第30部 1969年当時の主なできごと.事件年表1969年当時
全国全共闘結成と内部溶解の兆し現出、党派間ゲバルト開始。

 (最新見直し2007.7.4)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第8期その2、東大闘争クライマックス、全国全共闘結成と内部溶解の兆し現出」に記す。


【東大闘争】

 1.4日、加藤総長代行による非常事態宣言が発表され、東大闘争が決戦化の流れに入った。1.9日、「7学部集会」を翌日に控えたこの日、東大全共闘が、民青同の根拠地化していた教育学部奪還闘争の挙に出て民青同と激突。これを見て大学当局の判断によって機動隊が導入された。この時の機動隊導入は、学生運動内部のゲバルト抗争に対してなされたものであり、それまでの対大学当局と学生間の抗争に関連しての導入ではないという内容の違いが注目される。

 1.10日、秩父宮ラグビー場で約8000名の学生を集めて東大「7学部集会」 が開かれた。医・文・薬の3学部を除いた7学部、2学科、5院生の学生・院生の代表団と東大当局の間で「確認書」が取り交わされた。民青同がこれを指導し、泥沼化する東大紛争の自主解決の気運を急速に盛り上げていくことになった。予想以上に多くの学生が結集したと言われている。紛争疲れと展望無き引き回しを呼号し続ける全共闘運動に対する厭戦気分が反映されていたものと思われる。

 「7学部集会」では、「大学当局は、大学の自治が教授会の自治であるという従来の考え方が誤りであることを認め、学生・院生・職員も、それぞれ固有の権利を持って大学の自治を形成していることを確認する」などが確認された。この確認書の内容は、当初全共闘側が目指していたものであるが、全共闘運動はいつの間にかこうした制度改革闘争を放棄し始め、この頃においては「オール・オア・ナッシング」的な政治闘争方針に移行させていた。

 この頃全共闘は、民青同ペースの「7学部集会」に反発するばかりで、制度改革闘争を含めた今後の東大闘争に対する戦略−戦術的な位置づけでの大衆的討議を放棄していた観がある。なぜかは分からないが、運動の困難に際したときに、決して大衆的討議の経験を持とうとしないというのが新旧左翼の共通項、と私は思っている。この頃より一般学生の遊離が始まったと私はみる。それと、全共闘運動がなぜ制度改革闘争を軽視する論理に至ったのかが私には分からない。果たして、我々は戦後人民的闘争で獲得した制度上の獲得物の一つでもあるのだろうか。反対とか粉砕とかは常に聞かされているが、逆攻勢で獲得する闘争になぜ向かわないのだろう。


 1.12日、東大、民青同と右翼系の手により6学部でスト解除。この頃より安田講堂の封鎖解除を促すために大学当局より機動隊導入が予告された。

 1.15日、東大全共闘が安田講堂封鎖を強化し、各派から500名が籠城した。こうして全共闘運動は東大安田講堂決戦(東大時計台闘争)でクライマックスを 迎えることになった。この時の民青同の動きが次のように伝えられている。機動隊の安田講堂突入の事前情報をつかんだ宮本氏は、再び川上氏に直接指令を出し、“ゲバ民”側の鉄パイプ、ゲバ棒1万本を一夜の内に隠匿、処分さ せた。この時の革マル派の動きが次のように伝えられている。同派はこの時他セクトとともに全共闘守備隊に入っていたが、機動隊導入の前夜に担当していた法文2号館から退去、そこに機動隊が陣取ることで封鎖されていた隣の法研・安田講堂の封鎖解除を容易にさせるという不自然な動きを示した。


 1.5日午前2時頃、九州大学のファントム機残骸が突然何者かによって引き降ろされる事件が発生した。


 1.14日付け秘密公電が2000.6.9日開示された。文書は、ジョンソン駐日大使がラスク国務長官へ送ったもので、それによると、佐藤首相は、「非核三原則はナンセンス」と明言している。同大使が離日の挨拶に訪れた際、保利茂官房長官らを交えて会談した際の発言。佐藤首相は、67.12.11日の衆院予算委員会で、非核三原則を表明していた。電文は、米政府内で懸念されていた日本の核武装論を打ち消す形で、「これで日本が核兵器を持ちたがっていると解釈すべきではない」とコメント付けされている。


