第4部 | 1945年終戦後の歩み | 政治犯の釈放、戦後党運動の開始 |
(最新見直し2006.10.3日)
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
敗戦国日本は、米ソ両国から狙われていた。ソ連は露骨に次のように述べている。「アメリカとロシアの間に戦争の勃発する以前ソビエト同盟は日本共産党を通じて激烈な反米運動を起し日本に赤色政権を樹立すべく努力するであろう」。米国は、ソ連のハード路線に対してGHQを通じてソフト路線で対応した。GHQの「合衆国対日戦後政策」にはこう記されていた。「日本人民は個人的自由、基本的人権の尊重、特に宗教、集会、言論、新聞の自由に対する欲望を発達させるように激励されるであろう。彼らはまた民主的にして代表的なる組織を作るように激励されるであろう」。
れんだいこは、この観点は一理も二理もあるように思う。共に、その経過を見ていくことにしよう。 町田氏の一節は次の通りである。
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田川和夫氏の「日本共産党史」は次のように述べている。
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(参考文献)
「戦後占領史」(竹前栄治岩波書店)、「戦後秘史」(大森実.講談社)、「不逞者」(宮崎学.角川春樹事務所)、「左翼天皇制」(大井広介.拓文館)、「獄中日記」(袴田里見.新日本出版社)、「日本共産党は何を要求するか」(平沢三郎.日本共産党出版ブ)
【幹部出獄直前の党の状況】 | ||
党は、終戦時点で中央委員会を始めとする正式の党組織全てが壊滅させられていた。1935年の弾圧により党中央が検挙されて以来既に10年間空白にさせられていた。唯一非転向党員が獄中にのみ存在するという有様であり、受刑中.裁判中.予防拘禁中.捜査中等々の者を合わせて約3百名、転向後に保護観察下に置かれていた者が2千数百名、その他海外の活動家が僅かに余命を保っていたという状況であった。 徳球、志賀らは、終戦前に刑期満了を迎えたが、非転向で出獄することをおそれた当局が、彼らを拘禁したままでおくことを目的として予防拘禁法を特別に制定して、府中刑務所内の拘禁所に収監していた。 徳球は、獄中下の党員の様子として次のように回顧している。
その他「天皇制特高警察の支配下、戦争中の獄舎の中でさえ正しく情勢を分析したと伝えられている」。
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これに対して、高知聡氏は「日本共産党粛清史」において、次のように述べている。
他の箇所では、獄中獄外の生き残りに対して「ケチな実体」とも云い為している。 |
【獄中闘士解放前の動き】 | ||
終戦直後の様子が次のように伝えられている。松本一三は、「“出獄前後”十月十日の思いで」で次のように記している。
志賀義雄氏の「日本革命運動の群像」には次のように記されている。
日本軍国主義の報を聞いた政治犯達は早速、待遇改善及び無条件即時釈放の戦いを開始した。それまでの不自由さも厳しさもなくなり、外部との連絡も少しづつつくようになった。所長に釈放要求を行ったがらちがあかなかったので、9.12日、全細胞員は各自釈放要求書を書き、一冊に綴じて、岩田宙造法相あてに提出した。このような待遇改善、釈放の戦いは他の刑務所でも見られたようであるが、徳球の指導する府中刑務所内の動きが最も活発であったようである。 |
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![]() 府中刑務所内での即座に対応した徳球らの様子とは対照的に宮城刑務所における袴田らの様子は静かなものであったことが、袴田自身の著作「獄中日記1945年」で明かされている。それによると、「幾億の民を虐げし戦争は 今日止みにけり、我れ生き残りたり」の感慨が記されているだけで、房仲間として竹中恒三郎.春日(庄)らがいた筈であるが特段の動きが為されていない。これをみれば、府中刑務所における徳球らの政治意識と指導力の高さが逆に知れるであろう。 |
【西欧ジャーナリストが府中刑務所を訪れ、徳球等と会見】 | ||
10.1日、「フランス通信AFP」特派員(ル・モンド紙の特派員ともある)ロベール.ギラン、その友人であったAFP極東支配人J.マルキュース、「ニューズウイーク」特派員ハロルド.R.アイザックら三人のジャーナリストが、占領軍人を装って米軍将校服をまとって府中刑務所を訪れ、徳球等と会見した。 ロベール・ギランは、戦前・戦中の7年間日本に滞在していた。彼の助手をしていたユーゴスラビア人のブーケリッチが、ゾルゲ事件に連座して処刑された関係もあり、日本人の共産主義者の運命に強い関心を持っていた。彼は、日本が降伏した直後から、ひそかに共産党員たちと連絡をとり、徳球や志賀を探し出す作業にとりかかった。やがて、二人がどうやら府中刑務所にいるらしいという通報をうけた。これが、アメリカ将校の軍服をきて、大型ジープを運転して、府中刑務所に乗りつける劇の背景である。 この時の経過が「アイザックの府中刑務所訪問記」他として残されている。各資料によれば、刑務所長は仰天して、「ここには泥棒と人殺ししかいない」といいはったけれども、米軍将校になりすましたギランらは、所長に有無を言わさず看守の尻を叩いて政治犯を収容している扉を開けさせ、刑務所の陰惨な長い廊下を歩きまわり監房をあちこち探した。看守がすれちがった同僚にささやいた。「急いで事務所に伝えてくれ、この連中はオレを見せてはいけないところへ引っ張っていこうとしている」。ギランには、その日本語が筒抜けだった。廊下のつきあたりに、途方もなく大きな扉があった。ギランはどなった。「ここをあけろ!」。看守は震えながら鍵穴に鍵を差し込み、錠前を開けた。 ギランはこの時の様子を次のように書いている。
