第12部 | 1951年当時の主なできごと.事件年表 |
徳球派党中央極左路線採用す。講和条約締結。 |
(最新見直し2007.6.26日)
この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第2期、党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。
1.1 | 宮顕派の「解放戦線」第1号が発行され、1.20日付けで「党活動」第1号が発刊された。それぞれ党中央側の「内外評論」、「党活動指針」に対応していた。宮本の手になるものと思われる綱領的文書「新しい情勢と日本共産党の任務」が「解放戦線」第1号に掲載された。 |
1.3 | NHK、第1回紅白歌合戦を放送。 復興した歌舞伎座の開場式が行なわれる。 |
1.15 | 全面講和愛国運動全国協議会結成。 |
1.19 | 【社会党第7回大会開催】〜21日。右派の反対を排除、左派が主導権を握る。平和4原則(中立.全面講和.再軍備反対.基地反対)を採択。鈴木茂三郎委員長選出。 |
1.21 | 【宮本百合子死去】宮本百合子死去51才。急死であった。 |
1.24 | 「内外評論」第6号に無署名論文「なぜ武力革命が問題にならなかったか」が発表された。 |
1.24 | 日教組、「教え子を戦場に送るな」の運動方針を決定。 |
1.24 | 山口県麻郷村八海で老夫婦が惨殺される。(八海事件) |
1.25 | アメリカ講和特使ダレス、来日。1.29.31.2.7日吉田首相と会談。 |
1.27 | 川上貫一議員が、衆議院本会議の代表質問で、日本の平和と独立は、全面講和と占領軍の即時且つ完全な撤退によってのみ実現されると主張。発言取り消し要求を拒否。(3.29日国会を除名される) |
1.29 | 吉田茂・ダレス会談始まる。この会談で、講和・安保の骨子が固まる。 |
2.10 | 社会民主党(委員長:平野力三、佐竹晴記書記長))結成。 |
2.11 | ダレス離日。 |
2.13 | 東大.スパイ・査問事件。早大細胞.スパイ=オマタを摘発、早大(文学部)細胞キャップ・松下清雄が東大に連絡。 |
2.14 | 東京、猛吹雪で積雪が30センチに達する。 |
2.15 | 前日からの大雪で、首都の交通網が寸断され、機能麻痺。このため、国会は流会。証券取引所立会も停止となる。 |
2.21 | 世界平和評議第一回会総会がベルリンで開催される。米・英・仏・ソ連・中国の5大国による「平和協定」締結を要求する。(ベルリン・アピール) |
2.23 | 【「第四回全国協議会」(四全協)開催、新方針決議】徳田書記長は、大会に準ずるものとして秘密裡に「四全協」を召集した。この会議で、「当面の基本的闘争方針」(「51年綱領」).「分派主義者に関する決議」と「新規約草案」を決定した。武装闘争方針が提起された。周恩来からの意見として、武装闘争の準備についてのソ連、中国両党の指示が伝えられ……。軍事方針がきまり,国際派はその直後に空中分解。所感派による非合法会議。内容はいまも不明。徳田派の混乱と無能力.極左冒険主義の採択と国際派非難。これ以降,国際派、所感派の逆転現象。宮本らは4全協の結果を見て全国統一会議を再建。 |
3月 | ストックホルムで行われた世界平和委員会総会が呼びかけた原子兵器の無条件禁止などを要求するアピールの署名運動。 |
3.4 | 第1回アジア競技大会がインドのニューデリーで開催される。 |
3.5 | 無着成恭編『やまびこ学校』が刊行される。 戦後の「生活綴方(つづりかた)」の復興に影響を与える。 |
3.9 | 三原山、大爆発。 |
3.10 | −12日総評第二回大会が開催された。左派のヘゲモニーが強化され、再軍備反対.全面講和.基地反対の「平和4原則」が決議された。高野実が第二代事務局長となった。 |
3.14 | 国連軍ソウルを奪回し、再び38度線に達した。38度線を境に一押し一引きの様相となった。 |
3.21日 | ダレスが対日講和条約草案を発表。 |
3.29 | メーデー会場に皇居前広場の使用が禁止となった。 |
3.29 | 共産党川上貫一議員、全面講和と再軍備反対を主張し、議会から除名される。 |
3.31 | 改正結核予防法公布。これにより、BCGが強制接種となり、その是非が問題となる。 |
3月 | 伊藤,紺野,椎野らの自己批判続く。 |
4.1 | 琉球臨時中央政府(行政主席:比嘉秀平)設立。東横・大泉・東京映画配給の3社合併による「東映(株)」が発足する。 |
4.1 | 銀座に106本の街灯が復活する。 |
4.11 | 【マッカーサー、米大統領により連合軍最高司令官を罷免される】トルーマン、マッカーサー元帥、国連軍最高司令官解任(後任にリッジウェイ中将)。→マッカーサーの2000日終わる→16日離日=20万人が羽田までの沿道を埋める。 |
4.12 | ナイロン・ストレプトマイシンなどの製造技術導入が認可される。ナイロンは、米デュポン社から東洋ーヨンへ導入決定。ストレプトマイシンは、米メルク社から協和発酵・明治製菓へ導入決定。 |
4.16 | マッカーサー、離日。ダレス来日。 |
4.16 | 三原山、再爆発。 |
4.19 | 田中茂樹、日本初参加のボストン・マラソンで優勝。 |
4.23 | 【第2回統一地方選挙実施、「二つの共産党」による選挙戦 】自由党が圧倒的優位となる。4.23.30日全国にわたって第2回一斉地方選挙が行われた。党は、都道府県議6名当選。市区町村議489名当選。この選挙戦で党の分裂が深刻な様相を見せた。大衆の面前で主流「臨中」派と統一会議派との抗争が展開されたのである。 |
4.24 | 横浜の桜木町駅で、京浜東北線の電車が発火。2両が焼失。106人が死亡。(桜木町事件) |
4.27 | 政府が第22回中央メーデーの皇居前広場使用を禁止(中央メーデー中止)。リッジウエイ、政府のメーデー皇居前広場の使用禁止を支持。 |
4.28 | 総評、中央メーデーは中止と決定。(岩波年表) |
4.30 | 都知事選挙、安井誠一郎当選、出隆惨敗。 |
5.1 | 第22回メーデー開催。東京では皇居前広場の使用が禁止され、芝公園などての分散メーデーとなる。 |
5.1 | リッジウェイ中将、日本政府へ占領下法規再検討の権限を委譲すると声明する。 |
5.3 | リッジウエイ、公職追放解除。政府主催憲法施行4周年記念式典が皇居前で行われ、都民2万人が参加=天皇・皇后も出席。 |
5.5 | 児童憲章の制定が宣言される。 |
5.14 | 政令諮問委員会第1回会合、占領諸法令の再検討のため開催。 |
5.22 | 原爆禁止・ストックホルムアピール署名運動開始。 |
