第15部 1954年当時の主なできごと.事件年表
党中央志田派混迷、宮顕派との妥協模索。

 (最新見直し2007.6.27日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第2期、党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。

1.1

1.1日アカハタで、1.1決定を発表し、従来のセクト主義を反省する。 

1.15

総評が推進役となって「憲法擁護国民連合」(議長片山哲)が発足。以後本格的に改憲と護憲勢力が対立し合うことになる。

1.21
1月

1月「造船疑獄」事件。海運業者の不明朗な政治献金が暴露され、造船業界首脳と運輸省と経済企画庁の高級官僚が検挙された。騒動は発展し、佐藤自民党幹事長も贈収賄容疑で逮捕寸前となる。吉田首相の命を受けた犬飼健法相が指揮権発動し、佐藤の逮捕許諾請求を拒否するという事件が起こった。佐藤は逮捕を免れた。

1月 北京.ソ中両国の援助で党学校、設置.関係者千数百人〜二千人。日本より潜行してきた者、100名ぐらいをふくめ、学生数、約1,200名.日本人責任者は高倉テル、河田賢治。高倉テル氏に、スターリンより「金時計」、周恩来より「金瓶梅」の贈り物。5全協の軍事方針を遂行するために軍事カードル(のち白山丸で帰国.各級機関に配置)が、1953年から多数中国で教育されたことをみても……。
1月 共産党.アカハタがセクト主義克服を主張、志田の終戦準備の体制堅め?。春,安東復党。
2.16 東京地検特捜部、自由党副幹事長有田二郎逮捕の許諾を国会法第33条に基づいて請求。
2.23 衆議院本会議有田の期限付逮捕許諾(3月3日まで)を可決→有田逮捕→つづいて自由党衆議院議員2人と参議院議員1人、運輸省官房長を逮捕→東京地検特捜部、自由党幹事長佐藤栄作(後の首相)、池田勇人自由党政調会長(後の首相−−2人とも吉田政権を支える政治資金集めの中心人物)に任意出頭を求め取り調べる。
3.1 ビキニ.第1回水爆実験。これ以降、吉田嘉清、原水爆禁止運動に参加。
3.1

3.1日アカハタ日刊となる。

3月

3月から5月ベトナム人民軍の対フランス軍戦争い勝利した。1万6千人のフランス軍が立てこもる要塞ディエンビエンフーを周到な準備に基づいて包囲攻撃し、激戦の末これをうち破った。 

3.1

第5福龍丸がビキニの米水爆実験で放射能被災。

3.8

日米相互防衛援助協定(MSA)に調印。

3.23

春日正一中央指導部議長となる。

4.13 吉田内閣の副総理・緒方竹虎が「保守合同は爛頭の急務」声明を出している。この流れを三木武吉が推進していくことになる。
4.21

造船疑獄で、犬養健法相の指揮権発動。検事総長に対して指揮権発動=「自由党幹事長佐藤栄作の逮捕許諾を請求しないよう」指示し、自由党佐藤栄作幹事長が逮捕を免れる。4.22日犬養法相辞任。

4.22

全日本労働組合会議全労会議結成、議長滝田実。

4月軍事委員会は、中核自衛隊の任務として「サークル組織の行動中核」として活動することを指示する。

5.7

インドシナ戦争で仏軍ディエンビエンフー陥落。

5月下旬全国組織防衛会議を開き、第二次総点検運動の結果を総括する。官僚主義が猛威をふるう。                  

6.2

防衛庁設置法、自衛隊法成立

6.2 近江絹糸労組スト突入。
6.3 衆議院本会議、堤議長の要請で警官200人院内に出動→改正警察法を巡り「乱闘国会」

6月−10月前衛その他に神山批判カンパニアが展開され、9.27日神山派の除名と処分が発表される。

6.9

保安隊が自衛隊に拡大。

6.16 検事総長、収賄容疑での佐藤栄作の逮捕を断念するとともに、政治資金規制法違反での起訴を発表
7.1日 自衛隊発足。

7月ベトナム.ラオスの独立。ジュネーブ協定が調印された。

7月中旬

第7回大会を10月に予定していた新日本文学界は、2年三ヶ月勤めていた花田清輝の編集長更迭。後釜に中島健蔵。

8月阪神地区で西川派が労働者解放同盟を結成し、独自活動を始める。

かって日本自由党の創立者の一人であった鳩山一郎は吉田と対立し自由党を脱退し日本民主党をつくった。造船疑獄発生。
8.10 衆議院決算委員会、検事総長の証人喚問を決定。
8.27 共産党.神山茂夫除名。
9.6 佐藤藤佐(とうすけ)検事総長、指揮権発動で捜査に支障と証言→吉田首相の喚問を決定→吉田喚問拒否→衆議院決算委員会吉田首相の告発動議可決。
9.9 ダレス国務長官来日.(岩波年表)
9.20

