第7部 1946年当時下半期の主なできごと.事件年表
「GHQ」本格的戦後改革制度着手、労働運動激化

 (最新見直し2006.9.22日)

6月 中西功入党す
6.13

【「読売第二次争議」発生】 GHQが読売新聞の鈴木編集局長らに退社命令.紛争激化。

6.13 【食糧危機突破に関する声明」】吉田内閣は、「食糧危機突破に関する声明」、「食糧危機突破対策要綱」、「社会秩序保持声明」を発表した。
6.18 キーナン主席検事、ワシントンで「天皇を(戦争犯罪人として)訴追しない」旨を言明。    
6.20 【新憲法、国会に上程される】政府より議会に対し憲法改正(新憲法)草案が上程された。
6.21 武装警官500名が占領軍MPの援護を受けて来襲し、乱闘の末56名の争議団員が逮捕された。
6.22 食糧メーデーのプラカードの製作者が不敬罪で起訴される。プラカードの内容は「朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね」というもの。のち名誉棄損罪に変更され、最後は免訴となった。 
6.28 野坂は、「戦争放棄」条項に食いついて、この日の本会議で、概要「自衛戦争は正義の戦いだ。自衛権まで放棄しているのは行き過ぎではないか」、「戦争一般放棄という形でなしに、我々は之を侵略戦争の放棄、こうするのがもっと的確ではないか」と質問している。
6.29 【日本共産党、「人民共和国憲法草案」と「新憲法草案の発表に際して」を発表した 】
6月 この月、東宝が久我美子・三船敏郎など「第1回ニューフェース」を採用。
7.1 「尋ね人」の放送開始。
7.4 人工甘味料ズルチンの販売が許可される。
7.14 社会党常任中央執行委員会、救国連盟運動で、共産党の参加を拒絶する方針を決定。
7.16 社会党の救国連盟運動での共産党との絶縁方針について、志賀政治局員が社会党の裏切りを糾弾。  
7.21 民主人民連盟結成。
7.24 国鉄第一次 分として7万5000名の馘首を国鉄労働組合総連合に通達。
7月 この月、戦災孤児や引揚げ孤児などの「家なき子」が増加する。  
8.1 【「総同盟」と「産別会議」の分裂 】松岡駒吉を会長に、社会党系の「日本労働組合総同盟」(「総同盟」)の結成大会が開かれた。
8月 あかはた日刊実現の為の印刷所建設資金募金運動始まる。
8.10 田中耕太郎文相の下、教育刷新委員会が設置された。
8.14 7万5千名の大量解雇をきっかけに国鉄が闘争宣言を発し、9.15日を期してゼネストに入る旨を加賀山運輸局長に通告した。
8.15 敗戦一周年。
8.16 経済団体連合会(経団連)設立され、総合経済団体として発足。
8.19 聴濤克巳を議長に、「総同盟」に対抗して共産党系の「全日本産業別労働組合会議」( 「産別会議」)結成大会が開かれた。
8.19 通算第4回中央委員会総会開催。地方選挙の方針、「党内民主主義と鉄の規律保持」を決議。
8.24 野坂議員が、衆議院本会議で憲法に主権在民を明記することを主張。
8.24 【新憲法の可決 】衆議院が、新憲法草案を修正可決した。
9.6 【財閥解体の動き】持株会社整理委員会は、四大財閥本社と富士産業(中島飛行機)を第一次指定し、47.9月までに83社を指定した。
9.9 生活保護法公布。
9月社会党第二回大会開催。委員長片山再選、書記長に西尾末広が選任された。
9.10 【労働争議始まる 】海員組合スト。
9.15 国鉄争議、、東芝争議が続いた。
9.27 労働関係調整法が公布された。
10.1 全炭・東芝スト突入。産別会議指導の10月闘争はじまる。
10.5 【 「第二次農地改革」 】第二次農地改革案が衆議院を通過、10.11日貴族院でも可決され、成立した。
10.6 貴族院が、新憲法草案を修正可決し、衆議院へ回付した。10.7日衆議院が、新憲法草案を可決した。
10.8 復興金融金庫法公布。復金インフレはじまる。文部省、教育勅語の捧読廃止を通達。  
10.9 経済同友会が、「企業合理化の犠牲は第一に資本家、次に経営者が負担し、労働者の犠牲は最後におく」べきもの、という見解を幹事会に提出した。 
10.10 電産労働組合がスト突入。読売の第二次争議から新聞単一は「10月闘争」へと突入した。 
10.11 GHQが新任の幣原首相にマッカーサーの5大改革を要望.=1.婦人の参政権、2.労組の結成奨励、3.自由な教育のための諸学校の開設、4.秘密警察の廃止、5.独占的産業支配改善のため経済機構の民主化。
10.14 GHQ、「国民学校(小学校)の日本歴史の授業再開を許可する覚書」を提示。こうして歴史授業の再開が許可された。「くにのあゆみ」が新教科書となり、新しい歴史教育の内容と方向を決定、戦後教育の幕開けとなった。執筆者の名前が公表されていた。前例破りとなった。左右双方から批判された。
10.16 読売争議が妥結している。経営側の勝利で帰着した。しかし、他の組合ではむしろ労働組合有利に事態が進展していった。
10.16 教育刷新委員会が6.3制教育の原案を決定している。 
10.21 農地調整法改正。自作農創設特別措置法公布(第2次農地改革開始)。  
11.1 中央委員会科学技術部「日本の科学技術の欠陥と共産主義者の任務」発表。第1回国民体育大会が京都・大阪を中心に開催される。  
11月 敗戦後の食糧不足にあえぐ日本に、食糧や衣類、薬、靴など大型トラック百台分の物資が届けられた。米国の宗教団体などでつくる「アジア救援公認団体(Licensed Agencies for Belief in Asia 略称LARAララ)」が無償提供したララ物資だった。この一部が廻され、12月より学校給食がスタートした。
11.2 プラッカード事件被告が名誉毀損で有罪。
11.3 新憲法が「日本国憲法」として公布された。47.5.3日より施行されることになった。
11.16 対日賠償ポーレー最終報告発表。
11.16 政府、当用漢字1850字と現代かなづかいを告示する。
11.20 日本商工会議所が結成された。
11.26 【「全官公庁共同闘争委員会(共闘)」が結成る 】参加組合は、国鉄53万名.全逓38万名.全教組35万名.全官公労協8万名.全交連22万名の合計153万名の労働者を結集させたことになった。共闘委員会は、各組合の自主性の尊重と独善の排除を運営方針として、議長には伊井弥四郎、副議長佐藤安政(全官)、事務局長長谷武麿(全逓)が就任した。
11.29 天皇陛下より11宮家に対する皇族離脱の指示が為された。
12.3 初のクイズ番組「話の泉」放送開始。
12.6 極東委員会が、労働組合に関する16原則を決定した。これは当初イギリスが提案し、ソ連その他の諸国の主張で修正.可決されたものであった。日本の労働組合運動を奨励し、第6項には「労働組合は政治活動に参加し、また、政党を支持する事を許される」と述べられていた。
12.10 人民広場で5万人の労働者大集会。
12.17 院内では、社会.協同.国民三党共同提案の議会解散決議案(内閣打倒要求をトーンダウンさせたもの)が上程されたが否決された。新聞各社論調も、「民主戦線結成の好機」(朝日新聞)、「信任を問え」(毎日新聞)、「議会を解散して民意に問え」(読売新聞)、「信を天下に問え、政府と与党に望む」(東京新聞)と煽っている。
12.17 生活権確保・吉田内閣打倒国民大会開催。この日宮城前の参加者は50万人を数え、メーデー以来の大集会となった。大会は、加藤を議長に、水谷長三郎.徳田球一.早川崇(国民党)らの各代議士が挨拶した。大会スローガンには、「最低賃金制の確立」、「労調法の撤廃」などと並び「吉田内閣打倒」、「社会党中心の民主政府の樹立」なども掲げられた。 これを機に、産別.総同盟.日農などに社会党左派も加わって倒閣実行委員会がつくられた。党がこれを推進し指導した。党の組合方針は赤色労働組合主義とフラクション主義に拠った。
12.18 極東委員会が、「日本の労働組合奨励に関する16原則」を決定。    
12.21 近畿・四国中心に大地震(南海道大地震)発生。死者1330人、全半壊3万戸の被害が出る。      
12.24 最後の皇族会議。11宮家の皇籍離脱を可決。
12.27 「傾斜生産方式」開始。(石炭.鉄鋼に政策を集中)。
12.30 6・3・3・4教育制度採用。


