日本資本主義分析(戦後篇:従属派VS自立派)論争

 「戦前の日本資本主義革命戦略論争」で見せた講座派と労農派の理論と実践両面における相互のチグハグぶりと同じ現象が、「戦後日本従属対自律論争」にも現われている。この国の自称マルキストはなぜこうも性懲りも無く痴態にうつつを抜かすのだろう。

 戦後の日共党中央は、50年時の徳球系もその後の宮顕系も共に「戦後日本の対米従属性」に注目し、戦前の講座派同様に直接的社会主義革命時期尚早論を唱え、その前に民族独立革命、続くブルジョア市民革命を経由させるべきであり、その闘いを最優先させるべきだという二段階革命論を主張するところとなった。れんだいこには、共産党という党名を持ちながらいろいろ理屈を付けて社会主義革命に向おうとしないのは何故なのか、解せない。

 これに対し、戦前の「労農派」の流れを汲む社会党左派は、「戦後国家の相対的自律性」に注目し、戦前の労農派同様に明治維新以降まがりにもブルジョア市民社会を現出しており、戦後更にそれが促進されたと見なすことが出来るとして直接社会主義革命を唱えるところとなった。ここまでは良いのだがこれから先が、これまた戦前の労農派同様に捻じ曲がる。今後の闘争は社会改良も含め漸次式に社会主義革命運動を目指していくべきだという穏和論になり、その論法で「日共理論」を批判していくことになる。


 これが実践となると双方とも更にひどくなる。宮顕系日共党中央は、社会主義革命時期尚早論を唱え、ここが戦前の講座派運動と異なるところだが、支配権力に対し穏和主義的に闘うべし論を吹聴し始める。社会党左派の方も、直接的社会主義論を唱えているのにその実践は反対に支配権力に対し妥協的且つ改良運動でお茶を濁していくことになる。奇妙なことに双方合わせて何とかして社会主義革命に向かわせない競争をしているかの如く映る。
れんだいこには、何故に漸次式するのか解せない。

 こうした舞台上で「戦後日本従属対自律論争」が演ぜられる。れんだいこの見るところ、「戦前の日本資本主義革命戦略論争」と同じく捻じ曲がっている。こたびは、理論と実践がどちらの側にしても穏和主義向きになっているという点でなお始末が悪い。相互にもつれ合いながら相和すかのように穏和主義方向を指針させるので、学べば学ぶほど社会主義革命に向おうとしなくなる。つまり、有害無益で為にならない。この保守的後ろ向き理論が日本左派運動に混乱と停滞をもたらし、遂にはその理論の馬鹿馬鹿しさ故に誰も理論に信を置かない事態を生み出していまう。

 その点、「戦後国家の相対的自律性」に注目し、故に直接社会主義革命を唱え、故に急進主義で闘った60年安保の第一次ブントの方が理論と実践を首尾一貫させていた。第一次ブント運動の功績は実にここに認められる。しかし、そのブントもその成果を更に弁証法的にこじ開けていく事を為しえず、60年安保闘争直後より左右から挟撃され自己解体してしまった。その後を継いだ第二次ブントはいささか没理論的で、行動急進主義でおもちゃの革命ごっこに行き着きこれまた自己破産してしまった。

 しかして未だ本来有り得べき理論と実践の結合運動が日本左派運動史上に展開されたことはない。れんだいこには、なぜだか分からない。恐らく、左派というのはスタンスばかりで実際には建国革命やり切る腹なぞ無いのだろう。それならそれで良いのにポーズだけ未だに左派気取りで人を誑かそうとしている。この現象をどう受け取るべきだろうか。

 
れんだいこはそういう認識をしている。以下、「戦後日本従属対自律論争」の概要をスケッチしていくことにする。

 2005.1.7日 れんだいこ拝


 引き続き 菱山郁朗氏のサイト「構造改革論の思想的意義と現実的課題」から学ぶ。(段落替えはれんだいこが為した)

 
戦後における日本資本主義論争は、戦前派のような「講座派」−「労農派」という明確な見解対立の形ではなく、その影響と成果を受け継ぎながらも、その批判の上に立って、新しい水準のもとに再び展開された。それは、今日に至って「現代日本資本主義論争」という名で呼ばれ、敗戦後の新段階を迎えて、その論争の内容もきわめて広範多岐に亘っており、より一層複雑化している。そこで、現代日本資本主義論争といわれる戦後の論争は『構造改革論争』まで含めて、きわめて広範多岐に亘っているが、ここでは、とりわけ『構造改革論』とも関連の深い「自立―従属論争」、「日本帝国主義復活論争」の二つについて、その展開過程を見ることによって、『構造改革論争』登場の背景をさぐってみることが必要である。

 すでに述べたように、現代日本資本主義をいかにとらえるか、という重要な問題は、日本の社会主義運動の方向を決定する上での最も重要な課題である。それは、日本の現実をとらえることによって体制変革への方向を見出し、社会主義革命への主要な闘争のほこ先を規定する。従って、それは日本の革新政党の革命路線を方向づける党の綱領に具体化され、或いは革新勢力における常に古くて新しいしかも最大の論争点ともなっている。

 戦後行われた主要な論争の一つに「自立―従属論争」がある。これは、一九五七年秋に発表された日本共産党の党章草案が、「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義とそれと従属的に同盟している日本の独占資本であり、我が国は高度な資本主義国でありながら、半ば占領された事実上の従属国となっている。」と規定したことによって、日本が対米従属の立場にあるかどうかの評価をめぐって争われた論争である。そのように規定した共産党の党章草案は要旨次のように述べている。「敗戦によって、我が国はアメリカ帝国主義の事実上の単独支配下におかれ、隷属状態に陥った。アメリカ帝国主義は、戦後の"民主的改革"を彼らの対日支配に必要な範囲に制限し、対日支配に適するように日本を再編成しつつ民主主義革命を流産させようとした。又、それは社会主義世界に対する戦争準備とアジア諸国民族支配のため、日本を軍事基地として固め、日本人民の解放闘争を弾圧するとともに日本独占資本を目下の同盟者とする政策を取りながら、日本の支配勢力をより積極的にアメリカ帝国主義に同調させ、日本の軍国主義を復活させようとしている。」(日本共産党党章、「政治綱領」部分、『前衛』五七年十一月号)。

 このような現状分析によって出てくる結論として、さらにこれは、「日本の社会主義への道はアメリカ帝国主義と日本の独占資本を中心とする勢力の反民族的、反人民的な支配体制を立て直し、人民の民主主義国家体制を確立する革命を通じて、初めて確実に切り開くことが出来る。」と規定している。このように規定する共産党の党章草案は、まず日本をアメリカの"従属国"であるとみなし、そこから、民族民主統一戦線による民族民主革命(「二段階革命論」)を唱えたことにその特徴があった。

 しかし、以上のような現状規定を行った党章草案に対して、たちまち、党の内外から批判、反論が加えられた。それも日本の〈対米従属〉という現状規定と革命の性格の問題に集中された。党章草案に対する批判者は中西功、川崎己三郎、春日庄次郎、小林正和、後に『構造改革』を唱えるに至った大森誠人、安東仁兵衛氏など主に共産党内の論客であったが、旧「労農派」の向坂逸郎氏など社会党の論陣も加わり、「自立―従属論争」はますます激化した。論争の重点は、党章草案が、日本の「対米従属」を規定し、「アメリカ帝国主義」の存在を重視しているのに対し、その批判者は、一九五一年のサンフランシスコ講和―占領終結に伴う「質的変化」を強調し、日本の国家権力を握るものはあくまで日本の「独占資本」であると見なし、「「アメリカ帝国主義」の支配は、日本独占資本の対米従属政策からきているにすぎない。」という見解に基礎をおくものであった。

