60年安保闘争考

 2003・12・9日、小泉政府の手により戦後史を画する歴史的悪業「自衛隊のイラク軍事派兵、武装出動」が閣議決定された。戦後左派運動の歴史的破産を知らされる思いがする。今日インターネット上に各党派のホームページが開設されているが、これを弾劾するコメントが遅い。特に、新左翼系の動きが悪い。情況に対する把握力が格段に落ちているのではないかと思われる。

 れんだいこは考えた、何が出来るのか。とりあえず、なぜこのような事態になったのか、後退に次ぐ後退で今や日本左派運動は溶けてしまったのか、「60年安保闘争」の地平から逆照射させてみたい。「60年安保闘争」を題材にする理由は、ほんの僅かしかない戦後日本左派運動の能力が開示された史実であるということと、「60年安保闘争」の中にその後の日本左派運動の混乱の原形が垣間見えるからである。

 そのことが今日はっきりした。そう云う意味で、歴史の経過が必要であったのかも知れない。これがれんだいこの気づきである。この気づきを受けて、本稿で、ブント運動の値打ちを見直し、再検証し、どこが足らなかったのか、どこを継承すべきであったのか、どこを解体止揚再創造せねばならなかったのか捉え直していきたい。同時に、未だ共同認識されていない宮顕―不破系日共の胡散臭さを露呈させ、日共との「決別か再生か」いずれかの方途を照らし出してみたい。

 いずれにせよ、戦後日本左派運動の能力が開示された稀有な史実「60年安保闘争史」から学ばぬ手は無い。一体、左派運動の主体者達は何ゆえにこれを疎かにするのだろう、してきたのだろう、れんだいこには信じられないことである。以下、たまりかねてれんだいこが「60年安保闘争史」をスケッチする。但し、簡略を期する為かするため同時並行的に闘われていた三井三池闘争については記述を割愛することにした。

 「60年安保闘争史」を研究する意味はもう一つ有る。それは、後にソ連邦が崩壊し、いわゆる社会主義体制の虚飾が剥げ落ちたこともあって、日米安保条約の締結に対する抗議運動の是非を問う座標が定まらなかった。しかし、「9.11米国内同時多発テロ事件」を契機にブッシュ率いる米国の世界平定戦争作戦が稼動し始め、日本は否応無くその渦の中に呑み込まれ、今や自衛隊の米衛隊化による武装出動事態まで至っている。軍事のみならず外交、経済、貿易まで米奴化政策で染められつつある。

 始発に戻って、「60年安保闘争」が危惧した事態が遂にやって来たと思わざるを得ない。そう云う意味でも、「60年安保闘争」を闘い抜いた連中の史的意義を再評価せねばならない。惜しむらくは、その際の理論化が弱いままに感性一つを頼りに闘い抜いたことであろう。しかし、渦中にあってはそういうものかも知れないので割引できよう。以上、いろんな意味で「60年安保闘争史」を再検証しておかねばなるまい。

 2003.12.14日 れんだいこ拝


【当時の政治状況】
 1958.9.11日、岸首相の意向を受け、藤山外相が渡米し、ダレス国務長官と安保改定の正式交渉に入った。10.4日条約改定のための第一回会談が開かれた。以降、59年いっぱい続けられ、60.1.6日の妥結まで公式に計25回、極秘裏におびただしい回数で会談が持たれ、丸1年3ヶ月にわたる長期の改定交渉が続けられることになる。

 安保条約の改定は、日本の独占支配層がその帝国主義的自立化に対応させて、アメリカとの政治的.軍事的関係を再調整し、より自立性を持つ形で同盟関係を結ぼうとする要求に基づくものであった。アメリカ側は、日本を極東の戦略的中心に据え、アジアでの対共産圏の基地にしようとはかっていた。この改定は、8年前の条約締結の単なる継続や再確認でなかった。

 この情況に対して、当時の左派運動主体がどのように対応したのか、ここが考察テーマとなる。結論的に云えば、ブントが闘い、革共同が追随し、社会党・総評が日和見しながらも支え、日共・民青同は「反革命」として立ち現れている。
【その@・ブントの結成】
 歴史の歯車は不思議だ。この年12.10日、日共党中央と不可逆的な対立に陥っていた全学連主流派執行部が中心になって、新しい革命前衛党を建設するとして日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも言う)を結成した。既に先行して革共同が生まれていたが、ここに日共、革共同、ブントという潮流が揃い踏みすることになった。

 この時生まれたブントが「60年安保闘争」のうねりを終始先行的につくりあげて行く事になる。このブント的活動に対して、当時の左派運動は賛否両論的であった。しかし、あれから40数年経過して判明したことは、ブント運動こそ日本左派運動の真性派であり、これに尤も執拗に敵対した日共こそ「偽装左派」運動であり、60年安保闘争後のブント解体は実に惜しむべき痛恨事であったということである。そこにあるのは、理論の貧困であり、この貧困ゆえに日本左派運動はとめどない後退を強いられているという現実であろう。

 以下、ブントと日共の対立の様子を浮き彫りにさせながら、「60年安保闘争の経過」を追っていくことにする。云える事は、20代の学生運動家がほんの僅かな手勢で左派党を結成し、その割には能く持ち応え、情況に必要な手を打ち続け、遂に岸内閣退陣へと追い込んでいったことである。この偉業をそれとして認める者は左派であり、この偉業を落としこめる者は偽装左派である。それぐらいのリトマス試験紙的光芒を放っている。

 しかし所詮そこまで、ブントは泡沫と消えていくことになった。ポスト安保後のブントは、「左」から革共同に、「右」から日共に挟撃されていくことになった。潔く身を引いた島―生田ラインが臍を噛むのは事態が決定的に悪化してからであり、既に流れは不可逆的であった。その多くは、革共同全国委へと吸収されていく。

 ところが歴史は面白い。革共同全国委が分裂し、ブントのその多くは中核派へとなだれ込む。考えようによれば、革共同全国委へと合流したブントが本多派を連れ戻し、新左派党を結成した観がある。従って、中核派とは、革共同的なるものとブント的なるものの実験的融合であり、史上稀な興味深い党合流になっているということになる。この党がその後どう歩み、「若気の過ち」を繰り返しながら今日まで至っているのか、その重みにどう耐え応えて経過したのか、そこにはある種の戦後日本左派運動の能力が内蔵されている、とも言えるのではあるまいか。

 この当時、数次の闘争経験から「課題ごとの共闘会議」結成が当たり前の如くできるようになっていた。興味深いことに国会内外の闘争が見事に呼応しており、幾つかの勝利的経験を獲得している。この「共闘会議の経験」を破壊していった者達こそ日本左派運動の撹乱者であろう。この汚濁の栄誉に与るのは誰か。めいめい捉え返さねばならないであろう。
【そのA・「安保条約改定阻止国民会議」の結成】

 1959.3.28日、日本左派運動は、先の「警職法改悪反対国民会議」を受け継いで、総評・社会党・中立労連.全日農・原水協、平和委、基地連、日中国交回復、日中友好、青年学生共闘会議など13団体が中央幹事団体となる「安保条約改定阻止国民会議」を結成する。全労.新産別は参加せず、共産党はオブザーバーとしての参加が認められ、幹事団体会議における発言を獲得した。「安保改定阻止国民会議は、その結成経緯にもみられるように、社共の意見対立を含みながらも左翼勢力の大同団結による共闘組織であり、我が国の大衆運動史上特筆すべき、大規模なそして強力な反対運動の中心勢力を構成したのである」(「左翼運動」)。 

 この共闘組織は次第に参加団体を増やしながら全国的な統一行動(安保共闘)を組織していくことになった。全国各地に1573の地方共闘組織が結成されていった。以降「国民会議」は二十数波にわたる統一行動を組織していくことになる。しかも、この共闘組織は、中央段階のみならず、都道府県・地区・地域など日本の隅々にまでつくられ、その数は2千を越えていくことになる。

 「安保条約改定阻止国民会議」と全学連はどのような関係に立っていたか。社会党青年部、民青、総評青対部、全日農青年部、全学連(ブンド指導の)によって構成される「安保改定阻止青年学生共闘会議」が結成され、この青学共闘会議が安保国民会議に加盟するという形で「共闘関係」を維持したようである。


 「60年安保闘争」は支配階級側の政治的危機を現出させた。この時、裏からこれを助け起そうと躍起になっていたのが、何を隠そう宮顕―野阪が牛耳り始めた日共であった。この経緯があるからこそ、日本左派運動内で「日共」なる呼称が侮蔑的意味を持つ言辞となった。さて、この時期に日共はどのように画策したのか。
【そのB・日共の水差し運動】
 案外知られていないが、この時期の日共党中央の方針と指導は、安保闘争に対する取り組みは消極的だった。その理由として、安保闘争の盛り上げを通じてこれを国内支配権力である日本独占資本との階級闘争との絡みで岸政府打倒をターゲットとするという政治闘争としての位置づけを避けていたということになる。この結果、安保闘争を労働者のヘゲモニーのもとに政治的危機に盛り上げていくような基本方向が棚上げされ、右派系宮顕綱領路線に基づく反米闘争的位置づけでのみ安保破棄を掲げ、しかも概要「当面は安保破棄を直接の目標にせず、むしろ民族民主革命に向けた『民族民主統一戦線』を形成させることを地道に目標とすべきだ」としていた。それは、「決まって闘うふりをしながらその実何も闘わないエセ理論」の典型であったが、この時期の日共党中央の権威は急進主義者の間では綻びていたとはいえ、まだまだ保たれていたことにより、影響力があった。

 日共は、安保闘争全体を民族闘争の枠に限定するという右翼的方針を掲げると同時に、その運動方法もまた穏和主義の枠内にとどめようとしていた。「できるだけ広範な人民層の参加をうるために」という口実で、統一戦線の基準を幅広主義で結集させ、闘争戦術も学生や青年労働者の全てを最低次元の統一行動に規制していこうとする「秩序整然たる行動方式」を指針させた。つまり、安保闘争を何とかして通常のスケジュール闘争の枠内に治めようとしていた観があり、国会突入を視野に入れるブント的指導との両極端にあった。
(私論.私観)「日共の水差し運動」の対自化の必要性について

 宮顕の胡散臭さに付いては、「宮顕論」で検討した。この労作が生み出される契機は、「補足・リンチ事件のその後、事件関係者の陳述調書漏洩の衝撃」で述べたように、1975年末の立花隆氏による「日本共産党の研究」の登場以降である。ということはつまり、1960年前後のこの頃においては「宮顕の唯一非転向不服従人士」的聖像が鬼の金棒となって君臨していたことになる。当時の活動家の多くは、この「威力」にひれ伏していた。従って、宮顕式日共指導を反左派性において捉える事ができず、左派運動の変種的日本的スターリニズムとして批判していかざるを得なかった。こういう時代の「檻(おり)」のようなものを対自化させておかねばならない。ブントが、如何にこの「檻(おり)」から抜け出し得ていたか、未だ不十分のものであったのか、ここら辺りの検討も興味が湧くころである。
(私論.私観)60年安保闘争の際の共産党の果たした役割について

 安東氏は次のように述べている。「11.27から1.16に至る緒戦において、闘うエネルギーを封じ込める上で日共中央の果たした役割は大きかった。それは、その時々の情況によって揺れ動く総評・社会党指導部の姿勢とは違って、まさに一貫していたといってよい。そしてこの基本姿勢は安保闘争の全期間を通じて、不動であった」。


 「安保条約改定阻止国民会議」の統一行動が始まる。しかし、なかなか点火しない。全学連の「10.30全国ゼネスト闘争」が停滞していた安保闘争に火を点じた。これが歴史を観る「眼」とならねばならない。
 1958.4.15日、国民会議の第一次統一行動が取り組まれている。「砂川判決支援、安保体制打破中央集会」に8000名、全国各地でも集会が持たれた。4.28日、全学連は、「安保改定阻止、岸内閣打倒」をスローガンに第一波統一行動を起こしている、約1000名結集。5.15日、第二次統一行動、約5000名結集。6.25日、第三次統一行動、労・学2万6000名、全学連は約1000名結集。9.18日、全学連は、安保改定阻止統一行動に約1500名結集。10.20日、第7次統一行動。10.26日、約1000名結集。この頃までの安保闘争は、低調であった。

