第8部 1947年当時上半期の主なできごと.事件年表
「2.1ゼネスト」から片山哲内閣の誕生まで

 (最新見直し2006.9.11日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第1期、戦後初期から(日共単一系)全学連結成とその発展」に記す。

1.1 吉田首相は、年頭の辞をラジオで放送中、労働運動の左派一部指導者に対して「不逞の輩」と呼んで物議を醸した。(吉田語録)
1.1 ぬやまひろし(西沢隆二)による「新しい文化のために」論文発表。
1.4 公職追放令改正。対象を3親等・言論界・地方公職などに拡大。 
1.5 党は、第4回拡大中委で、政治的ゼネストの決行を決議した。以降ゼネストの指導と「人民政府」の樹立に向けて闘争を組織していった。 
1.6 党は、第2回全国協議会を開催し、民主政権樹立を目指す政策の提起、地区委員会の確立と常任の設置、大衆運動方針を決定。 「ゼネストを敢行せんとする全官公労働大衆諸君の闘争こそは、恐るべき民族的危機をますます深めた吉田亡国内閣を倒し、民主人民政権を樹立する全人民闘争への口火である」と檄を飛ばした。
1.9 全官公庁労組拡大共闘委員会、2月1日のスト実施を決定。 
1.11 皇居前広場で「吉田内閣打倒国民大会」が開かれた。50万人参加、食料メーデーの2倍に達していた。 
1.14 【自由党の社会党懐柔の動き】
1.15 【「2.1ゼネスト」が計画された】「産別会議」.「総同盟」.全官公庁共闘を始めほとんど全ての全国組合が参加する「全国労働組合共同闘争委員会」(「全闘」.議長伊井与四郎)が結成され、「2.1ゼネスト」が計画された。経済闘争と吉田内閣打倒の政治闘争が結合されていた。 
1.15 新宿帝都座5階劇場で、初の額縁ヌードショーが開演される。 
1.18 全官公庁労組拡大共闘委員会、2月1日午前零時をもって無期限スト(2・1ゼネスト)突入を宣言。
1.20 産別会議議長聴涛が右翼の襲撃を受け負傷させられた。
1.21 新興宗教璽宇教の教祖璽光尊(じこうそん)と、幹部で元横綱の双葉山らが食糧管理法違反で逮捕される。  
1.22 ヤミ取り締まりのため武装警官が東海道線に警乗する。 
1.23 2.1ゼネストに対する態度を決定すべく社会党中央執行委員会が開かれ、回避、延期すべき事を15対5で決定した。西尾書記長ら右派の主導であった。しかし、ゼネストの動きはますます強まっていくことになった。
1.28 宮城前広場(人民広場)で、50万人集まって吉田内閣打倒、危機突破国民大会が開かれた。ゼネスト態勢が全国をおおい、まさに革命前夜の情勢が作り出されつつあった。
1.28 同夜日比谷の焼け跡に立っていた勧銀ビルの中で、共産党と社会党の秘密連絡会議が招集された。共産党側からは徳田、伊藤律が出席、社会党側からは加藤勘十夫妻、荒畑らが出席した。労組側からも。問題は、2.1ストをやるとして「GHQ」が介入してくるかどうか、その際の対応について協議することだった。こうして「2.1ゼネスト」に向けて秒読みが始まった。 
1.28 中労委の斡旋に拠り、第二回政労交渉が開かれた。政府からは、石橋湛山蔵相.河合良成厚相.平塚常次郎運輸相.一松定吉逓信相、労働者側は伊井議長以下22名、中労委も末弘.鮎沢.中山.桂.徳田.松岡.西尾が列席した。2.1ストを経済要求として妥結をはかろうとするならば、この時がチャンスであった。しかし、共闘側はこれを拒否し、「吉田内閣の即時辞職」を要求した。 
1.29 吉田首相は社会党に対して第二次連立工作の申し入れをしてきた。このたびの申し入れには片山が折衝した。社会党には、労働、建設、商工、無任所のポストが用意されていた。片山は党内に持ち帰り、中央執行委員会を招集した。その結果は、全員一致で拒絶することを決定した。こうして吉田の第二次連立工作もご破算した。 
1.29 【GHQの介入】この様子にあわてた「GHQ」は、干渉を開始した。 
1.30 中央労働委員会の仲介による、政府と共闘との直接交渉は、夜半に及ぶも決裂した。2.1日午前0時を期してのゼネストは必死となった。
1.31 徳田は共産党本部前で次のような声明文を読み上げた。「ゼネストを先頭とする、この大闘争こそが、生産増強のムチとなり、同時に反動勢力を何時一掃する強力な力を結集することになるのである。全人民が、この点を見失わざらんことを望むと同時に、この労働者の一大闘争に合流して、自己の一切の要求をかかげて、闘争されんことを望むものである」。
1.31 【マッカーサー、「2・1ゼネスト」に中止命令】 ゼネストの前夜、「現在の日本の困窮した事態において、かくも恐るべき社会的武器の行使を許さない」旨のゼネスト中止命令を出し、共闘議長伊井弥四郎は身柄を拘束されマーカット経済科学局長他の最終的強制的説諭を受けた。伊井にゼネスト中止のラジオ放送を強制した。伊井は、 「一歩退却、二歩前進」、「労働者、農民万歳、我々は団結せねばならない!」の言葉を残しながらゼネスト回避を指示した。
2.7 マッカーサー、総選挙実施を指示。
2.20 吉田改造内閣発足
2.25 八高線高麗川(こまがわ)駅付近で客車4両が転覆。買い出しの乗客など184人死亡、約800人が負傷する。
3月 あかつき印刷発足。
3.5 槙原悦二郎内務大臣、全国警察部長会議で「主食の強権供出」を訓示。これにより、主食供出促進に警察力が動員されることになる。
3.8 国民党と協同民主党が国民協同党を結成。三木武夫を書記長とした。78名の議員を組織した。この頃、日本農民党結成。
3.9 戦後初の国際婦人デーの集会に1500人が参加する。
3.10 【労働戦線の潮流変化】2.1ゼネスト後労働戦線に変化が現れた。2.1ゼネスト闘争の経験は労働戦線の統一機運を前進させ、全国労働組合連絡協議会(「全労連」)が結成された。産別会議・総同盟のほか、中立系主要労組の組合員計420万人が参加する。      
3.12 いわゆる「トルーマン.ドクトリン」が宣言されて、アメリカは次第にソ連封じ込めの戦略にシフトした。こうした動きに対抗して9月ソ連邦を中心とするヨーロッパ九カ国の共産党.労働者党の情報連絡機関として「コミンフォルム」(共産党.労働者党の情報局)が結成された。ソ連邦共産党指導部スターリンを中心とする対冷戦戦略であった。
3.15 東京都35区制が22区制に整理統合される。
3.17 GHQ.マッカーサー、占領の早期終結、講和条約を連合国記者団に提唱。アメリカ大統領選に出馬を決意?の動きも見られた。
3.31 自由党内の斎藤隆夫、芦田均、一松定吉、河合良成、木村小左エ門、犬飼健、楢橋渡諸氏が吉田首相、大野幹事長と見解を異にするとの理由で脱党。日本進歩党(総裁幣原)に合流して日本民主党を結成した。総裁は幣原と芦田の間で争われることになった。
3.31 衆議院選挙法改正案が国会を通過し、選挙法が改正された。大選挙区連記制度は、一選挙区の定員が多いうえに、一人で三人の候補者の名前を書けるために、小党乱立になっていた。吉田の持論は小選挙区制であったが、マッカーサーはそれを良しとせず、結局相談しながら過渡的な方策として中選挙区単記制を採用することとなった。これが今日まで続いている。衆議院解散(帝国議会の終幕)⇒「憲法解散」
3.31 教育基本法.学校教員法が公布施行された。4.1「6.3制」実施となる。歴史科は社会科に吸収され、「くにのあゆみ」は消滅した。
3.31 全国労働組合連絡協議会結成
3.31 日本民主党結成(芦田均総裁)
3月 この月財政法公布。教育基本法・学校教育法公布。修正資本主義を旗印に、日本民主党結成。進歩党を中心に、自由党・国民協同党の脱党者が加わり145人の勢力で衆議院第1党となる。  
4.1 「6・3制」実施。
4.1 町内会・部落会・隣組制度が廃止される。
4.1 上越線高崎〜水上間に戦後初の国鉄電化区間が開通。  
4.5 第一回一斉地方選。都道府県・市区町村の首長選挙が実施される。東京都知事に安井誠一郎、大阪府知事に赤間文三が当選。 党は、党員町村長23名、都道府県議3名、市区町村議438名当選。
4.5 衆議院解散(第九二帝国議会、最後の帝国議会)
4.7 労働基準法公布  
4.8 公共職業安定所設置。
4.14 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)公布。7月から施行した。今後の経済活動におけるカルテル活動、持株会社の設立等を禁止した。  
4.17 地方自治法公布
4.20 第一回参議院選挙実施。 共産党4名当選。得票、地方区720、257票。全国区610.948票。全国区3,地方区1名。社会党は47名(17.30)、自由党は38名(8.30)、民主党は28名(6.22)、国協党は9名、諸派(9.13)、無所属(57.54) 。 初の統一地方選挙。
4.25 【新憲法下初の総選挙】新憲法に基づく戦後最初の総選挙(第23回)が行われた。 婦人議員が39人から15人に減少する。小学校でローマ字教育を開始する。(社会143名、自由131名、民主121名、国協29名、共産4名、諸派25名、無所属13名当選)
4.29 アメリカのSWNCC(国務.陸.海.三省長征委員会)は、「日本の過度な経済力集中に関する米国の政策」(SWNCC−302−2)を決定した。これは、「日本経済の独占的支配が、日本の侵略を培い、支持した主要な要因である」、という認識のもとに、「過度な集中の排除」を目指していた。これが5.12日に極東委員会においても決定されることになった。 
4.30 憲法施行を前に枢密院・皇族会議・大審院が事実上幕を閉じる。枢密院の最後の本会議が開かれ、皇室典範の廃止などを決めて、天皇の最高諮問機関としての60年の歴史を閉じた。明治憲法の終わりを告げる儀式でもあった。 
4.30 4.30日都道府県.市区町村議員選挙が実施される。(第1回統一地方選挙) 
4.30 この月、当用漢字・現代仮名づかいによる国定教科書の使用が始まる。
5.1 皇族11宮家が請願の形で皇籍離脱を表明。
5.3 日本国憲法施行。                       
5.7 社会党の中央委員会が開かれ、政府樹立への基本方針を模索した。西尾末広、平野力三ら右派は自由党をも含めた4党連立内閣を、鈴木茂三郎、加藤勘十ら左派は自由党外しを主張して激しく対立した。共産党に対する対応の仕方にも違いが見られた。結局この大会は具体的方針については何も決めることが出来ず、「救国挙国政治体制の実現にまい進する」という決議をしただけで終わった。 
5.14 社会党左派の鈴木茂三郎、加藤勘十が外人記者団との会見の席上、共産党との絶縁を声明、世間を驚かした。背景には、連立組閣内閣の条件として容共左派を切れという排除が保守党側より画策されていたことにあった。社会党左派は、この事件を契機に鈴木、加藤の「右往左派」と荒畑、松本の「純正左派」に更に分化することとなった。 
5.17 GHQ、吉田内閣の3閣僚を公職追放。
5.17 参議院無所属議員58人が、「緑風会」を結成。  
5.18 通算第5回拡大中委開催される。参院選、地方選の総括、講和会議に関する声明の採択。且つ野坂より、革命路線の草案を提出され、従来の「平和革命」が「革命の平和的発展の可能性」と改められ、平和革命方式が採択された。 
5.18 民主党の総裁選が争われ、芦田氏が幣原氏を破って総裁に就任した。 
5.19 経営者団体連合会(代表常任理事諸井貫一)設立48年4.12日日本経営者団体連盟(日経連)と改称し、財界の労働運動対策機関が確立された。
5.20 第一回特別国会召集、第一次吉田内閣が憲法第70条により総辞職し、憲法第71条により新内閣成立まで政務代行、特別国会召集。「緑風会」の構成議員数が92人に増大。参議院最大勢力となる。 
5.23 【片山哲内閣の誕生】衆議院本会議で片山哲が内閣総理大臣に指名された。
5.29 宮本.袴田に復権証明書が交付される。


