第36部 1974年当時の主なできごと.事件年表


 49年度の予算編成は、福田蔵相の下で公共事業関係費の伸び率ゼロという引き締め型予算となった。しかし、「狂乱物価」は収まる気配は無かった。


 概要「1974年の始め頃までには、関西地方委・さらぎ派・神奈川左派等の反日向(荒)派の連合であった『12.18ブント』は分解し、関西地方委員会はさらに分裂し、全国委員会と赤報派(RG)に分裂していた。その都度内ゲバが繰り返されている」(「検証内ゲバ」)」。


 74年早々、「日共革命左派」、原田長司グループの「日本共産党(マルクス・レーニン主義)山口県準備委員会」、安斎庫治グループの「日本共産党再建準備委員会」の三者で「全国規模の前衛党建設」を目指した「全国三者協議会」の意思の統一ができず、結局成功しなかった。

 「日本共産党革命左派九州党」を発展的に解消して「日本労働党」を結成するに至った。72年に大隅鉄二らの「日本共産党革命左派」、原田長司グループ、および安斎庫治グループの三者によって「前衛党をめざすマルクス・レーニン主義全国協議会」を結成し、組織の大同団結を目指した。が、各派の思惑違いもあって、この組織統一には失敗し、大隅鉄二らの「日本共産党革命左派」が「日本労働党」を結成するに至った。
代表・大隅鉄二、機関紙・労働新聞、機関誌・労働党。

 68年に「日共左派」から除名された大隈鉄二は、翌69年6月、「日共革命左派」を結成し、「日中国交回復運動」を柱として組織活動を開始した。そのころ「日共(革命左派)神奈川県委員会」の土屋三男グループが武闘派に転じた川島壕と袂を分って組織に合流したため、関西、関東地区に進出、71年10月には「関西地方委」、72年3月には「関東地方委」を組織した。その後一時、安斎庫治、原田長司らと「前衛党の建設」を目指したが、香料問題などの基本事項について意思統一ができなかったため両グループと手を切り、74年1月「日本労働党」を結成した。最近では、来たるべき衆議院選に5名の立候補者をたてて積極的な政治宣伝活動を展開すると宣伝している。


 1.7日、田中首相、タイなど東南アジア5カ国歴訪、各地で反日デモ。

 1.14日、中核派の指導者本多氏ら破防法被告団が、主任弁護人井上正治氏らと打合せ会を開いている席上、革マル派が襲撃し、本多、藤原慶久東京地区反戦世話人、青木忠元全学連書記長、松尾真全学連委員長等々がテロられる。


 1月、中日貿易協定調印。両国常駐記者交換に関する覚書調印。ケ小平副総理が木村武雄議員と会見。席上、平和友好条約の早期締結を待望すると発言。4月には中日航空協定、北京で調印。


 1.23日、同盟第10回全国大会(〜25)。

 1.29日、社会党第三十七回大会、全野党による国民連合政権構想等を決定。


 1.31日、春闘共闘委・消団連、インフレ阻止、物価値上げ反対、生活危機突破京都労働者総決起集会。


 2.15日、京都総評常任幹事会、蜷川7選支持を多数決で決定。


 2.18日、働4団体、インフレ粉砕・生活危機突破で初の統一集会、2万5千人(2.21 田中首相と会談)。


 2.18日、社会党成田委員長、蜷川知事と会談、知事七選支持を表明。


 2.24日、蜷川知事、七選出馬表明。◇社会党府本大会、蜷川不支持を決定.大橋候補も白紙にもどす。


 2.22日、ユーゴ共産主義者同盟の代表団来日。共同コミュニケ。


 2月、教職員人材確保法が成立し、教員給与を大幅増額。


 3.4日、部落解放同盟全国大会が開催され、「被差別統一戦線結成のアピール」を発表。大阪から始まった「部落解放同盟と労働組合(実際には総評と)の連帯」を全国に広げようと指針させた。大阪で労働組合と部落解放同盟との持続的恒常的な共闘が形成されたのは、内閣同和対策審議会答申が出された昭和40.8.11を契機としており、以来十年の蓄積を経てこの頃相互に連携を強めようとしていた。


