第22部 1961年当時の主なできごと.事件年表
「第八回党大会」開催、春日(庄)グループ離党

 (最新見直し2007.7.1日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第6期その2、マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生

」に記す。

1月

ソ連共産党第22回大会におけるフルシチョフの公然たるアルバニア批判と周恩来のそれへの反論によって中ソ論争が公然化。

1.20 ジョン.F.ケネディーが第35代大統領に就任。 
1月 江田社会党書記長、『月刊総評』に「構造的改革と労働運動」を寄稿、構造改革論争始まる。
2月 東京都千代田区.東京都.大阪府.その他の党会議において、中央主流は革新派分子 に圧力をかけて役員から排除した。  
2.6 「第15回中総」。    
2.15 学生新聞を創刊して、構造改革派に握られた「全自連」の指導権回復に乗り出 した。 「綱領草案」提出され、多数決決定される。
3.1 【「綱領草案」採択される】3.1−13日と25−28日までの2回にわたって「第16中総」が開かれた。この間58年の「第2中総」で設置された「綱領問題小委員会」は、都合29回の会議を経てきたが、この「第16中総」に「綱領草案」が提出された。しかるに「綱領草案」は大激論を生み結局満場一致とならず、中央役員44名中、4分の1に近い10名が反対又は保留した。内訳は、中委31名中、亀山.西川.山田.内藤.波多の5名が反対。神山.中野の2名が保留。決議権を持たない中委候補6名中、内野.原の2名が反対。又中央統制監査委員7名中、議長の春日(庄)が反対。また中委の政治報告草案については、亀山.西川.山田.内藤.波多.中野の6中央委員が反対し、内野.原の中委候補が保留した。 
3.6 社会党第20回党大会開催。3.8日、河上丈太郎委員長・江田三郎書記長体制発足。
3.7 岩間正男議員、参議院予算委員会で自衛隊陸上幕僚監部作成の治安行動草案を暴露、追求した。
3.28 「綱領草案」が多数決で決定された。つまり、この総会が綱領問題の最後の討議となった。2年半の経過の末の難産であったということになる。この時、大会議案に反対と保留の中央委員は、自らの意見を下部の機関や組織で述べてはならず、400字詰原稿用紙25枚以内にまとめた意見書を、希望によって党報に発表することが出来る、と決められた。以後中央主流による綱領反対派に対する統制.抑制.官僚的圧迫が強化されることになり、予備工作が進行した。構造改革理論に対する締め付けが強化された。「月刊学習」が創刊され、官許マルクス主義による党教育が開始された。
3月 安保共闘会議が、安保条約反対、平和と民主主義を守る国民会議として再発足した。安保条約を破棄し、憲法改悪を阻止して、日本の平和、独立、民主主義を守るを声明した。以後全国的な統一行動を20回重ねることになった。
3.14 駐日大使にライシャワー氏を指名。
3.16 赤旗ニュース映画第一号完成。赤旗縮刷版創刊。
3.20 月刊学習創刊。
4.12 アカハタが「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人としての責を問われた関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)の処分をページ全面に発表した。(中委書記局「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反に関する決定の発表にあたって」)。
4.17 アカハタはこのアピールに賛成して中央の説得に従わなかった数名の同志が、規律違反の処分を受けた顛末を報じた。数名の同志とは、主に「新日本文学会」に属する小林勝.柾木.岡本.大西.小林祥らの作家.評論家たちであった。
4月 この頃、CIAのキューバ侵攻作戦が失敗。
4.29 中央委員会、「綱領草案」発表。
4.30 アカハタ特別付録として「綱領草案」が、5.3日アカハタ特別付録として「中委政治報告草案」が発表された。第7回大会の時は、「党章草案」が57年9月発表されて、翌58年7月に大会が開かれたのだから、10ヶ月にあまる討議期間があった。7月下旬に予定巣された大会まで3ヶ月に足らなかった。
5.6 −8日都道府県委員長会議において、中央から綱領討議に対する厳重な規制が指示された。以後7月にかけての都道県党会議において、革新反対派への抑圧を強化し、反対派議員の排除が強行されて行った。
5.9 −11日全国活動者会議。アカハタ拡大運動の発展。
5.13 アカハタに規約一部の改正草案が発表された。
5.16 韓国で軍事クーデター。
6.3 ケネディーとフルシチョフがウィーンで会談。
6.3 破防法案、衆院で強行可決。
6.9 −10日「第17中総」で中央反対派の意見発表中止を決めた。
6.12 アカハタは、「大会での討議は議案への賛否をあらわすことではなくて、議案の正しい理解によって各自の誤りをただすことである」と、指示した。かたるにおちる党官僚の放言が掲載された。
6.12 農業基本法公布。
6.14 論文「革命理論の形式的な理解と日本の現実への創造的適用−社会新報の綱領草案批判にこたえる」をアカハタに発表した。
6.20 ワシントン.ホワイトハウスで池田.ケネディー会談。6.21日ヨット会談。「アジアにおいて戦略的に重要な地位を占め、経済的にも力をつけてきた日本が、一人前の国としての自覚と責任を持ち、安定した親米、反共勢力に成長することが重要」であり、その再確認の意味があった。「日本の西側同盟への組み込み」。日米の提携を強化するための閣僚級の「日米合同委員会」の設立が決められた。6.22日池田は連邦議会を訪問し、次のような演説を行っている。「私はこの機会に、アメリカの経済援助に対して深甚の意を表したい。しかし、今回の訪問は、このような援助の要請に参ったものではない。むしろ、わが国の経済成長に伴い、ようやくわが国も今は世界の平和と安定の問題の鍵を握る低開発諸国の経済生活と民政安定を助けるための、自由世界との共同の事業において、たとえわずかでもより多くの貢献を果たしえるようになったことを申し上げることを喜ぶものである」。日米パートナーシップの大きな前進となった。6.26日カナダ訪問。帰国後組閣に入る。
6.28 6.28から29日都道府県代表者会議。
7.1 【春日(庄)グループ離党 】 このような状態になるに及び、党内の反対派は7.1日付けで遂に党の内外に公然とアピールを発した。千代田地区細胞(森田.栗原.津田.池山.深沢ら)が、綱領問題に関する意見を「日本人民と党の未来のために」の声明につけて発表した。「綱領草案はまた復活した日本帝国主義と真正面から対決し、その反動的企画を阻止し粉砕しつつ、社会主義日本を打ち立てる道を日本人民の前に指し示そうとせず、それを日本革命の根本問題として提起することをことさらに回避しています」、「労働者階級の社会主義的指導性を強め、平和と中立と民主主義革新を通じて独占の支配権力を打倒していく闘いの道を指し示すという課題をも果たしていません」云々と党中央の宮本路線化の動きを批判していた。
7.8 中央統制監査委員会議長春日(庄)は離党届けを出し、同日夜記者団に、綱領草案の基本的な誤りだけでなく、反対派代議員の選出の組織的排除や反対意見書の発表の一方的中止措置などの反対派への一方的中止措置などの反対派への弾圧によって、党内民主主義が踏みにじられ、原則的な党内闘争による改善の見込みはなくなったとする離党声明を公表した。
7.9 党中央は、アカハタで幹部会声明と同日の野坂談話発表。
7.10 アカハタで野坂が、「春日(庄)の反党的裏切り行為について」発表。
7.15 山田.西川.亀山.内藤.内野.原の中央少数派が連名で、14日付けの「党の危機に際して全党の同志に訴う」声明を発表した。大会を前にして現職の統制監査委議長が離党し、中央委員グループが公然と中央批判したことは前代未聞であった。
7.16 第三次池田内閣成立。挙党一致の実力者内閣となった。大野、前尾、赤城、田中が党執行部入り。河野農林、佐藤通産、藤山経済企画庁、川島行政管理庁、三木科学技術庁。
7.17 「党破壊分子の新たな挑発について」で応戦した。その後は、全国各級機関にわたって、反党的行為、裏切り分子、分派主義者、党破壊の策謀、修正主義者、悪質日和見主義等々の大々的非難か攻撃キャンペーンへーを開始した。
7.18 第二次池田改造内閣発足。田中角栄、自民党政調会長に就任
7.19 「新日本文学会」の党員作家.評論家グループは、中央委員会あてに、「中央は綱領草案の民主的討議を妨げたから、大会を延期せよ」とする意見書を提出した。安部公房.大西巨人.岡本.栗原.国分.小林祥.小林勝.佐多.竹内.菅原.野間.針生一郎.檜山.花田の14名が連名していた。中野は意見書を勧めながら、連名しなかった。
7.20 「第18中総」で、党中央は、春日.山田六左衛門等7名を除名にし、この前後多数の地方機関役員その他を処分した。反対派への大々的カンパニアが展開された。この時、波多は綱領草案に対する反対意見を、神山は保留の態度をそれぞれ撤回した。
7.22 7.22日新たに泉.丹原.黒田.武井.玉井.中野秀人.浜田.広末.柾木の9名を加え、国分.佐多の2名を除いた「新日本文学会」の党員グループ21名連署で党の内外に宮本派指導部非難のアピールを発した。「今日の党の危機は、中央委員会幹部会を牛耳る宮本.袴田.松島らによる党の私物化がもたらしたものである」として、彼ら派閥指導部の指導の誤りと独裁的支配、規約の蹂躙と党組織の破壊の事実を挙げ、言葉激しく非難した。

