戦後党史プレ期 | 第3部 | 45年終戦への動き | 天皇の御聖断への流れ |
(最新見直し2006.10.8日)
(参考文献)
「Household Industries」の日本占領期年表 | 石川寛仁 | ||
「戦後占領史」 | 竹前栄治 | 岩波書店 | |
「昭和の歴史8」 | 神田文人 | 小学館 | |
「昭和天皇の終戦史」 | 吉田裕 | 岩波新書 | 1992.12.21 |
敗戦必至の形成になってから、終戦工作が目立たぬように進行していった。その流れを追跡して見たい。
1.25日、近衛文麿、岡田啓介、米内光政、京都の仁和寺の問跡岡本慈航らが会合、敗戦後の処理を協議している。この場で、天皇の退位と出家が話し合われ、「天皇を法皇とさせ、問跡として仁和寺にお住みいただく」計画が練られたと伝えられている。
2月、この頃、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東条英機らの重臣が各々天皇に拝謁して、戦局に対する見通しを上奏している。この時、明確な政治的方向性をもって天皇に上奏したのは近衛一人であった。
【「近衛上奏文」】 | ||||
2.14日、近衛は天皇に以下のごとく奏上した。この時の近衛の上奏文は次の通り。
という、共産分子の策動と共産革命への危機感が縷々述べられていた。つまり、天皇の「聖断」の背景理由として、「当時の支配者は敗戦に伴う共産革命の危機を恐れていた」ということが存在していたということが踏まえられねばならないことになる。この危機が如何に推移していくことになるかが戦後史の一つのベクトルとなる。 |
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4月、終戦工作を密かに進めていた吉田茂が憲兵に捕まり、投獄された。
5.7日(〜8日)、ドイツ軍が無条件降伏した。
5. 9日、日本政府、ドイツ降伏後も日本の戦争遂行決意は不変である旨の声明を出す。
5.28日、第三回モスクワ会談。この会談で、ソ連の8.8日までの参戦が明らかにされた。
5.30日、重臣会議。米内海相が突然、講話問題について発言した。会議終了後、東条陸軍大将は、陸軍省に出向き、「海軍大臣及び東郷外務大臣の話を聞くと、我が国は今にも降伏しそうだが、今こそ陸軍はしっかりしないと困る」と阿南陸軍大臣を叱責している。
6.8日、天皇臨席の最高戦争指導会議が宮内庁で開かれ、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を定め、「すみやかに皇土(日本本土)の戦場態勢を強化し、皇軍の主戦力をこれに集中する」と決定し、「本土決戦」の方針を打ち出す。
6.22日、天皇臨席の最高戦争指導会議で、天皇が終戦を目標とする「時局収拾」方策の具体化を次のように指示した。
これを受けて対日戦に参加していないソ連を仲介にして和平交渉を開始することが決定された。 |
6.23日、沖縄本島の日本守備隊が全滅。
7月、本土空襲がますます激しくなった。
【日米秘密和平工作】 |
2002.3.17日付け山陽新聞は次のような記事を載せている。7.4日から8月初旬まで約1ヶ月以上、スイスで「日米秘密和平工作」交渉が為されていた。ペール・ヤコブソン国際決済銀行(BIS)経済顧問の仲介で、米側責任者・アレン・ダラス戦略事務局(OSS)欧州支局長と日本側・横浜正金銀行の北村孝次郎BIS理事、吉村BIS為替部長の間で続けられた。会談の眼目は、終戦に応ずるに当たって「天皇制と明治憲法の維持」の確約を求める日本側の提案を廻ってであった。ダレス氏は、「ヤコブソン工作を、現段階で最も重要な案件」と位置付け、7.15日のヤコブソン氏との第一回目の正式会談の時に「危険を冒すことが最も安全な方策だ」として、事実上天皇制の維持を容認するメッセージを送っていた。 |
【ポツダム会談1】 |