 10.30日、安保改定阻止統一行動、全学連はゼネストの形で闘おうと呼びかけ、全国スト90校、121自治会、行動参加者全国30万名、都内約1万5000名で雨の中を集会.デモ。夜は、夜間部学生2000名が「公安条例後、始めて認められた」夜間デモを行った。「10.30の学生の全国ゼネスト闘争は、沈滞していた安保闘争に火を点じた」と云われている。

 「11.27全学連の国会乱入事件」が発生し、度肝を抜いた。政府、社共、総評、マスコミその他各界から猛批判が為されたが、ブント書記長・島氏は、「ブント運動の最初の金字塔」と評価し批判をものともしなかった。今日的に観れば、慧眼であった。
 11. 27日、第8次統一行動。31都府県の全国700の共闘組織に結集する350万の大衆が立ち上がり、合化労連.炭労の24時間ストを中心に全国で数百万の大衆が行動に立ち上がった。東京には8万名が結集した。

 この時の国会デモで、全学連5000名の学生、都教組などの労働者らによる「国会乱入事件」が発生している。「警官隊が出動、国会に近づく各道路にバリケードがき築かれたが、労組員・学生達はこれを突破して進み、国会正門から首相官邸にいたる道路を埋め尽くした。私は、国会の二階の窓からそれを見ていたが、恐ろしいような激しい人渦だった」(田村祐造「戦後社会党の担い手たち」)とある。国会に突入した労学三万余名が、構内で抗議集会を続行し、全学連指導部は労働組合の宣伝カーに乗り込みアジった。構内はデモとシュプレヒコールで渦巻いた。「夕闇迫る国会議事堂の前庭は林立する組合旗.自治会旗で埋まり、シュプレヒ.コールは国会議事堂を揺さぶった」(山中明「戦後学生運動史」)とある。


 岩井総評事務局長.浅沼稲次郎社会党書記長が宣伝カーから「流れ解散」を呼び掛けるが誰も動かない。日共議員(野坂.志賀.神山)も説得するが、それを拒否して6時過ぎまで座り込みを続けた。「たまりかねた社会党と共産党の国会議員団が同5時40分頃、正面玄関前の階段にズラリと顔を揃え、浅沼書記長が『解散して貰いたい』とだみ声で叫んだが、全学連の学生の間からは『反対、反対』の声ばかり。浅沼さんの発声で『安保改定阻止バンザイ』をやったが、誰も唱和しない。議員団がスゴスゴと引き上げた後、6時頃から、腰を挙げて防衛庁へ向かった」とある。こうして約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。この運動を指揮したとされる清水丈夫書記長(現、中核派指導幹部)、葉山岳夫(現、弁護士)、糠谷・加藤副委員長らに逮捕状が出されることになる。

【ブント書記長・島、事務総長・生田が、「ブント運動の最初の金字塔」と絶賛する】
 これがブント運動の最初の金字塔となった。ブント書記長島氏は、この時の生田事務総長について、「この日、生田は人々共に、議事堂の正面階段で喜色満面、手を叩き躍り上がって興奮していたのだ」、「(ブントの印刷所で初めて刷ったビラを現場で配ったことを指摘し、)この闘いと共にブントは大衆の面前に踊り出た」、「この日を期して同盟は安保闘争に組織を賭け突入した」と書き記している。「全学連の行動は確かに滅茶苦茶であった。しかし今まで大衆運動の先頭に立っていたのは常に全学連だった」(高桑末秀)とも書かれている。

【「全学連の国会乱入事件」に対する各界の反応】
 政府は緊急会議を開き、「国会の権威を汚す有史以来の暴挙である」と政府声明を発表し、全学連を批判すると同時に弾圧を指示した。自民党も緊急幹部会を開き、概要「長時間にわたり構内を占拠して騒乱を極めたことは国会の権威と秩序を蹂躙する空前の痛恨事である。我が党はかくの如き破壊勢力と対決し、断固としてこれを粉砕せんとする」と声明を発表した。

 マスコミ各社の反応は次の通り。朝日新聞は「常軌を逸した行為」、「思慮無き跳ね上がり」と非難。読売新聞は「陳情に名を借りた暴力」とののしっている。

 「国民会議・社会党・総評」も、突入デモ隊を非難した。

【日共の憎悪的批判】
 党中央は、翌日のアカハタ号外で突入デモ隊を非難し、これを専ら反共・極左冒険のトロツキストの挑発行動とみなして、ただちに事件を非難する声明を発した。神山は11.28日の安保国民会議で、「国会乱入は誘発に乗ったものであり、全学連の一部トロツキストの意識的誘発があった」と発言している。11.28日党声明は、「反共と極左冒険的行動を主張していたトロツキストたちは、右翼の暴行や警官の弾圧などによって緊張した状況を逆用して挑発的行動にいで、統一行動を乱す行為にでた」と反代々木系学生らを非難した。概要「全学連指導部は、トロツキストが多数を占めており、民主運動の中に潜り込んでいる陰謀的な挑発者集団であり」、常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し全都にばらまいた。以降連日「トロツキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。

 この時の共産党中央の凄まじさは、当時党中央の指導に服していた全学連反主流派の指導者黒羽純久をして、「これは何ものかが共産党の名入りでデッチあげた怪文書である」とさえ感じさせるものであったと伝えられている。

【逆に、全学連デモ支持も相次ぐ】
 この声明に対して、共産党港地区委員会は中央に抗議声明を発し、27日の全学連デモを支持した。都議員団はじめ多くの党組織から全学連事務所に激励のメッセージが寄せられた。

 中国人民世界平和保衛委員会は、「日本の安保阻止第8次統一行動は、日本人民の闘争のたかまりを示しており、日本軍国主義の復活に反対し、米日軍事同盟に反対する日本人民の意思を力強く表明している」(12.1日北京放送)。また、中華全国総工会も「第8次統一行動の中で示した勇敢な、そして団結の精神に対して敬意」の挨拶を総評に送っている。
(私論.私観)中共の支持声明について

 興味深いことだが、日共の憎悪に満ちた批判に対し、中共は「勇敢な、そして団結の精神に対して敬意」と賛辞している。この観点の相違は「60年安保闘争」期一貫して露呈していくことになる。

【民青同の全学連の「国会突入事件」批判】
 この全学連主流派の「国会乱入事件」に関して、民青同は、次のように総括している。「自民党は、この事件以降、絶好の反撃の口実を与えられ、ジャーナリズムを利用しながら国民会議の非難の大宣伝を開始した。総評・社会党の中には、統一行動そのものに消極的行動になる傾向すら生まれたのである。運動が高揚期にあるだけに、一時的、局部的な敵味方の『力関係』だけで、戦術を決め、行動形態を決めることが、闘いの長期的見通しの中で、どういう結果を生むか、という深刻な教訓を残した」(川上徹「学生運動」)。

(私論.私観)この時の民青同の変調批判について

 これは、私にはおかしな総括の仕方であるように思われる。一つはブントに対する「為にする批判」であるということと、一つは運動の経過には高揚期と沈静期が交差して行くものであり、全体としての関連無しにこの時点での一時的後退をのみ部分的総括していることに対する反動性である。事実、翌60年より安保闘争がるつぼ化することを思えば、この時点での一時的沈静化を強調し抜く姿勢はフェアではない。後一つは、それでは自分たちの運動が何をなしえたのかという主体的な内省のない態度である。この「60年安保闘争」後ブントは基本的には散った。つまり、国会乱入方針が深く挫折させられたことは事実である。ならば、どう闘いを組織し、どこに向かえば良かったのだろう。このような総括なしにブント的闘争を批判する精神は生産的でないと思われる。

 実際上述したように批判を行う川上氏らが民青同系学生運動を指導しつつ「70年安保闘争」を闘うことになったが、川上氏らはこの時のブントにまさる何かを創造しえたのだろうか。つつがなく70年安保が終えて、後は自身が査問されていく例の事件へ辿り着いただけではなかったのか。「恣意的な批判の愚」は慎まねばならない、いずれ自身に降りかかってきたとき自縛となる、と私は思う。

(私論.私観)全学連の「国会突入事件」をどう捉えるべきかについて

 安東氏は、この時の全学連の闘いを次のように評価している(但し、安東氏はこの時日共派であり、この見解は後日の修正的なものであることに留意を要する)。「未曾有の大衆闘争として闘われた60年安保闘争の突破口は、59年の11.27日の国会突入闘争であった。それまでの安保闘争は3.28日に結成された安保改定阻止国民会議による統一行動が7次にわたって組織されたが、未だ盛り上がりに欠け、『安保は重い』というのが実情であったといえよう。それが、11.27の国会突入闘争をキッカケにして様相を一変し、『安保は闘える』という自信が一人前のあの警職法反対闘争の勝利の記憶とともに生まれることになったのである」。

 この時のブント系学生運動と日本共産党の指導する民青系の運動は、いわば気質的な差でもあったと思われる。ブントは、どんな闘争でも決定的な勝利を求めてトントンまで闘おうとし、民青は、あらゆる闘争を勢力拡大のチャンスとして利用し、玉砕を避けて勢力を蓄積しようとするとの違いとして受止められていた風がある。


【革共同の全学連の「国会突入事件」批判】

 なお、革共同の徳江和雄全学連中執ほか10名の中央執行委員は、12.6日「11.27闘争と今後の方針」という声明を出して、社共.総評の「議会主義」的見地からの批判を非難し、他方でブントの国会突入をも批判していた。

(私論.私観)革共同の「国会突入事件」批判について

 この時の革共同の見解の全貌は分からないが、ブントの急進主義志向に比すればかなり右派的であったように思われる。


 「国会突入事件」以降、安保闘争は急速に低迷し始める。社共両党・総評が、ブント全学連との共闘を避け始め、戦術ダウンし始めたことによる。
 11.28日、国民会議は全学連に対して自己批判を要求している。30日に開かれた幹事会は、全学連の国民会議からの離脱を求めるという社共両党の申し入れを検討している。これまで通り「統一行動に含めていく」ことを決定した。

 12.3日、総評の共闘会議、国民会議の幹事会、社会党の執行委員会が開かれている。国民会議では、共産党は社会党と共に、国会デモやるな論を執拗に主張している。

 12.10日、全学連は、1万5000名を結集し再度国会包囲デモを企画したが、社共両党・総評が戦術ダウンをし始めていたこともあって、今度は分厚い警官隊の壁の前に破れた。この時革共同も又「国会包囲.国会乱入戦術の反労働者的、欺瞞.犯罪的役割をバクロせよ」、「労働者と切り離された学生の国会乱入、極左戦術と闘え」として全学連のブント指導を批判していた。してみれば、全学連はまさに孤高の急進主義運動を担っていたことになる。この後暫く安保闘争は鳴りを潜めることになった。

 12.25日、安保国民会議全国代表者会議開催。地評代表のいくつかは「調印阻止闘争無しに、安保闘争はありえない。ゼネストを基礎に羽田実力阻止」を主張したが、総評が強硬に反対し、共産党もこれを支持した。結局「羽田動員中止」方針が12.26日の幹事会で決められた。この時太田総評議長は、「宮顕だけには話がついている」と語っている。
(私論.私観)太田総評議長の「宮顕だけには話がついているなる裏話」について

 こういうところが考察されていないが有り得る話であり、この時「どういう話がついていたのか」に興味が注がれる。


 いよいよ60年が明けた。政府は、スケジュール通りに日米安保条約改定交渉を詰めていき、日米安保条約の改定問題が政局浮上し始めた。

  59年から60年にかけて、日米安保条約の改定問題が、次第に国民的な課題となって押し出されつつ急速に政局浮上しつつあった。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。そういう面もあったが、新安保条約が、米軍の半永久的日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で、戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条に違背するものでもあった。この時岸首相は、ここのところの論議を避けて強権的に日米安保条約の改定に向かおうとしていた。これが反発を余計に生んでいくことになった。