 
7.23 7.23日野田.増田.山本.芝.西尾.武井ら6名の旧東京都委員会グループが、「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊に対する抗議」と題する声明を発表した。
7.24 7.24日増田.片山等が連署で離党声明を公表した。山田も。各地方の反対派の離党声明や中央攻撃声明など続々と発表された。大会を前にして党主流の派閥支配に対する怒りと不満が爆発して党の分裂状況が生まれた。党中央は、7.24日武井、9.2日大西、9.6日針生.安部らを除名。大会までに発表された被告処分者は、除名28名.党員権制限9名で、被除名者には中央委員7名.中央部員2名.元都委員8名.県委員1名.理論家及び編集者グループ10名が含まれていた。その他地方組織において、府県委員以下の離党又は処分が大量に見られた。
7.24 7.24日全国府県委員長会議。
7.25 【第八回党大会開催】大会の眼目は、新綱領の採択にあった。綱領.政治報告などを討議した。反対派全部排除された為議案は全て全員一致で採択された。中央役員の選出は中委原案通りにしゃんしゃんの全員一致で決定した。反党的な日和見主義の潮流を全面的に批判し、綱領とそれに基づく政治報告を決議した。数十万の大衆的前衛等建設の目標を提起。党勢拡大と思想教育活動の総合2カ年計画を全党的につくり、取り組むことを決定。
7.31 執行部役員選挙が無記名連記で行われた。新中央の大幅増員。中委は31名から60名。中委候補は6名から35名。統制監査委は7名から8名。新中央には、党勢拡大その他主流に忠実だった都道府県委員長.委員クラスが大量に登用された。前大会で責を問われて中委の候補者リストから外された旧所感派の紺野.竹中.松本三益.田代.竹内.塚田などが中央委員に復活した。神山.中野はかろうじて中委に入れられた。波多や神奈川県委員長として党勢拡大に好成績をあげた中西功などは中央に入れられなかった。
8.1 〜22日ニヨト.インドネシア共産党第二議長来日。
8月 早大.高野秀夫、離党。
8.2 【宮本−袴田体制の継続確立】「第1回中総」開催。中委議長野坂.書記長宮本、中委幹部会員として野坂.宮本.袴田.志賀.春日正.蔵原.聴濤.松島.鈴木が、書記局員として宮本.袴田.松島.米原.伊井.安斎.紺野.土岐.平葦.高原の10名を選出した。野坂.志賀は実質上棚上げされた。宮本.袴田という戦前の党の最終中央コンビが指導権を握り、その周辺に松島.きくなみ.鈴木.伊井.高原らの戦後組合運動の指導者が結集された。安斎.土岐度などの旧満鉄グループとともに中央主流を形成することとなった。
9月 【「青学革新会議」結成される】青年学生運動革新会議(「青学革新会議」) 結成。党8回大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党.除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心とした。
9.4 幹部会、党勢拡大と思想教育活動の総合2カ年計画の呼応運動について発表。
9.5 −11.3日宮本書記長ら、朝鮮、ソ連、中国を訪問。
9.12 党代表団宮本書記長がせ朝鮮労働党第4回大会で演説。
9.18 −21日インドネシア共産党アイジット中央委員会議長来日。野坂議長と党本部で歓談。
9.19 宮本書記長らモスクワでソ連共産党スースロフ幹部会員らと会見。予定されているソ連共産党第22回大会におけるソ連共産党綱領草案の日本に関する部分が、党の新綱領の現状規定と異なっていた為摺り合わせが行われた。会談に参加した志賀は、ソ連草案支持を表明した。志賀は帰国後党指導部の会議で厳しく批判されることになった。
10.7 −9日離党組は社会主義革新運動準備会の創立総会を開いた。議長春日(庄).事務局長内藤。
10.17 −31日ソ連共産党第22回大会に党代表団団長野坂議長が出席、フルシチョフがアルバニア労働党を名指しで攻撃した。党代表団は同調せず。中国共産党代表団周恩来は、アルバニア批判に反論した。この経過を通じて、世界の共産主義運動内部の意見の相違が公然化することになった。
11.5 第3回あかはた祭り。浜離宮、4万人。
11月 第一回日米貿易経済合同委員会が箱根で開催。貿易.為替の自由化が急速に進められることになった。 11月「文化評論」創刊。
12.3 宮本書記長、綱領問題の報告をまとめた「日本革命の展望」を出版。
12.18 −20日「第2中総」において、参議院選挙をめざす当面の任務の採択、8回大会の党勢拡大2カ年計画に基づき、9回大会までに10万党員を37万に増やす目標を定め、中間目標として62年中に15万に増やすことにする。  
12.26 選挙制度審議会第1次答申。12.27日選挙制度審議会第1次答申に対する政府の姿勢を不満とし審議中止。
12.29 あかはた主張、「国際共産主義運動の団結のために、二つの敵とたたかい抜くために」を発表。
12月 新日本文学会第10回大会で、武井昭夫が事務局長、大西巨人.針生一郎らが常任幹事となり運営機関を掌握した。反党的立場で活動することとなった。
全学連第17回大会で、暴力的に反対派を閉め出した上、前衛党の建設を学生運動の基本任務とする反帝.反スター路線を打ち出した。この流れは現在の中核派に引き継がれる。


 1.1日、社会党の機関紙「社会新報」に「構造改革の闘い」が掲載された。これが党内外に賛否両論を生み出していくことになった。


【「中ソ論争」の公然化】

 1月、ソ連共産党第22回大会におけるフルシチョフの公然たるアルバニア批判と周恩来のそれへの反論によって中ソ論争が公然化している。


【米国にケネディー大統領が登場】
 アメリカでは ケネディー大統領が就任している。

【革共同全国委の呼号】

 この頃の学生運動につき、「第6期その2マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」に記す。

 1.10日、革共同全国委機関紙「前進」第20号に、「革命的マルクス主義者の原則的統一の為に」という主張が載せられた。安保闘争.三池闘争の総括として、既成左翼の完全な指導性喪失、革命的前衛党の欠如、他方でのブント系小ブル急進主義運動を敗北の原因とし、これら全ての党派を乗り越えて反帝.反スターリンの世界革命戦略の下に労働戦線の深部に革命的中核を組織するべきであると指針させていた。


 2月、党中央は、東京都千代田区・東京都・大阪府・その他の党会議において、構造改革派系革新派分子に圧力をかけて役員から排除 している。


【「全自連」に構造改革派の影響が及ぶ】

 この頃、「全自連」指導部が構造改革派の影響を受けることになった。東京教育大学.早大.神戸大.大阪大などの指導的活動家が構造改革派へ誼を通じていくことになった。黒羽.田村.等等力らは学生運動研究会を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。ここには、学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけ、構造改革路線に基づく独自の政治方針を展開した。党は、トロツキスト学生追いだしの後今度は構造改革派学生の反乱を受けることとなった。


 2.15日、日共が学生新聞を創刊して、構造改革派に握られた「全自連」の指導権回復に乗り出している。

【「綱領草案」採択される】

 3.1−13日と25−28日までの2回にわたって「第16中総」が開かれた。この間58年の「第2中総」で設置された「綱領問題小委員会」は、都合29回の会議を経てきたが、この「第16中総」に「綱領草案」が提出された。草案は、実質的には上田耕一郎(不破・現委員長の実兄)と不破現委員長が主となって書き上げたものであるとされているが真偽は分からない。民主主義革命、社会主義革命の二段階革命路線を明確にさせ、「闘争の経過は我々の意図だけに関わるものでなく、敵の出方による」との「敵の出方論」を織り交ぜていた。

 
この「綱領草案」は大激論を生み結局満場一致とならず、中央役員44名中、4分の1に近い10名が反対又は保留した。内訳は、中委31名中、亀山.西川.山田.内藤.波多の5名が反対。神山.中野の2名が保留。決議権を持たない中委候補6名中、内野.原の2名が反対。又中央統制監査委員7名中、議長の春日(庄)が反対。また中委の政治報告草案については、亀山.西川.山田.内藤.波多.中野の6中央委員が反対し、内野.原の中委候補が保留した。 

 
結局最終日の3.28日、「綱領草案」は多数決で決定された。この総会が綱領問題の最後の討議となった。2年半の経過の末の難産であったということになる。この時、大会議案に反対と保留の中央委員は、自らの意見を下部の機関や組織で述べてはならず、400字詰原稿用紙25枚以内にまとめた意見書を、希望によって党報に発表することが出来る、と決められた。後述するがこの約束は反故にされる。これが宮顕式の統制手法であり本質である。

 以後中央主流による綱領反対派に対する統制.抑制.官僚的圧迫が強化されることになり、薄汚い予備工作が進行した。構造改革理論に対する締め付けが強化された。「月刊学習」が創刊され、官許マルクス主義による党教育が開始された。この頃の史実と思われるが、袴田が春日(庄)らに向かって次のように云っている。「君たちそんないろいろ反対をしているけど、それももう暫くの問題だ。綱領が決まったら、君たちどうするのだ。綱領に賛成する者のみが党員なのだ。君たちはそのときにどうするのか」。これが春日(庄)グループ離党の背景論理になっていた節がある。この論理を春日(庄)らもまた受け入れる組織論を持っていたのかもしれない。

(私論.私観) 宮顕党中央と春日(庄)派の対立について

 この経過の問題点は次のことにあった。かって宮顕は、徳球式の党運営を家父長制的権威主義として批判を強めていたが、自らが党中央になるやその徳球式のそれよりも排他的な党運営を今や為し始めていた。しかるに、この当時このこと自体を問題にしていくグループがいなかった。なぜなら、宮顕のこの体質を暴きだすためには、その宮顕の口車に乗って徳球党中央に敵対した自らの過去の非をも自己切開すること無しには為しえなかったからである、と思われる。つまり、春日(庄)派、志賀派その他の御身大事の態度が宮顕党中央の暴虐に抗し得なかった要因ではなかったかと思われる。


 3月、社会党機関紙局から「構造改革の理論」という論文集が出版された。社会主義の在り方を廻って、党内外の錚々たる論者が論争の火を点じていた。戦後初めての企画であった。


【社会党第20回党大会】
 浅沼没後空席となっていた委員長に河上丈太郎が満場一致で推挙された。書記長に江田三郎、政審会長に成田知己が無投票で再任された。国際局長には和田博雄が選出され、約3年半ぶりの表舞台への復帰となった。

 この時の大会で、“構造改革路線”と“平和共存”路線が決定され、江田三郎氏がそれらの路線の人格的象徴として書記長になった。これに応じて、社青同、総評青対部は、ほとんどソ連よりの“平和共存”路線を基調とすることになった。当時、日共・民青はどちらかというと中国寄りの“反植民地、反米帝国主義”路線を志向していた。

 こうして、浅沼稲次郎の暗殺後、社会党のヘゲモニーは江田派にうつった。60年から64年まで、江田は構造改革路線のもとで、一方では、大衆運動における共産党との分裂を系統的に進めながら、他方では共産党と対抗する組織力の獲得のために、オルグ制度の確立、社青同の建設、社会新報の確立などの党改革を次々と進めて来た。江田によるこうした展開には、共産党を除名、追放された構造改革派の理論家や活動家が大きな役割を果した。

 
“構造改革路線”は、日共の二段階革命戦略に対しては“反独占、社会主義革命”という画期的な“一段階革命戦略”を対峙させ、社会党にあっては、労農派的な一種の“恐慌待望論”の待期主義に対して“恒常的攻勢の戦略論”といったイメージを押し出すことによって“新鮮な”装いをもって登場した。この“構造改革論”は三池闘争のような敗北的闘争を否定し、もっとスマートな“政策転換”を政府に迫ることで解決する方向に流れていった。この目新しい路線には、総評民同が飛びつき、そしてまた社青同中央指導部の大勢もこの流れに足をさらわれていくことに無自覚であった。

 江田派の反共主義的党建設路線は、民同労働運動の反共組合主義化と並行して進められた。そしてこの過程は、池田内閣の高度成長政策を基礎とする大巾賃上げ闘争中心の労働運動の展開に支えられた。すなわち、安保と三池の60年の激突は、61年以降アメリカ・ケネディ政権の対日政策とむすんだ池田と江田のアベックによって収束されていったといえる。