5〜6月 | 所感派幹部の自己批判の評価めぐり、国際派内部において宮本=自己批判について否定的、春日=肯定的、の対立深まり,決別。 |
6.1 | 大阪市でワンマン・バスが初めて運転される。 |
6.3 | NHK、テレビ初の実況中継を行なう。(後楽園球場から日本橋三越へ、プロ野球の実験放送) |
6.8 | 住民登録法公布。 |
6.9 | 新土地収用法公布。 |
6.12 | 警察法改正(自治体警察の縮小を規定)公布。 |
6.20 | 第1次公職追放解除(石橋湛山・三木武吉・河野一郎、菊池寛ら2958人)を発表。 |
6.21 | ユネスコと国際労働機構(ILO)が、日本の加盟を承認。 |
6月 | 多喜二・百合子研究会結成.(94年党史年表) |
6月 | 関東夜間社研連絡協議会発足。 |
6月 | 下旬、イールズ帰国。置き土産の「高等教育の改善に関する勧告」。 |
7.1 | 日文部省、「学習指導要領一般編(試案)」の改訂を発表。 |
7.4 | 吉田茂内閣、第2次内閣改造を実施。 |
7.6 | 敗戦を信じず、7年間もアナタハン島ですごした日本人20人が帰国する。 |
7.10 | 開城で朝鮮休戦会談開始、朝鮮戦争休戦。 |
7.31 | 日本航空(会長:藤山愛一郎)設立。(戦後初の国内民間航空会社) |
8月上旬 | 共産党、モスクワ会議。スターリン.徳田.野坂.西沢.袴田らで51年綱領の押しつけ。モスクワに派遣された袴田(=宮本派)は、スターリン御前会議において自己批判した。国際派からみればこれを変節となる。 |
8.3 | 8.3日全国商工団体連合会結成 |
池田蔵相、佐藤政調会長。 | |
8.4 | 奄美大島の住民8000人が、日本への復帰を要求し24時間の断食を行う。 |
8.6 | 第2次公職追放解除(鳩山一郎・岸信介・正力松太郎ら1万3904人)を発表。 |
8.10 | コミンフォルム機関紙「恒久平和」が、4全協の「分派主義者にたいする闘争にかんする決議」を支持的に報道。党の内部問題に関する二度目の干渉ともなったとされている。これにより、最左派の 国際主義者団が降伏、団結派の解散大会、統一協議会の解散と自己批判、統一派=春日のゴマスリ的自己批判、宮本の抵抗と復党となった。宮本の自己批判書は二度書き直しを要求されているが、それはついに公表されなかった。恐らくは志田が保管したまま……と推測されている。寺尾五郎「宮本顕治の自己批判書はたしかにあった。そのころ本部にいた宮直治が誰かにたのまれて、それを筆記したと聞いたことがある。いまどこにあるかは分からない」という証言がある。こうしてスターリンとコミンフォルムの権威によって、反徳田派の圧倒的多数の人々は徳田派に屈服することを余儀なくされた。全学連内部も苦悩した。不破の反省と復党の意見と武井,力石の反論、安東.土本の中間意見に分かれた。 |
8.19 | 【徳田派が「武装闘争路線」宣言する】「第20回中央委員会」が秘密裡に開かれた。第19回中央委員会総会以来1年4ヶ月ぶりであった。講和会議が開かれる直前の時期であった。この会議の眼目は、反対派受け入れに当たっての無条件屈服要求方式を採用すること、後述する新綱領の下での全党の理論的統一を獲得することにあった。会議では、新綱領草案、「党の統一に関する決議」など5つの決議が採択された。「4全協」で採択された改正「党規約草案」も承認された。 |
この月、生活難から人身売買が横行し、児童福祉法違反事件が続出。山形・東京・福岡・奈良などで約5000人を数える。 | |
9.1 | 初の民間放送である、中部日本放送(名古屋)と新日本放送(大阪)が開局する。 |
9.4 | 共産党臨時中央指導部らに団体等規正令違反容疑で逮捕状。 |
9.8 | 対日講和条約(サンフランシスコ平和条約又は対日平和条約)が単独講和方式で、サンフランシスコで調印された。この条約の締結によって日本は占領統治体制から脱却し主権を回復することになった。日米安全保障条約も調印された。 |
9.10 | 第12回ベネチア国際映画祭で、黒沢明監督の「羅生門」がグランプリを獲得。 |
10.1 | 毎日新聞・読売新聞などが夕刊の発行を再開する。 |
10.4 | 出入国管理令公布。 |
10.14 | 日ルース台風、上陸。交通・通信網が寸断され、本州各地で大被害。死者・行方不明者1200人にのぼる。 |
10.16 |
【「五全協」開催】徳田系党中央派は、秘密裡に「第五回全国協議会」(「五全協」)を開き。「新綱領」を採択し、武装闘争方針を具体化した。この大会で明確にアメリカ占領軍に対する「解放軍規定」の残滓と決別し、革命の目標を民族解放民主革命であると規定した。その実現の為に暴力革命を盛り込んだ「新綱領」を採択した。 |
10.24 | 社会党第8回臨時大会、講和・安保条約に対する態度をめぐり左右両派に分裂。 左派は全面講和を主張し、右派は多数講和を支持した。こうして、社会党は、昭和30年の再統一までの約4年間を右派社会党、左派社会党の分裂対立時代を迎えた。 |
10.25 | 日本航空、東京〜大阪〜福岡間で運航開始。 |
10.26 | 衆議院、講和(承認307票対反対47票)・安保(承認289票対反対71票)両条約を承認。 |
11.10 | 日教組、第1回全国教育研究大会(教研集会)を日光で開催。 |
11.18 | 参議院、講和(承認174票対反対45票)・安保(承認147票対反対76票)両条約を承認。 |
11月 | 共産党は、このころ「球根栽培法」.「栄養分析表」など武装準備のための非合法出版物ぞくぞくと刊行。薄紙で、丸めてのみこめるレポが物かげで渡されたり、「球根栽培法」や「組織者」が危険物のように回覧されたのもそのころである。再建細胞の党員たちの多くは、50年以降に入党し、分派活動の中で育ち、非合法活動の手足として危ない思いをしてきた新人たちで、学生運動の高揚期にみられたのびやかさは見られなかった。暗く、いつも緊張していた。 |
12.10 | ダレス来日。 |
12.24 | 吉田茂首相、ダレス宛書簡で国府(台湾政府)との講和を確約。 |
10.24 | 社会党第8回大会、講和条約の承認賛否を巡り左右両派に分裂(「左派社会党」鈴木茂三郎委員長、「右派社会党」浅沼稲次郎書記長)。 |
12.25 | ラジオ東京(現TBS)、開局。 |
12.26 | 吉田茂内閣、第3次内閣改造を実施。 |
この年、パチンコ大流行。 この年、赤痢の流行で1万4000人以上が死亡。 この年、脳溢血が結核を抜いて、死亡原因の第1位になる。 この年、浅香光代・大江美智子などによる「女剣劇」がブームとなる。 | |
【朝鮮動乱その後の推移】 |
