聖人君主政治論を鼓吹する醜いアヒル達のイデオロギー

 ここでは、『聖人君主政治論』に基づいてと思われるどういう訳か社共運動的な、国会内を首狩族として立ち回る痴態を指弾することを意図している。凡そ誰も、『聖人君主政治』が行われることを期待しない者はいない。かといって、みんなが願うこの運動を為せば事足りるのかというと事情が少し違う。何故か、それは、政治が人間技の中でもかなり高度な実践力、眼力、金権力を要する分野であるからである。

 この運動の問題性は次のことにある。洋の東西を問わず何ゆえ『聖人君主政治』が機能し得ないのか。中世の閉塞を破るイタリア・ルネサンス以降何ゆえ『聖人君主政治』に代わる政治論が生み出され、如何に多くの智者が悪戦苦闘し、この高みを継承するのが現代的な課題となっているのか。ここを真剣に考えるべきであろう。にも関わらず、今日しがみつくようにして、社共なるものが旧態然とした『聖人君主政治』を鼓吹し続けるのか、その虚構も併せて凝視されねばならないだろう。

 政治に高踏趣味人による気紛れ的な道楽遊びは禁物だ。その理由は、そういう贅沢が許されるほど我が社会は豊かではない、時代の苦悩を背負わない気紛れ的な遊びは消耗以外の何ものをももたらさない、為になるいかほどのものをも生み出さないという咎による。よしんばそういうスタイルが有っても良いだろうと云うのなら、それはそうだ公党の座椅子から降りて市井の一員になってからやって貰いたい。それならお好きにどうぞで自由だろう。

 だがしかし、公党の指導部に在りながら高踏趣味人的に政治を弄ぶのは背徳であり、世に最悪質な政治姿勢であろう。このことを明確にせねばならない。昔の人はうまいことを云う、穀潰しと。事もあろうに、『聖人君主政治』的観点の愚を露わにさせ、歴史の中から階級闘争史観を汲み出したマルクスの系譜に列(つな)がる社共の側が専ら、高踏趣味人的政治を弄び始めている。そういう『聖人君主政治』鼓吹家が、金権政治批判という一見『正論』に取り組んだとしても、それ以前においてまずその者の姿勢が指弾されねばならないだろう。マルクス主義の看板を取り外してから運動するのが筋だろう。それが運動に対する誠意であり責任というものであり、政治家としての見識であろう。このことさえ弁えの無い品性劣悪の者が金権政治を批判して得意がるという構図は、茶番というか田舎芝居丸出しだろう。

 しかし、世の中は不思議なものだ。そういう者が先生、先生と提灯され、当人もその気になって徘徊する。良いことを云うのだから誰にも不都合は無い。一見受ける。しかし、少し考えてみれば分かるが、碌なもんではなかろう。そういう者がいなくても世の中は廻るし、そういう者に吸い寄せられている金目を社会全般に還流した方が、どれだけ世の中を良くするか。ところがどっこい、そういう連中に限って、金権批判の口先とは別に結構貯めている、貯めていない者はあやかろうとして茶坊主になる、あるいは過剰なまでに御身安泰の権益に囲われている、それが世の中だわな。


 政治家が、世の中の政治をより良くしようと思って国事奔走しているとみなすのは、政治学を弁えた者にとっては白けた話しになるであろう。実相は全く反対に、社会各層の利害関係を調整する為にあるいは支配層の意思を貫徹させる為に棲息しているのであり、ここに利権の温床があり、当然何らかの形で見返り報酬(口利き料、権限拡大等)抜きには有り得ない。史実的には国事奔走型の井戸塀政治家が存在したことを否定することは出来ないが、主流になれなかったことを慮るべきだろう。