この時初めて市川の獄中死が明らかにされたようである。志賀の「日本革命運動の群像」は次のように記している。
この会見がきっかけになり、10.2日、AP、同盟通信などの連合軍従軍記者3名が訪問してきた。シカゴ.トリビューンの記者が、豊多摩刑務所で中西功に面会した。10.3日以降も報道関係の聞き取りが為された。 |
時期が確定できないが、アメリカの民間情報教育局のプランニング・セクションに居たベアストック大尉の面会も伝えられている。山辺健太郎氏の「社会主義半生記」に拠ると、概要「ベアストック大尉は、野坂の延安演説の速記録を持ってきて、『どうもあなた方の云うのと少し違いがあるのではないかと』見解を求めてきた」と記している。他にも、米軍のジェームズ・小田が来訪してきた、と記している。ジェームズ・小田は野坂と繋がりの深い胡散臭い人物であるが、山辺氏は、概要「解放軍的善意が米軍の中に在った」として礼賛している。
【西欧ジャーナリスト第二陣が府中刑務所を訪れ、徳球等と会見】 | ||||
10.4日、米政府SCAPの政治顧問部要員にして極東問題担当官且つ進歩派として活動していたジョン.K.エマーソンがハーバート.ノーマン(カナダ外務省の代表且つ左翼作家で、GHQの対敵諜報部に勤務していた)を連れ立って府中刑務所にインタビュー目的で早朝よりやってきた。二人ともOSS要員であったことが判明している。エマーソンは、既に延安で野坂とも会見し、野坂の意見を聴取していた。 会見は仏教儀式に使われる会堂で行われた。会見記によれば次のように当時の政治犯の様子が記されている。
エマーソンは、この時の直後か後述する後日かどうか判明しないが徳球.志賀.金天海3名を「GHQ」に連れ出し、日本共産党の闘争経歴と今後の活動方針について更に詳しく聴取した。金天海とは、政治犯として獄中15年非転向のまま過ごしていた朝鮮人活動家であり、「在日の星」と云われた人物であった。こうした手続きを経て後エマーソンは獄中闘士の釈放に力を貸しているようである。 この会見直後、徳球と志賀が所長に会って、徳球は次のように宣告した。
10.5日より予防拘禁所の政治犯は外出自由となった。 |
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「太田龍の時事寸評」の2,006.10.2日付けbP821「ハーバート・ノーマンについての中西輝政、と言うひとの浅薄皮相な説」が、「ハーバート・ノーマン」について次のように記している。(れんだいこ責編集)
ハーバート・ノーマンは、マッカーサーが対日政策上最も信頼していたブレーンであった。1945.9月の天皇とマッカーサーの会見をセットしたのもノーマンであったと云われる。ノーマンの主著「日本に於ける近代国家の建設」は、総司令部の幹部の日本理解に於いてバイブル的権威を持っていたとも云われる。田中英道「日本国憲法は共産革命の第一段階としてつくられた」(2006.11月号正論所収論文)は次のように記している。
「薩長因縁の昭和平成史(2)/園田義明 [萬晩報]」は、ハーバート・ノーマンについて次のように記している。
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【伊藤律の釈放過程】 | ||
伊藤律の釈放経過は次のようであった。敗戦後、全国の刑務所の中で一番早く、ポツダム宣言に基づいての政治犯の釈放を本省に請願している。いろいろな遣り取りの後、8.26日、出所に成功している。「大泉兼蔵らと一緒に出た」とある。これについて神山茂夫は次のように書いている。
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【獄中闘士解放要求の動き】 |
9.26日、哲学者・三木清は出所されないままこの日、独房で病死している。 |
【獄中闘士解放要求の動き】 |
獄外では、少なくとも二つのグループが政治犯の釈放を要求して活動した。一つは、金斗鎔.金成功.排録らを中心とする朝鮮人らの動きであり、一つは、服部麦生.高橋勝之.藤原春雄らを中心とした党員グループの動きであった。この両者は解放運動犠牲者救援会を作り、事務所を三菱ビル21号館の梨木事務所に置いていた。
政治犯釈放運動における朝鮮人の役割は大きかった。このことは案外と軽視されている史実であり、戦後党史の見直しの中で高く評価されねばならないように思われる。 |
【在日朝鮮人の決起】 | |||
こうした日本人の動きに比べれば、朝鮮人の行動は素早く且つ大胆だった。「最初にきたのは朝鮮人です。政治犯の釈放運動をやったのは、朝鮮人です。日本人は治安維持法でやられた連中でさえこわがってなかなか来ないのです」と山辺が後に語っている。志賀も「日本革命運動の群像」で、「最初の連絡がついたのは、金さんという一人の朝鮮人の党員だった」と記している。金天海の指示を貰った金**ら在日朝鮮人が呼びかけて、「政治犯釈放促進連盟」を結成して、運動が展開された。日本の共産党員が獄中の指導者が出てくるまでは特段の運動もつくれなかったのに比して、朝鮮人は直ちに運動を開始している。
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【炭鉱労働運動へと発展】 | |
この流れが、日本人労働者を奮い立たせ労働組合結成を刺激した面もあった。それぞれ炭鉱ごとに従業員組合が結成され、11月末までに北海道の炭鉱労働者の75%が組織されるに至った。北海道の炭鉱労働者の戦いは九州その他各地に飛び火し、ストライキの火の手をあげて行った。
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【徳球.志賀ら「GHQ」で尋問を受ける】 | ||
10.7日、徳球.志賀.山辺健太郎ら数名の政治犯が「GHQ」で尋問を受けた。ジョン.K.エマーソンが担当した徳球の陳述が残されている。「日本共産党指導者徳田球一尋問に関する報告」(45.10.19日第22号同封文書)がそれである。とりわけ興味深い箇所は次の記述である。