年が明けても、中国人民解放軍の反撃は続き、アメリカ軍は38度線の南に追いやられた。再び朝鮮半島から追い出される危機が迫った。 |
【講和問題の浮上】 |
1.1日、トルーマン大統領は、ダレスを対日講和交渉大統領特別代表に任命した。 |
51年になると日本の独立問題が浮上する。国内では単独講和又は全面講和をめぐって大騒動になっていった。吉田政府は、単独講和によるアメリカを盟主とする資本主義陣営との単独講和を目指すと同時に米軍の進駐を認める方針を取った。
【民戦結成大会】 |
1.9日、朝連解散後1年4カ月目、解散した朝連に代わる民戦が結成された。東京都江戸川区小岩の個人の家で代表者80名によって、非合法に民戦結成大会が開催された。そこでは、民戦結成準備委員会長金薫の情勢報告がなされ、大会宣言、綱領、規約、活動方針が決定された。「在日朝鮮人運動の統一的な戦線体である」と規定し、祖防委、祖防隊は、軍事武装闘争の非公然活動部面を担当するとの方針を掲げた。この構成人員は53.9月時点で13万1524名である。朝連解散時の勢力36万5792名にくらべると約三分の一に減少している。 第一に祖国の解放戦線に参加する。また祖国の完全な統一と独立をはかるために、一切の外国軍隊を即時朝鮮から撤退させ、かつ祖国侵略のための日本の再軍備に絶対反対する。 第二に米国と日本政府による基本的人権の侵害と、民族的差別、弾圧と生活権の剥奪の民族的課題に対して闘う対権力闘争を組織する。 第三に米占反動から朝鮮人民に対して加えられる弾圧は日本自身の問題であり、すなわち日本の独立と平和を破り、日本を戦場にして日本人民を奴隷と悲惨な戦争に駆り立てるものである点を、日本人民に理解させ、共同闘争を組織する。 |
【「全面講和愛国運動協議会」が結成される】 |
1.15日、共産党、労農等や産別会議、私鉄総連、全造船など40労組、その他民主団体によって「全面講和愛国運動協議会」が結成された。南原繁ら多くの学者.知識人もまきこんだ。署名運動。戦時中に乱発された愛国の文字が、戦後の反体制運動組織に登場した最初の例となった。 |
【宮顕系分派機関紙「理論戦線」の論調】 | |
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【社会党第7回党大会】 |
朝鮮戦争の勃発と講和への動きが強まる中で、1.19日、社会党第7回党大会が開催された。大会は、左派の決議案と右派の修正案を廻って激しい対立が続いたが、最終日の21日採決が行われ、右派修正案は342票対82票の大差で否決され、左派の決議案が可決された。これ以降、再軍備反対、中立堅持、軍事基地提供反対、全面講和実現の「平和4原則」が社会党の旗印になり、これが以降の社会党の基本方針となった。 社会党大会直後に開かれた第二回総評大会でも、この「平和四原則」が採択された。 |
【芦田前首相が各界に再軍備の必要を主張】 |
芦田前首相は、朝鮮動乱以来俄かに国防の重要性を強調し始めた。GHQに求められるままに「芦田意見書」を提出し、「‐‐‐こんな危険な状態にある時、兵力を持たないという手はない。スイスでも兵隊を持っている。自ら守ろうとする気持ちのない国民に一体誰が援助してくれよう。日本は2万の軍隊を今すぐにでも持たなければならない」と再軍備の必要を述べていた。 これに対し、吉田首相は、第10国会答弁で、「国民の要望は自由に発表するがよい。しかし私は憲法を改正する意思もなければ、再軍備する気もない。軍事基地提供も憲法の精神に反する、外国の要求があっても断固として憲法の精神を守る」と述べている。 |
【宮本百合子死去】 |
1.21日、宮本百合子死去(51才)。宮顕曰く、「風邪と過労に加えて『急性敗血症』を併発させた『自然の不意打ち』であった」。「彼女の突然の死を前にして私が痛感したことは多い。しかし、その一つのごく原始的なしかも痛切な思いは、我々は社会科学とその実践に熱心ではあったが、肉体について、自然科学の生活への不断の適用についてまだまだとかく軽視に陥って、熱心さが足りないということである---『自然の不意打ち』に対する日常の科学的用意の不足を反省するのは、単に愛するものを失った者の嘆きの繰り言とはなるまい」(「百合子追想」雑誌「展望」3月号)。 ところで、百合子の死因に不自然さと疑惑が伝えられている。1.19日は夜更けまで書斎で平常に仕事をしていたそうである。それが20日午前1時ごろから、急に寒気がするといいだし、午前11時には39度8分の高熱、午後4時になると肝臓部に痛みを訴え、胸部.下肢にも紫斑が現れたという。百合子が苦しみだした時、宮本家にいたのは百合子の他に宮顕と百合子の秘書大森寿恵子(当時30才、百合子の内弟子として秘書兼お手伝いとして同居)の二人だけだった(この二人はその後結婚し大森は宮本夫人となる)。それから苦しみのため転々とする場面があって、21日午前1時55分に息が絶えたことになっている。宮本家からの急報で、主治医の佐藤俊次医師が駆けつけたのが20日午後7時過ぎであった。その直前知人の小西先生、近所の林順圭先生、さらに林先生の息子の医師、泉橋病院の外科部長藤森正雄先生と医師が4人も枕辺に揃ったという。それらの医師によって書かれた死亡診断書が急性紫斑病である。これらの経過は主知医佐藤俊次医師がある雑誌(50.3)「終焉の記録−宮本百合子さん臨終に付添って」によるもので、その証言は確かとされている。 ところがその後、1.22日の午後になって、百合子の遺体は東大伝染病研究所で病理解剖に付された。執刀に当たったのは草野信男教授という党員教授である。この解剖の結果、「最急性脳脊髄膜炎菌敗血症」であることが「ほぼ確実となった」ということで、先の4名の非党員医師が臨終に立ち会ってつけた病名を変更している。「『最急性脳脊髄膜炎菌敗血症』のため急逝した。51才であった」(「日本共産党の60年」)と党史には書かれている。肝心かつ重要なこういういきさつは書かれていない。草野教授は後に原水協の内紛時に党に反抗している。 この時「人民文学」が3月号で「宮本百合子について」特集を組んでいる。新人の宍戸弥生、玉城素、大場進の寄稿を採用したが、三編とも「追悼ではなく強い批判」であったため、宮本顕治と新日本文学会中央グループから激しい怒りを買った。江馬は責任を取らされ、次第に閉職に追いやられていくことになった。 |
【全学連内に所感派が台頭】 |
1月、全学連内に所感派系の運動が盛り上がってきた。東大再建細胞の増田、早大政経細胞の藤井が、都学連大会を目指して活動を表面化させてきた。1.24日の都学連の自治会代表者会議で、新制東大自治会の増田委員長が執行部の提案に反対し、「この方針は日本共産党に対する誹謗であり、青年祖国戦線を分裂させるものだ」と主張し退場、採決は賛成13.反対4.保留2となった。 |
