第25部 1964年の主なできごと.事件年表
党の奇妙な「4.17スト対応」。志賀グループ離党。「第9回党大会」開催。

 (最新見直し2007.7.7日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第6期その3、全学連の三方向分裂化と民青系全学連の「再建」」に記す。

1月 中央主流派は、綱領の線で中共寄りに全党を固めていく工作を強める。書記局が中心となる。
1.11 新設された伊豆学習会館で第4回中央党学校開校式。
2.3 社会主義青年同盟第四回大会で構革派執行部総辞職。
2.5 最高裁、参議院東京地方区の選挙無効訴訟に「議員定数の決定は国会の権限であり、選挙人口に比例しないことで違法とはいえぬ」と判決。
2.15 −5.18日宮本は病気保養の為に中国に滞在する。
2.22 〜24 社会党第23回党大会、機関紙編集を巡って紛糾、左派は執行部総引揚げ(河上丈太郎委員長・成田知巳書記長)。
2.26 −4.30日党代表団団長袴田.団員松島.西沢.米原がソ連、中国、朝鮮、ベトナムを訪問。
3.2 −11日日ソ両党ソ連団長ブレジネフ幹部会員の会談は対立状態のまま終わる。用意されていた協同コミュニケ案を拒否した。宮本.袴田出発後のアカハタは中共路線を強化する。
3.10 論文「ケネディーとアメリカ帝国主義」をアカハタに発表。
3.19 宮本.袴田連名の当面の活動のうえで注意すべき点についての手紙を中国から幹部会に送り、反米闘争の一面的強調などを批判。 64公明党が結成された。    
3.21 −25日中国共産党代表団団長劉少奇中央委員会副主席と会談。
3.23 毛沢東中国共産党主席と会見。
4.2 朝鮮労働党代表団団長金日成委員長と会談。
4.14 −17日ベトナム労働党代表団レ.ズアン第一書記と会談。
4.16 公労協スト、池田勇人・太田薫会談で中止。
4.18 ホーチミン主席と会見。
4.18 ソ連、日共非難の書簡を発表。
9回大会民主連合政府構想 「部分核停条約」の賛否騒動  
5月 大野伴睦が逝去。
5.13 党は、「部分核停条約」に反対を公表した。
5.15 【衆議院、部分核停条約を多数で承認】衆議院本会議に「部分核停条約」が上程され、採決されることになった。社会党は賛成し、共産党は反対の立場に立った。ところが、こうした党の方針に基づき4議員が反対票を投じたが、志賀が党の決定に背いて賛成票を投じた。投票総数319のうち反対派共産党の4票だけだったので、志賀の行動が明らかとなり衝撃を走らせた(志賀問題)。この時ソ連のミコヤン第一副首相が傍聴していた。
5.15 【志賀義雄造反する、除名される】本会議解散後、志賀は、報道陣を前に「みなさんに訴える」の声明文を配り、記者会見した。
5.15 夜、党本部に中委幹部会員.中央書記局員.中央統制監査委員.国会議員団を含む緊急幹部会が開かれた。志賀の出席を求めて、査問が始まった。袴田がいきりたった。16日再度の緊急幹部会が開かれ、志賀の欠席のまま、党所属国会議員としての権利を停止する処分を発表した。同時に「志賀義雄同志の党に反対する行動について」を決定 し、17日むあかはた紙面に発表した。ソ連モスクワ放送.プラウダは志賀を支持。中共 北京放送は反志賀を声明した。中国で療養中の宮本は、志賀問題の知らせを聞くや、予定 を切り上げ早早に帰国の途についた。この間鈴木市蔵も反党の動きを示した。
5.21 「第8中総」が開催され、宮本はもっとも激しく志賀.鈴木を攻撃した。党規約破壊.裏 切り者.陰謀と罵った。中野重治は、この席上での査問裁判のやり方を非難した。出席中 央委員57名中53名の賛成で、二人を最高処分である除名を決定した。秋に予定される 第9回大会で正式決定にすることにした。反対派志賀.鈴木.中野の3名が反対し、神山 は保留した。中委候補34名は全員賛成した。宮本が異例の記者会見を行って、これを発表した。
5.22 志賀と鈴木は、記者会見に応じ、「共産主義者の良心と信念」文書を配布し た。文書には鈴木が「8中総」に提出した5.21日付け意見書が載せられていた。鈴木 は、「7中総」決定は間違いであり、この間違った条約反対の方針と結びついて党内に反 ソ傾向が強まっていること、4.17問題で中央の指導者がとった「日本共産党」名義の 方針は、基本的に間違っており、ことに「ストライキを中止させて勝利を宣伝するにいた っては、完全なる日和見主義、あるいはそれ以上かもしれない、これらの正しくない方針 を素直に自己批判せよ(要約)」と要求していた。この間党内での自由な論議が一切禁止 され、党員が外部は勿論党機関紙誌においても賛否の意見を発表することは、許されなか った。スターリン主義の悪しき現れがここにも露呈した。党内の反対意見や少数意見は、 それ自体が分派的だと決めつけられる根拠となり理由となった。そして、分派は人民の敵 であるから、これを殲滅するにはどんな手段をとってもよいとするスターリン的論理が堂 々とまかり通った。獄中18年の指導者同志志賀は一夜にして党と人民への裏切り者と化 した。政治的意見の対立の処理を越えた全人間的攻撃と抹殺の方式であり、語るに落ちる 党の現在的地位を示していた。
5.25 党を除名された鈴木が参議院で「部分核停止条 約」に賛成票を投じた。
5.28 党は、論文「修正主義者のいきつくところ−志賀らの 論拠に反論する」をあかはたに発表した。この経過を通じて志賀グループが様々な理由で 除名されていった。
5.29 大野伴睦死去。大野派は、船田中派と村上勇派に分かれた。村上派から水田派が分岐する。
6.11 志賀問題について、は党員学者文化人12名の連署で、中央指導部への要望書を発した。朝倉.出.国分一太郎.佐多稲子.佐藤.野間宏.本郷.丸木位里.俊子夫妻.宮島.山田.渡部。渡部義通が全体をまとめた。「我々は二人の行動に同調する立場にはないが」、「第8中総」が党の根本問題から目をそらし、志賀問題を形式上の規律問題にすり替えたことに、不正常さを認めざるをえないとし、現在の基本政策の再検討、官僚的指導の根絶、大衆運動における統一の回復、科学芸術対策にベストを尽くすこと−などの審議をつくすように、指導部批判の要望書を送付した。
志賀.鈴木は、大阪で記者会見し、@.政治結社日本のこえ同志会をつくる、A.日本共産党創立記念日の7.15日に週刊日本のこえを発刊する、B.次期総選挙に大阪から立候補する、などと反党声明を発表した。肥 神山.中野問題発生する  「8中総」のあと、神山は、日朝協会.原水協.平和委員会などの役職を次々とはずされた。7.7日神山は中委あてに意見書を提出した。そこで彼は、「8中総」前後の中央の決議.決定の発表方法や内容についての意見を述べ、民主集中制と党規約が歪曲されていること、意見提出の自由や討論の保証が実質的に欠如していること、あかはたの各形式の論文がマルクス.レーニン主義をねじ曲げていること、党の言論統制が徳田家父長体制の頃よりひどくなっていること、最近のあかはた論文が反ソ宣伝的挑発的で、綱領規約に違反していること、等を指摘し批判した。  
7.3 憲法調査会が報告書提出。
7.10 自民党総裁公選、池田三選される。
7.11 ソ連共産党書簡に返書を送った。
7.11 論文「原水禁運動と分裂主義者の理論と実践」をあかはたに発表。