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【「GHQ」の徳球.志賀評】 |
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エマーソンは、次のように徳球をコメントしている。
この徳球の人柄について補足すれば、戦後の労働行政に深く関与した末広厳太郎氏が、意見聴取の過程で徳球と関わり、次のように回顧している。
吉田茂首相の徳球評は次の通りである。
他方、徳球の次のような「山師」的性格も伝えられている。
10.7、9日、両日にわたってソープ准将が担当した志賀義雄の陳述が残されている。「志賀義雄の尋問書対敵諜報部作戦部陸軍軍事郵便500号」がそれである。ソープ准将は志賀をコメントして、
と述べている。このソープ准将のコメントを見れば、エマーソンとほぼ同じ観点で「GHQ」が戦後共産党の指導者として徳球と野坂を想定しており、この二人の政治理論がかなり落差を見せていることを興味深く注視している様が見えてくる。
その他徳球の特徴についてここで記す。
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【10.10日政治犯釈放される】 | |||||||||||||||||||
戦後の党の歩みは、「GHQ」の10.4日の指令「政治犯を10月10日までに釈放せよ」から始まる。45.10.22付け日本政府から「GHQ」に提出された報告によると、この日までに、拘禁中の者439名、保護観察中の者2026名、合計2465名の政治犯が釈放された。
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注意すべきは、共産党獄中闘士、朝鮮人独立運動家と並んで天理教異端派の面々も見受けられることである。この「天理ほんみち」派が注目されていないが、獄中闘争の様子については共産主義者に比して一歩もひけをとっていなかった様が伝えられている。「予防拘禁所で、偉いと思ったのは、まず天理教の人です。死刑を求刑されたのだと思うけど、どこ吹く風で悠々としていました。それから、在日朝鮮人運動の中心だった金天海です云々」(山辺健太郎回想記「社会主義運動半生記」)。 |
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【戦後党史呱々の声、「獄中声明」為される】 | ||||||||
10.10日、府中刑務所に収監されていた戦前の党中央委員会メンバー徳田球一.志賀義雄らは出獄を前にして「獄中声明」を発表した。声明は「人民に訴ふ」という見出しパンフにて発表された。この声明こそが戦後党史の第一ページに相応しい。その内容は次のようなものであった。
と簡明簡潔に闘争方針を明らかにした上で、「我々は何ら酬いらるることを期待することなき献身を以ってこの責任を果たすことに邁進するであろう」と共産主義者としての自負を誇って結ばれていた。
というものであった。補足すれば、徳球は26年の第3回党大会で中央委員に選出されている。翌年27年に渡辺政之輔らと共にモスクワのコミンテルン本部の指導会議に参加し、「福本イズム」をめぐっての討論を行っている。徳球はその際の態度があいまいであるとして、コミンテルンから批判を受け中央委員を罷免された。当時の日本共産党はコミンテルンの日本支部として位置づけられていることからしてコミンテルンの権威は絶対的なものであった。その後、徳球は帰国して一般党員として活動しているうちに、昭和3年3.15事件で逮捕され終戦まで獄中生活を送るようになった。活動歴6年。網走、千葉、小菅の刑務所を転々とさせられた後、東京中野の豊多摩刑務所に移され(昭和16年12月21日〜昭和20年6月29日までの3年6ヶ月)、最後は府中刑務所に移された。世界でも類例の少ない獄中生活18年となった。
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【転向組共産党結成の動きと流産】 | ||
田中清玄氏は、自著「田中清玄自伝」(文芸春秋)文中で、次のような史実を明らかにしている。
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【戦後党史第一期】.【ミニ第@期】 |
戦後の党の歩みを決定した基本闘争指針は「人民に訴ふ」短文に凝縮されていた。そういう意味で「人民に訴ふ」は大いに注目されるべき重要文書である。この基本方針が如何なる揺り戻しを経ながら5年後の1950年初頭の「コミンフォルム論評」で党内分裂していくまでの期間を戦後党史の【第一期】の流れと区別することが出来る。戦後党史の【第一期】は更に細分化され、その【ミニ第@期】がこの「獄中声明」の発表から同年末にかけての時期の徳球−志賀執行部の確立期とみなされる。 |
【「自由戦士出獄歓迎人民大会」が開催】 |
10.10日、秋雨が降る中午前9時、徳球.志賀によって獄内細胞集会が拘禁所屋上で開かれ、徳球が出獄後の注意事項を伝達した。10時鉄門が開かれた。獄中から解放されたのは徳田球一.志賀義雄.金天海らの面面であった。これを迎えるべく「自由戦士出獄歓迎人民大会」が開催された。出迎えの者3千名を越え、「歓迎 出獄革命戦士 万歳」、「人民共和政府樹立」のプラカードや赤旗を持って人垣をつくっていた。その9割が朝鮮人だったとの証言があり、このことも銘記に値する。 |
【伊藤律と長谷川浩の入党】 | ||
この時伊藤律と長谷川浩が再会し、その後の方針を語り合った、と伝えられている。二人はこの後国分寺の自立会に徳田.志賀を訪ね、その場で入党手続きを済ませている。入党推薦者は、志賀と神山がなっている。ちなみに、妻のキミも長谷川と伊藤律の推薦で、同じ10月のうちに入党している。 入党後、長谷川は労働運動、伊藤は農民運動の組織活動に取り組むことになった。伊藤は農民運動の闘争現場を飛び回り、その状況を徳球書記長に報告していった。
