第7部 | 1946年当時下半期の主なできごと.事件年表 |
「GHQ」本格的戦後改革制度着手、労働運動激化 |
(最新見直し2006.9.22日)
6月 | 中西功入党す |
6.13 |
【「読売第二次争議」発生】 GHQが読売新聞の鈴木編集局長らに退社命令.紛争激化。 |
6.13 | 【食糧危機突破に関する声明」】吉田内閣は、「食糧危機突破に関する声明」、「食糧危機突破対策要綱」、「社会秩序保持声明」を発表した。 |
6.18 | キーナン主席検事、ワシントンで「天皇を(戦争犯罪人として)訴追しない」旨を言明。 |
6.20 | 【新憲法、国会に上程される】政府より議会に対し憲法改正(新憲法)草案が上程された。 |
6.21 | 武装警官500名が占領軍MPの援護を受けて来襲し、乱闘の末56名の争議団員が逮捕された。 |
6.22 | 食糧メーデーのプラカードの製作者が不敬罪で起訴される。プラカードの内容は「朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね」というもの。のち名誉棄損罪に変更され、最後は免訴となった。 |
6.28 | 野坂は、「戦争放棄」条項に食いついて、この日の本会議で、概要「自衛戦争は正義の戦いだ。自衛権まで放棄しているのは行き過ぎではないか」、「戦争一般放棄という形でなしに、我々は之を侵略戦争の放棄、こうするのがもっと的確ではないか」と質問している。 |
6.29 | 【日本共産党、「人民共和国憲法草案」と「新憲法草案の発表に際して」を発表した 】 |
6月 | この月、東宝が久我美子・三船敏郎など「第1回ニューフェース」を採用。 |
7.1 | 「尋ね人」の放送開始。 |
7.4 | 人工甘味料ズルチンの販売が許可される。 |
7.14 | 社会党常任中央執行委員会、救国連盟運動で、共産党の参加を拒絶する方針を決定。 |
7.16 | 社会党の救国連盟運動での共産党との絶縁方針について、志賀政治局員が社会党の裏切りを糾弾。 |
7.21 | 民主人民連盟結成。 |
7.24 | 国鉄第一次 分として7万5000名の馘首を国鉄労働組合総連合に通達。 |
7月 | この月、戦災孤児や引揚げ孤児などの「家なき子」が増加する。 |
8.1 | 【「総同盟」と「産別会議」の分裂 】松岡駒吉を会長に、社会党系の「日本労働組合総同盟」(「総同盟」)の結成大会が開かれた。 |
8月 | あかはた日刊実現の為の印刷所建設資金募金運動始まる。 |
8.10 | 田中耕太郎文相の下、教育刷新委員会が設置された。 |
8.14 | 7万5千名の大量解雇をきっかけに国鉄が闘争宣言を発し、9.15日を期してゼネストに入る旨を加賀山運輸局長に通告した。 |
8.15 | 敗戦一周年。 |
8.16 | 経済団体連合会(経団連)設立され、総合経済団体として発足。 |
8.19 | 聴濤克巳を議長に、「総同盟」に対抗して共産党系の「全日本産業別労働組合会議」( 「産別会議」)結成大会が開かれた。 |
8.19 | 通算第4回中央委員会総会開催。地方選挙の方針、「党内民主主義と鉄の規律保持」を決議。 |
8.24 | 野坂議員が、衆議院本会議で憲法に主権在民を明記することを主張。 |
8.24 | 【新憲法の可決 】衆議院が、新憲法草案を修正可決した。 |
9.6 | 【財閥解体の動き】持株会社整理委員会は、四大財閥本社と富士産業(中島飛行機)を第一次指定し、47.9月までに83社を指定した。 |
9.9 | 生活保護法公布。 |
9月社会党第二回大会開催。委員長片山再選、書記長に西尾末広が選任された。 | |
9.10 | 【労働争議始まる 】海員組合スト。 |
9.15 | 国鉄争議、、東芝争議が続いた。 |
9.27 | 労働関係調整法が公布された。 |
10.1 | 全炭・東芝スト突入。産別会議指導の10月闘争はじまる。 |
10.5 | 【 「第二次農地改革」 】第二次農地改革案が衆議院を通過、10.11日貴族院でも可決され、成立した。 |
10.6 | 貴族院が、新憲法草案を修正可決し、衆議院へ回付した。10.7日衆議院が、新憲法草案を可決した。 |
10.8 | 復興金融金庫法公布。復金インフレはじまる。文部省、教育勅語の捧読廃止を通達。 |
10.9 | 経済同友会が、「企業合理化の犠牲は第一に資本家、次に経営者が負担し、労働者の犠牲は最後におく」べきもの、という見解を幹事会に提出した。 |
10.10 | 電産労働組合がスト突入。読売の第二次争議から新聞単一は「10月闘争」へと突入した。 |
10.11 | GHQが新任の幣原首相にマッカーサーの5大改革を要望.=1.婦人の参政権、2.労組の結成奨励、3.自由な教育のための諸学校の開設、4.秘密警察の廃止、5.独占的産業支配改善のため経済機構の民主化。 |
