1970年当時の主なできごと.事件年表 | 「70年安保闘争」とその周辺 |
(最新見直し2007.3.11日)
いよいよ70年を向かえて「70年安保闘争」の総決算の時を向かえたが、全
共闘運動は既にピークを過ぎていた。というよりは既に流産させられていた。
民青同と革マル派を除き、全共闘に結集した「反代々木系セクト」はかなりな
程度にずたずたにされており、実際の力学的な運動能力はこの時既に潰えて
いた。機動隊の装備の充実とこの間の実地訓練によって治安能力が高まり一
層の壁として立ち現れるに至っていた。従って、国会突入まで見せた「60年
安保闘争」のような意味での「70年安保闘争」は存在せず、表面の動員数の
み誇る平穏な儀式で終わった。「60年安保闘争」は「壮大なゼロ」と評された
が、「70年安保闘争」は「そしてゲバルトだけが残った」と評されるのが相応し
い。 |
1.5日、「創価学会を斬る」(藤原弘達)への学会の出版妨害表面化。公明・共産党が出版妨害・言論の自由を巡って応酬開始。日共の公明党、創価学会の言論、出版妨害事件キャンペーン始まる。 |
1.12日、社会党再建論議本格化(「基本路線の是非」が狙上に)。
【第3次佐藤内閣改造」】 |
1.14日、第3次佐藤内閣発足。(最長不倒距離を記録した佐藤政権最終の内閣)この改造時点よりポスト佐藤の角福戦争が公然となった。川島.田中ラインと保利.福田ラインの確執。官房長官・保利、副長官・木村俊夫、田中幹事長の更迭策動があったが留任。橋本運輸大臣。橋本龍太郎は厚生政務次官に就任。 |
1.16日東京で赤軍派が「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」の蜂起集会、800名。 |
2月、自民党党大会が開かれ、総裁の任期期限を2年から3年に延長を決定。
【創価学会の出版妨害事件の経過】 | |||
2.27日、日共の不破が予算委員会での初質問で、佐藤栄作首相を相手に、創価学会の出版妨害事件にたいする政府・自民党の態度を追及した。2001.7.22日付け赤旗は、「その時、藤原氏ら多くの関係者に直接あい、創価学会・公明党の言論・出版妨害の事実経過を確かめたうえで、その全貌(ぜんぼう)を示しました」と記している。創価学会の出版妨害事件とは、1969〜70年の言論・出版問題とは、評論家の藤原弘達氏が著作『創価学会を斬る』を日新報道という出版社から発行しようとした時、これを闇(やみ)に葬ろうとする創価学会・公明党の妨害にぶつかったことから、明るみに出た事件のことを云う。 不破は、事実経過として次のように述べた。
不破は、次のように批判している。
2001.7.22日付け赤旗は、次のように記している。
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2.3日、閣議で、核防条約調印決定。
2.7日、大阪で赤軍派が蜂起集会、1500名。 |
3.14日、日本万国博覧会開会。大阪万国博(EXP0'70)開会式。大阪府吹田市千里丘陵で「人類の進歩と調和」をテーマに77カ国が参加した。米宇宙船アポロ11号が持ち帰った「月の石」などが人気を集めた。過去最高の6千421万人の入場者を記録した。
3.14日、この頃カンボジアで内戦が起こ り、これに南ベトナム解放軍・北ベトナム軍が参戦したことからわが国のベトナ ム反戦闘争も混迷を深めることとなった。 |
3.15日、赤軍派議長塩見孝也(28才.京大)が破防法、爆発物取締り罰則違反容疑で逮捕されている。 |
3.18日、カンボジア,シアヌーク元首解任のクーデター。
3.23日、江田社会党書記長、新ビジョン「改革を進めて革命へ」を党大会準備委員会に提出。
3.31日、日米安保条約自動継続 の政府声明発表。
【赤軍派による「よど号ハイジャック事件」】 |
3.31日、赤軍派9名による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャッ ク)発生。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。「フェニックス作戦」と名付けられたこの作戦は日本で初のハイジャック事件となった。メンバーは、田宮高麿(27才.大阪市大)、小西隆祐(25才.東大)、田中義三(21才.明大)、安部公博(22才.関西大)、吉田金太郎(20才.元工員)、岡本武(21才.京大)、若林盛亮(23歳.同志社大)、赤木志郎(22才.大阪市大)、柴田勝弘(16才.高校生)の9名で、羽田発福岡行きの日航機よど号をハイジャックして、北朝鮮行きを要求した。 |
4.8日、革マル派が4.28統一デモに参加したいと申入れ。 |
