第26部 1965年当時の主なできごと.事件年表
党低迷、反戦青年委員会結成。

 (最新見直し2007.3.7日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動史第7期その1、全学連の転回点到来」に記す。

1.12 ワシントンで佐藤.ジョンソン共同声明発表。
1.18 〜3.7日宮本書記長中共で病気療養
2月 アメリカ帝国主義は、大規模な北爆を開始した。
2月 自衛隊の三矢研究暴露される。
2.1 社会党.総評.志賀一派らは、原水爆禁止国民会議結成。代表委員森滝市郎ら、事務局長は反党分子の伊藤満を発足。 あらゆる国の核実験反対。
日本社会党の青年組織である「社会主義青年同盟」に浸透した戦闘的分子による分派「社青同解放派」が、その後政治団体として「革命的労働者協会」を結成して、傘下の学生 組織として「反帝学評」をつくった。
【反戦青年委員会結成】
 8月当時左翼戦線では日韓条約批准阻止のための運動の統一が叫ばれていましたが、社会党.総評と党の間は安保闘争の分裂以来の対立が解けず、一日共闘の程度を出ない状態が続いていた。そのような状況の中で、社会党青少年局、総評青年対策部、社青同の三者の呼びかけによって、結成されたのが、反戦青年委員会。ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止の為の青年委員会。
2.7

米国、ベトナム北爆開始。米空軍機北ベトナムのドンホイを爆撃→史上最大の破壊戦争→日本ベトナム戦争の基地。

2.10 衆議院予算委員会、防衛庁の三矢研究問題で紛糾。
2.10 日本共産党重要論文集第1集刊行。 2.26日「評論員論文テ.チモフェーエフとアメリカ帝国主義(ケネディーとアメリカ帝国主義に対する反論への批判)」をあかはたに発表。
3.1 19カ国共産党.労働者党モスクワ協議会議。ベトナム援助に関するコミュニケ。
3.3 宮本書記長宅の電話引き込み線の盗聴器を摘発。
3.4 岩間正男議員が参議院法務委員会で事実を暴露、政府を糾弾。
3.10 全国選挙対策会議
3.23 −24日「第2中総」で長期と短期の党員増加(2年後15万増、参院選まで3万増)計画を決める。参議院選挙政策と方針、第二次総合2カ年計画などを決定。アメリカのベトナム侵略に抗議する特別声明を採択。佐藤内閣が成立直後からベトナム侵略戦争の直接の共犯者となったことを、その対米追従政策の最大の犯罪として非難した。
3月 構革派の活動家と理論家集団で社会主義運動研究会設立(機関誌『社会主義運動』創刊)。
3月 モスクワ協議会議に中共.北ベトナム.北朝鮮の諸党とともに欠席し、分裂会議として非難する。
4.13 論文ソ連共産党指導部が3.1日から「モスクワに召集した会議について」をあかはたに発表。
5.6 社会党第25回大会開催。(佐々木更三委員長・成田知巳書記長)。佐々木委員長が「米帝国主義は人類共同の敵」と就任挨拶社会党新委員長に佐々木更三氏が就任。
5.25 日本共産党重要論文集第2集刊行。
6月 日韓基本条約締結
6.1 全国選挙対策部長会議
6.3 第一次佐藤改造内閣発足。田中角栄、自民党幹事長に就任。
6.12 東京教育大学教授家永三郎、教科書検定は違憲として提訴→『家永訴訟』。
6.14 幹部会、東京都議会解散に関する声明を発表。
6.22 あかはたでソ連共産党指導部の日本への干渉と破壊活動を激しく非難する。
6.22 日韓基本条約、漁業などの関係協定調印。
6.23 あかはた無署名論文「ソ連共産党指導部と、その指導下に有る機関や団体のわが国の民主運動及びわが党にたいする干渉と破壊活動について」を掲載
7.4 第7回参議院選挙で(自民72名、社会36名、公明2名、民社3名、共産3名、無所属3名当選)。全国区165万票、2名(春日正一.須藤五郎).165万票、地方区1名(野坂参三).261万票をとる。議席3より4に増える。志賀らは東京地方区での野坂議長に対抗して神山茂夫を立てた。野坂は62万票最高点を獲得したが神山は3万5千余票で惨敗した。
7.8 河野一郎死去。
7.10 日共創立43周年記念中央集会
7.23 東京都議選挙で社会党が第一党になる。党は2名から9名に増加、前回の18万票から38万票に増加する。
7月 原水爆禁止世界大会で世評メッセージをも拒否する。中国代表はソ連を激しく攻撃し、国際会議はソ連に抗議する声明を採択する。
8月 日本民主主義文学同盟創立した。
8.13 池田前首相死去。
8.14 論文現代修正主義者の戦争と平和の理論と、これに対する歴史の審判をあかはたに発表。
8.16 社会党第26回大会、「ベトナム侵略反対、日韓条約批准阻止で、経済危機突破」などの方針決定。
8.19 佐藤首相沖縄訪問。歓迎式典で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、戦後は終わらない」と述べる。
8.24 佐世保の原潜反対で社.共の現地共闘が実現する。 
9.29 −10.4日「第3回中総」。参院選総括、当面の大衆闘争と党建設についての方針を決定。年末までの党勢拡大目標を決める。 
9.30 インドネシア共産党壊滅される。北京.ジャカルタライン破壊される。党中央衝撃受ける。
10.17 第7回あかはた祭り、多摩湖、8万人。
11.9 日韓闘争で初めて社.共共催の共闘方式が実施される。全国329カ所で23万人を動員する。
11.18 アカハタ「現在の文化状況と日本共産党の文化政策」を蔵原思人名で発表。
11.23 −25日第5回目の全国活動者会議。3中総決定の全面実践、党勢拡大年内目標目指して開く。


