第42部 1980年当時の主なできごと.事件年表

 1.4日、カーター米大統領,対ソ報復措置。


 1.6日、閣議、2月7日(日露和親条約調印日)を「北方領土の日」と決定。2.7日、超党派で返還運動推進東京集会開催。


 「前衛」3月号に、不破書記局長の田口論文に対する反対大論文90P「前衛党の組織問題と田口理論」が発表された。


  参議院クラブ発足。


 1.10日、社会・公明両党が連合政権構想で正式合意。1.11日、公明・民社両党が政権構想協議会を開催。民社党も社・公合意を了承する。これにより、社共の民主連合政権構想が最終的に破産したことになった。


 2.10日、社会党第四十四回大会、社公政権構想を決定(02/26、共産党は「社会党とは訣別する」と宣言)。

 2月、海上自衛隊が、環太平洋合同演習(リムパック)に初参加する。


 3月、第15回党大会。


 1980.2月、第15回大会で、「田口・藤井理論に象徴される自由主義、分散主義との闘争と全党的克服」を決定した。


 3.16日、第二次臨時行政調査会発足。



 3月、日本が広州に総領事館を開設。

 4月、日本が中国に特恵関税を提供。日本輸出入銀行、東京銀行が北京に事務所開設。日本政府の対中円借款供与に関する文書を交換、これに基づき借款協定に調印。


 4.25日、米、在イラン大使館の人質救出作戦に失敗。


 5.2日、ワシントンで大平.カーター会談。


 5.4日ユーゴスラビアのチトー大統領が逝去。西ドイツ訪問中の大平首相が急遽葬儀に参列。

 5.4日、竹入公明党委員長、自公連立による政権参加への考慮を表明。


 5.16日、大平正芳内閣の衆議院本会議、社会党提出の内閣不信任案可決(全野党賛成、自民非主流の福田派・三木派等69名が造反欠席)。大平内閣の不信任案が可決される。賛成243(社会党103票、公明党58票、共産党41票、民社党35票、新自ク3票、社民連2票、無所属1票)、反対187(自民党183票、無所属4票)で56票の大差であった。自民党の議席は257であるから、自民党議員が全員反対すれば可決されるはずがなかったが、反主流派の約70名が本会議を欠席したため生じたハプニングであった。

 5.19日、大平首相が衆院を解散。福田と三木の両派が欠席し、仕掛けた解散劇となったことから「ハプニング解散」と云われる。6.22日を国政史上初の衆参同時選挙投票日とすることを決定。各党は選挙態勢に突入。

 5月、華国鋒総理が訪日。


 5.18−26日、韓国全羅南道の中心都市.光州で反政府蜂起暴動発生(「韓国・光州暴動事件」)。18日未明、全土戒厳令が敷かれた。金大中連行される。市民ぐるみの蜂起に発展、連日市街戦が展開された。数千人が犠牲になった。


 5.18日、ライシャワー発言「核の持ち込みはあった」で非核三原則の見直し論が起こる。


 5.30日、大平正芳.鈴木善幸の交代。大平は80.5.30日、新宿駅前で参院選初日の演説中、のどの痛みを訴え、31日未明、東京.虎ノ門病院に入院。
 同日伊藤正義官房長官が首相臨時代理に就任した。後継候補は本命中曽根康弘、対抗河本敏夫、ダークホース宮沢喜一が下馬評だった。自民党総務会は西村英一副総理に後継指名を一任したものの、3候補の調整がつかなかった。


 6.12日、大平首相心筋梗塞で急死。この間、娘婿の森田一が付ききり、「角さんに会いたい」を受け連絡をとる。地元新潟で遊説中の角栄は直ちに帰京したが、駆けつけたときは息を引き取った後だった。角栄は大平の遺体に向かって号泣し、「殉職だ」と繰り返した、と伝えられている。この時、田中は、「31年にわたり兄弟付き合いをしてきた。非常に慎重な性格で、自分と合わせて二で割りば丁度良いの、と笑いあったりしたかだが‐‐‐」といって涙を流した。


 6月、華国鋒総理が大平首相の逝去に弔電、日本大使館へ弔問。


 6.22日、ベネチアで第6回先進国首脳会議。


【第36回総選挙】
 6.22日、史上初の衆参同時選挙(第36回衆議院、第12回参議院)。自民284名、社会107名、公明33名、民社32名、共産29名、新自ク12名、社民連3名、無所属11名当選。菅直人初当選)。自民党は衆院で284(36増)、参院で69(11増)、自民党田中派系は100の大台に乗る大勝、2位の鈴木派も82名となり安定多数を獲得した。