10.14 | GHQ、「国民学校(小学校)の日本歴史の授業再開を許可する覚書」を提示。こうして歴史授業の再開が許可された。「くにのあゆみ」が新教科書となり、新しい歴史教育の内容と方向を決定、戦後教育の幕開けとなった。執筆者の名前が公表されていた。前例破りとなった。左右双方から批判された。 |
10.16 | 読売争議が妥結している。経営側の勝利で帰着した。しかし、他の組合ではむしろ労働組合有利に事態が進展していった。 |
10.16 | 教育刷新委員会が6.3制教育の原案を決定している。 |
10.21 | 農地調整法改正。自作農創設特別措置法公布(第2次農地改革開始)。 |
11.1 | 中央委員会科学技術部「日本の科学技術の欠陥と共産主義者の任務」発表。第1回国民体育大会が京都・大阪を中心に開催される。 |
11月 | 敗戦後の食糧不足にあえぐ日本に、食糧や衣類、薬、靴など大型トラック百台分の物資が届けられた。米国の宗教団体などでつくる「アジア救援公認団体(Licensed Agencies for Belief in Asia 略称LARAララ)」が無償提供したララ物資だった。この一部が廻され、12月より学校給食がスタートした。 |
11.2 | プラッカード事件被告が名誉毀損で有罪。 |
11.3 | 新憲法が「日本国憲法」として公布された。47.5.3日より施行されることになった。 |
11.16 | 対日賠償ポーレー最終報告発表。 |
11.16 | 政府、当用漢字1850字と現代かなづかいを告示する。 |
11.20 | 日本商工会議所が結成された。 |
11.26 | 【「全官公庁共同闘争委員会(共闘)」が結成る 】参加組合は、国鉄53万名.全逓38万名.全教組35万名.全官公労協8万名.全交連22万名の合計153万名の労働者を結集させたことになった。共闘委員会は、各組合の自主性の尊重と独善の排除を運営方針として、議長には伊井弥四郎、副議長佐藤安政(全官)、事務局長長谷武麿(全逓)が就任した。 |
11.29 | 天皇陛下より11宮家に対する皇族離脱の指示が為された。 |
12.3 | 初のクイズ番組「話の泉」放送開始。 |
12.6 | 極東委員会が、労働組合に関する16原則を決定した。これは当初イギリスが提案し、ソ連その他の諸国の主張で修正.可決されたものであった。日本の労働組合運動を奨励し、第6項には「労働組合は政治活動に参加し、また、政党を支持する事を許される」と述べられていた。 |
12.10 | 人民広場で5万人の労働者大集会。 |
12.17 | 院内では、社会.協同.国民三党共同提案の議会解散決議案(内閣打倒要求をトーンダウンさせたもの)が上程されたが否決された。新聞各社論調も、「民主戦線結成の好機」(朝日新聞)、「信任を問え」(毎日新聞)、「議会を解散して民意に問え」(読売新聞)、「信を天下に問え、政府と与党に望む」(東京新聞)と煽っている。 |
12.17 | 生活権確保・吉田内閣打倒国民大会開催。この日宮城前の参加者は50万人を数え、メーデー以来の大集会となった。大会は、加藤を議長に、水谷長三郎.徳田球一.早川崇(国民党)らの各代議士が挨拶した。大会スローガンには、「最低賃金制の確立」、「労調法の撤廃」などと並び「吉田内閣打倒」、「社会党中心の民主政府の樹立」なども掲げられた。 これを機に、産別.総同盟.日農などに社会党左派も加わって倒閣実行委員会がつくられた。党がこれを推進し指導した。党の組合方針は赤色労働組合主義とフラクション主義に拠った。 |
12.18 | 極東委員会が、「日本の労働組合奨励に関する16原則」を決定。 |
12.21 | 近畿・四国中心に大地震(南海道大地震)発生。死者1330人、全半壊3万戸の被害が出る。 |
12.24 | 最後の皇族会議。11宮家の皇籍離脱を可決。 |
12.27 | 「傾斜生産方式」開始。(石炭.鉄鋼に政策を集中)。 |
12.30 | 6・3・3・4教育制度採用。 |
【中西功入党す】 |
中西功も野坂と同じく中国で共産党に参加していた。野坂と違って中西の帰国は注目されなかったようである。中西は、戦後のこの時期の党の指導方針を直接社会主義革命を志向させるべきであると主張したことから徳球−志賀執行部の「二段階革命論」と対立を惹起していた。それが為に入党を許されていなかったが、46.6月頃、「彼はこの誤りを認め、党規律に従い、特に反幹部言動を慎み、党の方針を忠実に実践することを誓約して入党を許可された」とのことである。とはいえ、中西の社会主義革命論は党内に一定の支持を得て次第に中西グループを形成していくことになる。宮顕−袴田グループとも又違う独自の動きを見せていくことになる。 |
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【赤旗の変調論理】 |