【中西功入党す】

 中西功も野坂と同じく中国で共産党に参加していた。野坂と違って中西の帰国は注目されなかったようである。中西は、戦後のこの時期の党の指導方針を直接社会主義革命を志向させるべきであると主張したことから徳球−志賀執行部の「二段階革命論」と対立を惹起していた。それが為に入党を許されていなかったが、46.6月頃、「彼はこの誤りを認め、党規律に従い、特に反幹部言動を慎み、党の方針を忠実に実践することを誓約して入党を許可された」とのことである。とはいえ、中西の社会主義革命論は党内に一定の支持を得て次第に中西グループを形成していくことになる。宮顕−袴田グループとも又違う独自の動きを見せていくことになる。

(私論.私観) 中西功の社会主義革命論の意義について

 この時期の徳球−志賀執行部から徳球−野坂−志賀執行部の移行過程においても社会主義革命を直接目指す動きは全く見当たらない。既述した湯本正夫(山本正美元党中央委員長)とこの中西の社会主義革命論が唯一といってよい主張であった。それを退けた執行部の姿勢には単にこの時期の党の理論的能力が「社会主義的な労働者政府」の樹立を目指す力量を持ち得ていなかったことに帰因していたのではなかろうかと思われるが、戦後革命闘争が破産していく過程を見るとき、中西の社会主義革命論で運動を組織して行っていたらどうなっていたのだろうかという思いは残る。そういう意味で照射されるべき動きではなかったではなかろうか。この中西に関する資料がないのでコメントしにくいが、野坂理論との類似点で、統一戦線の必要から「天皇制打倒」を正面から打ち出すことに慎重論を唱えていたということでもある。これ以上はわからない。

(私論.私観) 中西功の入党事情について

 中西の入党事情を見れば、この頃早くも党中央による意見の相違に対する暴力的排除が為されていことを物語っているが、逆に入党許可されたことも見ねばならないように思われる。これが徳球系党中央の真価であって、「六全協」以降の宮顕系党中央にはそうした度量は有りえない。「異端に対する強権論理による排除」はますます強まったと私は見ている。


【赤旗の変調論理】

 6.11日、党中央の誰の手になる文か判明しないが、この日の赤旗は次のような主張を掲げている。事態の変化に気づこうとせず、引き続き進駐軍=解放軍規定にこだわっており、「反動のデマにのるな、連合軍は民主勢力の味方」なる見出しを掲げ、「マ司令部は、あの声明によってデモを禁止しようとしたのではないし、民主主義勢力を弾圧しようとしたのではない」と期待を表明している。更に、「共産主義があるから大衆運動が無秩序、無節制なそれかたをするのでは無い。あらゆる条件が悪化している今日、自然発生的な食糧暴動ひとつ起こらないのは、共産主義者が大衆運動の組織と規律とをいかすために努力しているからである」と、「暴動抑止は共産党のお陰」論をぶっている。


 6.13日、吉田内閣は「生産管理否認の社会秩序保持声明」を出した。「生産管理なるものは正当な争議行為とは認め難い」、「これを放置しておくと、遂に企業組織を破壊し、国民経済を混乱に陥れるようになるものとりいわなければならない。その上もし、暴行、脅迫等の暴力がこれに伴って行使されるような場合には、社会秩序に対する重大な脅威を与えることになる」。食糧危機突破に関する声明と食糧危機突破対策要綱もあわせて発表された。

【天皇の「全国行幸」が始まる】

 6月、天皇の全国行幸が開始された。行幸は千葉県を皮ぎりに、静岡、愛知、岐阜、茨城そして近畿、東北と続くことになる。


【「読売第二次争議」発生】
 読売新聞社(馬場恒吾社長)で、概要「6.4付け『食糧供出』に関する記事の末尾の、政府の態度は本質的に地主擁護の性格を持つものとされている」という記事の内容が「新聞綱領違反」(プレスコード違反)に問われ、6.12日読売第一次争議を指導した6名の解雇事件が発生し、「読売第二次争議」となった。聴涛を委員長、鈴木東民を副委員長とする新聞通信労組結成後の最初の大事件となった。鈴木らは組合に守られて強行就労を続けた。GHQ新聞課長・インボデン少佐が首切りを直接指導し、承認しなければ新聞社の閉鎖をするとの脅迫を行っている。

 6.21日、武装警官500名が占領軍MPの援護を受けて来襲し、乱闘の末56名の争議団員が逮捕された。7.4日16名の島流し的配置転換が発令された。組合は、7.13-16日の4日間新聞の全面停刊を決行。7.15日長文連ら31名が新たに解雇が発表された。以降抗争は泥沼化していくこととなった。約120日に亘る苦難に満ちた闘争が開始され、10月闘争になだれこむことになる。

【「読売第二次争議」支援】

 6.14日、産別会議準備会の共闘委員会が開かれ、生産管理戦術の続行を決議し、闘争中の日発、関東配電、読売争議支援に立ち上がった。6.25日、16単産代表2500名の参加のもとら産別会議の結成準備会開催。この大会は、労働者に勇気を与え、闘争に奮い立たせることになった。


【「食糧危機」対応】
 6.13日、吉田内閣は、「食糧危機突破に関する声明」、「食糧危機突破対策要綱」、「社会秩序保持声明」を発表した。「社会秩序保持声明」では、「最近の大衆運動は、ややもすると本来の目的を離れ、多数の不法な圧力によって社会秩序も脅かす恐れのあることは、極めて遺憾である」、「生産管理なるものは正当な争議行為とは認めがたい。今日までの実例に拠れば---これを放置しておくと、遂に企業組織を破壊し、国民経済を混乱に陥し入れるようになるものといわなければならない。その上もし、暴行、脅迫等の暴力がこれに伴って行使されるような場合には、社会秩序に重大な脅威を与えることになる」と明言されていた。吉田内閣の立ち直りが見て取れる。

【アメリカから食料支援】

 7−8月、この次期に、最も危機的な状況にあった食料につき、英豪軍の手にあった50万トンの米が日本の配給当局に渡された。9月以降は、アメリカから継続的に食料が輸入され放出された。


【財閥解体の動き】
 「GHQ」の経済科学局長クレーマーは、45.9.末から三井.三菱.安田.住友4大財閥に対して、個別に「自然的解体」を説得していた。10.15日まず安田保善社がこれに応じ、@.一族が傘下諸会社から総退陣する。A.傘下子会社の最高責任者は総退陣する。B.保善社を解散し、同族持株を公開するの3項目を決議した。