 藤山外相とマッカーサー大使の間の日米安保条約改定交渉は1.6日に終了し、岸首相が渡米して調印するばかりとなった。仮に無事調印されたとなると、内閣の責任によって外国政府との間で締結した条約案はその時点で有効である。国会には「修正権はない」とするのが通説であり、承認するか、しないかの二者択一しか権能は無い。さて、どうするかということが課題となって急速に浮上した。


 岸首相の訪米を廻って、これを阻止するのか、遣り過ごすのかが問われることになった。日本左派運動の各界各層が如何に言説したか。特に、日共の詭弁を弾劾せねばなるまい。
 安保改定阻止国民会議は、いったんは「大規模なデモで岸以下の全権団の渡米を阻止する」羽田動員方針を決めながら、二日前になって、社共両党.総評幹部などの判断でそれを取り消し、盛り上がる下部を押さえにかかった。昨年末の「11.27の国会乱入を再現しては困る」配慮からであった。

 この背景には、野坂・宮顕コンビの率いる日共が羽田動員闘争に反対指導し始めた事情があった。党中央は、金属執行部の党員を呼びつけて「総評が本気になって、第二地評をつくろうとしているから、跳ね上がるべきでない」と恫喝をかけ、そうした変調指導で金属協議会、地区共闘がガタガタに切り崩された。された。結局、日共と総評が羽田動員に尻込みし始め、国民会議幹事会で否決されることになった。

 東京共闘会議は1.12日に羽田抗議集会実行委員会を結成することを決めた。この決定は社会党の浅沼らに伝えられたが、彼は、「党としては、国民会議の線をはずれることは出来ないが、議員個人が大衆と結びついて活動するのは当然だ。大いにやってくれ」と激励した。次に述べる共産党の対応に比べると、社会党のらしき良さであったと云える。


 総評も羽田闘争の取り組みの中止を機関決定した。革共同も社学同反対派の名で羽田動員に反対した。

【この時の日共の態度】

 1.14日アカハタは、「16日にはデモの形で羽田動員を行わないとする国民共闘会議の決定を、これを支持する我が党の方針は、多くの民主勢力によって受け入れられている」声明を発表している。

 1.16日、岸全権団の渡米阻止のための大衆運動計画が立てられるや、党中央は、信じられないことだけども、岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて、全都委員・地区委員を動員して、組合の切り崩しをはかったという史実がある。「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」(アカハタ.60.1.13)という詭弁を弄し、穏和な送り出し方針をいち早く打ち出している。

(私論.私観)宮顕の典型的な詭弁ヌエ論理について

 考察されることが皆無であるが、この時のアカハタ主張「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」とは何という詭弁だろう。@・選出代表団で、A・秩序整然とくれば何もしないという意味である。ところが、B・人民の抗議の意志を彼らにたたきつけることとなる。つまり、言葉尻だけの戦闘性であるが、この調子のペテン論理に騙されてきたのが宮顕党中央内の党員であるということになる。


 ブントが唯一、「岸渡米阻止羽田闘争」に決起した。今から思えば、「かの時代の凄まじいエネルギー」であった。

 この時、ブント―全学連指導部は必死になって情勢を読み、見通しを論じた。戦術如何では全学連内に分裂傾向が深まることもあり得た。しかし、ブントは決断した。「社共の裏切りが大衆的な怒りを呼び起こしている現状では、何をやっても『浮き上がる』恐れはない。最高の闘争形態をとるべきだ。ブントが全員逮捕されても、それは安保闘争を進めることになっても、停滞させることにはならない」と結論した。この時のことを島氏は、後年「全国各地から同盟員を集め、殆ど組織を裸のままぶつけたこの闘い」、「それは従来の常識からすれば冒険主義と非難されるに値するものであったろう」、「左翼公式戦術から見るなら邪道そのものであった」とも述懐しているが、この時ブントはまなじりを決したのである。

 こうして全学連は、社共の見送り方針を一顧だにせず、岸渡米阻止羽田闘争を独自行動として取り組んでいくことを決定し、日共・民青の動きをはねのけて都内各自治会に緊急動員指令を発し、15日夕から全学連先発隊約700人が羽田空港ロビーを占拠、座り込みを開始するという「羽田デモ事件」を起こした。警備側との動員競争でもあった。7時過ぎには、空港ロビーに「共産主義者同盟東大細胞」などの旗がなびき、デモが渦巻いた。後続部隊も続々と羽田へ羽田へと向かった。「春闘には絶望あるのみ、一切の展望は1.16の羽田から切り開かれる」という決意の下になだれこんでいった。これに対し、午前3時2000名の機動隊が突撃した。この闘争で唐牛委員長、青木ら学連執行部、生田・片山・古賀らブント系全学連指導下の77名が検挙された。樺美智子も逮捕されている。

 
朝5時半、更に増えた学生と労働者は約2000名となり、振り出した雨の中を第一京浜国道で激しくデモを展開した。これに機動隊が突っ込み夜明けの乱闘となった。多数の負傷者が出た。この間岸首相は裏側通用門から空港に入り飛び立った。以上が概略である。


【ブント書記長・島氏の「岸渡米阻止羽田闘争総括」】
 ブントの指導者・島氏は次のように総括している。
 「我々だけが日和見的な日共と国民会議を乗り越えて戦い、岸渡米に打撃を与えた」。
 「全く新しい大衆闘争の現出だった。明らかに私たちブントの闘いによって、政治にとって、安保闘争にとって、人民運動にとって流動する状況が生まれたという確信である。長らく社・共によって抑圧されていた労働者大衆が、これをうち破った全学連の行動を通して、新しい政治勢力としてのブントの像をはっきり見たに違いないという実感である」。
 「私達は、政治というものが、決して政治家の予測するような漸進的な仕方で動くものではないことを知っていた。政治が流動化するとき、常々は保守的な大衆がいったん動き出した時、それはいかなるものをも乗り越えて進むものだと云うことを確信していた。この機会を逃すような政治組織、自らの勢力拡張の為にのみ闘いを利用し、それを押し止めたり、おののいたりするような既成政党−まさにこのようなものに反逆すべしして私達の組織をつくったのだ。だからこそ、大衆の流れがまさにせきをきって迸(ほとばし)らんとするとき、私達は賭けたのだ。これに堪えられぬ組織は、それだけで死に値するものなのである」。

 「あれほど慎重で思慮深く、10年間党指導者としていつも大衆を扇動しながら一度も逮捕されたことのない生田が、羽田闘争では『絶対にパクられるな』との指導部の決定もどこへやら、いい気になってデモ隊に加わり、挙げ句はジュズつなぎになって生まれて初めて豚箱に入る破目になったのも、偶然とは思えない。それまでの彼の思慮を踏みにじってしまうような熱気が、自分の中に涌いてくるのを抑えることが出来なかったのであろう」(「生田夫妻追悼記念文集」)。
(私論.私観)「ブントの岸渡米阻止羽田闘争総括」について

 「ブントの岸渡米阻止羽田闘争総括」の是非は、当時の渦中のものにあっては判断留保する以外無かったかも知れない。しかし、その後の歴史は、この時の島氏の総括の的確さ、鋭さを浮き彫りにさせている。

 なお、この羽田闘争こそが、その後の全学連の行動類型を定めることになった、つまりヒナ型になったという点で見逃すことが出来ない。

【「羽田デモ事件」に対する世論、各界の反応】

 たちまちにして「世論」はこの全学連の闘いを袋たたきにした。良識左翼人は、「赤い雷族」と批判した。マスコミからも「ハネ上がりども」(毎日新聞)、「革命気違いども」(読売新聞)、「赤い暴れん坊」(日経新聞)、「ヤクザ学生運動家」(朝日新聞)、「政治的カミナリ集団」(週間朝日)、「角帽革命の参謀本部」(週間読売)等々と酷評された。

 社会党・総評は、統一行動を乱す者として安保共闘会議から全学連排除を正式に決定した。羽田事件後、日共は、全学連を「トロツキストの挑発行動・反革命挑発者・民主勢力の中に送り込まれた敵の手先」として再々度大々的に非難した。革共同も、「一揆主義・冒険主義・街頭主義・ブランキズム」などと非難している。

 他方、一部の知識人からは、全学連が突出させざるを得なかった既成組織の指導性の無さに目を遣る指摘も為されていた。中でも清水幾太郎氏は、全学連を安保闘争の「不幸な主役」と命名し、「全学連のおかげです」と発言して熱烈なエールを送った。


 「ブントの岸渡米阻止羽田闘争」に対して、日共は口を極めて罵倒し続け、中共は反対に好意的に論評するという構図がここでも見られた。
 1.23日、アカハタは、「トロツキストの挑発と破防法による弾圧企図について」という長文論文を発表し、概要「羽田におけるトロツキストの挑発行動は、破防法を政府が改めて持ち出し、民主勢力を弾圧する道具に使う口実を与えた」として全学連を攻撃した。

 1.24日、人民中国外交部は、「軍事同盟条約の調印は、日本軍国主義が既に復活したことのしるしであり、日本が既にアメリカの侵略的な軍事ブロックに公然と参加したことのしるしである」と論評した。

 日共は、逮捕されたブント全学連活動家の救援活動に立ち上がった知識人達に「裏から」恫喝を加え、切り崩しを図っている。「日共の陰険姑息な救援敵対活動」のその後の原型が見られる。
 知識人によって羽田事件の逮捕者の救援運動が始められるや、党中央は、逮捕された学生の救済を拒否し、弁護士の支援活動を制約した。発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかり、関根・竹内・大西・山田・渋谷などの人々が発起人を取り下げざるをえなくされた。これらの知識人は後々党中央に対する激しい批判者となった。

 ワシントンで、日米新安保条約が調印された。

  1.19日、日米新安保条約がワシントンにおいて、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印された。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為のものと宣伝した。新条約は有効期限を10年間と定め、日本の自立を認めた上で「アメリカ陣営内における集団的自衛」をうたっていた。さらに、旧条約が内乱や騒擾鎮圧に関して米軍の出動を規定していたのを改めていた。独立国家の面子に関わる規定であったので削除した。しかし、調印された新安保条約は、米軍の日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという面も持っており、この部分が岸の高圧的な政治姿勢と重なって国民に不安を与えることになった。

 この条約を客観的に見た場合、51.9月の吉田首相の調印した条約の是正に功があり、より相互性を持たせたものであった。とはいえ、日米軍事同盟化の是非を問えば、明らかに戦後憲法の指し示す理念からの逸脱であった。米側の日本防衛義務と日本側の呼応義務が明記されていたが、この規定の一人歩きを危惧すれば「戦前への舞い戻り」事態まで予見された。かくて、「日本が戦争に介入ないし巻き込まれる危険性が増大」したと判断されることになった。

 以降、日本左派運動は、調印阻止から批准阻止へと、その目標をシフト替えしていくことになった。


 日共の対応に党内批判が相次ぎ、離党.脱党が相次いだ。
 この頃党内では、党の安保闘争の指導ぶりをめぐって論議が巻き起こり、党中央批判が展開された。日本の左翼運動の歴史において、はじめて党の権威を全く無視した自由な論議と批判が展開された。

 1−2月、共同印刷.鋼管川鉄と並んで三大拠点細胞とされていた三菱長崎造船所細胞の大多数が離党した。その中心分子は、共産党は今や理論的にも実践的にも革命政党としての失いつつあると宣言。自ら「長崎造船社会主義研究会」なる自立組織をつくり、ブントへの結集の動きを見せ始めた。こうした現象は中央から地方に、インテリ党員から労働者党員へと急速に広がり、学生細胞・全国有力大学の学者党員・官公労民間経営から離党・脱党が相次いだ。こうした現象は中央から地方に、インテリ党員から労働者党員へと急速に広がり、学生細胞.全国有力大学の学者党員.官公労民間経営から離党.脱党が相次いだ。


