第21部 1960年当時の主なできごと.事件年表
空前絶後の安保闘争闘われる。その余波

 (最新見直し2005.10.30日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第5期その3、「60年安保闘争」、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離」に記す。

【党内外からの中央批判や集団離党相継ぐ】 日本の左翼運動の歴史に置いて、はじめて党の権威を全く無視した自由な論議と批判が展開された。1−2月共同印刷.鋼管川鉄と並んで三大拠点細胞とされていた三菱長崎造船所細胞の大多数が離党した。
1.16 【羽田デモ事件】岸首相の渡米阻止の為の大衆運動計画が立てられるや、党中央はこれに猛然と反対を唱え、全都委員.地区委員を動員して、組合の切り崩しをはかった。この為全学連が独自行動にでて、約700人が羽田空港ロビーを占拠するという羽田事件がおこるや、再びトロッキストの挑発行動として大々的に非難した。知識人によって羽田事件の犠牲者の救援運動が始められるや、当中央は発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかった。関根.竹内.大西.山田.渋谷などの人々が発揮人をとりさげざるを得なくされた。これらの知識人は後々党中央に対する激しい批判者となった。  
1.19 ワシントンにて日米新安保条約調印。ワシントンで、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印された。
1.20 緑風会解散、参議院同志会となる。
1.22 「第8中総」、当面の安保闘争と統制拡大についての決議を採択。「安保改定に反対して、アメリカ政府、岸内閣に抗議し、国会に請願する署名運動を積極的に全国的な運動として展開」することを決定した。  中央に返事を出した下部組織が50パーセント足らずとして、返事運動を一層強化する。
1.24 民主社会党大会。委員長に西尾末広、曽弥益書記長を選出。社会党を離党した社会党内右派の西尾派と河上派の一部が集まっていた。
1.25 三井鉱山が三池炭鉱にロックアウト、労組は無期限ストに突入。
2月革共同全国委員会責任者黒田寛一が機関紙前進を発行。  
2.2 「安保国会」が幕開け。野党側が鋭く政府を追及した。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げた。
3.2 −3日「第9回中総」。日本民主青年同盟の拡大強化のための新しい方針を決定。同盟の飛躍的発展を助ける。同盟は、この新方針に基づき6月「第6回大会」を開催、「青年同盟の呼びかけ」と「規約」を採択し、同盟の基本的性格と任務を確立した。
3.10 アカハタ主張で、アイゼンハワーの来日反対闘争を提起。
3.17 三池労組が分裂し、第二組合作られる。
3.23 −24日社会党第18回臨時党大会。委員長に浅沼稲次郎、江田三郎書記長を選出。
3.29 三池闘争、第一組合員久保清が暴力団員に刺殺される。
4月 韓国.50万デモにより李承晩大統領辞任。
4月 中ソ論争始まる。
4.3 4.3日アカハタ日曜日も発行、完全日刊化、同日曜版10ページ建てとなる。
4月 【国会請願デモ開始される】4月からは全国の地域安保共闘組織を総動員して、波状的な国会請願デモを開始した。党は全国1700共闘組織の64パーセントまで正式加入して指導権を強める。戦闘的な学生.青年.労働者の行動と党の幅広行動との対立次第に激化する。東京では全学連からお焼香デモの非難あがる。
4.5 −9日「第10回中総」。「三井三池労働者の英雄的闘争の勝利のために全民主勢力の奮起を訴える」を採択。党は、全国の党組織に三池闘争への取り組みを指示し、延べ数千の活動家を現地に派遣して、大量支援の体制を作った。
4.13 大型宣伝車第一号が完成。安保闘争に威力を発揮。
4.16 新安保批准阻止全国婦人大会。
4.17 党主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」開く。
4.20 東大教授ら353名、安保反対の声明。 
4.26 第15次安保阻止全国統一行動。10万人の国会請願運動が行われた。全学連主流派、警官と衝突。
4.28 沖縄の革新系団体、沖縄県祖国復帰協議会結成。
5.1 第31回メーデー。安保粉砕、国会解散、岸内閣退陣の要求を掲げて500万の大デモが全国各地で行われた。
5.5 ソ連政府は、領空に進入したアメリカのスパイ機2機の撃墜を発表。
5.12 第16次全国統一行動。460万の参加。ストライキ、職場集会、デモ、請願書名運動が展開された。連日数万の国会請願デモ続く。 5.15日党主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」開く。 衆議院での安保条約承認採決を阻止しようとして連日のように数万の国会デモが続いた。 
5.12 新安保条約強行採決される
5.14 安保改定阻止国民会議第2回国会請願デモ=10万人、請願署名4月26日以来1,350万に達する。
5.19 国会、日米新安保条約を巡る会期延長を強行採決。政府と自民党は会期を延長し、深夜から20日未明過ぎにかけて新条約を強行採決した。この時自民党は警官隊.暴力団を院内に導入した。国会は1万人のデモ隊で包囲されていた。清瀬一郎衆議院議長、国会に警官500人導入、座り込みの社会党議員を排除→午前零時(暁の国会)、安保条約改定を強行採決→国会空転、連日国会周辺にデモ隊。
【安保反対デモ巻き起こる】 これより1ヶ月間、、新安保条約批准阻止.内閣退陣.国会解散の為のみぞうの全国的な国民闘争が展開していった。
5.20 全学連主流派→首相官邸に乱入、警官隊と衝突。
5.21 全国各地からデモ隊が続々上京。
5.26 安保阻止国民会議は「岸内閣打倒、国会解散」行動に入る
5.31 幹部会が、「国会を解散し、選挙は岸一派を除く全議会勢力の選挙管理内閣で行え」声明を発表。この日政府閣議で、中曽根が「アイク訪日延期要望」発言。
6.1 社会党代議士が議員総辞職の方針を決定。
6.4 第17次統一行動は国鉄労働者を中心に全国で560万人の参加。安保改定阻止の政治ストライキ。
6.6 全国地方局長会議
6.10 【 「ハガチー事件」発生】ハガチー(大統領新聞係り秘書)は、羽田空港で労働者.学生の数万のデモ隊の抗議に出迎えられた。ハガチーの乗った車はデモ隊の隊列の中に突っ込み、米軍ヘリコプターと警官の救援でやっと羽田を脱出、裏口からアメリカ大使館に入るという珍事件が発生した。  
6.11 23万5千人が国会、米大使館へ抗議デモ。
6.14 三井三池炭鉱で労使激突(「海戦」)→「去るも地獄、残るの地獄。
6.15 安保改定阻止の政治スト第二波全国ストが遂行された。東京では、15万人の国会請願デモ、全国580万参加。
6.15 【安保阻止国民会議統一行動で全学連デモ隊が国会に突入。樺美智子圧殺事件発生と余波】社学同の学生たちを中心に数千人の国会突入が為された。この最中に樺美智子が死亡する事件が起こった。樺美智子事件の衝撃でアイク米大統領らの訪日は中止となり、国会デモはその後更に33万という史上最大の動員数を示した。安保改定阻止国民会議第18次全国統一行動、全国で580万人が参加→全学連主流派4,000人国会構内に突入、機動隊と激突、東大生樺(かんば)美智子死亡、負傷者1,000人以上(「6・15事件」)。
6.16 臨時閣議、アイゼンハワー米大統領の訪日延期要請を決定。
6.17 社会党顧問川上丈太郎が右翼に刺され負傷。
6.18 30万人が国会包囲デモ。
6.19 【日米安保条約承認、成立】午前零時新安保条約が参議院通過、自然成立。国会と総理官邸はデモの波の中に沈んでいたが、自衛隊の出動を見ることもなく、事故なく終わった。
6.20 −25日ルーマニア労働者党第3回大会に米原中央委員が出席。大会参加の各国代表の会議でのフルシチョフの中国非難に同調せず、自主的態度をとる。
6.22 600万。 党は、党組織を大挙動員する。 6.22日政治スト第3波600万人、国会請願デモ10万人。
6.23 新安保条約の批准書交換、岸首相が退陣の意思を表明。新安保条約は国会で自然承認され、発効した。
6.23 6.23日夜、全学連主流派学生250人が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任があるとしたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。
この頃岸は辞意を表明。自民党内は後継人事に揺れることになった。池田、大野伴睦、石井、藤山愛一郎、松村らの面々が候補となった。池田.大野決戦が予想され、池田優位といわれた。
6.24 江田社会党書記長、後に構造改革路線に発展してゆく「護憲・民主・中立の政府樹立」構想を発表。
6.27 −29日日本民主青年同盟第6回全国大会。 同盟の新しい性格と任務を決定。
6.29 −7.1日「第11中総」、当面の安保闘争の発展と党建設についての幹部会報告を確認。訴え「愛国と正義の旗の下に団結し、前進しよう」などを採択。「安保反対の民主連合政府」を提唱。第8回大会を総選挙後に延ばすことに決定し、党員倍加運動に全党あげて取り組むことを決定する。
7.5 −6日の全国都道府県委員長会議において、山口県委員長の原田長司が、わずかに反中央的な発言をしたが、たちまち中央主流の松島から反撃され、つるしあげをくらう始末だった。 
7.14 岸首相右翼に刺され負傷。党大会が開かれ、総裁決戦は池田対石井となった。開票の結果、501票中、池田320票の絶対多数を獲得し圧勝した。
7.15 第二次岸内閣総辞職、 第一次池田勇人内閣成立。池田を支えたのは、大蔵省以来の同僚で盟友の前尾繁三郎、大平正芳、黒金泰美、宮沢喜一、鈴木善幸、その他の秀才達であった。池田は、「私の任期中は件法改正も再軍備もしません」と声明した。まず経済復興からというのが信念であった。
7.18 宮本書記長、「三井三池の闘争に全党から応援隊を」と呼びかける談話を発表。
7.19 【池田内閣成立】(第4代自民党総裁池田勇人→低姿勢内閣=「寛容と忍耐の精神」→所得倍増計画=10年で所得を2倍にする→憲政史上初の女性大臣誕生=中山マサ厚生大臣)
7.31 −8.1日「第12回中総」。社会主義諸国.労働者党代表者会議に関するコミュニケに関する声明の採択。
8.3 −5日全国活動者会議。第11中総決定の実践、党員倍加達成目指す。日本足の活動の定式化。
8.4 13中総「社会主義諸国共産党、労働者党代表者会議に関するコミュニケにかんする声明」発表。
8.17 −18日「第13回中総」。当面の農業.農民政策と農民運動方針の決定、選挙綱領の採択。
9月 清水.浅田.三浦.香山らが「共産党の犯した重大な誤りについて徹底的な批判」を加え、非共産党の新左翼への結集を呼びかける「現代思想研究会」が発足した。
9.29 中央委員会主催の初の中央人民大学講座始まる。
10月 社会主義青年同盟結成大会。社会党の青年運動として誕生した経過があるが、階級的な青年運動を志向していた。社会党内の左派的潮流を形成していく。
10.2 日第2回あかはた祭り。武蔵野市、3万人。
10.12 社会党浅沼委員長が、日比谷公会堂で三党立会演説会中に右翼に刺殺される。暗殺現場、テレビで生中継。
社会党・江田三郎書記長、トリアッチ路線に範をとった構造改革路線を提唱。左派の「改良主義批判」によって葬り去られる。
10.20 第23次全国統一行動、全国40カ所で新安保反対.浅沼暗殺抗議全国大会。
10.24 衆議院解散→安保解散」=「与野党間のまれにみる『暗黙の了解』による整然とした解散」。
10.26 各地方局代表会議
11.10 −12.1日「81カ国共産党.労働者党代表者会議」に党代表団団長宮本書記長.袴田.西沢富夫.米原が参加した。予備会議と本会議を通じて国際共産主義運動の諸問題について討論が行われた。共産党.労働者党代表者会議の声明及び全世界諸国人民への呼びかけが全員一致で採択された。
11.20 11.20日第29回総選挙。党は、115万票2.9%、3名当選(大阪1区志賀義雄.同2区川上貫一.京都1区谷口善太郎)。自民296、社会145、民社17、諸派1、無所属5名当選。
11.24 第29回衆議院議員総選挙。
12.8 【第二次池田内閣成立】
12.18 −28日「第14回中総」。総選挙の結果と当面の任務を採択。共産党.労働者党代表者会議の声明及び全世界諸国人民への呼びかけに関する決議を採択。
 「第14中総」は、選挙結果の評価で意見が対立した。「総選挙の結果と当面の任務」を決議したが、その採決では、中野.西川.亀山.神山の4人の中委が保留を表明し、ここに満場一致という13中総までの中央の先例が破られた。
12.20 南べトナム民族解放戦線結成。
12.27 12.27日池田内閣は、閣議で国民所得倍増計画を決定した。高度経済成長政策。  