6.11日、党中央の誰の手になる文か判明しないが、この日の赤旗は次のような主張を掲げている。事態の変化に気づこうとせず、引き続き進駐軍=解放軍規定にこだわっており、「反動のデマにのるな、連合軍は民主勢力の味方」なる見出しを掲げ、「マ司令部は、あの声明によってデモを禁止しようとしたのではないし、民主主義勢力を弾圧しようとしたのではない」と期待を表明している。更に、「共産主義があるから大衆運動が無秩序、無節制なそれかたをするのでは無い。あらゆる条件が悪化している今日、自然発生的な食糧暴動ひとつ起こらないのは、共産主義者が大衆運動の組織と規律とをいかすために努力しているからである」と、「暴動抑止は共産党のお陰」論をぶっている。 |
6.13日、吉田内閣は「生産管理否認の社会秩序保持声明」を出した。「生産管理なるものは正当な争議行為とは認め難い」、「これを放置しておくと、遂に企業組織を破壊し、国民経済を混乱に陥れるようになるものとりいわなければならない。その上もし、暴行、脅迫等の暴力がこれに伴って行使されるような場合には、社会秩序に対する重大な脅威を与えることになる」。食糧危機突破に関する声明と食糧危機突破対策要綱もあわせて発表された。 |
【天皇の「全国行幸」が始まる】 |
6月、天皇の全国行幸が開始された。行幸は千葉県を皮ぎりに、静岡、愛知、岐阜、茨城そして近畿、東北と続くことになる。 |
【「読売第二次争議」発生】 |
読売新聞社(馬場恒吾社長)で、概要「6.4付け『食糧供出』に関する記事の末尾の、政府の態度は本質的に地主擁護の性格を持つものとされている」という記事の内容が「新聞綱領違反」(プレスコード違反)に問われ、6.12日読売第一次争議を指導した6名の解雇事件が発生し、「読売第二次争議」となった。聴涛を委員長、鈴木東民を副委員長とする新聞通信労組結成後の最初の大事件となった。鈴木らは組合に守られて強行就労を続けた。GHQ新聞課長・インボデン少佐が首切りを直接指導し、承認しなければ新聞社の閉鎖をするとの脅迫を行っている。 6.21日、武装警官500名が占領軍MPの援護を受けて来襲し、乱闘の末56名の争議団員が逮捕された。7.4日16名の島流し的配置転換が発令された。組合は、7.13-16日の4日間新聞の全面停刊を決行。7.15日長文連ら31名が新たに解雇が発表された。以降抗争は泥沼化していくこととなった。約120日に亘る苦難に満ちた闘争が開始され、10月闘争になだれこむことになる。 |
【「読売第二次争議」支援】 |
6.14日、産別会議準備会の共闘委員会が開かれ、生産管理戦術の続行を決議し、闘争中の日発、関東配電、読売争議支援に立ち上がった。6.25日、16単産代表2500名の参加のもとら産別会議の結成準備会開催。この大会は、労働者に勇気を与え、闘争に奮い立たせることになった。 |
【「食糧危機」対応】 |
6.13日、吉田内閣は、「食糧危機突破に関する声明」、「食糧危機突破対策要綱」、「社会秩序保持声明」を発表した。「社会秩序保持声明」では、「最近の大衆運動は、ややもすると本来の目的を離れ、多数の不法な圧力によって社会秩序も脅かす恐れのあることは、極めて遺憾である」、「生産管理なるものは正当な争議行為とは認めがたい。今日までの実例に拠れば---これを放置しておくと、遂に企業組織を破壊し、国民経済を混乱に陥し入れるようになるものといわなければならない。その上もし、暴行、脅迫等の暴力がこれに伴って行使されるような場合には、社会秩序に重大な脅威を与えることになる」と明言されていた。吉田内閣の立ち直りが見て取れる。 |
【アメリカから食料支援】 |
7−8月、この次期に、最も危機的な状況にあった食料につき、英豪軍の手にあった50万トンの米が日本の配給当局に渡された。9月以降は、アメリカから継続的に食料が輸入され放出された。 |
【財閥解体の動き】 |
「GHQ」の経済科学局長クレーマーは、45.9.末から三井.三菱.安田.住友4大財閥に対して、個別に「自然的解体」を説得していた。10.15日まず安田保善社がこれに応じ、@.一族が傘下諸会社から総退陣する。A.傘下子会社の最高責任者は総退陣する。B.保善社を解散し、同族持株を公開するの3項目を決議した。 ついで三井.住友が同調、最後まで抵抗した三菱も10月末までに屈服した。財閥解体方針により、この頃動きが急ピッチになった。4月「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」制定、4.20日持株会社整理委員会令。指定された持株会社.財閥家族の所有する有価証券の譲渡を受けて、その処理にあたり、株式の民主化が進められた。 8.8日、持株会社整理委員会が発足、財閥本社が保有していた株券が押収された。そして、新たに地方や新興の財閥78社の解体、財閥家族の追放が続いた。 9.6日、持株会社整理委員会は、四大財閥本社と富士産業(中島飛行機)を第一次指定し、47.9月までに83社を指定した。47.12.10日「過度経済力集中排除法」制定。各産業部門の巨大独占企業の分割が行われた。解体、分割の対象になった企業は325社。その規模から云って当時の全株式会社の6割を超えていた。 |