7.13 −15日「第9中総」が開かれた。定刻より遅れて開かれた会議の冒頭で、宮本書記長から、動議でも提案でも意見でもない奇妙な形式の報告が為された。長野県における神山グループの分派的行動と、新日本文学大会、その他での中野の規律違反が言及された。それはほのめかしという性格を持っていた。これに茶坊主発言を続かせるという、自分が免責され且つ政敵に打撃が与えられ且つ茶坊主の脛にも傷を負わせるという一挙三得手法が作動する。忽ち袴田.西沢(隆).川上.金子.多田などから神山.中野への攻撃的発言が為された。野坂からも、幹部会.中委総会.大会などの秘密が公安調査庁に筒抜けになっていて、「8中総」の議事も80パーセントまで公安情報に出ていると報告があり、これを受けて西沢隆二らから、二人がいては秘密をばらす恐れがある、二人を加えておいて党の秘密が保てるのかなど、攻撃が浴びせられた。神山と中野は、これら一連に抗議した。
【党が「4.17スト対応」自己批判する】党は、この総会で「4.17スト」反対への誤りを認め自己批判した。この時党の最高幹部がどう対応したか。宮本と袴田はこの時中国にいた。宮本は帰国して、まず直接の指導責任者であった聴濤を統制違反で処分し幹部会員から解任した。竹内七郎を書記局員.労働組合部長から解任した。「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走による者」と公労協に詫びを入れ一件落着にしている。聴濤は、4.17スト中止指令は党の最高幹部による合議であっただけにショックを受け、翌日から党に出てこなくなり、翌年怪死を遂げている。死因は急性心機能不全と記録されている。
7.14 7.14日自民党総裁選挙。池田は、佐藤と藤山を押さえて再選。過半数を上回ることわずかに5票。
7.15 【「日本の声同志会」結成される】志賀.鈴木.神山.中野らが「日本の声同志会」をつくり、機関紙「日本のこえ」を発刊した。四者共同声明が為され、いきさつとの弁明とこの間の党の態度を非難した。宮本系党中央の路線の誤りと官僚主義的体制に対する批判を基点にしていた。但し、元々この代表4名間には理論的差異があったことと、誰を代表にするかの合意に欠けており、又党内変革を求めての分派路線で行くのか、新党結成まで射程に入れるのかの打ち合わせ無き野合となっていた。後にこの点で空中分解していくことになった。
7.18 ソ連共産党は日共あてに2書簡を公表し、日共もソ連宛書簡を公表する。以後全面的にソ連共産党指導部への批判と攻撃が展開された。
7.19 第三次池田改造内閣発足。
7.21 日共、ソ連非難の書簡発表。
8.2 論文「現代修正主義者の社会民主主義政党論」をあかはたに発表。
8.4 ジョンソン大統領、トンキン湾事件を口実に北ベトナムを報復爆撃。
8.5 幹部会声明、「アメリカ帝国主義のベトナム民主共和国への公然たる侵略戦争に反対し、アジア諸国人民との共同闘争を強化しよう」を発表。
8.23 −27日「第10中総」で神山.中野の党員権を停止。神山等中央批判の文書を出し、党中央と論争する。原潜寄港問題で決議採択。党勢拡大月間を決定。
8.26 ソ連共産党の4.18日付け書簡に返書を送り、全面的に反論。修正主義、大国主義を批判した。
8.28 中野の自宅に中央委員会書記局から手紙が届けられる。文面は次のように記されていたことが本人に拠り明らかにされている。「中野重治同志 日本共産党第10回中央委員会総会は、貴同士の言動における規律違反容疑について規約第59条第2項に基づき、三ヶ月間の党員権の停止を決定した。知友王委員会幹部は、この決定に基づき貴同志をきたる8月31日午後1時から査問する。従って、間違いなく同時刻に中央委員会に出頭されたい。1964年8月28日」(「日本共産党批判」の中野「事実に立って」論文)。
9.1 −14日宮本書記長らインドネシア、中国を訪問。
9.7 宮本書記長らインドネシア共産党アイジット議長と会談、共同声明に調印。
9.9 池田首相は喉頭がんで東京.築地の国立がんセンターに入院した。長期療養が必要になった。
9.10 同、中国共産党劉少奇副主席と会談。
9.22 国領五一郎の墓碑、京都市左京区黒谷に建てられる。
9.25 −30日「第11中総」で神山.中野を除名する。
9.27 第6回赤旗祭り、多摩湖、6万人。
10.1 東海道新幹線開業→大量・高速輸送時代の幕開け
10.5 あかはた主張でソ連提唱の起草案に反対する。あかはた主張で、「各国共産党労働者党の国際会議は、分裂のためでなく、団結に役立つように行われるべきである」を発表。
10.10 東京オリンピック開幕。
10月 新日本文学界は、江口喚ら3人の党的立場の会員を除籍した。
10.14 渡部義通、国分一太郎らが反党声明。
10.14 ソ連共産党中央委員会総会でフルシチョフは第一書記を解任された。ブレジネフが替わりに選出された。
10.15 フルシチョフは首相(閣僚会議議長)の座からも降ろされ、コスイギンが選出された。  
10.16 中国核実験開始。
10月 フルシチョフ解任と中国核実験を党の路線の正しさの証明として宣伝する。「いまのようなアメリカその他が核兵器を独占していて、中国を核兵器で脅かしながら、中国だけは核兵器を持つな、というようなことをいっても、それは道理の通らないことである。部分核停条約は核兵器を持っている国だけの核独占を続ける前提のもとにつくられたものである」。 
10.25 池田首相引退表明。翌26日の衆参両院議員総会で、川島正次郎副総裁と三木武夫幹事長が後継者の選考に入ることが了承された。後継候補は、佐藤と河野一郎、藤山愛一郎の3人、調整は手間取った。 
11.4 志賀は訪ソを終え帰国するや、志賀.鈴木.神山.中野らで声明を発表し、日本共産党(日本の声)を組織した。
11.6 7中総で採択された「国際共産主義運動に関する諸問題について」の決定全文をあかはたに発表
11月 公明党結党。
11.9 統制委員会、渡部義通、佐多稲子、野間宏、丸木位里、丸木俊子ら10名を分派活動による規律違反で除名。
11.9 【第一次佐藤内閣発足】佐藤が首相に指名される。(第5代自民党総裁に佐藤栄作=「寛容と調和」)
11.12 米原子力潜水艦、佐世保入港。
11.17 公明党結成大会。原島宏治委員長・北条浩書記長体制発足。
11.20 −22日「第12中総」。第9回党大会への中央委員会報告を決定。
11.24 【第9回党大会】大会の眼目は、宮本体制確立後の最初の党大会であり、その成果を確認することにあった。中委政治報告などを採択する。蔵原が「志賀、鈴木、神山、中野の処分承認についての提案」を行ない、大会1日目に全員一致で除名決議を採択した。 ソ連共産党の大国主義と現代修正主義批判。教条主義批判を新たに押しだし、自主独立論を中共路線上に名目的に確立する。党員15万人に達し、中央役員で宮本体制を一層強化する。大衆闘争の三つの観点、要求の獲得、大衆の自覚の成長と組織の強化、党勢拡大を定式化。   
11.30 〜12.1日第@中総
12.1 日本共産党(日本の声)は声明を発表し、第9回党大会を論評した。
12.8 社会党第24回党大会、副委員長制を新設(河上委員長・成田書記長に加え佐々木更三・和田博雄が副委員長)。
12.14 −29日インドネシア共産党代表団が来日。野坂.宮本書記長ら党幹部と懇談。
12月 12月全学連再建。


