第51部 1989(平成元)年当時の動き、主なできごと.事件年表

 (最新見直し2006.3.15日)


 1.1日、竹下首相、年頭記者会見で「政治改革元年」とする決意を表明。


【昭和天皇崩御】

 1.7日、天皇裕仁(昭和天皇)87歳で崩御。昭和(62年と2週間=22,660日)の時代終わる。元号が平成に改められる。中国の楊尚昆国家主席と李鵬総理が昭和天皇の逝去で竹下登首相あてに弔電。


 1.18日、自民党政治改革委員会が初会合(検討項目として、@政治倫理の確立、A衆院中選挙区制改革、B政治資金制度改革、C新しい政治制度の確立、D党改革、E国会改革)。


 1.18日、TC(日米欧三極委員会)の幹部たちがディビッド・ロックフェラーに率いられて、モスクワのクレムリン宮殿・奥の院に集結し、ゴルバチョフと極秘会談した。参加した幹部の名は次の通り。元米国国務長官ヘンリー・キッシンジャー、元フランス大統領ジスカールデスタン、日本の元首相中曽根康弘その他。


 1.24日、衆議院リクルート特別委員会を勤めた原田憲経済企画庁長官、リクルートからの献金が判明→引責辞任。


 1.27日、竹下首相の私的諮問機関「政治改革に関する有識者会議」が発足。


 2.1日、韓国がハンガリーと国交を樹立。


 2月、 銭其しん外交部長が昭和天皇の葬儀参列のため訪日。


 2.13日、江副浩正リクルート前会長ら2名をNTT法違反(贈賄)容疑で、日本最大の企業NTTの元取締役・式場、長谷川寿彦ら8名を逮捕。更に、3月辰已雅朗・リクルート元社長室長、NTT会長真藤恒(ひさし)、元労働次官加藤孝、元労働省課長鹿野茂、前文部次官高石邦男らが事情聴取され、3月に収賄容疑で逮捕、5月には第2次中曽根内閣の官房長宮であった藤波孝生(たかお)代議士と池田克也公明党代議士らを受託取賄容疑で在宅のまま取り調ベを行った。

 疑惑が持たれた高級官僚や閣僚たちは、「妻が株をもらった。私は知らない。」とか「家族がもらった、秘書がもらった。」と釈明、当時「妻が、妻が…。秘書が、秘書が…」という言葉が小学生の間にまで流行した。

こうして事件は元閣僚、元代議士、事務次官2名、NTT元会長らをリクルートコスモス社未公開株収受による収賄容疑で起訴及び宮沢大蔵大臣辞任、竹下内閣崩壊というスケールに拡大。

特に、疑惑のコスモス株を秘書または家族名義を含めて9人の閣僚級政治家が密室の財テク的収受をしていた政府自民党幹部、中でも中曾根前内閣中枢に強い疑惑が集中した。当然、国会の証人喚問などでも追及されたが、多くの「灰色高官」たちの立件は行われないまま、事件は幕引きとなり、結局、戦後の他の大疑獄同様、核心の解明なしで終結、国民の間には、「政治不信」だけが残こることとなった。(田村氏の「リクルート事件の概要」


2月、昭和天皇の大喪の礼


 2.9日、常任幹部会の席上で、宮本議長が村上委員長を失脚させた。その背景として、村上委員長が旧全逓系、関西系の自派系人事を強行して宮本秘書軍団と対立、このたび宮本議長の鶴の一声で村上追放となったという事情があった。村上はその夜、「こんなことで委員長の首を飛ばすなら、誰がやっても務まらんよ。この悪習を放っておいて良いのか」と憤懣を漏らしたと伝えられている。

