第9部 1947年当時下半期の主なできごと.事件年表
片山内閣のその後から「第六回党大会」まで

 (最新見直し2007.7.2日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第1期、戦後初期から(日共単一系)全学連結成とその発展」に記す。

6.1 【片山内閣組閣なる】(社会党委員長片山哲−社会・民主・国民協同3党連立政権)
6.1 日本共産党の戦略原案「当面の革命の性質と平和的方法による革命について」が発表された。
6月 共産党.「アカハタ」「前衛」誌上で志賀・神山論争が展開された。党内に志賀・神山論争の後遺症が残った。
6.3 文部省、学校における宮城遥拝(ようはい)・天皇陛下万歳・天皇の神格化的表現の停止などを通達。  
6.5 マーシャル・プラン
6.8 日本教職員組合(日教組)結成。公称組合員数は50万人。
6.28 石炭の増産をはかる手段として、石炭の生産の現場を国家が直接管理するいわゆる炭鉱国家管理法案を6.28日政府決定し、国会に提出しようとしていた。国有化と国家管理、炭鉱管理者と生産協議会等の関係付けを廻って、政府の監督権、事業主の事業主体権限、労働組合の経営参加権等重要な課題がはらまれていた。
7.1 党は、片山内閣は保守陣営に屈服したと声明し、以後内閣への攻撃を強めることになった。  
7.1 公正取引委員会発足。
7.1 独占禁止法、一部施行。
7.1 東京都庁が官公庁としては初めて職場結婚(継続勤務)を公認し、貸し付け6000円を決定する。
7.5 1800円ベースの新物価体系発表。
7.10 静岡県登呂遺跡の発掘開始。7.13日登呂遺跡(発見は1943年)の第2次発掘調査開始。
7.16 あかはた=AKAHATAをアカハタに変更。
7.18 日本共産党のマルクス.レーニン主義研究所で戦略問題研究会が開かれ、宮本が「人民民主主義革命への展望」という報告を行った。こちらも神山理論をめぐる論争が背景にあった。
7.18 1800円ベースの新物価価格体系発表。
7.20 沖縄人民党(浦崎康華委員長)創立。
7.20 独占禁止法、全面施行。
7.25 平野力三ら日本農民組合から分裂、全国農民組合結成。
7.26 米国で、国家安全保障法が成立し、陸海空三軍を統合する国防省(ペンタゴン)が新設された。
7.28 滝沢修・宇野重吉らにより民衆芸術劇場(民芸)が結成される。
8.4 最高裁判所発足。   
8.11 全官公庁労働組合連絡協議会(全官公)結成。
8.11 東京都に練馬区を新設し、東京都が23区制となる。
8.14 浅間山爆発。山火事で登山者11人が焼死。
9.1 労働省発足。山川菊栄が初代婦人少年局長に任命される。
9月 全国の公立校で社会科の授業が始まり、新教科書「あたらしい憲法のはなし」が配られた。非常にわかりやすい内容で、言論の自由や戦争放棄の部分が新鮮だったと伝えられている。
9.14 キャスリーン台風が関東地方に襲来。1都6県、100以上の市町村が濁流にのまれる。死者1077人、行方不明853人。
9.22 ソ連は、東欧諸国と英仏の共産党の代表を招いて、ポーランドで会議を開き、10.5日共産党労働者党情報局(コミンフォルム)を設置した。アメリカの「対ソ連封じ込め戦略」への対応策となった。
9.25 炭鉱国家管理法案は、 閣内、寄り合い政党間の根回しを経て9.25日国会に提出された。
10.1 「帝国大学」の名称廃止。
10.1 赤旗日刊となる。  
10.1 第6回国勢調査実施。調査の結果、総人口7810万1473人。東京都500万7771人。大阪府333万4659人。
10.5 欧州共産党情報局=コミンフォルム結成を発表。
10.10 キーナン首席検事声明発表。「天皇と実業界の人物に戦争責任はない」。
10.11 山口良忠東京地裁判事、配給生活を守り栄養失調で死亡。『朝日新聞』スクープ→食料危機が生んだ英雄。
10.12 日本共産党通算第6回中央委員会総会開催。第6回党大会の召集を決定、行動綱領改正案について報告。「第六回党大会」草案として発表された。
10.13 片山首相を議長に、最初の皇室会議.皇室経済会議が開かれ、秩父.高松.三笠の三直宮家以外の皇族の皇籍離脱が決定した。10.14日秩父・高松・三笠の3直営宮家を除く11宮家51人が皇籍を離籍する。
10.20 ニューヨークタイムズは、「天皇の責任消滅せず」との論説を掲げた。オーストラリアのメルボルン放送、ロンドン発ロイター電も改めて天皇の責任を問う、との世論を伝えてきた。
10.21 国家公務員法公布。国家公務員の団体行動などを制約する。
10.26 改正刑法公布により、不敬罪・姦通罪廃止となる。  
10.30 関税.貿易に関する一般協定(ガット)調印。
11.4 片山首相、非協力を理由に平野力三農相を罷免、初の閣僚罷免権を発動。
11.7 国鉄反共連盟結成。
11.20 衆議院、炭鉱国家管理法案で大混乱。12.8日同法案成立。11.20日から三日間にわたって、衆議院鉱工業委員会では、法案の審議をめぐって乱闘が繰り返された。民主党内では芦田主流派と対立する幣原首相が強硬に反対し、野党自由党も法案阻止の態度を変えなかった。 
11.25 炭鉱国家管理法案がこの日衆議院通過
11.25 第1回共同募金が開始され、募金総額6億円。(翌48年より「赤い羽根」を使用)
11.30 歌舞伎の上演禁止が解除され、「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言が東京劇場で興行される。  
12.8 炭鉱国家管理法成立。
12.8 通算第7回中央委員会総会。党大会に提出する議案を審議。
12.9 炭鉱国家管理法案がこの日参議院通過。翌48.4.1日臨時立法として施行された。
12.12 児童福祉法公布。
12.13 社会党左派が「党内野党化」宣言。波多野鼎農相決定の不満から四党協定廃棄、党内野党化声明。     
12.16 共産党.東京地方委が東大細胞解散を決定。東大細胞指導部にいた渡辺恒雄=のち読売新聞社長ら、三田村四郎、鍋山らと連絡しての分派闘争が直接の理由。……三つのモダニズム=経済理論における大塚史学,文学理論での近代文学、哲学戦線での主体性論.法学部=丸山真男+川島武宜……批判のキャンペーン。
12.17 産別事務局党員と党中央との対立激化して、細谷脱党した。                 
12.17 警察法公布(国家地方警察、自治体警察設置) 。警察の地方分権化と民主化をうたう。  
12.18 過度経済力集注排除法公布。
12.21 【 「第六回党大会」開催】民族独立の課題を重視=反米路線に立った。 野坂草案(当面の革命の性質と平和革命)を承認した。
12.22 改正民法公布、「家制度」廃止。  
12.25 日本共産党新中央委員による通算第8回中央委員会総会開催。書記長には引き続き徳田球一が選出された。全体として徳田−伊藤律系の進出が目立った。
12.25 民主日本建設婦人大会開催。東京.京橋公会堂  
12.26 教刷委が文部省解体、文化省設置など教育行政民主化を決議。
12.31 務省廃止。 
この年、用紙事情の悪化により『文藝春秋』など雑誌に休刊が続出。  この年、扇情的「カストリ雑誌」が氾濫。  この年、スカートが流行する。この年、性病が蔓延し、推定患者数40万人。


