1970年当時の主なできごと.事件年表 「70年安保闘争」とその周辺

 (最新見直し2007.3.11日)

 いよいよ70年を向かえて「70年安保闘争」の総決算の時を向かえたが、全 共闘運動は既にピークを過ぎていた。というよりは既に流産させられていた。 民青同と革マル派を除き、全共闘に結集した「反代々木系セクト」はかなりな 程度にずたずたにされており、実際の力学的な運動能力はこの時既に潰えて いた。機動隊の装備の充実とこの間の実地訓練によって治安能力が高まり一 層の壁として立ち現れるに至っていた。従って、国会突入まで見せた「60年 安保闘争」のような意味での「70年安保闘争」は存在せず、表面の動員数の み誇る平穏な儀式で終わった。「60年安保闘争」は「壮大なゼロ」と評された が、「70年安保闘争」は「そしてゲバルトだけが残った」と評されるのが相応し い。

 70年以前−以降の学生運動の特徴として、次のような情況が作り出されていったように思われる。一つは、いわゆる一般学生の政治的無関心の進行が認められる。学生活動家がキャンパス内に顔を利かしていた時代が終わり、ノ ンポリと言われる一般学生が主流となった。従来の一般学生は時に応じて政治的行動に転化する貯水池となっていたが、70年以降の一般学生はもはや政治に関心を示さないノンポリとなっていた。学生運動活動家が一部特定化させられ、この両者の交流が認められなくなった。その原因は色々考えられる が、「70年でもって政治の季節が基本的に終わった」のかもしれない。あるいはまた、それまでの左翼イデオロギーに替わってアメリカン民主主義イデオロギーが一定の成果を獲得し始めたのかもしれない。皮肉なことに、世界の資本主義体制は、「一触即発的全般的危機に陥っている」と言われ続けながら も、この頃より新たな隆盛局面を生みだしていくことになった。私は、この辺りについて左翼の理論が現実に追いついていないという感じを覚えている。

 一つは、そういう理論的切開をせぬままに相変わらずの主観的危機認識論に基づいて、一部特定化された学生運動活動家と武装蜂起−武装闘争型の武闘路線が結合しつつより過激化していくという流れが生み出されていくことになっ た。しかしこの方向は先鋭化すればするほど先細りする道のりであった。反代々木系最大党派に成長していた中核派は、69年頃からプレハノフを日和見主義と決めつけたレーニンの「血生臭いせん滅戦が必要だということを大衆に隠すのは自分自身も人民を欺くことだ」というフレーズを引用しつつ急進主義路線をひた走っていった。この延長上に69年の共産同赤軍派、70年の日共左派による京浜安保共闘の結成、ノンセクト・ラジカル過激派黒ヘル・アナーキスト系の登場も見られるようになった。一つは、革マル派を仕掛け人とする党派間ゲバルト−テロの発生である。この問題は余程重要であると考えているので、いずれ別立てで投稿しようと思う
 



 1.5日、「創価学会を斬る」(藤原弘達)への学会の出版妨害表面化。公明・共産党が出版妨害・言論の自由を巡って応酬開始。日共の公明党、創価学会の言論、出版妨害事件キャンペーン始まる。

 1.12日、社会党再建論議本格化(「基本路線の是非」が狙上に)。


【第3次佐藤内閣改造」】
 1.14日、第3次佐藤内閣発足。(最長不倒距離を記録した佐藤政権最終の内閣)この改造時点よりポスト佐藤の角福戦争が公然となった。川島.田中ラインと保利.福田ラインの確執。官房長官・保利、副長官・木村俊夫、田中幹事長の更迭策動があったが留任。橋本運輸大臣。橋本龍太郎は厚生政務次官に就任。

 1.16日東京で赤軍派が「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」の蜂起集会、800名。

 2月、自民党党大会が開かれ、総裁の任期期限を2年から3年に延長を決定。


 2.18日、社会党衆参議員45名が議員懇談会(後に再建懇談会)結成(山中吾郎座長)。
【創価学会の出版妨害事件の経過】

 2.27日、日共の不破が予算委員会での初質問で、佐藤栄作首相を相手に、創価学会の出版妨害事件にたいする政府・自民党の態度を追及した。2001.7.22日付け赤旗は、「その時、藤原氏ら多くの関係者に直接あい、創価学会・公明党の言論・出版妨害の事実経過を確かめたうえで、その全貌(ぜんぼう)を示しました」と記している。創価学会の出版妨害事件とは、196970年の言論・出版問題とは、評論家の藤原弘達氏が著作『創価学会を斬る』を日新報道という出版社から発行しようとした時、これを闇(やみ)に葬ろうとする創価学会・公明党の妨害にぶつかったことから、明るみに出た事件のことを云う。

 不破は、事実経過として次のように述べた。

 概要「藤原氏の著書『創価学会を斬る』出版の情報が伝わるや、公明党の竹入委員長が自民党の田中角栄幹事長に働きかけ、田中幹事長は、藤原氏に対し、出版を思いとどまるよう、また出版された場合にはその大部分を公明党に買い取らせるよう繰り返し申し入れた。藤原氏がそれを断って著書を出版すると、今度は、取次店に手をまわして取り扱いを断らせ、本が店頭に出ないようにした。創価学会関連の書籍は、他にも取り次ぎ拒否などの手段で事実上“闇に葬られた”本が数多くある。植村左内『これが創価学会だ』(しなの出版)、内藤国夫『公明党の素顔』(エール出版)、福島泰照『創価学会・公明党の解明』(展望社)などである。どの場合にも、公明党や創価学会との関係を理由に、取り次ぎを拒否されたものである云々」。

 不破は、次のように批判している。

 「言論の自由、出版の自由を保障されているこの日本で、公明党・創価学会を批判する言論は公表を許さず、買収、取り次ぎ拒否、政権党への依頼、おどかしなど、あらゆる手段を使って、未然に封殺する、これは、基本的な人権を否定する民主主義への正面からの挑戦でした。こういう事態が、国民の知らないあいだに、言論・出版界では奥深くまた広く進行し、いわゆる“鶴タブー”(公明党・創価学会への批判を“タブー”とすること)がすでに、簡単にはくつがえし難いかに見える強固な既成事実となっていたのです」

 2001.7.22日付け赤旗は、次のように記している。

 しかし、この事実が明るみに出ると、日本社会の各界・各分野は実に敏感に反応し、“言論の自由をまもれ、出版の自由をまもれ”の声が沸き起こりました。私たちは、十二月の総選挙のなかでも、この問題を重視し、国会でとりあげることを公約していましたが、一月に開かれた国会では、私たちだけでなく、社会党や民社党の議員からも、予算委員会で言論問題をとりあげる動きが出ました。

 マスコミでも、この問題は広く取り上げられました。いわゆる三大紙の社説の題をあげただけでも、次の通りです。「毎日」一月十八日「言論出版妨害事件について」。「朝日」二月三日「公明党は徹底的に体質を改めよ」。「読売」二月四日「公明党の抜本的体質改善を」。「毎日」二月五日「公明党の体質改善に望む」。「読売」二月二十六日「議員“脅迫”問題を究明せよ」。「朝日」三月十四日「出版妨害問題の究明を要求する」。「毎日」三月十六日「“言論・出版の自由”究明を」。「読売」三月十九日「出版妨害問題の真相究明を」。

 この問題について発言し、言論の自由を守る意思を明らかにした知識人・文化人は、数知れません。そして少なからぬ人びとが、一九六九年十二月に、「言論・出版の自由にかんする懇談会」をつくり、問題の解決に大きな力を発揮しました。