【東大闘争「安田砦攻防戦」】

 1.18日、東大闘争の決戦として安田砦攻防戦が闘われた。各セクトから選ばれた500名の学生が立てこもる中、警視庁機動隊8500名が出動。機動隊の放水、催涙ガス攻撃に、学生側は火炎瓶、石、机を投げつけて応酬。 同日、中央大学にて、安田砦攻防戦支援の学生1200名余りが武力化し、東大へ向かおうとしていた。最後に残ったのは安田講堂であるが、本格的な攻撃は午後3時過ぎから始まり、夕闇が迫った午後5時半頃、東大の封鎖解除は夜を迎え、やむなく一旦撤収、放水の続行を残し作戦を翌日に持ち越す。その日の攻撃は中止となった。

 1.19日午前7時、機動隊が攻撃を再開。電気ドリル、切断機を使ってバリケードを破り、12時30分には2階まで侵入。2時50分には4階まで制圧した。午後5時40分、ついに講堂時計台屋上に突入、全員を逮捕。屋上の赤旗をはずした。全共闘は二日間にわたって激闘後落城。 

 「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、 この放送を中止します」という東大全学学生解放戦線の今井澄氏(きよし)が午後5時50分メッセージした。全文は→ http://zenkyoto68.tripod.com/imaik02.htm 

 この間の様子は全国にテレビ放送され釘付けになった。全共闘の闘いぶりと機動隊の粛々とした解除と学生に対する生命安全配慮ぶりが共感を呼んだ。

 この闘いで、全共闘各派の767名(内、東大生38名)が逮捕、そのうち616名が起訴された。一審では133名が最高懲役4年の実刑、12名が無罪となった。負傷者は警察官710名に対し、学生側は47名。


 革マル派は肝心なところで「利敵行為」と「敵前逃亡」という二つの挙動不審 (安田決戦敵前逃亡事件)を為したことにより、これ以後全国の大学で同派は全共闘から排除され、本拠=早稲田大でも革マルをはずして早大全共闘がつくられた。革マル派は、この事件以降今まで批判していた武闘的闘争を少数の決死隊によって行なうようになったが、アリバイ闘争と非難される始末となった。但し、革マル派の本領はこれから発揮されることになった。以降、いわゆる新左翼内で、革マル派と反革マル派との間にゲバルトが公然と発生する事態となった。いざゲバルトになると革マル派は強かった。街頭での穏健な行動とのアンバランスはかえって他党派の怒りを買うことになった。

 1.18日−19日、神田で各派が東大闘争支援決起集会を開き、集会後解放区闘争を展開した。


 1.20日、東大・文部省と会談。入試中止最終決定。これ以降広島大、早稲田大、京都大などでも全国学園砦死守闘争が展開された。この経過で「60年安保闘争」を上回る「70年安保闘争」が課題となり、ノンセクト・ラジカルと反代々木系各派(革マル派を除く)は運動の統一機運を盛り上げようと連携していくことになった。「60年安保闘争」を上回る闘争を目指して多岐多流の潮流がうねりとなって9.5日の全国全共闘連合になだれ込んでいった。これが69年における「70年安保闘争」の「正」の面であった。


 1.20日、リチャード.ニクソンが第37代大統領に就任。


 1月末、基地問題研究会は、日米の政治家、学者による京都会議を開いて沖縄返還のあり方を協議し、3.8日「核抜き、本土並み、72年返還」を骨子とする報告を発表した。この「核抜き本土並み」が政府の対米沖縄返還交渉の方針となった。


 2.11日、日大闘争勝利5万名集会。

 2.15日、民主社会党第11回党大会で佐々木良作書記長就任(西村委員長は三選)。


 3月、東京で「救援連絡センター」発足。

 3.12日、日大全共闘秋田議長が潜伏先の渋谷で逮捕される。


【「矢田教育差別事件」発生】
 3.13日、「矢田教育差別事件」発生。これは、大阪市教組東南支部役員選挙に立候補した共産党系の木下氏の挨拶文の内容が原因となった。同挨拶文は、「労働時間は守られていますか」の問いかけで始めて、「仕事に追いまくられて、勤務時間外の仕事を押し付けられていませんか」と続き、「進学のことや、同和のことなどで、どうしても遅くなること、教育懇談会などで遅くなることはあきらめなければならないでしょうか」で結ばれていた。木下氏は共産党系の活動家であったことから、これが「日共の差別問題認識水準を示すもの」として槍玉に挙げられ、解放同盟矢田支部が糾弾闘争に立ち上がった。背景には共産党と部落解放同盟(朝田)との抜き差しならない対立があった。