 6.1日、野坂が、アカハタ紙上に「当面の革命の性質と平和的利用による革命について」論文を発表している。「占領下平和革命論」に基づき右派系の理論が開陳されていた。

【片山内閣の動き】
 6.1日、片山内閣が組閣された。社会党は、片山首相、西尾国務.官房長官、森戸辰男文相、平野力三農相、水谷長三郎商相、鈴木義男法相、米窪満亮国務相の7名。民主党が、芦田均外相.副首相、矢野庄太郎蔵相、一松定吉厚相、苫米地義三運輸相、木村小左衛門内相、斎藤隆夫国務相、林平馬国務相の7名。国協党は、三木武夫逓信相、笹森順造国務相の2名。その他官房次長に曽根益。

 参議員緑風会から和田博雄経済安定本部長官が就任していた。吉田内閣の農相であった和田博雄が引き続き登用され、片山内閣の最重要ポストである経済安定本部の長官に抜擢されたことになる。その背景に吉田−片山会談があったと伝えられている。経済安定本部は「安本」と云われてこの時期大蔵省に替わるかの如くの権限を握っていた。新鋭エコノミスト都留重人と山本高行、稲葉秀三が「安本三人男」と呼ばれて采配を振るった。

 片山内閣は、「働くものの生活を守り、正直者が損をしない世の中をつくる」と国民に訴え、経済危機食糧危機突破の緊急政策、その他の施策に取り組むことになった。「財政民主主義」が打ち出され、戦前の苦い経験による教訓がいくつか活かされた。

 水谷長三郎商相は、「保守陣営の人が勤労階級に対して云えないことを社会党が云う。そして現在の経済再建に協力してもらうところに、我々の使命がある。今後失業者が増えるので、これに対しては、場合によっては、むしろ保守陣営の場合より、もっとつらきを強いるようなことをやらねばならぬ」と発言している。独占資本の立ち直りの地ならしをやるという露骨な意図の表明であったが、これが片山内閣の政治的役割であったもみなせる。民法を改正して封建的家族制度を廃止し、また、刑法を改正して不敬罪、姦通罪を廃止した。公務員法、警察法改正等々も手がけた。

 この間6月から10月の5ヶ月間に100万トンを越える食糧(主として小麦)が米軍から放出された。これは、片山内閣成立以前の5ヶ月間の放出量の3倍にあたっていた。

【マーシャル・プラン】

【「志賀・神山論争」始まる】
 6.4日、志賀義雄がアカハタに、昨年来の神山茂夫の「二重の帝国主義論」に対する批判論文「軍事的・封建的『帝国主義』について」を発表した。以降、6回にわたって論文が連載された。これに対して、神山は猛然と前衛誌上で反論を展開した。(アカハタでの反論の機会はあたえられなかった)。こうして、47年を通じて党機関紙アカハタ、前衛において「志賀・神山論争」が展開されていった。

 志賀は、前衛19号に「党史の見方」を発表。最後の結びで、概要「年も若く党生活もみじかい神山君の理論的偏向は、党史のただしい知識を欠き、階級意識のひくい党員、ことにあらたに党内へ流入した青年知識人の階級意識の低さの集中的なあらわれ」だと断じた。神山は、前衛20号に「党史の見方に答える」を発表。「年齢がうえで、党生活が長いものがかならず正しいというなにか特別の保証があるのだろうか」と反論している。志賀はこれに答えることなく、「世界史の一考察」を最後に一方的にこの論争を打ち切った。概要「神山君の理論はインテリゲンチャ、ことに学生からきた党員のなかで、まだ小ブルジョア性を根本的に克服していない人々の傾向のあらわれだ」と論証抜きの結びとしている。

 小山弘健は、「日本資本主義論争史」の中で、概要「その理論の広汎さ、主題の深刻さ、内容の重大さなどあらゆる点で、マルクス・レーニン主義理論戦線に大きな前進をもたらした」と評している。

 6月、日本教職員組合(日教組)が発足。


【「不当財産取引調査特別委員会」の設置】
 7月、国会内に「不当財産取引調査特別委員会」が設置され、「政治にまつわる不明朗な金」の徹底調査に乗り出している。この特別委員会は当初は加藤勘十が委員長となり、次に武藤運十郎が就き、もっぱら自由党のボロを出そうと努めたが、自由党も社会党に返り血を浴びさせようとし始め泥仕合となった。

【「炭鉱国家管理法案」の行方】
 今日的に注目されるのは、重要産業エネルギー源であった炭鉱国家管理問題(石炭国管案)であった。石炭の増産をはかる手段として、石炭の生産の現場を国家が直接管理するいわゆる炭鉱国家管理法案を6.28日政府決定し、国会に提出しようとしていた。この背景には、大戦中にそれまでの17%にまで低下していた石炭生産を、200万トンから国家需要量の250万トンにまで荘産させるため、国家の企業管理にしようとする意図があった。

 この「炭管法案」は、片山内閣の社会主義政策の現れであり、保守党は「私企業を否認することは、民主主義を根底から覆すもの」だとして、イデオロギッシュな対立となった。国有化と国家管理、炭鉱管理者と生産協議会等の関係付けを廻って、政府の監督権、事業主の事業主体権限、労働組合の経営参加権等重要な課題がはらまれていた。法案は、 閣内、寄り合い政党間の根回しを経て9.25日国会に提出された。11.20日から三日間にわたって、衆議院鉱工業委員会では、法案の審議をめぐって乱闘が繰り返された。民主党内では芦田主流派と対立する幣原首相が強硬に反対し、野党自由党も法案阻止の態度を変えなかった。

 この時事業主より多額の政治献金が動いていたことが後日判明した。民主党の田中万逸、竹田儀一、田中角栄らの政治家8名と炭鉱業者4名が、贈収賄の罪で起訴され、裁判では200名を超える証人喚問が行われた。しかし、判決では、使われた金の大部分は、政治献金と判断され、政治家は無罪となった。結局法案は国家の管理権も労働者の経営参加権も希薄な骨抜き法案となった。11.25日衆議院通過、12.9日参議院通過、翌48.4.1日臨時立法として施行された。

 この動きは、社会党の執行部があそこまで保守党に妥協してしまってはもはや社会主義政策とは言えず、看過できないという左派の立場を明確にさせた。「保守党に足を縛られた片山内閣の政策をそのまま支持することは、片山内閣の前進を阻害し、片山内閣の崩壊を傍観視する結果を招くものである」。左派は5月会を組織しており、加藤勘十、松本治一郎、荒幡寒村、山花秀雄、加藤シズエ、黒田寿男ら衆参両院合わせて凡そ70名署名、党内野党宣言をした。その声明書は次の通り。「我が党出身閣僚は、自ら社会党首班たる建前を放棄し、内閣の性質を実質上、民主.国協を主導とする三派連立内閣に堕せしめ、社会党本来の政策遂行は絶望となった。---ことここに至った以上、我々は現連立内閣に対し、厳粛なる批判と行動の自由を確保するものである---」。

 こうして、片山内閣は結局のところ玉虫色政策を行きつ戻りつ保守と革新の間を右往左往するだけであった。その他閣僚人事に対する左派への冷遇等が党内左派をはじめとする左派系労働者の怒りを買い総辞職を余儀なくされることとなった。。内閣の不評が次第に人の口にのぼるようになり、社会党左派もジッとしておられなくなった。そんなこんなで、片山内閣は組閣以来8ヶ月余の短命政権となった。
(私論.私観) 片山哲内閣に対して見せた党の態度について

 この片山哲内閣に対して党がどのように対応したのか究明されるべき課題であろうが資料がない。

【「日本共産党創立25周年記念」】
 「日本共産党創立25周年記念」が催され、この時、中野重治の次の詩が朗読されている。赤旗は一面トップに載せた。

 『その人たち』―日本共産党創立25周年記念の夕に――

 そのいいようもない人々について私は語りたい。党をまわりから支えたひとびと、まわりからといおうか中からといおうか。

 その人々は心から息子娘を愛していた。子供たちは正しいのだということを理論とは別の手段で信じていた。

 娘が娘であったためにうけたテロルについてききながら、その母親が母親であるためにそれ以上話させることのできなかったその焼けるような皮膚のいたみ。そして息子に手紙を書こうためいろはから手習いをはじめたその小づくえの上の豆ランプ。

