第32部 1971年以降の主なできごと.事件年表

 日教組委員長に槙枝元文氏が就任。以来4期12年間務めることになる。


 1.9日、「革新三目標」による統一戦線を提唱。「革新三目標」とは、@・日米軍事同盟の解消・中立、A・大資本中心の政治打破、国民の命と暮らしを守る、B・軍国主義の全面復活・強化に反対・議会の民主的運営と民主主義の確立。


 1.16日、社会党三役会議、野党再編問題に関する江田前書記長の発言について「大会方針に反するものなし」と結論。


 1.25日、赤軍派と京浜安保共闘(日共革命左派)が政治集会共催、共同闘争を宣言。

 1.31日、千葉本町公園で三里塚強制収容阻止・友納糾弾集会に2000名結集。


 2.17日、京浜安保共闘(日共革命左派)が、栃木県真岡市の銃砲店を襲い銃と銃弾を強奪した(猟銃10丁、空気銃1丁、散弾約2千発)。赤軍派もМ作戦を展開し7月にかけて8件の郵便局、銀行などへの資金奪取作戦を敢行した。


 2月、社青同東京地本分裂後5年後、向坂派が自派だけの社青同10回大会を開いた。太田派と反戦派の残存部分を完全にボイコットし、規約を無視して、一夜のうちに会場を東京から千葉に移動し、向坂派だけの大会を開催した。成田・石橋体制による社会党の中央は、この大会を認知し、以後向坂派社青同が唯一の党と支持関係をもつ青年政治同盟として認知された。これは同時に全国社青同の分裂の完了を意味した。

 これ以後、向坂派、太田派、解放派の社青同がそれぞれ自己の正統性を主張して組織を存続させていくことになる。反戦派は、次々と社青同を解散して、新しい組織形態や活動家グループにうつった。構革系は「主体と変革」派へと結集し、旧福岡地本は、ゆるやかな学習会的活動家グループに転じた。国際主義労働者委員会=ILCは、日本共産青年同盟へと転じた。

 向坂派は続いて、左派の統一指導部として名実ともに強力な位置を占めていた東京社研の本拠地、社会党東京都本部のヘゲモニー確保に向った。革労協排除、反戦バージを名目にして、社会党内の右派勢力、総評、東京地評の労働組合勢力をまきこんで、党の都本部大会を事実上占拠し、東京社研を分裂(向坂派支持の分派は、その後「六日会」となり、「三月会」結成の導火線となる)させて、その主導権を獲保した。向坂派は、労組内における社共の対立抗争を利用して、対日共との論争資料、理論学習活動として、まなぶ、労大を全面的に活用し、社会党、総評、主要単産の庇護のもとに急速に高成長をとげ、彼らの組織方針である「まなぶ−労大−社青同−向坂派協会−党」というシステムで、社会党内の約半数を占める勢力にのしあがった。

 以降、向坂派は党中党となり、会期3日間にして秘密主義で年1回定期大会を開く。彼らは、中央常任委員会、中央委員会、大会の機関をもち、その基本組織は、中央本部、支局(いくつかの県支部を統括する)、県支部、支部、班にわかれており、基本組織の機能を補強し、協会活動を強化するために、グループ組織がある。現在は四つのグループ組織があり、社会党を指導する政治グループ、労働組合を指導する労組グループ、社青同を指導する社青同(青年運動)グループ、婦人会議を指導する婦人グループ等である。この党派は、社会党を自らの思想と理論で純化したときには解散するということをテーゼの中で規定している。

 2月、戦略核兵器制限交渉開始。アメリカの緊張緩和政策(デタント)。


 2.22日、千葉県・公団、三里塚第一次強制代執行。

 3.25日、三里塚現地、機動隊4000名が全関東から動員され、地下壕に全面攻撃。


 2.23日、現代革新研究会準備会(社会党衆議院議員30名)発足。

 3.25日、バングラデシュ独立宣言。東西パキスタン内戦。


 3.31日、最高裁、青法協会員の裁判官再・新任拒否=司法の反動化。


 4月、統一地方選挙。党は倍増近い躍進。

 4.1日、大阪府知事選で、社共推薦の黒田了一氏が当選。美濃部知事再選。


 4月、大平が前尾から宏池会の会長を引き継ぎ池田派を継承。この時の経過が「前尾問題」としてしこりを残すことになった。


 4.7日、中国,米卓球チーム招待。


 4.11日、第七回統一地方選挙。


 4.27日、西村民社党委員長死去。


 4.28日、沖縄闘争。赤軍派・京浜安保・関西ブントが武装蜂起集会。東京の日比谷公園にて、「12.18ブント」と荒・戦旗派とが、大衆の面前で内ゲバを起し、「12.18ブント」が敗北した。以降、「12.18ブント」と荒・戦旗派の陰惨なテロの応酬が続いていくことになった。


