第40部 1978年当時の主なできごと.事件年表)

【袴田里見除名騒動】

 1.4日、赤旗は、1.6日に発行される「週刊新潮」(1.12日号)の袴田手記「昨日の同士・宮本顕治」に先回りして、長文の反論を掲載。


 1.13日、共通一次学力試験始まる→戦後最大の入試改革。


 1.22日、田グループを迎え入れ、「社会市民連合」が社会民主連合結成準備会を開催。党名を「社会民主連合」へと改称した。「社会民主主義の道をとおって、新しい自由な社会主義社会をめざす人びとの連合体」という意味合いとされている。


 1.24日、ソ連原子炉衛星がカナダで落下。


 2.1日、建国記念日の祝賀行事に「総理府後援」の名義使用を認めた。


 3.1日、飛鳥田社会党委員長、初の委員長公選で信任、横浜市長を辞任。


【社会民主連合(社会民主連合)結成】

 3.26日、社会民主連合結党。田英夫代表・楢崎一弥之助書記長。田代表は、概要「現存する社会主義体制を見れば自由を犠牲にするのが社会主義であり、日本の社会主義政党を見れば非自由と言うか、むしろ反自由と言わざるを得ないのが実状で範にするに足りない。『自由が目的で、社会主義は手段である』。『国有化万能論を採らない』。今までの社会主義の国有化と計画経済と一党独裁の三位一体を排する。自主管理社会主義、分権的社会主義、市民的社会主義を目指す」と決意を述べている。


 3.16日、イタリア、モロ首相誘拐事件。


 3.21日、EC委員会事務局、日本は「うさぎ小屋に住む働き中毒者」と表現した対日戦略基本文書(秘密文書)を委員会に報告→ECの日本批判顕在化。


 5.3日、ワシントンで三度目の福田.カーター会談。カーター大統領と三度目の日米首脳会談。1997年2月に公開された国務省宛ブレジンスキーレポートには、福田首相について次のように記している。「一つは、日本の政治家の中で数少ない国際人であるということだ。バランス感覚に優れ、平和のためには自国の利益を超えて、他国の人々や国の利害を認識し尊重する努力をする人物である。また比較的はっきりと意見を言うため、日本人以外の人々にも理解してもらえる数少ない日本の政治家であるというのが、福田の2番目の特徴だ。佐藤、三木、大平、鈴木氏らは、非常に礼儀正しく丁寧に思えたが、刈らが何を言おうとしているのか、どのような判断を下すのか、またはどのような見解を持っているのか、私にはしばしば分からないことがあった。唯一、中曽根だけが福田より明解だった。だが中曽根の言語上の正確さは必ずしも思考の正確さを表すものではないと、しばしば感じた」(「大統領宛日本国首相の極秘ファイル」232P)。


 5.3日、成田空港開港。


 5月、上海宝山製鉄所建設に関する中日議定書が北京で調印。


 5.23日、公明・民・社・新自ク・社民連四党党首初会談(09/08、第三次会談で「保革五五年体制打破・中道結束」で一致)


 6.21日、防衛庁が有事防衛研究着手を表明。


  6月、ベトナムがカンボジアに侵入。


 7.16日、ボンで第4回先進国首脳会議。サミット会場で福田.カーター会談。


 7.27日、福田首相、防衛庁に有事立法と民間防衛の研究を指示。


 8月、中国がベトナムに侵入。


 8.12日、日中平和条約調印。 中国の黄華外交部長と日本の園田直外相は両国政府を代表して署名、中日平和友好条約に北京で調印。

第1条2項  相互の関係に於いて、すべての紛争を平和的手段により、解決し及び武力または武力による威嚇に訴えないことを確認する。
第2条  両締結国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においてもまたはその他のいずれの地域に於いても覇権を求めるべきではなく、亦、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国之集団による試みにも反対することを表明する。
第4条  この条約は、第三国との関係に関する各締結国の立場に影響を及ぼすものではない。

