第47部 1985年(昭和60年)の主なできごと.事件年表

 (最新見直し2006.11.24日)

【1985年度政府予算案】【中曽根内閣】
  一般会計3.7%増で引き続き50兆円に乗せたが、一般歳出が前年比マイナス*.*%の緊縮財政の中で、4年続きのマイナス・シーリングの中で引き続き防衛費だけ6.9%増で突出、遂に3兆円を突破した。GNP比率0.997%。昭和51年11月の閣議決定(三木内閣)の「GNP比率1%を超えないことを目途とする」の線まで89億円を残すだけとなった。

 ODA(政府開発援助)は10%増。「総合安全保障」傾向が一層強められた。

 国債発行額は、11兆6800億円(建設国債が5兆9500億円、赤字国債は5兆7300億円)で、前年度当初より1兆円減、国債依存度は22.2%になった。年度末の国債残高は133兆円と見込まれ、国債費は10兆円を超えて、歳出の**.*%を占め、1位の社会保障費を抜き、支出項目の第1位に踊り出た。

 1月、暴力団山口組組長らが一和会系組員に射殺され、抗争激化(87年終結)。


【竹下−金丸連合が「創政会」を発足】
 2.7日、幹事長・竹下登、金丸信による政策勉強会「創政会」旗揚げ。後に、「竹下派七奉行」と呼ばれる、小渕恵三、橋本龍太郎、小沢一郎、羽田孜、梶山静六、奥田敬和、渡部恒三ら40名が参加した。表向きは、政策勉強会であったが、実際は、竹下総理総裁を目指す、「派中派」であり、田中派の亀裂が鮮明化した。「経世会」の前身となるものである。

 その背景は次のように説明できる。田中派の総帥・田中角栄元首相は田中政権後も政界に睨みを利かせ「田中支配」と云われる権力の二重構造を現出させていた。しかし、ロッキード事件に見舞われ、田中以来10年以上も、総裁選に自前の候補を立てることができなくなり、田中派内に不満が鬱積していた。その気分が遂に竹下登を押し立てて「創政会」発足に繋がった。創政会発足直後、田中は脳梗塞で倒れるが、この後、田中派内は、竹下「創政会」グループと田中直系の二階堂グループとの対立が続き、分裂状態に陥ることになる。

 2.9日、社民連第四回全国大会を岡山県建部町友愛の丘にて開催。田代表辞任、後任江田五月、阿部昭吾書記長。「再生・前進」を掲げた。


【日共が、日中出版党員を除名する】
 2.22日、柳瀬・安藤氏は、除名された。2.24日赤旗に、「柳瀬宣久の除名処分について」が掲載された。一方的に都合のよい「党規律違反の概要」が書きなぐられていた。次のように罵倒している。
 「まして、前衛党たる日本共産党の場合、党員は、党の政策や方針に反対する見解を党外で勝手に表明することを明確に禁じた規定を含む党規約を自ら承認して入党しているのであって、党員にとってはその規約を守ることが、党にとってはその規約を守らせることが、すなわち『結社の自由』の重要な内容なのである。この党規約を認めて入党する以上、党員が自らの出版や言論の自由をこの『結社の自由』と両立させつつ積極的に行使することは、本来、外部からの強制ではなく、本人の自発的意思である。(なお、党の政策や方針に対する意見、異見は、党内で表明する道が党規約で保障されている)前衛党の党員が、『出版の自由』ということで、党攻撃を目的とした出版が勝手にできるなどという柳瀬の議論は、党の上に個人を置くことを求めるだけでなく、党破壊活動の自由を党自身が認めよというものであり、綱領と規約の承認を前提に自覚的に結集した前衛党を解体に導く途方も無い誤りの議論である。それは、前衛党の『結社の自由』のあからさまな否定に他ならない」。

(私論.私見) 「柳瀬宣久の除名処分について」の論法について

 これは、宮顕の戦前日共党中央委員小畑リンチ致死事件の際の居直り弁明時のそれと瓜二つである。つまり、宮顕は、同事件に対して何の反省もしていないことになる。「党員にとってはその規約を守ることが、党にとってはその規約を守らせることが、すなわち『結社の自由』の重要な内容なのである」とは、入党後の個人は煮て食われようが焼いて食われようが、党中央に対して何ら文句言えないとする恐るべき誓約を強いらることを示唆している。それが、「結社の自由の法律的意味である」とまで云う。無茶苦茶な論法であるが、これが罷り通っているみとの方が不思議だ。互いに頭がおかしいに違いない。