7.24日、政府は国鉄に対して75000名の大量首切りを通告(加賀山職員局長)。続いて海員組合に対して43000名の首切りを通告。組合は直ちに闘争に突入した。 |
【「総同盟」と「産別会議」の分裂】 | |
左派による産別会議結成の動きが右派を刺激し、総同盟を結成させている。8.1−3日、神田共立講堂において、「日本労働組合総同盟」(「総同盟」)の結成大会が開かれた。参加組織は、全金属同盟、日本交通運輸労組、専売、繊維、進駐軍労組の一部など1699組合、組合員85万人、組織労働者の22パーセントを占めるナショナル・センターの誕生となった。戦前の友愛会の伝統を引き継ぎ、反資本と共に反共産の立場を採った。 会長に松岡、副会長に金正米吉.伊藤卯四郎.重盛寿治 、総主事に原虎一が就任し右派が指導部を構成した。左派の加藤勘十.高野実.島上善五 郎.山花秀雄.安平鹿一らはポストを争ったが大差で敗退した。この時掲げられた綱領は、一.労働条件の向上と共同福利の増進、二.技術の練磨等を通じての「人格の完成」、三.産業民主化の徹底を通じて「新日本を建設」し、「世界平和に貢献」する、という三項目であった。総同盟の眼目は、生産管理闘争から労使協調の経営参加方式を画策していくことにあった。もう一つの狙いは、労働運動の共産党からの分離化であった。概要「戦線統一は、現在の情勢では、遺憾ながら絶望的である。その重要な原因は共産党の非友誼的態度と産別会議派に巣食う一部極左主義者の無責任な分裂主義による」としていた。 「総同盟」に対抗して 8.19−21日共産党系の「全日本産業別労働組合会議」( 「産別会議」)結成大会が開かれた。参加組織は、産別21組合、組織人員163万人であった。「産別会議」には、全逓、全日本機器、全日通、化学、教員、国鉄、全炭鉱、電産、鉄鋼、新聞通信放送などの主要単産が結集していた。「産別会議の結成は、戦後革命期における日本労働組合運動の戦闘的な全国的結集を推進する一過程であった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。 新聞単一の執行委員長・朝日新聞論説委員であった聴涛克巳が、小林一之、細谷松太らの協力の下に、日本新聞通信放送労働組合を結成し、それを基盤として「産別会議」を組織した。議長に聴濤克巳(新聞単一)、副議長に土橋一吉(全逓信従組).坂口康夫(国鉄東京地本).事務局長佐藤泰三(電産).同次長細谷松太(化学)の陣容であった。幹部には共産党員が多く、党フラクのキャップは細谷松太であった。掲げられた綱領は、一.労働者と労働組合の基本的権利の擁護から始まる10項目であった。一見して総同盟とは違う戦う労働組合の綱領となっていた。 大会は、進行中の国鉄労組、海員組合の闘争を支援することを決め、全国に支援共闘闘争委員会と防衛隊をつくっていくことを決議した。 当時の組織労働者の43%にあたる21単産、10万単位の組合、組合員数163万人を結集した。組織労働者の43%を占め、総同盟の2倍を組織していた。「産別会議」が階級的労働運動の全国的な中心となった。こうして、我が国の労働組合運動は、戦後の再出発において、 二つの全国組織への分立を余儀なくされ、早くもこの時期労働戦線に分裂が生まれた。「総同盟」が社民系となり、「産別会議」が階級的労働組合運動を担うこととなった。 徳田は、結成された「産別会議」を党のフラクションに仕立て上げることに注力した。徳田の「赤色労働組合主義」であったが、他面で中央集権的な組織化はボスの発生を許し、党のコントロールが利かなくなる恐れがあるとしてゆるやかな合議体組織に据え置くよう指導している。聴涛と徳田との間に対立が発生したが徳田が押し切った形となった。産別傘下の単産をバラバラに置こうとする徳田の党優先力量哲学が勝ち、単産内の細胞を扶植した。 共産党は、党の直接指導による関東地方労働組合協議会を結成するなど「赤色労働組合主義」に基づいて取り組んだ。これは、第4回党大会の神山の労働組合方針は全国統一組織を 目指すことを指針としていたが、ここに至って党自前の「赤色労働組合主義」作りへと方向転換し た結果であった。これにより労働戦線の分裂化が固定されることになった。 |
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【「総同盟」の「生産復興運動」対「産別会議」の「産業復興計画」 】 |