 共産党中央が介入し、差別文書ではないと居直り、解放同盟矢田支部の糾弾闘争を暴行罪で警察権力に告訴した。以後、共産党と部落解放同盟の抗争にエスカレートし、共産党は、部落解放同盟委員長・朝田善之助の個人名を取った「朝田理論」批判に向かい、解放同盟の糾弾闘争を「無法な暴力」として激しく非難を加えた。この対立は、昭和49年に発生した八鹿高校事件へとつながっていくことになる。これを契機として部落解放同盟正常化委員会が結成された。

 3.22日、東大校内で総決起集会。東大全共闘・日大全共闘3000名結集。


 3.30日、三里塚軍事空港粉砕集会。 現地反対同盟・反戦青年委・全学連1万2000名が集会とデモ。

 3.30日、パリでフランシーヌ・ルコント、ベトナム戦争とビアフラ戦争と飢餓に抗議して焼身自殺。


【社学同派全学連結成】
 3月、社学同全国大会開催し、社学同派全学連を発足。先に4つ目の全学連 として誕生した反帝全学連の内部で社学同と社青同解放派の対立が激化 し、社学同もまた自派単独の全学連を結成したということである。

 この大会で 軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。塩見孝也や高原浩之らの関西派グループが、「軍イコール党」・「秋期武装蜂起」など最も過激な軍事路線を主張し、「武装蜂起は時期尚早」とする関東派グループと対立。

【民学同がプロレタリア学生同盟を結成】
 3月、共労党指導下の民学同は、プロレタリア学生同盟を結成し、「平和共存と構造改革論の破産」を宣言し、戦闘的な行動へと移行していくこととなった。この時の書記長はいいだもも。同氏曰く、「既成の共産党でないことは勿論だけど、既成のトロッキー党でも毛沢東でもない」、概要「組織論的に言えば社共の左という方向性を最初から打ち出して、ベトナム反戦派、労働反戦派として登場することを目指す」、「歌を忘れたカナリヤは後ろの山に捨てなければならないのと同じことで、革命を忘れた共産党はオバステ山にでも捨てるほかはない」。

 4.7日、永山則夫連続射殺魔逮捕。


 4.17日、早大全共闘、早大本部占拠。


 4.18日、政府、米軍立川基地の拡張計画中止を決定。


【共産党宮顕本委員長が社会党の「非武装中立論」を批判】
 4.18日、宮顕は、記者会見の席上次のように社会党成田委員長の主張する非武装中立論を批判した。
 「将来、中立.民主日本が外国から侵略を受けた場合、どういう抵抗をするかということについて、社会党の成田委員長は、国会ではレジスタンスと言っていたが、その後は社会党の方針としてチェコ型の抵抗だというように説明されている。チェコスロバキアの今日の事態は、決して主権と独立擁護が成功的に行われていないどころか、全体として、やはりソ連の武力のローラーのもとに従属状態が深まっている。ああいう道を我々は選びたくない」。

 4.23日、日経連総会で桜田武常務理事、自主防衛力を強調。


 4月、日共左派の「神奈川県委員会準備会」で、米軍基地攻撃など過激な闘争を主張する川島豪グループと、「党建設」を重視すべきであると主張する望月登グループとの間で対立が起こり、川島グループが、「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」(通称「京浜安保共闘」)を結成して分離独立した。代表・川島豪、機関誌・解放の旗。

 この「京浜安保共闘」は69年から71年にかけて「米・ソ両大使館襲撃事件」(69.11月)、「東京・上赤塚交番拳銃奪取未遂事件」(70.12)、「真岡市猟銃強奪事件」(71.2)などの過激行動をくり返したのち、いわゆる「連合赤軍事件」をひき起こして自滅することとなった。

 連合赤軍事件以後、わずかに残った救対関係の活動家を中心に組織の再建が図られ、一時は30〜40名の勢力にまで回復したが、74年ごろから結党以来の活動家グループと新規加入の活動家グループとの間に感情的な対立が生じ始めた。そして同年10月、組織の指導者川島豪が保釈出所したものの健康がすぐれず、岐阜県大垣市の実家に引き籠ったこともあって組織の統制が乱れ、再建活動が頓挫する。折からの「三つの世界論」問題が発生し、獄中組の主要活動家が一斉に組織から離反したことも、川島豪に大きな精神的打撃を与えたといわれている。こうした現状にあるため、同派では74年5月以降共産同蜂起派と共闘関係を深めて組織の建て直しを図ってきたが、その成果が現れず、以降の活動は全く低迷状態にある。


