第34部 1972年当時の主なできごと.事件年表)

 1.3日、日米繊維協定がワシントンで調印される。3年越しの懸案が解決した。繊維製品の対米輸出の年間伸び率を抑えるもので、「糸で縄(沖縄)を買った」との批判も出る。


 1.6日、カリフォルニア州サクラメント(サンクレメンテ)で日米首脳会談。佐藤に福田外相・田中通産省・水田三喜男蔵相が同行す。1.7日、日米首脳会談で「沖縄返還」決まる。返還日を5.15日とする共同声明を発表する。1.8日、日米共同声明、5.15日の沖縄返還が決定した。


 1.23日、ソ連のグロムイコ外相が来日する。1.25日、日ソ定期協議が5年ぶりに開かれ、領土問題などが協議される。


 1.24日、元日本兵・横井庄一元伍長が、グアム島のジャングルの中で発見、保護された。28年間密林で潜伏し続けたことになる。2.22日、羽田空港で帰国記者会見し、「恥ずかしながら、帰ってまいりました」。74年にはフィリピン・ルバング島から小野田寛郎元少尉も帰還し、昭和元禄の世に衝撃を与えた。


 1.25日、ベトナム和平で、ニクソン大統領が6ヵ月以内の米軍完全撤退などを提案する。


 1.28日、社会党第35回大会、社公民連合政権構想を推進する決議案を運営委員会で否決。


 1.30日、北アイルランドのロンドンデリーで、カトリック系デモとイギリス軍が衝突し、13人が死亡する(血の日曜日事件)。


 1月、「日共革命左派」、原田長司グループの「日本共産党(マルクス・レーニン主義)山口県準備委員会」、安斎庫治グループの「日本共産党再建準備委員会」の三者で「全国規模の前衛党建設」を目指した「全国三者協議会」を結成、同年8月には、これを「前衛党建設を目指すマルクス・レーニン主義者全国協議会」に発展させる。


 2月、国会「四次防予算」先取り問題で紛糾。


 2.3日、札幌で第11回冬期オリンピックが開催される。


 2.3日、佐藤首相、札幌での記者会見で、国会終了後の引退を示唆。


 2.9日、イランの軍事法廷が、左翼ゲリラに終身刑などの判決を下す。


 2.15日、アメリカが、国際収支が記録的な赤字になっていることを発表する。


 2月、宮顕委員長が家移り。東京都杉並区上高井戸から東京都多摩市連光寺に移転した。敷地約200坪、周囲を高いブロック塀で囲い、家族の他防衛隊員が常駐。以降毎週一回、党本部で開かれる党中央常任幹部会会議の前日には、上田、不破、榊、岡本博之、小林栄三、若林ら私設秘書幹部も含めて謀議を凝らして行くことになった。

 2.16日、群馬県妙義山中で連合赤軍の2人が逮捕される。2.17日、連合赤軍最高指導者森恒夫(27).永田洋子(27)が群馬県妙義山アジト付近で逮捕された。2.28日、連合赤軍がたてこもる浅間山荘は、2.19日から睨みあいが続いていたが、人質の体力が限界にきたと判断した警備本部はクレーン車につるした鉄球で山荘の一部破壊を決行、連合赤軍側もライフル銃などで激しく抵抗、機動隊員2人が死亡する。結局連合赤軍5人は全員逮捕、人質の主婦は無事救出される。NHKテレビが24時間体制で中継する。

 2.17日、プロレタリア作家の平林たい子没(享年66歳)(誕生:明治38(1905)/10/03)。


【連合赤軍浅間山荘事件】

 2.19日連合赤軍による「あさま山荘篭城事件」が起った。最高幹部が逮捕されていた連合赤軍のメンバー坂口弘ら5名が、軽井沢の保養所・浅間山荘に乱入し、管理人夫人牟田泰子(31才)を人質にとって立てこもった。武装警官1500名が出動し、10日間にわたる銃撃戦の末、2.28日機動隊突入による強行突破で逮捕された。この救出作戦中、警官2名が死亡、23名の負傷者が出た。この経過が現場中継され国民の多くが釘付けとなった。


 2.19日、モスクワで、日本とモンゴル人民共和国の国交樹立交渉が妥結する。


 2.21日、ニクソン米国大統領訪中、毛沢東首席、周首相と会談。日本を無視した形となり、頭越し外交と云われる。2.27日米中共同声明が上海で発表される。二度目の「ニクソン.ショック」といわれる。


 2.22日、フトハンザ機がパレスチナゲリラに乗っ取られ、南イエメンのアデンに着陸する。2.23日、前日乗っ取られたルフトハンザ機の乗員・乗客が身代金1600万マルクで全員解放される。


 2.24日、モスクワで、日本とモンゴル人民共和国の国交樹立の調印が行われる。


 2.26日、イスラエル空軍が、レバノンを爆撃する。

 2.29日、原水協が、元米軍曹長が日本国内への核持込みを裏付ける証言を行ったと発表する。

 2.29日、閣議が、中国向け輸出に対して輸銀の資金の使用を認める方針を決定する。

 3.2日、北ベトナムの「ニャンザン」紙が、米中共同声明のアメリカ側見解を激しく非難する。


 3.3日、赤旗は、一面トップ7段で、「警察、連合赤軍に協力賞 情報収集を名目に 後藤田長官らが答弁 泳がせ政策を裏付け」と大きく報道。


 3.7日、田中角栄ら永年在職議員として衆議員より表彰される(12名)。


 3.7日、連合赤軍メンバー12名のリンチ殺人遺体が発見される(群馬県警が、連合赤軍逮捕者の自供から、リンチによって「処刑」された元京大生山田孝の凍死体を発見する。)。京浜安保共闘時代の2名を含めて犠牲者14名。新左翼にショックを与える。