「総同盟」は、概要「労働組合が中心になって資本家に改革を要求し、『生産復興会議』をつくって、生産の増強を図る」というものであった。これに対し、「産別会議」は、「資本家のサボタージュを許さず、資本家的な生産の再開を容認せず、政治的には民主政府の実現を意図し、経済的には経営の民主化を意図する」方針を確立していた。「総同盟」は、「産別会議」の方針を「政治主義」と批判して、両者の対立は並行していくことになった。 |
【「安本」発足】 |
この頃GHQの指令により、「安本」が設置された。発足当初は泣かず飛ばずで権限を持たなかったが、片山内閣時に改組強化され、「泣く子も黙るアンポン」と呼ばれるほどの権力を持つようになった。 |
【新憲法、国会に上程される 】 |
憲法制定の流れは第一次吉田内閣に引き継がれた。首相となった吉田は、マッカーサーと緊密に連絡をとりながら憲法改正案(新憲法)の起草を急いだ。(「戦後憲法の制定過程について(一)経過」で論述) この時吉田首相は、国体護持を最優先の選択基準として、予想されるソ連の参入の煩わしさを思えば、「アメリカの保護」の下に制定を急ぐべきだとする政治的判断を働かせていたようにも思われる。 |
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【共産党が「人民共和国憲法草案」と「新憲法草案の発表に際して」を発表】 |
党も草案づくりを急ぎ6.29日アカハタに、「人民共和国憲法草案」と「新憲法草案の発表に際して」を発表した。党の草案は、主権在民と徹底した民主主義的諸権利の確保という点において他の草案のどれよりも最も徹底していた。党の声明で注目される点は、「ブルジョア民主主義革命の端緒にたつ当面日本」、「現実にブルジョア民主主義革命の課題が達成された後には、現実の具体的条件と到達した民主主義的諸成果を基礎として、さらによりよき完成を期待しうるであろう」という文句である。当時の党が野坂理論の影響を濃くし始めていたことと民主主義革命を貫徹して後社会主義革命に向かうという革命的展望を維持していたことが知れる。「日本共産党の65年」では、「これはアジ.プロ部長であった宮本顕治が、同部員岡正芳、豊田四郎らの協力の下に原案をつくり、政治局で討議、決定されたものであった」とされている。手柄話のつもりであろうが真偽は不明である。 |
【国会質疑の内容】 | ||||||||||||||||
この時の国会質疑は、@.天皇の象徴制について、A.主権在民規定について、B.戦争放棄規定について論議が集中した。中でも第9条に関する議論が伯仲し、国家固有の自衛権まで放棄しているのか、自衛のための武力まで禁止しようとしているのかの質疑が白熱した。詳細は、「戦後憲法の制定過程について(一)経過」の該当項目に記す。 木村愛二氏のサイト「日本共産党犯罪記録 」に貴重な「衆議院本会議における代表質問、吉田茂9条説明審議録」がアップされている。これによると、興味深いことに日本国憲法採択当時の国会での遣り取りにおいて、時の吉田内閣は、この条文通りに応答していることが判明する。 吉田首相は、「憲法は自衛権を放棄していないが、自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄している」との立場を示し、次のように述べている。
この時、共産党の野坂衆議院議員が活躍している。野坂は、憲法草案に対する質問演説で、主権在民の原則の明確化等徹底した民主的憲法を主張し、この主張は憲法の前文に反映された。新憲法の国会審議の末期、野坂は、「天皇制はどう変わったか」(アカハタ9.29日、 10.2日)論文を執筆し発表した。次のように批判している。
民政局のケーディス次長はこの頃金森国務相、入江俊郎法制局長官等に対して、再三「主権在民」の明確化を要求している。 この時、野坂は、「戦争放棄」条項に食いついて、6.28日の本会議で、次のように質問している。
これに答えた吉田の答弁がふるっている。
今日から見て立場が逆転しているこの滑稽なお互いの質疑は、歴史の皮肉とは言えよう。 6.26日の進歩党の原夫次郎の質問に対しては、「自衛権について直接規定してはいないが、従来多くの戦争は自衛権の名において戦われた。今日の日本に対する誤解を解くことが必要である。故に日本はいかなる名目においても交戦権を放棄する決意をこの憲法で表明したいと思う」と答弁している。 この時の後の社会党初の首相片山哲の受け止め方はこうであった。「この草案は勿論、ポツダム宣言に基づいているものだが、これを受け取った幣原内閣としては、非常に進歩的な憲法草案を押し付けられたので、すっかりびっくりしてしまった。国民は、ちっとも押し付けられていないのみならず、願ったりかなったりの事項がたくさん盛り込まれているので、これこそ求めつつある天の声なり、福音なりと喜んだのである」(回顧と展望)。片山氏の受け止め方の方が素直ではなかろうか。 |
【敗戦一周年記念の動き】 |