【日米安保条約の改定問題の政局浮上】

  59年から60年にかけて、日米安保条約の改定問題が、次第に国民的な課題となって押し出されつつ急速に政局浮上しつつあった。日米安全保障条約(旧条約)は、1951.9月のサンフランシスコにおいて対日講和条約と同時に調印されたもので、アメリカの対日防衛義務を明記しないままに日本にアメリカの軍事基地を許容する内容を含むものであり、アメリカ主導の性質を濃厚に帯びるものであった。日本の防衛負担の中身も明らかでなかった。

 政府自民党は、旧条約を不平等条約とみなして、日米の関係を片務的なものからより双務化し、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善し自主性を高める為の改定であると宣伝した。事実、政府自民党は、1955年、鳩山内閣の時既に重光外相が訪米し相互防衛条約におきかえたいと提案している。1957.6月には岸首相訪米時に、アイゼンハワー大統領と会談し、安保条約改定の要望をうちだしている。1958年の藤山−ダレス会談の交渉を積み重ねながら、日本の防衛に於ける主体性を回復しようとしていた。それが日本側の要請かアメリカの狙いであったのかは真相は藪の中である。

 
日本左派運動は。政府自民党の論理を拒否した。新安保条約が、米軍の半永久的日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で一層日米緊密化に向かうものであり、何より戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条に違背することを問題視した。

 この時岸首相は、ここのところの論議を避けて強権的に日米安保条約の改定に向かおうとしていた。これが反発を余計に生んでいくことになった。藤山外相とマッカーサー大使の間の日米安保条約改定交渉は1.6日に終了し、岸首相が渡米して調印するばかりとなった。仮に無事調印されたとなると、内閣の責任によって外国政府との間で締結した条約案はその時点で有効である。国会には「修正権はない」とするのが通説であり、承認するか、しないかの二者択一しか権能は無い。さて、どうするかということが課題となって急速に浮上した。