 高知聡氏は「日本共産党粛清史」において、「要するに。思想的にシュ儒であった者達が、マンガチックに誇張し、ゲキガチックに非人間的に巻き起こした怪奇な惨劇が、彼等の連続リンチ殺人事件だったのだ」と述べている。


 3.10日、カンボジアで、ロン・ノル大統領が就任する。


 3.13日、スモン研究調査会が、スモン病の原因はキノホルムの服用であるとの結論を出す。


 3.15日、山陽新幹線、新大阪―岡山間が開業。

 3.15日、ヨルダンのフセイン国王が、連合王国構想を発表する。3.18日、アラブ共和国連邦が、ヨルダンのフセイン国王の統一アラブ王国建国案を拒否する。


 3.21日、奈良・高松塚古墳で彩色壁画を発見。


 3.21日、アメリカ下院本会議が、政府提案の平価変更法案を可決し、金価格が1オンス35ドルから38ドルへ引き上げが決定する。ドルの7.89%切り下げが確定する。


 3.22日、北アイルランド首相のブライアン・フォークナーとイギリス首相ヒースが内戦終結のための会談を行う。イギリスの直接統治で合意する。3.24日、イギリスのヒース首相が、北アイルランドの自治政府・議会の1年間停止の声明を出す。3.30日、北アイルランド暫定法が議会を通過する。


 3.23日、アメリカ政府がジョン・レノンに国外退去命令を出す。ジョン・レノンはこれを拒否する。

 3.27日、衆議院予算委員会で、社会党の横路孝弘・楢崎弥之助氏が沖縄返還に当たっての外務省の極秘電報「密約」を漏洩し爆弾発言となった。安川外務審議官付きの秘書・蓮見喜久子から毎日新聞記者・西山太吉氏に渡された外務省の機密文書コピーが横路氏に渡ったものであった(「外務省公電漏洩事件」)。沖縄返還交渉の過程で、日米間に為された、軍用地地主への復元補償費400万ドルを日本が肩代わりする、という密約が暴露された。これをきっかけに、国家機密や政府の情報開示に対する国民の「知る権利」運動に関心が高まっていくことになった。

 3.28日、前日の衆議院予算委員会での極秘公電の暴露について、政府が「密約」はないとしながらも公電の存在は認める。3.29日、福田外相が、外務省の極秘公電漏洩の経路について省内徹底調査を命じる。3.31日、外務省の蓮見喜久子事務官から極秘公電コピーを外部に流した事実を聴取する。4.3日、外務省機密漏洩事件。外務省の蓮見喜久子事務官から毎日新聞政治部の西山太吉記者に極秘公電のコピーが渡されたことが判明する。4.4日、警視庁が外務省の公電漏洩容疑で、外務省の蓮見喜久子事務官と毎日新聞の西山太吉記者を逮捕する(外務省公電漏洩事件)。4.5日、外務省機密漏洩事件で記者が逮捕されたことで、毎日新聞社などは「知る権利」への干渉であると反発する。4.日、外務省機密漏洩事件で、東京地裁が蓮見喜久子事務官と西山記者の拘置を決定する。4.8日、外務省機密漏洩事件で、毎日新聞社の西山記者の拘置決定の取消しを求める準抗告が行われる。4.9日、外務省機密漏洩事件で、東京地裁は毎日新聞社の西山記者の拘置決定を取消す。4.15日、外務省機密漏洩事件で、東京地検が蓮見元事務官を釈放し、国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反で起訴する。西山記者を同111条(秘密漏洩をそそのかす罪)で起訴する。起訴状では「蓮見事務官をホテルに誘って情を通じたあげく」と男女の私的関係に絡む機密漏洩事件とする。

 この事件は、外務省の過剰機密姿勢、西山記者の取材姿勢、横路議員の出所漏洩姿勢、西山記者逮捕の是非等々に後足の悪さを残すことになった。


 3.30日、南ベトナム解放軍が68年以来の大攻勢を開始する。4.6日、アメリカが大規模な限定北爆を再開する。4.16日、アメリカ軍がハノイ、ハイフォンへの爆撃を再開する。5.1日、北ベトナム軍・南ベトナム解放戦線が、南ベトナムの要所のクアンチを占領する。5.4日、ベトナムで臨時革命人民委員会が成立する。5.8日、ニクソン米大統領が北ベトナムの全港湾機雷封鎖を発表する。5.10日、北ベトナムが、アメリカの北爆強化と機雷封鎖に抗議する民主共和国声明を発表する。5.10日、南ベトナムのチュー大統領が全土に非常事態宣言を発する。