 革命の性格をめぐる論争においては、党章草案の「民族民主二段階革命論」に対して、その批判者は、当面する革命の性格を社会主義革命(「一段階革命論」)であると規定し、革命への戦略目標を日本の「独占資本主義体制」であることを強調した。こうして、当面する革命の基本的性格は民族民主統一戦線による民族解放闘争ではなくて、反独占の社会主義への闘争であり、樹立されるべき革命権力は当然社会主義権力として規定されなければならないというのが、批判者の共通した見解であった。

 しかし、いずれにしても、このような日本の「対米従属」の評価をめぐる「自立―従属論争」は、活発な論争を展開したにもかかわらず、この段階では結局、結論は見られず、論争の重点を次第に日本資本主義の分析、その帝国主義復活の性格と時点、その方法論的妥当性といった問題をめぐる、いわゆる「日本帝国主義復活論争」へ移してゆくこととなった。

 もともと、「自立―従属論争」は経済的側面から見れば、日本資本主義の"従属性"と"自立性"の評価をめぐる論争であったが、やがて、後者の自立的側面の評価が高まるにつれ、「日本帝国主義復活論」と直接結びつき、「自立―従属論争」は、「帝国主義復活論争」へと発展していった。そして、この論争において、自立論を展開し、「従属経済論」の批判を行ったのは、関西系マルクス主義研究学者で、後に『構造改革論』を積極的にとり上げるに至った小野義彦氏、同じ立場に至る佐藤昇氏、さらに旧「講座派」の内田穣吉氏などであった。

 「日本帝国主義復活論争」は、『経済評論』一九五七年、六月号に、小野氏が『「従属経済論」への批判』と題する論文を発表したことによって事実上開始された。この論文で小野氏は次のように述べている。「日本は、戦後全面的な対米従属に陥ったが、日本の独占資本主義経済が復活する諸条件の下では、この従属は一時的性格のものである。したがって、独占の復活はその初期において、アメリカの対日援助に大きく依存したが、その後の蓄積の強化は、主として国内的源泉―国内市場の拡大と国内勤労大衆の搾取によっていた。又、現在なお維持されている占領制度と対米依存の諸関係は、日米独占の"階級同盟"と同時に、それを利用しうる日本独占自らの利益を考慮したものである。そして、日本独占の国内的基礎の復活は、ほぼ一九五三年頃に完了し、その後のデフレ期と五六〜七年のブーム期を通じての自己の装備改善と競争力強化を土台として、再び対外膨張に主力を注ぐ帝国主義復活の段階に入った。」

 このように、経済学的分析によって大胆な「従属経済論」の否定を行った小野氏に対しては、直ちに今井則義(後に『構造改革論』を推進)、豊田四郎、上田耕一郎、守屋典郎氏など、「従属経済論」の立場をとる共産党中央指導部に組みする論者から反論が加えられた。その批判には、今井氏のように、「小野氏の批判は、「従属経済論」の弱点を指摘しているが、その問題提起には、注目に値するものが少なくない。」として或る程度の評価を与えるものもあったが、守屋氏の批判は、「日本の独占資本は、アメリカ帝国主義への従属によってその権力を強化しながら、帝国主義への復活を示している。しかし、この帝国主義的復活は、アメリカの利益と結び、その侵略政策に従属し、道具となっていることが特徴であり、日本の主権が侵害され、アメリカ帝国主義が公然と日本人民の上にのさばっている現状のもとでは、反独占の闘争は、民族独立の闘争と結合し、平和と民主主義の闘いは必然的に独立の闘いとなる。従って今の段階では、日本の独占には、"独立"の道はなく、彼らの"自立"のポーズも、"従属"の形態変化に過ぎない。」として、日本の「独占資本」の「帝国主義的復活」傾向は認めながらも、その「自立」の可能性については完全に否定する、という見解をとった。

 こうして展開された「日本帝国主義復活論争」はその後も論争の第二段階と言われる一九六〇年の安保条約改定の時期に至って、いよいよ白熱化した。安保改定問題は、とりわけ日米関係を規定し、「自立―従属」、「帝国主義復活」という論争点の当否を決める一つの実質的な指針となった点で大きな意義があった。又、この過程で安保改定に対決する革新陣営の政治スローガンとして「中立主義」の問題がにわかに登場し、新しい論争のテーマとなった。この時期に至ると、旧来のままの「対米従属論」は次第に衰退し、「日本帝国主義」の復活を否定する論者は最早ほとんど存在しなくなった。しかし、それは復活の「完了」を認めるというのではなく、「日本帝国主義」の復活は、「しつつある」といういわば「現在進行形」であり、「過程」として存在するという見解であったため、基本的認識上の対立は依然として続いたのである。

 たとえば、日本共産党第八回大会に提出された「綱領草案」は次のように述べている。「日本独占資本は、引き続き勤労者への搾取を強め、海外市場への商品、資本のより一層の進出を目指して、アメリカ帝国主義の原子戦争計画に我が国を結びつけ、経済的には帝国主義的特徴をそなえつつ、軍国主義的帝国主義復活の道を進んでいる。」 こうした見解は、そのまま安保条約改定問題に対しては、次のような評価となる。「安保条約は、アメリカ帝国主義と日本の売国的独占資本の共同の陰謀による侵略的軍事同盟であると共に、依然として対米従属の屈辱的条約である。そして、これはサンフランシスコ体制の補強であり、日本は依然としてアメリカの半占領状態のもとにおかれている。」 ここから、さらに「反帝(民族独立)闘争」と「反独占闘争」−いわゆる「二つの敵」に対する闘争が必要であるにもかかわらず、我が国の現在の民主勢力の基本的弱点は、全体としてアメリカ帝国主義との闘争の関連が不明確にされ、このことから民族独立の任務が大衆のものとなりきれず、サンフランシスコ体制打破のための統一戦線と強化を遅らせてきたことにある。」という統一見解が生まれてくる。ここに至って、革命の方向における主要な敵は、「アメリカ帝国主義」か、それとも「日本独占資本」か、という新たに重要な論争点が提起され、この「二つの敵」をめぐる論争は、安保改定問題、帝国主義復活論争と絡んで高度に政治的性格を帯びて展開されることとなった。

