第4部 1945年10月から年末までの当時の主なできごと.事件

 (最新見直し2006.7.18日)

10.1 「フランス通信AFP」特派員ら3人のジャーナリストが府中刑務所を訪れ、徳田等と会見した。
10.2 【GHQの設置】東京日比谷の第一生命相互ビルを接収してここに設置された。
10.2 10.2日AP、同盟通信などの連合軍従軍記者3名が府中刑務所を訪れ、徳田等と会見した。シカゴ.トリビューンの記者が、豊多摩刑務所で中西功に面会した。
10.3 東久邇宮内閣の山崎内相、岩田法相らは、「現在のところ、政治犯人の釈放の如きは考慮していない」と述べ、治安維持法体制の存続を画策し、共産党員の逮捕、投獄を続行する旨を表明した。
10.3 日本農民組合設立準備世話人会が発足。農民運動家、須永好.野溝勝.黒田寿男.平野力三.大西俊夫らを中心として、全国単一農民組合結成に乗り出した。11.3日43府県の代表出席の下に全国懇談会が開かれ、結成方針が確認された。
10.4 【GHQによる政治犯の釈放指令】GHQは、「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を提示した。→東久邇宮内閣ショックを受ける→東久邇宮、実行不可能と辞意表明
10.4 米政府SCAPの政治顧問部要員且つ進歩派として活動していたジョン.K.エマーソンがハーバート.ノーマン(カナダ外務省の代表且つ左翼作家)を連れ立って府中刑務所にインタビュー目的で早朝よりやってきた。
10.4 マッカーサー、近衛と会見し、憲法の改正を示唆。
10.5 東久邇宮稔彦内閣、総辞職。 
10.5 「全日本海員組合」(戦後初の全国単産)創立。
10.7 徳田.志賀.山辺健太郎ら数名の政治犯が「GHQ」で尋問を受けた。
10.8 自由法曹団の上村進、神道寛次、布施辰治、山崎今朝弥らを中心に大森山王ホテルで党再建打合せ会を開き、「自由戦士出獄歓迎人民大会」の準備を進めた。
10.9 【幣原喜重郎内閣の成立】 
10.9 宮本顕治が網走刑務所を釈放されている。この宮本氏の一日早い釈放は疑問であるべきであるが、詮索されていない。
10.9 <GHQ指令>報道関係東京5社(朝日.毎日.読売.東京.日本産業経済)の事前検閲開始
10.10 【獄中政治犯釈放される】この日獄中の共産党員ら政治犯約500名が釈放された。 
10.10 【「人民に訴ふ」声明される】府中刑務所に収監されていた戦前の党中央委員会メンバー徳田球一.志賀義雄らは出獄を前にして「獄中声明」を発表した。声明は「人民に訴ふ」という見出しパンフにて発表された。
10.10 【「自由戦士出獄歓迎人民大会」が開催】
10.11 マッカーサー、幣原喜重郎首相に「五大改革」(女性の解放・労働者の団結権・教育の自由化・専制政治からの解放・経済の民主化)を指令。近衛、内大臣御用係りに就任。 
10.13 <GHQ指令>「国防保安法.軍事保護法.言論出版結社等臨時取締法の廃止」
10.13 【新憲法草案づくり始まる】政府は、松本蒸治国務相を主任として、憲法改正に関する研究を開始することを決定した。10.25日、松本を委員長とする「憲法問題調査会」が設置さ れた。10.27日初めての会議が開かれ、その後22回にわたって討議が重ねられた。
10.15 <GHQ指令>「治安維持法.思想犯保護観察法の廃止」軍令部、廃止。
10.15 日比谷公会堂で在日朝鮮人連盟(「朝連」)が結成された。
10.20 「赤旗1号」が再刊され、「人民に訴ふ」と「闘争の新しい方針について−新情勢は我々に何を要求しているか」が発表された。 
10.21 <GHQ指令>「治安警察法の廃止」
10.22 <GHQ指令>「日本教育制度に対する管理政策」(軍国主義教育禁止)指令
10.22 戦争中の言論活動の責任が問われ、朝日新聞社経営陣が総退陣させられた。
10.23 第一次読売争議発生。論説委員鈴木東民がこれを指導した。生産管理を目指した。12.12日に正力社長退陣で解決。
10.24 国際連合が正式発足する。 
10.25 GHQ、日本の外交権を停止する。 
10.29 <GHQ指令>報道関係の事前検閲、大阪でも開始。
10.30 <GHQ指令> 「教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書」指示GHQ、軍国主義的教員の追放を指令。
11.1  青山虎之助、『新生』を創刊。即日13万部売れる。 
11.1 全国人口調査を実施。総人口7199万8104人。戦争のため女性が男性を420万人上回る。
11.1 日比谷公園で餓死対策国民大会が開催される。
11.2 【日本社会党(書記長:片山哲)結成される】大会をリードしたのは前記の創立準備委員たちであり、議長松岡駒吉、副議長松本治一郎、杉山元治朗、開会の辞は鈴木茂三朗、経過報告は水谷長三郎が行った。役員には、党首(委員長)空席とし、書記長に片山哲が指名され、総務担当水谷、選対部長平野、議会対策部長西尾を選出した。
11.2 <GHQ指令>「自由主義者の優先復帰と軍国主義者及び占領軍に反意を示す者の解職」通達
11.3 朝日新聞社従業員組合が結成され、聴涛克巳が委員長に選出された。
11.3 新日本婦人同盟が結成された(会長.市川房枝)。
11.4  東京帝国大学経済学部教授会、大内兵衛・矢内原忠雄ら7人の復職を決定。 
11.6 <GHQ指令>「財閥解体」の一環として「持株会社の解体に関する覚書」を提示。 
11.6 幣原内閣、「戦争責任等に関する件」を閣議決定。
11.6 日本共産党「人民戦線綱領決定す」が発表された。11.7日「赤旗2号」が発行された。
11.8 党大会準備の為の「第1回全国協議会」が開かれた。
11.9 日本自由党(総裁:鳩山一郎)結成。戦時中の翼賛選挙に非推薦で当選していた鳩山一郎を中心とする旧政友会系の政治家たちによって結成された。
11.9 <GHQ指令>11名の戦犯容疑者逮捕命令。陸軍大臣荒木貞夫、松井石根、南次郎らが逮捕された。
11.9 戦略爆撃調査団、近衛を尋問。
11.11 共産党は、「新憲法の骨子」を発表した。
11.11 「北海鉱山労働組合連合会」結成。
11.15 「日本進歩党」が党首未定のまま結成された。戦時中の主流派であった大日本政治会(翼賛政治会)は9.14日解散したが、この系譜の者達によって結成された。結局12.18日旧民政党総裁町田忠治が総裁、幹事長に楢橋渡が就任した。
11.15 「国鉄従業員組合」結成。
11.16 日本進歩党(幹事長・鶴見祐輔、総裁・町田忠治)結成。 
11.20 「東京交通労働組合(左派系)」結成。
11.21 <GHQ指令>「治安警察法の廃止」
11.22 「赤旗3号」が発行された。
11.23 「東京都従業員組合(左派系)」結成。
11.24  GHQ、理化学研究所のサイクロトロンを破壊する。 
11.24 内大臣府廃止。
11.26 第89帝国議会が開かれ、本会議及び各種委員会において憲法論議が戦わされた。
11.30 参謀本部廃止。
12.1 【日本共産党「第4回党大会」開催】
12.1 「全日本教員組合(全教)(左派系)」結成。小野俊一、羽仁五郎ら、戦前の左翼系労働組合の流れを汲む。
12.2 <GHQ指令>戦犯容疑者59名が指名される。皇族梨本宮守正元帥、元総理大臣平沼騎一郎、広田広毅ら。
12.2 「日本教育者組合(日教)」結成。賀川豊彦、河野密、吉川兼光ら。
12.5 「赤旗」5号が発行されたが、これより現在の新聞型になった。
12.6 <GHQ指令>元総理大臣近衛文麿、天皇側近元内大臣木戸幸一ら9人の戦犯の逮捕を命令する。 
12.8 国際検察局設置される。
12.8 共産党ほか5団体、神田で「戦争犯罪人追求人民大会」を開催し、犯罪人名簿の最後に天皇を加える。
12.9 <GHQ指令>「農地改革」指令。「農地改革に関する覚書」提示。 
12.9 <GHQ指令>戦犯9名指名される。近衛文麿公爵、木戸幸一内大臣ら。
12.9 「全国鉄労組」結成。
12.10 京成電鉄労働組合が業務管理に入り、収入を組合で管理した。
12.12 第1回拡大中央委員会が開かれた。当面の具体的方針を決定。中央機構の拡充。
12.12 「逓信従業員組合」結成。 
12.15 <GHQ指令>「国家神道に対する政府の保証、支援.保全、監督、弘布の廃止に関する覚書」国家と神道の分離を指令。  
12.15 上野駅地下道の浮浪者2500人が一斉収容される。
12.16 近衛文磨、服毒自殺(享年55歳)。 
12.16 【極東委員会、対日理事会設置の動き】モスクワで開かれた米英ソ三国外相会議において、朝鮮の信託統治及び極東委員会、対日理事会の設置が合意に達した。
12.17 <GHQ指令>衆議院議員選挙法改正(大選挙区制.制限連記制)、「婦人の参政権賦与(普通参政権制定)」日本初めて完全普通選挙制度を確立。
12.18 衆議院解散⇒「GHQ解散」
12.18 日本協同党(委員長:山本実彦)結成。「民主主義.協同主義.農業立国に基づく食料自給体制の確立」が綱領に掲げられた。
12.20 朝日新聞で、「近衛公手記」の連載を開始(12.30日完結)。
12.22 <GHQ指令>「労働組合法」公布。 
12.23 「東京都教員組合」結成。全教の下部組織。
12.27 鈴木安蔵らの憲法研究会が「憲法草案要綱」を発表。イギリスの「タイムス」が、社説「日本における教会と国家」は、「日本人は天皇制を永久に破壊するに足るだけにラディカルな革命無しに、彼らの危険なイデオロギーから解放される ことは出来ないであろう」と述べていた。
12.28 高野岩三郎、「共和制の改正憲法私案要綱」を発表。高野案は共和制を目指していた。こうして私案も含め憲法論議が活発化していくことになった。最大の懸案は天皇制 をどうするかであった。  
12.29 <GHQ指令>農地調整法改正(第一次農地改革) 
12.30 新日本文学会創立。秋多雨雀、江口換、蔵原惟人、窪川鶴次郎、壷井繁治、徳永直、中野重治、藤森成吉、宮本百合子ら9名の発起人による。宮本百合子「歌声よ、おこれ」を発表。
12.31 <GHQ指令>「修身、日本歴史、地理の学科授業中止に関する覚書」指令
この年、並木路子の歌う「リンゴの歌」が大流行する。