【当時の党内反対派の動きと党中央の対応】

 暫くこの動きを追うことにする。党中央は、党大会を控え大会代議員の選出に前代未聞の露骨な介入をしていくこととなった。中央主流派は、反対分子の多いと見られる地方組織に主流派幹部を派遣して、党会議を統制し、締め付けをはかった。都道府県党会議の段階で、反対意見を封じ反対分子を排除してしまえば、党大会は彼らの意のままになる道理だった。ここに草案反対者は機関として推薦できないとして、あらかじめ代議員候補のリストからはずすといった規約蹂躙の工作が、中央主流派によって全国的に展開されていくこととなった。とりわけ、東京と大阪が集中的な目標とされた。野坂.宮顕.袴田.志賀.松島.聴濤.土岐.川上らが手分けして各県の党会議に乗り込んで反対意見を封殺していった。大阪府委員会では、一度は代議員に推された西川が排除されている。

 府県から地区に至る党会議や委員会総会は、すべて草案を踏み絵として党員を点検する検察の場と化し、大会代議員の選出は、選考委員会によって推薦名簿の段階で厳重にふるいにかけられ、批判意見を持つ代議員候補者は、ほとんど故意に落とされた。「中央は絶対に正しい」、「中央に忠実な機関は又正しい」、このような非自主的体制が党の組織体質として定着化していった。この結果、7月上旬までに全国にわたってほぼ終了した大会代議員の選出では、綱領反対派又は反中央分子とみられるものは、完全に近く排除されていた。799名のうちわずか10数名がそれではないかと見られたに過ぎない。
 
 こうした中央主流の露骨な策動に対して、反対派の動きははなはだ力弱く、不十分であった。主流派が規約違反の勝手な専断ぶりを示しているのに、反対派は組織原則を守って、対抗運動にでなかった。これらの反対派の中にあって特殊な立場を示したのは、党内左翼反対派を自称する中共路線支持のレーニン主義者集団であった。彼らは、宮顕党中央主流の官僚主義指導と統制を激しく非難しつつ、同時に構造改革論者を現代修正主義として批判していた(村崎泉美「第」8回党大会と最近の党内情勢」団結第17号)。


【関根弘ならびに武井昭夫が除名される】

 4.12日、アカハタは、「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人としての責を問われた関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)の処分をページ全面に発表した。中委書記局「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反に関する決定の発表にあたって」がそれである。こうして、初代全学連委員長時代宮顕に最も信頼を寄せていた武井氏は、紆余曲折を経て最終的に斬捨てられることとなった。 

 4.17日、アカハタは、このアピールに賛成して中央の説得に従わなかった数名の同志が規律違反の処分を受けた顛末を報 じた。数名の同志とは、主に「新日本文学会」に属する小林勝・柾木・岡本・大西・小林祥らの作家・評論家たちであった。


 4.12日、人類初の宇宙飛行を終えて、ガガーリンが「地球は青かった」。57年の世界初の人工衛星打ち上げに続くソ連の快挙に、「アメリカに追いつき、追い越す」というフルシチョフの野望は実現に向かいつつあるかに見えた。

 4月のこの頃、CIAのキューバ侵攻作戦が失敗。


【党中央委員会が、「綱領草案」を発表】

 4.29日、中央委員会、「綱領草案」発表。4.30日アカハタ特別付録として「綱領草案」が、5.3日アカハタ特別付録として「中委政治報告草案」が発表された。第7回大会の時は、「党章草案」 が57年9月に発表されて、翌58年7月に大会が開かれたのだから、10ヶ月にあまる討議期間があった。この度は7月下旬に予定された大会まで3ヶ月に足らなかった。

 以降、この綱領が絶対的な基準になり、綱領が現実から常に汲み出されるという「綱領が未完のものへの永久の追求である」(谷川雁「戦闘への招待」)が理解されず、綱領から現実を見て現実を綱領に捻じ曲げるという倒錯観点が常態化させられることになった。後には綱領を踏絵として受け入れるのかどうかの問題のみが残され、論議は「既に全て解決済み」論理で排斥されていくことになった。「そこには弁証法というものが存在しない」。


【辻政信がインドシナ半島情勢視察に向かい消息を絶つ】
 4月、戦前、陸軍参謀として「作戦の神様」と言われ、戦後はベストセラー作家にして参院議員という昭和史を飾った怪人物・辻政信が羽田を飛び立った。その後、ベトナム・サイゴン(現ホーチミン)、カンボジア・プノンペン、タイ・バンコクを経て、4.14日にラオスのビエンチャンに到着した。現地で「日本の高僧青木」と称し、「潜行三千里」のときと同様の僧形となって当時のパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)支配地域に向かったことが確認されている。

 辻が、ラオスに向かった理由として、池田首相訪米時の際のケネディ米大統領との首脳会談に役立てるための当時のインドシナ半島情勢視察であったことが挙げられている。「益谷秀次さん(当時、自民党幹事長)にその話をしたら、『ぜひ、やってくれ』と言われて、餞別をポンとくれたそうです」と伝えられている。

 辻はその後消息不明になり、中国で処刑されたという話やトラに食い殺されたという話があるが、2007.2月、米中央情報局(CIA)の公開文書は、辻がラオスから中国に入り、1963年に中国共産党当局に拘束され、そのまま中国で処刑されたとする未確認情報に言及している。これにより、CIAが辻を要注意人物として監視下に置いていた事が判明した。

 辻政信の履歴は次の通り。1902年、石川県生まれ。陸士(36期)、陸大(43期)をトップクラスの成績で卒業したエリート軍人で、戦前はマレー上陸作戦などを指揮した。敗戦をバンコクで迎えた辻は僧形に姿を変えて当地を脱出、東南アジア、中国に潜伏した。復員後、逃走中の出来事をまとめた「潜行三千里」は50年の大ベストセラーとなり、一躍、マスコミの寵児となった。1952年、衆院初当選。4期目の途中に当時の岸信介首相の金権ぶりを批判して自民党を除名されて議員辞職。しかし、すぐさま参院全国区(当時)にくら替え出馬し、第3位で返り咲いた。旧陸軍時代を含め、辻に対しては「清廉潔白」「勇猛果敢」と称賛する声がある一方で、「機を見るに敏」との評価もある。女婿は堀内光雄・元通産相。(読売ウィークリー2007.4.15日号所載の「失踪から46年、昭和史を飾った怪人物 私が見た辻政信」参照)

 5.6−8日、都道府県委員長会議において、中央から綱領討議に対する厳重な規制が指示された。以後7月にかけての都道県党会議において、革新反対派への抑圧を強化し、規約を無視してまで反対派議員の排除が強行されていった。このような工作が全国的に展開された。
 5.9−11日、全国活動者会議。アカハタ拡大運動の発展。

 5.13日、アカハタに規約一部の改正草案が発表された。この時の変更内容は判明しない。


 5.16日未明、陸軍少将朴正ヒ(パクチョンヒ)に率いられた部隊(主力は韓国陸軍士官学校8期生)が大統領官邸や警察署、放送局を次々と襲い、前年8月に生まれたばかりの文民の張勉内閣に終止符を打った。配下には金鐘泌(キムジョンビル、後の韓国首相)、サイ英沢、金東河ら。


 6.3日、ケネディーとフルシチョフがウィーンで会談。


【党中央の反動的教説の数々と、前代未聞の反対意見の「党報」掲載禁止措置】

 この頃、宮顕、袴田、松島のトリオがブロックラインとなって綱領問題の実質的討議禁止策動に乗り出していた。

 5.25日、アカハタは「主張」で、「中央委員会はじめ各級機関、細胞指導部がこれらの議案を下部組織やグループに説明するときの、機関として統一された公の態度は、当然議案の立場から説明するという立場に立たなければならない」と述べている。

 5.28日付けアカハタは、無署名論文「大会準備に現れた一つの偏向」を発表し、「もともと全国的な問題についての討論は、党中央の提案に基づき、党中央の指示に従って行われなければならない」と述べている。

 この頃、野坂議長は東京都党会議の席上で次のように述べている。「多数決の意思で決定すれば、少数の意見は服従しなければならない。これは共産党の掟です」、「一体真理はどこにあるか。共産党の真理はマルクス・レーニン主義です。また共産党の多数、この決定が真理です。これ以外にどこに真理があるか」。

 6.9−10日、「第17中総」で中央反対派の意見発表中止を決めた。これは先の16中総の申し合わせで春日(庄) 以下10名から提出された意見書の内容は「党報」へ掲載される権利が留保されていたものを、「16中総」の決定をゆがめて伝える恐れがあるという理由で、結局この約束が反故にされ、「党報」への掲載が中止されることとなったということである。大会直前に発行された前衛8月号には、志賀・袴田・松島・米原らの草案支持の論文をずら り揃えた上で、内藤・内野(壮)・波多らの反対意見書を投稿扱いで載せた。

 6.12日、アカハタは、「大会での討議は議案への賛否をあらわすことではなくて、議案の正しい理解によって各自の誤りをただすことである」という語るに落ちる党官僚の放言を掲載していた。

 6.14日、論文「革命理論の形式的な理解と日本の現実への創造的適用−社会新報の綱領草案批判にこたえる」をアカハタに発表した。

 
 6.28日、アカハタ主張は、「我々は、中央委員会のマルクス・レーニン主義的立場をよく理解し、綱領と政治報告の草案によって日和見主義と闘い、思想的・政治的統一を勝ち取るため奮闘しよう」と述べた。


【池田−ケネディー会談】
 6.20日、池田首相は、満枝夫人、宮沢喜一らを伴って訪米し、ワシントン.ホワイトハウスで池田.ケネディー会談。首脳会談は二日間にわたり、2回目の会談はポトマック川に浮かぶ大統領専用ヨット上で行われた。同じ船で、小坂善太郎外相とラスク国務長官も会談した。

 6.21日、ヨット会談。「アジアにおいて戦略的に重要な地位を占め、経済的にも力をつけてきた日本が、一人前の国としての自覚と責任を持ち、安定した親米、反共勢力に成長することが重要」であり、その再確認の意味があった。「日本の西側同盟への組み込み」。日米の提携を強化するための閣僚級の「日米合同委員会」の設立が決められた。

 6.22日、池田は連邦議会を訪問し、次のような演説を行っている。「私はこの機会に、アメリカの経済援助に対して深甚の意を表したい。しかし、今回の訪問は、このような援助の要請に参ったものではない。むしろ、わが国の経済成長に伴い、ようやくわが国も今は世界の平和と安定の問題の鍵を握る低開発諸国の経済生活と民政安定を助けるための、自由世界との共同の事業において、たとえわずかでもより多くの貢献を果たしえるようになったことを申し上げることを喜ぶものである」。日米パートナーシップの大きな前進となった。

 6.26日、カナダ訪問。帰国後組閣に入る。

【民青同から構造改革派造反】

 60年後半期から61年の3月にかけて、党の構造改革派の動きに連動した新グループが生み出されることになった。民青同系の指導幹部黒羽純久全自連議長・田村・等等力らが「現代学生運動研究会」を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。ここでは、学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけ、構造改革路線に基づく独自の政治方針を掲げていた。