【 新日本文学第11回大会】
 部分核停を評価する新日本文学主流派(武井昭夫事務局長)に対して、代々木党中央忠誠派(西野辰吉.霜多正次.金達寿.窪田精)が蔵原惟人の直接指導のもとに殴りこみ同然の大会妨害を計り、しかし失敗した。以降、党中央派は、「新日本文学は現代修正主義者に乗っ取られた」として分裂を策していくことになる。

 新日本文学主流派は、大西巨人.武井昭夫.湯池朝雄.檜山久雄.小林勝グループ、花田清輝.関根弘.岡本潤ら旧「文化組織」グループ、更に野間宏.杉浦明平もこの頃は反宮顕になっていた。菊地章、佐々木甚一、針生一郎、井上光晴.安部公房.小田切秀雄.佐多稲子らは既に離党。やや中立系に津田道夫.いいだもも。

 メデウェーデフの「個人崇拝時代には、無能なくせに大きな権力を持った人々の、文学と芸術の問題への無遠慮で乱暴な干渉が典型的であった」、「無能で、しばしば芸術には何の関係も無い人物が、我々の文学と芸術に干渉したことが、多くの災難の原因であった」を地でいく干渉であった。

 この騒動が民主主義文学同盟結成の伏線となる。津田孝ら。

 2.15日、社学同内ML派の理論機関紙「マルクス.レーニン主義」第2号で猪雪彦の「帝国主義列強の抗争の新局面−日韓闘争と革命闘争の勝利の為に」論文が掲載され、理論的基礎となる。


 2.23ー24日、社会党第23回党大会、機関紙編集を巡って紛糾、左派は執行部総引揚げ(河上丈太郎委員長・成田知巳書記長)。た社会党・労働運動の巧妙な右傾化にたいし、社青同の左派の反撃が成功し、佐々木派を中心とする左派勢力の反江田派闘争が前進していった。

【 宮顕御一行が中国訪問、長期滞在】
 2.15―5.18日、宮顕御一行が病気保養の為に中国に滞在する。

【 日本共産党代表団(袴田団長)が訪ソ】

 2.28−3.12日、袴田里見幹部会員を団長とする日本共産党代表団(団長・袴田里見、団員・松島治重・米原・西沢富夫ら)がモスクワを訪れ、3.2日ソ連共産党代表団(団長・ブレジネフ幹部会員、団員・スースロフ・クーシネン・ポノマリョフら)と会談した。この時日共側は、中共と下交渉した上で、ソ共に訣別状を叩きつける目的で訪ソしていた。袴田は内政干渉非難等10数か条からなる抗議文を突きつけ、大激論の末席を蹴って会議を終了させている。

 この時袴田は、戦前の党中央委員で一時期の共産党の指導者であり、入ソ後にスターリン大粛清により粛清された山本懸蔵の妻関マツ子と会い、帰国を要望されている。「彼女は、数年後モスクワの病院で死亡した。なぜ、あの時、彼女を日本の党が引き取るように努力しなかったのかと、残念でならない。私の思いやりが足りなかったのであろう。これは私の一大痛恨事である」(「私の戦後史」)とある。ちなみに、今日では山本懸蔵をスパイ容疑で当局に売ったのは野坂であったことが判明している。

 3.13日、深夜の飛行機でモスクワを引き上げ、宮顕書記長の待つ北京に向かった。北京では、袴田.宮顕らは「反ソ英雄」として大歓迎を受けた。


 3.10日、党は、論文「ケネディーとアメリカ帝国主義」をアカハタに発表。

 3.19日、宮顕.袴田連名の「当面の活動のうえで注意すべき点についての手紙」を中国から幹部会に送り、反米闘争の一面的強調などを批判。

 春頃、上田、不破兄弟を相前後して党本部専従入り。不破は総評系の鉄鋼労連調査部の専従書記からの転進。

 3月、平民学連主催の第1回全国学生文化会議開催。150大学、1810名が参加。


 3.25日、社学同、社青同、中核派による新三派連合の結成が合議された。 


【 「4.17ゼネスト」をめぐって】

 この時期64年の「4.17スト」をめぐって信じられないことが党内に生起しているので、これを見ておくことにする。スターリン批判・ハンガリー動乱・第7回党大会・60年安保闘争・第8回党大会・原水禁運動そしてこの「4.17スト」への対応・経過を通じて、「左翼」が党に対する信用失墜を確定させることになったようである。「日共」という呼称が蔑視的な意味合いで使われていくことになったのが何時の頃よりかはっきりは分からないが、こうした一連の経過の中で定着したものと思われる。戦後の獄中闘士がカリスマ的権威を持って大衆に受け入れられていたことを思えば、隔世の感がある。

 この年総評・公労協は全年来からの長期的な計画と準備の下に大幅賃上げ要求を掲げ、4.17日全国半日ゼネストを計画していた。90万以上を結集する交通運輸共闘会議(国鉄労組を始めとする私鉄・都市交通・全自交など)を芯にして公労協・金属労協等公・民を網羅する600(250万とも)万人のゼネスト計画であった。その規模と影響力から見て47年の「2.1ゼネスト」計画に匹敵またはこれを上回る戦後空前のストとなる筈であった。4.2日、総評は、太田薫議長.岩井章事務局長の布陣の下で決起大会的な意味を持つ第25回臨時大会を開き、最大のヤマ場を目前にして闘争態勢を堅め直した。「太田ラッパ」が鳴響いた。

 この息詰まるようなせっぱ詰まった状況の中、日共は突如4.9日付アカハタ(「4.8声明」)で、責任主体を記さない単に「日本共産党」の名義のままの幹部会でも中央委員会名でもない声明文「全民主勢力と団結し、挑発を排して、頑強に、ねばり強く戦い抜こう−春闘を闘う全労働者に訴える」という論文を掲載し、4.17ゼネストに対する警戒を指示した。 声明文は、春闘を支持するといいつつ、「4.17半日ストの方針には『深い憂慮をしないわけにはゆきません』」、「総決起は危険でありその方針を再検討せよ」と提議していた。 

 この声明は、ゼネストに向けて態勢の準備と確立に余念がなかった多くの組合幹部・活動家を憤激させた。総評事務局長岩井は、直ちに談話を発表し、「統一闘争の態勢を分裂させる者であり、階級政党として根本的に誤った態度である」と非難した。社会党の河上委員長は、4.17ストを断固支持するとし、共産党の態度を「労働者の気持ちを無視したやり方」と非難した。

 にもかかわらず、日共は、次々と同様指示を飛ばし続け、次第にスト反対を打ち出していった。労働戦線は大いに混乱し、4.17ストは挫折させられることとなった。公労協を始めとする総評は、日共に対し「組合破壊分子」.「スト破り」という一斉攻撃を浴びせることになった。(これについては「4.17スト問題について」で更に検証する)

(私論.私観) 「4.17スト反対に見せた党中央の反動的本質」について

 党が、この問題で、党の思想体質と組織体質の致命的な欠陥と弱点、加えて反動的本質を明確にした。宮本式綱領路線「二つの敵論」の本質は「二つの敵の使い分け論」であり、「二つの敵」に対決していくための論ではないということを知らしめることになった。労働運動や労働者闘争が4.17ストのような条件闘争的な改良経済闘争であれ、「60年安保闘争」のような政治闘争であれ、日本の政治体制や国家権力との直接の対決を目指して国内的課題が最大争点として沸騰しつつある場合にきまって、一方の敵アメリカ帝国主義との闘争に向かおうとさせ、反米独立・民族解放の任務を第一義的に押し出してくる。ひたすらアメリカ帝国主義への闘いに収斂させ、しかも労働者の階級性抜きの人民一般的幅広闘争形態での政治闘争・反米闘争に集約させる。他方、国内の運動がアメリカ帝国主義との闘争に向かおうとした場合には、急進主義者の挑発性をなじり、穏和化路線で分裂を企図する。専ら国内的課題に目を向けさせようとして議会闘争・部分的な経済闘争の成果を語ることになる。いずれにせよ、どうやら宮本式「二つの敵論」の本質には、闘わないための使い分け方便理論ではないのかという胡散臭さがある。

 にもかかわらず、「中央の決定は絶対正しい。その無条件実行は又正しい」という独善的な官僚主義の押しつけと、これを拝戴する下部機関・一般党員の「中央盲従」、「服従」、「あやつり人形」化が、以降更に強められていくことになった。いつの間にか一枚岩的組織体質、上意下達運営方式を双方が誇るというサド−マゾっ気の交互関係が定着していくことになった。そういう党生活上での「生き甲斐」が語られるが、こうなると宗教的喜びに近い。もし、このような組織が機能するとしたら、恐ろしいほどの建前・形式主義を助長すること無しにはありえない。建前・形式主義は奥の院での腐敗をはびこらせ、下っ端官僚の処世要領の上手に出来ない者から順に心身症患者を生み出していくことになるというのが古今東西組織盛衰の法則である。党に限ってこの法則から逃れていることを願う。


