第41部 1979年当時の主なできごと.事件年表




 1.1日、米中が国交回復。米は台湾と断行、相互防衛条約を破棄。


 1.4日、大平首相、一般消費税導入の構想を示唆。


【グラマン事件勃発】(「ダグラス・グラマン事件」

 1.9日、トーマス・P・チータム米グラマン社前副社長が、同社の早期警戒機(E2C)対日売り込みに関連して、疑惑の政治家名を明らかにして、岸、福田、松野、中曽根の4名を挙げた。捜査当局がダグラス・グラマン疑惑の解明に動くことになった。第二次ロッキード事件として大騒ぎとなった。

 1.9日、東京地検特捜部はこのダグラス・グラマン両社の航空機売りこみにからむ疑惑について法務省に米側資料の入手を要請、捜査を開始した。捜査の中心は、両社の販売代理店である日商岩井であったが、2月1日、グラマン疑惑の重要人物であり、東京地検に召還されていた日商岩井島田三敬(みつたか)常務が東京・赤坂のビルから飛び降り自殺し、捜査は難航する。 


 1.11日、カンボジア人民共和国(ヘン・サムリン政権)樹立。



 1.14日、社民連全国代表者会議。


 1.30日、通常国会再開。冒頭からダグラス・グラマン疑惑で荒れた。衆院ロッキード問題調査特別委員会が「航空機輸入調査特別委員会」と改称された。特別委員会は、ダグラス・グラマン疑惑はもちろん、民間機、航空機の売り込みにかかわる、すべての疑惑を調査することになった。野党は、岸・松野らの証人喚問を要求したが拒否した。日商岩井の植田三男社長、海部八郎副社長らが喚問となった。

2.9日から国会(衆院予算委員会)で疑惑解明の集中審議を開始、防衛庁に強力な影響力を持つ岸信介元首相と太いパイプで結ばれた日商岩井の植田三男社長・海部(かいふ)八郎副社長らと松野頼三元防衛庁長官を証人喚問した。

参院予算委で航空機疑惑集中審議最中の4月2日には海部が外為法違反容疑で特捜部に逮捕されるが、この時、伊藤栄樹法務省刑事局長(1925年2月名古屋市の生まれ。学徒出陣で海軍に入隊。戦後の司法修習生の1期生で、1949年に検事任官。東京地検特捜部検事、法務省人事課長、東京地検次席検事、法務省刑事局長、事務次官、東京高検検事長などを経て、1985年12月に検事総長に就任。1988年3月24日、病気のため任期を約2年残して退官した)は、「捜査の要諦(ようてい=肝心なところはすべからく、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある。もし、犯罪が上部にあれば徹底的に糾明し、これを逃さず、剔抉(てっけつ=あばき出すことしなければならない」と述べ、政界中枢への波及を示唆した(「巨悪を逃さず」はこの年の流行語なる)。

4.16日、検察側の総指揮官であった検事総長が定年で神谷尚男から辻辰三郎に交代した。神谷は「サヨナラ記者会見」で「検察の捜査力はまだまだ頼むに足る。私は事件途中で去るが、背後に検察の意気込みを感じながらやめるのはうれしい」との言葉を残した。

 ところが3週間後の検察首脳会議は突如、「政治家の刑事責任追及は、時効、職務権限のカベにはばまれ断念する」ことを確認し、5月15日には、海部ら日商岩井関係者2人を起訴しただけで「捜査終結」宣言が行われた。

結局、同社から総額5億円を受け取った松野元防衛庁長官(79年7月に議員辞職。10月の総選挙でも落選)“灰色高官”として浮上しただけで、捜査中に明らかになったダグラス社と元首相のかかわりが示唆する内容が記されていた「海部メモ」に名前の出た岸信介元首相については、検察側の事情聴取もなく、また証人喚問すらなされず、捜査は79年5月に未解明のままで打ち切られた(刑事訴追を受けた政治家はゼロ)