 2006.11.24日再編集 れんだいこ拝


 2.27日、田中角栄元首相脳梗塞で倒れる。東京逓信病院に入院(5.5日判明)。以降、長期療養生活に入ることになった。「政界の田中支配終焉」となる。


 3月、胡錦濤中華全国青年連合会主席(中国青年代表団団長)が訪日。


 3.10日、ソ連のチェルネンコ共産党書記長死去(3.11,後任にゴルバチョフ政治局員)


 4.1日、電電公社が株式会社NTTに、専売公社が日本たばこ産業に生まれ変わった。


 4月、彭真全人代常務委員長が訪日。


 4.23日、民社党第三十回大会。4.24日、長老支配を巡って佐々木委員長と春日常任顧問が対立。4.25日、塚本三郎委員長・大内啓伍書記長を選出)


 5.2日、第11回先進国首脳会議,ボンで開く。


 5月、長崎と福岡で中国総領事館がそれぞれ開設。


【東大院生支部の『宮本解任決議案』問題発生】

 党内反宮本派清掃第18弾。この頃東大院生支部の「宮本解任決議」騒動が発生している。宮地健一氏の「共産党、社会主義問題を考える」の「」(箇所不明)で詳述されているのでこれを参照する。

 7月、支部指導部が、同年11月開催の第17回大会に向けて「宮本解任決議案」を東京都委員会に提出した。宮顕解任理由は、党中央委員会とくに議長宮顕が、1・1977年の第14回大会後から誤りを犯し、国政選挙10年来停滞の指導責任がある。2・敗北主義・分散主義等党員にたいする様々な「思想批判大キャンペーン」をする誤りの責任があること等を問うものであった。その根底には、第14回大会以降の「民主集中制の規律強化」.「自由主義、分散主義との全党的闘争」を推し進め、ユーロコミュニズム・先進国革命とは逆方向に向かう宮顕路線への、東大以外も含めた学者党員、学生党員の党中央批判の感情、意見が反映されていた。

 院生支部は、規約に基く正規の提出スタイルを求めて、中央委員会と1回、都委員会と2回協議し、不破にも「質問書」を提出した。9月、党中央は、支部にたいして、「1.大会議案は提出できる。2.提案は支部でなく、代議員個人」と正式回答した。10月、東大大学院全学支部総会が開かれた。全学支部総会は、東大大学院各学部支部から選ばれた代議員60人で構成されていた。都党会議の代議員枠2人枠に対して、4人が立候補した。結果は、宮顕勇退派1人、党中央派1人で、党中央の宮顕勇退派落選工作は失敗した。投票内容は、宮顕勇退派23票、伊里一智13票の60%獲得にたいして、中央支持派は17票と7票で40%しかなかった。宮本解任・勇退派の60%もの得票率は、院生党員内だけでなく、東大全学における宮顕逆路線批判の強烈度合いと、その共同意志をも示すのではないかという、“今そこにある危機”を浮き彫りにした。先に党中央は、「個人なら、規約上提案できる」と回答していたので、選出された都党会議の代議員Y氏は「代議員個人」として、まず都党会議で「宮本解任決議案」を出す雲行きとなった。東大教職員支部、院生支部と学生支部はこれに強い関心と共感、暗黙の支持で見守ることとなった。こうして合法的な「宮本解任決議案」提起運動は、「安田講堂封鎖」以来の、東大全学共産党3組織の共闘となった。しかも、今度は、封鎖をどう解除するかという受身ではなく、自らが作り出した“宮本逆路線批判への決起行動”だった。

 非常事態を迎え宮顕がこれに如何に対処したか。都党会議でのY代議員提案を許せば、公然とその討議をせざるをえず、宮顕の屈辱となり党内外への影響も計り知れなかった。宮顕はこの動きを断じて認めらなかった。Y代議員は、第17回大会代議員にも、「機関推薦立候補」する意志を申し出ていた。事態は、まさに、1・東大全学60%の宮顕批判をバックにして、「宮本解任・勇退決議案」討論が、都党会議だけでなく、第17回大会まで行ってしまうのか。それとも、2・あくまで、宮顕擁護、宮顕逆路線推進のための非常手段を採るのか、という危機管理上の選択となった。宮顕は、躊躇せず後者の選択肢を選んだ。いかなる卑劣な「規約違反」手段を採ろうとも、Yの代議員権を剥奪することを決意し、指令した。