 2.10日、村上委員長派と見られる党幹部が「村上体制を維持せよ」の会合を持った。メンバーは、荒掘広・労働局長・統一戦線推進委員会責任者、定免政雄・元大阪府委員長。中央選対部長、田中弘・元京都府委員長・中央書記局員、浜野忠夫・人事局長・党建設委員会責任者・組織局長、寺前巌・国会対策委員長、菅生厚・現大阪府委員長ら以下党本部や大阪府委員会の中堅どころの面々。但し、当の本人が「ここは自重してくれ」と出席を断わった。


 2月下旬、村上派主要幹部7名が連名で宮本議長に「陳情書」を提出。この意見書が握りつぶされている間、結局村上委員長が「俺は病気でもなんでもない、もう我慢できないよ」と、病院から抜け出して大阪の自宅に帰り、事実上委員長職を放棄したことで幕切れとなった。4.9日旧全逓仲間の高原晋一副委員長に促され、「自己批判書」を提出した。


 2.27日、中曽根前首相が記者会見、リクルート疑惑について釈明。「私の不注意、監督不十分の結果だ」、「賄賂など刑事事件に関わることはなく、私に関しては忌まわしいことは一切無い。株の売却益は盆暮れの挨拶など政治活動に使った」。


 3.2日、ユートピア政治研究会が政治活動費を公開。

 3.6日、NTTの真藤恒・前会長とその秘書をNTT法違反の収賄容疑で逮捕。3.8日、加藤孝・前労働事務次官を収賄容疑で逮捕。3.28日、高石邦男・前文部事務次官を収賄容疑で逮捕。


 3.7日、自民党政治改革委員会が、9日までの3日間、全所属議員対象に拡大委員会を開催し大衆討議。


 4.1日、消費税3%導入。


 4.5日、朝日新聞が、「竹下総理がリクルート社から派ティー券や政治献金などで1億円を越える資金提供を受けていた」と報道。


 4月、李鵬総理が訪日、中日投資促進機構の早期発足、中日技術交流会議の創設で合意。


 4.7日、社会・公明・民社・社民連4党首竹下内閣退陣・総選挙要求。


 4.11日。竹下首相が、衆院予算委員会で、リクルートに関する資金供与の全容(献金やパーティー券など1億5100万円)を公表し、「これがリクルートからの資金供与の全てで、今後出てくることは無いと確信している」、「政治的道義的責任を痛感している」、「政治への信頼を回復していくためには、リクルート問題に関する司法上の問題、政治上のケジメを出来るだけ早くきちんとつけめと同時に、政治改革を進めていくことが何より大切」と述べた。


 4.15日、胡耀邦前中国共産党総書記が死去。


 4.22日、『朝日新聞』、竹下首相の元秘書青木伊平名義で5,000万円の借金が江副にあったと報道。


 4.25日、竹下内閣退陣。予算成立の後に国民の政治不信の責任をとって辞任表明。その翌朝、竹下氏の腹心の秘書(金庫番)青木伊平氏が自殺。予算成立後の6月2日に竹下内閣は総辞職する。

 「リクルート事件に関しては、当時、党内は総主流派体制であり、しかも、次期総裁候補をはじめとする、党の有力政治家のほとんどが関与していたため、竹下の責任を追及し、経世会を攻撃する派閥がなかった。これは、ロッキード事件等の一連の金脈問題で、田中角栄、あるいは、田中派が、三木武夫や福田赳夫に激しく攻撃されたのとは、大きく異なる。また、田中が、金脈問題で退陣した後、自民党は、クリーンなイメージの三木を総裁に選び、国民に対して鮮やかなイメージチェンジを図ったが、リクルート事件の際は、有力者が、全て、事件に関与していたために、自民党政治そのものが、汚染され、制度疲労を起こしている状態になった。このことは、リクルート事件をきっかけにして、政治改革の必要性が、政治内部と国民の双方で高まった原因として考えられる」。

 4.27日、政治改革に関する有識者会議、提言を竹下首相に提出。4.28日、経済4団体が「政治改革の断行を求める共同声明」。4.30日、社会経済国民会議が「政治改革に関する国会議員アンケート」公表。