 この頃、過激派学生分裂相次ぎ、革マル対反革マル内ゲバ事件多発。

 民青同12回大会で新日和見主義者処分。

 4.3日、マル生闘争処分に抗議して動労が順法闘争を開始する。


 4.6日、エジプトのサダト大統領がヨルダンとの断交を発表する。


 4.10日、米、英、ソなど79ヵ国が生物兵器禁止条約に調印する。

 4.12日、KCIAが風刺詩「蜚語」を発表した詩人の金芝河を連行する。

 4.24日、火炎瓶使用等処罰法が公布される。

 4.27日、春闘で、初のゼネストが行われる。

 4月、キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官が来日。「今日米関係は第二次世界大戦後で一番難しい時期にあると言わざるを得ない」。


 雑誌「全貌」5月号で、「連合赤軍の浅間山荘事件と1933年の共産党のスパイリンチ事件が瓜二つだとして、大泉兼蔵まで登場させる記事」を掲載。


 5.2日、キッシンジャー訪仏,ベトナムと秘密接触。


 5.4日、党創立50周年記念の「党勢拡大運動推進本部」を設置。

【田中派結成】

 5.9日、田中派結成。東京.柳橋の料亭いな垣に佐藤派81名(衆院40名、参院41名)が結集。呼びかけ人は木村武雄。

 この時の渡部恒三の証言は次の通り。「通常国会の会期末もおしせまった5月9日夜、私は同志の高鳥修、小沢一郎、羽田孜君などと期待に胸をはずませながら柳橋にむかった。元帥と愛称される党人政治家の元老木村武雄氏(現建設大臣)の案内で田中角栄氏擁立の会が開かれることになったからである。会費二千円、縦にならべられた細長いテーブルの上に、黒ぬりの弁当がならべられているだけの質素な宴席である。しかし参加者は予想をはるかに上まわる81名、衆議院では佐藤派より二階堂進、亀岡高夫氏等38名。それに無派閥の私と小沢辰男氏(新潟)が参加して40名である。とくに参議院からは衆議院を上まわる41名が参加し、重宗王国にきずかれた参議院は、福田という伝説を完全に吹き飛ばしてしまった。とくに木村元帥より指名された私は、『今日まで党近代化を主張し、無派閥の一匹狼としてやってきたが、これからは、田中内閣の実現によって庶民大衆の政治をつくり上げるという目的のもとに先輩諸氏と行動をともにしたい』と挨拶をした。このこと、私は新聞記者に、『まさに老人と青年の会、参議院のオールドパワーと衆議院のヤングパワーの集まりであった』と語ったが、後代に良き社会を残そうとする老人たちと、未来に新しい時代をつくろうとする自民党のヤングが、田中内閣の実現という目的で一致したのは愉快であった。やはり田中陣営に参加した福島県出身の一竜斎貞鳳氏にさそわれた私は、梶山静六、奥田敬和、中山利生、林義郎、左藤恵、斉藤滋与史、佐藤守良等の同志とともに、この日ばかりは柳橋で名高い柳光亭で痛飲した。田中派の旗上げに参加して多くの同志を得た喜びとともに、自民党の派閥政治という大勢のなかで、ついに自分も派閥政治の渦巻の一員に組み込まれてしまったという反省が、かすかに私の心をよこぎった。柳光亭の楼上より大川をへだてて明滅するネオンが静かに流れる大川の水面を美しく映し出している。酒にほてった顔を川風が心地よくなでてくれる。しばし私は友人たちの喧噪をよそに、柳橋の夜景に目をはしらせていたのである」。

 田中派発足当時に旗幟鮮明にしたのは、次の通り。愛知揆一、足立篤郎、植木、大村襄治、小沢辰男、小渕恵三、金丸信、亀岡高夫、仮谷忠男、木村武雄、久野忠治、小宮山重四郎、竹下登、二階堂進、西村英一、橋本登美三郎、箕輪登、山下元利、山田久就、渡辺肇、小山省二、石井一、小沢一郎、奥田敬和、梶山静六、高島修、中山利生、羽田孜、林義郎の29名。

 5.10日、カンボジアのロン・ノル大統領が、クメール共和国憲法の制定を布告する。


 5.12日、日本・インドネシア共同声明が発表され、アサハン開発計画などで合意する。


 5.15日、沖縄返還協定発効、沖縄返還される。27年振りに日本へ復帰、沖縄県発足。


 5.22日、ニクソン米大統領訪ソ。5.26日、SALT Iが調印される(アメリカ・ソ連間で「ABM制限条約」「戦略攻撃兵器制限暫定協定」(SALT−I)が成立する。5.29日、モスクワで、米ソ共同コミュニケが調印される。5.31日、アメリカのニクソン大統領がポーランドを公式訪問する。


 5.26日、閣議が初の「環境白書」を了承する。


 5.30日(日本時間5.31日)、イスラエルのテルアビブ国際空港で、日本赤軍3名による乱射事件が発生した。空港ロビーにいた24名の死者、80名以上の負傷者発生。襲撃した奥平剛士(26才.京大)、安田安之(24才.京大)の2名はその場で射殺された。岡本公三(24才.鹿児島大)は逮捕され軍事法廷で終身刑の判決を受け収容された。パレスチナ入りした日本赤軍の旗揚げ的な意味を持った軍事行動となった。