4.9日、カンボジア政府軍、べトナム系住民を虐殺。中国と北朝鮮両政府、「日本軍国主義と共同して闘う」との共同声明を発表。 |
4.14日、民主社会党第13回大会(党名を「民社党」に正式決定)。
4.15日、米国で反戦集会・デモ。数十万人参加。 |
4.16日、ウィーンでSALT1始まる。
【社会党第33回党大会】 | |
4.20日、社会党第33回党大会が開かれ、成田・石橋体制が確立された。「反戦青年委員会とは絶縁」等の執行部方針を不満とする反帝学評などの暴力行為のため機動隊導入、籠城大会となった。
「国際革命文庫」の「日本革命的共産主義同盟小史」は次のように記している。
次のようにも述べられている。 彼らは、方針のうえでは「日本における社会主義への道」(以下「道」という)を向坂派テーゼ流に歪曲して「道」の擁護をさけび、中期路線、新中期路線、国民統一綱領に発展させた。彼らは成田委員長が提唱した成田三原則を最大限に利用し、自らは一九七〇年七月に「思想闘争の前進のために」をうちだして、向坂派の思想・組織・運動論を公然と展開し、本格的な党への介入を開始したのである。その突破口はなんといっても七一年二月の社青同第一〇回全国大会における反戦派、太田派の謀略的排除による社青同の向坂派独占体制の確立であり、それを成田・石橋執行部が公然と認知したことであった。 七〇年安保闘争の終幕と一九六九年十二月の第三二回総選挙における敗北は、再建向坂派に自己の野望と前進をはかる絶好の条件を与えた。社会党は、総評と共に六〇年代後半の大衆闘争をささえてきた反戦青年委員会を誕生させ、その育成強化をとなえ、一時は全学連との同盟関係までうち出したのであるが、反戦青年委員会が新左翼諸党派の介入と一定の主導をゆるし、一部に左翼日和見主義が生まれるや、これを政治的に領導するのではなく、逆に敵前できりすてるという裏切りをあえて行ったのである。裏切りのなかでは、とうてい正しい総括は導きだすことはできない。“総括なき反戦闘争の終焉”というべきであろう。 |
4.23日、日本政府はカンボジアの現状は内戦ではな く、北ベトナム軍の侵略に対する戦いであるとの公式見解を発表。米国政府、 カンボジアに武器を援助していたことを認める。
4.28日沖縄デー。各地でデモ、10余万名参加。反代々木系1万6600名(うちべ平連など市民団体8000名)結集。集会の途中、革マル派の参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りる。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。 |
【創価学会が政教分離宣言】 | |||||
5.3日、創価学会の池田大作会長が講演で「猛省」し、政教分離宣言。次のように述べている。
2001.7.22日付け赤旗は、不破の次のような批判を記事にしている。
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5.5日、カンボジア王国民族連合政府樹立。
5.7日、鈴木茂三郎死去。
5〜6月、公害問題クローズアップ。
5.8日、全共闘、反戦青年委などカンボジア侵略抗議集会。2500名結集、デモ。べ平連など市民団体は不参加。 |
5.10日、ぷりんす号・シージャック事件。
5.29日、カンボジア侵略抗議で全共闘、反戦青年委、1万7000名がデモ。 |
6月、「反安保毎日デモ」が展開される。 |
6.14日、社共総評系のデモ、集会、全国で236ヵ所。「インドシナ反戦と反安保の6.14大共同行動労学市民総決起集会」。革マル派を含む新左翼党派と市民団体の初の共同行動、7万2000名参加。全国全共闘・全国反戦・ベ平連など約1700名逮捕。 |
6.15日、西村民社党委員長、「72年までに社公民三党を統一した民主的革新政党で政権を」と提唱。
6.17日、この日全国で「6.17闘争」が繰り広げられた。東京では中核派.第四インターを中心とした約1万名が明治公園で、反帝学評、フロント、ML派など反中核派系約1万名が宮下公園で集会を開いた。 |
6.22日、米国務省、日米安保条約の継続維持確認の声明。
【日米安全保障条約、自動延長】 |
6.23日、日米安全保障条約、自動延長となる。60年安保闘争に比べて妙に穏和なスケジュール闘争に化していた。全国で反安保デモ、77万4000名参加。東京では147件で史上最高のデモ届数。新左翼系2万名結集、逮捕者10名。反安保毎日デモは30日まで延長をきめる。 |
6.25日、公明党第8回大会(言論・出版問題、政教分離を論議)。
【第11回党大会開催】 |
○期日.会場.代議員数について