 1月、国公立大で初の共通一次試験実施する。


 2月、ケ小平副総理が訪米後の帰国の途上、日本を2日間訪問し、大平正芳氏と会談。


イラン革命政権樹立
 2.12日、イラン革命政権樹立。1.16日、シャー・パーラビは国外から発せられるホメイニ師の演説に呼応する国民を抑えきれないと悟ると、時の首相シャープール・バフティヤールの進言でエジプトに亡命し王朝は崩壊する。2.1日、皇帝と入れ替わりにホメイニ師が帰国し、首相をメフディー・バザルガンに任命する。こうして国家元首が二人となり、帝国は真っ二つに割れる。ついに、革命派と皇帝派が戦闘に突入する。2.11日、帝国正規軍が中立を宣言するにいたり、勢いづいた革命派は宮殿を攻撃、ついに皇帝派は消滅する。

 4.1日、イラン・イスラーム共和国が成立し、ホメイニ師は最高指導者に就任する。これをイラン・イスラーム革命と云う。ホメイニ師は革命の輸出を唱え、周辺イスラーム諸国に影響を与える。これによりスーダンやアルジェリアでイスラームによる革命が発生する。


 このイラン革命によって、石油価格はアラビアン・ライトの公式販売価格によると、一バレル当たり12.7ドルと74年以来ほぼ横ばい水準であったのが、79年末には24ドルと倍増、80年にかけて段階的に大幅な追加引上げが行われ、81年末には34ドルと2.7倍の引上げとなった。スポット価格は79.1月に15ドルであったのが6月には37ドル、11月には40ドルを越えた。原油価格の高騰は、進行中の国際商品価格の上昇とともに、再び世界経済にインフレの高進と不況をもたらした。

 2.17日、中国のベトナム侵攻開始。


 2月、6中総で、田口理論批判の強化を指令し、「分散主義との闘争」を全党に呼び掛けた。


 3.26日、エジプト・イスラエル平和条約調印。


 3.28日、米スリーマイル原発事故。


 4月、ケ頴超全人代常務委副委員長が全人代代表団を率いて訪日。京都嵐山の周恩来詩碑除幕式がケ頴超氏出席の下で挙行。


 4.8日、第9回統一地方選挙。知事選は、東京・鈴木俊一、大阪・岸昌が当選、保守系が勝利。


 5.2日、ワシントンで大平.カーター会談。


 5月、中国外交部は日本が中国の領土釣魚島にヘリポート建設調査団と測量船を派遣したことについて駐中国日本大使館に遺憾の意を表明。


 5月、中川派が旗揚げ。「自由革新同友会」。


 5.24日、松野が衆議員の国会喚問に呼び出された。5.29日参院。松野は、日商岩井から5億円受け取ったことを認めた。但し、松野は政治献金と主張した。7.25日待つのは国会議員辞職に追い込まれた(同年10月の総選挙で落選、翌80年6月の総選挙でカムバックする)。

 5.29日、社民連全国代表者会議。


 6.6日、元号法制化実現。新憲法施行に伴って法的根拠を失い、「事実たる慣習」(法制局見解)にとどまっていた元号が、これにより法的根拠を再建した。


 6.18日、米ソ,SALT2に調印(ウィーン)


 6.25日、東京で大平.カーター会談。


 6月、 78年末からのイラン革命の動きとこれを契機とする第二次石油危機の中で、テヘランの米大使館人質事件が発生した。この間、OPEC諸国は石油需給逼迫を好機と捉えて原油価格引上げを図り、その結果七九年中に原油価格は二倍以上に跳ね上がり、世界経済を大混乱に陥れた。日本はイラン制裁に同調せず、原油を大量に購入しつづけて米国の不信を買った。79年、80年には第二次石油危機の影響で巨額の経常赤字となった。


 6.28―29日、東京の元赤坂の迎賓館でで第5回先進国首脳会議開催(東京サミット)。出席者の顔ぶれは、カーター米大統領、ジスカールデスタン仏大統領、シュミット英首相、アンドレオッティ伊首相、クラーク加首相、ジェンキンスEC委員長。