 ところで、安保条約改定を対米従属の屈辱的・売国的行為であるとみなした共産党の見解に対して、日本帝国主義復活論者の理論的リーダーである小野氏は、一九五九年十月号の『世界』、「安保改定の政治と経済」と題する論文の中で、次のように述べている。「安保条約改定は、本質的には新しい一つの軍事同盟条約の締結を目指すものであり、核武装と海外派兵に道を開くものである。又、それは旧安保体制における日本の敗戦帝国主義或いは四流帝国主義を、三流或いは二流の抵抗主義にまでのし上げたいと望む日本独占資本の"固有の計画"、その"野望"に基礎をおいている。この交渉はまず日本側から持ち出されたという点に特徴があり、岸政府が積極的に持ちかけたという点に改定へのイニシアティブが主として日本側にあった、ことを察知できる。しかも、この計画は、アメリカ帝国主義との同盟の強化を求めながら同時に帝国主義ブルジョアジーに特有なきわめて利己的な性格に貫かれている。というのは、つまり、そこから自分自身に最大の獲物を得ようと努めているからであり、それは、アジアにおけるアメリカ帝国主義の後退と孤立化の深まりに積極的に手をさしのべ(これは、彼の別の表現によると、「世界的な帝国主義体制の危機の中で、この危機がまずアメリカ帝国主義の危機として現れている点を利用し、アメリカの陥っている困難に手をさしのべて、その譲歩を促し・・」(『講座、戦後日本の経済と政治』第四巻、大月書店刊)となっている。)前者( アメリカ )への軍事的、政治的支援を約束することとひきかえに、日本と極東アジア地域におけるアメリカの一層の大きな譲歩と援助を引き出し、そうすることによって、すでにある程度経済的に強化されてきた日本をさらに政治的、軍事的にもアジアにおける帝国主義戦線の最も重要な要素に押し上げようとするものである。」と。大胆に提起された、この小野氏の安保改定論は、それを日本の「独占資本」の「帝国主義的膨張プログラムの一環として」とらえ、アメリカ側による「押しつけ」や「外圧」をむしろ否定的に評価した点に特徴がある。

 この見解は、さらに安保改定問題から提起される「中立主義」の問題にも及び、次のような見解へと発展する。「帝国主義的自立を目指す日本支配層の進出は、世界の勢力関係を通じて、社会主義及びアジア平和地域との接近、平和共存の形をとらざるを得なくなりつつあり、この日本資本主義の平和的共存=中立政策への傾斜の可能性の重要な一要因となっているのは、日本帝国主義の復活そのものが必然的にもたらす米日間の矛盾の増大であり(この論理的帰結として、レーニンの「資本主義不均等発展の法則」=(『帝国主義論』)…(注)を取り上げている。)、さらに決定的な要因として社会主義陣営の偉大な発展と平和運動の世界的な発展とによって、両体制の平和的共存の方向が次第に強固となり、資本主義諸国の中立化政策は強まらざるを得ない展望をもつこととなる。(前掲『講座戦後日本の経済と政治』第三巻)」。この結果、革命の方向としては、「中立の問題は、革命の平和的移行を現実的に可能なものとするための客観的条件としてあらわれている。(『同講座』、第三巻)」という結論が導き出されてくる。

 そして、このような大胆な見解に若干の批判的立場をとりながら、さらに別の形で発展させたのが佐藤昇氏であった。
(注)資本主義不均等発展の法則とは、レーニンの『帝国主義論』の骨子となるもので、それは、「資本主義生産は無政府的生産であり、それぞれ個人的利益を追求する資本家相互の競争を通じてのみ技術的進歩がはかられる。そのため、あらゆる企業・産業部門・国々が不均等に発展することはさけられない。」とする考え方である。レーニンはさらにこの法則に基づいて、「帝国主義時代には資本主義国の矛盾は鋭くなり、帝国主義戦争は不可避となる。従って、プロレタリアはブルジョアジーの対立を利用し、その弱い環で帝国主義の鎖を断ちきることが出来る。」と述べている。(『帝国主義論』)

 佐藤昇氏は、『経済評論』の六〇年九月号で、「新安保条約と日本帝国主義」と題するシンポジウム(参加者は他に、大橋周治、川崎己三郎、塩田庄兵衛、広沢賢一の各氏)において次のように述べている。「安保改定が、日米間の本格的な軍事同盟の締結であり、安保改定闘争がそのほこ先をアメリカ帝国主義に向けていることはいうまでもない。しかし、主敵はあくまで日本の独占資本であり、共産党の言うようにはじめからアメリカを主敵として戦っていくことは誤りである。又、安保改定阻止闘争について言えば、その基本的なものは岸政府とそれを支える独占資本との闘争であったにもかかわらず、それを明らかにして、独占資本の支配を下から震撼させて行く闘争を充分強力に展開しえなかった。即ち、反独占闘争の一環として安保闘争をとらえていく点が弱かった。そして、このような指導上の誤りも手伝って、闘争を通じて労働者階級の本当の意味のヘゲモニーに取り組むことがおろそかとなったのは、単に指導の適否に解消できない日本の労働組合運動の体質的な弱さからもきている。」このように展開された佐藤氏の見解は、「主要な敵」を日本の独占資本に向け、労働者階級のヘゲモニーによる反独占闘争(=『構造改革論』的発想)の意義を強調し、同時に日本の労働運動の体質的弱さをするどく指摘した点に特徴があり、これがさらに明確な『構造改革論』の提唱へと引き継がれるのである。

 こうして、小野氏の「従属経済論」批判をきっかけとして活発な展開を行った「日本帝国主義復活論争」は、「岩戸景気」と言われる日本経済の高度成長を見る中で、岸内閣から池田内閣への転換期をピークに、安保改定問題、中立の問題、「二つの敵」問題、などを論争点に加えながら行われた。しかし、「新安保体制の成立」を契機に、次第に共産党内の主流派をも含めて、「日本帝国主義復活完了」を唱えるものが多数を占め、次に「日本帝国主義」の性格の解明、それとの「対決路線」の規定をめぐる論争へと発展し、ここにようやく『構造改革論争』の開始を見るに至った。こうして、『構造改革論争』は、ある意味では、「自立―従属論争」から「日本帝国主義論争へと発展してきた、戦後における「現代資本主義論争」の論理的帰結と言えるものであった。

 ところが、「現代日本資本主義論争」の一環としての『構造改革論争』は、その点で大きな意義をもっているにもかかわらず、まず共産党内においては、「現代マルクス主義派」、「経済分析派」として、かねてから「自立論=日本帝国主義復活論」の立場から、『構造改革論』を積極的に取り上げていた小野義彦、佐藤昇、杉田正夫、大橋周治、石堂清倫氏らすでに述べた『構造改革派』の見解が、依然としてアメリカの支配を重視して「二段階革命論」をとる主流派の見解と真正面から衝突し、有効な論争を展開する以前の段階で、「『構造改革論は"修正主義"であり、"改良主義"である。』として、ついに『構造改革派』は組織的に排除されてしまうことになる。こうして、共産党内で完全に拒否された『構造改革論』は、やがて社会党の中に浸透してゆき、すでに見た通り、三段跳びに社会党の新路線として取り上げられるに至るのである。ここに、『構造改革論』をめぐる論争は社会党を中心にして行われることとなった。その経過は、すでに見た通りである。



 あるいは次のような論考もある。
国民文化研究所戦後の歴史学――日本マルキシズム悲喜交々――

 明治維新の評価に関するお話をしやうと思つたのですが、その前に講座派といふものについてお話しゝやうと思ひます。およそ歴史学といふものも、一箇の科学でありまして、科学である以上その方法といふものも大体決まつてをります。現在、大まかに云つて次の三つがあると申せます。

・理論歴史学(講座派) 、・実証主義史学(反講座派) 、・皇国史観(独自路線)

 講座派といふのは、いはゆる左派マルキストによつて主唱されたマルクスの史的唯物論の立場に立つた歴史学であります。実証主義歴史学は、さういつた理論優先の立場に反発した学派でありまして、いはゆる社会史などは、その成果と申せませう。三番目は、まぁ言及する必要はないのですが、自分が日本人であると云ふことに根拠を置いて歴史を語らうといふ学派ですね。この学派における論文は科学的論文と云ふよりは、むしろ修身の教科書のやうな印象を強く受けます。一体、論文に敬語を用ゐるといふ神経が分らないところではあります。