 国民会議は一度は羽田動員を決定したが、野坂・宮顕コンビの率いる日共が羽田動員闘争に反対指導し始め、金属執行部の党員を呼びつけて「総評が本気になって、第二地評をつくろうとしているから、跳ね上がるべきでない」と恫喝をかけ、そうした変調指導で金属協議会、地区共闘がガタガタに切り崩された。された。結局、日共と総評が羽田動員に尻込みし始め、国民会議幹事会で否決されることになった。

 東京共闘会議は1.12日に羽田抗議集会実行委員会を結成することを決めた。この決定は社会党の浅沼らに伝えられたが、彼は、「党としては、国民会議の線をはずれることは出来ないが、議員個人が大衆と結びついて活動するのは当然だ。大いにやってくれ」と激励した。共産党の対応に比べると、社会党のらしき良さであったと云える。


 1.12日、警視庁公安一課三井は、全学連書記局に赴き「実力阻止を思いとどまるように」と異例の説得に来ている。

【この時の共産党その他の対応】

 1.14日、アカハタは「16日にはデモの形で羽田動員を行わないとする国民共闘会議の決定を、これを支持する我が党の方針は、多くの民主勢力によって受け入れられている」声明を発表している。

 1.16日、岸全権団の渡米阻止のための大衆運動計画が立てられるや、党中央は、信じられないことだけども、岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて、全都委員・地区委員を動員して、組合の切り崩しを はかったという史実がある。次のような詭弁を弄し、穏和な送り出し方針をいち早く打ち出している。

 「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」(アカハタ.60.1.13)。

 総評も羽田闘争の取り組みの中止を機関決定した。革共同も社学同反対派の名で羽田動員に反対した。安保改定阻止国民会議は、いったんは「大規模なデモで岸以下の全権団の渡米を阻止する」方針を決めながら、二日前になって、社共両党.総評幹部などの判断でそれを取り消し、盛り上がる下部を押さえにかかった。昨年末の「11.27の国会乱入を再現しては困る」配慮からであった。これを「幹部の裏切り」と怒ることは出来ても、行動で示すことは出来なかった。

(私論.私観) 宮顕の典型的な詭弁ヌエ論理について

 考察されることが皆無であるが、この時のアカハタ主張「「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」とは何なんだろう。@・選出代表団で、A・秩序整然とくれば何もしないという意味である。ところが、B・人民の抗議の意志を彼らにたたきつけることとなる。つまり、言葉尻だけの戦闘性であるが、この調子のペテン論理に騙されてきたのが宮顕党中央内の党員であるということになる。


【「羽田デモ事件」】

 この頃の学生運動につき、「第5期その3「60年安保闘争」、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離」に記す。

 全学連指導部は唯一その怒りを引き受け、実際行動で示そうとした。この時ブントは必死になって情勢を読み、見通しを論じた。戦術如何では全学連内に分裂傾向が深まることもあり得た。しかし、ブントは決断した。「社共の裏切りが大衆的な怒りを呼び起こしている現状では、何をやっても『浮き上がる』恐れはない。最高の闘争形態をとるべきだ。ブントが全員逮捕されても、それは安保闘争を進めることになっても、停滞させることにはならない」と結論した。この時のことを島氏は、後年「全国各地から同盟員を集め、殆ど組織を裸のままぶつけたこの闘い」、「それは従来の常識からすれば冒険主義と非難されるに値するものであったろう」、「左翼公式戦術から見るなら邪道そのものであった」とも述懐しているが、この時ブントはまなじりを決したのである。

 こうして全学連は、社共の見送り方針を一顧だにせず、岸渡米阻止羽田闘争を独自行動として取り組んでいくことを決定し、跳ね上がりを押さえようとする共産党の動きをはねのけて都内各自治会に緊急動員指令を発し、15日夕から全学連先発隊約700人が羽田空港ロビーを占拠、座り込みを開始するという「羽田デモ事件」を起こした。警備側との動員競争でもあった。7時過ぎには、空港ロビーに「共産主義者同盟東大細胞」などの旗がなびき、デモが渦巻いた。後続部隊も続々と羽田へ羽田へと向かった。「春闘には絶望あるのみ、一切の展望は1.16の羽田から切り開かれる」という決意の下になだれこんでいった。これに対し、午前3時2000名の機動隊が突撃した。この闘争で唐牛委員長、青木ら学連執行部、生田・片山・古賀らブント系全学連指導下の77名が検挙された。樺美智子も逮捕されてい る。

 「生田夫妻追悼記念文集」は、次のように述べている。

 「あれほど慎重で思慮深く、10年間党指導者としていつも大衆を扇動しながら一度も逮捕されたことのない生田が、羽田闘争では『絶対にパクられるな』との指導部の決定もどこへやら、いい気になってデモ隊に加わり、挙げ句はジュズつなぎになって生まれて初めて豚箱に入る破目になったのも、偶然とは思えない。それまでの彼の思慮を踏みにじってしまうような熱気が、自分の中に涌いてくるのを抑えることが出来なかったのであろう」。

 朝5時半、更に増えた学生と労働者は約2000名となり、振り出した雨の中を第一京浜国道で激しくデモを展開した。これに機動隊が突っ込み夜明けの乱闘となった。多数の負傷者が出た。この間岸首相は裏側通用門から空港に入り飛び立った。以上が概略である。この羽田闘争こそが、その後の全学連の行動類型を定めることになった、つまりヒナ型になったという点で見逃すことが出来ない。

 たちまちにして「世論」はこの全学連の闘いを袋たたきにした。良識左翼人は、「赤い雷族」と批判した。マスコミからも「ハネ上がりども」(毎日新聞)、「革命気違いども」(読売新聞)、「赤い暴れん坊」(日経新聞)、「ヤクザ学生運動家」(朝日新聞)、「政治的カミナリ集団」(週間朝日)、「角帽革命の参謀本部」(週間読売)等々と酷評された。社会党・総評は、統一行動を乱す者として安保共闘会議から全学連排除を正式に決定した。羽田事件後、党は、全学連を「トロツキストの挑発行動・反革命挑発者・民主勢力の中に送り込まれた敵の手先」として再々度大々的に非難した。革共同も、「一揆主義・冒険主義・街頭主義・ブランキズム」などと非難している。

 他方、一部の知識人からは、全学連が突出させざるを得なかった既成組織の指導性の無さに目を遣る指摘も為されていた。中でも清水幾太郎氏は、全学連を安保闘争の「不幸な主役」と命名し、「全学連のおかげです」と発言して熱烈なエールを送った。

 しかし、島氏は次のように云い為している。

 「我々だけが日和見的な日共と国民会議を乗り越えて戦い、岸渡米に打撃を与えた」。
「全く新しい大衆闘争の現出だった。明らかに私たちブントの闘いによって、政治にとって、安保闘争にとって、人民運動にとって流動する状況が生まれたという確信である。長らく社・共によって抑圧されていた労働者大衆が、これをうち破った全学連の行動を通して、新しい政治勢力としてのブントの像をはっきり見たに違いないという実感である」、「私達は、政治というものが、決して政治家の予測するような漸進的な仕方で動くものではないことを知っていた。政治が流動化するとき、常々は保守的な大衆がいったん動き出した時、それはいかなるものをも乗り越えて進むものだと云うことを確信していた。この機会を逃すような政治組織、自らの勢力拡張の為にのみ闘いを利用し、それを押し止めたり、おののいたりするような既成政党−まさにこのようなものに反逆すべしして私達の組織をつくったのだ。だからこそ、大衆の流れがまさにせきをきって迸(ほとばし)らんとするとき、私達は賭けたのだ。これに堪えられぬ組織は、それだけで死に値するものなのである」。