 社会党右派が脱党し、民社党を結成した。

 この頃の動きは次の通りである。1.24日岸全権団が帰国。自民党が1万5000名で歓迎集会を開いている。この日東京.九段会館で社会党右派の西尾末広らが社会党を離党し、新党として民主社会党(民社党)が結成されている。委員長に西尾末広(69才)を選出。社会党内右派の西尾派と河上派の一部が集まっていた。民社党は、「資本主義と左右の全体主義と対決する」という綱領を掲げ、実践的には「マルクス主義と一線を画して議会政治の徹底」を意図し、衆院38、参院16の勢力で発足した。学生組織として「民主社会主義研究学生連合」が結成された。 

 西尾氏は、「民主社会主義の理想を実現する政党、現実政治を担当する政党として速やかに成長しなければならない。同志諸君と共に5年以内に民主社会党の政権を樹立することを誓いたい」と宣言した。十日後の2.3日の結党記念講演では、「政権を取らない政党はネズミを取らないネコと同じだ。我々は無産党的な社会党のカラを破って国民勤労大衆のための国民政党になる自信がある」と、政権獲得への強い意欲を表明した。後に第7代委員長の大内啓吾氏は、「野党は抵抗政党と言われた頃、我々は政策でリードしようと思った。互角の政策を持った政党同士が競わなければ、本当の民主政治は実現しない。日本はまだ、その手前だ。西尾先生の思いは今も生きている」。

 この時のどの時点でかは不明であるが、社会党の佐々木更三委員長は、階級的政党を自認し、社会主義革命を目指しており、「民社党が働く人の力を弱めている。『国民政党』とは無性格であり、資本主義体性内の政党、第二保守党的だ」と批判している。

(私論.私観)民社党の党是的評価とこの時期に結成された背景、左派運動史的意味について

 大内啓吾氏の言にある如く、「政権与党を狙う左派政党の民主政治的意義による民社党の党是」評価はあらためて検証されねばならないと思われる。問題は、こういう政治的エポック期を前にしての社会党の分裂化の流れであり、これを自然な流れと見なすよりも、これを誘導した当局の意図をも見なければならないと考える。明らかに計画的に作り出された社会党のひいては安保反対闘争の弱体化政策であった面もあるように思われる。

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように見ている。「1955年の社会党の統一は左右両派の全く無原則的な野合であり、両派の対立がいつ吹き出して再び分裂してもおかしくない党内事情にあった。果然、安保闘争をめぐって安保・自衛隊容認の最右翼・西尾派が脱党、60年1月には民社党(衆院41名、参院18名)を旗揚げした。民社党がその後、支持母体の同盟とともに、資本の労働者支配の先兵の役割を果たしてきたこと、そして今では旧社会党右派のクズどもと一緒になって民主党に転がり込んでいることは周知の通りである」。



 「安保国会」が幕開けした。特に社会党の追及が懸命に為されていることが評価されよう。

 2.2日に「安保国会」が幕をあけた。2.5日新安保条約が国会に上程され、2.11日衆議院に日米安保特別委員会が設置され審議が始まった。討議は条約の基本的性格、相互防衛義務、事前協議、条約区域、極東の範囲、沖縄問題等々、広汎に進められた。野党側が鋭く政府を追及し、特に事前協議において、日本が戦争に巻き込まれるのを防ぐことができるのか、日本側に拒否権が認められるのかという問題が論議の中心となった。しかし論議は平行線で噛み合わなかった。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げていくことになった。

(私論.私観)「当時の大衆闘争と議会闘争の結合ぶり」について

 恐らく、「当時の大衆闘争と議会闘争の結合ぶり」は理想的なものであっただろう。



 ブントが全学連執行部を名実共に掌握し、唐牛委員長を再選し「60年安保闘争」を戦い抜く体制を整えた。但し、情況が要求していたとはいえ、この時導入された暴力的手段による他党派排除システムが瀰漫していくことになる。惜しむらくは、「非常時論理」を生み出し得ず、「恒常的力の論理」を扶植したことであろう。

 2.9日、社学同第5回全国大会。2.28−29日全学連第22中委が開かれている。この時革共同派の8名(革共同関西派中執)の中執が暴力的に罷免され、中執はブントによって制圧された。1.16日の羽田闘争のボイコットに対する責任追及であったようである。この時点での全学連内部の勢力比は、ブント72、民青同22、革共同関西派16、その他革共同全国委・学民協とされる。

 3.16−18日、「全学連第15回臨時大会」が開かれている。先の羽田闘争での逮捕からの保釈を待って開催された。大会はのっけから、全学連主流派と民青同系、革共同関西派系との間の深刻な対立で始まった。代議員の色分けは、主流派が約270名、反主流派が約230名だったと言われている。いわば真っ二つに割れる拮抗関係になっていた。全学連中執は、民青同系の東京教育大、早大文学部などの代議員に「加盟費未納」を理由に資格を取り消し、入場を実力阻止した。

 これに抗議した民青同系、これに革共同関西派も加わり衝突が引き起こされた。こうして開会前から会場外で乱闘が始まった。こうして、民青同系と革共同関西派の反主流派の代議員231名(川上徹「学生運動」では代議員234名)を会場外に閉め出した中で、大会を強行した。会場内の中の主流派代議員261名(〃代議員は181名)であったという。

 結果、「全学連第15回臨時大会」は、全学連におけるブントの主導権を固め、「国会突入、羽田闘争を中心とした全学連の行動はまったく正しい」と評価し、唐牛委員長を再選した。大会は、当面のスケジュールを国民会議の第14次.15次統一行動にあわせ、4.15日に国会請願デモ、20日に全国ストライキ、「4.26日に全国ゼネストと国会デモ」等の方針を決定した。特に4.26日を「全学連の運命をかけて闘う」と決定した。この時島氏が挨拶に立ち、渾身の力を込めてブントの安保闘争への決意を表明した。

 (私論.私観)「この時の意見の相違を暴力的に解決した悪しき先例」について

 この大会開催に先立っての会場付近での主流派対反主流派の衝突は、反主流派の代議員231名をして大会ボイコット→独自集会を結果させ、後の全学連分裂を準備させることになった。してみれば、この大会は学生運動至上汚点を残したことになる。当時のニューマが分からないが、一般論で言えば次のように云えよう。「意見の違いを暴力で解決することと、少数派が多数派を閉め出したことにおいて、悪しき先例を作った訳である。この時点では、全学連主流ブント派は、明日は我が身になるなどとは夢にも思っていなかったと思われる。私見であるが、左翼運動の内部規律問題として、本来この辺りをもっと究明すべきとも思うが、こういう肝心な点について考察されたものに出会ったことがない」。



 日共が漸く「60年安保闘争」に本格的に参戦する。しかし、統制的右派系穏和運動を推進していくことになる。してみれば、日共の参戦は、運動の盛り上げに資した面と抑制に機能した面との両面からの考察を要する。

 4.17日党主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」を開いている。注意すべきは、歴年党員の語り草に水を差すようであるが、日共の「60年安保闘争」はこの時点から号令一下本格的に稼働したとみなすべきで、総評・社会党・全学連による運動の盛り上がりを見て「バスに乗り遅れじ」とばかり参入したというのが史実であることを確認しておきたい。

 とはいえ、党がひとたび動き始めると行動力も果敢で、この時期より全国1700共闘組織の64パーセントまで正式加入してたちまち指導権を強めていくことになった。党は、中央段階ではオブザーバーではあったが、地方の共闘組織では社会党と並んで中心的位置を占め指導的役割を果たしていくことになった。


 日共の本格的な「60年安保闘争参戦」は運動のしかし、善し悪しは別にして、党の前述した統一戦線型の幅広行動主義によるカンパニア主義と整然デモ行動方式が、戦闘的な学生・青年・労働者の行動と次第に対立を激化させた。全学連指導部は、共産党中央の指導するこうした「国会請願デモ」に対して、「お焼香デモ」・「葬式デモ」の痛罵を浴びせていくことになった。


 提唱者その他由来は分からないが、この頃から「国会請願デモ」が組織されていくようになる。

 4月からは全国の地域安保共闘組織を総動員して、波状的な国会請願デモを開始した。党は全国1700共闘組織の64パーセントまで正式加入して指導権を強める。戦闘的な学生.青年.労働者の行動と党の幅広行動との対立次第に激化する。東京では全学連から「お焼香デモ」の非難の声があがる。「署名など山ほど積み上げようと、岸は何の痛痒も感じない。お焼香デモ反対」というスタンスだった。 

 4.15日第15次統一行動。全学連1500名が国会デモ。地下鉄議事堂前駅から請願デモに移ったが、機動隊に阻まれ、特許庁下まで押し返されている。

(私論.私観)社共系請願運動について

 田川和夫氏は著書「日本共産党史」の中で、社共系請願運動について次のように批判している。「最終局面に入った安保闘争は、『統一行動の拡大』という美名にかくれて無意味な請願と署名にエネルギーを分散させられ、批准阻止の決定的段階に至っても4.26請願行動に代表されるごとく、ブルジョアジーに何らの打撃をも与えない長蛇の列を続けることによってお茶を濁そうととしていた」。

 知識人グループの代表者・清水幾太郎氏らが「今こそ国会へ−請願のすすめ」を呼びかけ、大学からも「安保反対声明」が出される。
 この頃清水幾太郎らの呼びかけがなされている。清水氏寄稿「世界5月号『今こそ国会へ−請願のすすめ』」は、概要「今こそ国会へ行こう。北は北海道から、南は九州から、手に一枚の請願書を携えた日本人の群が東京へ集まって、国会議事堂を幾重にも取り巻いたら、また、その行列が尽きることを知らなかったら、そこに、何ものにも抗し得ない政治的実力が生まれてくる。それは新安保条約の批准を阻止し、日本の議会政治を正道に立ち戻らせるで有ろう」と檄を飛ばしていた。

 4.20日不発。東大教授ら353名、安保反対の声明。

 ブント書記長・島氏が「3千名蜂起説」呼号する。この大会に、日共港区地区委員会の主要メンバーが合流する。

 4.24日ブントの第4回大会が開かれている。この時島氏の書記長報告がなされた。「3千名蜂起説」、「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」、「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」と後年言われる演説がぶたれたと言う。

 この大会に向けて党の港地区委員会が臨時地区党会議を開き、ブントとの合流を正式に決定、地区委員会の解散を決議している。この流れをリードした山崎衛委員長・田川和夫副委員長の両地区委員はこれより早く党から除名されている(「アカハタ」59.12.16)。


 日共・民青同系全学連反主流派が、全学連の分裂策動を開始する。つまり、肝心なときに反革命的な動きをしている。これを差し金したのは当然、宮顕―野坂スパイ連合派に占拠された日共党中央である。

  4.25日民青同系全学連反主流派は、まず東京都において「東京都学生自治会連絡会議」(都自連)を発足させている。以降民青同系は、「60年安保闘争」を「都自連」の指導により運動を起こすようになり、安保改定阻止国民会議の方針に従い、統一戦線を守ることを宣言し、全学連指導部を挑発的と批判し、「単独国会デモ」に反対していくことになった。

(私論.私観)この時期の民青同系の全学連分裂策動について

 この経過は民青同系指導部の独自の判断であったのだろうか、党の指示に拠ったものなのであろうか。答えは明瞭であり、宮顕の指示によったものと推定できる。この時全学連運動内部の亀裂は深い訳だから、非和解的な運動スタイルの違いを原因とするのならもっと早く自前の運動を起こすべきであったかであろう。最もいけないことは、60年安保闘争がピークに向かうこの時の分裂策動であろう。我々はこういうことをこそ総括しておく必要があると思われる。