9.20日神山兄弟、林久男、栗原幸二(青木の出版部員)らを「反党分子」として除名される。神山派と目された17名の名が挙げられた。渡部徹、川島優、小山弘健、寺尾五郎、浅田光輝、新井吉生、茂木六郎。

9.24 第五福竜丸無線長久保山愛吉、死去。

 9月、両社会党は、交渉委員を選んで、綱領の検討に着手。

11.9

吉田.アイゼンハワー会談。「共産圏からの絶え間ない攻撃の脅威に立ち向かうため、自由主義の個々が密接な連携を保ちなが協力しなければならない」ことが確認された。

11.24

日本民主党結成。総裁鳩山一郎 、副総裁重光、幹事長岸の布陣。「反吉田」勢力の結集となった。寝業師三木武吉活躍。

12.6 民主党と両社会党、共同で内閣不信任案提出。
12.7

造船疑獄を直接の契機として吉田内閣総辞職。

12.7

選挙綱領を発表する。

12.9

吉田内閣を総辞職に追い込み、 10月以後、インドシナ休戦協定7がつを契機に、地下指導部の武装方針と非公然体制の転換についての国際的指示が発せられ、徳田派の中間は野坂.紺野.西沢と志田.椎野派の話し合いが行われる。

12.10

【第一次鳩山民主党内閣成立】鳩山を首相とする第一次鳩山民主党内閣()が成立した。鳩山にとっては組閣寸前での公職追放以来雌伏9年でようやく回ってきた首相の座となった。組閣参謀は、総務会長三木武吉、岸、重光、松村、大麻唯男、石橋、河野らであった。「寄り合い世帯」による「寄り合い内閣」。「明朗にして清潔な政治を」。

12.15 ソ連新指導部のモロトフが、「ソ連は中国とは別個に単独で日本と国交回復交渉を持つ用意がある」との声明発表。

推定党員数62.000名。

【伊藤律査察】
 時期が確定できないが55年初春頃にかけて監獄に留置された伊藤律の様子見に西沢、紺野、宮本太郎が訪れて、反復して査問している。「アメリカ帝国主義のスパイの事実を白状しろ」と迫った。



【日共「1.1決定」を打ち出す】

 1.1日、アカハタで、「平和と民主主義を守る国民の大統一行動をめざして」なる「1.1決定」を発表した。これが右翼的転換の出発点となった。概要「54年の『1.1方針』以来、党は、それまでの極左方針とうってかわった。ずぶずぶの日和見主義の本性を丸出しにし始めた」(田川和夫「日本共産党史」)。

 「三反(反米・反吉田・反再軍備)」統一戦線の強化を闘いの中心に据えることを全党に指示した。概要「三反統一戦線は如何にして強化されるか。それは、国民大衆は全てその日常の生活において米日反動どもと直接に対決しているから、国民の平和と民主主義と生活を守るための日常の諸要求を徹底的に取り上げ、行動の統一を拡大することによってである」と述べている。「この1.1方針以降、大衆の要求ということを非常に尊重していったが、それは自己の日和見主義を隠蔽する隠れ蓑に使われたに過ぎなかった。そして1.1方針に基づいて、機関紙テーゼ、組織テーゼ、労働運動方針など一連の方針が発表されたていったが、それは全線線にわたって、無原則極まる統一と団結論をはびこらせる結果となつていった。そしてかかる統一論は理論戦線・文化戦線にも反映し、やたらと『国民的』なる言葉が創造されていく」(田川和夫「日本共産党史」)。

 「1.1決定」は、従来のセクト主義を反省して次のように述べている。「一切の極左冒険主義とはっきり手を切ることを国民大衆の前に明らかに講評する」。

 この頃から「敵は優勢、味方は劣勢、闘いは長期且つ困難」という方針が打ち出され始めており、労働争議において尼鋼ストに対しては「尼鋼資本家は日中貿易を推進する民族資本だからこれと徹底的に闘うべきではない」、日鋼争議に対しては「この争議は一企業体との闘争によって解決できるものではなく、米日反動とその政府に対する国民の統一闘争によってのみ解決し得るものである」などと云って、ストライキの終結に血道を上げ始めることになった。

(私論.私観) 「1.1決定」をどう見るか

 この「1.1決定」の史実は知られていない。この資料は田川和夫氏の「日本共産党史」よりいただいたが、田川氏はこれを徳球指導部の末路としてこれを描いている。れんだいこは違うと思う。この「1.1決定」は宮顕特有の論理及び論調であり、してみれば54年初頭期において宮顕が党中央を掌握していることを物語る。してみれば、「1.1決定」の分析は非常に貴重ということになる。