 7.15日、日本共産党創立57周年記念日のこの日、東京で『日本共産党再建準備会議』が開催された。この会議の開催は日本共産党を革命的に再建する組織上に武器となった、とある。


 7.16日、新自由クラブ分裂(西岡武夫幹事長離党)。中道四党で選挙協力をしながら自民党を追い詰めようとする河野代表と新自クの目的は保守の刷新と主張する西岡武夫幹事長とが対立し、西岡氏が離党した。菊池・大成・大原の三議員も西岡に続き、新自クの衆議院の議席は17から13へと減った。


 7.17日、防衛庁が防衛力整備五ヵ年計画を発表した。問題は、国防会議や閣議決定を経る事無く決定.発表されたことにあつた。


 名古屋大学教授の田口富久治氏が党内民主主義への問題提起をしていくことになる。田口教授は共産党が65年に結成した「憲法改悪阻止各界連絡会議」(憲法会議)の代表幹事で、「先進国革命と多元的社会主義」を著し、その中で共産党が閉鎖的集団ではなく、国民に向かって“開かれた党”(新しい型の党)へ脱皮することが必要だと次のように力説した。概要「共産党が政権が握ると一党独裁になるとの危惧の念が国民の間に強いが、決して根拠がないわけではなく、既存の社会主義国の歴史的現実が示されているとおりだ。日本共産党は複数制を公約しているが、たとえ複数政党制がとられた場合でも、共産党が圧倒的な支配政党としての地位を確立すれば、他の政党が共産党をチェックする機能は著しく弱まることになりかねない。そうなれば支配政党である共産党の組織・運営が“一枚岩主義”では『支配政党の組織的質が国家体制の政治的質を規定』するのは避けられないので、党と国家との癒着による一党独裁の危険が生じる。

 したがって、日本共産党は一党独裁に陥らないことを国民に信用してもらうためには『自由と民主主義の宣言』で単に将来の決意表明をするだけでなく、今日ただいまから党内での少数意見尊重その他『新しい型の党』をめざして党改革を実行せねばならない」。

 「前衛」9月号に、田口氏の不破論文に対する反対大論文100P「多元主義的社会主義と前衛党組織論−不破哲三氏の批判に答える−」が発表された。この中で、田口氏は、新しい党のビジョンとして次の5項目を提示した。
@・党大会を党の最高意思決定機関とし、党大会は最大限に公開的なものにすること。
A・党大会では執行部原案に反対ないし修正意見が開陳されうるような制度的な保障がなされること。
A・党の各級指導機関は、党員の多様な意見を反映するように構成すること、公開制などの保障。
B・党の指導部の交替の政治的ルールの確立と明確化。
C・党内民主主義の制度的保障の一つとして、党機構内部へ「権力分立」原理を導入すること。具体的には、党指導機構と並んで、同じく党大会選出の党統制機構を設立し、これに前者と同等の権威と威信を与えること。
D・党内民主主義、少数意見の尊重の実質的保障。分派禁止の規定を党規約に存続させる場合、その補償、代償として少数意見の尊重を政治的・実質的に保障する事。


 08社会党内に「社会主義への道」論争起こる。


 8.14日、中道四党の党首会談が開かれた。新自クの河野代表が参加。


 8.30日、第88臨時国会召集。大平首相は型通リ所信表明を行い、その中で赤字国債解消による財政再建計画を訴えた。世に言う「一般消費税」の導入を次のように述べた。「赤字国債は、昭和59年までに解消する。その為には歳出削減に鋭意努力するが、それでもなおかつ財源が足りないようなら、国民各位のご理解を得て、新たなる負担をお願いせざるを得ない」。


 9月、大平首相の私的諮問機関「航空機疑惑問題等防止対策協議会」が再発防止策として政治資金規正法の見直しなど14項目を提言したが、自民党内からの反発で具体化できなかった。


