第18部 | 1956年の主なできごと.事件年表 |
徳球系次々と排斥される。 |
(最新見直し2007.6.28日)
この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第4期、全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。
1.6 |
【志田重男,突然失踪】中央常任幹部会員で書記局員でもある志田重男が突然失踪した。この時期志田はスキャンダル騒動の渦中にあり党の調査を受けるはめにあった。志田はこの調査を拒否し逃亡した。志田は、後日反旗を挙げることになる。党本部,機密資料を回収。 |
1.13 |
党員が最盛時の3分の1になったと発表される。 |
1.14 | 〜15日、.全学連.法政.中執委員会.停滞した活動を分析。 早大ではこの頃、全学協は開店休業、部室は隣の協組食堂の倉庫となる。 |
1.25 | 元ソ連代表部の首席代理ドムニツキーが秘密裏に鳩山宅を訪れ、一通の手紙を手渡した。文面には、「ソ連側は、日ソ関係の正常化を目指して意見交換を行うことは時宜に適するものと信じる」と書かれていた。鳩山は誘いに乗り、日ソ交渉の幕開けとなる。 |
2.14 |
【スターリン批判】「ソ連共産党第20回大会」が開催され、フルシチョフとミコヤンによる「スターリン批判」が為された(2.24日)。スターリンが指導していた時期の内外政策の誤り、特に社会主義的民主主義と法秩序を無視した恣意的独断的指導についての詳しい報告が行われた。両体制の平和共存、戦争の宿命的不可避性の否定、「革命の平和的移行の可能性」が提起された。コミンフォルムの解散が宣言された。 |
2.19 | 週刊新潮発刊。 |
3.6 | 「第5中総」でソ連党大会決議支持表明。原水禁運動について決議。 |
3.15 |
党中央委員会、アメリカの南太平洋での水爆実験中止の呼びかけ発表。 |
3.19 | 鳩山内閣が小選挙区制法案を国会に提出。 |
3.19 | 住宅公団が初の入居者募集開始。 |
3.24 |
「ソ同盟共産党第20回大会について」をアカハタに発表。 |
4.5 |
自民党臨時大会、初代総裁に鳩山を選出。 |
4.16 |
「第六回中総」。6全協以後の内外情勢を検討。「大衆運動や大衆の中での活動と党内問題の解決は統一して行うべきこと」を強調して、党の任務と各分野の活動方針を具体化。 志田問題を正式に審議し、1.6日以降の失踪の事実を確認して審議し、彼を「常任幹部会と書記局の一員たる任務から解任する」という処置を決議した。公表は6.6日付けの常任幹部会の「志田重男君同志についての発表」なる文書で公にされた。 |
4.17 |
コミンフォルム解散宣言。運動における各民族の独自性を強調して解散することとなった。 |
4.24 |
中央委員会声明、「小選挙区制法案を永久に葬りさるために」をアカハタに発表。 |
4.26 |
東京教育大学細胞は、機関紙「夜明け」の中で、「六全協」後の党指導による穏和化路線に対し、「これら一連の誤った傾向は、革命的前衛党の本旨とするところではなく、マルクス.レーニン主義とは無縁である」と指摘した。 |
5.9 |
【日ソ漁業協定妥結】日ソ復交への道が開かれた。河野一郎が24名の全権団を率いて交渉した。相手はイシコフ漁業相。ブルガーリン首相との直談判に漕ぎ着けた。この時、「北方領土問題」が話し合われており、「日露戦争で日本が勝ったときには、ソ連から樺太も取ったし、漁業権益も取った。今度は日本が負けた。こっちの言うことを聞くのは当然であろう。もし、国後、択捉島を返還したら、ソ連は戦争に勝ったのかどうか判らないではないか。そんな馬鹿なことは、ソ連首相として出来る筈がない」との反論が為された。 |
5.15 |
干されていた「神山問題」が解決した。神山グループの処分に対する不当性が確認され、その取り消しが行われた。(「若干の同志たちの除名及び処置の取り消しに関する決定」) |
6月 | 早大細胞の高野全学連書記長が砂川闘争を指揮。 |
6.2 | 教育二法・小選挙区制法案を巡って国会は大荒れ、警官隊導入。 |
6.3 |
小選挙区法案、審議未了で廃案。 |
6.6 |
党中央常任幹部会が、志田重男を「常任幹部会及び書記局の一員」からの解任を発表した。「(志田は)1.6日、自ら常任幹部会との連絡を断った。その結果常任幹部会で手を尽くしたが、今日にいたるまで、彼の所在は不明で任務に復帰していない」、「志田同士の上記のような行動は、あきらかに重大な責任ある任務の放棄であり、党の規律に反するものである。この点については、中央委員会はさらに慎重に調査をすすめる」。 |
6.15 |
【「門松理論」の登場】東大学生運動研究会が「日本の学生運動」()を上宰した。第1部「きたるべき日本革命の戦略と学生運動の位置」を書いた門松暁鐘は、当時の諸見解との混交ながら注目すべき内容を具申していた。民族独立を伴う社会主義革命という戦略目標に辿り着き、その観点から、党の新綱領への批判を放っていた。ここに、左派社会党綱領の民族独立社会主義平和革命方式論、共産党の民族解放民主革命平和革命否定論、民族解放社会主義革命平和革命否定論という三論点がでてきたことになる。 |
6.28 |
「独立.民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について」を採択 |
7.8 |
第4回参議院選挙。党は、全国区60万票、1名岩間正男当選。地方区115万票、1名野坂参三当選の2名当選。自民61(19.42)、社会49(21.28)、緑風5(5.0)、諸派1(1.0)、無所属9(5.4)。創価学会が国会に初進出。 |
7.17 | 経済企画庁「経済白書」で、「もはや戦後ではない」と新た経済目標提示(「日本経済の成長と近代化」)→高度経済成長の出発を宣言。 |
7.24 | 『毎日新聞』が「暴力団新地図」の連載開始→「暴力団と政治家の癒着」を報道する(8月30日まで)。 |
7.25 |
世界政治資料発刊。 |
7.28 |