【「GHQ」指令の発令化】

 党の再建が為されつつあったこの時期幣原内閣の下で「GHQ」指令が次々発せられ、覚書.通達又は発令化が進められていった。以下列挙する。

期日 内容
10.9日 報道関係東京5社(朝日.毎日.読売.東京.日本産業経済)の事前検閲開始。10.29日より大阪でも開始。
10.13日 「国防保安法.軍事保護法.言論出版結社等臨時取締法の廃止」
10.15日 「治安維持法.思想犯保護観察法の廃止」
10.21日 「治安警察法の廃止」
10.22日 「日本教育制度に対する管理政策」(軍国主義教育禁止)指令
10.30日 「教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書」指示
11. 2日 「自由主義者の優先復帰と軍国主義者及び占領軍に反意を示す者の解職」通達
11. 6日 「財閥解体」(持株会社の解体を指令)
11. 9日 11名の戦犯容疑者逮捕命令。陸軍大臣荒木貞夫、松井石根、南次郎らが逮捕された。
11.20日 GHQが「皇族を含む皇室財産の凍結」指令。
11.21日 「治安警察法の廃止」 。
11.21日 GHQの教育課長が文部省に漢字教育の見直しを指示。
12. 2日 戦犯容疑者59名指名される。皇族梨本宮守正元帥、元総理大臣平沼騎一郎、広田広毅ら。
12. 4日 GHQが「宮殿下ゆえに特別扱いせず」声明を出し、皇族たちに衝撃を与えた。
12. 6日 元総理大臣近衛文麿、天皇側近元内大臣木戸幸一ら逮捕。
12. 9日 「農地改革」指令戦犯9名指名される。近衛文麿公爵、木戸幸一内大臣ら。
12.15日 「国家神道に対する政府の保証、支援.保全、監督、弘布の廃止に関する覚書」
12.17日 衆議院議員選挙法改正(大選挙区制.制限連記制)、「婦人の参政権賦与(普通参政権制定)」
12.22日 「労働組合法」
11.28日 GHQが「天皇制を形成する支配網を除去」声明。
12.29日 農地調整法改正(第一次農地改革)
12.31日  「修身、日本歴史、地理の学科授業中止に関する覚書」指令

等々が矢継ぎ早に発令されていくことになった。この民主化の嵐は、敗戦のむなしさと、どうにもならない空腹感を覚えていた国民の中に燎原の火の如くの勢いで受け入れられていった。


【戦犯の追及について】

 なお、戦犯に対する追求が掲げられてはいたものの実際にはドイツに展開されたような責任追求的な行動は組織されなかった点が注目される。


【マッカーサーの労働組合自由化策の舞台裏について】
 10.2日、マッカーサー司令官とカミーユ・ゴルジェ駐日スイス大使との会談の内容が、50年を過ぎて2002.8.11日、新聞各紙で報道された。それによると、マッカーサーは、10.11日に就任したばかりの幣原首相に、「五大改革」を迫り、その中に労働組合運動公認及び自由化政策が盛り込まれていたが、その意図に、敗戦後の日本が「経済面での新たな侵略行為」を為すことを懸念していたということが明らかになった。

 マッカーサーは、カミーユ・ゴルジェ駐日スイス大使との会談の際に、日本の潜在的輸出競争力を「なお残っている危険性」と指摘し、概要「食べていくにも困るほどの低賃金に支えられて廉価な粗悪商品が供給されており、そうした日本製品がアジア市場を独占していく可能性がある。私達はアジア諸国を日本経済の侵略から守らなければならず、具体的な方策として賃金を向上させるために労働組合を組織させ、日本の労働者を奴隷状態から解放する。そうすれば、日本の製品の価格が上昇して、むやみに他国の製品と競争することはできなくなるだろう」と述べた、ことが明るみになった。

(私論.私観) マッカーサーの労働組合公認自由化策について

 こうなると、戦後左派運動の正体が怪しくなる。戦前よりの獄中共産党員の釈放及び党運動の公認、続く労働組合運動もマッカーサー率いるGHQの手の内から出発したという史実の重みを考える必要があろう。

 れんだいこ観点に拠れば、そのように保護化されて始発した戦後左派運動が予想以上に急激に発展し、やがてGHQ権力と衝突し始める。1947.2.1ゼネストはそのエポックとなるが、こうなると戦後左派運動を指導した特に徳球―伊藤律系日共運動の能力が高かったということにもなろう。つまり、今日宮顕系日共党史からは悪し様にしか総括されていないが、真実はかなり有能な党運動の指導者ではなかったか、ということになる。


【この時期の社会民主主義者たちの動向】

 「GHQ」指令は当然の事ながら社会民主主義者(以下、「社民」と記す)及び宗教家たちをも解放した。「社民」とは、非共産主義運動的な社会運動家の寄り集まりであるという点に特徴があるが、この当時「社民」はかっての戦争協力者的経歴と概ね天皇制肯定的であった点で、党に負い目を持たされていた。とはいえ労働者大衆の利益を擁護するもう一方の流れであることには相違なく、党にとっても統一戦線上のパートナーであり競合者であった。

 「社民」と党との関係がどのように推移していくのかが戦後左翼運動の流れとなっており、党史はこの「社民」の動向との関わり抜きには語れない。というわけで以下、この歩みも併記していくこととする。


【日本社会党の結成】

 党のこうした動きよりいち早く社民主義者たちの動きも始まっていた。大阪で玉員放送を聞いた西尾末広は、その足で8.15日、京都の水谷長三郎を訪ね、「排共産党的(排共派)な社会主義政党の創立について相談している。更に、8.17日、上京後松岡駒吉を訪ね、政党結成の決意と労働組合の再建について相談している。「戦後社会党のスタートにおいて、西尾末広がまずその主導権を握った」(田村祐造「戦後社会党の担い手たち」)。

 戦前の旧無産政党各派のうち、1・右派系排共派−社民系(水谷.平野.西尾)が音頭を取って、2・同じく右派系排共派−日本労働党(日労)系(浅沼稲次郎.河野密.三宅正一・川上丈太郎)を誘い、3・右派だが反軍の片山哲派、4・左派系容共派−日本無産党系(加藤勘十.鈴木茂三郎)を包含しつつ、共産党系とは別の社会主義運動政党を目指すというのが結党の基準となっていた。つまり、四派の同床異夢的寄合世帯として出発したことになる。これがその後も続く社会党のらしさとなる。

 西尾の人となりは、叩き上げの労働者出身の無産政党運動で頭角をあらわしていった稀有な人士と総括できる。一揆的な革命主義よりは改良型の社会民主主義を良しとし、戦前の帝国議会の第一回普選に当選し「無産政党8人衆」の一人となっていた。氏の性格を物語る逸話として、1938(昭和13)年.春の議会で、「もっと大胆率直に、日本の進むべき道はこれであると、ヒットラーの如く、ムッソリー二の如く、あるいはスターリンの如く、大胆に進むべきである」と発言して物議を醸したことが象徴的である。西尾はこの発言で議員除名の処分を受けたが、本会議場での発言で衆議院から除名されたのは西尾氏が初めてとなった。翌年の補欠選挙で返り咲いている。付言すれば、この発言に対して「憲政の神様」と云われていた尾崎行雄氏は支持し、概要「私は西尾君の発言に同感である。西尾君が懲罰に値するなら、その前にまず私を除名せよ」と断固擁護している。

 
こうした動きを見せた社会党の創立資金を徳川義親公爵(元尾張藩主)や「天下の浪人」として有名であった藤田勇が応援したともある。徳川義親は、幕末の福井藩主松平春嶽の子息で、尾張徳川家の後を継ぎ、19代当主となった。一風変り種の人であったらしく、「平民新聞」を読み、米騒動の時には貴族特権階級の没落を予想する等進歩的な面をもち、同じ尾張出身の加藤勘十や、アナキストの石川三四郎らとも戦前から親交があった。敗戦後、目白にあった邸内の啓明寮には多数の社会主義者が集まり、宿泊付きの議論宿を許容していた。8.24日、この徳川邸で、片山哲、水谷長三郎、三輪寿壮、浅沼稲次郎、西尾末広、荒畑寒村、松岡駒吉、黒田寿男、岡田宗治、加藤勘十ら20名程度の会合が開かれている。鈴木の回想録「ある社会主義者の半生」では、「過去のいきがかりを一掃して、統一した一つの社会主義政党をつくることにまとまり云々」とある。