綱領との絡みについて宮顕は次のように述べている。「綱領がどうのこうの云うけど、綱領を報告したのは私ですから、私が一番正確な解釈をする責任がある」(昭和48.2.18日付け「サンデー毎日」)。つまり、宮顕の綱領解釈に他の党員は追随すればよいと豪語している。 【宮顕−不破体制の確立】
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【70年当時の党の方針の特質と要点】 |
7.7日、ろ溝橋事件33周年・日帝のアジア侵略阻止人 民集会。席上、華青闘が新左翼批判。4000名(うちべ平連550名)結集。 |
【七・七集会における華青闘代表の発言】 | |||||
7.7日、東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘主催の盧溝橋33周年集会、華青闘(華僑青年闘争委員会)が新左翼批判。在日中国人・朝鮮人青年達が全共闘の集会の趣旨の69年入管体制粉砕闘争と65年日韓闘争を、日本階級闘争のなかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったとして大批判。ついでに日共六全協も。しかし、当時の反対の柱はあくまで「日本は戦争に巻き込まれるな」だった。 http://konansoft.com/zenrin/html/huajingtou77.htm http://www.chunichi.co.jp/anpo/ 一人の男が壇上から八千人の学生らに叫んだ。通名・猪八戒。 「われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。 われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか。 実践がないかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。 われわれはさらに自らの立場で闘いぬくだろう。このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。」 |
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猛獣文士氏により「七・七集会における華青闘代表の発言」がサイトアップされており、これを転載しておく。
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7.16日、米ソ戦略兵器削減交渉(SALT)の第一回会談がウィーンで開始。
7.17日、家永教科書裁判、東京地裁で勝訴。 |
7.23日、新潟地裁で反戦自衛 官小西三曹の裁判第1回公判はじまる。 |
7月、向坂派が作成した第10回大会議案が中央委員会で否決され社青同の組織的統一性が崩壊した。反戦派中執は直ちに辞任した。しかし、向坂派は中央委員会多数の辞任要求を拒否し、71.2月、自派だけの十回大会をひらくことになる。 |
一柳茂次(元アカハタ編集部、現労働運動研究所理事)は、「伊藤律と農民委員会−ひとりの有能な共産主義者としての理論を追って」論文を「現代の理論.8月号」に発表した。この論文が、伊藤律スパイ説に対する最初の反論となった。 |
【ベトナム軍のカンボジア侵攻】 |
この頃カンボジアでのポル・ポト政権の「残虐」が国際的に問題になっていた。ベトナム軍は、反ポル・ポト政権派の要請に随い軍事行動を起した。これを是認するかベトナムのカンボジア侵略とみなすかで、左翼は混乱に陥った。この問題の深刻さは、この間の新旧左翼にあった国際反戦闘争におけるアメリカ帝国主義=悪、民族解放闘争=善というそれまでの図式の根底からの見直しが迫られたことにあった。いわば、民族解放闘争間にも矛盾対立が存在し、これにどう対処するのかという新たな理論的課題が突きつけられることになった訳である。問題を複雑にさせていたのは、ソ連−ベトナム−反ポル・ポト派、中国−ポル・ポト政権という国際関係であった。つまり、一筋縄で行かない様相を見せていた。 この事態に対し、共産党は、ポル・ポト政権の「残虐」を踏まえベトナム軍の行動を支持した。第四インター系譜もこの立場を取った(『世界革命』五五八号.「インドシナ革命の新たな前進を米日帝国主義の敵対から防衛せよ」)。これに対し、ブント系譜は、ベトナム軍の行動を批判する立場を見せていた(共産主義者同盟機関紙局(「革命の旗」派)1970.7.5日付け『民主カンボジアの抗ソ抗越救国闘争を断固支持する!』西学資料)。しかし、この時も新旧左翼は、互いが罵倒しあうだけでこうした新事態現象の理論的解明を為しえなかった。以降、この種の国際紛争に関する対応能力を失ったまま今日にいたっている。 |