8.15日、日本降伏一周年の日にマッカーサー元帥による声明が為されており、元帥はその中で「もしこのようなイデオロギーの衝突が日本人の生活、思想の再転換途上に起こるとすれば、永い間極端な右翼的哲学の下にあった人々は、急進的左翼哲学の下に再び軍隊的組織化を導かんとする主義を強要する人々の好餌になりやすく、これはポツダムにおいて企図された如き穏健な民主主義の偉大な中道を求める人々にとって少なからざる不利益となるであろう」と、左翼の台頭を危惧した声明を披露した。更に、「破壊すべきものは破壊し、保存すべきものは保存し、建立すべきものは建立しなければならぬ。この為には、あらゆる困難、確固たる決心及び民主主義人民の政治(ステーツマンシップ)が必要である。目指すところのものは偉大である。なぜなら、戦略的要地たる日本列島は平和への強力なる防壁ともなり、危険なる戦争への跳躍台ともなるからである」と啓蒙した。 |
【「労農前衛党」結成される】 |
戦前の転向派が、「天皇制の下での一国社会主義」を旗印に労農前衛党を結成した。佐野学が委員長となり、佐野博、風間丈吉、源五郎丸芳晴らが連なった。鍋山貞親は、小政党の結成に反対、田中清玄は参加しなかった。 山川均の民主人民戦線に対抗して救国統一戦線を主唱した。しかし、労農前衛党のその後は低迷瓦解する。佐野は、1947.7月、日本政治経済研究所を創設し、一国社会主義論に基づく諸活動を継続させた。社会民主党(平野力三、佐竹晴記ら)、民主社会主義連盟(西尾末広、三宅正一ら。右派社会党の理論団体)等に影響を及ぼした。この時点で、鍋山が合流している。 三田村四郎は、只一人、戦時中も、革命的一国社会主義を唱えて佐野・鍋山らと分かれ、予防拘禁に附されて敗戦まで出獄し得なかった。戦後直ちに日本共産党に復党を申し込んだが、留保された。これに憤慨して、以後山川均の民主人民連盟等で活躍したが、その後民主労働者協会会長等としてまもなく、佐野・鍋山と同一路線を歩むようになる。 |
【第4回拡大中央委員会】 |
8月、第4回拡大中央委員会が開かれ、概要「一切の闘争は、『吉田反動内閣打倒、人民共和政府の樹立』に結び付けねばならず、この闘争は、国鉄を中心とした海員、石炭、鉄鋼、化学、電気などの諸産業のゼネストに全ての闘争を結集することにある」と述べて、10月闘争の爆発とその課題を指針させた。 問題は、概要「ゼネストを背景にして内閣を打倒し、人民政府を樹立するということは、共産党の民主革命戦線に関わり無く、プロレタリアートの革命的勝利の突破口を10月闘争の中に見出そうとしたことを意味する。そうであるならば、権力獲得に向かって闘争の永続化、反革命の粉砕、労働者人民の武装などを意識的、目的的に準備せねばならず、『平和革命』との矛盾は明らかであった」、「しかし、共産党は、産別会議160万のゼネストを背景に、労働者が工場と運輸通信施設や新聞放送機関を占拠し、国家行政機構を解体し、ロシア10月革命の教訓を生かして労働者評議会を組織し、労働者権力の母体たらしめることによって資本家階級の反撃や、占領軍の武力干渉を排除していくなど爪の垢ほども考えようとも、準備しようともとなかった。あるものはただ無内容な怒号に過ぎなかったのである。その為、内閣打倒、人民政府樹立が経済主義的に対置されただけである」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。 この時の日共第四拡大委で、『8月方針』が出され、次のような朝鮮部指針が決議されている。@・各地の朝鮮人運動体を日共の支配下におき日本人党員と一体となり活動する。A・朝鮮人だけの職場にある党員を、日共の細胞に入れ、日本人党員とともに活動する。B・朝連の重要ポストに党員を配置、民族戦線としての役割を果す。C・朝連はなるべく下部組織の露骨な民族的偏向を抑制し、日本人の人民民主革命をめざす共同闘争の一環として、その闘争方向を打出すことが必要で、その方が朝鮮人自体のためにも有利である。D・朝連はあくまでも日本の人民民主主義戦線の一翼を担当する役割を果すように努めること。 |
【労働争議頻出する】 |
6月の第二次読売争議から始まり、秋口から人員整理に反対する闘争が起こった。9.10日、海員組合スト、9.15日、国鉄争議、東芝争議が続いた(8月闘争)。 |
9月、社会党大会が開かれ、片山哲書記長が初代委員長に選出された。
9月、内務省国土局が「復興国土計画要綱」を作成した。5年後の人口を800万人増の8000万人と推定し、これを農村が引き受け、農村人口5000万人、都市人口3000万人を想定し、新規開墾を150万町歩(約149万ヘクタール)、そのうち90万町歩を東北・北海道に見込む。してみれば、「復興国土計画」というより「緊急食糧対策」的なものであったことになる。
【 「第二次農地改革」 】 |