 4月、FSX共同開発見直し交渉が決着。


 5.12日伊東正義自民党総務会長総裁就任を辞退=「けじめ」で党幹部と隔たり。


 5.15日、ゴルバチョフ・ソ連書記長が訪中。


 5.17日、中国の民主化運動,北京で100万人規模のデモ。


 5.17日、公明党矢野委員長、明電工事件疑惑に絡み辞意表明。


 5.19日、自民党、「政治改革大綱」決定=「国民の政治に対する不信感は頂点に達し、わが国議会史上、例をみない深刻な事態をむかえている。−−いまこそ自らの出血と犠牲を覚悟して、国民に政治家の良心と責任感を示すときである」と記述。


 5.20日、中国が北京市内の一部に戒厳令。


 5.22日、特捜部が、藤波孝生元内閣官房長官(自民党)、池田克也衆議院議員(公明党)を受託収賄罪で在宅起訴。東京地検、宮沢前蔵相の秘書ら4人を政治資金規正法違反で略式起訴。


 5.23日、自民党が「政治改革大綱」党議決定。


 5.25日、衆議院予算委員会が、中曾根元首相を リクルート事件で予算委員会に証人喚問。


 5.25日、米通商代表部(USTR)がスーパー301条を根拠に日本を不公正貿易国と認定。


 5.30日、吉永東京地検検事正、リクルート事件終結宣言。逮捕14人、起訴17人で終息した。


【リクルート事件関係者の処罰概要】
政界ルート 藤波孝生・元官房長官 1審・無罪⇒2審・懲役3年、執行猶予4年=上告棄却・有罪確定。
池田克哉・元衆院議員 1審・懲役3年、執行猶予4年=確定。
文部省ルート 高石邦男・元文部事務次官 1審・懲役2年、執行猶予3年⇒2審・懲役2年6月、執行猶予4年=上告中。
労働省ルート 加藤孝・元労働事務次官 1審・懲役2年、執行猶予3年=確定。
鹿野茂・元労働省課長 1審・懲役1年、執行猶予3年=確定。
NTTルート 真藤恒・元NTT会長 1審・懲役2年、執行猶予3年=確定。
長谷川寿彦・元取締役 1審・懲役2年、執行猶予3年=確定。
式場英・元取締役(故人) 1審・懲役1年6月、執行猶予3年=確定。
小林宏・元ファーストファイナンス社長 1審・懲役1年、執行猶予2年(贈賄)=確定。
リクルート社 江副浩正・元リクルート社会長⇒1審公判中 1審公判中(懲役4年を求刑−02年3月29日)。
辰巳雅朗・元社長室長 1審・無罪⇒2審・懲役1年、執行猶予3年=上告中。
小野敏広・元秘書室長 1審・懲役2年、執行猶予3年=確定。

      「リクルート事件にかかわる検察捜査の総費用は合計1億5000万円(人件費を除く)」(法務省根来刑事局長の参院法務委員会での発言)

      なお、リクルート事件と規模や内容面でしばしば比較される1976(昭和51)年に発覚したロッキード事件の場合は1億7000万円。

      費用面では、リクルート事件の方がロッキード事件を下回ったが、両事件発覚時の物価水準を考慮すると、2000万円の差は逆転し、さらに開くことになる。


 6.2日、リクルート問題に関連して竹下登総裁が辞意表明。後継総裁には宇野宗佑外相(中曽根派)が自民党両院議員総会で異例の「起立多数」で選出される(第13代自民党総裁)。派閥の領袖でない者が総裁になったのは初めて。


 6.3日、宇野宗佑(中曽根)内閣誕生。官房長官・塩川正十郎、幹事長・橋本龍太郎(竹下)、総務会長・水野清(宮澤)、政務調査会長・村田敬次郎(安倍)。宇野首相→「天に祈り地に伏して改革を」。