 5月頃、政治的暴力行為防止法案(政防法)が国会に上程された。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。


【マル学同が全学連の指導部を掌握】

 4.5日、全学連第27回中央委員会が開かれた。この会議は唐牛ら5名の中執によって準備され、彼らの自己批判的総括とともに、篠原社学同委員長から、「ブント−社学同の解体」が確認され、「マル学同−革共同全国委への結集」が宣言された。唐牛委員長、北小路中執らが合流していくことになった。こうしてマル学同はブントからの組織的流入によって飛躍的に拡大し、一挙に1千余名に増大することになった。これによって、全学連指導部はマル学同が主導権を握るに至った。こうしてマル学同全学連の誕生となった。


【ブントの分解】
 この頃の学生運動につき、「第6期その2マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」に記す。

 三分裂したブントの一部が革共同系に流れていった。この様子を見ておくこ とにする。2月、戦旗派(労対派)は、革命的戦旗派を経て、革共同全国委のオルグを受け入れ、大部分が革共同全国委へ向かった。4.20日、組織を解散させての合同決議を行ない正式に合同した。田川和夫グループはこの流れである(田川氏は、後の革共同全国委分裂の際には中核派に流れ、さらに後の対革マル戦争の路線対立時に中核派からも離党することになる)。

 革通派は、 池田内閣打倒闘争の中で破産を向かえた。この派からの移行は記されていないので不明。

 プロ通派も戦旗派に遅れて解散を決議し、有力指導者ら一部が合流した。ちなみにプロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏氏などがいた。「北小路・清水ら旧プロレタリア通信派は、マル学同からまだ自己批判が足らぬとされ、北小路は全学連書記長を解任された。彼らはその後遅れてマル学同へ加盟する」とある。

 プロ通派の林紘義一派が独立して「共産主義の旗派」を結成するなど、こうしてブントは四分五裂の様相を呈することとなった。こうして社学同からマル学同への組織的移動がなされ、結局ブント−社学同は結成後二年余で崩壊してしまった。この時期までのブントを「第一次ブント」と呼ぶ。

【「政暴法」闘争 】

 5.17日、池田政府は、「政治暴力防止法案」(政暴法)を国会に上程した。全自連も、マル学同全学連も、安保闘争の延長戦として直ちに反対闘争に立ち上がった。しかし、学生戦線の分裂が尾を引き盛り上がりが弱かった。マル学同全学連は、ただちに非常事態宣言を発して、緊急デモを国会へ向けて組織し、「5.30日にゼネストを」アピールを打ち出している。

 5.21日、全自連は「非常事態宣言」を発し、5.31日統一行動を設定し、 「授業放棄」を訴え、東大教養をはじめ多くの大学でストライキを決行させている。6.3日法案の衆院通過日のこの日、労学による午前1時過ぎまで南通用門前に座り込み闘争が続けられた。結局、法案そのものが国会内の取引で「参議員では継続審議」と決まったこともあって、以降急速に動員力が落ちていった。

 6.15日、樺美智子葬一周年のこの日、マル学同全学連は3000名を結集し、国会デモに向かった。機動隊とのもみ合いの後共立講堂で「樺美智子追悼集会」が為された。集会の主宰者には、全学連.社会党.総評.社青同.文化人らが名を連ねていた。

 遂に法案は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。こうしてマル学同全学連も果敢に取り組んではいるが、昔日の面影を無くしていた。その他潮流はこの期間中も分派抗争の最中にあったようである。この政暴法闘争は、関西ブントに利をもたらし、反マル学同の進出を促すことになった。京大では、教養学部の自治委員長と同学会の代議員選挙で、旧主流派(関西ブント)が圧倒的に勝利し、民青系が孤立する結果を生んでいる。こうして、京都では、京大と同志社大を中心として京都府学連を1965年まで関西ブントが執行部を押さえていくことになった。このことが後に三派系全学連創出の有力地盤となっていくことになる。早大一文.法大経済などもこの闘争の中で(二重執行部などの問題を含みながらではあるが)執行部を民青系から取り戻している。ところが、民青系全自連の進出を押し止めたこのことが、逆にマル学同と反マル学同との抗争を激化させていくことになった。


 6月、ウィーンでフルシチョフとケネディによる米ソ首脳会談が行われた。ベルリン問題をめぐって対立し、同年8月、「ベルリンの壁」の構築が始まる。


【春日(庄)グループ離党 】

 このような状態になるに及び、党内の反対派は7.1日付けで遂に党の内外に公然とアピールを発した。千代田地区細胞(盛田勇之進・栗原・津田道夫.池田重郎・池山・深沢ら)が、綱領問題に関する意見を「日本人民と党の未来のために」の声明につけて発表した。「綱領草案は、復活した日本帝国主義と真正面から対決し、その反動的企画を阻止し粉砕しつつ、社会主義日本を打ち立てる道を日本人民の前に指し示そうとせず、それを日本革命の根本問題として提起することをことさらに回避しています」、「労働者階級の社会主義的指導性を強め、平和と中立と民主主義革新を通じて独占の支配権力を打倒していく闘いの道を指し示すという課題をも果たしていません」云々と党中央の宮顕路線化の動きを批判していた。

 7.7日、中央統制監査委員会議長春日(庄)は離党届けを出し、7.8日夜、記者団を前にして離党声明「日本共産党を離れるにあたっての声明」(「春日意見書」)を公表した。文面には、次のように書かれていた。 

 概要「私は今回、先輩、同僚等と共に、戦前戦後を通して40年近い間、その旗のもとに活動してきました日本共産党を離党しました。綱領草案の基本的な誤りだけでなく、反対派代議員の選出の組織的排除や反対意見書の発表の一方的中止措置などの反対派への一方的中止措置などの反対派への弾圧によって、党内民主主義が踏みにじられ、原則的な党内闘争による改善の見込みはなくなった。我が党は現在、宮本、袴田君を中心とする幹部会の独裁のもとにあり、これが全党の正しい発展を害していると考える。上級への無条件服従による自己瞞着の体系、すべての判断と創意を圧殺する政治的腐敗の体系、滅私奉公的軍隊的規律に上に成り立っている。自己の綱領に異常な執着を持つ幹部独裁の体系を打破することなしには、我が党は大衆的前衛政党になることは不可能です」。

 この時、宮顕式民主集中制について次のような疑義を訴えていたことが注目される。

 概要「我が党は、現在、宮本顕治、袴田里見を中心とする幹部会の独裁の下にあり、これが党の正しい発展を害していると考えます。私は幹部会に規約上、義務として(統制委員長としての権限、義務で)出席してきました。第7回党大会後まもなく、中央委員会、幹部会と中央統制監査委員会の統制上の権能の区別について話し合いが始まったころ、書記長である宮本君は、幹部会、中央委員会における私の政治的発言が多すぎるといいました。以後私はなるべく他の諸君が発言を終わったあとで、ごく必要な、ごく控えめな発言をすることに配慮しました。私には、幹部会の誤まった党指導を改める努力する道は、ただ党の機関紙上において、直接、党員大衆に語りかける意外にありません。しかし、それは、どのように控えめであろうと、どのように迂回的表現によってであろうと、抑制されました。第8回党大会を前にして、幹部会が行っていることは、規約を踏みにじった言語道断のやり方で、少数意見者を総攻撃し、大会代議員から系統的に排除し、中央委員会の少数意見は文書でも、口頭でも自ら発表することは許さぬという方針を取っています。私は、全党のぶつかっている問題を、新しい観点で率直、大胆に検討することを、全党員に訴えるためには、身を党外に置く以外にないと考えました」。
 「この誤まった路線に対する幹部の異常な執着は、党内外の批判・反対を抑えるために党内民主主義を破壊し、今、第8回党大会を前にして、自ら規約を踏みにじり、反対意見の代議員の選出を組織的に排除し、少数意見の中央委員の意見書も発表させず、代議員権の獲得も妨げ、一方的なやり方で、大会を開こうとしています。このような度外れの幹部独裁は、『下級は上級に無条件に服従し、決定は忠実に実践する』という『組織原則』に、忠実、献身的な党員大衆を縛り付けることによって保障されています。それは幹部が自己の政策・方針を常に『基本的に正しい』と云えば、末端まで『基本的に正しい』とシュプレヒ・コールする自動連動装置であります。幹部会の方針に批判を加えたり、反対したりする者は、全て自由主義、分散主義、反中央、反党分子として排除されます。これは、いかなる失敗があっても、『基本的に正しい』と言わせる、上から下までの自己瞞着、政治的腐敗の体系であります。こういう状態の中では、党内民主主義に依拠して、原則的な党内闘争によって事態を改善していく余地は殆どありません。まじめな党員、批判力を持った党員は、上級の圧力によって漸次、面従腹背の二重人格に追いやられています。だんだん党員は無気力になります。上向きの出世主義がはびこります。『いかなる分派の存在も許さぬ一枚岩の党』の圧力に耐えられない者は脱出します」

 ちなみに反対派代議員の組織的排除とは、春日(庄).松本惣一郎の統制委員、中野重治.神山茂夫.亀山幸三.西川彦義.内藤知周.山田六左衛門の中央委員、内野壮児.原全五の中央委員候補を決議権のある代議員から外し、決議権の無い評議員に回そうとする党中央の策動を意味している。 党中央の挑発に乗ったという観がある。

(私論.私観) 春日(庄)派の党内闘争の仕方について

 その後の党史の流れから思うとき、この時春日(庄)派は最も徹底して闘うべきであった。党内闘争から党外への働きかけも含めて、戦後の左派運動のイニシアチブ闘争を宮顕系運動に挑むべきであった。しかし、春日(庄)派はそれをしなかったし為しえなかった。それが限界であった。

 当時の新左翼側から見て、この時の共産党内の宮顕系対春日(庄)系の闘争はヴェールに包まれて見えていなかった。春日(庄)派の離党は「寝耳に水」であった。このことを、志水速雄氏は、「共産党大会のパロディ及び離党の思想」(「現代思想」1961.10月号)の中で次のように述べている。「例え、善意に解釈して春日氏らが激烈な党内闘争をやっていとしても、それは、全く日本の労働者階級の闘争、日本の革命運動と関わりのない地点で行われていたのではないだろうか。つまり、春日氏らの脱党以前における党内闘争と日本の現実の階級闘争とは交わることなく進行していたことになる」、「彼は、なぜ直接、労働者大衆に対して呼びかけなかったのか。共産主義者の党が、もし労働者階級の前衛党であるとするならば、それは労働者大衆の中での公然たる論争をその活力と源泉にしているからである。労働者大衆を革命的主体として育成するためには、彼らを目覚めさせ、意識改革するための武器としての論争が、単に賃上げ等の経済問題、安保闘争等の政治問題だけでなく、党の問題を扱うなしに不可能である」、「春日氏らは、このような方法を取らなかった。そして、このような方法をとらなかったことによって、日本の労働者大衆は、相変わらずつんぼさじきにおかれ、春日氏らに不信を抱いている。そして他方では、日共主流派に格好の口実を与えている」。