 「54年初頭期における宮顕の実質的党中央登壇」となると、これは過去の党史論を塗り替える衝撃性があることになる。今はこれにて筆を置く。


 1.27日、ラストヴォロフ事件。


【「左派社会党大会」開催】

 この大会で、「左派綱領」が採択された。「左社綱領」は、社会主義協会の中心的メンバーの一人であった稲村順二を綱領委員長として起草された。社会主義協会の理論が、はじめて社会党の綱領に具現したことに史的意義を持つ。社会主義協会路線は、特に三池炭鉱労働組合に影響を与え、1959(昭和34)〜1960(昭和35)年の三池闘争を勃発させる。この時、社会主義協会は総力をあげて支援した。

 この時、高野実が更に左寄りの立場から原案反対を主張し、左派主流に挑戦していた。この時点での高野は、共産党の51年綱領に非常に近かった。この綱領論争をきっかけに、左派社会党内部の高野支持派は、松本治一郎を中心とする「平和同士会」に結集し、深刻な対立を発生させた。この頃総評内部では、大田薫、岩井章らが左派主流と反高野連合を形成し始めており、高野派追い落としに動いていった。

 つまり、この時機は左派・総評ブロックが右派に対すて勝利していく過程であったが、その内部では更に分岐が生じつつあり、当時の実力者高野派に対する若手派グループの台頭が渦巻いていたことになる。


 こうして、「左派綱領」が採択されたが、社会主義協会(51年発足、旧労農派)の向坂逸郎らの協力の下に制定されたものであった。その骨子は次のようなものであった。日本は「高度に資本主義が発展した国であり、金融独占資本の支配する国である」が、同時にまたアメリカの経済的・政治的・軍事的支配力に依存した「従属国」である。したがって「日本の労働者階級は日本独占資本を打倒する社会主義革命という本来の歴史的使命とともに、民族独立の回復と平和の維持という、解決をせまる重大な任務のまえにたたされている」。また革命は「平和的に、民主主義的な基盤のうえにのみおこなわれる」。

 左社は一方で新綱領の策定を進めながら、他方ではその陰で右社との統一を探っていった。

(私論.私観) 「社会党左派綱領」をどう見るか

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように論断している。

 「協会派の諸君によって『マルクス主義的綱領』と賛美された『左社綱領』だが、戦前の労農派が抽象的には『社会主義革命』を提起しながらも、実践的には労働者階級の闘いをブルジョア民主主義の実現にすり替えたように、この綱領もまた口先では左翼ぶって『社会主義革命』をもてあそびながらも、実際にはそれを『本来の歴史的使命』というお題目に祭り上げ、直面する重大任務は『民族独立の回復と平和の維持』だとして、労働者の闘いを小ブルジョア的な民主主義・平和主義・民族主義の運動に押し込めてしまうのである。そして労農派の合法主義の伝統を受け継いだ『平和革命』論である」。

【「造船疑獄」事件】

 1月、国家資金による計画造船融資をめぐっての海運業者の不明朗な政治献金が暴露され、造船業界首脳と運輸省と経済企画庁の高級官僚が検挙された。こうして昭電疑獄と並び戦後最大の疑獄事件が発覚した。1.14日、山下汽船社長・横田愛三郎が特別背任で逮捕され、1.21日には塩山ドック社長・泉正明が贈賄で、1.25日には運輸省官房長・壷井玄剛が収賄で逮捕された。3.11日、飯野海運社長・俣野健輔、播磨造船社長・六岡周三が逮捕された。

 騒動は発展し、時の自民党幹事長・佐藤栄作も贈収賄容疑で逮捕寸前となる。4.14日、佐藤幹事長は検事正官舎に出かけて、河合信太郎検事の取調べを受けた。吉田首相の「断じて逮捕させてはならない」命を受けた犬養健法相が4.20日、重要法案審議のの為の必要を理由に検察庁法第14条の指揮権発動し、佐藤の逮捕許諾請求を拒否するという事件が起こった。佐藤は政治資金規正法違反で起訴されたものの逮捕を免れた。この起訴も、1954.12月の国連加盟に伴う恩赦で免訴となる。

 この指揮権発動は前代未聞であり、4.22日、犬養法相は辞任。佐藤の容疑とは、前年の1月に成立した「外航船舶建造融資利子補給及び損失補償法」を海運業界に有利な内容に変更するよう尽力。その見返りとして、同年8月に党資金の名目で2千万円、個人的に2百万円のギフトチェックを受け取っていたというものであった。