 知識人によって羽田事件の逮捕者の救援運動が始められるや、党中央は、逮捕された学生の救済を拒否し、弁護士の支援活動を制約した。発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかり、関根・竹内・大西・山田・渋谷 などの人々が発起人を取り下げざるをえなくされた。これらの知識人は後々党中央に対する激しい批判者となった。

(私論.私観) 60年安保闘争の際の共産党の果たした役割について

 安東氏は次のように述べている。

 「11.27から1.16に至る緒戦において、闘うエネルギーを封じ込める上で日共中央の果たした役割は大きかった。それは、その時々の情況によって揺れ動く総評・社会党指導部の姿勢とは違って、まさに一貫していたといってよい。そしてこの基本姿勢は安保闘争の全期間を通じて、不動であった」。

【日米新安保条約調印】
  1.19日、日米新安保条約がワシントンにおいて、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印された。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為のものと宣伝した。新条約は有効期限を10年間と定め、日本の自立を認めた上で「アメリカ陣営内における集団的自衛」をうたっていた。さらに、旧条約が内乱や騒擾鎮圧に関して米軍の出動を規定していたのを改めていた。独立国家の面子に関わる規定であったので削除した。しかし、調印された新安保条約は、米軍の日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという面も持っており、この部分が岸の高圧的な政治姿勢と重なって国民に不安を与えることになった。

 この条約を客観的に見た場合、51.9月の吉田首相の調印した条約の是正に功があり、より相互性を持たせたものであった。米側の日本防衛義務と日本側の呼応義務を明記していた。このことが「日本が戦争に介入ないし巻き込まれる危険性が増大」したと判断された。かくてこれ以降は、調印阻止から批准阻止へと、その目標をシフト替えしていくことになった。

 1月、貿易・為替自由化の基本方針が閣議決定された。


 1.22−26日、党は、「第8中総」を開催し、「当面の安保闘争と組織拡大について」の決議を採択。「安保改定に反対して、アメリカ政府、岸内閣に抗議し、国会に請願する署名運動を積極的に全国的な運動として展開」することを決定した。中央に返事を出した下部組織が50パーセント足らずとして、返事運動を一層強化する。

 1.23日、アカハタは、「トロツキストの挑発と破防法による弾圧企図について」という長文論文を発表し、概要「羽田におけるトロツキストの挑発行動は、破防法を政府が改めて持ち出し、民主勢力を弾圧する道具に使う口実を与えた」として全学連を攻撃した。


 1.24日、人民中国外交部は、「軍事同盟条約の調印は、日本軍国主義が既に復活したことのしるしであり、日本が既にアメリカの侵略的な軍事ブロックに公然と参加したことのしるしである」と論評した。

【革共同全国委が機関紙「前進」発行】
 この頃革共同全国委員会派は、全学連主流派の有力幹部たちをも包含しつつ勢力を扶植しつつあった。2月に革共同全国委員会は責任者黒田のもとに機関紙「前進」を発行した。 

【党内外からの中央批判や集団離党相継ぐ】

 この頃、党内では、党の安保闘争の指導ぶりをめぐって論議が巻き起こり、党中央批判が展開された。日本の左翼運動の歴史において、はじめて党の権威を全く無視した自由な論議と批判が展開された。

 1−2月、共同印刷.鋼管川鉄と並んで三大拠点細胞とされていた三菱長崎造船所細胞の大多数が離党した。その中心分子は、共産党は今や理論的にも実践的にも革命政党としての失いつつあると宣言。自ら「長崎造船社会主義研究会」なる自立組織をつくり、ブントへの結集の動きを見せ始めた。こうした現象は中央から地方に、インテリ党員から労働者党員へと急速に広がり、学生細胞・全国有力大学の学者党員・官公労民間経営から離党・脱党が相次いだ。こうした現象は中央から地方に、インテリ党員から労働者党員へと急速に広がり、学生細胞.全国有力大学の学者党員.官公労民間経営から離党.脱党が相次いだ。


【この頃の社会党内の動き】

 この頃の社会党内の動きについて、高見圭司氏は、「55年入党から67年にいたる歩み」の中で次のように述べている。

 「西尾追い落しの急先鋒は青年部であった。党全国大会の前に開かれた青年部大会では、西尾除名の決議案が多数で採択されていた。当時、佐々木派の江田三郎氏は青年部の部屋にやってきて、断固西尾を叩かねばならぬと言ったものである。その江田氏が今や民社党との連合を考えるとは。五九年から六〇年の間、当時社会党中央執行委員であった西風勲氏と青年部長の仲井富氏らが指導して日本社会主義青年同盟(=社青同)結成の精力的な準傭を推し進めていた。この組織化の理論的指導は、多分に清水慎三氏に負うていたのである。社青同の綱領に記されている路線としての“反独占、社会主義”というのは清水氏に負うところが強いと思う。清水氏と西風氏との当時の関係は師弟の間柄と云っても良いくらいであろう。六〇年安保闘争の大衆の波の中には、社青同は未だ結成されていなかったけれども、その真新しい旗だけはいつも走りつづけていた」。

【民社党結成】
 この頃の動きは次の通りである。1.24日、岸全権団が帰国。自民党が1万5000名で歓迎集会を開いている。この日東京.九段会館で社会党右派の西尾末広らが社会党を離党し、新党として民主社会党(民社党)が結成されている。委員長に西尾末広(69才)を選出。社会党内右派の西尾派と河上派の一部が集まっていた。民社党は、「資本主義と左右の全体主義と対決する」という綱領を掲げ、実践的には「マルクス主義と一線を画して議会政治の徹底」を意図し、衆院38、参院16の勢力で発足した。

 西尾氏は、「民主社会主義の理想を実現する政党、現実政治を担当する政党として速やかに成長しなければならない。同志諸君と共に5年以内に民主社会党の政権を樹立することを誓いたい」と宣言した。十日後の2.3日の結党記念講演では、「政権を取らない政党はネズミを取らないネコと同じだ。我々は無産党的な社会党のカラを破って国民勤労大衆のための国民政党になる自信がある」と、政権獲得への強い意欲を表明した。後に第7代委員長の大内啓吾氏は、「野党は抵抗政党と言われた頃、我々は政策でリードしようと思った。互角の政策を持った政党同士が競わなければ、本当の民主政治は実現しない。日本はまだ、その手前だ。西尾先生の思いは今も生きている」。

 この時のどの時点でかは不明であるが、社会党の佐々木更三委員長は、階級的政党を自認し、社会主義革命を目指しており、「民社党が働く人の力を弱めている。『国民政党』とは無性格であり、資本主義体性内の政党、第二保守党的だ」と批判している。

 学生組織として「民主社会主義研究学生連合」が結成された。
 2006.7.18日、「共同通信社ワシントン支局」が、民主党結成の舞台裏に付き、「左派弱体化へ秘密資金  米CIA、保革両勢力に」なる記事を発信した。記事は次の通り。