 やがてはそうなるであろう。しかしなるであろうか。しかしなるであろう。

 こういう子を持たぬ親たちに決してわかることのなかった愛で子供たちを包みながら、共産主義者の受けたのとは別な 共産主義者の親であるものとしての迫害にたえたその人たち。そして息子たちに先立たれさえし 白髪となり、今は墓のなかへと行ったその人たち。そして死にゆきながらも、子供たちとその党とへの愛において不屈であったその人たち。ああ この登録されなかった人たちのためどんな切子に今夜灯を入れようか。

 サヤ豆を育てたことについてかつて風が誇らなかったように、また船を浮かべたことについてかつて水が求めなかったように、その信頼と愛とについて、報いはおろかそれの認められることさえ求めなかった親であった人たち。この親であった人々の墓にどの水を私たちがそそごうか。どのクチナシとヒオオギとを切って来ようか。

 私は信じる。その人々が今夜ここへ来ていると。その人たちはこういうのである。

 みなさんよ、わたしたちは無駄には涙を流しませんでした。祝いなさい。して、かつて党員でなかった私たちのよろこびが、党員であるあなた方のよりも大きいのです。


 7月、山川均と向坂逸郎とが編集委員代表になって、雑誌「前進」が創刊された。その中心的メンバーは、山川均、荒畑寒村、高橋正雄、稲村順三、小堀甚二、板垣武男、岡崎ニ邸、向坂逸郎らであった。


【新憲法体制の整備 】

 片山内閣の成立に先立ち5.3日地方自治法が施行された。9.1日、労働省発足。12.31日、内務省廃止。翌年にかけて自治省.建設省.法務省とかわった。

 10月、国家公務員法が公布された。これはGHQの要請で来日したフーバー人事顧問団が作成し草案を基礎にしていた。フーバーは、USスチールなどの米国大企業の人事担当者として辣腕をふるい、その業績を買われて政府の要職についていた人物であった。フーバー草案の中心理念の眼目は、公務員をこれまでの「天皇の官吏」から「国民の公僕」に衣替えさせていることにあった。但し、公務員のスト権、団体交渉権は認めていなかった。片山内閣は命運に関わるとしてケージス民政局次長などに働きかけ、公務員にも民間並みの権利を認めることに訂正した法案に作成し替え施行した。この部分が翌年芦田内閣時の「政令201号」で再訂正されることになる。


【 党と産別との自己批判】
 産別は、2.1ゼネスト指導の自己批判を次の点に求めようとしていた。1.組合民主主義の確立、2.政党支持の自由化、3.ストライキ偏重の是正、4.基本的人権確保の為の闘争、5.生産復興に対する重点的運動、6.農民その他の団体との提携、7.労働戦線の統一と世界労連への参加の7項目。この反省点は、いずれも党の指導に対する批判的見地から為されている。党は当然の如くこれに噛み付くことになった。事実上の事務局長であった細谷松太の思想的影響によるものであるとして、集中攻撃を浴びせていくことになった。こうして党中央指導部と党フラクションの間に対立が発生することになった。この自己批判問題は、7.10日の産別臨時大会で「基本方針には誤りはなかった」とすることで決着がつけられた。

 この経過につき、増山太郎氏は「戦後期左派人士群像」の中で、次のように記している。
 概要「産別会議に対しては、7月の第2回臨時大会直前に島上善五郎ら総同盟の代表から、『労働組合の民主的運営を妨げてきた共産党のフラクション活動を排し、ストライキを避け、交渉戦に重きを置き、経営協議会、労働委員会などの帰還を利用する』よう、申し入れ書が手渡された。これに対して、大会には中央執行委員会全員が賛成した『産別自己批判及び方針』が提出され、この中で、『党活動と組合活動の差異を明確にし、あわせて組合の民主的運営と選挙を保証し、労働組合の規律を守り、自主性を確立する』点が強調され、総同盟との統一が進むかに見えた。ところが、共産党はこの自己批判を『坊主ざんげ』と非難し、党に盲従する『赤色労働組合主義』のつわものたちは、自己批判の内容は『細谷松太の思想的影響によるものであるとして、細谷一人に攻撃を浴びせかけ』、『大会のフラクション活動』が猛威をふるって、自己批判は書き直され、細谷は査問に附されることになった」。

 7月、雑誌『綜合文化』が創刊された。同誌は、『近代文学』と並んで戦後文学の成立に大きな役割を果たす。その中心メンバは花田清輝や加藤周一で、「戦後文学(アプレ・ゲール)の方法を索(もと)めて」(1948年2月)という座談会を企画し、そのなかで「職人(アルチザン)と芸術家(アルチスト)」の問題を提起していくことになる。


【コミンフォルム結成 】

 10.5日、ポーランドのヴロクラフ近郊で、先の「トルーマン・ドクトリン」と「マーシャル・プラン」によって象徴される帝国主義の反ソ封じ込め政策に対抗して、ソ連及び東欧6カ国、フランス、イタリアの共産党の代表が集まって、「欧州共産党及び労働者党情報局=コミンフォルム」を発表した。ソ連を中心とする社会主義陣営の団結と防衛の観点から結成されたことにより、東欧諸国はソ連経済の中に統合されていくことになった。

 この日共産党労働者党第一回情報会議が開かれ、ソ連共産党のジュダーノフが「国際情勢について」と題する基調演説をしている。その中で、「戦争終了の時から時期がたてば立つほど世界の舞台に活動する諸政治勢力の二つの基本的陣営―方や、帝国主義的反民主主義陣営と、方や、反帝国主義的民主主義陣営―への分裂に対応する戦後国際政治における二つの基本的方向がますますはっきりと現われてきている」と「体制間矛盾論」で戦後の歴史的位相を分析している。

 設立の際の宣言は次のように述べている。

 「戦後の世界は米帝国主義陣営と社会主義陣営に分かれ、前者は、後者を戦争をもって脅している。後進国や植民地に対しては経済復興を口実に奴隷化を推し進めている。従って、これらの諸国の共産党は、民族の独立、主権擁護のために闘争を展開すべきである」。

 この時のソ連を革命の祖国とする観点がその後次第に不整合していくことになる。

【共産党と全学連グループのちぐはぐ】

 10月、共産党が全学連グループを極左トロツキストとよぶが、のちに取り消し。青年対策部員・柳田秀一の「全学連の極左トロツキスト」という批判はのちに同志長谷川により訂正されたが、なお具体的闘争方針は決定されずちぐはぐしていた。東大学生細胞に影響力を見せていたことから、47.12.7日これを解散処分に附している。

【この時期の「天皇責任」論議について 】
 10.20日、ニューヨークタイムズは、「天皇の責任消滅せず」との論説を掲げた。オーストラリアのメルボルン放送、ロンドン発ロイター電も改めて天皇の責任を問う、との世論を伝えてきた。裁判で戦争と天皇の関わり、天皇と臣下の関係の解明が進むにつれて。東条の役割がポイントとなった。国内でも、東大教授横田喜三郎は、「天皇退位論」と題する論文を読売新聞に発表した。「かって軍国的帝国主義の日本を代表し、かずかずの侵略戦争に最終的な承認を与えた天皇がそのまま、平和国家を建設しようとする新しい日本の象徴として残ることは、理論的に不可解である」。

【 「第六回党大会」前の動きついて】
 片山連立内閣に対して、野坂は、「社会党の公約実行を促す為に下からの大衆的政治的運動を展開せよと呼びかけ、この運動の先頭に党員が立つべきだ」と主張した(AKAHATA6.4)。産別会議の執行部は、「2.1ゼネスト」の挫折による下からの諸々の批判に基づき自己批判書を提出していた。徳田は、これを「坊主懺悔」と揶揄し、執行部批判につながる動きを牽制する挙に出た。一つの官僚主義の現れであった。徳田執行部と組合グループの最初の対立となった。他方で、「第六回党大会」に向けての戦略問題に対する討議を党内にアピールした。