 かういつた三者鼎立状態―といつても、部分的にはボロボロなところもありますが―が成立したのはさう古いことではありません。皇国史観―理論歴史学―実証主義歴史学といふ順番です。実証主義歴史学は、1970年代後半から80年代にかけての、ソヴィエト型マルキシズム批判の中で、唯物史観に立脚する歴史学への批判が高まつた結果であり、また一方で「大学の解体」が叫ばれた学生運動時代を経て、反アカデミズム的歴史学=市民の歴史学といつたものが、民俗学や社会史の土着化をもたらし、ヨリ生活実感に密着した歴史学が求められた結果でありました。

 現在の歴史学はもつぱらこの実証主義歴史学が主流になつてゐるやうですが、もはやすでに反アカデミズムと云つた意識はなく、実証性を追求するあまり、かへつて高度な専門化に陥つてしまつてゐたりします。つまり、デヱタの収集それ自体が目的となつてしまふやうな状況になつてしまつたのです。

 この実証主義歴史学が起こる前は、やゝ煽動された感のある反帝(反米)・反資本主義の精神が、皇国史観を駆逐し、理論に徹底的に基づいた科学的な思考がなされ、歴史は古代から近代・現代へと直線的に至るのだと信じられてをりました。

 このことがどの程度、をかしいかと云ふことは、お隣の中国(中華人民共和国)の歴史学をご覧になるとよろしいでせう。あそこのお国は、なんにしてもマルキシズムで立国してをります。従つて学問も、そのやうに構築されなければならない訳で、歴史学も、マルクスの云ふやうになつていなければならない。ところが、あの国には中世・近世といふものがない。絶対主義がない。封建時代はあるが、夏殷周の封建時代では古代専政時代(郡県制時代)の前に中世が来しまふことになる。それでは、きはめて不都合です。従つて、この国では古代―近代―現代といふ歴史構造になつてゐるといふことにされてをります。つまり、夏王朝(多分あります。中国はさういふ国です。)から1840年の阿片戦争までの5000年間、中国人民はひたすら古代をやつてきて、いきなり加農砲で撃たれ、そこから近代が始まるといふことです。そんな莫迦な話があるか、と云はれる方も居られるでせうが、偉大なるマルクス先生はかういつて愚かな我々の迷ひを断ち切つてくれます。「君、これがアヂア的生産様式の停滞性の所産だよ」と。

 大きなお世話です。人がどんな生産様式をしてやうが勝手ぢやないですか。まぁ、その点に関しては、レヴィ=ストロゥスが文化的相対主義に関して色々云つてゐるのでそちらに譲るといたしまして、とにかく、マルキシズムといふ大テーゼから論理が演繹的に展開されていくとかういふことになるわけですね。

 理論歴史学者のすべてが、かういつたことを信じてゐたわけではありませんが、当時は少なからず居たと云はれます。他の学問でもマルキシズムの影響は強く、特に経済学においては、「資本主義は最後に恐慌が来て自滅する」と書けば試験はパスすると云はれるほどでした。まぁそれはかなり誇張した話であるにしても「近経[近代経済学]かマル経[マルクス経済学]かを選択することは青春の大きな分岐点であつた」と先日NHKで近経の教授が云つてました。曰く、「マル経でなく近経を選択すると、あいつは堕落したとか、資本家に魂を売つたなどゝ心外なことを言はれたものでした」とのことです。さういふ時代もあつたのだと云ふことでせう。

 歴史学に話を戻します。

 かうして戦後の半ばまでは、歴史学と云えば講座派以外を意味するものではなかつたと云つて宜しいかと思ひます。そして、この時期の歴史学を「戦後歴史学」と呼称してゐる方も居られます。戦後歴史学といふ呼び方は色々な意味を含んでゐて興味深いものでもあります。

 第一には、平和憲法の理念(民主主義・反戦)に由来してゐること。第二には、冷戦構造の影響下にあつたこと。第三には、戦前には講座派に対抗する学派として労農派が存在してゐたこと。かういつたことが「戦後」の中に入つてゐるのです。特に第三番目の労農派の存在は、いはゆる「日本資本主義論争」といふ戦前アカデミズムにおける大論争を巻き起こしましたが、これについては改めてお話しいたしましよう。

 しかし、なんにしてもこのやうに文字通り一世を風靡した講座派歴史学も現在では、東西冷戦の崩壊によるマルキシズムの衰退とゝもに、その学派としての影響力を失墜させてをります。講座派歴史学は、極めて強い政治性を有してをりました。それは、畢竟マルキシズム、正確にいへばマルクス=レェニン主義に立脚した学問の必然的結果とも云えます。そのことは時としてマルクス=レェニン主義に「スタァリン」といふ要素が付着することもあつたことから云えるでせう。

 大体にして、「史的唯物論のすぐれた代表者」として尊奉してゐたスタァリンを、その批判以後には全く省みないと云ふ態度は、科学的といふことはできません。政治と科学とは、基本的に相容れないものであり、それは実践と理論といふことばにもいゝかへられます。たとへば、市場理論に画期的な学説でノーベル賞を受賞した方が、さきごろ株式市場で破産をしたやうに、実践と理論とは全く別個のものとして考へられなければなりません。そこらへんは、M・ヴェーバが『職業としての学問』といふ講演で強く訴へてゐますから、お読みいたゞければ幸ひです。

 講座派批判はこれまでとしましても、それにしても今日のマルクス主義的アカデミズムの体たらくは不甲斐ないと云はざるを得ません。歴史学においては講座派が、経済学においてはマル経が今日全くもつて元気がありません。これはある意味世界的現象ではありますが、日本においてはそれが甚しすぎるやうに感じられます。

 マルクス主義的アカデミズムとは、単に政治的発言を学問的言辞によつて粉飾するためのものではありませんでした。その根柢には、資本主義における諸矛盾に対する強い批判精神がありました。以前お話しゝましたやうに、自由放任資本主義におけるやらずぶつたくり的な経済行為に対し、我々の自由に対して政府が干渉しやうとすることに対し、「それはをかしいのではないか」と批判の声を挙げたのは彼らであつたはけです。しかし、現在彼らが自ら口を閉ざしてゐる結果、現代資本主義に対する、また新保守主義に対する批判者が消滅してしまつてゐるのです。これは、日本の民主主義にとつて、非常に不健康な事態であるともいへます。

 福沢諭吉も云ふやうに、健全な政府には健全な野党・批判者が必要です。マルキストが健全であつたかについての検討はひとまづ置いておくとしまして、もはやマルキシズムが頼みとするに足りない以上、我々は新たな闘争理論の獲得を目指さなければならないのかもしれません。

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(私論.私見)


日本資本主義論争史(小島恒久)

日本資本主義論争の群像(長岡新吉)

構造改革論の思想的意義と現実的課題  菱山郁朗 著

「社会主義協会の提言」(1968年)

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 『戦時日本農村社会の研究』要旨       森 武麿

I 課題と方法
 農村社会の戦後の研究史の巨視的に整理し批判的に総括するなかで、本論文の位置づけ課題と方法を提起しようとた。近代農村研究において経済史の分野から圧倒的な影響力を与えてきた二人の研究者がいる。ひとりは山田盛太郎であり、もう一人は栗原百寿である。山田盛太郎はいうまでもなく、講座派の理論家として戦前日本資本主義の「基抵」が「半封建的土地所有制=半農奴制的零細農耕」にあることを鋭く指摘し、高率小作料と低賃金の相互規定関係を資本主義の構造分析の基軸にすえたのである。これに対して、栗原百寿は日本資本主義と地主制の矛盾に注目し、農民的小商品生産の発展と高率小作料の対抗を資本主義の段階分析の基軸にすえたのである。山田が戦前日本資本主義の構造論に特徴があるとするなら、栗原は動態的な段階論に特徴があるといえよう。

