第22部 | 1961年当時の主なできごと.事件年表 |
「第八回党大会」開催、春日(庄)グループ離党 |
(最新見直し2007.7.1日)
この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第6期その2、マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生
」に記す。
1月 |
ソ連共産党第22回大会におけるフルシチョフの公然たるアルバニア批判と周恩来のそれへの反論によって中ソ論争が公然化。 |
1.20 | ジョン.F.ケネディーが第35代大統領に就任。 |
1月 | 江田社会党書記長、『月刊総評』に「構造的改革と労働運動」を寄稿、構造改革論争始まる。 |
2月 | 東京都千代田区.東京都.大阪府.その他の党会議において、中央主流は革新派分子 に圧力をかけて役員から排除した。 |
2.6 | 「第15回中総」。 |
2.15 | 学生新聞を創刊して、構造改革派に握られた「全自連」の指導権回復に乗り出 した。 「綱領草案」提出され、多数決決定される。 |
3.1 | 【「綱領草案」採択される】3.1−13日と25−28日までの2回にわたって「第16中総」が開かれた。この間58年の「第2中総」で設置された「綱領問題小委員会」は、都合29回の会議を経てきたが、この「第16中総」に「綱領草案」が提出された。しかるに「綱領草案」は大激論を生み結局満場一致とならず、中央役員44名中、4分の1に近い10名が反対又は保留した。内訳は、中委31名中、亀山.西川.山田.内藤.波多の5名が反対。神山.中野の2名が保留。決議権を持たない中委候補6名中、内野.原の2名が反対。又中央統制監査委員7名中、議長の春日(庄)が反対。また中委の政治報告草案については、亀山.西川.山田.内藤.波多.中野の6中央委員が反対し、内野.原の中委候補が保留した。 |
3.6 | 社会党第20回党大会開催。3.8日、河上丈太郎委員長・江田三郎書記長体制発足。 |
3.7 | 岩間正男議員、参議院予算委員会で自衛隊陸上幕僚監部作成の治安行動草案を暴露、追求した。 |
3.28 | 「綱領草案」が多数決で決定された。つまり、この総会が綱領問題の最後の討議となった。2年半の経過の末の難産であったということになる。この時、大会議案に反対と保留の中央委員は、自らの意見を下部の機関や組織で述べてはならず、400字詰原稿用紙25枚以内にまとめた意見書を、希望によって党報に発表することが出来る、と決められた。以後中央主流による綱領反対派に対する統制.抑制.官僚的圧迫が強化されることになり、予備工作が進行した。構造改革理論に対する締め付けが強化された。「月刊学習」が創刊され、官許マルクス主義による党教育が開始された。 |
3月 | 安保共闘会議が、安保条約反対、平和と民主主義を守る国民会議として再発足した。安保条約を破棄し、憲法改悪を阻止して、日本の平和、独立、民主主義を守るを声明した。以後全国的な統一行動を20回重ねることになった。 |
3.14 | 駐日大使にライシャワー氏を指名。 |
3.16 | 赤旗ニュース映画第一号完成。赤旗縮刷版創刊。 |
3.20 | 月刊学習創刊。 |
4.12 | アカハタが「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人としての責を問われた関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)の処分をページ全面に発表した。(中委書記局「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反に関する決定の発表にあたって」)。 |
4.17 | アカハタはこのアピールに賛成して中央の説得に従わなかった数名の同志が、規律違反の処分を受けた顛末を報じた。数名の同志とは、主に「新日本文学会」に属する小林勝.柾木.岡本.大西.小林祥らの作家.評論家たちであった。 |
4月 | この頃、CIAのキューバ侵攻作戦が失敗。 |
4.29 | 中央委員会、「綱領草案」発表。 |
4.30 | アカハタ特別付録として「綱領草案」が、5.3日アカハタ特別付録として「中委政治報告草案」が発表された。第7回大会の時は、「党章草案」が57年9月発表されて、翌58年7月に大会が開かれたのだから、10ヶ月にあまる討議期間があった。7月下旬に予定巣された大会まで3ヶ月に足らなかった。 |
5.6 | −8日都道府県委員長会議において、中央から綱領討議に対する厳重な規制が指示された。以後7月にかけての都道県党会議において、革新反対派への抑圧を強化し、反対派議員の排除が強行されて行った。 |
5.9 | −11日全国活動者会議。アカハタ拡大運動の発展。 |
5.13 | アカハタに規約一部の改正草案が発表された。 |
5.16 | 韓国で軍事クーデター。 |
6.3 | ケネディーとフルシチョフがウィーンで会談。 |
6.3 | 破防法案、衆院で強行可決。 |
6.9 | −10日「第17中総」で中央反対派の意見発表中止を決めた。 |
6.12 | アカハタは、「大会での討議は議案への賛否をあらわすことではなくて、議案の正しい理解によって各自の誤りをただすことである」と、指示した。かたるにおちる党官僚の放言が掲載された。 |
6.12 | 農業基本法公布。 |
6.14 | 論文「革命理論の形式的な理解と日本の現実への創造的適用−社会新報の綱領草案批判にこたえる」をアカハタに発表した。 |
6.20 | ワシントン.ホワイトハウスで池田.ケネディー会談。6.21日ヨット会談。「アジアにおいて戦略的に重要な地位を占め、経済的にも力をつけてきた日本が、一人前の国としての自覚と責任を持ち、安定した親米、反共勢力に成長することが重要」であり、その再確認の意味があった。「日本の西側同盟への組み込み」。日米の提携を強化するための閣僚級の「日米合同委員会」の設立が決められた。6.22日池田は連邦議会を訪問し、次のような演説を行っている。「私はこの機会に、アメリカの経済援助に対して深甚の意を表したい。しかし、今回の訪問は、このような援助の要請に参ったものではない。むしろ、わが国の経済成長に伴い、ようやくわが国も今は世界の平和と安定の問題の鍵を握る低開発諸国の経済生活と民政安定を助けるための、自由世界との共同の事業において、たとえわずかでもより多くの貢献を果たしえるようになったことを申し上げることを喜ぶものである」。日米パートナーシップの大きな前進となった。6.26日カナダ訪問。帰国後組閣に入る。 |
6.28 | 6.28から29日都道府県代表者会議。 |