 6.1日戦略原案「当面の革命の性質と平和的方法による革命について」が発表された。原案では、野坂の提案を受けて「平和革命」を「革命の平和的発展」と表現が改められていた。「平和革命」が戦略的意義を持つものでなく、戦術的意味のものに限定されるべきであるという観点からであった。神山との論争が背景にあった。神山は、「戦後の新情勢下の特殊性においては、平和的共存.角逐により民主主義的革命も社会主義的革命も達成され得る(要約)」という野坂理論よりも徹底した平和革命論を主張していた。野坂は、革命の平和的発展を無条件に一般化することに反対しつつも、「もう一つの大きな問題がある。これは現在の占領的統治下で革命ができるか、という問題である。できるか。できる。」(「戦略戦術の問題に寄せて」前衛47.7月第18号)と主張し、同様の平和革命論を相変わらず主張していた。

 7.1日、党は、片山内閣は保守陣営に屈服したと声明し、以後内閣への攻撃を強めることになった。  

 7.18日、8月党のマルクス.レーニン主義研究所で戦略問題研究会が開かれ、宮顕が「人民民主主義革命への展望」という報告を行った。こちらも神山理論をめぐる論争が背景にあった。宮顕は、革命の平和的遂行ということが固定したものでないこと、それは一定の条件と限界性を持っていることを強調した。こうして、神山.野坂.宮顕の違いが見られることとなったが、系譜的にはこの三者は党内右派系三羽烏であり、平和革命論という認識の共通性に立って、「占領下平和革命」の基本方針の枠組みにおける論争をしたことになる。その中でも神山が更に右派.野坂が中間派.宮顕が左派という図式であった。

 10.12日、第6回中央委員会総会が開かれ、先の原案が「第六回党大会」草案として発表された。この総会では、次の大会ではこの草案を決定にまで持ち込まず、方針起草委員会を新設して、この委員会が真の草案をつくり、それを全党機関の討議にかけて全国協議会にはかり、その次の大会で最後的に決定するという取り扱い方針を決めた。


 10月、この年の5月頃北陸地方に派遣されていた袴田が同地方委員会議長となっている。都落ちした観がある。

【 平野農相罷免される】 

 片山内閣成立の2ヶ月もたつか立たないかの7月頃より内閣を支える立場の西尾と平野農相との間に対立が発生した。平野は「安本」長官和田とことごとく対立しており、「閣内不一致」を作り出す頭痛の種ともなっていた。政治的立場で云えば、西尾は芦田と連携を深め、平野はより吉田と近い右よりであった。その他政策上人脈上の立場の違いが表面化し続け、8.31日社会党長老の松岡駒吉が仲介の労をとるも和解せず、結局11.4日平野農相は罷免されることになった。この為平野派十数名が脱党することとなった。

 追い討ちをかけるかのように平野の戦前からの政治活動が問題とされ、審査委員会が設置された。平野の後任を廻って片山内閣はゴタゴタしていくことになった。社会党左派による野溝勝推薦の動きが為され、これに国協党が反発した。11.11日「農業協同組合の成立を前にして、我が党の政策とは著しく相容れざる後任農相の就任には絶対反対する。これに反する場合は国民協同党は重大な決意を有する」と決議した。社会党が野溝農相を強行すれば、片山内閣からの閣僚引き上げを辞さないとの方針が打ち出されたことになる。こうした難産の末12.13日視野解答参院議員で左右対立とは無縁であった波多野鼎が起用されることとなった。一閣僚の補充にほぼ一ヶ月が経過しており、片山首相の指導力が疑義されることになった。

 この間平野は審査委員会に反証し、12.26日の採決の結果は6対2で「平野は追放に該当せず」と決定された。これに勢いを得た平野は、翌48.1.5日全農派議員16名の名を連ねて社会党離党声明を出すことになる。


【 芦田外相により「芦田メモ」が根回しされる】

 芦田外相は、7.26日、アチソンを訪問し、日本の講和と安全保障に関する「芦田メモ」を手渡している。この「芦田メモ」がその後進展することになる講和条約の原型となった点で重要な位置をしめている。

 「芦田メモ」は、「米ソ関係が良好となり、世界平和に関し何ら不安なき場合」と「不幸にして米ソ関係改善せず、世界的に不安の生ずる場合」の両面から案文骨子を作成していた。前者の場合は、対内的には警察力、対外的には国際連合に依拠すれば良いとしていた。後者の場合は、米軍の引き続きの駐留を依頼し基地を提供する、その特別の協定を締結し日本の防衛を米国の手に委ねるとしていた。つまり、「米ソ対決が融けない限り、日米間に同盟を結び、日本の安全保障を米国に依存する」という日米安保条約の原型を提案していた。この「芦田メモ」は当人の政権時には実現することなく、芦田のライバルであった吉田の手の中で結ばれていくことになった。 


【 中西功の社会主義革命論発表される】

 この時期中西功は、「民主評論」(11.12月号)紙上において新庄千光の名で、GHQの広範多岐な日本民主化政策に拠り絶対主義が消滅したとみなし、「我々の解明すべき現代日本革命の根本問題とは何か。その第一は、現代日本革命の性質である。それがブルジョア民主主義的性質か、それとも社会主義的性質かという判定である。具体的に言えば、長い間、日本人民の課題であった日本のブルジョア民主主義革命は対極的に終わったのか、それともまだ継続しているのか、という問題である」と設問し、「日本のブルジョア民主主義的変革の個々の課題は広範に残されているが、権力が基本的には独占的大資本家の手に握られているとすれば、ブルジョア民主主義革命はその限りで一応終わったことになり、社会主義革命のコースが日程に昇ってくる」、「こうして、日本におけるブルジョア民主主義革命が終わり、次は社会主義革命が日程にのぼった」と「直接社会主義革命」を目指すべきと主張している。

(私論.私観) 中西功の論文発表について

 今日注目すべきは、このような反党中央の見解が堂々と発表されることについて党内的異論、批判が為されなかったということであろう。


【 野坂の中西理論批判】
 10月、第6回中央委員会総会が開かれ、野坂が討論の結論を述べ、中西理論を次のように批判している。概要「(中西が云うように)社会主義革命ということになれば、闘争の主たる目標は、資本主義全体の打倒ということになる。我が国の現在の階級関係またこの基礎となる生産書関係からして資本主義制度全体を覆すところに主たる目標をおいてわれわれの闘争を進めるならば、これによって救われ喜ぶものが出てくる。もし社会主義革命の戦略をとるならば、結局、敵は封建勢力と独占資本ばかりでなく、あらゆる種類の資本主義勢力を一つに団結させ、敵は大きなものになってしまう」。

(私論.私観) 野坂の愚論について

 今日、野坂のエセ左翼性が明らかになっているが、この愚論を凝視する必要がある。「社会主義革命の戦略をとるならば、結局、敵は封建勢力と独占資本ばかりでなく、あらゆる種類の資本主義勢力を一つに団結させ、敵は大きなものになってしまう」とは、何と珍妙な理論だろうか。革命闘争が激化すればするほど双方が団結しせめぎ合うのは必然であろう。敵が団結し大きくなることを杞憂するのなら、闘わないのが良い論になってしまうではないか。まさにここにこそ野坂理論の一貫した本質がある訳では有るが。「そのような立場を、『マルクス主義』と『共産党』の名において労働者階級に強要するところにこそその反革命的本質が潜んでいるのだ」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)とあるが、「潜んでいる」のではなく「露になっている」とみなすべきだろう。


