第24部 1963年の主なできごと.事件年表
「中ソ論争」公然化、党中共よりにシフトしつつ自主化す。

 (最新見直し2007.3.7日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第6期その3、全学連の三方向分裂化と民青系全学連の「再建」」に記す。

1.7 【「中ソ論争」公然化】 ソ連.中国共産党の対立(「中ソ論争」)公然化 。中国共産党紅旗社説はフルシチョフ批判。プラウダ社説ははじめて中共を名指しで、教条主義的セクト主義的見解の支持者として非難。 
1.11 「平和と社会主義の諸問題」を日本語版から日本版に切り替えて発売する。
1.15 −19日米原書記局員、岡本博之中央委員が、ドイツ社会主義統一党大会に出席。国際共産主義運動の団結を訴えた。
1.18 東ドイツ党大会で論争がクライマックスに達した。論争は、現代をどう捉えるか、帝国主義をどう評価するかの問題から発して、帝国主義と戦争、戦争と平和、平和と革命などの関係の問題、又平和共存と平和的移行、資本主義国での民主主義と社会主義、いわゆる構造改革と改良又は革命などの関連性の問題にまで及ぶ現代マルクス主義の理論的課題の全分野にわたった膨大な論争となった。
2.13 −15日「第5中総」開催。袴田から中ソ論争の経過報告が為された。ここに中央としてはじめて中ソ論争の問題を認め、これを討議することになった。ソ連的見解と中共的見解が衝突した。ソ連路線の支持者は志賀.鈴木.神山.中野.内野竹千代.砂間一良.平葦信行.谷口善太郎.須藤五郎.江口喚らであった。中共支持派は二つの系譜に分かれた。一つは無条件支持派で紺野.春日.聴濤.土岐.安斎.西沢(隆)ら。一つは綱領の立場に依拠する形での支持派で宮本.袴田.岡.松島.米原.西沢(富).高原らであった。野坂.蔵原らは態度を保留した。党は形式的には不介入の、実質的には中共寄りの決議をつくり、「全世界の共産党.労働者党はかたく団結しよう」を採択した。
2月 −3月出版物を総動員して「新日本文学」幹部を攻撃する。同大会では日共批判派が圧倒して支配をとった。 波多然とそのグループが脱党声明発表。3.8日佐賀県の前中央委員波多然とそのグループが脱党声明を発表した。声明は、党指導部は国内路線での平和運動.労働運動の指導間の誤りによって、又国際戦線でのモスクワ声明への背反とソ連路線への違背によって、「もはやマルクス.レーニン主義と無縁のものに転化している」と断じた。そして、現在の党活動は、全部党勢拡大運動に集中され、党員.あかはた.どう日曜版の拡大割り当て数字の消化だけが全てとなっている。いわば党員は独善主義と官僚主義の党幹部の道具と化している。党内民主主義は破壊され、規約に保証された言論の自由は全くない。これ以上党にとどまって党を改善する条件は見いだせない−−−と、その離党の理由を明らかにした。(「真の前衛等建設のために−日本共産党を離れるに際して声明する」。その後、、社会主義新運動準備会の組織に参加していった。
4月 ソ連共産党の中国共産党宛書簡の公表を発端として、中ソ両党の公開論争が展開された。
4.17 −30日第5回一斉地方選挙。に都道府県議22名.5大市議14名.市区町村議666名が当選する。25パーセント増。大阪・横浜市長選などで革新系が勝利。
5.15 −17日「第6中総」。地方選挙の成果の上にたって人民と共にさらに前進しようを採択。
7.15 日米.ソ.英で部分的核実験停止条約調印。ソ連のこの条約締結の評価を廻ってソ連共産党と日本共産党が対立していくことになる。ソ連共産党が条約賛成を各国共産党に要求して回り、党中央はこれに同意しない動きを見せた。このことから双方の激しい非難の応酬が展開されていくことになった。
7.18 池田解像内閣。
7.26 −8.22日党代表団団長袴田キューバ訪問。
7.26 キューバの7.26武装決起10周年記念集会に参加。
7.29 あかはた主張、「部分的核兵器実験停止条約について」を発表。
8.2 −7日第9回原水爆禁止世界大会、途中で総評指導部など脱退。国際会議で部核をめぐり中ソ激論。原水禁世界大会分裂。
8.3 幹部会声明で部分核停条約不支持を表明する。「核兵器全面禁止の旗を掲げ統一を守らなければならない」を発表。
8.5 米英ソ三国、モスクワで部分的核実験停止条約調印。
8.12 南ベトナム解放民族戦線代表団と会談。共同声明に調印。8.24日発表。
8月 原水爆禁止世界大会で中共代表団を支持し、社会党.総評系は分裂する。
8.25 ジューコフは日共代表団を非難した論文をプラウダに発表する。
9.7 アカハタ主張、党と読者との関係について「5点改善運動」を呼びかける。 
9.23 宮本NHK教育テレビで初めて「自主独立」の立場の言葉を使う。今日宮本の先見性を証左する用語として評価されているが、歴史的文脈から見れば、これは毛沢東が「自力更生」を云い、インドネシア共産党のアイジットが「独立自主」と云っていたのをもじった風がある。 
10.15 −18日「第7中総」。5中総決議を補足訂正した新決議を採択した。国際情勢と世界の共産主義運動の問題について検討を加え、「国際共産主義運動に関する諸問題について」の決定を多数決採択した。志賀.鈴木.神山.中野が反対した。間接にソ連を非難し中共寄りの姿勢が一層明らかにされていた。党の原則的国際路線を発展さすとされた。この後党内にソ連批判.中共支持の工作と教育が強力に進められた。
10.15 〜18日第7回中総、中共路線支持を表明。
10.20 第5回あかはた祭り、多摩湖.6万人。日日曜版第一回全国勤労者囲碁.将棋大会優勝決定戦行われる。
10.23 衆議院解散⇒「ムード解散」
11月 米国家安全保障会議(NSC)が、ソ連との核戦争シナリオともいえる最高機密文書「ソ連との戦争における管理と終結」を作成していた。その「戦争シミュレーション」によると、米国が核を先制使用する状況を開戦から停戦まで詳細に描いており、現在の米核戦略の源流となっている。@.ソ連の不意打ち核攻撃とA.米国の核先制使用の場合とに分けて分析し、Aの方が損害は小さいとも分析している。核戦争は開始後一日で停戦が実現するが、米国の犠牲者は最大で1億5千万人に上ると予測されていた。停戦後ソ連衛生国家は自由化され、北方領土は日本に返還される。
11.10 アカハタ主張、7中総に基づいて、「国際共産主義運動の真の団結と前進のために」を発表。同日曜版にも自主独立の名の下にソ連批判.中共路線同調の論文を載せる。概要「(モスクワ声明を盾に取り)自主独立、各国共産党の平等を主張し、ソ連共産党による修正主義路線の押し付けを批判し、ソ連共産党に論争の責任がある」、「国際共産主義運動の中には、全ての兄弟党が認めているように指導する党も指導される党もない。兄弟党の関係について、どのような党も、自らを他の全ての兄弟党の上に置くことは出来ない。またある党を特別の地位にまつりあげることによって、他の党をそれに従わせることも出来ない」としていた。
11.21 第30回衆議院総選挙。自民283、社会144、民社23名、共産5名、無所属12名当選。党は、5名.164万票4.0を獲得。前回より約49万票の増加となる。大阪1区志賀義雄.大阪2区川上貫一.京都1区谷口善太郎.長野3区林百郎.愛知1区加藤進の5名当選。
11.22 ケネディー暗殺される。リンド.ジョンソンが第36代大統領に就任。
11.25 ワシントンで池田.ジョンソン会談。
12.5 幹部会決定、「総選挙闘争の成果にたち7中総決議を堅持してさらに前進しよう」を発表。 年末、中間目標の党員数に達したもの16府県。
12.9 【第三次池田内閣発足】この頃高度経済成長路線に反対する「党風刷新連盟」が福田らを中心に始まった。(閣僚全員留任・九頭竜川ダム疑惑)
中ソ論争表面化。


