第37部 1975年当時の主なできごと.事件年表

 (最新見直し2007.2.3日)

【日共が狭山事件支援闘争から離脱】
 1.10日、赤旗は、「冤罪事件として確信のない事件を軽々に政治運動化することは無責任であり、狭山事件は無罪が確定していない」(「一般『刑事事件』と民主的救援運動」)と述べ、狭山闘争からの離脱を鮮明にした。日共系弁護士は、2.23日、弁護人を辞めた。

 党中央のこの見解は、司法・検察側と全く同一の論理であって、それまで冤罪事件として一定の弁護・支援活動をしてきた行動を否定したことになる。明らかな弁護方針の転換となった。

 1.17日、党が、美濃部知事の三選協力要請に保留を回答。同和行政に対する10項目の質問書を手交。2.16日、美濃部都知事は不出馬を表明。


 1.30日、三菱石油は漁業補償内金として六〇億円を支払うことで関係四県漁連と合意。


 2月頃、「ニセ前進」が発行されている。又「中核赤軍」を騙った「ニセビラ」が出回った。革マル派の所業と見られている。 


【ロッキード事件発生】
 2月、ロッキード事件発生。(「(別章)ロッキード事件」で論考)

 2.11日、サッチャー女史が英保守党党首に就任する。


 2.19日、民社党第19回大会(保革連合政権構想が議題に)。


 2.26日、「同和問題」を巡って美濃部都知事が次期不出馬の声明を出し混乱。
 3月、フランス社会党のミッテラン委員長が全国革新市長会の招きで来日。

 3.10日、革マル派の機関紙「解放」の発行責任者・難波力氏が、中核派のテロにより死亡。中核派の機関紙「前進」紙上に「『解放』責任者難波力を完全殲滅」、「ニセ『前進号外』の張本人に正義の報復」と見出しが出て、「許しを乞う難波の全身に渾身の力を振り絞った無慈悲な鉄槌を深々と叩き込んだ」と報ぜられた。


 3.11日、美濃部三選を廻り、成田・社会党、宮本・共産党、市川・総評、中野好夫らが協議、出馬が決定。


【中核派最高指導者本多延嘉書記長各マル派にテロられ死亡】

 3.14日、中核派最高指導者本多延嘉書記長各マル派にテロられ死亡。革マル派の機関紙「解放」(75.3.24日付け)には「現代の黒百人組の終焉」、「スパイの頭目に怒りの階級的鉄槌」の見出しで、「一層怒りをかきたてられた我が戦士は、ポンタの歴史的な悪行を数え上げ告げ知らせながら、そのぶざまに脂肪がつき弛みきった四肢に容赦ない鉄槌を振りおろし、ブクロ派の犯した一切の反階級的言動の重大な意味を物質的に自覚させたのである」と報ぜられた。

 鈴木卓郎の「共産党記者30年」によれば、概要「この日午前5時頃、『七社会』の各社のデスクに、『午前3時22分中核派本多延嘉書記長に鉄槌を加えてきた』と荒い息遣いで電話がかかってきた。この電話を裏付けるように、同日夕、革マル派の土門肇・政治組織局員等が記者会見を開き、『我が戦士が階級的な怒りの鉄槌を加えたものだ』と戦果を誇った」とある。「本多に対して鉄槌を加えたのも、殺害が目的ではありませんでした。彼が死に至ったのは、全学連戦士の燃えたぎる階級的怒りが、鉄槌の一振り一振りにおいて表現されたことの結果であるということです」(立花隆「中核VS革マル」)と述べたともある。

 3.15日、これに対し、中核派が前進社で記者会見を行い、「全党全軍は復讐の全面戦争に総蜂起し、全ての革マルを叩き潰すであろう」と、無制限の全面戦争突入を声明し、「黒田、松崎、土門らをはじめ全反革命分子に死の処刑攻撃」を「厳粛に宣言」した。


 3.21日、エチオピア帝政廃止。


 3.22日、共産党宮顕が、「公務員奉仕者論」の部分的肯定見解を発表。


 3.25日、ファイサル・サウジアラビア国王暗殺される。


 3.26日、赤旗に、「『解同』朝田派の決算」論文が発表された。この論文で、解放同盟を「政治革新を望む国民全体への最も悪質な挑戦者」、「敵である」と規定していた。


 3月、日本共産党(左派)関東地方局派が結成される。代表・隅岡隆春、機関紙・人民新報、機関誌・理論と実践。隅岡隆春を中心とする「日共左派」の反主流グループ。いわゆる「蜜の世界論」について、中央委員会派がこれを中国の単なる外交路線として捉え「『第二世界』の帝国主義者や独占ブルジョアジーまでも統一戦線の獲得対象と理解するのは間違いである」と主張するのに対し、隅岡グループはこれを国際共産主義運動の路線として捉え、「『第三世界』の国々と人民は、自国に対し植民地関係にある『第二世界』の帝国主義には反対しなければならないが、米ソの植民地関係にある『第二世界』の二重性を重視し、これを一時的な『友』として利用し、当面の主敵である『米ソ』に集中砲火を浴びせるための統一戦線に組み込むべきである」と主張して「日共左派」から分派した。