 この批判のなかで、公明党・創価学会の体質にかかわる問題として、「国立戒壇」の問題が大きな焦点として浮かび上がってきました。創価学会は、自分たちの信仰である日蓮正宗を国の宗教とすること(国教化)をめざしており、国会の議決により「国立戒壇」を建立することをもって、その手段だとしていました。公明政治連盟をつくり、さらにこれを公明党に発展させて、国会進出をはかったのも、大目標は「国立戒壇」の国会議決にあるとされてきました。公明党・創価学会が、他の宗教・宗派をすべて「邪宗」と呼んでその「撲滅」を公言してきたのも、おおもとでは、すべての日本国民を日蓮正宗の信者にするという「国教化」のこの目標と、結びついていたのです。

 国会の内外での批判にたいして、公明党・創価学会は、出版妨害は「デマ」だといった調子の無法な反撃に出、とくに日本共産党にたいしては非難中傷の攻撃を集中しました。しかし、民主主義をまもる国民的な世論と運動はいよいよ高まり、それに抗しきれなくなった創価学会は、ついに七〇年五月三日、池田会長が創価学会本部総会で「猛省」講演をおこない、国民世論の前で、事件への反省と今後の党および学会の体質改善の意思を表明するにいたりました。


 2.3日、閣議で、核防条約調印決定。


 2.7日、大阪で赤軍派が蜂起集会、1500名。

 3.5日、「三・一朝鮮万才革命五十一周年入管法阻止決起集会」。 

 3.14日、日本万国博覧会開会。大阪万国博(EXP0'70)開会式。大阪府吹田市千里丘陵で「人類の進歩と調和」をテーマに77カ国が参加した。米宇宙船アポロ11号が持ち帰った「月の石」などが人気を集めた。過去最高の6千421万人の入場者を記録した。


 3.14日、この頃カンボジアで内戦が起こ り、これに南ベトナム解放軍・北ベトナム軍が参戦したことからわが国のベトナ ム反戦闘争も混迷を深めることとなった。

 3.15日、赤軍派議長塩見孝也(28才.京大)が破防法、爆発物取締り罰則違反容疑で逮捕されている。


 3.18日、カンボジア,シアヌーク元首解任のクーデター。


 3.23日、江田社会党書記長、新ビジョン「改革を進めて革命へ」を党大会準備委員会に提出。


 3.31日、日米安保条約自動継続 の政府声明発表。


【赤軍派による「よど号ハイジャック事件」】

 3.31日、赤軍派9名による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャッ ク)発生。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。「フェニックス作戦」と名付けられたこの作戦は日本で初のハイジャック事件となった。メンバーは、田宮高麿(27才.大阪市大)、小西隆祐(25才.東大)、田中義三(21才.明大)、安部公博(22才.関西大)、吉田金太郎(20才.元工員)、岡本武(21才.京大)、若林盛亮(23歳.同志社大)、赤木志郎(22才.大阪市大)、柴田勝弘(16才.高校生)の9名で、羽田発福岡行きの日航機よど号をハイジャックして、北朝鮮行きを要求した。

 副操縦士だった江崎悌一氏の克明な記録によれば、午前7時35分頃乗客乗員138名を乗せた羽田発福岡行き「よど号」は富士山上空で乗っ取られ、田宮ら2名に北朝鮮.平壌行きを指令された。福岡空港で給油、この時乗員23名が解放された。爆発させると脅された石田機長は離陸を決断し、む乗っ取り犯に北朝鮮.平壌だと思わせて韓国.金浦空港に着陸した。金浦空港では北朝鮮らしさを偽装していたが、田宮らはこれを見破り、「乗客を解放するなら目的地に着ける様保証する」ことになり、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりに乗り込んだ。こうして午後7時20分平壌着となった。


 4.8日、革マル派が4.28統一デモに参加したいと申入れ。


 4.9日、カンボジア政府軍、べトナム系住民を虐殺。中国と北朝鮮両政府、「日本軍国主義と共同して闘う」との共同声明を発表。


 4.14日、民主社会党第13回大会(党名を「民社党」に正式決定)。


 4.15日、米国で反戦集会・デモ。数十万人参加。

 4.16日、ウィーンでSALT1始まる。


 4.19日、「南朝鮮革命十周年、全軍労闘争連帯、安保粉砕、沖縄闘争勝利、労学窓決起集会」。
【社会党第33回党大会】
 4.20日、社会党第33回党大会が開かれ、成田・石橋体制が確立された。「反戦青年委員会とは絶縁」等の執行部方針を不満とする反帝学評などの暴力行為のため機動隊導入、籠城大会となった。

  「国際革命文庫」「日本革命的共産主義同盟小史」は次のように記している。
 六九年十二月の総選挙での社会党の惨敗の結果、七〇年春に社会党本部専従者のクビキリ反対闘争がおこった。クビの対象者は反戦派の活動家であり、「根拠地」の主力メンバーでもあった。この「社文闘争」(社会党本部の建物「社会文化会館」の名からこうよばれた)は、社青同内分派闘争の協会派の勝利、急進的青年学生運動の全般的後退の中で敗北に終った。そして「根拠地」もこの同じ背景の中で七一年に停刊した。JR東京の加入活動もまた終了した。
 こうして加入活動は終った。加入活動は、わが同盟建設の巨大な礎石を築いた。
 それは、パブロやマンデルの予想した方向にほかならずしも進まなかったけれども、ダイナミックな、荒々しい大衆運動のなかでわれわれの基幹部をきたえたのである。同時にそれは、階級闘争の沈滞の時期を高揚の時代にむかって生きのび、階級の体温と政治的リズムに密着しながら、新しい爆発にそなえていく前衛党の役割、統一戦線戦術と反対派活動の経験を、否定的にも肯定的にも与えたのである。
 加入活動の基本的成果のうえに、七〇年代、わが独立の党建設のたたかいが、本格的に始まっていく。
 
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 次のようにも述べられている。
 彼らは、方針のうえでは「日本における社会主義への道」(以下「道」という)を向坂派テーゼ流に歪曲して「道」の擁護をさけび、中期路線、新中期路線、国民統一綱領に発展させた。彼らは成田委員長が提唱した成田三原則を最大限に利用し、自らは一九七〇年七月に「思想闘争の前進のために」をうちだして、向坂派の思想・組織・運動論を公然と展開し、本格的な党への介入を開始したのである。その突破口はなんといっても七一年二月の社青同第一〇回全国大会における反戦派、太田派の謀略的排除による社青同の向坂派独占体制の確立であり、それを成田・石橋執行部が公然と認知したことであった。


 七〇年安保闘争の終幕と一九六九年十二月の第三二回総選挙における敗北は、再建向坂派に自己の野望と前進をはかる絶好の条件を与えた。社会党は、総評と共に六〇年代後半の大衆闘争をささえてきた反戦青年委員会を誕生させ、その育成強化をとなえ、一時は全学連との同盟関係までうち出したのであるが、反戦青年委員会が新左翼諸党派の介入と一定の主導をゆるし、一部に左翼日和見主義が生まれるや、これを政治的に領導するのではなく、逆に敵前できりすてるという裏切りをあえて行ったのである。裏切りのなかでは、とうてい正しい総括は導きだすことはできない。“総括なき反戦闘争の終焉”というべきであろう。
 

 4.23日、日本政府はカンボジアの現状は内戦ではな く、北ベトナム軍の侵略に対する戦いであるとの公式見解を発表。米国政府、 カンボジアに武器を援助していたことを認める。


 4.28日沖縄デー。各地でデモ、10余万名参加。反代々木系1万6600名(うちべ平連など市民団体8000名)結集。集会の途中、革マル派の参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りる。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。