 6.3日、イランのホメイニ師死去。


【中国で天安門事件起る】

 4.15日胡耀邦・前総書記死去。
 4.16日天安門広場の人民英雄記念碑に北京大学生らが胡氏を悼む花輪を捧げ始める。
 4.17日同広場で、学生等が胡氏の名誉回復を求めてデモ。
 4.22日党・政府による胡氏追悼集会。
 4.24日北京の各大学が無期限授業ボイコットに突入。
 4.26日人民日報社説が「旗幟(きし)を鮮明にして動乱に反対せよ」発表。
 5.19日趙紫陽総書記が同広場でハンストを続ける学生の説得を試みる。
 5.19日趙紫陽総書記がゴルバチョフソ連共産党書記長と会談、その席で「最も重要な問題については、依然ケ小平同志の舵取りを必要としている」との党内事情を暴露し、党の重要決定がケ小平氏の一存によって諾否されていることを明らかにした。
 5.20日北京市中心部に戒厳令。

 6.4日、未明に中国人民解放軍戒厳部隊が戦車と装甲車で天安門広場に入り、学生・市民に発砲、死者数百人(天安門事件)。

 6.9日、ケ小平氏が、事件後初めて中央テレビに登場、戒厳部隊と接見の様子が放映される。
 
 6.23(24)日、中国共産党中央委員会総会が、趙紫陽総書記の全職務解任、後任に江沢民・上海市党委書記政治局員を選出。

 以上が経過であるが、このときの内部資料が漏洩されており、2001.1.12日発表された。この文書と党の公刊資料を総合すると、天安門事件の経過は次のようになる。5.16日夜、政治局常務委緊急会議で、多くの者は「民主化運動に絶対に譲歩してはならず、動乱を制止すべきだ」と考えたが、趙紫陽はそうした多数の常務委員の意見に同調しなかった。5.17日の政治局常務委員会で、「事態(動乱)が続けば、我々が自宅軟禁状態になる。私は人民解放軍を動員し、北京に戒厳令を布告すべきだとの結論に達した」と述べ、戒厳令布告を決定した。趙総書記が「私はそれを実行するのは難しい」と強く抵抗していたことに対して、「趙は辞任を求められ、厳しく批判された」。5.19日党政・軍幹部大会が開かれたが、趙は出席を拒否、党との分裂を明らかにした。5.20日ケ小平の自宅で会議が開かれ、陳雲中央顧問委主任も出席。陳は5.23日長老の李先念全国政協主席、*真前全国人民代表大会常務委員長、王震国家副主席と会談した。厳令後の5.21の長老会議で、ケ小平氏は、「趙紫陽は動乱を支持し、党を分裂させた。彼を現職に留めておく理由は無い」と宣言。5.27日の長老会議で、「新政治局常務委は江沢民(上海市党常委書記)、李鵬首相、喬石中央規律検査委書記、女兆依林副首相、宋平党組織部長、李瑞環天津市党委書記で構成し、江沢民を総書記にする」と指示した。5.31日ケ小平は、李鵬、女兆依林を呼び、「江沢民を核心として団結するよう」伝えた。

 この経過には共産党指導体制による恐るべき人治主義の実態が明らかにされている。

 日本は、円借款や閣僚級接触を凍結。


 6.8日、第5中総で、宮本議長が、「村上委員長から、5.29日に病気辞任の申し出があったので、これを受理し、新委員長として不破哲三同志を提案したい」と、委員長交替を告げた。これに全員沈黙で了承し、こうして、不破の委員長返り咲きが決定したと伝えられている。


 6.9日、久保田社会党議員が、参議院本会議で宇野首相の女性問題を質問。


 6.20日、自民党が、政治改革推進本部を設置(伊東正義本部長、後藤田本部長代理)。


 6.25日、川口市の自宅から拉致された狭間派No.2・永井啓之が、埼玉県牛久市の県道トンネル内に放置された寝袋の中に突っ込まれて死んでいるのが発見された。その後の捜査でこれは狭間派の闘争路線上の対立をめぐる内々ゲバによるものであったことが判明し、11月、ついに狭間派最高指導者・狭間嘉明が殺人容疑で逮捕されるという事態に至る。