 5.28日、アメリカ民主党全国委員会本部にCIA工作員が侵入し、盗聴器をしかける(ウォーターゲート・ビルへの1回目の侵入)。


 6.1日、イラク政府が、イラク石油会社(IPC)の国有化を一方的に発表する。6.2日、シリア領内のイラク石油資産の国有化が決定される。


 6.3日、米英仏ソがベルリン協定に調印し、西ドイツと西ベルリンの自由交通など緊張緩和の動きが高まる。


 6.5日、ストックホルムで国連人間環境会議が開催され、112ヵ国が参加する。6.15日、国連人間環境会議で、10年間の捕鯨禁止が決議される。6.16日、国連人間環境会議で、人間環境宣言が採択される。


【キッシンジャーが来日】(2001.8月号「文芸春秋」の「角栄の犯罪25年目の新事実」より)

 6.9日、米国安全保障問題担当特別補佐官キッシンジャーが来日し、6.10日佐藤首相と会談、次期首相についての予想を詳細に探っている。その白眉部分は次の通り。キ「田中が勝った場合、日本政府の方針に大きな変化がありますか」。佐「田中がなろうが、福田、大平がなろうが、自民党の枠内での変化に過ぎません。枠は変わりませんよ」。キ「彼(福田)は勝てますか」。佐「現時点では五分五分です」。


 6.9日、国労と動労が、ベトナム向け米軍燃料タンク車の増発に反対して強力順法闘争に入る。


 6.11日、通産大臣田中角栄氏が「日本列島改造論」を発表する。 


 6.13日、公明党第10回大会、中道革新連合を提唱。


 6.13日、キッシンジャー・田中会談が東京のホテルオークラで為されている。会うのは二度目、サシの会談は初めての角栄は、簡単な自己紹介から始め、「25年間にわたる日本の復興で、アメリカ政府に非常にお世話になったことも理解しております」と対米同盟関係の是認スタンスを表明している。興味深いことは次の遣り取り。田「新聞というのは常に百%間違っているものです」。キ「各候補者の間に政策的な違いはありますか。それとも主にパーソナリティーの問題ですか」。田「ほとんどパーソナリティーの問題です。田中、福田、大平、三木の違いは宗旨の問題と云っていいと思います。この四人では三人が外務大臣の経験を持ち、また福田と私は大蔵大臣も経験しました。過去の首相では、幣原、吉田、池田、佐藤が自民党の忠実なメンバーで、大平もそうです。一方、福田は初出馬は無所属での当選でした。福田の政治家としての歴史を感嘆に説明すると、岸が(A級戦犯として)追放され、その後、政界復帰した後に行動を共にしたのが福田だったわけです。従って、福田の自民党入りは岸が当選した後のことでした。ですが、ある意味では、福田は現在の自民党の主流といえる人物でしょう」。

 その後、中国問題、台湾問題について意見交換している、というか田中の見解がウオッチされている。キ「(台湾問題に対して)どのような態度をとるべきだとお考えですか」。田「台湾問題に関しては、日米の間で完全な合意が必要です。これは日本と中国との間だけでは解決するのが難しい問題です」。キ「台湾問題に関して、日本としては独自の解決を目指すつもりはないということですか」。田「日本が独自に動くよりも、米国が加わった方がより理性的な解決ができるのではないかということです。夫婦喧嘩と同様に、共通の友人が間に入ることで問題解決ができるのではないでしょうか」。キ「誰が夫と妻で、誰が友人になるのですか」。田「まず間違いないのは、米国が友人ということです。夫と妻に関しては、歴史的に言えば、日本と中国が夫婦でしたが、この四分の三世紀の間は、日本と台湾がカップルでした」。キ「私の理解するところ、台湾の処理に関しては、日本と米国は共通の方針を取るべきだというのが、あなたのご意見だと思われるのですが、それでいいですか」。田「そうするのがベストだと思われます」。


 6.14日、日航DC8がニューデリー空港付近で墜落し、86人が死亡する。


 6.14日、中絶禁止法に反対し、ピル解禁を要求する女性解放連合(中ピ連)が結成される。。


【佐藤長期政権終幕の前夜 】
 「渡部恒三のホームページ」より長い通常国会が終わろうとする6.15日。今国会の重要法案といわれてきた“健保改正法案“と“国鉄改正法案“はいずれも参議院で流産になってしまう見通しが濃くなっていた。しかも執行部は、この法案を今国会で真剣に通そうとする努力をせず、現内閣の手で臨時国会を開いて二法案を審議する、すなわち佐藤内閣を延命しようとする露骨な動きを見せはじめた。朝の国対が終わったあと、浜田幸一(千葉県)、林義郎(山口県)君等の提案で院内十四控室において獅子会が開かれた。私は、今日の代議士会に佐藤首相の出席を要求しようと提案した。いまや党内は佐藤後をめぐって麻の如く乱れている。佐藤首相が引退の意志を明示しないために、党内は疑心暗鬼、不信と混乱がつのり、まさに崩壊の瀬戸ぎわに立っている。このままでは自民党は亡びてしまう。日本の民主主義の危機である。