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【徳球.志賀.金天海ら主要幹部が「GHQ」に訊問留置される】 |
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徳球.志賀.金天海は、午後2時半から日比谷公園での「自由戦士出獄歓迎人民大会」に出席する予定であったが、米第八第一騎兵旅団司令部(旧中野憲兵跡地)における情報将校からの尋問の為連行された。この時豊多摩刑務所から出た神山茂夫ゆ中西功、姉柿三郎らも同じように集められていた。英語を話せる志賀が一同を代表して答弁した。
と述べたことが注目される。 一夜(志賀に拠れば二日抑留されたとある)泊められ事情聴取を受けた後解放された。ここからが本格的な戦後の党活動の始まりとなる。 |
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【徳球と中西が白熱の議論】 |
10.10日夜、「32年テーゼ」派の徳球と、人民戦線派の中西功が、情勢分析と闘争方針について白熱の議論をしたことが伝えられている。10.10日は一夜留め置かれたはずであるので、アメリカの兵隊の銃剣付きの監視の中での論争であったことになる(真偽は不明)。論争のテーマは当面の情勢分析、共産党の戦略・戦術、天皇制に対する態度を廻ってであった。詳細は不明であるが、中西の天皇制論は打倒反対論であったようである。この時、行司役を買って出たのが三田村四郎で、「この討論は実に重要だと思う。徳田さんは何と言っても日本の運動については大先輩だし、一番よく知っている。同時に中西君は新知識だ。この討論を感情に走らず、みのりあるものにさせたいので、私に交通整理をさせてくれないか」(中西功「死の壁の中から」)と仲裁役を申し出たとのことである。 結局は、徳球が中西を圧倒し、「32年テーゼ」路線で党運動が開始されていくことになった。人民戦線派は暫くなりを潜め、山川均、荒畑寒村らの民主人民戦線派と地下提携しつつ、「ある期待を込めて」野坂の凱旋を待つことになったようである。野坂が天皇制問題などに柔軟性を持つ新知識派であることが漏れ伝わっていたからであった。当然ながら野坂のスパイ性について顧慮されることは微塵もなかった。中西はこの一晩の論争で徳球に疎んぜられることになり、復党は翌1946.5月になって細川嘉六の紹介で入党するまで、約10ヶ月近く棚上げされることになった。 |
【党の再建】 |
かくて党の再建は、自ずからこれら非転向のまま出獄してきた「釈放幹部」キャリア党員たちとそれを向かえる党員によって担われることになり、これらの党員及び支持者を中心にして戦後の党活動が公然と直ちに開始された。この元に新旧の党員が続々と結集し始めた。当初は国分寺の自立会に居を構えた。自立会とは、府中刑務所の付属施設として釈放者の為の一時救護宿泊施設を目的として新築されていた。6畳、8畳などの部屋が数室あり、出獄して帰る所の無い共産主義たちにとって恰好の棲みやとなった。徳球が出獄に際して、府中刑務所の中村義郎所長を脅して建物を占拠したと云われている(志賀の「日本共産党史覚書」では根田兼治の斡旋によるとある)。こうしてここが日本共産党の再建臨時本部となった。 |
【自立会時代の様子】 | |
「月刊『正論』2002.11月号」の兵本達吉氏の 「日本共産党の戦後秘史」より引用。自立会時代の息吹が次のように明かされている。出典は不明であるが、志賀の「日本共産党史覚書」辺りからではないかと思われる。
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【党本部の移転】 |
なお、自立会は党再建の仮事務所的であったので、10月下旬渋谷区千駄ヶ谷の電気溶接学校(現在の党本部所在地)の約500坪、建物250坪の地に移転し、ここに党本部とあかつき印刷所が置かれることになった。この経過は次のとおりである。もともと岩田英一の所有地であり、岩田はこれを徳球個人に寄贈し入党した。こういうこともあって岩田は中央委員候補として待遇された。が、「6全協」後宮顕が党中央に君臨し徳球系が排除されていくに随い岩田も干されるようになり、結局党外の人となってその生を終えている。岩田はさぞや敷地を無償提供しながらの無念の思いであったものと推測される。 |
【戦後党活動の最初の指導部】 | |
彼らが最初に為さねばならなかったことは執行部と党の綱領の確立であった。党拡大強化促進委員会が設立され、1・徳田球一、2・志賀義雄、3・袴田里見、4・金天海、5・宮本顕冶、6・黒木重徳、7・神山茂夫(順位調査要す)の7名が最初の執行部を形成した。 府中グループが主導権を制したのは、「優秀な獄中細胞をつくっていたとからかか、徳田というすこぶるボルテージの高い指導者を擁していたからとかいうだけでなく、活動開始の面での他のグループや個人より一歩も二歩も先んじていたために主導権を握ったとみるのが、公平なところといえるようである」(亀山幸三「戦後日本共産党の二重帳簿」)。 中西功は基本方針において徳球−志賀ラインと対立する主張をしていた為党に正式参加せず「人民社」を舞台に独自の活動をすることとなった(翌年野坂の帰国に伴い合流することになる)。 |
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![]() 現在の党史では、概要「戦争中、党活動に参加した党員のうち党中央委員は、宮本顕冶、袴田里見の二人しかいなかったという状況のもとで徳田以下7名による党拡大強化促進委員会が設立され云々」の記述が為されているが、為にする宮顕迎合の贔屓の引き倒し記述でしかなかろう。 宮顕、袴田らの党員歴及び指導能力は徳球−志賀ラインのそれに比して問題にならなかったというのが実際であったのではないのか、と思われる。むしろ、本来なら宮顕−袴田ラインの胡散臭さが問われ、党拡大強化促進委員会から除外されるべきであったであろう。但し、徳球はそういう後ろ向きの政争を好まぬ達であったということと、宮顕−袴田ラインに対する胡散臭さに対しての認識が甘かったという理由によって混交させたものと思われる。しかし、このことが後日大きなしこりとなって党内闘争へと発展していくことになる様をおいおい見ていくことになる。 この当時の宮顕の党的位置を自身が次のように語っている。