3.1日、春闘第1波スト.国労と動労、梅小路・向日町で24時間ストなど。
3.2日、京都同盟第10回大会、蜷川独裁府政の打倒を宣言.委員長=北林英二(一般同盟)。
3.3日、インフレ阻止国民共闘、インフレ阻止・物価値上げ反対・生活危機突破国民大集会.全国で140万人(3.31 第2波)。
3.5日、社会党、京都府知事選で蜷川知事7選を支持。
3.5日、社会党府本大橋委員長、無所属で知事選出馬を再表明(3.13 社会党中執、除名)。
3.6日、京都総評、減税闘争説明会(確定申告闘争始まる)。
3.11日、同盟、労働4団体による反インフレ共闘から離脱。
3.11日、自民党府連、知事選挙で大橋支援決定。
◇「明日の京都を創る府民会議」結成総会、会長=奈良本辰也、事務局長=三上隆。
3.25日、舩橋京都市長、府知事選で中立を宣言。
3.31日、全動労結成(動労分裂)。
3.31日、京都総評・社・共・公・消団連、インフレ反対・国民生活防衛京都物価メーデー総決起集会。

 *月、横井庄一元伍長のグアムでの発見、保護の2年後、小野田寛郎元少尉がフィリピン・ルバング島から30年ぶりに帰国した。


 4.7日、パリの米大使館邸で、田中.ニクソン会談。


 4.8日、京都府知事選挙で蜷川虎三知事が全国初の7選で当選。


【「教師=聖職論」論争】
 4.11日、日教組が結成以来初めての全日ストを打つ。文部大臣奥野誠亮。
 4.16日、赤旗に、「教師は労働者であるが、教育の専門家として『聖職性』の側面を持つ」との主張を掲載。教師聖職論争展開される。
 4.17日、赤旗・主張欄で、「教師=聖職論をめぐって」論文が発表される。教師「聖職」論を展開。5.5日、社会党が批判。

 「自民党の教師=聖職論に単純に機械的に反発して、教師は労働者であるだけで聖職ではないなどというのも、正しくありません。専門家たる教師の活動は、子供の人格形成にも文化の発展にも、直接の重大な影響をもっています。この意味では、教師は確かに聖職といっても良いでしょう」。

 以降、党中央は、「教師の労働基本権や組合活動、政治活動の制限を是認」する側に明確に立つことになった。共産党中央の「聖職論」は自民党に歓迎され、これをきっかけにして公明党も「使命職論」を、民社党が「勤労者の性格を持った聖職論」を発表していくことになった。社会党中央は反発し、機関紙・社会新報で批判していくことになった。当然日教組大会の争点となってくことになった。当時共産党中央は、部落解放同盟との対立の際に「教育の中立性論」をいい始めており、このたびの教師聖職論と教育の中立論が両輪となってその後の運動の性格を規定させていくこととなった。

 4.7日、知事選挙.蜷川虎三7選、大橋和孝との差4,500。


 4.11日、闘共闘委第3波統一スト(〜13 82単産・650万人)これままでで最大の交通ゼネスト、日教組初の1日スト。春闘第3波統一スト.国労・動労・京交24時間、私鉄10組合48時間、全自交7組合24時間スト.自治労など公務員共闘1〜24時間スト.京教組は終日スト(府下82%が休校)、民間もスト、空前の規模。


 4.24日、佐々木社会党元委員長、三役経験者の会談を提唱。


 4.25日、ポルトガル反乱軍無血クーデター


 4月、中国のとう小平副首相(当時)が、国連特別総会で演説し、「三つの世界論」を開示する。 「三つの世界論」とは、70年代後半の世界情勢を、「第一世界」(米ソ超大国)、「第二世界」(日本、西欧などの先進諸国)、「第三世界」(中国を含む発展途上国)の三つに区分し、「第三世界」こそが「世界史の車輪の前輪を推進する革命的原動力である」と説き、日本、西独などの「第二世界」に属する諸国も「友邦」として結集し、その協力の下に「反米・反ソ」の国際統一戦線を結成しようと呼びかけたものであった。親中国系諸団体各派は、この問題の位置づけをめぐって大きな論争を生じていくことになる。


 75.3月には「日共左派」が「中央委員会派」と「関東地方局派」に分裂する。また、同年7月には、「京浜安保共闘」も二分解し同派の極左グループが「反覇権通信編集委員会」を組織して分離独立した。