 ましてや今日、自由市場的名残りをとどめながらも国家独占資本主義社会と云われているガンジガラメの規制強化の世の中である。この体制下では、国家、その下僕たる官僚、財界、業界、その他圧力団体の利害関係を廻って刻一刻遣り取りされ取引されている。ここに政治家が介在しており、族議員化する根拠があるのであり、潤滑油的に機能していくことにより絡み合う利害関係を調整する。利権にまみれずその稼業を遣り通せることを思うだに嘘臭い。

 現下の政治家の選出システムは普通選挙制度に拠り、そこで選ばれた代議士による国会で法案と予算案が審査されている。それらの採択は多数決を原則とさせていることから、これに即して多数派活動が議員活動の眼目となる。当然、法案ないし予算案には国益の体裁を纏いながら私益が反映させられているからして、多数派活動は熱気を帯びざるを得ない。与野党一致なぞそうはたくさんあるものでは無い。次に、国会は内閣を選出する。その内閣が官僚と一体になって政府を構成する。これを与党権力と云い、与党は終始政策をリードする。ここが利害関係調整あるいは指針創りの総本山であり、であるが故に議員活動の頂点となり、余程の変人党派で無い限りどの党派もこの位置に立つことを望む。

 この制度は歴史的に生み出されたものであり、過去のどの制度よりも過ちが少ないということに功のある制度である。これが大衆型民主政治というものの本質であり、善悪の判断には馴染まない産物である。この制度の欠陥は、これを維持するのに膨大な経費を要することにある。つまり、金が掛かるということである。一つは、出発点での代議士選出システムとしての普通選挙制度そのものに由来している。選挙費用は公費だけでは到底賄いきれないのが通常である。次に、議員活動そのものにかなり経費がかかることにある。公設秘書、私設秘書、事務所その他費用は活発にさせればさせるほど金食い虫となる。この仕組みは普通の事業経営と何ら変わりはない。当然見返りがあるから継続出来る。次に、議員活動の発展系としての派閥維持活動、次に、更なる発展系としての権力掌握活動への道が敷かれており、精出せば精出すほど経費が掛かる。同時に権力化の度合いに応じて蟻が群がるように陳情が集中し、持ちつ持たれつで政治資金が運ばれることにもなる。

 自民党の場合典型的に、このプロセスを個々の議員活動の裁量に任せてきた歴史が有る。党というのは最低限綱領での結集体であり、この綱領で原則的一致が為されるならば誰でも党員になれる。個々の政策への対応、政治家としての識見は基本的に自主自律であり、底辺においては活発な民主的討論が保障されている。各種審議会での見解の擦り合わせから始まり、派閥の意向を踏まえて委員会決議に至る。これが党議となり国会での対応が決定される。実際にどのように運営されるのか、形骸化されてはいないかという詮索も可能ではあるが、少なくとも制度的には見事な機関民主主義を構築することに成功している。

 あまたの野党が政権与党になれないのは、この仕組みに対して劣るという党派でしかないからである。過去、自民党と対極的な見解を得手として反対派活動してきている共産党を例に挙げてみれば、その機関運営は、肌寒いというより恐ろしいほどにお粗末な『民主集中制』という組織原則に則っているが、精査してみれば『暴君的幹部集中制』であることが判明する。『民主集中制』という名に最も忠実な運営は自民党の方が格段に優れていることが見えてくる。案外にこのことが知られていない。他の野党は、自民党と共産党の間の折衷的な機関運営でしかなく、決して自民党的な手法を凌ぐ域には達していない。してみれば、自民党の政策なり金権体質をマンネリ批判すれば事が足りるというものではない、もっと大きな克服課題が横たわっているということが認識されねばならないだろう。

 この一連の経過には常に、人を動かすにはそれも単に動かすではなく機能的に活性化させるにはどういう条件設定が要るのかという哲学的課題が横たわっており、何がしかの智慧を要する。難しく云うのは趣味ではないので端的に云うと、人には利害に敏いという牢とした習性があり、この欲求に応えない限り票も獲得出来ないし(つまりは代議士になれないということである)、代議士となって以降においても、官庁との利害を調整できなければ法案及び予算案に意向が反映させられない。この活動の発展系として常態化したのが派閥の形成と効用であり、これも歴史的必要産物だ。これも善悪の判断には馴染まない。各議員は派閥経営に成功しない限り権力に接近できない、ひいては権力を掌握出来ないという構造の中で頭角を現わそうとする。これに最も功が有り手っ取り早い効き目があるのがご存知「金権」だろう、次に「利益誘導」、次に同志的結合、以下に識見、達見、人格、品性だろう。

