第28部 1967年当時の主なできごと.事件年表
ベトナム反戦闘争と新左翼系学生運動の激化

 (最新見直し2007.3.7日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第7期その2、ベトナム反戦闘争と学生運動の激化」に記す。


 1.8日、第31回総選挙が公示され、1.29日の投票が決まった。この時、定数が467から48119議席増えている。


【中共との関係悪化】
 1.24日付け赤旗に無署名論文「紅衛兵の不当な非難に答える」論文が発表され、公然と名指しで中共及び毛沢東を批判した。北京在住の日共党員10名が、「宮本修正主義」粉砕声明を発表。かくて、中国における文化大革命の深化に伴い日中両党間の関係が完全に断絶するに至った。

【明大学費値上げ阻止闘争】

 1.20日、明大学費値上げ大衆団交に1万5000名。1.28日明大で、スト収束をはかろうとする全学闘書記局と闘争継続を叫ぶ闘争委員が対立するという事態が発生している。以降泥沼化し、右翼的体育会系、機動隊の乱入と闘争委側との抗争が続き、2.2日大内委員長及び介添え役としての斎藤全学連委員長立会いの下で当局と妥結調印が為された。こうして明大闘争はボス交によって敗北的に決着したが、おってこの経過が問題とされ斎藤全学連委員長の失脚へと向かうことになる。

 1.22日、高崎経済大でも不正入学反対バリストに突入している。3.12日高崎経済大全学無期限スト突入。


【第31回衆議院議員総選挙】
 1.29日、第31回衆議院議員総選挙(佐藤首相、福田赳夫幹事長)。自民党14減の280、社会党参減の141、民社党7増の30、 公明党が25人当選(国会のキャスチングボートを握る)、自民党得票率50%を割る→多党化時代始まる。田中角栄は9000票増えて、12万2756票獲得のトップ当選。この時山下元利が滋賀県全県区から初出馬で当選している。堤康治郎の地盤を継いでいたが、この禅譲に角栄の骨折りがあった。

 共産党は5名当選。123名立候補。得票数219万票。

 自民党の派閥を見ると、佐藤派が4議席増やして57名となりトップ派閥となった。それまで首位の池田派は前尾派に代わり、13名減らして42議席。以来、名門・宏池会の首位奪還は成らなくなる。

 共産主義労働者党(構造改革派)結成。2月共労党の下に学生組織プロ学同結成。

【ベトナム反戦闘争と学生運動の激化】

 この時期は、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、今日の状況から見れば邪悪なアメリカ帝国主義とそれに抵抗するベトナム民族人民の闘いという 分かりやすい正邪の構図があった。アメリカ帝国主義に対する闘いは、本国 アメリカでも良心的兵役拒否闘争、ジョーン・パエズら反戦フォーク歌手の登場、キング牧師の黒人差別撤廃とべトナム反戦の結合宣言等々を含めた反戦闘争が活発化し始め、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアの青年学生もこれに呼応し始めていた。わが国でもベ平連の集いが各地で生まれつつ次第に支持の環を増し始めていた。

 こうした情況と世論を背景にして、この時期これに 学費値上げ反対闘争が重なることにより学生運動が一気に全国各大学の学園闘争として飛び火し始めることなった。民青同系全学連は主として学園民主化闘争を、新三派系全学連は主として反戦政治闘争を、革マル派系全学連は「それらの乗り越え闘争」を担うという特徴が見られた。特に新三派系全学連による砂川基地拡張阻止闘争・羽田闘争・佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争・王子野戦病院建設阻止闘争・三里塚空港阻止闘争等の連続政治闘争が耳目を引きつけていくことになった。この経過で、全学連急進主義派の闘 争が機動隊の規制強化といたちごっこで過激化していくことになり、過激派と言われるようになった。