 4.27日、中核派書記長本多氏と東京地区反戦世話人藤原慶久氏破防法発動で逮捕される。

 4.28日、沖縄闘争で緊迫する中、中核、ブントに破防法が適用された。


【69.4.28沖縄闘争】
 4.28日、沖縄反戦デー闘争。社共総評の統一集会、13万人参加。過激派学生1万名武装デモ。東京駅・銀座・新宿・渋谷などの都心部で、火炎瓶、投石闘争を展開したが、警察の徹底した取締りが功を奏し前年の新宿騒乱闘争を大きく下回る規模の行動に終わった。ベ平連も銀座・お茶の水・新橋で機動隊と衝突。中核派・ブントに破防法適用される。全国で逮捕者965名(女性133名)、逮捕者の中には高校生も多く含まれていた。

 4.28日の沖縄反戦デー闘争の総括をめぐって新左翼内に対立が発生した。 新左翼各派は自画自賛的に「闘争は勝利した」旨総括したのに対し、赤軍派を生み出すことになる共産同派は、「67.10.8羽田闘争以来の暴力闘争が巨大な壁に逢着した」(69.10「理論戦線」9号)として「敗北」の総括をした。 この総括は、やがて「暴力闘争の質的転換」の是非をめぐる党内論争に発展 し、党内急進派は、「11月決戦期に、これまでどおりの大衆的ゲバ棒闘争を駆使しても敗北は決定的である。早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起すべきである」(前記「理論戦線」9号)と主張して、本格的軍事方針への転換を強く主張していくこととなった。この流れが赤軍派結成に向かうことになった。

 5.2日、大蔵省と日銀が「貿易収支の黒字30億2500万ドル」と発表。


 5.14−15日、京大全共闘、医学部校内を全面封鎖。学生部再封鎖。


 5.17日、新宿西口フォーク集会に機動隊が初出動。群集2千人が集まる。以後毎土曜の西口広場でのフォーク集会が7月まで5000名規模で開催された。


 5.20日、立命館大学内の「わだつみ像」が全共闘系学生によって破壊される。

 5.21日、日大闘争1周年全学総決起集会。4000名が理工へデモ。校舎内に突入。

 5.22日、「6行委」と「6.15実行委」(新左翼党派、反戦青年委、全共闘なども参加)の合同世話人会で、中核派など8派政治組織と15大学全共闘とともに市民団体が6.15日に共同デモを行なうことで一致。

 5. 28日、229団体により「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6.15集会実行委員会」 正式に発足。

【この頃の反戦成年委員会】
 6月の、治安当局の調べでは、全国に約490の反戦青年委員会の組織があり、構成人員は2万人以上だった。そのうち、社会党の指導下にあった組織は半分以下にまで落ち込んでおり、その他は新左翼系セクトの指導下になっていた。代表的党派とその掌握していた組織数は次の通り。社青同解放派(革労協)系84、共産同(ブント)系67、中核派系53、第四インター系32、革マル派系11。この中にあって反戦青年委員会の組織作りの初期から参画していた社青同解放派がさすがに主流を保っていた。10県反戦連絡会議の中心勢力は、社会党青少年局を中心とする構革左派「主体と変革」グループ(倉持和朗、鈴木達夫ら)・「根拠地」グループ(三田岳、高見圭 司ら)であった。

 6.8日、ASPAC粉砕闘争。1万2000名が伊藤駅前に結集。全学連は伊藤警察を攻撃。207名逮捕される。6.9日、現地集結に向かう中核派全員逮捕される。

 6.15日、反戦反安保沖縄勝利統一行動。東京で362団体主催の反戦・反安保・沖縄闘争勝利統一集会。労農学7万人が日比谷から東京駅へデモ。 全国72カ所で十数万名が決起。

 6.15日、日本でレコード「フランシーヌの場合」発売。樺美智子さんの9年目の命日。

【「大学運営臨時措置法案」提出され、大学治安立法粉砕闘争始まる】
 6.24日、大学運営臨時措置法案が、衆議院本会議で文相の坂田道太により趣旨説明と質疑が行われた。「@・紛争大学の学長は6ヶ月以内で、一時休校とすることができる。A・文部大臣は紛争が9ヶ月以上経過した場合、教育、研究の停止(閉校措置)ができる。B・閉校後3ヶ月を経過しても収拾が困難な場合は、廃校措置をとる。C・臨時大学問題審議会を設ける」などが文案となっていた。