【 産別会議の第3回大会が開催される】

 11.17日、産別会議の第3回大会が開催されている。大会の運動方針案は1ヶ月前に発表されたが、労働組合の独自闘争を主張して、共産党の煽る地域人民闘争方針に反発していた。生産復興闘争においても、党の指導する金融機関、重要産業の国営人民管理運動を重要視せず、首切り反対闘争と低賃金反対闘争に力点を置こうとしていた。地域人民闘争は、経済闘争と政治闘争を結合させたものとして党が重点運動化させていたが、産別は労働組合運動の独自性という見地を強調した。いわば労働組合の「自主独立路線」を主張していたことになる。細谷と執行委員会内の非党員、党フラクション、党中央の督戦隊長谷川浩と伊藤律との間に折衝が繰り返された。結局党中央の意向を挺した党フラクションが議論を制し、運動方針案は全面的に書き改められた。運動方針は、職場闘争を地域人民闘争と結合させ、国営人民管理にまで発展せしめなければならないことを強調し、あらゆる戦線での生産復興闘争に邁進するよう指摘した。

 大会後、党は一段と細谷攻撃を強め、組織的に処分させている。細谷は民主化同盟の組織的な準備にとりかかっていくことになった。細谷とは、「大正年代以来の闘士で、右から左へ左へと歩みつづけて、前後2回合わせて10年の獄中生活を送り、その豊富な闘争経験と思想の遍歴淘汰は、産別の事務局次長といったポスト以上に、労働運動界に重きをなすものを持っていた。総同盟の松岡、西尾、高野に伍しても、あるいは共産党の中においても、彼は特異の人物だった。21年の4月頃、疎開先から東京に出た彼は、すぐ徳田たちにも会い、産別の組織に全力を傾けた。小さな男で、演説もあまりうまくはないが、老練と誠実さによって、10月闘争から2.1ゼネストにわたる闘争の縁の下の力持ちとして、目に立たない実力を示していた。‐‐‐産別の自己批判大会は、結局、代々木のテコ入れで坊主ザンゲ問答で終わったが、全逓の松江大会(6月大会)は早くも地域闘争の戦術を決定した。こうなると、党と労働組合の闘争戦術と組織の関係を越えて、戦略戦術のあらゆる問題を包含する論戦となって、細谷は、何度も代々木に呼びつけられて、細胞会議などの調査会で渡り合った。徳球が大いに怒って細谷を面罵すると、細谷も遂に徳球をゴロツキだとやり返し、仲介役を買って出た野坂も、とうとう腹を立てて、今度は徳球がなだめるのに野坂が細谷の除名論を出すという有様だった。徳球は細谷を労働組合部長に呼び戻し、枠をはめようとしたが、細谷はこれを断ったのである」(森正蔵「戦後風雲録」)とある。


 11.28日、炭鉱国管法案決議の際、幣原派は造反して反対票を投じ、民主党を脱党して僅か28名の「同士クラブ」を結成した。田中も移籍する。民主党の分裂となった。幣原率いる同士クラブ28名は無所属議員8名を加えて民主クラブを結成し、その後吉田茂が率いる日本自由党112名に合流、その他を加えて152名で民主自由党を結成していくことになった。この流れの議員は、幣原、田中、根本竜太郎、降旗徳弥、原健三郎、原田憲、佐々木秀世、斎藤隆夫らである。


【 社会党左派の「五月会」が、党内野党宣言】

 12.13日、社会党左派の「五月会」が、「片山内閣に対し批判と行動の自由を留保」するとの党内野党宣言を発した。概要「片山内閣は民主・国協を主導とする三派連立内閣に陥ったことにより、社会党本来の政策遂行が絶望となった。本来の社会党路線を堅持し、片山内閣と是々非々の道を歩む」と、由々しき事態を告げていた。鈴木茂三郎、加藤勘十ら衆議院議員69名、松本治一郎ら参議院議員12名が署名していた。社会党国会勢力のほぼ半数に達していたことになる。これを回顧して、文相だった森戸辰男氏は、「党首の統率力もさることながら、党員が相協力して一つの勢力として党を守っていくという意識がなければ、‐‐‐おれが、おれがというような気持ちでいたんでは、連合政権なぞとてもうまくいくものではない」と語っている。



【戦後党史第一期】.【ミニ第B期】
 2.1ゼネストの敗北から第6回党大会で【ミニ第A期】の【徳球―野坂―志賀のトロイカ体制】から【徳球−野坂−伊藤律執行部】に転じ、これを始発として片山―芦田内閣時の地域人民闘争を満展開する時期を経て第3回総選挙での躍進までを戦後党史【ミニ第B期】とみなすことができる。

【 「第六回党大会」開催】

 ○期日.会場.代議員数について

 このような中12.21−23日にかけて「第六回党大会」が東京の京橋公会堂で開催された。これに先立ち、党中央委員会は、大会前に、党本部の食堂で特別の代議員会議をひらいて、アメリカの占領支配を終結させて民族独立をかちとる闘争の重要性について強調し、新たな情勢に対応する方針を確認した。

 ○党勢について

 徳球書記長は、党勢拡大の状況について一般報告の中で次のように述べている。概要「党員は約10倍に増大し、経営、農村、居住等における細胞が第5回大会当時に比して著しく強固となり、飛躍的に進展した。そして質的な向上も認められる。党機関も拡大強化された。地方委員会の結成されたものが東北、関東、北陸、中国、九州となり、関西は1月に確立する。未確立なものは四国と北海道のみとなった。府県委員会は大体確立されつつあるが、地区委員会はいまだ不十分の地方が多い」。

 ○大会の眼目 

 大会決定を含めて、党が出版物に公表する文書も全部「GHQ」の事前検閲を要求される条件のもとで、公然と占領政策への批判や反対をうたうことができなかった。大会の眼目は、ここあたりで戦後の党運動の包括的な見直しをすることにあった。これまでの闘争の経験の反省と総括、「GHQ」の占領政策の転換に直面しての「占領下平和革命」の見直しに向かうべきチャンスであった。ところが、「GHQ」が日本人民の闘争の更なる発展に正面から対峙する局面を迎えていたにも関わらず、大会はこの方面での理論的切開を為しえず、野坂による「当面の革命の性質と平和的方法による革命について」が採択され、占領下の過渡的革命と平和的発展の方式を確認することとなった。

 中西が社会主義革命を主張する機会が与えられたが多数で否決された。 この時野坂は、概要「もし社会主義革命の戦略をとるならば、結局、敵は封建勢力と独占資本ばかりでなく、あらゆる種類の資本勢力をひとつに団結させ、敵は大きなものになってしまう」、「民主革命を完遂すること、同時に社会主義的過渡的任務を遂行することであって、同志中西らの戦略をとれば、我々の革命は失敗することになる」と反論している。しかし、中西は納得せず、「中西意見書」と呼ばれる論文を発表していくことになる。

 ○採択決議について

 大会は、草案の処理について、先の中央委員会総会決定の線に基づきこれを採択に持ち込まなかった。この草案を基礎に、次の大会までに正式の綱領草案を作成するということを決定し、その起草委員として徳球.野坂.志賀.宮顕.伊藤律の5名に、鈴木市蔵.竹内七郎.渡部義通を加えた8名を選出した。

 大会は新たに「民族独立」の課題を掲げることになった。党の「現在もっとも重大なる任務」として、「自国の主権を擁護し、完全なる独立を保持し、その基礎の上における国際平和を確立すること」を挙げ、「進駐軍=解放軍規定」の見直しに迫った。この見地から、「行動綱領」が改定され、冒頭で「ポツダム宣言の厳正実施」、「人民による経済復興と日本の完全な独立」のスローガンを高く掲げることとなった。