 2.13日、中央委員会書記局、安斉庫治の除名処分を発表。

 2.13日、公明党第4回党大会で、竹入義勝委員長、矢野絢也書記長を選出。

 2.16〜18日、第3中総。総選挙総括と地方選挙闘争方針決定。

【三派系全学連委員長に中核派の秋山氏が就任、以降更に激烈化していく】

 2月、三派系全学連中央委員会で、斎藤克彦委員長(明大.社学同)が罷免され、秋山勝行(横浜国大.中核派)が新委員長となった。


 2.17日、第二次佐藤内閣発足。官房長官・福永健司(留任)、幹事長・福田赳夫。田中角栄は、「黒い霧事件」の責任をとるという形で幹事長を辞任、公認に福田赳夫が就任した。


 2.22日、佐々木社会党委員一長が「民社党は第二保守党」と発言、西村栄一民社党書記長は「社会党は第二共産党」と反論。


【「善隣学生会館事件」発生】(「善隣学生会館事件考」)

 3.2日、「善隣学生会館事件」が発生している。詳細は「善隣学生会館事件考」を参照されたし。「善隣学生会館事件」とは、1965年頃までは友好関係を維持していた日本共産党と中国共産党の関係が、1966年の中国での文化大革命の発生と共に急速に悪化し、断絶状態に至った。これに伴い、日中友好運動に大きな混乱が発生した。

 日中友好の証として拠点化されていた「善隣学生会館」で、毛沢東中共派と宮顕日共派のイニシアチブ闘争が起こり始めた。1966年10月25日、第13回常任理事会においてついに日中友好協会は分裂し、日共の反中国政策に反対する協会役員は、会館を出て新たに日中友好協会(正統本部)を結成することになった。日中友好協会が会館1,2階に引き続き陣取った。つまり、常任理事会レベルにおいては毛沢東中共派の方が少数派であり、追い出されたということであろう。

 「善隣学生会館」ところが、鉄筋5階建ての建物の3階から4階には中国人留学生が寮生として寄宿していたことから悶着が発生することになった。
在日中国人学生の自治会(中国留日学生後楽寮自治会)は本国毛沢東中共派の見解を支持し、当時の中国の紅衛兵の方法にならい、壁新聞(大字報)を会館に張り出して、「(日本共産党系の)日中友好協会は日中友好を推進せず、反中国活動を行っているのだから、日中友好を目的とするこの会館から出て行くべきである」という見解を主張し始めた。「最初にこのような壁新聞が張り出されたのは1966年11月であり、このような事情を受けて、日中友好協会の協会員と中国人寮生の関係は当然のように悪化していった」。

 こういう経過の中で、1967年の2月28日から3月2日にかけて事件(「善隣学生会館事件」)が勃発した。「その事実経過については、双方の主張がかなり食い違っている」。が、双方の主張からごく大雑把に共通点を拾い出してみると次のような事件であったようだ。まず最初に、中国留日学生後楽寮自治会が張り出した壁新聞を、協会の会員が破ったかどうかでトラブルが発生した。その後、混乱が続いたが、3月2日、日本共産党の動員部隊が、華僑学生と支援の日本人を『正当防衛権の行使』(日本共産党側の主張によれば)として、排除した。このとき、華僑学生側の主張によれば、凶器による暴行が行われ、華僑学生側に重傷者が出た。この『正当防衛権の行使』に至る過程で、日本共産党側の主張では、華僑学生側からの襲撃と不法監禁があったといい、華僑学生側の主張では、そのようなものはなかったというようなことになる。


【中共が日共批判、日共が反論】

 3.11日、人民日報が、「日本共産党は、米日反動派、ソ連と結託した修正主義分子」、「中日友好と貿易を発展させるためには、どうしても米帝国主義、日本の反動派、ソ連現代修正主義グループ及び日共修正主義指導分子と、断固として徹底的に闘わなければならない」とした主張を掲載した。

 3.19日、赤旗が、「中共は、反米帝の国際統一戦線に反対し、日本人民の解放闘争の諸条件を分析することもなく、選挙闘争を事実上、否定する大国主義、極左冒険主義、分裂主義である」と反論した。