 この背景に次のような事情が絡んでいるとされている。1987年に北原派の農民の一部が中核派の引き回しに反発して、小川派を結成。狭間派内部で、中核派に同調した狭間派と、小川派に同情的なNO2の永井啓之派の対立が深まり、88.1月に永井啓之が指導部から追放される。89.2.5日、永井派の元軍事指導部、辻美喜が狭間派によりリンチ殺害されている。89.6.25日に永井派の旗上げを図った永井啓之が拉致-殺害される。その後、旧永井派が集団脱走したため、狭間派労働者組織が崩壊。さらに関西グループの離脱。このような状況の下、11月7日に北海道帯広市の列車内で、狭間派の女性活動家が、包丁で腹を切って自殺するという事件が起きている。 (「Re: 狭間派活動家の自殺」参照)

 (参考文)解放派は、あのとき「死という結果は目的としてはなかった」と表明しつつ、「結果としての死」を「責任は永井本人にある」と言って居直った。それは、連合赤軍でさえもしなかったことです。解放派は「永井は裁判所=権力に同志を売り渡したから、除名した」と表明しています。ならば、除名したあとで、何故命まで奪う必要があるのか、そこのところは解放派の声明文だけでは全く理解できません。解放派が「仲間殺し」という「最低の一線」を、あのとき越えてしまったからこそ、今日の「無制限無制約の全面戦争」があることは疑いありません。しかし、そこだけでとどまってしまっては答えは出ません。それでは、何故、「結果としての死」を「責任は永井本人にある」と言って居直るような党派へと変貌したのか、の答えが出てこないからです。あらゆる社会的現象には、社会的根源があります。出入り自由で、押し付けをしない解放派が、何故そこまで変貌したのか、その答えは永井事件の検討だけでは出てきません。

 すでに80年の解放派の分裂の時点で、いわゆる「狭間派」は、死者こそいなかったものの、「労対派」へのテロを行なっていました。しかし、機関紙上ではテロの事実に「死の沈黙」を守っていました。つまり、機関紙上で正当性を主張することのできないテロに「狭間派」は手を染めていたということです。唯一の例外は神奈川大4・20グループへのテロです。彼等は「大学当局への写真送付」=売り渡しに手を染め、これを居直ったがゆえに、テロの正当性があると「狭間派」は主張していました。また82,3年ごろには、当時明大生協で勢力があった旧遊撃=赫旗派グループを追い出すために、赫旗派中央に対して「明大生協グループを除名せよ。そうしなければ党派戦争だ」という「最後通諜」をしたこともあります。早稲田でカクマルが昔からしていたことを、明大で解放派がしてしまった、これは何故なのでしょうか?


 6.28日、第8次選挙制度審議会発足。


 7.2日、東京都議会議員選挙で自民大敗・社会躍進(自民20減で43、社会3倍増の36)。


 7.14日、パリで第15回先進国首脳会議


 7.15日、日本共産党(行動派)第8回全国協議会が開催され、大武礼一郎議長の『社会主義文献』が採択された。また、森久書記長が政治報告を行うと同時に『偉大なる教訓』を公式文献として採用した。


 7月、貿易不均衡是正へ日米構造協議開始で合意。


 7.23日、第15回参院選で自民惨敗(36←69)。(社会46、自民36、連合11、公明10、共産5、民社3、税金2、二院1、スポーツ平和1、諸派1、無所属10) 。社会党が土井委員長の「山を動かす」の「マドンナ・ブーム」で大躍進、与野党勢力を逆転。


 7.24日、宇野首相辞意表明。参議院選挙惨敗(リクルート問題・消費税・農業自由化・首相醜聞などが不振の原因といわれる)・参議院過半数割れの責任をとって宇野宗佑総裁が辞意を表明。8.8日に両院議員総会を開いて後継総裁を選出することになった。