 4.30日、米軍、カンボジア侵攻。
【創価学会が政教分離宣言】

 5.3日、創価学会の池田大作会長が講演で「猛省」し、政教分離宣言。次のように述べている。

 概要「言論妨害というような陰険な意図はなかったが、これらの言動が全(すべ)て言論妨害と受け取られ、関係者の方々に圧力を感じさせ、世間にも迷惑をおかけしてしまったことについて、まことに申しわけなく、残念。今後は、二度と、同じ轍を踏んではならぬと、猛省したい。私は、私の良心として、いかなる理由やいいぶんがあったにせよ、関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直におわび申し上げるものであります。もしできうれば、いつの日か関係者の方におわびしたい気持ちであります」。

 概要「日蓮正宗と創価学会が国立戒壇を目標としてきたことは事実であるが、国立戒壇というと、国教化、一宗専制を目指し、他教を権力によって弾圧するかのような誤解をあたえるので、国立戒壇という表現は将来ともに使わないこと、国会の議決を目標にしないこと等々を約束する。創価学会と公明党の関係は、政教分離とする。今後、たとえ票が減ろうと、議員数が減ろうと、それは近代政党として当然の道であり、今後は、イ、創価学会と公明党の関係は、制度の上で明確に分離していくという原則を貫く。ロ、創価学会は公明党の支持団体であるが、学会員個人個人の政党支持は自由とし、政党支持について、会員の自由意思には、全く干渉するものではない。ハ、選挙は、公明党の党組織を思い切って確立し、選挙活動はあくまで党組織の仕事として、明確に立て分けて行う、創価学会は支持団体として地域ごとの応援」をしてゆく」。

 (このあと開かれた公明党大会では、公明党の“独立性”と“政教分離”のあかしとして、宗教の政治支配を意味する「王仏冥合〈おうぶつみょうごう〉」の文言を削除する綱領改定など、一連の軌道修正をおこなった)。」

 概要「共産党との関係について、これまでの敵対関係は不当な攻撃にたいする防衛的な反撃だった。が、今後の問題としては、かたくなな反共主義はとらない。私としては、こうした泥仕合はできるかぎり避けたいというのが本意であります。我々は、かたくなな反共主義を掲げるものではない。また、そうあってはならない。創価学会は、宗教の次元に立つものであります。ゆえに、政党と同じ次元で争うものではありません」。
 しかし、参院選のさなか、2001.7.10日付け「聖教新聞」は次のように記している。池田大作氏が、“法悟空”の名による「随筆 新・人間革命」と題した連載の、創価学会愛知県組織の歴史をたたえたこの日の連載「戦う愛知の誉(ほま)れ」のなかで、一九六九〜七〇年の言論・出版妨害問題をとりあげた次のように述べている。

 「昭和四十五年の“言論問題”の前後より、学会は、数人の代議士からも罵倒され、ある時は、テレビを使い、雑誌を使い、演説会を使い、非難中傷された。あらゆる会合で、火をつけるように、悪口罵詈(あっくめり)を煽り立てられた。なんという悪逆(あくぎゃく)か! なんという狂気じみた悪口か! 私自身も、愛知県の代議士から、国会喚問(かんもん)の要求を初めてされた。『信教の自由』を侵害する狂暴な嵐であった。理不尽(りふじん)な罵倒(ばとう)の連続であった。

 ともあれ、中部の同志は、血の涙を拭(ぬぐ)いながら、断固として仏敵(ぶってき)と戦う決意を、炎と燃やした。卑劣な強敵(ごうてき)と、真っ向から勇敢に戦った。全会員が、極悪(ごくあく)の非難に対して、怒鳴(どな)り返し、堂々と反転攻撃の闘争を、連日、続け始めた。人びとの幸福と平和を願い、基本的人権をもつ市民として、正義の信仰を流布(るふ)して、何が悪いのか! 信教の自由ではないか!社会の改革に奔走(ほんそう)して、いったい、何が悪いのか! 憲法に保障された、最も正しい人権闘争ではないか!

 勇気凛々(りんりん)たる中部の同志のスクラムは、敢然として、真っ向から、敵に火を吐く思いで戦い抜いた。何人かの臆病者は、逃げた。敵についた者もいる。しかし、今の大野和郎副会長を中心に、すべての真の同志は、未曾有(みぞう)の弾圧の嵐を堪(た)え忍んで、遂に赫々(かっかく)たる太陽の昇るが如き、勝利の中部の堅塁(けんるい)を護り、盤石(ばんじゃく)にしていった」

 2001.7.22日付け赤旗は、不破の次のような批判を記事にしている。

池田氏が、自分が統率する組織のどの地方をどう評価しようと、それは、私たちのかかわるべき問題ではありません。しかし、見過ごすわけにゆかないのは、池田氏が、この文章のなかで、一九六九〜七〇年の言論・出版妨害問題を、「仏」の側にたつ者(創価学会)の「仏敵」にたいする闘争、「悪逆」「狂気じみた悪口」、「理不尽な罵倒」、そして「未曾有の弾圧」に立ち向かって「正義の信仰」と「信教の自由」をまもりぬいた闘争として描きだしていることです。

 私自身、ここで問題の火付け役として名指しされている「数人の代議士」の一人として、今回の池田発言について、それが歴史をいかに偽っているか、またこの歴史のつくりかえが、日本の社会と政治のうえでいかに重大な意味をもっているかを、述べたいと思います。

 池田大作氏は、今回の“法悟空”名の文章のなかで、この事件にたいして、歴史をも自分自身の反省の言葉をもくつがえす、正反対の評価を宣言し、そこに自分の本音があったということを、あらためて告白したのです。

 それは、

 ――言論問題とは、「仏」を守るものの「仏敵」にたいする闘争だった、

 ――言論・出版問題で公明党・創価学会に批判をくわえたものは、悪逆な「仏敵」、「卑劣な強敵」だった、

 ――創価学会が取り組んだのは、「信教の自由」をまもる戦いであり、「憲法に保障された、最も正しい人権闘争」だった、

 というものです。これによれば、言論の自由をまもる立場から、国会でこの問題を取り上げた「数人の代議士」も、社説や放送でその体質に批判をくわえたマスコミも、良識と勇気をもって発言した知識人・文化人も、すべて「仏敵」だということになります。

 それなら、私たちは、池田大作氏に問わざるをえません。

 三十一年前に池田氏がおこなった「猛省」の言葉の数々は、世をあざむくための虚言(うそ)だったのか、と。

 そして、この告白が創価学会と公明党の本音だとすれば、この集団は、本音をおしかくした巨大な虚言によって、三十一年にわたって日本の国民と世論をもてあそんできた、ということになります。いったい、この集団は、日本の社会と国民そのものを、何と考えているのか、そのことがあらためて問われるではありませんか。

 以前、池田大作氏の側近であり、言論問題と「猛省」講演の時期にも、身近にいた原島嵩氏(一九七〇年・教学部長、『大白蓮華』編集兼発行人、副青年部長、一九八〇年に除名された)が、池田氏と当時かわした会話を、その著書のなかで、次のように記録していますが、私は今回の文章を読んで、原島氏の話がまさに池田氏のありのままの姿の記録であったであろうことを、あらためて痛感しました。

 「言論問題の責任をとって、池田先生が『関係者の方々にお詫びに行きたい』などというのも、やはり建て前であったことはその後の歴史が明確に物語っています。事実、その当時、逆に、私にすごい形相で『タカシ!(私の名前) いいか! 必ず仇をうて、いつか、この本は何だ!と本人の前にたたきつけるのだ』と、それは恐ろしいけんまくで言うのでした。私は、『ハイ! 必ず先生の仇をうちます!』と返事をし、必ず先生を苦しめた人間たちを先生の前にひれふさせてみせるという誓いを心に決めたのです。

 しかし、結局のところあの五月三日の発言は、一時撤退、ないしは迂回作戦にすぎなかったのです。報道関係者、文化人を多数呼び、公の席上発表したことも平気でホゴにしてしまうことが、はたして仏法の上でも、社会の上でも許されることなのでしょうか」(原島嵩『池田大作先生への手紙――私の自己批判をこめて』一九八〇年)

