第39部 1977年当時の主なできごと.事件年表

 1.4日、新しい日本を考える会が「市民社会主義の展望」を発表。


 1.9日、党代表団(団長・不破)がイタリアを訪問。1.20日共同声明。


【「江田意見書」】
 1.12日、江田社会党副委員長、党運動方針案に対する「江田意見書」を提出、中執委に革新・中道連合への決断を迫る。

 「江田意見書」の中身は次の通り。社会党の長期低落傾向に対する江田式構造改革論ともいえるもので、「保守に代る新しい連合政権樹立」に向けての戦略論ともなっていた。それらよると、今や中産階級が国民の多数派になりつつあり、彼らの望む漸次的改革を指導する責務を担う必要がある。このことを、「この多数派を、政治の場で実現するのがわれわれ政党の役目である。そのため、第一に、先進国型の自由と民主主義に基礎をおき、漸次的改革をめざす社会主義勢力(党と労働組合)が核となり、第二に、革新的ないしリベラルな諸党派、諸勢力、市民、知識人、中間層等を含む進歩的連合を形成することである。われわれはそれを革新中道連合と呼ぶ。より正確には、社会党が中心的な勢力として加わるという意味で革新・中道連合である。もし今回の選挙にあたり、そうしたリベラル保守をも含む革新・中道連合構想が具体的に明示されていたなら、新しい政権誕生の道が一挙にひらかれたかもしれない。野党各党バラバラの抽象的政権構想では、なんの迫力も持ちえなかったのである」と述べている。いわば「革新中道路線」を提唱していた。

 「革新中道路線」の提唱は、教条主義的マルクス主義路線との決別でもあった。その論拠として、@・概要「マルクス主義的階級分析論はもはや古い」。A・概要「単一の党が国民過半数の支持を獲得できる時代はすぎ去り、多党連合による政権奪取こそ目指すべきである」。B・概要「多党連合時代に適合する社会党の再生を目指すべきである」。C・概要「これまで安易に使われてきた『統一戦線』という用語も刷新する必要があるように思う。統一戦線という語は、前衛政党(共産党)を中心としてその周りに諸勢力を結集するという、同心円型の戦線として歴史的に定形化された概念である。われわれが目ざす連合はそうではなく、実際上何れかの党が要(カナメ)党としての役割を担うにしても、少なくとも理論的には、同格の複数の政党がいて、互いに協力しあう関係でなければならない。したがって『統一戦線』という用語よりも『連合』がその呼び名にふさわしいと思う」。D・「こうした考え方にたって、政権構想を早急に具体化しなければならず、そのためのリーダーシップは、野党第一党である社会党に責任があると思う」。E・概要「成田委員長の推進する全野党共闘路線は間違いである。年を経過したにもかかわらず、四野党の足並みは一致ではなく、分離の方向に進んできたことを冷静にうけとめなければならない。ネックは共産党にある。この党がいかに柔軟な路線を表明しようと、民主集中制をとるイデオロギー政党であり、党内にさえ民主主義が生かされない独善の党である限り、この党を加えての連合は不可能だということを認識しなければならない。これはすでに、世界的に実証されてきたことであり、共産党とは閣外協力が限界だということである。わたくしは日本における現実的な革新的連合政権の構想に、共産党とはともに天を戴かずという態度をとれというのではなく、遠い将来は別として、現段階においては、前述のように対処することが壁につき当たっている社会党の政権構想に窓をあけることができると確信する」と述べていた。