 4.18日、ソ連、日共非難の書簡を発表。

 4月、IMF理事会は先に日本のIMF8条国への移行を勧告していたが、この勧告に従い、日本はIMF8条国となった。これと前後して我が国は、資本取引の自由化を原則とするOECD(経済協力開発機構)に加盟が認められた。日本は名実共に先進国への仲間入りを果たしたことになる。解放経済体制の下で国際経済の荒海に乗り出すことになった。
 5.13日、党は、「部分核停条約」に反対を公表した。

【志賀義雄造反する】

 5.15日、衆議院本会議に「部分核停条約」が上程され、採決されることになった。社会党は賛成し、共産党は反対の立場に立った。ところが、こうした党の方針に基づき4議員が反対票を投じたが、志賀が党の決定に背いて賛成票(白票)を投じた。投票総数319のうち反対派共産党の4票だけだったので、志賀の行動が明らかとなり衝撃を走らせた(志賀問題)。この時ソ連のミコヤン第一副首相が傍聴していた。

 本会議解散後、志賀は、報道陣を前に「みなさんに訴える」の声明文を配り、記者会見した。部分核停条約に対する態度は、「地下核実験を除外しているなどの点でまだ不十分なものだが、大気圏内外と水中の核実験を禁止しており、従って少なくとも核実験による放射能汚染によるこれ以上の被害をくいとめ、また際限のない核兵器開発競争を抑制する点で日本と世界の全ての人民の利害にかなっている」としていた。

 5.15日夜、党本部に中委幹部会員.中央書記局員.中央統制監査委員.国会議員団を含む緊急幹部会が開かれた。志賀の出席を求めて、査問が始まった。袴田がいきりたった。16日再度の緊急幹部会が開かれ、志賀の欠席のまま、党所属国会議員としての権利を停止する処分を発表した。同時に「志賀義雄同志の党に反対する行動について」を決定 し、17日あかはた紙面に発表した。

 ソ連モスクワ放送.プラウダは志賀を支持。中共 北京放送は反志賀を声明した。中国で療養中の宮顕は、志賀問題の知らせを聞くや、予定 を切り上げ早早に帰国の途についた。この間参議院議員鈴木市蔵も反党の動きを示した。


【志賀義雄除名される】

 5.21日、「第8中総」が開催され、志賀問題と「4.17スト問題」の討議が予定されていたが、宮顕は、「志賀問題」に集中し、激しく志賀.鈴木らの「反党行為」を攻撃した。党規約破壊.裏切り者.陰謀と罵った。当時の雰囲気として除名までは考えられていなかったが、宮顕は一瀉千里に除名方向へとリードした。

 中野重治は、この席上での査問裁判のやり方を非難した。出席中央委員57名中53名の賛成で、二人を最高処分である除名を決定した。秋に予定される 第9回大会で正式決定にすることにした。反対派志賀.鈴木.中野の3名が反対し、神山は保留した。中委候補34名は全員賛成した。宮顕が異例の記者会見を行って、これを発表した。


【党が「4.17スト対応」自己批判する】

 4.17スト反対戦術は社会党・総評労働者の大反発をくらい、責任問題が発生することになった。この時党の最高幹部がどう対応したか。宮本と袴田はこの時中国にいた。「志賀問題」も発生したこともあって宮本・袴田ら一行は急遽は帰国し、幹部会を開いた。この総会で、党として「4.17スト」反対への誤りを認め自己批判した。

 こうして、「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走によるもの」と「主要幹部不在中の誤り」として公労協に詫びを入れ一件落着にしている。まず直接の指導責任者であった聴濤を統制違反で処分し幹部会員から解任した。竹内七郎を書記局員.労働組合部長から解任した。他に土岐強を赤旗編集局長から解任し、ハノイ駐在員に転籍させた。ところが、その上に位置して実質的な責任者として采配を振るっていた高原晋一の責任は問われず、財政、経営担当に配置換えされただけで、引き続き宮顕委員長の懐刀としての地位にとどまっている。高原はその後1966.10月の第10回党大会で幹部会委員候補に抜擢され、党の台所を握る中央財政部長の地位を与えられている。以降、1976.7月の第13回臨時党大会で常任幹部会委員、同年12月の13中総で筆頭書記局員と昇格している。

(私論.私観) 「4.17ストの際に取った宮顕の変調行動」について

 
袴田の「昨日の友宮本顕治へ」に、この時の宮顕の変調行動が次のように明かされている。「当時、日本国内では総評が中心となり、2.1スト以来初めての『半日ゼネスト』を目指して胎動を続けている最中だった。その時、宮本は静養先に行きたいと言い出したのだ。それも妻子はもちろん、代々木病院の医者、二人の看護婦(うち一人は、もう十数年も党本部で宮本の身辺の世話をしている)、防衛、お手伝いなど総勢7人を連れて行くというのである。私は重大な政治闘争が盛り上がっているとき国内を留守にするという宮本に、政治的指導者としての資質や政治感覚を怪しんだが、その大名旅行振りにはなおのこと呆れた。‐‐‐戦前戦後を通じて、宮本のようなブルジョア趣味の共産党指導者は一人もいない。戦後の指導者だった徳田球一もワンマンと云われた点では宮本と同じだが、彼の衣食住は極めて貧素だった。だから、以上書いてきた宮本の日常を思うとき、どうして彼は共産党などに入ったのか、いったい宮本という男は何者であるのか、と考えざるを得ない」。
 


【志賀義雄反党活動に乗り出す】

 5.22日、志賀と鈴木は、記者会見に応じ、「共産主義者の良心と信念」文書を配布した。文書には鈴木が「8中総」に提出した5.21日付け意見書が載せられていた。鈴木は、「7中総」決定は間違いであり、この間違った条約反対の方針と結びついて党内に反ソ傾向が強まっていること、4.17問題で中央の指導者がとった「日本共産党」名義の 方針は、基本的に間違っており、ことに「ストライキを中止させて勝利を宣伝するにいたっては、完全なる日和見主義、あるいはそれ以上かもしれない、これらの正しくない方針 を素直に自己批判せよ(要約)」と要求していた。高知聡氏のコメントとして「日本共産党粛清史」には、「志賀と鈴木市蔵らにしてみれば、春日の場合と全く同様に、もはや党内で論争する余地を完全に失い、こうした奇矯な行動によって人々の耳目を集めてから、ようやく自分の意見を述べることができるという状態に追い詰められていたのだ」とある。

 この間党内での自由な論議が一切禁止され、党員が外部は勿論党機関紙誌においても賛否の意見を発表することは、許されなかった。宮顕指導の悪しき現れがここにも露呈した。党内の反対意見や少数意見は、それ自体が分派的だと決めつけられる根拠となり理由となった。そして、分派は人民の敵 であるから、これを殲滅するにはどんな手段をとってもよいとするスターリン的論理が堂々とまかり通った。獄中18年の指導者同志志賀は一夜にして党と人民への裏切り者と化 した。政治的意見の対立の処理を越えた全人間的攻撃と抹殺の方式であり、語るに落ちる党の現在的地位を示していた。

 5.25日、党を除名された鈴木が参議院で「部分核停止条約」に賛成票を投じた。

 5.28日、党は、論文「修正主義者のいきつくところ−志賀らの 論拠に反論する」をアカハタに発表した。この経過を通じて志賀グループが様々な理由で 除名されていった。


【自民党副総裁・大野伴睦が逝去】

 5.29日、3月に倒れた副総裁・大野伴睦が逝去。「政治は義理と人情だ」、「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちれば、ただの人である」、「選挙は、何が何でも勝たねばならぬ」の名句を遺している。晩年は池田と誼を通じ、佐藤に反発した。「佐藤が、君の後を狙っとるがだ、わしの眼の黒いうちは、断じて総理・総裁にはさせん」という佐藤嫌いであったと伝えられている。その大野の死は、三選を期する池田にとって少なからぬ打撃となり、政局を流動化させていくことになった。大野派は、船田系と村上系に二分されていった。