【吉田首相の年頭の辞「不逞の輩」騒動】

 1.1日、吉田首相は、年頭の辞をNHKラジオで放送中、労働運動の指導者を「不逞の輩」と呼んで物議を醸した。「この悲しむべき経済事態を利用し、政争の目的のためにいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするが如きものあるにおいて、私は、我が国民の愛国心に訴えて、彼らの行動を排撃せざるをえないのであります」、 「一般に労働問題の根本も、生活不安、インフレが目下の問題であり、これが解決は生産の増強意外にはないのであります。然るに、この時にあたり、労働争議.ストライキ.ゼネストを頻発せしめ、市中にデモを行い、人心を刺激し、社会不安を激成せしめて、あえて顧みざるものあるは、私のまことに心外に耐えぬところであります。然れども、私はかかる不逞の輩が我が国民中に多数ありとは信じませぬ---」(「不逞の輩放送」)。この不逞発言が燃え上がろうとしていた労働運動の火に油を注ぐことになった。


【第2回全国協議会】

 1.6日、党は、第2回全国協議会を開催し、徳田書記長が一般報告を行い、8項目の政策を発表した。党政策の基本点として、

「ポツダム宣言の線に沿って」、「民族を破滅から救うために、独立と平和のために、経済復興のために『民主人民政権』樹立を目指す」
「国際情勢を運用してこの民族の事業の支援足らしめること」
「天皇制官僚制度の一掃、そして民主政権樹立に全力をあげること」
「反動勢力との妥協を拒否し、大衆の革命的圧力をもって妥協政党の策謀を破り、正々堂々民主政権の樹立を目指して進むこと」
「労働者・農民の組合主義的傾向を打破して政治的闘争への革命的結集を急速に完成すること」
「」
「」
「」

 との政策を提起し、政権構想を打ち出し、2.1ストをその出発点と位置付けた。その他地区委員会の確立と常任の設置、大衆運動方針を決定。

 「ゼネストを敢行せんとする全官公労働大衆諸君の闘争こそは、恐るべき民族的危機をますます深めた吉田亡国内閣を倒し、民主人民政権を樹立する全人民闘争への口火である」と檄を飛ばした。この頃、労働運動部の長谷川浩は、「現在のスト運動を全人民層の闘争に拡大し、政権に対する闘争に高めねばならない。すわわち人民政権樹立のために議会外大衆と議会内闘争を結合し、倒閣運動から、さらに進んで、真の人民の代表を中央地方の議会に送り込む大衆的な選挙闘争へ発展せしめねばならぬ」と演説している。

 この時かどうか不明であるが、労働運動部の長谷川浩は、「現在のスト運動を全人民層の闘争に拡大し、政権に対する闘争に向かわねばならない。即ち人民政権樹立のために議会外大衆と議会内闘争を結合し、倒閣運動から、更に進んで、真の人民の代表を中央地方の議会に送り込む大衆的な選挙闘争へ発展せしめねばならぬ」と呼号している。

 文化問題については、蔵原惟人中央委員が報告した。


【社交ダンス論争】

 徳球書記長報告は、第2回全国協議会で、「社交ダンス活用論」を次のように述べていた。

 「あらゆる平和闘争手段を動員すること。特にこれまで弱体であった文化闘争を重視して、特に大衆活動に適する音楽と舞踊(社交ダンスを含む)を我が党の指導においてこれを奨励すること(註これが重要である)。文化活動とは何か?文学、評論は現在の状態においては、これを見ても理解する能力を失っているほどに、日本では封建的な力によって、ものの表現力さえも失われておったのである。また、現在の紙のキキンのために、段々力が弱くなってきたのである。しかるに生理的自然の要求からの躍動が声になっては音楽になり、動作となっては舞踊.ダンスになる。これは大衆的な大きい躍動である。これが実際の生理的要求から音楽となるのである」。
 「既に敵はこれを運用して、現状では闘争を滅却せしめるために音楽を与え、舞踊を与えつつあるのである。これに対し、我が党内がこれを管理し、我が党の影響下にある大衆の管理によってこれを革命的な方向に運用しなければならないのである。文化的な闘争が階級闘争において大きな武器であることを我々は忘れてはならないと思う」。

 1.1、1.5、1.8日、アカハタ紙上に、ぬやまひろし(西沢隆二)による「新しい文化運動のために」論文が発表された。次のように主張していた。

 概要「今日みにくい接吻映画や不自然極まる性欲文学が多量に生産され、敵階級は、人間なら誰でも持っている本能に呼びかけて人間を堕落させようとしている。我々もまた、この生きる力に呼びかけて、それを正しく指導するように努めなければならない。そのため、まず第一に取り上げなければならないのは音楽と舞踊である。党及び組合の幹部は、この事実をよく見定め、音楽及び舞踊の持つ特殊な重要性を考え、充分慎重に、充分大胆に、社交ダンスをも含めての一切の労働者音楽と舞踊とを大衆の日常闘争の中から組織しなければならない。封建的な生活様式がこの一点から崩壊し始めるであろう」。

 1.20日、西沢は、アカハタに「文化革命のおとずれ」を発表した。「歌と踊りの文化政策に反対する者は、それを取り上げる勇気が涌いてないか、既にオイボレているのか、封建的な影響が、今なお強くそれらの人の感情を蝕んでいるためにほかならない」と書かれていた。こうして、党は、ダンスパーティーを全国的に展開していくことになった。

 徳球ー西沢ラインの押し進め始めた「社交ダンス活用論」は、蔵原−宮顕の文化政策に対する徳球党中央からの批判的意義を持っていた。これに対し、蔵原は、「大衆の間における文化運動−日本における文化革命の基本任務」(文連の機関紙「文化革命」2月号)論文で、概要「大衆の文化的欲求に追随してそれを充足するだけでは『大衆追随主義』に陥る」と述べて、西沢論文を批判し返した。

 3.30日、宮顕は、アカハタに「文化運動の前進」論文を発表した。次のように反論している。

 概要「音楽やダンスなど大衆向けの文化活動は、卑俗趣味への無批判的な追随である」。
 「日本人民大衆の教養と文化向上に永久に限界をおくのは正しくない。映画.演劇.文学.スポーツ.ダンス.音楽のいずれにせよ、そのうちどれだけが『最も大衆的』と決め付けてしまうことも根拠がない。最も遅れた大衆の面白がることさえやっていれば、民主的文化の創造なんかは、やがて自然に解決できるものと考えることは、文化革命の重要な任務の一つを事実上捨てることになる」。
 概要「退廃的な既成のダンスをプロレタリア的なものにしなければならない」。

 これに対して、徳球は真っ赤になって宮顕見解に反論した。「社交ダンスに階級性などない、プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」と怒ったと伝えられている。こういうところにも、徳球と宮顕の暗闘の火花が散っていた。

 ちなみに、この当時の文化部の構成は、部長・蔵原惟人、部員・宮本百合子、中野重治、窪川鶴次郎、大村英之介、増山太郎。拡大部会の時には、渡部義通、小椋広勝、菅忠道らが参加し、専従部員は窪川ただ一人であった。重要議題の際にはアジプロ部長兼学生対策責任者であった政治局員の宮顕が出席し、ときたま統制委員の西沢隆司が参加する仕組みであったようである。

 ところで、西沢と宮顕は戦前の「リンチ事件」に関わる同志であり、「西沢は宮顕の心酔者」であったから、ダンス論争での西沢対宮顕論争も眉唾な面があるにはある。

プロレタリア的ダンスについて れんだいこ 2004/04/02
 皆さんちわぁ。このところ身辺忙しく気が抜けません。皆さんの遣り取り楽しくロムしております。一点だけ云いたくなったことについて述べてみます。

 流木さんの伝聞「造園はブルジョアジーの産物等と小耳に挟んだことが有りましたが」についてですが、れんだいこはいつかいわゆるマルクス主義派の安易なブルジョア規定論に異議を唱えてみたいと思っております。それは果たしてマルクス自身の見解に合致しているのか、合致しているとすればマルクスにも抗議してみたい気持ちがあります。もっともマルクスはそういう安逸な規定はしていないと思っておりますが。

 (せっかく軽い遣り取りのところ申し訳ないのですが)

 その昔(といっても、1947年1月頃の話です。丁度2.1ゼネスト前夜の頃に当たります)、「社交ダンス論争」というのが発生しております。この時の推進派がぬやまひろし(西沢隆二)で、「新しい文化運動のために」論文で次のように述べております。

 概要「今日みにくい接吻映画や不自然極まる性欲文学が多量に生産され、敵階級は、人間なら誰でも持っている本能に呼びかけて人間を堕落させようとしている。我々もまた、この生きる力に呼びかけて、それを正しく指導するように努めなければならない。そのため、まず第一に取り上げなければならないのは音楽と舞踊である。党及び組合の幹部は、この事実をよく見定め、音楽及び舞踊の持つ特殊な重要性を考え、充分慎重に、充分大胆に、社交ダンスをも含めての一切の労働者音楽と舞踊とを大衆の日常闘争の中から組織しなければならない。封建的な生活様式がこの一点から崩壊し始めるであろう」。

 つまり、「社交ダンス活用論」を主張していた訳ですが、徳球書記長は、娘婿西沢隆二のこの路線を支持し次のように述べております。

 「あらゆる平和闘争手段を動員すること。特にこれまで弱体であった文化闘争を重視して、特に大衆活動に適する音楽と舞踊(社交ダンスを含む)を我が党の指導においてこれを奨励すること(註これが重要である)。文化活動とは何か?文学、評論は現在の状態においては、これを見ても理解する能力を失っているほどに、日本では封建的な力によって、ものの表現力さえも失われておったのである。また、現在の紙のキキンのために、段々力が弱くなってきたのである。しかるに生理的自然の要求からの躍動が声になっては音楽になり、動作となっては舞踊.ダンスになる。これは大衆的な大きい躍動である。これが実際の生理的要求から音楽となるのである」。

 「既に敵はこれを運用して、現状では闘争を滅却せしめるために音楽を与え、舞踊を与えつつあるのである。これに対し、我が党内がこれを管理し、我が党の影響下にある大衆の管理によってこれを革命的な方向に運用しなければならないのである。文化的な闘争が階級闘争において大きな武器であることを我々は忘れてはならないと思う」。

 いずれ西沢という人物の考察もしておきたいのですが、ここでははしょります。かなり機を見て敏な人柄であったとは思っております。それはともかく、西沢は徳球の後押しを得て「文化革命のおとずれ」を発表します。

 「歌と踊りの文化政策に反対する者は、それを取り上げる勇気が涌いてないか、既にオイボレているのか、封建的な影響が、今なお強くそれらの人の感情を蝕んでいるためにほかならない」。

 かくて、党は、ダンスパーティーを全国的に展開していくことになった。「2.1ゼネスト」前夜のことですから多少変調でもあるのですが、それはここでは問わない。

 この文化運動の意義は、それまで党内の文化運動面を担当してきていた蔵原−宮顕の文化政策に対する徳球党中央からの批判でもあったことにあります。

 これに対し、蔵原は、「大衆の間における文化運動−日本における文化革命の基本任務」論文で、概要「大衆の文化的欲求に追随してそれを充足するだけでは『大衆追随主義』に陥る」と述べて、西沢論文を批判した。