【「中ソ論争」公然化】

  1.7日ソ連共産党機関紙プラウダは、「中国は、極左、冒険主義である」との論文を発表した。ここに、ソ連.中国共産党の対立(「中ソ論争」)が公然化することになった。中国共産党紅旗社説はフルシチョフ批判、プラウダ社説ははじめて中共を名指しで、教条主義的セクト主義的見解の支持者として非難した。

 1.18日東ドイツ党大会で論争がクライマックスに達した。論争は、現代をどう捉えるか、帝国主義をどう評価するかの問題から発して、帝国主義と戦争、戦争と平和、平和と革命などの関係の問題、又平和共存と平和的移行、資本主義国での民主主義と社会主義、いわゆる構造改革と改良又は革命などの関連性の問題にまで及ぶ現代マルクス主義の理論的課題の全分野にわたった膨大な論争となった。


 1.11日、「平和と社会主義の諸問題」を日本語版から日本版に切り替えて発売する。

 1.12日、マル学同全学連第33回中執委開催されるが、深刻な対立を引き起こした。「統一行動の中で、他の分派、例えば社学同などを充分に批判できなかった」といった意見が出されて、内部の分裂が公然化した。

 1.15−19日、米原書記局員、岡本博之中央委員が、ドイツ社会主義統一党大会に出席。国際共産主義運動の団結を訴えた。


【この頃の社会党左派戦線の動向】

 東京地本第四大会開催の一カ月前、六三年一月、中野鷺ノ宮の向坂逸郎邸の広間に左派連合の活動家約八十名が結集し対策会議を開いた。これまであまり協会派を刺激しないよう路線論議(憲法闘争、原水禁運動)を控えてきたが、参加したKTCのメンバーの十名は積極的に発言した。空中戦、抽象論議にならないよう、支部、班活動の具体的方針、労働者のオルグ工作、学習の方法、政治的意志一致の在り方、などを実践をふまえて提起した。私も積極的に発言を行い、協会派を圧倒し、参加者の共鳴と圧倒的支持を得たのである。

 大会での地本執行部との論争点の整理を終了し、全体で執行委員立候補者の最終確認を行うことになった。司会をしていた立山氏より委員長に「吉田栄一を」との提案が迫力なく出される(これは社会主義協会の本部決定であったようだ)や、私が「筋を通せ、これでは中央本部と同じだ。青年民同幹部など担ぐことは出来ない」と発言すると、玉川、石黒、牛越、上本君等のKTCメンバーが次々と反対を表明、集約できなくなり、後日再検討しようとなり全員広間で寝て静かになった。横になってから「こんな妥協できるか、左派連合が分裂しても仕方ない」と考え、立ち上がって、「俺は帰るぞ」と言うと山崎雄司君が「樋口、俺を置いて行くな」と続いて起き、さらに玉川さんが「オイ皆、帰るぞ」と呼びかけると白けていた全員が起き上がり、結局、立山氏以下の六名の協会派メンバーを残して全員向坂邸を後に、協会批判をしながら夜道をゾロゾロと池袋に向かって歩いていった。

 この結果に驚いた協会派は、永田恒治君が玉川、江畑、石黒、牛越君等々の所に回り、「立山提案撤回、当初の人事でいこう」と申し入れて来た。慶明氏とも意志一致し、KTC全体として「自己批判抜きに一緒にやれない」ことを玉川さんをとおして協会派に言い渡した。「君たちとは対立するつもりはない、一緒にやっていきたい」と立山氏から玉川さんに伝えられ、左派連合の分裂回避(というより協会派の孤立化)となり、第四回地本大会を六三年二月に迎えることになる。東交会館で行われた二月大会には劣勢の地本執行部は流会戦術をとる。政治駆け引きに未熟の左派連合は、それを許してしまうが、体制を立て直した三月大会で左派執行部成立、信任投票(第四インターは左派連合と構改派に票を分散)となった。

 十五人の地本執行委員のうちKTCからは、樋口委員長、玉川教宣、上本労対、山崎労対担当、秋山学対、牛越組織が入り解放派シンパとしては狩野労対担当(後、東交委員長)が入り、協会派は山崎書記、永田組織部、上村、今村君、第四インターは斎藤副委員昊、小島組織担当が執行部入りした。構改派は平井国労東京地本青年部長を委員長に立てたが本大会で立候補を取り下げ信任投票となり、二百名中不信任は約四十名であった。当時の執行委員の年齢は三十歳から二十三歳の間であり、私は平均年令の二十五歳になったばかりであった。