7.1 | 【春日(庄)グループ離党 】 このような状態になるに及び、党内の反対派は7.1日付けで遂に党の内外に公然とアピールを発した。千代田地区細胞(森田.栗原.津田.池山.深沢ら)が、綱領問題に関する意見を「日本人民と党の未来のために」の声明につけて発表した。「綱領草案はまた復活した日本帝国主義と真正面から対決し、その反動的企画を阻止し粉砕しつつ、社会主義日本を打ち立てる道を日本人民の前に指し示そうとせず、それを日本革命の根本問題として提起することをことさらに回避しています」、「労働者階級の社会主義的指導性を強め、平和と中立と民主主義革新を通じて独占の支配権力を打倒していく闘いの道を指し示すという課題をも果たしていません」云々と党中央の宮本路線化の動きを批判していた。 |
7.8 | 中央統制監査委員会議長春日(庄)は離党届けを出し、同日夜記者団に、綱領草案の基本的な誤りだけでなく、反対派代議員の選出の組織的排除や反対意見書の発表の一方的中止措置などの反対派への一方的中止措置などの反対派への弾圧によって、党内民主主義が踏みにじられ、原則的な党内闘争による改善の見込みはなくなったとする離党声明を公表した。 |
7.9 | 党中央は、アカハタで幹部会声明と同日の野坂談話発表。 |
7.10 | アカハタで野坂が、「春日(庄)の反党的裏切り行為について」発表。 |
7.15 | 山田.西川.亀山.内藤.内野.原の中央少数派が連名で、14日付けの「党の危機に際して全党の同志に訴う」声明を発表した。大会を前にして現職の統制監査委議長が離党し、中央委員グループが公然と中央批判したことは前代未聞であった。 |
7.16 | 第三次池田内閣成立。挙党一致の実力者内閣となった。大野、前尾、赤城、田中が党執行部入り。河野農林、佐藤通産、藤山経済企画庁、川島行政管理庁、三木科学技術庁。 |
7.17 | 「党破壊分子の新たな挑発について」で応戦した。その後は、全国各級機関にわたって、反党的行為、裏切り分子、分派主義者、党破壊の策謀、修正主義者、悪質日和見主義等々の大々的非難か攻撃キャンペーンへーを開始した。 |
7.18 | 第二次池田改造内閣発足。田中角栄、自民党政調会長に就任。 |
7.19 | 「新日本文学会」の党員作家.評論家グループは、中央委員会あてに、「中央は綱領草案の民主的討議を妨げたから、大会を延期せよ」とする意見書を提出した。安部公房.大西巨人.岡本.栗原.国分.小林祥.小林勝.佐多.竹内.菅原.野間.針生一郎.檜山.花田の14名が連名していた。中野は意見書を勧めながら、連名しなかった。 |
7.20 | 「第18中総」で、党中央は、春日.山田六左衛門等7名を除名にし、この前後多数の地方機関役員その他を処分した。反対派への大々的カンパニアが展開された。この時、波多は綱領草案に対する反対意見を、神山は保留の態度をそれぞれ撤回した。 |
7.22 | 7.22日新たに泉.丹原.黒田.武井.玉井.中野秀人.浜田.広末.柾木の9名を加え、国分.佐多の2名を除いた「新日本文学会」の党員グループ21名連署で党の内外に宮本派指導部非難のアピールを発した。「今日の党の危機は、中央委員会幹部会を牛耳る宮本.袴田.松島らによる党の私物化がもたらしたものである」として、彼ら派閥指導部の指導の誤りと独裁的支配、規約の蹂躙と党組織の破壊の事実を挙げ、言葉激しく非難した。 |
7.23 | 7.23日野田.増田.山本.芝.西尾.武井ら6名の旧東京都委員会グループが、「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊に対する抗議」と題する声明を発表した。 |
7.24 | 7.24日増田.片山等が連署で離党声明を公表した。山田も。各地方の反対派の離党声明や中央攻撃声明など続々と発表された。大会を前にして党主流の派閥支配に対する怒りと不満が爆発して党の分裂状況が生まれた。党中央は、7.24日武井、9.2日大西、9.6日針生.安部らを除名。大会までに発表された被告処分者は、除名28名.党員権制限9名で、被除名者には中央委員7名.中央部員2名.元都委員8名.県委員1名.理論家及び編集者グループ10名が含まれていた。その他地方組織において、府県委員以下の離党又は処分が大量に見られた。 |
7.24 | 7.24日全国府県委員長会議。 |
7.25 | 【第八回党大会開催】大会の眼目は、新綱領の採択にあった。綱領.政治報告などを討議した。反対派全部排除された為議案は全て全員一致で採択された。中央役員の選出は中委原案通りにしゃんしゃんの全員一致で決定した。反党的な日和見主義の潮流を全面的に批判し、綱領とそれに基づく政治報告を決議した。数十万の大衆的前衛等建設の目標を提起。党勢拡大と思想教育活動の総合2カ年計画を全党的につくり、取り組むことを決定。 |
7.31 | 執行部役員選挙が無記名連記で行われた。新中央の大幅増員。中委は31名から60名。中委候補は6名から35名。統制監査委は7名から8名。新中央には、党勢拡大その他主流に忠実だった都道府県委員長.委員クラスが大量に登用された。前大会で責を問われて中委の候補者リストから外された旧所感派の紺野.竹中.松本三益.田代.竹内.塚田などが中央委員に復活した。神山.中野はかろうじて中委に入れられた。波多や神奈川県委員長として党勢拡大に好成績をあげた中西功などは中央に入れられなかった。 |
8.1 | 〜22日ニヨト.インドネシア共産党第二議長来日。 |
8月 | 早大.高野秀夫、離党。 |
8.2 | 【宮本−袴田体制の継続確立】「第1回中総」開催。中委議長野坂.書記長宮本、中委幹部会員として野坂.宮本.袴田.志賀.春日正.蔵原.聴濤.松島.鈴木が、書記局員として宮本.袴田.松島.米原.伊井.安斎.紺野.土岐.平葦.高原の10名を選出した。野坂.志賀は実質上棚上げされた。宮本.袴田という戦前の党の最終中央コンビが指導権を握り、その周辺に松島.きくなみ.鈴木.伊井.高原らの戦後組合運動の指導者が結集された。安斎.土岐度などの旧満鉄グループとともに中央主流を形成することとなった。 |
9月 | 【「青学革新会議」結成される】青年学生運動革新会議(「青学革新会議」) 結成。党8回大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党.除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心とした。 |
9.4 | 幹部会、党勢拡大と思想教育活動の総合2カ年計画の呼応運動について発表。 |
9.5 | −11.3日宮本書記長ら、朝鮮、ソ連、中国を訪問。 |
9.12 | 党代表団宮本書記長がせ朝鮮労働党第4回大会で演説。 |