7.7日、トルーマンが、チャーチル.スターリンとの東ベルリンの郊外のポツダムでの会談に向かう。チャーチル.スターリン.トルーマンが東ベルリンの郊外のポツダムで会談。
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7.16日、会談前日のこの日、米アラモゴードで原爆実験成功。トルーマンは、原爆実験成功の一報を受け、チャーチル、スターリンとの米英ソ3巨頭会談の状況が一変する。
【ポツダム会談2】 | |||||||||||||||||||||
7.17日(〜26日)、ベルリン近郊のポツダムで会談が開かれた。米国は、トルーマン大統領、バーンズ国務長官。バーンズ国務長官は、大統領補佐として参加。外交系形の無かったトルーマンのアドバイザーとなった。トルーマン大統領、チャーチル首相、蒋介石総統が対ドイツ問題の処理、ヨーロッパの戦後秩序、日本に対する降伏勧告について協議した。
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こうした緊迫した情勢の中で、政府の内部の足並みが乱れた。ポツダム宣言受諾派(東郷茂徳外相、米内光政海相、鈴木貫太郎首相)が木戸右大臣と連携しながら軍部の強硬派と対立した。この動きに、近衛、重光葵、高松宮宣仁のぶひと(昭和天皇の二番目の弟)、一部の官僚グループが列なった。
これに対抗したのが徹底抗戦派(阿南惟畿あなみこれちか陸相、梅津美治郎よしじろう参謀総長、豊田副武そえむ軍令部総長)で、@・国体護持、A・軍隊の武装解除は日本側が自主的に行う、B・戦争犯罪人の処罰は日本側で行う、C・保障占領は行わないの4条件を主張した。
7.27日、東郷茂徳外相が、ポツダム宣言について内奏した。
7.28日、鈴木首相は、内閣記者団との会見で、「この宣言は重視する要なきものと思う」と発言した。「鈴木貫太郎自伝」は、次のように記している。
「この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点であり、この一言を余に無理強いに答弁させたところに、当時の軍部の極端なところの抗戦意識が、いかに冷静な判断を欠いていたかが分かるのである」。 |
「ところで余の談話はたちまち外国に報道され、我が方の宣言拒絶を外字紙は大々的に取り扱ったのである。そして、このことはまた後日ソ連をして参戦せしめる絶好の理由を作ったのであった」。 |
8月、この頃にまとめられた内務省警保局の内部文書は次のように記述されている。
概要「国民の間の『不敬言動』を質的に検討するに、その言動の内容及び動機において著しき悪化の傾向が窺われる」として、天皇に対する『不敬言動』の内容を次のように類別していた。@・敗戦必至を前提として、陛下の御将来に不吉なる憶測を為す者、A・敗戦後、戦争の責任は当然、陛下が負い奉るべきものなりと為す者、B・戦争悪化の責任を畏くも陛下の無能力にありと為し奉る者、C・戦争の惨禍を国民に与えたるものは陛下なりとして、これを呪詛し奉る者、D・陛下は戦争圏外に遊情安逸の生活を為しおるとして、これを怨嗟し奉る者。(「日本終戦史・上」、「昭和天皇の終戦史より引用」)。 |
宮中も、こうした治安情勢の悪化を酸く実に把握していた。この時期の「木戸幸一日記」を見ると、内大臣の木戸が内務省の警保局長や警視総監といった治安関係の責任者と頻繁に接触していたことが分かる。また、「日本憲兵正史」によれば、太平洋戦争の開戦後、内大臣と憲兵司令官との間には極秘の連絡ルートが設定され、内大臣は直接憲兵司令官を通じて各種の情報を収集していたと伝えられている。
【広島に原爆投下】 |
8.6日午前8時15分、広島に原爆投下される。原爆を搭載したB29「エノラ・ゲイ号」は、グアム島の戦略爆撃司令部から「午前8時から9時にかけて、目標とする都市の上空で原爆を投下せよ」との命令を受け、マリアナ諸島テニアン島から飛び立った。広島に侵入し、「リトル・ボーイ」が投下された。 |