産別会議第6回大会で、春日(正)が党の誤りを自己批判し陳謝する。 |
8.2 |
千島問題など日ソ間の領土問題について常任幹部会声明。 |
9.8 |
中立労働組合連絡会議中立労連結成 |
9.10 |
「第8回中総」開催。参議院選挙の総括「参議院選挙の総括とわが党の任務」採択、平和運動の方針、党大会の開催、「農業.農民問題の解決の為に」を採択。 第七回党大会の開催が決定された。 |
【椎野罷免処分される】志田が放逐されて以降のこの頃かっての「臨中」議長で追放後地下に入って志田の最大の協力者となった椎野に対しても、地下時代の婦人同志への不道徳行為により党の調査が及ぶようになった。椎野もこれを拒否し、敵対的態度をとったため「規約第38条に基づき中央委員の地位から罷免する」処分が行われ除名された。こうして志田重男と椎野悦郎が相次いで失脚させられた。志田の離党も確認された。 |
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9月 |
全学連7回中央委員会が名古屋で開かれた。自治会サービス論が満展開された。 |
9月 | 神山の『スターリンの業績と害悪、個人崇拝の一般特殊的条件とその克服方法などの問題についてはもうだいたい知られている=率直な意見-トリアッティ提案を読んで←「世界」)』。党も神山もこの程度であった。 |
10.11月ポーランド.ハンガリー動乱。ソ連軍介入。党はソ連の武力介入を支持した。 | |
10.7 |
鳩山全権団が羽田を出発。鳩山の引退花道となった。モスクワ空港にはブルガーリン首相が出迎えた。10.15日鳩山首相がモスクワに行き、クレムリン宮殿で交渉始まる。 |
10.12 | 立川基地拡張の第二次強制測量。反対闘争強まる。 |
10.13 | 砂川の激突.→測量中止.(安東・続-50)武装警官隊に襲われ、学生1000名重軽傷。砂川闘争では都委員会も全組織をあげてよく戦ったが,中央部のスターリン的干渉に悩まされた。 |
10.19 | 【日ソ国交回復共同宣言、通商航海に関する議定書調印】概要「歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すことに同意する。但し、現実には日ソ間の平和条約締結後に歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すものとする」と明記された。北方領土問題取り残される。 |
10.23 | 【ハンガリー暴動】。首都ブダベストから始まって全土に広がった。戦車隊と空軍まで動員したソ連軍の弾圧によって約2週間後に鎮圧された。ソ連軍が鎮圧。 |
10.29 | スエズ動乱。 |
11.1 | 愛媛県教育委員会、全国に先駆けて教員の昇給・昇格の勤務評定実施を決定=「教師たちの通信簿=勤評」→以後全国で「勤評」反対斗争の嵐、全国に吹き荒れる。 |
11.2 | 鳩山首相、日ソ共同宣言調印を機に引退を表明→自民党内に「7個師団3連隊」と称された派閥が割拠する。 |
11.5 | 〜7日全国書記会議開催。「中央及び下級組織の強化と地方委の任務の明確化について」を決定。 |
11.7 | 【「第9回中総」開催】第7回党大会準備のための「綱領」.「規約」の各委員会とともに「50年以後の党内問題の調査」の委員会設立を決定した。春日(正)を責任者とし、50年以来の経過を詳しく調査していくことになった。「規約改正委員会」は責任者を紺野与次郎とし、伊井弥四郎.戌谷春松ら8人の委員が草案を練った。「綱領委員会」は、宮本顕治を責任者として、以降57.3月下旬までに、綱領原案の骨子ともいうべき文書が、委員会の責任者であった宮本により準備され、この宮本メモが討議の出発点となった。 |
11.20 | 「常任幹部会」の「椎野問題に対する経過」という文書で椎野の罷免が発表された。ここに、50年分裂後の徳田主流派の最高指導部にあった三人の幹部伊藤.志田.椎野の指導者が揃いも揃って失脚させられたことになる。 |
11月 | 大沢等スターリン批判の深化を強調する |
11月 | ハンガリー事件で、早大.一政委員会が抗議声明、ソ連大使館に抗議文手交。早大細胞は沈黙した。高野秀夫「ハンガリー出兵に対して、断固たる抗議行動が行えなかったのは、日本学生運動の恥辱である」。全学連内で主流・反主流論争表面化。高野秀夫は、反主流「構造改良派」の雄として50年代後半の学生運動を指導。 |
11.25 | 「 日本民主青年団」が「日本民主青年同盟」として発足。全学連は一本にまとまった。 |
【日本トロッキスト運動開始される】 ハンガリーに対するソ連の武力介入を党が公然と支持したことが、学生たちを離反させた。スターリン批判と「六全協」での自己批判により、一転して従来の軍事方針は間違いであったと発表したことが、党の無謬性神話が崩れ、全学連の幹部党員の間には、新しいマルクス主義本来の立場に却って共産党に見切りをつけて新しい組織を模索していくことになった。スターリン以前の国際共産主義運動の再評価から急速にトロッキズムに傾いていくことになった。 | |
11.22 | 第3次鳩山内閣が成立した。鳩山内閣の手で日ソ国交回復が為された。 |
12.5 | 冷害地帯で娘の身売りが激増。 |
12.14 | 自民党大会で総裁選出選挙→上位2人の決戦投票、石橋堪山7票差で岸を破り、自民党第2代総裁に当選。 |
12.18 | 国連総会、日本の国連加盟可決。従来国連への加盟はソ連の反対にあって退けられてきた。日ソ共同宣言の実現により可能となった。 |
12.20 | 第三次鳩山内閣総辞職で退陣。 |
12.23 | 【石橋湛山内閣(56.12.23〜)成立】鳩山内閣退陣の後を受けて自民党総裁選が戦われた。石橋が7票の僅差で岸を破り、12.23日石橋湛山内閣(56.12.23〜)成立 。三木(49歳)幹事長、池田(58歳)蔵相、石田(42歳)官房長官。みんな若かった。この時池田は「私はウソを申しません」。 →翌年2.23日総辞職。 |
12月 | トラック部隊事件の報道広がり、常任幹部会は当局の中傷と声明する。 |