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この時、徳球.志賀らが党中央に自然と治まった背景に「非転向長期獄中闘士」に対する尊崇が心情として決定的な意味を持っていたと思われる。この非転向派の昂然さと転向派の負い目がどのように絡んでいたのかの省察も興味ある課題である。ところで、「転向」をそういう公式論的に見なしていくことは危険であるように思われる。「転向」の要因と様子と事情についての解明が為されねばならない。 |
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![]() この時期の党拡大強化委員会メンバー7名のうち、神山と宮顕を除く5名が、「府中組」ないし徳球と党生活の全てを共にしていた。徳球の家には袴田、西沢隆二(ぬやまひろし)が住み込み、道一つ隔てた向側に志賀が居を構え、日常生活を共にしていた。これに対して、「文字通り『家父長体制』をつくり上げていたことが、党の政治的・組織活動的の上にも、大きな損失を与えた」(神山「日本共産党戦後重要資料集」)と指摘する向きがあるが、れんだいこはナンセンス極まりない「為にする批判」であると思う。党活動上、起居を共にするあるいは近辺に集中することは自主的であるならば有益でありこそすれ逆ではなかろう。我が左派論者の中にはこういう無益な批判が多すぎるのも特徴である。
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【当時の党活動の様子】 |
この当時の活動の様子は次のようであった。10.18日「赤旗1号」が再刊され、「人民に訴ふ」と「闘争の新しい方針について−新情勢は我々に何を要求しているか」が発表された。幅15センチ、縦21センチの粗末なザラ紙に印刷された19頁のパンフレット版が約1万部刷られ配布された。編集発行人は志賀義雄、印刷所は桂山印刷所(責任者桂山光太郎)。赤旗発刊は、昭和8年12月に宮本顕治が逮捕されたのに続き、最後の中央委員だった袴田里見が逮捕される直前の2.20日付け赤旗第187号の停刊以来、10年8ヶ月ぶりの再刊であった。 |
【「人民戦線綱領決定す」が発表される】 |
11.6日、「人民戦線綱領決定す」が発表された。11.7日「赤旗2号」が発行された。徳球は、巻頭論文で天皇を明確に戦犯扱いしていた。紙面には天皇と軍部と財閥を槍玉に挙げた熱気がほとばしっていた。 志賀は、アメリカ占領軍の評価をアメリカの政治形態にまで及ぼし、「天皇なき日本人民共和政府とはその形態において、むしろアメリカ・デモクラシーと本質的に同じところが多いといいうる」と、日本の人民共和政府をソビエト共和国のそれよりはむしろ「アメリカ.デモクラシー」的に近いところで構想していた。これに対する党内からの特段の異論は生まれなかったことが注目される。 |
![]() こうした現在の宮顕指導部の見方からは、概要「『人民に訴ふ』と赤旗1号.2号については正規のものではなく、再刊された赤旗の1号、2号の内容は、党の集団的方針ではなく、徳田らの個人的グループ的見解を表明したものであった。3号にいたってはじめて、党指導部としての集団的な立場を反映したものとなった」と記述されている。宮顕.袴田が参加した3号以後が正規の党文献になるとこじつけている訳であるが、こういうのを自家中心的形式的論理というのであって、宮顕.袴田が参加していようがいまいが既成事実を事実として認識していく態度が望ましい。まことにもって恣意的な評価記述であり、党史の中で徳球や志賀の存在をどうにかして軽くしようと云う観点から宮顕が書記長になった第7回党大会以後為された党史捏造と云えるであろう。 |
【「第1回全国協議会」開催】 |
11.8日、党大会準備の為の「第1回全国協議会」が開かれた。この大会の意義は、戦後日本共産党が合法政党として公然と大会を開くことが出来、大衆の眼前に姿を現わしたという事にある。このことは当時の労働者・農民にはかり知れない勇気を与えた。 この全国協議会において、徳田球一、志賀義雄、神山茂夫、金天海、宮本顕治、袴田里見、黒木重徳の7名を党幹部に選任し、この7名を準備委員として遅くも12.1日までに第4同全国大会(第1回は大正11.7月東京、第2回は同12.3月市川、第3回は同15.12月五色においていずれも非合法に開催)を挙行することに決定するとともに党規約、行動綱領、人民戦線綱領、日本共産党当面の政策等を決定した。 |
【日本共産党行動綱領、人民戦線綱領が発表される】 | ||||
この時、日本共産党行動綱領、人民戦線綱領が発表されている。日本共産党行動綱領は次の通りである(「日本共産党の再建」より転載)。
人民戦線綱領は次の通りである(「日本共産党の再建」より転載)。
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【「赤旗3号」で、連合軍を「世界解放の軍隊」規定する】 |
11.22日、「赤旗3号」で、連合軍は「世界解放の軍隊」であり、その進駐のおかげで「日本における民主主義的変革の端緒がひらかれるに至った」という見方が引き続き確認された。12項目からなる「人民戦線綱領」が発表され、「天皇制打倒による人民共和政府の樹立」、その組織形態として「人民解放連盟」の結成が提唱された。合わせて「人民戦線綱領の提示に際して」が発表された。その他規約の審議が為された。 |
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【「第4回党大会」開催】 | |||||||||||||||||||||
○期日.会場.代議員数他 |