 1.13日、社会主義協会、党内派閥として三月会結成。社会主義協会は、「大会で江田意見書を潰す」と言明。


 1.19日、日ソ両党会談。西沢とポノマリョフ。


 1.20日、ジミー.カーターが第39代大統領に就任。


 2.5日、常任幹部会が、袴田の党規律違反問題調査のための「調査委員会」の設置を決める。責任者は不破。


【社会党第40回党大会】
 2.8日、社会党第40回党大会。江田副委員長と社会主義協会派の対立激化。「衆参両院の首班指名選挙において福田首相が一票差で選出された直後のこの大会は、「社会党は果たして政権担当能力のある政党に脱皮できるか否か」が注目の的であった。しかし、大会論議は、後にこの大会が「江田いびり出し大会」の名で呼ばれるように、江田のつるし上げに終始したのである。江田意見書は多数で否決され、趣旨説明さえ許されなかった。同様に意見書を提出した佐々木更三元委員長(この人も落選した)は、一応趣旨説明だけは許されたものの、「裏切り者、黙れ」 「老いぼれ、引っ込め」と、聞くに耐えない罵声が浴びせられた。会場を揺るがす野次と怒号、だが江田三郎は毅然として答弁を続けた。「一つのテーゼを振り回すだけでは、党はだんだん国民から遊離する」と、諄々と説く姿は、まさに殉教者であった。社会主義協会にあらずんば人にあらず、といった大会運営を制止しなかった成田・石橋体制も、江田いびり出しに一役買ったといえるだろう。社会党史の汚点ともいうべき異常な大会であった」(江田三郎社会党離党)。

社青同解放派書記長・中原一氏が革マル派の襲撃に遭い死亡

 2.11日、革命的労働者協会(革労協会=社青同解放派)の書記長・解放派筆頭総務委員の中原一(本名・笠原正義)氏が、革マル派の襲撃に遭い死亡。茨城県取手駅付近で車に乗っていたところを車で挟み撃ちされ、降りてきた6人の革マル派テロ集団に鉄パイプでめった打ちにされて殺害された。 この事件により、1975.3.14日の中核派書記長・本多延嘉殺人事件に続いていずれも革マル派のテロルにより党派の最高指導者が殺されたことになる。

 革マル派の機関紙「解放」(77.2.21日付け)は、「中原一派の盲動を未然に粉砕」の見出しで、「『人殺し、助けてくれ』という消え入りそうな萎えきった声がお前の最後の言葉となった」と報ぜられた。これ以降、解放派は革マル派に対して全面戦争に突入し、77年中に7人もの革マル派活動家を殺害した。

 六〇年安保以後、革共同、ブンドに対抗した東大、早大を中心とした、社青同全国学生班協議会の運動の流れがある。そして一方の東京地本の労働者運動の流れとが合流、合体して解放派は労学の統一した組織として飛躍していった。学協の中からは以後、五辻活、笠原正義君等のすぐれた指導者が輩出して東京地本、革労協の中核を担っていった。笠原君が一九七七年二月十一日、革マルのテロルに倒れたとき、「学協の流れを絶やしてはならん」と心に誓った。

 その学協の正統な継承者こそが永井啓之君である。生前彼と「ぜひ解放派の歴史を整理し、書き浅さねば」と共に語り、具体的作業を開始しようとした直後の無念の死であった。しかしいかなる暴虐も歴史の真実を消すことはできない。私はいつかは個人史を書き、解放派の闘いの歴史を明らかにする作業の一端に役立てたいと常々思っていた。その具体化の第一歩が出来たのは、まさに本集の出版が契機であった。このことこそ永井君の今なお生ける意志であり、また彼の遺業である。続きは厳密に今後書いていきたいと思う。最後に永井雅子さんの協力に感謝し、今後も助力を願いたいと思っている。(樋口圭之介「六〇年安保・三池闘争の高揚と社青同結成」


「江田三郎社会党離党の動き」

 「江田三郎社会党離党」を参照する。3.1日、江田派の現代革新研究会が総会を開き(42名の議員)、会長・江田三郎、幹事長・阿部昭吾を決める。他に側近として大柴滋夫、山田祉目氏。3.2日、「新しい日本を考える会」の運営委員会が開かれ、三カ月後の参院選に無党派候補を擁立するか否かを話し合った。考える会顧問の矢野公明党書記長と佐々木民社党副委員長は、江田三郎こそ無党派候補の最適任者として、熱心に「社会党離党、参院選出馬」を薦めた。但し、江田は、運営委員会後の記者会見で、「一応検討してみるが、立候補するかどうかは白紙」と述べた。3.3日、読売新聞に「江田三郎離党決意、考える会を基盤に全国区へ、先ず大柴滋夫、阿部昭吾、行を共に」という見出しの記事が載った。まだ根回しも何もせぬうちに舞台は勝手に回り出した。3.3日夜、江田派は幹部会を開き、江田の離党を認め、今後の対策の相談に入った。江田新党結成へ向けて流れが固まった。離党を決意した江田に対し、さまざまな慰留が行われた。成田委員長をはじめ、佐々木更三、三宅正一といった長老や、総評の幹部等々が説得した。しかし江田の決意はもはや変わらなかった。江田三郎は全国行脚を開始した。その忙しいさなかに「新しい政治をめざして」の執筆に向かった。