 しかし、残念ながら我われの要求はいれられないままに、本会議が開かれることになった。けたたましい本会議の開会ベルが鳴りひびくなかで、私は中曽根総務会長に「17日の両院議員総会に佐藤首相は出席して引退の意志を表明すべきこと」を強く要求した。中曽根会長の返事はあいまいであったが、その顔には、十分我われの要求を受け入れる用意のあることをありありと示していた。さらに金丸信国対委員長が「現内閣で臨時国会を開くことは絶対にない」と断言したので、つね日ごろ金丸氏の人柄に信頼をおく我われは、これを了承して本会議に入ることになった。しかしこれだけでもまだ安心できない。16日深夜、私は同志浜田幸一君、中山正輝君、それに石井一君の4名で竹下官房長官をたずねた。私は「もし明日の両院議員総会で佐藤首相が引退の意志を表明しない場合は、我われ3名が、首相の退陣の要求をする演説をぶつ。我々が立ち上がれば、河野洋平、西岡武夫氏等の若手の先輩がバックアップすることになっているから総会は滅茶苦茶になる。佐藤首相の引退をいさぎよくするためにぜひ内閣の番頭役である官房長官は首相に引退をすすめてもらいたい」とお願いした。竹下官房長官は我われの要望を否定し、「決してそのようなことを行なってはならない」と繰り返し、我われの翻意を求めた。おし問答が午前3時まで続けられたが、なんとなく寂しそうな官房長官の表情を見て、私は明日の佐藤引退を確信することができた。

 思えば人間の運命とは不可思議なものである。昭和34年、私が郷里に帰って県会議員に立候補しようとしたとき、早稲田の先輩である竹下さんは、ちょうど県会議員から代議士になったばかりであった。大隈会館で竹下さんから県会議員は三期やってはならない。二期つとめたら必ず国会に出てこい、と励まされ、その通りにやってきた私である。昨年の夏、慶応病院に入院中の私のところに来て「コウゾウ、おれも大臣になったぞ。どうだ大臣らしくなったか。お前も10年たてばなれるぞ。早く病気をなおせ」といって励ましてくれた竹下先輩である。私たちは今日、その竹下官房長官に対し、佐藤首相の退陣を要求しているのである。白々と夜の明けようとする首相官邸をあとにしながら、私は寂しそうな官房長官の顔と、政治家が信念をつらぬくためにはさけることのできない厳しくも険しい人の道を思った。しかし夜はほのぼのと明けようとしている。いよいよ今日から、次期総裁をめぐる戦いの火ぶたはぎって落とされるのである。そうなれば当然、田中角栄派の参謀となる竹下さんのもとで我われは同志として戦うことができるのである。どうせ「明日からはいっしょだ」  みずからをなぐさめるようにつぶやきながら、私は九段の宿舎にもどった。いつも靖国神社の境内から聞こえる夜明けをつげる鶏鳴の声が、なぜか今日ばかりは印象的に私の耳に残った。

【佐藤首相が引退声明】

 6.17日、佐藤首相が引退声明、7年8ヶ月にわたる政権が幕をとじることになった。午後零時半過ぎ、記者会見室は異様な空気で遣り取りされている。テレビだけを残し新聞記者を追い出す。概要「テレビはどこにあるんだ。私はテレビを通じて国民に直接話をしたいんだ。新聞になると、文字になると違うからね。僕は、偏向的な新聞は大嫌いなんだ。新聞記者は出て行ってくれたまえ」。この佐藤の発言に記者団は反発し、「それじゃぁ、出よう」となって、がらんとなった会見室で、佐藤首相はテレビカメラに向かった。この時、「中国へ、中国へとなびく今の風潮は、賛成し難い」、「総理は孤独である」の発言が為されている。

 佐藤首相は、この後すぐさま後継首相として福田の担ぎ出しを保利と打ち合わせ、福・角調整に入った。この調整に成功すれば、佐藤の院政を敷く事が出来るという思惑もあったと推定できる。佐藤・福田・田中会談で、田中の出馬の意思が高いことを踏まえて、第一回目の投票により二位になった方が決選投票で一位に連合するという「一、二位連合」案が盟約された。

 機密文書。「佐藤の後継者選出がそれまでの自民党総裁選と違う理由は、それまでは主流対反主流派の戦いが一般的であったが、今回はほぼ絶対この中から総裁が決まると思われる三人は、全員主流派であり、それだけに後任選びの過程で主流派の結束に永久的な亀裂を生む可能性がある」と認識した上で、総裁候補の福田と特に精緻に田中を、更に大平についてコメントしている。概要「基本的には三人の中で誰が総裁になっても、いずれとでも上手くやっていけるだろう。日米関係の行方は、福田が一番良い影響を与えるであろう。大平が一番影が薄い。田中の態度が最も未知数だ。日本の政治家の中では、田中だけが海外との絆を発掘するどころか、海外との接点すら持つていない。彼の素養が最も不明である」。以降も特に田中についての驚くほど詳細なレポートが発信されていった。特徴は、「コンピューター付きブルドーザー」としての能力と政治手法を高く評価しており、そうした優秀さを危惧している節のあるレポートとなっていた。


 6.17日、アメリカ民主党全国委員会に盗聴器を仕掛けようとした5人が逮捕され、ワシントン・ポスト紙が国防総省の対北ベトナム秘密文書を暴露する(ウォーターゲート事件の発端)。


【熾烈極める自民党総裁選】

 この時の自民党派閥の内訳は次の通り。合計347議席(衆院287、参院60)のうち、田中派49(衆議院29.参議院20)名、大平派60(44.16)、中曽根派50(30.20)。