 4.13日、第8回全国統一地方選で、美濃部知事三選、共産党単独推薦の黒田了一氏が再選、神奈川で長洲一二が当選するなど、革新自治体がふえる。共産党は、県議選で後退、党勢拡大に陰り。


 4.17日、カンボジア解放勢力がプノンペン制圧。


 4.30日、解放戦線がサイゴンに無血入城し、南ベトナム・サイゴン政権のドン・バン・ミン大統領が無条件降伏してベトナム戦争(インドシナ30年戦争)終結。。米軍の援助を失った南ヴェトナム軍は総崩れし、当初2年はかかると見られていた、南の制圧を驚異的な速度で進め、4月には首都サイゴンに迫った。市内はパニックになり、米軍を支援していた関係者は粛正を恐れアメリカ大使館や空港に殺到した。アメリカもサイゴンからの撤退を開始。米大使グラハム・マーチンをはじめとするアメリカ人関係者、及び南ヴェトナム政府要人はヘリコプターで第七艦隊空母などへ脱出した。アメリカの戦死者.事故者約6万人、戦費1389億7400万ドルと発表された。ベトナム側犠牲者は200万人を超えた。(「ベトナム戦争の概略」)


 5.5日、成田社会党訪中団、「覇権主義反対」の共同声明に調印。


 5.7日、椎名.田中極秘会談。同席したのは二階堂進、鈴木善幸、小坂徳三郎。「ロッキード事件を政権延命の為に利用しようとし始めていた」三木倒閣を密議した。以降「三木以後」の極秘調整工作が始った。


 5.11日、第8回中総で、臨時党大会を開くことが決定された。この時不破書記局長が、次のように述べている。

 意訳概要「フランス共産党のマルシェ同志の最近の教訓によると、ソルジェニツィン問題とか強制収容所問題などで反共攻撃が繰り返されていた時には、党員も活動に実が入らなくなっていた。これに対して、党がこれらの問題でも積極的に攻勢に出て、フランス共産党こそ過去、現在を通じて自由の守り手であり、未来においても自由と民主主義を守り抜くこと、我々の目指す社会主義はフランスの色彩を持つ社会主義だ。フランスの方針はモスクワではなく、パリで決定されるのだという問題を全面的に押し出して攻勢的に打って出たときは、党員が俄然やる気となった。これを思えば、自由と民主主義の守り手としての党の意義を攻勢的に打って出ることにより、我が党の中にある革命的エネルギーが本格的に発揮される」。

 5.27日、部落解放同盟の第30回全国大会開催。「共産党との対決」色を打ち出した。


 5.30日、八鹿事件の第一回公判が始まる。兵庫県高教組内にある兵庫県共闘会議は、「県民の世論で犯人の厳正処罰を!」なるビラを撒き、その結びには「暴力をふるったものが正当に裁かれ、犯人が厳正に処罰されることは当然です。県民の力で裁判所が暴力に負けないで正しい審判を下すよう、皆さんの力で世論を高め、判・検事を激励しましょう」。


 5月、三木首相が、「三木内閣は改憲せず」の見解発表する。


 6.3日、佐藤栄作死去。


 6.5日、スエズ運河8年ぶり再開。


 6月、ソルジェニツィンが米国労働総同盟産別会議に招かれ講演。「今日のソ連ではマルキシズムの株はすっかり下落して、マルキシズムは笑い話に転落しました。人々の軽蔑の的になりさがりました。我が国では、少しでもしっかりした者は、学生や中学生でさえも、まじめに顔に笑みも浮かべずに、嘲笑なしにマルキシズムのことを口にする者はもう全く一人も居ません」(「自由への警告」)。


 6月、周恩来総理が藤山愛一郎国際貿易促進協会会長と会見。


 6.26日、原水禁運動の統一問題で、社・共・総評・平和委など7者懇談会発足。


 6.27日、埴谷雄高氏、対馬忠行、藤本進治氏を始めとする12名の文化人が、「革共同両派への提言」を発表し、内ゲバの終結を求めた。革マル派の随伴文化人高知聡氏の働きかけが大きかった。