 この大会で東大細胞の解散が決議されている。一細胞の解散という議題が党大会の席上で統制委員会(山辺健太郎が報告に当たった)から報告されるということは異例であったが、それだけ重みのある決議であったということになる。解散の直接的な理由は、当時細胞指導部にいた渡辺恒雄、中村某の2名が三田村四郎(転向後の三田村はこの当時鍋山貞親らと共に積極的な反共活動を画策していた)らと通じて資金援助を受けながら、解党主義に走った挙句に分派闘争に向かっており、無視できない状況にあった。イデオロギー的にも、経済理論における大塚史学、文学理論での近代主義、哲学戦線での主体性論などに支えられて、各分野で「モダニズム」を主唱しつつあり、党としての対応が急がれていたということでもあった。

 統制委員の山辺健太郎は、その報告の中で、「今後、戦略戦術の問題であるとか、その他の党の基本的政策に関係ある問題は党外の雑誌では一切論じない。党内でやる」よう提案している。

 ○新執行部について

 中央委員として1徳田球一.2野坂参三.3志賀義雄.4宮本顕冶.6金天海.7春日庄次郎.8袴田里見.9志田重男.10伊藤律.長谷川浩.春日正一.紺野与次郎.蔵原惟人の他新たに伊藤憲一.松本一三.竹中恒三郎.高倉輝.岸本茂雄.白川晴一.遠坂寛.松本三益.亀山幸三.佐藤佐藤次.野坂竜らが、末席に神山茂夫(順位調査要す)の25人が選出された。神山茂夫の末席待遇は後にしこりを生むこととなった。

 退任したのは黒木重徳.内野竹千代.岡田文吉.西沢隆二.松崎久馬次.水谷孝らであった(事情調査要す)。中央委員候補として岩田英一.小西正雄.砂間一良.多田留治.遠坂良一.西館仁.原田長司.朴恩哲.保坂浩昭.山本斉の10人が選出されて中央委員会メンバーが構成された。統制委員に、宮本.松本惣一郎.山辺健太郎.西沢隆二.岩本巌.岡田文吉.椎野悦郎.増田格之助.輪田一造の9名を決定した。党員10万名以上。

 12.25日新中央委員による通算第8回中央委員会総会でこの中から政治局員(徳田.野坂.志賀.宮本.金.伊藤律.長谷川.紺野)9名と書記局員(徳田.野坂.伊藤.長谷川.亀山)の5名が選ばれた。書記長には引き続き徳田球一が選出された。統制委員会議長に宮本顕治を選出。全体として徳田−伊藤律系の進出が目立った。


【徳球−伊藤律−野坂体制について】

 こうして従前と同じく「徳球−野坂−志賀体制」が再任されたが、伊藤律の台頭著しいものがあった。伊藤は政治局員と書記局員を兼ね、実際に農民運動の経験がないものの農民部長となり、さらにアカハタ主筆代理となり、党のスポークスマンともなった。事実上副書記長格ナンバー2の地位にのしあがったのであり、「徳球−野坂−志賀体制」から「徳球−伊藤律.野坂−志賀体制」への移行が為されたとする方がより史実に近いと思われる。

 但し、彼の起用には宮顕.袴田.春日(庄).亀山らが批判的であった。徳球は、こうした伊藤批判を一切受け付けなかった。「律を抱きかかえるぐらいの政治性をもたんと政治家ではない」と云っていたと伝えられている。袴田は、この大会で何一つ報告を担当させられず、政治局員、統制委員からも外され、ヒラの中央委員に格下げされた。

 この頃から運動方針上の対立が表面化していくこととなった。日本の独立問題が新たに浮上することにより、戦略課題として独立闘争と国内の奪権闘争のどちらを重視するのか、議会闘争と大衆闘争の位置づけ等々が問われることになった。独立闘争を強く主張するグループとして宮顕派が台頭し始めた。その他奪権闘争の方式をめぐって様々な見解が生まれつつありグループ間の対立へと発展しそうな気配を強めていくことになった。こうした事情に規定されて、新体制は徳球の家父長的な指導の下、伊藤−長谷川.志田.紺野らの専断的な機関運営傾向を強めていくことになった。徳球グループの派閥的運営が目立つことになった、と今日では総括されている。

(私論.私観) 伊藤律について

 伊藤律の特徴は次のようであった。人当たりの柔らかさと如才のなさ、巧みな弁舌と事務的な小器用さ、情報集主力のすばやさと情報源の豊富さ、目先の判断の鋭敏さと人間関係を処理する勘の良さ等々。これらの性格上の特徴が彼を急速に党指導部にのしあげる為の有力な武器となった。この伊藤律の有能性について山辺健太郎は次のように述べている。

 概要「情報をたくさん持っており、仕事はできる男だった」、「午前中に徳田が口にした思い付きが、午後には伊藤によって文章化されたり、整理されて出てきた」。

 かって朝日新聞の記者であった村上寛治氏は、その著「日本共産党」の中で、伊藤律を次のように評している。

 「共産党員らしくない如才なさ、さわやかな弁舌、政治情勢等に対する判断の鋭さは、記者会見に現れても、誰よりも鮮やかにこなしていた。如何にも若手指導者という相応しい青年政治家タイプだった。獄中で半生をおくることの多かった世間知らずの共産党幹部が、到底真似のできることではなかった。伊藤の世馴れした才覚は、こうした共産党の盲点を補い、また大衆に接し、急速に膨れ上がっていく共産党にとって必要な存在だったのである。徳田はこのように器用な彼を寵愛したのである」。

 一時伊藤律が身を寄せていた人民社の社長佐和氏も、次のように評している。

 「共産党本部の勤務者を見ると、伊藤君ほど日常の事務をきちんと処理していく事務官僚が少なかった。大言壮語するやつは大勢いるが、政策を立てて、モノを処理する能力の人間が少なかった。だから徳球からみれば、(伊藤は)便利だった、一番調法がられたのではないか」。

 ところが、宮顕共産党時代になっての「日本共産党の50年」では、「党内での官僚主義を助長し、伊藤律、志田重男などの不純分子の党の指導中枢への潜入を許し、政治上の誤りを拡大する重要な要員となった」と記して、伊藤律の評価を全面否定している。

(私論.私観) 「徳球−伊藤律体制」について

 この徳球−伊藤律体制に対して、高知聡氏は「日本共産党粛清史」文中で、「こうして、徳球−律のコンビが出来上がると、野坂は祭り上げられ、志賀も神山も宮本も袴田も疎外され、日共の徳田家父長制なるものが確立するのである」と記している。これが本書を通じて明らかになる高知聡氏の政治的スタンスである。れんだいこと観点が対極にあることが分かる。れんだいこは、この時期こそ我が左派運動が頂点に達した時期であり、問題はこの体制が如何にして権力からあるいは党内反対派から、しかも「右」から「左」からの共同戦線で寄ってタカって葬られたのかを明らかにすることが、貴重な論稿課題であると考えている。高知聡氏は逆に、徳球−伊藤律体制を最悪視した上で、党内反対派の「右」から「左」まで撫で斬りにするという、その限りで急進的であるが内実が見えてこないという変なイデオローグであるという姿態が見えてくる。


【47年当時の党の方針の特質と要点】

 こうして「第六回党大会」の方針の下に党の活動が組織されていくことになったが、この3カ年間は49年上半期まで党内変化はほとんどもたらされていない。

 @〈世界情勢に対する認識〉について

 既に進駐軍=「解放軍」という定式はできなくなり、進駐軍は占領軍と認識されるようになった。占領軍は既に連合国というよりアメリカ軍となっており、このアメリカ占領軍との戦いが認識され始め、占領軍からの「日本の完全な独立」が掲げられることになった。とはいえ、戦後の党運動そのものが「GHQ」のお墨付きから始められたことにより、 「GHQ」=アメリカ帝国主義との闘争という認識には至らなかった。協調と対立がないまぜにされた時期であったとみなされる。