 11.5日、東京都常任委員会は、「決議案は、当初5人の連名である。それは多数派工作によるものであり、分派活動である」と、でっちあげた。直ちに、その5人を査問し、権利停止6カ月処分にした。さらに、査問中、権利停止中であることを理由として、Y氏の代議員権を剥奪した。11.11日、都党会議が開かれた。そこでは、上田が党中央を代表して、「Yと伊里一智一派の分派活動なるもの」を40分間にわたって批判する大演説をした。上田は宮顕忠誠派の本質を曝け出し、以後“上耕人気”は急速に低落することとなった。


【志位.河邑の大活躍と大抜擢】
 この粛清では、志位和夫と河邑重光幹部会委員・赤旗記者が大活躍した。この時志位は、5人の査問.権利停止処分と、Y氏の代議員権剥奪を直接担当し、粛清の先頭に立った。宮顕との直通ルートでひんぱんに連絡し、指示を受けた。そして、宮顕勇退勧告派の動きを、「分派の自由を要求する解党主義、田口富久治理論のむしかえし」ときめつけた。

 河邑は、伊里一智批判の大キャンペーンで、「負け犬」、「ビラまき男」とする“宮顕が大喜びする”ようなレッテルを彼に貼った。そして伊里一智の思想的人格的低劣さをねつ造する記事を“大量生産”して、一躍名を挙げた。その記事は、当然ながら、宮顕の事前の、個人的校閲を直接受けていた。宮顕は、従来から、自分にたいする批判者の排除、党内外からの宮顕批判への反論記事内容については、細部にわたって、直接、指示.点検.事前校閲するのがならわしだった。 

 志位と河邑2人は、宮顕秘書出身ではなかった。しかし、宮顕擁護のための、手段を選ばない粛清手口と、記事ねつ造手口は、「宮顕秘書団」よりも、その忠誠度が高かった。“子飼いの司祭たち”以外に、このような若手の忠誠派は、宮顕・大審問官にとって、“愛すべき次期司祭候補”と映ったのである。宮顕は、志位をその論功行賞で、次回の第18回大会で「最年少の准中央委員(33歳)」にした。さらに、第19回大会では「中央委員、新書記局長(35歳)」に“超・超・大抜擢”をした。志位は、宮顕から、宮顕擁護とあらば、いかなる卑劣なでっちあげも平然と行い、それに基く粛清をも手がけ、「汚れた手」になるのも、いとわない、最も党派性(=自分への盲従性)の高いヤングマンとの「お墨付き」を頂戴した。第20回大会では、河邑が「常任幹部会委員」に抜擢された。これが「宮顕―不破―志位の重層的指導体制」誕生秘話である。戦前のリンチ仲間宮顕−袴田コンビのそれに劣らない。

 6.24日、国鉄総裁の仁杉巌氏が辞任。角栄派的な隅田国武理事をはじめ全理事が退陣した。中曽根は自著「天地有情」の中で、「仁杉、隅田両君のクビを取ったから改革がスムーズに運んだ」と述べている。仁杉の後任には、前運輸事務次官の杉浦喬也が就任。杉浦は国鉄分割民営化に励み、干されていた松田昌士、井出正敏、葛西敬之を中枢ポストに呼び戻した。87.4.1日JR7社が誕生していくことになる。


【日共の出版妨害事件とその余波】

 去る1984.8.9日、日中出版社が、党中央の妨害を跳ね除けて「原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る」を緊急出版したが、この頃この出版に関与していた日中出版社の党員に対する査問が開始されていった。この経過を見ておく。