 1.12日、ワシントンで佐藤.ジョンソン共同声明発表。


【宮顕書記長病気療養で中国に赴く】
 1.18〜3.7日、宮顕書記長御一行が中国で病気療養名目で滞在。昨年1964.2.15―5.18日に続く異例の訪中となった。宮顕一行は北京に立ち寄り、大衆集会の席で宮顕が講演を行っている。その時の話が次元が低いもので不評を買っている。宮顕は、野坂をはじめ日本の革命戦士がいかに中国人民の解放闘争を支援したかを自賛したが、中国人民が如何に日本人民を支援したかには触れず、また、日本共産党が自国政府の残虐な中国侵略を阻止できなかった責任と反省をも提起しなかった。この集会の写真が「人民日報」に載ったが、周恩来が腕を組み、顔面をこわばらせている異様な雰囲気となっている。

 この後、宮顕一行は病気療養のため広東省の温泉療養地に滞在したが、妻子同伴のみならず侍医、看護婦、家政婦、護衛、秘書など総勢10名近くの大名旅行であり、そのブルジョア的特権ぶりが顰蹙をかっている。

 1月、中教審が「期待される人間像」草案を発表。社会規範や愛国心を強調する。


 2.1日、原水禁、結成.=あらゆる国の核実験反対。

 2.3日、第四インター日本支部発足。

【米国がベトナム北爆開始】
 2.7日、米国がベトナム北爆開始。南ベトナムへの正規軍投入も次第にその数を増した。

 2月、自衛隊の三矢研究暴露される。


 2月、社会党.総評.志賀派らは、原水爆禁止国民会議代表委員森滝市郎ら、事務局長は志賀派の伊藤満を発足。  


 2.10日、日本共産党重要論文集第1集刊行。続いて5.25日に日本共産党重要論文集第2集刊行。

 2.26日、「評論員論文テ.チモフェーエフとアメリカ帝国主義(ケネディーとアメリカ帝国主義に対する反論への批判)」をアカハタに発表。

 3.1日、19カ国共産党.労働者党モスクワ協議会議。ベトナム援助に関するコミュニケ。

【宮顕書記長宅電話盗聴事件発覚】
 3.3日、宮顕書記長宅の電話引き込み線の盗聴器を摘発。3.4日、岩間正男議員が参議院法務委員会で事実を暴露、政府を糾弾。

【宮顕日共の「第2中総」】

 3.10日、全国選挙対策会議。

 3.23−24日、「第2中総」で長期と短期の党員増加(2年後15万増、参院選まで3万増)計画を決める。参議院選挙政策と方針、第二次総合2カ年計画などを決定。アメリカのベトナム侵略に抗議する特別声明を採択。佐藤内閣が成立直後からベトナム侵略戦争の直接の共犯者となったことを、その対米追従政策の最大の犯罪として非難した。