 宮顕が蔵原論文を擁護して「文化運動の前進」論文を発表した。概要「音楽やダンスなど大衆向けの文化活動は、卑俗趣味への無批判的な追随である」、「日本人民大衆の教養と文化向上に永久に限界をおくのは正しくない。映画.演劇.文学.スポーツ.ダンス.音楽のいずれにせよ、そのうちどれだけが『最も大衆的』と決め付けてしまうことも根拠がない。最も遅れた大衆の面白がることさえやっていれば、民主的文化の創造なんかは、やがて自然に解決できるものと考えることは、文化革命の重要な任務の一つを事実上捨てることになる」、概要「退廃的な既成のダンスをプロレタリア的なものにしなければならない」と反論している。

 宮顕のこの見解に対して徳球がどう反応したのかが面白い。徳球は真っ赤になって「社交ダンスに階級性などない、プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」と怒ったと伝えられている。こういうところにも、徳球と宮顕の暗闘の火花が散っていた。

 れんだいこ見解は、「プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」を支持しています。ところが、左派運動の解説書には逆見解に立っているものが多い。だから、れんだいこはその種のものを信用しない。

 宮顕のこの頃におけるウルトラ左派言辞性に当時の急進主義的青年及び学生はぞっこんでありました。これが原因で、「50年分裂」時の全学連主流派は反徳球系党中央に立ち、宮顕派を支持していくことになります。

 しかし、れんだいこは思う。今やれんだいこは次のように考えている。言葉尻だけの左派性は胡散臭いにも拘らずこれに影響受けるのは受ける方もおぼこいからである。仮に言辞の急進主義的左派性が評価されるのは、その言辞通りに実践してみて以前よりも事が首尾よく行く場合においてである。例えば支持者や図書頒布の広がり、機関への影響力の拡大、集金力の強化、アジト・会館設置等々物質的基盤の獲得などで試されよう。

 それを単に、「退廃的な既成のダンスをプロレタリア的なものにしなければならない」などという、いわば云ってみるだけの左派性の空疎さよ。それに対し徳球が「プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」と迫った面白さ。実に徳球という人は本質を鋭く見抜き、ツボを得た批判をする。

 日本左派運動に立ち現れた、同じ事象に対しても取り組む姿勢のこの違い。戦後日共運動の指導者のこの鮮やかな対比。れんだいこは、こういうところを万事において切開していかなければならないと考えております。

 ちなみに、蔵原、宮顕的プロレタリア文学運動はその実プロレタリア文学を型に嵌め過ぎてしまいには窒息させてしまった、と見ております。それは党運動でもそうで長い時間を掛けてじんわりと今日あるような似て似つかぬものにしてしまった、と考えております。

 だから、諸事万事において洗い直さねば今や一歩も先へ進まない、それほど汚染されすぎていると考えております。

 2004.4.2日 れんだいこ拝

【新興宗教の誕生】
 時期にはずれがあるがこの頃新興宗教が相次いで誕生している。璽宇教、踊る宗教と云われた天照皇大神宮教、PL教団、皇道治教、観音教、まこと教団、霊友会、東久邇教等々。
璽宇教  璽光尊こと長岡良子(当時45歳)が教祖で、一時は角力の双葉山や囲碁の呉清源らもいて世間に注目された。この宗教団は「近く天変地異が起こるが、それは世の中が荒(すさ)んでいるのを、神が怒り給うたせいである。自分は、神の化身として世直しするのだ」と予言を発し、内閣組織まで考えていて、参謀格の勝木徳次郎が首相、双葉山は厚相、呉清源は蔵相に擬せられていた。金澤に本部をおき、22.1.22日の手入れの時には双葉山の武勇伝が残された。
天照皇大神宮教  山口県に誕生し、北村サヨが教祖で「ナーミョーホウレンゲキョー」といって手振り足振りして踊るところから「踊る宗教」とも云われた。PL教団はかっての人の道教団の変貌したもので、静岡県清水市に本部を置いていた。PLとは、パーフェクト.リバティーの略で「人生は芸術なり」をモットーにしていた。
皇道治教  静岡県の新居町が本部で総管長は木船直太郎という70過ぎの老人。観音教は、熱海市に本部を置き、俗にお光様と云われた。教祖は岡田茂吉。まこと教団は、立川市が本部で管長は伊藤真乗。霊友会は、麻布飯倉に本部を置き、教主は小谷喜美という女性。

【自由党の社会党懐柔の動き】

 吉田首相は、世の中が「2.1ゼネスト」に向かう騒然とした折柄、社会党に対ししきりに自社連立政権構想を持ちかけ、社会党の懐柔に営為努力していた。「閣僚の割り振りについて、下話さえつけば君(西尾末広のこと−注)の云う通り、吉田内閣は総辞職しても良いから、ぜひ、先日の話を進めて欲しい」との申し出が為されていた。「当の社会党方面からも、そうした働きかけがあった」とも云われている。

 西尾は、1.14日の中央執行委員会の席上で、吉田首相との秘密会談の経過を報告し、連立工作を進めるべきかどうか諮っている。党議の結果、慎重に事を進める方向が確認され、西尾は平野と共に、麻布の外相官邸に吉田を訪問した。この席上、吉田は、「実は入閣候補者の資格の内諾を『GHQ』に求めに云ったところ、先日の対日理事会で、ソ連のテレビヤンコが、西尾、松岡、平野、田原春次、加藤りょう造の5名を追放すべきであると発言したので、『GHQ』としても、これを無視してやるのも困るから、連立問題は暫く時期を延ばせというんだと云いなし、連立の話し合いは暗礁に乗り上げることになった。この経過を吉田首相からの第一次連立工作と言う。第一次連立工作は、数度に亘る会談の末、味気ない幕切れとなった。


【中央労働委員会の動き】
 中央労働委員会の労働者側委員は、松岡、荒畑、徳球、西尾であった。会長は末弘厳太郎(すえひろいずたろう)、事務局長は鮎沢巌であった。委員会の席上では、徳田と西尾が相当激しく渡り合った。この中央労働委員会が2.1ゼネストを前にして頻繁に開かれていた。委員会の空気は全官公労の説得に全力をあげることになっていたが、徳球は、「それじゃあ俺が説得に行ってくる」と云って出かけたは良いが、全官公労の闘争本部に着くと、説得どころか、逆に叱咤激励していたというエピソードが残されている。いかにも徳球らしい一幕である。

【「2.1ゼネスト」決行宣言される】

 こうした情勢の中、2.1日に向けての国鉄.全逓を含む官公庁労働者を中心とするゼネストが準備されていった。「GHQ」の認める民主化方針と日本の革命的民主主義勢力との対立が公然と舞台に押し出されてきた観あり、党にとって戦後最大の政治舞台が回ってくることになった。ここまで幾多の争議や闘争の指導を経て未曾有の大規模ストを組織し指導し得る立場に立つこととなったのである。今にも人民政府が出来ると信じた労働者の入党が相次いだ。

 1.5日、党は、第4回拡大中委で、政治的ゼネストの決行を決議した。以降ゼネストの指導と「人民政府」の樹立に向けて闘争を組織していった。 1.6−9日党は、第2回全国協議会を開催し、民主政権樹立を目指す政策の提起、地区委員会の確立と常任の設置、大衆運動方針を決定。 「ゼネストを敢行せんとする全官公労働大衆諸君の闘争こそは、恐るべき民族的危機をますます深めた吉田亡国内閣を倒し、民主人民政権を樹立する全人民闘争への口火である」と檄を飛ばした。

 1.9日、全官公庁共闘は、拡大闘争委員会を開き、2.1日からストライキを決行することを決定した。

 1.11日、皇居前広場で「吉田内閣打倒国民大会」が開かれゼネスト宣言した。50万人参加、食料メーデーの2倍に達していた。伊井議長は、概要「祖国再建の悲願に燃える我々はその基礎たる生活権を獲得せんとして、旧ろう以来隠忍2ヶ月にわたり血涙をのんで平和裏に交渉を続けてきた。最低賃金制の確立をはじめき本的人権を主張する我々の要求はまさに正当である。然るに、政府は我々の要求に一顧を与えないばかりか、遂に血迷える吉田首相は、我々勤労者を呼ぶに、『不逞の輩』をもってした。事態はまさに最悪の段階に立っている。我々は、今や相互の団結を確信し、何時なりとも指令一下整然として歴史的なるゼネストに突入し、共同の全要求を貫徹する日まで断固として闘い抜く事を宣言する」とアジり、これを受けて徳球が概要「それは、何ら根本的な解決ではない。吉田亡国内閣を打ち倒し、民主人民政権を樹立する、それなしには何事も解決し得ないのである」と檄を飛ばしている。

 この日、細谷松太は外人記者団に、「全官公の闘争が内閣打倒の中央突破戦略になることは間違いない」と語っている。全逓の委員長・土橋一吉もこの頃「亡国内閣を一挙に葬るつもりだ」と語っている。

 1.15日、「産別会議」.「総同盟」.全官公庁共闘、日労、自由法曹団、生活擁護委員会を始めほとんど全ての全国組合が参加する「全国労働組合共同闘争委員会」(「全闘」.議長伊井与四郎)が結成され、「2.1ゼネスト」が計画された。この「全闘」には、産別、総同盟も含めて労働組合の90%が参加していた。450万を越える組織労働者がゼネストになだれこんでいくことが明らかであった。

 常任委員会が作られたが、その構成は産別4名、総同盟3名、日労会議2名、各単産2めいであった。経済闘争と吉田内閣打倒の政治闘争が結合されていた。「産別会議」(議長・聴涛克巳)は「用意はよいか、前進だ、民主主義革命の年、1947年!」と全労働者に呼びかけた。並行して「倒閣実行委員会」に社共両党が正式に参加し共闘が生み出され、こうして政府打倒を視野に入れた戦後最大の政治決戦に向けて大衆闘争が準備されていくことになった。

 共産党本部は「革命来る」の雰囲気の下社会.共産連立政権構想を取りざたさえしていた。「共産党は占領軍の理解のもとに、二・一ストが勝利し、それが社共連立政権を可能にすると考えていた」。首相.松本治一郎、内相.徳田、外相.野坂、大蔵.鈴木茂三郎、伊藤律.農相、運輸.加藤勘十、逓信.土橋一吉、書記官長.志賀義男といった割り振りが熱気下党員の口に登り始めた。

 1.18日、全官公庁共闘委は、拡大闘争委を開き、概要「われら260万の全官公労働者は2.1日午前零時を期して決然として起ち、全国一斉にゼネストに突入し、全要求の貫徹するまで、政変の如何に関わらず断固として戦う」との「スト突入宣言」をぶち上げた。共闘のこのゼネスト宣言は、民間産業の労働者を動かしていくことになる。

 この頃の全官公庁共闘には、先にあげた単産の他に、都市同盟、都労連、全財務、全医療、大学高専職組、進駐軍要員労組、都市交通なども参加して、260万の労働者が組織され、全国の官公労働者が文字通り結集してゼネストに向かおうとしていた。つまり、総同盟傘下の下部組織も参加していったことになる。

 1.20日、産別会議議長聴涛が右翼の襲撃を受け負傷させられた。この日産別の要求によって、「全闘」と倒閣実行委員会の合同会議が開かれ、社共両党の実行委正式参加要請が決められた。