 5.1日、建設省、土地価格を公示→宅地の値上がりは3年で2倍 →『マイホームは、夢のまた夢』に。


 5.8日、3中総で、市民道徳の必要性が強調される。


 5.16日、西独シュミット首相選出。


 5.20日、仏ジスカールデスタン大統領選出。


 5.25日、靖国神社法案、衆議院で自民党単独可決(6.1 参議院で審議未了・廃案)。


 6.2日、委員長・宮顕が、「三つの自由(生存の自由、市民的政治的自由、民族の自由)を保障する」との談話を発表。


 6.6日、成田社会・竹入公明両党委員長、参議院選挙での初協力を決定。


 6.11日、警視庁、槙枝日教組委員長を4・11ストをめぐる地公法違反容疑で逮捕。


【春日民社党委員長が、「戦前のリンチ事件」を取り上げて共産党攻撃】

 6.26日、7月の参院選を前にして、毎日新聞が「(各党首)陣頭に聞く」のインタビュー連載を企画した。6.26日付けの第2回目に春日民社党委員長のインタビューとなった。この時春日氏は、共産党の戦前のリンチ事件を取り上げ、「極悪非道ですよ、共産党は。反対者を殺すのだから。昭和8年、宮本顕治や袴田里見が何をやったか、予審調書を見れば分かる。連合赤軍の集団リンチ殺人事件とどこが違うか。口ではない。彼等が何をやったかだ。それをもとに判断するしかないじゃありませんか」と述べ、共産党を攻撃した。

 共産党は直ちにこれに反撃し、6.28日付け赤旗で、宮本太郎広報部長による談話「低劣な中傷について」を発表した。「公党の指導者に対する許し難い中傷を加えている。これは、昭和8年当時、秘密警察のスパイが、査問中特異体質のため死亡した事件を特高警察が『リンチ・殺人事件』としてデッチアゲたことを取り上げ、我が党の宮本委員長らに殺人者と云う悪質な中傷を加えたものであり」、「だが、この『事件』が、警察の捏造であったことは、戦前の暗黒政治下の裁判所でさえ事実上認めざるを得なかったところであり、さらに、戦後昭和22.5.29日に、治安維持法を撤廃した勅令735号(昭和20年12.29日)によって、将来にわたって刑の言い渡しを受けなかったものとすると、東京地検も確認している」、「春日氏が『予審調書を見れば分かる』などといって、宮本書記長の予審調書があるかのように云っているのは、明白なデマである」。


 7.2日、参院選挙戦終盤のこの時、中央選挙管理委員会の委員長・堀米正道(社会党出身)が、自民党の「金権選挙、企業ぐるみ選挙」を批判する見解を発表した。7.4日、自民党の橋本登美三郎幹事長は、「職権乱用、選挙妨害だ」として東京地検に告発した。


【第10回参議員選挙】

 7.7日、第10回参議員選挙。(自民62名、社会28名、公明14名、共産13名、民社5名、諸派1名、無所属7名当選。保革伯仲となる)。与野党議席差7で保革伯仲時代に入った。企業ぐるみ選挙の批判高まる。山口淑子が田中派から出馬して初当選した。

 共産党は全国区8名、地方区5名当選で計13名当選。得票数は、全国区492万、地方区642万。参院の保革差7議席に。この時、全国区は8.9%から9.4%へ微増しているものの地方区の得票率が12.1%から12%へ微減現象が出ている。特に東京区部の動きで、上田耕一郎が82万票で、その前の衆院選の得票数より16万票減っていた。


 7.8日、福田蔵相、「自民党は総反省の時」と金権(企業ぐるみ)選挙姿勢を批判、政治改革案提示の意向を表明。


 7.13日〜8.11日まで大阪・万博跡地で、「中華人民共和国展覧会」開催される。予想を越える260万人が動員され成功裡に終わった。奇妙なことは、黒田大阪府知事が公式行事に出席していないことであった。黒田知事が積極的でなかった理由の背景に支持政党である共産党の意向が働いていたことは容易に見て取れる。


 7.26日、人事院、公務員給与改善で29.64%(定昇込み32.4%)引上げを勧告


 7月、日本共産党(マルクス・レーニン主義)全国委員会が結成される。代表・安斎庫治、機関紙・プロレタリア。「日共左派」の結成に参加したものの、福田正義と対立、除名された原田長司(日共《ML》中国地方委)グループと、同じく服だから追放され「日共再建準備委」を組織して活動していた安斎庫治派が74年7月に組織統合した組織である。一時は「労働党」と三者で「前衛党を目指すML主義者全国委」の結成を企図したが、日本労働党の旗揚げによりその目論見が頓挫し、機関紙活動を主とする現況となっている。


「ウオーターゲート事件」発生(【ウォーターゲート事件の闇】に記す

 8.5日、ニクソン大統領にまつわる「ウオーターゲート事件」発生。これにつき詳細は、  8.8日、ニクソン米大統領ウォーターゲート事件で辞任。後任にフォード副大統領が推挙された。8.9日、ジェラルド.フォードが第38代大統領に就任。副大統領はロックフェラーが指名された。後に「選ばれなかった大統領」の汚名をきる。