 山田と栗原の二つの方法の差異はその後、地主制論、農業問題論の二つの系列の研究に分化し発展していった。前者の地主制研究の流れは1950年代、60年代において全面開花し、安孫子麟、安良城盛昭、中村政則を代表的論者として展開されていった。後者の農業問題研究の流れは、戦後に宇野経済学の「段階論」の成果を取り入れながら農業問題を理論的に展開した大内力によって開花し、1960年代の暉峻衆三に引き継がれていった。暉峻の農業問題研究は、労働市場を中心に資本主義と農業関係の変化をとらえるもので、農民の労賃意識の形成、展開の過程として明らかにしようとした画期的なものであった。かれの研究は1970年以降の労働市場研究、小作争議研究として若手研究者に引き継がれていった。

 この過程で、中村と安良城は地主制と天皇制の関係に研究を進めた。また、山崎隆三も戦前資本主義論争の再総括こころみるべく天皇制・地主制・資本主義分析の総合をめざした。つまり、農業史研究、地主制研究が必然的に国家論、支配体制論までに発展する方向を示していたが、そこまで十分展開することなく終わった。

 その理由は、講座派の枠組みにとらわれ地主制論からすぐさま国家権力論に移行したことであり、その国家論は天皇制絶対主義か、絶対主義的天皇制か、近代的的専制かの概念論争に上昇してしまったためである。国家論を論じるための前提としての政治史、すなわち在地・在村の支配の実態的な政治過程論、すなわち社会経済的諸集団の機能と政治的諸集団の運動を総括する農村社会論を欠如していた。そのため、政治史と経済史は分裂して、政治史は概念的国家論論争に上昇転化し、経済史は個別地主経営分析に下降埋没していった。

 その後、農村社会研究は小作争議・農民運動研究として活性化する。1970年代以降活発化する小作争議研究の前進とは西田美昭を中心として、栗原百寿の農民運動史研究を引き継ぐものであった。西田の主張は農民的小商品生産の発展により中農層を主要な担い手とする小作争議が運動の中心となったとするもので一般通念の貧農主体論を批判したところに斬新さがあった。さらに牛山敬二、清水洋二、野田公夫、林宥一、庄司俊作、玉真之介、大門正克、坂根嘉弘などが、労働市場、商品市場の展開と農業の構造変化のなかで農業問題、農民運動を論じ、1970年代・80年代の農業史研究の黄金時代がつくられた。

以上のように、1960年代から1980年代の農村社会研究のおおざっぱな流れを見ると、地主制論的系譜、農業問題的系譜という二つの方法論を軸として研究が進められたことが分かる。それは地主制研究・地主経営分析の流れと労働市場論、農民的小商品生産論など労働力・農産物を通して資本主義と農業との関係を論じる農業問題の流れをつくり出していた。資本主義と農業の関係を前者の地主制研究の流れは土地所有から、後者の農業問題研究の流れは労働力・商品・資金から構造的に把握するという意味をもっており、相互補完的であったといえ。1970年代の小作争議・農民運動研究は、地主制と農業問題が交差する地点で中心課題として浮上したといえる。小作争議・農民運動論は当然のことながら地主制後退期に焦点をあわせることとなり、農地改革の歴史的前提を問うことなっていった。

さらに、1970年代にもう一つの農村社会研究の焦点となったのは農村支配体制の研究である。1960年代に見られた地主制論と国家=天皇制論を結びつける政治史に上向する研究の流れはその後伏流化し、問題意識として地下に沈んでいた。しかし、農民運動論の展開は必然的に普選論や治安維持法との対抗、小作調停法との関係など次第に政治過程論を再び焦点化させていった。農村社会研究の流れのなかで、第一の地主制・農業問題、第二の小作争議・農民運動論に続いて第三に農村支配体制論が浮上する。地主制研究が国家論=天皇制論に昇華していった1960年代研究とは異なり、ようやく地道な在村レベルの政治過程論として本格的に論じられるようになったのである。本書の課題とするのはじつはこの問題である。

 本書が課題とする農村社会の再編、村落社会の変動の問題は、1960年代以前では政治学・政治思想史、農村社会学の分野が先進グループを形成していた。その代表が石田雄である。丸山真男政治学の門下として石田は、近代農村社会は地方改良運動、民力涵養運動、農村経済更生運動と三つの官製国民運動を通して家族国家観を基底で支える地主制的共同体的秩序を繰りかえすことによって、タガをしめなおし支配体制を再編したと論じた。それゆえ戦前の家父長的秩序は一貫して変化しなかったと断じた。これはちょうど戦前の半封建的社会構造が頑強を強調する講座派の静態的な構造論と見合う形になっていた。しかし、これらの研究は先駆的なすぐれた成果であったが、地主的秩序の再編論か精神運動的性格を強調することによって、この時期固有の農村社会の段階的構造的変化を十分とらえきれていなかった。

 本書での私のひとつの課題は、1970年代、80年代に一気に開花した農村経済更生運動研究を総括することであった。それは大正デモクラシーがなぜファシズムに帰結するのかという問題意識に支えられている。そのため、それまでの研究の個別分散化を総括するために、地域類型論の有効性を主張した。とくに、東北型、養蚕型、近畿型の地域類型論を全国的な農村社会論のなかで位置づけなおそうとしたのである。農業生産力=小商品生産の展開、農民層分解、地主制の展開と労働市場・商品市場・資本市場の展開を規定要因とする資本主義と農業の関連をひとまず三地域類型論に集約し、さらにその地域類型を小作争議や農民組合運動、さらには官製国民運動による農村支配体制再編の類型差まで発展させ展開することであった。経済構造、社会運動、支配体制の三者を地域論を媒介に統一的に把握すること、また経済史と政治史を運動史を媒介に統一することが課題であった。  

 さらに1980年代になると戦前から戦後に私もふくめて研究者の関心がシフトしていった。その背景には戦時と戦後の連続と断絶の問題意識が横たわっていた。原点は講座派と労農派の対立による日本資本主義論争であり、戦後も山田盛太郎の主張する戦前と戦後の構造論的な断絶論と大内力の主張する帝国主義段階の小農保護論としての連続論は、その後の研究者に大きな影響をあたえていた。また、この問題意識のもう一つの背景には「戦前」と「戦後」の対比でなく、1980年代に「戦時」から「戦後」への連続論を強調する山之内靖の総力戦と現代化論に代表されるポスト・モダンの衝撃がある。これは、経済史の分野からも岡崎哲二や野口悠紀雄の1940年体制論が戦時経済を現代経済システムの源流であるとして連続論を新たな水準で打ち出した衝撃と連動するものであった。官僚統制や護送船団方式を含めて戦時と現代は連続する側面が多いことが現実の経済システムの破綻のなかで意識化され、戦時経済研究は新たな段階を画することなった。本書での課題のもう一つは、この戦時と戦後の連続と断絶の関する問題である。古くて新しいこの問題は依然として課題であり続けており、戦時と戦後の連続と断絶をどのように統一するかの議論は新たな実証的水準で始まったばかりである。