12.25 | 人民党書記長瀬長亀次郎が那覇市長に当選。 |
この年、イタリア共産党は、スターリン批判、社会主義へのイタリアの道=構造改革路線を打ち出した。全学連〃学生運動では、1956年というのは、国際派ルネッサンスとでもいうべき年で、運動の形成の方法も、50年のレッドパージ反対闘争の復興の季節となった。 |
【 戦後党史第三期】/ 【ミニ第A期】= 宮顕派が党内急進派の弾圧に乗り出す |
以降、宮顕は党内反対派の粛清に血眼になる。第二弾は党内急進派の掃討戦となった。主に学生運動グループが狙われ、その他戦闘的大衆団体も標的にされる。やがて58年第7回党大会に至るが、ミニ第@期から第7回党大会に至るこの期間を【戦後党史第三期のミニ第A期】とみなすことができる。 |
【志田重男が突然失踪】 |
1.6日、中央常任幹部会員で書記局員でもある志田重男が突然失踪した。この時期志田はスキャンダル騒動の渦中にあり党の調査を受けるはめにあった。神明町における志田の芸者遊び=お竹事件、トラック部隊についての責任が問われた。志田はこの調査を拒否し逃亡した。志田は、後日反旗を挙げることになる。「逃亡の理由が政治的意見の相違にあるかのようにいつわって反党分派を組織し、党のかく乱を企てた」ことにより「党中央は、志田を除名し、その策動を粉砕した」と総括されている。共産党本部は機密資料を回収。 |
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1.13日、党員が最盛時の3分の1になったと発表される。 |
1.25日、元ソ連代表部の首席代理ドムニツキーが秘密裏に鳩山宅を訪れ、一通の手紙を手渡した。文面には、「ソ連側は、日ソ関係の正常化を目指して意見交換を行うことは時宜に適するものと信じる」と書かれていた。鳩山は誘いに乗り、日ソ交渉の幕開けとなる。しかし、国後(くなしり).択捉(えとろふ).色丹(しこたん).歯舞(はぽまい)の北方領土の帰属を巡ってソ連との話し合いがつかず難航を極めることとなった。この時の外務省条約局長は下田武三、交渉の全過程に参画した。氏の「戦後日本外交の証言」では、「鳩山派と重光外相との対立に加えて、鳩山派と吉田派との対立が同一政党(自由民主党)内に持ち込まれた為、却って党内の意見対立が激化する結果を招き、それがさらに交渉に暗影を落とした」とある。最終的に、鳩山は、領土問題を先送りしてでも国交回復を優先すべきだと決断した。「領土は何年たってもなくなることはないが、人の命には限りがある。国連に加盟できれば、択捉、国後についても話し合いの出来る機会が生まれるに違いない。これが当時私の胸に深く刻み込まれていた信念であった」(「回想録」)。
1.28日、鳩山の後継首相候補の地位にあった緒方竹虎が心臓病で急死した(69歳)。昨19555年の党合同の際には、首脳部の間では、総裁の座は「鳩山→緒方→岸」と譲られていくというのが暗黙の了解とされていた。この了解が緒方の急逝で崩れた。党首選挙は延期され、総裁代行委員の後任には石井光次郎が充てられた。自民党の総裁問題は自然に鳩山総裁に向かうことになった。
1.28−29日、「第4回中総」。日ソ国交回復運動、「党の統一と団結のための歴史上の教訓として」 採択。「(50年問題を)事実問題として、また理論問題として正しく詳細に分析するには、なお十分な研究と相当の時間が必要である」としながらも、戦後再建された党の弱点、50年問題の経過の中の問題点、党の統一と団結の重要性とそのための若干の教訓など、のちの50年問題総括の一定の出発点となる諸事項を指摘した。 |
2月、中野好夫氏が文芸春秋紙上で「もはや戦後ではない」と記し、実感をもって認知された。
【「ソ連共産党第20回大会」その1・「フルシチョフ・テーゼ」の打ち出し】 |
2.14−25日、「ソ連共産党第20回大会」が開催された。この大会で、その1・「フルシチョフ・テーゼ」の打ち出しと、その2・「衝撃のスターリン批判」、その3・コミンフォルムの解散、4・第6次五カ年計画(1956―60年)が宣言された。これらにおいて「ソ連共産党第20回大会」は極めて歴史的な深い意味を持っている。 |
この時の「フルシチョフ・テーゼ」の理論創造的な意義ないしは批判についての論及を、その後の左翼運動全体が歴史の彼方に葬ったまま今日に至っている気がしないでもない。この作業は、フルシチョフの失脚によりなおさら闇に隠れてしまって今日に至っている。それでいて、ソ共も各国の共産党も「フルシチョフ・テーゼ」に色濃いマルクス主義運動の穏和化、その象徴的な現われとしての「平和共存政策」、「構造改革路線」を継承し二度と手放さず歩み始めたという経過を見せている。意義を高く評価しようが否定的批判に向かおうが、こういう「フルシチョフ・テーゼ」の未考察情況はマルクス主義運動を担う者の腐敗であり、有り得て良い事ではないように思われる。 |
【「ソ連共産党第20回大会」その2・「衝撃のスターリン批判」】 | |||||
2.24日、大会最終日、全日程が済み、宿舎にもどった代議員を夜半午後10時に再招集するという「非常手段」を講じて、秘密報告「個人崇拝とその結果について」が発表され、フルシチョフとミコヤンによる「スターリン批判」が為された。スターリンが指導していた時期の内外政策の誤り、特に社会主義的民主主義と法秩序を無視した恣意的独断的指導、党、軍の多数の幹部の粛正の実態についての詳しい報告が行われた。フルシチョフは、独裁者スターリンの「旧悪」を世界中に知れ渡るように暴露した。1953.3.15日のスターリン死後3年目のことであった。 宮地氏は「不破哲三の宮本顕治批判」で次のように評している。
大会の直後のイタリア共産党トリアッチの指摘。
党は、「スターリン批判」の諸問題を「家父長的指導、個人崇拝の弊害」に限定して捉え、集団指導制の強化をもってするならば弊害を正すことが出来ると安易に乗り切ろうとした。米原は、「スターリン批判と我々の態度−六全協一周年にあたって」(前衛.9月号)で、その様な観点から概要「個人中心的な指導、家父長的な指導の問題は、六全協で解決済み」と述べていた。これに対し神山は、「まだまだ不徹底である」と表明していた。「問題はそこまでであって、スターリン統治下の誤謬や犯罪、そしてそれらを支えた制度、組織の究明という問題意識はなかった」(安東「戦後日本共産党私記」)。