 第四回大会以後、東京地本は、六三年第一〇回広島原水協大会の社・共分裂、都電杉並線撤去攻撃から開始された東交反合闘争、全逓深夜伝送便、東水労検針例日闘争等の反合闘争を基礎に、六五年全国反戦青年委員会結成、日韓闘争を迎える直前、六五年七月三一日、八月一日東京地本第六回大会にて協会派との全面対決となり解放派と第四インター連合の地本執行部の確立となっていく。


 1.25日、池田首相は大管法提出の見送りを決定した。


 2月、IMF理事会は、「日本は国際収支を理由として経常取引などでの為替制限を継続する資格は認められない」として、日本にIMF8条国への移行を勧告した。この勧告に従い、翌4月、日本はIMF8条国となった。


【「第5中総」が開かれ、「中ソ論争」の党内への波及】

 2.13−15日、「第5中総」開催。袴田から中ソ論争の経過報告が為された。ここに中央としてはじめて中ソ論争の問題を認め、これを討議することになった。ソ連的見解と中共的見解が衝突した。ソ連路線の支持者は志賀.鈴木.神山.中野.内野竹千代.砂間一良.平葦信行.谷口善太郎.須藤五郎.江口喚らであった。中共支持派は二つの系譜に分かれた。一つは無条件支持派で紺野.春日.聴濤.土岐.安斎.西沢(隆)ら。一つは綱領の立場に依拠する形での支持派で宮本.袴田.岡.松島.米原.西沢(富).高原らであった。野坂.蔵原らは態度を保留した。党は形式的には不介入の、実質的には中共寄りの決議をつくり、「全世界の共産党.労働者党はかたく団結しよう」を採択した。


 2−3月、出版物を総動員して「新日本文学」幹部を攻撃する。同大会では日共批判派が圧倒して支配をとった。


【革共同の第三次分裂】

 この頃の学生運動につき、「第6期その3全学連の三方向分裂化と民青系全学連の再建」に記す。

 2.20日、革共同全国委政治局議長黒田寛一他3名の政治局員が、「最後の手紙」と呼ばれた党内闘争の宣言を発表し、事実上の組織分裂を引き起こした。黒田派は「日本革命的共産主義者同盟全国委員会革命的マルクス主義派」(革マル派)を結成し、機関紙「解放」を創刊し、反黒田派は「日本マルクス主義学生同盟中核派」(中核派)を結成し、機関紙「前進」を継承した。こうして、革共同全国委に分裂が発生し、中核派と革マル派が誕生するこ とになった。これを革共同の第三次分裂と言う。

(私論.私観) 「革共同の第三次分裂」について

 中核派と革マル派の分裂について、この時点での対立については、どちらが正しいとかを決定することが不能な気質の違いのようなものではないか、と私には思える。先のカオス・ロゴス識別に従えば、 中核派はカオス派の立場に立っており、その意味では大量移入したブントの影響がもたらしたものとも考えられる。つまり、ブントが革共同全国委から中核派を引き連れて先祖帰りしたとみなすことが出来るかもしれない。実際に、中核派の以降の動きを見れば旧ブント的行動と理論を展開していくことになる。 こうなると党の建設方針から労働運動戦術から何から何まで対立していくことになるのも不思議ではない。してみれば、革マル派の方が革共同の正統の流れを引き継いでおり、この間のブントの移入と中核派としての分離の過程は肌触りの違う者が結局出ていったということになるようである。


【「原水禁運動が「2.21声明」】
 2.21日日本原水協が常任委員会を開き、社会党系と共産党系の間で運動統一へ向け妥協が成立。この担当常任理事会はそれまでの経過から、あらためて運動の性格と原則を確認することにし、慎重な討論の結果、満場一致で、@・いかなる国の原水爆にも反対し、原水爆の完全禁止をはかる。A・社会体制の異なる国家間の平和共存のもとで達成できる立場にたつ。B・多年の努力の成果をふまえ、国民大衆とともに真実をきわめる。ことを骨子とした「2.21声明」を決定、安井理事長が声明した。これと同時に実務的「協定事項」を確認した。 

 2.8日、米国のネヴァダエリアの地下で核実験実施。2.15、2.213.1、3.15、3.29、4.5、4.10、4.11、4.2 4、5.9、5.17、5.22、5.29、6.5、6.14、6.25日も続行。


 2.28日、3.1ビキニ集会に先だって日本原水協が静岡市で全国常任理事会を開き、「すべての国の核実験に反対」を3.1日のビキニ・デー宣言に入れるかどうか討議したが、社会党と共産党が再び対立。共産党系団体出身の常任理事が「2.21声明」のなかの「あらゆる国の核実験に反対する」部分に反対してゆずらず、「協定事項」についても異議を唱えたため会議がまとまらず、さらにスローガンについては「あらゆる国の核実験反対」を挿入せよという総評、社会党と共産党の意見が対立、ついに安井郁理事長も収拾不可能と判断、辞意を表明し、担当常任理事も全員辞任するにいたり、日本原水協としては、統一したビキニ集会を開催できなくなった。

 この背景には次のような事情があった。日本原水協の担当常任理事には当然日共党員も入っており、最初はこの「2.21声明」に賛成したのであった。だが、この決定を日共本部に報告するや、彼らは党のイデオロギー基準からみてこれを拒否することを決めた。この日共本部の決定により、大衆団体内部で決められたことがいとも簡単にくつがえされてしまった。つまり日本原水協という大衆団体の論理は常に日共の党派の論理に従属しなくてはならないという発想がそこにはみられる。これでは大衆団体の決定は重みをもたないことになる。団体内部の民主主義は否定されざるをえない。

 3.1日、安井郁理事長が担当常任理事総辞職を宣言。

 3.1日、ビキニ集会が日本原水協として開催できず、二つに分かれて開かれた。


【「唐牛問題」発生】

 2.26日、「唐牛問題」が発生している。TBSインタビューで、ラジオが録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」を放送し、安保闘争時の全学連委員長唐牛健太郎について、彼が田中清玄(戦前の武装共産党時代の委員長であったが、獄中で転向し、その後行動右翼と活躍していた人物)から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めていることなどを、暴露した。 田中清玄氏も当時の全学連指導者に資金提供していたことを明らかにしたところから、共産党によって大々的に当時の全学連指導者ブントのいかがわしさが喧伝されていくことになった、という意味で政治的事件となった。この時の共産党の飛びつきは大々的で、「トロッキストの正体は右翼の手先」だと、大量に録音テープを配布し、機関紙「アカハタ」で連日この問題を取り上げた。