【 ダレス来日】 | |||
1.25日、ダレス来日。対日単独講和の打ち合わせにやってきた。2.21日に離日するまで吉田・ダレス会談5回、事務レベル会議を十数回重ね、講和に向けての下交渉をした。この時期、朝鮮戦争は泥沼化しており、米国務省は、「アジアはアジア人で戦わせよ」の思惑もあり日本の再軍備を急ごせようとしていた。もう一つの理由として、占領状態は、日本での民族解放闘争を誘発し、得策でないという判断も為されていたと思われる。この一挙両得発想から、それまでの一方的な対日占領支配体制から脱却し、あらためてアメリカ陣営の下で強固な絆を固めるべく講和による日本の独立へと誘導していくことになった。この当時の「ル・モンド」紙特派員は、ダレス来日について、「アメリカの三つの目的は基地の確保、再軍備、軍事同盟であり、これを抽象的に繋ぐものが、日米安全保障条約である」と書いている(斉藤一郎「総評史」)。 この時のダレスと吉田の交渉のひとコマが次のように伝えられている。ダレスの激しい再軍備要求に対し、吉田は次のように述べて抵抗した。
吉田が、これまでのGHQ政策を逆手に取って対応しているさまが窺える。これに対し、ダレスは次のように詰問している。
吉田首相は、こうしてダレスに抵抗する一方で、「全面講和」ではなく「多数講和+日米安全保障条約」という政治決断を下した。これを「吉田ドクトリン」と云う。 |
【徳球執行部、「武力革命}を提起する】 | |
1.24日、「内外評論」第6号に無署名論文「なぜ武力革命が問題にならなかったか」が発表された。
ここでは、「武力の問題は原則上の題目ではなくて当面の実践問題」 だと強調されていた。この論文では、永らく党内を支配した野坂式「平和革命コース論」が見る影もなく断罪されており、返す刀で、主流派を右翼日和見主義と罵倒する国際派が、武力革命の問題に触れない事実を嘲笑していた。このような逆転が中国共産党の組織的指導のもとにおこってきたということである。 |
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【「練馬事件}発生する】 |
2月、「練馬事件」が発生し、全国の非合法アドレス名簿が警察に奪われ、4百数十ヶ所が襲われた。機関紙の発送・配布・防衛の担当は保坂浩明であったので、その責任が問われることになった。保坂は伊藤律の配下にあったので、機関紙担当政治局員としての伊藤律の管理責任が志田派から追及されることになった。 |
【 戦後党史第二期】/ 【ミニ第A期】=党中央「四全協」後の新方針で極左路線志向 |
1951(昭和26)年2.23日の第4回全国協議会(「四全協」)で武装闘争路線が採用されてから党は未経験の内乱的死闘路線へと向かう。この道中は、更に武闘化するのか議会闘争を軽視しても良いのか暗中模索となった。徳球書記長の信任の下に伊藤律が主に活躍したが、51.10.16日からの「五全協」で志田派に主導権を奪われる。この期間を【 戦後党史第二期/ミニ第A期=党中央「四全協」後の新方針で極左路線志向】とみなすことができる。 |
【「第四回全国協議会」(「四全協」)開催、新方針決議】 |
○、2.23日−27日にかけて徳球は、大会に準ずるものとして秘密裡に「第四回全国協議会」(「四全協」)を召集した。この会議の眼目は、新方針を全党の決定に持ち込むことにあった。 ○、大会は、「日本共産党の当面の基本的闘争方針」(「51年綱領」).「分派主義者に関する決議」と「新規約草案」を決定した。 「当面の基本的闘争方針」(「51年綱領」)は、武装闘争方針を決議した。党結党以来初めての軍事方針の打ち出しであった。「51年綱領」は野坂式平和革命路線を全否定し、「新しい民族解放民主政府が、妨害なしに、平和的な方法で、自然に生まれると考えたり、あるいは、反動的な吉田政府が、新しい民主政府に自分の地位を譲るために、抵抗しないで、自ら進んで政権を投げ出すと考えるのは、重大な誤りである。このような予想は根本的に誤りである」、「日本の解放と民主的変革を、平和な手段によって達成し得ると考えるのは、間違いである。労働者と農民の生活を根本的に改善し、また日本を奴隷の状態から解放し、国民を窮乏の状態から救うためには、反動勢力に対し、国民の真剣な革命的闘争を組織しなければならない」としていた。 こうして新方針が打ち出されることになったが、長期にわたる武装闘争によって勝利を獲得した中国共産党の経験を学び、中国革命方式による人民革命軍とその根拠地づくりを我が国に適用した戦略・戦術として武装闘争方針を掲げていた。その狙いは、朝鮮戦争の後方兵站基地として機能している日本での後方撹乱により、朝鮮戦争を優位に進めようとする当時の国際共産主義運動の方針があったようにも思われる。 中共的武装闘争方針の具体化の第一歩として都市における労働者の武装蜂起と農村遊撃戦争を組織し、その過程で結集された大衆の抵抗組織としての「中核自衛隊」(「中自隊」)を組織し、これを発展的に人民解放軍に導くことにより、全国的な武装闘争を勝利的に展開するというものであった。こうして、労働者の抵抗党争の中から「遊撃隊」を編成し、大経営と山岳山村地帯に「根拠地」を持たねばならないとされ「山村工作隊」の組織化が指針された。 この闘争形態に沿って全組織に「オモテ」と「ウラ」が作られ、前者が後者を地下から指導するという態勢をとることになった。地域闘争を強化し、自衛闘争を行い、遊撃隊をつくりだし、自衛隊との緊密な連絡の下に遊撃根拠地をつくり云々とされ、各地で火炎ビン闘争を発生させることになった。中核自衛隊の組織、戦術等が指示された武装闘争支援文書「栄養分析法」・「球根栽培法」等が配布された。同書にはゲリラ戦・爆弾製造の方法も書かれていた。この共産党の方針が学生党員に押し付けられ、全学連の方針もそれに影響を受ける事になった。 こうした「四全協」の方針は、従来の行動方針の大転換であり、国際派の全グループを一挙に左へ飛び越すものであった。但し、今日においては「極左冒険主義」であったと総括されている。 「分派主義者に関する決議」は、「スパイ分派の粉砕」を強調した。国際派らの反対派をスパイ.挑発者.売国奴.民族の敵として規定し、取り扱うこととした「臨中」.統制委員会の新方針を確認し、「スパイ分子の粉砕」、「全統委」的統一を主張していた党組織や党員への闘争を強調した。「なお党内に残る一切の分派主義者、及び彼らに通じる中道派分子に対する最後の勧告を行う」との決議を採択した。この全文を手に入れていないので詳細は不明であるが、ここに明確に宮顕グループらの国際派を明確に「スパイ」呼ばわりしていることが注目される。