 野党、マスコミはこぞって、「大学攻撃に名を借りた治安立法だ」、「大学の自治を侵す」、「大学紛争をますます困難なものにする」と反対の姿勢を示した。田中幹事長が精力的に動き、公明党・矢野じゅん也書記長、民社党・佐々木良作書記長、社会党・江田三郎書記長らと個別会談するも物別れに終わる。

 6.28日、新宿西口広場でフォークソング集会。機動隊導 入され64名逮捕。6.29日、新宿西口地下広場の反戦フォーク集会に7000名が参加。

 6月、日共を除名された元佐賀県委員の大隅鉄二は佐賀県内で独自に「親中国派」の組織づくりをすすめていたが、「日共山口左派」が結成されるとそれに合流し「日共左派佐賀県委員会」の責任者となった。しかし、その後分派活動によって「日共左派」を除名されると、同志を糾合し、「日本共産党革命左派」を結成した。


 6月、「楯の会」の三島由起夫が、陸自調査学校(東京都小平市、現・小平学校)副校長で陸将補山本舜勝(きよかつ)を呼び出し、皇居突入「クーデター計画」を打ち明けている。しかし、山本は反対し、同席していた三島シンパの自衛官に「憶病者」とののしられたという。

 6.30日、京大教養部民青同系代議員大会粉砕。3000名 結集し、機動隊と民青同を制圧、時計台前で大学治安立法粉砕集会。


 7.10日、大学立法粉砕闘争。早大に8000名結集して国会へデモ。早大で革マル派を除く諸派が早大全共闘結成、全学バリスト突入。

 7.11日、日本共産党は「べ平連は反共暴力集団」との無署名論文を発表。

 7.13日、東京都議会議員選挙(自民第一党に復活、社会第三党に転落)。


 7〜8月、8健保法、防衛二法、大学運営臨時措置法など、国会混乱のなかで成立。


 7.15日、党創立47周年記念中央集会で、蔵原惟人幹部会員が「共産党が政権の座についても、共産党に反対の党も含めて他党派の存在と活動を禁止することはしない」と演説。これが共産党による「政党支持の自由」の最初のコメントとなった。

 7.20日、米宇宙船アポロ11号が人類初の月面着陸。


 7月−8月 国会、大学立法粉砕闘争。


 7.24日衆議院文教委員会で大学運営臨時措置法案を自民党が強行採決。


 7.25日入管法粉砕闘争。反戦・学生7000名が集会と国会デモ。

【「大学の運営に関する臨時措置法案」強行採決】

 7.29日、大学運営臨時措置法案を衆議院本会議で可決し、参議院に送った。田中幹事長が園田直国対委員長を説得し、強行採決に踏み切っている。

 8.2日、参議院文教委員会で、大学運営臨時措置法案を強行採決。翌3日議長職権で参議院本会議が開会され、重宗議長の抜き打ち提案で強行採決。この時、田中幹事長が、重宗議長に「早くベルを鳴らせ、やらなきゃこのオレが許さんぞ」と詰め寄り、「こんな状態が続けば日本の教育は崩壊する。年寄り(当時重宗議長は75歳)だからといって無責任は許さん」と怒鳴りつけ、嫌がる重宗議長にベルボタンを押させた、と伝えられている。69.8.3日午後8時のことであった。

 8.3日、 「政府の大学介入である」とする野党の猛反発を尻目に、自民党は大学臨時措置法(紛争が長引けば解校の措置もありうる)を抜き打ちで成立させる。これにより、それまで機動隊導入に根強い抵抗を感じていた大学側の機動隊出動要請が相次ぐ。この頃、警視庁機動隊は1日平均8.5回も出動している。


 8.17日、「大学の運営に関する臨時措置法案」が成立施行された。各大学当局が、積極的に警察力によって事態を収拾しようとする姿勢に転じた。広大に封鎖解除のため機動隊導入。広大全共闘抵抗する(広島闘争)。京大・九大で連帯集会。 

【赤軍派結成】
 8.28日、赤軍派結成。塩見孝也、高原浩之らの共産同少数派は、新たに「共産主義者同盟 赤軍派」を発足させた。その建軍アピールにおいて「革命の軍団を組織せよ!すべての被抑圧人民は敵階級、敵権力に対する自らの武装を開始せよ!」と宣戦布告した。