 8.2日、社会経済国民会議の稲葉秀三議長、亀井正夫政治問題特別委員長、自民党本部において伊東正義同党政治改革推進本部長、後藤田正晴本部長代理と懇談し、政治改革推進の国民運動のあり方について意見交換。
 8.7日、第115回国会(臨時会)召集。
【伊藤律逝去】

 8.7日、伊藤律死去。「ぼくは身の潔白を証明する為に生き長らえてきたんじゃないんだ。曲がりなりにも日本共産党の政治局員という責任ある地位にいた者として、今やらなければならないことがあるんだ」。

 山口武秀の伊藤律追悼文

 かつて日本革命と農民運動を律と共に闘った山口武秀(日本最強の常東農民運動の指導者、代議士二期、三里塚闘争の「軍師」などとして終生闘いぬいた)は、律の死に次の追悼文をよせた(抜粋)。

「伊藤律さんは大衆に思いをはせた」
 「伊藤律の生涯を思うとき、今の私には二八年の北京幽閉ということが一番大きくでてまいります。これ以上の残酷はあるまいという幽閉の中を伊藤律は生き延びてきました。よくも生きてきたという思いの外、そこにはどうしても見過ごしに出来ない問題が存在すると考えます。

 一体、同じ仲間の手で二八年も異国の地に幽閉されるということはどんなことだったのか。もとより拘禁はなんの法令に基づくものでもなく、いつまでという期限もつけられておりませんでした。それがかりに敵に捕らわれたというのならば、憎しみの心を燃やすことが出来ます。敵の手で殺されるというなら、後に続く同志に期待を持つことが出来ます。だが、味方の手で地獄に突き落とされたところでは、どこに何を見ていったらよいのか、思いの出所がないと考えられるのです。

 共産党は伊藤律をそうした処へ蹴落としながら、何も知らぬと口をぬぐっておりました。獄中で死ぬのを待っていたのでしょう。冷酷な人間抹殺です。通常の世界にありうることではありません。共産党が一般社会とかけ離れた世界だからそんなことが出来たのです。

 一般社会の常識では許されないその処置を階級・前衛党を守るに必要な行為としているのでしょう。独善的な世界にだけ通用する倫理、勝手な言い分というものに他なりません。

 伊藤律幽閉は野坂参三ら何人かの党幹部の手によってなされました。幹部以外にはその事実は秘匿されてきました。しかし、党員達は事のあらましを知ったにしろ、おそらく野坂達のとった処置に異議を唱えなかったでありましょう。共産党の組織なるものは上部を絶対的なものとし、党員はそれに従うだけの存在にしてしまっているからであります。

 個々の党員には自分の頭で判断するとか当然でてくる意見を述べるとかいうことがなくなっております」。(『山口武秀著作集』)

 馬車引き代議士木村栄の言葉

 木村栄は、敗戦から一年半後の一九四七年衆議院選挙で共産党が徳田、志賀、林百郎(長野)、木村(島根)の四人しか当選しなかった時に山陰の農民の強い支持で選ばれた「馬車引き代議士」で、農民運動家であった。山口武秀は彼の追悼で次のようにいった。「伊藤律と木村君の会見の話が伝わった。手を取り合って、涙を流したという。『二十八年間の中国幽閉なんて、人間のすることではない』という木村君の言葉も聞いた。共産党関係の多くの人々はその律幽閉を無感覚に見過ごしている。木村君の怒りこそが真っとうなのだ。

 戦後、農民の中に入って闘い、見聞きし、思考してきた木村君の姿勢は、伊藤律との感動の会見に真っすぐつながっているものがあると思う」(『徳球会会報』一九九二年三月)。「人間のすることではない」という木村の感覚こそが、まっとうなのである。日共の次の言い分―「七〇年党史」―が、どれだけ「異常」なのか、両者の主張を比べてみるとよくわかる。    