 本書での私の立場は、戦後農村社会の前提は1930年代から戦時体制下において農村の地主的秩序は中農層の台頭のなかでしだいに後退し、農村社会における地主的秩序の最終的解体は農地改革を経て、1950年代初頭に再編され農協の再編を中心にして戦後高度成長への軌道がしかれていく道すじを明らかにし、戦時と戦後の連続的契機と断絶的契機を統一的に把握することであった。

  II 結論
 本書のモチーフは経済史視角から1920年代から30年代にかけて地主制に対抗しつつ成長する中農層( 自小作上層) の生産力的担当者としての歴史的登場を重視し、恐慌後の農村経済更生運動、産業組合拡充運動のなかでの彼らの決定的役割を指摘した。それは小作争議から恐慌を転機に上からの官製国民運動の再編統合されていく農民像を析出していった。すなわち、昭和恐慌を画期に中農層の基軸に国家。産業組合。農事実行組合という新たな農業生産力体系の形成と農民支配秩序の形成を論じて、現代資本主義の形成と地主制の後退、そしてファシズムの形成の三者の統一的に把握する論理を展開した。その中心的論点は産業組合( 農協の前身) 論であり、戦後の現代資本主義と現代国家の農村的基礎を協同組合支配において考えたからである。その意味で1930年代に展開する農村経済更生運動の歴史的役割は、中農層を担い手として産業組合を基軸とした農村社会を新たに再編成し、農業生産力拡充を一環とする総力戦体制への準備・地ならしを果たすことであった。

 戦前農村協同組合=産業組合と農家小組合の展開の構造は、第1次大戦後に発展する農民的小商品生産を背景に農村における新たな生産力担当層として成長する自小作上層・自作農中堅を担い手としていったが、まだまだ地主制支配下の自立脆弱性に規定されていた。昭和恐慌はその構造を打破する画期となる。1930年代の農村経済更生運動と産業組合拡充運動は農村に対する国家資金の投入を契機として、1930年代後半における恐慌の克服と農民経営の安定は地主的従属から国家的従属への一元化をおしすすめていった。そのキー・エージェントとなるのは農村経済更生運動のなかで革新官僚によって国家的に保護育成された「農村中堅人物」であった。彼らこそ第1次大戦後に成長してきた農民的小商品生産の波頭に立ち、ある時は小作争議の先頭に立った一群であった。農村中堅人物の階層的基盤は自小作上層から自作農中堅であった。彼からこそ1930年代農村における国家的掌握の中心的な対象階層であった。小作争議の担い手から国家的中堅人物への転換こそ、デモクラシーの崩壊とファシズムへの転換を画する歴史的深層を理解する鍵であった。

 しかも、1930年代から戦時体制のなかで成長しつつある自小作中農は、後ろから前からの国家的収奪と後ろからの地主制=高率小作料の重圧とに挾撃されながら、不安定な地位にあった。彼らはさらに発展するか、没落されるかの分岐に立たされ、彼らの現状打破のエネルギーは国家的使命をもとに精農的生産力主義による在地の指導者化を図り地主と対抗し、満州移民の指導者化による農民の排外主義化をおすすめる農村の中核的指導層に成長していった。すべてのこの時期の急進運動の基盤は彼らにあった。

 また、ファシズム体制=翼賛体制下の構造をみると、大政翼賛会支部の構成員は旧来の地主階級を中心とするのに対して、翼賛壮年団は自作農中堅・自小作上層を新たなな担い手とするという農村支配構造の二元的構造を生み出していた。翼賛体制が二層の異なる階層を抱え込んだまま成立したことに、農村における不安定な支配構造を見ることができる。

 しかし、このような戦時下の地主と自小作中農の対抗に典型的に見出される所有と経営の対抗は、総力戦遂行による食糧増産が焦眉の課題となる限り、生産力主義が勝利するのは必然であった。農地調整法、米穀国家管理、食糧管理法、二重米価制の実施などを通して戦時下の農村社会の支配的エージェントは転換していく。国家が直接農民的小商品生産を自己の生産力基盤として掌握編成する方向は地主制を制約・解体してゆくほかなかったのである。

 また、旧来の「むら」社会も大きく変化する。戦時体制の末端組織として機能し、配給、供出、貯蓄増強、食糧増産、金属回収にいたるまで総力戦の重要な役割を果たした部落会・町内会、隣組の構成員の変化を調べてみると、部落会・隣組の役職者では、旧来の長老顔役を惰性的に選出することが否定され、とくに翼賛壮年団の幹部が選出されていく。翼壮の人脈とは農村経済更生運動で活躍した農村中堅人物。負債整理組合指導者。満州移民指導者を源泉としている。このことは旧来の顔役=地主階級から、中堅人物。翼壮=自小作中農に農村の支配勢力の重心が転換していったことを意味している。

 また、戦時下の農村社会は地域論を媒介にすることによって全国農村社会の変動の差異を総括することができる。小作争議・農民運動が1920年代に近畿農村を中心に展開してことは自明となっているが、とくに、注目すべきことは1930年代における養蚕型、長野・山梨・群馬から茨城にいたる養蚕地帯のもつ意味である。昭和恐慌の打撃がもっとも著しかったのは製糸業=養蚕業の危機を集中的にこうむった養蚕地帯であった。このため、恐慌下の負債据え置きと満州移民を要求し、排外主義的な右翼農民運動の嚆矢となった農村救済請願運動の中心地は長野・群馬・新潟・茨城県下のおもに養蚕地帯の農民であった。また、共産党系の左派全国農民組合全国会議派への反発・対抗として1920年代後半から1930年代に登場する右翼農民運動、日本主義農民運動も平野力三の山梨を中心としている。一君万民・兵農一致による小作農民救済論が右翼農民運動の理論であった。天皇のもとでの平等論と軍部による農民擁護論に期待をかけてファシズムに傾斜していった小作農民の一群が存在したのである。

 では、官製農民運動として成長していった農村経済更生運動の地域的偏差はいかなるものであったか。図式化すれば、近畿型は自作・自小作中農層の基盤の強さに支えられ、養蚕型は耕作地主が主導し自小作中農を担い手とし、東北型は寄生地主主導で中農層の基盤の弱さに特徴あった。この結果、近畿型では中農層の安定性、危機意識の弱さゆえに運動は低調であり、逆に旧来の寄生地主的秩序が頑強に存続する東北型では運動は上からの精神動員型となり低調であった。それに対して、養蚕型は自小作中農層の不安定性、危機意識の鋭さ、さらには耕作地主の指導性を含めて「むら」ぐるみの運動がもっとも活発に展開された。

 戦時農業政策の展開過程もこの在地の農民層の動向に規定されている。1940年代翼賛体制( 翼賛会。翼壮二元体制) なかで、食糧増産を至上命令とする農業政策は農地調整法、二重米価制、第三次自作農創設政策、皇国農村確立運動によって自作農中堅を保護育成することによって生産力的安定的農村社会を構築することが図られる。これは基本的に地主制の機能喪失と解体を決定的にした。その中核となったのは、食糧の供出機構となった産業組合と農会=農業会であった。

 とくに、この過程で農会は、農事指導・農業技術指導、補助金の導管として耕作農民の国家的従属=官僚統制に決定的役割を果たした。日中戦争後の食糧増産政策によって、品種の統一、作付統一、肥料配合、労働力統制などで農業における生産力の国家的独占のエージェントとして系統農会はその傘下の技術員の活躍とともに大きな役割を果たした。当時の農業生産力担当層としての中農層の国家的掌握、補助金を通した官僚的支配の経路として戦時下の系統の農会の役割があったといえよう。戦時下において産業組合と同時に農会の役割を無視できない。1943年に産業組合と農会が合同して農業会ができることよってはじめて総力戦体制における官僚的農業統制機構は完成するといえよう。