「スターリン批判」の問題を様々な理論的諸問題まで押し広げて解明せねばならないと主張したのが黒田貫一であった。次のように述べている。
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【伊藤律の「スターリン批判」観】 | |
このスターリン批判に対して、獄中にあった伊藤律は次のように自問自答している。
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毛沢東は、次のように語っている。
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3.6−8日、「第5中総」でソ連党大会決議支持表明。原水禁運動について決議。 |
トリアッチは、とはいうもののソ連共産党第20回党大会後よりフルシチョフの平和共存体制論に依拠しつつ構造改革論(「トリアッチの構造改革論」)を展開していくことになった。「社会主義へのイタリアの道」を唱え、イタリア憲法の枠内で社会主義の移行を見出そうとし始めることになる。トリアッチのこの提起が日本の左派運動に影響を与えることになる。「社会主義へのイタリアの道」とは、「イタリア憲法に綱領的正確を与え、憲法そのものに描き出されている民主主義的方法によって行われるべき社会改造の大改良の計画を憲法によって確立する」(1956年のイタリア共産党第8回大会への報告)というものであった。 |
3.21日、ソ連が閣僚会議で「サケ・マス保護のために日本の北洋漁業の禁止」決定をし、モスクワ放送がこれを伝えた。ロンドン交渉が進展しないことに対するソ連側の制裁措置であった。日本政府はすぐさま抗議したが、「ソ連としては、日ソ漁業協定が締結されない限り、北洋におけるサケ、マスの制限措置の緩和は考慮しない」と回答されてきた。
【「自民党の総裁公選で、鳩山が初代自民党総裁に選出される】 |
4.5日、自民党の総裁公選で、鳩山が信任投票の形で394票、白票その他95票で、初代自民党総裁に選出された。鳩山一郎394、岸信介4、林譲治3、石橋湛山、石井光次郎、益谷秀次、大野伴睦各2、河野一郎、重光葵、松野鶴平、池田隼人各1. |
【「第6回中総」開催】 | ||
4.16日〜27日まで12日間を費やして「第6回中総」が開かれた。6全協以後の内外情勢を検討。「大衆運動や大衆の中での活動と党内問題の解決は統一して行うべきこと」を強調して、党の任務と各分野の活動方針を具体化。 志田問題を正式に審議し、1.6日以降の失踪の事実を確認して審議し、彼を「常任幹部会と書記局の一員たる任務から解任する」という処置を決議した。公表は6.6日付けの常任幹部会の「志田重男君同志についての発表」なる文書で公にされた。 |
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【コミンフォルム解散】 |
4.17日、コミンフォルムが運動における各民族の独自性を強調して解散。山辺健太郎氏らはスターリン礼賛。イタリア共産党は、スターリン批判を通じて社会主義へのイタリアの道=構造改革路線を打ち出す。 |
【全学連のこの頃の闘争、「層としての学生運動論」創造する】 |
この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。 4月、全学連第8回中委が開かれた。この「8中委」は、先の「7中委イズム」を「学生の力量を過小評価した日常要求主義が学生運動を沈滞に陥れた」と批判する立場から、全学連の革命的伝統を回復し、当面する重要政治課題、平和擁護闘争を第一義的に掲げ全国一斉に行動を展開するという方針を採択した。こうしてこの「8中委」が全学連再建の基礎をつくることとなった。いわゆる 「8中委.9大会路線」と言う。「8中委」を契機として全学連と反戦学同は、政治闘争を志向する戦術再転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになった。 |
【河野全権団の対ソ外交】 |
4月下旬、外相・河野一郎が24名の全権団を率いて対ソ連交渉に出かけた。交渉の相手はイシコフ漁業相が団長、副団長はモイセーエフ、ソルダテンコ。ブルガーリン首相との直談判に漕ぎ着けた。党第一書記フルシチョフもいたと伝えられている。この時、「北方領土問題」が話し合われており、「日露戦争で日本が勝ったときには、ソ連から樺太も取ったし、漁業権益も取った。今度は日本が負けた。こっちの言うことを聞くのは当然であろう。もし、国後、択捉島を返還したら、ソ連は戦争に勝ったのかどうか判らないではないか。そんな馬鹿なことは、ソ連首相として出来る筈がない」との反論が為された。 5.9日、日ソ漁業協定妥結、調印は5.15日。日ソ復交への道が開かれた。5.26日河野一行は帰国した。 自民党内の主流派(鳩山.石橋.河野派)は、日ソ国交促進論、岸派と石井派は慎重論、反主流派は二つに分かれていて、旧改進党系(松村.三木武夫.北村徳太郎)は即時復交論、吉田系池田派は絶対反対論。 |
【日共が志田を解任】 |
6.6日、党中央常任幹部会が、志田重男を「常任幹部会及び書記局の一員」からの解任を発表した。「(志田は)1.6日、自ら常任幹部会との連絡を断った。その結果常任幹部会で手を尽くしたが、今日にいたるまで、彼の所在は不明で任務に復帰していない」、「志田同士の上記のような行動は、あきらかに重大な責任ある任務の放棄であり、党の規律に反するものである。この点については、中央委員会はさらに慎重に調査をすすめる」。 |
【全学連第9回大会】 |
6.9−12日、全国的規模の闘争に取り組む過程で全学連第9回大会を開催した。「8中委路線」による運動の成功が承認され、当面する政治課題を掲げて全国一斉のゼネストをもって戦う方針が採択された。同時に、「7中委イズム」的方針による身の回り的日常的闘争をも取り込まれており、なかなか内容の濃い大会となった。 |