【「GHQの切り崩し始まる」】
 1.22日頃よりGHQのスト切り崩しが始っている。経済科学局長マーカットは、「全闘」議長伊井と各単産委員長を呼びつけスト中止を迫り、概要「占領軍は労働者の権利は認めている。しかし、国家的災害をもたらすようなゼネラル・ストライキは許されない。占領軍目的に反する。その回答を1.25日までに為すように」と申し渡した。労働課長・テオドル・コーエン、課員のアンソニー・コンスタンチーノが同席していた。

 マッカーサーの「回想記」に拠れば、マッカーサーのこの時の真意が(正確かどうかは別にして)次のように語られている。
 「私はむつかしい立場に立たされた。新しく組織化された労働者達が、自分の権利を主張しようとするのを邪魔するのは気が進まなかった。一方、一握りほどの共産党指導者がストを政治的な武器に使って、経済を破滅させるのを、許すわけにはいかなかった」。

【「2.1ゼネスト」の動き】
 1.23(27?)日、「2.1ゼネストに対する態度を決定すべく社会党中央執行委員会が開かれ、ゼネスト回避、延期すべき事を15対5で決定した。西尾書記長ら右派の主導であった。しかし、ゼネストの動きはますます強まっていくことになった。緊迫した空気が全国を覆い包んでいった。

 1.25日、政府が「最終的回答」を出してきた。「全闘」との要求に差が有りすぎ、GHQのスト中止勧告を拒否することを決定した。こうした事態を見て、中央労働委員会が斡旋に乗り出してきた。この日の午後2時30分より首相官邸で第一回目の交渉が始まった。政府側は、吉田は風邪を理由に欠席し、幣原副総理、河合厚相、植原国務相が出席し、組合側は伊井を筆頭に他に全逓の土橋らが臨んだ。

 1.26日、共闘と全闘がGHQ労働課から呼び出されたが、この時も「要求が入れられない限りストを中止できない」旨中止勧告を拒否している。経済科学局の労働課長・コーエンは、「マッカーサー元帥でないから、細微の判断をここで君らに示すわけにはいかないが、恐らく指導者を監獄に入れるだろう。それは2.1日前に決められるだろう」と恫喝している。これに対し、全闘の代表が、「我々はよしんば投獄されてもこのストは止められない。事態はそこまできているのだ。マッカーサー元帥やコーエン氏の立場はよく分かったが、その立場に日本の労働者が立つ訳には行かない」と答えている。

 1.26日、野坂が「ゼネストの政治的、経済的要求が入れられるならば、停止される性質のものである」と水を差している。

 1.28日、人民広場前の「吉田内閣打倒危機突破国民大会」に約50万人が集まって内閣打倒を叫んだ。この時の大会議長は加藤勘十。まさに革命前夜の情勢が作り出されつつあった。

 
同夜日比谷の焼け跡に立っていた勧銀ビルの中で、共産党と社会党の秘密連絡会議が招集された。共産党側からは徳球、伊藤律が出席、社会党側からは加藤勘十夫妻、荒畑らが出席した。労組側からも。問題は、2.1ストをやるとして「GHQ」が介入してくるかどうか、その際の対応について協議することだった。徳球は、「たとえ米軍の機関銃の前に死のうとも、断じてゼネストを決行するのみ」とぶち上げ続けたと伝えられている。こうして2.1ゼネストに向けて秒読みが始まった。

 1.28日、中労委の斡旋に拠り、第二回政労交渉が開かれた。政府からは、石橋湛山蔵相.河合良成厚相.平塚常次郎運輸相.一松定吉逓信相、労働者側は伊井議長以下22名、中労委も末弘.鮎沢.中山.桂.徳田.松岡.西尾が列席した。2.1ストを経済要求として妥結をはかろうとするならば、この時がチャンスであった。しかし、共闘側はこれを拒否し、「吉田内閣の即時辞職」を要求した。

 1.29日、吉田首相は社会党に対して第二次連立工作の申し入れをしてきた。このたびの申し入れには片山が折衝した。社会党には、労働、建設、商工、無任所のポストが用意されていた。片山は党内に持ち帰り、中央執行委員会を招集した。その結果は、全員一致で拒絶することを決定した。こうして吉田の第二次連立工作もご破算した。

 1.29日のアカハタで、徳球書記長は、次のようにぶち上げた。
 概要「全官公労組の要求は、現在の官僚統制を以ってしては、いかに力んでみたところで実行できず、問題解決の根本は、現在の反動勢力による官僚統制を一片のカケラも残さずに排除して、これに代わるに全面的な徹底的な人民統制をすることである」。

 2.1ストは明らかに経済的条件闘争から民主人民政府の樹立へという革命的政治ストへの色彩を濃くしていきつつあった。他方、同日のアカハタ解説記事は、「現在のストライキは、まだ経済ストだが、最近発表された極東委員会の76原則でも分かるように、政治的目的のストライキでさえ連合国に保障されている」との「痴呆症的合法主義丸出しの見解」を掲げていた。この見解の問題性は、来るゼネストによってもたらされる権力側からの弾圧に抗して行く為の組織的対応の検討と準備を放棄させたことにある。恐らく、野坂筋の情報と見なされるが、かく暗躍していることが確認されねばならないだろう。野坂は、同時の党グループ会議に出席し、「アメリカ占領軍は絶対に弾圧出来ない」と強調し、非常事態下の態勢作りを放棄させる指導に熱中している。

 1.30日、産別会議事務局の斎藤一郎氏は共産党書記局に呼びつけられ、野坂や伊藤律から「占領軍は中止命令を出し得ない。マーカットは脅しているだけだ」と云い渡され、「弾圧があり、事態が混乱した時は、共産党の組織的な指導だけが一切を決定するということを忘れないでくれ」との申し入れにも、「聞く耳を持たなかった」とある。

【「GHQ」が干渉を開始】
 こうした様子にあわてた「GHQ」は、干渉を開始した。伊井議長をはじめ共闘委員が呼び出された。「我々はなるだけ労働者を自由にし、地位を向上させたいと思い、戦犯を追放し、労働組合の結成を奨励し、君らを援助してきた。歴史上、敗戦国に対して占領軍が、労働者の権利拡大に努めたという例がどこにあるか。マッカーサー元帥は日本の労働者を信用してストライクの権利を認めたのだ。だが、その権利には限度があるのだ」(コーエン)。ゼネスト中止指令の権限について極東委員会と対日理事会に諮ったのかに対しては、「その必要はない!極東委員会は政策を決めるだけで、解釈と実行はマッカーサー元帥に任されているのだ。だから、諮る必要はない。占領目的に違反するかしないか、それを決定できるのは、世界でただ一人、それは、マッカーサー元帥だ」(マーカット)、「ゼネストをどうしてもやらなければならない、ゼネスト以外の方法では解決できないと考えていたら、労働運動は破滅する。もし、諸君が自らの要求を実現しようとするなら、選挙によってそれを行えばよいのだ。ゼネスト、吉田内閣打倒、民主人民政府の樹立というその方法が占領目的に違反するのだ」(コーエン)等々の丁丁発止のやり取りが為されたようである。

 1.30日、中央労働委員会の仲介による、政府と共闘との直接交渉は、夜半に及ぶも決裂した。2.1日午前0時を期してのゼネストは必死となった。

【「2.1ゼネスト」前夜の動き】

 ゼネストの前夜の1.31日朝、徳球は共産党本部前で次のような声明文を読み上げた。

 「ゼネストを先頭とする、この大闘争こそが、生産増強のムチとなり、同時に反動勢力を何時一掃する強力な力を結集することになるのである。全人民が、この点を見失わざらんことを望むと同時に、この労働者の一大闘争に合流して、自己の一切の要求をかかげて、闘争されんことを望むものである」。
 概要「民主主義日本を建設する為、2.1日を期し断固ゼネストにたちあがれ、吉田反動内閣を打倒せよ」。

 こうして「革命前夜の興奮」が立ち込めた。

 他方次のような党の動きも証言されている。野坂は「この闘争は経済的要求が容れられるならば停止される性質のものだ」と云い始めていた。「31日朝の共産党本部では、あっちで紺野与次郎がゼネスト決行のアジ演説をやっていれば、こっちで中止を主張する者があり、中には社共連立政権構想による松本治一郎首班の民主人民政府の閣僚を選考している者もいて、蜂の巣をつついたような騒ぎであった」。ちなみに、内閣総理大臣を松本治一郎他社会党から鈴木茂三郎.大蔵相、加藤勘十.運輸相、土橋一吉・逓信相、共産党からは徳田.内相、野坂.外相、伊藤律農相、書記官長志賀義雄が取り沙汰されていた。

 午後二時にGHQからの中止命令が党に伝えられている。野坂と徳球がすぐに受諾を決め、レポーターを各労組に飛ばした、と伝えられている。これ以降、党中央各員はマッチポンプ役で奔走することになる。田川和夫氏の「日本共産党史」では、「恥ずべき動揺と混乱」と記されているとのことである。

 GHQは、午後4時「連合国最高司令官として与えられた権限に基づき、私はゼネストのために同盟した労組指導者に対し、現在の日本の困窮した事態において、かくも恐るべき社会的武器の行使を許さない」、「公共の福祉に対する致命的な打撃を与えることを避けるため」旨のゼネスト中止命令を出した。放送局はその声明の全文を電波に流した。GHQは放送終了と同時に、伊井議長以下8名の単産委員長に出頭命令を出して脅迫を開始した。

 急転直下、共産党中央のスト中止へ向けての動きが次のように伝えられている。国鉄中闘には徳球が現れ、鈴木市蔵副委員長と打ち合わせて帰り、その後国鉄中闘は27対2でスト中止をきめた。全逓中郵には伊藤律が、中電には長谷川浩が行ったが、下部からの突き上げが激しく、説得に失敗した。伊藤と長谷川は、次に産別の斎藤一郎のところに現れ、「斎藤君、やらせようじゃないか」といったと伝えられている。しかし、逆に方針のぐらつきがなじられ、あわてて党に帰っている。ところが、徳球は党の方針であるとこれまたなじり、結局伊藤は全逓中郵に、長谷川は中電に現れて、中止の説得を始めた。「私は中止をこばむ同士達に言った。諸君はここで孤立して闘争を続けるか。それは敵の集中攻撃にあうだけである。アメリカが戦車と機関銃をもってきたとき、我々労働者はそれと闘う準備があるか。それでも諸君がストを決行するというのなら、私はその先頭に立つと。そして説得二時間にして、涙と共にスト態勢を解除した」との伊藤の弁がある。

(私論.私観) この時の共産党の奇妙な動きについて

 史実として、この時の決定的な瞬間に労働組合より先に共産党指導部の動揺が記されている。野坂は、「いろいろの情勢を31日の午後、急速に判断して、党は一歩留まり、必要ならば後退して陣営を整備し、さらに強力な攻撃を準備すべきだと決定し、ただちに革命的高揚の中にある労働者階級に中止するよう呼びかけた」(2.5日「宣伝指針」の「2.1闘争の意義と教訓」)と述べている。この野坂の変調理屈は裏切り正当化理論でしかなかろう。革命的高揚が現出していながら共産党指導部が「後ずさり」するなどありえてならないことである。闘って破れようとも、その経験こそが蓄積され生きた歴史となるのではないのか。まさに内通スパイの理論でしかない。問題は、この時の徳球の奇妙な動きであるが未だ判明していない。

 この時のことについて、鈴木茂三郎の次のような証言がある。

 「私はゼネスト禁止の指令が発せられるまでの14日間、共産党の青年活動家から身辺を保護するという理由で、行動の自由を監視され、拘束された。‐‐‐共産党の代表者は、ゼネストを敢行すれば、占領軍の武力による弾圧があるだろう。その時社会党の我々に収拾を頼みたいということであった。私はゼネストによって労働組合の組織を占領軍のために破壊されるようなことはすべきでないとの見地から、ゼネストに反対であり、従ってゼネスト後の収拾を引き受けることは出来ないとの立場を執った」(「ある社会主義者の半生」)。