 昨年の出版騒動からほぼ9ヶ月になる6.17日、日中出版(代表・柳瀬宣久)の女性編集者・安藤玲子宅に、「日本共産党中央委員会」名の配達証明便が届けられた。「通知」書が封入されており、「党勢委員会は、党規約第33条に規定する権限にもとづいて、貴同志の規律違反について調査することを決定した。よって、左記に指定する日時に出頭されたい」と記載されていた。規律違反容疑として、党中央の意向に反して「原水協で何が起こったか、吉田嘉清が語る」を出版した「柳瀬の反党活動に協力するという重大な規律違反」を挙げ、「こうした貴同志の行為は、重大な規律違反として、党規約にもとづく処分はまぬかれない」とあった。同様通知書が、日中出版社員に送付されていた。

 安藤氏は無視しようとも思ったが、実家へ連絡される不憫を思い、決着つけようとして6.26日、「日本共産党中央委員会統制委員会」宛に返信した。概要「既に離党していること、今更『同志』として決定を知らされても驚きと疑問を感じざるを得ないこと。『出頭』はしないし、こうした『通知』は今後一切貰いたくない」旨記していた。ところが、10日後の7.6日、統制委員会より新たな通知書が日中出版気付で送られてきた。概要「統制委員会は、このような貴同志の裏切り行為に対して、党規約にもとづいて厳重に処分することを決定し、党規約第69条にもとづき、弁明の機会をあたえることにした。よって、左記に指定する日時に出頭されたい」、続けて、党規約では離党届を提出すれば離党となるのではなく「貴同志が党機関との話し合いを拒否しているため、この手続きは完了していないことを指摘しておく」と記されていた。

 これによれば、「党員には離党の自由が無い」ということになる。今でもこのような党規約にされているのであろうか、恐ろしい事ではある。7.9日、安藤氏は、「祈るような思いで」日本共産党中央委員会宛てに「改めて『出頭』して弁明する必要もありませんので、右、書面にて、お断りする次第です」としたためて投函した。

 篠崎氏も同様の遣り取りをしているが、篠崎氏の方が明確に答弁していることもあって、この方は争点があからさまとなっている。「基本的人権をも党は拘束できるとしているが、これは出版人としての私には許容できないものです。私は、柳瀬宣久氏の除名処分は撤回されるべきものと考えています」(6.15日付け「通知に対する返書」)。これに対して、統制委員会は、7.4日付け「通知」で、「反党分子に転落した柳瀬とともに党を攻撃するという、極めて悪質な規律違反であり、党と階級の利益を裏切るものである」と罵倒している。篠崎氏も負けていなかった。7.12日付けで返書し、党中央の出版差し止め騒動こそ自己批判すべきであり、柳瀬氏の除名処分は撤回されるべきであり、党規約第3条第4項で「党員は、中央委員会に至るまでのどの級の指導機関に対しても質問し、意見を述べ、回答を求めることができる」と定めていることを指摘し、「私が率直に自分の考えを述べたことが、『極めて悪質な規律違反』に問われることは納得できない。この点に関する統制委員会の明確なご返答を文書にて寄せられるようお願い申し上げます」と記した。

 しかし、何の回答も為されぬまま、8.17日付け赤旗に、「篠崎泰彦、安藤玲子、矢田智子ら3名の反党分子の除名について」論文が掲載された。7段3分の1を費やす「公示文」になっていた。これまで分析してきた通りの駄文を繰り返して、党中央への拝跪論理を振り回している。日中出版の「出版の自由」に対して、「前衛党を解体に導く途方も無い謬論」として、「以上に述べた篠崎、安藤、矢田ら3名の党規律を真っ向から蹂躙した行為は、その変節、転落、堕落が救いがたい状態に到達していることを示すものである」、「よって、除名処分する」としていた。

(私論.私見)

 奇態なことは、これらの経過に見合うかのような宮顕の次のような言及があることである。宮顕にとって文章は美辞麗句でしかなく、実際にやることを見たほうが良い。「(党員の処分にあたっては、)事実の綿密な調査と深い思慮が必要だということです。この思慮を欠いてことを行うならば、事実に合わず、道理に合わないことになって、その決定は当事者の苦しみはもちろん、党にとって有害なものにならざるを得ません。‐‐‐先入観にとらわれず、機関及び被処分者の申し立てなどを事実に基づいてそれぞれつき合わせ、それぞれの側にただしてまず事実を明確にすることが特に重要であるという点であります」(第11回党大会における宮本報告)。こういう言葉を弄びながら、確信的に裏腹のことをやるという宮顕の陰険な性癖に対して、我々は氏をどう評価すべきだろうか。異常性格か、もしそうでなければスパイ特有の三枚舌文言として見ておくべきかと思われる。