 日共が、「整然秩序的請願デモ規制」し始める。

 4.26日第15次安保阻止全国統一行動。10万人の国会請願運動が行なわれた。この時国民会議は700名の警備隊を繰り出して、デモ隊から赤旗.旗ざお.プラッカードなどを取り上げ、整然秩序たった請願デモを行った。4.27日のアカハタは、「国民会議の方針に従った統一行動には一指も触れることが出来なかった」と持ち上げている。

(私論.私観)安東氏の貴重な証言
 
 
この頃の共産党の指導について、安東氏が貴重な証言を残している。「私たちは、情けない役割を押し付けられることがしばしばであった。例えば、国会周辺のデモ行進の中で私たちのスクラムは機動隊でも右翼でもなく、トロツキストに向けて組まされるという場面もあった。そのいつの時であったか、私は国会図書館の傍で彼らの『襲撃』に備えたデモの隊列の中にあった。坂を上がってきた彼らの先頭に立っていた顔見知りの小島弘(明大出身の全学連中執)に目と鼻の先まで接近され、散々にからかわれた恥ずかしさは忘れられない」。

 概要「トロツキストに対する弁護拒否の問題で袴田とやり合うということがあった。弁護拒否とは、『トロツキストの弁護を党員弁護士は拒否せよ』という中央の決定である。あまりといえばあまりなこの決定に対して私は抗議し、都委員会の二回で袴田と大声を出し合った。『プロレタリア・ヒューマニズムとはそんなケチなものなのか、戦前の悲惨な弾圧の中で生まれた救援活動の原則とは何であったのか、驚くべき冒涜である、発言を取り消して貰いたい』。袴田は沈黙せざるを得なかった。この異常とも云えるトロツキスト攻撃が6.15の樺美智子の死に対する非人道的扱いにつながったのである」。


 「お焼香国会請願か、戦闘的国会デモか」。ブント全学連が、警官隊と衝突辞さず闘争に突入する。この時より、民青同系が別行動に移る。

 この時、全学連主流派.反主流派ともデモの動員合戦を競った。全学連主流派は、この時「お焼香国会請願か、戦闘的国会デモか」と問題を提起し、「闘わない国民会議を乗り越えよ」とアジった。全国82大学、20数校の全学スト.授業放棄で25万名参加、都内ではチャベルセンター前に全学連7000名が結集し、警官隊と国会正門前で激しく衝突した。東大教養学部3000名の学生が参加していた。

 全学連委員長唐牛は、自ら警官隊の装甲車を乗り越えて、「障害物を乗り越えて、国会正面前へ前進せよ」とアジり、国会正門前に座り込みを貫徹した。こちらの隊列に加わっていた都自連活動家はこうした唐牛委員長らの挑発阻止の為に立ち塞がった。この闘争で唐牛委員長、篠原浩一郎社学同書記長ら17名が逮捕され(この結果、唐牛.篠原は11月まで拘留される事になった)、100名の学生が重軽傷を負った。京都でも、京大が「昭和25年のレッド.パージ反対闘争以来、10年ぶり」に時計台前集会に約1500名を結集し、府学連主催の円山音楽堂での集会には3500名の集会を開いている。この日韓国の首都ソウルでも、学生を先頭に50万人のデモがあり、その為に翌27日李承晩大統領が辞表提出へと追い込まれている。

 注目すべきは、この時より全学連反主流派民青同系学生1万1千余は別行動で国民会議と共に国会請願運動を展開していることである。つまり、全学連の行動における分裂がこの時より始まった事になる。


 韓国でも激しいデモが巻き起こり、李承晩政権が打倒される。

 4.19日南朝鮮ソウルで、「李承晩政府打倒」を要求する人民蜂起が起こっている。戦いの火蓋を切ったのは学生たちであったが、蜂起は燎原の火のように全土に広がった。

 4.26日この時、期軌を一にして韓国でも李承晩政権打倒の闘争が最高潮に達し、ソウルでは学生、教授団を先頭に50万人の大デモが、警官隊の発砲を省みず大統領邸に押し寄せた。翌4.27日李承晩は国会に辞表を提出し、独裁政権に終止符が打たれた。

(私論.私観)「日韓政治闘争の連動性」について

 この観点から運動が展望されることが望ましいということだろう。

 総評が左右にぶれながらも次第に政治闘争化を強める。
【5月頃の動き】

 4.30日、総評は緊急評議員会を開き、社会党の方針に添って「連日5000名以上の請願行動」及び5.12日の各単産一斉の時限ストを決定した。しかしこのあとまたガタガタして方針がぶれている。

 5.1日、第31回メーデー。安保粉砕、国会解散、岸内閣退陣の要求を掲げて500万の戦後最高の大デモが全国各地で行われた。

 5.9日、北京で「日米軍事同盟に反対する日本国民支援」の100万人集会。

 5.12日、第16次全国統一行動。460万の参加。ストライキ、職場集会、デモ、請願書名運動が展開された。この頃連日数万の国会請願デモ続く。三池炭鉱でスト中の第一組合員に警官隊が襲撃し、5度目の大流血事件が発生している。180名が重軽傷。読売新聞は「石は飛び警棒うなる」と伝えている。

 5.13日全学連2000名が結集、昼夜をかけて国会デモ。

 5.15日、日共党中央主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」開く。


 万余の労学が夜を徹して国会を包囲し、安保採決阻止闘争に入る。
 衆議院での安保条約承認採決を阻止しようとして連日のように数万の国会デモが続いた。5.17日、自民党、安保成立のため50日間の会期延長と衆院の早期通過の方針決める。
 5.18日、衆院の情勢を警戒して社会党が非常態勢をとる。安保条約採決日の5.19日、国会は1万人のデモ隊で包囲されていた。

 この時、社会党、共産党、国民会議は、国会周辺を取り巻く万余のデモ隊に知らせていない。5.20日零時30分過ぎデモ隊は三度第一議員会館前に終結したが、デモ隊の中から「会期は延長されたし、新安保も通ったというのに、なぜ知らせないのだ」と非難の声があがっている。暫くして後、社会党書記長江田、委員長鈴木、共産党の野坂らがやってきて、民主政治の大切さ、安保条約の通過を認めないなど分けのわかりにくい説明をし始め、「明日からの闘争に備えての解散」を呼びかけている。デモ隊はこれを聞かず午前3時30分まで国会前に座り込み、最後まで残った労学5000名余は国会周辺で警官隊と小競り合いしながらジグザグ.デモを繰り返した。


 政府自民党が、新安保条約を強行採決する。
 5.19日、政府と自民党は、安保自然成立を狙って、清瀬一郎衆院議長の指揮で警官隊を導入して本会議を開き、会期延長を議決。この時自民党は警官隊の他松葉会などの暴力団を院内に導入していた。11時7分頃、清瀬議長の要請で座り込みをしている社会党議員団のゴボウ抜きが強行された。

 会期延長に続いて、深夜から20日未明過ぎにかけて新条約を強行採決した。採決に加わった自民党議員は233名、過半数をわずか5名上回る数で、本会議に於ける審議は14分という自民党のファッショ的暴挙であった。「安保はゆっくり、会期延長さう決まれば、それでいい」というのが事前情報であの、この時の強行採決は抜き打ちであった。岸内閣からすれば、6.19日にアイクの訪日が決まっており、諸般の情勢から止むにやまれない措置でもあった。

 大衆憤激、反安保闘争沸点化する。

 この経過が報ぜられるに連れて「岸のやり方はひどい」、「採決は無効だ」、「国会を解散せよ」という一般大衆にまで及ぶ憤激を呼び、この機を境にそれまでデモに参加したことのない者までが一挙に隊列に加わり始めた。パチンコしていた連中までが打ち止めてデモに参加したとも言われている。「岸内閣打倒」、「国会解散」のスローガンが急速に大衆化した。夕刻から労・学2万人国会包囲デモ。「18日の夕方から文字通りハチ切れそうに膨れ上がった国会周辺の人波、シュプレヒコールの交錯、その向こうに黒潮のように延々と連なる座り込みの学生達」(丸山眞男寄稿中央公論『8.15と5.19』)と、当日の様子が伝えられている。

 この日を皮切りに、「アンポ反対」の声から「民主主義の擁護!岸内閣打倒!国会解散!」に変わった。これより1ヶ月間デモ隊が連日国会を取り囲み、「新安保条約批准阻止・内閣退陣・国会解散」のための未曾有の全国的な国民闘争が展開していくことになった。


 昂揚局面を迎え、この肝心の局面で「レーニン不在、前衛党不在」が露呈する。
【ブントの「読み誤り」】
 こうした流れについて、ブントも読み誤ったようである。川上氏「学生運動」に拠れば、全学連中執は、5.19日の晩の新安保条約批准の報を知るや「安保敗北宣言」を出しているとのことである。早稲田大学新聞5.25日号一面トップの見出しは、「新安保、何が通過を許したか」、「安保闘争の挫折と国民会議の歩んだ道」、「挫折は戦後労働運動指導の集大成」、「今こそ指導層の告発を」となっており、「敗北」感が色濃く打ち出されている。こうした首都東京の「敗北の早さ」に対して、「いつも半年から一年遅れて力を出すが、みじめに失敗する」(大島渚の談)京都では引き続きの闘争をアピールしていた。ここで付言すれば、安保闘争後の総括も追ってみることになるが、敗北感に沈み込む東京と、粘り強さを見せる京都とが違いを見せることになる。

 ところが、まさにこの時より事態は大きく流動化し、「労働運動指導部が、民主主義擁護と国会解散を掲げて、大きくプロレタリア大衆を動かし出した」のである。ブントにとっても「事態の後に追いついていくのが精一杯」という意想外のうねりをもたらしていたようである。

 全学連が首相官邸に突入。但し、統一的な戦術指導為しえず。但し、情況は更にヒートアップする。
 5.20日全学連、全国スト闘争、国会包囲デモに2万人結集。抗議集会後渦巻きデモに移った。7000名の学生デモ隊の一部約300名が首相官邸に突入。「全学連の清水書記長が首相官邸と自民党へ果敢なデモを行おう」と提案し、歓呼の声をあげながら「そのまま、駆け足で首相官邸へ向かった。アワをくった警官隊が門を閉めようとしたが、300人ほどが中庭に入り込んだ」。武装警官隊の排除が始ったが、この時の乱闘で8名の学生が逮捕され、26名が病院に担ぎ込まれ、40名が負傷している。これが官邸襲撃事件といわれるものである。

 しかし、この果敢な闘争が全学連主流派の志気を高めることにはならなかったようである。この頃既に全学連主流派内に分裂が起こっており、統一的な戦術指導がなしえていなかったようである。「5.20安保強行採決を境に、日本の政治は戦後最大の山場にさしかかった。潮が上げ、出来合いのあらゆる潮流を越え、押し寄せる時、この既成潮流を叩き潰すためにこそ誕生したブントも、潮そのもののなかで辛うじて大衆と共に浮沈する存在でしかなくなっていた。統一など既になかった」(島「文集」)。

 大学教授団による「強行採決批判声明」が全国各地で相次ぐ。
 5.6月に入るや知識人・学者・文化人らの動きも注目された。5.20日、九大の教授、助教授86名が政府与党の強行採決に反対して国会解散要求声明を発表した。大学教授団によるこの種の声明が全国各地で相次いだ。竹内好・鶴見俊輔らは政府に抗議して大学教授を辞任した。これらの知識人の呼応は「民主主義」を守る立場からのものであり、全学連主流派の呼号する「安保粉砕.日帝打倒」とは趣の違うものであったが、こうして闘争が相乗する流動局面が生まれて行くことになった。

 全国各地からデモ隊が上京し始め、十万余規模の国会包囲デモが連日うねり始める。

 5.21日、全国各地からデモ隊が続々上京し始める。

 5.26日安保改定阻止国民会議第16次抗議デモ、17万余が国会包囲デモ、「岸内閣打倒、国会解散」行動に入る。。全国で200万の大衆が一斉に行動を起している。国会包囲デモは、「デモ隊は果てしなく続き、林立する赤旗、プラカードの数は刻々と増えていった。‐‐‐どの道も身動きできない」(朝日新聞)有様であった。全学連デモ隊は激しくジグザグ.デモを繰り返す中で、社共の議員や幹部は閲兵将軍のように高いところから「アリガトウゴザイマス、ゴクローサンデス」と繰り返していた。