【「2.1ゼネスト」中止の動き】
 午後5時頃、共闘議長伊井弥四郎は身柄を拘束され、マーカット経済科学局長他の最終的強制的説諭を受けた。伊井にゼネスト中止のラジオ放送を強制した。(この時NHK廊下で伊井は徳田とすれ違っている。徳田は、伊井の肩をたたいて「伊井君、ストは止めると放送しなくちゃだめですよ、わかったな」といったという。意味と真相はわからない

 伊井は、 「一歩退却、二歩前進」、「労働者、農民万歳、我々は団結せねばならない!」の言葉を残しながらゼネスト回避を指示した。
 「私は全官公庁闘争委員会の議長井弥四郎であります。私は、今声がかれて、よく聞こえないかもしれないが、緊急で、しかも重要なことがらですからよく聞いてください。マッカーサー連合国最高司令官は、2月一日のゼネラルストライキを禁止しました。もう一度申し上げます。マッカーサー連合国司令官により、あす二月一日のゼネストが禁止されました。私は、この命令は、今の争議に関しては労働者にとりきわめて不利になると思いますが、マッカーサー連合国最高司令官の絶対命令とあらば、遺憾ながらゼネストは中止せざるを得ません。私はすべての国民経済が安定し、とくに労働者、農民の働く人たちの生活が保証され、そして生産が向上し、一日も早く祖国日本の再建と、民主主義が徹底することを期待します。私は今、ラジオをもって、親愛なる全国の官公吏教員の皆様に、明日のゼネスト中止を、お伝えしますが、(このあたりから涙声になる)実に、実に断腸の思いで諸君に語ることをご了解願います。私は、今一歩退却、二歩前進という言葉を思い出します。私は声を大にして日本の働く労働者、農民のためにバンザイを唱えて放送を終わることにします。労働者、農民バンザイ。我々は団結せねばならない!」(伊井声明全文、NHK放送1.31日.9時21分)。

 伊井は、この後手錠をかけられ刑務所に入獄させられている。政令325号(占領目的阻害行為処罰令)違反に問われ、2年余の刑を受けた。こうして「GHQ」の指令の前にゼネストは流産させられることとなった。「倒閣実行委員会」と「全闘」は解体し、民主戦線結集の動きは又も挫折させられた。この時佐藤は国鉄担当の運輸省の長であり、2.1ゼネストを乗り切り運輸次官となる。

 「2.1ゼネスト」不発の直後の2.7日マッカーサー元帥は、吉田首相に書簡を送り、今議会終了後、できるだけ速やかに国会を解散、総選挙を行うべしと勧告した。「解散・総選挙勧告書簡」と云われているが、「総選挙を行うべき明確な期日その他の詳細は日本政府の判断に委ねる事柄である。しかし新立法府が新憲法の実施を即時効果あらしめるため、選挙は今議会の会期終了次第、できるだけ早い機会に行われるべきである」と指示されていた。その結果「4月選挙」が行われることとなった。

(私論.私観) 2.1ゼネスト流産の流れについて

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように纏められている。

 「10月には東芝のストをかわきりに新聞、石炭、機器などの民間労組によって、首切り反対、賃上げ、労働協約締結などを要求する「一〇闘争」が闘われた。次いで、国鉄、全逓、教員などの越年資金の支給や最賃制の確立などを掲げた官公労へと闘いは引き継がれ、11月にはこれらの組合は共同闘争に移り、全官公庁共同闘争委員会(共闘)が結成された。

 そして、12月の吉田内閣打倒国民大会を契機に、闘いは政治闘争への傾斜を深め、社会党、共産党、総同盟、産別によって倒閣実行委員会が作られた。こうした中、47年年頭の吉田首相の労組幹部に対する『不逞の輩』呼ばわりが火に油を注ぐ形になって、1月15日には民間労組も含めた全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成されるに至った。

 全闘は経済的要求に加えて、『吉田内閣打倒、民主人民政府樹立』という政治目標を掲げて、2月1日を期してゼネストに立ち上がることを宣言した。こうして、労資の闘いは国家権力をめぐる階級対階級の政治決戦の様相を深め、ピークをめざして急速に登りつめようとしていた。今や闘いは客観的には次のような段階に達していたのである。すなわち、占領軍とその背後に隠れた日本のブルジョア階級との死に物狂いの闘いを通じて、労働者階級がその手に権力を握り、社会主義に向かって前進するのか、それとも占領軍に支えられたブルジョアジーが労働者階級の闘いを粉砕して戦後日本の資本主義的再建への道を切り開くのか――こうしたことが問われる段階にである。

 だが、この時、ブルジョア支配の打倒と社会主義の実現に向けての明確な闘いの展望を指し示し、労働者階級に断固たる革命的な闘いとそのための真剣な準備を呼び掛けることなど、共産党の諸君に期待すべくもなかった。それどころか、彼らはこの切迫した階級情勢の中にあってなお『解放軍』規定と『占領下平和革命』論の立場にまどろんで、二・一ストの前日に至るも『総司令部は絶対に弾圧できない』(野坂)、『ゼネストに対して占領軍は必ず手を引く』(長谷川浩、産別会議事務局次長)等々と占領軍に対する甘い幻想にひたっていたのである。

 果然、占領軍は31日午後、ゼネストに中止命令を発した。直前まで『総司令部の弾圧はない』とさんざん幻想を振りまいていた徳田らは、今度は一転して中止命令に従うよう説得して回った。大衆はこの「マッチ・ポンプ」にあきれ、茫然自失、混乱と動揺の中で、二・一ストに向けて高揚した闘いは一挙に崩れ去ってしまった。こうして、共産党の日和見主義と誤った指導によって、労働者階級の闘いは惨めな敗北を喫し、戦後革命の夢は無惨にも打ち砕かれてしまったのである」。

【党の「2.1ゼネスト」後遺症】
 「GHQ」のスト中止指令は、党を混乱に陥れることとなった。この時党は直前まで「絶対に『GHQ』は手を出さない。随って、日本政府の警官隊の弾圧に対しては断固闘争せよ」(資料労働運動史)と「GHQ」の国内政治問題に対する不介入中立政策を期待していた。1.29日野坂は党フラクション会議で「GHQは弾圧しない。これで民主人民政府が樹立される」と公言していた。長谷川は「GHQは手を引く」と断言していた。志賀は「弾圧が怖いので中止できないというのではない」と説明していた。にも関わらず「GHQ」のスト中止指令に直面して、さっきまで弾圧はないと断言していた口の先から一転して中止命令に従うよう大衆を説得して回る羽目になった。こうした甘すぎる情勢判断の下に指導していた共産党の動きは崩れ始めるととめどなかった。

 まじめに党中央の指令や方針を信じ込んできた下部の組合党員のショックは大きかった。むべなるかな、野坂理論の賜であったということか党のここ一番にある穏和的本質のなせる技であったか。党は状況の認識を読み誤り、「GHQ」の下での革命を想定していた戦略の誤りが露呈したのである。党の革命的指導の能力に対する失望と不信が生まれる最初の契機となった。

【党の「2.1ゼネスト」総括】
 2.1ゼネストの挫折に対して、党中央は、中央権力の一挙的奪取の困難さを知った。アカハタ125号で、志賀は、「労働者の運動が、農民・小市民との結合をしっかり持つ点を痛感させた」と総括している。紺野与次郎も、「大衆闘争の過程は、労働者大衆の深刻な経験を通じて労働者だけの闘争の限界を直感させ、階級的同盟の獲得という思想を労働者大衆に学ばせた」と党中央の責任問題を回避し、大衆に責任をなすりつけ、右派的観点へ向けて総括している。

 2.1スト直後、野坂は「宣伝指針」の中で、次のように教訓化している。「第一に、労働者階級はその手中に『恐るべき社会的武器』を握っている。第二に、吉田内閣がいかに弱体であるかを知り、吉田内閣だけだったら潰れたであろうことを見た。第三に、社会党が小ブル的任務とストに対する裏切り行為を暴露した。第四に、共産党の影響がいかに大きいかを示した」。

(私論.私観) 「2.1ゼネスト流産」をどう総括すべきか

 このテーマは案外と為されていない。この時日和見的に対応した後の民同系がこれを傍観視し、「総評10年史」や「国鉄労組20年史」などが、歴史的事実の羅列に終始していることは致し方無い。問題は、2.1ゼネストを主導したいわば当事者側の産別及び共産党系がどう総括しているのかが注目されるべきだろう。

 遠山茂樹などの歴史学研究会編纂「戦後日本史第1巻」は、概要「2.1ゼネストを通じて占領軍が決して解放軍でなく、労働者の味方でないことを体験を通じて身に付けた。これから初めて地についた本格的な労働運動が出発する」と記している。塩田庄兵衛も概要「占領下の労働運動」(「労働運動史研究」第50号所収)で、「占領軍の弾圧の前に2.1ゼネストが最後の瞬間に崩れ去ったことは止むを得なかった。だが、こうした教訓自体2.1ゼネスト闘争を闘ったことによって初めて明らかになったことである。それを見落としてはならぬことはいうまでもあるまい」と評論している。

 宮顕系日共のイデオローグ達による「現代日本とマルクス主義」(第一巻)は、概要「(2.1ゼネスト流産の要因として)第一に、『労働者階級の指導的部分』すらがアメリカ帝国主義の占領目的を正しく把握していなかった。第二に、帝国主義の全一的支配権力が立ちはだかっていたのだから、『下からの民主的改革はどうしても労働者の階級的統一』を基礎」としなければならなかった。世界労連が結成されていたにも関わらず、日本では『初めから産別会議と総同盟という二つの全国労働組合組織が対立して結成』されたため民主戦線の結成を妨げた。第三に、第二次農地改革によつて農民運動が後退し、労働者階級が孤立し、労農同盟が形成されなかった。従って、2.1ストの挫折もまた不可避であった
と総括している。

 れんだいこは思う。これが「2.1ゼネスト流産の歴史的総括」だとすれば、何と滅茶苦茶であるだろうか。占領軍が解放軍でなかったことを明らかにし得たという成果があったなどという見地は、学者特有の労働者大衆を見下した評論であり、2.1ゼネストの緊迫した遣り取りからの経験を何も汲み出していない。次に、宮顕系の「現代日本とマルクス主義」は何と奇妙な総括をしていることだろう。闘争内に分裂が持ち込まれるのは革命運動上不可避の現象であるのにそれが要因で挫折するなどというのであれば、子供のおねだり的見地でしか無かろう。

 これに対し、産別書記局の斎藤一郎氏は2.1ストの誤りは日共の指導そのものにあることを強調した。これが当事者の見解であり、もっと深く掘り下げられるべき観点では無かろうか。「問題の核心はここにある。革命をサボタージュするものを党内に置いていては、どうして革命を準備することが出来、又決定的な戦闘を行うことが出来ようか。これは単に誤りであるばかりでなく犯罪である」(レーニン「イタリア社会党内の闘争について」)の見地から、当時の徳球系運動の能力的限界と特に野坂による投降主義的指導による武装解除方向への捻じ曲げこそが切開すべき観点と為るべきではなかろうか。もう一つ、この時期の左派戦線もまた「革命後の青写真」を持ち合わせていなかったことが、いざ天王山の際に日和見方向へ妥結していくことを余儀なくさせたのではなかろうか。つまり、2.1ゼネストに日本のレーニンが居なかったことが原因では無かろうか。


【労組の「2.1ゼネスト」後遺症】

 2.1ゼネストは中止されたが、五月雨式にストに突入していった。この時の厚生省の争議統計によれば、1月91件.146万名、2月118件.147万名、労働省の修正数字は1月119件.197万名、2月142件.211万名となっている。3月には激減している。注目すべきは、各組合が相応のスト成果を勝ち取っていることである。 