 この時指揮権を発動してでも佐藤幹事長を救った吉田の弁は次の通りであった。「佐藤君は、選挙資金、党資金として献金を受けたのだ。その事実は、私が承知している」、「政府は信念を持って、指揮権を発動した。一体、汚職という内容は何か。流言飛語である。なぜ、幹事長を逮捕しなければならないのか。政党の会計簿が不十分なのは当然である。寄付するものも、受ける者も、名前を出したくないのが人情である。逮捕しなければ、証拠が集まらないというのでは、検察当局の能力を疑わざるを得ない。こうした結果は、民主主義の破壊である」。しかし、この吉田の理屈は通らなかった。マスコミは「暴走演説」と評し、野党もこぞって反発した。


【「保全経済」事件】

 1月、再開された第19回通常国会で、保全経済会事件が政治問題として発火した。保全経済会は、第三国人の伊藤斗福を理事長に、月5分から8分の高配当で集めた金を、高利でヤミ金融していた匿名組合であった。社会党右派の平野力三たちが有給顧問に座っていた。1953年秋に倒産したが、検察庁の手入れによって、伊藤が相互金融の立法化を狙って政界に金をバラ撒いていたことが判明した。「保全」の金は自由党にとどまらず、改進党、分自党、右派社会党にも流れており、与野党の「共同責任」事件となっていた。2.1日平野は喚問され、

 この時爆弾証言をした。広川派に三千万円、改進党にも三千万円、三木武吉に一千万円渡っていると伝聞も含め証言した。与野党総汚染の構図となり、何とかおさまった。


【「第五福竜丸被爆事件】
 戦後ミクロネシアの新たな支配者となった米政府は、マーシャル諸島を核実験場に使用し始めた。1946.2月、ビキニ環礁の島民を他の島に移住させ、6月の最初の原爆実験を皮切りに、その一年後には国連の信託統治協定というお墨つきを得て、エニウェトク環礁の島民も追い出し、二つの環礁を核爆弾の実験場にすることになった。

 1946年から58年までに米国が二つの環礁で行なった核実験は67回。このうち最大のものが、1654.3.1未明に西太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁(かんしょう)の東160キロの海域で行なったブラボー水爆実験であった。爆発の規模は15メガトンで広島原爆の千発分に相当した。

 この時、静岡県焼津市のマグロ遠洋漁業船第五福竜丸が放射能を含(ふく)んだ死の灰を浴び、乗組員23人全員が急性放射能症(しょう)になった。被爆(ひばく)者のうち無線長の久保山愛吉(くぼやまあいきち)さん(40)は「原爆被害者は私が最後にしてほしい」と言い残し54年9月23日に死亡した。

 広島、長崎で被爆した体験を持つ日本国民は3・1ビキニ事件に大きなショックを受け、抗議運動を開始した。全国から3200万人を超(こ)える原水爆禁止の署名が集まる等我が国の反戦平和運動の盛り上がりの契機となった。翌年1955.3.1日には「3・1ビキニ・デー」が取り組まれ、同年8.6日に広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。同年9月には原水爆禁止日本協議会が結成された。

 以来、日本の原水爆禁止運動は、核戦争阻止、核兵器廃絶、被爆者援護・連帯の3つの基本目標を掲げ、この運動を日本中に、さらに世界にひろげ、前進させて行くことになった。

 3月から5月、ベトナム人民軍の対フランス軍戦争い勝利した。1万6千人のフランス軍が立てこもる要塞ディエンビエンフーを周到な準備に基づいて包囲攻撃し、激戦の末これをうち破った。 


 3.8日、岡崎勝男外務大臣とD・アリソン米駐日大使との間で、MSA(相互保障協定)が結ばれた。この協定を、防衛関係法案や警察法改正案と共に、初めて警察官を導入した会期延長による強行採決で成立させている。


【宮顕の警視庁出入りの様子】
 4.6日、宮顕が警視庁2階にある七社会(記者クラブ)へ現れて記者会見している。鈴木卓郎の「共産党取材30年」に拠れば、「団規令による潜行幹部の捜査は不当だ、と警視庁へ抗議にきた際のことだと思う」とある。

(私論.私観) 「鈴証言」について

 この証言は、党が非合法にされているこの時期に宮顕が警視庁に出入りしていることが裏付けられ貴重である。


 4.19日、音羽の鳩山邸に、自由党の鳩山、石橋湛山、岸信介、改進党の重光葵、松村謙三、日本自由党の三木武吉が集まり、「11月の臨時国会を目標に、新指導者、新組織、新政府で、反吉田新党を結成する」と、申し合わせた。