 ついで三井.住友が同調、最後まで抵抗した三菱も10月末までに屈服した。財閥解体方針により、この頃動きが急ピッチになった。4月「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」制定、4.20日持株会社整理委員会令。指定された持株会社.財閥家族の所有する有価証券の譲渡を受けて、その処理にあたり、株式の民主化が進められた。

 8.8日、持株会社整理委員会が発足、財閥本社が保有していた株券が押収された。そして、新たに地方や新興の財閥78社の解体、財閥家族の追放が続いた。

 9.6日、持株会社整理委員会は、四大財閥本社と富士産業(中島飛行機)を第一次指定し、47.9月までに83社を指定した。47.12.10日「過度経済力集中排除法」制定。各産業部門の巨大独占企業の分割が行われた。解体、分割の対象になった企業は325社。その規模から云って当時の全株式会社の6割を超えていた。

 7.24日、政府は国鉄に対して75000名の大量首切りを通告(加賀山職員局長)。続いて海員組合に対して43000名の首切りを通告。組合は直ちに闘争に突入した。

【「総同盟」と「産別会議」の分裂】
  左派による産別会議結成の動きが右派を刺激し、総同盟を結成させている。8.1−3日、神田共立講堂において、「日本労働組合総同盟」(「総同盟」)の結成大会が開かれた。参加組織は、全金属同盟、日本交通運輸労組、専売、繊維、進駐軍労組の一部など1699組合、組合員85万人、組織労働者の22パーセントを占めるナショナル・センターの誕生となった。戦前の友愛会の伝統を引き継ぎ、反資本と共に反共産の立場を採った。

 会長に松岡、副会長に金正米吉.伊藤卯四郎.重盛寿治 、総主事に原虎一が就任し右派が指導部を構成した。左派の加藤勘十.高野実.島上善五 郎.山花秀雄.安平鹿一らはポストを争ったが大差で敗退した。この時掲げられた綱領は、一.労働条件の向上と共同福利の増進、二.技術の練磨等を通じての「人格の完成」、三.産業民主化の徹底を通じて「新日本を建設」し、「世界平和に貢献」する、という三項目であった。総同盟の眼目は、生産管理闘争から労使協調の経営参加方式を画策していくことにあった。もう一つの狙いは、労働運動の共産党からの分離化であった。概要「戦線統一は、現在の情勢では、遺憾ながら絶望的である。その重要な原因は共産党の非友誼的態度と産別会議派に巣食う一部極左主義者の無責任な分裂主義による」としていた。

 「総同盟」に対抗して 8.19−21日共産党系の「全日本産業別労働組合会議」( 「産別会議」)結成大会が開かれた。参加組織は、産別21組合、組織人員163万人であった。「産別会議」には、全逓、全日本機器、全日通、化学、教員、国鉄、全炭鉱、電産、鉄鋼、新聞通信放送などの主要単産が結集していた。「産別会議の結成は、戦後革命期における日本労働組合運動の戦闘的な全国的結集を推進する一過程であった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。

 新聞単一の執行委員長・朝日新聞論説委員であった聴涛克巳が、小林一之、細谷松太らの協力の下に、日本新聞通信放送労働組合を結成し、それを基盤として「産別会議」を組織した。議長に聴濤克巳(新聞単一)、副議長に土橋一吉(全逓信従組).坂口康夫(国鉄東京地本).事務局長佐藤泰三(電産).同次長細谷松太(化学)の陣容であった。幹部には共産党員が多く、党フラクのキャップは細谷松太であった。掲げられた綱領は、一.労働者と労働組合の基本的権利の擁護から始まる10項目であった。一見して総同盟とは違う戦う労働組合の綱領となっていた。

 大会は、進行中の国鉄労組、海員組合の闘争を支援することを決め、全国に支援共闘闘争委員会と防衛隊をつくっていくことを決議した。

 当時の組織労働者の43%にあたる21単産、10万単位の組合、組合員数163万人を結集した。組織労働者の43%を占め、総同盟の2倍を組織していた。「産別会議」が階級的労働運動の全国的な中心となった。こうして、我が国の労働組合運動は、戦後の再出発において、 二つの全国組織への分立を余儀なくされ、早くもこの時期労働戦線に分裂が生まれた。「総同盟」が社民系となり、「産別会議」が階級的労働組合運動を担うこととなった。

 徳田は、結成された「産別会議」を党のフラクションに仕立て上げることに注力した。徳田の「赤色労働組合主義」であったが、他面で中央集権的な組織化はボスの発生を許し、党のコントロールが利かなくなる恐れがあるとしてゆるやかな合議体組織に据え置くよう指導している。聴涛と徳田との間に対立が発生したが徳田が押し切った形となった。産別傘下の単産をバラバラに置こうとする徳田の党優先力量哲学が勝ち、単産内の細胞を扶植した。

 共産党は、党の直接指導による関東地方労働組合協議会を結成するなど赤色労働組合主義に基づいて取り組んだ。これは、第4回党大会の神山の労働組合方針は全国統一組織を 目指すことを指針としていたが、ここに至って党自前の赤色労働組合主義作りへと方向転換し た結果であった。これにより労働戦線の分裂化が固定されることになった。

(私論.私観) この頃の労働運動の流れについて

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように纏められている。

 「指導部隊となるべき社共がこんなていたらくであったにもかかわらず、労働者人民の闘いは終戦直後から拡大、激化の一途をたどっていった。戦災による生産設備の破壊に加えて工場閉鎖や資本家のサボタージュによる生産の崩壊、インフレの高進と失業者の激増という状況の中で、労働者人民は差し迫る飢餓との闘いに立ち上がらなければ生き抜くことができなかったのである。工業生産額は47年7月で戦前(37年)の3分の1、失業者は1000万人を超え、物価は46年8月から半年後の47年3月に2倍になり、その5カ月後にはさらにまたその2倍になるといったすさまじいものであった。

 こうした中、労働組合の結成も嵐のように進み、終戦時のゼロから出発して10カ月後の46年6月には1万2000組合、368万人に達し、組織率も40%を超えた。これらの労働組合はこの年の8月に相次いで結成された全国組織、社会党系の総同盟と共産党系の産別会議に組織された。単一の全国組織作りが失敗に終わったのは、両党が労働組合を自らの直接的な支配下に囲い込もうと醜いセクト的分裂主義に走り、それに固執したからである。

 それでも総同盟の86万に対して産別が2倍近い163万人を組織したところを見ると、社会党=総同盟を牛耳る右派幹部(彼らは戦時中さんざん軍部のお先棒をかついだ連中だ)に対する労働者大衆の反発がいかに強かったか(またその裏返しとして共産党に対する幻想にいかに囚われていたか)を物語っている。こうして、戦後労働組合運動の主導権はさしあたり共産党=産別が握ることとなった。

 賃金引き上げ、首切り反対、職場の民主化などを掲げた争議やストが全国いたるところで頻発し、闘いは次第に激しさを増していった。四五年秋の第一次読売争議を嚆矢に工場占拠や生産管理闘争も登場し、46年の前半にかけて京成電鉄、日本鋼管、東芝などの争議でもこの戦術が採用された。46年5月には有名な「食糧メーデー」が挙行され、労働者階級の闘いは秋に向けていっそう先鋭化していった。夏には国鉄、海員の労働者が数万人規模の首切りに反対する闘いに立ち上がり、その撤回を勝ち取った」。