 5.19日、沖縄ゼネスト。沖縄の祖国復帰協の呼びかけによって決行された。

 5.30日、沖縄返還協定調印阻止闘争。各地で集会、デモ。

 6.12日、参議院選挙が公示される。


 6.15日、全国全共闘・全国反戦が明治公園で沖縄返還協定調印阻止の集会。中核派と反帝が内ゲバ。これにより全国全共闘分裂。


 6.17日、沖縄返還協定調印(宇宙中継)。

 6.17日、沖縄返還協定阻止闘争。この時明治公園で鉄パイプ爆弾爆発。機動隊30名が重軽傷。732名が逮捕される。


 6.18−19日、琉球大学学生革マル派活動家町田宗秀氏死亡事件発生。革マル派によれば、民青同系による琉球大学男子寮襲撃により引き起こされたテロルであったとされている。

 6.23日、参院選挙が最終盤に入ったこの頃、宮顕・幹部会委員長が、プロレタリアート「独裁」表現を、「ディクタツーラ」に代えて使いたいと発表。6.25日、赤旗は、宮顕発言を次のように報じている。
 「(プロレタリアート独裁の)適切な訳語ないし用語法については、今後とも研究者間で更に検討されることが望ましいが、現在我々は、次のような一応の成案を持つ。まず、ラテン語の原語『ディクタツーラ』をそのまま使うひとであり、特に日本語に訳すならば『執権』、『執政』といった訳語がより適切である。また、原語にそのような注をつけて使うことも出来よう。更に、翻訳でなく我々自身が『プロレタリアートのディクタツーラ』の内容を表現する場合には『労働者階級の権力』、『労働者階級の政治支配』といった言葉を使うことも出来る」。

 6.27日、赤旗は、榊利夫の「訳語の問題の本質と無力な反共宣伝」を発表した。7.4日、赤旗は、蔵原惟人の「プロレタリア・ディクタツーラの訳語問題とそれに対する若干の反響について」を掲載した。

【参議院選挙】

 6.27日、第9回参議院選挙。(自民62名、社会39名、公明10名、民社6名、共産6名、無所属2名当選。社公民共闘の波及効果あがる)。自民党は63名の議席で改選前の64を下回った。その後無所属当選者の入党と繰上げ当選で改選議席を辛うじて上回ったものの、前々回(昭和40.7)の71、前回(昭和43.7)の69議席から見ると低落傾向に入ったことになった。この時、細川護(もり)が初当選している。

 角栄は幹事長采配の責任をとり辞することになった。連動して参議院の重宗議長も四選断念の呼び水となり、河野新議長が生まれることになった。


 共産党は、6名全員当選。得票数、全国区322万、地方区488万。非改選議員を加え10名となり、「院内交渉権」を持つことになった。

 7.3日、志田重男死去(59歳)。鈴木卓郎の「共産党取材30年には、「かって徳田全盛時代には武装闘争の総司令官であった志田も晩年は労務者となったりして細々と日陰暮らしを続け、『宮本では革命はできない。代々木は間違っている』と親しい友に語り残したまま、昭和46.7.3日、神戸市の病院で死亡、入院も火葬も偽名という哀れな最後だった。だが、志田は党を追われるころ警察から生活の援助を受け最後まで警察との関係は断たれていなかったというし、私は志田が警察の公舎で警察官の家族と一緒に記念撮影した写真を保存している。若い頃から共産党の闘士、火炎瓶で警察と闘い、そのウラで警察からカネを貰う−そういった人間を私は理解できない」とある。


【第三次佐藤改造内閣組閣される】

 7.5日、第三次佐藤内閣第二次改造。佐藤首相・福田・保利の3名で組閣人事が練られ、竹下登内閣官房長官、保利茂幹事長の布陣となった。田中通産大臣、福田外相。


【第一次ニクソンショック】
 7.9日、キッシンジャーが北京へ忍者外交。頭越し外交で日本に衝撃。
 7.15日、ニクソンが訪中し、中国首相・周恩来と会談すると報道された。これは寝耳に水の発表で、アメリカと歩調を合わせていけば良いとしてきた佐藤流「待ちの政治」に冷や水が浴びせられた形になった。事実は、日本に通知された時間は、米中同時発表の3分前であった。佐藤の面目が潰れ、事前通告制度の実態が浮き彫りにされた形になった。