 この時の宮顕の反動的言辞に注目せよ。
 この夜、NHKはデモの実況とともに、共産党書記長宮顕の「今のところデモは整然と遣っているけれども、行き過ぎの行動の起こる恐れがあるので、そういうことのないように努力している。デモは恐らく整然と終わるだろう」を放送している。

 岸首相の「声無き声」発言が物議を醸す。

 5.28日、岸首相は記者会見で、「現在のデモは特定の組織力により、特定の人が動員された作られたデモである。私は一身を投げ出しても暴力で危機にさらされている我が国の議会制民主主義を守り抜く考えである。現在のデモは『声ある声』だが、私はむしろ『声なき声』に耳を傾けたい」。以降、デモ隊の中に「声なき声の会」ののぼりが登場することになった。


 日共より「選挙闘争の枠内運動化」方針が出される。
 5.31日、党の幹部会が、「国会を解散し、選挙は岸一派を除く全議会勢力の選挙管理内閣で行え」声明を発表。何とかして議会闘争の枠内に引き戻そうとさえ努力している形跡がある。この反動的狙いが疑惑されねばならない。

 社会党が「議員総辞職」方針決定。
 6.1日、社会党代議士が 議員総辞職の方針を決定、同時に第一次公認候補者を発表した。日共がとめどない右傾化を強めるだけに、社会党は日和見的ながらもむしろ左派的な立場に移行したことになる。

 吉本隆明氏らが全学連・ブントと行動を共にし始める。他方、右翼も阻止行動に入り始める。
 吉本隆明氏らは6月行動委員会を組織、全学連・ブントと行動を共にした。日高六郎.丸山真男らも立ち上がった。「アンポ ハンタイ」の声は子供達の遊びの中でも叫ばれるようになった。他方、児玉誉士夫らは急ごしらえの右翼暴力組織をつくり、別働隊として全学連を襲う計画で軍事教練を行ない始めた。

 ブントが国会突入作戦を準備し始める。首相官邸に再度突入する。
 ブントは、あらゆる手段を用いて国会突入を目指し、無期限の座り込みを勝ち取る方針のもと、大衆的には北小路敏全学連委員長代理をデモの総指揮にあて、他方ブント精鋭隊は特別行動隊を結成した。他国会突入のための技術準備も秘かに進めた。

 6.3日、全学連9000名が首相官邸に突入。学生たちはロープで鉄の門を引き倒して官邸の中に入り、装甲車を引きずり出した。警官隊がトラックで襲ってくるや全面ガラスに丸太を突っ込んで警官隊を遁走させている。乱闘は6時過ぎまで繰り返され、13名の学生が逮捕、16名が救急車送りとなった。警官隊の負傷93名と発表された。

 この頃警備側のトップ三井警視庁公安第一課長が、ブントの事務局を訪れている。「アイク訪日に対して全学連はどう動くか」の直接事情聴取であった。「『ブントは別に何もやらない。しかし、大衆の怒りがどう爆発するかは、分からない。統制ある指導をしたいと思っても、4.26以来、ブントの幹部はほとんどパクられているじゃないか。連中を早く返せ』といってやった。そのせいかどうかは知らないが、つかまっていた連中のうち、唐牛と篠原以外は、全員が保釈になった」(島氏談)と伝えられている。まさに丁丁発止の駆け引きであった。

 労学のストライキ、ゼネスト闘争敢行される。
 6.4日、第17次統一行動は国鉄労働者を中心に全国で560万人が参加し、安保改定阻止の政治ストライキを打った。総評は、全国的に1時間の政治ゼネストを決行した。全学連3500名が国会デモ。この頃日共は、いち早く来日予定のアイク訪日阻止の旗印を鮮明にした。「講和後も日本は半植民地、従属国」規定からする反米独立闘争の重視であった。社会党臨時大会、総評幹事会も抗議闘争に取り組むことを決めた。


 日共内左派系が「ハガチー事件」起す。

 6.6日都自連も、もしアイクが来るなら羽田デモを敢行することを決定した。ただし、この時ブントも革共同も大統領秘書官ハガチー・アイク訪日阻止を取り組んでいない風がある。これには政治的見解の相違があるようで、「アイク訪日阻止は、安保闘争の反米闘争への歪曲」としていたようである。恐らく新左翼は、帝国主義自立論により国内の政治権力に対する闘争「復活した日本独占資本主義の打倒」を第一義としており、これに対して党は、アメリカ帝国主義下の従属国家論により、こうした反米的な闘いこそ眼目となるとしていたようである。このことは、後日田中清玄のインタビューでも知れることでもある。田中氏は、「共産党は安保闘争を反米闘争にもっていこうとした。全学連の諸君は、これを反安保、反岸という闘争に持っていこうとした。ここに二つの分かれ目がある訳です」(63.2.26.TBSインタビュー)と的確に指摘している。

  こうした中6.10日安保改定阻止第18次統一行動。全学連5000名国会包囲デモ。国民会議が国会周辺で20数万人デモ。この時ハガチー(大統領新聞係り秘書)は、羽田空港で労働者・学生の数万のデモ隊の抗議に出迎えられた。ハガチーの乗った車は、どういうわけか警備側申し入れ通りに動かず、デモ隊の隊列の中に突っ込み「事件」となった。米軍ヘリコプターと警官の救援でやっと羽田を脱出、裏口からアメリカ大使館に入るという珍事態(「ハガチー事件」)が発生した。この「ハガチー事件」は、「60年安保闘争」で見せた党及び民青同の唯一といって良い戦闘的行動であった。

 
「60年安保闘争」に関する歴年党員の語りは、もっぱらこの時のことに関連している。これ以外の面での語りは、党の指導とは関係なく「大衆的に盛り上がった」当時の雰囲気を共有するデカダンスでしかない、といったらお叱りを受けるでしょうか。なお、この時の党系戦闘的学生部隊の主力は、この後の構造改革派分離騒動の過程で党から飛び出していくことになる構造改革派系、もう一つ社青同や毛沢東派の源流になる部分であった。

 志賀義雄の「日本共産党史覚書」に拠れば、「ハガ−ティ阻止の計画は、私が長谷川浩(当時、党中央委員会青年学生部長)と相談して立案した。当時、ハガ−ティは必ずヘリコプターを使うという予想が広がっていた。現にヘリコプターが空港の建物の前にいた。しかし私は、彼が車で東京へ来るものと判断して、長谷川浩に、弁天橋上の党の精鋭部隊を直接指揮するよう依頼した。---産業道路から弁天橋へかけて、社会党系の労働組合などの部隊が密集して並んでいた。彼らは空港内の情勢を聞くに連れ、中へ入ることを希望した。橋上の共産党の部隊は道を開け、彼らは空港内へと移動した。その移動部隊へハガ−ティを同乗させた大使の車が強引に突っ込んだのが、この有名な事件の発端である」と明かされている。


 「ハガチー事件」が、ブント系全学連を大いに刺激し、闘争のエポック.メイキングに向かっていくことになる。
 共産党主導による「ハガチー事件」が、ブント系全学連を大いに刺激した風があり、以降一段と闘争のエポック.メイキングに向かっていくこととなった。全学連指導部は、「労働者のストはダラ幹によって小規模なものにされている。共産党は安保闘争を反米闘争にそらし、国民会議も右翼的なダラクした状態の中で自然成立をはばむ道は国会突入以外にない」とアジった。

 
6.11日、23万5千人が国会、米大使館へ抗議デモ。

 岸首相が自衛隊の出動要請し、防衛庁長官、陸上幕僚長が拒否する。この見識が評価されねばなるまい。
 いつの時点かはっきりしないがこの頃、岸首相はアイゼンハワー大統領の訪日に固執し、防衛庁長官の赤城宗徳を南平台の私邸に呼びつけ、アイク訪日の際の警備に自衛隊の出動を要請している。赤城は、概要「それは、できません。自衛隊の政治軍隊としての登場は、支持が得られない。リスクが大きすぎる」と答え、内閣不一致をさらけ出した。

 当時の自衛隊陸上幕僚長杉田一次は、陸幕が「アイゼンハワー大統領訪日に伴う処理要綱(案)を完成し、大統領訪日に際し、諸行事にいささかも齟齬を来たさないような態勢ができつつあった」と、治安出動を含めた諸準備が為されていたことを明らかにしている。しかし、杉田一次陸上幕僚長も動かなかった。


 全学連の先頭部隊国会南通用門に突入、機動隊と衝突。樺美智子虐殺事件発生する。

 6.15日国民会議の第18次統一行動、安保改定阻止の第二次全国ストが遂行された。この日未明から、国労.動労がストライキに入った。総評は、111単産全国580万の労働者が闘争になだれ込んだと8秒した。東京では、15万人の国会デモがかけられた。大衆は、整然たるデモを呼びかける共産党を蔑視し始めており、社会党にも愛想を尽かしていた。

 ブント系全学連は「国会突入方針」を打ち出し、学生たちを中心に数千人の国会突入が為された。この時右翼が、国会周辺でデモ隊を襲撃した。午後5時過ぎ、国会裏を通行中のデモ隊に、自称「維新行動隊」名の右翼が棍棒をふるって襲い掛かり、約80名が負傷した。これに刺激されたような形になり、先頭部隊が国会南通用門に突入突破した。京都から呼び寄せていた中執の北大路敏氏が宣伝カーに乗り指揮を取っていた。明大.東大.中大の学生が主力であった。当時のデモ隊は全く素手の集団だった。あるものはスクラムだけだった。午後7時過ぎ、警視庁第4機動隊2000名が実力排除を開始した。1500名の全学連部隊に警棒の雨が振り下ろされた。この警官隊との衝突最中にブント創設以来の女性活動家東大文学部3年生であった樺美智子が死亡する事件が起こった。

 午後8時頃、3000名の学生は再び国会構内に入り、警官隊の包囲の中で抗議集会を開いた。南通用門付近は異常な興奮と緊張が高まっていた。「社会党の代議士はオロオロするばかり。共産党幹部は請願デモの時には閲兵将軍みたいに手を振って愛想笑いを浮かべる癖に、この時は誰一人として出てこなかった」。午後十時過ぎ、再度の実力排除が行われ、警官隊は再び学生を襲撃した。都内の救急車が総動員された。この時の乱闘では死者は出なかったが、重軽傷者の数は増した。この日の犠牲者は死者1名、重軽傷712名、被逮捕者167名。

 この時都自連に結集した1万5000名の学生デモ隊は国民会議の統制のもとで国会請願を行っていた。夜11時過ぎ早大、中央大、法政大、東大などの教授たち1000名が教え子を心配して駆けつけたが、警視庁第4機動隊はここにも襲撃を加えている。現場の報道関係者も多数負傷している。

 門外に押し出された学生は約8000名で国会正門前に座り込んだ。11時頃バリケード代わりに並べてあったトラックを引き出して炎上させている。この間乱闘の最中、「今学生がたくさん殺されています。労働者の皆さんも一緒に闘ってください」と泣きながら訴えている。労働者デモ隊はそれに応えなかった。


【ブント書記長島氏のセンチメンタリズム】
 この時のことを島氏はこう記している。 「最後の土壇場となったあの闘いで、ブントは革命的学生と共に国会に突入した。そしてブント創立以来の同士樺美智子さんを喪った。勇敢な捨て身の闘いにも関わらず、叩き出され、押し出されたデモ隊は、もはや指揮官を持たなかった。夜空を焦がして炎上する装甲車を前に、なお隊伍を整えようとする学生の間にあって、生田は顔面を紅潮させ、怒鳴りながら右往左往する群集の一人でしかなかった。やがて催涙弾が投げられ、襲い掛かる警官隊に追われ、散り散りバラバラになったデモ隊が敗走していくとき、彼はこれとともに駆け逃げていく一人の市民でしかなかった。警官隊に対峙したまま常にデモの先頭でスクラムを組み、一歩もさがらず陣頭指揮をとっていた生田の姿は、ここでは見るべくも無い。そりはただに生田だけの姿ではなかった。あの闘いのブントの姿そのものであったのだ。そして、また、1960年の日本の革命的大衆の、さらには日本の左翼運動の凝縮した図ではなかったか」(「文集」)。