 最後に、戦時と戦後の連続と断絶の問題である。生産力的に遅れて出発した東北地方では戦時下に中農を中心とする生産農民層が台頭して国家的保護育成のなかで支配的な地主勢力に対抗する力を身につけるようになった。それだけに東北型では戦後改革はドラスチックであった。戦時下に地主勢力に対抗して成長してきた中農層が戦後改革期でいっきにヘゲモニーを奪還する。しかも、本書での事例のように戦時下の中農層を基盤とした国家主義勢力が戦後改革のヘゲモニーをリードすることさえ起きたのである。ここに戦後民主主義の脆弱性をみることができよう。戦時下のファッショ勢力が最終的に淘汰されるのはドッヂ不況による1950年の農協再編を画期とする。農村社会における地主的秩序の最終的解体は農地改革を経て、1950年代初頭に淘汰され、農協への再編を中心にして農村秩序は刷新され戦後高度成長への軌道がしかれていく。その意味で戦後改革で戦後体制がすぐ始まるのはなく、1949年のドッヂ不況を転期にして、1950年代前半の農村変動をへて戦後改革の動乱が整理され、高度成長につながる農村支配体制としての連続線が生み出されるものと考えられる。                                        



2001年度歴史学研究会大会現代史部会報告批判(『歴史学研究』第757号、2001年12月)

「共同性・社会化の模索──1950年代社会論3」加藤 哲郎 

 何とも難しいテーマを掲げたものである。「共同体」でも「公共性」でもなく、「共同性」だという。「社会化」といえば、第一次世界戦争からワイマール共和国が生まれる時の左翼の論争点であったが、それを1950年代の日本・中国・イタリアの事例に即してコメントせよ、という。あの時代に、この3国の生活世界を貫く、第二次世界戦争中とも、いわゆる高度成長期とも異なる共通性など、あったのだろうか? 委員会は「前後の時代に包摂されない固有性の側面に焦点」をあて「埋もれた歴史の発掘」というミクロ・ヒストリーの方法で3報告をたてたという。この時代をマクロに論じる場合の定番キーワード「東西冷戦」「旧植民地民族解放」は、泉谷報告のまえおき以外、ほとんどきかれなかった。

 それぞれの国民国家における民衆の内発的歩みに注目し、それぞれの「社会」内部に「共同性」を見出そうとするのは一理ある。しかし、その縦割り柱状の歴史を水平に切り取ると、その断面から本当に「世界史」が見えてくるのだろうか? 政治学専攻の評者には、それぞれの関連を問わないままで、西洋史・東洋史・日本史からそれぞれ一本ずつ報告というアロケーションが気になった。

 「共同性」という概念の曖昧さも、指摘したくなる。斉藤純一『公共性』(岩波書店、2000年)の簡明な整理にしたがえば、「共同体」が価値の共有を前提とした同胞愛・愛国心など情念レベルでの一元的・排他的帰属を求めるのに対し、「公共性」は、異質な価値の複数性、多元的アイデンティティを前提とした、共通の関心事をめぐる開かれた言説空間である。例のゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ、「世間と社会」「近代市民社会」等の概念と関わる。そのはざまでの「共同性」とは、斉藤のいう「共同体」でも「公共性」でもありうる。

 「社会化」も、やっかいな概念である。有澤広巳『インフレーションと社会化』(日本評論社、1948年)や阿部源一『社会化発展史論』(同文館、1954年)をひもとけば、第一次世界大戦後のワイマール共和国建設期ドイツで、生産手段の国有化や公有化の所有形態・構造を問題にする共産党(KPD)系のVergesellschaftungとは異なる、社会民主党(SPD)系のSozialisierungが政治スローガンとして現れ、労働者が経営管理へ主体的に参加する「社会化」が提起され論争されたことがわかる。「民主主義革命か社会主義革命か」という1950年代日本左翼の「革命戦略」論争とも無論関わっている(高内俊一『現代日本資本主義論争』三一書房、1969年)。

 実際3本の報告、永江雅和「戦後共同経営と協同主義──茨城県における農業経営協同化の事例を中心にして」、泉谷陽子「中国の社会主義化と朝鮮戦争──大衆運動を梃子とした総動員態勢の構築」、戸田三三冬「仲間の繋がりと<ソシアビリテ>の運動」から一つの像をつくるのは難しい。3国の違いばかりでなく、評者自身の問題関心にひきつければ、軍政下沖縄の「島ぐるみ闘争」を抜きにサンフランシスコ講和「独立」後の「 50年代日本」を語れるか、それは朝鮮半島・台湾とどう関わるかが気になるが、この3年間の現代史部会では、「高度成長への離陸期の社会」という問題設定が強いようだ。

 本年度テーマに関わらしめて縦軸に「共同性」を「共同体」と「公共性」のベクトルでとり、横軸に「社会化」をVergesellschaftungとSozialisierungでおくと、泉谷報告はおおむね国家的規模の共同体的Vergesellschaftung、永江報告はミクロな共同体的Sozialisierung、戸田報告はローカルで個人的な公共的Sozialisierungを述べた印象が強い。マルクスの「アソシアシオン」概念から導出しうる公共的Vergesellschaftungだけは、なぜか出てこない。VergesellschaftungがVerstaatlichung(国有化)となった20世紀を反映しているのだろう。もっとも泉谷報告は、中国にはcommunityなどなかったと繰り返し強調したが。

 永江報告は、実は、評者を含むこうした「冷戦」「戦後民主主義」型問題設定にこだわらず、伝統的概念拘泥主義を脱構築するところから出発した。つまり、50年代日本農村社会における「共同性」が、前近代「結い・手間替え」や農本主義の延長か、満州開拓・戦時統制の流れか、ソ連コルホーズ・中国人民公社のイデオロギー的影響か、「規模の利益」を求めた資本主義的農業経営合理化の一環かは敢えて問わず、報告者の表現によれば「ファジー」なままでひとまず対象に接近し、それらのすべてを含むさまざまな思惑=「混沌とゆらぎ」のもとで、戦後農業「近代化」のなかに「経営共同化」が盛り込まれ、61年農業基本法に明文化される流れを追う。いわば「同床異夢」をその後の分裂・衰退の根拠として問題にすることよりも、「異夢」であっても「同床」につきえたことの方に着目し、評価する手法をとる。1950年代をさまざまな「夢」を持ち得た時代として特徴づけ、その「夢」の一部が現実化し新たな欲望を再生産した高度成長期利益政治の前段階として位置づけ、気がついてみると「共同性」も「夢」も失われてしまった現在と対比しふりかえるベクトルである。その構想自体は面白い。ただそれなら、指導者上野満の「夢」ばかりではなく、平須農場に加わった青年男女それぞれの「夢」に立ち入り、言及してほしかった。するとその「夢」は、同時期に土地を奪われる「悪夢」から出発した沖縄の「島ぐるみ闘争」と、果たして響き合うものがあったのだろうか?