9.18 | −21日インドネシア共産党アイジット中央委員会議長来日。野坂議長と党本部で歓談。 |
9.19 | 宮本書記長らモスクワでソ連共産党スースロフ幹部会員らと会見。予定されているソ連共産党第22回大会におけるソ連共産党綱領草案の日本に関する部分が、党の新綱領の現状規定と異なっていた為摺り合わせが行われた。会談に参加した志賀は、ソ連草案支持を表明した。志賀は帰国後党指導部の会議で厳しく批判されることになった。 |
10.7 | −9日離党組は社会主義革新運動準備会の創立総会を開いた。議長春日(庄).事務局長内藤。 |
10.17 | −31日ソ連共産党第22回大会に党代表団団長野坂議長が出席、フルシチョフがアルバニア労働党を名指しで攻撃した。党代表団は同調せず。中国共産党代表団周恩来は、アルバニア批判に反論した。この経過を通じて、世界の共産主義運動内部の意見の相違が公然化することになった。 |
11.5 | 第3回あかはた祭り。浜離宮、4万人。 |
11月 | 第一回日米貿易経済合同委員会が箱根で開催。貿易.為替の自由化が急速に進められることになった。 11月「文化評論」創刊。 |
12.3 | 宮本書記長、綱領問題の報告をまとめた「日本革命の展望」を出版。 |
12.18 | −20日「第2中総」において、参議院選挙をめざす当面の任務の採択、8回大会の党勢拡大2カ年計画に基づき、9回大会までに10万党員を37万に増やす目標を定め、中間目標として62年中に15万に増やすことにする。 |
12.26 | 選挙制度審議会第1次答申。12.27日選挙制度審議会第1次答申に対する政府の姿勢を不満とし審議中止。 |
12.29 | あかはた主張、「国際共産主義運動の団結のために、二つの敵とたたかい抜くために」を発表。 |
12月 | 新日本文学会第10回大会で、武井昭夫が事務局長、大西巨人.針生一郎らが常任幹事となり運営機関を掌握した。反党的立場で活動することとなった。 |
全学連第17回大会で、暴力的に反対派を閉め出した上、前衛党の建設を学生運動の基本任務とする反帝.反スター路線を打ち出した。この流れは現在の中核派に引き継がれる。 |
1.1日、社会党の機関紙「社会新報」に「構造改革の闘い」が掲載された。これが党内外に賛否両論を生み出していくことになった。
【「中ソ論争」の公然化】 |
1月、ソ連共産党第22回大会におけるフルシチョフの公然たるアルバニア批判と周恩来のそれへの反論によって中ソ論争が公然化している。 |
【米国にケネディー大統領が登場】 |
アメリカでは ケネディー大統領が就任している。 |
【革共同全国委の呼号】 |
この頃の学生運動につき、「第6期その2マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」に記す。 |
2月、党中央は、東京都千代田区・東京都・大阪府・その他の党会議において、構造改革派系革新派分子に圧力をかけて役員から排除 している。 |
【「全自連」に構造改革派の影響が及ぶ】 |
この頃、「全自連」指導部が構造改革派の影響を受けることになった。東京教育大学.早大.神戸大.大阪大などの指導的活動家が構造改革派へ誼を通じていくことになった。黒羽.田村.等等力らは学生運動研究会を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。ここには、学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけ、構造改革路線に基づく独自の政治方針を展開した。党は、トロツキスト学生追いだしの後今度は構造改革派学生の反乱を受けることとなった。 |
2.15日、日共が学生新聞を創刊して、構造改革派に握られた「全自連」の指導権回復に乗り出している。 |
【「綱領草案」採択される】 |
3.1−13日と25−28日までの2回にわたって「第16中総」が開かれた。この間58年の「第2中総」で設置された「綱領問題小委員会」は、都合29回の会議を経てきたが、この「第16中総」に「綱領草案」が提出された。草案は、実質的には上田耕一郎(不破・現委員長の実兄)と不破現委員長が主となって書き上げたものであるとされているが真偽は分からない。民主主義革命、社会主義革命の二段階革命路線を明確にさせ、「闘争の経過は我々の意図だけに関わるものでなく、敵の出方による」との「敵の出方論」を織り交ぜていた。 以後中央主流による綱領反対派に対する統制.抑制.官僚的圧迫が強化されることになり、薄汚い予備工作が進行した。構造改革理論に対する締め付けが強化された。「月刊学習」が創刊され、官許マルクス主義による党教育が開始された。この頃の史実と思われるが、袴田が春日(庄)らに向かって次のように云っている。「君たちそんないろいろ反対をしているけど、それももう暫くの問題だ。綱領が決まったら、君たちどうするのだ。綱領に賛成する者のみが党員なのだ。君たちはそのときにどうするのか」。これが春日(庄)グループ離党の背景論理になっていた節がある。この論理を春日(庄)らもまた受け入れる組織論を持っていたのかもしれない。 |
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3月、社会党機関紙局から「構造改革の理論」という論文集が出版された。社会主義の在り方を廻って、党内外の錚々たる論者が論争の火を点じていた。戦後初めての企画であった。
【社会党第20回党大会】 |
浅沼没後空席となっていた委員長に河上丈太郎が満場一致で推挙された。書記長に江田三郎、政審会長に成田知己が無投票で再任された。国際局長には和田博雄が選出され、約3年半ぶりの表舞台への復帰となった。 この時の大会で、“構造改革路線”と“平和共存”路線が決定され、江田三郎氏がそれらの路線の人格的象徴として書記長になった。これに応じて、社青同、総評青対部は、ほとんどソ連よりの“平和共存”路線を基調とすることになった。当時、日共・民青はどちらかというと中国寄りの“反植民地、反米帝国主義”路線を志向していた。 こうして、浅沼稲次郎の暗殺後、社会党のヘゲモニーは江田派にうつった。60年から64年まで、江田は構造改革路線のもとで、一方では、大衆運動における共産党との分裂を系統的に進めながら、他方では共産党と対抗する組織力の獲得のために、オルグ制度の確立、社青同の建設、社会新報の確立などの党改革を次々と進めて来た。江田によるこうした展開には、共産党を除名、追放された構造改革派の理論家や活動家が大きな役割を果した。 “構造改革路線”は、日共の二段階革命戦略に対しては“反独占、社会主義革命”という画期的な“一段階革命戦略”を対峙させ、社会党にあっては、労農派的な一種の“恐慌待望論”の待期主義に対して“恒常的攻勢の戦略論”といったイメージを押し出すことによって“新鮮な”装いをもって登場した。この“構造改革論”は三池闘争のような敗北的闘争を否定し、もっとスマートな“政策転換”を政府に迫ることで解決する方向に流れていった。この目新しい路線には、総評民同が飛びつき、そしてまた社青同中央指導部の大勢もこの流れに足をさらわれていくことに無自覚であった。 江田派の反共主義的党建設路線は、民同労働運動の反共組合主義化と並行して進められた。そしてこの過程は、池田内閣の高度成長政策を基礎とする大巾賃上げ闘争中心の労働運動の展開に支えられた。すなわち、安保と三池の60年の激突は、61年以降アメリカ・ケネディ政権の対日政策とむすんだ池田と江田のアベックによって収束されていったといえる。 |