 8.8日、自民党両院議員総会が開かれ、後継総裁公選に海部俊樹(河本派)・林義郎(二階堂系)・石原慎太郎(安倍派)が立候補。第1回投票で海部279、林120、石原48の順。海部が過半数を獲得した為、海部279票、林120票、石原48票となり、海部俊樹が自民党第14代総裁に海部俊樹選出された。

 8.9日、首班指名投票で衆院は海部俊樹、参院は土井たか子を指名、衆議院優先で海部俊樹自民党総裁を内閣総理大臣に選出 。


 8.10日、第1次海部内閣。海部俊樹(河本)首相、官房長官・山下徳夫、幹事長・ 小沢一郎(竹下派)、総務会長・唐沢俊二郎(中曽根派)、政調会長・三塚博(安倍派)の布陣。(「不退転の決意で政治改革を」、『金・竹・小』支配体制確立→「支配すれど責任とらず=権力の二重構造が明確となる。橋本龍太郎が蔵相に就任。

 8.25日、山下徳夫官房長官、女性問題で辞任。後任に森山真弓。


 9.4日、日米構造協議開始(初会合)。


 9月、伊藤正義日中友好議員連盟会長一行が訪中。ケ小平は一行と会見した際、「どのようなことが起ころうとも、中日友好を変えることはできない。変わることはありえないのだと語る。


 9月、日本の経済構造全般を協議する「日米構造問題協議」(SII)がスタートした。


 9.27日、ソニーが米映画会社コロンビアを買収。


 9.28日、第116回国会(臨時会)召集。
 10.9日、社会経済国民会議の呼びかけで、民間各界67名、自民党政治改革推進本部と 社会、公明、民社、共産、社民連の政策責任者による「政治改革フォーラム〜 政治改革に関する政党と民間各界の連絡会議」が発足、初会合(東京會舘、海部首相出席)。

 10.14日、田中角栄、政界引退を表明。


 10.17日、サンフランシスコ地震、死者272人。


 10.26日、第8次選挙審、第5回総会で中選挙区制廃止の方針を確認。


 11.4日、坂本弁護士一家失踪。


 11.9ー10日、ベルリンの壁崩壊。東独が国民の西側への旅行と出国を自由化。


 11月、統一労組懇に決集して活動してきた共産党系労組が、ナショナル・センターとして「全労連(全国労働組合総連合)」を結成した。加盟労組は、29単産、42地方組織、約140万名であった。議長に松本道広、副議長に猿渡真(自治体連絡協)、館博通(日高教)等々に割り振りされた。加盟労組の内訳は、自治労から分派した自治労連(30万人)、全教育(18万人)、国公労連(18万人)、日本医労連(17万人)、建設一般全日自労(4万9千人)、生協労連(4万1千人)、一般労組(4万人)、自交総連(4万人)、日高教(3万人)、運輸一般(2万人)、年金者組合(1万7千)、全国金属情報機器労組(1万2千)らであった。


 11.21日、総評解散、日本労働組合総連合(連合)連合発足。


 11.24日、リクルート事件初公判


 11.25日、越山会が田中角栄の後継擁立を断念


 11.28日、 第8次選挙制度審議会、政党ヒアリングを野党出席拒否。


 12.1日、参議院本会議、'87・88年度一般会計予算を40年ぶりに否決


 12.2日、米ソ首脳がマルタ会談=東西冷戦終結→新時代の到来。ブッシュ米大統領とゴルバチョフソ連書記長が会談し、冷戦終結を表明。


 12.3日、田中角栄、お国入り


 12.10日、自民党が「政治改革重点項目」党議決定、次総選挙の公約とすることを確認。
 12.13日、改正公職選挙法成立(寄付禁止の強化等)。

 12.20日、米国がノリエガ将軍の拘束を狙いパナマに軍事介入(米軍がパナマ侵攻


 12.25日、 第117回国会(常会)召集 。

 12月、東京地裁で政界ルート初公判。藤波、江副両被告が無罪を主張。


【ベルリンの壁取り壊し】
 12.21日、ベルリンの壁取り壊し作業始まる。

【ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊】
 12月、ルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊した。以下、「ウィキペディアのルーマニア革命(1989年)」その他を参照する。

