、大論争の当事者たちを猫好き・犬好きの二派に分け、論争の立場と平仄があっているとまで主張しているのが、馬鹿馬鹿しくもおもしろい。

 ところで、封建論争に宇野自身は関わらなかった。つまり、講座派にも労農派にも与しなかった。日本資本主義の現状分析は、『資本論』を直接の基準にして行うことができる――それが両派に共通の認識であったが、宇野はその点に方法論的な無理を感じとったからである。のちに、その考えが三段論法に結実するが、この随筆でも既に、両派と一線を画した宇野の本領が現れている。エッセイは「僕の処には犬も猫もいる」というオチで閉じられているからである。オチとしては「僕の処には犬も猫もいない」という方がよさそうであるが、座り心地を多少の犠牲にしても事実をとったところに、宇野の性格が垣間見えるような気がする。

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