 「この提言に対し、革マル派は一部については不満を述べるものの、『我々の巨大な勝利を画するもの』と大きく評価し、一大キャンペーンに乗り出した。だが中核派は『怒りを込めてきっばりと拒否する』として、提言を弾劾する声明を発表した」(「検証内ゲバ」)。


 7.4日、政治資金規制法案成立。


 7.6日、6中総で、宮本委員長、選挙法改正に関して、「社会党の危険な変質過程が始まった」と非難。


 7.8日、「宮本.池田会談の実現」が報ぜられる。読売新聞の編集局次長渡辺恒雄氏によってスクープされた。


 7.11日、宮城県委員長・藤原隆三幹部会委員の解任を発表。


 7.12日、毎日新聞主催による「宮本.池田両氏の人生対談」が行われた。


 7.27日、「創価学会と日本共産党との合意についての協定」文書(「相互不干渉・共存の十年協定」)が創価学会.日本共産党の双方から発表された。「歴史的和解」であった。協定調印は、1974.12.28日であることが判明した。署名.捺印は、共産党は上田耕一郎、創価学会は野崎勲があたった。つまり調印から7ヶ月近く秘密にされたことになる。作家.松本清張氏の仲介の労であったことも判明した。公明党の竹入委員長、矢野書記長らには秘せられていたことも判明する。「頭越し」。このことが創価学会(秋谷.青木副会長)と公明党間に亀裂を走らせることになった。

 この協定で、共産党は、宗教論の新解釈と国定イデオロギーの非強制面の理論的成果を得た。この協定が発表されるや共産党はこれをあたかも「共同闘争」のように扱い宣伝攻勢を掛けた。これに竹入公明党委員長ら党側が猛反発し、野崎総務は「共存の可能性を探ったものにすぎず組織的共闘は約束していない」と言明。これに共産党が反発し、協定はすぐに形骸化する。

 76年8月に宮顕委員長が池田会長に協定順守の会見を申し込むが、学会側はこれを拒否。「10年協定」は1年後には崩壊し、共産党と創価学会・公明党の共同闘争の試みは何ら実を結ばないまま破綻することになった。


 7.30日、日共委員長・宮顕は、代々木の党本部で記者会見を行い、「救国.革新の国民的合意への道を寛容と相互理解にたってー今日の政治的、経済的、道徳的危機から抜け出し、日本民族の進路を民主的に確立するために」を発表。全文が7.31日の赤旗に掲載された。記者会見での質疑応答は、8.1日の赤旗に紹介された。

 宮顕は、この提案を基礎に「一握りの反民族的反動勢力を除く善意ある保守主義者も含め、99%の圧倒的多数の国民的合意」を訴えた。「新種新型の統一戦線」であった。


 8.2日、三木首相は、宮沢喜一外務大臣、海部俊樹官房長官を伴って訪米。


 8.4日、日本赤軍によるクアラルンプール事件発生。米、スウェーデン両大使館が占拠され、「超法規的措置」で獄中7名の釈放が決められた。


 8.5-6日、ワシントンで三木.フォード会談。


 8.20日、にっきょは、幹部会声明「戦後30年に際して」を発表。8.20日、赤旗が、中央委員会署名の「ともに日本の前途を語り合い救国と革新の国民的合意へ」を発表。


 8.25日、田中派の「七日会」総会で、江崎真澄と田村元が正式に田中派入りした。二人とも代表世話人に選ばれた。


 8.26ー9.17日、赤旗が、「宗教と共産主義についての対話」の長期連載を開始。


 8月、中日政府間漁業協定、東京で調印。

 8月、社会党千葉県本部、協会派と反協会派に分裂。


 9月、日本国総領事館、上海に開設。日中協会、東京で発足。


 9.10日、宮顕は、雑誌「文芸春秋」10月号で、「歴史の転換点に立ってー科学的社会主義と宗教の接点」を発表。「宮本.池田会談」の内幕を報じた。「共産主義社会でも、信教の自由は侵害されない」と見解表明。


 9.21日、共産党系「部落解放同盟正常化連絡会議」と共産党の部落政策を支持する「部落解放運動の統一と刷新をはかる有志連合」とが中心になって、自民党系の「全日本同和会」を巻き込んだ「国民融和を目指す部落問題全国会議」を結成。部落解放同盟に敵対する自共連合の融和運動の組織化が完了した。