 3月、日共佐賀県委員で中共派の大隅鉄二が除名された。大隈は、佐賀県内で独自に、「親中共派」の組織づくりを進めていたが、結集勢力が弱いところから、同年暮、山口県の「日共左派」と合流し、「日共左派佐賀県委員会」の責任者となる。しかし、綱領問題をめぐって、山口派と意見が対立し、1968.10月、「日共左派」からも除名され、1969.6月、「日共革命的左派」を結成する。


 3月、第3次防衛力整備計画策定。


 4.15日、第6回統一地方選挙。東京都知事に社・共推薦の美濃部亮吉氏が自民・民社両党推薦(前立教大学総長)松下正寿を破り東京都知事に当選、初の革新都政となった。横浜市長に飛鳥田一雄が当選。


【美濃部氏が東京都知事に当選】

 4.16日、東京都知事に社・共推薦の美濃部亮吉氏が自民・民社両党推薦前立教大学総長松下正寿を破り東京都知事に当選、初の革新都政となった。


 4.28日、統一地方選挙。


【「赤旗4.29論文」】

 4.29日、赤旗評論員論文「極左日和見主義者の中傷と挑発−党綱領にたいする対外盲従分子のデマを粉砕する」を発表(「4.29論文」)。公然と毛沢東指導部を批判、人民民主主義権力への過渡的形態としての「連合政府樹立」論が打ち出された。

 「4.29論文」は、「統一戦線政府を適法的に樹立する道」の機構的保障として次のように述べている。

 概要「現在の日本の国家機構の中で、国会が憲法上、政府首班の指名権をはじめ大きな権限を持っている。現在の日本では、現行憲法によって、国会には、戦前の帝国議会と大きく異なる新しい地位と役割が与えられた。第一に、国会は衆議院及び参議院による二院制をとっているが、両院とも、直接、平等、秘密の普通選挙によって選出されることが、憲法上保障されることになった。第二に、国会は、憲法上『国の唯一の立法機関』と規定され、内閣による政令の公布や外国との協定の締結、地方自治体による条例の制定などの例外はあるが、全国的意義を持つ主要な法律や条約は全て国会の議決を経て制定あるいは批准されることになった。最高裁判所が違憲審査の権利を持っている以外は、政府をはじめ他の如何なる国家機関も、国会の議決に対する明白な拒否権を持っていない。第三に、行政権を握る政府についても、内閣総理大臣の選出は、国会で行われることとされ、憲法上は、どんな場合にも、国会の承認なしに政府を作ることはできないようになった」。
 「これらの事実から、国会がブルジョワ議会としての制約と弱点を持っているとはいえ、今日の日本国家の中で、政治的、法制的に重要な役割を果たしている」。

 これに対し、議会主義的クレチン病という批判が為された。

 社会主義運動研究会、「労組の政党支持自由化」を提起

 5.26−28日、三派系全学連、砂川基地拡張阻止、公安条例撤廃のデモ 2000名結集し、機動隊と衝突。革マル派250名独自集会。


 5.28日、現地砂川で決起集会。この日は主催団体の揉め事で、共産党系の安保破捨中央実行委及び民青系全学連と、反戦青年委と反代々木系全学連の分裂集会となった。社会党は集会を中止した。このあと反代々木系全学連.反戦青年委700名が機動隊と衝突し、学生48名逮捕されている。


 6.5日、中東戦争始まる(「6日戦争」イスラエル軍対エジプト軍)。
 6.6〜9日、第4中総。地方選挙総括と機関紙拡大方針決定。

 6.15日、「第7回6.15記念集会」。ブント・中核派・社青同解放派・社学同ML派・革マル派・民青同・アナーキスト系各派が独自集会。総参加者は約5000名。

 6.20日、4度目の原潜横須賀港寄港阻止闘争に各派の学生が参加。三派系はここでも機動隊と激しくぶつかった。


 6月、社会主義協会第8回大会。この大会で、規約第二条の修正をめぐって、太田派と向坂派に分裂する。向坂派は以降別党コースを執り、党派化を非難しながら、自らもまた一つのセクト性のつよい党派として成長、発展していくことになった。