【「総同盟」の「生産復興運動」対「産別会議」の「産業復興計画」 】

 「総同盟」は、概要「労働組合が中心になって資本家に改革を要求し、『生産復興会議』をつくって、生産の増強を図る」というものであった。これに対し、「産別会議」は、「資本家のサボタージュを許さず、資本家的な生産の再開を容認せず、政治的には民主政府の実現を意図し、経済的には経営の民主化を意図する」方針を確立していた。「総同盟」は、「産別会議」の方針を「政治主義」と批判して、両者の対立は並行していくことになった。

【「安本」発足】
 この頃GHQの指令により、「安本」が設置された。発足当初は泣かず飛ばずで権限を持たなかったが、片山内閣時に改組強化され、「泣く子も黙るアンポン」と呼ばれるほどの権力を持つようになった。

【新憲法、国会に上程される 】

 憲法制定の流れは第一次吉田内閣に引き継がれた。首相となった吉田は、マッカーサーと緊密に連絡をとりながら憲法改正案(新憲法)の起草を急いだ。(「戦後憲法の制定過程について(一)経過」で論述) この時吉田首相は、国体護持を最優先の選択基準として、予想されるソ連の参入の煩わしさを思えば、「アメリカの保護」の下に制定を急ぐべきだとする政治的判断を働かせていたようにも思われる。

 3.6日、憲法改正草案要綱が公表された。天皇の承認の下、日本政府が作成した草案の形式を取るよう念押しされていた。5.13日極東委員会は、議会の審議に先立って「日本の新憲法の採択についての原則」を満場一致で決定した。

 6.20日、政府(金森徳次郎国務相)より第90回帝国議会に対し憲法改正(新憲法)草案が上程され、24日から5日間衆院本会議で審議が行われた。この時、吉田首相は衆院本会議において次のように演説している。

 「昨年我が国が受諾したポツダム宣言及びこれに関連し連合国より発せられる文書には『日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する、一切の障害を排除し、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重を確立すべきこと』並びに『日本国の政治の最終の形態は、日本国国民の自由に表明する意思に依り決定されるべきこと』の条項がある。この方針は正に平和新日本の向かうべき大道を明らかにしたものであり、これが為には何としても国家の基本法たる憲法の改正が要諦と考える」。

 「GHQ」民政局草案をそのまま書き写した感のある政府草案の評判は上々であった。驚くべきことは、進歩.自由.社会各党から出されていた草案のどれよりも民主的な内容を持っていた。特に、@主権在民規定、A象徴天皇制規定、B戦争放棄規定、C議院内閣制と文民規定、D基本的人権規定、E地方自治の章等々に特徴が見られ、各党が用意した憲法草案の臣民的秩序観とは大きく隔絶していた。特に、B戦争放棄規定とE地方自治の章は従来の各草案の発想に無いもので、異質といえば異質であった。

(私論.私観) 新憲法の「押し付け」問題について

 これを押し付けられたと見るかどうか議論が分かれているが、明治憲法が日本人自らの判断で取捨選択して作成した経過に比べて、新憲法がほとんど「GHQ」草案を下敷きにして翻訳した歴史的経過を思えば「押し付けられた」と受け止めるほうが正確かと思われる。とはいえ、予想以上に評判が良く、地下に水が染み入る如く受け入れられていったという経過をどう見るのかという観点抜きにこれを強調することは片手落ちというべきではなかろうか。思えば、明治憲法制定前に様々の試案が作成しており、このたびの新憲法の各条項はこうした系譜から見直すことも可能であろう。とすれば、外形的押し付け論に拘ることは不毛とも考えることが出来るように思われる。問題は、内在的欲求としてあったものであれ、確かにイギリス−フランス的諸革命の如く人民大衆が血であがなって獲得したものではなく、敗戦という旧支配秩序の崩壊の隙間で外在的にもたらされたということであろう。

 それ故、今日次のような正論が生まれている。「現行憲法が主権者の意思の発露としては重大な疑念が有ることは否定できない。その内容の多くは、軍事力の放棄も含めて、当時の日本人の多数の意向に従ったものであったと云える部分は確かにある。しかし、憲法典のような根本的な法規についてはその内容のみならず、手続きはやはり重要な意味を持つ。占領という異常な状況下で、自由な議論を経ることなく制定された憲法には出自に疑問があると云わざるを得ない。それ故、より正当な手続きを経た憲法を制定する、ないしは現行憲法を改定するという欲求は自然なものと云えるだろう」(「憲法論議へ新提案」中西寛京都大学教授.国際政治、2000.9.6日読売新聞)。

(私論.私観) 新憲法を貫く理念の系譜について

 日本国憲法の下敷きとして、@・アメリカ合衆国憲法、A・フランス人権宣言、B・ドイツ・ワイマール憲法、C・不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)、D・ソ連国憲法等々が参考にされている。してみれば、歴史的「民主憲法」の精華が結実したのが日本国憲法であるということになる。


【共産党が「人民共和国憲法草案」と「新憲法草案の発表に際して」を発表
  党も草案づくりを急ぎ6.29日アカハタに、「人民共和国憲法草案」と「新憲法草案の発表に際して」を発表した。党の草案は、主権在民と徹底した民主主義的諸権利の確保という点において他の草案のどれよりも最も徹底していた。党の声明で注目される点は、「ブルジョア民主主義革命の端緒にたつ当面日本」、「現実にブルジョア民主主義革命の課題が達成された後には、現実の具体的条件と到達した民主主義的諸成果を基礎として、さらによりよき完成を期待しうるであろう」という文句である。当時の党が野坂理論の影響を濃くし始めていたことと民主主義革命を貫徹して後社会主義革命に向かうという革命的展望を維持していたことが知れる。「日本共産党の65年」では、「これはアジ.プロ部長であった宮本顕治が、同部員岡正芳、豊田四郎らの協力の下に原案をつくり、政治局で討議、決定されたものであった」とされている。手柄話のつもりであろうが真偽は不明である。

【国会質疑の内容
 この時の国会質疑は、@.天皇の象徴制について、A.主権在民規定について、B.戦争放棄規定について論議が集中した。中でも第9条に関する議論が伯仲し、国家固有の自衛権まで放棄しているのか、自衛のための武力まで禁止しようとしているのかの質疑が白熱した。詳細は、「戦後憲法の制定過程について(一)経過」の該当項目に記す。

 木村愛二氏のサイト「日本共産党犯罪記録 」に貴重な衆議院本会議における代表質問、吉田茂9条説明審議録がアップされている。これによると、興味深いことに日本国憲法採択当時の国会での遣り取りにおいて、時の吉田内閣は、この条文通りに応答していることが判明する。

 吉田首相は、「憲法は自衛権を放棄していないが、自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄している」との立場を示し、次のように述べている。
 日本が再軍備して世界の平和を攪乱する危険は、連合国の「もっとも懸念したところ」である。これは「誤解」だが、「この5ケ年の間の戦いの悲惨なる結果から見まして(略)、日本に対する疑惑、懸念はもっともと考えざるを得ない」。
 「日本がいかにして国体を維持し、国家を維持するかという事態に際会して考えて見ますると、(略)国家の基本法たる憲法を、まず平和主義、民主主義に徹底せしめて、日本憲法が毫も世界の平和を脅かすがごとき危険のある国柄ではないということを表明する必要」を政府として「深く感得したのであります」。