 9.22日、上田政策委員長が、公明党は第三自民と非難。


 9.29日、イタリア共産党代表団来日。共同コミュニケ発表。


 10.10日、第17回赤旗祭り。ルーマニア、ユーゴ代表が参加した。


 1975.11月号前衛に、上田耕一郎の「理論政策活動の新しい前進のために」が掲載それた。上田は、「五 国際共産主義運動と社会主義の歴史的展望」の中で、次のように述べている。

 「(自主的研究の)第一の課題は、戦前、戦後の国際共産主義運動の歴史の真実の問題です。この歴史は、帝国主義との対決、なかんずく反共宣伝との闘争を大義名分として、特定の党を神聖化する真実に反した教科書的通史が世界中でまかりとおってきました。しかし、人民解放の大儀は、この分野においても、もっとも原則的な態度で歴史の真実を追究することをわれわれに要請しています。われわれは戦前、戦後の国際共産主義運動をあらためて自主的、批判的に研究し、解明し、そこからの教訓を明確にしなければなりません」。
 課題の中心は、ここでも同様であって、近年つぎつぎとあきらかになった諸事実――スターリンの悲劇的な誤り、ソ中両国の対立などなど、当初は衝撃的でしたが、いまでははやくも常識化したかのような、しかし依然としてきわめて重要な諸事実から、必要な全面的教訓をひき出し、わが党が確立してきた真の愛国主義とプロレタリア国際主義を統一した自主独立の立場と科学的社会主義の創造的発展の見地に確固として立って、国際共産主義運動と社会主義をめぐる諸問題について、真に科学的な組織的研究を、全面的、本格的におしすすめるという課題であります。

 (1)スターリンの誤り

 スターリンの時代は、レーニンの死後一九二四年からスターリンの死一九五三年まで、ほぼ三十年つづきました。この時代は、トロツキーとの闘争、ソ連の農業集団化と五ヵ年計画、大恐慌とドイツ・ファシズム、ソ連における大粛清と反ファシズム統一戦線、第二次世界大戦、東ヨーロッパの人民民主主義革命と中国革命、冷戦と朝鮮戦争などなど、国際共産主義運動がきびしい試練をへつつ、全体として巨大な前進をとげた歴史的時代です。 しかし同時にこの時代は、ソ連共産党第二十回党大会のフルシチョフの秘密報告といわれるものがあきらかにした、社会主義的民主主義にたいする恐るべき侵犯がスターリンによっておおこなわれた暗く悲惨な事件がつづいた時代でした。

 われわれは当時、いわゆるスターリン批判に際しても清算主義的態度をとらず、誤りの重大性とともに、スターリンがソ連共産党書記長であった時期にかちとられた歴史的事業の積極性を正しく評価する態度をとりました。

 スターリンが指導者であった時代のソ連の歴史についていえば、この態度はいまでも正しいことはうたがいありません。しかし同時に、その後あきらかになった幾多の諸事実からみて、スターリンの誤りは、当時考えられた以上に深刻かつ大規模なものであることがあきらかになってきました。

 日本の共産主義者も、山本懸蔵、国崎定洞などが犠牲になりましたが、スターリンの誤りはソ連とソ連の党だけでなく、国際共産主義運動全体にも深刻な影響を与えたわけであり、スターリン時代のソ連ならびに国際共産主義運動についても、従来の公式や通念にとらわれずに、より広い範囲の問題点を再研究することが必要となっています。

 それは社会主義的民主主義の侵犯の問題だけでなく、スターリンの名とむすびついたかれの一連の理論と指導におよぶ必要があります。なぜならスターリンの誤りとその影響、その政治的、経済的、思想的根源、今日における悪しき遺産を明確にすることは国際共産主義運動の不団結をつくり出した根源としての大国主義の歴史的背景をも明確にすることになるからです。

 上田の報告文書は、このスターリンの誤りのあと、2・コミンテルン、プロフィテルンについての歴史的研究、3・ソ・中対立とそれぞれの誤り、4・大国主義的干渉と国際共産主義運動の団結の回復へと続いている。


 11.15日、第一回サミット(主要先進国首脳会議)がフランスのランブイエ城で開催。この時三木首相は、当初意気込んだ割には発言らしい発言を殆どしていないと伝えられている。加藤寛・氏が同行している。