【中核派のテロによる「海老原君リンチ殺害事件」発生】 |
8.4日、厚生年金病院前で東教大生・革マル派の海老原俊夫氏(21才)の死が発見され、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明した。この事件は、従来のゲバ ルトの一線を越した監禁型リンチ・テロであったこと、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる契機となった点で考察を要する。 この事件後革マル派は直ちに中核派に報復を宣言し、8.6日、中核派殲滅戦宣言、8.14日、中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃十数人にテロを加えた。以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになった。 |
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8.9日、総評事務局長に大木正吾就任(労働戦線統一論議高まる)。
8.12日、独ソ条約モスクワで調印。
【佐藤四選をめぐる自民党内事情】 |
この頃、佐藤四選を廻って自民党内は虚虚実実の駆け引きが行われていた。主流派は佐藤派内福田派、佐藤派内田中派、保利派。反主流派は前尾派、石田派、三木派。中間派6派約100名(川島派、中曽根派35名(旧河野派)、園田派(旧河野派)、船田派(旧大野派)、村上派10名(旧大野派)、石井派)。 |
8.20日、田中−福田の「ゴルフ巌流島の戦い」が総裁選の思惑がらみで行われた。福田側の立会人倉石忠雄農林大臣と田中側の立会人鈴木善幸総務会長とでプレーが行われ、ゴルフ決戦は田中が勝った。二人がいっしょにゴルフをした最初で最後となる。
8.26日、江田社会党書記長、『月刊社会党』誌上で「自民党にかわるためには既存の諸勢力が古いカラをぬぎ捨て公害闘争など行動をもってこたえよ」と強調。
8.30日、江田社会党書記長、全逓大会で「労働戦線統一は具体的行動のとき、野党再編成は共同闘争をつみかさねることこそ大切」と挨拶。
9.25日、沖縄返還協定審議の国会のヤマ場を前に、中核派系沖縄青年委員会のメンバー4名が皇居内に突入し、発煙筒.火炎瓶を投げつけた。 |
9月中旬、幹事長田中角栄氏に近い一年生議員23名が結集してつくられた“きさらぎ会”の青年部研修会のレセプションが党本部九階で開かれ、約五百名が集い、田中幹事長が党の近代化を訴える熱気のこもった挨拶をしている。幹事長の演説後、渡部恒三が、「国民の期待する党の近代化を実現し、思いきった政治の若返りを断行するためには、近い将来我われの手によって若い党人政治家田中角栄に天下を取らせよう」と主張し、田中内閣実現を誓って乾杯しようと訴えた。
「当時、政界の情勢は、佐藤派の長老橋本運輸相(現幹事長)の発言によって佐藤四選が確実視され、総裁候補としては、福田、三木、前尾の三氏が話題の中心であった。マスコミは福田氏を佐藤内閣のクラウン・プリンスと呼び、田中氏や中曽根氏の出番はその後のことと考えておったのである。しかし私は、日本の政治を良くするためには、長い官僚政治に終止符をうって、自民党の指導者を若い党人政治家に変えて行かなければ大変なことになるという危機意識をどうしても捨てさることができなかった。私はその後、ことあるごとに、自民党は官僚政治を脱皮して、若い党人政治家、たとえば田中角栄、中曽根康弘、石田博英といったような人たちの時代をつくらなければならないと、執念のごとく訴えつづけてきた。幸いに派閥に属しない私の意見は、自民党ヤングパワーの率直な意見としてマスコミから歓迎され、私はその後二年間、新聞、テレビ、週刊誌等を通じて、党人内閣の実現を、ひとすじに訴えつづけてきたのである」とある。
9.28日、ナセル・エジプト大統領急死,後任にサダト(10.7)。
9.30 −10.2日、三里塚第一次強制測量、反対同盟・支援学生、公団側と激闘。 |
1 0.8日、羽田闘争3周年。入管闘争。 |
10.9日、ロン・ノル政権のカンボジア、ク メール共和国へ移行を宣言。
【宗教者平和世界会議】 |
10月、宗教者平和世界会議(「世界宗教者平和会議」と訳されている。World
Conference Religions for Peace)の第一回会議が京都市で開催された。人類の未来と世界平和のため、宗教者同士の交流と協力を目的に発足。世界各国・地域からキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、日本の神道などの宗教者が参加し、各地域委員会や各国委員会を構成する。 |