 6.26(25)日、沖縄県知事選で、革新共闘会議の屋良朝苗氏が当選。


 6.27日、ワシントン・ポスト紙が、米国防総省の対北ベトナム交渉秘密文書を暴露する。


 6.27日、北アイルランドの過激派とイギリス軍が停戦する。7.9日、北アイルランドで、過激派が停戦を破棄する。7.21日、北アイルランドのベルファストで連続爆発事件が起こり、150人以上が死傷する(血の金曜日事件)。7.31日、イギリス軍が北アイルランド全土を制圧する。過激派は徹底抗戦を宣言する。


 6.27日、南ベトナムが、チュー大統領の非常大権を抜き打ちで可決する。


 7.2日、埼玉県知事選で、革新統一の畑和が当選する。


【田中角栄が自民党総裁に選出される】

 7.5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催された。「三角大福」戦争(参院議長だった重宗雄三が、ポスト佐藤の座をにらんでしのぎを削っていた三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の4人を総称した造語)となり、総裁選の第一回投票結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票となった。この結果、上位二人の決選投票になり、田中は282票、福田190票と、圧倒的な大差で福田赳夫を破って第6代自民党総裁に選出された。「大角提携」により「どちらが勝っても助け合う」盟約が為されていた。この時倍々ゲームを地でいくような相当の札束が動いており、金権政治の伏線となる。

 7.6日、田中は臨時国会で首班に指名され、組閣に着手した。

 角栄が首相になった意義に戦後歴代首相の帝大卒(石橋湛山のみ私大早稲田卒)の不文律を打ち破ったことがある。史上最年少の首相の誕生でもあった。


【第一次田中内閣発足】 

 7.7日、第一次田中内閣発足。官房長官・二階堂進、幹事長・橋本登美三郎、副幹事長竹下。事実上の竹下幹事長であったと云われている。福田に入閣を求めたが、福田は拒否し、福田派からの入閣も断っている。これほどの確執が生じたということである。(福田が入閣するのは、5ヵ月後の第二次田中内閣で行政管理庁長官としてであった)


 7.10日、孫平化が率いる上海バレエ団が東京に到着し、各地で公演する。孫平化は田中角栄首相の訪日の段取りをつけるための来日。


 7.11日、アメリカの民主党大会で、マクバガンが大統領候補に指名される。


 7.13日、田中首相が労働代表と会談する。


 7.16日、外国人力士として初めて高見山が優勝。


 7.19日、パリでベトナム秘密会談が本格化する。 8.11日、アメリカの地上軍のベトナム撤退が終了する。8.15日、アメリカのキッシンジャー大統領補佐官が、パリで北ベトナム側と秘密会談を行う。


 7.22日、大平外相が孫平化中日友好協会副秘書長と会談する。中国は、田中首相を招請する。


 7.25日、忍者外交といわれたキッシンジャー米大統領補佐官の対中国政策が成功して、ニクソン大統領が訪中。米・中関係は急速に前進した。


 7.28日、中国当局者が、林彪副首席が毛首席暗殺計画に失敗して前年9月にモンゴルで死去したことを認める。田中首相と孫平化の会談が行われる。孫平化が正式に田中首相の招待を伝える。


 8月、中国銀行と東京銀行が、元・円の決済制度新設に関する合意書に調印。周恩来総理が日中文化交流協会代表団一行と会見。


 8.26日、第20回オリンピック、ミュンヘン大会が開幕する。 

 8.31日、ダイエーが売り上げで三越抜き小売業第1位となる。


【日米首脳会談(田中.ニクソン会談)】

 8.31日、ハワイのクイリマホテルで日米首脳会談(田中.ニクソン会談)。アメリカ側は、ニクソン、キッシンジャー、日本側は田中、牛場信彦駐米大使。その後、ロジャーズ国務長官、大平外相が加わっている。この席で、中国問題、特に日中交渉、国際収支問題、日米貿易不均衡問題等が包括的に話し合われている。このときロッキードの密約があったといわれている。

 この時、竹下副幹事長、金丸国会対策委員長、亀岡経理局長等20数人が同行している。その中の大物議員の一人が「ニクソンがロッキード、ロッキードと言うので困ったよ」とオフレコで語っている、と伝えられている。


 9.5日、アラブ・ゲリラ,ミュンヘン五輪村襲撃。ミュンヘン五輪でパレスチナゲリラ「黒い9月」がイスラエル選手団11名を殺害する。
 9.7日、スラエル軍がレバノンへ侵入する。9.8日、「黒い9月」によるミュンヘンオリンピック村の選手村事件の報復として、イスラエル軍がシリア、レバノンのパレスチナ・ゲリラ基地を空襲する。9.9日、シリアがイスラエルを爆撃する。9.16日、イスラエルがレバノンに侵攻する。レバノンは全土に非常事態宣言を発する。