 6.21日、民社党第9回党大会で、西村英一委員長、春日一幸書記長を選出。


 健康保険法の処理を巡って社会党の佐々木委員長・成田書記長が辞意表明。


 6.22日、第二次佐藤内閣二次改造。官房長官・木村俊夫。


 6.30日、全学連、佐藤訪韓阻止闘争で300名が機動隊と衝突。

 7.9日、社共両党主催のベトナム侵略反対・砂川基地拡張阻止集会に労.学3万人。全学連・反戦青年委員会5000名は別行動をとり、基地正門前に座り込み。6時ごろから機動隊との激しい乱闘となり、100名以上が負傷、43名が逮捕。「流血の砂川」が再現することになった。この時民青系全学連は2000名を結集し、整然デモ。


 7.9日、ベトナム侵略反対・砂川基地拡張阻止集会に労学5万人。全学連・反戦青年委員会8000名は基地正門前に 座り込み。


 7.13日、革マル派全学連が第24回大会開催。43自治会、107代議員のほか750人のオブザーバーと発表されている。委員長成岡庸治(早大.一文)、副委員長根本仁(北教大)、佐々木通知(愛知大.豊橋)、書記長木下宏(東大.経)を選出した。


【新三派系全学連定期全国大会】

 7.12日、新三派系全学連定期全国大会。44大学(結成時35大学)・85自治会(結成時71自治会)・275代議員(結成時178代議員)、他に168評議員.21オブザーバーの1500名が参加。新三派系が勢力を扶植しつつあったことが分かる。主な演説は各派が分担し、運動総括は中核派の秋山委員長、状勢分析は社学同の成島忠夫、運動方針は社青同の高橋幸吉が行い、秋山委員長を再選した。副委員長は、成島忠夫(静岡大.社学同).蒲池裕治(同志社大.社学同)、書記長に高橋幸吉(早大.社青同)を選出した。

 ただし、新三派系全学連の蜜時代はここまでであり、これ以降中核派の台頭が著しくなっていくことによってかどうか、翌68.7月中核派は自前の全学連結成大会を開催し分岐独立することになる。同月反中核派連合の社学同「統一派」、ML派、社青同解放派、第4インターなども又反帝全学連第19回全国大会を開催し、反帝全学連を発足させることになった。ところが、この反帝全学連も社学同と社青同解放派間の対立が激化し、翌69.3月社学同側が単独で大会を開催し社学同派全学連を発足。7月には社青同解放派が単独大会を開き、解放派全学連として独立することになる。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。

 こうして、革マル派は革マル派全学連を、民青同は民青同系全学連を、中核派は中核派全学連を、ブント各派は社学同全学連等を、社青同解放派が全国反帝学生評議会連合(反帝学評)及び解放派全学連を結成し、併せて5つの全学連が揃い踏みすることになるというのが67〜69年の学生運動の流れとなる。なお、社学同派全学連はわずか3ヶ月後に内部での内紛が激化し分裂していくことになる。


 7.13日、民青系全学連が第18回大会開催。75大学156自治会から354代議員と255評議員、オブザーバー122大学の192名と発表されている。「学生運動.民主運動から暴力学生集団.分裂主義者を一掃しよう」などのスローガンを採択している。委員長田熊和貴(東経大)、副委員長岩村智文(東北大)らを選出。

 7月、福田正義らが結成した「日本共産党山口県委員会(日共山口左派)」が愛知、大阪、兵庫、福岡、佐賀など八府県に続き東京、神奈川両都府県に準備会を結成するなど、十一都府県に同派組織を結成した。これら各府県の「左派」勢力を結集して全国的統一を図るべく「日本共産党(左派)全国協議会」が組織された。