 これについては「唐牛問題(「歪んだ青春−全学連闘士のその後」)考」で更に検証する。

(私論.私観) 「田中清玄インタビュー事件」について

 この「田中清玄インタビュー」内容の詳細を知りたいが手にしていないので、現象的に現れた作用についてコメントしようと思う。この党の喧伝には例の詐術があったことを指摘しておきたい。どういう詐術かというと、この時党は、田中清玄氏を主として民族主義者的右翼として描き出し、その右翼的政界フィクサーがブントへ資金提供していたといういかがわしさを浮きだたせ、よってブントのトロッキストの反共的本質を明らかにするという三段論法をとった。 63年当時のブントは、この後おってみていくことになるが分裂状態で崩壊状況にあり、これに対し有効な反撃が組織できなかった。

 私なら、こう主張する。 田中清玄氏は、あなたがたの党の前身である戦前の武装共産党時代のれっきとした党委員長であり、転向後政治的立場を民族主義者として移し身していく ことになった。これは彼のドラマであり、我々の関知するところではない。その彼が、当時においては政治的立場を異にするものの、当時の我々のブント運動に自身の若き頃をカリカチュアさせた結果資金提供を申し出たものと受けとめている。氏の 「国家百年の計」よりなす憂国の情の然らしめたものでもあった。ブントは、これにより政治的影響を一切受けなかったし、当時の財政危機状態にあっては有り難い申し出であった。もし、これを不正というのであれば、宮顕の戦前の党中央時代と戦後の党分裂期の国際派時代の潤沢な資金について究明していく用意がある、と。


 3月、「日韓会談反対」闘争を中軸として、金鐘泌訪日阻止闘争が羽田で行われた。


【波多然とそのグループが脱党声明】

 3.8日、佐賀県の前中央委員波多然とそのグループが脱党声明を発表した。声明は、党指導部は国内路線での平和運動.労働運動の指導間の誤りによって、又国際戦線でのモスクワ声明への背反とソ連路線への違背によって、「もはやマルクス.レーニン主義と無縁のものに転化している」と断じた。

 そして、概要「現在の党活動は、全部党勢拡大運動に集中され、党員.あかはた.どう日曜版の拡大割り当て数字の消化だけが全てとなっている。いわば党員は独善主義と官僚主義の党幹部の道具と化している。党内民主主義は破壊され、規約に保証された言論の自由は全くない。これ以上党にとどまって党を改善する条件は見いだせない」と、その離党の理由を明らかにした(「真の前衛等建設のために−日本共産党を離れるに際して声明する」)。その後、、社会主義新運動準備会の組織に参加していった。


 3.17日、東京で平民学協全国学生集会が開かれた。130大学.1100名の結集。日韓会談反対、大学管理法粉砕、学生戦線統一を決議した。

マル学同全学連中執委が開かれ、革マル派が中核派を罷免する】

 4.1−2日、全学連第34回中執委が開かれ、乱闘の末、革マル派は中核派6名の中執罷免を決定した。統一行動を「野合」に過ぎぬと非難した根本派(→革マル派)と、それに反発して「セクト主義」だと非難を投げ返した小野田派(→中核派)に完全に分裂することになった。この時期中核派は全学連学生運動内に「浮いた状態」になった。


 4月、ソ連共産党の中国共産党宛書簡の公表を発端として、中ソ両党の公開論争が展開された。


 4.17−30日、第5回一斉地方選挙。都道府県議22名.5大市議14名.市区町村議666名が当選する。25パーセント増。

 5.15−17日、「第6中総」。地方選挙の成果の上にたって人民と共にさらに前進しようを採択。


【狭山事件発生で石川一雄青年が逮捕される】
 5月、狭山事件発生。埼玉県所沢市で女子高校生中田善枝さんの死体が農道で発見され、その犯人として被差別部落の石川一雄青年が逮捕された。

 5、6月の自治会選挙で、民青系が進出した。

 6.3日、イランで、イスラーム法学者ホメイニ師が実施された選挙をヤラセであるとして糾弾する演説を行なう。翌日逮捕され、これに怒った国民が6.5日暴動を起こす。この暴動は帝国全土で発生し、3日間く。シャー・パーラビは帝国軍を動員し武力を持ってこれを鎮圧した。ホメイニ師は釈放された後、またも皇帝を糾弾する演説を行い、1964.11.4日再逮捕され、トルコに国外追放となる。その後の1965年10月、ホメイニ師はイラクにあるシーア派の聖地ナジャフにある神学校行きの許可を受け、イスラーム法の研鑚を行なう。イラクで13年過ごす。この間、イランの反体制デモはますます盛んになり、ホメイニ師はイラクの地よりこれを支持する。イラクのフセイン大統領がイランに気を使い、ホメイニ師に国外退去を命じる。そして、ホメイニ師はフランスに亡命する。


 7.5日、中ソ両党会談が開始される。


【米.ソ.英で部分的核実験停止条約調印】
 7.15日、米.ソ.英で部分的核実験停止条約調印。この条約の意義は、それまでの大気圏での核実験が「人類に悪影響をおよぼす」ことに留意して今後大気圏での実験を禁止するというところにあった。米英ソ3国がこれを結んだが、遅れて核を持とうとしていた中国は「超大国の核独占だ」と反発していくことになる。

 ソ連のこの条約締結の評価を廻ってソ連共産党と日本共産党が対立していくことになる。ソ連共産党が条約賛成を各国共産党に要求して回り、党中央はこれに同意しない動きを見せた。このことから双方の激しい非難の応酬が展開されていくことになった。
原水爆禁止運動もこれで紛糾していくことになる。

【革マル系全学連の誕生】
 7.5日、全学連20回大会で革マル派が主導権確立。革マル派は中核派130名の入場を実力阻止し、6中執の罷免を承認した。この時、代議員の定員が満たされておらず、全学連の実質を喪失した事になった。以降革マル派全学連としてセクト化することになった。