10.5日、第二次農地改革案が衆議院を通過、10.11日貴族院でも可決され、成立した。その内容は、一.在村地主の小作地保有限度を内地平均1町歩、北海道4町歩とし、それ以外及び不在地主の小作地の強制買収。二.小作地を含む所有限度は内地平均3町歩、北海道12町歩。三.小作料の低額金納化。四.開放方式は、地主小作間の直接交渉を排し、国家による強制譲渡方式を採用し、国家が買い上げた土地は原則として現にそれを耕作している小作人に売り渡す。五・農地委員会の構成を、小作5.地主3.自作2とす。こうして、山林は別にして、農地に関する限り地主制は農地改革によって基本的に解体されることになった。 その直後マッカーサーは、次のような談話を発表した。「議会の農地改革通過は、経済的に安定し、政治的に民主的な社会を生み出しつつある日本がこれまでに到達した里程標のうち最重要なものの一つである。健全、穏健な民主主義を打ち立てるため、これより確実な根拠はありえず、また過激な教義の圧力に対抗する為これより確実な防壁はあり得ない」。 後に、マッカーサーは、回想録に次のように書いている。「農地改革は、この種の実験として史上最も成功したものの一つといえる。この体制は、日本の農村への共産主義の進出をくいとめる強力な防壁となった。日本の農民は、今やそれぞれ独立したキャピタりストとなったのである」。「ニッポン日記」の著者シカゴ.サンの特派員マーク.ゲインは、次のように云う。「昭和20年に私が初めて酒田を訪れたとき、保守派の人々は農地改革が農村を政治的に左傾させることを恐れていましたし、社会主義者たちはむしろそうなることを望んでいました。時の流れはこのいずれもが見当違いだったことを証明しました。地主になった旧小作は大半がそのまま保守派になり、昭和22年以来保守的な政府を支持する傾向にあります」、「この変革は本当の革命的な行動の結果でした。よしたとえこれが、暴力なしに外国の占領軍の手で行われたものであったにせよ、激しい社会変動よりも安定のために役立った点で革命的だったのです。農地改革が果たしたこと−−−それは封建制度にとどめをさし、農村の不正と慢性的貧困をなくしたことです。これこそ戦後日本の真の奇跡なのです」。 「自作農創設特別措置法」.「農地調整法改正」がそれである。これに基づいて47年3月から第二次農地改革が行われ、50年7月までに完了することとなった。在村地主の小作地は1町歩(約1ヘクタール)以下に制限され、1町歩を越える分は国家が強制的に買い上げて、小作人に安価に売り渡し、小作料は金納で、その率も25%以内に制限した。この改革によって、小作地は改革前の46%から10%以下に減少し、地主の多くは農村内における経済的.社会的地位を失い、耕作農民の生活は向上した。但し、山林.原野.水利権については全く手をつけなかった。 こうして、小作地の約8割が小作農家に払い下げられることになった。売り渡しを受けた農家は約420万戸。農地改革は、高額の小作料にあえぐ農民を解放した。「もう、マッカーサー様各。占領政策様各ですよ。みんな生き生きしてた」という回顧が為されている。 この頃、農地をめぐる地主と小作人の軋轢は激しさを増した。地主が不在地主としての農地改革の対象から逃れる為、小作人に貸していた土地を取り上げようとしたからである。地主側から見れば、農地改革は財産権の侵害として受け止められた。こうした地主側の動きは、小作人の農民組合再建の刺激となり組合運動の拡大強化につながっていった。 |
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【 党の「第二次農地改革」論争 】 |
神山の後を受けて伊藤律が農民部長になり、概要「地主的な土地所有を精算し、農業における資本主義的発展の道を拓かねばならぬが、その具体的な方向は、『農民的農業革命と地主的農業改革』、この二つの道において可能である」と提言した。これに基づき、「二つの道」をめぐる広汎な論争が行われた。神山、伊藤、菅間、豊田四郎らは、地主的ユンケル経営がブルジョワ的転化を遂げる「プロシア型」と農民経営が資本家的大経営に発展する「アメリカ型」との対置を主張。これに対して、小池基之、信夫清三郎、風早八十二らは「二つの型が成立する条件は日本には存在しない」とし、隷属関係を事実上維持したままの「寄生地主型」と勤労農民の協同組合化としての「勤労農民型」の道との対置を主張した。この間にあって栗原百寿や井上晴丸らが仲介的な発言を行い、議論は妥協の形で終わった。この論戦によって、旧講座派内にあった方法論的な欠陥、公式主義的な弱さが暴露された。 |
【新憲法の公布 】 |