何をやっても自分は「仏」、批判者は「仏敵」 この究極の独善主義に未来はない

 池田大作氏の告白の重大性は、それだけにとどまるものではありません。この告白によると、あの会長講演のなかで、池田氏が国民の前でおこなった公約も、すべて心にもないことだった、ということになります。実際、“選挙は公明党を中心に”という公約も、“かたくなな反共主義は掲げない”という公約もすでに完全に投げすてられて、実際の活動の上ではそのかけらも残っていません。

 会長講演では、創価学会は「宗教の次元」に立つものだから、「政党と同じ次元で争うべきではありません」とされましたが、いまでは、「聖教新聞」が「公明新聞」以上の反共デマ宣伝製造元になっている事実が示すように、創価学会主導の反共作戦が全国で展開されています。夜陰に身をかくしての卑劣な謀略ビラの配布でも、創価学会の会員たちがこの暗闇部隊の主力となっていることは、かくれもない事実です。

 なかでも、私がとりわけ重要だと思うことは、“自分たちは、どんな無法なことをやってもいつも「仏」、それを批判するものはすべて「仏敵」だ”という究極の独善主義――以前、「邪宗撲滅」を前面に押し出していた時期にむきだしの形で現れ、社会的な批判の的となった独善主義が、この文章のなかに、まるごと復活していることです。自分たちへの批判をおさえこもうとした言論・出版妨害の行為の是非を、社会的道義の立場から吟味しようという理性は、ここにはまったくありません。創価学会・公明党がやった行為が何であれ、それに批判をくわえるものは、撲滅すべき「仏敵」であり、この「仏敵」にたいする戦いでは、どんな手段も許されるのです。

 この数年来、選挙戦における公明党・創価学会の活動が、極端な反共主義の点でも、活動の謀略性の点でも、きわめて異常なものとなっていることが、各方面から注目されてきました。それが、社会的道義にも市民道徳・政治道徳にも背をむけた「仏敵」撲滅論に裏うちされたものだったとなると、全国各地で現れている多くの異常な事態の背景がよく分かります。

 池田氏は、参院選を前にして、なぜ、いま、「仏敵」撲滅論をあらためて宣言してみせたのか。

 池田氏が、今回の“法悟空”名の文章で、三十一年前の自身の「猛省」講演を正面から否定し、その独善主義をあからさまに宣言してみせた背景には、公明党の政権参加によって「ついに権力についた」者のおごりが浮かび上がってみえます。この文章の大見出しに、「広布の堅塁 卑劣な権力に勝てり!」と、ことさらに「権力」の問題をひけらかしているところにも、その思いはおのずからあらわれているようです。

 しかし、自分たちを批判するものにすべて「仏敵」のレッテルを張り、手段を選ばずその「撲滅」をはかるという組織は、現代の民主主義のもとでは、政治の世界でも、宗教の世界でも、存在の資格を疑われても仕方のないものです。この究極の独善主義には、未来はありません。とりわけ、このような集団が、政権に参加していることの是非は、宗教政党の政権参加が憲法上許されるかどうかという一般的な角度の問題ではなく、この異常で特殊な集団の政権参加の是非の問題として、社会的な批判と吟味にさらされる時期が必ずやってくるでしょう。

 最後に、“法悟空”の文章が、創価学会・公明党およびこれと連合するものの陣営に、新しい矛盾を激発する深刻なページを開いたことを指摘しておきたい、と思います。


 5.5日、カンボジア王国民族連合政府樹立。


 5.7日、鈴木茂三郎死去。


 5〜6月、公害問題クローズアップ。


 5.8日、全共闘、反戦青年委などカンボジア侵略抗議集会。2500名結集、デモ。べ平連など市民団体は不参加。


 5.10日、ぷりんす号・シージャック事件。


 5.29日、カンボジア侵略抗議で全共闘、反戦青年委、1万7000名がデモ。

 6月、「反安保毎日デモ」が展開される。

 6.14日、社共総評系のデモ、集会、全国で236ヵ所。「インドシナ反戦と反安保の6.14大共同行動労学市民総決起集会」。革マル派を含む新左翼党派と市民団体の初の共同行動、7万2000名参加。全国全共闘・全国反戦・ベ平連など約1700名逮捕。

 「よど号」ハイジャックを期に、過激派のテロ活動は激しさを増していったが、反安保の大衆運動は6.23の日米安保条約自動延長を境に次第に沈静化していく。6月14日−23日 反安保6月闘争。学生、青年層の支持を失った過激派集団は追い詰められ、いっそう過激さを増していった。


 6.15日、西村民社党委員長、「72年までに社公民三党を統一した民主的革新政党で政権を」と提唱。


 6.17日、この日全国で「6.17闘争」が繰り広げられた。東京では中核派.第四インターを中心とした約1万名が明治公園で、反帝学評、フロント、ML派など反中核派系約1万名が宮下公園で集会を開いた。

 集会後明治公園原宿付近で鉄パイプ爆弾が投げつけられ隊員37名が負傷した。赤軍派の仕業だった。集会後各派が街頭闘争に移り機動隊との熾烈な攻防戦が展開された。


 6.22日、米国務省、日米安保条約の継続維持確認の声明。


【日米安全保障条約、自動延長】

 6.23日、日米安全保障条約、自動延長となる。60年安保闘争に比べて妙に穏和なスケジュール闘争に化していた。全国で反安保デモ、77万4000名参加。東京では147件で史上最高のデモ届数。新左翼系2万名結集、逮捕者10名。反安保毎日デモは30日まで延長をきめる。

 この時ML同盟は「国立劇場前爆弾事件」をひき起こして幹部活動家が大量に検挙され、その総括をめぐって紛糾 し、組織は壊滅状態に陥った。6月のブント第七回拡大中央委員会を契機に内紛発生。軍事闘争を強調する左派グループに反対し、大衆運動の強化を主張する右派グループの「情況派」.「叛旗派」が分裂した。


 6.25日、公明党第8回大会(言論・出版問題、政教分離を論議)。


【第11回党大会開催】

○期日.会場.代議員数について

 7.1日、共産党第11回党大会(初公開)。代議員948名、発言者78名。

○大会の眼目

 大会の眼目は、「70年代の展望と日本共産党の任務」を大会決議することにあった。それにより「人民的議会主義」路線打ち出し、 「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」を展望させた。宮本書記長が中央委員会報告を行い、共産党を「民族の党、国民の党」と規定しつつ、次のように語った。「労働者階級の前衛党とは、ただ労働者階級の運命だけに関心を持つのではなくて、当然、日本人民と日本民族の未来に対して明確な展望を持ち、また責任を負う党であります。‐‐‐決議案の『労働者階級の前衛党』であると同時に民族と国民の未来を担い、民族独立などの真の民族的、国民的利益を守りうる政党−真に民族と国民の党であるという明確な規定は、民族の独立と人民の民主主義を確立し、さらに労働者階級と、全ての勤労人民を解放して、新しい日本をつくる我が党の歴史的使命を表現したものであります」、「民主連合政府の樹立を、1970年代のできるだけ遅くない時期に達成しようということは、容易ではありませんが、決して不可能な課題ではありません」。

○採択決議について

 「社会科学研究所を設立して、科学的社会主義の諸問題について翻訳上の用語の適否を含めて深い理論的研究を自主的、創造的に発展させる」ことを決定した。その第一弾に「プロレタリア独裁」の訳語が挙げられた。執権へと書き改められる方向にリードされていくことになった。