 もう一つの動きとして、鳩山一郎らとの絡みがあった。鳩山は敗戦1週間後軽井沢から上京し、安藤正純、芦田均、槙原悦三郎、牧野良三、北日令吉、星島二郎、矢野庄太郎、大野伴睦らとグループ化した。この連中と西尾、平野、水谷らが会合し、「お互いに主義派主義として進歩的な一つの政党を作ろうではないか」と談論している。しかし、この時の議論は進展せず、鳩山の「どうも、諸君と自分たちとは育ちが違うから一緒にやるのは無理かもしれんね」であっさり打ち切りとなった。この逸話は、社会党の親進歩的保守派性と鳩山グループの親保守的社会主義派性を物語っており興味深い。


 彼らが日本社会党の結成へと歩を進めていった。この頃を回顧して「テンワヤンワであった」と伝えられている。9月に入って片山、原彪、高津正道の3名が発起人になり、西銀座の貿易会館で「自由懇談会」の発会式を挙げている。集まったメンバーは、馬場恒吾、芦田均、西尾末広、加藤勘十、水谷長三郎、鈴木東民、安倍能成、有沢広己、賀川豊彦、海野晋吉、鈴木義男、清水幾太郎等々で、文字通り保革入り混じった面々であった。

 9.14日、「社会主義政党結成準備懇談会」の招請状が発送された。呼び掛け人は、社民党系として安部磯雄、日労と労農党系として高野岩三郎、農民運動系として賀川豊彦の三長老であった。山川均は外されていたようで「今出てきても何も出来ない。暫く静観されよ」との立場にいたと伝えられている。概要「光輝ある国体護持の下、新日本建設に挺身する為、旧交を温め、広く同志を天下に求めて、新日本建設を目指す」という呼びかけが為された。

 9.22日、社会主義政党結成第一回懇談会が開かれ、約200名が参集し、日本社会党創立準備委員19名が選出された。片山哲、河上丈太郎、加藤勘十、西尾末広、水谷長三郎、平野力三、河野密、浅沼稲次郎、黒田寿夫、鈴木茂三郎らであった。この顔ぶれからもわかるように、戦前の旧無産政党系の右派、中間派、左派の無原則な野合であり、共産党との大きな相違として自らの過去の戦争協力への反省などひとかけらもなかった。

 これを「社会党が社会主義とはまるで縁のない分子と、情実と、便宜のために作られたに過ぎないことは、その後の党内事情が立証したところである」(社労党・町田勝「日本社会主義運動史」)とまで見なしてよいかどうかは別にして、『寒村自伝』に拠れば、次のように記されている。

 概要「それだから、結成懇談会には名古屋の『忠孝労働組合』の山崎某も出ていれば、右翼の津久井某もきており、浅沼稲次郎が開会の挨拶の中で堂々と国体の擁護を主張するやら、最後には賀川豊彦が天皇陛下万歳の音頭をとるやら、遺憾なくその本質を暴露した」。

 11.2日日本社会党創立大会が日比谷公会堂で開かれた。2千名を越える超満員の盛況であったと伝えられている。大会をリードしたのは前記の創立準備委員たちであり、議長松岡駒吉、副議長松本治一郎、杉山元治朗、開会の辞は鈴木茂三朗、経過報告は水谷長三郎が行った。役員には、党首(委員長)空席とし、書記長に片山哲が指名され、総務担当水谷、選対部長平野、議会対策部長西尾を選出した。

 
新星社会党は、「政治的には民主主義.経済的には社会主義.国際的には恒久平和主義」等の簡明な三原則をうたった綱領を掲げて出発となった。一方で「国体護持」に基づく天皇制存続論の立場を明らかにしていた。大会の最後に賀川豊彦が天皇陛下万歳の音頭をとったことがこれを象徴していた。ここに日本社会党と日本共産党との際立った違いが見られた。

 
立党宣言には、概要「古き日本にすくうらゆる勢力の牙城をつき、彼等が欺瞞の面皮をはぎ、虚偽の舌根を抜いて、文化の薫り高き平和国家、新しき日本を建設せんとして立ち上がった。民主主義革命の歯車は回転し始めた。やがては社会主義革命の歯車とがっちりくみあって、新日本建設の一大運動は前進する」。三か条の綱領には、概要「我が党は勤労階層の結合体として国民の政治的自由を確保し、もって民主主義体制の確立を期す。資本主義を排し、社会主義を断行し、もって国民生活の安定と向上を期す。一切の軍国主義に反対し、恒久平和の実現を期す」とある。期するところ、「共産主義にあらざる社会主義政党としての単一政党」づくりが眼目であったようである。

 
社会党内は社会主義運動政党内の左右両派を幅広く集めた政治集団となっていた。この時のエピソードとして、小堀甚二が、「ここには戦争中、ねじり鉢巻で戦争遂行に協力し、軍部の片棒をかついだ戦犯がいる。そういう人間と一緒に、どうして社会主義政党がつくられるのか」と叫んだ。その場を西尾が「意見はいちいちごもっともで、そういう連中は決して党の中心に加えない」で収まったともある。

 社会党結成最初の難題は、共産党との共同戦線問題となった。共産党の志賀義男が何度も事務所に足を運んで共同戦線を申し込んでいた。12.4日の中央執行委員会はこれを取り上げ、協議の結果「わが党の綱領政策を徹底させることが、現下の急務であるから、わが党独自の方針をもって進む」ことに党議決定し、共産党の申し出を拒絶した。この時点では、右派が主導権を握り、鈴木ら左派がこれに無節操に妥協・追随したという構図を見せている。


【「GHQ」による政治犯の釈放の動き】
 この当時GHQは徹底した軍事勢力の解体を意図していたが、「敵の敵は味方」という関係に拠ったものと思われるが共産主義者.社会民主主義者.宗教家等の政治犯の獄中解放をも指図していた。

【東久邇宮内閣の山崎内相、岩田法相が、GHQによる政治犯の釈放の動きに抵抗する】
 10.3日、東久邇宮内閣の山崎内相、岩田法相らは、ロイター通信特派員に対し「現在のところ、政治犯人の釈放の如きは考慮していない」、「思想取り締まりの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室の宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する」と述べ、治安維持法体制の存続を画策し、共産党員の逮捕、投獄を続行する旨を表明した。

【「GHQの政治犯釈放指令」】

 GHQは、初期対日方針において「政治的理由に因り日本国当局に依り不法に監禁せられ居る者は釈放せらるべし」とあきらかにしていたこともあり、こうした旧支配層の頑迷さを許さず、10.4日、「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」を指令し、1・天皇.皇室.政府に関する自由討議の保障、2・治安維持法等弾圧法令の撤廃、3・すべての政治犯の10月10日までの釈放、4・特高警察等の治安「機能の停止」、5・治安警察課員.官吏の罷免(特高警察部の全員罷免)を政府に指令した。併せて山崎内相らの罷免を要求した。

 元帥の覚書発表にあたって、GHQの情報教育課長は、「今回の命令は日本政府が自らの総意に基づいて同様な改革を行う意思がないことが明らかとなったので出された。特に山崎内相の如きは、その24時間前に、依然として思想取締り機関の必要を力説し、政府転覆をもくろむものは何人といえども逮捕すると言明している」と、東久邇内閣の性格が全く占領方式と合致しないことを指摘していた。

 GHQ指令により、敗戦直後なお機能していた治安維持法体制が崩壊し、抑圧されていた左派運動が一斉に展開していくこととなった。

(私論.私観) GHQ指令による政治犯の釈放の意義について

 通常、政治犯の釈放は、「占領下民主主義」の流れで捉えられているが、より厳密には「軍事勢力の解体」と対のものであり、その一環の施政として捉える方がより的確ではないかと思われる。であるが故に、軍事勢力の解体作業が終息するに及び乃至は軍事勢力の復活の動きが強められるに連れて政治犯の再取締まりが為されていくという連動関係を見せることになる。このように理解すべきではないかと思われる。


 
占領軍内に強い影響力があった「日本のジレンマ」の著者アンドルー.ロスは、「ネーション誌9.26日」に「忘れられた囚人達」と題する一文を寄せた。次のように書かれているが、政治犯釈放の意義を考える際に大いに参考になるであろう。「反軍国主義のリーダーたちは、占領軍の民主的改革に不可欠であり、彼らは今、獄中にいる」、「彼らの釈放は、戦犯の摘発、軍国主義の復活の防止に役立つであろう。占領軍が本当に民主主義を日本に普及しようと思うならば、政治犯を釈放することが先決である」。


【近衛文麿公爵の憲法改正の動きその後】
 10.4日、東久邇内閣が総辞職した日、近衛公がマッカーサー元帥を訪問した。元帥は、サザランド参謀長を随えて会見に応じ、次のように述べた。
 概要「今日は決定的なことを近衛公に申し上げる。憲法は改正を要する。改正して自由主義的要素を十分取り入れなければならない。あなたが自由主義者を集めて帝国憲法を改正すべきである。この改正は、できる限り急速に成し遂げられなければならない。世界を知り、コスモポリタン(世界主義者)な近衛公の国家に対する唯一のサービスである。その案を近衛公は新聞に発表しなさい」。