 3月、モスクワ協議会議に中共.北ベトナム.北朝鮮の諸党とともに欠席し、分裂会議として非難する。

【社青同解放派結成】

 3.30日、社会党の青年組織である「社会主義青年同盟」の戦闘的分子分派が社青同解放派を結成している。この頃社青同学生班協議会は、 東大・早大等を中心に組織を拡大していく中で中央=協会派と対立し始め、こ うした内部抗争の結果日韓闘争の経過で急進主義運動が分派化し、社青同解放派が結成されるという経過となった。社青同解放派は、その後67.10月政治団体として革命的労働者協会(革労協)を結成して、67.12月傘下の学生組織として反帝学評をつくった。もともと社青同は、日本社会党が60年安保闘争後に、学生パワ ーに目を付けて党の若返りをはかって創設されたものであるが、ここへ戦闘的な過激学生がどんどん加入してきて、社青同内部で解放派を結成したというのが史実のようである。

 解放派は、社青同内部で着々と勢力を伸張させ、東京地本を占拠するまでに至る。なお、第四インター系の加入戦術で解放派を離れた部分もあるが、ブント系に比しての「四分五裂」は少ない。
「社青同解放派」は、その後政治団体として「革命的労働者協会」、傘下の学生組織として「反帝学評」を結成した。


【新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)が都学連再建準備会を結成】

 4.7日、新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)が都学連再建準備会を結成した。呉越同舟ながら何とかして自前の第三の全学連を創出させようと企図していたということである。法政大(経.文).東大(医).早大(二法.二政).東工大など11大学の26自治会から76代議員が結集していた。委員長に山本浩司(早大.二法)、副委員長に吉羽忠(東工大)、書記長に斎藤克彦(明大)、財政部長に山口紘一(法政大.経)を選出した。


 4.13日、論文ソ連共産党指導部が3.1日から「モスクワに召集した会議について」をアカハタに発表。

4月、アメリカで、ベトナムからの撤退を要求する反戦運動が盛んになっ。この日、ワシントンで1万人の反戦デモが行われ、「ベトナム即時停戦、米軍撤退」が叫ばれ、各地で反戦デモが拡大していった。


【べ平連結成】

 4.24日、ベ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)が初のデモ行進。 発起人は、小田実・開高健・掘田善衛・高橋和己・篠田正浩など。事務局長古川勇一氏。この頃から セクトの枠にとらわれない一般市民参加型の反戦運動が立ちあがっていくことになった。

(私論.私観) べ平連運動の評価について

 このベ平連運動は、今日から見て貴重なメッセージを発信している ことが分かる。一つは、ベ平連が闘争課題を「ベトナムに平和を!」と明確にしたことにより、その後のベトナム反戦闘争の巨大なうねりを創出させる発信元となったというプロパガンダ性である。一つは、「セクトの枠にとらわれない」という運動論を創出したことである。ただし、この時点では、セクトが漸くセクト化を獲得しつつ成長していくという「『正』成長」の時期であったのでさほど評価されることなくベ平連もまたセクト的に立ち上げられていくことになったが、セクト運動が「『負』の遺産」を引きずり始めた後退期頃よりはかなり合理的な存在力を示しえた筈の見識であったと思われる。とはいえ、ベトナム戦争が終結すると共にベ平連も終息していくことになったのが惜しいと思う。結局もう一つの側面であった先進国特有の「一般市民参加型」運動の限界ということになるのであろう。しかしそれならそれで今からでも改良の余地は大いにあると私は考えている。


【反戦闘争の盛り上がり機運】

 こうしたベ平連運動創出の頃、社会党・総評系のそれ、共産党系のそれもまた折からの日韓闘争を絡めた統一行動を組織し始め、「60年安保闘争」以来の大衆運動が動き出していくこととなった。革マル派系・民青同系・新三派系それぞれも取り組みを強めていくことになった。中でも新三派系の動員力が強まり、常時3000名規模の抗議デモを獲得していくことになった。これまで数年数百名規模で推移していたことを考えれば様変わりとなった。


【社会党25回大会】

 5月、社会党25回大会が開かれ、佐々木更三を委員長に選出した。60年代にはいってからはじめて左派が勝利した。この背景には、ベトナムを中心とするアジア革命の発展が、アメリカ帝国主義との全面対決につきすすんでいく国際情勢の激動があった。佐々木は、江田の反共路線を修正し、ベトナムを焦点とする共闘を提起していった。


 6月、日韓基本条約締結


 6.1日、全国選挙対策部長会議。

【社共の一日共闘】
 6.9日、社会党系の「原潜阻止・全国実行委員会」と共産党系の「安保反対中央実行委員会」の一日共闘が成立し、民青系全学連は1万名結集。新三派系昼夜で8000名が抗議デモ。