帝国憲法改正案は6月から10月にかけて真剣な審議が為された。この間7.1日憲法改正案は芦田均委員長以下72名の「帝国憲法改正特別委員会」に付託され、7.23日からいわゆる芦田小委員会と呼ばれる14名の秘密会議で審議された。7.25日〜8.20日まで13回にわたって国会内で秘密会を開き、各党派から出された修正案を調整して共同修正案をまとめた。この経過は非公開とされており詳細は分からない。芦田氏の「十年の歩み」に、「第一項の冒頭は条文を明確にして侵略戦争を放棄する心持をはっきりさせるのがいいという意味で修正したのだが、第二項の冒頭に『前項の目的を達するため』と挿入したのは武力を保持しないという決心に条件をつけて『自衛戦争のためには』武力を行使することを妨げないと解釈する余地を残したいと考えたからであった。もちろんこの修正の字句はさほど明確でない。しかし明確に書けば修正が拒否されるとは、分かりきっていた」とある。 こうして出来上がった共同修正案が8.24日衆院本会議に提出された。芦田は涙ぐみつつ熱弁をふるい、共産党を除く賛成多数で可決。貴族院に送付され、ここでGHQの要請で「全ての閣僚は文民で無ければならない」との文民規定が第66条に加えられ、同日新憲法草案を修正可決した。10.6日貴族院が、新憲法草案を修正可決し、衆議院へ回付した。10.7日衆議院が、新憲法草案を可決した。枢密院本会議を通過して11.3日新憲法が「日本国憲法」として公布、47.5.3日より施行されることになった。 日本国憲法案が衆議院を通過した8.24日憲政の神様と言われていた尾崎行雄氏(当時87歳)が衆院本会議で、無所属議員として壇上に立ち、憲法案が「国会は国権の最高機関」としていることを評価し、「従来は主客転倒。行政府が国の政治の主体で、立法府は極めて柔弱微力なる補助機関の如く扱われ、国民もそれに満足していたようだが、今日この憲法が制定せらるる以上は、立法府が主体で、行政府がその補助機関とならなければならぬ」と語っている。 |
【労働争議「10月闘争」始まる】 |
46年後半から労働運動は激化していった。9.20日、新聞通信労組の東京支部が読売争議解決の為のゼネスト決行を決定し、ゼネスト準備指令に入った。産別会議の10月攻勢等労働闘争が始まり、東芝労連が10.1日ストライキに突入した。東芝の関東、東北系33工場、3万名が未払い資金の即自支給、工場閉鎖と首切りに反対して24時間ストに入った。これが「10月闘争」ののろしとなった。 |
【「全官公庁共同闘争委員会(共闘)」が結成される】 |
この頃の役人の給料は、民間企業よりも相当に低かった。基本給平均が556円で、民間の約半分だった。11.26日「全官公庁共同闘争委員会(全官公庁共闘)」が結成され、越年資金、家族手当の支給等の10項目の要求を政府に突きつけた。 (参考資料) |
【社共の主導権争い】 |
2.1ストの前哨戦ともいうべき「10月攻勢」は、戦後労働運動の最初の高潮期となったが、内部では社会党・総同盟系と共産党・産別会議系の激しい主導権争いが演じられていた。 |
【共産党の「水曜会」】 | |
この頃党中央は、代々木党本部で毎週水曜日に党直轄指導の労働運動研究会を開いている。産別会議や各単産の党員指導者が顔を揃え、戦術会議を開いたようである。国鉄・鈴木市蔵.伊井弥四郎、全逓・高原晋一、電産・竹内七郎、産別・聴涛克巳.亀田東伍らの面々が出席していた。徳田を囲んで、伊藤.長谷川.「組活」メンバーらが補佐した。 この頃の徳球の指導の特徴について袴田は次のように云っている。
袴田の否定的見解はともかくとして、この頃の徳球指導の様子が分かる。 |
11月、ベトナム民主共和国とフランスが第一次インドシナ戦争に突入。
【吉田首相の社会党懐柔策】 |
この頃吉田首相は、社会党右派の西尾と平野と折衝し、連立内閣構想を持ちかけている。西尾は大臣ポストの要求と石橋湛山大蔵大臣の更迭要求等で応えている。 |
【神山派の動き】 |
12月、神山茂夫が「人民評論」に「軍事的・封建的帝国主義とは何か」なる論文を発表、信夫清三郎理論批判を展開し、「二重の帝国主義論」(「日本帝国主義の内部における二つの帝国主義、即ち、歴史的にも本質的にも異なる二つのものの対立と葛藤」)を展開している。 神山の「二重の帝国主義論」の実践的帰結は、ポツダム宣言の厳正実施、世界の平和と国の民族的独立を全ての革命的・民主的勢力の当面する主要課題とするいわゆる「人民民主主義革命論」の提唱となり、いわば右派系からの党中央理論批判となったことに政治的意味がある。丁度中西グループの左派系からの党中央理論批判と対極に位置していたことになる。 この神山の周りには豊田四郎、浅田光輝、小山弘健、渡部徹、茂木六郎、中村秀一郎らのイデオローグ及び日本経済機構研究所(東京)、社会労働研究所(大阪)が神山グループとして結集していくことになる。他に、寺田貢、内野壮二・神山利夫などの戦前からの古参の者、東京の林久男や新井吉生・栗原幸夫、静岡の森一男、アカハタの発行名義人になっていた原田龍男、早稲田系の大金久展らが集う。「50年分裂」期には、「反党中央(徳球−伊藤律執行部)、非宮顕」系としての中間派の立場に立つ。 |
(私論.私見)