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○採択決議について
徳球は、「一般報告」において「ポツダム宣言に基く日本占領方式は日本解放の諸標識として自主的に運用することが重要である。われわれはあくまで自主的であり、能動的でなくてはならぬ。頼らず恐れずわれわれはわれわれの解放運動を遂行せねばならぬ」と運動の基本方針を指示し、更に「天皇主義者の一掃」、「各党の批判」、「食糧、土地、失業問題」、「組織問題」に言及し、それを次のように要約している。
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○朝鮮人部の設置 この時、在日朝鮮人共産主義者と日共の密接な関係が構築され、朝鮮人部が設置されている。なお、「朝連」を日本民主民族戦線の一翼として位置づけ、日共党員朝鮮人を通じて朝連組織の改組、宣言、綱領・規約改正を行い、以降共同闘争を担っていくことになる。 |
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○新執行部について
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付言しておけば、この新旧指導部の確執が尾を引いていくことになる。この後の党の歩みにおいて徳球グループと宮顕グループはこの当時の陰から次第に陽へとあからさまに対立を見せていくことになり、緊迫する社会情勢と党の歴史的任務達成課題そっちのけで最終的に非妥協的な抗争へと発展していくことになる。結果的に徳球グループが解体され、宮顕グループが党内を制圧していくことになった。これが現執行部の系譜である点も踏まえておく必要がある。
云っていることは的を射ているが、宮顕グループがこれを言うのは白々しい。 |
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【徳球−志賀体制について】 |
こうして戦後【ミニ第@期】の党執行部は徳田−志賀体制から出発した。 |
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【当時の在日朝鮮人、中国人の動き】 |
10.15日、日比谷公会堂で在日朝鮮人連盟(「朝連」)が結成された。全国各地の代表4000名が集まった。「1.在留同胞の権益の擁護とその生活向上を期す。日本帝国主義と封建的残滓を清算し、新朝鮮建設に貢献す」などの基本綱領が掲げられた。 「朝連」の戦闘的翼は日本共産党に参加していった。 「朝連」は在日朝鮮人全体の大同団結組織で、この結成時当初においては左翼的色彩はさほどではなかったが、次第に共産主義者のイニシアティブが増していった。こうした流れに不満の者達が11.16日、朝鮮建国促進青年同盟(「建青」)を結成した。無政府主義者を含む非共産主義者の青年を中心としていた。この「建青」が「朝連」内右派の実力行動部隊の役割を果たすようになっていく。 |
【45年当時の党の方針の特質と要点】 | |||
最近偶然古本屋で手に入れた「日本共産党は何を要求するか」(日本共産党.平沢三郎.日本共産党出版部.46.3)を参照する。実際の執筆は46.1.5日とあるので、「第5回党大会」の野坂理論の影響以前の党の指針であり貴重な資料であるように思われる。小冊子ではあるが、かなり長大であるので要点のみ転写することにする。気づくことは、内容の吟味以前のこととして字義どおりの意味で理論政党としての自覚の元に諸方針が「熱く」語られていることである。獄中から解放されて半年ばかりしか経過していない徳田党中央の面目が躍如としている。宮本−不破党中央の饒舌無内容と比較すれば自ずと違いが浮き彫りとなる。 | |||
@〈世界情勢に対する認識〉について 先の第二次世界大戦は民主主義連合国とファシズム陣営の戦いであり、こういう観点から反ファシズム解放戦争こそが優先されるべき最重要課題であるとみなしたことから、連合国軍と党の間には共同の敵=天皇制軍国主義国家を打倒するという利害の一致が見られた。拠ってこれを打倒した進駐軍は日本人民の「解放軍」であるという見方となり、党は、「人民に訴ふ」において、「専制主義と軍国主義からの世界解放の軍隊としての連合国軍の日本進駐」であるとして「深甚の意を表す」ところとなった。「我が党は官憲によってあらゆる迫害を受けてきたが、それに屈せず我が党はこの軍事行動を強奪と搾取の為の侵略となし、太平洋戦争を強盗戦争と規定し、連合国を自由と正義の担い手としてその戦争努力を積極的に支持し、現在もまた占領軍を解放者の軍隊としてこれと積極的に協力している」。 ソビエト同盟に対して「社会主義社会を完成しつつあるソビエト同盟」という見方を採った。
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A〈国内情勢に対する認識〉について ポツダム宣言事項の徹底化を積極的に支持した。「天皇制の打倒と人民共和政府の樹立」、戦争犯罪人の厳重処罰を目指した。「GHQ」が天皇制軍国主義国家を解体するために押し進める諸政策つまり戦犯の追及その裏腹な関係にあった獄中政治犯の釈放を含めた平和主義的民主主義的な諸施策=「ポツダム宣言事項の徹底」につき、党は、「人民に訴ふ」において「積極的に之を支持」する旨表明した。この動きに併せて党は、「GHQ」の期待する民主主義的な改良運動の枠内に止まる限りにおいて一番手の旗振り役として活動することが公認された。しかし、この「GHQ」の公認は逆に党の活動を「占領政策への協力という大枠」に閉じこめることもなった。しかし、「如何なる場合でも、マ司令部にすがる気持ちではいけない。日本の民主主義革命の遂行者は日本人民であることを忘れるな」(赤旗.45.10.20)とも留意されていた。 |