【佐藤内閣改造】

 6月、佐藤内閣の改造で、福田が大蔵大臣に就任。福田は、池田内閣時代に岸前首相の強い要望で政調会長になっていたが、池田の所得倍増論に真っ向から反対して外され、その後冷や飯を喰わされ続けていた。佐藤に再抜擢された福田は、「経済の福田」を自認しながら、この時戦後初の赤字国債を作り出している。

 角栄が幹事長に就任している。65.6.2日朝日新聞夕刊は、次のように評している。概要「決断のはやさ、読みの深さ、政、財界人への顔の広さ、の三つに裏打ちされた実行力−と、ほめる人は云う。決断の速さは予算折衝での手際のよさにもみられた。読みの深さは、池田内閣に佐藤派が協力して、その後佐藤内閣へという手順を誤らなかった、当の立役者だったことでも分かる。ハラと策略を重んじるのが保守党旧派であるとすれば、政策と実行を軽視しない新しい感覚もある。新旧両面が同居している奇妙な魅力をかもし出す」。

 以後、佐藤は閣内を福田に、党内を田中にという「角福体制」をとりながら、7年を超す長期安定体制に向かうことになった。


 6.14日、幹部会、東京都議会解散に関する声明を発表。


 6.22日、アカハタでソ連共産党指導部の日本への干渉と破壊活動を激しく非難する。

【日韓基本条約調印】
 6.22日、日韓会談が妥結し、日韓基本条約に調印する。賠償請求権については、無償3億ドル、有償2億ドルの政府借款と民間借款3億ドル以上の供与、竹島の領有権問題は棚上げ、という内容であった。日韓関係が正常化されたが、国内の野党勢力はこぞって反対し、社共は「議員総辞職を賭けて闘う」との強硬姿勢を打ち出したため、国会審議は難航を極めた。「日韓国交正常化は、アメリカ帝国主義のお先棒を担ぐもので、中国や北朝鮮を敵視するものだ」がその反対趣旨であった。結局、自民党は衆院本会議で強行採決し、責任を取って船田中、田中伊三次の正副議長が辞任した。

【全学連各派の日韓闘争】
 この日、民青系全学連は6000名結集し、集会とデモを行なった。新三派系も昼夜8000名が抗議デモ、とある(革マル派系 も当然取り組んでいる筈であるが手元に資料が無いので割愛する)。

 6.23日、アカハタ無署名論文「ソ連共産党指導部と、その指導下に有る機関や団体のわが国の民主運動及びわが党にたいする干渉と破壊活動について」を掲載

 6月、南ベトナムでグエン・カオ・キ政権が擁立された。アメリカは南ベトナムに、地上軍を増派して戦争を拡大させていった。のちに戦局が激しくなると、米軍はナパーム弾でジャングルを焼きつくし、枯葉作戦が展開されるようになる。

 7.4日、第7回参議院選挙で全国区165万票、2名(春日正一.須藤五郎).165万票、地方区1名(野坂参三).261万票をとる。議席3より4に増える。志賀らは東京地方区での野坂議長に対抗して神山茂夫を立てた。野坂は62万票最高点を獲得したが神山は3万5千余票で惨敗した。


 7.7日河野一郎が急逝。


 7.10日、日共創立43周年記念中央集会

 7.23日、東京都議選挙で2名から9名に増加、前回の18万票から38万票に増加する。

 7月、原水爆禁止世界大会で世評メッセージをも拒否する。中国代表はソ連を激しく攻撃し、国際会議はソ連に抗議する声明を採択する。

【第4インターの内部抗争】

 7月、第4インター内部で抗争。


【社学同統一派(共産主義者同盟統一委員会)結成】
 8月、社学同統一派(共産主義者同盟統一委員会)が結成された。これは社学同内のマル戦派とML派に参加しない独立派の勢力が増大し、これと関西ブントとが統一して結成されたものであった。

【反戦青年委員会結成】

 8.30日、反戦青年委員会が結成された。社会党本部の有る社会文化会館で、社会党青少年局、総評青年対策部、社青同の三者の呼びかけによって、社会党系の青年労働者組織として、すなわち「ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止の為の、この闘争目標に賛成する全ての青年学生組織に解放された青年の自主的共闘組織」として反戦青年委員会が結成された。参加組織は、上記三団体のほか国労、全逓、全電通など総評系労組14単産の青年部が結集していた。