 実際には、春日(庄)派も又忠実な民主集中制論者であり、この論によって手足が縛られていたが故に、志水速雄氏のような願望に応えるべくもなかった。但し、宮顕系の異邦人性を的確に認識していたとしたら又別の動きがあったと思われる。実際には、春日(庄)派は宮顕その人あるいはその系の胡散臭さを十分に認識していながら、むしろ対徳球系と争うに際して誼を通じた仲であり、この基本姿勢は最後まで変わらなかった。ここに春日(庄)系の否以降の反宮顕系一切合財の潮流の不幸な凡庸さがあったと云うべきだろう。 


【安東仁兵衛離党】

 7.10日、安東仁兵衛も離党届を都委員会に送付した。

 これに対して、党中央は、7.9日、アカハタで幹部会声明と同日の野坂談話を発表。7.10日アカハタで野坂が、「春日(庄)の反党的裏切り行為について」、 7.17日、「党破壊分子の新たな挑発について」で応戦した。今日、野坂がスパイであったことが明らかにされている。とするならば、この時党中央は、そういうスパイの指導の下に反党中央派の締め出しを行っていったことになる。その系譜にある現党中央不破−志位執行部は、この辺りをどう総括するつもりなのだろうか。知らぬ存ぜぬで頬被り為しえることだろうか、疑問としたい。その後は、全国各級機関にわたって、「反党的行為、裏切り分子、分派主義者、党破壊の策謀、修正主義者、悪質日和見主義」等々の大々的非難攻撃キャンペーンを開始した。

(私論.私観) 

 7.15日、山田六左衛門.西川義彦.亀山幸三.内藤知周.内野荘児.原全五の中央委員会少数派が連名で、14日付けの「党の危機に際して全党の同志に訴う」声明を発表した。大会を前にして現職の統制監査委議長が離党し、中央委員グループが公然と中央批判したことは前代未聞であった。
(私論.私観) 

 この一連の過程で宮顕の秘書グループの暗躍があったとされている。この宮顕秘書グループの実態暴露も急がれるところのように思われる。


【「新日本文学会」の党員作家.評論家グループが意見書提出】

 7.19日、「新日本文学会」の党員作家.評論家グループは、中央委員会あてに、「中央は綱領草案の民主的討議を妨げたから、党大会を延期せよ」とする意見書を提出した。安部公房.大西巨人.岡本.栗原.国分.小林祥.小林勝.佐多稲子.竹内.菅原.野間宏.針生一郎.檜山.花田清輝の14名が連名していた。中野は意見書を勧めながら、連名しなかった。


【「第18中総」 】

 7.20日、党中央は、「第18中総」で春日・山田六左衛門等7名の除名を規約を無視して決定した。この時、波多は綱領草案に対する反対意見を、神山は保留の態度をそれぞれ撤回した。党中央は、この前後に多数の地方機関役員その他を処分した。反対派への大々的カンパニアが展開された。


【「新日本文学会」の党員作家.評論家グループが再度意見書提出】

 7.22日、新たに泉大八.丹原.黒田.武井昭夫.玉井.中野秀人.浜田.広末.柾木の9名を加え、国分.佐多の2名を除いた「新日本文学会」の党員グループ21名連署で党の内外に宮顕派指導部非難のアピール「真理と革命のために党再建の第一歩を踏み出そう」を発した。「今日の党の危機は、中央委員会幹部会を牛耳る宮本.袴田.松島らによる党の私物化がもたらしたものである」として、彼ら派閥指導部の指導の誤りと独裁的支配、規約の蹂躙と党組織の破壊の事実を挙げ、言葉激しく非難した。


【旧東京都委員会グループが、抗議声明 】

 7.23日、野田弥三郎.増田格之助.山本正美.芝.西尾.武井ら6名の旧東京都委員会グループが、「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊に対する抗議」と題する声明を発表した。


【増田格之助.片山さとし等が連署で離党声明 】

 7.24日、増田格之助.片山さとし等が連署で離党声明を公表した。山田も。各地方の反対派の離党声明や中央攻撃声明など続々と発表された。大会を前にして党主流の派閥支配に対する怒りと不満が爆発して党の分裂状況が生まれた。


 7.24日、党中央は、武井、9.2日大西、9.6日、針生.安部らを除名。
 7.24日、全国府県委員長会議。

 大会までに発表された被告処分者は、除名28名.党員権制限9名で、被除名者には中央委員7名.中央部員2名.元都委員8名.県委員1名.理論家及び編集者グループ10名が含まれていた。その他地方組織において、府県委員以下の離党又は処分が大量に見られた。

(私論.私観) 春日(庄)グループの離党について

 自滅であったと思われる。春日(庄)にとって真に反省すべきは、徳球時代の党中央の権威主義に対抗する為宮顕と手を組んできたが、宮顕時代になるや徳球時代に増して酷い統制主義に遭遇することになった。ここで自滅するなら、敗北するなら、徳球時代の何に対して闘ったのか己の愚昧さを知るべきだろう。多くの欠点はあったが革命的楽天主義と赤心を持った徳球系党運動を滅ぼす為に最悪の白心の持ち主宮顕と手を結んだ己の非を悔いるべきだろう。

(私論.私観) 春日(庄)グループ離党に対する党史の記述について

 「50年党史」は、春日(庄)グループ離党に対して次のように記述している。

 「58年から61年にかけて、綱領問題小委員会は29回開かれ、中央委員会総会でも3回にわたって計22日間、民主的討論が徹底的に行われた。草案の反対者の発言は全面的に保障され、例えば、61年の第16回中央委員総会だけをとってみても、春日(庄)は一人で47回、内藤は68回もの発言を行った。この論議を通じて春日(庄)らの反対意見の全ての論拠は完全に論破されたが、彼等は反対に、党に隠れて分派的結束を固め、アメリカ帝国主義の対日支配との闘争を回避し、独占資本の平和的譲歩に期待する日和見主義理論をいよいよ体系化すると共に、その理論を党内にひろめる為に様々な分派活動を組織し始めた」、「春日(庄)らはその後、党規律を無視した分派活動をいよいよ強め、その一部は、社会党内の反共右翼分子(注−恐らく江田グループのこと)と結んで、社会党機関紙『社会新報』紙上で党の綱領草案を攻撃するという反党行為まで行ったが、彼等は、党中央委員会においてだけでなく、大衆闘争や党建設で前進しつつあった全党からも孤立していった。そして第8回党大会を前にして、自分達が完全に孤立したことが明らかになると、党大会直前に党を誹謗する声明を公表して自ら党を脱退し、公然たる反党分子に転落した。党は規約に照らして彼等を除名した」。

 つまり、党中央は、これほど反対派の意見を尊重したと云っていることになる。しかしながらそれは、黒を白といい含める論理であろう。「この論議を通じて春日(庄)らの反対意見の全ての論拠は完全に論破された」が、私が追跡する限り「論破された」形跡は無い。むしろ、決議であった反対意見の党報への掲載を履行しなかった党中央の態度こそ糾弾されるべきであろう。こうした詐欺的論理が多すぎる党史であることを見て取る必要がある。


【第二次池田内閣成立】
 7.16日、第二次池田内閣成立。挙党一致の実力者内閣となった。大野、前尾幹事長、赤城総務会長、田中政務調査会長が党執行部入り。河野農林、佐藤通産、藤山経済企画庁、川島行政管理庁、三木科学技術庁。田中角栄はこの時43歳の若さで、初の党三役入りであった。福田が外され、田中が座った。この時の党三役は、赤城宗徳(川島派)総務会長、前尾(池田派)幹事長。「前尾、赤城というのは、素晴らしい頭脳の持ち主だが、口下手でね。僕がエンジンをかけたり、ホースを引っ張り、筒口を持って火の中へ飛び込むことになりそうだ」(私邸で)。鉄道建設審議会委員ならびに小委員長兼任。

 この間、河野は、大野を巻き込んでの新党設立をぶち上げる時期があった。しかし、政権党である自民党を離れることの不利、不安から慎重論が大勢を占め、新党構想は立ち消えとなった。この新党騒ぎは自民党発足以来初めての分裂行動であったことになる。

 そうこうしているうちに、池田は急速に「党人」派と接近するようになる。池田と佐藤の不仲が、佐藤を毛嫌いしている大野と接近させていくことになった。池田も大野に副総裁のポストを与えて厚遇した。その大野の斡旋で、池田と河野の関係改善がはかられた。河野は農林大臣として入閣し、池田、大野、河野、川島派による新たな主流派が形成され、佐藤は非主流に追いやられた。

 この間、岸は派閥を福田赳夫に譲っていた。岸派嫡流の福田派も反主流となる。しかし、岸派の実力者だった川島と藤山は福田とソリが合わず、独自の派閥を形成していた。結局、岸派は福田、川島、藤山の3派に分裂することになった。


 7月、第2次防衛力整備計画策定。


【全学連第17回大会】

 この頃の学生運動につき、「第6期その2マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」に記す。

 7.8日、全学連第17回大会はこうした状況の中で開催され、マル学同派の単独開催となった。代議員は282名と発表されている。実質は150名以下であったとも言われている。他の党派を暴力的に閉め出した体制下で、大会議長を自派より選出し、議案を採決するというまさに私物化された大会となった。この大会で、ブント出身の北小路敏(京大)を委員長、副委員長に根本仁(北海道学芸大)、小野田襄二(埼玉大)を選出し、以下マル学同のオール中執となった。全学連規約を改正して、全学連の活動目的に前衛党の建設を学生運動の基本任務とする「反帝反スタ」路線を公然と打ち出した。「仮借なき反帝闘争の中で全自連を粉砕し、学生運動における革命的左翼の力を拡大するために‐‐‐帝国主義ブルジョアジー.池田内閣の新政策と対決し、池田内閣打倒の闘いを進めよう」との行動方針案を提案し、賛成233、反対9、保留3で可決されている。 


【社学同の再建の動き】
 こうした新状況に遭遇して、旧ブント系活動家は、社学同の再建を目指して活動を始めることとなった。8.11日、社学同機関紙「希望」が発行され、社学同再建のアピールを行い、マル学同を批判している。「従って、学生運動の自立性を否定し、学生運動を既成のイズムの工作の対象.客体としてのみみなすものは、学生運動にとって、絞殺者であり、敵である」。京都府学連=関西ブントがこの動きの主力となった。

【 戦後党史第三期】/ 【ミニ第B期】= 宮顕−袴田独裁体制完了する

 第8回党大会が開催され、宮顕−袴田の独裁体制が確立された。残るは志賀系のみであったが、中国派系の動きも目障りになりつつあった。各個撃破戦術はまず親ソ連共産党系の志賀グループの追い出しへ向かうことを指針させた。これにも成功し、64年の第9回党大会はその凱歌を挙げる舞台となった。この期間を【 戦後党史第三期のミニ第C期】とみなすことができる。