 5−6月の自治会選挙では、平民学連が全国規模で進出した。

 5.21日、日本共産党の党の決定に反し、部分的核実験停止条約を支持した志賀義雄、鈴木市蔵を除名。

 6.1日、人民日報が、志賀らをソ連修正主義一派として批判するアカハタ論文を掲載。

 6月、全寮連が民青系執行部を選出した。

 7月、第一次自由化に踏み切った。その後2回にわたる自由化を経て1971(昭和46).8月第4次自由化を実施することになる。


【志賀問題で、党員学者文化人12名が党中央批判】
 6.11日、党員学者文化人12名の連署で、志賀問題に関する中央指導部への要望書を発した。朝倉摂.出隆.国分一太郎.佐多稲子.佐藤忠良.野間宏.本郷新.丸木位里.俊子夫妻.宮島義男.山田勝次郎.渡部義道。渡部義通が全体をまとめ、「要請」という文書を共同で作成し、これを党中央委員・同候補・中央統制委員全員に郵送した。「我々は二人の行動に同調する立場にはないが」、「第8中総」が党の根本問題から目をそらし、志賀問題を形式上の規律問題にすり替えたことに、不正常さを認めざるをえないとし、現在の基本政策の再検討、官僚的指導の根絶、大衆運動における統一の回復、科学芸術対策にベストを尽くすこと−などの審議をつくすように、指導部批判の要望書を送付した。

 この要望書をまとめた渡部は、その「思想と学問の自伝」において、「機関の決定がどうあろうと、重大問題に面して個々の党員の思想と行動を最後に決めるのものは、彼等自身の主体的な判断と良心であるべきだということ、共産党の伝統的な幹部中心主義・機関至上主義・多数決絶対主義、特に形式的な規律主義を改めて、党員の主体性を容認し育成する党風を創り上げていくこと、これが元々僕の考えだったのだから」と語っている。

 同14日、再び12名の連名で、こんどは「声明」を発表し、報道機関等に送付している。これに対し、党中央は、・これは党規約第二条の(九)に定めている党員の義務に対する違反(「党の内部問題は、党内で解決し、党外にもちだしてはならない」)であるとして処分に向かったようである。この経過は第9回党大会・中央統制委員会の報告により知らされている。6.18日党中央書記局が、志賀義雄の妻多恵子を反党活動の理由で除名。

 6.30日、志賀.鈴木は、大阪で記者会見し、@.政治結社日本のこえ同志会をつくる、A.日本共産党創立記念日の7.15日に週刊日本のこえを発刊する、B.次期総選挙に大阪から立候補する、などと反党声明を発表した。

 6.13日、新三派連合により「統一都自代」が開かれ、ここで都学連再建が確認され、更に全学連の再建を目標とすることが協議された。


 7.2日、翌日に予定された憲法調査会の答申に対する反対デモの計画を練るため早大構内に集まっていた革マル派に対して、中核派.社学同.社青同.構改派(フロント)各派の連合勢力が、ヘルメットに身を固め、棍棒と石をもって夜襲の殴りこみをかけた。3時間の激闘が展開された。これを「7.2事件」という。


【佐々木社会党委員長と毛沢東主席対談】

 社会党の佐々木更三委員長が訪中し、毛沢東と会見した。席上、毛沢東は、「日本の皇軍なくしては、私たちは権力を奪取することは不可能だった」と述べたという。昭和55.1.12日発行、総評資料頒布会の「大衆政治家 佐々木更三の歩み」の476Pに、「毛沢東主席との会見、一九六四年七月十日、人民大会堂」として次のように所載されている。(「正論質疑」参照)
毛主席  友人の皆さんを歓迎します。−略− 日本の友人たちは、皇軍が中国を侵略して申し訳ないと言いました。私は、いいえ、と言いました。もし、日本の皇軍が中国の大半を占領していなかったら、中国人民は団結して、これに反対して闘うことができなかったし、中国共産党は権力を奪取することができなかったでしょう。ですから、われわれにとって、日本の皇軍は立派な教師だったのです。−略−
佐々木  今日、毛主席からひじょうに寛大なお話をうかがいました。過去、日本の軍国主義が中国を侵略してみなさんに大へんご迷惑をおかけしたことを申し訳なく思います。
毛主席  なにもあやまることはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。おかげで、中国人民は権力を奪取しました。日本の皇軍なしには、わたくしたちが権力を奪取することは不可能だったのです。この点で、わたしとあなたの間には、意見の相違と矛盾がありますね。
佐々木  ありがとうございます。
毛主席  過去のことは話さないことにしましょう。−略−

(私論.私見) 毛沢東の大東亜戦争観について

 毛沢東のこの歴史認識は他の箇所でも披瀝されているので、本音であったと思われる。となると、大東亜戦争を廻る歴史観において、当時の中共と日共にはおおきな隔たりがあることになる。それは奈辺にあるか。れんだいこは、日共の歴史観は本来の社会主義のそれではなく、ネオ・シオニズム゜・テキスト史観に過ぎないゆえであると読み解く。

 2007.3.19日 れんだいこ拝


 7月、第2回平民学連学生集会が開催された。現在時点で、平民学連に結集ないし、民主化している自治会224・マル 学同27・社学同22・社青同21・構造改革派38という力関係になった。占有率67%ということになる。民青同系が急速に支持を増やしていることが知れる。この頃、共産党内で志賀グループが造反したが、学生党員の中に動揺はおこらなかった。京大と中央大の学生細胞の一部が呼応した。


 7月、革マル派全学連第21回大会開催。


【神山.中野問題発生する】

 「8中総」のあと、神山は、日朝協会.原水協.平和委員会などの役職を次々とはずされた。7.7日神山は中委あてに意見書を提出した。そこで彼は、「8中総」前後の中央の決議.決定の発表方法や内容についての意見を述べ、民主集中制と党規約が歪曲されていること、意見提出の自由や討論の保証が実質的に欠如していること、あかはたの各形式の論文がマルクス.レーニン主義をねじ曲げていること、党の言論統制が徳田家父長体制の頃よりひどくなっていること、最近のアカハタ論文が反ソ宣伝的挑発的で、綱領規約に違反していること、等を指摘し批判した。


 7.11日、論文「原水禁運動と分裂主義者の理論と実践」をアカハタに発表。


【「第9中総」が開かれ、神山.中野が闇討ち的に葬られる】

 7.13−15日、「第9中総」が開かれた。定刻より遅れて開かれた会議の冒頭で、宮顕書記長から、動議でも提案でも意見でもない奇妙な形式の報告が為された。長野県における神山グループの分派的行動と、新日本文学大会、その他での中野の規律違反が言及された。それはほのめかしという性格を持つ長話であった。これに茶坊主発言を続かせるという、自分が免責され且つ政敵に打撃が与えられ且つ茶坊主の脛にも傷を負わせるという一挙三得手法が作動する。忽ち袴田.西沢(隆).川上.金子.多田などから神山.中野への攻撃的発言が為された。野坂からも、幹部会.中委総会.大会などの秘密が公安調査庁に筒抜けになっていて、「8中総」の議事も80パーセントまで公安情報に出ていると報告があり、これを受けて西沢隆二らから、二人がいては秘密をばらす恐れがある、二人を加えておいて党の秘密が保てるのかなど、攻撃が浴びせられた。神山と中野は、これら一連に抗議した。

 このやり方にたいして、高知聡氏は「日本共産党粛清史」で、次のようにコメントしている。「宮本のやり口は、まさか森恒夫や永田洋子ほどのことではないにせよ、同質の卑劣さとそれを凌駕する老獪さを持っている。スターリン主義者の政治技術は、保守政治家と選ぶところはないのであるが、それてもやはり、こういう事実をなまに知るとやりきれない思いがする。嫌悪すべき政治悪の世界であり、腐臭を放つような退廃である」。