 8.15日、福田首相が内閣総理大臣の肩書きで靖国神社参拝、署名した。



 9.10日、赤旗に榊利夫理論委員長が、「前衛党組織と『真理価値』の問題」論文を発表。概要「学者であっても、党規律の前では、『学問研究の自由』の名による特権は許されない。党の方針に対立する見解の発表は許されず、これに反した場合は、『学問研究発表』や『学術論文』であっても、党員としての責任をとらねばならない」と、除名処分を匂わせるような脅迫まがいの恫喝を加えた。


 9.17日、米,エジプト,イスラエル首脳会談。


 10.22日、ケ小平中国副首相来日、条約批准書交換。中国の黄華外交部長と日本の園田直外相は両国政府を代表して署名、中日平和友好条約に北京で調印。

 皇室を表敬訪問し、次のような遣り取りをしている。昭和天皇「我が国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これから親交を続けていきましょう」。ケ小平「お言葉の通り、中日の友好に尽して生きたいと思います」。


 10.23日、日中平和友好条約の締結。1972年に田中内閣で成し遂げられた日中国交回復の総仕上げとなった。ケ小平中国副首相がやってきた。


 10月、靖国神社がA級戦犯を合祀(ごうし)。


【初の自民党党首予備選】

 11.1日、初の自民党党首予備選が告示された。この時党員は158万人、党友19万人、郵便による予備選投票で上位二人を選出し決選投票を行なう。決選投票は、党所属の国会議員の投票となる。

 これが自民党を二分させる福田と大平の争いの勃発となる。自信万万だった福田は、「予備選の結果を尊重せねばならない。二位のものは本選挙で降りるのが筋だ」と発言する。

 立候補したのは、福田、大平、中曽根、河本(三木派の後継者)。この時の自民党5大派閥の内訳は、福田派77、田中派75、大平派54、中曽根派48、三木派44、中間派・無派閥など80だった。田中派は首相候補を立てなかったため、候補を持たない田中派の動向が勝負の行方を左右することになった。但し、田中派の内実は、当時防衛庁長官の金丸信は福田に近く、田中の腹心の二階堂は大平支持を鮮明にしてやりあう場面も発生しており、且つロッキード事件で謹慎中の派閥でもあり「組織第一、義理と人情とやせ我慢」の最中であり、田中派として軽軽しくは動きにくい状況にあった。

 11.10日の読売新聞は、予備選の動向について「福田氏トップ、中曽根氏大平氏を急追」、「福田首相は過半数を握った」と大きく報じた。11.16日の毎日新聞世論調査では、総裁候補に関する一般の支持率として、福田24%、中曽根21%、大平17%としていた。11.21日の朝日新聞調査では福田28%、中曽根15%、大平13%と報じている。この頃、福田首相は、さかんに「予備選挙で二位になった候補は本選挙を辞退すべきだ」、「予備選挙で百点以上差がついたときには、本選挙は行なうべきではない」と発言しており、結果的にこれが命取りになる。

 田中は、盟友大平に対し、凄まじい支援体制を敷いた。金権選挙批判を避けるため、「金は出さなかった。金の代わりに足を徹底的に使った」(佐藤昭子)。選挙参謀を後藤田正晴が勤め、秘書軍団との2人1組でローラー作戦を採用した。


 11.26日、予備選挙投票、27日開票。結果は、事前予想に反して大平55万0891票(748点)、福田47万2503票(638点)、中曽根29万0987票(93点)、河本8万8091票(46点)。大平が、110点もの差をつけて福田に圧勝した。(田中派の大平支持で予想を覆して大差となる)

 11.27日、勝利を疑わなかった福田首相は二位に終わり、「天の声も、たまには変な声があるなぁ、敗軍の将、兵を語らずだ」の迷言を残して本選挙を辞退した。予備選の最中に「天は福田を支持している」と述べていたことに対する福田流の辻褄合わせであった。こうして福田は自らの発言に縛られ首相のイスから降りることになり、ここに大平が総裁に確定した。マスコミはは、この頃から、角栄を「目白の闇将軍」と名づけ始めた。