 A〈国内情勢に対する認識〉について

 従前と異なり、「GHQ」の政策転換に抗して「GHQ」に替わって「ポツダム宣言事項の厳正実施」を迫ることになった。従来は「GHQ」政策の積極的支持であったことを考慮すれば様変わりとなった。この時期以来、党独自の「民主主義の徹底と人民生活の安定」に対する取り組みが必要とされ始めスローガンにされていくこととなった。


(私論.私観)

 @.Aにつき従来の認識との厳しい決別を要求されていたが、党の方針は概ね変換されたものの明確且つ積極的なものとはならなかった恨みがある。


 B〈党の革命戦略〉について

 第5回党大会宣言は、「現在進行しつつある、わが国のブルジョア民主主義革命を、平和的にかつ民主主義的方法によって完成することを当面の基本目標とするとした」。「GHQ」の政策転換局面に遭遇して「平和革命コース論」が見直されるべきであったが、むしろその傾向を一層強めた風に思われる。「二段階革命論」の視点の下妥協的表現への改竄が進行した。天皇制問題は、「天皇制打倒」→「天皇制廃止」→「天皇制の廃止を伴う国家機構の完全な民主化」という曖昧な表現になった。政体についても「反人民.反共政府反対」、「民主人民政府」、「人民共和国」と単に掲げられただけで樹立するのか願望なのか明確でない表現となった。ここで初めて「反人民.反共政府反対」という目新しいスローガンが生み出されていることが注目される。「人民共和政府」→「人民主主義人民政府」→「反人民.反共政府反対」という流れで捉えるならば大幅に後退的な妥協的表現であることが注目される。

 野坂が「戦略、戦術について」なる報告を行い、先の中西功の意見書を意識しての発言と思われるが次のように述べている。「我々は、現段階においてブルジョア民主主義革命を完成し、この過程での社会主義革命への過渡的任務を遂行しなければならぬ。農村では封建制が清掃されていない。官僚制と封建的勢力は頑強に残っている。これを徹底的に清掃しなければならぬ」と右派的見地から批判し、その結語で「もし社会主義革命ま戦略をとるならば、結局敵は封建勢力と独占資本ばかりでなく、あらゆる種類の資本主義勢力を一つに団結させるために敵は大きなものになってしまう」と、腰の引けた愚にもつかぬ論で中西功意見書に反論している。

 C〈党の革命戦術〉について

 従前と同じく引き続き人民戦線理論の元に統一戦線運動に従って闘争が組織されていった。

 D〈党の当面の具体的な運動方向〉について

 従前と異なり、党内は、次第に議会主義への傾斜グループ野坂派と労働組合運動をはじめとする大衆闘争グループ徳田派というように党の運動が二極化しつつあった。既にどちらの流れも押しとどめることはできず、こうしてこの時期の党ははからずも議会闘争と大衆闘争を二元的二頭立てで取り組んでいくことになった。

 E〈党の大衆闘争指導理論〉について


(私論.私観)

 B.C.Dにつきこの時期相変わらず野坂の「平和革命コース理論」のもと急進的な運動を排斥する穏健路線が公式の見解として影響を及ぼしつつあったことが注目される。2.1スト後のあらゆる兆候が、アメリカ帝国主義の軍事占領下の平和革命などあり得ないこと、従って民主主義革命にせよ社会主義革命にせよ占領軍の撤退と主権の回復を獲得する民族独立運動が不可欠の課題であったにも関わらず、野坂式「平和革命コース理論」が相も変わらず中心に据えられたままに「民族の独立」を要求するという不細工な体を晒すことになった。しかし、大会ではこの自己矛盾についての指摘が為されなかった。


 F(党の機関運営について)

 この大会で統制委員山辺健太郎報告により、「今後戦略戦術の問題であるとか、その他党の基本的な政策に重要な関係のある問題は、党外の雑誌では一切論じない。党内で論じる」ことを決定した。党外で理論活動を展開する神山問題等を通じての統制的な傾向の現れであった。

 但し、規約第10条には「党の組織や党の機関の中で、党の政策に関するあらゆる問題の自由な討論ができることは党内デモクラシーに基づく全ての党員の権利である。この党内デモクラシーに基づいてこそ正しい自己批判が行われ、形でない心から党規律が強められる」との規定は保持されていた。 

(私論.私観)この時期の「議論の対する締め付け傾向」と「規約10条」について

 徳球党中央時代において議論はかなりオープンであった。しかし、徳球が「理論拘泥主義」として党内議論を抑制し始めたのも史実である。これをどう観るか。田川和夫氏は著書「日本共産党史」の中で、「それまで『民主評論』誌上などで論議されてきた戦略論争を暴力的に圧殺し、党内官僚機構を完成させ、徳田派閥り前面的開花に導いていったのであった」と手厳しく批判している。れんだいこはこの見解を一定理解し、一定留保したい。なぜなら、野坂も含めて神山、宮顕らスパイグループによる愚にもつかない有害無益な「理論拘泥主義」による党中央批判が執拗に繰り返されていたからである。ここを見ないと状況が分からないのではなかろうか。

  当時「規約10条」で、党員の自由な討論権が保障されていた。この条項が何時どのように変質させられていったのか、追跡の価値がある。


 G〈左翼陣営内における本流意識〉について

 従前と異なり、2.1スト後遺症により既に党の左翼運動内部における睨みは効かなくなりつつあった。この時期の社民に対する認識は次のように総括されている。「1945−47年の激動期に、国民大衆のつよい要望がありながら、民主的なな統一戦線が結成されなかったことは、労働戦線の民主的な統一に成功しなかったこととならんで、日本人民の解放闘争を困難にした。アメリカ帝国主義の対日政策の基本は、日本における民主革命の流産であり、そのための重要な柱としての反共攻撃は、右翼社会民主主義者の反共的な姿勢を大きくはげました。統一戦線の結成をはばんだ最大の障害が、社会党と総同盟の指導部をにぎっていた右翼社会民主主義勢力の反共主義にあったことは、この二年間のすべての歴史的経過にてらして明白である。かれらは、人民の闘争が重要な局面をむかえるごとに、民主勢力の統一戦線に反対して、独占資本やブルジョア政党との協調、連携の道をえらんだ。この時期の統一戦線結集への最大の障害は、アメリカ大国主義の反共声明の前にまえに動揺し、反共分裂主義をむきだしにした、これらの勢力にあった」(「日本共産党の65年」)。「2.1スト以後のみすごすことのできない一つの重要な特徴は、社会党が政府に加わって反人民的な諸政策の直接の執行者となり、また労働組合運動でも、占領軍に指導され育成された反共民主化運動が展開されるなど、右翼社会民主主義がアメリカ占領政策の一つの重要な支柱としてはたらいたことである」(「日本共産党の65年」)

 H〈この時期の青年戦線.学生運動について〉

 47年、「全国国立大学自治会連盟」が結成された。「全社学同」と「青共同」の一部で「全日本民主青年同盟」が結成された。

 1.22日、東大で、学生自治会が結成された。1.31日(2.1ストの前日)皇居前の人民広場で、関東大学高専連合学生大会が開催され、40校代表3万名が集まった、早大4千名が結集。「各学校に学生自治会を結成し、自治会連合に結集しよう」アピールを採択し、その他自治権確立等11項目要求決議し、文部省デモをかけている。この時かどうか「関東自治会連合(関東自治連)」が発足している。

 2月、共産党、全国学生細胞代表者会議開催。この時期の全学連結成に合わせて党のフラクションとして全国社会主義学生同盟(全社学同)等も結成されている。続いて全社学同と青共同の一部で全日本民主青年同盟が結成されている。

 4月に片山内閣が成立したが、この頃学生運動活動家の間に「主体性論争」が起こり、学生細胞の中にも影響を与えていった。党中央は、「主体性論」をマルクス.レーニン主義に反する小ブル思想であるとして批判を強めた。
 