10.20日、政府、初の防衛白書を発表。
10.21日、国際反戦デー。全国で集会、総計37万名が参加、デモ。219名逮捕。 |
10.22日、日米共同声明1周年抗議で、べ平連・入管闘・全共闘など共催「日米共同声明路線粉砕・入管法再上程阻止・入管体制粉砕、10.22労学市民総 決起大会」、1万2000名(うちべ平連1500名)デモ。 |
10.24日、ワシントンで佐藤.ニクソン会談。
10.24日、チリ,アジェンデ社会党党首が大統領当選。社共統一戦線によるアジュンデ人民連合政権が選挙を通じて樹立された。 |
【第4次佐藤内閣発足】 |
10.29日、自民党総裁選で佐藤が圧倒的多数で再選された。佐藤353票、三木武夫111票、千葉三郎、藤山愛一郎、宇都宮徳馬各1。三木は事前の70票止まりを覆しての善戦した。これにより、第4次佐藤内閣が発足した。 |
11.7日、べ平連第62回定例デモ(マクリーン裁判支援として)、680名参加、 逮捕11名。デモに革マル派100名が参加。デモ参加者に暴行、混乱。 |
11.9日、自民党の川島正次郎死去(享年80才)。
11.10日、沖縄現地で、全軍労.県教祖.官公労などによる協定粉砕、批准阻止の島ぐるみゼネスト。これに呼応して本土でも各地で集会、デモ。 |
11.14日、全国32都道府県、80ヶ所で阻止闘争。この日宮下公園での集会を禁止された中核派は「渋谷大暴動」を叫んで騒動化、渋谷署神山交番警官が火炎瓶で火達磨になり死亡した。反戦青年委の女性教師が火炎瓶を浴び死亡した。この日の衝突で313名が凶器準備集合罪などで逮捕された。 |
11.14日、渋谷で第1回ウーマン・リブ大会(女性解放運動)。
11.22日、労学市民総 決起大会」。1万2000名(うちべ平連1500名)デモ。 |
【三島由紀夫氏らが市ヶ谷自衛隊内でクーデター扇動】 |
11.25日、作家三島由紀夫氏と三島が率いる「盾の会」会員4名が東京・市ヶ谷自衛隊内に潜入、総監を監禁し、クーデターを扇動、三島と森田必勝が割腹自殺を遂げた。この事件も好奇性からマスコミが大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。今日明らかにされているところに寄ると、70年安保闘争の渦中で決起せんと楯の会を組織していたが、平穏に推移したことから「全員あげて行動する機会は失はれ」、この期に主張を貫いたということであった。つまり、70年安保闘争の予想に反しての低迷が逆の立場から示唆されていることになる。私論であるが、こうした右派系の運動と行動について少なくとも論評をかまびすしくしておく必要があるのでは無かろうか。 |
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11.28日、チッソ株主総会に水俣病患者ら、1株主として出席。この年、公害深刻化。水銀、コバルト、カドミウム、鉛、硫酸、オキシダント、PCB、キノホルム、チクロ、シアン、ヒ素、ヘドロ、光化学スモッグ多発。
11.30日、社会党第34回大会(成田委員長再選、江田前書記長次点、石橋政嗣新書記長選出)。
12.13日、日米繊維交渉、行き詰まり、中断。
12.14日、ポーランドで食糧暴動。ゴムルカ第1書記辞任へ。
12.18日、京浜安保共闘、 赤塚交番襲撃銃奪取闘争。警官に撃たれて3人が死傷、柴野晴彦射殺さる。 |
12.20日、沖縄コザ市で暴動(コザ大暴動)。騒乱罪適用される。この頃軍事 路線をめぐって「RエルGゲー」(共産主義突撃隊)の強化とゲリラ闘争を主張 するブント左派グループが、それに難色を示す中間派の「荒派」に対して訣別 を宣言した。 |
12.26日、柴野虐殺弾劾追悼集会で、赤軍派と京浜安保共闘が初めて連帯、この集会以降両派の連携関係が強まっていくこととなった。 |
71年以降においても追跡していくことが可能ではあるが、運動の原型はほぼ出尽くしており、多少のエポックはあるものの次第に運動の低迷と四分五裂化を追って行くだけの非生産的な流れしか見当たらないという理由で以下割愛する。ここまで辿って見て言えることは、戦後余程自由な政治活動権を保障されたにも関わらず、左翼運動の指導部が人民大衆の闘うエネルギーを高める方向に誘導できず、「70年安保闘争」以降左派間抗争に消耗する呪縛に陥ってしまったのではないかということである。この呪縛を自己切開しない限り未だに明日が見えてこない現実にあると思われる。 |
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(私論.私見)