 5.14日、池田隼人が佐藤栄作に代わり幹事長就任。この時、田中角栄が副幹事長になっている。


 5.29ー31日、オランダのビルダーバーク・ホテルで、世に云うビルダーバーク会議が開かれた。主宰者は、オランダのユリアナ女王の夫君であるハプスブルク家のプリンス・バーナードであった。このホテル名がこの会議の通称として使用されることになる。極秘エリート会議に招待されるのは、ヨーロッパの国王、首相、大統領、大臣、大使、大企業家、国際金融財閥、米国の民主・共和党議員である。 


【神山派批判カンパニアが展開される】
 6月−10月、前衛その他に神山批判カンパニアが展開され、9.27日、神山派の除名と処分が発表される。

【この頃の学生運動】

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。 


【全学連第7回大会】

 6月、全学連第7回大会が開かれた。学科別のゼミナール運動を行う方針が決められた。また、サマーキャンプ、大学祭、歌声運動などの運動が強められるようになった。7月全学連代表がにIUSの副委員長に選ばれた。


【吉田内閣時の参議院本会議で、「自衛隊の海外出動禁止決議」】
 6.2日、鳩山内閣は、参議院本会議で、「自衛隊の海外出動禁止決議」をしている。「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議。本院は、自衛隊の創設に際し、現行憲法の条章と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、海外出動は、これを行わないことを、茲に更めて確認する。右決議する 」。

【自衛隊発足】
 7.1日、陸海空の自衛隊発足。当時の米軍事顧問団幕僚長・フランク・コワルスキーは、著書「日本再軍備」の中で、「国際情勢のためとはいえ、理想主義的憲法を踏みにじり、国民がきっぱり放棄した戦力を再建せねばならなくなったのは悲しい」。

 7月、ジュネーブ協定が締結され、ベトナムが南北に分断される。


【原水爆禁止全国協議会(「原水協」)が結成される】
 原水爆禁止の署名運動の高まりの中で8.8日、原水爆禁止全国協議会が結成され、翌55年第一回の原水爆禁止世界大会が開催されることになった。

 機密文書。この頃のアメリカの対日政策は、「日本に必要なのはなるべく早い時期に、実力のある安定した保守政権であり、現在の弱い不安定な保守政権と交替することである」。こうして、「強力な保守党の育成」が目指されることになり、財界首脳の要望ともなっていた。吉田氏は引退して長老になるべきである。しかし、吉田の留任と引退のいずれがアメリカの利にかなうのかは判断できなかった。「どちらのシナリオもアメリカにとってはリスクがある」とされた。 


8月、「サンフランシスコ講和条約第11条の正当なる解釈に次のような記述が有る。

 警視庁は、アメリカに亡命中の元在日ソ連代表部書記官ユーリー・ラストボロフの供述に基づき、反共の闘士を演じていた外務省職員兼内閣調査室員の日暮信則のほか通産省、外務省職員2人を国家公務員法違反で逮捕し、日暮は東京地検4階で取調べ中に窓から投身自殺した。

 GHQによって治安・防諜能力を喪失させられた占領期の日本では、約8000人以上の日本人工作員がソ連に奉仕していたとも言われており、サンフランシスコ講和条約の発効前後、外務省には今日のチャイナスクール出身者の先輩に相当する革新官僚が蠢動していたであろうことは想像に難くない。

【総評第5回大会】
 高野と太田薫と対立、争い。事務局長のイスを争った結果、140対107で太田は一敗地にまみれた。

【新日本文学界花田編集長更迭】

 7月中旬、第7回大会を10月に予定していた新日本文学界は、2年3ヶ月勤めていた花田清輝の編集長更迭。後釜に中島健蔵。この時の賛否は、更迭賛成派は窪川、国分一太郎、信夫澄子、金達寿、西野辰吉で、反対派は佐多稲子、佐々木甚一、菊池章一、大西巨人、秋山清。異例の挙手採決となり出席委員十名の賛否同数となったが、議長役を務めていた中野が議決参加し、編集長更迭に票を投じ編集長更迭が決まった。更迭反対派の佐多と佐々木は引き続き常任中委に選ばれたが固辞した。

 このときの事を井上光晴はこう記している。「そしてこの微妙な後味の悪さはもっとはっきりした形で新日本文学第7回大会の最終日、新幹事選出にあたって為された宮本顕治の発言と重なっている。それは武井昭夫、井上光晴、関根弘その他が新幹事に加えて推薦された時、その推薦拒否を目的としてなされたものであった」。花田編集長の更迭と共に新日本文学はその溌剌清新な批判精神を失い、すっかり追随的、事大主義的になった。