 7月、富士山の麓の本栖湖畔で、笹川、白井為雄、文鮮明の三者が世界反共連合設立の為の会議を開く。会談は不調に終わったが、「日本国内を白井為雄、国際的組織を文鮮明が取り仕切り、国際的反響組織の結成」の動きが見切り発車的に加速されていくことになった。


 8.3日、公害対策基本法公布→『公害列島ニッポン』


 8.5日、中央委員会、砂間.紺野両同志に対する北京空港での集団的暴行についてを発表し、極左日和見主義大国主義の攻撃を粉砕すると声明。北京に党中央委員会代表として駐在していた砂間一良幹部会員候補と紺野純一赤旗特派員が、北京空港で集団リンチを加えられた、と報ぜられた。

 8.19日、社会党第29回党大会で、勝間田清一委員長、山本幸一書記長選出。


 9.7日、佐藤首相が、戦後の歴代内閣の首相として初めて台湾を訪問している。9.9日共同コミュニケを発表し、「中華民国の国民政府(台湾)は中国を代表する唯一の政権である」とした。北京政府は激怒し、9.10日サンケイ・毎日・東京の北京特派員の国外退去措置を講じた。


 9.9日、「エンプラ寄港阻止1.17実行委」が発足。

 9.12日、三派全学連が東京.清水谷公園で集会を開き日比谷までデモ、口火を切った。

 9.14日、「法政大事件」が発生している。これは民青系と反代々木系が法学部の自治会執行部の正統を争い、前年より決着がつけられないままに至っていた。この状況から学部当局が自治会費を「凍結」していたことに端を発する。民青系と反代々木系の間に暴力事件が発生し「制止に入った教職員を含め、民青同側に約30名の重軽傷者を出すに至った」。9.8日処分が発表された。反代々木系はただちに「不当処分撤回全学共闘会議」を結成し、9.8日より大衆団交に入った。これがこじれて機動隊が導入され、居合わせた学生全員285名が検挙された。この時の機動隊の殴る蹴るが後々重要な意味を持つことになった。

 9.16日、「原理運動(統一協会) 対策父母の会」結成


 10.4〜6日、第5中総。「今日の毛沢東路線と国際共産主義運動」を決議、毛一派批判論文と日ソ会談実施を決定。 

【第一次羽田事件】

 67.10月からの7ヶ月は、後に「激動の7ヶ月」と言われ、三派全学連の特に中核派の行動が目立った。この頃からヘルメットにタオルで覆面、角材のゲバ棒という闘争スタイルが定着した。これは65年あたりから機動隊の装備が向上し、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメット・ジュラルミン盾などが登場していたという背景と関連していたようである。この間の機動隊によるデモ隊の「先制的並列サンドイッチ規制」がデモ隊に無力感を与え、いずれ闘争現場で乱闘することが双方明白になっていた。学生側には、機動隊のこの規制をどう打ち破り、壁を如何に突破するかという対応が課題となり、遂にこの頃から学生運動急進主義派の方もヘルメット・タオル覆面・ゲバ棒という闘争スタイルを編み出していくことになった。

 この闘争スタイルは、当時の法規制すれすれの自衛武装戦術であり、これを牧歌的といって了解することが 適正であるかどうか疑問も残るが、この頃の警察警備隊指揮者にはこれを許容するなにがしかの思いがあり、そう言う意味では取締り側にものどかさの度量があったのかも知れない。そういう時代が許容した範囲において、秋山勝行委員長の下新三派系全学連は機動隊に突進していく闘争を展開していくことになった。これに対して、警察はこれを実地訓練と見、またどんどん逮捕して保釈金で財政的にも締め上げ弾圧していくことになる。しかし、それでも闘争が活動家を生みだし、新三派系全学連が急速に力を増していくことになった。中でも中核派の伸張が著しく、反代々木系の最大セクトに成長していくことになった。