【「平民学連」の誕生】

 7.16−18日、民青同系全学連の先駆的形態として、「安保反対.平和と民主主義を守る全国学生自治会連合」(平民学連)が結成され、第一回大会が開催された。この大会には、全学連規約に準じて代議員が各自治会から選出された。72大学、121自治会、230名の代議員参加、傍聴者3500名を越えた。平民学連が重視したのは、自治会に関する次のような規約遵守基準を明確にしていたことにある。

@ 自治会は学生のあらゆる民主的要求を汲み上げ実現すること、自治会はみんなのもの、みんなの利益を守るもの、という観点の明確化。
A 民主勢力との統一強化。安保共闘会議に結集し、人民の利益の中でこそ学生の利益が守られることを明確にすること。
B 国際学連と共に反帝平和の国際統一戦線としての一翼として、全世界学生との連帯強化。
C 自治会の民主的運営を徹底的に保障すること。この立場を貫くためには、学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する 闘いが必要である、とした。

(私論.私観) 民青同の「自治会の民主的運営論」について

 私は、この主張における「自治会の民主的運営を徹底的に保障すること」を支持する。ただし、この項目が「学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要である」と結びつけられることには同意しない。この主張はセクト的な立場の表明であり、その意味ではこの文章が接続されることにより「自治会の民主的運営の保障」はマヌーバーに転化せしめられていることになる、と思われるからである。そういうセクト的対応ではなくて、「組織の民主的運営と執行部権限理論」の解明は今なお重大な課題として突きつけられているのではなかろうか。この部分の解明がなしえたら左翼運動は一気に華開いてい くことが出来るかもしれないとも思う。


 7.26−8.22日、党代表団団長袴田キューバ訪問。
 7.26日、キューバの7.26武装決起10周年記念集会に参加。

 7.29日、アカハタ主張、「部分的核兵器実験停止条約について」を発表。

 8.2−7日、第9回原水爆禁止世界大会が開催された。「いかなる国の核実験にも反対」かどうかをめぐって紛糾した。党中央は、幹部会員松島治重を現地広島に送り込んで、中国支持の立場から指導を開始した。共産党が「アメリカの核は強盗の武器だが、社会主義国の核はその防衛の武器だ」との観点から「いかなる国の核実験にも反対に反対」している。

 国際会議で部核をめぐり中ソ激論となった。党中央が中共代表団を支持し、社会党.総評系はこれを認めず、途中で退場し脱退となった。かくて原水禁運動は分裂することになった。この分裂の責任を廻って、宮顕−不破系は今日なお詭弁を弄して居直り続けている。日本最大の平和運動を分裂に追いこんだのは明らかに日共の政治主義的な立ち回りであった。


 
その結果、この原水禁運動の分裂は、党中央のその後の中国路線の強化と合わせて、日本母親大会や安保共闘会議にも重大な影響を与えていくことになった。

 8.3日、幹部会声明で部分核停条約不支持を表明する。「核兵器全面禁止の旗を掲げ統一を守らなければならない」を発表。党として初めて中ソ論争に対する「中国寄り」の見解を表明した。「部分的核停条約の成立を平和への前進とみなす意見は、世界と日本の人民の認識を大きく誤らせるもの」、「我が国においては、『いかなる国の核実験にも反対する』という立場と、部分的核停条約を支持するという立場とは、同じ思想と同じ政治的立場に根ざしている。我々はこのような見解に断固反対する」と宣言していた。

 8.5日、米英ソ三国、モスクワで部分的核実験停止条約調印。9-10月三派、革マル派など日韓条約批准反対闘争展開。

 8.12日、南ベトナム解放民族戦線代表団と会談。共同声明に調印。8.24日発表。


 8.25日、ジューコフは日共代表団を非難した論文をプラウダに発表する。

 8.28日、人種差別反対ワシントン大行進で、マーチン・ルーサー・キング師が「わたしには 夢がある」スピーチ。


 9.1日、全国から10万の参加者を集めて横須賀・佐世保で第12次全国統一運動が挙行された。但し、これが事実上最後の社共共闘となり、破産した。


 9.5日、草加次郎地下鉄爆破事件。


 9.7日、アカハタ主張、党と読者との関係について「5点改善運動」を呼びかける。

【宮顕が「自主独立論」を打ち出す】
 9.23日、宮顕が本NHK教育テレビで初めて「自主独立」の立場の言葉を使う。今日宮顕の先見性を証左する用語として評価されているが、歴史的文脈から見れば、これは毛沢東が「自力更生」を云い、インドネシア共産党のアイジットが「独立自主」と云っていたのをもじった風がある。

(私論.私観) 宮顕の「自主独立論」について

 
共産党の「自主独立」論の産みの親はこの時の宮顕発言によるとされているが、史実は異なる。自主独立路線の産みの親は徳球書記長であるという認識に立ちたい。1950年になってコミンフォルム論評が為された時、コミンフォルムの若造が何を生意気な、日本革命の進路についてコミンフォルムに何が分かる、俺達が一番詳しいし責任もってやっているんだとえらい剣幕で反発した(実際、徳球自身はソ共とも中共とも連絡線は持っていなかったみたいですね)、この時の徳球の態度こそ自主独立路線の最初ではなかったかと思われる。この見方は、この時商業新聞が「日共のチトー化か」と書き上げていることでも追認される。もっともコミンフォルム論評はスターリン直々のそれであったことが判明し、徳球らしくしどろもどろになってしまった点で弱弱しさがあるが。

 その時宮顕は、すぐさま論評に飛びつき、スターリンの指導に従うべきだと党中央攻撃を率先しています。国際派といわれた所以がここにある。こうした経過から言える事は、宮顕の自主独立路線の真意は、権力を掌握した場合に誰からも掣肘受けずに党内運営をやりきるための方便でしかない、という非常に政治主義的なマヌーバーでしかないことが分かる。見えてくることは、宮顕‐不破ラインの特徴として理論に信をおいていないことである。そういう意味では柔軟である。徳球が自主的だとならば国際派の観点から反撃する。春日(庄)派が右派だと見れば「敵の出方論」で「左」派的観点から攻撃する。志賀がソ連通だとならば自主独立路線で攻撃する。中国派が左派的だとなれば右から攻撃する。新左翼が街頭闘争を盛り上げだすと議会主義路線で対抗する。国内の労働運動の山場にかかると対アメ帝闘争に向かわせようとする等々例証にはきりがない。その心証に良からぬものがないと、こうは柔軟にはなれないように思われる。
 