(私論.私観) 花田清輝の編集長グループの更迭について

 1954年時点で既に宮顕−野坂−志田連合が形成されていますので、いよいよ党中央登壇に王手をかけた宮顕からすれば、新日本文学界・花田グループ、神山グループは用済みになったことを意味し、その限りでは「能力があって目障りなヤツを除けておいたんだ」と高知聡が述べているのも当たっています。付言すれば、高知氏も徳球運動に否定的ですね、そこが私と根本的に観点が違うところです。


 9.13日、日本共産党早大細胞が〃平和への挑戦を団結で粉砕.原水爆禁止運動弾圧に対する学生・市民の斗い.ほか〃。この頃精力的に平和運動に取り組んでいる。


 9.19日、改進党と自由党内の反吉田勢力の接近が始まり、三木武吉が根回しして、鳩山・重光会談が三木・石橋湛山・岸信介・松村謙三らの立会いの下で行われた。


【神山グループ除名される】

 9.20日、神山兄弟、林久男、栗原幸二(青木の出版部員)らを「反党分子」として除名される。神山派と目された17名の名が挙げられた。渡部徹、川島優、小山弘健、寺尾五郎、浅田光輝、新井吉生、茂木六郎。9.27日、神山派の除名と処分が発表される。

(私論.私観) 神山グループの面々について

 神山グループの面々を見れば、必ずしも右派系理論に拠ったのではなくて、それまで宮顕グループにいた者がその理論と運動のやり方に嫌気がさして、もう一人のイデオローグであった神山に接近した様子が見て取れます。しかし、れんだいこから云わせれば、欠点はあっても良質的であった徳球運動に徹底的に抵抗していった自身のインテリ度のぼんくら性に気づかぬままに宮顕から神山の間を右往左往しているように見て取れます。


 9.26日、吉田首相外遊。カナダを振り出しに、フランス、西ドイツ、イタリア、バチカン、イギリスと欧州を周って、11.2日アメリカに到着。11.4日ハマーショルド国連事務総長、11.5日マッカーサー元帥訪問、11.7日ワシントン入り、11.8日ダレス国務長官との準備会談、11.9日アイゼンハワー大統領との会談、11.10日日米共同声明。日本の首相として始めての各国訪問となった。七カ国を歴訪し、延べ52日間にわたる大外遊となった。


 26日夜、青函連絡船洞爺丸が座礁、転覆して旅客1011名が死亡するという海難事故が発生。


 9月、両社会党は、交渉委員を選んで、綱領の検討に着手。主な争点は、社会主義革命の方式に関する点だった。左社綱領は、過渡的な社会党政権のほかに、完全な社会主義政権の実現を目標とし、その終局目標の為には、議会制民主主義に制限を加えることも得ないとする一種のプロレタリア独裁主義の立場にたっていた。これに対し、右社綱領は、徹頭徹尾、議会民主主義のら


 10月以後、インドシナ休戦協定を契機に、地下指導部の武装方針と非公然体制の転換についての国際的指示が発せられ、徳田派の中間は野坂.紺野.西沢と志田.椎野派の話し合いが行われる。


 11.9日、吉田.アイゼンハワー会談。「共産圏からの絶え間ない攻撃の脅威に立ち向かうため、自由主義の個々が密接な連携を保ちなが協力しなければならない」ことが確認された。11.17日53日間にわたった外遊を終えて帰国。


【鳩山ら民主党を結成 】

 11.24日、吉田の支持率低下を見て取った三木武吉らは反吉田攻勢を再開した。吉田首相の帰国を見定めて、かって日本自由党の創立者の一人であった鳩山一郎は、再度自由党を脱退し、自由党内反吉田グループ(鳩自党)、改進党、自由党岸派「8人の侍」を糾合して日本民主党をつくった。参加者は、衆議院121名、参議員18名であった。ここに、自由党に対抗しうる保守政党が誕生した。

 総裁・鳩山一郎 、副総裁・重光、幹事長・岸、総務会長・松村謙三、最高委員・芦田均、石橋湛山、大麻唯男の布陣で、「反吉田」勢力の新保守党の結集となった。これにより吉田首相の政治力が低下した。寝業師三木武吉活躍。岸は当選後1年半足らずで政界の中枢の一角に無視し得ない力を築くことになった。これにより自由党は185名に転落した。


 11.30日、第20回臨時国会が開幕。12.6日、岸民主党幹事長、和田博雄左派社会党書記長、浅沼稲次郎右派社会党委員長が協議し、翌12.7日、民主党、社会党共同で内閣不信任案上程を確認した。吉田首相は最後まで衆院解散での対抗を主張した。「しかし、副総理で吉田が後継総裁に指名していた緒方は総辞職を勧めた。吉田は激怒し、緒方を罷免するとまで言ったが、党内の大勢はすでに総辞職に固まっており、吉田自身が後継に指名していた緒方を自ら罷免するとあっては沽券にかかわるとの説得もあって、吉田は閣議の席を立ち、書斎で辞表を認めると私邸に引き揚げてしまった。閣議は吉田欠席のまま総辞職を決定した」(「自民党派閥の歴史」