【ソ連が対日参戦布告で参戦】 |
8.8日、ソ連が対日参戦布告し、翌日、参戦、赤軍が満州に侵攻した。モンゴル南東部国境から沿海州地方、樺太国境に至る全戦線で一斉に攻撃を開始し、越境を始めた。8.9日朝、主力が満州(現中国北東部)内部に侵攻を始めた。150万のソ連軍に対し、士気を阻喪せしめられた関東軍は各所で敗退を重ね、満州国は一気に崩壊した。 日ソ中立条約は役に立たなかった。裕仁天皇は、木戸幸一内大臣に謁見し、「本日よりソ連と交戦状態に入った。戦局の収集につき急速に研究、決定の必要があると思う。首相と十分に懇談して欲しい」旨申し渡した。 急遽「最高戦争指導者会議」が開かれ、鈴木首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相、梅津美次郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長で、ポツダム宣言受諾を前提として、どのような条件をつけるかを論議した。条件に挙げられたのは、@・国体の護持、A・自社的な撤兵、B・日本による戦争責任者の処理、C・保障占領をしないことの四点であった。ポツダム宣言受諾派と条件付受諾派と徹底抗戦論調が交叉し、容易に結論が得られなかった。論議はまとまらず白熱しているうちにも長崎への原爆投下の報が伝えられ、何ら結論を出せぬまま会議は中止となった。 |
【長崎に原爆投下】 |
8.9日午前11時1分、長崎に原子爆弾が投下された。 |
【御前会議で小田原評定】 | ||
8.9日午後11時50分、御前会議が開かれ、先のメンバーのほか平沼騏一郎枢密院議長が列席を許され会議が始まった。東郷茂徳外相、米内光政海相、平沼騏一郎枢密院議長が国体維持だけを条件にポツダム宣言受諾を主張した。阿南惟幾陸相、梅津美次郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長が四条件の固守を主張し、議論は3対3に分かれ決しなかった。
昭和天皇は、首相を席に就かせてから次のように宣べた。
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8.10日、トルーマン大統領は次のように声明している。「我々は、予告もなしにパール・ハーバーで我々を攻撃した者達に対し、また、米国人捕虜を餓死させ、殴打し、処刑した者達や、戦争に関する国際法規に従うりをする態度すらもかなぐり捨てた者達に対して、原爆を使用したのである。我々は、戦争の苦悶を早く終わらせるために、何千何万もの米国青年の生命を救う為にそれを使用したのである」。
8.10日、日本政府は、中立国スイスを通じ、原爆投下や東京大空襲のような無差別都市爆撃は国際法違反であるとする抗議文を送った。
【御前会議でポツダム宣言受諾を決定】 |
8.10日、御前会議で「国体護持」条件にポツダム宣言受諾を決定。政府は、「天皇の国家統治の大権を変更することがない」という条件付与付で連合国側に通報した。 2002.8.16日付け朝日新聞は、「中国の北京青年報は15日付で、元新華社記者(89)の話として、中国共産党の毛沢東主席は、日本で降伏が正式に発表される5日前の45年8月10日に日本の降伏を知ったという事実を紹介した」と記事にしている。「日本の敗戦当時、呉氏は中国共産党の本拠地、陜西省延安に通信機を持ち込み、世界中の通信社の情報を集めていた。10日午後9時すぎ、ロイター通信の電文用紙に『flash(特急電)』とあり、『日本降伏』とだけ記載されていた。呉氏は党本部に電話して直接毛主席へ取り次いでもらい、本人に伝えた。『よかった。引き続き何かあったらまた私たちに知らせなさい』と毛主席は答えたという。10日は日本で天皇臨席の御前会議が開かれ、ポツダム宣言受諾を決めた日」。 |