【「第7回中総」開催、党の国際共産主義運動に対する態度を鮮明にする】

 10.15−18日、第7回中総が開かれ、5中総決議を補足訂正した「国際共産主義運動に関する諸問題についての決定」が討議に附され採択した(「7中総決議」)。党中央は、中共路線支持を表明していた。志賀・鈴木・中野・神山らの反対意見が出され、結局、以上4名と内野竹千代・砂間一良らが反対または保留したものの賛成多数で採択された。この後党内にソ連批判.中共支持の工作と教育が強力に進められた。

 全員一致に拠らない採択は第8回党大会以来の出来事であり、党内外に与える影響を考慮してか、アカハタに発表されたのは翌年の11.6日であり、要するに、志賀・鈴木・中野・神山らの除名完了、第9回党大会直前であった。


 10.20日、第5回アカハタ祭り、多摩湖.6万人。日曜版第一回全国勤労者囲碁.将棋大会優勝決定戦行われる。

 10.23日、池田首相が衆院を解散。諸事情が絡み、年内に選挙を終えたいという雰囲気の中で解散したことから「ムード解散」と云われる。


 11.1日、ベトナム共和国(南ベトナム)で軍部クーデター発生。ドン・バン・ミン少将率いる反乱軍が決起、ゴ・ジン・ジェム大統領と弟夫妻が殺された。以降、軍内部の勢力争いが激化する。

 11月、米国家安全保障会議(NSC)が、ソ連との核戦争シナリオともいえる最高機密文書「ソ連との戦争における管理と終結」を作成していた。その「戦争シミュレーション」によると、米国が核を先制使用する状況を開戦から停戦まで詳細に描いており、現在の米核戦略の源流となっている。@.ソ連の不意打ち核攻撃とA.米国の核先制使用の場合とに分けて分析し、Aの方が損害は小さいとも分析している。核戦争は開始後一日で停戦が実現するが、米国の犠牲者は最大で1億5千万人に上ると予測されていた。停戦後ソ連衛生国家は自由化され、北方領土は日本に返還される。


【この当時の党の国際共産主義運動に対する態度】

 11.10日、アカハタ主張、7中総に基づいて、「国際共産主義運動の真の団結と前進のために」を発表。同日曜版にも自主独立の名の下にソ連批判.中共路線同調の論文を載せる。概要「(モスクワ声明を盾に取り)自主独立、各国共産党の平等を主張し、ソ連共産党による修正主義路線の押し付けを批判し、ソ連共産党に論争の責任がある」、「国際共産主義運動の中には、全ての兄弟党が認めているように指導する党も指導される党もない。兄弟党の関係について、どのような党も、自らを他の全ての兄弟党の上に置くことは出来ない。またある党を特別の地位にまつりあげることによって、他の党をそれに従わせることも出来ない」としていた。

 次のような記述もあるようである。「チトー一派は、モスクワ宣言に対処してつくられたその修正主義的綱領の立場を依然として固持しており、モスクワ宣言とモスクワ声明の革命的原則に反対する態度を決して変えていない。かれら自身も、かれらの基本的な政治的思想的立場がわかっていないことを繰り返し言明している。モスクワ宣言は、ブルジョアジーの影響があることが修正主義の国内的根源であり、帝国主義の圧力に降伏することが、その対外的な根源であると述べている。‐‐‐ユーゴスラビア修正主義者に誼を通じるなど、修正主義の国際的風潮と結びつくことで、かれらは、国際共産主義運動が決定的に分裂することに唯一の希望をかけて、我が党の破壊を夢見ている」。


【第30回衆議院総選挙】
 11.21日、第30回衆議院総選挙。自民283、社会114。この時、橋本龍太郎が岡山二区から立候補、当時最年少の26歳で初当選している。小渕恵三も同年の26歳で、群馬県から初当選している。福田・中曽根に続いての堂々3位当選であった。

 党は、2名増の5名。164万票4.0を獲得。前回より約49万票の増加となる。大阪1区志賀義雄.大阪2区川上貫一.京都1区谷口善太郎.長野3区林百郎.愛知1区加藤進の5名当選。

 11.22日、ケネディー暗殺される。リンド.ジョンソンが第36代大統領に就任。


 11.25日、ワシントンで池田.ジョンソン会談。


 12.5日、幹部会決定、「総選挙闘争の成果にたち7中総決議を堅持してさらに前進しよう」を発表。 年末、中間目標の党員数に達したもの16府県。


【第二次池田内閣第二次改造発足】
 12.9日、第二次池田内閣第二次改造発足。官房長官・黒金泰美、総務長官・野田武夫。法相・賀屋興宣、外相・大平正芳、蔵相・田中角栄、文相・灘尾弘吉、厚生相・小林武治、農相・赤城宗徳、通産相・福田一、運輸相・綾部健太郎、郵政相・小池信三、労相・大橋武夫、自治相・国家公安委員長・早川崇、北海道開発庁・科学技術庁長官・佐藤栄作、防衛庁長官・福田篤泰、経済企画庁長官・宮沢喜一、行政管理庁長官・山村新治郎。

 この頃、高度経済成長路線に反対する「党風刷新連盟」が福田らを中心に始まった。

【社青同第四回全国大会】

 構革派指導部は、東京地本の山崎、樋口提案の“基調”についての修正提案の採択で敗北し、執行部を全員退いた。代わって社会主義協会中心の指導体制ができあがる。“構革路線”はその後の社会党全国大会でも全国的な批判を集中的に浴びて江田執行部は後退したのである。“構革路線”の敗北は、池田首相下の第二次合理化としての“高度経済成長政策”のもと労働者階級、人民の資本に対する下からの反逆のエネルギーが噴き上げ、民同と社会党の右翼的体質と結合した“構革路線”に対する集中的批判となって現われたことを意味している。そして“米ソ平和共存”路線が、現実の米ソの原水爆実験の競争、キューバに設置されたソ連のミサイルをめぐる米ソ対立と緊張、アルジェリア革命、中ソ論争の激化などによって、その破産が予感されはじめていたことも、“構革路線”の敗北につながっていた。