【当時の党内反対派の動きと党中央の対応】 |
暫くこの動きを追うことにする。党中央は、党大会を控え大会代議員の選出に前代未聞の露骨な介入をしていくこととなった。中央主流派は、反対分子の多いと見られる地方組織に主流派幹部を派遣して、党会議を統制し、締め付けをはかった。都道府県党会議の段階で、反対意見を封じ反対分子を排除してしまえば、党大会は彼らの意のままになる道理だった。ここに草案反対者は機関として推薦できないとして、あらかじめ代議員候補のリストからはずすといった規約蹂躙の工作が、中央主流派によって全国的に展開されていくこととなった。とりわけ、東京と大阪が集中的な目標とされた。野坂.宮顕.袴田.志賀.松島.聴濤.土岐.川上らが手分けして各県の党会議に乗り込んで反対意見を封殺していった。大阪府委員会では、一度は代議員に推された西川が排除されている。 |
【関根弘ならびに武井昭夫が除名される】 |
4.12日、アカハタは、「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人としての責を問われた関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)の処分をページ全面に発表した。中委書記局「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反に関する決定の発表にあたって」がそれである。こうして、初代全学連委員長時代宮顕に最も信頼を寄せていた武井氏は、紆余曲折を経て最終的に斬捨てられることとなった。 |
4月のこの頃、CIAのキューバ侵攻作戦が失敗。
【党中央委員会が、「綱領草案」を発表】 |
4.29日、中央委員会、「綱領草案」発表。4.30日アカハタ特別付録として「綱領草案」が、5.3日アカハタ特別付録として「中委政治報告草案」が発表された。第7回大会の時は、「党章草案」
が57年9月に発表されて、翌58年7月に大会が開かれたのだから、10ヶ月にあまる討議期間があった。この度は7月下旬に予定された大会まで3ヶ月に足らなかった。 |
【辻政信がインドシナ半島情勢視察に向かい消息を絶つ】 |
4月、戦前、陸軍参謀として「作戦の神様」と言われ、戦後はベストセラー作家にして参院議員という昭和史を飾った怪人物・辻政信が羽田を飛び立った。その後、ベトナム・サイゴン(現ホーチミン)、カンボジア・プノンペン、タイ・バンコクを経て、4.14日にラオスのビエンチャンに到着した。現地で「日本の高僧青木」と称し、「潜行三千里」のときと同様の僧形となって当時のパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)支配地域に向かったことが確認されている。 辻が、ラオスに向かった理由として、池田首相訪米時の際のケネディ米大統領との首脳会談に役立てるための当時のインドシナ半島情勢視察であったことが挙げられている。「益谷秀次さん(当時、自民党幹事長)にその話をしたら、『ぜひ、やってくれ』と言われて、餞別をポンとくれたそうです」と伝えられている。 辻はその後消息不明になり、中国で処刑されたという話やトラに食い殺されたという話があるが、2007.2月、米中央情報局(CIA)の公開文書は、辻がラオスから中国に入り、1963年に中国共産党当局に拘束され、そのまま中国で処刑されたとする未確認情報に言及している。これにより、CIAが辻を要注意人物として監視下に置いていた事が判明した。 辻政信の履歴は次の通り。1902年、石川県生まれ。陸士(36期)、陸大(43期)をトップクラスの成績で卒業したエリート軍人で、戦前はマレー上陸作戦などを指揮した。敗戦をバンコクで迎えた辻は僧形に姿を変えて当地を脱出、東南アジア、中国に潜伏した。復員後、逃走中の出来事をまとめた「潜行三千里」は50年の大ベストセラーとなり、一躍、マスコミの寵児となった。1952年、衆院初当選。4期目の途中に当時の岸信介首相の金権ぶりを批判して自民党を除名されて議員辞職。しかし、すぐさま参院全国区(当時)にくら替え出馬し、第3位で返り咲いた。旧陸軍時代を含め、辻に対しては「清廉潔白」「勇猛果敢」と称賛する声がある一方で、「機を見るに敏」との評価もある。女婿は堀内光雄・元通産相。(読売ウィークリー2007.4.15日号所載の「失踪から46年、昭和史を飾った怪人物 私が見た辻政信」参照) |
5.13日、アカハタに規約一部の改正草案が発表された。この時の変更内容は判明しない。 |
5.16日未明、陸軍少将朴正ヒ(パクチョンヒ)に率いられた部隊(主力は韓国陸軍士官学校8期生)が大統領官邸や警察署、放送局を次々と襲い、前年8月に生まれたばかりの文民の張勉内閣に終止符を打った。配下には金鐘泌(キムジョンビル、後の韓国首相)、サイ英沢、金東河ら。
6.3日、ケネディーとフルシチョフがウィーンで会談。
【党中央の反動的教説の数々と、前代未聞の反対意見の「党報」掲載禁止措置】 |
この頃、宮顕、袴田、松島のトリオがブロックラインとなって綱領問題の実質的討議禁止策動に乗り出していた。 6.9−10日、「第17中総」で中央反対派の意見発表中止を決めた。これは先の16中総の申し合わせで春日(庄)
以下10名から提出された意見書の内容は「党報」へ掲載される権利が留保されていたものを、「16中総」の決定をゆがめて伝える恐れがあるという理由で、結局この約束が反故にされ、「党報」への掲載が中止されることとなったということである。大会直前に発行された前衛8月号には、志賀・袴田・松島・米原らの草案支持の論文をずら
り揃えた上で、内藤・内野(壮)・波多らの反対意見書を投稿扱いで載せた。 |
【池田−ケネディー会談】 |