 【ワシントン18日共同】米中央情報局(CIA)が1950年代から60年代にかけて、日本の左派勢力を弱体化させ保守政権の安定化を図るため、当時の岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者と、旧社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に秘密資金を提供、旧民社党結党を促していたことが18日、分かった。

 同日刊行の国務省編さんの外交史料集に明記された。同省の担当者は「日本政界への秘密工作を米政府として公式に認めたのは初めて」と共同通信に言明した。

 米ソ冷戦が本格化した当時、日本を反共の「とりで」にしようと、自民党への支援に加え、左派勢力を分断する露骨な内政干渉まで行った米秘密工作の実態が発覚。日本の戦後政治史や日米関係史の再検証にもつながる重要史実といえそうだ。

(私論.私観) 「民主党結成の舞台裏にCIAの影あり」について

 そういうことである。

(私論.私観) 民社党の党是的評価とこの時期に結成された背景、左派運動史的意味について

 大内啓吾氏の言にある如く、「政権与党を狙う左派政党の民主政治的意義による民社党の党是」評価はあらためて検証されねばならないと思われる。問題は、こういう政治的エポック期を前にしての社会党の分裂化の流れであり、これを自然な流れと見なすよりも、これを誘導した当局の意図をも見なければならないと考える。明らかに計画的に作り出された社会党のひいては安保反対闘争の弱体化政策であった面もあるように思われる。

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように見ている。

 「1955年の社会党の統一は左右両派の全く無原則的な野合であり、両派の対立がいつ吹き出して再び分裂してもおかしくない党内事情にあった。果然、安保闘争をめぐって安保・自衛隊容認の最右翼・西尾派が脱党、60年1月には民社党(衆院41名、参院18名)を旗揚げした。民社党がその後、支持母体の同盟とともに、資本の労働者支配の先兵の役割を果たしてきたこと、そして今では旧社会党右派のクズどもと一緒になって民主党に転がり込んでいることは周知の通りである」。

三池労組が無期限全面ストに突入

 1.25日、三井鉱山が全山のロックアウトを通告、三池労組は無期限全面ストに突入。「総資本対総労働」の全面対決の様相となっていった。会社側が警察力、暴力団をバックに、組合の切り崩しをはかる一方で、懐柔策が進行した。


「安保国会」が幕をあけ

 2.2日、「安保国会」が幕をあけた。2.5日、新安保条約が国会に上程され、2.11日、衆議院に日米安保特別委員会が設置され審議が始まった。討議は条約の基本的性格、相互防衛義務、事前協議、条約区域、極東の範囲、沖縄問題等々、広汎に進められた。野党側が鋭く政府を追及し、特に事前協議において、日本が戦争に巻き込まれるのを防ぐことができるのか、日本側に拒否権が認められるのかという問題が論議の中心となった。しかし論議は平行線で噛み合わなかった。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げていくことになった。


【社学同第5回全国大会・全学連第22中委】

 2.9日、社学同第5回全国大会。2.28−29日、全学連第22中委が開かれている。この時革共同派の8名(革共同関西派中執)の中執が暴力的に罷免され、中執はブントによって制圧された。1.16日の羽田闘争のボイコットに対する責任追及であったようである。この時点での全学連内部の勢力比は、ブント72、民青同22、革共同関西派16、その他革共同全国委・学民協とされる。


【共産党宮顕の民青同統制】
 2.6日、旧所感派で中央主流に批判的な長谷川浩を学生対策部長から引き下げ袴田がこれに替わった。

 2.15日、アカハタの学生版とも云うべき学生新聞を創刊(4月から旬刊)。

 3.2−3日、「第7回党大会第9回中委総」が開かれ、「民主青年同盟の拡大強化のために」の決議を採択した。この決議の採択経過は分からないが、民青同中央が穏健路線からの脱皮を模索しようとしていた風がある。民青同の良質部分の動きと捉えた方が判りやすい。この「9中委総決議」は、「それまでの宮顕−袴田等の『市民的民主主義』 論や西沢隆二らの『歌え、踊れのサークル化傾向』を打破し、同盟の新しい組織論・運動論を確立する基礎を築き、民青同の拡大強化のための新しい方針を決定し飛躍的発展を助けることになった」とされている。しかし、この民青同中央が作成したよびかけと規約をめぐって、またしても宮顕書記長が介入することとなる。

 (私論.私観) 宮顕の民青同統制について

 一体全体この御仁は、戦前戦後今日まで何をするために党に鎮座 しているんだろう、と私は思う。こういう御仁が「無謬神話」されているトリックこそ早急に解明すべきと思われる。この時宮顕は、民青同に対して、意識的に次のような右派系統制をしている。


【伊藤律が秦城監獄に移送される】
 3.14日、伊藤律は新築された秦城監獄に移送された。以後釈放の時までここにすごすことになった。砂間は北京常駐時にも一度足りとも訪れていない。文化大革命後の江青、張春橋らが投獄されたのもこの秦城監獄である。

【全学連第15回臨時大会】

 この頃の学生運動につき、「第5期その3「60年安保闘争」、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離」に記す。

 3.16−18日、「全学連第15回臨時大会」が開かれている。先の羽田闘争での逮捕からの保釈を待って開催された。大会はのっけから、全学連主流派と民青同系、革共同関西派系との間の深刻な対立で始まった。代議員の色分けは、主流派が約270名、反主流派が約230名だったと言われている。いわば真っ二つに割れる拮抗関係になっていた。全学連中執は、民青同系の東京教育大、早大文学部などの代議員に「加盟費未納」を理由に資格を取り消し、入場を実力阻止した。これに抗議した民青同系、これに革共同関西派も加わり衝突が引き起こされた。こうして開会前から会場外で乱闘が始まった。こうして、民青同系と革共同関西派の反主流派の代議員231名(川上徹「学生運動」では代議員234名)を会場外に閉め出した中で、大会を強行した。会場内の中の主流派代議員261名(〃代議員は181名)であったという。

 結果、「全学連第15回臨時大会」は、全学連におけるブントの主導権を固め、「国会突入、羽田闘争を中心とした全学連の行動はまったく正しい」と評価し、唐牛委員長を再選した。大会は、当面のスケジュールを国民会議の第14次.15次統一行動にあわせ、4.15日に国会請願デモ、20日に全国ストライキ、「4.26日に全国ゼネストと国会デモ」等の方針を決定した。特に4.26日を「全学連の運命をかけて闘う」と決定した。この時島氏が挨拶に立ち、渾身の力を込めてブントの安保闘争への決意を表明した。

 (私論.私観) 「この時の意見の相違を暴力的に解決した悪しき先例」について

 この大会開催に先立っての会場付近での主流派対反主流派の衝突は、反主流派の代議員231名をして大会ボイコット→独自集会を結果させ、後の全学連分裂を準備させることになった。してみれば、この大会は学生運動至上汚点を残したことになる。当時のニューマが分からないが、一般論で言えば次のように云えよう。

 「意見の違いを暴力で解決することと、少数派が多数派を閉め出したことにおいて、悪しき先例を作った訳である。この時点では、全学連主流ブント派は、明日は我が身になるなどとは夢にも思っていなかったと思われる。私見であるが、左翼運動の内部規律問題として、本来この辺りをもっと究明すべきとも思うが、こういう肝心な点について考察されたものに出会ったことがない」。