 当時左翼戦線では日韓条約批准阻止のための運動の統一が叫ばれていたが、社会党・総評と党の間は安保闘争の分裂以来の対立が解けず、一日共闘の程度を出ない状態が続いていた。この頃ベトナム戦争が政治課題として急速に浮上し始めていた。そのような状況の中で、反戦青年委員会が結成され、青年労働者の中への影響という「事業」を進め、これに一定の成果を得た点で左翼運動の歴史に重要な貢献をしていることがもっと注目されて良いように思われる。反戦青年委員会には「日共」系を除くあらゆる左翼集団77の団体・個人が参加していくことになった。7月に結成されたばかり の新三派系都学連もオブザーバー加入していた。
「日本の声」派も運営委員団体として加入していた。


 8月、日本民主主義文学同盟が創立された。

 8.14日、論文「現代修正主義者の戦争と平和の理論と、これに対する歴史の審判」をアカハタに発表。

 8.19日、佐藤首相沖縄訪問。歓迎式典で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、戦後は終わらない」と述べる。沖縄の祖国復帰が自らの政治使命であることを明らかにした。戦後、沖縄の土を踏んだ最初の首相となった。


 8.24日、佐世保の原潜反対で社.共の現地共闘が実現する。

【林彪論文「人民戦争の勝利万歳」全文掲載】
 9.17日、アカハタは、9.3日に中国共産党の各紙・誌に発表された林彪論文「人民戦争の勝利万歳」を全文掲載した。二週間後の掲載であったが、中ソ論争の最中であることを考えると、この時点までは明らかに中共寄りであったことが裏付けられる。

 9.29−10.4日、「第3回中総」。参院選総括、当面の大衆闘争と党建設についての方針を決定。年末までの党勢拡大目標を決める。


【インドネシア共産党壊滅される】

 この背景は次のようなものである。インドネシア大統領スカルノは、日本の赤坂の高級クラブで働いていたホステスを見初め、デビ夫人として第三夫人にしていたことで知られているが、そのスカルノ政治は、ナサコム体制といわれる民族主義と宗教と共産主義の結合した政策を採用していたところら特徴があった。共産党の利用は陸軍とのバランス上為されていた。こうして共産党のアイジット議長は内閣の実力者としてふるまい、「一挙に軍部を制し、実際上の共産主義政権をつくる」野心を膨らませていった。中国共産党と提携し、スパンドリオ外相を派遣し武器を手に入れ新政権樹立に余念が無かった。

 9.30夜半からインドネシア共産党の一部勢力が、スカルの大統領の親衛隊大隊長ワトソン中佐と組み、陸軍の首脳を急襲、直ちに革命評議会を樹立し、共産党員を含む閣僚名簿を発表した。しかし、殺害を免れたナスチオンやスハルト陸軍戦略司令官が、陸軍部隊、降下部隊を指揮し、10.1日夜半には革命軍を制圧した。

 これを契機に、全土にわたって共産党弾圧が始まり、20万人以上以上の党員が虐殺された。インドネシア共産党中央委員会議長・アイジットも射殺された。ジャカルタラインが破壊され、党中央は衝撃を受けた。
 


 10.5日、臨時国会開会冒頭、「日韓条約批准反対総決起集会」を開き民青同系1万人の学生が参加した。日韓条約反対闘争では、安保反対国民会議が再開されず、社共の共同闘争も成らず、全国的統一運動は組織されなかった。新三派系の労・学3000名が昼夜デモ。以降次第に数を増していき1〜2万名規模の闘争へと発展していく。この頃から機動隊のデモ規制が厳しくなり、デモ隊の両側をサンドイッチでジュラルミン盾を手に並進していくことになった。


 10.15日、反戦青年委員会結成後初の全国青年総決起行動。新三派系2600名を始め、1万7700名が国会へデモ。

 10.17日、第7回アカハタ祭り、多摩湖、8万人。


 1 1.5日、日韓条約批准阻止総決起大会。新三派系労・学1万7000名が国会包囲デモ。


 11.9日、日韓条約強行採決の暴挙に抗議して日韓闘争で初めて社.共共催の共闘方式が実施される。全国329カ所で23万人を動員する。一日共闘が実現し、1 8万人の大集会とデモ。民青同系1万5000名が結集した。新三派系も連日万余の数で国会デモ展開。


 11.18日、アカハタ「現在の文化状況と日本共産党の文化政策」を蔵原惟人名で発表。


 11.23−25日、第5回目の全国活動者会議。3中総決定の全面実践、党勢拡大年内目標目指して開く。


 12.17日、椎名訪韓実力阻止闘争。羽田空港付近で1000名が機動隊と衝突。




(私論.私見)