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上記@.A及び前記の徳球観点につき、後になって「党は、当時戦後日本のおかれた新しい情勢に対して明確な認識をもちえず、日本を占領しているアメリカ帝国主義の軍隊を解放軍と見るような誤りを犯した。」(「50年問題について」)と総括している。あるいは又「日本人民の解放闘争の複雑な展望を正しく見ることが出来ず、占領軍の統治下でも、平和的、民主的手段による民主主義革命の達成が保証され、さらには社会主義革命への発展さえ可能であるとする日和見主義見地に陥っており、ここにそのもっとも重大な誤りがあった」(日本共産党の50年.昭和47年初版)と批判している。
れんだいこ観点は繰り返さないが、後付けで云えばかように云えることは確かであるが、時々刻々の動きを弁証法的に捉える観点からはこのように決め付ける必要は無かろうと思われる。 |
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B〈党の革命戦略〉について |
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C〈党の革命戦術〉について この時期の党執行部は、「人民共和政府の樹立」を掲げたとはいえ一瀉千里にこれに向けて邁進する意志はなかったようで当初より人民戦線理論の元に統一戦線運動に従って漸次的に押し進めようとしていたことが注目される。この観点が翌年に野坂理論と融合していくことになった。こうして統一戦線理論を導入する他方で、後述の「E〈左翼陣営内における本流意識〉について」で述べるように社会民主主義者にはありとあらゆる非難のレッテルを張り付け痛罵した。そうした批判は主に社会党幹部や労組幹部に向けられたが、統一戦線理論の実践上の矛盾でもあったといえる。ちなみに、社会党に対しては、天皇制を擁護しようとしているから、共同戦線を張る訳にはいかないとしていた。「現在我々の人民戦線の中心題目は、『天皇制の打倒、人民共和政府の樹立』でなければならぬ。然るにこの社会党は天皇制の擁護が主題目となっているのだから、これと直ちに共同戦線をやる訳にはいかない」(「闘争の新しい方針について」赤旗45.10.20)としていた。最左派の山川均らについても、徳田は第4回党大会で「山川、荒畑のごときはいわゆる講壇社会主義者に過ぎない」と決め付けていた。 |
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D〈党の当面の具体的な運動方針と方向〉について 党は、戦前の非合法状態から合法政党として活動することができるようになった。党は、1.天皇制の打倒と人民共和政府の樹立、2.寄生的土地の無償没収と農民への無償分配、3.労働者階級の状態の根本的改善を、現段階における三つの基本的任務とした。党は、経済的闘争のみならず、戦争犯罪人の追及その他の政治的行動、日本政治の民主主義化の為の闘争の先頭に立って指導した。労働組合+工場委員会、農民・漁民委員会、食糧管理委員会を基礎とする人民協議会という形態での統一戦線組織を目指すこととなった。人民解放連盟.青年共産同盟の組織と行動指針が決定され、これらが綱領に掲げられた。 この時期の党の活動とは、党組織の再建であり、議会の開設が為されていない時期のことでもあり専ら街頭演説による党のプロパガンダ活動が主であった。戦時中唯一非妥協的に軍部と闘った党への信頼は絶大であり、敗戦直後の徳田球一の街頭演説には黒山の人だかりが為されたと伝えられている。労働組合運動の高まりに応じて党員は常にその先頭に立って戦いをリードした。こうしたプロパガンダと大衆闘争の取り組みを通じて新規党員が続々と獲得されていった。徳田−志賀体制時期の活動を今日的観点から見れば次のように云える。当時の党員の能力は、執行部を形成した古参幹部にせよ長期の投獄により永らく実践活動から遠ざかっていたマイナス面を持っており、この時期入党した新規党員は活動履歴と闘争経験の乏しいままの俗に言う西も東も判らない時期のそれであり、徳田−志賀体制とはそういうごった煮の寄せ集めの党員たちが只革命的情熱に導かれるままの船出であった。 この時期党の具体的な運動方針は、様々な角度から日本の平和的民主的な再建策を具体的に明示していた。
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E〈党の大衆闘争指導理論〉について 「労働者.農民.勤労市民」の生活闘争の支援と指導を明確に掲げている。労働者に対しては、労働者の労働組合の組織化、賃金の大幅値上げ、労働時間の短縮、労働組合結成と団体交渉権の確立、共同闘争の為の共同闘争委員会の結成と産別組合運動化、生産管理と経営参加。農民に対しては、強制的供出に対する民主的供出の要求、農業会の農民主導、小作料の減免、有給土地の分配。都市市民に対する配給組織の監視と管理。これらを併せての人民協議会の結成指導。これらの闘争の先頭に立って党と進歩的諸団体が闘うという観点が確立されている。 労働運動に対しては、「労働者階級は資本主義を廃絶し、人間による人間の搾取の無い共産主義社会を建設する歴史的使命を有する。けれども労働者階級がこのための闘争を自由に闘うためには、まづ第一に労働者の無権利状態と植民地的生活状態を脱して、階級闘争の自由な公然の発展と労働力の正常な維持と発達とを保障する政治.経済的地位を獲得しなければならない。それ故労働者階級の状態の根本的改善と政治的権利の為ノ闘争が、資本主義に対する日本の労働者階級の当面する基本的任務となる」として、大会は、「労働組合運動に関する決議」を採択し、「労働組合運動の統一的再建」、「 全国的単一的産業別組合の結成」などを指針させた。徳球の方針は、
というものであった。有能な党員の獲得と組織の確立を優先的な指針とするものであったが、今日評価が分かれている。この方針は、徳田の運動急進主義的特徴を物語っている。あわせて既存の社民的な組織との軋轢を招くものである。その是非は難しく、このような労働組合やその他の大衆団体に対する「党指導下の独立組織」構想に対し、労働者出身で長く組合運動に従事した経歴のある神山茂夫は反対した。「赤色労働組合主義」であり、全国統一的な大衆団体結成の方針こそ有効、社会党との統一戦線を模索すべきであると主張した。