 近衛公は、マ元帥の政治顧問アチソンにも面会して、元帥発言の確認と憲法改正のアドバイスを求めている。

【東久邇宮内閣総辞職】
 10.5日、東久邇宮内閣は総辞職を余儀なくされることとなった。概要「組閣以来1ヶ月半、最大の終戦事務たる陸、海軍の復員も順調に進捗し、連合軍の進駐も開始以来何らの事故も無く今日に及び、いわゆる終戦事務は一段落を見、組閣の任務は一応完了したり。よって、この機会に骸骨を乞う」が辞職の弁であった。


 この時、マッカーサーは副総理格の近衛文麿と会い、「敢然として憲法改正の指導の陣頭に立たれたい」と叱咤している。これを受けて近衛は、京都大学名誉教授・佐々木惣一を起用して、素案の起草に当らせる事になる。


【幣原内閣の成立】

 東久邇内閣は、GHQより山崎内相の罷免要求が為されたことにより総辞職を余儀なくされることになった。敗戦の混乱下の在職50余日の命運となった。後継首相の人選は、木戸幸一内大臣が天皇の命を受け、近衛文麿.平沼棋一郎枢密院議長.藤田侍従長ら天皇側近と協議した結果、吉田外相の推挙していた幣原に的を射た。吉田は、「私の先輩である幣原は老齢であるが、私が出馬を懇請すれば必ず起ってくれるだろう」と述べ、10.6日早朝、世田谷の草深い一角に焼け残っていた幣原邸を訪ね総理就任方を促した。
 
 幣原は、満州事変の勃発直後に軍部と衝突し外務大臣の職を辞しており、以来蟄居して隠居していた。政界から遠ざかったとはいえ、貴族院の有爵議員として議会が開かれると議事に参加していたが、戦時色の濃い当時の雰囲気にあって愁眉のうちにあった。歴史の塵埃の中に埋もれていた感があったが、この時73歳の老体に関わらず国難に際して身に鞭打ち、14年ぶりの表舞台への登場となった。概要「陛下は私に、内閣組閣の大命を下しになった。私は自信が無かったからご勘弁願ったが、いかにもご心痛のご様子が拝察され、事ここにいたって生命を投げ出してもやらねばならぬと心に誓うに至った」。

 10.9日、東久邇宮内閣の後継を受けて幣原喜重郎内閣(45.10.9〜46.4)が成立した。この当時はまだ選挙の洗礼を受けない「超然内閣」であった。この首相交代劇について、マッカーサーは、「天皇は、東久邇首相と叔父・甥の親族関係は占領軍が行ういろいろな改革に有害だと感ぜられ、首相は日本で最も尊敬され、且つ経験豊かな外交官の一人である幣原男爵と交代した」と述べ、天皇の気持ちを利用する形で歓迎している。

 官房長官・次田大三郎。占領軍との折衝を担当する外相には吉田茂が留任した。内相は堀切善次郎。農林大臣には松村謙三が就任した。当時の食糧問題は相当深刻であったことと農地改革の青写真を作成することを思えば大役であった。松村は、直ちに、和田博雄を農政局長、東畑四郎を農政課長に起用し、農地改革案の作成を指示した。松村は戦前からの自作農創設論者であった。

(私論.私観) 幣原内閣成立をめぐる問題点について

 幣原内閣の成立は、戦後のフランスやイタリアでは、共産党を含む諸勢力による政権の樹立、ドイツでもナチス戦犯を時効無しに追求する態度から新内閣が組閣されたことと比較すれば、日本的な特徴としての政治的後進性を示しているものとして注目されるであろう。

 幣原内閣の成立は、戦後のフランスやイタリアでは、共産党を含む諸勢力による政権の樹立、ドイツでもナチス戦犯を時効無しに追求する態度から新内閣が組閣されたことと比較すれば、日本的な特徴としての政治的後進性を示しているものとして注目されるであろう。


【幣原内閣の課題】
 幣原首相は、組閣に当たって、1・民主政治の確立、2・食糧問題の解決、3・復興問題、4・失業問題、5・戦災者の救済、6・行政整理、7・財政及び産業政策、8・教育及び思想の8項目を施策の重点におくことを表明した。

 マッカーサーは就任早々の幣原首相に対して憲法改正に着手するよう示唆している。他に東久邇宮内閣の国務大臣近衛文麿公爵に対しても開明的な憲法草案作成を指示したようである。この内閣の下で平行して「五大改革要求」が為された。「五大改革」とは、1.参政権の賦与による婦人の解放、2.労働組合の組織奨励、労働者の団結権の保障、3.圧制的司法制度の廃止、4.教育の自由主義化、5.経済の民主化、独占産業支配の是正であった。

 
 この政権下で、1・政党の復活、2・天皇の人間宣言、3・公職追放、4・憲法改正、5・戦後初の総選挙等が実施されていくことになる。内相堀切善次郎は、衆議院議員の選挙法改正に着手した。婦人参政権賦与、選挙年齢の引き下げ、大選挙区制の採用を骨子とする改正案であった。11.27日開かれた第89臨時帝国議会で、選挙法改正案が制定され、12.17日、公布された。これによって、満20歳以上の男女普通選挙権が認められることになった。


【プレ財閥解体の動き】
 10.8日、GHQの財閥解体係官であったヘンダ.ソンが、持株会社整理委員会の笹山忠夫委員長、野田岩次郎常務委員らを従え、帝銀の地下大金庫にしまっていた三井本社の所有株券その他を差し押さえ、内幸町にあった日本勧業銀行の金庫に収納した。同様のことが三菱本社、安田保善社、住友本社及び富士産業にも行われた。財閥の支配力はこうして持株会社整理委員会に取り上げられた。この時委員会が譲り受けた5社の有価証券は15億8600万円、全保有額の78%だった。

 10.16日、経済科学局係官クレーマー大佐が、「財閥解体については、最初から弾圧的手段をとることを避け、日本側から自発的に目的の達成に必要且つ適切な改革の機運の起こることを期待し、総司令部はこれを助成するに止める。しかし、もし日本側が何らの手もうたねば命令を出すにいたるだろう」と声明し、自発的解体を促している。

【戦後学生運動の端緒】

 10.8日、上野女学校でストライキが発生している。戦時中軍国主義教育を押し付けていた校長が、戦後も引き続き戦時下体制を続け、生徒達を学校農園の勤労奉仕に駆り立て、農園の作物や配給品を着服していた不正と横暴に対する女生徒達の怒りの爆発であった。生徒達は、校長の罷免、戦時中に罷免させられていた良心的教師たちの復職、学園の民主化を要求してストライキに立ち上がった。このストライキは新聞に大きく報道され、全国の学生.生徒の学園民主化闘争の契機となった。水戸高校でも10.11日ストライキに入り、反動的校長の罷免、進歩的教授の復職、学園の民主化を要求して全員が寮にたてこもった。静岡高校、佐賀高校、物理学校、法政大学、産業大学(一橋大学)なども相次いで闘争に立ち上がった。

 東大では経済学部教授が、大内兵衛、矢内原教授らの復職を決議した。京大の滝川教授らも次々と復職した。これらの教授たちを学生は歓呼して迎えた。10.31日「軍国主義的教員の解雇」がGHQ指令として出された。各帝大総長は相次いで辞表を提出した。


【米国が朝鮮に軍政を敷く】
 10.10日、軍政長官アーノルド少将は正式に「朝鮮人民共和国」を否認し、米軍の軍政を敷き始める。田川和夫氏は、「戦後日本革命運動史1」で次のように記している。
 「南朝鮮人民の闘争はこの時から、1・即自独立、2・38度線撤廃、3・軍政終結を要求する対米軍政闘争として大衆的に組織されていくことになる」。
 「南朝鮮人民は、日本帝国主義の軍事的敗北が自己の民族的解放の出発点になるどころか、逆に、アメリカ帝国主義との闘争に入らねばならなかった」。

【近衛公の憲法改正の動き続その後】
 10.11日、近衛公は天皇に拝謁して、憲法改正が必要かどうか研究するための内大臣府御用係の任命を受けた。

 10.12日、近衛公は、NBC放送のジャンセン記者と会見し、次のように報道された。「近衛公は、記者に、『日本憲法は天皇からほとんど全ての大権を取り離す。そして立憲君主制を明らかにするだろう』と語った。記者が、『その憲法改正で天皇が退位されるのか?』と質問すると、近衛公は、『天皇はこの問題に重大な御関心をお持ちである』と答え、『この憲法改正は天皇自身のご発意によるものだ』とほのめかした」。これは物議をかもし、翌日、近衛は、ジャンセン記者を通じて次のように言いなおした。「天皇の大権事項に関する自分の真意は次の通りである。即ち、議会の権限が拡大するかも知れない。その反面に於いて、天皇の大権が現在よりも制限の度を増す結果になるかもしれない、という意味である」。

 10.21日、近衛公は、AP通信のブラインズ東京特派員を通じて、世界に発表した。「マッカーサー元帥は、日本憲法を自由主義化する必要のあることをはっきりと言明し、自分にその運動の先導をやるように示唆された。自分は憲法彗星は天皇陛下の御発意によってのみ行い得る旨答えたが、元帥の意思を天皇にお伝えすることを約束した。そして、このことを天皇にご報告申し上げると、天皇は自分(近衛)に憲法改正に着手せよ、と命じられ、内大臣府御用係を拝命したのである。憲法改正案は11月中に完成したいと考えている」。(2,006.7.18日付け岡山日々新聞「岡目八目」の河上文久氏の「日本近代史」bU28参照)。