6.20日、池田首相は、満枝夫人、宮沢喜一らを伴って訪米し、ワシントン.ホワイトハウスで池田.ケネディー会談。首脳会談は二日間にわたり、2回目の会談はポトマック川に浮かぶ大統領専用ヨット上で行われた。同じ船で、小坂善太郎外相とラスク国務長官も会談した。 6.21日、ヨット会談。「アジアにおいて戦略的に重要な地位を占め、経済的にも力をつけてきた日本が、一人前の国としての自覚と責任を持ち、安定した親米、反共勢力に成長することが重要」であり、その再確認の意味があった。「日本の西側同盟への組み込み」。日米の提携を強化するための閣僚級の「日米合同委員会」の設立が決められた。 6.22日、池田は連邦議会を訪問し、次のような演説を行っている。「私はこの機会に、アメリカの経済援助に対して深甚の意を表したい。しかし、今回の訪問は、このような援助の要請に参ったものではない。むしろ、わが国の経済成長に伴い、ようやくわが国も今は世界の平和と安定の問題の鍵を握る低開発諸国の経済生活と民政安定を助けるための、自由世界との共同の事業において、たとえわずかでもより多くの貢献を果たしえるようになったことを申し上げることを喜ぶものである」。日米パートナーシップの大きな前進となった。 6.26日、カナダ訪問。帰国後組閣に入る。 |
【民青同から構造改革派造反】 |
60年後半期から61年の3月にかけて、党の構造改革派の動きに連動した新グループが生み出されることになった。民青同系の指導幹部黒羽純久全自連議長・田村・等等力らが「現代学生運動研究会」を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。ここでは、学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけ、構造改革路線に基づく独自の政治方針を掲げていた。 |
5月頃、政治的暴力行為防止法案(政防法)が国会に上程された。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。
【マル学同が全学連の指導部を掌握】 |
4.5日、全学連第27回中央委員会が開かれた。この会議は唐牛ら5名の中執によって準備され、彼らの自己批判的総括とともに、篠原社学同委員長から、「ブント−社学同の解体」が確認され、「マル学同−革共同全国委への結集」が宣言された。唐牛委員長、北小路中執らが合流していくことになった。こうしてマル学同はブントからの組織的流入によって飛躍的に拡大し、一挙に1千余名に増大することになった。これによって、全学連指導部はマル学同が主導権を握るに至った。こうしてマル学同全学連の誕生となった。 |
【ブントの分解】 |
この頃の学生運動につき、「第6期その2マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」に記す。 三分裂したブントの一部が革共同系に流れていった。この様子を見ておくこ とにする。2月、戦旗派(労対派)は、革命的戦旗派を経て、革共同全国委のオルグを受け入れ、大部分が革共同全国委へ向かった。4.20日、組織を解散させての合同決議を行ない正式に合同した。田川和夫グループはこの流れである(田川氏は、後の革共同全国委分裂の際には中核派に流れ、さらに後の対革マル戦争の路線対立時に中核派からも離党することになる)。 革通派は、 池田内閣打倒闘争の中で破産を向かえた。この派からの移行は記されていないので不明。 プロ通派も戦旗派に遅れて解散を決議し、有力指導者ら一部が合流した。ちなみにプロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏氏などがいた。「北小路・清水ら旧プロレタリア通信派は、マル学同からまだ自己批判が足らぬとされ、北小路は全学連書記長を解任された。彼らはその後遅れてマル学同へ加盟する」とある。 プロ通派の林紘義一派が独立して「共産主義の旗派」を結成するなど、こうしてブントは四分五裂の様相を呈することとなった。こうして社学同からマル学同への組織的移動がなされ、結局ブント−社学同は結成後二年余で崩壊してしまった。この時期までのブントを「第一次ブント」と呼ぶ。 |
【「政暴法」闘争 】 |
5.17日、池田政府は、「政治暴力防止法案」(政暴法)を国会に上程した。全自連も、マル学同全学連も、安保闘争の延長戦として直ちに反対闘争に立ち上がった。しかし、学生戦線の分裂が尾を引き盛り上がりが弱かった。マル学同全学連は、ただちに非常事態宣言を発して、緊急デモを国会へ向けて組織し、「5.30日にゼネストを」アピールを打ち出している。 |
6月、ウィーンでフルシチョフとケネディによる米ソ首脳会談が行われた。ベルリン問題をめぐって対立し、同年8月、「ベルリンの壁」の構築が始まる。
【春日(庄)グループ離党 】 | |||
このような状態になるに及び、党内の反対派は7.1日付けで遂に党の内外に公然とアピールを発した。千代田地区細胞(盛田勇之進・栗原・津田道夫.池田重郎・池山・深沢ら)が、綱領問題に関する意見を「日本人民と党の未来のために」の声明につけて発表した。「綱領草案は、復活した日本帝国主義と真正面から対決し、その反動的企画を阻止し粉砕しつつ、社会主義日本を打ち立てる道を日本人民の前に指し示そうとせず、それを日本革命の根本問題として提起することをことさらに回避しています」、「労働者階級の社会主義的指導性を強め、平和と中立と民主主義革新を通じて独占の支配権力を打倒していく闘いの道を指し示すという課題をも果たしていません」云々と党中央の宮顕路線化の動きを批判していた。
この時、宮顕式民主集中制について次のような疑義を訴えていたことが注目される。
ちなみに反対派代議員の組織的排除とは、春日(庄).松本惣一郎の統制委員、中野重治.神山茂夫.亀山幸三.西川彦義.内藤知周.山田六左衛門の中央委員、内野壮児.原全五の中央委員候補を決議権のある代議員から外し、決議権の無い評議員に回そうとする党中央の策動を意味している。 党中央の挑発に乗ったという観がある。 |
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【安東仁兵衛離党】 |
7.10日、安東仁兵衛も離党届を都委員会に送付した。 これに対して、党中央は、7.9日、アカハタで幹部会声明と同日の野坂談話を発表。7.10日アカハタで野坂が、「春日(庄)の反党的裏切り行為について」、 7.17日、「党破壊分子の新たな挑発について」で応戦した。今日、野坂がスパイであったことが明らかにされている。とするならば、この時党中央は、そういうスパイの指導の下に反党中央派の締め出しを行っていったことになる。その系譜にある現党中央不破−志位執行部は、この辺りをどう総括するつもりなのだろうか。知らぬ存ぜぬで頬被り為しえることだろうか、疑問としたい。その後は、全国各級機関にわたって、「反党的行為、裏切り分子、分派主義者、党破壊の策謀、修正主義者、悪質日和見主義」等々の大々的非難攻撃キャンペーンを開始した。 |