【全国社会科学研究会結成される】

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」は次のように伝えている。「さて、こうして安保闘争の終焉とともにブントの英雄たちが無責任・無節操にも、あるいは新左翼運動に安易に鞍替えし、あるいは自己の階級的地位にしたがって大学やブルジョア社会に復帰していくなかで、ブントの理想を継承しつつ、その小ブルジョア急進主義を止揚し、マルクス主義に基礎をおく労働者政党の結成を追求する少数の人々があった。「プロ通」派―「共産主義の旗」派の流れを汲む林紘義らのグループである。

 彼らは新左翼流の皮相で空虚な大言壮語を退けて、「革命理論なくして革命運動なし」の立場に立って、63年12月には革命的サークル、全国社会科学研究会を組織、真にマルクス主義的な革命的理論に立脚した革命政党の創出をめざし、その理論的、組織的、実際的な準備を行うための地道な活動に乗り出した。

 全国社研は理論誌『科学的共産主義研究』によって理論的な成果を発表するとともに、66年にはレーニンの『イスクラ』に因んだ新聞『火花』を創刊、さらにビラやリーフレットの配布などによって先進的な労働者や労働者グループへの働きかけを追求していった。彼らはスターリニズムによって歪曲され、改竄され、投げ捨てられたマルクスやレーニンの革命理論を復元し、それに基づいて日本と世界の現実と階級闘争を分析し、日本における社会主義革命実現に向けての客観的、主体的な条件を明らかにしていった。

 この間の理論的成果としては、1848年の革命以来の国際的な社会主義運動・労働運動の歴史を総括して「二段階革命論」や「統一戦線戦術」の誤りを明らかにしたことなどもさることながら、何よりも特筆すべきは、一般に「社会主義」と呼ばれているソ連や中国の体制は何なのかという“二〇世紀最大の謎”を解明し、それが一種の資本主義=国家資本主義の体制に他ならないこと、そしてスターリニズムとはその上部構造に他ならないことを明らかにしたことである。これによって初めてわれわれは世界史の現段階と世界体制を正しく把握するカギを得たのである」。


【この頃の全学連各派の動向】

  全学連内部対立激化。革共同は中核派、革マル派に分裂。日本エムエル同盟(中共系)  社会主義革新運動等が発足。原水協混乱。   





(私論.私見)



「科学的社会主義」討論欄

不破哲三氏の過去と現在の議論について(その1)

2002/8/12 岩本兼雄

1、はじめに
 私はかねがね不破哲三氏のレーニン批判(「レーニンと資本論」−雑誌「経済」に、1997年から3年間余にわたって連載された)に疑問を感じてきたのだが、最近、氏の著作を読み直してみて、率直に言って驚きの連続であった。その驚きの一部を書いてみることにする。
 何よりも、科学的社会主義の「本家」筋が、しかも、当時の日本共産党幹部会委員長がレーニンを公然と批判したことは、理論の発展にとって歓迎すべきことである。そして、このような批判が党内でも活発な議論を呼ぶことを願うものである。党内での活発な議論こそ、社会主義諸国が崩壊した今日、社会主義の再生にとって何より必要なことであろう。

2、ソ連崩壊の原因について
 崩壊したソ連について、日本共産党は、あれは社会主義とは無縁のスターリンによる専制国家であるとしており、また科学的社会主義に立脚する日本共産党とも無縁であると主張している。
 私にいわせれば、縁のあるなしでいえば、これほど縁の深かった国もないのではなかろうかと思うのだが、それはさておき、不破氏は今年1月6日から「赤旗」連載のインタビュー「21世紀はどんな世紀になるか」において、ソ連崩壊の原因の一つとして次のように述べている。

 「ソ連社会は”ともかく社会主義だった”という人が、よくその理由とするのは、生産手段を国家がにぎっていた、だから経済の型からみて社会主義だ、という議論です。しかし、国家が経済をにぎっていさえすれば社会主義なのか、社会主義の最大の経済的特質は生産手段の国有化なのか、というと、これは理論的にも、大きな間違いです。
 科学的社会主義の事業がめざす社会主義の目標とは、国家を経済の主役にすることではありません。『資本論』のなかで、マルクスは、社会主義、共産主義社会の話をいろいろなところでやっていますが、国家が中心となった社会といった描写はどこにも出てきません。
 マルクスが、社会主義、共産主義の社会を語るとき、経済の主役をになうのは、いつも「結合した生産者たち」です。生産者、つまり、労働者のことですが、生産にたずさわる直接の当事者が力をあわせて生産手段をにぎり、生産を管理する、これが、マルクスが描き出した社会主義、共産主義の社会の基本的な仕組みです。」

 つまり、不破氏は本来社会主義国はその生産手段と生産の管理を国家ではなく生産者にゆだねるべきなのに、ソ連はそれをやらなかった、だから、ソ連は社会主義国ではないんだと主張しているわけである。

3、不破氏の40年前の議論
 ところが、不破氏は40年前には、まったく反対のことを言っているのである。不破氏は1963年に「ユーゴスラビア修正主義批判」という論文を『前衛』誌上に発表した。この論文は不破氏の著作「マルクス主義と現代修正主義」(大月書店)に収録されている。
 ユーゴスラビア綱領(1958年採択)は社会主義諸国の経済に関し、二つの型が現存し、一つは国家管理のソ連型、もう一つは生産者管理のユーゴ型があるという。不破氏によればユーゴ綱領は次のようにいう。

「1、ソ連などの社会主義国では、生産手段の国家的所有を基礎にして、国家が経済生活全体を管理し指導する役割を果たしているが、これは、社会的所有の低次の形態であり、むしろ、国家資本主義の要素をなすものであって、発達した社会主義のもとでは、国家的所有が解体され、「より直接的なより真実の社会的所有」である、生産者自身による集団的所有におきかえられなければならない。」
「2、生産手段の国家的所有を基礎とした社会主義は、不可避的に、国家機関と官僚の手に強大な権力を集中し、労働者階級にかわって、官僚が国家を支配する「官僚国家主義」に到達する。個人崇拝、民主主義の侵犯、ヘゲモニー主義(他国を支配し搾取しようとする傾向)などは、この制度のもたらす必然的な産物である。」
「3、「国家の死滅」とは、政治的には、国家機関を漸次「直接民主主義」と「社会的自治」の諸機関でおきかえてゆくことであり、経済的には・・・国家的所有を解体して、経済生活から社会主義国家をしめだしてゆくことである。」