 3.10日、アカハタ主張で、アイゼンハワーの来日反対闘争を提起。


 3.17日、三池労組が分裂し、第二組合作られる。全組合員の4分の1にあたる3千6百人にのぼった。


【社会党臨時党大会】

 3.23−24日、社会党臨時大会。委員長ポストを廻って、左派の推す浅沼稲次郎と右派の河上丈太郎間で争われ、浅沼228票、河上206票で、浅沼稲次郎が選出された僅かに22票の差であり、これを見れば左右両派の対立は当分収まる風がなかったことになる。なお、書記長には江田三郎が無投票で選出され、「浅沼・江田コンビ」がスタートすることになった。浅沼はこの7ヵ月後に劇的な死を遂げることになる。


 3.28日、三井鉱山生産再開、第二組合が就労を強行しようとして第一組合のピケ隊と衝突し流血の激突となった。その際暴力団が襲い、百余人の重軽傷者がでた。


 3.29日、三池闘争で、暴力団員が警察の検問を突破して、第一組合のピケ隊に襲いかかり、第一組合員久保清が暴力団員に刺殺される。三池の労働者は、みずからの身を守るために暴力にたよらざるをえなくなった。さらに、会社側は、第二組合側のホッパーによる石炭の搬出、船舶による資材の搬入を行ったが、組合側は中労委のあっせん案を拒否して、闘争態勢をくずさなかった。


 4.3日、アカハタ日曜日も発行、完全日刊化、同日曜版10ページ建てとなる。


 4.5−9日、党の「第10回中総」が開かれ、「三井三池労働者の英雄的闘争の勝利のために全民主勢力の奮起を訴える」を採択。党は、全国の党組織に三池闘争への取り組みを指示し、延べ数千の活動家を現地に派遣して、大量支援の体制を作った。この頃「三池の闘いは安保闘争を支え、安保闘争に包まれて三池の闘いは進む」といわれる事態がうまれつつあった。

【共産党が漸く「新安保条約批准阻止総決起大会」開催】

 4.17日、党主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」を開いている。注意すべきは、歴年党員の語り草に水を差すようであるが、党の「60年安保闘争」 はこの時点から号令一下本格的に稼働したとみなすべきで、総評・社会党・ 全学連による運動の盛り上がりを見て「バスに乗り遅れじ」とばかり参入したというのが史実であることを確認しておきたい。

 党の取り組みの遅れは、それまでの党中央の方針と指導にあったようである。この時期の党中央の方針と指導は、安保闘争全体を民族闘争の枠に限定付けており、これを国内支配権力である日本独占資本との階級闘争との絡みで岸政府打倒をターゲットとするという政治闘争としての位置づけを避けていた風がある。この結果、安保闘争を労働者のヘゲモニーのもとに政治的危機に盛り上げていくような基本方向が棚上げされ、綱領路線に基づく反米闘争的位置づけで安保破棄を掲げ、 しかも当面は安保破棄を直接の目標にせず、むしろ「民族民主革命」に向けた 「民族民主統一戦線」を形成させることを地道に目標とすべきだとしていた。そういう位置づけからして、できるだけ広範な人民層の参加をうるためにという口実で統一戦線の基準を幅広主義で結集させ、闘争戦術も学生や青年労働者 の全てを最低次元の統一行動に規制していこうとする整然たる行動方式を指針させた。つまり、安保闘争を何とかして通常のスケジュール闘争の枠内に治めようとしていた観があり、国会突入を視野に入れるブント的指導との両極端にあったというのが実際のようである。

 とはいえ、党がひとたび動き始めると行動力も果敢で、この時期より全国1700共闘組織の64パーセントまで正式加入してたちまち指導権を強めていくこ とになった。党は、中央段階ではオブザーバーではあったが、地方の共闘組織では社会党と並んで中心的位置を占め指導的役割を果たしていくことになった。しかし、善し悪しは別にして、党の前述した統一戦線型の幅広行動主義 によるカンパニア主義と整然デモ行動方式が、戦闘的な学生・青年・労働者の行動と次第に対立を激化させた。全学連指導部は、共産党中央の指導するこうした「国会請願デモ」に対して、「お焼香デモ」・「葬式デモ」の痛罵を浴びせていくことになった。


【国会請願デモ開始される】

 4月からは全国の地域安保共闘組織を総動員して、波状的な国会請願デモを開始した。党は全国1700共闘組織の64パーセントまで正式加入して指導権を強める。戦闘的な学生.青年.労働者の行動と党の幅広行動との対立次第に激化する。東京では全学連からお焼香デモの非難あがる。「署名など山ほど積み上げようと、岸は何の痛痒も感じない。お焼香デモ反対」というスタンスだった。 

 4.15日、第15次統一行動。全学連1500名が国会デモ。地下鉄議事堂前駅から請願デモに移ったが、機動隊に阻まれ、特許庁下まで押し返されている。


【清水幾太郎らの呼びかけ】
 この頃清水幾太郎らの呼びかけがなされている。清水氏寄稿「世界5月号『今こそ国会へ−請願のすすめ』」は、概要「今こそ国会へ行こう。北は北海道から、南は九州から、手に一枚の請願書を携えた日本人の群が東京へ集まって、国会議事堂を幾重にも取り巻いたら、また、その行列が尽きることを知らなかったら、そこに、何ものにも抗し得ない政治的実力が生まれてくる。それは新安保条約の批准を阻止し、日本の議会政治を正道に立ち戻らせるで有ろう」と檄を飛ばしていた。

【革共同全国委が学生組織マル学同を結成】

 4.16日、革共同全国委は、ブントの学生組織の社学同に対抗 する形で自前の学生組織としてマルクス主義学生同盟(マル学同)を組織し、機関紙「スパルタクス」を発刊した。この発足当時5百余の同盟員だったと言われている。マル学同は、民青同を「右翼的」とし、ブントを「左翼空論主義的傾向」、「街頭極左主義」として批判しつつ学生を中心に組織を拡大していった。


 4.19日、南朝鮮ソウルで、「李承晩政府打倒」を要求する人民蜂起が起こっている。戦いの火蓋を切ったのは学生たちであったが、蜂起は燎原の火のように全土に広がった。


 4.20日、不発。東大教授ら353名、安保反対の声明。


【ブント第4回大会開催】

 4.24日、ブントの第4回大会が開かれている。この時島氏の書記長報告がなされた。「3千名蜂起説」、「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」、「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」と後年言われる演説がぶたれたと言う。

 この大会に向けて党の港地区委員会が臨時地区党会議を開き、ブントとの合流を正式に決定、地区委員会の解散を決議している。この流れをリード した山崎衛委員長・田川和夫副委員長の両地区委員はこれより早く党から除名されている(「アカハタ」59.12.16)。


【民青同系全学連反主流派が「都自連」発足】

  4.25日、民青同系全学連反主流派は、まず東京都において「東京都学生自治会連絡会議」(都自連)を発足させている。以降民青同系は、「60年安保闘争」を「都自連」の指導により運動を起こすようになり、安保改定阻止国民会議の方針に従い、統一戦線を守ることを宣言し、全学連指導部を挑発的と批判し、「単独国会デモ」に反対していくことになった。