 12.16日、ハンガリーの国境にほど近いティミショアラで、テーケーシュ・ラースロー司教退去令に対する抗議デモが起った。12.21日、ルーマニアの首都ブカレストで大規模な政治集会が行われ、この集会はその後、民主化を求める反体制デモに拡大した。これにも治安部隊が発砲を行ったため、ブカレストでも多数の死傷者を出す事態へと発展した。この事件はすぐさまルーマニア全土に知れ渡り、チャウシェスク政権に対する国民の怒りは頂点に達した。動乱は全国に波及し、軍隊も市民の動きに同調するようになった。反体制派は同日夜から翌日にかけて国営放送局他、政府機関を占拠。革命勢力による臨時政権の樹立が行われた。ブカレスト市内などでは大統領派の治安警察部隊による発砲と、それに対する国軍の反撃によって銃撃戦が発生した。

 12.22日、ルーマニアのブカレストで数十万人デモ。チャウシェスクは戒厳令を出して事態に対応するも、革命勢力による攻勢が大統領官邸まで及びそうになり、大統領夫妻は大統領府からヘリコプターでの脱出を試みた。12.23日、チャウシェスク夫妻が救国戦線により逮捕される。12.25日、ルーマニア特別軍事法廷が、チャウシェスク夫妻を、6万人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下し、その場でチャウシェスク大統領夫妻を処刑した。この様子はビデオで撮影され、フランスを含む西側諸国でただちに放送された。数日後ルーマニア国内でも処刑の様子が公表された。

 「自由と民主主義を掲げた人々に惨殺された独裁者」は、次のように記している。
  しかし、大量虐殺の形跡や、不正蓄財の証拠は全く見つからなかった。1990年、自由選挙による国会が開かれると、野党側は与党救国戦線を激しく追及した。これはのちに救国戦線が2党に分裂する遠因にもなった。現在、大量虐殺と不正蓄財はなかったものと考えられている。
 1999.12月、革命10周年に当たって行なわれた世論調査によると、6割を超えるルーマニア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化し、国民の不満が高まる中で、各地の工場や炭坑ではストライキが頻発。その参加者の中には、チャウシェスクの肖像写真とともに、「チャウシェスク、私たちはあなたが恋しい」といったプラカードを掲げる人も少なくないという。惨殺されるほど嫌われ恐れられた独裁者が、少なくとも最低限度の生活を保障していたことで、死後改めて評価されるという皮肉な展開となった。

 12.29日、東証ダウ3万8915円87銭の最高。


 この年、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収。ソニーもコロンビア映画を買収し、米世論は「ハリウッドが日本に乗っ取られる」と日本企業の買収攻勢に危機感を募らせた。ソニーの盛田昭夫会長(当時)が共著で「ノーと言える日本」を出版し、米国の政財界を刺激した。





(私論.私見)


 七〇年代八〇年代の頃から、先進資本主義国における社会民主主義政党の脱マルクス主義化がよりいっそう進んだばかりではなく(同時に共産党の脱マルクス=レーニン主義化も進みましたが)、広く労働運動一般においても、マルクス主義イデオロギーの影響は一掃されてしまったといっても過言ではないでしょう。このことをもっとも典型的に示しているのは、日本の場合であって、その全盛期には、「昔陸軍、今総評」とヤユされるほどの強力な組織力・政治力をもっていた「総評」(日本労働組合総評議会)は、一九八八年に解散し、八九年には、同盟、中立労連、新産別とともに「連合」(日本労働組合総連合会)を結成し(組合員数九八年六月現在で七七六万)が設立された。