この時の「悪質分子は明白にスパイの正体をあらわすに至った」が単に反対派に対する罵詈雑言であるのか、一定の根拠を持っていたのかが詮索を要するところと思われる。 ちなみに、この決議は8.10日コミンフォルム機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」に掲載され、コミンフォルムは支持を声明している。その中で、国際派を分派と呼び、「正直な人々が多数いるが、国内を支配する複雑な政治情勢を理解できないで、敵の諜報機関によって党内に送りこまれ、意識敵に党を破壊している挑発者、スパイ、ずるがしこい冒険主義者の犠牲になっている」という見解を示している。 ○、新しい中央指導部を選出した。同時に党組織の編成替えをも決定した。組織の重心を非公然体制に移すこととし、単一組織としてのビューロー組織を確立することにした。従来の合法面=公然機関の指導部、非合法面=ビューローという二重組織から、地下指導部がつくる非公然の中央ビューローの下に、地方.府県.地区.細胞群.細胞にも非公然のビューローをつくり、この各級ビューローが公然面の各級機関の指導を行うということになった。 選出された中央委員は、1.徳田球一ト、2.野坂参三、3.志田重男、4.伊藤律、5・長谷川浩、6.椎野悦朗、7.紺野与次郎、8.松本一三、9.河田賢治、10.春日正一、以下丸山一郎、佐貫徳治、前田啓太、松本三益、遠坂寛、杉本文雄、水野進、田中松次郎、梶田茂穂、白川晴一らの面々であった。中央委員候補は、宮本太郎、小沢要、吉田四郎、西舘仁、桝井トメ、吉田資治。統制委員は、杉本文雄、岩本巌、田子一郎、竹中恒三郎。 次第に志田系が伊藤律系を駆逐しつつあった。 ○、大会は、党規約を改正して、中央委員会の権限を強化し、指導機関の選挙制の制限、統制委員会の中央委員会による任命等、従来の党内民主主義に更に制限を加える方向の措置を決定した。 ○、この大会で伊藤律の機関誌活動を一切に優先させるやり方が強く批判された。独善的指導への反発が生まれつつあった。 |
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![]() 伊藤律と志田の対立・抗争について、長谷川浩は次のように述べている。「私は九州にいましたが、潜行活動の4年間に3回上京しています。志田、律、椎野らは東京周辺にいたわけです。志田と律では肌合いも違うし、意見の食い違いもありました。一口で言えば、律は柔軟路線、志田はラジカルで硬直路線でした。当時、軍事方針をめぐっていくつかの問題点、対立点がありまして、意見の食い違いが出てくることは避けられなかった」。概要「軍事方針では、少数精鋭でやるのか大衆の武装闘争として取り組むのか、武力闘争は労働者が主力なのか、農民が主力なのか、農村でゲリラ闘争をやるのか、労働者階級のゼネスト武装蜂起で行くのか等々について、こうした問題で、志田と律が対立していました」。 |
【四全協における朝鮮問題の位置づけ】 |
「日本共産党の当面の基本的闘争方針」の中に「在日少数民族との連携の強化」の一項目が設けられていた。そこでは「在日朝鮮人は日本の中の少数民族」と規定されていた。それは、「在日朝鮮人は外国人と位置づけるものではない。日本の中の少数民族で、日本革命の同盟軍である」というものであり、「日本革命を成し遂げることなしには、在日朝鮮人の問題は何一つ解決できない。在日朝鮮人の活動は、日本共産党の指導に従うのが国際的任務である、日本革命なしに自分の問題は解決しないことを理解して、祖国防衛運動をも日本への米軍支配との闘争、基地反対、再軍備反対、全面講和運動に結合すべきだ」という論理に立っていることを意味している。 これに対し、「敗戦前の朝鮮は日本の植民地で日本の権力の支配下にあったが、敗戦後はたとえ南北に分断されても、朝鮮には自分たちの政府ができている。解放後は海外公民として、在日朝鮮人の地位が根本的に変わらなければならなかった」とする批判が為されている。 民戦中央委員会は、この指導方針「在日少数民族」規定を廻って議論が展開されることになった。在日朝鮮人の側も民族問題の認識が不十分であったことを認めている。「われわれが朝鮮人の立場で民族問題を掘り下げる暇がなかったんです。総連の路線転換後(一九五五年以降)、朝鮮人はどのようにしていつから日本に来たのか、そういう初歩的なこともわからない」、「そのように基礎的な理論・調査活動がぜんぜんなかったといってもいいくらいです。だから、解放によって、朝鮮人の日本の中での民族的地位がどう変わったかということも、今でこそ言えますが、当時は考えたこともなかったのです」という反省がある(姜在彦「民戦時代の私」『体験で語る解放後の在日朝鮮人運動』神戸学生青年センター出版部、1989、143〜144P頁)。 最終的に「在日同胞の当面する民族問題の焦点は、祖国防衛にあることを再確認し意思統一した」。 |
![]() 「『日本共産党の当面の基本的闘争方針』の中の『在日朝鮮人は日本の中の少数民族』規定」につき原文を読んでないので判断しにくいが、当時の時代的認識の枠の中での評価と後付の評価とに方面から考察をせねばならないように思われる。戦後の革命闘争において、日朝共産主義者は緊密な兄弟党として相互に位置づけ運動を担ってきた。それは、日本革命と朝鮮革命が緊密に連動していることを受けての融合でもあったし、国際的共産主義運動司令部・ソ共の指示でもあった。この観点が常識的であった、という当時の流れを無視する訳にはいかない。この枠組みの中で、日共は日共的に朝鮮人活動は「祖防」と「民戦」で独自に運動を組織していたのではなかったか。 これを今日的にみれば、そもそも朝鮮人は朝鮮人の自主・自律的な取り組むを為すべきであったのであり、日共とは共同戦線理論で交叉すべきであった、という反省を要するところではあるが、史実はそうはならなかったということを教えている。 |
【51年当時の党の方針の特質と要点 】 | |||||||||
@、〈世界情勢に対する認識〉について |
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B、〈党の革命戦略〉について
E、(党の機関運営について)
F、(党の機関運営について) |
【宮顕派による「全国統一会議」結成される】 |