【経済復興会議の結成】
 こうした最中の2.6日経済復興会議が結成されている。中央組織、産別組織、地方組織の3形態でつくられたが、労使協調機関であった。野坂がこの結成大会に出席しており、並居る資本家と労働組合のボスを前にして、自ら大会に出席していながら「共産党はこの会議に対して積極的に支持する事も決めていない。‐‐‐日本の再建、国民生活の安定、向上、そのための生産増強は資本主義のもとでは絶対出来ない。これは社会主義ではじめてやれる。だが、このためには革命をやらなければならない」などと説教している。

 経済復興会議のその後は、翌48年に至って資本家の方から解体されていくことになる。つまり労働側は「浅き夢」をみさせられることになった。

【「隠退贓物資等摘発処理委員会」の設置】

 この頃吉田内閣は、隠匿物資処理方針を中央で統制することに決め、経済安定本部に「隠退贓物資等摘発処理委員会」を設け、委員長に安本長官の石橋湛山がなり、副委員長に世耕弘一がなった。ところが、世耕副委員長の発する摘発指令書をめぐって却ってブローカーが暗躍することにもなった。いわゆる世耕旋風が巻き起こることになった。この経過は一種の利権化となり、ぼろ儲けしたブローカーから政治資金が政界に流れ込むことになるという具合に錯綜していくことになった。


【進歩党の社会党懐柔の動き】
 2.1ゼネスト前後の頃、進歩党の連中が社会党本部に西尾を訪ね、連立内閣の出現に協力するよう申し入れをしてきていた。この話はトントン拍子で進み、2.12日連立内閣構想が出来上がった。自由党、進歩党、社会党の3党の実力者の間で秘密裏に進められ合意が為された最初の連立となった。ところが土壇場で自由党が抜け落ちるということになり、このたびの連立工作も不調に終わっている。結局、三次に渡る連立工作はいずれも失敗したことになる。

【労働戦線の潮流変化】

 2.1ゼネスト後労働戦線に変化が現れた。伊井放送後全官公庁共闘は35対4で解散を決定した。「全闘」も急いで解体を決めてしまった。倒閣実行委員会は戦線から逃亡した。が、2.1ゼネスト闘争の経験は労働戦線の統一機運を前進させ、2.3日総同盟を除く「全闘」参加組合によって全国労働組合会議準備会を結成している。

 総同盟のスジ論に押し切られて解体した後、3.10日全国労働組合連絡協議会(「全労連」)が結成された。「産別会議」.「総同盟」.日労会議.国鉄.全逓他諸組合446万名(組織労働者の84%)が加入した。「全労連」は、各組合の自主性を規約に明記し緩やかな連絡協議機関として位置付けられていた。決定に際しては多数決制を採らず、全員一致を原則とし、一組合でも拒否すれば決定にならなかった。闘争せざることを金科玉条とする総同盟案が取り入れられた結果であり、空洞化され続けていくことになった。統一戦線を闘わざるものとの妥協で結成することの愚かな代償であった。

 「全労連」がかくも妥協を急いで結成された背景には、3月に世界労連代表団の日本訪問が待ち受けており、総同盟も含めた歓迎委員会をつくる必要があったからとされている。そういう制約を持ちながらも最大の統一組織となった。常任幹事として産別の川畑静二、総同盟高の実、国鉄中郷貫一。

【産別内に党中央批判が亀裂する】

 他方で「産別内部」に共産党の指導に対する批判が生まれた。5月の執行委員会で共産党の過剰介入=引回し主義が大衆からの遊離を招いていることを危惧する指摘がなされた。聴濤議長以下主立った幹部はそうした意見に耳を傾けず党を擁護する立場に終始したが、副議長細谷松太らは「産別会議」に対する共産党のフラクション活動(執行部内の共産党員が党の方針を組合に持ち込もうとする活動)と党の「赤色労働組合主義」を批判することとなった。

 斎藤一郎氏の「戦後日本労働運動史」には、「共産党が産別を世襲領地とみなしてはならないこと、共産党は労働組合の独自的な闘争と任務を知るべきこと、労働組合内で活動する共産党員は何よりも組合民主主義の原則を守るべきで、党の政策をそのまま労組内に持ち込んではならないこと」を要求したことに意義があったと記されている。

 この潮流は48.2.14日「産別民主化同盟」(民同)声明につながっていくことになり、6月正式に結成大会が開かれた。その発足は、戦後の大衆組織運動分野での最初の党に対する対峙的な組織となった。

 3.1日、IMF(国際通貨基金)が業務開始。ドルを軸とする固定為替相場制を敷く。1ドル360円。


【トルーマン・ドクトリン】

 3.12日、アメリカ大統領トルーマンはが「トルーマン・ドクトリン」を発表した。この日トルーマンは上下両院の合同会議に臨み、次のような演説を行った。概要「直接間接の侵略によって自由な国民に強制された全体主義体制から自由な制度と国家的独立を護るために、侵略に対抗する自由な国民を援助する」、「自由な精度の崩壊と独立の消失は、その国にとってのみならず、全世界に破壊的影響を及ぼす」、「武装せる少数派や国外からの圧迫に反抗しつつある自由な国民を支持することこそ、アメリカの政策で無ければならぬ」、「ギリシャ及びトルコに対する援助として4億ドルの財政支出の承認を議会に求める」。

 アメリカ帝国主義が伝統的なモンロー主義の枠から抜け出ることを世界に表明したことになる。これを受けて「自由な諸制度、機構が存続できるような政治的・社会的情勢を作り出す能動的な経済体制を世界に復活する」為の「マーシャル・プラン」が打ち出されることになる。


【世界労連の勧告】

 3.17日、世界労連代表団が日本に遣ってきて、労働組合の活動状況及び労働者の生活状態を視察した。その予備報告が47.6月に開かれたプラーグ会議で採択される。その内容を見るに、「分裂工作の恐ろしい結果は、日本の労働運動史によって示されている」と述べた後、世界労連の目的に従い、産別組合の基礎の上に立って統一された全国的労働組合本部を民主主義的に設立するよう勧告している。多数決を原則とする組合運営の原則を示しながら、少数派にその発言権を保証することを希望していた。なお、日本の賃金体系が「職業能力、仕事の性質、為された仕事の量や質に基礎をおかず、労働者の年齢や勤続年限、家族数によって決められているという事実はさておいても、方法そのものが非合理的、非経済的である」と分析し、「賃金は労働者の資格、その労働力に基礎をおかねばならない」と忠告していた。


【沖縄及び奄美の動き】

 2月、徳球書記長の命を受けた奄美の久留義蔵は、非合法に奄美共産党を組織、奄美人民共和国の樹立を綱領に掲げた。沖縄本島でも6月仲宗根源和が沖縄民主同盟を組織した。7月瀬長亀次郎が沖縄人民党を結成した。自主沖縄の再建、人民自治政府の樹立を目標とした。9月大宣味朝徳を党主として沖縄社会党が結成された。「米国支援の下、民主主義新琉球の建設」、「南北琉球を統合し国家体制の整備を期していた。

【「財閥家族」の指定】

 3月頃、三井の三井高公、三菱の岩崎久弥、住友の住友吉左衛門、安田の安田一その他合計56名が「財閥家族」に指定された。彼等の財産管理、会社役員就任の制限が指示された。当時政府に報告された財閥家族の所有有価証券は12億200万円、うち三井11家が3億9000万円、岩崎11家が1億7700万円、住友が3億1500万円、安田が3900万円であり、個人トップでは住友吉左衛門の2億6500万円が最高で、次が三井高公の8800万円であった。

 この頃の三井高公の心境が、次のように語られている。「自分にも今後の生きかたはからない。しかし、ことここにいたって、皇室もあんなになられ、憲法も変わっているのに、三井家のみが昔のように生きることはとうていできない。三井家が皇室と共に変るということは、先祖に対しても恥ずかしくないと思う」。居並ぶ面々は、思わず涙にむせんだと云われている。


【党の「2.1ゼネスト」後の戦術転換=『地方権力奪取』闘争への転換】
 こうして、2.1ゼネストの敗北以降、『地方権力奪取』闘争へ転換していった気配がある。「これは権力の末端を破壊して、民主政権を街から村から確立していこうとする構想であって、占領軍との闘争を回避した平和革命論に立脚した戦術であったが、この結果、各地で「地域人民闘争」という形での闘争が激化していった。

 しかし、地域の闘争を中央に集約することが出来ず、そのラジカリズムは組合民主主義を圧殺したまま激化していったので、やがて組合民主主義の名による反共主義に立った民同的分裂を導き、産別崩壊の要因を作り出していった」(ぬやま・きよし「もう一つの日本共産党」P90)。

 産別の斎藤氏は次のように記している。「共産党の見解に拠れば、地域人民闘争は経済闘争と政治闘争が完全に溶け合ったもので、それだけで経済闘争も何もかも一ぺんに解決がつき、その上『政権』にさえありつけることのできる便利この上もない戦術であったが、産別はかかる見解は結局において経済闘争を否定し、政治闘争も否定するものであり、労組にこれを押し付けることは労組を崩壊させるものであり、また政党をも崩壊させるものと考えた」。

【伊藤律が「東工大事件」に巻き込まれる】
 2.1ゼネスト挫折直後、「東工大事件」が発生している。2.19日、東工大職員組合文化部主催で、全学討論集会が開かれ、自由・進歩・社会・共産各党の代表者が呼ばれて演説・討論が行われた。この時の伊藤律演説が「工業大学新聞」に掲載されたが、一面トップに「アジア大衆の敵はアメリカ帝国主義、全学討論会で共産党伊藤氏叫ぶ」という大見出しで記事にされていた。公然たるGHQ批判はご法度の下での党運動であったので、伊藤律の一高時代からの友人で且つ東工大細胞として活動していた畑敏雄氏は驚き、店頭で発売されていた新聞の買い取りを急いだ。

 ところが、GHQの情報機関CIC(対敵諜報部)の機関員数人が畑氏の研究室に乗り込んできて、畑、伊藤律、関係学生を連行した。順番に取り調べられ、伊藤律はこの時「供述書」を取られ、GHQ批判は真意ではないとの弁明をさせられている。一夜明けて釈放されたが、「この時、米情報機関に脅され、スパイになったのではないか、あるいは、ヒモがついたのではないか」と疑惑されることになった。

 伊藤律は、「スパイになれとか、ならないとか、そんな話は一度も出ていない。2.1ストの直後で、そんな雰囲気があるはずもない。私がGHQのスパイだというのは、のちに志田重男が指導権を独占するために、西沢隆二と組んでつくった陰謀ではないのか」と弁明している。推測するのに、GHQはこの頃、次期共産党指導者として存在感を増しつつあった伊藤律を要注意人物としてマークを強めており、「東工大事件」はその恰好ネタになったということであったのではなかろうか。当局に内通しない者に対してはかほどに苛酷な掣肘が加えられると言うことではなかろうか。

【第92回通常帝国議会】
 3.31日に解散された第92回議会。この時、国会法、裁判所法、行政官庁法、地方自治法、教育基本法、財政法、労働基準法、独占禁止法、学校教育法、衆議院議員選挙法など、新憲法施行に伴う重要法案を次々と成立させ、戦後日本の法制度の基本を確立した。

 衆議院議員選挙法は、前年の選挙法改正で導入した大選挙区・制限連記制を廃止し、中選挙区・制限連記制に改めた。この制度は1993(平成5)年に小選挙区比例代表並立制が導入されるまで続くことになる。