 第12回参議院選挙(自民69名、社会22名、公明12名、共産7名、民社6名、諸派2名、無所属8名当選)。非改選を含め、自民135、社会47、公明26、民社12、共産12、社民連3、新自ク2、諸派2、無所属13。

 角栄の政略と決断が功を奏し、福田・三木の党内での影響がそがれる形になった。 

 社民連は、衆議院選挙に、山形二区・阿部昭吾、東京七区・菅直人、神奈川一区・田上等、滋賀全県区・瀬津一男、福岡一区・楢崎弥之助を立てた。楢崎・阿部に加えて菅直人が当選した。管氏は、東京七区でトップ当選。参議院選挙は、秦豊が投票日当日民社党の向井長年氏が急逝したための繰り上げ当選。東京地方区は宇都宮徳馬が当選、加藤清政は落選と明暗を分けた。


 7.7日、自民党最高顧問会議での話し合いで、鈴木善幸を第10代総裁に決定=西村自民党副総裁の裁定→「西村裁定」。


 7.9日、東京で伊藤臨時首相代理.カーター会談。


 7.15日、自民党両院議員総会で承認→自民党総務会長にロッキード事件「灰色高官」の二階堂進就任。


 7.15日、日本共産党(行動派)再建大会開催さる。またこの日、大武礼一郎議長による『新・共産党宣言』が内外に発表さる、とある。


【鈴木内閣発足】 

 7.17日、意外な候補であった鈴木善幸が急浮上、第10代自民党総裁に話し合い選出された。首相指名され、鈴木内閣発足。(『直角内閣』−解散権行使せず)官房長官・宮沢喜一、二階堂進総務会長、安倍晋太郎政調会長、田中六助は通産大臣、渡辺美智雄大蔵大臣、中曽根康弘行管庁長官、中川一郎科学技術庁長官。

 和の政治を提唱。大平内閣以来の行政改革と財政再建を課題とした。80年の国債残高は70兆5098億円、国債異存率は32.6%に達していた。翌81年には82兆円を突破することになる。 

 鈴木は、元々社会党公認候補で衆院初当選1947年、田中と同期である。49年に吉田茂率いる民自党に鞍替えし、その後自民党総務会長を9期務めていた。

 7.18日、衆議院議院運営委員会、衆議院航空機輸入調査特別委員会を、「全員一致の原則」を破り、採決で廃止を決定。


 7月、国鋒総理が故大平首相の葬儀参列のために訪日。


 7.19―8.3日、第22回オリンピック・モスクワ大会。日、米、西独など不参加。


 8月、竹下登自民党選挙制度調査会長

 8月、鈴木首相以下18閣僚で靖国神社参拝。

 8月、鈴木内閣が、「徴兵制は違憲」と決定する。


【伊藤律生存ニュースが流れる】

 
8.23日、新聞各紙の夕刊は、一面トップで、伊藤律の生存ニュースを報じた。

 8.30日、党中央は、「伊藤律の帰国を廻る問題について」と題する広報部発表をしている。概要「日本共産党中央委員会が、伊藤律の身柄を中国側に預かってくれと依頼した事実はありません。伊藤律への措置は、1950年の分裂の後、徳田球一を中心とした『一方の側』の『亡命者の政治集団』が、勝手にやったことで、伊藤律の帰国が今日の日本共産党に何らかの重大な影響を与えるかの如き論評は、まったく的外れのものです」としていた。


 毎日新聞社編「伊藤律陰の昭和し」では、この間、伊藤律の息子の淳が北京に赴き、「スパイの濡れ衣を晴らす」ことに執念を燃やす律と、「今更古い話を蒸し返されるのは迷惑」と主張する淳との間で、綱引きが為されたと伝えられている。


 9月、中国が札幌に総領事館を開設。


【伊藤律帰国】

 9.3日、伊藤律帰国。密航以来29年ぶりの帰国であった。

 伊藤律幽閉の当事者であった野坂は、「伊藤律の問題について」で苦しい弁明をしている。9.26日赤旗は、宮本の「戦後史における日本共産党」講演を掲載した。宮本は、この講演の中で伊藤律に触れて、「伊藤律は警察につかまっては警察の機嫌を取り(笑い)、また党に入っては家父長的な幹部の機嫌を取るというような点で、出色の才能をもっていた(笑い)」、「伊藤律はそのまわりで幹部の不和を煽ったり、おべんちやらをいって徳田書記長の誤りを助長した」と人格批判を繰り広げている。