(私論.私観) この時期の民青同系の全学連分裂策動について

 この経過は民青同系指導部の独自の判断であったのだろうか、党の指示に拠ったものなのであろうか。答えは明瞭であり、宮顕の指示によったものと推定できる。この時全学連運動内部の亀裂は深い訳だから、非和解的な運動スタイルの違いを原因とするのならもっと早く自前の運動を起こすべきであったかであろう。最もいけないことは、60年安保闘争がピークに向かうこの時の分裂策動であろう。我々はこういうことをこそ総括しておく必要があると思われる。


【共産党による秩序整然デモ規制】

 4.26日、第15次安保阻止全国統一行動。10万人の国会請願運動が行なわれた。この時国民会議は700名の警備隊を繰り出して、デモ隊から赤旗.旗ざお.プラッカードなどを取り上げ、整然秩序たった請願デモを行った。4.27日のアカハタは、「国民会議の方針に従った統一行動には一指も触れることが出来なかった」と持ち上げている。

(私論.私観) 社共系請願運動について

 田川和夫氏は著書「日本共産党史」の中で、社共系請願運動について次のように批判している。
 「最終局面に入った安保闘争は、『統一行動の拡大』という美名にかくれて無意味な請願と署名にエネルギーを分散させられ、批准阻止の決定的段階に至っても4.26請願行動に代表されるごとく、ブルジョアジーに何らの打撃をも与えない長蛇の列を続けることによってお茶を濁そうととしていた」。

(私論.私観) 安東氏の貴重な証言
 
 
この頃の共産党の指導について、安東氏が貴重な証言を残している。

 「私たちは、情けない役割を押し付けられることがしばしばであった。例えば、国会周辺のデモ行進の中で私たちのスクラムは機動隊でも右翼でもなく、トロツキストに向けて組まされるという場面もあった。そのいつの時であったか、私は国会図書館の傍で彼らの『襲撃』に備えたデモの隊列の中にあった。坂を上がってきた彼らの先頭に立っていた顔見知りの小島弘(明大出身の全学連中執)に目と鼻の先まで接近され、散々にからかわれた恥ずかしさは忘れられない」。
 概要「トロツキストに対する弁護拒否の問題で袴田とやり合うということがあった。弁護拒否とは、『トロツキストの弁護を党員弁護士は拒否せよ』という中央の決定である。あまりといえばあまりなこの決定に対して私は抗議し、都委員会の二回で袴田と大声を出し合った。『プロレタリア・ヒューマニズムとはそんなケチなものなのか、戦前の悲惨な弾圧の中で生まれた救援活動の原則とは何であったのか、驚くべき冒涜である、発言を取り消して貰いたい』。袴田は沈黙せざるを得なかった。この異常とも云えるトロツキスト攻撃が6.15の樺美智子の死に対する非人道的扱いにつながったのである」。

【全学連主流派がチャベルセンター前で警官隊と衝突】

 この時、全学連主流派.反主流派ともデモの動員合戦を競った。全学連主流派は、こ の時「お焼香国会請願か、戦闘的国会デモか」と問題を提起し、「闘わない国民会議を乗り越えよ」とアジった。全国82大学、20数校の全学スト.授業放棄で25万名参加、都内ではチャベルセンター前に全学連7000名が結集し、警官隊と国会正門前で激しく衝突した。東大教養学部3000名の学生が参加していた。

 全学連委員長唐牛は、自ら警官隊の装甲車を乗り越えて、「障害物を乗り越えて、国会正面前へ前進せよ」とアジり、国会正門前に座り込みを貫徹した。こちらの隊列に加わっていた都自連活動家はこうした唐牛委員長らの挑発阻止の為に立ち塞がった。この闘争で唐牛委員長、篠原浩一郎社学同書記長ら17名が逮捕され(この結果、唐牛.篠原は11月まで拘留される事になった)、100名の学生が重軽傷を負った。京都でも、京大が「昭和25年のレッド.パージ反対闘争以来、10年ぶり」に時計台前集会に約1500名を結集し、府学連主催の円山音楽堂での集会には3500名の集会を開いている。この日韓国の首都ソウルでも、学生を先頭に50万人のデモがあり、その為に翌27日李承晩大統領が辞表提出へと追い込まれている。

 注目すべきは、この時より全学連反主流派民青同系学生1万1千余は別行動で国民会議と共に国会請願運動を展開していることである。つまり、全学連の行動における分裂がこの時より始まった事になる。


【韓国で、李承晩政権が打倒される】

 4.26日、この時、期軌を一にして韓国でも李承晩政権打倒の闘争が最高潮に達し、ソウルでは学生、教授団を先頭に50万人の大デモが、警官隊の発砲を省みず大統領邸に押し寄せた。翌4.27日李承晩は国会に辞表を提出し、独裁政権に終止符が打たれた。


中ソ論争始まる
 この頃中ソ論争始まる。

 4.28日、トルコで学生の反政府デモ。


【沖縄県祖国復帰協議会結成】
 4.28日、沖縄県祖国復帰協議会結成。島ぐるみ闘争は、復帰運動に収斂していくことになった。

 4.30日、総評は緊急評議員会を開き、社会党の方針に添って「連日5000名以上の請願行動」及び5.12日の各単産一斉の時限ストを決定した。しかしこのあとまたガタガタして方針がぶれている。


 5.1日、第31回メーデー。安保粉砕、国会解散、岸内閣退陣の要求を掲げ て500万の戦後最高の大デモが全国各地で行われた。


【「U2型機事件」】
 パリ首脳会談を目前にして、U2型機事件が起こった。5.5日、ソ連政府は、領空に進入 したアメリカのスパイ機2機の撃墜を発表。5.1日、トルコ基地を飛び立ったアメリカ軍のスパイ偵察機(U2型機)がソ連上空で撃墜され、操縦士パワーズが捕らえられた。アメリカは当初ソ連上空でのスパイ偵察を否定したが、証拠の公表でその事実を認めた。フルシチョフは激怒し、5.16日、パリで首脳会談が開かれると、アメリカのスパイ飛行を激しく非難し、翌日パリ首脳会談は流会となった。

 5.9日、北京で「日米軍事同盟に反対する日本国民支援」の100万人集会。


 5.12日、第16次全国統一行動。460万の参加。ストライキ、職場集会、デモ、請願書名運動が展開された。この 頃連日数万の国会請願デモ続く。三池炭鉱でスト中の第一組合員に警官隊が襲撃し、5度目の大流血事件が発生している。180名が重軽傷。読売新聞は「石は飛び警棒うなる」と伝えている。


 5.13日、全学連2000名が結集、昼夜をかけて国会デモ。

 5.15日、党主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」開く。衆議院での安保条約承認採決を阻止しようとして連日のように数万の国会デモが続いた。


 5.17日、米ソ巨頭会談、U2型機のスパイ問題で不成功。59.12月決定の米英仏ソ首脳会談が流産することになった。


 5.17日、自民党、安保成立のため50日間の会期延長と衆院の早期通過の方針決める。


 5.18日、衆院の情勢を警戒して社会党が非常態勢をとる。


【政府自民党が、新条約を強行採決】

 5.19日、政府と自民党は、安保自然成立を狙って、清瀬一郎衆院議長の指揮で警官隊を導入して本会議を開き、会期延長を議決。この時自民党は警官隊の他松葉会などの暴力団を院内に導入していた。11時7分頃、清瀬議長の要請で座り込みをしている社会党議員団のゴボウ抜きが強行された。