 「ここに至ったゆえんは、そういう国際事情を考慮に入れてのことであります。この点は、各位におかれて深く国際情勢についてご研究下さることを切望いたします」。[中略]
 戦争放棄条項は、「直接には自衛権を否定はしておりません」が、第2項でいっさいの軍備と国の交戦権を認めない結果、「自衛権の発動としての戦争」も放棄している。「近年の戦争は、多く自衛権の名において戦われたのであります。満州事変しかり大東亜戦争またしかりであります」。
 日本は「いかなる名義をもってしても交戦権」は放棄する。それによって「全世界の平和愛好国の先頭に立って、世界の平和確立に貢献する決意」を表明した。またこれによって、日本に対する「正当なる了解」が得られるのだ。[中略]

 この時、共産党の野坂衆議院議員が活躍している。野坂は、憲法草案に対する質問演説で、主権在民の原則の明確化等徹底した民主的憲法を主張し、この主張は憲法の前文に反映された。新憲法の国会審議の末期、野坂は、「天皇制はどう変わったか」(アカハタ9.29日、 10.2日)論文を執筆し発表した。次のように批判している。
 概要「天皇の大権は大幅に削減され、天皇制諸機構や諸勢 力は重大な打撃をこうむった。が、今だに相当に重要な特権的地位を保持してお り、依然として神秘化され、また、国民の上に君臨している。新憲法は『主権在民 』の美名の下に『主権在君』たらしめようとするものである」。

 民政局のケーディス次長はこの頃金森国務相、入江俊郎法制局長官等に対して、再三「主権在民」の明確化を要求している。

 この時、野坂は、「戦争放棄」条項に食いついて、6.28日の本会議で、次のように質問している。
 概要「自衛戦争は正義の戦いだ。自衛権まで放棄しているのは行き過ぎではないか」。
 「戦争一般放棄という形でなしに、我々は之を侵略戦争の放棄、こうするのがもっと的確ではないか」。

 これに答えた吉田の答弁がふるっている。
 概要「そんな考え方は有害だ。近年の戦争の多くは国家自衛権の名のもとに行われている。故に正当防衛権を認めることは戦争誘発の原因となる」。
 「自衛権による交戦権、侵略を目的とする交戦権、この二つを分けることが、多くの場合において、戦争を誘起するものであるが故に、かく分ける事が有害なりと、申したつもりです」。
 「日本が戦争放棄を宣言して漸く世界の信を得ようとしているとき、自衛権についてとやかく論議することは再び世界の疑惑を招くことで有害無益な論だ。なぜなら従来の侵略戦争はいずれも自衛権発動の名目で為されたからだ」。

 今日から見て立場が逆転しているこの滑稽なお互いの質疑は、歴史の皮肉とは言えよう。

 6.26日の進歩党の原夫次郎の質問に対しては、「自衛権について直接規定してはいないが、従来多くの戦争は自衛権の名において戦われた。今日の日本に対する誤解を解くことが必要である。故に日本はいかなる名目においても交戦権を放棄する決意をこの憲法で表明したいと思う」と答弁している。

 この時の後の社会党初の首相片山哲の受け止め方はこうであった。「この草案は勿論、ポツダム宣言に基づいているものだが、これを受け取った幣原内閣としては、非常に進歩的な憲法草案を押し付けられたので、すっかりびっくりしてしまった。国民は、ちっとも押し付けられていないのみならず、願ったりかなったりの事項がたくさん盛り込まれているので、これこそ求めつつある天の声なり、福音なりと喜んだのである」(回顧と展望)。片山氏の受け止め方の方が素直ではなかろうか。

【敗戦一周年記念の動き】

 8.15日、日本降伏一周年の日にマッカーサー元帥による声明が為されており、元帥はその中で「もしこのようなイデオロギーの衝突が日本人の生活、思想の再転換途上に起こるとすれば、永い間極端な右翼的哲学の下にあった人々は、急進的左翼哲学の下に再び軍隊的組織化を導かんとする主義を強要する人々の好餌になりやすく、これはポツダムにおいて企図された如き穏健な民主主義の偉大な中道を求める人々にとって少なからざる不利益となるであろう」と、左翼の台頭を危惧した声明を披露した。更に、「破壊すべきものは破壊し、保存すべきものは保存し、建立すべきものは建立しなければならぬ。この為には、あらゆる困難、確固たる決心及び民主主義人民の政治(ステーツマンシップ)が必要である。目指すところのものは偉大である。なぜなら、戦略的要地たる日本列島は平和への強力なる防壁ともなり、危険なる戦争への跳躍台ともなるからである」と啓蒙した。
 
 8.15日、敗戦一周年にあたって、党は、次のスローガンを掲げた。「ポツダム宣言の厳格な実行」、「反動吉田内閣打倒」、「民主戦線の結成と民主人民政府の樹立」。天皇制についてのスローガンがなかったことが注目される。


【「労農前衛党」結成される】
 戦前の転向派が、「天皇制の下での一国社会主義」を旗印に労農前衛党を結成した。佐野学が委員長となり、佐野博、風間丈吉、源五郎丸芳晴らが連なった。鍋山貞親は、小政党の結成に反対、田中清玄は参加しなかった。

 山川均の民主人民戦線に対抗して救国統一戦線を主唱した。しかし、労農前衛党のその後は低迷瓦解する。佐野は、1947.7月、日本政治経済研究所を創設し、一国社会主義論に基づく諸活動を継続させた。社会民主党(平野力三、佐竹晴記ら)、民主社会主義連盟(西尾末広、三宅正一ら。右派社会党の理論団体)等に影響を及ぼした。この時点で、鍋山が合流している。

 三田村四郎は、只一人、戦時中も、革命的一国社会主義を唱えて佐野・鍋山らと分かれ、予防拘禁に附されて敗戦まで出獄し得なかった。戦後直ちに日本共産党に復党を申し込んだが、留保された。これに憤慨して、以後山川均の民主人民連盟等で活躍したが、その後民主労働者協会会長等としてまもなく、佐野・鍋山と同一路線を歩むようになる。

【第4回拡大中央委員会】
 8月、第4回拡大中央委員会が開かれ、概要「一切の闘争は、『吉田反動内閣打倒、人民共和政府の樹立』に結び付けねばならず、この闘争は、国鉄を中心とした海員、石炭、鉄鋼、化学、電気などの諸産業のゼネストに全ての闘争を結集することにある」と述べて、10月闘争の爆発とその課題を指針させた。

 問題は、概要「ゼネストを背景にして内閣を打倒し、人民政府を樹立するということは、共産党の民主革命戦線に関わり無く、プロレタリアートの革命的勝利の突破口を10月闘争の中に見出そうとしたことを意味する。そうであるならば、権力獲得に向かって闘争の永続化、反革命の粉砕、労働者人民の武装などを意識的、目的的に準備せねばならず、『平和革命』との矛盾は明らかであった」、「しかし、共産党は、産別会議160万のゼネストを背景に、労働者が工場と運輸通信施設や新聞放送機関を占拠し、国家行政機構を解体し、ロシア10月革命の教訓を生かして労働者評議会を組織し、労働者権力の母体たらしめることによって資本家階級の反撃や、占領軍の武力干渉を排除していくなど爪の垢ほども考えようとも、準備しようともとなかった。あるものはただ無内容な怒号に過ぎなかったのである。その為、内閣打倒、人民政府樹立が経済主義的に対置されただけである」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。


 この時の日共第四拡大委で、『8月方針』が出され、次のような朝鮮部指針が決議されている。@・各地の朝鮮人運動体を日共の支配下におき日本人党員と一体となり活動する。A・朝鮮人だけの職場にある党員を、日共の細胞に入れ、日本人党員とともに活動する。B・朝連の重要ポストに党員を配置、民族戦線としての役割を果す。C・朝連はなるべく下部組織の露骨な民族的偏向を抑制し、日本人の人民民主革命をめざす共同闘争の一環として、その闘争方向を打出すことが必要で、その方が朝鮮人自体のためにも有利である。D・朝連はあくまでも日本の人民民主主義戦線の一翼を担当する役割を果すように努めること。