【第八回党大会開催】

 以上の経過を経て、7.25−31日、日本共産党第8回党大会が開かれた。このたびの党創立77周年記念講話で、不破委員長が満場一致で現綱領が採択されたと自画自賛したお気に入りの大会であるが、満場一致に至るからくりは上述のような経過を伴っていたことが知られねばならない。以下これを俯瞰してみることにする。

 審査を通過した代議員は798名。規約にある2年に1回という規定に反して、前大会から3年目であった。神山・中野の2中央委員と統制監査委員の松本惣は、病気の中委候補間瀬場とともに、どこからも代議員に選出されなかったため、決議権をもたない評議員の資格で出席を許された。大会の眼目は、新綱領の採択にあった。大会では、綱領・政治報告などを討議した。「春日庄次郎一派の反党的、反階級的裏切り行為の粉砕にかんする決議」を全員一致で採択した。反対派が全部排除されたため、議案は全て全員一致で採択された。中央役員の選出は、 中委原案通りにしゃんしゃんの全員一致で決定した。反党的潮流を日和見主義として全面的に批判し、綱領とそれに基づく政治報告を決議した。数十万の大衆的前衛党建設の目標を提起。党勢拡大と思想教育活動の総合2カ年計画を全党的につくり、取り組むことを決定した。

 万一綱領反対者が発言しないかと恐れた中央は、大会運営の厳重な統制をはかり、大会発言者には全て事前に発言の要旨を文書で提出させ、綿密に審査した後大会幹部団の指名によって発言を許可するということにした。野坂の政治報告・宮本の綱領草案報告は、拍手又拍手の中で行なわれ、それらの討論は中央に忠誠を誓う儀式とかわりなかった。その後の大会討議においては、反対意見は姿を消し、綱領草案についてもこれの実践的検証を誓う没理論的発言か、草案反対派との闘争を手柄話にするお茶坊主発言が相次いだ。神山・中野・波多らは綱領草案支持を表明し、かつて反独占社会主義革命を主張した中西・鈴木らも自己批判して草案支持を明らかにした。志賀は、 会期中発言らしい発言を一度もしなかった。この志賀の沈黙には意味があり、後述するがまもなく氏もまた党を飛び出していくことになる。こうして議案は綱領以下全て全員一致で採択された。

 この経過について党史では次のように記載されている。概要「(大会が採択した綱領は、)党内民主主義が完全に保障されているもとで4年間にわたって全党的に討論を尽くし党の英知を傾けて創造された、日本人民解放の科学的な指針である」、「日本革命の正しい路線を歪め、党と労働者階級を米日反動に対する革命闘争からそらせようとする各種の日和見主義、右翼社会民主主義、トロッキズムなどとの激しい闘いによって、一層磨きをかけられたものであった」(日本共産党の65年)。典型的な「勝てば官軍」論理がぬけぬけと語られていることになる。

○期日.会場.代議員数について   

 7.25−31日第八回党大会が世田谷区民会館で開かれた。審査を通過した798名の代議員。この代議員数の大幅増加(前回第7回党大会の400名余に比べてほぼ倍近くである)は、露骨な宮本党中央の多数派工作であった。規約にある2年に1回という規定に反して、前大会から3年目であった。  

  神山.中野の2中央委員と統制監査委員の松本惣は、病気の中委候補間瀬場とともに、どこからも代議員に選出されなかった為、決議権をもたない評議員の資格で出席を許された。

○大会の眼目  

  大会の眼目は、新綱領の採択にあった。

○採択決議について  

  綱領.政治報告などを討議した。反対派が全部排除された為議案は全て全員一致で採択された。「春日庄次郎一派の反党的、反階級的裏切り行為の粉砕にかんする決議」を全員一致で採択した。これに基づき、春日(庄)、内藤知周、西川彦義、内野壮児、原全五らが除名されていいくことになった。

 中央役員の選出は中委原案通りにしゃんしゃんの全員一致で決定した。反党的な日和見主義の潮流を全面的に批判し、綱領とそれに基づく政治報告を決議した。数十万の大衆的前衛等建設の目標を提起。党勢拡大と思想教育活動の総合2カ年計画を全党的につくり、取り組むことを決定。
  

○新執行部について

 7.31日の役員選挙は、無記名連記で行われた。新中央の大幅増員。中委は31名から60名。中委候補は6名から35名。統制監査委は7名から8名。新中央には、党勢拡大その他主流に忠実だった都道府県委員長.委員クラスが大量に登用された。前大会で責を問われて中委の候補者リストから外された旧所感派の悔い改め派.紺野.竹中.松本三益.田代.竹内.塚田などが中央委員に復活した。神山.中野はかろうじて中委に入れられた。波多や神奈川県委員長として党勢拡大に好成績をあげた中西功などは中央に入れられなかった。


(私論.私観)中央委員の大幅増について

 宮顕派の大量促成栽培であり、宮顕人事の手品であった。


大会後の宗教的法悦プロパガンダ】
 大会は、「工作された満場一致」で終始し、大会の終わった翌日8.1日のアカハタは、「栄光に輝く勝利の大会」という大見出しで、トップ記事にしていた。上級下級を問わず党内からの賛美一色で紙面が埋められていた。その文体の特徴として、綱領賛美返す刀で春日(庄)派への「階級的裏切り」弾劾という共通作風が見られた。いわば宗教的法悦が満展開されており、「この宗教的法悦は、異端者に対する迫害と憎悪によって補強」(志水速雄「共産党大会のパロディ及び離党の思想」・「現代思想」1961.10月号より)されていた。

 幹部級の主な発言は次の通り。西沢隆二「カサブタが落ちてああほんとにさっぱりした」、壷井繁治「アメリカ帝国主義の使者か、召使か。それとも自分の野心のうつ血の中から湧いてきたウジ虫の群れか」、多田留治、鈴木市蔵、広谷俊二、高安重正らも同様なコメントを載せており、中でも下司順吉は、「上級の決定が正しいかどうか。それに従うかどうかを、個々の党員が勝手に判断する『自由』があるとするならば、決定の無条件実行の減速は否定され、革命党の機能はマヒし、解体せざるを得なくなる」と、奴隷哲学を得々と述べていることが注目される。

 中野重治、神山らも消極的ながら提灯している。これらに垣間見える精神は、「全てを疑え」から始発した近代精神が、「全てを信じる」に行き着いた逢着世界の滑稽さであり、この精神を検証せずんば史実からの批判的エキスは汲み取れないだろう。

 大会最終日の31日と8.2日の二日間「第1回中総」を開いて、中委議長野坂.書記長宮顕は再選された。中委幹部会員として野坂.宮顕.袴田.志賀.春日正.蔵原.聴濤.松島.鈴木が、書記局員として宮顕.袴田.松島.米原.伊井.安斎.紺野.土岐.平葦.高原の10名を選出した。幹部会員と書記局員を兼ねたのは、宮顕・袴田・松島の3名であった。


【宮顕−袴田体制の確立】
 宮顕−袴田体制が確立した。流れから見ると、志賀が完全に干され、野坂も実質上棚上げされた格好となった。 これに代わって宮顕・袴田という「戦前の党の最終中央コンビ」が指導権を握り、その周辺に旧来からの宮顕忠誠派の蔵原.松島・米原.聴濤(きくなみ)、寝返り忠勤派春日正・紺野.伊井らが配置された。松島.きくなみ.鈴木.伊井.高原らは戦後組合運動の指導者として登用されていた。その他安斎.土岐度などの旧満鉄グループがおり、ともに中央主流を形成することとなった。こうして宮顕盤石体制が確立した。

 全逓の共産党フラクションのトップ高原晋一が登用され、党中央の宣伝、教育、文化部長に任命された。この高原と宮顕の関係もまた宮顕−袴田関係と類似系である。

(私論.私観)第8回党大会をどう観るか。

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように記されている。「第七回大会から60年安保闘争をはさんで第八回大会に至る3年間は、新しい党規約を武器に、中央委員会の多数を制した宮本派がスターリニスト特有のあらゆる陰険・卑劣な手段を弄して、反対派を切り崩し、党組織を官僚的に統制し、批判を封じて自らの専制的な支配体制の確立に狂奔していった時期であった。

 宮本派がまずやったことは新規約に基づく地方指導部の選出で、党中央に異論を持つ幹部に「自由主義的分散主義」、「統制違反」の口実で「自己批判」を迫り、指導部への立候補資格を奪い、自派幹部を送り込む(都委員長には春日正一が天下った)などして反対派を徹底的に追放した。

 また「マルクス・レーニン主義理論の発展は、今日では党の中央委員会と別個におこなえるものではない」(『アカハタ』、59年9月26日)と主張し、綱領路線に対する党員や下部組織による自由な討論や批判を事実上封殺するとともに、党章草案の綱領部分をすでに既定のものであるかに扱い、党員は黙って「党員倍加運動」や機関紙拡大に奔走すればいいのだという態度であった。そして、この民族主義路線にもとづいて「安保改定は岸内閣の“売国の陰謀”」等々とわめき散らし、60年安保闘争に際してどんなに反動的で有害な役割を果たしたかは前回みたとおりである。

 こうして党員の公然たる民主的な討議の場を奪いつつ、宮本らは61年3月の中央委員会総会で44名中10名の反対・保留を押し切って、党章草案に部分的な手直しを加えた「綱領草案」を決定、草案は4カ月後の第八回大会にかけられることになった。そして、この時も綱領草案の討議の目的は草案の「正しい理解」によって各自の誤りをただすことにあるという驚くべき見解を発表(『アカハタ』、61年6月12日)、「反対意見を地方党組織の刊行物に発表してはならない」と通達した。また代議員の選出でも、綱領草案反対者は機関として代議員に推薦できないという「指導」を貫徹、最後まで官僚統制の手を緩めなかった。

 こうして反対派を一人残らず排除し、あるいは離党に追い込んだ上で、61年7月に開かれた第八回大会での討論は宮本翼賛発言に終始し、新綱領は「満場一致」で可決をみたのである。

 宮本綱領の詳細な批判はあらためて展開するまでもないだろう。ここでは簡単に次のように指摘するにとどめたい。新綱領が採択された1961年といえば、10年前の講和条約で基本的に独立を達成し、また前年の安保条約改定でアメリカとのより対等な地位を獲得した日本独占資本が、岸内閣の後を受けた池田内閣の下で急速な経済発展を勝ち取り、貿易や資本の自由化によって国際市場に乗り出そうとしている時であった。もはや日本を支配しているのが日本の資本家階級であることは誰の目にも明らかであり、したがって労働者階級の革命闘争の目標が資本の支配の打倒と社会主義の実現にあることもまた明白であった。