 この間、荒畑寒村を訪問している。荒畑は、江田を歓迎し、「本当の改革というのはいつも少数派だ。今の社会党の中で社会主義のことを真剣に考えているのは江田君だけだ。私と君とは立場が違うけれど、君の行動を理解し、支援するよ」と励ました。江田はこの会談の模様を、その後くり返し語っている。よほど嬉しかったのであろう。


 3.11日、社会党、党改革委員会を設置。

 3.17日、原水禁運動の統一ついて、総評と共産党が会談、統一組織を作ることで合意。


 3.20日、インド総選挙でガンジー派が大敗。


 3.21日、ワシントンで福田.カーター会談。


【江田三郎が社会党離党】

 3.26日、江田三郎が社会党離党。三宅坂の社会文化会館で離党手続きを行う意思が強かったが党中央はこれを認めず、三番町ホテルで行われた。離党手続きは、訪ねて来た石橋書記長に江田が離党届を手渡しただけ、ドライに短時間にケリがついた。離党した江田は、秘書の矢野凱也だけを連れて国会記者会館四階の大会議室に赴き、百人を越す記者の前で離党にあたってを読み上げた。参院選全国区出馬と政治集団「社会市民連合」結成の意向を表明。

 「離党にあたって」声明文は次の通り。

 私は本日、日本社会党離党の手続きをとるとともに、「社会市民連合」(仮称)を発足させ、来る、参議院選挙に、全国区から立候補することを決意しました。

 おもえば、構造改革路線の提唱以来、私は、社会党の革新のために、いく度か提言をし、努力してまいりました。残念なことに、実を結ぶことができず、幅の広い国民常識の党として、社会の漸進的改革をめざして出発した社会党は、むしろ逆の方向に進んでおります。今回の私の離党問題を契機に、党の内外から、党改革のうごきがたかまってきたことは、おそすぎたとはいえ、私にとっては一つの救いといえます。多くの同志が、離党はよせ、党にふみとどまって、手をつないで党改革にあたろうと、熱意をこめて私に説きましたが、あえて心を鬼にして、私の道を進みます。

 現代は、わが国だけでなく、世界のどこもが大きな転換に直面し、惰性でつづいた時代に区切りをつけねばならぬときであり、政治も、世界的に連合時代をむかえております。だが、わが国の革新の側は、こうしたことに正面からの対応ができず、国民の魅力をつなぎえておりません。参議院選挙にしても、保革逆転ではなく、自民一党支配から、新自由クラブを加えた保守二党支配となる公算がつよく、いま革新の側にとって最大の課題はふえつづけている支持政党なし層を、いかにしてこちらにひきつけるかであります。社会党は最大野党であり、この党をそうしたことのできる党に変える可能性がないとはいえませんが、時間のかかることです。それはそれとして追求しながら、別の角度から支持政党なし層を結集することが、緊急を要する課題であります。私が「新しい日本を考える会」に参加したのも、このことを考えたからなのです。私は社会党改革に取り組む同志の行動に共感しつつも、支持政党なし層の結集のために裸でとびだし、社会党の外から、党改革を迫っていく決意なのです。

 私はこれからの日本の進むべき道について、古い社会主義のイデオロギーをのりこえた、新しい社会主義の道を提言してまいりました。要約すれば、議会制民主義の堅持と徹底した分権と自治、ルールの確立されたなかでの市場機構の活用、計画的な資源配分と農業漁業の振興、公共的な保証体系の確立、公害と安全についてのきびしいルールの設定、文化的な創造の自由の保証などが、欠かせないことです。

 当然のことながら、政党もこれに適応した政策をもつとともに国民不在ともいわれる現在の組織や運営について、根幹にふれた改革を迫られているのであります。未組織労働者でも零細業者でも、誰もが自由に参加でき、意見を述べあい、話しあいのなかで政策を創り出す組織であり、中央本郎が大きな権限を持って命令や強制をするのでなく、個人や各種の集団がタテではなくヨコにつながる、いうならば、統制委員会ではなく調整委員会が持たれる連合の組織であるべきだと思います。これこそ私が社会党にあって果たしえなかった「開かれた党」の実現であります。