【労働争議頻出する】

 6月の第二次読売争議から始まり、秋口から人員整理に反対する闘争が起こった。9.10日、海員組合スト、9.15日、国鉄争議、東芝争議が続いた(8月闘争)。

 海員組合ストは苛烈な闘いとなった。戦後再建された海員組合は三井船舶の高級船員であった小泉氏を組合長にしており右翼的であった。5万3千人のうち4万3千人の首切りが通告されたのにたたかうにはまりにも無力であった。8.27日小泉組合長の必死の折衝とGHQのスト中止勧告、9.3日の拡大評議員会に数十人の暴力団が殴りこんだが、それにも関わらず中央闘争委員会が結成され、田中松次郎(後の日共兵庫県委員長)闘争委員長の指導のもとに9.10日歴史的なストに突入していった。中闘は小泉を除名し戦闘化を強めていったが、船員中央労働委員会の末弘厳太郎会長が斡旋に乗り出し、首切り撤回と小泉の除名取り消しを条件とした協定を締結し、9.20日ストが終結された。「海員組合のこのストは、襲いかかろうとしている首切りに対する偉大な反撃であった。そして、国鉄の首切り撤回闘争と並び、2.1ゼネストにと向かう労働運動の戦列を著しく強化させていったのである」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。

 国鉄争議は次の通リ。9月、佐藤栄作鉄道総局長官が7万5千名の人員整理を発表、組合側は直ちに無期限ストライキで応ずるという首切り反対闘争に取り組んだ。この時、中央執行委員長に選出されたのが伊井(後の2.1ゼネストの時の最高指導責任者)である。但し、直前になって佐藤より「ストを中止するなら、人員整理案も撤回する」との提案が為され、和解した。


 9月、社会党大会が開かれ、片山哲書記長が初代委員長に選出された。


 9月、内務省国土局が「復興国土計画要綱」を作成した。5年後の人口を800万人増の8000万人と推定し、これを農村が引き受け、農村人口5000万人、都市人口3000万人を想定し、新規開墾を150万町歩(約149万ヘクタール)、そのうち90万町歩を東北・北海道に見込む。してみれば、「復興国土計画」というより「緊急食糧対策」的なものであったことになる。


【 「第二次農地改革」 】
 10.5日、第二次農地改革案が衆議院を通過、10.11日貴族院でも可決され、成立した。その内容は、一.在村地主の小作地保有限度を内地平均1町歩、北海道4町歩とし、それ以外及び不在地主の小作地の強制買収。二.小作地を含む所有限度は内地平均3町歩、北海道12町歩。三.小作料の低額金納化。四.開放方式は、地主小作間の直接交渉を排し、国家による強制譲渡方式を採用し、国家が買い上げた土地は原則として現にそれを耕作している小作人に売り渡す。五・農地委員会の構成を、小作5.地主3.自作2とす。こうして、山林は別にして、農地に関する限り地主制は農地改革によって基本的に解体されることになった。

 その直後マッカーサーは、次のような談話を発表した。「議会の農地改革通過は、経済的に安定し、政治的に民主的な社会を生み出しつつある日本がこれまでに到達した里程標のうち最重要なものの一つである。健全、穏健な民主主義を打ち立てるため、これより確実な根拠はありえず、また過激な教義の圧力に対抗する為これより確実な防壁はあり得ない」。

 後に、マッカーサーは、回想録に次のように書いている。「農地改革は、この種の実験として史上最も成功したものの一つといえる。この体制は、日本の農村への共産主義の進出をくいとめる強力な防壁となった。日本の農民は、今やそれぞれ独立したキャピタりストとなったのである」。「ニッポン日記」の著者シカゴ.サンの特派員マーク.ゲインは、次のように云う。「昭和20年に私が初めて酒田を訪れたとき、保守派の人々は農地改革が農村を政治的に左傾させることを恐れていましたし、社会主義者たちはむしろそうなることを望んでいました。時の流れはこのいずれもが見当違いだったことを証明しました。地主になった旧小作は大半がそのまま保守派になり、昭和22年以来保守的な政府を支持する傾向にあります」、「この変革は本当の革命的な行動の結果でした。よしたとえこれが、暴力なしに外国の占領軍の手で行われたものであったにせよ、激しい社会変動よりも安定のために役立った点で革命的だったのです。農地改革が果たしたこと−−−それは封建制度にとどめをさし、農村の不正と慢性的貧困をなくしたことです。これこそ戦後日本の真の奇跡なのです」。

 「自作農創設特別措置法」.「農地調整法改正」がそれである。これに基づいて47年3月から第二次農地改革が行われ、50年7月までに完了することとなった。在村地主の小作地は1町歩(約1ヘクタール)以下に制限され、1町歩を越える分は国家が強制的に買い上げて、小作人に安価に売り渡し、小作料は金納で、その率も25%以内に制限した。この改革によって、小作地は改革前の46%から10%以下に減少し、地主の多くは農村内における経済的.社会的地位を失い、耕作農民の生活は向上した。但し、山林.原野.水利権については全く手をつけなかった。 こうして、小作地の約8割が小作農家に払い下げられることになった。売り渡しを受けた農家は約420万戸。農地改革は、高額の小作料にあえぐ農民を解放した。「もう、マッカーサー様各。占領政策様各ですよ。みんな生き生きしてた」という回顧が為されている。

 この頃、農地をめぐる地主と小作人の軋轢は激しさを増した。地主が不在地主としての農地改革の対象から逃れる為、小作人に貸していた土地を取り上げようとしたからである。地主側から見れば、農地改革は財産権の侵害として受け止められた。こうした地主側の動きは、小作人の農民組合再建の刺激となり組合運動の拡大強化につながっていった。

(私論.私観 )戦後の農地改革をどう観るかについて

 戦前の日農を中心として展開された農民運動の基本的スローガンは、「土地を農民へ」と「小作料減免」であり、その闘争は小作争議となって爆発した。これを思えば、戦後の一連の農地改革で自作農が創出されていったことは「偉大な農地改革」であったことになる。その眼目が、「自作農創設が、体制側よりする戦後支配体制のブルジョア的物質的基盤の構築と労農同盟的な関係からの農民の切り離し」にあったにせよ、それはそれとして史的考察をせねばならないと思われる。ところが、左派は概してこれを評価しえず、「土地国有化」で対応しようとした形跡がある。あるいは「山林などの未解放を理由に、農村における寄生地主的土地所有の残存を強調」したりで政治主義的な対応に終始し、混乱を極めた。この作風は「通リ一遍式な何でも反対」を得手とする日本左派運動の宿亜のような弊害体質であるように思われる。


【 党の「第二次農地改革」論争 】
 神山の後を受けて伊藤律が農民部長になり、概要「地主的な土地所有を精算し、農業における資本主義的発展の道を拓かねばならぬが、その具体的な方向は、『農民的農業革命と地主的農業改革』、この二つの道において可能である」と提言した。これに基づき、「二つの道」をめぐる広汎な論争が行われた。神山、伊藤、菅間、豊田四郎らは、地主的ユンケル経営がブルジョワ的転化を遂げる「プロシア型」と農民経営が資本家的大経営に発展する「アメリカ型」との対置を主張。これに対して、小池基之、信夫清三郎、風早八十二らは「二つの型が成立する条件は日本には存在しない」とし、隷属関係を事実上維持したままの「寄生地主型」と勤労農民の協同組合化としての「勤労農民型」の道との対置を主張した。この間にあって栗原百寿や井上晴丸らが仲介的な発言を行い、議論は妥協の形で終わった。この論戦によって、旧講座派内にあった方法論的な欠陥、公式主義的な弱さが暴露された。 