 こうした共産党中央の一連の対応の後、「伊藤律証言」が朝日新聞と週刊朝日に連載された。除名後27年間の沈黙を破る伊藤律自身の言葉が披瀝された。


【党中央側の伊藤律帰国対応】

 9.11日、党本部で都道府県委員長会議が開かれ、宮顕委員長が、異例の公開で会議を取り仕切った。宮顕は、冒頭挨拶の中で次のように述べている。「伊藤律は明らかなスパイだった。数多い同志を売ったばかりでなく、特高とも連絡をしていた。除名は律の供述と十分な傍証をもって確認した。この発表についてはこの30年間、本人からの異議は受け取っていない。律がマスコミで大変な大物扱いされ、律の口次第で歴史が変わるかのように云われている。分裂の状況に乗じて律がうまく立ち回ったという点はあっても、律が党史の重要な曲がり角をつくりあげたものはない。我々は、党から除名された者を拘束する権限は一切無い。だから律の帰国にも介入していないし、今後の私生活を『平和な老後を過ごしたい』というなら、それも彼の勝手である」。

 9.19日付け赤旗は、野坂参三議長の次のような声明を載せている。これまで公式的に伊藤律とは東京で別れて以来会ったことがないとしてきていた野坂が、伊藤律生還という事態に対して種々弁明している。そのハイライトは、「こうして西沢と私とは、『北京機関』内部の問題と同時に、今言ったような過去における彼の行動、特にゾルゲ事件に彼の発言、行動がきっかけをつくったというのが事実とすれば、これは重大問題だと考えました。そして、この際、伊藤律の問題を『北京機関』の問題として取り上げなければならない、ということを、私と西沢で決めました。その時は、徳田君のほうは脳溢血で倒れて、これには関与できない状態になっていました。そこで、周恩来など中国側の最高幹部とも協議して、伊藤律を『北京機関』から離し、別のところに住まわせて、十分に時間をかけ、深くこれらの問題を調査する必要があるという結論に、我々は到達したのです。これが1952年の10月ごろです。伊藤が北京に来てから、丁度1年目ぐらいです」、「私も1959年に中国の国慶節の為に短期間中国に行ったことがあり、その時、伊藤律がどうなっているか尋ねたことがありました。その時には中国側からは何の返事も無く、その後もありませんでした」。

 1.24日(?)、党中央もすばやく反応し、記者会見して、無署名論文「歴史の真実と伊藤律の『証言』」(赤旗に3回連載)と野坂による「『北京機関』に関する伊藤律の『証言』について」論文を発表した。


 9.21日、衆議院内の統一会派「新自由クラブ民主連合」結成(柿沢弘治、新自ク離党)。


 10月初旬、伊藤律、小松雄一郎に「獄中27年の記録」語り始める。12月まで続き、朝日新聞がこれをもとに12.22日より7回連載で「伊藤律の証言」として「故国の土を踏みて」を発表する。


 8.27日、韓国で全斗煥を大統領に選出。
 9.7日、中国の華国鋒首相辞任を表明、後任に趙紫陽副首相。
 9.22日、イラン・イラク戦争本格化/ポーランド「連帯」発足。

 10.13日、佐々木民社党委員長は、十月十三日には、公・民・新自ク・社民連の四党首脳会議を開催。


 10.18日、鈴木善幸首相が自民党総裁に無投票当選した。


 1980.11月、宮本『文芸評論集第一巻』の長大な「あとがき」で、戦前の自己のプロレタリア文学運動とその理論を、蔵原惟人批判、鹿地亘批判を含めつつ、全面正当化した。それによって、「プロレタリア文学運動」の「戦後的総括」を試みた。(6)その流れの中で、1982年、上田・不破が査問され、その一冊の本を、イタリア共産党の「構造改革理論」の影響を受けた内容を一部持つときめつけた。そして、『お前たち2人は、26年前、自由主義、分散主義、分派主義の誤りを犯した』と断定した。


80.9鈴木38.21
82.12中曾根39.31
87.12竹下30.20
89.6宇野22.40
89.9海部31.27
91.12宮沢31.22
93.8細川75.9
94.4羽田43.23
94.7村山40.31
96.1橋本59.16
98.8小渕25.48
2000.4森40.24


11月、小坂徳三郎ら7名が田中派に集団入党。田中派は衆参101名に達した。






(私論.私見)