 この現実を離れてキレイ事を云う者は不正であり、余程の三枚舌の持主にして初めて吹聴できる。もっとも、例外的に第四権力マスコミの追い風を受ければ、金権、利益誘導無しに頭角を現して行ける道筋が無い訳ではないようである。しかし、この手法もまた主流にはなれないであろう。あるいは、万年野党としてチェッカーの役割を果たすという変人ないしそういう政党もいない訳では無い。しかしそのこと自体かなり無責任な政治家あるいは党派であることを暴露している。なぜなら、政治家が願う政策を貫徹する為には、多数を頼まねば出来ず、与党権力を掌握すればこれを十全に出来るとすれば、権力取りに向かうのが自然だろう。単に願望するだけの政策なぞ市井の一員の域でしかなかろう。政治家の使命は、有権者あるいは圧力団体の付託に応えることにあり、それが責任政治というものである。要望する政策の採択はその集中的な表現であり、権力取りに向かうのも有権者あるいは圧力団体から付託された意志の貫徹としてみなされるべきであろう。これが近代政治の方程式のようなものであり、事実史実は全てそのようになっている。

 さて、問題は、願うらくは金権乃至は利益誘導を求めない有権者造りと代議士造りにあるやに思われる。族議員の問題も右同じ関係で測れる。有権者のところが省庁あるいは圧力団体に代位するだけのことだろう。その相互間の陳情政治=地元優先=選挙母体優先を邪とするのか正とするのかという問題もある。企業献金を是とするのか非とするのかという問題も有る。これらは余程根深い問題であり容易な解決を許さない。にも関わらず、何らの理論的切開をしないままにのっぺらぼうに、我はその種のものにまみれなかったと得意げに云う政治家がいたとするなら、むしろ恥ずべきであろう。その者は単に党中央に拝跪するロボトミーであるか、何もしなかった、あるいは何かの企てを止めさせることに尽力したというだけのことであろう。

 議員が議員活動の付託に忠実である限り、実際には、器量に応じて何がしかの事をしているはずである。その力量に欠ける者あるいは党派が、政権与党の華やかな活動振りにいちゃもんつけて清潔-正義を売り込む。あるいはおこぼれにあやかろうとする。それは陰気質系の運動であって、誉められることではなかろう。

 ところが、これにマスコミが悪乗りする。これに大衆まで巻き込まれたら、現下の政治システムは機能しなくなること必定であるが、さすがにそうはならない。当然にも、我らの政権与党はこれまで建前論を一蹴してきた史実を見せている。だがしかし、ここへ来て、政権与党の能力の欠損が次第次第にこの論理に篭絡され始めてもいる。ここに政治の混迷があるとも云える。残すところは大衆の識見如何であるが、さすがに我々のそれは卓越しており常に仕事師を目指すからして(でなければ食べていけない)、嘘の論理には絡まれない、しかして安心せよ。


 以上を踏まえて、以下「聖人君主政治論を鼓吹する醜いアヒル達のイデオロギー」を見ていくことにする。

 まずは、「我が党は無縁である」を見ていくことにする。れんだいこ観点に拠れば、「政治家として付託された仕事を為して何らの対価も要求しなかったということは嘘臭いし、仮にこれをマジに云う者が有るとすれば述べたように決して自慢にはならない。マジにそれを実践するならば自縄自縛に陥り、転向するか三枚舌の徒になるか、気楽稼業の黄門派になるかの三股の道が待ち受けている」ということになる。(以下略)