 私の今回の行動が、いきづまったわが国政治の変革の第一歩となるか、自らの墓碑を刻むことになるか、わからないことです。幸いにして、多くの激励、腕を組もうとの申し出もうけております。長い協力関係にあった労働組合の諸君も、この私の信条に理解を深めてもらいたいと思っております。これからの私の行動目標は、参議院選挙の勝利だけではなく、新しい政治集団づくりであり、その名称も政策も組織方針も、これから参加してくださるみなさんとともに創り出すことなのです。新しいレールを敷く捨て石になりうれば幸せなことです。

 1977年3月26日

 
次の注目記事がある。1977.3.27日付け読売新聞座談会――江田氏脱党の波紋 。司会は「読売新聞」(東京)編集局次長兼政治部長 渡辺恒雄(以下、ナベツネと記す)で、出席者は、社会党代議士・大柴 滋夫、社会党前委員長・勝間田清一、運輸労連委員長・中川 豊、専修大学教授・正村 公宏、総評議長・槇枝 元文。これをれんだいこ風に要約すると、ナベツネの音頭で企画された座談会であり、ナベツネの意図は、社会主義協会の教条主義批判に重点があり、その限りにおいて「江田脱党の正義」を売り出していることが分かる。

 それに対し、正村氏が「江田脱党の正義」を正真正銘援護しており、次のように述べている。「江田さんの今回の行動は、政治状況に柔軟かつ積極的な対応を示したという点から評価すべきだと思う。(江田脱党は)遅きに矢したという批判はあっても、早過ぎたとは思わない。今の社会党は、変わらねばならないと思う。五五年の保革二大政党体制は、その後の社会党の分裂による民社党の結成、公明党の誕生、共産党の伸長などによって、事実上崩壊した。野党主流の社会党は、衰退の一途をたどるばかりだ。「戦後社会党の時代」はすでに終わったと言っていい。江田さんの構造改革論は、細かく言えば問題はあるが、時代や状況の変化に対し、現実的、政治的な対応を示したものとして、重要な意味を持っている。その江田さんを、社会党が袋だたきにしたことに、社会党のざ折の原因がある。江田さんが社会党にとどまっていれば、社会党と運命を共にすることになってしまう」、「今の社会党は、教義問題が多すぎる。『道』には両面ある。江田ビジョンが出されて党内論争が起き、先進国における社会変革を前向きにとらえた面がある。他面、マルクス・レーニン主義の古い規定が残されている。従って、過渡的折衷文書になっている。協会派は『道』を守れと言い『道』の片言隻句をとらえて、社会主義の古いビジョンを主張している」。

 他に、勝間田氏の次の発言が注目される。「党内の対立、分裂は国民から反発を招くだけだ。問題点を整理すると、一つは思想上の問題だ。『道』は、統一綱領にまでなったが、十分討議されていない部分がある。二つには、社会主義政権が現実の課題になった際に、集団における個人の自由をどうするか、計画経済は、自主管理か中央管理か、地方分権はどうするか、といった諸課題が『道』では議論されていない。三つには党運営の問題だ。党中党を作り、派閥抗争をやり、排他主義をとる限り、党内の統一はできないし、また、統一戦線作りのため広範な国民の支持をとりつけることはできない。この三つの問題点の議論を進めることに、党執行部がリーダーシップをとり、前向きの姿勢をとってほしいと要望したい。これで大柴君ともお別れということにはしたくないからね。(笑い)」。

 読売新聞のナベツネは、
4.11日にも特集記事「社会市民連合結成 “江田連合”広がる波紋」を書き上げている。それによると、概要「江田氏の脱党行動を待ちかねていたように、後続者が一斉ほう起しつつある」として各地の叛旗情勢を伝えている。この記事が事実ならともかく、かなり「やらせ記事」の臭いがするものとなっっており、ナベツネの政治主義が見え隠れしている。

 3.31日、社会市民連合事務所びらきこの時、管直人が結集していることが注目される。江田は、公開討論会講演「開かれた市民参加の道」で次のように述べている。「菅君は三十歳だという。私の下の息子よりも年が若い。たしかにゼネレーションのちがいはある。討論のなかでも、たとえば社会主義についての評価などで、この違いを感じた。だが、若者の特性は社会と時代の流れに身をゆだねるのではなく、自らの熱情によって変革の意志を具体的な行動でぶつけていくことであるだろう。私の青春時代にはそれが社会主義であったし、そのまま現在にいたっている。菅君たちにとっては、社会主義というイデオロギーよりも、アクティブな市民派として直接的な行動にたちあがることの方が、より社会変革の意図を具体化することに直結しているのであろう。社会主義を心情としてとらえても意味はないと批判されて、「クールだな」と感じつつも、イデオロギーを教条的にとらえて自己満足している青年よりもきわめてラジカルな青年達だという印象を受けた社会主義に魅力がなくなっている現在、イデオロギーでそれをおしつけるよりも、現実の社会変革の方向と行動を具体化することによって再生することの必要性を、新鮮な印象とともに痛感したしだいである」。