 9.12日、田中派(七日会)正式発足。


 9.18日、田中内閣の支持率62%で吉田内閣を上回り戦後最高を記録。


 9.23日、フィリピンで戒厳令。フィリピン、マルコス大統領が独立後初の戒厳令を出す。野党のベニグノ・アキノ自由党幹事長を政府転覆罪の容疑で逮捕する。


【田中首相、大平外相が日中国交正常化交渉に中国に出向く】

 9.25日、田中首相と大平外相が中国へ。周恩来が出迎える。しかし、歓迎晩餐会の席上での田中首相の挨拶に「詫び」がないことで波瀾が起る(「多大のご迷惑をおかけした」という部分が不十分という内容)。9.26日、第2回日中首脳会談が紛糾する。前日の田中首相の挨拶の内容が謝罪となっていない、というもの。9.27日、日中の第3回の首脳会談が行われ、「戦争状態の終結」を「不正常な状態の終結」とすることで合意する。夜、田中首相は毛沢東主席と会談する。毛発言「喧嘩はすみましたか、喧嘩しなくては駄目ですよ」。「不正常な状態(戦争状態)の終了、中国が唯一の合法的政府であることを認める」など共同声明に、

 9.29日、田中角栄首相と周恩来首相が日・中戦争状態終結、人民大会堂で日中共同声明が調印され、日中の国交が回復する。日中国交正常化共同声明に調印。「日中国交回復」。日中国交回復に反発した若手タカ派が「青嵐会」を結成した。台湾との国交を破棄することとなる。


 9.27日、民青同盟が3年半ぶりに大会を開く。第12回全国大会。


 10.3日、米ソが戦略兵器制限条約(SALT I)の批准書を交換する。


 10.8日、キッシンジャー大統領補佐官とレ・ドク・ト北ベトナム顧問がパリで秘密会談を行う。北が9項目の和平案を提示する。


 10.9日、第4次防衛力整備計画が正式決定される。


 10.11日、チリで、アジェンデ大統領の経済政策に反対してストが多発し、非常事態宣言が出される。


 10月、周恩来総理、姫鵬飛外交部長が来訪の藤山愛一郎議員と会見。中日友好集会、北京で開催。中国側300人、日本側420人が参加。


 10.17日、韓国の朴正煕(パク・ジョンヒ)大統領が、全国に非常戒厳令を宣布すると同時に国会を解散し、全大学の休校措置を実施する。


 10.19日、ルバング島で、元日本兵の小野田寛郎の生存が確認される。同時に発見された小塚金七一等兵は銃撃戦で死亡する。


 10.19日、パリで、欧州共同体(EC)の首脳会議が開かれる。


 10.22日、ニクソン大統領が対北ベトナム和平案に同意する。10.23日、ニクソン大統領が北爆の一時停止を指示する。10.26日、北ベトナムが9項目の停戦協定の概要を公表する。


 10.22日、三菱重工長崎造船所に世界最大のドック完成。


 10.24日、ソ連を訪問している大平外相がコスイギン首相と会談する。


 10.25日、国連総会、「中国招請・国府追放」決議案可決。


 10.28日、中国からジャイアントパンダ2頭(ランランとカンカン)羽田に到着。


 11.7日、アメリカ大統領選挙で、ニクソンが再選される。


【早大で「川口リンチ殺害事件」が発生】

 11.9日、早大で革マル派による「川口リンチ殺害事件」が発生した。東京.本郷の東大構内付属病院前にパジャマ姿の川口氏が放置されていた。死体には全身アザだらけの殴打の跡があり、骨折した腕から白い骨がのぞいていた。早大文学部2年生川口大三郎(20才)、中核派シンパとみなした革マル派によるリンチ事件であることが判明した。

 早大の馬場素明委員長は11.11日の記者会見で、「今回の事件は革マル派の組織が引き起こしたもので行き過ぎであった。しかし、リンチそのものは特殊な政治力学の中では今後も有り得る」と居直った。革マル派は、事件に対し、「追及過程での意図せぬ事態、ショック症状による死亡---党派闘争の原則から実質的にはみ出す行為に走ったといわざるを得ない---一部の未熟な部分によって起こった事態---率直な自己批判を行う」と表明した。

 
11.23日付け朝日新聞に革マル派の最高幹部・土門肇氏の次のようなコメントが掲載されている。「我々の党派闘争は他党派の解体を目的とする闘いであって権力との闘いとは異なる。他党派の誤りを暴露するイデオロギーの闘いが基軸であるが、中核派は今日我々の殲滅を戦略目標に掲げている。こうした我々に対する暴力的敵対に対し我々の自己武装は不可避である。イデオロギー闘争を補助するために暴力行使は存在する。相手に自分の行為の犯罪性を自覚させ、反省させるための補助的方法である」(鈴木卓郎「共産党支配30年」)。


 11.13日、田中首相が衆議院解散。「日中解散」と云われる。


 11.13日、岡田嘉子が亡命先のソ連から34年ぶりに帰国する。


 11.20日、総選挙に臨んで、NHKの「わが党はかく戦う」の座談会番組で、公明党の竹入委員長が、共産党の宮本委員長に、「敵の出方論」の真意を質した際に、宮本は、「我が党の文献をよく読んでください。さようなことは一言も触れておりません」と言い放っている。おかしなことである。竹入委員長の二の矢が無かったことによりそれ以上突っ込まれなかったが、党文献から「敵の出方論」を探し出すことはさほど困難なことではない。宮本の二枚舌の例証である。