(私論.私観) 「この時の野坂による神山・中野批判」について

 今日野坂が重複スパイであったことが判明している。としたら、この会議での野坂による神山.中野のスパイ容疑批判はどういう意味を持つことになるのだろう。真正スパイがれっきとした非スパイ党員をスパイ呼ばわりして、これに他の党幹部が追従したということになる。こう云う場合、その責任をまぬかれないのであろうか。


【第7回自民党総裁公選】

 自民党総裁の改選期に入り、池田三選の是非をめぐって党内が割れた。三選を狙う池田、池田後を狙う佐藤栄作、執念の藤山愛一郎が立候補し政権取りを争った。「三木答申」に従って、形の上では派閥は解消されていた。しかしそれも束の間、39年7月の総裁選では派閥はあっさりと復活する。

 かっての吉田門下の両柱だった池田と佐藤の争いが熾烈を極めた。「佐藤と池田は旧制高校時代の同級生で、佐藤は鉄道省、池田は大蔵省で出世を競い、ともに吉田の引きで政界入りして吉田の側近中の側近、吉田学校の優等生として実力をつけてきたライバルであり、友人でもあった。佐藤は35年の総裁選で池田を全面的に支持したが、その佐藤と池田の仲もむずかしいものになりつつあった」(「自民党派閥の歴史」

 佐藤派内は保利と福田が阻止に動き佐藤擁立に動いた。親池田系に位置する田中は大平と組んで池田三選−その後佐藤へ禅譲構想で対抗した。結局、佐藤は立った。この時、池田・佐藤の密議も交わされたが「酒乱の電話」でご破算となった。「佐藤君に、君達からも云っておけ!公選では、百票は引き離してみせるからな。負けた後で吠え面かくなよ、とな」と、池田が夜回りにきた記者に云ったことが伝えられている。

 池田3選を目指したのは、池田・河野・大野派主流・三木・川島の5派連合。3選阻止派の佐藤は、佐藤、岸・福田、石井の3派連合、大野派の一部。独自の戦いをしたのが藤山派。この総裁選はすさまじい買収合戦になった。特に池田派と佐藤派の攻防が凄まじく、この時飛び交った実弾は20億円と推定されている。相互に「一本釣り」を行い、二派から金を貰うのを「ニッカ」、三派から貰うのを「サントリー」、三派から貰った挙句誰に入れるのか票が読めない「オールドパー」、小派閥をまるごとカネで買う「トロール」現象が現れた。

 「池田陣営の指揮は実質的には河野がとった。河野は池田三選に功績をたてて、池田後の禅譲を狙ったのだといわれる。佐藤は形の上では池田と争っていたが、実際には佐藤と河野の闘いであった。佐藤陣営の参謀は、佐藤派大番頭の保利茂と福田派会長の福田赳夫だった」(「自民党派閥の歴史」)。事前予想は「両派相伯仲」、「公選は大接戦」となり、政治記者たちの客観的な分析によってもなお、いずれが勝利を得るのか、まったく読みきれなかった、と伝えられている。

 7.10日、自民党総裁公選が行われ池田首相が三選される。池田が対立候補の佐藤、藤山の追撃を振り切っての3選となった。第一回目の投票結果は、池田242票、佐藤160票、藤山72票、灘尾弘吉1であったが、池田が過半数に達せず(池田が佐藤・藤山連合を上回る事僅か10票)決選投票となった。この時、佐藤と藤山が2、3位連合を組み佐藤を立てた為、、池田は佐藤にわずか5票だけ上回る激戦となった(得票不明)。池田は三選されたものの、予想外の苦戦であった。佐藤はこの時の善戦でポスト池田の地位を獲得した。


【第三次池田内閣発足】
 7.18日、第三次池田内閣が発足した。鈴木善幸官房長官、三木幹事長、川島副総裁、河野国務相。

 7月、政府の憲法調査会が、改憲と護憲の両論併記の最終報告書を提出する。


【「日本の声同志会」結成される】

 7.15日、志賀.鈴木.神山.中野らが「日本の声同志会」をつくり、機関紙「日本のこえ」を発刊した。四者共同声明が為され、いきさつとの弁明とこの間の党の態度を非難した。宮本系党中央の路線の誤りと官僚主義的体制に対する批判を基点にしていた。但し、元々この代表4名間には理論的差異があったことと、誰を代表にするかの合意に欠けており、又党内変革を求めての分派路線で行くのか、新党結成まで射程に入れるのかの打ち合わせ無き野合となっていた。後にこの点で空中分解していくことになった。


【日ソ両共産党間の公然論争勃発】

 7.11日、ソ連共産党書簡に返書を送った。

 7.18日、ソ連共産党は日共あてに2書簡を公表し、日共もソ連宛書簡を公表する。以後全面的にソ連共産党指導部への批判と攻撃が展開された。
 7.21日、日共、ソ連非難の書簡発表

 8.2日、論文「現代修正主義者の社会民主主義政党論」をアカハタに発表。

 この時、宮顕党中央は注目すべき詭弁論法を駆使している。その箇所を確認のため記す。「なお、あなたがたは、あなたがたが既に一方的に公表したこの書簡の中で、マッカーサーの弾圧−党中央委員会に対する公職追放令によって、我が党中央が非合法下に置かれた時期の両党関係をめぐる諸問題に触れています。これは、今回の会談の内容を公表しないという両党代表団の取り決めを全く無視しているだけでなく、兄弟党が非合法下ないし半非合法下に置かれた時間の非公然の問題を、反動権力の前で無警戒に論じないという、兄弟党間の信義と国際共産主義運動の当然の準則を全く踏みにじるやり方です。我々は、あなたがたがこの問題について述べている内容に同意するものではありませんが、この公開される書簡で、この時期のこれらの問題を更に立ち入って論及することは妥当でないので、ここではあえて回答する必要を認めません」。

 この論法が如何に詭弁であるかを指摘する。切開すべき理論的諸課題を非合法下の諸問題にすりかえている事が第一点である。切開すべき理論的諸課題が、このたびの論争時期のように対象とされる事象の発生後十余年を経過して、なお秘密にされねばならない党的利益は何も無い。ある時期の内部文書が一定期間後公表されていくことは、人民大衆運動の利益に合致する。「反動権力の前で無警戒に論じない」という論理も曲者である。ならば、公党間のテーブル交渉として行い、その結果議論の成果を公表するのかうのかというとそうでもない。「今回の会談の内容を公表しないという両党代表団の取り決め」とあるように、あくまで秘密主義で機密事項として置いておこうとしている。「殊更に秘密めかして自己保身をはかるのは、官僚組織の通弊」(高知聡「日本共産党粛清史」)であり、ここにもご都合主義が垣間見えている。


【アメリカがベトナムに軍事介入公然開始】

 8.2日、米国政府が、北ベトナムのトンキン湾で、米駆逐艦マドックスに対して北ベトナム海軍の魚雷艇が攻撃された、との発表を声明した。続く4日にもマドックスが攻撃を受けたと発表した。これを「トンキン湾事件」(ベトナム魚雷艇による米艦船爆撃事件)と云う。

 8.4日、ジョンソン大統領が、トンキン湾事件を口実に北ベトナムを報復爆撃、これを契機に大規模な公然軍事介入に踏み切った。この背景には、社会主義路線を執っている北ベトナムがベトナム全土を統一するとアジア全体が連鎖的に共産化するという「ドミノ理論」があった。

 トンキン湾事件が引き金になり、8.7日、米国は、ベトナムへの武力行使を始める権限を大統領に与える「トンキン湾決議」を上・下院で圧倒的多数で可決。翌65.2月、北爆が開始され、同3月には米軍がダナンに上陸して地上戦に介入していく。