 「公開討論会が終わって、菅君をはじめとした参加民主主義をめざす市民の会の若い諸君と親しく懇談した。そこで、私は菅君に社会市民連合の代表になっていただけるように依頼した。その後、正式に受諾する旨の回答をいただいた。私は心からありがたいと思う」。

 「社会党のなかでよく言われたのは、革命をおこなうのは労働者階級なのであって市民ではない、ということであった。たしかに、現代社会において労働者は大きな位置をしめている。だが、労働者という概念で現代の革新指向の人々をすべてくくることができるであろうか。私はそうは思わない。

 というのは、労働者自身も第三次産業労働者が五〇%をこえ、第二次産業労働者もブルーカラーへとかわってきている。労働の質の変化は、労働者の意識的変化と結びついている。また、公害反対闘争やさまざまの市民闘争のラジカルな提起は、これまでの労働組合運動の質を問いなおしてきている。こうしたことから、総評も「国民春闘」を提起し、生活闘争をおこなわざるをえない状況になってきている。

 アクティブな市民の登場が求められているのは、このような状況変化によってだけではない。それは、日本における市民社会の成立がきわめて遅れているからに他ならない。社会主義のモデルがソ連型であってはならないということについては、大方の共通認識となってきているといってよい。だとするならば、日本における市民社会の成立が、社会主義へむけた過渡期社会との関連できわめてクローズアップされざるをえない。

 民主主義についても単なるスローガンではなく、参加民主主義とか直接民主主義という提起があり、具体的な運動展開がされていることは、市民社会の形成へむけての動きに他ならない。民主主義が、社会主義者による単なる戦術的スローガンから、市民社会と結びつき、社会主義社会への戦略的な位置が与えられるときにはじめて、圧倒的多数者が参加する社会建設が可能となるのである。

 こうして、いまや市民の役割は、既成の教条的な左翼や利益団体のエゴを打破するとともに、新たな社会を建設する主要な勢力なのである。私はこうした観点から、社会市民連合が市民派の大々的な登場の舞台になることにかけたのであった」。


 4.4日、共産党第12回大会・14中総が開かれ、宮本委員長が党内に反党分子がいると指摘、「(党内に新しく発生した)一部の分散主義的な、清算主義的な傾向、それは必ず無規律主義に結びつくものですが、そうした新しい日和見主義を双葉のうちに克服することが、避けられない任務となっています」。この頃、参議院議員団長・岩間正男氏が10数目に及ぶ意見書を宮本委員長宛てに提出しており、「党員の人権を無視した無制限の党拡運動」、「原則の無い思いつきの国会議員の選び方」等々について質問していたと伝えられている。


 4.19日、法務省が、鬼頭判事補の網走刑務所での宮本「身分帳」閲覧問題で最終報告書を発表。


 4.24日、社市連と「参加民主主義をめざす市民の会」(代表・田上等、管直人ら)が公開討論会「連合の課題と展望」。「参加民主主義をめざす市民の会」は市民運動グループとしてこれまで参議院選で市川房枝、東京7区に菅直人を立候補させるなど活動してきた。政策的な近さがあり、社民連との公開討論会に入る。

 討論を通じて、@・今後の政策形成過程、組織づくりの過程における市民の直接参加の保障。A・連合体的自主組織を理想とする。B・「社会党的中央集権的性格、労働(組合)運動偏重主義を排し、生活者の党を目指す。C・既成の社会主義論に対し「新しい社会主義」を掲げ、議会制民主主義の堅持、分権と自治の徹底、制御された市場の活用を求める、等々で意見の一致を見せている。

 その他注目される論点として、「自由な社会主義を追求する。市民の自主性にもとづく運動を進める。そういう人々がタテの関係でなしに、各々が対等であり平等であるというヨコの関係で、新しい政治集団をつくっていく。批判の側にまわるだけではなくて、つくる側にまわらなければいけない。自民党的札勘定の離合集散(マネタリー・アニマル)ではなく、社会党・共産党的イデオロギー・アニマルのどちらも排する」。