【政党の再編成】

 この間政党の再編成が見られた。
 3.8日、国民党と協同民主党が国民協同党を結成。三木武夫を書記長とした。78名の議員を組織した。
 3.31日、吉田首相により衆院が解散。「新憲法解散」と云われる。

 自由党内の斎藤隆夫、芦田均、一松定吉、河合良成、木村小左エ門、犬飼健、楢橋渡諸氏が吉田首相、大野幹事長と見解を異にするとの理由で脱党。日本進歩党(総裁幣原)に合流して日本民主党を結成した。総裁は幣原と芦田の間で争われることになった。


【国際通貨基金(IMF)が業務開始】

 国際通貨基金(IMF)が、1945年12月に発効したIMF協定に基づいて、1946年3月に設立、1947年3月に業務を開始した。為替レートを安定させて、自由貿易を発展させるために、国際通貨体制を支える機関として国際通貨基金(IMF・短期的な資金を援助する機関)と国際復興開発銀行(IBRD・期的な資金を援助する機関)が創設された。

 国際通貨基金(IMF)は、金だけを国際通貨とする金本位制ではなく、ドルを基軸通貨とする制度を作り、ドルを金とならぶ国際通貨とした。1930年から1940年代、世界のおおかたの金が米国に集中しており、米国は圧倒的な経済力を誇っていた。米国の豊富な金をもとに発行されたドルは、金と同様の価値があった。このように、ドルと各国の通貨価値を連動させたことから、ブレトンウッズ体制(IMF体制)のことを、金・ドル本位制という。

 この制度では、金とドルの交換率を、金1オンス=35ドルと決め、金との交換を保証しました。為替レートが固定されていたことから、この制度を固定相場制ともいいます。また、為替相場の変動を平価の上下1%以内に維持することが決められ、ほとんどの加盟国が、ドルに対して1%より狭い変動幅に定めた。日本でも、平価を1ドル=360円に固定し、変動幅もIMFに加盟した当初は上下0.5%、1963年以降は上下0.75%とした。(「金融用語辞典」より)


【教育界の流れ】

 3.31日、教育基本法.学校教育法が公布施行された。教育基本法は、1890年制定の教育勅語に代わり、戦後憲法の精神に即した教育制度や施策の基本的在り方を示した重要法律となった。以降教育界の憲法として今日にいたっている。

 前文と11条項からなり、前文では「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献する」との理念を掲げ、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」と、「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす」教育の徹底を明示している。教育の目的や方針、教育の機会均等、義務教育、男女共学、国公立学校における宗教的活動の禁止などを規定している。同条10条は「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるものである」とあり、第2項で、「教育行政は、この自覚の元に、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標」と記している。但し、愛国心や伝統の尊重が盛り込まれておらず、憲法同様GHQ主導で制定されたいきさつ等から、守旧勢力から法改正すべきだとの意見が繰り返されることになった。

 4.1日、義務教育期間を「9年、6.3制」とする学校教育法が制定された。歴史科は社会科に吸収され、「くにのあゆみ」は消滅した。文部省が、学習指導要領の試案を纏めた。


【この頃の宮顕と百合子の様子】
 増山太助の「戦後期左翼人士群像」によれば、この頃の宮顕・百合子夫妻の動向について次のように伝えている。「1947年の春、私が文科部員に任命された頃の宮本顕治は、宮本(中条)邸で文化部会が行われるとき、絣の着物を着て部屋の片隅に座り込み、百合子の『立て板に水を流す』弁舌にただただ聞き入っていた。百合子は私達をつかまえて『顕治さんを頼むわよ』とか、『男にしてね』などと彼の擁立に熱中する一方で、『沖縄の野蛮人』というような差別用語を臆面も無く使って徳田球一をけなしていた」とある。

【国際情勢の急変とGHQの占領政策の転換】
 47年頃から国際情勢が急変し、連合国軍はアメリカを盟主とする資本主義国家とソ連邦を盟主とする共産主義国家との対立が顕著になり「冷戦構造」が作り出されていくことになった。3.12日いわゆる「トルーマン.ドクトリン」が宣言されて、アメリカは次第にソ連封じ込めの戦略にシフトした。こうした動きに対抗して9月ソ連邦を中心とするヨーロッパ九カ国の共産党.労働者党の情報連絡機関として「コミンフォルム」(共産党.労働者党の情報局)が結成された。ソ連邦共産党指導部スターリンを中心とする対冷戦戦略であった。

 中国では日本軍の敗戦後国民党と共産党の内戦が始まっており、アメリカの支援する蒋介石国民党軍が中国共産党軍に次第に形成利あらずの局面に追い込まれつつあった。

 こうした国際情勢の変化を受けてGHQの占領政策に大転換がもたらされることになった。GHQの対日政策は対ファシズムとの戦いから対共産主義との戦いへと急直下シフト替えされることになり、以降それまでの平和主義的民主主義的傾向の助長が反転して日本を極東の工場としてアメリカの反共体制に組み込もうとする方針に移り始め、民主化政策の早々の仕上げと下からの革命的民主主義への弾圧.反共措置の強化という両面の采配をふるうことになった。その手始めに公務員の団体交渉権.争議権が制限されるようになっていった。

【「2.1スト」後の一斉選挙】
 2.1ストに強権を発揮したGHQは、返す刀で全国一斉選挙による刷新を指導していった。2.7日マッカーサー元帥が「総選挙の時期が到来した」との書簡を吉田首相に手交し、これを受け4月に次々と選挙が実施されていくことになった。これが概要「新憲法に基づくブルジョア民主主義の統治形態の端緒であり、支配階級側からの流動局面に対する乗り切り策であった」(田川和夫氏「戦後日本革命運動史1」)ように思われる。これを思えば、選挙の階級的性格が明白となる。

 4.5日、都道府県知事、市区町村長選挙、4.20日に第一回参議員選挙、4.25日戦後初の衆議院総選挙、4.30日地方選挙の日程が組まれた。

(私論.私観) 総選挙の左派側からの史的位置付けについて

 田川和夫氏は「戦後日本革命運動史1」で次のように捉えている。「民衆の闘争が、革命の爆発と勝利に向かって突き進むことに恐怖した支配階級は、一刻も早く、総選挙の中に民衆を引きずり込み、憲法制定議会を早々と成立させ、帝国主義の存在には手をつけない統治形態のオシャベリの中に、生活の安定がもたらされるかのような幻想を植え付けることが必要だったのである。4月危機をアメリカ占領軍が必死になって回避し、民衆に発砲し、デモ隊を鎮圧しながらも、難産を続けていた吉田内閣を成立せしめたのも、憲法制定議会を軌道に乗せ、戦後日本の支配階級を安定させて、それに敵対する運動を治安法規に基づいて取り締まることを可能にする体制に作り上げることにあったといえよう。そしてそのためには、憲法制定と同時に、農地改革を遂行し、農民層を労働者階級から切り離し、ブルジョア支配の為の新たな政治的基盤を作り上げることが必要であった」。


 新憲法施行を前にして鶴首の選挙が行われた。4.5日、都道府県知事と市町村長選挙。4.20日、第一回参議院選挙、4.25日、第23回衆議院議員総選挙、4.30日、地方議会議員選挙(第1回地方選)が行われ、戦後日本の新秩序が作られていった。

 4.20日の第一回参議員選挙(全国区100、地方区150)では、社会党が全国区・地方区合わせて47議席(全国区17名、地方区30名)を取り、自由党の38、民主党の28、国民協同の10議席に大きく水をあけて第一党となった。共産党は4、諸派13、無所属108議席であった。

 共産党は、4、全国区3名.54万9916票(2.6%)、地方区1名.70万6000票(3.2%)。その他無所属が111名となった。


【新憲法下初の総選挙】
 4.25日、新憲法に基づく戦後最初の総選挙(第23回)が行われた。ゼネスト中止後の民意を問うという意味があった。このたびは「中選挙区・単記制」で行われることになった。衆議院466名の定数に1573名が立候補するという激戦となった。 婦人議員が39人から15人に減少する。

 選挙の結果は、吉田の率いる自由党は敗北を喫し、社会党が予想を上回る勢いで一躍第一党となった。 総選挙の結果は、社会143(解散前98、得票率26.19%).自由131(解散前140).民主121(解散前145).国協29(解散前63).共産4(解散前6).諸派20(解散前4).無所属13(解散前9)であった。こうして、社.自.民の三派が僅かの差で競り合う三すくみの状態となった。

 社会党の躍進と共産党の低迷には「闘争は共産党、投票は社会党」という心理の反映があった。記者団を前にした片山は会見で「国民の輿望をになってわが党が第一党の地位を獲得したことは、旧勢力に代わる革新勢力台頭の現れだと思う。保守勢力の政策を国民が信頼しないということが明らかとなった以上、次の政権は資本主義から社会主義へ移行する性格を持った政権でなければならない。名実共に社会党が中心となった政権を樹立しなければならないことは当然です。これが私の決意です」。「社会党第一党」の報を聞いた西尾氏が「本当かい、君。そいつぁえらいこっちゃぁ」と新聞記者に答えている。

 片山が政治運動を始めたのは、大正時代である。民主主義について吉野作造博士の影響を受け、穏健な社会民主主義を唱える安部磯雄に心酔し、自らもその路線を終始守り通した。

 選挙結果に対し、4.27日マッカーサーは賛辞し、概要「選挙民の前に置かれた基本的問題は、いずれの政治思想を選ぶかということであった」、「日本国民は共産主義的指導を断固として排し、圧倒的に中庸の道、すなわち個人の自由を確保し、個人の権威を高めるため、極右、極左からの中間の道を選んだのである」と声明を発表している。

 党は野坂参三(東京1区).徳田球一(東京3区).林百郎(長野3区).木村栄(島根全県区)の4名の当選にとどまった。志賀義雄始め4名の現職議員が落選した。前回の35名議員のうち当選わずか4名という惨敗をきした。この時「2.1ゼネスト共闘委議長」伊井弥四郎氏が神奈川2区から共産党公認で出馬していたが、1万6158票しかとれず落選している。伊藤律も東京7区から出馬、7位で落選。

 党は、100万2903票(3.7%)を獲得した。これは全官公庁共闘の260万、産別会議の160万の組織票から考えれば惨敗であったことになる。これにはGHQの露骨な干渉が大きく作用していた。3.25日GHQ民生局は公式見解として、党に民主主義の破壊者の非難を浴びせ、民主主義を守る為には党に投票するなと露骨に選挙戦に干渉した。概要「今日、民主主義は最大の危機に直面している」、「民主的投票とは、民主主義を支持し、日本を財閥とか軍閥とかプロレタリアートとかの独裁という束縛に再び持って行くような全てのものと闘う人を彼らの代表として選ぶ、新しい日本国民の最も貴重な権利を何ら制限を設けずに行使することである」などと、レクチャーし続けていた。

 もう一つの理由として、2.1一ゼネスト指導の失敗後遺症とでも云うべきものもあった。徳球書記長は、概要「闘争は共産党、選挙は社会党という割り振りが為された」と見立てして済ませたが、そう事は単純では無かろう。

【徳球の労働運動指導の自己批判】

 5.18日、第4回共産党中央委員会総会は、「労働運動に関する方針」の中で、「現に組合内において、大衆が我が党に反発を示し、危惧をいだいているのは事実である。ことに組合の機関に我が党員の多数を占めているところでは、却ってそういう傾向が強いのはなぜか」と問題提起し、その原因として「組合の民主的運営の未熟さ、そこからくる形式主義、反対者の意見、主張を充分に言わせ、丁寧に聞いて説明せず、機械的にやっつけ、反動呼ばわりし、押し付けてきた態度」にあると自己批判している。技術論的レベルではあるが、こういう自己批判精神こそ徳球系運動の良質な面ではなかろうか。