【新憲法草案づくり始まる】
 関連サイト「戦後憲法の制定過程について(一)経過

 「GHQ」は当初より民主憲法の制定に早急に着手するようにとの指示を為していた。早くも10.4日、東久邇内閣瓦解の前日、マッカーサー元帥は近衛国務大臣を呼びつけ、「憲法は勿論改正されねばならぬ」と述べ、日本国憲法の民主主義化を要請している。当時の常識として明治憲法は欽定憲法であり「不磨の大典」であると思い込んでいたので改正は思いつきもしなかったようである。近衛公は元帥の指示を受けると、木戸幸一内大臣にその由を伝えた。木戸内大臣は、憲法改正に消極的な幣原の同意を得て、憲法調査を内大臣府で取り扱うことに決め、近衛を内大臣府御用掛に任命した。近衛は、箱根の山荘にこもって憲法改正草案の起草に没頭した。

 10.11日、幣原首相が、憲法改正に関して閣議に諮った。閣議では、芦田均・厚相、松本烝治・国務相などが、憲法改正と言うことはもっとも重大な国務で、内閣がそれをやらないで誰がやるのですか」と近衛ベースの草案作りに異議を唱えた。しかし、木戸内大臣は政府の意向に関わらず、近衛に憲法調査をすすめるべきことを指示した。幣原もこれに賛同した。

 この後、幣原首相が就任挨拶で元帥を訪問した。幣原・マッカーサー会談において、マッカーサーは、憲法の自由主義化を幣原に示唆した。こうして、政府直属の新憲法草案づくりを急ぐことになった。こうして、憲法改正問題は、内閣と内大臣府の二本立てで進むことになった。

 マッカーサーは、この経過について、概要「降伏後、私はまず日本側指導者に告げたことの一つは、明治憲法を改正してほしいということだった。だが、私はアメリカ製の日本憲法を作って押し付けるという方法は採用しなかった」(回顧録)と述べている。つまり、押し付けるのではなく、自力の草案づくりに配慮していたということであろう。


 10.13日、政府は、松本蒸治国務相を憲法専任大臣として、憲法改正に関する研究を開始することを決定した。この時点で、近衛公らによる憲法草案起草も為されていたので遣り取りが為された結果、10.24日、近衛公は松本国務大臣と会見後、「内府案を政府に押し付けるの考えは全くない」と声明している。こうして10.25日、松本を委員長とする「憲法問題調査会」が設置さ れた。10.27日初めての会議が開かれ、その後翌46年2.2日まで7回の総会、15回の調査会の都合22回にわたって頻繁に討議が重ねられた。
但し、この作業はGHQにも国民にも明らかにせぬまま進められた。顧問は東京大学名誉教授野村惇治、同美濃部達吉、貴族院書記官長小林次郎、法制局長官楢橋渡。審議委員は、東京大学教授宮沢俊義、九州大学教授河村又介、慶応大学医学部名誉教授.松本氏秘書官三辺謙由らであった。

 松本蒸治氏は当時68歳前後、明治33年、東大法科卒業後、農商務省の参事官を経て、東大助教授、教授となる。教授を退官後、満鉄副社長、法制局長官、商工大臣を歴任。商法の大家であり、わが国法曹界の元老であるが、平素は、洒脱な人柄で知られていた。(「日本の戦後.上」63P)。


 
議会で発表された「松本四原則」は、1・天皇の統治大権する原則に変更を加えない。2・大権事項をある程度制限し、代わって議会の権限を拡大する。3・国務大臣の輔弼責任は国務全般に及び、議会に責任を負う。4・臣民の自由と権利を保護し、その侵害に対して国家の保障を強化するというものであった。

 
できあがった草案はきわめて現状維持的で、旧憲法「天皇は神聖にして侵すべからず」が「天皇は至高にして侵すべからず」という変更のほか、帝国憲法の一部改正のかたちをとったものであった。三ヶ月の作業をかけて作成された松本案は、天皇の統治権を温存しようとした旧態依然たるもので、「GHQ」は満足しなかった。起草委員の考え方は、美濃部博士次のような考えに象徴されていた。概要「日本の憲法は明治憲法で充分であり、何の変更も必要ない。ただ軍部と右翼政治家がその運用を誤っただけであるから、正しく運用すれば、日本の発展に役立つ『不磨の大典』である」。

 10.16−18日、鈴木安蔵が東京新聞紙上で憲法改正について言及していた。但し、憲法の部分的修正を説くにとどまっていた。10.22-24日、美濃部博士は朝日新聞紙上で改憲不要論を発表している。明治憲法を最大限民主主義的に解釈すれば足りるという「不磨の大典」観が表明されていた。11.5日、民間のうごきとして第一回憲法研究会開催。高野岩三郎、杉森孝次郎、森戸辰男、室伏高信、岩淵辰雄、鈴木安蔵。鈴木安蔵を事務局長格とした。順次鈴木義男.今中次麿.有竹修二.木村ネ喜八郎らが参加してくることになった。大内兵衛の影響が認められた。11.4日から読売放置新聞紙上で、「民主主義への途」と題する座談会が開かれ、席上徳川義親が概要「8.15日で古いものは滅びた。今更憲法改正でもなかろう。新しい憲法が制定されねばならないのぢゃないか」と述べていることが注目される。憲法研究会では、その後共和制論議が展開されていくことになった。

 この間11.1日、GHQは、談話を発表して「近衛公の憲法改正に関する行動は単に天皇と近衛公の個人的関係であって、司令部の関知するところではない」と近衛公の公的役割を完全否定した。近衛は見放されたが、それでも京都帝大の佐々木惣一法学博士を顧問として憲法調査をすすめた。近衛内府の憲法草案は遂に発表されぬまま葬り去られることになる。

 11.20日、内大臣府の廃止が決定した。内大臣府が廃止されたことにより、近衛の憲法調査はよりどころを失った。11.22日、近衛は天皇に、改正項目を奉答。佐々木も御進講をおこなったが、ついに内大臣府は廃止され、近衛の草案も闇に葬られた。近衛は、その後戦犯容疑で逮捕命令が出され、12.17日未明、自宅で服毒自殺し、末悲劇的な死を遂げる。


【昭和天皇の免責工作】

 10.20日及び10.24日の終戦処理会議の幹事会で、天皇の戦争責任問題に如何に対処するかの検討をしている。概要「真珠湾事件の釈明の仕方につき如何答弁すべきか、天皇の責任が問われることになる場合、これをいかに切り抜けるか」の論理構築を打ち合わせしている。これが、幣原内閣に課せられた重要な案件となっていた。
 
 10.30日、閣議決定で、「大東亜戦争敗戦の原因及び実相を明らかにすることは、これに関し犯したる大なる過誤を、将来において繰り返さざりしむるがために必要なりと考えられるが故に、内閣に右戦争の原因及び実相調査に従事すべき部局を設置し、政治、軍事、経済、思想、文化等あらゆる部門に渡り、徹底的調査に着手せんとす」として、「大東亜戦争調査会」の設置を決定した。

 11.5日、幣原内閣は、「戦争責任等に関する件」を閣議決定した。この閣議決定は、戦争責任問題及び天皇のそれに対する政府の統一見解を定めたことになり、@。大東亜戦争は帝国が四囲の情勢に鑑み、やむを得ざるに出でたもの、A・天皇はあくまで対米交渉を平和裡に妥結せしめられんことに心を砕いていたこと、B・天皇の関与は憲法運用上確立せられおる慣例に従われ、大本営、政府の決定事項を却下遊ばされざりしこと等々と公式化させた。


 この統一見解が「国際的に通用するかどうか、ということになるとかなり心もとない、状況にあったのは確かであった」(「東条メモ」)が、その後の政府の中核的な見解となって現在にいたっている。

 11.24日、幣原内閣は、「大東亜戦争調査会」を設置した。


【労働組合の動き】

 戦時中の労働組合は徹底的に破壊され、大東亜戦争の始まる2年前の1939年、まだ517組合、36万6千名が組織されていたが、1941年には11組合に減り、更に1944年には完全な零と化していた。戦時中、労働組合は産業報告会に改組され、「聖戦」遂行に積極的に協力する機関に転落していた。

 敗戦後2ヶ月を経た10月に入ってから全国的規模で労働組合の結成が始まった。10.5日神戸で、戦前の産業報告会の焼き直し的であったが、
戦後初の産業別単一組織として「全日本海員組合」が誕生した。


 12.22日、労働組合法が公布されたことにより、労働者の団結権.団体交渉権.争議権が保障された。翌46年には労働関係調整法、47年には労働基準法が公布されることになった。

 法の認可を受けて以後爆発的に労働組合が組織されていくことになった。この当時「GHQ」経済科学局は、労働組合運動を日本の民主化を促進させる為に必要な措置みなしており、そうした判断されて後押しされた事情があった。45年末段階で、509組合、約38万名が組織された。早くも戦前の最高水準に迫っていた。翌46年6月段階では、12000組合、368万名が組織された。組織率39.5%。同年12月末には17000組合、484万名に達した。戦後の混乱の中で短期間に飛躍的な拡大を遂げた様子が見て取れる。

 高野実の「日本の労働運動」において、この頃の様子が次のように書かれている。「どんな日とて、組合の結成式の二つや三つない日は無かった。荒畑も、山花も、私も馬車馬のように駆け巡っても間に合わなかった」(荒畑は荒畑寒村、山花は山花英雄のことである)。