 江田氏は次のように述べている。@・個人の自主性を尊重する。「のびのびした自由な社会主義、私個人でいえば構造改革論以外に、人間の顔をした社会主義をめざしたい。小型社会党になってはいけない。市民のワイワイ、ガヤガヤの自由なエネルギーに依拠しなければならないと思ってます」。A・民主集中性をふり回す社会主義協会を批判する。B・・政党支持の自由、C・企業献金却下。D・
ボランタリー主義。

 公開討論会終了後、江田氏をはじめ社会市民連合の数名のメンバーが、武蔵境の「参加民主義をめざす市民の会」の事務所を来訪。管直人氏が「社会市民連合への参加を決意」している。「“批判勢力”の結集ではなく、市民参加型の“責任勢力”をめざす上で、いくつかの選択肢の内、私は社会市民連合に参加することが最も大きな可能性を持つと考え、そこへの参加を決意したものである」と結んでいる。


 4.26日、革新自由連合発足(中山千夏代表)。


 4.29日、民間労働組合協議会、社市連支援を決定。 


 5.7日、ロンドンで福田.カーター会談。


 5.7日、ロンドンで第3回先進国首脳会議が開催された。舞台裏での重要議題の一つとして、イタリアやフランスのように共産党の議席が多くなっては手遅れになるので、その前に議席を減少させなければならない、但し共産党の議席を全部奪っては却って革命勢力を台頭させるからごく少数の議席に留め、議会制民主主義の形態を維持するように見せかけるべきであるとした。


 5.19日、原水協と原水禁が原水禁運動統一などで5項目の合意発表。 


【江田三郎が急逝】
 5.22日、新党運動の全国行脚を続けていた江田三郎が逝去。 

 5.23日、江田三郎葬儀。江田五月、亡父にかわり参院選出馬を決意。大柴滋夫、社会党を離党して社市連に参加。

 5.25日、社会市民連合全国準備会結成総会(代表委員は江田五月・大柴滋夫・菅直人)、江田三郎追悼集会。

 6.16日、ブレジネフ書記長,ソ連国家元首に。


 6月、中国外交部はいわゆる「日韓大陸だな共同開発協定」につき抗議声明を発表。


 6.23日、元中央委員広谷俊二(元中央青年学生部長)の除名を発表。これは、雑誌「中央公論昭和52年4月号」誌上での田原総一朗氏の「党内から出た宮本日本共産党委員長への異議申し立て−元中央委員から党機関部員まで、現役党員の直言!」に、広谷氏の取材協力が判明し責任を取らされたものであった。

 昭和51年末の総選挙で議席を半減させた日本共産党は、これを教訓に速やかに党を立て直して「民主連合政府」構想を再び軌道に乗せ直すための諸活動に取り組んだ。しかし、党内には総選挙での敗北を契機として、将来への展望を失ったことによるざ折感、党活動に対する息切れ、党中央に対する不信感等から党活動に対する消極的傾向が広がり、そうしたなかで広谷俊二元中央委員・青年学生部長のように「宮本路線」、「宮本体制」を真っ向から批判する意識的な「新日和見主義」の動きも現れた。このような動きに対し、党中央は、6月23日広谷俊二元中央委員を除名するなど厳しい措置を採るとともに、党員に対する締め付け、督励を行ったが、党員の活動意欲を盛り上げることができず、党勢は引き続き後退を続けた。


【第11回参議院選挙】
 7.10日、第11回参議院選挙。(自民63名、社会27名、公明9名、民社6名、共産5名、新自ク3名、社市連1名、諸派1名、無所属5名当選)。

 社市連は、全国区で江田五月を立て、139万2475票を獲得、社会党国際局長の田英夫に次いで第二位当選。地方区に菅直人ら9名を擁立したが全員落選。

 共産党は、9つの改選議席を辛うじて5議席確保したものの、4議席減という惨敗を喫した。下田京子、宮本顕治、市川正一の3名が当選、加藤進、近藤忠孝、春日正一、星野力の4名が落選。党首の当選としては50名中39位当選、予想を下回る70万票で、他の政党の党首が衆議院地方区でトップ当選していることと比較しても情けないものがあった。得票数、得票率も前回参院選より大幅に減少させるという文字通りの完敗を喫し、全党は大きな衝撃を受けた。宮本委員長は、選挙に負けたのは「反動勢力の反共シフトのため」と言い訳し了承されている。