8.12日、連合国側から回答がもたらされた。6か条の返書となっており、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」となっていた。「制限の下に置かるる」は、外務省の意図的な配慮訳で原文には従属を意味するsubjectとあった。平沼枢密院議長も、「これでは国体は維持できない」と宣言受諾反対を進言した。徹底抗戦派はこの回答文の受諾に反対した。
8.13日、御前会議とそれに続く閣議が開かれ、受諾慎重論が台頭し、紛糾。 |
【天皇の御聖断】 | |||||||
8.14日、最後の御前会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾を最終的に決定、「御聖断」した。この決定は直ちに連合国に通告された。 場所は宮中の防空壕の中であった。まず東郷外相が宣言受諾やむなしを述べた。これに対し、阿南陸相が本土決戦を呼号して次のように述べた。
反対した。米内海相は東郷外相説に賛成。平沼枢密院相は40分近く詮議した後外相説に賛成。梅津参謀総長.豊田軍令部総長は陸相説に賛成した。 こうして抗戦派と和平派の比率は3対3、御前会議は紛糾した。鈴木首相は自己の意見を述べぬまま次のように諮った。
こうして最後の決が天皇によってしか決められない事態となった。天皇は次のように宣べられた。
かく述べ、「進むも地獄、引くも地獄の」体制危機に際して、「引く地獄」=無条件降伏の道の方のカードを「聖断」することとなった。 |
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【「終戦の詔書」】 |
8.14日午後8時30分、鈴木首相は、昭和天皇に拝謁して、「終戦の詔書」案を説明し、裁可を得た。原案は、迫水内閣書記官長が、漢学者の安岡正篤(まさひろ)、川田瑞穂(みずほ)の手を借り、三日かけて草稿が練り上げられた。戦争終結の大英断の背景には「近衛文麿上奏文」の影響もあったと思われる。「終戦の詔勅、その他詔勅」で別稿で検証する。 |
明治の政府と重臣達は、戦争しつつ引き際を考えていた節があるのに比して、天皇と最も近い立場にいた木戸内府は、「衆知を集めて熟慮すれども断行せず」。そうこうするうちにもこの間吉田一派の和平工作が進行していた。
8.14日、鈴木貫太郎内閣は、降伏決定の手続き終了後、戦後対策委員会を内閣に設置し、「軍需用保管物資の緊急処分」を指示した。
8.15日、マッカーサー(当時65歳)が連合国軍最高司令官に任命される。
国体の護持と天皇制の存続の両面確保。近衛の「国体の否認ということと、陛下の御責任ということとは、必ずしも同一事項ではないと思う」(「高木海軍少将覚書」)。戦争犯罪人の処罰に対する危惧。
【関東軍の動き】 |
玉音放送を聞いた関東軍総司令部では、抗戦を廻って激論となった。翌8.16日、秦彦三参謀長が「我ら軍人は天皇陛下の勅令に従う以外に忠節の道はない。これに従わない者は永久に乱臣賊子だ」と叱責し、徹底抗戦派もこれに屈した。次いで、山田総司令官が「聖旨を奉戴し、終戦に全力を尽すのみ」との最終判断を下した。 8.17日、関東軍は、ソ連側に対し、山田総司令官名義で軍事行動の即時停止と武器の引渡しを関東軍全部隊に命令したことを伝えた。しかし、ソ連側は、「天皇の15日の布告は一般的な宣言に過ぎず、軍隊に対する戦闘停止命令を明確に発布していない。実際、日本軍はまだ降伏せずに抵抗を続けている。それゆえ、天皇が軍隊に降伏命令を出し、それが確実に実行されるまで、我が軍が攻撃を止めることはない」と返答している。 8.19日、日ソの軍事的戦闘中止確認が行われ、これ以降ソ連軍が満州国の主要都市に先遣隊を送ってきた。「虎頭要塞」をはじめいくつかの拠点では依然として日本軍の戦闘が続いていたが、8月下旬までには銃を捨て、投降が完了した。 |
(私論.私見)