 2006.11.24日再編集 れんだいこ拝

 6.18日、豊田商事、永野会長刺殺される。


 7月、中日原子力協定調印。
 

 7.10日、国際環境保護団体グリーンピースの核実験抗議船「にじの戦士」爆破される。


 8.12日、羽田発大阪行き日航ジャンボ機、御巣鷹山山頂に墜落。


【中曽根首相が戦後初の靖国神社に公式参拝】

 8.15日、中曽根首相及び政府閣僚の多数が、戦後の首相として初の靖国神社に公式参拝し、日本の野党、民間団体がこれに強く反対。中国の世論は日本の閣僚が侵略戦争を美化したものと批判。9月、反日デモ。


 8.30日、社民連全国代表者会議・夏季研修会


 9.19日、メキシコ南西部でM8.1の大地震,死者5000人以上。


【G5、プラザ合意】

 9.22日、「先進5カ国(米・英・西独・仏・日)蔵相・中央銀行総裁会議」(「G5会議」)がニューヨークのプラザホテルで開かれ、日本からは竹下大蔵大臣、澄田智日銀総裁、大場智満財務官の一行が出席した。国際金融局長の行天豊雄は、「米欧の10人くらいの仲間と隣の部屋にいた」。「プラザ合意」が為され、「各国通貨の対ドル相場の秩序ある上昇」を目指す為替市場協調介入強化が合意された。日本はその後、バブル時代に入る。

 この背景には、アメリカの双子の赤字(85年度の財政赤字・2123億ドル、貿易赤字1485億ドル)問題があった。ジェームズ・ベーカー財務長官が日本と西ドイツ(ゲアハルト・ショトルテンベルク蔵相)に頭を下げて、「ドル安誘導の為に政策協調して欲しい」と要請した、と伝えられている。この頃の日本の対米貿易赤字は、82年に約121億ドルであったのが、84年には約370億ドルに達していた。西ドイツの対米貿易黒字は79億ドル。

 ベーカー財務長官は、アメリカの貿易赤字解消策としてドル安、円高、マルク高となるよう政府の強力な指導を要求した。当時、1ドル=240円台、一ドル=2.9マルク台であった。ところで、西ドイツはマルク高に誘導しなかったが、日本は真っ正直に一ドル240円台から150円台へと円高政策を導入していった。この間、アメリカの貿易赤字は減らず、日本の対米貿易赤字も減らなかった。アメリカの貿易赤は、86年1443億ドル、87年1592億ドル。日本の対米貿易黒字は、86年約514億ドル、87年約520億ドルとむしろ増大している。但し、「円高不況」が進行し始め、GDP(国内総生産)の伸び率は、84年5.0%、85年4.7%、86年2.4%に落ちている。

 特筆すべきは、日銀の過激な金融緩和政策が採られたことで、円の発行高は、84年末が約24兆5000億円、85年末が25兆5000億円、86年末が26兆9000億円、87年末が約29兆2000億円、88年末が約32兆3000億円と急増していった。公定歩合も、86年1月に4.5%、3月4%、4月3.5%と下げられていった。こうしてバブル景気の下地が準備されていった。 


 同9.29日、入江相政侍従長が急死(享年80歳)。10.1日付で勇退する予定であった。


 9.下旬、「日中国交正常化10周年」を記念して、鈴木善幸が北京訪問。


 10月、中日友好病院が北京で落成。鈴木前首相がオープンセレモニーに出席。


 10月、趙紫陽総理、中曾根康弘首相とニューヨークで会談。


 11.2日、社会党結党四十周年記念式典


【「伊里一智」事件発生】
 11.19日、第17回大会会場入口で、伊里一智は、東大院生支部の「宮本解任決議案」問題の経過を書いたビラを配った。1986年1月、党中央は、伊里一智を査問し、除名した。