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7.15日、山田六左衛門.西川義彦.亀山幸三.内藤知周.内野荘児.原全五の中央委員会少数派が連名で、14日付けの「党の危機に際して全党の同志に訴う」声明を発表した。大会を前にして現職の統制監査委議長が離党し、中央委員グループが公然と中央批判したことは前代未聞であった。 |
![]() この一連の過程で宮顕の秘書グループの暗躍があったとされている。この宮顕秘書グループの実態暴露も急がれるところのように思われる。 |
【「新日本文学会」の党員作家.評論家グループが意見書提出】 |
7.19日、「新日本文学会」の党員作家.評論家グループは、中央委員会あてに、「中央は綱領草案の民主的討議を妨げたから、党大会を延期せよ」とする意見書を提出した。安部公房.大西巨人.岡本.栗原.国分.小林祥.小林勝.佐多稲子.竹内.菅原.野間宏.針生一郎.檜山.花田清輝の14名が連名していた。中野は意見書を勧めながら、連名しなかった。 |
【「第18中総」 】 |
7.20日、党中央は、「第18中総」で春日・山田六左衛門等7名の除名を規約を無視して決定した。この時、波多は綱領草案に対する反対意見を、神山は保留の態度をそれぞれ撤回した。党中央は、この前後に多数の地方機関役員その他を処分した。反対派への大々的カンパニアが展開された。 |
【「新日本文学会」の党員作家.評論家グループが再度意見書提出】 |
7.22日、新たに泉大八.丹原.黒田.武井昭夫.玉井.中野秀人.浜田.広末.柾木の9名を加え、国分.佐多の2名を除いた「新日本文学会」の党員グループ21名連署で党の内外に宮顕派指導部非難のアピール「真理と革命のために党再建の第一歩を踏み出そう」を発した。「今日の党の危機は、中央委員会幹部会を牛耳る宮本.袴田.松島らによる党の私物化がもたらしたものである」として、彼ら派閥指導部の指導の誤りと独裁的支配、規約の蹂躙と党組織の破壊の事実を挙げ、言葉激しく非難した。 |
【旧東京都委員会グループが、抗議声明 】 |
7.23日、野田弥三郎.増田格之助.山本正美.芝.西尾.武井ら6名の旧東京都委員会グループが、「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊に対する抗議」と題する声明を発表した。 |
【増田格之助.片山さとし等が連署で離党声明 】 |
7.24日、増田格之助.片山さとし等が連署で離党声明を公表した。山田も。各地方の反対派の離党声明や中央攻撃声明など続々と発表された。大会を前にして党主流の派閥支配に対する怒りと不満が爆発して党の分裂状況が生まれた。 |
7.24日、全国府県委員長会議。 |
大会までに発表された被告処分者は、除名28名.党員権制限9名で、被除名者には中央委員7名.中央部員2名.元都委員8名.県委員1名.理論家及び編集者グループ10名が含まれていた。その他地方組織において、府県委員以下の離党又は処分が大量に見られた。 | |
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つまり、党中央は、これほど反対派の意見を尊重したと云っていることになる。しかしながらそれは、黒を白といい含める論理であろう。「この論議を通じて春日(庄)らの反対意見の全ての論拠は完全に論破された」が、私が追跡する限り「論破された」形跡は無い。むしろ、決議であった反対意見の党報への掲載を履行しなかった党中央の態度こそ糾弾されるべきであろう。こうした詐欺的論理が多すぎる党史であることを見て取る必要がある。 |
【第二次池田内閣成立】 |
7.16日、第二次池田内閣成立。挙党一致の実力者内閣となった。大野、前尾幹事長、赤城総務会長、田中政務調査会長が党執行部入り。河野農林、佐藤通産、藤山経済企画庁、川島行政管理庁、三木科学技術庁。田中角栄はこの時43歳の若さで、初の党三役入りであった。福田が外され、田中が座った。この時の党三役は、赤城宗徳(川島派)総務会長、前尾(池田派)幹事長。「前尾、赤城というのは、素晴らしい頭脳の持ち主だが、口下手でね。僕がエンジンをかけたり、ホースを引っ張り、筒口を持って火の中へ飛び込むことになりそうだ」(私邸で)。鉄道建設審議会委員ならびに小委員長兼任。 |
この間、河野は、大野を巻き込んでの新党設立をぶち上げる時期があった。しかし、政権党である自民党を離れることの不利、不安から慎重論が大勢を占め、新党構想は立ち消えとなった。この新党騒ぎは自民党発足以来初めての分裂行動であったことになる。
そうこうしているうちに、池田は急速に「党人」派と接近するようになる。池田と佐藤の不仲が、佐藤を毛嫌いしている大野と接近させていくことになった。池田も大野に副総裁のポストを与えて厚遇した。その大野の斡旋で、池田と河野の関係改善がはかられた。河野は農林大臣として入閣し、池田、大野、河野、川島派による新たな主流派が形成され、佐藤は非主流に追いやられた。
この間、岸は派閥を福田赳夫に譲っていた。岸派嫡流の福田派も反主流となる。しかし、岸派の実力者だった川島と藤山は福田とソリが合わず、独自の派閥を形成していた。結局、岸派は福田、川島、藤山の3派に分裂することになった。
7月、第2次防衛力整備計画策定。
【全学連第17回大会】 |
この頃の学生運動につき、「第6期その2マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」に記す。 |
【社学同の再建の動き】 |
こうした新状況に遭遇して、旧ブント系活動家は、社学同の再建を目指して活動を始めることとなった。8.11日、社学同機関紙「希望」が発行され、社学同再建のアピールを行い、マル学同を批判している。「従って、学生運動の自立性を否定し、学生運動を既成のイズムの工作の対象.客体としてのみみなすものは、学生運動にとって、絞殺者であり、敵である」。京都府学連=関西ブントがこの動きの主力となった。 |
【 戦後党史第三期】/ 【ミニ第B期】= 宮顕−袴田独裁体制完了する |
第8回党大会が開催され、宮顕−袴田の独裁体制が確立された。残るは志賀系のみであったが、中国派系の動きも目障りになりつつあった。各個撃破戦術はまず親ソ連共産党系の志賀グループの追い出しへ向かうことを指針させた。これにも成功し、64年の第9回党大会はその凱歌を挙げる舞台となった。この期間を【 戦後党史第三期のミニ第C期】とみなすことができる。 |
【第八回党大会開催】 |