【「政府法案次々に廃案される」】 | |
5.16、5.26の全国闘争によって7中委以来の沈滞が打ち破られ、学生運動が再び攻勢運動に転じる転換点になった。6.3日、ハトマンダー」と呼ばれた小選挙区制、教育三法のうち教科書法、臨時教育制度審議会法が審議未了で廃案に追い込まれた。但し、地教行法は可決された。当時、左派運動圏では、3勝1敗と浮かれた。
そして、教育委員は都道府県7人、市町村5人でそのうち一人を議会が議員から選び、残りは直接選挙で選ばれるという行政機関から独立した存在機関となっていた。 |
【「第7回中総」開催】 | |
6.28−30日、「第7中総」の決議「独立.民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について」を採択し、参院選挙投票の直前に発表された。この決議は、主に革命の移行形態の問題について論じ、徳球綱領の「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」という部分を概要「サンフランシスコ講和会議以後の情勢の変化によって、議会を通じて民主主義的民族政府を樹立する可能性ならびに社会主義への平和的移行の可能性が生まれてきた」と改訂した。これにより、1・「独立.民主主義のための政府」の平和的樹立を中心的な政治目標とし、2・同政府は、民主主義の確立と諸条約の改廃を通して独立を平和的に勝ち取りうる、3・それが社会主義への平和的移行の出発点になる論法が生み出されることになった。 党は、これによって「51年綱領」が指摘して いた「平和的移行の可能性」の否定の再否定で復活させることになった。つまり、「51年綱領」の暴力革命唯一論の克服を提起し、「革命の平和的移行の可能性」の追及を党の路線とすることにしたことになり、51年綱領の換骨奪胎的な右翼的改訂を行ったということになる。 |
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この当時の革命理論は次のような見解が出揃うことになったことになる。@。左派社会党綱領の民族独立・社会主義・平和革命方式論、A・徳球系党中央の民族解放民主革命・平和革命否定論、B・宮顕系党中央の民族解放民主革命・平和革命方式論、C・民族解放・社会主義革命・平和革命否定論という四論点がでてきたことになる。 |
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その他沖縄問題についての声明を採択。
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7.2日、ソ同盟共産党中央委員会は、「個人崇拝とその諸結果の克服について」と題する決議をプラウダ紙上に掲載した、7.4−5日号のアカハタに掲載された。要旨は次のようなものであった。(「夢・共産主義第一部」参照) 1、個人崇拝は、全帝国主義世界の反ソ侵略の危険の増大、とくに1933年以後のドイツ・ファシズムの勝利後の複雑な内外情勢のなかで社会主義への闘争をおこなううえに「もっとも厳重な指導の中央集権化」と「民主主義にたいする若干の制限」が必要となった歴史的情勢のなかで、スターリンの個人的欠陥やベリヤの犯罪的集団の活動の結果生まれたものである。 2、中央委員会内には個人崇拝に反対するレーニン的指導中核がきずきあげられており、戦時中のある時期にはスターリンの個人的行動と専制支配に大幅な制限を加えた。しかし、この中核が、スターリンに公然と反対することができなかったのは、第一に、社会主義の成功がすべてスターリンに帰せられていた状況のもとではスターリンに反対するいかなる行動も国民の支持をうけられなかったこと、第二に、多くの犯罪の事実が当時はまだ知られていなかったことによるものである。 3、 したがって、「個人崇拝の根源をソビエト社会制度の本質に求めようとしたりするのは大変なまちがい」であり、トリアッティのように「ソビエト社会が『一種の改革』に面しているかどうか」という問題を提起する根拠はない。ソビエト民主主義は偉大な発展をとげてきたし、個人崇拝一掃の大たんな問題提起は、「ソビエト社会主義制度の力と生命力の最善の証明である。」 この決議による回答は、約一カ月にわたる論争をひとまず終結させる役割を果たした。11.11日、ユーゴのチトーは、「プーラ演説」の中で再びこの問題を提起し、個人崇拝は制度の所産であるのにこれをスターリン個人に帰するのはごまかしであるとして、制度そのものにある個人崇拝の根源として「官僚的な機構指導の方法、いわゆる『画一主義』、勤労大衆の役割と願望の無視」などをあげた。(「世界政治資料」10号) |
【三木武吉逝去】 |
7.4日、三木武吉が逝去した(享年70歳)。保守合同の鬼としてこれを実現し、やるだけのことをやり尽くし心身ともに燃焼し尽くした形の死となった。三木の死は鳩山主流派にとって打撃となった。 |
【第4回参議院選挙】 |
7.8日、第4回参議院選挙。党は、全国区60万票、1名・岩間正男当選。地方区115万票、1名・野坂参三当選。自民19.42、社会21.28、緑風5.0、諸派1.0、無所属5.4。 社会党は全国区21名を当選させて自民党の19名を上回り、地方区でも6名増の28議席を獲得した。こうして49議席となり、前回の当選者数と併せると80名に達した。これに2名の共産党議席を合わせると、参議員においても3分の1を越える「護憲議席の確保」が実現した。 |
【経済白書「もはや戦後ではない」】 | ||
7.17日、経済企画庁「経済白書」(後藤誉之助調査課長)で、「もはや戦後ではない」と新た経済目標提示(「日本経済の成長と近代化」)→高度経済成長の出発を宣言。
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【国労新潟闘争】 |