【社会党の左派政党としての対応】
 この時、「社会党議員は動揺しつつも『整然たるデモ』を呼びかけ続けるばかりで何の役にも立たなかった」が、次のような話も伝えられている。 「樺美智子さんが虐殺された六月一五日夜、私は衆議院の議員面会所の中に臨時救援所を島田久君(党本部書記)など仲間といっしょに設け、当時のブンド系の医学連の諸君と一緒に夜の明けるのも知らず働いた。この日、江田三郎氏など社会党の国会議員団約60名は機動隊の放水を浴びせられながら警察機動隊に抗議し、議員面会所地下に臨時留置場として設置された中にいる多くの重傷を負った労働者、学生の即時釈放を要求して闘ったのであった。江田三郎氏の白髪を振り乱して闘う姿は、今もなお私の記憶に生々しい。この日、第一次の弾圧に抗議して集まった大学の教授、助教授、講師、研究生たちはさらに第二次の弾圧をくらい、おびただしい重軽傷者を出したのであった。なかには、青山学院大の助教授が、自分の知っている学生が負傷したのではないかと心配して社会党本部のある三宅坂に来たところ五〇名の機動隊にリンチを加えられ重傷を負ったということもあった」(高見圭司「五五年入党から六七年にいたる歩み」)とある。

【日共の珍奇な行動】
 この時、日共の指揮者たちは、「トロッキストの挑発に乗るな」とピケットラインを張り、デモ隊を国会から銀座方面に流し続けた。「暗黒の代々木王国」(辻泰介)によれば、「デモがぴっしりと取り巻き、ひしめいている国会周辺で、私と同じような地区委員や勤務員の多くの同志たちが、赤い腕章を巻いて、交通整理のような役をやらされていました。それは、どういう交通整理であるかというと、体当たりするような激しいデモを国会にぶつけ、機動隊にぶつけている全学連の一かたまりの部隊と、人数はそれの十倍もあって、長蛇の列を為して国会めがけてデモってくる労働組合の大部隊との間に、割って入って(割って入ってというよりは、予め、丁度通行禁止の立て札のように一列を作って立っていて、)労働組合員たちのデモを右のほうに円滑に流れさせて行く、そういう交通整理でした」、「労働者と学生とを一本化させなかった。その少なくとも一つの原因は、私たち共産党員が身をもって作った方向指示器にあったのです。わずか50メートルの間隔・僅かなのに、この間隔が埋められ、埋め尽くされることは、60年安保闘争ではとうとうありませんでした」とある。

 更に云う。「宮本書記長が、国会デモがますます膨れ上がり、騒然とし始め、首都の至る所がデモによっていわば制圧され始めたこの時期、まるでセキを切ったように人々が街頭に溢れ出したこの時期に、党本部に全国の責任者を集めて、『ジグザグデモはまかりならん』というお達しをした、ということを、東京都の役員から聞かされた」、「宮顕氏が指示したことのポイントは、ジグザグデモはやめろ、ということだ、というのです。半信半疑の私に−だって、もうその頃は、ジグザグなどは『声ある声』も『声なき声』も、女でも子供でもやりまくっていたのですから」、『『アカハタ』の権威ある主張は、安保を如何に闘うか、ではなくて、本当に、『ジグザグデモはけしからん』ということを、それだけを主張していたのです。もう、マサカではありませんでした。後から思えば、宮本を頂点とする党中央にとって、『ジグザグデモを止めろ』というのが『安保を如何に闘うか』の方針に他ならなかった訳です」。

 この時、ニュースで死者が出たことを聞き知った宮顕.袴田が忽然と自動車でやってきて、アカハタ記者にごう然と「だいぶ殺されたと聞いたが、何人死んだのか」と尋ねている。記者は「よく分からないが、自分ではっきり確認できたのは一人だけです」と答えると、「なんだ、たった一人か」、「トロッキストだろう。7人位と聞いていたが」と吐き捨てるようにいって現場を後にしたことが伝えられている。このことが、「共産党某幹部(宮顕)は、5名が死亡したことを聞き、『たった5人か』とうそぶいた」と伝えられている。

 安東氏はここでも貴重な証言を残している。「そのうち『学生が殺された』との情報が電光のような速さでデモ隊の中を走りぬけた。ところが、である。共産党は、『直ちに流れ解散』の指令を飛ばしてデモの隊列をどんどん流れ解散へと誘導し始めたのである。『ふざけるな』、『帰るな』と私は憤激をした。南門に近づこうとするが、血走った目の機動隊員に蹴散らされてしまう。‐‐‐私はアメに濡れた左腕の腕章をひつくり返してただの赤い腕章にした。『日本共産党』の腕章はつけられない。『もうこんな非人道的な党にはいられない』、短い時間ではあったが、しかし私は自分の感情を確かめていた」。

【荒畑寒村氏の日共批判】
 荒畑寒村氏はこう語っている。概要「大学生達が実際に意気盛んなこと、弾圧に懲りずにやっていくということは、実に感激して涙が出ることがあるんです。僕がもう少し若かったら、そして身体が悪くなかったら、ヘルメットかぶって、ゲバ棒持って出かけようと思うことがありますよ。ほんとに。60年安保の時に、矢も楯もたまらなくなって、飛び出そうとしたら、家内に、あんたのような70過ぎた年寄りが出て行ったって、巡査の警棒で一突きされたら、吹っ飛んでしまうんだからやめなさい、といわれて思いとどまりました(笑)」、「どこの国の共産党だって、例え思想的に違おうが、自分たちと、党関係や、組織の面で違おうが、政府の権力と闘っているものを排除するなんて、そんな共産党は、私は見たことも無い」(「反体制を生きて」)。

 「樺美智子虐殺抗議葬」が催され、労・学五万人が国会包囲デモ

 樺美智子の死は瞬く間に伝わり、多くの人々の心をうった。特に東大では教授も学生も一斉に抗議行動に立ち上がり、教室は空っぽになった。6.16日、樺美智子虐殺に抗議し、労・学5万人が国会包囲デモが行われた。国会南門通用門は樺さんの死を悼む献花と焼香の煙りで埋められた。


 「樺美智子虐殺抗議葬」における日共の「香典泥棒事件」椿事

 この時椿事が発生している。未明まで闘ったブント系学生がねぐらに帰った6.16日早朝、駅々で「私たちは全学連です。昨夜の国会デモで多数の負傷者を出しました。カンパをお願いします」と訴えていた学生たちがいたが、反主流派代々木系の民青同の連中たちであった。約140万円余集まったといわれているが、この時のカンパ金が国民会議に救援金として提供されたのならまだしもその形跡は無い。聞きつけたブント系が代々木にデモを駆け、「香典泥棒」と罵声を浴びせたが、党本部から応酬は無かった。これは「香典泥棒事件」と云われている。


 日共の救援活動に対する「トロツキストの面倒見るな」指示。
 「6.15の翌日、医学連、全学連の当時の書記長北小路敏君らと6.15救援本部を社会党本部内に一室もらって設け、その委員長には坂本参議院議員(現高知市長)、私が事務局長ということで活動を開始した。全国にカンパを呼びかけ、150万円近い病院の支払いなどは、殆んとこのカンパの中から支払ったのである。そしてほぼ約一ヶ年のあいだ6.15救援本部は活動した。この救援運動の総括として、われわれは党が中心となって、新たな救援組織を結成すべく準備をはじめた。それというのも、共産党系の“国民救援会”が中国から送られてきた6.15闘争の犠牲者に対する1万元(日本円で150万円)を遂に私有してしまったことと、彼らの救援運動が“トロツキストの面倒は見ない”という方針で目の前に重傷者がいても日共系の“民医連”系の医師は知らん顔をしているといった度し難いセクト主義に対抗するということと、さらにはいよいよ70年にむけてファッショ的な権力の弾圧が予想されることに対して構えなければならないという意味から、作業ははじめられたのである。それは“人権を守る会”と称して、小柳勇参議院議員が責任者となって準備がすすめられ、61年の社会党大会で決議までなされたのであった」(高見圭司「55年入党から67年にいたる歩み」)とある。

 「6.15樺美智子虐殺事件」に関する社共の態度の違いが認められる。社会党の方が素直な情感を吐露している。日共は、「左」からヌエ的批判を徹底している。社共にはこの差が終始付き纏う。

 社会党は、樺美智子氏の死に対して党としての指導力量不足であるとする見解を述べている。「社会党はかかる事態を防止するため数回、学生側及び警察側に制止のための努力をした。しかし力だ足らずに青年の血を流させたことは国民諸君に対し、深く責任を感じ申し訳ないと思う」。

 日共は、当夜緊急幹部会を開き、この日の惨劇について声明を発した。岸内閣を批判した後に続けて、樺美智子の死をめぐって一片の哀悼の意をも示さぬまま、「トロツキストの挑発行為、学生を弾圧の罠にさらした全学連幹部、アメリカ帝国主義のスパイ」に責任があるという非難を行った。「我が党は、かねてから岸内閣と警察の挑発と凶暴な弾圧を予想して、このような全学連指導部の冒険主義を繰り返し批判してきたが、今回の貴重な犠牲者が出たことに鑑みても、全学連指導部がこのような国民会議の決定に反する分裂と冒険主義を繰り返すことを、民主勢力は黙過すべきでない」。


 「60年安保闘争」に対する毛沢東の見解は次の通り。これこそ歴年の革命運動の指導者が為す真っ当な見解であろう。

 樺美智子が虐殺されるや毛沢東は、彼女を「日本人民の民族的英雄」と称えた。毛沢東談話が為され次のように紹介された。「勝利は一歩一歩とらえられるものであり、大衆の自覚も一歩一歩と高まるものである、と指摘した。毛沢東首席は、日本国民が反米愛国の正義の闘争の中で一層大きな勝利を勝ち取ることを祈った。樺美智子さんの英雄的な犠牲に対して、毛沢東首席は尊敬の意を表した。首席は、樺美智子さんは全世界にその名を知られる日本の民族的英雄となった、と述べた」。「人民日報」も、「中国人民は、岸政府の逆コースと、人民を虐殺する暴行に対して限りない憤慨を表明すると共に、死傷した日本の愛国的学生とその御家族に心からの慰問の言葉を送るものである」、「烈士の跡を踏みしめて前進せよ」と伝えた。

 彼女をトロッキストと指弾した日共指導部の態度と鮮明に食い違った。ここまで中共よりにシフトしてきていた日共と毛沢東との齟齬がこのあたりから表面化していくことになる。但しこの時点では、間接的な対立として内化する。 


 政府が臨時閣議で、アイク米大統領らの訪日中止決定。

 6.16日、政府は、午前零時過ぎから急遽臨時閣議を開き、「樺美智子事件」の衝撃で不測の事態発生を憂慮することとなり、アイゼンハワー米大統領の訪日延期要請を決定した。佐藤栄作蔵相.池田隼人通産相らの強硬論と藤山愛一郎外相.石原国家公安委員長らの政治的収拾論が錯綜する中で、アイク米大統領らの訪日中止要請が決まったと伝えられている。

 岸首相は記者会見で、「都内の野球場や映画館などは満員でデモの数より多く、銀座通りも平常と変わりはない。これをもって社会不安というのは適当でない」と語った

 6.17日「暴力排除と民主主義擁護に関する決議」を自民党単独で可決した。


 マスコミが「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を声明。経団連など財界四団体も、「暴力排除と議会主義擁護」の声明を発表。
 6.17日、在京7社の大手新聞社(朝日、読売、毎日、日経、産経、東京、東京タイムズ)は、紙面に「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を発表、翌日には地方紙も同調して、同じ宣言を掲載している。「6.15日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった」とし、政府だけでなく、野党各党に対しても「この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の収拾に協力すること」を求めていた。