 9.7日、大平・福田の抗争激化。大平首相が野党の不信任案を受け、解散権を行使し衆議院を解散。「一般消費税解散」と云われる。


 9.30日、椎名悦三郎氏が死去。


【第35回衆議院議員総選挙】
 10.7日、第35回衆議院議員総選挙。「自民248名(−1)、社会107名(―10)、公明58名(+1)、共産41名(+20)、民社36名(+7)、新自ク4名(−9)、社民連2名(―1)、無所属19名当選」。選挙の結果は、「自民党微減、社会党敗北、公明党微増、民社党前進、共産党大躍進、新自ク惨敗、社民連後退」となった。

 自民党は、前回の249議席を割る248議席。安定多数の270はおろか、過半数の256にも及ばず惨敗。自民党248。松野頼三氏落選。

 社会党は、10議席減の107議席。得票率でも一%下げ、はじめて二〇%を割り、長期低落傾向に歯止めかからず。共産党は、大幅に議席を伸ばしたが、得票率、得票数ともに伸びていない。

 社民連は、山形二区・阿部昭吾、東京二区・大柴滋夫、同四区・安東仁兵衛、同七区・菅直人、神奈川一区・田上等、京都一区・三上隆(無所属)、岡山二区・江田光子、福岡一区・楢崎弥之助の八人を立て、現職の大柴滋夫も含めて六人が落選。衆議院の議席は福岡一区の楢崎・山形二区の阿部の二議席のみとなってしまった。

 一般消費税問題で自民党単独過半数割る→福田・三木・中曾根派が選挙の敗北の責任を追及→政争40日=「40日間の抗争」

【「自民党40日間抗争」に突入」】

 10月−11月自民党内は、大平・田中連合対福田・三木・中曽根連合の「自民党40日間抗争」に突入。総選挙の敗北で、福田・三木・中曽根各氏ら非主流派が大平首相の退陣を要求。福田・大平会談で辞任を迫られた大平首相は、「辞めろということは、私に死ねと言うことだ」と反発した。こうして党内調整がつかないまま首相指名選挙が行われに至る。

 この時、中曽根派の渡辺美智雄は、所属の中曽根派の総意に反して大平・田中派連合に与し、同調した他の仲間とともに除名になった。この時の渡辺のスピーチが妙に面白い。「私はね、ついこの間までは中曽根派にいたんだ。そこに、ヘビ(三木)、ウサギ(福田)、カンガルー(中曽根)が集まって、大平カメを総理大臣の座から引きずり下ろそうという騒ぎになったワケだ。ところが、大平カメは足に吸着盤を持っててね、ベタッとくっついたきり、棒で叩いても石をぶっつけても、首を引っ込めて動かないワケですよ。皆が疲れて何もしなくなると、ムクムクと歩き出す人でさ。中曽根さんがカンガルーだちゅうのはね、今右だと言っていたのが、明日になったら左だと言う。その次の日はまた右といったように幅広く跳んでる苦から、袋の中の子供が飛び出しちゃったカンね。私はこうして、中曽根派から放っぽりだされちゃったワケだナ」。

 この頃の派閥内訳は次の通り。衆議院議員123(大平派50、田中派47、福田派46、中曽根派36、三木派25、無派閥35)、参議院議員74(大平派20、田中派32、福田派23、中曽根派4、三木派9、無派閥21)。


 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように述べている。
 「福田赳夫の自民党総裁としての任期二年が終りに近づくと、福田は再選を望んだため、田中角栄は大平正芳と組んで、力づくで大平を次期総裁・首相に押し上げた。これによって、自民党内は田中・大平連合対福田派と真っ二つに分かれて激しい対決と派閥闘争の時代に入ったが、それは表面上のことに過ぎない。実際はユダヤ(アメリカ)の介入によって、日本の政界がもみくちゃにされた時代なのだ。逆に云えば、ユダヤに斬られた手負いの角栄が、奇跡の復活をなし遂げ、ユダヤ・フリーメーソンのエージェントである三木武夫を倒し、福田内閣のもとでじりじりと復活し、遂に大平内閣で政権の中心に迫ったという構図となる。