 「伊里一智」に対し党中央側のキャンペーンを河邑記者が行った。河邑は、それらのキャンペーン記事によって、東大全学60%における宮本逆路線批判共同意志問題を隠蔽し、伊里一智一人だけの、気狂いじみた「ビラまき男」問題に矮小化させた。実に“赤旗・ペンの力は偉大である”。1977年第14回大会以来の宮本逆路線を批判する、最初の組織行動という、この問題の性格は、志位と河邑の宮本直接指令を受けた大奮闘によって、「負け犬の、ビラまき男による党大会会場入口事件」にすり替えられ、一人の気狂い党員の行動として、葬り去られた。志位と河邑2人は宮本ボディガードを自ら志願して宮本を“今そこにある危機”から救出した。上田も、その一翼を担ったが‐‐‐。宮本・志位・河邑・上田4人組による“弦楽四重奏”が、「都党会議」.「第17回大会」.「赤旗」で鳴り響いた。東大大学院支部粛清の“葬送カルテット”の騒音に怒って、多数の党員が離党した。

 11月、国家秘密法案立法化に日本新聞協会が反対表明。


 11.13日、コロンビアの火山が大噴火,泥流で2万1000人以上死亡。



 11.15日、自民党立党三十年記念式典。「特別宣言」「政策綱領」を発表。


 11.19日、ジュネーブで米ソ首脳会談


 11月、第17回党大会。


 85ゴルバチョフ書記長就任


 12.28日、第二次中曽根再改造内閣が成立。官房長官・後藤田正晴を再度起用。安倍外相、竹下蔵相留任、渡辺美智雄通産相、海部俊樹を文相。


【社会党の迷走】
 この頃の社会党の迷走について、社労党の「日本社会主義運動史」は次のように記している。
 概要「この長期低落傾向に歯止めをかけようと、70年代末には『道』見直しが叫ばれ始めたが、彼らの見出した再建策は社会党をいっそう“右傾化”させることでしかなかった。その最初の到達点は、安保五人男の一人で非武装・中立論のチャンピオンだった石橋委員長の下でのニュー社会党路線への転換、新宣言の採択であった。しかし、その内容は自衛隊の違憲・法的存在論を目玉とする全くインチキなものであった。それは労働者の社会党離れをいっそう促したに過ぎず、新宣言の採択された85年の総選挙では85議席へと転落した」。

Re: 中核派の分派闘争に関する貴重情報

 「投稿者 奥平広康 日時 1998年 6月 01:回答先: 中核派 70年代の混乱 投稿者 けぱら 日時 1998年 5月 31日」、「投稿者 資本主義のゴジラ的モスラ的展開 日時 1998年 6月 02日:回答先: Re: 中核派 70年代の混乱 投稿者 奥平広康 日時 1998年 6月 01日」、「投稿者 奥平広康 日時 1998年 6月 04日 :回答先: Re: 中核派 70年代の混乱 投稿者 資本主義のゴジラ的モスラ的展開 日時 1998年 6月 02日」によれば次のようになる。

 革マルとの内ゲバで革マル、警察双方から追われていた元求殺隊兵士(対革マル用の内ゲバ部隊?)上口孝夫が国内にいられなくなって、ほとぼりがさめるまでということで海外へ逃亡。1980年にロンドンから帰国したら内ゲバの終息期に入っており、居所を失った。上口孝夫グループは中核派指導部に叛旗、正統本多派を自称して「『勝利に向っての試練』編集委員会」(「試練派」)を旗上げ、中核派から分派した。機関紙は『勝利に向かっての試練』。対カクマル戦の強行派とみなされている。「試練派」に対し、中核、革マル双方がテロ宣言で応戦している。中核派の機関誌でもこの分派事件を認めていて、「あくまでも一握りのグループであり、一掃する」としている。

 「試練派」は、1983年に「正統本多派」から「正統トロツキー派」へ転向。85年、勝手に自らを「第四インターナショナルの一分派」と規定し、第四インター日本支部と組織統合の統合折衝をおこなったが、日本支部中央委員会と政治局に「拒否・保留」された。この時期、第四インターに外部からの結集を受け入れるような余裕が無かったという事であろうが、態度が曖昧なため、独自の組織活動を再開し、86年夏に「第四インターナショナル・ボルシェヴィキ派(準備委員会)」(ボル派)を結成し、機関誌『ボルシェヴィキ』を創刊した。現況については現存するかどうかを含めて不明。





(私論.私見)