 この頃の5月、袴田が北陸地方に派遣されている。党内序列的には左遷の観がある。

 小学校でローマ字教育を開始する。
【片山哲内閣組閣時の変調と苦悩】

 両院共に第一党となった社会党は組閣に難航した。「準備が全然なかったから大変なことになった」。この時の心情として西尾氏は次のように書いている。概要「私の心は重かった。第二、第三党を保守党が占め、圧倒的な多数を擁している以上、仮に社会党から首班を出しても、自由、民主の反撃にあえばひとたまりもない。それならば、むしろ我が党としては、ここのところは首班を受けないで、逆に自・民両党の間に立ってキャスチングボートを握り、政局をリードしていく方が得策だ。そうしている間に、野党としての経験しか持たない社会党も、だんだん与党としての訓練ができてくる。その時機を待って、我が党が内閣を組織しても遅くない。従ってこの際は、総理大臣を吉田さんに譲り、自・民・社・国協四党の挙国連立にもっていくのが一番賢明な策である、というのが私の腹の中の本当の筋書きであった」(「西尾末広の政治覚書」)。今日に至る社会党の本音の原型がここに見られる。

 この時の社会党内の政治状況図は次のようになっていた。

社会党右派 西尾、吉川兼光
右往左往派 鈴木茂三郎、加藤勘十
社会党左派 佐々木更三、島上善五郎 自由党以外の社会・民主・国協の三党連立論を主張。
荒畑派 社会党単独政権然らずんば野党にとどまるべきと主張。

 5.9日、当初、社会党、自由党、民主党、国民協同党の4党での連立が画策され、「政策協定の原案」作りに向かうことになった。社会党は片山委員長、西尾書記長。自由党は吉田総裁、大野幹事長。民主党は斎藤筆頭最高委員、芦田幹事長、国民協同党は三木書記長。

 この間、社会党左派の入閣をめぐって「左派と手を切れ」と主張する自由党との調整が難航した。この時、西尾書記長と自由党総裁・吉田茂との次のような遣り取りが伝えられている。吉田「貴党の左派のイデオロギーは、何か」、西尾「容共的、もしくは人民民主主義と考えてもらえばいい」、吉田「自由党は反共を主義とする。主義主張を異にする自社両党が、政権のために連立内閣をつくるのは、第一に政党政治の本領に反し、又、遂には両党のためにならぬ」。

 5.14日、社会党右往左往派鈴木茂三郎、加藤勘十は共産党との絶縁声明「共産党と一線を画する」を出した。「これまで共産党との協力は、労働組合を共産党から遠のけるため必要だったのであるが、4月選挙における社会党の増大と共産党の敗北、世間の共産党戦術に対する反応などに鑑みて、共産党との間に一線を画して進むことにした」、「共産党が無産階級の独裁を認め、日常闘争を破壊的にやるのでこれに反対であり、経済復興にはアメリカからの援助がまず第一である」等々とコメントしていた。この声明は、GHQや保守党を喜ばせた。同時に、この声明こそが連立政権誕生の何よりの後押しとなった。西尾は次のように覚書している。「とかく公式主義的な左派の諸君が、そういう気持ちで片山内閣の誕生に協力してくれることは、組閣本部にとってまことによろこばしいニュースであった」。

 西尾書記長は、第三党の芦田均率いる民主党(民主党は進歩党を基盤として自由党から芦田派が合流してできた政党)との連立に向かう。この時民主党は、社会党との連立に向かうことを是とする芦田派と、自由党と組んで二・三位連合を画策する幣原派とに党内分裂していた。

 西尾書記長は、協同党をも巻き込む。「協同党は、戦後まもなく三木武夫が組織した日本協同党が日本国民党と合同して国民協同党となっていた。協同党は戦前に欧州で提唱された協同組合主義に共感した三木が設立したもので、保守と革新の中間を行く政党だったが、党勢拡大のために合同を繰り返すうちに協同組合主義は薄まり、他の保守政党と大差ないものになっていった」(
「自民党派閥の歴史」)。

 すったもんだの末に、5.16日、四党政策協定ができたが、経済危機突破の為の国家統制・管理の必要の程度の認識にずれを生じさせていた。民主党内も複雑さを見せていた。幣原前首相派と自由党から脱党してきた芦田派との間がしっくりしていなかった。幣原派は自由党との折り合いが良かったが、芦田派は自由党と犬猿の仲であった。こうした折の5.18日石橋湛山、石井光次郎、木村篤太郎3閣僚の公職追放が発表され、その日の午後民主党は党大会を開き、党首を芦田、幣原は名誉総裁、斎藤隆夫は最高委員と態よく棚上げされ、民主党を名実ともに芦田牛耳ることになった。以降「暗夜の手探りで」片山哲内閣の構想が練られていった。

 5.19日、片山・吉田会談が首相官邸で開かれた。西尾も陪席した。この席で吉田は公式に「首班は第一党たる社会党の片山さんがやるべきであると思うが、左派の人が入閣する連立政権では困る」と主張し進展が見られなかった。最終的に自由党が閣僚派遣を拒否することとなった。

 5.22日、マッカーサー・片山会談が行われ、マッカーサーは片山首相を支持激励する「特別声明」を出した。この時、マッカーサーは、「日本は登用のスイスたれ」と述べた。

 5.23日、四党会談が開かれ、4党政策協定の上に自由党を除いた保守系の民主党.国民協同党との3党連立を策しこれに成功した。社会党左派は閣僚から除外された。
 


 この時の事情について、吉田は「回想十年」で次のように述べている。

 「4.25日に行われた総選挙の結果は、社会党が143名で第一党となり、自由党は10名ばかりの差で二位に落ち、又進歩党は当時既に民主党となり、これより先自由党から離れていった芦田均君や幣原前進歩党総裁などが中心幹部の地位にあったが、これ120余名で第三位であった。革新政党たる社会党は第一位になったが、過半数にはなお遠い。それに対して、保守系両党を合すれば、優に過半数を制するという微妙な情勢となった。そこで民主党と組んで、保守連立で行けという議論が出たり、はなはだしきは、民主党から引抜をやって、第一党を作れといった説まで出たが、私は第一位の社会党に譲って、この際我が国の民主政治のルールを確立するということに決めていた」。


【片山哲内閣の誕生】
 四党会談で万端整って、当夜の5.23日7時衆議院本会議が開かれ、片山哲が内閣総理大臣に指名された。議長松岡駒吉が「投票総数426票。うち無効6票。420票の満場一致をもって、片山哲君を内閣総理大臣に指名することに決定いたしました」と読み上げた。新憲法下初の指名であった。遂に社会党党首を総理とする片山哲連立内閣(47.5.24〜48.2)が誕生した。こうして日本の憲政史上初めての社会党政権が誕生することとなった。 

 5.24日午後、片山首相は就任挨拶のため、「GHQ」にマッカーサー元帥を訪ねた。
マッカーサー元帥は、歓迎の意を表明した。「あなたが首相に選ばれたことを、私は歓迎する。今度の選挙の結果は、日本国民が極右極左を排し、中道を選ぼうとしていることを示すものであり、あなたは中道政治をいっそう推進してくれるものと期待している」、「片山党首の首相指名の政治的意義よりも恐らく更に重大な意味を持つのは、その精神的意義である。史上初めて日本は長老教会の会員として生涯を過ごしてきたキリスト教指導者によって指導されることになったことである。これは現在日本人の心を支配している完全な宗教的寛容と宗教的自由とを反映している」、「私は民主主義のためには援助を惜しまない。日本はこれから東洋のスイスとなって欲しい」と述べた。


 閣僚のイスの割り振りは、社会7、民主7、国協2、緑風会1となった。相・片山哲、官房長官・西尾末広、外相・芦田均、労相・米窪満亮(海員組合の右派系幹部)、農相・平野力三、商工相・水谷長三郎、衆議院議長・松岡駒吉。右往左往派の鈴木・加藤は入閣しなかったが、鈴木は衆議院予算委員長と党政務調査会長、加藤は衆議院労働委員長ポストが割り当てられていた。

 6.2日、片山首相は、ラジオ放送を通じて次のように述べている。「国民諸君に訴う」として「新内閣の重大な使命の一つは、目前に迫っている経済危機、食糧危機を克服して、国民生活を一日も早く安定させることである」、「私が特に国民諸君にお願いしたいことは、危機突破のために、それぞれの分に応じて犠牲を甘受して頂きたいということである。この上とも耐乏の生活を続けて頂きたいということである」。

(私論.私観) 片山内閣誕生の経過について

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように捉えられている。「二・一スト前後の革命的危機を脱した吉田内閣は、その余燼も冷めやらぬ1947年春、新憲法下で初の各種選挙を相次いで実施していった。まず総選挙が4月に行われ、この結果、社会党が143議席(前回92議席)を獲得して第一党に躍り出た。社会党の躍進は飢餓とインフレに悩む労働者大衆の期待を反映したものであった。しかし、第一党とはいっても過半数を制したわけではなく、吉田茂の自由党が131議席、芦田均の民主党が126名、三木武夫らの国民共同党が29名とブルジョア諸政党が圧倒的多数を占め、社会党は3分の1の勢力を占めたに過ぎなかった(二・一ストのでたらめな指導で労働者の反発を買った共産党はわずか4議席だった)。

 不意に転がり込んだ第一党の座に『弱った』と嘆息した片山哲委員長であったが、西尾末広ら右派はブルジョア政党との連立に意欲を燃やし、自由、民主、国共との政策協定による組閣策動に乗り出した。彼らの連立内閣推進の口実は、『保守陣営にくさびを打ち込み、幾分なりとも勤労大衆のための政策を実現する』というものであった(最近の自社連立でもこれと同じ言い分が登場した!)。

 この時の社会党中執で連立に反対したのは荒畑寒村ただ一人であった。『ましてブルジョア政党との連立内閣は、ひとり社会主義の原則に反するのみでなく、寄り合い所帯の水割政策で現在の危機を突破し得ないことは明白ではないか。むしろあくまで野党にとどまり、第一党の実力をもって政策の実現を政府に強制するに如(し)くはない。もし、どうしても政府を作らなければならぬとしたら、たとえ少数でも単独内閣を組織して三日天下でもいい、社会党内閣でなければやれないような政策を断行すべきだ。そしてブルジョア政党が束になって反対したら、その時こそ議会を解散していわゆる信を民意に問うべきだ』(「寒村自伝」)」。

 四党政策協定に1カ月も手こずり、社会・民主・国共三党連立の片山内閣が発足したのはようやく6月1日のことであった(自由党は入閣しなかったが、四党協定は存続した)。しかし、自ら社会主義的政策を断行する意志がない上に、ブルジョア的な政策協定に縛られた右派主導の片山政権に選挙で掲げた公約はおろか、いくらかでも労働者人民の利益を図る政策などやれるわけもなかった」。
 


【GHQが機密費を認めず】
 戦前派、陸軍や内務省など各省に機密費が認められていた。ところが、GHQは、機密費の予算計上を認めなかった。これは、「議会や国民の意思に関係なく税金が使われることは許されないとの考え」によった。「内閣は機密費を計上する権限を持っていない。国会はこれを認めようと思えば、計上して議決することができる。だが、司令部の方針としてはこれを許さない」(5.29日付時事新報)

 こうして拒否されていたが、やがて報償費との名目で復活することになった(復活の時期は不明)。憲法第90条は、「国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない」とある。にもかかわらず、報償費は会計検査で事実上ノーチェックとなって今日まで経過している。国民の税金である以上、その使い道を明らかにするのは憲法の国民主権的観点から第90条に定めているところである。機密費が必要なのか、適正はどこまでか等々論議を要するところである。




(私論.私見)