3.23日、国鉄当局が約束していた年度末手当ての支給を突然に中止したことに対して国労組合員が抜き打ちストライキで立ち上がった。当局は直ちに春闘を含む違法ストに対する処分を行うとの強硬態度を表明した。国労はこれに対抗して処分反対闘争を固めていった。「処分が出たら自動的に春闘以上の実力行使に突入する」と声明した。 6月、広島地本が二日間山陽線のダイヤを混乱させた。 7.9日、当局が2名の新潟地本執行委員の解雇を発表。地本は、即日遵法闘争を指令し、7.10.11両日職場大会を開き、管内の貨物列車をストップさせた。 7.15日、遂に無期限ストを指令した。この時新潟管理局は組合の反撃の強さに圧倒されて妥協と後退を約さざるを得ないところに追い詰められた。 ところが、7.16日、国労本部が地本の反対を押し切って闘争中止指令を出し、総評指導部もこれを支持した。地本は涙を呑んで闘争を打ち切り、立ち直った当局が一挙に処分攻勢に出た。地本と支部の指導的活動家(その殆どは共産党員と革同派幹部)の首切りを発表し、次いで第二組合が作られるという結果となった。新潟闘争を境に大田・岩井の総評指導部は「長期低姿勢論」を打ち出していくことになった。何と!宮顕党中央もまたこの「長期低姿勢論」に同調し、闘争の支援と拡大を拱手傍観する態度を取った。「階級的、政治的」という用語を飾っていたものの「敵は優勢、味方は劣勢論」を頻りに説き始めた。 ここに我が国の労働運動の変調な特質が凝縮している。地方で闘いが起った場合これを中央が支援するのが自然であるが、押さえ込みにかかるという癖がある。 |
7.29日、重光外相が主席全権、松本俊一全権、下田武三条約局長ら一行団が訪ソ。シェピーロフ外相、フェドレンコ外務次官、クルジュコフ極東部長らを相手に8.1日より交渉が始められた。交渉は難航し、日本側は重光外相と松本全権の足並みが揃わぬ醜態を演じることになった。結局この時の交渉は何一つ進展させず、8.15日失意の帰国となった。
【総評第7回大会】 |
8.25日、総評の第7回大会開催。 |
【「第8回中総」】 |
9.10−12日、「第8中総」。「志田問題について」の決定を行った。「しかし、この処置は極めて奇怪なやり方で為された。規約第38条に基づき、志田を中央委員の地位から罷免すると同時に、『志田君が自ら党員としての権利と義務を放棄し、党員としての一切の資格を失ったことを確認する』というものであった。つまり、除名処分ではなく、『離党の確認』であった」(しまねきよし「もう一つの日本共産党」P121)。 |
9月、神山『スターリンの業績と害悪、個人崇拝の一般特殊的条件とその克服方法などの問題についてはもうだいたい知られている=率直な意見-トリアッティ提案を読んで←「世界」)』。党も神山もこの程度だった。 |
【「中国共産党第8回党大会」】 |
bPの毛沢東(党主席兼国家主席)とbQの劉少奇(同副主席)間に微妙な対立が発生していた。 |
【椎野罷免処分される】 | |
志田が放逐されて以降のこの頃かっての「臨中」議長で追放後地下に入って志田の最大の協力者となった椎野に対しても、地下時代の婦人同志への不道徳行為により党の調査が及ぶようになった。椎野もこれを拒否し、敵対的態度をとったため「規約第38条に基づき中央委員の地位から罷免する」処分が行われ除名された。こうして志田重男と椎野悦郎が相次いで失脚させられた。志田の離党も確認された。
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【トラック部隊依然暗躍】 |
56.9月、大江らが東芝産業をデッチあげ、村上順一に北海鋼業乗っ取りをやらせようとして失敗したのがこの頃である。合併問屋三社の主導権掌握騒動の失敗が絡んでいる。結局、党の特殊財政部のトラック部隊の暗躍は、当時の数億の収奪をもたらし幾多の中小企業者と下請け零細業者を倒産させた。 党は、「党と無関係であり、日本共産党を陥れるための謀略である」との見解を発表している。武井昭夫が蔵原統制委員に尋ねたところ、「党はトラック部隊を関知しないから、致し方ない。君もそんな話は聞くな、手を引くのだね」と回答されたと伝えられている。「我が党が調査した結果、六全協前でも党中央が中小企業から詐欺横領で一銭の党資金も獲得したことはない」が公式回答であった。わざわざ「党中央が」との文句を挿入して切り抜けようとする詭弁が為された。未解明であるが、「トラック部隊」と宮顕の絡みが噂されている。 |
【砂川闘争】 |
この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。 |
原水禁運動では、ソ連の核実験の賛否をめぐって混乱が生じ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより、原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないという事にもなったようである。その他授業料値上げ反対闘争にも取り組んだ。 |
【日ソ国交回復交渉】 |
日ソ交渉は、5月の河野農相のモスクワ入りで本格化し、8月には重光外相を主席とする全権団を派遣していたが、領土問題で行き詰まっていた。この経過を踏まえて、鳩山は、領土問題を棚上げして、平和条約でなく戦争終結宣言で日ソ間の国交回復を期するという「鳩山方式」の意向を固めていった。 10.7日、鳩山全権団(鳩山夫妻、河野農相、松本滝蔵官房副長官ら)が羽田を出発、鳩山は空港で「至誠天に通ず」と述べた。鳩山の引退花道となった。10.12日モスクワ空港にはブルガーリン首相が出迎えた。この時のフルシチョフの宴会発言が鳩山によって次のように明かされている。「日露戦争では我々が日本に負けた。しかし、あの時は革命前の腐りきった軍隊だから負けるのが当たり前だった。ところが今度はどうだ。ノモンハンでも張鼓峰でも、君達の兵隊は、そこに座っているジューコフの軍隊に全滅にされたではないか」。つまり、戦争に勝ったのだから、千島を取るのは当たり前だという強い認識であった。10.13日から交渉が開始されたが、ソ連側はブルガ−リン首相、ミコヤン副首相以下最高の顔ぶれが登場し、並々ならぬ待遇を見せている。実際の交渉はフルシチョフ党第一書記がしきった。 10.19日、結局、領土問題はまとまらず棚上げしたまま、@・戦争状態の終結、A・大使交換、B・抑留者の送還、C・漁業条約の発動、D・日本の国連加盟への支援という5項目を盛り込んだ10項目からなる日ソ国交回復の共同宣言を、クレムリン宮殿でブルガーニン首相との間に締結した。領土問題については、概要「歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すことに同意する。但し、現実には日ソ間の平和条約締結後に歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すものとする」と明記されていた。 帰途ワシントンを経由するが、アメリカ政府の態度は冷淡で首脳会談はセットされなかった。 |