 7.15日、赤軍派・日共革命左派が統一赤軍(後に連合赤軍)結成を宣言。連合赤軍は南アルプスでの軍事訓練、新党理論の形成に向かったが、その過程でリンチ殺害事件を起こしていくこととなった。


 7.30日、全日空機と自衛隊機が雫石上空で空中衝突し双方墜落した。


 8.3日、民社党第15回大会(春日一事委員長・佐々木良作書記長)


【第二次ニクソンショック】

 8.15日、ニクソンがドル防衛のため新経済政策発表。「ニクソン.ショック(ドルショック)」といわれる。金とドルの交換一時停止、10%の輸入課徴金の導入などが報道された。欧州は軒並み外国為替市場を閉鎖したが、東京外国為替市場は独り開け続けた為、ドル売りが殺到し、円高、ドル安となった。これによって、国際金融の「ブレトン・ウッズ」体制に終止符が打たれ、主要国通貨(外国為替)は、固定相場制からなし崩し的に変動相場制へと移行することになった。

 この政策の背景には、米国の大幅な財政赤字があった。1960年代のベトナム戦争での軍事出費が自家撞着し、米国の国際収支を悪化させていた。多額のドル紙幣の発行が金の準備量をはるかに超えることになり、金との交換が保証できなくなっていた。米ドルの信用失墜であるが、ニクソンの新経済政策により引き続き貿易赤字政策を取り続けることが出来ることになった。ドルの海外流出が加速し、ドルが世界中にあふれ、為替レートは急ピッチで円高を進行させていくことになった。

 「ブレトン・ウッズ」体制は、太陽の周りを惑星が整然と運行する太陽系に似ていて、各国通貨が、金と結びついた不動のドルと固定相場でリンクしていた。「ニクソン.ショック(ドルショック)」は、ドルをして金との交換基軸通貨とすることを止めることを声明した。これにより、変動相場制下に突入することになった。変動相場制下では、ドルを含む各国通貨が互いの位置を刻々変える。世界経済の「パラダイム」の大きな転換となった。なお、この通貨の価格伸縮が、投機やリスク・ヘッジ(回避)の取引需要を喚起し、「ニクソン.ショック」の翌年には、シカゴ商品取引所に通貨先物が上場されている。やがて国境を越えたマネー移動が始まり、物の貿易取引量を無視して独自の市場を創っていくことになり、今日に至っている。

 表向き関係ないことのように思われるが、この年米国の半導体ベンチャーのインテル(創業者ゴードン・ムーア)が、世界初の超小型演算処理装置(MPU)を開発している。これにより、コンピューターの頭脳が一個の半導体チップに収納されることになり、パソコン、インターネット、情報技術革命(IT革命)、「グローバリゼーション」に至る突破口を切り開くことになった。


 8.19日、宮顕委員長を団長とするソ連、ルーマニア、イタリア、北ベトナムの4カ国訪問団が出発。9月宮本、ルーマニア、イタリア、北ベトナム及びソ連の4カ国訪問。ルーマニアのブカレストで、チャウシェスク書記長との会談後、両党共同声明を発表し、自主独立路線を宣言した。注目される点は、「それぞれの党の国際的な第一義的責務は、どのような形態でも、他党の内部問題への干渉を許さないこと、他党の分派の存在と闘争を支持、育成しないことである」。


 8.21日、赤報隊、埼玉県の陸上自衛隊朝霞基地に侵入、自衛官を殺害、腕章などを盗む。菊井良治ら9名が実行犯として、後に滝田修こと竹本信弘.元京大助手が共犯として逮捕される。


 8.22日、水田蔵相を始めとする大蔵省幹部が三田公邸に極秘に集まり、東京為替市場を開け続けるべきか協議した。この時、柏木雄介顧問は、事態打開の為、フランスと米国に出向き情報収集に当っていた。8.28日、政府は、2週間近くでドル介入額は約40億ドルに達していた1ドル=360円の固定相場でのドル買いを放棄した。


【第8回日米貿易経済合同委員会開催される】

 9.9日、ワシントンで第8回日米貿易経済合同委員会が開かれた。日本側は、福田外務大臣、田中通産大臣、水田三喜男大蔵大臣が出席、アメリカ側は、ロジャーズ国務、コナリー財務、スタンズ商務の各長官が出席した。