 6.21日、第二回の全国国立大学学生会議が開かれ、「大学理事会法案反対、国交私立の差別撤廃、戦災校の復興、学生会館設置、育英資金の増枠、インターン制度改善、教職員組合との交流」などが決議されている。11月京大で、第3回全国国立大学学生会議が開かれ、ここで国立大学学生自治会連盟が結成され、13校が参加した。11月関東自治連組織現勢は、早大=2万、慶大=1万、明大=1万、東大=1万、法政=1万、日大=2万2千、津田=6百、東京女子大=1千であった。12.26日教刷委で文部省解体、文化省設置など教育行政民主化が決議されている。

 I〈大会後の動き〉


【東大新人会の「再建」運動】

 9月以降、東大新人会の「再建」が始められた。これを推進したのが現読売新聞社長渡辺恒雄、通称ナベツネであった。渡辺が共産党に入ったのは46.10月である。この頃は、読売争議支援の新聞通信単一労組や電気産業労組(電産)の10月ゼネストが挫折し、翌年には2.1ゼネストがマッカーサーの直接干渉で失敗に終わった。左派労組の全国組織である産別会議の足下では、のちの総評(社会党支持)につながる民主化同盟が動き始めていた。渡辺らは、この民主化同盟と連絡を取りつつ、青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける共産党中央の方針に反対し、47.9月以降、東大新人会の「再建」を始めた。

 この「再建」活動には、東大細胞の指導部が少なくとも表面上は賛成をしていたようだが、党中央はもとより東大細胞が所属する中部地区委員会にも東京地方委員会にも相談なしに行われていた。しかも渡辺は、この活動資金5千円を戦前に共産党を抜けて裏切り、党の破壊に走ったことで有名な三田村四郎から受け取っていた。
ちなみに、「東大細胞解散に関する手記」(渡辺恒雄)は「〈始動〉48.3.1」から再録されたものであり、かなりの長文であるが、渡辺自身がこのことを追認している。「私は新人会財政部として若干の寄附を三田村氏から得た」、「その際我々は同氏が党の転向者でもあるので、旧指導部員の諸君と相談しその賛成を得た」という書き方で、三田村から金を貰った事実を認めている。三田村は、佐野学、鍋山貞親、水野成夫、田中清玄らとともに元共産党幹部の一人であり、戦前の共産党弾圧に際しての転向組の一人であり、関係者で知らぬものはいなかった。転向後の三田村は、「三田村労研」の名で労働組合の御用化工作を続けており、鍋山と共に精力的に反共活動を展開していることで知られていた。渡辺は、右派系運動の工作資金ということを承知で三田村から金の工面を受けていたことになり、その活動は最初から怪しさがあったことになる。


【「主体性論争」】

 渡辺恒雄らの活動は、当時各分野で巻き起こりつつあった「モダニズム」と関連していた。「モダニズム」とは、この当時経済理論における大塚史学、文学理論での近代主義、哲学戦線での主体性論など各分野で硬直的なマルクス主義からの解放が生み出されつつあり、これを擁護するイデオロギーとして跋扈しつつあった。その主流は社民運動と連動していた。

 「主体性論争」は、マルクス主義運動の見直しの契機=「反省の矢」として重要な意義を持っていたと思われるが、文学の領域で狼煙が上げられ、哲学の分野に飛び火し、論壇を席捲していった。しかし、共産党系イデオローグの一人古在由重氏などの「主体性などと騒いでいるのは人間の屑」という観点から水を差され、鎮火していったという経過がある。

 「主体性論争」の意義と経過について、高知聡氏は「日本共産党粛清史」で次のように述べている。

 「戦後の共産主義運動の出発点は、敗戦による『解放』が外から与えられたものであったため、戦時下の思想的敗北に対する『真摯にして誠実』な主体的反省に求められねばならなかった。昭和初年代の日本マルクス主義の開花と、昭和10年代における完全な敗北、とりわけ大東亜戦争下での悲惨な転向体験を考えると、その昭和前期の全体験が思想的に精査され、総括されねばならぬことは、共産主義運動の再出発の絶対的前提であったといわなければならない。主体性論が諸領域で巻き起こるのは、その意味で自然な成り行きであり、文学においても哲学においても、それが忘失されたのではなく、事実、問題はそのように提起されたのであった。この主体性原理に関わる問題の主体的な追及が、理論的にであれ、告白的にであれ、徹底して広範に行われていれば、戦後思想の様相は現実のそれとは異なった実りをもたらしたに違いない。けれども、戦後思想の主潮流は、この問題を孤立させ、押し流してしまったのである」。

【中西功の社会主義革命論が発表される】
 中西功が新庄千光のペンネームで、「民主評論」の47.11・12月合併号の中で、「2年来の日本政治・経済の変化」なる論文を発表、概要次のように述べている。
 「我々の解明すべき現代日本革命の根本問題とは何か。その第一は、現代日本革命の性質である。それがブルジョア民主主義的性質か、それとも社会主義的性質かという規定である。具体的に云えば、長い間、日本人民の課題であった日本のブルジョア民主主義革命は大局的に終わったのか、それともまだ継続しているのか、という問題である」。

 田川和夫氏は、「日本革命運動史1」の中で、次のように評している。
 概要「日本のブルジョア民主主義革命がその限りでは終わったことを執拗に確認し、社会主義革命のコースが日程に上っていることを党指導部に警告し続けたのだった」。
 「山本―中西らに代表される『社会主義革命論』の提起は、共産党戦略の修正を要求するものであったと云えよう。その社会主義理革命論はアメリカ占領軍の武力干渉とどのように労働者階級が闘うのか、又その社会主義革命を実現していくのに労働者階級はどのような手段を行使していくべきなのか、樹立されるべきプロレタリア独裁権力の母体となるべきものは何であり、そしてまたその革命が、世界革命運動とどのような連関を持つものなのか、などについては何も触れられていなかったのである。『社会主義革命論』を提起することは、労働者階級の闘争をスターリン主義の歪曲から解放して行く為の出発点であるが、その入り口にたったに過ぎないのであって、決して戦略論争の終着点にたったわけではない。そのことについて中西達もまた無自覚であった」。

 11.16〜17日、共産党が全国学生細胞代表者会議。全国一斉闘争には否定的評価、地域闘争重視を打ち出す。

【党中央、東大新人会グループの動きに断を下し、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定」】
 12.16日、党中央系共産党東京地方委員会は、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定」し、東大細胞に通告した。小林の説明によると、この「解散」は当時の規約にもとづいた処置であったという。渡辺らはこの際「再登録」を申し出なかったもので、党内文書では「除名」と記されているが、特殊ケースだといえる。「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志とおこないの統一もたもてない」(1948.1.8日付けアカハタ)という理由であった。

 この間のことを渡辺は次のように記している。
 「新人会の発展は極左派の諸君の猛烈な反対と妨害を受け、私は代々木に喚問され、十人近くの極左派の諸君の取りまき罵倒する中で宮本中央委員、山辺統制委員に詰問」。

 この時の宮顕がどういう立場で動いたかは別途考察を要する。小林の思い出話によると、当時は現在と違って共産党以外に「極左派」と呼ばれる集団があったわけではないが、渡辺らが起草した「新人会綱領」には「公式的極左主義を克服し」という部分があり、これが渡辺らの常日頃の言動からして、日本共産党の方針への批判を明らかにしたもので、分派活動の証明と見なされたという。

 12.25日、共産党が「学生運動の当面の緊急問題」発表、地域闘争方針を強調。

【国際自由労連の結成】
 世界労連の分裂工作が行われ、12..28日、国際自由労連が結成された。アメリカ国務相の後押しで誕生したものであるが、「自由にして民主的な労働組合運動」を目指すとしていた。




(私論.私見)