 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は、次のように記している。

 「ニクソンの共和党側が民主党の本部に盗聴器を仕掛けたという、はなはだ胡散臭いウォーターゲート事件の大騒動でニクソンは大統領を辞任するのだが、ここでフォード副大統領が昇格するという不思議なことが起る。副大統領が大統領の辞任に伴って昇格するのがなぜ不思議かといえば、実はニクソンの辞任の前に副大統領も辞めさせているからだ。そうして代えておいたフォードがまた大統領に交代する。更に、フォードが自分の後釜として任命したのがロックフェラーなのである。つまり、正副大統領のどちらも選挙されていないのだ。

 アメリカ政治史上未曾有の珍事態となってこの騒ぎは終結するが、あまりにも見え透いたロックフェラーとキッシンジャーの、つまりはヤダヤの政治謀略というほかはない」。

 8.9日、江田三郎、革新研・現社研全国集会で「佐々木元委員長と協力して党改革に全力をあげる(反協会大連合)」とし「革新政権構想」を発表。


【大阪で「日共糾弾共闘会議」結成される】
 8.10日、大阪で、「日共糾弾共闘会議」(「日本共産党の労働組合支配介入糾弾共闘会議」)が結成される。労働時事通信は、「主要組合が機関決定を踏まえて公然と共闘会議を結成し、『日共糾弾』を唯一の闘争目標にすえ運動化を決意したことは、日本の労働運動史にも例がなく、今後の動向は国内はもとより国際的にも注目されると思われる」と記事紹介している。

 会議は、田口全逓大阪地本委員長の司会で、林動力車労組大阪地本委員長を議長に選出し、林氏が経過報告も行った。「本格的に堕落した日共の体質とその政策を暴露し、とりわけその労働政策については徹底的に糾弾する体制を大衆に依拠して確立し、日共弾劾運動を一挙に盛り上げる」ことを確認した。その背景として、「毎年の春闘を牽引し、戦前・戦後を通じて常に先進的な役割を果たしてきた大阪の労働運動の前に、独占と対決して闘う関西の労働者の前に敵の露払いとして『日共』という名の妨害者がのさばり出てきていることが、当面の情勢の特徴の一つである。労働組合は、闘争すれば共通してこの『妨害物』にぶっつかる」という認識があった。

 8月、廖承志中日友好協会会長が日中友好議員連盟訪中代表団を歓迎。双方は実務協定と並行して中日平和友好条約の予備会談を行うことで意見が一致。


【「韓国大統領狙撃事件(「文世光事件」)」発生】

 8.15日、ソウルの国立劇場で「光復節」(日本の敗戦により植民地から解放された記念日)の祝典で、在日韓国人2世の文世光が、演説をしていた朴大統領を狙撃。大統領は無事だったが、夫人の陸英修さんらが流れ弾に当たり、死亡した。世に「文世光事件」と云われる。

 8.19日、田中首相が、大統領夫人の国民葬に出席。日韓首脳会談で捜査協力を約束した。北朝鮮は、「事件は朴政権延命の為の陰謀」と反論。

 この件で、2002.9.13日付け読売新聞は、「『文世光事件』への関与認め金総書記が謝罪」という見出しで概要次のような記事を載せている。

 1974年、韓国の朴正熙大統領(当時)が在日韓国人青年に狙撃され、流れ弾に当たった夫人が死亡した「文世光事件」をめぐり、北朝鮮の金正日労働党総書記が今年5月に訪朝した朴元大統領の長女、朴槿恵議員に対し、北朝鮮の関与を認めた上で、謝罪していたことが分かった。

 信頼すべき複数の消息筋が13日、明らかにした。複数の消息筋によると、金総書記は5月13日、平壌を訪問した朴議員に対し、文世光事件について「あなたの母親に申し訳ないことをした」と謝罪した上で、「部下がやったことで自分は知らなかった」と語った。朴議員は韓国帰国後、「金総書記はいい人だ」と周辺に話した。(北京=時事)

 日経新聞(2002.7.9日)にも「『過激な勢力の仕業で申し訳ない。関係者は処罰された』。金総書記は朴正熙元大統領の長女、朴槿恵議員と5月に平壌で会談。朴元大統領時代に起きた北朝鮮武装ゲリラによる青瓦台(大統領府)襲撃未遂事件(1968年)について、こう『釈明』したという」とある。

 「文世光事件」は、日韓の外交問題に発展し、国交断絶寸前まで至った。9.19日、椎名悦三郎自民党副総裁が特使として訪韓し、テロ対策を確約し、断行の危機を乗り越えた。朴大統領は、「断行で受ける経済的打撃の大きさを顧慮し、最悪の事態を避けた」と伝えられている。