 11.18日、人民寺院集団自殺事件

 11月、日米防衛協力の指針(旧ガイドライン)決定。


第一次大平内閣発足

 12.1日、自民党臨時総会で第9代総裁に大平正芳が就任した。大平748点、福田638点、中曽根93点、河本敏夫46.上位二人による本選を福田が辞退した。12.6日、臨時国会招集、自民党三役人事の難航から首相指名の衆参本会議流れる=国会史上はじめて。

 12.7日、第一次大平内閣発足。幹事長斎藤邦吉(大平派)、官房長官・田中六助(大平派)。田中派から山下元利、江崎真澄、橋本龍太郎(厚相で初入閣、41歳)ら4名が入閣した。竹下登衆院予算委員長。

 大平首相の政治哲学が次の様に明かされている。「政(まつりごと)は小魚を煮るが如し」。「政治は小魚を丁寧に煮る慎重さがなければいけない。ともすれば、丁寧に政治をする部分が欠けることになる。自戒せねばならない」。

 この時からマスコミは、大平内閣を「角影内閣」と呼び、実際に動かしているは「闇将軍こと田中角栄」であると書きたてた。(『角影内閣』−−財政再建と一般消費税)

 大平は、直ちに行政改革と財政再建を日本柱として取り組む姿勢を打ち出した。75年の三木内閣の蔵相時に国債を5兆4800億円(←74年の2兆1600億円)の大幅増額させ、65年以来はじめて赤字国債2兆2950億円を発行していた。これに責任をとろうとして「1980年には赤字国債をゼロにする」と宣言した。しかし、大平が幹事長を勤めていた福田内閣時代の79年国債残高56兆2513億円、赤字国債残高21兆658億円まで急増加していた。その道は至難であった。

 大平は、組閣後矢継ぎ早に田園都市構想、対外経済政策、環太平洋連帯、文化の時代など9つの政策研究会を、首相直属諮問機関として創った。浅利慶太、石井威望、公文俊平、高坂正尭、佐藤誠三郎、香山健一、山崎正和、山本七平など総勢200名に及ぶ学者、文化人を集めて、新しい日本作りの検討に入っている。


 12.11日、米中国交正常化。


 12.25日、米国証券取引委員会(SEC)が、マクドネル・ダグラス社のF4EJ(ファントム戦闘機)売り込みに関わる対日不正支払いを告発し、ダグラス社が、戦闘機の売り込みに70年に1万5千ドルを日本政府当局者に支払ったと表明した。

 これに関連して、1957(昭和32)年、国防会議決定の第1次防衛力整備計画により日本政府は、旧式化した自衛隊の主力戦闘機F186Fにかわる超音速戦闘機300機の機種選定に関して、当初米・ロッキードF104を圧倒的最有力候補としていた。だが、岸内閣成立後の58年4月、米・グラマンF11ー1Fの採用に急展開した。その裏面でグラマン社が納入1機につき1,000万円(総額30億円)のリベートが岸内閣の総選挙費用と総裁選対策費として支払われたのではないかという事件を中心とする一連の航空機売り込み疑惑も発覚した。


 12.18―23日、中共第11期3中総会,毛・文革の見直し決定。


 「前衛」(1979、昭和54.1月号)に、不破書記局長が、「科学的社会主義か『多元主義』か」論文を発表。14万4千語、実に100Pにわたって多元的社会主義を提唱する「田口富久治理論」批判大キャンペーンを行なった。1978.11月から1980.3月まで、不破が田口批判「前衛」論文の執筆を2回為している。


 12.28日、イラン反政府暴動が最大規模に発展。ホメイニ師を最高指導者と仰ぐ民衆がイランのパーレビ国王と衝突。これにより世界の10%を占める原油生産が全面的に停止、輸出も79.3月始めまで止まる。





(私論.私見)