 永江報告の「混沌とゆらぎ」にあたる問題を、泉谷報告は、中国における「新民主主義」と「社会主義」の狭間の「国民経済復興期」に焦点をあて論じた。古典的には「抗日統一戦線の共同性」が建国1年後に引き裂かれ、「社会化Vergesellschaftung」が強行された顛末記である。論旨は明快である。51年2月から都市部の「国民党残党処理」を名目とした「反鎮運動」も、51-52年の政府・軍・共産党の浪費・汚職に対処する「三反・五反運動」も「大衆運動」として「従来革命史観から積極的・肯定的にとらえる傾向があった」が、「社会主義そのものの再検討がおこなわれている現在、理念ではなく、運動の実態に視点をすえて再検討することが必要」である。すると「穏健な改革方式から大衆運動による階級闘争方式」への転換による「反鎮」で240万「土匪を殲滅」、127万「反革命分子」拘留、71万人「処刑」。さらに「三反運動」で汚職120万人摘発、「五反運動」で工商業者100万人の私営企業破綻・閉鎖。これら「大衆運動」で「長期にわたるはずだった新民主主義段階はいつのまにか社会主義への移行期」と位置づけられ「朝鮮戦争の直接的産物」として中国社会主義が生まれた。そもそも社会主義とは「後進国における総力戦の態勢」で当初より「はっきりした構想があって構築された態勢」ではなく「対応をせまられた現実の諸問題に対処していく過程で徐々に形成」されたものだった、と。

 これは、1989年東欧革命・91年ソ連解体をみた現時点では、旧ソ連・東欧諸国の歴史に世界的に適用されつつある分析視角であり、その意味で手堅い実証研究である。評者もその末端にいる世界的な20世紀共産主義史の犠牲者発掘運動のなかでは、かの『共産主義黒書』の推計との関連で、現在も政権にある中国共産主義の犠牲者の規模と実態が、最もファジーな焦点になっている。旧ソ連秘密史料公開で、スターリン粛清の政治的犠牲者は数百万人レベルまで絞りこまれたが、それだけ中国建国期・文革期の犠牲者が占める割合が大きくなってきた。なお統計資料の信憑性には留保せざるをえないが、泉谷報告は、ともかくも中国現代史再評価の一礎石となる。

 だが「資本主義対社会主義」の旧来型視角を敢えて後景におき、「ナショナリズム」の文脈におきかえると、かえって見えなくなる問題も出てくる。この時期については、旧ソ連崩壊後の研究で、スターリン晩年の世界政策が詳しく見えてきた。朝鮮戦争をめぐって、スターリン、毛沢東、金日成の様々な駆け引きがあった。中国共産党内で毛沢東と周恩来は同じでなかった。帰趨を決するスターリンは、ヨーロッパとアジアを天秤にかけていた(ヴォイチェフ・マストニー『冷戦とは何だったのか』柏書房、2000年等)。中国共産党の「反鎮、三反・五反」は、マストニーのいうスターリンの「気まぐれ」期で、東欧諸国で「戦後粛清」が最高潮に達した時期と重なる。中国共産党の71万人処刑が事実とすれば、それは桁違いに大きい。当時の毛沢東の党内ヘゲモニーを含めて、改めて「冷戦史」「国際共産主義史」の文脈においてみる必要があるのではないか?

 戸田報告はわかりにくく、評者も、参考文献にあげられた中村勝巳氏の論文と併読することによって、ようやくある種のイメージを得ることができた。

 戸田報告の主人公アーダ・ゴベッティの夫ピエロ・ゴベッティ(ファシズム台頭期に活躍し1926年パリで客死)の「自由主義革命」論とは、「労働運動の問題は自由の問題であって社会的平等の問題ではない」という観点からロシア革命を評したもので、トリノ工場評議会のグラムシらの影響も受けて、宗教改革を欠いたまま達成されたリソルジメントの不徹底性を完遂する役割を工場労働者の自主的・自発的工場占拠に託し、諸個人の自立と自己決定領域拡大を革命の課題とした。ただしボリシェヴィキの国有化・計画経済・官僚主義は徹底的に批判した。今日「自由社会主義」のノルベルト・ボッビオが、ゴベッティ再評価の先頭に立つゆえんである。

 戸田報告は、アーダが亡夫ピエロの思想を継承して行動党レジスタンスに加わり、解放後の50年代はイタリア女性同盟・国際女性同盟設立に参画、福祉・教育・文化の領域で活躍し、61年にピエロ・ゴベッティ研究センターを設立した経緯をたどる。その「共同性」の根拠は、ボランタリーな文化的・道徳的「友情」で、「仲間の繋がりとソシアビリテ」であるという。国民性より地域性を強調した戸田報告を聞く限り、「ソシアビリテ」とは、ユルゲン・ハーバーマスが『公共性の構造転換』で述べた「サロン」や「社交性」に近いイメージであった。

 だが、ピエロの1920年代の「夢」とアーダの50年代の「夢」は、本当に同じであったろうか? 評者なりにいえば、ピエロの「自由主義革命」はグラムシの「機動戦」に照応し、アーダの「仲間主義」は「陣地戦」段階にある。労働者自治の根底に「仲間・友情・連帯」をおく視角は、評者の専攻する政治学の世界での「信頼trust」研究の台頭に照応する。「市民社会」や「公共性」の根底には諸個人の「信頼」がなければならず、紛争の非暴力的解決=自治の根底に「信頼」獲得能力を想定せざるをえない。それは、グラムシのヘゲモニー概念にも通じるし、ゴベッティもグラムシも経験しえなかったインターネット・携帯電話段階での「ふれあい」と関わる。

 いいかえれば、「共同化」であれ「社会化」であれ、「友情」「信頼」「ふれあい」の欠如した社会では、その国家や所有・経営形態がどうあれ、自治が統治に転化し、組織が官僚主義化し、ヘゲモニーが強制に転化しうることを、20世紀の人類は学んできた。それは石堂清倫が20世紀から引き出した教訓、「永久革命から市民的ヘゲモニーへ」と通じる(『20世紀の意味』平凡社、2001年)。評者自身の見方では、その「陣地戦」段階も終焉し、「陣地戦から情報戦へ」「民主主義の永久革命」が必要になっている(加藤『20世紀を超えて』花伝社、2001年)。

 この観点からすると、1950年代は、20世紀後半の秩序が未確立でアモルフォスであったが故に、世界のさまざまな地域にさまざまな「解放の夢」があり、それらのせめぎあいの中から生産力発展=「豊かさの夢」が、東西南北を問わず広がる初期段階だった。その「夢」は、60年代に爆発し制度化したが、70年代には早くもゆきづまりを見せ、地球生態系危機・核戦争の「悪夢」が広がった。80年代から資本の新自由主義とグローバリズムが先進国基準を強制し、国内外で格差は拡大した。「現存社会主義」の崩壊が、それを加速した。その段階で、改めて20世紀を振り返ると、50年代なら別の選択肢がありえたのではと、ノスタルジーがつのってくる。

 しかし、「近代」「豊かさ」を所与とする世代にとっては、選択肢の中身よりも、歴史がファジーであること自体が面白く、新しい「解放の夢」につながる「夢の解放」のヒントがあるのだろう。それが武者小路実篤であれ魯迅であれゴベッティであれ、「夢」をもちえたこと自体が歴史的な「記憶」であるから、「大きな物語」の同志愛・献身よりも「小さな物語」のサロン的友情の方が「快適」である。藤田省三ならそれを「安楽への全体主義」と告発するだろうが、もともと「夢」も「痛み」も体験し得ぬ世代には、身体感覚たりえない。だが、「痛みの記憶」を消し去っていいものだろうか? 3つの報告を聞いて、そのような感慨を禁じ得なかった。

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