10月、教育委員を、公選制から首長による任命制に変更する。
【ポーランド・ハンガリー事件】 |
56.10−11月、ポーランド・ハンガリー事件が起こった。6月にポーランドのポズナニで反政府暴動が起った。民族派のゴムルカの復活で収拾されることになった。 同日、ナジ政権の閣僚全員が逮捕され、カダル(1912〜89、任1956〜88)を首相とする新政権が成立した。ブダペスト市民はソ連軍に激しく抵抗し、市街戦を展開したが、多くの死傷者を出して約2週間後に鎮圧された。そしてナジは、1958年に処刑された。 |
【スターリン批判からポーランド・ハンガリー事件の流れに対する党中央の態度】 |
党は、このソ連軍の行動を、「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてハンガリーに対するソ連の武力介入を公然と支持した。但し、党員の中には、マルクス主義理論及び実践の根源的再検討を要する事象として受け止めようとする者も輩出した。党中央はこの動きに対して、「自由主義的分散主義」、「清算主義」などのレッテルを貼り、官僚主義的統制で対応していった。 このことが、学生たちの憤激を呼び党から離反させる強い契機となった。早大.一政委員会は抗議声明を出し、ソ連大使館に抗議文を手交している。この時早大細胞は沈黙している。但し、高野秀夫は、「ハンガリー出兵に対して、断固たる抗議行動が行えなかったのは、日本学生運動の恥辱である」とも述べている。 こうした「衝撃、動揺、懐疑、憤激」を経て、全学連の幹部党員の間には、もはや共産党に見切りをつけて既成の権威の否定から新しいマルクス主義本来の立場に立った新しい運動組織を模索せしめていくことになった。この時既に先進的学生党員は一定の運動経験と理論能力を獲得していたということでもあろう。 |
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10.30日、スエズ運河で、英仏軍が軍事行動。
【鳩山首相が辞意表明】 | |
11.2日、鳩山首相が辞意表明。この時後継を指名せず、歴史の流れに任せた。
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11.12日、臨時国会を召集し、11.27日、日ソ復交関連の法案が賛成365票の満場一致で解決される。但し、池田ら旧吉田派の75名は欠席している。
11.5〜7日、全国書記会議開催。「中央及び下級組織の強化と地方委の任務の明確化について」を決定。 |
【「第9回中総」】 |
11.7日、「第9回中総」。第7回党大会準備のための「綱領」.「規約改正」の各委員会とともに「50年以後の党内問題の調査」の委員会設立を決定した。春日(正)を責任者とし、野坂参三.宮本顕治.蔵原惟人.紺野与四郎.志賀義雄.西沢隆二他に岩林虎之助.多田留治.竹中恒三郎.原田長治も委員となって、50年以来の経過を詳しく調査していくことになった。「規約改正委員会」は責任者を紺野与次郎とし、伊井弥四郎.戌谷春松ら8人の委員が草案を練った。「『50年問題』の教訓から民主集中制の原則とその保障についての具体的規定に努力がはらわれた」とあるが、どのように改正されたのか検討されていない。 |
11.14日、社会党右派の重鎮・三輪寿壮が逝去。享年61歳。
11.20日付け「常任幹部会」の「椎野問題に対する経過」という文書で椎野の罷免が発表された。ここに、50年分裂後の徳田主流派の最高指導部にあった三人の幹部伊藤.志田.椎野という全党に威力をふるった指導分子が揃いも揃って失脚させられたことになる。 |
【日本トロツキスト運動開始される】 |
この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。 ハンガリーに対するソ連の武力介入を党が公然と支持したことが、学生たちを離反させた。スターリン批判と「六全協」での自己批判により、一転して従来の軍事方針は間違いであったと発表したことが、党の無謬性神話が崩れ、全学連の幹部党員の間には、新しいマルクス主義本来の立場に却って共産党に見切りをつけて新しい組織を模索していくことになった。スターリン以前の国際共産主義運動の再評価から急速にトロツキズムに傾いていくことになった。新左翼の系譜始まる。日本共産主義労働者党→第4インター日本支部準備会発足。第4インターは、日本トロツキスト連盟→日本革命的共産主義者同盟へ。 この背景には、党がソ連20回大会以後の国際共産主義運動の転換とその発展を洞察する能力に欠け、スターリン批判に対しても共産主義者として責任ある自主的な態度で受け止めることが出来なかったことと関わっている。当時既に党に批判的立場にあった学生運動の活動家は、スターリン批判とハンガリー事件から受けた衝撃から動揺、懐疑、憤激を呼び起こし、それが既成の権威の否定へと発展していき、トロツキズムの発生の契機となった。その根底には、日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現した、とみなされている。 |
【「民青同」結成】 |