【吉田内閣総辞職】

 12.7日、大悶着となったが遂に吉田内閣総辞職。連続6年2ヶ月、第一次を加えれば7年2ヶ月の長期政権に終止符が打たれることになった。

 自由党は吉田に代わって跡目相続していた緒方竹虎の手に委ねられた。退陣前の吉田の鳩山観として、概要「私が辞任するときはだ、私の政策を継承できる人間が、後継者でなくてはならん。鳩山には政権は渡さん。あの病人に何ができる。思想も政策も私と逆だ。憲法改正、再軍費‐‐‐危険だ。あれが天下を取るようなら、私は断じて止めない」と述べたと伝えられている。

 これを鳩山の側から見れば次のようになる。戦後の自由党は、戦前の官に対する民派であった政友会の伝統を踏まえて鳩山一郎を総裁に担いで、三木武吉や河野一郎達が作ったものだ。追放で政界離脱を余儀なくされている間に吉田に一時庇を貸したが、いつのまにか官派が牛耳る党に変貌せしめられていった。それは母屋丸ごとハイジャックされた観がある。今、その母屋を取り返す絶好のチャンスが廻ってきた。


 12月、鳩山が、左右両社会党の協力を得て、吉田後継の緒方を破り、念願の首相の座を占めた。


 12.7日、選挙綱領を発表する。


【「第一次鳩山内閣」が成立 】

 12.10日、鳩山を首相とする第一次鳩山民主党内閣()が成立した。鳩山にとっては組閣寸前での公職追放以来雌伏9年でようやく回ってきた首相の座となった。組閣参謀は、官房長官・根本龍太郎、総務会長三木武吉、岸。外相・重光葵、蔵相・一万田尚登、法相・花村四郎、文相・安藤正純、農相・河野一郎、通産相・石橋湛山、運輸相・三木武夫、郵政相・武知勇記、建設相・竹山祐太郎、労相・千葉三郎、経済企画庁長官・高碕達之助、国務相国家公安委員長・大麻唯男、北海道開発庁長官・三好英之、行管地方自治庁長官・西田隆男らであった。吉田時代と顔ぶれが一新しており官僚出身は4名、党人派による「寄り合い世帯」になったことから「寄り合い内閣」とも云われた。

 鳩山は、政策スローガンとして「明朗にして清潔な政治」を掲げ、大臣公邸の廃止、護衛警察官の廃止、平日の競輪・競馬の廃止、公務員の関係業者との麻雀、ゴルフの禁止、官庁公用車は国産車を優先などを公約として発表した。明らかにそれまでの吉田式官僚政治に対するアンチであった。鳩山は党人派政治家であり、全国に鳩山ブームが起きた。この内閣の政策には、復活しつつあった日本独占資本の要求がこれまで以上に強く反映した。自衛のための憲法改正とソ連との国交回復による日ソ国交正常化と国連加盟を二大政策目標に掲げた。その他、小選挙区制を企図した。

 「自衛のための憲法改正」は、拡張解釈で再軍備を進めていった吉田政治の手法に対する反旗として文言改正を企図した。この時の鳩山の弁は次の通り。「憲法を素直に読めば、吉田君のやってきた警察予備隊から保安隊へというやり方は『白馬は馬にあらず』と強弁するようなものだ。明らかに憲法に違反し、軍備を進めながら、これは軍隊ではないと言う。私は、吉田君のようなウソは嫌いだ」、「憲法を守れない以上は、守れるように憲法を改正すべきだ。国民をだまし、だましながら再軍備を進める。そういうやり方は、議会政治の将来に禍根を残す」。「鳩山一郎回顧録」に拠れば、概要「再軍備と憲法改正は、二つの問題のようで、実は最初から一つに組み合わさった問題」であった。米軍基地の拡張、6カ年計画による自衛隊の大増強が進んだ。


 外交について、前首相の吉田のそれを「向米一辺倒」の「秘密独善外交」と揶揄していた鳩山は、「自主的な国民外交」を対置しソ連との交渉の機を窺うことになった。「吉田の日米交渉に対する鳩山の日ソ交渉」を手がけることを歴史的使命と期していたものと思われる。

 鳩山は、首相就任後の初の記者会見で、「恐れているのは米ソ戦争だ。米ソ戦を防ぐには中ソとの関係を断交状態に置くことは逆効果で、相互の貿易、交通を盛んにすれば自ずから平和への道が開ける」と語っていた。組閣後、農相河野と総務会長三木を招き、「僕の政治家としての使命は、日ソ交渉と憲法改正にある。他の問題は何でも両君の云うと通りついていってもいいが、二つの問題だけは、僕の意見について来て貰いたい」と並々ならぬ決意を語っている(河野「今だから話そう」)。 