 従って、ユダヤは角栄に対抗して戦線を再構築しなければならない。ユダヤの角栄包囲網の中核に据えられたのが福田であり、三木派、中曽根派がその同盟軍となるべく工作された。その結果が、大平内閣末期の40日にわたる、日本の議会政治史上未曾の死闘となった通称「40日抗争」である。これほどの激突、激闘は、単純な日本国内政治から生じたものではない」。

 10.22日、社民連全国代表者会議


 10.26日、伊藤律が病監から釈放される。中連部のL氏は、「日共はあなたを隔離査問するからと、長い間ここに入れたままほったらかしにした。あなたの病状を考えると、これ以上このままにしておくわけにはいかない。中共中央は革命的人道主義の立場から、あなたを釈放することに決定しました。今後あなたは公安部とは無関係であり、中国に留まるも日本に帰るも全く自由です。ただ一つ、中国にいる間は政治見解を公表しないで下さい」と伝えている。


 10.26日、韓国の朴大統領暗殺される。


 11.2日、衆議院本会議における首相指名選挙。自民党から異例の現職首相大平氏と前職首相福田氏が立候補するという椿事となった。投票結果は、大平正芳135、福田赳夫125、飛鳥田一雄107、竹入義勝58、宮本顕治41、佐々木良作36、田英夫2、無効7。決選投票で、大平139、福田121、白票1、無効251となり、大平首相が首相に再任指名された。


 11.4日、イラン・テヘランの米大使館占領事件発生。


【衆院本会議での首班指名投票】
 11.6日、衆院本会議で首班指名投票。自民党から大平、福田の2名の首相立候補者が出るという異常事態となった。第1回投票は、大平135、福田125、飛鳥田107、竹入58、宮本41、佐々木36、無効7票。決選投票で大平138、福田121票、白票1、無効251票。こうして、決選投票の末辛うじて大平氏が首相に再選された。

 社共が手を握れば第1回投票でトップの可能性さえあった。


 この時の各議員の投票行動を記しておく。1979年11月6日衆議院本会議・首班指名選挙における投票行動(四十日抗争)によると、大平氏に投票した者は138名で、大平派50、田中派48、福田派1、中曽根派5、三木派4、旧水田派3、旧船田派4、旧椎名派1、旧石井派1、無派閥13、自由国民会議1、新自由クラブ4、無所属3名。福田氏に投票した者は121名で、福田派49、中曽根派34、三木派25、中川派9、旧水田派2、旧椎名派1、無所属1名。無効票8名。

 新自由クラブの四名は、第一回投票から大平に入れていた。この投票行動が「連立政権を狙ったもの」、「田中軍団に支えられた大平を支持した」と批判を浴び、参議院の新自ク議員団も不満を表明し、円山雅也が離党することになる。河野代表は、総選挙の敗北と首班指名の大平支持の責任をとって辞任。後任に田川誠一幹事長が就任。田川の後任には山口敏夫国対委員長が就任。

 11.9日、第2次大平内閣。官房長官・伊藤正義。

 11.10日、大平首相、「新自由クラブとの連立もあり得る」と発言(田川誠一文相案が表面化し、非主流派は反発)


 11.19日、第二次大平内閣発足。竹下登蔵相。

 11.26日、参議院クラブ発足。


【宮顕委員長ら訪ソ、「宮本.ブレジネフ会談」】

 12.15日、宮本委員長を団長とする訪ソ団が出発した。メンバーは、団長・宮本顕治(幹部会委員長)、団員・上田耕一郎(副委員長)、西沢富夫(副委員長)、金子満広(書記局次長)、榊利夫(理論委員長)、立木洋(国際部長)、宇野三郎(宮本委員長秘書)の7名その他であった。第一回目の会談が行われたが、ソ連側代表はブレジネフ党書記長、スースロフ政治局員、ポノマリョフ准政治局員、アファナシェフ中央委員、フェドセーエフ中央委員、ウイヤノフスキー国際部副部長、コワレンコ国際部日本課長らであった。