 
但し、1995年、ロバート・マクナマラ国防長官(当時)が著書で、「8月4日の北ベトナム軍の攻撃はなかった」と暴露した。真偽不明。

 8.5日、幹部会声明、「アメリカ帝国主義のベトナム民主共和国への公然たる侵略戦争に反対し、アジア諸国人民との共同闘争を強化しよう」を発表。
 2003.12.24日、24日に公開される外務省機密文書で、日米両政府内で米側発表を疑問視する声があったことが判明した。同事件を廻る日本外務省の「第294回外交政策企画委員会記録」によると、8.12日に牛場信彦外務審議官や担当課長らが出席し、「トンキン湾事件を廻る共産圏の動向」を検討し、米国政府の発表を額面通りには受け取れない旨の遣り取りをしていることや、結局、米国理解の結論に至っている様子が窺える。なお、共産圏の動向を分析し、「中国義勇軍の早期介入は無い」と結論しているのも興味深い。

【「第10中総」が開かれ、神山、中野が処分される】
 8.18日、アカハタは、「志賀一派の党破壊活動の本質」論文を発表、「修正主義、教条主義、分裂主義」などと志賀一派を攻撃していた。

 8.23−27日、「第10中総」が開かれ、春日正一が報告し、神山の党員権を3ヶ月停止すると提案された。神山ら中央批判の文書を出し、党中央と論争する。中野は「秘密裁判よりも悪い、卑劣な政治的闇打ち」であるとして反対した。ところが、今度はこの中野発言が問題となり、休憩の後、宮本は、中野の党員権停止三ヶ月を告げた。

 その他原潜寄港問題で決議採択。党勢拡大月間を決定。

 8.26日、ソ連共産党の4.18日付け書簡に返書を送り、全面的に反論。修正主義、大国主義を批判した。

【神山.中野氏が除名される】

 8.28日【党中央、中野氏に査問呼び出し状送付】中野の自宅に中央委員会書記局から手紙が届けられる。文面は次のように記されていたことが本人に拠り明らかにされている。「中野重治同志 日本共産党第10回中央委員会総会は、貴同士の言動における規律違反容疑について規約第59条第2項に基づき、三ヶ月間の党員権の停止を決定した。知友王委員会幹部は、この決定に基づき貴同志をきたる8月31日午後1時から査問する。従って、間違いなく同時刻に中央委員会に出頭されたい。1964年8月28日」(「日本共産党批判」の中野「事実に立って」論文)。

 9.25日−30日、「第11中総」で神山.中野を除名する。


【「宮顕書記長一行がアジア外交】

 9.1−14日、宮顕書記長らインドネシア、中国を訪問。

 9.7日、宮顕書記長らインドネシア共産党アイジット議長と会談、共同声明に調印。

 9.10日、同、中国共産党劉少奇副主席と会談。

 この時のことと思われるが、袴田が中国から帰る時、周恩来が袴田に「野坂には気をつけたほうが良い」と忠告したと伝えられている。


 平民学連は、いよいよ全学連の再建が具体的日程に上ってきている段階と位置づけた。9月初め「全学連を再建しよう」という「全国学友への呼びかけ」 発表。


 9.8日、米原潜寄港阻止、アメリカのインドシナ侵略抗議、安保共闘再開要求の総決起大会。平民学連系1200名の隊列を組んで参加。


【「新三派連合」を結成される】

 この頃の学生運動につき、「第6期その3全学連の三方向分裂化と民青系全学連の再建」に記す。

 9.7−8日、中核派・ブント・社青同は、新三派連合を結成した。

 だが、この新三派連合結成後まもなくブントの内部対立が生じた。特に平民学連に対抗するためにも、従来の政治闘争主義に対する自己批判が必要とする少数派(マ ルクス主義戦線派=マル戦派.独立社学同)と、そうした観点に反発する多数派(マルクス・レーニン主義は=ML派)とに分裂して、ブントの勢力は急速に衰えていった。

 8.3日、新三派連合は、「全学連再建準備全国学生集会」を開いた。これに先立って中核派は、都学連再建を企図したが、革マル派の妨害で失敗した。


 9.22日、国領五一郎の墓碑、京都市左京区黒谷に建てられる。


 9.27日、第6回赤旗祭り、多摩湖、6万人。 10.5日あかはた主張でソ連提唱の起草案に反対する。アカハタ主張で、「各国共産党労働者党の国際会議は、分裂のためでなく、団結に役立つように行われるべきである」を発表。


【東海道新幹線が開通】
 10.1日、東京オリンピックにあわせて、東京、大阪間を3時間10分でむすぶ最高時速200キロの東海道新幹線が開通した。翌1965年には名神高速道路が開通する。

【東京オリンピック開幕開催される】

 10.10日、第18回オリンピック東京大会が開幕した。アジア初で、94カ国7千余人の選手・役員が参加した。日本は金16、銀5、銅8という成績を見せた。「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレーチームの活躍に日本中が沸いた。


 10月、新日本文学界は、江口喚ら3人の党的立場の会員を除籍した。

 10.14日、渡部義通、国分一太郎らが反党声明。


【ソ連共産党中央委員会総会でフルシチョフ第一書記が解任される】

 10.14日、ソ連共産党中央委員会総会でフルシチョフは第一書記を解任された。ブレジネフが替わりに選出された。フルシチョフ政権末期になると、ソ連経済には危機が忍び寄り、キャンペーンと機構改革と人事異動に取り組んだものの事態を好転させることが出来なかった。各級党委員会を工業委と農業委に分割するなど思い切った措置をとったが、これは党指導と行政を却って混乱に陥れ、中ソ対立や、キューバ危機などもフルシチョフ株を下落させた。フルシチョフの思いつき方針と同僚無視のやり方に不満が高まり、失脚を余儀なくされた。

 10.15日、フルシチョフは首相(閣僚会議議長)の座からも降ろされ、コスイギンが選出された。新政権は、スターリン死後と同様、集団指導の建前をとった。 ブレジネフ党中央第一書記、コスイギン首相、ポドゴルヌイ党中央委書記の三名によるトロイカ体制が敷かれることになった。
 
 新政権は、党委員会の分割をやめて一本化し、国民経済会議方式による横割の経済行政を省庁による縦割りのものに戻すなど、伝統的な機構と統治スタイルに復帰させた。米国追越や共産主義実現のバラ色の夢はほとんど口にされなくなり、経済政策では手堅い現実主義路線が特徴となった。

 10月、フルシチョフ解任と中国核実験を党の路線の正しさの証明として宣伝する。「いまのようなアメリカその他が核兵器を独占していて、中国を核兵器で脅かしながら、中国だけは核兵器を持つな、というようなことをいっても、それは道理の通らないことである。部分核停条約は核兵器を持っている国だけの核独占を続ける前提のもとにつくられたものである」。


【池田首相引退表明】

 10.25日、池田三選からわずか2ヶ月後、池田首相引退表明。翌26日の衆参両院議員総会で、川島正次郎副総裁と三木武夫幹事長が後継者の選考に入ることが了承された。後継候補は、佐藤と河野一郎、藤山愛一郎の3人となったが、調整は手間取った。11.4日、「河野・藤山盟約書」が出来上がった。以降、大平−田中コンビの裏工作が進み、大平が絶妙の根回しにより佐藤後継を演出していくことになった。

 「河野はかねがね「池田政権に対する貢献度からして池田は当然自分を後継に指名すべきだ」と考えており、「もし自分以外の者が後継になるようならあらかじめ教えてくれ」と三木や川島に伝えていた。池田は佐藤後継を決定、党役員や実力者を集めて公表したが、その場には河野は呼ばれなかった。最後の最後で河野は池田から見限られたのである。池田は翌年死去するが、その直前には河野も失意のまま世を去っている。すでに大野もなく、戦前からの党人で残ったのは三木、石井だけになった」(「自民党派閥の歴史」)。


【志賀系の日本共産党(日本の声)が結成される】 
 11.4日、志賀は訪ソを終え帰国するや、志賀.鈴木.神山.中野らで声明を発表し、日本共産党(日本の声)を組織した。