【新憲法の公布 】
 帝国憲法改正案は6月から10月にかけて真剣な審議が為された。この間7.1日憲法改正案は芦田均委員長以下72名の「帝国憲法改正特別委員会」に付託され、7.23日からいわゆる芦田小委員会と呼ばれる14名の秘密会議で審議された。7.25日〜8.20日まで13回にわたって国会内で秘密会を開き、各党派から出された修正案を調整して共同修正案をまとめた。この経過は非公開とされており詳細は分からない。芦田氏の「十年の歩み」に、「第一項の冒頭は条文を明確にして侵略戦争を放棄する心持をはっきりさせるのがいいという意味で修正したのだが、第二項の冒頭に『前項の目的を達するため』と挿入したのは武力を保持しないという決心に条件をつけて『自衛戦争のためには』武力を行使することを妨げないと解釈する余地を残したいと考えたからであった。もちろんこの修正の字句はさほど明確でない。しかし明確に書けば修正が拒否されるとは、分かりきっていた」とある。

 こうして出来上がった共同修正案が8.24日衆院本会議に提出された。芦田は涙ぐみつつ熱弁をふるい、共産党を除く賛成多数で可決。貴族院に送付され、ここでGHQの要請で「全ての閣僚は文民で無ければならない」との文民規定が第66条に加えられ、同日新憲法草案を修正可決した。10.6日貴族院が、新憲法草案を修正可決し、衆議院へ回付した。10.7日衆議院が、新憲法草案を可決した。枢密院本会議を通過して11.3日新憲法が「日本国憲法」として公布、47.5.3日より施行されることになった。

 
日本国憲法案が衆議院を通過した8.24日憲政の神様と言われていた尾崎行雄氏(当時87歳)が衆院本会議で、無所属議員として壇上に立ち、憲法案が「国会は国権の最高機関」としていることを評価し、「従来は主客転倒。行政府が国の政治の主体で、立法府は極めて柔弱微力なる補助機関の如く扱われ、国民もそれに満足していたようだが、今日この憲法が制定せらるる以上は、立法府が主体で、行政府がその補助機関とならなければならぬ」と語っている。

【労働争議「10月闘争」始まる】

 46年後半から労働運動は激化していった。9.20日、新聞通信労組の東京支部が読売争議解決の為のゼネスト決行を決定し、ゼネスト準備指令に入った。産別会議の10月攻勢等労働闘争が始まり、東芝労連が10.1日ストライキに突入した。東芝の関東、東北系33工場、3万名が未払い資金の即自支給、工場閉鎖と首切りに反対して24時間ストに入った。これが「10月闘争」ののろしとなった。

 10.5日、新聞通信放送労組は、読売の第二次争議の解決を要求してゼネストを指令した。これがGHQを刺激して、新聞班長インポデンの指示の下にスト潰しに乗り出してくることになった。

 10.10日、電産労働組合、全炭北海道42坑53000名がスト突入。電産協の闘いは「電気を停める」という送電停止の「停電スト」であったから影響も大きく、GHQの恫喝指令にも関わらず闘い抜かれた点で光彩を放っていた。「電産型賃金」と云われた賃金体系と退職金の獲得、「経営の民主化」を徹底させて産業別単一労組のモデルを作ろうとしていた。戦前に日本の電力産業が国家統制下に置かれていたことから、その脱却を目指す闘いでもあった。10.23日電産が重要工場への送電停止を指令した。委員長入江と副委員長佐々木良作(関東配電)コンビ、宣伝部長・藤川義太郎と日本発送電東北の竹内七郎コンビらが粘り強く指導していた。政府は狼狽し、勧告と恫喝を繰り返した。電産の闘争は炭労、東芝、日映演などの未解決組合とともに11月闘争になだれこんだ。

 産別が音頭とりで「10月闘争」に突入した。「10月闘争」に参加した産別傘下の単産は次のとおりである。新聞通信、東芝争議を軸に、全映演(映画演劇)、電産、全炭鉱、日通、全鉄労、印刷、出版、国鉄東京、海員が共同闘争委員会を結成、全日本機器、化学、教員、車輌、全逓、医療、水産、生命保険、電気、鉄鋼、港湾、進駐軍、国際通信、日通自動車など産別傘下の単産も闘争体制を整え始めた。

 これが戦後最初に行われた単産ごとの「統一的な要求をかかげた共同闘争」となった。63組合のうち59組合、44000名が首切り反対闘争に立ち上がった。10.3日産別は拡大執行委員会を開いて10月闘争を最後まで闘い抜くために中央闘争委員会をつくり、この上に最高闘争委員会を置き統一闘争の指導機関とした。全国の各地方では、それぞれ地方共闘、地区共闘をつくった。

 10.16日、読売争議が妥結している。経営側の勝利で帰着した。しかし、他の組合ではむしろ労働組合有利に事態が進展していった。「10月闘争が分断させられたとはいえ、労働組合運動の波は引き続き11月になっても後退せず」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)全逓、日本教員組合も闘争の準備に入った。11.5日、日本教員組合もストに入った。かかる中の10.19日、4月に発足した経済同友会が「企業権の尊重を前提とする労資対等の立場での産業復興」を呼びかけている。  

 11.11日、産別中闘は、10月闘争を総括し、「これまでの労働運動は経済闘争の範囲にとどまるべきであることが強調されてきたが、今や政府と正面衝突することとなり、今後は政治手内容を明瞭に取り入れた闘争を採用する」と宣言した。


【「全官公庁共同闘争委員会(共闘)」が結成される】

 この頃の役人の給料は、民間企業よりも相当に低かった。基本給平均が556円で、民間の約半分だった。11.26日「全官公庁共同闘争委員会(全官公庁共闘)」が結成され、越年資金、家族手当の支給等の10項目の要求を政府に突きつけた。

 参加組合は、国鉄総連(国労の前身)53万名、全逓38万名、全教組35万名、全官公労協(農林、大蔵、専売、気象、戦災復興院、警視庁通信、文部などによって構成されていた)8万名、全交連22万名ら5組合を軸に13労組の合計153万名の労働者を結集させたことになった。共闘委員会は、各組合の自主性の尊重と独善の排除を運営方針として、議長には伊井弥四郎(国鉄共闘部長)、副議長佐藤安政(全官労)、事務局長長谷武麿(全逓渉外部長)が就任した。

 伊井は、「我々官公庁職員の要求は、生きんが為の最低生活の確保である。更に進んで、全勤労大衆と提携し、封建的官僚制度の打破、ならびに日本民主化を強力に推進せんとするものである」と就任挨拶した。これを激励する徳球は、「すべての労働組合が、あらゆる地点で共同闘争委員会を結成し、そこに結集された労働者の全力をもって、すべての人民層を労働者のストライキ運動の側に獲得し、共同闘争にえ起たしめることなしには、勝利のカギはつかめないのである。労働者階級の眼前には偉大な闘争が控えている。政局の混乱同様を真に解決し、経済の再建を確保するものは、ただただ、労働者を指導勢力とする全人民的政府以外にないのである」。