 議題は、@・「志賀問題」を中心とした今後の両党関係の在り方、A・原水禁運動、日ソ友好運動の在り方、B・国際共産主義運動の在り方、C・最近のアジアを中心とした国際情勢の意見交換、D・最近の日本国内の情勢、日本共産党の方針について、E・北方領土問題、F・日ソ漁業、抑留漁民、シベリアの遺骨収拾問題、等々であった。事前の打ち合わせに基づき会議が進められたが、ブレジネフ書記長は第一回目の会議に出席した後は姿を見せずとなった。スースロフが団長代理として折衝することとなり、数次の会談が持たれた。

 「北方領土問題」について、宮顕委員長が二段階方式による「全千島の返還」を要求した。ソ共側は、「日ソ間に領土問題存在せず、解決済みの問題である」として相手にされなかった。結局、「双方は、日ソ平和条約を締結することが、日ソ両国関係を長期的に安定した基礎の上で友好的に発展させるために必要であることを認め、それぞれ率直に意見を述べ、今後とも意見交換を続けることに合意した」という線で纏められることになった。

 つまり、宮顕はこのたびの会談で、「北方領土問題」について色よい言質を目論んでいたが何ら実のある成果を得なかったというのが実際である。今日不破らはこれを饒舌し、何も成果が無かったことを覆い隠し、「北方領土問題」を粘り強く交渉したこと自体を誇らしげに語るという詐術話法を駆使している。

 もう一つ、社会主義政党間の在り方を廻って討議しており、この間の日ソ両党の不正常な関係の清算を図った。日共側から見れば、「ソ連側に『志賀問題』での誤りを認めさせ、両党間の交流関係を一応正常化させた」ということになる。その他これも日共側から見てのことであるが、「各国人民が民族自決権に基づいて真に自主的、民主的に自国の変革と建設の事業を効果的に推進しうるために反革命の輸出に反対するとともに、革命の輸出にも反対する」(「革命の輸出路線反対」)、「各党がその歴史的条件と具体的情勢に基づいて、自国の社会進歩と変革、社会主義への移行、社会主義、共産主義の建設の道の選択に際し、自主的に決定する権利を持っていることを確認する。その際、外部からのいかなる干渉も許されない、双方は改めてこのことを確認する」(「公党間相互の内政不干渉」)を引き出すことに成功した、ということになる。

 問題は次のことにある。この会談が終了し訪ソ団は12.25日帰国したが、その直後とも云うべき12.27日ソ連がアフガニスタンに侵攻している。先の会談で、日共党中央が成果であったと誇った「革命の輸出路線反対」、「公党間相互の内政不干渉」の合意が蜃気楼の如く霧散させられたことになる。あるいは又、「革命の輸出路線反対」、「公党間相互の内政不干渉」なるものが如何に有害且つ駄弁理論でしかないという化けの皮が剥がれた、ということでもあろう。


 12月、大平正芳首相が中国を訪問し、中日友好医院建設、対中円借款などを約束。


【ソ連がアフガニスタンに侵攻】

 12.27日、ソ連がアフガニスタンに侵攻。現地にソ連と通謀する共産主義政権が誕生したが、これに対してムジャヒディン (=聖戦を行う人々)と呼ばれるゲリラ勢力が立ち上がり抵抗していくことになる。西側諸国は経済制裁やモスクワ五輪ボイコットでソ連に抗議し、結局ソ連軍はその後も約10年にわたってアフガニスタンに駐留することになるものの山岳地帯での戦闘にてこずり多くの犠牲者を出して、1988.4月アフガニスタン和平協定に調印して撤退する。まもなく現地の共産主義政権も崩壊する。






(私論.私見)