 戦後の労働運動に大きな影響を与えることになる主な組合結成の動きは以下の通りである。

10. 5日 全日本海員組合
11.11日 北海鉱山労働組合連合会
11.15日 国鉄従業員組合
11.20日 東京交通労働組合 戦前左翼労働組合として知られていた。
11.23日 東京都従業員組合 戦前左翼労働組合として知られていた。
12. 1日 全日本教員組合(全教) 小野俊一、羽仁五郎ら、戦前の左翼系労働組合の流れを汲む。
12. 2日 日本教育者組合(日教) 賀川豊彦、河野密、吉川兼光ら。
12. 9日 全国鉄労組
12.12日 逓信従業員組合
12.23日 東京都教員組合 全教の下部組織。

等々が結成された。闘争の高まりの中で、労働組合の地方的な共闘組織や、産業別の全国組織も次々と生まれていた。その他農民組合運動、部落解放運動、婦人運動が組織された。 


【この頃の労働争議】

 10.17日、読売新聞労働者は社内指導部の戦争責任追及闘争に入った。続いて10.22日戦争中の言論活動の責任が問われ、朝日新聞社経営陣が総退陣させられた。編集総長千葉雄次郎、細川隆元、佐々弘雄、嘉治隆一ら6名を中心に突き上げが為された結果であった。11.3日従業員組合が結成され、聴涛克巳が社員代表委員会の委員長に選出された。聴涛は、「大朝時代に森恭三、広岡知男らと三羽烏と謳われた逸材で、敗戦当時は東京本社の論説委員」(増山太助「戦後期左翼人士像」)であった。


【第一次読売争議】

 10.24日、第一次読売争議が発生している。読売争議が戦後労働運動のトップを切る栄誉を担うことになった。論説委員鈴木東民がこれを指導した。鈴木の略歴として、「大阪朝日を振り出しに、電通の特派員時代にナチス批判の記事を送信した為にドイツから追放され、帰国後も軍国主義批判の言論活動を続けて『横浜事件』に連座、読売新聞社に在籍しながら執筆禁止状態で敗戦を迎えた」(増山太助「戦後期左翼人士像」)とある。

 読売争議は生産管理を目指した。この経過は次の通りである。鈴木は、読売新聞社内に志賀重義、坂野、長文連、片山さとし、岩村三千夫らと共に「民主主義研究会」をつくった。鈴木は、幹部クラス42名の連署による進言書を書き上げ、正力松太郎社長に研究会設立の承認を求めたが、正力社長は「読売の社員が個人的に民主主義を研究するのは構わないが、社内の問題は調査局長に命じて調査させているじゃないか。ことさらに研究機関を設ける必要はない」と蹴った。

 やがて「民主主義研究会」発起人をかく首しそうだという情報が入るに及び、10.23日鈴木らは従業員大会を開いた。新聞の戦争責任を明らかにするため、社長以下全重役、全局長の総退陣要求決議を可決、その他@・従業員組合の承認、A・社内機構の徹底的民主化、B・従業員の人格尊重と待遇改善、C・消費組合と共済組合の結成の承認の4項目の方針を決定した。大会代表は正力社長に面会し、決議文を手交して24時間以内の回答を迫った。正力社長は、翌24日指導者5名(鈴木、長文連、坂野善郎、山主俊夫、菱山辰一)の解雇を発表してこれに応戦した。鈴木らは組合結成と同時に闘争委員会を組織し正力体制に徹底抗戦することとなった。こうして、第一次読売争議が発火した。

 この時労働側は、「一時的に経営を我々の手で管理するほかない」という結論を出し、生産管理戦術を採用した。こうして、戦後初めてのケースとして生産管理闘争が始まった。「我々は社の経営の民主化を標榜しているのであって、従来の経営者及びその幹部が戦争に協力したという、自分の犯罪行為に対する反省を欠いている限り、彼らには新聞社の民主主義的運営を期待できないから、我々が一時、替わって運営する」というのが言い分であった。こうして読売争議団は、読売新聞の編集局、工務局を占拠して争議に突入し、労働運動史上最初の「生産管理」の実力行使に入った。

 10.26日、読売新聞紙上に、従業員組合名の次のアピールが載った。「読者に訴う。新聞の民主主義化と報道の自由の確立のため、本社従業員は、社長副社長及び全局長の戦争責任を追及し、かつ従来の封建的社内機構を打破すべく、去る24日から彼らに対し闘争宣言を発した。爾来、本紙の編集、印刷は、社員大会において結成された闘争委員会の管理下に置かれることとなり、全従業員は真に民主主義的なる新聞の刊行により新日本の建設に寄与せんとの熱意をもって各自の部署にその全力を傾注している。読者各位の熱烈なる後援を頼む」。

 11.10日、共産党・社会党・その他の民主団体が、東京・日比谷の公園音楽堂で大会を開き、読売新聞社にデモをかけている。デモ隊はその後朝日新聞社に押しかけ、「読売がご承知の状態にある。隣組の朝日の労働者が傍観しているとは何事か」と気勢を挙げ、聴涛克巳が「まことにごもっとも。組合は全力をあげて応援する」と返答したことが袴田により明らかにされている(袴田「私の戦後史」)。そうこうしているうち12.11日正力社長が戦犯容疑者に指定され、巣鴨拘置所に拘禁された。

 12.12日、急遽会社と闘争委員会の話し合いが持たれことになり、@・正力の後任に馬場恒吾の社長就任、A・会社の株式会社化、B・経営協議会の設置、C・福利事業の実施、D・社員の待遇改善、労働協約の締結、E・争議者の解雇撤回、F・従業員組合の承認し等々を約し、、約50日間に及ぶ第一次読売争議は終息を見た。この間読売新聞は発行部数を大いに増大させ、170万部に達しようとしていた。その後、鈴木が編集局長になる。


 第一読売争議は勝利に終わった余勢をかって、読売の労働組合が呼びかけ人となって、新聞、通信、放送労働者を一丸とする産業別単一労組を結成していくことになった。その初代委員長は鈴木が擬せられていたが、蓋を開けてみると委員長に聴涛、副委員長に鈴木とNHKの白神昇蔵の布陣となった。この経過に聴涛と鈴木の確執が発生したようである。


【農民運動】
 「8.15日の敗戦と同時に、山口武秀が直ちに農民の組織化に入って40〜50名の農民を組織し、8月末には早くも村役場に押しかけ、村長を追放する『農村民主化運動』を勝利せしめた。茨城で始まった農村ボスの戦争責任を追求する闘いは、その2ヵ月後の10月以降になるト全国化し、戦前の小作争議などの経験が少しでも残っているところでは、忽ちにして火がついていった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。

 
10.3日、農民運動家、須永好.野溝勝.黒田寿男.平野力三.大西俊夫らを中心として日本農民組合設立準備世話人会が発足、全国単一農民組合結成に乗り出した。

 11.3日、43府県の代表出席の下に全国懇談会が開かれ、結成方針が確認された。翌46.2.9日「日本農民組合」として結成される。
【戦犯容疑者の逮捕】

 11.9日、11名の戦犯容疑者逮捕命令。陸軍大臣荒木貞夫、松井石根、南次郎らが逮捕された。
 12.2日、戦犯容疑者59名指名される。皇族梨本宮守正元帥、元総理大臣平沼騎一郎、広田広毅ら。
 12.6日、元総理大臣近衛文麿、天皇側近元内大臣木戸幸一ら逮捕。

 この頃、「天皇ヒロヒトをいかなる戦争犯罪人のクラスに入れるか、目下問題の中心として論議中である」とワシントン発のAP電が伝えている。


【婦人活動その他】

 8.25日、市川房枝、山高しげり、赤松常子、河崎なつ、山室民子らが集って、戦後対策婦人委員会結成。

 11.3日、新日本婦人同盟が結成された(会長.市川房枝)。婦人参政権の獲得と「政治と台所の直結」、「婦人の経済的、視野快適、法律的地位を高めること」を目的としていた。


【国連の設立】

 10.24日、国連が設立される。本部はニューヨークに置かれ、理事長にデビッド・ロックフェラーが就任した。


 10月末、逓信院が「部内労働組合運動に対する基本方針」を定め、12.20、21両日、逓信局長会議の場で指示している。それらよると、@・全国的単一的労働組合として育成する。A・部外団体からの指導の排除。B・政治活動の抑制。C・ストライキ権行使の抑制。以上4項目を根幹としていた。


 11.3日、世界労働組合会議(世界労連)が開かれ、世界各国の主要な大組合を統一した。戦前からの反ファッショ人民戦線の流れを汲んでいた。


【皇室財産】

 11.5日、「ニュースウイーク」は、皇室及びその財産に関して次のような記事を掲載した。「宮内省には5千人の従業員がいて、天皇のサラリーは225万ドル、6千平方マイルの不動産があり、日本銀行の30万株のうち、14万1千株は天皇家の所有である。1913年から真珠湾攻撃までの間に、皇室の財産は3億4千万円から300億円に膨れ上がった」。この数字の由来は分からない。

 皇室財産は、昭和22年の評価によると、総額37億7500万円であり、これに対して、33億4千万円の財産税が課せられた。更に残りの4億円も大部分が国庫に返され、天皇に残されたのは1500万円の現金と美術品、貴金属などのみであった。これは他の皇族たちも同様で、梨本宮家の場合、財産は3686万円とみなされ、財産税として2586万円が課された。そのため、二つの別邸、美術品、道具類などを売って税金を捻出した。


【その他政党の動き】

 11.9日、反東条派として院内交渉団体「同交会」を形成していた旧政友会系久原派の政治家たちは、戦時中の翼賛選挙に非推薦で当選していた鳩山一郎を中心として「日本自由党」を結成した。総裁に鳩山一郎、幹事長に河野一郎、政調会長に安藤正純が就任した。その他三木武吉、松野鶴平、芦田均、星島二郎、菊池寛ら15名が創立準備委員で、37名を集めていた。