 9.13日、中国・林彪,クーデター失敗。

 9.16日、成田空港建設第二次強制代執行、東峰十字路での反対派学生集団と機動隊の衝突で機動隊一個大隊殲滅される。この時、機動隊員3名が火炎瓶や角材による攻撃で死亡。逮捕者375名。

 9.25日、沖青委4名が皇居内に突入。

 10月、江田社会党前書記長、『月刊社会党』誌上で社公民共闘の強化、政権プログラムの必要性を強調し、党に「社公民共闘か全野党共闘か」の選択を迫る。


 10.15日、日米繊維、政府間協定覚書に仮調印。


 10月、革マル派美術学院院生水山敏美が、横浜国大で中核派に殺された。革マル派は「中核派絶滅」宣言を行い、これに応戦して中核派も「無条件且つ全面的に宣戦布告、カクマルに対する全面的殲滅戦争」を宣言。両派の全面的なテロ戦の展開となった。


 10.22日、参院本会議、沖縄返還協定承認。


【中国の国連復帰が可決される】

 10.25日、中国の国連復帰が可決され、中華民国(台湾)は逆に国連から脱退していくことになった。この時、日本の福田外相は、米日が共同提案国になり、「逆重要事項指定決議案」(中華民国(台湾)の国連追放には、3分の2以上の表決を必要とするというもの)と二重代表制決議案(北京と台北の両政権に国連議席を認めるというもの)を提出したが否決され、アルバニア決議案が(圧倒的多数?、4票差ともある)で可決された。これにより中華人民共和国の国連加盟が実現し、中華民国の代表は議場を去った。福田外相のロビー活動は裏目に出、、日中関係悪化を招くことになった。


 10.25日、沖青同3名が、衆議院本会議上で爆竹を鳴らす。

 11.10日、破防法違反容疑で松尾真中核派全学連委員長が逮捕されている。

 11.14日、沖縄闘争。中核派が渋谷大暴動。各地で集会、デモ。

 11.17日、沖縄返還協定は衆議院沖縄特別委で強行採決された。これに反発して、社会.共産両党と総評は国会請願デモ。

 11.19日、沖縄批准反対闘争。新左翼各派1万9000名が日比谷公園などに集まり、機動隊と衝突。この時公園内の松本楼炎上、中核派の犯行。この日の逮捕者は1886名の大量逮捕となった。

 11.20日、中核派の集会デモに対し、全面的な禁止措置が取られた。


 11.24日、衆院本会議で強行採決され、自然成立した。


 11.30−12.1日、ローマで、十カ国(G10)蔵相会議が開催され、水田三喜男蔵相が出席、行天豊雄(後に財務官)が同行した。米国のコナリー財務長官が議長を務め、ホール・ポルカー財務次官が米国代表として発言した。ドルに対する金価格の引き上げ問題が討議され、1トロイオンス35ドルだった金価格を38ドルとし、結果的にドルを金に対して7.89%切り下げた。円は、1ドル=360円から308円に、16.88%切り上げ、ドイツマルクも13%強切り上げ、ドルと主要国通貨の多角的調整を実施した。


【民青同系全学連に不穏な動き表れる】
 この頃、香月徹氏が民青同系全学連機関紙「祖国と学問のために」(1971.12.1日)紙上で、純化する党中央の議会主義に批判的なコメントを載せている。「院内でのどんな爆弾質問も、その破裂を引火して燃え上がるべき院外闘争の加熱化と相関することなしには佐藤内閣打倒のキメ手にはならない」、「国会というものは、それ自体として新しい政治、新しい歴史を生み出すことのない、いわば産婆役に他ならぬ。人民の闘争こそが、レーニンの云う人民大衆の自主的活動こそが歴史の母であり、云々」。

 12.3日、印パ全面戦争(12.17,停戦)


 12.4日、関西大の中核派幹部・辻敏明、正田三郎、三重県委員長・武藤一郎の三名が革マル派に襲撃され、死亡。中核派は、「12.4反革命」として報復決意を強めていった。

【「スミソニアン合意」】

 12.18日、日本から水田蔵相の一行が参加して10カ国蔵相会議が開かれスミソニアン合意(「スミソニアン体制」)で、円レートが一ドル360円から308円に切り上げられた(16.88%の切り上げ)。国際収支の黒字幅の拡大、外貨準備高の増大を背景としていた。


 12.24日、東京新宿三丁目の追分派出所でクリスマスツリーに見せかけた時限爆弾が爆発、警官.通行人ら7名が重軽傷。




(私論.私見)