 会期延長に続いて、深夜から20日未明過ぎにかけて新条約を強行採決した。採決に加わった自民党議員は233名、過半数をわずか5名上回る数で、本会議に於ける審議は14分という自民党のファッショ的暴挙であった。「安保はゆっくり、会期延長さう決まれば、それでいい」というのが事前情報であの、この時の強行採決は抜き打ちであった。岸内閣からすれば、6.19日にアイクの訪日が決まっており、諸般の情勢から止むにやまれない措置でもあった。

 国会は1万人のデモ隊で包囲されていた。この時、社会党、共産党、国民会議は、国会周辺を取り巻く万余のデモ隊に知らせていない。5.20日零時30分過ぎデモ隊は三度第一議員会館前に終結したが、デモ隊の中から「会期は延長されたし、新安保も通ったというのに、なぜ知らせないのだ」と非難の声があがっている。暫くして後、社会党書記長江田、委員長鈴木、共産党の野坂らがやってきて、民主政治の大切さ、安保条約の通過を認めないなど分けのわかりにくい説明をし始め、「明日からの闘争に備えての解散」を呼びかけている。デモ隊はこれを聞かず午前3時30分まで国会前に座り込み、最後まで残った労学5000名余は国会周辺で警官隊と小競り合いしながらジグザグ.デモを繰り返した。


【大衆憤激、反安保闘争沸点化する】

 この経過が報ぜられるに連れて「岸のやり方はひどい」、「採決は無効だ」、「国会を解散せよ」という一般大衆にまで及ぶ憤激を呼び、この機を境にそれまでデモに参加したことのない者までが一挙に隊列に加わり始めた。パチンコしていた連中までが打ち止めてデモに参加したとも言われている。「岸内閣打倒」、「国会解散」のスローガンが急速に大衆化した。夕刻から労・学2万人国会包囲デモ。「18日の夕方から文字通りハチ切れそうに膨れ上がった国会周辺の人波、シュプレヒコールの交錯、その向こうに黒潮のように延々と連なる座り込みの学生達」(丸山眞男寄稿中央公論『8.15と5.19』)と、当日の様子が伝えられている。

 この日を皮切りに、「アンポ反対」の声から「民主主義の擁護!岸内閣打倒!国会解散!」に変わった。これより1ヶ月間デモ隊が連日国会を取り囲み、「新安保条約批准阻止・内閣退陣・国会解散」のための未曾有の全国的な国民闘争が展開していくことになった。

 こうした流れについて、ブントも読み誤ったようである。川上氏「学生運動」に拠れば、全学連中執は、5.19日の晩の新安保条約批准の報を知るや「安保敗北宣言」を出しているとのことである。早稲田大学新聞5.25日号一面トップの見出しは、「新安保、何が通過を許したか」、「安保闘争の挫折と国民会議の歩んだ道」、「挫折は戦後労働運動指導の集大成」、「今こそ指導層の告発を」となっており、「敗北」感が色濃く打ち出されている。こうした首都東京の「敗北の早さ」に対して、「いつも半年から一年遅れて力を出すが、みじめに失敗する」(大島渚の談)京都では引き続きの闘争をアピールしていた。ここで付言すれば、安保闘争後の総括も追ってみることになるが、敗北感に沈み込む東京と、粘り強さを見せる京都とが違いを見せることになる。


 ところが、まさにこの時より事態は大きく流動化し、「労働運動指導部が、民主主義擁護と国会解散を掲げて、大きくプロレタリア大衆を動かし出した」のである。ブントにとっても「事態の後に追いついていくのが精一杯」という意想外のうねりをもたらしていたようである。5.6月に入るや知識人・学者・文化人らの動きも注目された。5.20日、九大の教授、助教授86名が政府与党の強行採決に反対して国会解散要求声明を発表した。大学教授団によるこの種の声明が全国各地で相次いだ。竹内好・鶴見俊輔らは政府に抗議して大学教授を辞任した。これらの知識人の呼応は「民主主義」を守る立場からのものであり、全学連主流派の呼号する「安保粉砕.日帝打倒」とは趣の違うものであったが、こうして闘争が相乗する流動局面が生まれて行くことになった。


【全学連による官邸襲撃事件発生】 
 5.20日、全学連、全国スト闘争、国会包囲デモに2万人結集。抗議集会後渦巻きデモに移った。7000名の学生デモ隊の一部約300名が首相官邸に突入。「全学連の清水書記長が首相官邸と自民党へ果敢なデモを行おう」と提案し、歓呼の声をあげながら「そのまま、駆け足で首相官邸へ向かった。アワをくった警官隊が門を閉めようとしたが、300人ほどが中庭に入り込んだ」。武装警官隊の排除が始ったが、この時の乱闘で8名の学生が逮捕され、26名が病院に担ぎ込まれ、40名が負傷している。これが官邸襲撃事件といわれるものである。

 しかし、この果敢な闘争が全学連主流派の志気を高めることにはならなかったようである。この頃既に全学連主流派内に分裂が起こっており、統一的な戦術指導がなしえていなかったようである。
 「生田夫妻追悼記念文集」の中で、島氏は次のように述べている。
 「5.20安保強行採決を境に、日本の政治は戦後最大の山場にさしかかった。潮が上げ、出来合いのあらゆる潮流を越え、押し寄せる時、この既成潮流を叩き潰すためにこそ誕生したブントも、潮そのもののなかで辛うじて大衆と共に浮沈する存在でしかなくなっていた。統一など既になかった」。

 5.21日、全国各地からデモ隊が続々上京。


【安保改定阻止国民会議第16次抗議デモ】 

 5.26日、安保改定阻止国民会議第16次抗議デモ、17万余が国会包囲デモ、「岸内閣打倒、国会解散」行動に入る。全国で200万の大衆が一斉に行動を起している。国会包囲デモは、「デモ隊は果てしなく続き、林立する赤旗、プラカードの数は刻々と増えていった。‐‐‐どの道も身動きできない」(朝日新聞)有様であった。全学連デモ隊は激しくジグザグ.デモを繰り返す中で、社共の議員や幹部は閲兵将軍のように高いところから「アリガトウゴザイマス、ゴクローサンデス」と繰り返していた。

 この夜、NHKはデモの実況とともに、共産党書記長宮顕の「今のところデモは整然と遣っているけれども、行き過ぎの行動の起こる恐れがあるので、そういうことのないように努力している。デモは恐らく整然と終わるだろう」を放送している。


 5.27日、軍部のクーデターでメンデレス政権崩壊。


【岸首相が「声無き声に耳を傾けたい」発言】

 5.28日、岸首相は記者会見で次のように述べた。

 「現在のデモは特定の組織力により、特定の人が動員された作られたデモである。私は一身を投げ出しても暴力で危機にさらされている我が国の議会制民主主義を守り抜く考えである。現在のデモは『声ある声』だが、私はむしろ『声なき声』に耳を傾けたい」。

 以降、デモ隊の中に『声なき声の会』ののぼりが登場することになった。


【日共が国会闘争へ捻じ曲げる】
 5.31日、党の幹部会が、「国会を解散し、選挙は岸一派を除く全議会勢力の選挙管理内閣で行え」声明を発表。何とかして議会闘争の枠内に引き戻そうとさえ努力している形跡がある。

 5.31日、政府閣議で、中曽根が「アイク訪日延期要望」発言。





(私論.私見)