 文世光はその場で逮捕され、10.7日、ソウル地裁で初公判。10.19日、死刑判決。12.17日、上告棄却で死刑確定。12.20日、死刑執行。大法院(最高裁)の判決から死刑執行までの期間があまりに早すぎ、様々な憶測を呼んでいる。死人に口なしで、事件の真相は謎のまま今日に至っている。

 在日韓国人作家の梁石日氏が「死は炎のごとく」(毎日新聞社)でこの事件を検証している。使用された拳銃は、大阪市のある交番から奪取された2丁のうちの一つで、残りの1丁は文世光の天井裏から発見された。その奪取経緯は不明。文世光は、総連(在日本朝鮮人総連合会)の幹部から朴大統領暗殺の指令を受けていたと云われているが、これも確証はない。文世光が厳しい警護の中をどのように潜り抜けて拳銃を持ち込んだのか、これまた不明。

 2005.1.20日、「文世光事件」の韓国側の外交文書が情報公開された。

 2005.2.12日、【ソウル11日共同】が、「朴大統領夫人は誤射で死亡 韓国教授が録音分析で指摘」なるスクープをものしている。それによると次の通り。
 1974.8月の文世光(ムン・セグァン)事件で、在日韓国人の文世光・元死刑囚=同年十二月に死刑執行=の銃撃で死亡したとされる朴正熙(パク・チョンヒ)大統領夫人の死因は、元死刑囚の銃撃ではなく、警護員の誤射だったとの調査結果が十一日、韓国で公表され、論議を呼んでいる。

 崇実大電子情報通信学部の/ハイ/明振(ペ・ミョンジン)教授が事件当時の実況中継の録画と録音のテープを精密に分析。/ハイ/教授によると、計七発の銃弾が発射されたが、音声分析の結果では元死刑囚が撃ったのは一、二、三、五発目の銃声の計四発の弾丸で、三発目の弾丸は最初の銃声から六・六一秒後に、五発目は七・二二秒後に発射された。

 しかし、陸英修(ユク・ヨンス)夫人が被弾して体を動かし始めるのは七・〇八秒後で、元死刑囚の銃弾を受けたとは判断し難く、陸夫人が被弾したのは、警護員が発射した四発目の弾丸とした。 この事件では、捜査に当たった捜査官(既に死亡)が、陸夫人に当たった銃弾は元死刑囚の銃弾ではないと主張し、韓国で長く論議の対象になっていた。

 8.19日、総評第48回大会(〜22)。

 9.1日、全繊同盟大会で「ゼンセン同盟」に名称変更。


 9.10日、ラロック米退役海軍少将、「日本に核積載艦が核を撤去して寄港することはない」と米議会で証言。


【毎日新聞が社説で、共産党の変質を指摘
 「今度の四中総決議の中で最も重要なのは、党建設のための党員の学習活動の強化改善に関する部分だ。---全ての党員に党綱領に基づく路線、理論、政策、方針の学習と正確な理解を求める一方、『党の路線を離れてマルクスやレーニンの個々の文献だけを学習の中心に据えることは、科学的社会主義≠フ道理に叶った態度゛ではない』と云いきっている。---事実、今度の四中総決議に基づき改正された独習指定文献初級用からは、完全に古典物は排除された」。

 ちなみに、四中総決議は次のように述べている。「科学的社会主義の学説は、マルクス・エンゲルスによって基礎を築かれ、レーニンによってさらに発展させられたが、その段階で将来にわたる世界の革命運動の全てを解明し尽くしたものでは決してなく、日本を含む国際共産主義運動のその後の前進によってたえず豊かにされている学説−不断の発展と進歩の過程にある学説である」。

 この四中総決議は、マルクス、エンゲルス、レーニンの「我々はマルクスの理論を何か完成された、不可侵のものとは全然考えていない。その反対にこの理論は、社会主義者が実生活に立ち遅れたくないなら今後更にあらゆる方向にぜんしんさせなければならない一つの科学のかなめ石を置いたに過ぎない、と我々は確信している」(レーニン全集第4巻、226P)の似て非なる剽窃である。

 9.12日、社会党の新しい流れの会が飛鳥田一雄横浜市長を党委員長にする方針を決定。


 9.13日、高野実逝去(73歳)