○党規約改正について  

 党規約を改正し、組織方針上の大きな改変が行われた。@・中央委員会議長と幹部会責任者の分離、A・幹部会委員長の創設、B・常任幹部会の常設化、C・書記局及び機関紙編集委員の中央委員会選出から幹部会任命制などが為され、「中央委員会及び書記局体制から幹部会へのシフト、幹部会を中心とした一元化体制の確立」が為された。これにより、百数十名の中央委員会は、数名からなる幹部会の翼賛機関化していくことになった。その他、基礎組織の旧来の「細胞」名称を改め、「支部.班」とした。


私論.私観)この時の組織改正について

 一言でいって、反動的な党中央集中制化が行われたということになろう。


 綱領との絡みについて宮顕は次のように述べている。「綱領がどうのこうの云うけど、綱領を報告したのは私ですから、私が一番正確な解釈をする責任がある」(昭和48.2.18日付け「サンデー毎日」)。つまり、宮顕の綱領解釈に他の党員は追随すればよいと豪語している。

○新執行部について  

 中央委員は、前回の67名から88名、同候補は42名から49名、中央統制監査委員は9名から7名を選出した。

 この大会で役員構成に関する党規約が大幅に改正された。議長・委員長・書記局長の三本立て体制が敷かれることになった。議長は名目的となり、実権が幹部会委員長に移された。書記局員は、幹部会の任命人事となった。

 7.7日、中央委員会幹部会委員長に宮本顕治、書記長に不破哲三就任。新しい中央委員会は、議長に野坂.幹部会委員長にそれまで書記長だった宮本自ら就任。副委員長に袴田、岡が選ばれた。初代書記局長には、当時40才の不破が大抜擢された。書記局次長には、市川正一、金子満広が選ばれた。常任幹部会員に宮本.袴田.岡.不破.蔵原.松島.西沢の11名、幹部会委員に31名、前記に加えて井田誠、市川正一、岩林虎之助.茨木良和、上田耕一郎、内野竹千代.戎谷春松、、大淵生気、岡本博之、春日正一、金子満広、河田賢治、下司順吉、紺野与次郎、.砂田一良、高原晋一、竹内七郎、多田留治、浜武司、藤原隆三、村上弘、安井真造、吉田資治、米原の31名。

 この大会で、訴願委員会が設けられた。初代責任者には蔵原惟人が就任した。

 幹部会委員長宮顕。 不破が書記局員候補から二階級特進で一躍書記局長、常任幹部会委員。党のbSとなった。野坂、宮本、岡、不破と席次発表され、大抜擢となった。上田は政策委員長、赤旗編集局長。


【宮顕−不破体制の確立】

 宮顕子飼いグループによる党乗っ取り。袴田の役目は、「毛沢東盲従分子を切ることで終わり」、以後不要扱いされていくことになる。


(私論.私観)


【70年当時の党の方針の特質と要点】

○〈本党大会までの執行部評価〉について  

@〈世界情勢に対する認識〉について   

A〈国内情勢に対する認識〉について  

 この時の大会決議は、「対米従属規定」の正しさを次のように確認している。概要「我が党は、複雑な諸要因の組み合わせによる帝国主義的『自立』の可能性をも指摘してきたが、今日における日本軍国主義、帝国主義の復活の過程の最大の特徴は、それが単純に自立の傾向に向かうのではなく、引き続きサンフランシスコ体制−『アメリカに対する日本の従属的な同盟、戦争準備と日本民族抑圧のと収奪維持の体制』(綱領)−の枠内で、この体制を、アメリカ帝国主義のアジア侵略の要請および日米間の力関係の相対的な変化に応じて再編しつつ、進行している点にある。日本独占資本自身、一面で競争者としての矛盾、対立、相対的独自性を強めながら、大局的には、対米従属・依存の関係を維持、利用しようとしている」。宮本書記長の報告と結語でも次のように述べられている。概要「日本は独占資本主義という点においては当然帝国主義段階の国であるということは、既に我々が、綱領討議以来、明確にしている点であります。また第10回大会の決定においても、その意味においては従属的な帝国主義という言い方も現象面だけをとらえれば不可能ではないが、綱領の規定こそ正しいものだと重ねて指摘しております。第8回党大会の綱領報告においても、帝国主義復活完了の指標として、従属を主要な側面とした独占資本主義国から、政治的にまた基本的に自立した独占資本主義国、すなわち自立した帝国主義の側面を主とする国への転化を完了したかどうかを基準とすべきであるということを指摘してきたのであります」。

 「この見地からみるならば、まず第一に軍事的従属は明白であります。外交的従属については、もう我々がここで繰り返すまでもありません。経済的には、日本の最近のいわゆる国民総生産の発展は、世界の注目を浴びているということは周知の問題であります。日本は資本輸出も強まっていますが、借款や直接投資など資本輸出の重要な形態で見れば、なお資本輸入の方が優勢です。特に、資本自由化によってアメリカの直接投資は急速に増える傾向にあります。繊維問題など日米間の対立も部分的に激化していますが、基本的な経済的従属関係は依然として明白です」。

 「以上の諸点から見て、日本が帝国主義的な膨張の道を進んでいる。しかしそれは経済的には世界の有数な、独占資本主義国の中で目覚しい役割をしているということは明白でありますけれども、全体として、『現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である。我が国は、高度な発達した資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国になつている』という綱領の規定は全く正しいのものです。日本が帝国主義自立を完了したという見地は事実にそぐわず、科学的批判にも実践の検証にもたえないことも明白であります」。

 「『帝国主義自立論』というのは、二つの面で非常に分かりやすい誤りをおかしている。一つは、アメリカ帝国主義の侵略性の過小評価です。もう一つは、日本独占資本に対する幻想です。アメリカ帝国主義の侵略性の過小評価と結びついた日本独占資本に対する過小評価−既に日本独占資本は国の独立を達成したんだと云う見方です」。

B〈党の革命戦略〉について

 「社会主義日本においても、共産党の一党制度は取らず」と強調された。

C〈党の革命戦術〉について

D〈党の具体的な運動方向〉について  

 @・安保条約廃棄と沖縄全面返還、A・日本の平和・中立化、B・憲法改悪反対と民主政治の確立、C・国民生活の擁護と自主的経済政策の実行、D・教育と文化の民主的発展、を民主連合政府の内外政策の5つの柱として掲げた。

E〈党の大衆闘争指導理論〉について  

F〈党の機関運営〉について  

G〈左翼陣営内における本流意識〉について  

H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について  
 
I〈大会後の動き〉


 7.7日、ろ溝橋事件33周年・日帝のアジア侵略阻止人 民集会。席上、華青闘が新左翼批判。4000名(うちべ平連550名)結集。


【七・七集会における華青闘代表の発言】
 7.7日、東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘主催の盧溝橋33周年集会、華青闘(華僑青年闘争委員会)が新左翼批判。在日中国人・朝鮮人青年達が全共闘の集会の趣旨の69年入管体制粉砕闘争と65年日韓闘争を、日本階級闘争のなかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったとして大批判。ついでに日共六全協も。しかし、当時の反対の柱はあくまで「日本は戦争に巻き込まれるな」だった。
     http://konansoft.com/zenrin/html/huajingtou77.htm  http://www.chunichi.co.jp/anpo/
    一人の男が壇上から八千人の学生らに叫んだ。通名・猪八戒。
    「われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。
    われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか。
    実践がないかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。
    われわれはさらに自らの立場で闘いぬくだろう。このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。」
 猛獣文士氏により「七・七集会における華青闘代表の発言」がサイトアップされており、これを転載しておく。 
 1970年の七・七集会における華僑青年闘争委員会の演説の内容を正確に保存している文書が存在するのか、私は知りません。出版された華僑青年闘争委員会の機関紙などは、今となっては非常に入手が困難になっており、またそのような文書に、この発言が掲載されているとも思えません。演説を行った人物が演説の草稿を保持している可能性はありますが、このときの演説はむしろ草稿なしで語られたか、あるいは草稿があってもその草稿には縛られずに語られたものであるとも思われます。