 社会党は、27議席しかとれず、前回の31議席を更に下回った。参議院選後初めて開かれた中執委で、成田委員長は「敗北の責任をとって辞めたい」と辞意を表明。石橋書記長も連帯責任をとると表明。


 7.10日、同時に都議会選挙。与野党逆転。日共は11名当選で、前回に比べ12議席減。社市連は、都議選でも9候補をたてたが全員落選した。


 7.16日、日共第15回中央委員会総会を開催し、51年以来2度にわたって延期してきた定期党大会である第14回党大会を、10月17日から22日まで熱海市の伊豆学習会館で開催することを明らかにした。

 同時に、第15回中央委員会総会では、9月1日から党大会初日の10月17日までを「大会記念党勢拡大特別月間」に設定したが、これは、国政選挙の2連敗が党内外に及ぼす影響を懸念して、党史上最高の党勢で第14回党大会を迎え、これを党内外に誇示することによって党外からの「限界論」や党内の敗北感、ざ折感を一掃し、あわせて党中央に対する反発を回避するというねらいによるものとみられた。

 党中央は、「特別月間」を成功させることが、第14回党大会を成功に導く基本条件の一つであり、「絶体絶命の任務」であるとして、専従党員や各級議員党員をはじめ全党員を督励し党勢拡大に取り組ませた。その結果、党発表によると、党大会最終日までの52日間に約7,000人の党員と約72万人の「赤旗」読者を拡大し、40万人近い党員、約326万人の「赤旗」読者という党史上最高の党勢で第14回党大会を迎えたとしている。


 7.22日、中国共産党、ケ小平副主席復活を正式発表。


 7.23日、文部省が新学習指導要領改訂。学校生活の「ゆとりと充実」を目指し、授業時間数の削減始まる。君が代を国歌と規定、告示した。


 7.30日、田英夫国際局長、楢崎弥之助・秦豊ら社会党反協会派が党改革推進グループ準備会を設置。田氏は、「社会党のガン・社会主義協会を切除せねばならない」と、党と協会との関係清算を迫る。


 8.30−9.1日、日共第16回中央委員会総会において、「参院選で敗れたのは、党の基本路線、政策方針に誤りがあったためではなく、反動支配勢力による本格的で大がかりな党攻撃が行われ、党にそれを打ち破るだけの攻撃力が不足していたためである。」との総括を行った。


【社会党第41回大会】
 9.26日、社会党第四十一回大会開催。飛鳥田横浜市長の委員長人事で難航。

 同夜、改革推進(反協会)グループ幹部会が開かれ、楢崎弥之助、安井吉典党副委員長、下平正一、曽我祐二(佐々木派)、山本幸一、中沢茂一、野々山一三(革新研−旧江田派)、八百板正、石野久男(安打同)、佐藤観樹(勝間田派掘昌雄系)が出席。

 8.3日、77年原水爆禁止世界大会が14年ぶりに統一大会として開催された。広島。


 8.6日、福田首相がASEAN6カ国の外遊。


 8.24日、全電通労組、社会党改革で協会派不支持を打ち出す。


 6.27日、新しい流れの会の楢崎弥之助・田英夫・秦豊が社会党離党を通告、院内団体「社会クラブ」を組織。


 9月、李先念副主席が藤山愛一郎、黒田寿男、西園寺公一各氏と会見。中日商標協定、北京で調印。


 10月、黄華外交部長は国連総会一般演説で、日本の北方領土返還要求を支持すると言明。ケ小平副主席が二階堂進議員と会見。


 10.7日、参議院「無所属クラブ」結成(河野謙三・田英夫・秦豊・江田五月・八代英太)。

【共産党第14回臨時党大会開催される】

 上田副委員長  
○期日.会場.代議員数について

 10.17日−22日

○大会の眼目  大会の眼目は、 選挙連敗について総括。公明・民社・新自クを自民党政治の補強勢力と批判。民主連合政府について、「より長期的な視野で展望することが必要」と決議。

 1977年第14回大会で、まず「民主集中制の規律の強調」をした。

○採択決議について

 
○新執行部について    
   
 野坂議長7選、宮本委員長、不破書記長を3選。袴田失脚(副委員長・常任幹部会員の全役職剥奪される。更に、12月30日付けで除名)、岡正芳閉居が判明。これまで宮本委員長を支えてきた戦前派幹部を多数更迭し、若手幹部で宮本委員長を支える新指導部を選出した。
宮本氏は、袴田粛清担当で大活躍し、私的分派ボスの栄光と権威を守りぬいた小林中央委員・元宮本秘書の功績を高く評価し、常任幹部会員へと2段階特進させた。