以上の経過を経て、7.25−31日、日本共産党第8回党大会が開かれた。このたびの党創立77周年記念講話で、不破委員長が満場一致で現綱領が採択されたと自画自賛したお気に入りの大会であるが、満場一致に至るからくりは上述のような経過を伴っていたことが知られねばならない。以下これを俯瞰してみることにする。
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【大会後の宗教的法悦プロパガンダ】 |
大会は、「工作された満場一致」で終始し、大会の終わった翌日8.1日のアカハタは、「栄光に輝く勝利の大会」という大見出しで、トップ記事にしていた。上級下級を問わず党内からの賛美一色で紙面が埋められていた。その文体の特徴として、綱領賛美返す刀で春日(庄)派への「階級的裏切り」弾劾という共通作風が見られた。いわば宗教的法悦が満展開されており、「この宗教的法悦は、異端者に対する迫害と憎悪によって補強」(志水速雄「共産党大会のパロディ及び離党の思想」・「現代思想」1961.10月号より)されていた。 幹部級の主な発言は次の通り。西沢隆二「カサブタが落ちてああほんとにさっぱりした」、壷井繁治「アメリカ帝国主義の使者か、召使か。それとも自分の野心のうつ血の中から湧いてきたウジ虫の群れか」、多田留治、鈴木市蔵、広谷俊二、高安重正らも同様なコメントを載せており、中でも下司順吉は、「上級の決定が正しいかどうか。それに従うかどうかを、個々の党員が勝手に判断する『自由』があるとするならば、決定の無条件実行の減速は否定され、革命党の機能はマヒし、解体せざるを得なくなる」と、奴隷哲学を得々と述べていることが注目される。 中野重治、神山らも消極的ながら提灯している。これらに垣間見える精神は、「全てを疑え」から始発した近代精神が、「全てを信じる」に行き着いた逢着世界の滑稽さであり、この精神を検証せずんば史実からの批判的エキスは汲み取れないだろう。 |
大会最終日の31日と8.2日の二日間「第1回中総」を開いて、中委議長野坂.書記長宮顕は再選された。中委幹部会員として野坂.宮顕.袴田.志賀.春日正.蔵原.聴濤.松島.鈴木が、書記局員として宮顕.袴田.松島.米原.伊井.安斎.紺野.土岐.平葦.高原の10名を選出した。幹部会員と書記局員を兼ねたのは、宮顕・袴田・松島の3名であった。
【宮顕−袴田体制の確立】 |
宮顕−袴田体制が確立した。流れから見ると、志賀が完全に干され、野坂も実質上棚上げされた格好となった。
これに代わって宮顕・袴田という「戦前の党の最終中央コンビ」が指導権を握り、その周辺に旧来からの宮顕忠誠派の蔵原.松島・米原.聴濤(きくなみ)、寝返り忠勤派春日正・紺野.伊井らが配置された。松島.きくなみ.鈴木.伊井.高原らは戦後組合運動の指導者として登用されていた。その他安斎.土岐度などの旧満鉄グループがおり、ともに中央主流を形成することとなった。こうして宮顕盤石体制が確立した。 全逓の共産党フラクションのトップ高原晋一が登用され、党中央の宣伝、教育、文化部長に任命された。この高原と宮顕の関係もまた宮顕−袴田関係と類似系である。 |
社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように記されている。「第七回大会から60年安保闘争をはさんで第八回大会に至る3年間は、新しい党規約を武器に、中央委員会の多数を制した宮本派がスターリニスト特有のあらゆる陰険・卑劣な手段を弄して、反対派を切り崩し、党組織を官僚的に統制し、批判を封じて自らの専制的な支配体制の確立に狂奔していった時期であった。 |
【61年当時の党の方針の特質と要点】 |
@〈世界情勢に対する認識〉について 「アメリカ帝国主義は、世界における侵略と反動の主柱、最大の国際的搾取者、国際的憲兵、世界各国人民の共通の敵となっている」と認識した上で、「アメリカを先頭とする帝国主義に反対する民族解放と平和の国際的統一戦線を、世界の反帝民主勢力の当面の基本任務」として提起した。 |
A〈国内情勢に対する認識〉について |
この宮本式理論の特徴は次のように総括評価し得る。つまり、「32年テーゼ」による二段階革命論。徳田はこれを急進主義的に取り組む。野坂はこれを穏和主義的に取り組むか又は三段階革命論的に焼きなおす。このたびの宮本式民族解放=独立運動的観点の導入は四段階革命論的であることになる。ちなみに、民主連合政府運動は五段階革命論的であり、当面の要求一致運動は六段階革命論的であり、最新の行き当たりばったり運動は七段階革命論的であるということになる。こうなると、もはや革命論の範疇であるのかどうかは自ずと疑わしい。限りない右派路線へのひた走りこそが戦後党史の流れである。 |
B〈党の革命戦略〉について |
C〈党の革命戦術〉について |
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D〈党の具体的な運動方向〉について |
【この時期の春日(庄)らの動き】 |
7.26日、第8回党大会開催中のこの日、春日(庄)らは全国世話人会を結成し、東京千駄ヶ谷に事務所を開設している。 |
8.1〜22日、ニヨト.インドネシア共産党第二議長来日。 |
8.13日、東ドイツ政府は、東西ベルリンの境界に壁を構築し始め、国民の西ベルリンへの立ち入りを禁止した。以後、東西ベルリン間に半永久的な堅固なコンクリートの壁が作りあげられた。これが有名な「ベルリンの壁」である。ベルリンの壁は、1989年11月9日に開放されるまで続くことになる。
この背景にあったものは、生活水準の低い東ドイツから、経済生活が豊かで自由を享受している西ドイツに向かっての難民流出が急増したことであり、西ドイツへの亡命によって労働力が不足し、経済が停滞することを恐れ、これ以上の亡命・逃亡を防ぐために措置された。ドイツ分裂以後の10年間に、西ドイツへ亡命した東ドイツ国民の数は250万人以上の多数にのぼると言われている。ベルリンの壁構築後も、東から西へ逃亡を企てる者は跡を絶たず、壁を越えて西ベルリンへ逃亡した者も約5000人にのぼると言われている、しかし、その一方で約80人が逃亡に失敗して命を落としている。
【社会主義協会第2回全国総会】 |
8月、社会主義協会第2回全国総会。社会主義協会が、その創立の月標としてかかげた日本におけるマルクス主義の理論と実践の統一を具体化するために、実践的課題にこたえるための理論闘争を展開する組織に成長しなければならぬこと表明した。これは、社会主義協会の大きな前進を意味した。したがって、社会主義協会員が社会党内にありて、社会党強化の使命を担うことはとうせんであり、この意味において社会主義青年同盟の質的、量的な成長を支えることも、わが協会のとうぜんの義務である。社会党と社会主義青年同盟の一部に影響をもちはじめたいわゆる「桶造改革論」をつよく批判し、理論的、実践的に、これを克服する努力に全力をあげた理由も、ここにある。同時に、社会主義運動内に巣食う極左主義者とのたたかいも、ゆるがせにすべきものでないことを自覚している。 |