 11.19日、列島改造ブームで地下急騰と報じられる。


 11.21日、東京高裁が、メーデー事件控訴審で騒乱罪は成立しないとの判断を下す。


 11.21日、アメリカとソ連が第2次戦略兵器制限交渉(SALT II)を開始する。


 11.21日、韓国の朴正煕大統領の憲法改正案が国民投票で可決され、大統領指導体制が強化される。


 11.28日、リチャードソンが、レアード米国防長官の後任に就任する。


 11.29日、日航機が、モスクワ空港離陸直後に墜落し、61人が死亡する。


 12.7日、ソウル高裁が、在日韓国人留学生の徐勝のスパイ事件控訴審で無期懲役の判決を下す。


【第33回衆議院選挙】

 12.10日、第33回衆議院議員選挙(田中首相、橋本登美三郎幹事長)。(自民271名、社会118名、共産38名、公明29名、民社19名、諸派2名、無所属14名当選)。自民党は解散時297議席から271議席へと敗北。この議席数は、昭和31年に自民党が結党以来の最低議席数であった。もっとも、無所属の当選者16名が入党すれば287名になるので深刻というほどではない。それでも11議席減。民社党は19議席(←29)、公明党は29議席(←47)。

 共産党は38名(←14)当選、革新共同を入れると40議席になるという躍進で野党第2党になる。革新共同、沖縄人民党を加えると40名。得票数は550万。

 自民党の派閥で見ると、田中派は新人9名を迎えたものの48議席、福田派は56議席で、トップの座は福田派が座った。参院側が田中派39、福田派29で、衆参合わせると田中派が87、福田派85となり、田中派は辛うじて面目を保った。

 総裁と幹事長が同一派閥で構成されたのはこの時が最後になる。三木政権時から「総・幹分離」となり、2003年の小泉政権で小泉総裁・安倍幹事長となる。


 12.15日、平垣美代司氏が「現代の労働運動と日本共産党」を公刊。大阪を主とした労働運動の方針と指導を廻っての日本共産党のやり方を批判し、自己批判を求めた。これに対し、日共は、「労働運動を毒す悪書」、「デマ・中傷の反共本」、「意図は共産党躍進の妨害」ビラを大量個別配布し、名誉毀損・侮辱罪で告訴した。


 12.18日、ベトナム戦争、ニクソンが最も激しい北爆「クリスマス爆撃」を12日間行う。


 12.20日、9中総で、社会党を「中間政党」と批判。


 12.22日、第二次田中内閣発足。二階堂官房長官(留任)、橋本幹事長、鈴木総務会長、倉石忠雄(福田派)政調会長。三木副総理・環境庁長官、大平外相、中曽根通産相が留任。福田が行政管理庁長官、愛知揆一蔵相、江崎真澄自治相。(オイルショック→高度経済成破綻・田中→参議院に小選挙区制導入を示唆)


 12.23日、韓国で、朴大統領を新憲法による大統領に選出する。


 12.26日、トルーマン(Truman,Harry Shippe)没。88歳(誕生:1884/05/08)。アメリカの33代大統領。


 12月、6中総。党組織活動改善の一連の「手引き」を決めた。「6中総決定」と呼ばれる。不破書記局長は、「高度に発達した資本主義国でありながら、対米従属下にある日本の革命闘争で、日本共産党がレーニン型の党建設理論をプロレタリア.ヒューマニズムと英雄主義の立場から創造的に具体化した画期的なもの」であったと自画自賛。「金ある者は金を、力ある者は力を」式の改変。


 12.28日、厚生省人口動態調査まとめる。205万人出生、第2ベビーブームが本格化。


 12.27日、北朝鮮最高人民会議が社会主義憲法を採択する。12.28日、北朝鮮最高人民会議が、金日成を国家主席に選出する。


 12.28日、パレスチナ・ゲリラがバンコクのイスラエル大使館を襲撃し、イスラエル大使らを人質にして岡本公三らゲリラ36人の釈放を要求する。


 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」は次のように伝えている。「この10年近くに及ぶ集団的研究の成果は72年に結成されたマルクス主義労働者同盟(マル労同)の綱領となって結実した。そして、ここに日本の社会主義運動史上初めて真にマルクス主義的な革命理論と現実の科学的な分析の上に立脚した綱領を持つ労働者の革命的政治組織が誕生したのであった。

 マル労同は「左右の日和見主義反対!」のスローガンのもと(すなわち社共の右の日和見主義はもちろんのこと、急進派の左の日和見主義にも反対して)、工場・職場、地域において、また労働組合運動をはじめとする労働者の大衆運動のなかで、労働者階級の現実的な利益を守る闘いの先頭に立つとともに、機関紙誌を武器に宣伝、扇動、組織化の粘り強い闘いを展開していった。

 それとともにまた、結成2年後の74年、参議院選全国区に候補者に立てて闘ったのを皮切りに、その後も、77年参院選、80年衆参同日選挙に参加。資本と日和見主義者の政治と具体的に切り結ぶなかで、彼らを徹底的に暴露し、公然たる革命的社会主義的な呼びかけを貫徹していった。議会選挙を利用して労働者の階級的自覚と組織化を促す闘いもまたブルジョア民主主義国家の下で、それに適応した労働者党の革命的政治闘争の重要な一環であることはいうまでもあるまい」。





(私論.私見)