 9月、中核派が、革マル派の全逓労働者・高橋範行氏をテロ、殺害する。これが「産別戦争」路線の合図となり、内ゲバが労働運動内部にまで拡大していくことになった。


 9.20日、総評大阪地評第27回定期大会は、「日本共産党に反省を求める決議」を採択している。提案組合は、全国金属・全林野・全逓・全電通の大阪(近畿)地方本部であった。これを見るのに、労働組合の社会党支持路線に対し、共産党が「政党支持の自由論」で社会党支持指導の無効を画策し、為に組合中央の「統一と団結」上由々しき事態が発生していたことになる。加えて、共産党が全動労など各戦線で第二組合を設立し、為に一元的指導を追及する組合中央と激しく対立するところとなった。これは労働組合の大衆組織としての自治権・自立化と機関決定の遵守をめぐる労働組合論の問題であるが、今日も考察を要するところであろう。もう一つ、この当時共産党は部落解放同盟と激しく対立していた。この問題が労働組合運動にも波及し、全国水平者運動以来の友誼的関係を維持しようとする総評大阪地評もまた共産党の反部落解放同盟路線と亀裂を深めていくことになった。こうして抜き差しならない対立へと歩を踏み入れていくことになった。

 この時共産党は、こうした総評中央の動きを「反共主義」と非難しつつ、影響下の労組・諸団体を指導して「決議撤回要求」運動を展開していった。これに対し、総評大阪地評は機関決定を無視する組合民主主義の破壊行為であると応酬しあっていくことになった。「昨今、日本共産党は、大衆組織である労働組合に対し、『労働者階級の前衛』と称し、日本共産党の政策、方針を強引に持ち込み、労働者が民主的に討議し決定した諸方針に対してまで、日本共産党の方針を優先させ、これが受け入れられない労働組合には、あらんかぎりの誹謗、中傷を加え、組織の分裂と混乱を画策している、といっても過言ではありません」(10.21日「日本共産党大阪府委員会・緋田吉郎委員長宛ての総評大阪地評差し入れ文書」)とある。


 9月、中華人民共和国展覧会、東京で開催。中日間定期航空路開設。中国友好訪問団(団長=王震氏)、日中航空路開設友好訪中団(団長=小坂善太郎氏)が一番機で相互訪問。


 9.21日、ワシントンで田中.フォード会談


 9.30日、社会、公明、民社3党、日中友好国民連絡会議など20団体が「中華人民共和国成立25周年祝賀、日中平和友好条約締結促進中央集会」を東京で開催。


【立花隆「田中角栄−その金脈と人脈」発表される】

 10.10日、雑誌「文芸春秋」11月号で、立花隆「田中角栄−その金脈と人脈」、児玉隆也著「淋しき越山会の女王」が掲載された。これが以降の田中政界追放の狼煙となった。

 立花隆はインタビューでこう述べている。

 「こんなことになるとは思いませんでした。何というか、老いさらばえたロバが、荷物をいっぱい背負ってヨタヨタしているところへ、ワラを一つかみのせたら、バッタリという感じですよ。田中さんにとっては記事の中身よりも読者の受け止めかたにショックをうけたのではないでしょうか」(10.29日、夕刊フジ)。

  「角栄は事前にゲラを読み、文芸春秋に圧力をかけたが、角栄の意向を無視して発行された」とあるが、何が云いたいのだろう。角栄権力をミニとしてそれを上回る巨大な発行圧力があったと解するべきだろう。

 10.18日、自民党総務会、文芸春秋の「田中首相の金脈と人脈」を初論議。


 10.26日、中立労連、初の定期大会。


 10.30日、共産党不破書記局長が、「反田中政権の保守派を含めた暫定的政権」構想打ち出す。「保守政治家を含む選挙管理内閣構想」を発表。


 10.31日、東京高裁第二審で狭山裁判の判決が出され、石川一雄被告に無期懲役刑が宣告された。


 11.7日、不破書記局長が、「都の同和行政問題未解決のままでは美濃部三選支持はいえない」と発言。


 11.11日、第二次田中内閣第二次改造。官房長官・竹下登。


 11.18日、東京.迎賓館で田中.フォード会談。フォード米大統領、現職大統領としては初の来日(〜22)。


【「八鹿事件」が発生】部落開放同盟との疎遠指導について

 11.18日、兵庫県養父郡八鹿で「八鹿事件」が発生した。八鹿高校での同和教育を発端としていた。これを少し仔細に見るのに、同校部落問題研究会(旧社会科学研究会)は、設立以来6年経過していたがおざなりの学習会に陥っていたと云う。同研究会の一部メンバーがこれに飽き足らず、部落解放研究会の公認を学校当局に申し入れた。同校教頭はこれを認めたが、同行職員会議では教頭の確認を認めないという事態となり、教頭の生徒たちに対する約束は忠に浮いた。この間同校育友会(PTA)が間を取り持ったが、片山正敏教諭ら共産党系党員らはこれを拒否していた。既に部落研があるのに新たに解放研はいらないという理由であった。職員会議は概ねこれを支持していたようである。