前述の経過で「全統委」派は解消されたものの、今度は宮顕の直接の音頭取りで「全国統一会議」(「統一会議」)を組織した。「統一委員会」より本格的な動きとなる。宮顕の云う党の原則的統一とは、徳球系党中央の軍事方針を批判し、その為の大衆闘争を指導するという意味での党統一運動であったから、名前は「統一会議」であっても実際には「分裂の促進会議」的役割を担った。 かってのように党の統一を「臨中」との交渉に求めることを止め、「臨中」と徹底して張り合う形で大衆闘争を指導していくことを目指した。その意味では分裂の固定化であった。 1.1日付けで機関紙「解放戦線」第1号が発行され、1.20日付けで「党活動」第1号が発刊された。それぞれ党中央側の「内外評論」、「党活動指針」に対応していた。宮顕の手になるものと思われる綱領的文書「新しい情勢と日本共産党の任務」が「解放戦線」第1号に掲載された。ここに独自の指導機関.機関誌.綱領的方針をもつれっきとした分派組織が生まれた。宮顕が頭目であることがはっきりし、非和解的な動きを強めることとなった。徳球執行部の新方針を極左冒険主義と断罪し、「民主民族戦線の発展の為に」などの方針を打ち出して対抗した。3.1日理論機関誌「理論戦線」が発刊された。 「四全協」に対する対応をめぐって、「統一会議」派内は一枚岩ではなかった。春日(庄)は動揺した。宮顕は四全協を正式の党会議とみなさず、「党内闘争の新段階」を呼号しつつ一層精力的に活動を強めた。こうして主流派と宮顕グループを核とする「統一会議」派との全国的な党内闘争が激化していくこととなった。 |
【民戦の精力的活動】 |
2.1日〜3.1日、「祖国防衛・日本再軍備反対闘争月間」が組織され、30余万の全面講和投票と17万余の強制送還反対署名を集め、日本人民の全面講和投票運動を大きく推進し、全面講和、再軍備反対闘争を政治的に発展させることに寄与した。この月間闘争では、府県としては京都府が、地域別では、川崎、松阪、滋賀県八幡、大阪東北、兵庫伊丹、下関、宮崎地区などが、広汎な大衆を基盤として成果をあげた。 8.10日、民戦は引き続き8.10日〜9.10日を「祖国統一戦取月間闘争」を展開し、平和署名13万名、全国講和署名58万名、基金カンパ2773万円を集めた。 8.15日、祖防全国委員会では「この歴史的な民族解放記念日にあたって、在日男女を民主統一戦線のもとに結集し、侵略者の排撃運動に参加する祖国防衛の行動を組織する」と宣言し、その祖防隊の規約、宣言、綱領を発表した。 |
【松本治一郎がスターリン密命を帯びて帰国する】 |
馬野周二博士の12010102 スターリン命令と松本治一郎(2) 第二章 松本治一郎に遭う 2−1.治一郎との奇跡的な出遭い 2−2.愕然とした治一郎の話 ・スターリンの命令を受けてきた治一郎 2−3.当時の状況はどうだったか(対談) 2−4.戦中・戦後の共産主義者たち 2−5.スターリン命令の驚くべき内容 ・社会党左派、朝日新聞、日教組の毒牙 による日本潰変計画 2−6.ヤルタ会談の極秘内幕 ・日本占領用の舟艇をスターリンに送らな かったチャーチルとトルーマン ・ソ連 北方領土占領秘話 2−7.騙されたスターリン(対談) ・思想戦による日本占領策への変更 2−1.治一郎との奇跡的な出遭い 昭和26年の2月、東京に大雪がふりました。 若かった私は都電の電車道をはさんで松坂屋の前で雪投げ 遊びをしたわけですよ。それで、しばらくして、どういうわ けか、清正公様に足が向いたんですね。 それから都電に乗りまして白雪の都内を眺め、古川橋、そ こで電車を下り、橋を渡りました。誰一人歩いているものは いない。一尺位の雪でしょう。そのなかを、ざっざっと、歩 いておりました。 あの辺は空襲で焼野ケ原だった。ところが、右側に、バラ ックにちょっと毛の生えたような建物がありました。戦前田 舎に役場があったでしょう。そんな感じの建物で、ひょっと 見たら、 「松本治一郎事務所」 と書いてある。 焼け残りの家ではなく、焼け残った後に建てた家なんです。 一軒建てで、隣には家がないんです。 郷土福岡の大先輩、松本治一郎さんは、知り尽くすぐらい 知っているが、本人に直接会ったことがない。私は清正公様 に行くのを忘れちゃって、よし、覗いてみて、本人がおって、 会ってくれりゃ儲けものと。いなきゃそれでよしという軽い 気持ちで、がらっと障子を開けた。 そしたら、中がカウンターになっていて、女と男の5、6 人の事務員がいました。そしたら一斉にぱっと私のほうを見 た。若い書生が出てきましたから、私は名刺を渡し松本先生 に面会を求めました。すると書生は、 「先生は昨晩、ソ連からお帰りになりまして、今奥に国会 議員の先生が4人見えておられますので、しばらくお待 ちください」 と言って私の名刺を持って奥に行き、まもなくして出て来 ると、 「どうぞ、お上がりください」 と応接室に私を通しました。 間もなくして、書生が生菓子とお茶をもってきました。 4〜5分してドアが開くと、いまをときめく政界の大物、 松本治一郎翁が現れました。 私は直立不動の姿勢で頭を下げ一礼すると、真白い見事な 顎髭を生やした翁がどっかと椅子に腰をおろしました。 「先生、この度はご苦労さまでした」 と、こういう挨拶をしたわけです。 私は松本治一郎が何時ソ連に行って、いつ帰ったか、そう いうことは全く知りませんでしたが、書生が 「昨晩、ソ連からお帰りになりまして、しかじかかようで ・・・。スターリン閣下とお会いになって、国会の先生 と4人で奥で土産話しておられます」 ということを言ったから、 「いや、どうもご苦労さま」 と云ったわけです。 松本翁は私がインタビューに来たかと思ったのでしょう。 「お、お、お」とこうでしょう。 声を出された時にはその貫禄に驚いてしまいました。 このときの服装が違ってたんですよ。私が訪ねたのがちょう ど午前10時すぎでした。本人は夕べ帰って、そして朝起きて すぐに、ごく側近中の側近の国会議員にソ連の土産話を早朝か ら10時ごろまで話してたのでしょう。そこにあたしが10時 すぎ行ったもんで、まあ一応そこで話を切りあげて、それから 私のいる部屋に来たわけです。 普通パジャマとか寝巻っていうのはタオル地でしょう。とこ ろが私ゃ初めて見ましたね。そのときの服装、よく外人が寝室 から離れるときに上からぽっと引っかけて ガウンね、ガウン。これが見事なガウンでしたよ。ガウン姿 の松本治一郎と会談したんです。そのガウンというものを私は 生まれて初めて。はあ、こりゃソ連から土産でもらってきたん やろかってね。大柄な、暖かそうな。それを寝巻の上にぽっと 引っかけてそれで姿を現した。だからくつろいだ気分で話がで きるわけだ。 2−2.愕然とした治一郎の話 ..スターリンの命令を受けてきた治一郎 「お前、北九州か、青野の所か」 「はい」 「おう、わかった」 当時、製鉄所の労組の中から、右派の伊藤卯四郎、左派の 青野武一が当選した。それで、その一ヵ月後なんですよ。 「青野先生、この度苦戦でございました」 と私、青野武一は見たことないけど、名前はよく知っている。 松本治一郎の子分です。社会党の左派。これは、浅原健三の流 れを受けている。 