 ところが新綱領はこの明白な事実を否定し、労働者階級の当面する闘いの目標が「アメリカ帝国主義と日本独占資本の二つの敵」に反対して、「民族の真の独立と民主主義を実現する」ことにあるというのだ。これは労働者の階級闘争、革命闘争を民族主義の間違った方向にねじ曲げ、その本当の目標すなわち何千万労働者大衆を搾取し、抑圧し、労働者大衆の苦しみの根源になっている資本の支配からそらせることで、ブルジョアジーをこのうえなく助けるものであった。

 それはまた戦前には三二テーゼなどによって天皇制絶対主義のお化けを持ち出して労働者階級を社会主義をめざす闘いからブルジョア民主主義の方向にそらせたのと同じ犯罪的な役割を果たすものであった。戦前の絶対主義天皇制が今度はアメリカ帝国主義のお化けに置き換えられたに過ぎない。両者はまた民主主義革命から社会主義革命へといった二段階革命論や、統一戦線戦術などスターリニズムの典型的なドグマに依拠したものである点でも同一であった。

 こうして新綱領の採択は日本共産党を戦前に続いて戦後も労働者階級の闘いを歪曲し、解体に導くだけの最悪の日和見党派たることを運命づけたのである」。


【61年当時の党の方針の特質と要点】
@〈世界情勢に対する認識〉について

 「アメリカ帝国主義は、世界における侵略と反動の主柱、最大の国際的搾取者、国際的憲兵、世界各国人民の共通の敵となっている」と認識した上で、「アメリカを先頭とする帝国主義に反対する民族解放と平和の国際的統一戦線を、世界の反帝民主勢力の当面の基本任務」として提起した。

A〈国内情勢に対する認識〉について

  国家の独立をめぐっての「従属」規定が引き続き採用され、51年綱領の「植民地.従属国」から「高度の資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国」と規定した。ここから日本を基本的に支配する者は、「アメリカ帝国主義とそれに従属して同盟関係にある日本の独占資本勢力との二つである」とする「二つの敵論」を一層明確に導き出していた。当面の革命は、「民族の完全独立と民主主義擁護の為の人民民主主義革命であ る」とし、これを社会主義革命に急速に発展させるべきだとするいわゆる二段階革命の戦略方針をとった。基本的に旧党章草案と同じであったが、旧党章草案時の「平和・民主・独立」と順位が替えられて「独立・民主・平和・中立」なるスローガンとなった。

 綱領草案は、51年綱領.55年6全協決議.58年党章草案などを受け継いで、日本の現状を「事実上の従属国」と規定する立場から、「アメリカ帝国主義とそれに従属的に同盟している日本の独占資本」との二つの敵に対する人民民主主義革命を戦略の中心課題に据えた。この二つの敵に対する人民の民主主義革命(民族解放民主主義革命)から社会主義革命へ−−−という2段階革命の戦略をとる点で、基本的に旧党章草案と同じであった。草案は、今までの「平和.民主.独立」と順位が替えられて「独立.民主.平和.中立」なるスローガンとなった。  春日等の反対意見は、綱領草案がアメリカ帝国主義の支配を重視しすぎ、日本独占の発展とその権力支配を過小評価し、当面の革命を、完全独立を重要課題として含む反独占社会主義瀬革命と規定していた。そのような立場から反対した。

(私論.私観)宮本式革命理論の特徴について

 この宮本式理論の特徴は次のように総括評価し得る。つまり、「32年テーゼ」による二段階革命論。徳田はこれを急進主義的に取り組む。野坂はこれを穏和主義的に取り組むか又は三段階革命論的に焼きなおす。このたびの宮本式民族解放=独立運動的観点の導入は四段階革命論的であることになる。ちなみに、民主連合政府運動は五段階革命論的であり、当面の要求一致運動は六段階革命論的であり、最新の行き当たりばったり運動は七段階革命論的であるということになる。こうなると、もはや革命論の範疇であるのかどうかは自ずと疑わしい。限りない右派路線へのひた走りこそが戦後党史の流れである。

B〈党の革命戦略〉について

C〈党の革命戦術〉について

 この時、宮顕は、「暴力革命対平和革命」論の相容れない見解に対して、平和革命論に立脚しつつ暴力革命論をも折衷するという「敵の出方論」なるものを編み出している。これが党内の大勢に支持されていくことになった。「敵の出方論」とは、「マルクス.レーニン主義党としては、革命への移行が平和的手段で行われるように努力するが、それが平和的となるか非平和的となるかは結局、敵の出方によるということは、国際共産主義運動の創造的成果としてマルクス、レーニン主義の重要原則の一つとなっている」(綱領問題についての中央委員会の報告)と述べられているところのものである。

 しかし、この大会の綱領においては、革命の平和的移行の可能性のの追求の方を党運動として取り組むという方針について明記する事無く、従って、「敵の出方論」について言及することもないという曖昧糊塗手法を採用した。これを、「運動の手を縛ることになるからいけない」、「明記することに拠り、暴力革命論を捨てていないとして弾圧の口実を与えるから、明記しなすのが賢明」という詭弁で押し通している。こうして党内左右両派をまるめこむことに成功した。

(私論.私観) 「敵の出方論」について

 「敵の出方論」のおかしなところは、これはまぎれもなく権力側の理論であって、人民大衆側の抵抗運動のそれではないところにあると思われる。このことは、次のように言い換えてみればよく分かる。「政府としては、反政府運動を為す者が議会を通じての平和的手段で行われるように努力するが、それが平和的となるか非平和的となるかは結局、反政府運動側の出方によるということは、今日的統治学の重要原則の一つとなっている」。この方がよく似合うであろう。つまり、「敵の出方論」は、総体的に強い側の権力側の理論であって、弱い側の人民大衆の抵抗運動の論理ではないということである。しかるに、この「敵の出方論」が党内の大勢から支持を受けていったという史実があり、このことはそういう変調宮本理論を批判しきれなかった反対派の「知の貧困」にも原因があると思われる。

D〈党の具体的な運動方向〉について  

E〈党の大衆闘争指導理論〉について  

F〈党の機関運営〉について

 規約改正は反動的に改悪された。党大会の召集の延期、下級組織の委員の移動と配置、地方における中委の代表機関の設置、党員の多い工場や経営の危機に対する中委指導に必要な措置、これら 全てが新たに中央委員会で出来るようになった。中央の権限強化だけでなく、幹部会は必要な場合常任幹部会を置くことが出来、幹部会は中央統制監査委員会に出席することが出来るようになって、今や中委−幹部会−常任幹部会と、少数独裁制への移行の保証が与えられるに至った。他方、規律違反で審議中の者は6ヶ月の枠で党員権利を停止されることとなった。鉄の規律や一枚岩の団結が一層強調された。こうして次第次第に執行部独裁化方向へ規約の改正がなされていくことになった。この辺りの規約改正経過について、現党員はどのようにご納得されているのだろう。

 ちなみに、イギリス共産党は、58年の第25回大会で「党内民主主義について」という文書を発表しており、こ こでは次のように語られている。「党大会の討論の際には、各支部の内部ばかりでなく、さらに党機関誌の紙上でも相争う見解が自由に発表され無ければならないということ、党大会前の討論には、我々の機関紙誌はこれまでより もずっと大きな紙面をさく必要があるということを、疑問の余地のないこととして 承認し、明瞭に言明しなければならない。」、「大会前の討論の時期には、可能な限り広範な討論が開かれ、党機関紙誌は全ての見解と提案に目立った場所を与える義務があり、各支部は、大会日程に関する決議の中で、自分の政治的見解を述べる権利がある」。日本共産党は自主独立であるから、イギ リス共産党が何を言おうと関知しないとでも言うのだろうか。


G〈左翼陣営内における本流意識〉について
 まだ大衆のイメージにある戦前からの革命党の伝統、いわば前衛党伝説ともいうべき心象にあぐらをかいた。あらゆる面に硬化現象がでんぱんした。 

H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について

 9月反代々木系となった全学連指導部(全学連主流派)は、第12回臨時大会を開き、学生を労働者の同盟軍とする階級闘争の見地に立つ学生運動への左展開を宣言した。こうした全学連の動きを踏まえて、この時の政治報告で、学生運動に対して次のように述べられている。「安保闘争を経て、学生運動は大きく変化しようとしている。全学連指導部を占拠したトロツキスト分子に対して、我が党は非妥協的な闘争を行ってきたが、彼等は、反革命的挑発、反共的悪扇動、統一行動破壊の運動の中で自ら混乱に陥り、ますます学生大衆から遊離する方向を強めている。党は、今こそとロッキストに対する迫撃を強め、彼等を全面的に打ち破り、我が国の学生運動の真の革命的.進歩的伝統のもとに学生運動の再建と統一の為に力を尽くさねばならない」。

I〈大会後の動き〉


【この時期の春日(庄)らの動き】

 7.26日、第8回党大会開催中のこの日、春日(庄)らは全国世話人会を結成し、東京千駄ヶ谷に事務所を開設している。

 8.2日、全国の離党同調者に対し、「社会主義への日本の道を切り開くために、新しい大衆的前衛党の結集を訴える」アッピールを発表した。この声明では、第8回党大会を「違法且つ無効」とし、「政治的堕落の象徴」と弾劾し、新しい大衆的前衛党の結集を訴えていた。

 8.15−16日、春日(庄)らは、東京に全国有志代表者会議を開き、約80余名が参加し新しい運動の第一歩を踏み出した。「新しい組織の結成をすすめるにあたって」、「準備会規約の原案作成についての要綱」、「社会主義への日本の道についての要綱」を討議した。

 しかし、「新しい運動体の結集という共通の目標を持ちながらも、その方向・組織・活動の様々な面で、その内部には早くも微妙な不一致がみられ、まもなく分裂せざるを得なくなる」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P150)。それは、春日の「党外に出て独自の共産主義者の組織をつくっていこうと考えている。その組織は新しい革命路線と民主主義的ルールの組織原則を持つ集団である。純理論的に云えば、それは党派である。しかし、党を名乗り党派的に代々木と争うことはしない。一時的に二つの党が並存するような形になることがあるかも知れないが、我々はあくまで単一の党を目指して党内外、無党派の人々と一緒に再建・革新の運動を行いたい」という腰の弱さ、引けたところでの新党運動であったからして止むを得なかったというべきだろう。


 8.1〜22日、ニヨト.インドネシア共産党第二議長来日。


 8.13日、東ドイツ政府は、東西ベルリンの境界に壁を構築し始め、国民の西ベルリンへの立ち入りを禁止した。以後、東西ベルリン間に半永久的な堅固なコンクリートの壁が作りあげられた。これが有名な「ベルリンの壁」である。ベルリンの壁は、1989年11月9日に開放されるまで続くことになる。