 
天皇制の支持、私有財産制の擁護を詠い、「自主的にポツダム宣言を実践し、軍国主義的要素を根絶し、世界の通義に則って新日本の建設を期す」等の綱領が掲げられた。「人権を尊重し、婦人の地位を向上し、盛んに社会政策を行い、生活の安定を期す」の項目も掲げられていた。結党に至るまでの一時期無産党の平野力三.水谷長三郎.西尾末弘らも寄り合いしていたことから明らかなようにややリベラル傾向を持つ保守党として位置していた。結党時海軍小玉機関が戦時中貯えていたダイヤ.プラチナなど7000万円相当を小玉誉士夫が鳩山に提供し、河野が換金したのが党資金になった、と云われている。

 
児玉機関とは、戦時中の上海で海軍航空本部の軍需物資を調達した。終戦後、児玉はダイヤモンドなどの残存物資を東京に運び、それが鳩山一郎らの自由党設立の資金にあてられたと云われている。以来、児玉と政界トップとの間に太いパイプが出来たとも云われている。84.1.17日死去。

 
11.15日、戦時中の主流派で、翼賛議員からなる「大日本政治会(翼賛政治会)」は9.14日解散したが、この旧大日本政治会系議員たちによって「日本進歩党」が党首未定のまま結成された。当初宇垣一成の総裁擁立が画されたが結局12.18日、旧民政党総裁町田忠治が総裁、幹事長に楢橋渡が就任し、273名を集めた。幣原首相もこの系譜に属する。「国体を護持し、民主主義に徹底し、議会中心の責任政治を確立す」等の綱領が掲げられた。この時点では最も保守的な色彩の濃い政党として位置していた。

 12.16日、近衛文麿(55歳)自殺。

 12.18日、「日本協同党」が結党された。委員長山本実彦。「民主主義.協同主義.農業立国に基づく食料自給体制の確立」が綱領に掲げられた。協同組合主義の千石興太郎(農協の草分け)、酪農家黒沢酉蔵、船田中、井川忠雄、三木武夫らが結集していた。こうして主要政党は45年中に出揃った。これらの政党は「国体護持」を掲げていた。その他一人一党的な群小政党が誕生していた。 


【共産党が、「新憲法の骨子」を発表】
 11.11日、共産党は、「新憲法の骨子」を発表した。主権在民、18歳以上の普通選挙権、責任内閣制、人民の政府、議会に対する人民の監視.批判権、人民の権益保証、階級的並びに民族的差別廃止が主張されていたが、骨子に過ぎなかった。どうやら、新憲法制定は人民共和政府の樹立後に本格的に着手すれば良いと考えていた風がみられた。

(私論.私観) 日本共産党の「新憲法の骨子」について

 この観点は、現下党中央の党史からは消えている。


【新憲法草案論議】

 11.26日、第89帝国議会が開かれ、本会議及び各種委員会において憲法論議が戦わされた。調査会答申が出されていない手探りの段階の議論であったが、大枠をめぐって活発に議論された。12.8日の衆議院予算委員会質疑で、松本蒸治氏は、憲法改正4原則として@天皇の統治権総覧の大原則は不変、A議会権限の拡大、B国務大臣の国政全般及び議会に対する連帯責任、C臣民の権利、自由の確立を指し示した。

 11.27日、社会党は、「共産党との共同戦線を持たざること」とする党の態度を決議した。共産党の再三にわたる共闘の申し入れをにべもなく拒否しつづけた。

 
12月、モスクワで極東委員会が成立した。
 12.8日、衆議員予算総会で、憲法改正の進捗状況を尋ねられた松本委員長は、「自分一個の大体の構想だが」の前置きで大枠明治憲法の改良版的な「松本四原則」を答弁している。

 12.27日、鈴木安蔵らの憲法研究会が憲法草案要綱を発表。署名者は第一回参加者に馬場恒吾が加わり7名になった。要項には、根本原則の冒頭で「日本国の統治権は日本国民より発す」とするなどリベラルな内容が盛り込まれていた。代表を通じて、首相及びGHQに提出された。イギリスの「タイムス」45.12.27日付社説「日本における教会と国家」は、「日本人は天皇制を永久に破 壊するに足るだけにラディカルな革命無しに、彼らの危険なイデオロギーから解放される ことは出来ないであろう」と述べていた。12.28日高野岩三郎が改正憲法私案要綱を発表。高野案は共和制を目指していた。こうして私案も含め憲法論議が活発化していくことになった。最大の懸案は天皇制 をどうするかであった。


【教育革命】
 10.22日、「日本教育制度に対する管理政策」(軍国主義教育禁止)指令。教育内容の改正、職業軍人.軍国主義者及び占領政策に反対する者の罷免、自由主義教育者の復帰、軍事教練の絶対的廃止、軍国主義的体育(正課としての柔道.剣道などを含む)の廃止、教育課程の改訂などを指示していた。

 10.31日、一般復員軍人の教職への新規採用に関する日本教育非適格者追放指令。

 11.21日、民間情報教育局(CIE)の教育課長ホールが、文部省の有光次郎教科書局長に、子供達に教える感じの数を減らすよう指示している。「漢字は初等科6年間で1000字、中等科で500字の1500字くらいにせよ、印刷は左から右にせよ、という内容だった」(「戦後教育改革通史」)。外国人及び庶民に読みやすくするという理由であった。ホールの目論見は、「公用語の漢字からカタカナ統一」、「日本語を廃止しローマ字化」にあったようである。

 12月、国家権力と神道との分離、終身及び日本歴史の授業停止指令。

【戦略爆撃調査団、近衛を尋問】
 11.9日、戦略爆撃調査団、近衛を尋問。アメリカ側は近衛の予想に反して、この尋問の際、首相時代の近衛の日中戦争に対する政治責任を厳しく追及した。この背景に、日本近代史の専門家、GHQの対敵情報部(CIC)の調査分析課長・E・ノーマンによる「戦争犯罪人に対するレポート」があった。このレポートに「近衛調書」があり、その中で日本ファシズムの形成過程で近衛が果たした役割が重視されていた。「彼の在任中の記録から、私は彼が戦争犯罪人にあたるとの強い印象をもった。しかしそれ以上に容赦ならないことは、彼がよくてなずけた政治的専門家と術策をめぐらし、もっと権力を得ようと上手に立ち回り、中枢的地位に巧みにのしあがり、現状において彼は不可欠の人物であるとほのめかすことにより最高司令官の救いを求めて、いまだに公務にでしゃっばっていることである」、「近衛が重要な地位についている限り、民社化は困難であり、民主憲法の作成も灰じんに帰すであろう」と進言されていた。

 レポートは11.5日付けでGHQの政治顧問G・アチソンに提出され、この結果近衛が戦犯容疑者リストに加えられることになった。


 12.6日、近衛の逮捕命令が発せられ、近衛は巣鴨拘置所へ出廷予定日の12.16日未明、自宅で服毒自殺を遂げた。

 12.20日、朝日新聞で、「近衛公手記」の連載を開始(12.30日完結)。

 12.5日、赤旗が第三種郵便物を認められ、合法紙となった。朝鮮戦争勃発の翌日の1950.6.26日に30日間の、やがて無期限の発行停止命令がGHQよりなされ、この間に第三種認可資格を喪失するまで続くことになる。


【生産管理の動き】
 読売争議の生産管理の動きは各方面に広がっていくこととなった。12.10日、京成電鉄労働組合は業務管理に入り、収入を組合で管理した。京成電車の生産管理闘争は一企業一事業場であったが、東芝闘争は一企業多事業場での生産管理闘争へと進展していくことになる。12.14日、東芝堀川町工場従業員組合が結成され、この動きが他の工場にも及び始め、翌年ストライキに突入後生産管理闘争に切り替えられる。12.17日、池貝自動車従業員組合が東芝闘争を支援。翌46.1.10日、日本鋼管鶴見営業所が生産管理に入り、1.18日、執行委員長以下組合が完全に業務を掌握した。1.18日、関東配電従業員組合が業務管理に入った。

 この間GHQ経済科学局(ESS)労働課は中立を表明していた。
(私論.私観)「生産管理」闘争の歴史的評価について
 
 「生産管理闘争」は徳球系共産党中央の指示によるものなのかも自然発生的に生まれたものなのか判然としない。この時期一定広がり最終的に流産した。1946.10.25日アカハタによると「労働者はその生活を擁護するために部分的に生産管理をしているけれど、これとて永続する希望は無い」とあるように、1946.10月頃の党中央は指導性を発揮する能力を持たなかったようである。これは、直接的には当時の労働者階級の左派成熟レベルを示しており、運動論的には徳球委員長を始め当時の指導部の指導能力の問題であり、あたら惜しい経験であったように思われる。れんだいこ史観によれば、野坂を迎え入れて以来の右派化の影響が大きいと見る。その後の日本左派運動が、この時期の「生産管理闘争」の意義を認めないままに推移したのは、かえすがえすも大きな損失となっているように思われる。(「生産管理闘争の意義と挫折」参照)

【GHQが「農地改革」指令】

 12.9日、GHQが「農地改革に対する覚書」を発し、「農地改革」指令日本政府に対し、46.3月までに次の諸計画に対する回答を提出することを迫った。「民主化促進上、経済的障害を排除し、人権の尊重を全からしめ、且つ数世紀にわたる封建的圧制のもと日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破するため、日本政府はその耕作農民に対しその労働の成果を享受させる為、現状より以上の均等の機会を保障すべきこと」を指令していた。