 この発言を真剣に受けとめた新左翼側の最大党派だった(今も最大党派ではないかと思いますが)中核派の機関紙「前進」1970年7月13日号に、前進編集局の文責として、メモから再生された発言内容が掲載されています。30年以上がすぎた現在、この記事は非常に貴重な資料であると思います。物事の記録というのがどんなに難しいものであるかをしみじみと感じます。

 前進紙に掲載されていたこの記事は、現代古文書研究会の革共同中核派のページに公開されていましたが、本年(2001年)1月に、現代古文書研究会のウェブページが一時的に閉鎖されたあと、アクセスすることができなくなりました。華僑青年闘争委員会の発言として、このホームページから現代古文書研究会の該当ページに貼っていたリンクも途切れてしまい、復活の見通しも明らかでないので、本ホームページで独自にWeb文書化しました。

 入管法粉砕闘争を担った華僑青年闘争委員会は、善隣学生会館における闘いを担った後楽寮自治会の周りに集まった在日中国人青年達と、人的にも思想的にも多分に重なるところがあり、ある意味でこの発言の内容は、在日中国人という立場から、プロレタリア国際主義という理念を追求する運動を探求する過程での認識の到達点であるといえるかも知れません。もちろん、この到達点も、視点を変えれば一つの経過点であることは、言うまでもありません。

2001年2月18日 猛獣文士
七・七集会における華青闘代表の発言

 七・七人民大集会において華僑青年闘争委員会の代表が行った発言の要旨を次に掲載する。これはメモから再生したものなので不正確であることを免れないが、文責はすべて編集局にある。

 本日の集会に参加された抑圧民族としての日本の諸君!

 本日芦溝橋三十三周年にあたって、在日朝鮮人・中国人の闘いが日本の階級闘争を告発しているということを確認しなければならない。芦溝橋三十三周年の問題と、在日朝鮮人・中国人の問題とは密接不可分であり、日本人民はそれを知るべきである。諸君は日帝のもとで抑圧民族として告発されていることを自覚しなければならない。

 今日まで植民地戦争に関しては帝国主義の経済的膨張の問題としてのみ分析されがちであったが、しかし日本の侵略戦争を許したものは抑圧民族の排外イデオロギーそのものであった。

 今日、日・朝・中人民が分離されたかたちでマルクス主義が語られており、日本国家権力と日本人民、日本国家権力と中国人民、日本国家権力と朝鮮人民という形での分離が存在し、そういう形で植民地体制が築かれてきたが、それは分離したものではない。日本人民は三者の中でどうするのか。抑圧民族という自己の立場を自覚しそこから脱出しようとするのかそれとも無自覚のまま進むのか。立場は二つの分かれている。

 なぜわれわれは、本日の集会に向けての七・七実行委を退場しなければならなかったのか。闘う部分といわれた日本の新左翼の中にも、明確に排外主義に抗するというイデオロギーが構築されていない。日帝が敗北したとき、ポツダム宣言を天皇制が受けたかたちになり、日本人民がそれを避けられなかったところに、日本人民の排外主義への抵抗思想が築かれなかった原因がある。

 七・七集会を日本の新左翼が担うことは評価するが、それをもって入管体制粉砕闘争を怠ってきたことを免罪することはできない。七月三日の実行委員会に集中的にあらわれたように、七・七集会を全国反戦・全国全共闘の共催に使用とする八派のすべてが、入管闘争の一貫した取りくみを放棄しており六九年入管闘争を党派として総括することができなかった。また各派は、なぜ六五年日韓闘争において、法的地位協定の問題を直視しなかったのか。六九年入管闘争を闘っていたときも入管法を廃棄すればプロレタリア国際主義は実現することになるといった誤った評価が渦巻いていた。しかもそれは大学立法闘争にすりかえられ、十一月闘争の中で霧散し消滅し、今年一月、華青闘の呼びかけによってようやく再編されていったのだ。

 このように、勝手気ままに連帯を言っても、われわれは信用できない。日本階級闘争のなかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったのだ。日韓闘争の敗北のなかに根底的なものがあった。日本階級闘争を担っているという部分にあっても裏切りがあった。日共六全協にあらわれた悪しき政治的利用主義の体質を、われわれは六九年入管闘争のなかに見てしまったのである。今日の日共が排外主義に陥ってしまったのは必然である。

 われわれは、このかん三・五の「三・一朝鮮万才革命五十一周年入管法阻止決起集会」と四・一九の「南朝鮮革命十周年、全軍労闘争連帯、安保粉砕、沖縄闘争勝利、労学窓決起集会」で声明を出し、その内容を諸君らが受けとめ自らの課題として闘っていくことを要求した。四・一九革命に無知でありながら国際闘争を語るようなことでどうするのだ。

 われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか>
実践がないかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。

 われわれはさらに自らの立場で闘いぬくだろう。このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。

(中核派機関紙「前進」1970年7月13日3面)

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 7.16日、米ソ戦略兵器削減交渉(SALT)の第一回会談がウィーンで開始。


 7.17日、家永教科書裁判、東京地裁で勝訴。

 7.23日、新潟地裁で反戦自衛 官小西三曹の裁判第1回公判はじまる。  

 7月、向坂派が作成した第10回大会議案が中央委員会で否決され社青同の組織的統一性が崩壊した。反戦派中執は直ちに辞任した。しかし、向坂派は中央委員会多数の辞任要求を拒否し、71.2月、自派だけの十回大会をひらくことになる。


 一柳茂次(元アカハタ編集部、現労働運動研究所理事)は、「伊藤律と農民委員会−ひとりの有能な共産主義者としての理論を追って」論文を「現代の理論.8月号」に発表した。この論文が、伊藤律スパイ説に対する最初の反論となった。


【ベトナム軍のカンボジア侵攻】
 この頃カンボジアでのポル・ポト政権の「残虐」が国際的に問題になっていた。ベトナム軍は、反ポル・ポト政権派の要請に随い軍事行動を起した。これを是認するかベトナムのカンボジア侵略とみなすかで、左翼は混乱に陥った。この問題の深刻さは、この間の新旧左翼にあった国際反戦闘争におけるアメリカ帝国主義=悪、民族解放闘争=善というそれまでの図式の根底からの見直しが迫られたことにあった。いわば、民族解放闘争間にも矛盾対立が存在し、これにどう対処するのかという新たな理論的課題が突きつけられることになった訳である。問題を複雑にさせていたのは、ソ連−ベトナム−反ポル・ポト派、中国−ポル・ポト政権という国際関係であった。つまり、一筋縄で行かない様相を見せていた。

 この事態に対し、共産党は、ポル・ポト政権の「残虐」を踏まえベトナム軍の行動を支持した。第四インター系譜もこの立場を取った(『世界革命』五五八号.「インドシナ革命の新たな前進を米日帝国主義の敵対から防衛せよ」)。これに対し、ブント系譜は、ベトナム軍の行動を批判する立場を見せていた(共産主義者同盟機関紙局(「革命の旗」派)1970.7.5日付け『民主カンボジアの抗ソ抗越救国闘争を断固支持する!』
西学資料)。しかし、この時も新旧左翼は、互いが罵倒しあうだけでこうした新事態現象の理論的解明を為しえなかった。以降、この種の国際紛争に関する対応能力を失ったまま今日にいたっている。 

【中核派のテロによる「海老原君リンチ殺害事件」発生】

 8.4日、厚生年金病院前で東教大生・革マル派の海老原俊夫氏(21才)の死が発見され、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明した。この事件は、従来のゲバ ルトの一線を越した監禁型リンチ・テロであったこと、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる契機となった点で考察を要する。