 10.8日、ベトナム戦争の激化に伴い安保体制の下で参戦国化しつつあった佐藤政府に対する抗議を旗印に反戦青年委員会を巻き込みながら、【佐藤首相の南ベトナム訪問阻止闘争=第1次羽田事件、京大生山崎君死亡事件】の日を迎えた。

 この闘いが60年安保闘争後の低迷を断ち切る合図となって新左翼運動が再び盛り上がっていくこととなった。そういう意味で、第一次羽田闘争は「革命的左翼誕生の日」として新左翼史上に銘記されることとなった。また、ヘルメット・角材などが初めて最初から闘争の武器として用意され闘われたという点でも転回点となった。「直接行動ラジカリ ズムの全面展開」、「組織された暴力の公然たる登場」とも言われている。この闘いを一つの境として、全学連急進主義派は自衛武装の時代からこの後街頭実力闘争へ、更に解放区−市街戦闘争へ、更に爆弾闘争へ、ハイジャッ クの時代へと突入していくことになる。


 10.9日、キューバ革命の指導者ゲバラの処刑がボリビア政府によって発表される。


 10.10日、赤旗論文「今日の毛沢東路線と国際共産主義運動」を掲載。正面からの中共指導部と毛沢東主義への批判が為された。


 10.1 0日、空港公団、機動隊2000名を動員して三里塚空港杭打ちを実施。反対同 盟1000名が阻止行動。


 10.17日、日比谷野外音楽堂で「虐殺抗議山崎君追悼中央葬」に1万余名が参加。秋山委員長逮捕される。但し、この頃三派間に中核派と反中核派の反目が生じつつあった。


 10.18日、ミニ・スカートのモデル・ツイッギー来日(ブーム本格化)。


 10.20日、吉田茂・元首相没(享年89歳、10.31日、戦後初の国葬)。


 10.21日、ベトナム反戦統一行動。全国44都 道府県で140万人参加。東京集会昼夜で6万名参加。三派系全学連は7000名を動員し、警察側を驚かせている。

 11.3日、三派系全学連が三里塚闘争に初めて組織的に参加。沖縄で祖国復帰総決起大会、18万名参加

 11月4ー5日、社会主義協会再建大会が箱根で開催され、社会主義協会はあたらしく出発した。機関誌として『社会主義』と『唯物史観』とを、大内兵衛、向坂逸郎両人の編集で、発行。ほかに労働大学発行の『まなぶ』および『月刊労働組合』と、同大学出版局に支持と協力をあたえている。


 11.11日、エスペランチスト由比忠之進、佐藤首相の北爆支持に抗議して首相官邸前で焼身自殺(享年73歳)。


 11.12日、佐藤訪米実力阻止闘争(第二次羽田闘争)。三派全学連300 0名空港付近で機動隊と激しく衝突。社学同.社青同解放派は前夜中大に終結し、中核派も合流し東大に籠城した。この時も三派全学連3000名が空港付近で機動隊と激しく衝突。結局300名を越す大量検挙が為された。この時の特徴として、機動隊側の装備の格段の充実が為され、検問強化.催涙ガス弾の容赦ない発射と合わせて学生側に無力感を与えたようである。この時反戦青年委・革マル派.民学同・フロントなどの構造改革派系学生も参加しデモ。


 11.13日、米空母イントレビッド号から脱走した4名のアメリカ兵がべ平連を通じて反戦声明を発表するという事件が発生。11.28日、右翼が、べ平連事務所を襲撃、破壊。

 11.14日、ワシントンで佐藤.ジョンソン会談。


 12.11日、衆議院予算委員会。佐藤首相は、社会党の成田知己の質問に対し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」が政府の政策であると述べた。後に「非核三原則」と云われることになった。


 12.17日、大武議長によるプロレタリア革命派の日本マルクス・レーニン主義運動第1回全国大会開催。

 12月、社青同解放派が「反帝学生評議会」(反帝学評)結成。

 12.28日、北京放送が、新しい水爆実験に成功と伝える。

 12月、佐藤首相が非核3原則を示す。





(私論.私見)