 77年当時の党の方針の特質と要点

○〈本党大会までの執行部評価〉について
@〈世界情勢に対する認識〉について   
A〈国内情勢に対する認識〉について  
B〈党の革命戦略〉について

 「敵の出方」論に立った暴力革命の方針や「労働者階級の権力の確立」すなわちプロレタリア独裁の方針等を明らかにしている綱領、「日本革命の展望」等の基本路線を堅持することを再確認した。また、「民主連合政府」構想について、構想そのものは堅持しながらも、「政府」樹立の時期についてはこれまで「70年代の遅くない時期」としていたのを「70年代から80年代にかけて」に繰り延べることを明らかにした。

C〈党の革命戦術〉について
D〈党の具体的な運動方向〉について  
E〈党の大衆闘争指導理論〉について  
F〈党の機関運営〉について

  更に、「年間計画」方式による党勢拡大と「教育立党」をスローガンにした学習教育強化による質、量両面からの強大な党の建設に取り組むこと、戦闘的な大衆運動、労働運動の方針を採用して労組、大衆団体等の中に影響力を拡大し、下から日本共産党ベースの統一戦線機運の醸成に努めること、党運営面では引締めの方向を採ることなどを主な内容とする党立て直しの方針を明らかにした。

G〈左翼陣営内における本流意識〉について  
H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について   
野坂引退


【社会市民連合の結成大会】
 10.29日、「社会市民連合の結成大会」が開催される。代表委員として、大柴滋夫、管直人、江田五月を選出。副代表委員に西風勲、安東仁兵衛。事務局長に大柴滋夫(兼任)。田英夫グループと合流し、翌年1月に新党を結成する旨確認。

 大会宣言には、「われわれは市民革命が掲げた自由、平等、連帯の諸理念を継承し、資本と利潤が優先される資本主義を確実に制御しつつ、公正、参加、保障、自治を実現する、より自由でより分権的な社会主義をめざす」、「とりわけ二十年余にわたる自民党単独政権を確実に終焉させるときである。これにかわる政権は改革的保守派とも提携する革新的諸党派の連合政権以外はない。この政権こそ、いくつかの選択肢が積極的に競われ調整される過程をつうじて、国民の政治参加と政治的民主主義の活性化をうながし、国民的合意の下に、社会の改革を漸進的に実現するだろう。いま、われわれをゆり動かして止まないものは、新しい革新政党建設への衝動である」、「新しい社会主義、新しい政治、新しい党の暁は明けつつある」とある。

 11.7日、赤旗特集版に、関原利一郎名義の「前衛党の組織原則の生命−田口富久治の『民主集中制論』の問題点」と題する論文が掲載された。


 11.19日、サダト・エジプト大統領,イスラエル訪問。


 11.28日、民社党第22回党大会(佐々木良作委員長・塚本三郎書記長)。


 11.28日、福田内閣第二次改造。官房長官・安倍晋太郎。「安倍は早くから「福田派のプリンス」と呼ばれた逸材で、岸信介の娘婿でもある。これまでは国会対策委員長をつとめていたが、これは舅岸信介の意向で、安倍は国対で苦労することが必要だとの意見からであった。将来の大成のために経験を積む時期だというのである。今回の官房長官就任も、その路線を引き継いだものであった」(「自民党派閥の歴史」)。

 福田首相は、改造によって党三役のうち政調会長に田中派から江崎真澄、総務会長に中曽根を起用、閣僚にも田中派には3ポスト(厚相、防衛庁長官、環境庁長官)を与えるにとどまった。「福田はこの改造を自画自賛した。この改造で福田は、園田官房長官を更迭した。福田は『官房長官と蔵相以外できみの好きなポストをとりたまえ』と園田に通告した。言い方は婉曲だが、要するに官房長官としてはクビということである。園田は悔しさをかみ殺して、外相のポストをとった」(「自民党派閥の歴史」)。


 12.12日、阿部昭吾、社会党を離党して新党結成に参加


 12.13日、社会党続開大会(飛鳥田一雄委員長・多賀谷真稔書記長)





(私論.私見)