と罵倒した。総同盟左派について次のように攻撃した。
農民運動に対しては、労農同盟の見地を掲げ、「日本共産党は労働者階級の政党として、労働者階級の指導による土地革命の徹底的遂行が、労働者の盟友としての農民を労働者と離れがたく結びつけること、土地革命の遂行を基礎とする民主主義の勝利は、労働者階級に政治的自由を与え、労働者の資本主義に対する闘争を容易ならしめるが故に、労働者階級の当面する基本的任務として遂行されねばならない」としていた。 |
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この時期の12.2日、かって32年テーゼの作成の際にモスクワに在ってこれに参加した経歴を持つ湯本正夫(山本正美元党中央委員長)が社会主義革命論を唱えていたのが注目される。当時、山本は党の指導機関に居らず、この論文は東京新聞紙上に発表された。但し、当時の革命的熱気のほてりの中でかき消されたようである。同氏は、戦前の天皇制が絶対主義であり、この打倒を優先課題にしていた「32年テーゼ」の意義については認識を一致させていたが、敗戦後の変化に拠り天皇制はブルジョア化したという評価から、次は社会主義革命を打ち出すべきではないかと主張した。 |
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F(党の機関運営について) | |||
G〈左翼陣営内における本流意識〉について
その根拠は、自由主義者や社会民主主義者らが日和見主義的にふるまった中、唯一党だけが屈せず戦前.戦中を獄中闘争で貫いたという実績にあった。確かに宗教界の一部を除けば共産党だけであったことを思えば自他共に認められる根拠があったということになる。この優越意識は党のかっての転向者に対しても向けられており、その分余計に一点の曇りもない自負を与えることになった。 |
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H〈この時期の青年戦線.学生運動について〉 この時期早くも学生青年運動が立ち上げられることになった。10.12日、最若年党員として入党して本部勤務員となった寺尾氏の回想によると、「志賀と宮本に『学生のことは君たちに任せる』といった徳田の言葉を覚えている」とあるので、志賀と宮本がこの方面を担当したことになる。 1945年(昭和20年)敗戦とほぼ同時にこの時期早くも党は青年共産運動の建設の課題を提起し、党の指導下で学生青年運動を立ち上げていくことになっ た。戦前1922.4月に日本共産青年同盟(共青同)が創設されていたが、その革命的伝統を継承して「青年共産同盟」(「青共同」)の再建を指導し結成に導いた。 8月に民主主義青年会議を組織した。これは国際共産主義青年インターナショナル第6回大会で決定された青年単一戦線結成の方針を日本に適用しようと意図したものであった。しかし、党は、 国際的経験を正しく摂取した青年同盟の路線を提起しえず、人民戦線以前の 「社会ファシズム論」的なセクト的思想のままに社民的改良運動=社会民主主義運動排撃を指導したようである。 10.15日、東大.共産党東大細胞が結成されている。メンバーは18名であった。 |
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I〈大会後の動き〉
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【共産党が「戦争犯罪人追求人民大会」開催】 |
12.8日、「戦争犯罪人追求人民大会」を開く(神田共立講堂)。天皇を筆頭として平沼騏一郎(大逆事件時の担当検事)ら千名以上の戦争犯罪人名簿を発表。戦犯追及人民大会を開いたのは共産党だけであったことが注目される。 |
12.12日、第1回拡大中央委員会(以下、「拡中」と記す)が開かれた。当面の具体的方針を決定。中央機構の拡充。 |
12.23日、第一回東京地方党会議が開かれ、9名の暫定東京都委員が選出され、この時伊藤律が序列第4位に入っている。長谷川浩、岩田英一、伊藤憲一、伊藤律、酒井定吉、服部麦生、寺田貢、金とうよう、中野某。 |
12.末頃、来るべき憲法制定国会の為の第一回総選挙にどう関わるのか、闘うのかを廻って、中央委員会書記局・黒木重徳が中心となり意見を聴取している。席上、伊藤憲一が「今のような時機に議会選挙など問題にならない」とボイコットを主張し、長谷川浩が「選挙をボイコットするような革命的情勢では無い。選挙を政治的暴露と大衆的行動で闘い、大衆の要求を国会に反映すべきだ」と述べた。結局結論が出ず、そのまま政治局に報告した。数日して政治局見解として志賀から「選挙を闘う」方針が打ち出された。(長谷川浩「2.1スト前後と日本共産党」) |
12.30日、新日本文学会創立。新日本文学創刊準備号、宮本百合子「歌声よ、おこれ」を発表。文学の分野を越えたひろい共鳴を呼び起こした。 |
12.31日、南朝鮮人民が「信託統治反対・即自独立」のスローガンを掲げて公然たる反軍政闘争に突入している。
12.31日、朝日新聞が次のような野坂待望論解説記事を掲載している。「天皇制の問題のごときも彼(野坂)は天皇制打倒を唱える内地の出獄派に反対し、天皇制打倒を叫ぶは戦術的にも客観情勢を無視しているものと判断している。岡野(野坂)進氏が帰国すれば、現在の日本共産党は---あるいは分裂を余儀なくされるのではないか」。 |
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社労党の町田勝氏は、この経過を「決定的な時期を無為に過す」との見出しで次のように批評している。
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(私論.私見)