 両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から死に至るリンチ・テロがなされたという歴史的事実が記録されることになっ た。れんだいこは挑発に乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、この件に関して中核派指導部の見解表明がなされなかったことは指導能力上大いに問題があったと思われる。理論が現実に追いついていない一例であると 思われる。

 海老原殺害事件の経過は次のように判明している。7.9日、東京教育大構内で機関紙を売っていた中核派学生が革マル派学生に襲われ、機関紙を奪われるという事件が発生していた。この時海老原氏がこの時の革マル派メンバーにいたことからマークされることとなった。8.2日、新宿の歩行者天国で中核派.革マル派両派が衝突。8.3日、渋谷でも乱闘事件が発生していた。同日午後3時頃、海老原氏は池袋駅東口で中核派の数十人に取り囲まれ、暴行を受けた後タオルで覆面させられ飯田橋の法政大学までデモのようにしながら連れ去られた。その後法政大六角校舎地下室に連れ込まれ、自己批判要求されつつ集団リンチを受け、その過程で死亡した。その後厚生年金病院前に放置された。上半身裸で全身にメッタ打ちされた跡があった。

 この事件後革マル派は直ちに中核派に報復を宣言し、8.6日、中核派殲滅戦宣言、8.14日、中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃十数人にテロを加えた。以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになった。

(私論.私観) 海老原氏が池袋で拉致された裏事情について

 海老原氏は、8.3日、中核派の牙城として知られる池袋で拉致されている。当時の緊迫した情勢で、池袋でビラを配っていたものかどうかは不明であるが、誰の指示で出向いていたのか知りたいところである。この辺りからして不自然ではある。


 8.9日、総評事務局長に大木正吾就任(労働戦線統一論議高まる)。


 8.12日、独ソ条約モスクワで調印。


【佐藤四選をめぐる自民党内事情】

 この頃、佐藤四選を廻って自民党内は虚虚実実の駆け引きが行われていた。主流派は佐藤派内福田派、佐藤派内田中派、保利派。反主流派は前尾派、石田派、三木派。中間派6派約100名(川島派、中曽根派35名(旧河野派)、園田派(旧河野派)、船田派(旧大野派)、村上派10名(旧大野派)、石井派)。


 8.20日、田中−福田の「ゴルフ巌流島の戦い」が総裁選の思惑がらみで行われた。福田側の立会人倉石忠雄農林大臣と田中側の立会人鈴木善幸総務会長とでプレーが行われ、ゴルフ決戦は田中が勝った。二人がいっしょにゴルフをした最初で最後となる。


 8.26日、江田社会党書記長、『月刊社会党』誌上で「自民党にかわるためには既存の諸勢力が古いカラをぬぎ捨て公害闘争など行動をもってこたえよ」と強調。


 8.30日、江田社会党書記長、全逓大会で「労働戦線統一は具体的行動のとき、野党再編成は共同闘争をつみかさねることこそ大切」と挨拶。


 9.25日、沖縄返還協定審議の国会のヤマ場を前に、中核派系沖縄青年委員会のメンバー4名が皇居内に突入し、発煙筒.火炎瓶を投げつけた。


 9月中旬、幹事長田中角栄氏に近い一年生議員23名が結集してつくられた“きさらぎ会”の青年部研修会のレセプションが党本部九階で開かれ、約五百名が集い、田中幹事長が党の近代化を訴える熱気のこもった挨拶をしている。幹事長の演説後、渡部恒三が、「国民の期待する党の近代化を実現し、思いきった政治の若返りを断行するためには、近い将来我われの手によって若い党人政治家田中角栄に天下を取らせよう」と主張し、田中内閣実現を誓って乾杯しようと訴えた。

 「当時、政界の情勢は、佐藤派の長老橋本運輸相(現幹事長)の発言によって佐藤四選が確実視され、総裁候補としては、福田、三木、前尾の三氏が話題の中心であった。マスコミは福田氏を佐藤内閣のクラウン・プリンスと呼び、田中氏や中曽根氏の出番はその後のことと考えておったのである。しかし私は、日本の政治を良くするためには、長い官僚政治に終止符をうって、自民党の指導者を若い党人政治家に変えて行かなければ大変なことになるという危機意識をどうしても捨てさることができなかった。私はその後、ことあるごとに、自民党は官僚政治を脱皮して、若い党人政治家、たとえば田中角栄、中曽根康弘、石田博英といったような人たちの時代をつくらなければならないと、執念のごとく訴えつづけてきた。幸いに派閥に属しない私の意見は、自民党ヤングパワーの率直な意見としてマスコミから歓迎され、私はその後二年間、新聞、テレビ、週刊誌等を通じて、党人内閣の実現を、ひとすじに訴えつづけてきたのである」とある。


 9.28日、ナセル・エジプト大統領急死,後任にサダト(10.7)。


 9.30 −10.2日、三里塚第一次強制測量、反対同盟・支援学生、公団側と激闘。


 1 0.8日、羽田闘争3周年。入管闘争。

 10.9日、ロン・ノル政権のカンボジア、ク メール共和国へ移行を宣言。


【宗教者平和世界会議】

 10月、宗教者平和世界会議(「世界宗教者平和会議」と訳されている。World Conference Religions for Peace)の第一回会議が京都市で開催された。人類の未来と世界平和のため、宗教者同士の交流と協力を目的に発足。世界各国・地域からキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、日本の神道などの宗教者が参加し、各地域委員会や各国委員会を構成する。

 第一回会議では、東西冷戦下での軍備拡張競争が進む中、「非武装、開発、人権」をテーマに、「非武装への処置を直ちに行うように求める」などとする宣言を採択した。概ね5年ごとに開催され、国連と協力し、人権抑圧、環境破壊、紛争、貧困などの地球規模の課題解決を目指した研究や提言を続けている。

 2001.9月の米国同時多発テロとその後の米英のアフガニスタン攻撃で緊張が高まる中、翌月にニューヨークで緊急会議を開催。イスラム教指導者を含む38カ国から約150名が参加し、「報復戦争は直面する課題を解決する手段としては不適切だ」とする声明を発表している。


 10.20日、政府、初の防衛白書を発表。


 10.21日、国際反戦デー。全国で集会、総計37万名が参加、デモ。219名逮捕。


 10.22日、日米共同声明1周年抗議で、べ平連・入管闘・全共闘など共催「日米共同声明路線粉砕・入管法再上程阻止・入管体制粉砕、10.22労学市民総 決起大会」、1万2000名(うちべ平連1500名)デモ。


 10.24日、ワシントンで佐藤.ニクソン会談。


 10.24日、チリ,アジェンデ社会党党首が大統領当選。社共統一戦線によるアジュンデ人民連合政権が選挙を通じて樹立された。


【第4次佐藤内閣発足】

 10.29日、自民党総裁選で佐藤が圧倒的多数で再選された。佐藤353票、三木武夫111票、千葉三郎、藤山愛一郎、宇都宮徳馬各1。三木は事前の70票止まりを覆しての善戦した。これにより、第4次佐藤内閣が発足した。


 11.7日、べ平連第62回定例デモ(マクリーン裁判支援として)、680名参加、 逮捕11名。デモに革マル派100名が参加。デモ参加者に暴行、混乱。

 11.9日、自民党の川島正次郎死去(享年80才)。


 11.10日、沖縄現地で、全軍労.県教祖.官公労などによる協定粉砕、批准阻止の島ぐるみゼネスト。これに呼応して本土でも各地で集会、デモ。


 11.14日、全国32都道府県、80ヶ所で阻止闘争。この日宮下公園での集会を禁止された中核派は「渋谷大暴動」を叫んで騒動化、渋谷署神山交番警官が火炎瓶で火達磨になり死亡した。反戦青年委の女性教師が火炎瓶を浴び死亡した。この日の衝突で313名が凶器準備集合罪などで逮捕された。