 7.30日、八鹿高校落解放研究会が公認された。実際には、教師達の反対の中で校長が職権によって認知するという難産であった。片山教諭らは部室を与えずという作戦に出るという徹底的な敵対に終始した。このような中での誕生となったこともあって、顧問を引き受ける教諭が居なく教頭がその任を引き受けることとなった。部落研にいた部落出身生徒は全員解放研に移籍した。全21名のメンバーのうち18名が該当し、部落研に残ったメンバーは全員非部落出身者という構図となった。11.12日解放研メンバーが同校同和対策室主任の高本教諭に話し合いの場をつくるよう求めた。11.16日高本教諭はこれを職員会議に諮ったところ、「解放研との話し合いには応じない」を決議することとなった。その理由として、「@・何を、どういうことを話し合うのか。A・話し合いをどのように進めていくのか。B・時間設定はどうするのか。C・そういった点について充分に打ち合わせできていない」ということになった。高本教諭は、解放研の生徒たちにこの結論を伝えるため出向いていった。この話し合いの最中、約40名の教諭がやってきて高本教諭を連れ出し校外に去った。

 11.18日、憤慨した解放研の生徒全員21名(うち女子13名)が職員室前に座り込んだ。その際の要求は、解放研に3名の顧問をつけること、解放研と教師達との話し合いを持つこと、現在の八鹿高校に於ける同和教育が部落解放に適切でないことを認めることであった。この日教師団は無視し続け、平常どおりの授業が続けられた。11.19日農業科の生徒を中心とした約130余名が座り込みに加わった。この異常事態の最中、授業は何ごともなく続けられた。PTAや県教委が動き出し、教師達に話し合いを持つよう説得したが、教師団はこれを拒否しつづけた。この間、部落解放同盟、自治労、兵庫教組など労働組合・民主団体が八鹿高校差別教育糾弾共闘会議を結成するに至った。

 11.21日、解放研の生徒全員21名は断食闘争(ハンガーストライキ)に突入した。生徒会執行部は、教師達に「私たちは絶対に彼等を死なせてはならないのです。執行部は先生達にどうしても話し合いさしてほしい。絶対話し合いをしてほしいです」と悲痛な訴えを行った。こうした要請に対する教師達の解答は、@・解放研設立要求以前の5月時点に返すこと。A・解放同盟など外部団体と手を切ること。B・これを確認して後話し合うかどうか職員会議で決めるであった。部落解放同盟南但地区連絡協議会各支部は解放研の生徒たちを励まし、支持する一方共産党系教師達がこれを極端に嫌うという構図が現出しこう着状態となった。

 11.22日、前日城崎温泉で一泊して会議を開いた教師団は貸しきりバスで出勤してきた。示し合わせた通り「本日の授業は中止する」と宣言して、図書館に集まった。午前9時半、ハンスト中の生徒たちに目もくれず、約50名の教師が集団で下校し始めた。ハンストを心配して詰め掛けていた解放同盟員や共闘会議のメンバーは、教師達の下校を阻止しようとし始めた。実力連れ戻し行使が発生し、もみ合いとなり、双方に負傷者が出た。この経過には、共産党系教員を指導する党中央機関の介在が見え隠れしている。赤旗のタイミングの良いキャンペーンもこれを例証している。「(負傷した教諭の)誇大な入院劇の演出」(社会新報)、「逆吊り」、「血の海と化す流血の場」なるものがおどろおどろしく報じられることになった。


 11.19日、春闘共闘委、11.19統一スト.公労協・私鉄中心に秋闘としては空前の拡がり。


 11月、中日海運協定、東京で調印。


【田中首相退陣表明】

 11.26日、田中首相退陣表明。在任期間2年4ヶ月で終わった。金脈追求で行き詰まる。


河野洋平らが新自由クラブを結党
 河野洋平らが離党して新自由クラブを結党。

 後継総裁選びが難航した。「三角大福」と云われていた福田、大平、三木、中曽根が予想された。調停役は副総裁の椎名悦三郎(76歳)。「椎名暫定政権」が浮上したが、「行司がまわしを締めた」と批判され、椎名は調整役に徹することになった。

 12.1日、次期総裁を話し合うために、後継候補の椎名悦三郎、福田赳夫、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘の5名が自民党本部総裁室に集まった。会議が始まるや、椎名が「もう議論は出尽くした」と云い、「国家、国民のため神に祈る気持ちで考え抜きました。新総裁にはこの際、政界の長老である三木武夫君が最も適任であると確信し、ご推挙申し上げます」と、「三角大福」を前に声明文を読み上げた。