 
赤軍派は、「前段階武装蜂起」 を唱え、学生活動家=革命軍兵士の位置づけで武装蜂起的に「70年安保闘争」を闘おうという点でどのセクトよりも突出した理論を引き下げて注目を浴びた。実際に機動隊に対する爆弾闘争、交番襲撃、銀行M資金作戦等のウルトラ急進主義化で存在を誇示した。9月「大阪―東京戦争」事件を引き起こした。10.21国際反戦デーには最初の鉄パイプ爆弾を登場させ、ピースかん爆弾によるパトカー襲撃なども行った。

 当初メンバーは京大、同志社大、立命館大などの活動家約400名であり、それまでの街頭闘争ではそれ以上の戦いは出来ぬ、それまで依拠してきたブント主義も革命的敗北主義であるとして、「前段階武装蜂起−世界革命戦争、世界党−世界赤軍−世界革命戦線」という新路線を打ち出していた。

 赤軍派の誕生と並行して、後に連合を組むこととなった「京浜安保共闘」が生まれている。共産党から脱党した親中国派メンバーとブントから親中国派となっていたML派メンバーが「銃口から政権が生まれる」をスローガンに毛沢東思想の下に「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」を設立し、人民革命軍を結成した。「京浜安保共闘」はその公然組織として位置付けられていた。


 8.31-9.1日、ハワイで田中.ニクソン会談。竹下、金丸、亀岡ら20数人の国会議員も集まった。その中の大物議員の「ニクソンがロッキード、ロッキードと言うので困ったよ」というオフレコ発言が為されている。


【「全国全共闘会議」結成される】

 9.5日、日比谷野音で「全国全共闘会議」が結成された。こうして「70年安保闘争」を担う運動主体が創出された。全国全共闘は、どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)が議長に、日大全共闘の秋田明大が副議長に選出されたことからも明らかなように、ノンセ クト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼各派の統一連合的共闘運動として結成されたことに特徴があった。革マル派を除く新左翼8派が参加して全国178大学の全共闘組織、全国の学生約3万名が結集した。

 8派セクトは次の通りである。@.中核派(上部団体−革共同全国委)、A.社学同(々共産主義者同盟)、B.学生解放戦線(々 日本ML主義者同盟)、C.学生インター(々 第四インター日本支部)、D.プロ学同(々共産主義労働者党)、E.共学同(々社会主義労働者同 盟)、F.反帝学評(々社青同解放派・革労協)、G.フロント(々統一社会主義同 盟)。 大会は「70年安保粉砕、沖縄闘争勝利」などのスローガンを採択、代々木公園までデモ行進した。


 9.9日、ホ.チミン国葬。遺言発表される。


 9.22日、赤軍派、大阪、京都で 交番を襲撃。


 10.4日、藤原弘達氏に拠れば、この日早朝自民党幹事長田中角栄からの電話で、藤原氏が出版予定の「創価学会を斬る」の出版指し止め要望が為されたと云う。以降、10.11日、10.23日この件での会食をしている。但し、会談は決裂した。結局11月初旬に発行となった。創価学会からと思われる様々な妨害が為されたが、却って評判を生み100万部を越えるベストセラーとなった。 


 10.4日、宮顕共産党書記長、「10.21集会には両原水禁組織とべ平連は入れるべきではない」と発言。ここでも、宮本氏らしい動きが見られる。


 10.8日、全国全共闘5000名、日比谷 野音で羽田闘争2周年の集会。

 10.10日、安保粉砕・佐藤訪米阻止大統一 集会に10万人結集。べ平連など市民団体、全共闘、反戦青年委、革マル系 全学連など結集。全国各地でもデモ。

【「69.10.21国際反戦デー闘争」】

 10.21日、国際反戦デー、各所でゲリラ闘争。社.共.総評の共闘で全国600ヵ所で86万人参加。東京では、都公安委員会による一切の集会・ デモの不許可に関わらず新左翼系のデモ、各地で警察と衝突各所でゲリラ闘争展開。中核派が、新宿・高田馬場を中心に都市ゲリラ型闘争を展開、群衆を交えて市街戦を展開。社学同−全共闘グループは両国・東日本橋で、反帝学評−旧構造改革派グループは東京駅八重洲周辺で、革マル派は戸塚2丁目で。襲われた警察署4,派出所17、一種戦場と化した。逮捕者全国で1508名。そのうち東京1121名。