 ユーゴ綱領はこのように、社会主義国崩壊後の今日からみれば注目すべき見解をもっていた。
 そこで不破氏の批判を聞こう。

「このように、ユーゴ綱領が、ソ連・中国などの社会主義に対置して、ただ一つの真の社会主義として売り込んでいるユーゴ型社会主義とは、一口にいえば、社会主義国家なしの社会主義である。ユーゴの修正主義者たちは、しばしば、マルクス、エンゲルス、レーニンなどを引用することによって、自分たちの「社会主義」がマルクス主義の科学的社会主義の理論の正統な後継者であるかのようにみせかけようとしているが、このような欺瞞は、マルクス=レーニン主義の社会主義理論についてまったく無知なものにたいしてしか通用しないだろう。
 第1の問題は、生産手段の国家的所有を否定し、社会主義国家による「記帳と統制」をはなれて社会主義経済を建設しようとするユーゴ理論が、マルクス=レーニン主義をアナルコ・サンジカリズムの理論でおきかえるものだということである。
 社会主義が、高度に発展した生産力を基礎に、国民経済を単一の全体として管理し計画化することを要求する以上、生産手段を国家の手に集中し、経済全体の国家的統制と計画化をおこなうことは、社会主義経済の存立の基礎をなす大原則である。マルクスとエンゲルスは、科学的社会主義の最初の綱領的文書である『共産党宣言』のなかで、社会主義的改造の基本的な内容を簡潔に定式化して「プロレタリアートは、その政治的支配を利用して、ブルジョアジーからつぎつぎにいっさいの資本を奪い取り、いっさいの生産用具を国家の手に、すなわち、支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中する」とのべている。」(不破「マルクス主義と現代修正主義」41、42ページ)

4、不破氏の過去と現在の議論
 さて、不破氏の二つの議論、現在と40年前のそれは、どのように考えても整合させることはできないのではなかろうか。
 むろん、40年前には社会主義国の崩壊など予想できなかったから、ここに書いたユーゴ綱領の注目すべき見解の評価は別として、@、社会主義社会における経済管理の基本は何か、という点と、A、それについてのマルクス、エンゲルスの見解はどうであったのか、という二つの論点に関しては、不破氏の見解はまったく逆であることは明らかであろう。
 40年前の議論からすれば、今年、正月の不破氏はアナルコ・サンジカリストであり、今年の不破氏が40年前の自分の議論を評価すれば「理論的にも、大きな間違い」ということになる。
 今日、不破氏が、マルクスはいつも「結合した生産者」を語ったとインタビューでいうとき、無人の野を行く風情であるが、40年前の議論をみると、別のマルクスが出てくるのでは颯爽とした風情も幻のごとくである。
 不破氏が過去と現在の二つの議論に架橋をしようとすれば、時代の変化を持ち出すしかない。国家に生産手段を集中し「記帳と統制」をはかることは社会主義国崩壊という現実によって否定されたのだから、40年前の議論は訂正しなければならない、とでもするしかなかろう。するとまた、40年前に不破氏が引用したマルクスもまた否定しなければならなくなるように思われるが、どうであろうか。
 しかし、ほかでもない『共産党宣言』の文章だぞ、これを否定するのか? ということになると、問題が大きくなる(マルクスは間違っていた!)から、不破氏の引用が間違っていたのだとでもするしかあるまい。

4、理論的にいえば
 実際には、どのように議論すべきであったのか、といえば、理論的には国家か、生産者かという2者択一の対立はないのであり、現実の経済管理システムとして両者をどのように組み合わせるかが問題であったにすぎない。資本主義国の国家独占資本主義という現実が形式の上ではその一例を提供していることを考えればわかりやすいであろう。
 あるいは、レーニンの有名な言葉を思い出してもよい。

「1918年になるころまでには、社会主義の二つの片われを、国際帝国主義という一つの殻のうちに、ちょうど未来の二羽のひよこのように、ならべて生み出した。ドイツとロシアとは、1918年には、一方では社会主義の経済的・生産的・社会=経済的諸条件の、他方では、その政治的諸条件の、物質的実現を、なによりもはっきりと体現した。」(「食料税について」全集32巻)

 むろん、どのように組み合わせるかは、現代的な問題(社会主義的市場経済・中国など)でもあるが、不破氏はこの点を忘れて(見ずに)、40年前も、現在も一面的な見地から、国家か、生産者か、という見地から議論をするから自分で自分を批判することになるのである。
 不破氏がなぜ、40年前も、現在も一面的な見地から議論することになるのかといえば、問題それ自体が要請する見地(ここでは両者の組み合わせ)からではなく、その時々の必要性から議論をするからである。40年前は構造改革論の元祖・ユーゴを批判する必要性から、今日ではソ連を社会主義から「無縁」とする必要性から。その結果、あれこれ述べているマルクスの言説のうち、その時々の必要性に合う言説を引用するということになり、マルクスを不破氏の「コンビニ」におとしめてしまっているのである。

6、何を学ぶか
 マルクス、エンゲルス文献についての博覧強記でつとに有名な不破氏の議論にも、このような議論があるのだということである。
 しかし、これだけではないということは、いずれまた述べるとして、ここにみられる不破氏のマルクスからの引用は、あれこれの文献を恣意的に引用しているということに尽きる。
 大事なことは、権威を無条件に信じることではなく、疑問に思ったことは納得するまで、時間を惜しまず、自分の頭で考え、調査、研究してみることである。
 社会主義諸国が崩壊し、共産主義の理想がユートピアになるどころか、地に堕ちたかにみえる現在、時代はマルクス、レーニンの時代とはまったく異なった様相を見せ、すべては暗中模索、すべての試みは歴史的にも新たなチャレンジという色彩を帯びてくる以上、指折り数えられる頭脳にすべてを託す他力本願では事態は如何ともしがたい。