 11.14日、渋谷で第1回ウーマン・リブ大会(女性解放運動)。


 11.15日、沖縄の国政参加選挙(衆議院は自民二、革新三、参議院は自民一、革新一)。

 11.22日、労学市民総 決起大会」。1万2000名(うちべ平連1500名)デモ。


【三島由紀夫氏らが市ヶ谷自衛隊内でクーデター扇動】

 11.25日、作家三島由紀夫氏と三島が率いる「盾の会」会員4名が東京・市ヶ谷自衛隊内に潜入、総監を監禁し、クーデターを扇動、三島と森田必勝が割腹自殺を遂げた。この事件も好奇性からマスコミが大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。今日明らかにされているところに寄ると、70年安保闘争の渦中で決起せんと楯の会を組織していたが、平穏に推移したことから「全員あげて行動する機会は失はれ」、この期に主張を貫いたということであった。つまり、70年安保闘争の予想に反しての低迷が逆の立場から示唆されていることになる。私論であるが、こうした右派系の運動と行動について少なくとも論評をかまびすしくしておく必要があるのでは無かろうか

 決起文には、「革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であった」、「日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐる」、「日本が堕落の渕に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の練成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた」 等々と記されていた。

(私論.私観)

 この決起文に感応すべきか駄文とみなすべきか自由ではあるが、左翼は、こうした主張に対してその論理と主張を明晰にさせ、左派的に対話する習慣を持つべきでは無かろうか。機動隊と渡り合う運動だけが戦闘的なのではなく、こういう理論闘争もまた果敢に行われるべきでは無かろうか。今日的な論評としてはオウム真理教なぞも格好の素材足り得ているように思われるが、なぜよそ事にしてしまうのだう。百家争鳴こそ左翼運動の生命の泉と思われるが、いつのまにか統制派が指導部を掌握してしまうこの日本的習癖こそ打倒すべき対象ではないのだろうか、と思う。  


 11.28日、チッソ株主総会に水俣病患者ら、1株主として出席。この年、公害深刻化。水銀、コバルト、カドミウム、鉛、硫酸、オキシダント、PCB、キノホルム、チクロ、シアン、ヒ素、ヘドロ、光化学スモッグ多発。


 11.30日、社会党第34回大会(成田委員長再選、江田前書記長次点、石橋政嗣新書記長選出)。


 12.10日、「日共革命左派神奈川県委」では、土屋三男らが川島豪ら主流派の主張するゲリラ闘争路線に反対し、当面は組織体制づくりを重視すべきであると強調したため、関西オルグの名のもとに左遷されることとなった。そこで土屋は組織分裂を宣言して九州に下り、大隈の「日共革命的左派」に合流して、党名を「日共革命左派」と改め、ここに「日共革命左派九州党」が確立されるに至った。「日共革命左派九州党」は、1972年には九州のほか、関西、関東の地方委員会を確立し、同年9月には全国委員会を結成して、全国組織としての基礎を確立した。

 12.13日、日米繊維交渉、行き詰まり、中断。


 12.14日、ポーランドで食糧暴動。ゴムルカ第1書記辞任へ。


 12.18日、京浜安保共闘、 赤塚交番襲撃銃奪取闘争。警官に撃たれて3人が死傷、柴野晴彦射殺さる。

 12.20日、沖縄コザ市で暴動(コザ大暴動)。騒乱罪適用される。この頃軍事 路線をめぐって「RエルGゲー」(共産主義突撃隊)の強化とゲリラ闘争を主張 するブント左派グループが、それに難色を示す中間派の「荒派」に対して訣別 を宣言した。


 12.26日、柴野虐殺弾劾追悼集会で、赤軍派と京浜安保共闘が初めて連帯、この集会以降両派の連携関係が強まっていくこととなった。


 71年以降においても追跡していくことが可能ではあるが、運動の原型はほぼ出尽くしており、多少のエポックはあるものの次第に運動の低迷と四分五裂化を追って行くだけの非生産的な流れしか見当たらないという理由で以下割愛する。ここまで辿って見て言えることは、戦後余程自由な政治活動権を保障されたにも関わらず、左翼運動の指導部が人民大衆の闘うエネルギーを高める方向に誘導できず、「70年安保闘争」以降左派間抗争に消耗する呪縛に陥ってしまったのではないかということである。この呪縛を自己切開しない限り未だに明日が見えてこない現実にあると思われる。

 他方で、第二次世界大戦 の敗戦ショックからすっかり立ち直った支配層による戦後の再編が政治日程化し、左翼の無力を尻目に次第に大胆に着手されつつあるというのが今日的状況かと思われる。「お上」に対する依存体質と、「お上」の能力の方が左翼よ り格段と勝れている神話化された現実があると思われる。問題は、本音と自己主張と利権と政治責任を民主集中制の下に交叉させつつ派閥の統一戦線で時局を舵取るという手法で戦後の社会変動にもっとも果敢に革新的に対応し得た自民党も、戦後政党政治の旗手田中角栄氏を自ら放逐した辺りから次第に求心力を失い始め、90年頃より統制不能・対応能力を欠如させているというのに、この流れの延長にしからしき政治運動が見あたらない政治の貧困さにあるように思われる。


(私論.私観) 新左翼運動をどう観るか

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」は次のような見立てをしている。「そして、ブントの崩壊後、「戦旗」派は丸ごと、「プロ通」派はその一部が革共同に救いを求めて「乗り移り」、同派は一時的に水膨れしたが、その彼らも63年には旧ブント派を中心とした卑俗な実践主義を唱える中核派と、「反帝・反スタ」のお題目の下に「革命的な自己変革」と「主体形成」に基づく革命党の建設という独特な宗派主義に立脚した革マル派へと分裂。また、60年代初頭にはローザ主義を掲げ、労働者階級の自然発生性を重視せよと叫ぶ社青同解放派(革労協)が新たに登場し、66年にはブントの流れを汲む諸派によって再建ブントが誕生、これにトロツキー派の第四インターが加わって、日本の新左翼運動は展開されていくのである。

 彼らはセクト的な分裂と統一、離合と集散を目まぐるしく繰り返しながら、全共闘運動や反戦青年委員会運動などとも結び付き、日韓闘争、ベトナム反戦、学園闘争、70年安保、沖縄闘争、三里塚闘争などを繰り広げてきた。しかし、彼らやってきた運動は60年ブントの急進主義的な政治闘争をいっそう急進化させた「革命ごっこ」以上のものではなかった。それは社共の平和主義的、民族主義的、民主主義的な政治(労働組合運動では組合主義や経済主義)の水準を本質的に一歩も超えるものではなかった。彼らの運動はせいぜいのところ、ブルジョア的な腐敗と堕落を深める社共の日和見主義に対する“左”からの“罰”、あるいは補完物としての意義を持ったに過ぎなかった。

 70年代半ばにさしかかるや、彼らはその空虚な急進主義の生命を使い果たした挙げ句、一方ではマンガチックな連合赤軍による浅間山荘銃撃事件に行き着いたこと、そして革共同両派や社青同解放派が陰惨な内ゲバ、テロルにのめり込むに至ったこと、さらに最近では第四インターやブント戦旗派の諸君が情けなくも完全に市民主義者の尻尾に成り下がってしまったこと――これこそ新左翼運動の不毛性と破産を最終的に暴露するものでなくて何であろう。

 レーニンはロシアの革命運動を始めるにあったって「正しい革命理論なくして、革命運動はありえない」と喝破し、終生それを強調したが、社共はもとより、ブントの、そしてブントの亜流の新左翼運動の破綻はマルクス主義的な革命理論を軽視したことの報いである。そして、これこそは戦前、戦後を通じての日本社会主義運動百年の歴史が繰り返しわれわれに教えている貴重な教訓でもある」。





(私論.私見)