 11月、日本工業・技術展覧会が北京で開催。


 11.20日、フランコ・スペイン総統死去,カルロス1世即位へ。


 11.26日、スト権スト突入。


【立花隆「「小畑中央委員リンチ死事件」論文が発表される】
 12.10日、「文芸春秋」1976.1月号発売。立花隆氏による「小畑中央委員リンチ死事件」論文が発表された。宮本の「特異体質によるショック死」説を否定し、「リンチはあった。スパイとされた小畑の死因は傷害致死」と暴露した。この間ロッキード事件の発生のため、宮顕の査問事件の追及は沙汰止みとなっていたが、これによって一挙に火を噴いていくことになった。

 12.10日、赤旗は、「古びた反共理論と反動的裁判所資料の蒸し返しー『文春』立花隆氏の日本共産党研究なるものの特徴ー」を連載し始めた。12.11日、赤旗は、宮本の「スパイ挑発との闘争−1933年の一記録」を再録、全文公開して対抗した。

 12.20日、「第7回中総」で、宮本委員長は、立花論文に触れて「歴史的ニヒリズムと特高警察史観」、「悪質な反共宣伝、反動裁判所資料の蒸し返し」によるものと反撃。「共.創十年協定」の破綻も追認した。 

 12.20日、楢崎弥之助らが「安保廃棄にいたる三段階構想試論」を発表。


 12月、ポーランドで、ギエレク政権が、憲法改定を俄かに思い立ち、第7回労働者統一党大会に指導要綱議案を提示したところ、当時90歳近い経済学者・エドワルド・リビンスキ教授ら59名の文化人・学者がこれに反対して「59人宣言」で反対した。この時の問題点は、@・ポーランドの国名を人民共和国から10月社会主義革命において勝利を為し遂げた階級的・革命的原理に基づく社会主義共和国に改めようとしたこと。A・外交政策の基本原則として「ソ連との不離の揺るぎない連帯」を明記しようとしたこと。B・統一労働者党の前衛政党としての指導的役割と「市民の諸権利は社会主義母国に貢献する誠実なる義務の遂行と離れ難く結びついている」とする市民の権利、義務の束縛化にあった。

 「59人宣言」は、「個人の基本的自由の権利の保障、精神と信仰の自由、ストライキの権利と労働組合の独立を含む労働者の権利、表現と情報交換の自由、学問の自由、文芸作品その他に対する検閲の廃止等を憲法に明記すること」を要求した。更に、「これらの基本的な自由の保障は、国家体系において唯一の政党にのみ指導的役割を承認することとは両立しない」として、統一労働者党の前衛政党化の強化に反対しむしろ複数政党制の確立を要求した。その底流には、ソ連離れ、ソ連型共産主義の拒否姿勢があり、むしろユーロ・コミュニズムの流れに沿っていた。

 5年後の80年代から始まる自主管理労組「連帯」はこの流れから生み出されていくことになった。


【猶太長老會議(ブナイブリス)の重要會議が開催】
 「阿修羅雑談専用22」の石工の都仙臺市氏の2007.1.31日付け投稿 「なにゆゑに田中角榮は總理大臣と成つたのか。サクラメンテの怪會談と云ふ謎」に次のような記述が為されている。貴重情報であるので転載しておく。
 一九七五年一二月、猶太長老會議(ブナイブリス)の重要會議が開催された。此の會離には、ロスチャイルドなど世界のさうさうたる猶太系實力者が出席し、來るべき二一世紀に向けての1/4世紀(二五年間)に準備すべきプログラム、「資本主義第三世代」を作成した。此のプログラムによると、世界は既に第一世代、第二世代を終了してをり、速やかに第三世代に移行すべき段階に到つてゐるとの事であつた。其れは次の通りである。

● 資本主義第一世代―マルクス資本論が書かれた頃の英吉利の如き古典的資本主義
● 資本主義第二世代―ケインズなどの修正資本主義
● 資本主義第三世代―情報化社會、脱工業化社會など新しい社會に對應するもの

 猶太勢力は此の來るべき第三世代の世界を制覇する爲次の三大産業を完全なる支配下に置く事を決定した。

1、エネルギー産業(石油、石炭、原子力、ウラン濃縮、プルトニウム抽出)
2、食糧
3、情報産業(コンピューター、エレクトロニクス、通信情報組織)

 其の他舊來の産業、例えぱ鐵鋼、造船、自動車、家庭電機、纖維、航空産業などは世界支配の爲に絶對必要なものではないので他に讓つておく。此の爲亞米利加の多國籍企業ですら整理、統合、吸收、合併させ、無駄なものは切り捨て、地球綜合企業體なる新しい資本主義を形成する事にしたのである。此れは「エネルギー、食糧、情報」の獨占によつて世界支配を行はうとする二一世紀の基本戰略であつた。





(私論.私見)