 この背景にあったものは、生活水準の低い東ドイツから、経済生活が豊かで自由を享受している西ドイツに向かっての難民流出が急増したことであり、西ドイツへの亡命によって労働力が不足し、経済が停滞することを恐れ、これ以上の亡命・逃亡を防ぐために措置された。ドイツ分裂以後の10年間に、西ドイツへ亡命した東ドイツ国民の数は250万人以上の多数にのぼると言われている。ベルリンの壁構築後も、東から西へ逃亡を企てる者は跡を絶たず、壁を越えて西ベルリンへ逃亡した者も約5000人にのぼると言われている、しかし、その一方で約80人が逃亡に失敗して命を落としている。


【社会主義協会第2回全国総会】

 8月、社会主義協会第2回全国総会。社会主義協会が、その創立の月標としてかかげた日本におけるマルクス主義の理論と実践の統一を具体化するために、実践的課題にこたえるための理論闘争を展開する組織に成長しなければならぬこと表明した。これは、社会主義協会の大きな前進を意味した。したがって、社会主義協会員が社会党内にありて、社会党強化の使命を担うことはとうせんであり、この意味において社会主義青年同盟の質的、量的な成長を支えることも、わが協会のとうぜんの義務である。社会党と社会主義青年同盟の一部に影響をもちはじめたいわゆる「桶造改革論」をつよく批判し、理論的、実践的に、これを克服する努力に全力をあげた理由も、ここにある。同時に、社会主義運動内に巣食う極左主義者とのたたかいも、ゆるがせにすべきものでないことを自覚している。

 これら理論的、実践的要請にこたえるために、社会主義協会は、あらたに協会の理論と実践に関する基本要綱でめる「社会主義協会テーゼ」と新規的、組織方針をもっことになった。

 急速な世界および日本の情勢の変転は、こんにち「左社綱領」の理論を、そのままわれわれの指針とすることを許さない。社会主義協会は「左社綱領」の理論を、発展した情勢に適2 した行動の指針につくりかえなければならない。「社会主義協会テーゼ」は、このような社会変革の道におけるあたらしい理論的・実践的指針として作成されたのである。


 8.18日、党員学者グループが再び「革命運動の前進の為に再び全党に訴える」を発表している。

【党による民青同のベルト化】
 この頃の学生運動につき、「第6期その2マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」に記す。

 党は、第8回党大会開催後のこの頃、「民青同第6回大会、第7回大会路線」を、第8回党大会で強行決議された党綱領によって修正するよう指示し、 従わない同盟幹部を排除し、民青同を共産党のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置(ベルト)に替えた。明らかな党による民青同の引き回しであったが、これにより民青同の党に対する盲従が惹起し青年運動に大きな桎梏となっていくことになった。

 第8回党大会で採択決議された党の綱領が「民族独立民主革命」を明確に戦略化させたところから、社会主義を目指す闘争は抑圧されるか後退することになった。日本における社会主義の展望、客観的必然性を青年に示し、日常の闘いと社会主義への志向とを結びつけることを拒否する傾向が強まり、社会主義について沈黙を守る雰囲気が支配的になった。これは、党が民主主義的「改良・改革」を「革命」と規定するというすり替えから発生しているものと思われる。「二つの敵」を経文のように繰り返すことにより、イデオロギー活動が不燃化させられる要因となった。その結果、同盟員の理論的水準は低下し、その下部組織はサークル化傾向に沈潜していくこと となった。宮本の指導になると、なぜこうまでして青年運動の自主性を削ぎ、社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろうとの疑問が涌くが、こういう観点を共有するものは少ない。

 8月、早大の高野秀夫が離党している。
【ソ連の核実験再開とこれに伴う混乱】

 8.31日、ソ連は58年から停止していた核実験を再開した。平和擁護運動は混乱に陥った。それまでソ連を平和の砦としていた日本の左翼内にあった傾向からして大いに当惑させられることとなった。日本共産党はソ連核実験の支持声明を出した。

 革共同関西派は対応が割れた。革共同全国委=マル学同は、「反帝反スタ」の立場から精力的に抗議運動を展開していくこととなった。「1961年秋のソ連核実験再開に直面させられて完全に混乱の渦中にたたきこまれ、何らかの反対運動をも展開することができずに自己破産を義黒した原水協並びに社共両党の、この腐敗を公然と暴き出し弾劾し、のりこえつつ推進されたわが全学連の『米.ソ核実験反対』の反対闘争は、1962年の春のアメリカ太平洋実験に対する激烈な反対闘争として受け継がれ、そして日本原水協の完全な無活動的腐敗や第8回原水爆禁止大会における社共両党の衝突の茶番性を大衆行動をもって暴露したことなどを通じて、同時に国際的な反戦統一行動を生み出しながら、今や確固とした地歩を築き上げた。さらにそれは、闘う労働者自身による反戦闘争の行動化を促す触媒としても働きつつある」(日本の反スターリン主義運動)。


【「青学革新会議」結成される】

 9.29日、春日(庄)ら構造改革派の青年学生組織として青年学生運動革新会議(青学革新会議)を結成した(10.6日ともある)。党8回大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党.除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心とした。「共産主義的青年学生同盟の結成を目指して」という宣言を発表した。全自連グループのうち早大・教育大・神戸大・ 立命館大・法政大・東大などで呼応した。第8回党大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党・除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心としていた。

 その背景にあったものは、宮顕式の不当な干渉によって民青同を共産主義的青年同盟に発展させる可能性が無 くなったという認識に基づいて、マルクス・レーニン主義の原則に立脚する青年同盟の創設の課題を提起していた。

 なお、このグループもまたこの後春日らの統一社会主義同盟と内藤派に分裂していくことになる。青学革新会議もこの動きに連動し、春日派は翌62.5月社会主義学生戦線(フロント/東大教養、 神戸大等)、内藤派の系統として63.8月日本共産青年同盟(共青/教育大等)へと続く。


【日共が朝鮮、ソ連、中国を訪問】

 9.5−11.3日、宮顕書記長ら、朝鮮、ソ連、中国を訪問。

 9.12日、党代表団宮本書記長がせ朝鮮労働党第4回大会で演説。

 9.19日、宮顕書記長らモスクワでソ連共産党スースロフ幹部会員らと会見。予定されているソ連共産党第22回大会におけるソ連共産党綱領草案の日本に関する部分が、党の新綱領の現状規定と異なっていた為摺り合わせが行われた。会談に参加した志賀は、ソ連草案支持を表明した。志賀は帰国後党指導部の会議で厳しく批判されることになった。


 9.18−21日、インドネシア共産党アイジット中央委員会議長来日。野坂議長と党本部で歓談。


【春日(庄)ら離党組が「社会主義革新運動(社革)」結成】

 10.7−9日、前年の日本共産党第8回党大会前後の経過で「反党分子」として除名され集団離党することとなった春日(庄)ら離党組は、社会主義革新運動(社革)準備会の創立総会を開いた。議長春日(庄)・副議長山田六左衛門.事務局長内藤知周を選出した。

 社会主義革命と構造改革論、「平和.中立.完全独立」を指針化させた、全国世話人会から提出された三議題(趣意書、規約、綱領案)を討議したが、内部の理論的な不一致が露見し具体的な成果を得ることが出来なかった。「一応、社会主義革新運動という名称を採択したのみで他は48名の全国委員会に持ち越されることになった」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P155)とある。ほぼ2千名と推定されていたが、寄り合い所帯の限界を超えることが出来なかった。

 その不一致は、内藤・西川義彦らが綱領制定を含む前衛政党の樹立を目的とする組織方針を主張したのに対して、春日・山田らは当面は幅広い連絡・協議を主とする緩やかな政治集団で良く、十分に議論を尽くした上で方向を定めればよいとしていたことにあった。

 11月、第2回全国委員総会が開かれたが、この組織方針の対立の溝は埋らなかった。翌年2月に第三回全国委員総会が開かれるが、この組織方針の対立は遂に統一を見ることが出来なかった。来る参議院選挙に独自候補を立てるかどうかを廻っても対立し、結局のところ組織的分裂を向かえることになる。


【ソ連共産党第22回大会開催】

 10.17−31日、ソ連共産党第22回大会開催。党代表団団長野坂議長が出席。新党綱領が採択され、1903年の第一綱領、1919年の第二綱領に次ぐ第三綱領として「共産主義社会建設の綱領」とされた。共産主義の移行について、概要次のように述べられていた。@・1961―70年の10年間で、ソ連は人口一人あたりの生産高で米国を追い越す。A・次の71―80年の10年間で、共産主義の物質的・技術的基礎が造り出され、共産主義社会が基本的に建設される。B・共産主義社会の建設はその後の時期に完全に完了する。つまり、早ければ、80年代にも、完全な共産主義が実現されると喧伝された。又、新綱領は、ソ連がプロレタリアート独裁の国家から全人民国家になり、党も全人民の党になったと規定した。

 党規約も改正され、党員の役割と責任、党内民主主義、党組織の自主性が強調された。この大会でも、フルシチョフ党中央委報国などで再びスターリン批判が行われた。

 フルシチョフがアルバニア労働党を名指しで攻撃した。党代表団は同調せず。中国共産党代表団周恩来は、アルバニア批判に反論した。この経過を通じて、世界の共産主義運動内部の意見の相違が公然化することになった。


 10月、「旭川学テ事件」発生。全国学力テストの実施を阻止しようとした教師ら4名が公務執行妨害で起訴される。


 11月、第一回日米貿易経済合同委員会が箱根で開催。貿易.為替の自由化が急速に進められることになった。


 11月、「文化評論」創刊。

【三一書房の竹村一編集部長除名される】

 11.20日、「日本読書新聞」に、三一書房の竹村一編集部長による党中央の出版妨害事件批判文が掲載されている。それによると、樺美智子氏の遺稿集「人知れず微笑まん」の出版を計画していた。これに党中央が「党と労働者階級に損害を与え、出版は好ましくない」と横槍が入り、党員である竹村に圧力がかけられた。これに対し、武村氏が「日本読書新聞」に「この本がどうして党と労働者階級にどのような損害を与えたのであろうか。具体的に教えていただきたいものである。被害妄想もほどほとにしないと何がなんだかさっぱり分からなくなる。具体的な損害の事実を抜きにして、気にくわない本はすべて党と労働者階級に損害を与えたという最大限の形容を使えば、読者はびっくりするとでもおもっているのだろうか」。この結果、竹村は党から除名された。


 12.3日、宮顕書記長、綱領問題の報告をまとめた「日本革命の展望」を出版。

【党勢拡大運動の指令】

 12.18−20日、「第2中総」において、参議院選挙をめざす当面の任務の採択、8回大会の党勢拡大2カ年計画に基づき、9回大会までに10万党員を37万に増やす目標を定め、中間目標として62年中に15万に増やすことにする。


 12.29日、アカハタ主張、「国際共産主義運動の団結のために、二つの敵とたたかい抜くために」を発表。


【新日本文学会騒動】

 12月、新日本文学会第10回大会で、武井昭夫が事務局長、大西巨人.針生一郎らが常任幹事となり運営機関を掌握した。反党的立場で活動することとなった。





(私論.私見)