 伊井弥四郎、42歳、富山県生まれ、法政大学経済学科を卒業して国鉄に入社、平塚、鶴見、東京駅の助役を勤めた後、国鉄労働組合総連合の企画室長になる。しかし、このときはまだ中央闘争委員34名の中の一人に過ぎなかった。伊井は、10月に労働関係調整法が施行されると、最年少の労働側委員として参画した。共産党書記長徳田の信任厚い労働畑ヤングリーダーの感があった。組合員163万、労働者の43%を組織した産別会議議長聴涛克巳、朝日新聞ロンドン特派員の経歴。この二人が2.1ゼネストを指導していくことになる。

 こうした事態を憂慮して吉田政府は「社会秩序に関する声明」を発表した。「GHQ」の示唆があったものと思われる。大衆運動の行き過ぎ、労働争議の穏和化、生産管理闘争の否認等々を声明していた。こうした政府声明にもかかわらず労働攻勢は激化の一途を辿り、この昭和21年の下半期、すなわち第一次吉田内閣の発足から半年の間の日本の情勢は、まさに革命的流動的事態に突入していた。基幹産業が次々とゼネストに突入し、社会、経済の根底を揺さぶった。

 11.29日、社会党も乗り出し、同党労働組合委員会(加藤勘十委員長)の主催で労働組合懇談会(全労懇)を開催している。懇談会には、産別会議.総同盟.日労会議.国鉄.全逓など17組合が出席した。12月から、国鉄.全逓を含む官公庁労働者を中心に2.1ゼネストが準備された。

 12.2日、共闘が共同闘争宣言を発表、同時に「最悪の場合はゼネストを決行する」ことを反対票ゼロで決めた。それまで産別会議との統一行動に反対していた総同盟も、共闘への参加を拒否できなくなり、12.10日人民広場で5万人の労働者大集会、吉田内閣の退陣を要求した。吉田政府はこれに反発し、翌12.11日勅令591号を出して「スト中の給与は支給しない」と恫喝した。

 12.17日、全労懇主催の「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」の開催。この日宮城前の参加者は50万人を数え、メーデー以来の大集会となった。大会は、加藤を議長に、水谷長三郎.徳田球一.早川崇(国民党)らの各代議士が挨拶した。大会スローガンには、「最低賃金制の確立」、「労調法の撤廃」などと並び「吉田内閣打倒」、「社会党中心の民主政府の樹立」なども掲げられた。この時、共産党書記長徳球は、「デモだけでは内閣は潰せない。労働者はストライキをもって、農民並びに市民は大衆闘争をもって、断固吉田内閣を打倒しなければならない!」とアジっている。この後、参加者は労働歌を合唱しながら、永田町の国会議事堂へ向けて行進した。

  これを機に、産別.総同盟.日農などに社会党左派も加わって倒閣実行委員会がつくられた。党がこれを推進し指導した。党の組合方針は赤色労働組合主義とフラクション主義に拠った。この大デモの翌日、極東委員会でソ連代表の提議で「日本労働組合に関する組織原則」と呼ばれる16原則が採択されている。「警察その他のいかなる政府機関も、労働者に対する尾行、スト破壊又は労働組合の合法活動の弾圧を行うことは許されない」としていた。

 この間中労委による国鉄.全逓の調停が進められた。中立側は末弘厳太郎.鮎沢巌.中山伊知郎.桂たかし、労働者側は松岡駒吉.徳田球一.伊井弥四郎、経営者側は桜田武.川上嘉市らがメンバーとなった。12.18日調停案が発表された。組合はこれに満足せず、調停不調のまま越年した。12.23日総同盟と経済同友会の下ごしらえのお膳立てで産別と日産協、経済同友会の三者会談が為された。俗に経済復興会議と云われている。虚虚実実の駆け引きが為されていた。

 12.24日共闘会議は、強力な共同闘争を展開するために、労働組合のあらゆる闘争を結合させた「全国労働組合共同闘争委員会」(全闘)を組織する方針を決定した。官公労働者と民間労働者をつなぐお膳だては、総同盟左派の高野実(当時主事)と産別会議事務局次長の細谷松太らの手で進められた。細谷はれっきとした共産党産別中央フラクションのキャップであり、高野も共産党に近かった。

(参考資料)
【全逓の布陣】
 委員長・土橋一吉、副委員長・高原晋一、書記長・浜武司、大阪地協会長・村上弘
らが指導部を形成していた。委員長の土橋は非党員で、実権は「共産党フラクション」のトップ・高原が握っていた。浜や村上がその参謀格であった。


【社共の主導権争い】
 2.1ストの前哨戦ともいうべき「10月攻勢」は、戦後労働運動の最初の高潮期となったが、内部では社会党・総同盟系と共産党・産別会議系の激しい主導権争いが演じられていた。

【共産党の「水曜会」】
 この頃党中央は、代々木党本部で毎週水曜日に党直轄指導の労働運動研究会を開いている。産別会議や各単産の党員指導者が顔を揃え、戦術会議を開いたようである。国鉄・鈴木市蔵.伊井弥四郎、全逓・高原晋一、電産・竹内七郎、産別・聴涛克巳.亀田東伍らの面々が出席していた。徳田を囲んで、伊藤.長谷川.「組活」メンバーらが補佐した。

 この頃の徳球の指導の特徴について袴田は次のように云っている。
 「一口に言えば徳田には、戦前のアナルコ・サンジカリズム(無政府主義的労働組合運動)の影響が残っていた。何が何でもストライキをやり、そのスト闘争を通して労働者を目覚めさせていく。しかも、労働組合の執行部の中に党フラクション(党員グループ)をつくり、党本部がフラクションを指導することで、労働組合を直接動かしていく、といった戦略・戦術。このために、どんなに多くの弊害が生まれ、犠牲者が出たか、数え上げればきりがない」。

 袴田の否定的見解はともかくとして、この頃の徳球指導の様子が分かる。

 11月、ベトナム民主共和国とフランスが第一次インドシナ戦争に突入。


【吉田首相の社会党懐柔策】
 この頃吉田首相は、社会党右派の西尾と平野と折衝し、連立内閣構想を持ちかけている。西尾は大臣ポストの要求と石橋湛山大蔵大臣の更迭要求等で応えている。

【神山派の動き】
 12月、神山茂夫が「人民評論」に「軍事的・封建的帝国主義とは何か」なる論文を発表、信夫清三郎理論批判を展開し、「二重の帝国主義論」(「日本帝国主義の内部における二つの帝国主義、即ち、歴史的にも本質的にも異なる二つのものの対立と葛藤」)を展開している。

 
神山の「二重の帝国主義論」の実践的帰結は、ポツダム宣言の厳正実施、世界の平和と国の民族的独立を全ての革命的・民主的勢力の当面する主要課題とするいわゆる「人民民主主義革命論」の提唱となり、いわば右派系からの党中央理論批判となったことに政治的意味がある。丁度中西グループの左派系からの党中央理論批判と対極に位置していたことになる。

 この神山の周りには豊田四郎、浅田光輝、小山弘健、渡部徹、茂木六郎、中村秀一郎らのイデオローグ及び日本経済機構研究所(東京)、社会労働研究所(大阪)が神山グループとして結集していくことになる。他に、
寺田貢、内野壮二・神山利夫などの戦前からの古参の者、東京の林久男や新井吉生・栗原幸夫、静岡の森一男、アカハタの発行名義人になっていた原田龍男、早稲田系の大金久展らが集う。「50年分裂」期には、「反党中央(徳球−伊藤律執行部)、非宮顕」系としての中間派の立場に立つ。




(私論.私見)