【「小西軍曹の決起」】「反戦自衛官小西軍曹の闘い」参照)
 「1969年秋、70年安保闘争に対して自衛隊は全国的に治安出動態勢に突入した。このとき、航空自衛隊佐渡レーダーサイトに服務していたら、小西誠・三曹(20歳)が起った。小西三曹は、同年9月から同分屯基地内に「治安出動訓練拒否」、「自衛隊に自由を、民主主義を」などと書かれたビラ百数十枚を張り出すと共に、同年10.18日に分屯基地の営内で始まった治安出動訓練を全隊員の前で拒否した。

 11.1日、自衛隊佐渡基地で、小西誠三曹、反戦ビラを撒いて自衛隊警務隊に逮捕される。反戦自衛官の誕生。11.22日、自衛隊法第64条違反「政府の活動能率を低下させるサボタージュを煽動した」として新潟地裁に起訴された。

 裁判は70.7月から第一回後半が開始され、75.3月、新潟地裁は「検察官の証明不十分」という理由で無罪を宣告した。憲法判断を回避したのだ。そして、控訴審・東京高裁では「審理不十分」として差し戻し判決が下され、さらに差し戻し審の新潟地裁では、81年、再び小西誠三曹に無罪判決が言い渡された。この判決に検察は、控訴をしなかったため、判決は確定した」。

 11.5日、警視庁、首相官邸襲撃の為の軍事訓練を目的として山梨県大菩薩峠で武装訓練中の赤軍派53名が逮捕された「大菩薩峠事件」。 同派は、総理官邸に鉄パイプ爆弾を投げながらダンプカーで突っ込む、という訓練をしていた。


 11.16日、佐藤訪米阻止闘争。
【「セクト間ゲバルト」発生する】
 この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。両派は「70年安保闘争」に 向かうエネルギーを急遽対革マル派とのゲバルトにも費消せねばならないことになった。こうして、後に満展開することになる「新左翼セクト間ゲバルト=党派ゲバルト」は、既に69年後半期より突入することになった。全共闘運動に対する民青同の敵対は既述した通りであり、折り込み済みであったと思われるが、この革マル派による公然ゲバルト闘争化は不意をつかれた形になった。 社青同解放派、中核派は、68−69年闘争の経過で激しい武闘を連続させ多数の逮捕者を出し、組織力を弱めていた。特に中核派は逮捕者が多く、11月闘争で多数の逮捕者を出していた。逆に革マル派は組織温存的運動指針によりそれほど逮捕者を出さなかったために相対的に組織力が強化されたこ とになっていた。

 11.28日、東大闘争裁判支援の抗議集会(日比谷野音)で、半数を占めた革マルと他派がゲバルトを起こし革マル派が武力制圧した。 中核派は、革マル派との内ゲバに敗退したことを重視し、反戦労働者をも巻き込みつつ反撃体制を構築していくことになった。

 12月14日、糟谷君人民葬でも、これに参加しようとした革マルと認めない中核派間にゲバルトが発生した。 翌12.15日中核派は革マル派を武装反革命集団=第二民青と規定し、せん滅宣言を出したことで対立が決定的になる。

(私論.私観) ゲバルトの発生をどう観るか

 私は、ゲバルトの正邪論議以前の問題として、「70年安保闘争」の最中のいよいよこれから本番に向かおうとする時点で党派ゲバルトが発生したことを疑惑している。この時のお互いの論拠が明らかにされていないので一応「仮定」とするが、革マル派が、独特の教義とも言える「他党派解体路線」に基づきこの時期に公然と敵対党派にゲバルトを仕掛けていったのであるとすれば、 「安田決戦敵前逃亡事件」と言いこのことと言いあまり質が良くないと思うのが自然であろう。つまり、内ゲバ一般論はオカシイということになる。もっとも、 これに安易に憎悪を掻き立てさせられ、社青同解放派、中核派両派が「70年安保闘争」そっちのけでゲバルト抗争に巻き込まれていったとするならば幾分能なしの対応と見る。

 やはり、こういう前例のない方向において運動路線上の転換を図る場合には、大衆を巻き込んだ「下から討議」を徹底して積み上げねばならないのでは無かろうか。その際には事実に基づいた正確な経過の広報が前提にされる。なぜこのように思うかというと、この後検討する予定にしている新日和見主義事件の考察の際にも関係してくるからである。この「討議がない」ということが左翼の致命的な悪しき習慣的組織論に起因している、とみる。補足すれば、大衆討議は、正しさを確信し得る者達だけに可能な路線であると思う。下部構成員はそれを要求せねばならないとも思う。そういうことが出来ない組織はどこかオカシイ。