この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。こうした時期の56.11月に日本民主青年同盟(民青同)が発足している。民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟」の建設の方向を明らかにしていたが、進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、あくまで宮本式指導の下で青年運動を担おうとしたいわば穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前・戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうと し、この時の党の指導にも従おうとした党員学生活動家が民青同に結集していくことになった、と思われる。 |
12.1日、社会党左派の政策通・伊藤好道が逝去。享年55歳。
12.9日、早大.松尾隆、自宅で心筋梗塞のため死亡、49歳。 |
12.17日、「日共の資金収奪組織明るみに、詐欺、横領、乗っ取り、中小企業荒らすトラック部隊」なる記事が日本経済新聞に掲載される。それによると、「」 |
12.8日号「エコノミスト」に「財界と新党首問題」という毎日新聞記者の座談会記事が掲載されている。「社会党に対しては同友会を通じていけばよいし、共産党に云いたい時は日経連を使う。こんなぐあいに刀の使い分けをするわけだ」。賃金についても、最低賃金制についても、全銀連6行提案についても、日経連と同じことばかり云いつづける共産党との奇妙な思想的な繋がりを、新聞記者でさえ見抜いていた。
12.18日、国連総会でソ連の賛成も得て日本の加盟が可決された。従来国連への加盟はソ連の反対にあって退けられてきた。日ソ共同宣言の実現により可能となった。
【第三次鳩山内閣退陣】 |
12.14日、自民党臨時大会を開き、鳩山首相が正式に辞任した。 12.18日、日本の国連加盟が可決された。 12.20日、第三次鳩山内閣退陣。「明鏡止水」 |
【後継争い激化】 | |
後継争いの激化について、「自民党派閥の歴史」は次のように記している。
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【熾烈極めた自民党総裁選】 | |
鳩山内閣退陣の後を受けて自民党総裁選が戦われた。12.14日、第一回公選結果は、岸223票、石橋151票、石井137票。岸は圧倒的多数で一位となりながら過半数には達せず、二位の石橋との決選投票に持ち込まれた。誰もが岸総裁実現と思いきや、石井グループが石橋支持に回りいわゆる2、3位連合(決選投票の場合、第1回投票で上位になった者に票を集める)で石橋258票、岸251票、無効1、棄権1となり、石橋が7票差という歴史的僅差で岸を破った。 北門政二氏の「田中角栄大軍団101人」は次のように記している。
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【石橋内閣が成立】 |
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12.23日、石橋湛山が2代目自民党総裁に選出され、湛山内閣(56.12.23〜翌年
2.23日、総辞職)が成立した。但し、総裁公選のしこりで組閣や党人事が難航した。官房長官・石田博英(42歳)、幹事長・三木武夫(49歳)。 外相・岸、蔵相・池田(58歳)、みんな若かった。法相・中村梅吉、文相・灘尾弘吉、厚相・神田博、農相・井出一太郎、通産相・水田三喜男、運輸相・宮沢胤勇、郵政相・平井太郎、労相・松浦周太郎、建設相・南条徳男、経済企画庁・科学技術庁長官・宇田耕一、国家公安委員長・行政管理庁長官・大久保留次郎、自治庁長官・田中伊三次、北海道開発庁長官・川村松助らの面々の布陣となった。この時池田は「私はウソを申しません」。岸外相。外務省畑出身以外の『素人大臣』外相任命は岸が最初の慣例破りとなる。 岸外相の背景は次の通り。石橋首相が密約に拘り石井を副総理に任命するなら協力できない。挙党一致態勢を取るというなら、入閣に応ずる。こうして石井副総理案が潰れ、岸は副総理格の外相として入閣することになった。「自民党派閥の歴史」は次のように記している。
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推定党員数36.000名。
【「戦後革命論争史・上下2巻」発売される】 |
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この頃、上田耕一郎名義で「戦後革命論争史上下2巻」が大月書店から刊行された。同書は当時の左派運動圏からの反応がよく、上田・不破兄弟登竜の足掛かりとなった点で大きな意味を持つ。ところが、上田・不破両氏はその後絶版を指示して今日に至っている。これにつき、安東氏は、「上田は惜しむらくはこの名著を現在まで絶版にしたままである。公認の党史と矛盾、撞着する論述もさることながら、おそらく巻末の日本革命論が現綱領と相容れないためであろう」と指摘している。
ところが、最近判明したことは、上田と不破がこの労作を書き上げたとされてきたが、実際は違うようである。「上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯の裏話し(真相)について、宮地氏のホームページの爆弾内容」を紹介する。石堂清倫氏と宮地氏の間に交わされた手紙3通と書評によれば、『戦後革命論争史』出版の経緯について次のように明らかにされている。 石堂氏は、上田・不破共著『戦後革命論争史』の出版と廃刊の経緯を知らない人が多いようですから一筆しておきますとして、以下のように述べている。れんだいこが意訳して概要を整理した。詳しくは宮地健一サイト「共産党問題、社会主義問題を考える」で確認ください。 |
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沖縄で、米軍による強引な土地収用が始まり、これに対する「島ぐるみ闘争」が展開された。
(私論.私見)