伊藤卯四郎さんは神奈川県から来て八幡製鉄から立候補され た大学の教授で、亀井さんといういわゆる労働組合の権威がい るんです。この亀井さんの教え子が、伊藤卯四郎なんです。こ の人は後に社会党から出て、西尾末広氏と民社党をつくった人 ですが。製鉄は伊藤さんに重点を置いていたんです。 その反対側のほうの、いわゆる左派の中心が労組のトップの 青野武一なんです。その人が初めて当選したんです。 「青野先生はこの度苦戦でございました」 と私が云ったので、すっかり青野武一の応援をしてきた同志 だと思われたらしい。 「お前、いいところに来た。俺はスターリンに呼ばれて、夕 べ帰った、えらい話だ。スターリンから俺は命令を受けて きた、まぁ聞け」と。 そのとき松本治一郎は『命令』と言ったんです。 それで私は黙って聞いてたんです。当時参議院の副議長だっ た彼は、スターリンから再三の要請があったので、数名の者を 連れて、気軽な気持ちでモスクワ空港に着いた。 ところが、空港に降りて、びっくりしたらしい。スターリン を除く以下全閣僚が空港に出迎えている。これはすごいことで すよ、全閣僚が出迎えるとは・・・。 そして車に乗って、クレムリン宮殿に直行したそうなんです。 その時ソ連兵が二メートル間隔に道の両側にバァーッと並び、 国賓中の国賓で俺は迎えられたと。 「へぇー」「へぇー」と私は聞いていました。 クレムリン宮殿のニコライ二世の部屋、これは日本人で彼が 初めて入ったということですが、ちょうど丸5日、一歩も外に 出ない缶詰状態だった。 このニコライ二世の部屋に、朝飯、昼飯、晩飯、間のお茶の 時間に、全閣僚と共産党のいろいろな首脳部が入れ替わり、立 ち代わりやって来て、共産主義の話を吹き込まれた。 そして最終的に、ソ連は日本の共産党を引っ込めて、社会党 をバックアップする。だから日本に革命を起こせ、そういう命 令をもらって、俺は夕べ帰ってきたと、こう言うんです。 革命を起こせと。共産党でなくて、社会党だと、スターリン は明白に言ったわけです。 とにかく、松本翁は、噂では聞いていたけど、大した人だな と思っていたのは、福岡に東公園ってあるでしょう。そこで、 祭に米一俵白い御飯を炊くんです。漬物で飯を食わせてくれる んです。戦前はルンペンが多かった。博多中の老人やルンペン が昼飯食べに集まるんです。そういうふうなところは、慈愛が こもっている。弱い者の味方なんです。だから水平社の委員長 としてみんなから尊敬されているわけです。 良い例が戦時中に福岡で爆発事件を起こしたでしょう。福岡 の連隊に松本治一郎が爆弾を投げ込んだ。この大事件を軍隊で は、口外してはいかんと口止めしたわけです。爆弾事件ですよ。 ふつうなら大変ですよ。ところが、憲兵も手を出せなかったん です。この爆弾事件には・・・。 私はそんなことを頭に描きながら、彼と初対面していた。だ から私は慈悲のこもる、ほんとに愛情のこもった、仏様、神様 のような気持ちで治一郎さんを見ていたのです。 その松本治一郎の口から、こともあろうに日本に革命を起こ せという命令を、スターリンじきじきに言われて帰ってきたと いうんですから、ただただ愕然としましたよ。 そんな凄い話が突然に展開してくるから、私は動揺し、それ で話がだんだん進むにしたがって私は硬直状態になって、背中 に汗がにじできた。こんな経験は後にも先にもありません。 2−3.当時の状況はどうだったか(対談) 記者:どうも私はいろいろ今日、お話をうかがって、どうもそ の松本治一郎なる人間のパーソナリティっていいますか、 性格というか性向というか、これがどうもちぐはぐなん ですよ。 その党派の大人物ですからね、参議院副議長にもなった んでしょう。ところがそういう・・・。 それがいかにも短慮浅見というか単純というかね。ぽっ と入ってきた男に、それもまだ三十代始めっていうあな たに、そういう重大な話をべらべらしゃべるっていうの は、これはああいう陰謀家というかそういう人にしては 私はもう迂闊極まると思うんですよ。 末安:それはね、治一郎さんは私に一目会った時に、何かを感 じたんだな。それと、あたしにはその時点から神様が宿 ってるんですよ。 記者:いや何かでないと、どうも松本治一郎ともあろう人物は、 そんなことを若い男に、しかもスターリンに会って帰っ た途端に、重大な秘密ですよ。 それを話すってことは尋常一様では考えられない。 末安:それが私も不思議でならない。 それと第一に、あたしは何でそこに行ったかっていうこ となんですよ。何で足がその方向に向いたかってのは、 未だに私には分からないです。 記者:清正公様へ行こうということではあったわけですね。 末安:それは電車の中で決めたのです。 記者:電車の中で。 末安 ええ。気ままに電車に乗って、あっち行きゃ清正公様が あると。尊敬する清正公様にちょっと参ろうという気持 ちで乗った。 そしたらあの水平社の大親分の、もうほんとにわれわれ にとっては顔見ることも、直にもの言うことも許されな いような立場の人のところに自然に足が向き、万が一会 ってくれりゃ儲けもん。会わなきゃそれでよしと。 それもごく自然な感じでガランと戸を開けた。まあどう せ追っ払われるつもりだった。ところが、おまえいいと こへ来たと。そう言って座って話したのがそれなんです よ。そういうふうにごく自然にすーっとね。 だからあなたがおっしゃるとおり、恒心のある人が何で 初対面の三十そこそこの若者にそれほどの重大な秘密を と思われるでしょうね。 記者:普通では考えられないですね。 末安 考えられません。これはやっぱり神様がそういうふうに 導かれたとしか思えない。これがなかったら永遠にだれ にも知れることはなかったでしょう。 まあ弥之助(楢崎弥之助)らは知ってますよ。しかし 弥之助たちはその身内のもんやから話さへん。弥之助は 私が現在生存してるっちゅうことすら知らないでしょう。 記者:楢崎氏は、あなたの名前も知ってるだろうし、何かがあ りますか。 末安:何がですか。 記者:楢崎氏はその席にあなたが来て、松本治一郎があなたに そういうことをしゃべったということは、楢崎氏は知っ ているわけでしょう。 末安:風のように現われて風のように去った・・・私のことな ど、もう全然記憶がないでしょう。 もう40数年前でしょう。ひょろりと来て松本先生と 3時間有余話して。それでそこにいた事務の人たちも、 もうそういうことは忘れてますよ。来客者が多いんだか ら。 年齢的にも、だいぶもう差がありますからね。だからも うだれ一人私の存在は知らないでしょう。 記者:しかし、まだ弥之助さんは元気でおるわけですが、これ はあなたと面識があるというか、何かその後楢崎とあな たと何か関係ありましたか。 末安:全然ない。全然なかった。