不在地主問題 耕作者に対する土地所有の移転。
休耕農地の買取り 耕作せざる所有者より農地を適正価格で買い取る制度。
小作人の土地買取り 小作者収入に応ずる年賦償還による小作人の土地買取制。
小作人の自作農化の保障 小作人が自作農化した場合、再び小作人に転落せざるを保障する制度。

【GHQが「神道指令」】

 12.15日、GHQが「神道指令」。


【極東委員会、対日理事会設置の動き】
 12.16−26日、モスクワで開かれた米英ソ三国外相会議において、朝鮮の信託統治及び極東委員会、対日理事会の設置が合意に達した。極東委員会は、本部をワシントンにおき、米英ソ中の4大国の他、仏蘭加豪ニュージーランド印比の11カ国(49年にビルマ.パキスタン)が参加し、@日本占領管理の為の政策、原則、基準の作成、A最高司令官の政策実施の検討、B参加国が合意した諸事項の審議の三項目を任務としていた。翌46.2.26日「極東委員会FEC」がワシントンに設置された。議長は米.他が勤めた。極東委員会は、対日占領政策の最高決定機関で、米国もこれに規制されることになった。しかし同時に「合衆国政府はーーー緊急事項発生する時は、常に委員会が行動を執るまでの間、最高司令官に対し、中間指令を発すること得」として、米国政府の特権を保証していた。つまり、実質的には米国のフリーハンドが認められていた。

 
対日理事会は、東京に設置され、米ソ中英の4カ国が参加し、最高司令官との協議や助言を任務としていた。46.4.5日「対日理事会ACJ」が東京に設置された。議長米.英.ソ.中の4カ国代表によって構成された。「対日理事会」は、日本の占領と管理に対してマッカーサーに助言を与える権限をもつ諮問機関として発足した。これらの機関が超法規的権力となり、戦後の日本の再建を指導していくことになった。戦後の日本統治は、このGHQと極東委員会と対日理事会によって運営されていくことになった。

 この時、朝鮮問題も討議され次のように打ち合わされている。@・米ソ共同委員会が朝鮮各団体と協議して臨時政府樹立の方策を立てる。A・その臨時政府は、米ソ中仏による5ヵ年を期限とする信託統治下に置く。

 12.18日、幣原首相は衆院を解散している。しかし、GHQの命令により選挙の実施は46.4月に延期された。1月に公職追放を行い、大政翼賛選挙系議員を排除するためであった。「GHQ解散」と云われる。


 12.22日、「労働組合法」など労働関係3法が公布(施行は翌46.3.1日)された。労働組合法第三条は、「労働者とは職業の種類を問わず、賃金・給料その他これに準ずる収入によって生活するものを云う」と規定し、戦前の「天皇の官吏的服務規律」に縛られていた官公労働者をその法律的桎梏から解き放った。


 12月、発禁だった「共産党宣言」が再刊された。


【新日本文学界】
 12.30日、「新日本文学界」が結成された。秋多雨雀(うじゃく)、江口換、蔵原惟人(これひと)、窪川鶴次郎、壷井繁治(しげじ)、徳永直(すなお)、中野重治、藤森成吉、宮本百合子ら9名の発起人による。いずれも戦前のプロレタリア文学運動の中心的なメンバーであったことが分かる。

 この時の目的として「日本における民主主義的文学の創造とその普及、人民大衆の創造的・文学的エネルギーの昂揚とその結集」(設立大会の「宣言」)を呼びかけていた。


 翌46.3月に「新日本文学」が創刊され、徳永の「妻よねむれ」、宮本の「播州平野」の連載が始まる。この時「文学者の戦争責任追及」が提案され、採決されている。これを受け中央委員に選ばれた小田切秀雄が『新日本文学』の6月号で、25名を、戦争責任を負う文学者として指名している。「戦犯文学者」の認定基準は、「特に文学及び文学者の反動的組織化に直接の責任を有する者、また組織上そうでなくとも従来のその人物の文壇的地位の重さの故にその人物が侵略賛美のメガフォンと化して恥じなかったことが広範な文学者及び人民に深刻にして強力な影響を及ぼした者」とされていた。該当者の中に河上徹太郎、小林秀雄、亀井勝一郎、佐藤春夫、武者小路実篤、尾崎士郎らが挙げられていた。

 とはいえ、「戦犯文学者」の追求は功を挙げ得なかった。その理由として、この時の追求側も多かれ少なかれ戦時中転向しており、発起人に名を連ねていた徳永直や壷井繁治、窪川鶴次郎らもまた戦争協力・戦争賛美の作品を書いていた。そうした過去を振り返ることなく、追及側に立つことには忸怩たるものがあった故と思われる。「彼等の責任は問わないで、新日本文学会に属さない文学者の責任追及を行おうとした。仲間をかばい合う、そのような一種の身内意識を、彼等は、旧作家同盟家族主義
(ドメスチシズム)ではないか」。こういう問いかけに対して、『新日本文学会』の創刊号に載った蔵原惟人の「新日本文学の社会的基礎」は、「戦後の反動勢力に流し目を送るような、人間的に卑しい行為だ」という非難を浴びせているが、それはあまりにも「旧態依然たる公式論」でしかなかった。

 むしろ転向論へと関心が向い、その後間もなく、荒正人.平野謙と中野重治との間で「政治と文学」論争が始まる。「戦争責任の追及は、同時に、転向した事実への反省、転向を引き起こしてしまったプロレタリア文学運動の創作理論や組織体質への根本的な批判」(「亀井秀雄の発言日本の戦後文学」)へと向かっていった。

【この頃の世相】 

 焼け跡闇市時代に「リンゴの歌」(並木路子歌手、サトウハチロー作詞、万城目正作曲)が大流行し、暗い世相の中に並木の歌声が一条の光となり、癒しと希望を与えた。これが戦後のヒット歌謡曲第1号となった。この歌は、1945(昭和20).10.10日に封切られた戦後映画第1作目(GHQの検閲映画第1作でもある)となった「そよかぜ」(松竹・佐々木康監督作品)の主題歌であった。映画よりも主題歌の方が大ヒットした。

 作詞は次の通り。

 「1、赤いリンゴに唇よせて、黙って見ている青い空。リンゴは何も言わないけれど、リンゴの気持ちはよくわかる。リンゴ、かわいや、かわいやリンゴ。2、あの娘(こ)よい子だ気立てのよい娘、リンゴに良く似たかわいい娘、どなたがいったかうれしいうわさ、かるいクシャミもとんで出る、リンゴかわいやかわいやリンゴ。3、朝のあいさつ夕べの別れ、いとしいリンゴにささやけば、言葉は出さずに小くびをまげて、あすも又ねと夢見顔、リンゴいわいやかわいやリンゴ。4、歌いましょうかリンゴの歌を、二人で歌えばなおたのし、みんなで歌えばなおなおうれし、リンゴの気持を伝えよか、リンゴかわいやかわいやリンゴ」。

 2001.4.8日、並木路子(本名南郷庸子・つねこ)は、心筋梗塞で東京都渋谷区の自宅で死去した(享年79歳)。


【新秩序再建の息吹】
 敗戦は戦前式の日本社会の秩序をご破算にさせた。戦前の秩序を仮に「学歴」から見れば、旧制高校−大学入学者の出身階層は大正、昭和初期と進むにつれて、中産階級以上の子弟に独占されてしまっていた(竹内洋「日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折」)。つまり、中産階級以上の子弟がエリート化されつつ階級の再生産に寄与するという特定階級の支配者層化社会が完成していたということになる。敗戦は、こうした階級の再生産構造を破壊しリストラするという意味をも持った。このことは同時に新秩序創造の息吹をも生み出したことを意味する。

 戦後の新憲法と学制改革が進学機会の平等を擁護したことから新たな学歴獲得競争が生み出されることになった。よしんば現実には富める者に有利に作用しようとも、進学機会の平等の制度的保障を手にした大衆は雲霞の如く高等(高校-大学)教育享受へと子弟を群がらせていくことになった。社会現象的にマス化しつつ高学歴競争へのうねりを現出させた。その様子は、例えば西欧のイギリスの学歴社会とは大きく様相を異にしていた。イギリスの場合、労働者階級の子弟の高等教育参入は限定されているが、日本の場合にはそのような垣根は存在しない。字義どおりの意味での一種大衆社会である。この背景にあったものは、大衆的規模での、新社会の支配者層への転化意欲であったと思われる。ここで基準となったのは、東大を頂点とする旧帝大大学出身者であるかどうか、次点として早稲田.慶応大学に代表される有名私大出身者であるかどうかであった。

 ここまでが戦後の敗戦時から70年辺りまでの特徴となる。しかし、80年代になると爛熟の様相を見せ始める。規定コースから外れた技術労働者養成教育的な専門技術学校も増え始める。このことは高等教育への参入がエリート化を目指したものからの分岐であり、競争過剰社会から成熟社会への移行とも見えるが、「頑張ればたどり着けるエリート化」活力の衰退とも見える。この進行は、80年代からの中流階級の分岐と符牒が合っている。つまり、戦後30年を過ぎた頃から新秩序の形成が確定したことを意味する。「中産階級以上の子弟がエリート化されつつ階級の再生産に寄与するという特定階級の支配者層化社会の完成」が戦後秩序的に完成したということを意味している。

 今、紀元2000年を前にして大衆のエリート参入は死語になってしまっている。そういう階級上昇志向が失われた結果かどうか「学力低下」と「学級崩壊」という局面に出くわしている。総合的な検討が要請される所以である。




(私論.私見)