8.18日、党員学者グループが再び「革命運動の前進の為に再び全党に訴える」を発表している。 |
【党による民青同のベルト化】 |
この頃の学生運動につき、「第6期その2マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」に記す。 党は、第8回党大会開催後のこの頃、「民青同第6回大会、第7回大会路線」を、第8回党大会で強行決議された党綱領によって修正するよう指示し、 従わない同盟幹部を排除し、民青同を共産党のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置(ベルト)に替えた。明らかな党による民青同の引き回しであったが、これにより民青同の党に対する盲従が惹起し青年運動に大きな桎梏となっていくことになった。 第8回党大会で採択決議された党の綱領が「民族独立民主革命」を明確に戦略化させたところから、社会主義を目指す闘争は抑圧されるか後退することになった。日本における社会主義の展望、客観的必然性を青年に示し、日常の闘いと社会主義への志向とを結びつけることを拒否する傾向が強まり、社会主義について沈黙を守る雰囲気が支配的になった。これは、党が民主主義的「改良・改革」を「革命」と規定するというすり替えから発生しているものと思われる。「二つの敵」を経文のように繰り返すことにより、イデオロギー活動が不燃化させられる要因となった。その結果、同盟員の理論的水準は低下し、その下部組織はサークル化傾向に沈潜していくこと となった。宮本の指導になると、なぜこうまでして青年運動の自主性を削ぎ、社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろうとの疑問が涌くが、こういう観点を共有するものは少ない。 |
【ソ連の核実験再開とこれに伴う混乱】 |
8.31日、ソ連は58年から停止していた核実験を再開した。平和擁護運動は混乱に陥った。それまでソ連を平和の砦としていた日本の左翼内にあった傾向からして大いに当惑させられることとなった。日本共産党はソ連核実験の支持声明を出した。 |
【「青学革新会議」結成される】 |
9.29日、春日(庄)ら構造改革派の青年学生組織として青年学生運動革新会議(青学革新会議)を結成した(10.6日ともある)。党8回大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党.除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心とした。「共産主義的青年学生同盟の結成を目指して」という宣言を発表した。全自連グループのうち早大・教育大・神戸大・
立命館大・法政大・東大などで呼応した。第8回党大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党・除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心としていた。 |
【日共が朝鮮、ソ連、中国を訪問】 |
9.5−11.3日、宮顕書記長ら、朝鮮、ソ連、中国を訪問。 |
9.18−21日、インドネシア共産党アイジット中央委員会議長来日。野坂議長と党本部で歓談。 |
【春日(庄)ら離党組が「社会主義革新運動(社革)」結成】 |
10.7−9日、前年の日本共産党第8回党大会前後の経過で「反党分子」として除名され集団離党することとなった春日(庄)ら離党組は、社会主義革新運動(社革)準備会の創立総会を開いた。議長春日(庄)・副議長山田六左衛門.事務局長内藤知周を選出した。 |
【ソ連共産党第22回大会開催】 |
10.17−31日、ソ連共産党第22回大会開催。党代表団団長野坂議長が出席。新党綱領が採択され、1903年の第一綱領、1919年の第二綱領に次ぐ第三綱領として「共産主義社会建設の綱領」とされた。共産主義の移行について、概要次のように述べられていた。@・1961―70年の10年間で、ソ連は人口一人あたりの生産高で米国を追い越す。A・次の71―80年の10年間で、共産主義の物質的・技術的基礎が造り出され、共産主義社会が基本的に建設される。B・共産主義社会の建設はその後の時期に完全に完了する。つまり、早ければ、80年代にも、完全な共産主義が実現されると喧伝された。又、新綱領は、ソ連がプロレタリアート独裁の国家から全人民国家になり、党も全人民の党になったと規定した。 |
10月、「旭川学テ事件」発生。全国学力テストの実施を阻止しようとした教師ら4名が公務執行妨害で起訴される。
11月、第一回日米貿易経済合同委員会が箱根で開催。貿易.為替の自由化が急速に進められることになった。
11月、「文化評論」創刊。 |
【三一書房の竹村一編集部長除名される】 |
11.20日、「日本読書新聞」に、三一書房の竹村一編集部長による党中央の出版妨害事件批判文が掲載されている。それによると、樺美智子氏の遺稿集「人知れず微笑まん」の出版を計画していた。これに党中央が「党と労働者階級に損害を与え、出版は好ましくない」と横槍が入り、党員である竹村に圧力がかけられた。これに対し、武村氏が「日本読書新聞」に「この本がどうして党と労働者階級にどのような損害を与えたのであろうか。具体的に教えていただきたいものである。被害妄想もほどほとにしないと何がなんだかさっぱり分からなくなる。具体的な損害の事実を抜きにして、気にくわない本はすべて党と労働者階級に損害を与えたという最大限の形容を使えば、読者はびっくりするとでもおもっているのだろうか」。この結果、竹村は党から除名された。 |
12.3日、宮顕書記長、綱領問題の報告をまとめた「日本革命の展望」を出版。 |
【党勢拡大運動の指令】 |
12.18−20日、「第2中総」において、参議院選挙をめざす当面の任務の採択、8回大会の党勢拡大2カ年計画に基づき、9回大会までに10万党員を37万に増やす目標を定め、中間目標として62年中に15万に増やすことにする。 |
12.29日、アカハタ主張、「国際共産主義運動の団結のために、二つの敵とたたかい抜くために」を発表。 |
【新日本文学会騒動】 |
12月、新日本文学会第10回大会で、武井昭夫が事務局長、大西巨人.針生一郎らが常任幹事となり運営機関を掌握した。反党的立場で活動することとなった。 |
(私論.私見)