 12月、鳩山内閣が、「国土防衛のための武力行使は合憲」との見解を発表する。


 推定党員数62.000名。


【伊藤律スパイの自白を強要される】

 時期が確定できないが55年初春頃にかけて監獄に留置された伊藤律の様子見に西沢、紺野、宮本太郎が訪れて、反復して査問している。「アメリカ帝国主義のスパイの事実を白状しろ」と迫った。


【椎野悦朗軟禁される】

 椎野はこの頃3ヶ月間、長野県のアジトに軟禁されている。この頃はサツキ(労働対策部)もアヤメ(農民運動部)も志田系に牛耳られており、書記局の竹中、松本一三らはそのイエスマンでしかなく、「まったく志田の独断専行一人天下」であった。

 椎野の配下にいた御田秀一(初代共青書記長など)は、この頃「椎野軍事委員長はノイローゼであった」が「椎野軍事委員長は・軟禁・状態に置かれていた」と証言している(増山太助「戦後期左翼人士群像」221P)。


【小松豊吉について】
 「宮本顕治的人間観の対極から(樋口篤)(寄稿・増山太助『戦後期左翼人士群像』によせて、かけはし2000.10.30号)」に、「屍累々--使い捨ての思想」の見出しで次のように記されている。
 党の中堅幹部で、最も悲惨な運命をたどった一人は、小松豊吉(二一一頁)である。彼は東京の三大拠点工場細胞、日電三田(宇田正子も同じ)の輝くリーダー、産別幹事、朝鮮戦争下の党軍事委員会(どこかの`軍司令aと聞いた)。大失敗した政治・軍事闘争のしりぬぐいに五四年に、志田重男の代理として椎野、吉田とともに北京へ派遣されることが指令されたが、前二者は「危険」をさとって拒否。小松だけが行かされたが、北京機関キャップ袴田里見(六一頁)に徹底してしごかれ、絶望してアルコール漬けになる。

 帰国後、東京都中部地区(大阪区)常任となったが除名された。「日本のこえ」常任当時に知り合ったが、アル中がひどくなったくだりは増山の記述通りであり、(私の家にも一升ビンをさげて来たがまだ`末期的aほどではなかった)最後は行路病者として死んでいった。家族にも離別されて……。

 「宮本顕治的人間観の対極から(樋口篤)(寄稿・増山太助『戦後期左翼人士群像』によせて、かけはし2000.11.27号)」に、「絶望し捨てられた党員たち」の見出しで次のように記されている。
 小松豊吉といい、姉歯仁郎(一三頁)――新宿裏のおでん屋台をやってメシを食っていたが「ひとり酒をあおっていた。やつれ果てた姿はまったく生気がなく、廃人のようであった――といい、党に絶望した果てのことである。大村の晩年はどうであったろうか。彼らは、関係者や「部下」たちへの加害者でもあったが、責任のより多くは誤った党指導部の武装闘争による被害者だったのである。

【この頃の宮顕の動き】

 宮顕の「経過の概要」に次のような貴重な史実が記されている

 「1954年末、中央指導部より衆議院選挙への立候補を求められ、これに応ず。選挙後、合法面の中央指導部の一員とされる。五全協指導部より六全協準備への協力を求められ、これに応ず」。

 高知聡・氏の「日本共産党粛清史239P」に次のような貴重な史実が伝えられている。

 「北京の指導部では、西沢隆二を先頭とする暗闘によって伊藤律が失脚し、袴田里見を先頭とする造反によって、徳田球一の指導権も奪われたが、威張りかえる袴田のもとで、志田−宮顕の提携を案出したのは、西沢だった。六全協後の一時期、西沢が権威を保ったのはそのためだ。志田−宮顕の提携を実際に推進したのは、紺野与次郎だとも云われる。或る日、宮顕が北海道に飛んで志田と密談してきた。志田は、一の子分の吉田四郎北海道委員長が使い込みしているが、よろしく頼むといい、宮顕は引き受けたといった。志田は吉田に因果を含めて、乗り切ろうとしたらしい」。
 概要「六全協に至る幹部の地下工作は野合であり、中央委員クラスの規模での討議もなく、志田と宮顕を中心に、野坂、紺野、志賀ら数人が話し合いをもった程度の秘密で全てが決定され、後になってもその過程は全く明らかにされていないのである」。

 これらの記述に拠ると、六全協を待つまでも無く1954年の時点で、宮顕が完璧に党中央に登壇していたことになる。




(私論.私見)