 6.17日経団連など財界四団体も、「暴力排除と議会主義擁護」の声明を発表している。

 自然承認の日は目前に迫りつつあった。国会デモはその後も空前の動員数を示した。全国の各大学は自然発生的に無期限ストに突入した。

 6.17日、社会党顧問川上丈太郎が右翼に刺され負傷。


 新安保条約自然成立。

 6.18日、国民会議は、「岸内閣打倒.国会解散要求.安保採決不承認.不当弾圧抗議」の根こそぎ国会デモを訴えた。30万人が徹夜で国会包囲デモをした。ありとあらゆる階層の老若男女が黙然と座り込んだ。この時共産党の野坂は、宣伝カーの上から「12時までは安保改定反対闘争だが、12時以降は、安保条約破棄の闘争である」と馬鹿げた演説をしている。こうしているうちにも時計の針は回り、12時を越すと共に新安保条約は自然成立した。

 6.19日午前零時新安保条約が参議院通過、自然成立、発効した。この時4万人以上のデモ隊が国会と総理官邸を取り囲んでいたが、自衛隊の出動を見ることもなく、事故なく終わった。イタリアの「ラ.ナチオー紙」記者コラド.ピッツネりは「カクメイ、ミアタラヌ」と打電している。毎日新聞に「こんな静かなデモは初めてだ。デモに東洋的礼節を発見した」とコメントつけている。


【ブント書記長島氏の敗北的感慨】
 この時のことを島氏はこう記している。「1960年6.18日、日米新安保条約自然承認の時が刻一刻と近づいていたあの夜、私は国会を取り巻いた数万の学生.市民とともに首相官邸の前にいた。ジグザグ行進で官邸の周囲を走るデモ隊を前に、そしてまた動かずにただ座っている学生の間で、私は、どうすることも出来ずに、空っぽの胃から絞り出すようにヘドを刷いてずくまっていた。その時、その横で、『共産主義者同盟』の旗の近くにいた生田が、怒ったような顔つきで、腕を振り回しながら『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』と誰にいうでもなく、吐き出すように叫んでいた。この怒りとも自嘲ともいえぬつぶやきを口にした生田−」(「文集」)。

 ブントの挫折感を尻目に日共系が勢いづく。しかし既に季節はずれであった。
 6.22日、第19次統一行動。総評.中立労連が政治ゼネスト第3波600万人、国会請願デモ10万人。党は、党組織を大挙動員する。都自連に結集した学生は8000名。

 岸首相が退陣表明した。このことは、「ブント運動の金字塔的成果」であったが、当時のブントは「安保を許した敗北感」に浸っていくことになる。
 6.23日新安保条約の批准書交換、岸首相が退陣の意思を表明。芝白金の外相公邸で、藤山・マッカーサーの間で批准書が交換されたのを見届けた後、岸首相は「ここに私はこの歴史的意義ある新条約の発効に際し、人心を一新し、国内外の大勢に適応する新政策を強力に推進するため、政局転換の要あることを痛感し、総理大臣を辞するの決意をしました」と辞意を表明した。

 7.15日第二次岸内閣総辞職。 辞任の理由を岸はこう述べている。概要「何か特別な党内事情があつた訳ではない。自発的に辞めたのです。一つは、安保改正が達成されたこと。その二は、アメリカ大統領の訪日をことわったという国際信義に背いたことの当然責任をとったということである。アイクをことよったのは治安に責任が持てなかったからです」。

 「樺美智子国民葬」が催される。ここでも日共の敵対が運動盛り上げに水を差している。

 6.23日樺美智子国民葬。参加者約1万名。共産党は不参加を全党に指示した。その夜、全学連主流派学生250人が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」としたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。

 党は、これをトロツキストの襲撃として公表し、6.25日アカハタに党声明として「百数十人のトロツキスト学生が小島弘、糠谷秀剛(全学連中執)、香山健一(元全学連委員長)、社学同書記長藤原らに率いられて党本部にデモを行い、『宮本顕治出て来い』、『香典泥棒』、『アカハタ記事を取り消せ』などと叫んだが、党員労働者によって排除された」云々と顛末を報じている。


 「60年安保闘争」終息する。
 この後まもなくデモ参加者も急速に潮を引いていくことになり、この辺りで「60年安保闘争」は基本的に終焉し、後は闘争の総括へ向かっていくことになる。


 こうして安保闘争は、戦後反体制運動の画期的事件となった。
 安保闘争は、南朝鮮の李承晩政府打倒の闘争と共に国際的にも高く評価された。6.25日、中共の「人民日報」は、「安保闘争における樺美智子を『日本の民族的英雄』と称えた」毛沢東の談話を掲載している。

 思い起こせば、国民会議が結成され、17次にわたる統一行動を組織し、社共統一戦線を作り出し、総評他の諸組織をこれに結合させていた。安保は改訂されたが、アイゼンハワー大統領の来日を阻止し、岸内閣を打倒させた。政治的な偉大な経験と訓練を生み出した。この時代の青少年にも大きく影響を与え、政治的自覚を促した。この時から幾年か後、再び学生運動の新しい昂揚を向かえるが、この時蒔かれた種が結実していったともみなせられるであろう。この観点が生み出されるのが自然なところ、逆見解に弄ばれることになった。

 日共は、この一連の経過で一貫して「挑発に乗るな」とか「冒険主義批判」をし続け、戦闘化した大衆から「前衛失格」・「前衛不在」の罵声を浴びることになった。「60年安保闘争」を通じて、日共の権威は地に堕ちた。「闘った者達の実感」として共同認識されたが、この共同認識は史実的に理論化されなかった。為に、ポスト安保後の世代に相変わらず日共の権威が保たれていくことになった。
 「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌・出版物からも、鋭い党中央派批判を発生させた。「戦前派の指導する擬制前衛達が、十数万の労働者・学生・市民の眼の前で、遂に自ら闘い得ないこと、自ら闘いを方向づける能力の無いことを、完膚無きまでに明らかにした」(「擬制の終焉」60.9月)が実感を持って受けとめられた。「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌.出版物からも、鋭い中央派批判を発生させた。

 民青同の反動的総括の原型がここに見られる。
 他方で、川上徹氏のような捉え方もある。「このように極『左』的妄動の中心になって、挑発的、分裂主義者としての役割をはたしたトロッキストとの闘いの経験は、それ以降の運動の高まりの中で絶えず発生してくる小ブルジョア急進主義的傾向との、あるいはそれを利用するトロッキストとの様々な策動に対する民主運動、学生運動の闘いにとって豊かな教訓の宝庫となった」(著書「学生運動」)という総括をしている。いろんな総括の仕方があるということだろうが、「道遠しの感がある」。

【社労党・町田勝氏の総括】
 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」は次のように総括している。「60年安保闘争ではこの国民会議を中心に23次にわたる統一行動が繰り広げられることになるのだが、しかし、60年に入って新安保条約の調印、国会承認という正念場を迎えてもなお総評幹部たちの間からは『安保は重い』といったつぶやきが聞こえる有様で、春闘の賃上げ闘争と抱き合わせの形で時限ストを打つといった闘いが関の山であった。

 だが、それも当然であろう。というのは、彼らは安保闘争を単に平和主義、民族主義、民主主義の観点から提起したに過ぎず、何千万労働者大衆の搾取・抑圧に基礎をおくブルジョアジーの支配に反対し、そして今や再び帝国主義的な自立と発展の方向に歩み出そうというブルジョアジーの野望に反対する労働者の階級的な闘いの一環として安保闘争を位置づけ、組織しようとはしなかったからである。

 そして、社会党や総評に輪をかけてこの闘いを民族主義的な方向にねじ曲げ、解体し、足を引っ張ったのが共産党であった。宮本体制が確立しつつあった共産党は、新安保条約が『依然として対米従属の屈辱的条約』であると憤慨し、『安保闘争のほこ先をアメリカ帝国主義にも向けさせる』(『七〇年党史』より。文中『にも』などといっているが実際には反米民族闘争に還元)ことにこれ努め、また大衆闘争を『請願デモ』などの合法的な『整然たる行動』に押し込めるために狂奔した。そして、全学連などの自然発生的な闘いの高揚に恐怖し敵対し、それを『極左挑発行動』と非難し、彼らに『挑発者』、『トロツキスト』、『帝国主義の手先』等々のあらゆる悪罵・中傷を浴びせることに血道を上げたのである。

 こうして、60年安保闘争は社共の醜い日和見主義とその反労働者的な本性を白日の下にさらけ出し、労働の解放のためには社共に代わる新たな労働者党の創設がどうしても必要なことを決定的に明らかにした。この点でそれは大きな歴史的な意義を持ったのであった。

 あれから40年、これが真実であったことは、今では誰もが認めるところであろう。この日和見コンビはその後の資本主義の相対的な安定と繁栄の中ですっかり体制内に取り込まれ、その片方の主役であった社会党はその支持母胎であった総評もろともブルジョア的な堕落を重ねた挙げ句、組織的にも消滅してしまうという劇的な末路をたどり(今では見る影もない小政党にやせ細った社民党がわずかにその衣鉢を継いでいるに過ぎない)、もう一方の主役である共産党もまたその日和見主義を全面開花させ、『「対米従属』の色眼鏡は今なおかけたままだが、もはや『資本主義の枠内での改革』しか言わない俗悪な改良主義政党に転落してしまっている」。

(私論.私観)れんだいこの「60年安保闘争の総括」について

 「60年安保闘争」は、日本左派運動の稀有な成功事例であった。にもかかわらず、その評価と総括を廻って混乱に陥り、「後遺症」に悩まされることになった。この不可思議現象の由来はどこに発するのだろう、れんだいこには分からない。

 革新ジャーナリズムにより流行言辞された「乗り越えられた前衛論」も気に入らない。なぜなら、反動的宮顕系が采配し始めた日共党中央を前衛と見なしているから。吉本氏の「擬制の終焉」における日共党中央批判構図としての「戦前派の指導する擬制前衛達が云々論」も気に入らない。

 むしろ、徳球系時代のアカハタ主幹であった藤原春雄氏の「現代の青年運動」(新興出版社)云うところの「党は、安保闘争の中で、闘争に対する参加者の階層とそのイデオロギーの多様性を大きく統一して、新しい革新の方向を示すことが出来なかった。逆に、違った戦術、違った思想体系、世界観の持ち主であることによって、それに裏切り者、反革命のレッテルを貼ることで、ラジカルな青年学生を運動から全面的に排除する政策を採った。その為、安部闘争以後の青年学生戦線は深刻な矛盾と対立を生んだ」の方がまだしもましであろう。

 問題は、1955年の六全協で党中央に登壇してきた宮顕―野坂グループの変態性を嗅ぎ分け、この胡散臭い連中が左派運動言辞を使いながらも一貫してその解体に向っており、当然の如く「60年安保闘争」も又意図的に捻じ曲げられ続けて行ったこと、それをブントの連中が正確に嗅ぎ分け、日共の指導を排し自前の運動を創造して行ったことにより、少なくとも時の岸政権打倒を勝ち取ったことの有意義な成果を確認することにあった。ポスト安保後、肝心のこの分別が為されぬままに、饒舌のはびこる運動へ流されてしまった。

 それは、理論の貧困であり、行動を急進主義的に為しえたとしてもそれを支える理論が貧困であれば、真に情況を切り開くことにはならないことを物語っている。但し、理論化は断じて思弁化では無い。時の生産階級に自信と励みと自覚を与え、更なる高次的運動へ導くようなものとして生み出されねばならない。島―生田ラインの後継者達は、歪曲を許さず、ブントの更なるブント化を目指すべきであった。それがなぜ出来なかったのか、その要因を精査する必要がある。こういうことを総括すべきでは無かろうかと思われるが、為されていない。為されていても物足りない。

 2003.12.18日 れんだいこ拝





(私論.私見)