 11.16日、佐藤訪米阻止闘争。蒲田駅付近で機動隊と激突。全国で2156名逮捕される。蒲田周辺に「自警団」誕生している。この日の闘いを機として運動はやがて一方で武装闘争−ゲリラ戦へと上り詰めていく。


 11.21日、ワシントンで佐藤.ニクソンによる日米首脳会談。共同声明発表(安保堅持、沖縄の72年返還を約束)。この会談で「『核抜き』、『本土並み』で沖縄を3年後に返還(72.5月)」という沖縄復帰が合意された。共同声明が発表され、第6項には、「両者は、日本を含む極東の安全を損なうことなく沖縄の日本への早期復帰を達成するための具体的な取り決めに関し、両国政府が直ちに協議に入ることに合意した」と書かれていた。


 11月、「日本共産党(左派)」(日共左派)が結成された。代表・福田正義、機関紙・人民の星、機関誌・革命戦士。日共山口県委員会では、66年5月に発表された「自主独立路線」の討議をめぐり、日共中央支持派と中国路線支持派との対立が深まり、県常任委員の福田正義ら親中国系グループは公然と分派活動を開始した。これに対して日共は親中国系分子の除名など強硬な統制処分で臨んだため、福田正義らは69年11月、「日本共産党(左派)」を結成して日共から分派した。

 その後同派は中国共産党との交流活動を活発化させるとともに、青年組織「共青(代表者・安部淳二)」を通じて青年・学生工作の強化を企図してきた。しかし、75年3月に至り、いわゆる「三つの世界論」の位置づけ問題をめぐって内部対立を生じ、少数派が分派し「関東地方局派」を結成したため、勢力の後退を招き現在に至っている。


  こうして大学立法に基づく封鎖解除で70年を待つまでもなく学園は平静に戻り始めた。70年には紛争校46校、うち封鎖・占拠されているものは10校と減 じた。

 12.2日、佐藤首相が衆議院解散。沖縄の日本復帰交渉での訪米からの帰国直後に解散したので「沖縄解散」と云われる。


【「第32回衆議院議員総選挙(師走選挙)】

 12.27日、第32回衆院総選挙(師走選挙、佐藤首相、田中角栄幹事長)。沖縄返還の信を問う選挙となった。田中幹事長の采配で自民党が303議席(自民党288、無所属12)(←272)の大勝。これは、原敬政友会以来の絶対多数であった。社会党は44議席失い90議席(←134)に転落、公明党47名、民社党31名、共産党14名、無所属16名。田中角栄は10期目当選、13万3042票。

 この時羽田孜・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・高島修・佐藤恵・石井一、斎藤滋与史、小坂徳三郎、綿貫民輔、中山利生、佐藤守義、林義郎、稲村利幸、野中英二、有馬元治らが初当選している。渡部恒三は追加公認。これらの新人組が当然の如く田中入りして「44年組」と云われる軍団になった。浜田幸一もこの時の当選組み。森喜郎もこの時の初当選で追加公認されたが、福田派に入っている。佐藤派は59名と膨張し、参院の46名を加えると、史上空前の105名となった。

 佐藤派は、福田−保利ラインと田中−川島コンビとに分かれつつあった。

 「70年安保・沖縄闘争」を目前にした69年の総選挙で、社会党は前回(67年)の140議席から一挙に50議席を失う惨敗を喫し、以降、70年代から80年代前半を通じて110議席前後の低迷を続けることになった。社会党は組合の機関決定による締め付けで総評系労組を自己の世襲領地とみなしてきたが、社会党の衰退は総評の似非急進的な組合運動が同盟・JCのブルジョア的労働運動に敗北し、後退していく過程と軌を一にしていた(社労党「日本社会主義運動史」)。


 12月、衆院選に不破初当選。宮顕委員長は破顔一笑して、記者団に、「見ていて下さい。こいつ、バッジつけたら、十人前の働きするから−−−」といった。子飼いの愛弟子であることを強く印象付けた。

【公明党.創価学会の「言論.出版妨害事件」起こる】
 1969年から70年にかけて公明党.創価学会の「言論.出版妨害事件」起こる。




(私論.私見)