 かくて、椎名の裁定で三木が指名された。三木は、「青天の霹靂だ。予想だにしなかった」と述べ受諾した。これを「椎名裁定」と世に云う。


 12.4日、自民党両院議員総会、三木武夫を第7代自民党総裁に選出=椎名悦三郎副総裁によるいわゆる「椎名裁定」。マスコミは、「クリーン三木」と持ち上げた。


 12.5日、統一戦線促進労働組合懇談会(統一労組懇)結成(統一促進懇を改組)。


【三木内閣発足】

 12.9日、三木内閣発足。官房長官・井出一太郎、中曽根幹事長。永井道雄文部大臣。22年ぶりに国務大臣(文相)に朝日新聞論説委員の永井道雄を民間から登用→次期総裁を目指して大平・福田対立。


 12.13日、閣議で、戦後初のマイナス成長が報告される→倒産件数過去最高→不況脱出まで52カ月


 12.18日、水島コンビナート三菱石油重油流出事件。


【統一労組懇結成される】

 12月、統一労組懇結成。共産党系の労組団体。20単産。全国47都道府県統一労組懇。組織人員約150万人。「総評を民主的、革新的に強化するという党の方針に基づいて」総評内の日共系労組の横断連絡組織として結成された。かっての産別会議的な階級的ナショナル.センターとしての確立を目指すべきの動きと、総評強化路線の一環として位置させて置くべきとの動きの理論的野合。

 上田は、元々統一労組懇結成には時期尚早論で反対。宮顕と秘書グループのイニシアチブで進められた。


 12.15日、社会党大阪府本部が、75年の府知事選で黒田知事の不支持を決定。


 12.17日、衆議院本会議において、共産党の金子満広議員が代表質問し、八鹿高校事件を取り上げ部落解放同盟に対する全面批判を行った。


 12.20日、社会党第28回大会(江田三郎、飛鳥田一雄・赤松勇とともに副委員長就任)。


 12.27日、永井文部大臣と槙枝日教組委員長が第一回の会談を持つ。人材確保法案によって決められた給与増額分の公平な配分、入試地獄.詰め込み教育の解消、スト処分教員の処分撤回等々が議題となった。この両者会談は以降定期的に続くことになる。

 永井文部大臣は、入試地獄解決案として、東大だけが突出した大学であってはいけないと「大学八ヶ岳論」を唱え、その方法として共通一次試験制度を導入していった。その結果、偏差値教育が発生し、却って大学の序列化を促進していくことになった。


【共産党と創価学会の間で「十年創共協定」調印される】

 12.28日、共産党と創価学会の間で「十年協定」調印後日判明したところによると、両者を取りもったのは作家の松本清張氏で74年10月、同氏の立ち会いのもとで共産党側から上田耕一郎・党任幹部会委員、創価学会側から野崎勲総務・男子部長らが松本氏宅で会談。5回の会談を経て同12月28日、「日本共産党と創価学会との合意についての協定」が締結され、翌29日には松本氏宅で宮本委員長と池田会長が懇談した、と云う。

 協定の内容(要旨)は次のようなものであった。

【1】  共産党と創価学会は相互の自主性を尊重し両組織間の相互理解に最善の努力をする。
【2】  創価学会は共産主義を敵視する態度をとらない。共産党は布教の自由・信教の自由を無条件で擁護する。
【3】  双方は信義を守り今後、一切の双方間の誹謗中傷は行わない。話し合いを尊重し、両組織間、運動間のすべての問題は協議によって解決する。
【4】  双方は民衆の側に立つ姿勢を堅持し、それぞれの信条と方法で社会的不公平をとりのぞき、民衆の福祉の向上を実現するために努力しあう。
【5】  双方は世界恒久平和の目標に向かって互いの信条と方法で最善の努力を傾ける。核兵器全廃の共通課題に対して互いの立場で協調しあう。
【6】  日本に新しいファシズムを目指す潮流が存在しているとの共通の認識に立ち英知を発揮し未然に防ぐ努力を互いの立場で行う。政治的自由、信教の自由をおかすファシズムの攻撃に対しては断固反対し相互に守りあう。
【7】  この協定は向こう10年を期間とする。10年後は協議する。

 この協定の意義は、これまで犬猿の仲であった共産党と創価学会が協定を締結し、限定的ではあれ政治的に共同戦線を取ることを確認したことにある。この間、共産党と創価学会は激しい支持者獲得争いが続けてきており、70年の創価学会言論弾圧問題では共産党が反創価学会キャンペーンを張り打撃を与えていただけに衝撃となった。但し、この運命がどうなるか。翌年公然化した途端に、早くも破綻し始めることになる。





(私論.私見)