【アカハタが、「国際共産主義運動に関する諸問題について」の決定全文を発表】 

 11.6日、7中総で採択された「国際共産主義運動に関する諸問題について」の決定全文をアカハタに発表。


 11.9日、統制委員会、渡部義通、佐多稲子、野間宏、丸木位里、丸木俊子ら10名を分派活動による規律違反で除名。


【中野が「甲乙丙丁」の執筆に取り組む】

 中野は、この年11月より党中央の内幕暴露物として稀有な価値をもつ大作「甲乙丙丁」の執筆に取り組むことになる。但し、「中野さんの『甲乙丙丁』なんか読むと、中野さんはまだ宮本顕治に未練たっぷりなのよ。実に後ろ髪ひかれながら、宮本顕治にネガティブな評価をくだしている訳です。それも如何に彼を愛したか、彼を信頼していたかという前提の上に書いているわけだからね。それはもう高知君なんかと全然違うわけよ」(平野謙「未来」1970.2月)と評価される代物でしかない。

 致命的な欠陥は、リンチ事件に対する言及が無いことにあり、これではまともな宮顕論になぞなり得べくもない。要するに中野の俗物ぶりをも同時に物語っている。


【 第一次佐藤内閣が組閣される】
 11.9日、東京オリンピックが幕を閉じて二週間後、池田首相は、川島正次郎、三木武夫、鈴木善幸、大平正芳の4名を入院先の国立がんセンターの病室に呼び、佐藤を後継首相に指名した。

 12.1日、第15回自民党臨時党大会が開かれ、三木幹事長の斡旋に基づく「話し合い」の結果、佐藤栄作が第5代自民党総裁に選出され、首相指名を受けて第一次佐藤内閣が発足する。佐藤は、官房長官を池田派の鈴木善幸から自派の橋本登美三郎に取り替えただけで、第48回通常国会に向かった。 

 佐藤内閣は、日韓国交正常化、沖縄返還を政策の基軸に据え、「経済開発とバランスのとれた社会開発」を掲げた。このあと、佐藤内閣は在任期間7年8か月という最長記録をつくる。

【 公明党結成される】
 11.17日、宗教団体・創価学会を母体とする公明党が結成された。

 11.20−22日、「第12中総」。第9回党大会への中央委員会報告を決定。

【 戦後党史第三期】/ 【ミニ第C期】= 宮本独裁体制完了する

 第9回党大会が開催され、宮顕独裁体制が確立された。志賀系の追い出しに成功した宮顕の次の標的は中国派系に向かうことになった。これにも成功し、66年の第10回党大会はその凱歌を挙げる舞台となった。この期間を【 戦後党史第三期のミニ第C期とみなすことができる。


【第9回党大会】
○期日.会場.代議員数について

 11.24−30日第9回大会が東京大田区民会館、世田谷区民会館で開かれた。1061人の代議員出席。107人の代議員が発言し、205人が文書発言した。 党員数15万。  

○大会の眼目  

  大会の眼目は、宮顕体制確立後の最初の党大会であり、その成果を確認することにあった。民主連合政府構想が発表された。

○採択決議について  

  中委政治報告などを採択する。蔵原が「志賀、鈴木、神山、中野の処分承認についての提案」を行ない、大会1日目に全員一致で除名決議を採択した。「嫌がる蔵原を宮顕が信念を持って口説いた」と云われているが出来レースの可能性もあるので真相は分からない。 ソ連共産党の大国主義と現代修正主義批判。教条主義批判を新たに押しだし、自主独立論を中共路線上に名目的に確立する。党員15万人に達し、中央役員で宮本体制を一層強化する。大衆闘争の三つの観点、要求の獲得、大衆の自覚の成長と組織の強化、党勢拡大を定式化。   

○新執行部について

 中央委員は、前回の60名から67名、同候補は35名から42名、中央統制監査委員は8名から9名を選出した。引き続き増大化させた。

 新しい中央委員会は、議長に野坂.書記長に宮本を再選。幹部会員に野坂.宮顕.袴田.松島.岡.蔵原.春日.米原.河田の9人、同候補に紺野.西沢.大淵生気.藤原隆三を、書記局員に宮顕.袴田.岡ら16人を選んだ。

 中央委員候補に上田耕一郎(37才).不破哲三(34才).工藤晃を抜擢。 上田は政策委員、不破は中央機関紙編集委員。

【宮顕−袴田体制の継続確立】 
 野坂は84歳という高齢になったことも含めて幹部会員を外されて中央委員会議長という実権の伴わない名誉職に祀り上げられた。これにより宮顕体制を制度的に確立し、「自主独立」路線に拠って党の方向を統一した。

  袴田は前回党大会以来の地位を確保し、新たに岡正芳が常任幹部会員に登用されていることが注目される。岡は、東大卒、徳球の秘書を経て前衛編集長をもこなしてきた理論家であった。

【64年当時の党の方針の特質と要点】
 反ソ・親中共色で終始。

○〈本党大会までの執行部評価〉について  
@〈世界情勢に対する認識〉について   
A〈国内情勢に対する認識〉について  
B〈党の革命戦略〉について
C〈党の革命戦術〉について
D〈党の具体的な運動方向〉について  
E〈党の大衆闘争指導理論〉について  
F〈党の機関運営〉について  
G〈左翼陣営内における本流意識〉について  
H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について

  この大会で党は、「学生大衆との結びつきを強め、反共分裂主義者と有効に闘い、機の熟しつつある学生運動の組織的統一を成功させるように援助しなければならない」と述べ、「学生運動が、全人民的政治課題に積極的に取り組むと共に、学生の生活上、勉学上の要求、文化、スポーツなどの要求にも十分な注意を払い、広範な学生を結集しつつ民族民主統一戦線の一翼として発展するよう、努力しなければならない」と強調した。「こうして、共産党と民青同盟は、学生運動それ自体の発展のために闘いつつ、学生の多面的な要求に基づく 闘いを先頭に立って進め、さらに学生が将来も民主的、進歩的インテリゲンチァとして成長していけるように、長期的観点に立った指導を学生党員、同盟員に対して行なった。また、1960年、61年のトロッキスト、修正主義者との闘いの教訓に学んで、労働者規律と理論学習を強めていった」。

I〈大会後の動き〉


 11.30〜12.1日、第@中総

 12.1日、日本共産党(日本の声)が声明を発表し、第9回党大会を論評した。


【民青系全学連結成】

 12.10−11日、民青系全学連が「再建」された。全自連→全学連再建準備 協議→構造改革派の分離→平民学連→全学連の「再建」という流れで辿り着いた。この夜平民学連は第7回全国代表者会議を開き解散を決議した。こうし て、革マル派全学連に続いて二つの全学連が出現することとなった。71大学、129自治会から代議員276名、評議員182名。


 12.14−29日、インドネシア共産党代表団が来日。野坂.宮顕書記長ら党幹部と懇談。


【新三派連合による都学連再建準備大会開催】

 12.18−19日、新三派連合による都学連再建準備大会開催。革マル派は途中退場し、構造改革派は代表を送らなかった。65.7月をきして都学連再建大会を開くことを決定した。京都府学連がこれに提携し、全学連再建の動きが加速した。


 東海道新幹線の開通、東京オリンピックの開催、世界初の電子式卓上計算機が登場。開発したのは早川電機工業(現シャープ)。演算回路にゲルマニウム.トランジスターなどの半導体を使い、四則計算のスピードは従来型のけた違いの速さとなった。


【社会党第24回党大会】
 「構造改革」路線は炭労の石炭政策転換闘争などとして展開され、党内に激しい論争を呼び起こしたが、左派の巻き返しで2年ほどで退けられ、64年の第二四回大会では綱領補完文書として「日本における社会主義への道」が採択された。

 社会主義協会派によって「科学的社会主義の綱領」と賛美された「道」ではあるが、それは左社綱領と同様に、議会で多数を占めることによる平和革命という合法主義・議会主義の路線に他ならず、協会派の諸君の奮闘で「道」に散りばめられた似非マルクス主義的な空文句は、実践的にはますますブルジョア的な腐敗と堕落を深めるこの党の実態を覆い隠すイチジクの葉に過ぎなかった。もちろんこんなもので労働者大衆をだまし、引き付けることなどできるわけもなかった(社労党「日本社会主義運動史」)。




(私論.私見)