だからあたしは楢崎弥之助の 健在中にこれ出したくってしようがないんです。 なぜかって生き証人があの人だけやから。そして彼が 松本治一郎にかわって、忠実にそのスターリンの命令の 指導的な役割を、中心になってやってきたわけですから。 記者:私はあなたにお会いしてこの話を聞く前から、日本の中 のどこかに、日本をどうするこうする、どういうふうに しろという司令部があるとみてるんですよ。 これはずっと前からの私の勘でね。そういうものがない とこれだけうまくいろんなことを動かせない。 2−4.戦中・戦後の共産主義者たち それはどういうわけかというと、いいですか、ここが大事な んです。たとえば戦時中、東大生などの、いわゆるインテリに 共産主義が吹き込まれた。そして、彼らが共産主義の、スター となった。 私が生まれた家の背中合わせの旧家は、二百何十年続いた造 り酒屋なんです。そこの次男坊は、私より一廻り年上の方、九 大生でした。この人は終戦当時、朝日新聞の顧問をしていた。 美術関係では日本の権威者なんです。この人は有名な東筑中学 (現高校)、当時は五年制でしたが、そこを二年で卒業証書も らったというほどの秀才なんです。 その方が、私の家の横を通って、九州大学に通っていた。 お袋は、 「ほら見てみい。後ろから鳥打ち帽子かぶった刑事が付いて 回っている、九大の門を出た時から、ずっと刑事が追い掛 けている」と。 その時初めて、私は小学校一年の時に、共産主義というもの を初めて、お袋から聞かされたんです。 「共産党といったら何かね?」 「赤い思想で、こうこうで……」 と、お袋もあまり説明はできんけど、とにかく特高がずー っと家に入るまで付いているんです。 それで、この戦前に、徳田球一とか野坂、その他の連中が、 モスクワと北京に、みんな亡命してたんです。戦時中は非国民 になっていたが、それが敗戦と同時に、みんな凱旋将軍のよう に帰ってきた。 そして、日本の地に潜っていた共産党員がウワッと迎えた。 その勢いは、選挙ごとに増えて、32名の共産党の国会議員が 生まれたんです。 そのころに、桜木町事件、下山国鉄総裁事件、三鷹事件、い ろいろと、列車転覆事故があったんですよ。桜木町事件でも、 二百何十人の犠牲者が出ているんですよ。これ、みんな共産党 系の国労がやったんです。 又、当時、あっちこっちでストをやるでしょう。だから、ど うしても、占領政策に支障を来すので、マッカーサーが、占領 政策を緩めて、吉田政権をつくったわけだ。その時点からマッ カーサーは、吉田さんの日本政府を考えた。だからトルーマン の命令と全然相反した。そこで、朝鮮戦争がはじまって、そし て、マッカーサーはトルーマンの意に沿わずと言う理由で、解 任されてアメリカに帰ったわけです。 2−5.スターリン命令の驚くべき内容 ..社会党左派、朝日新聞、日教組の毒牙 による日本潰変計画 ところが、その時点から、陛下はまず平塚の雪印乳業にお出 まして、それから、全国のあっちこっちを巡られ、国民の中に 入ってこられた。その陛下の清々しい人間性に、国民が接して、 敗戦のショックがやわらいだんです。 これが5年続いた。九州の、三池炭鉱、北海道ずーっと隈な くお回りになって、国民の活力が増し、復興が急に盛り上がっ た。 これを見て、スターリンは、共産主義を力で押しつけていく のは、これはちょっと具合が悪いということを感じた。これは いかんと。方針変えないといかんということで、社会党の左派 の松本治一郎、参院副議長を、よく調査し、彼に白羽の矢を立 てた。 大使を通じてソ連に来てくれないかという再三の要請、それ で彼は腰を上げたと云うことでした。そして、革命を起こすと、 スターリンに誓ってきたと云うわけです。 その時に、私は初めて質問しましたよ。革命ということをあ まり知らんもの。研究してないから。初めて聞く言葉やもの、 革命ということは。だから、 「先生、革命って、マッカーサーが丸の内にいまして、革命 というのはどういうことをやりますか」 と、こう尋ねた。そしたら、 まず日本の教育を我々が、オルグを先生の中にもぐり込ませ、 先生達をダメにすると。それからストを繰り返しやって、国鉄 をズタズタにする。 さらに地方自治体を基盤にして、選挙に勝つために、官公労 を握ると。 そして、国民の目を誤魔化すために、朝日に同志を導入させ、 我々に有利な報道をさせ朝日新聞を占領すると。すると、他の 新聞は右へ倣えと、彼は言うわけなんです。 それ、みんなソ連の指示で。 私は「はぁ、はぁ」と聞いていた。 つまり、スターリンの指示によると、同志が日教組を創り、 各学校に同志が入り込んで日本の教育を根本から変え、日本の 歴史を引っ繰り返す。 そして国鉄をね。国鉄には一番よけい共産主義の同志がいる わけだ、線路工夫だとか油差しとか労働組合が多いんですよ。 だから国鉄をメロメロにして日本人同士をいがみ合わせて、日 本人同士で争いをさせると。 それからストライキやって、あっちで貨車停め、こっちで貨 車停めて国民の足を奪うと。 そして他方で、われわれの同志は肥汲みやってる、これを大 学出と同じように昇格させて、そして自治体を完全に牛耳ると。 この中から村会議員、市会議員、県会議員をどんどん出して、 さらに中央へどんどんと国会議員を出していくと。そうすると あとの所管官庁や団体は右へならへと。 そして国民の目を誤魔化すために朝日新聞を味方にする。 これはもうスターリンがとくにそうせいって言ったんですな。 朝日を、朝日を完全にわれわれの味方にして利用し、われわれ の言う通りにもっていくと。 これで日本のあらゆる分野にわれわれの同志が浸透して、 日本人に共産思想を浸透させ、その時期を見て国政を変え、 国体を変えると。 それから、彼は、じっと話を聞いている私に突然、 「お前は今年なんぼか」と。 「はい、三十一です」と答えると、 「おっ、若い。弥之助と同じじゃないか」と。 「これからは、お前たちが中心になってやれ」と。 話は、食事を間にして、3時間有余になった。 「お前、いまどこにおるか」と。 「赤坂の溜池にちょっとお世話になっております」と云うと、 「そんなところに住まずに、今晩からこの家に泊まれ」と、 私を離さないです。 これだけの秘密を話したのだから。同志中の同志だからって。 私、とまどったんですよ。 「先生、お願いします。今日は、ちょっと帰らせて下さい。 一週間後に九州に帰りまして、家族といろいろ打ち合わせ をして、それからいよいよ先生の下にお世話になりますか ら」 ということで、なかなか離そうとしない中を、とうとう振り 切って、表へ出たきり、それ以来ニ度と会ってないわけです。 2−6.ヤルタ会談の極秘内幕 ..日本占領用の舟艇をスターリンに送らな かったチャーチルとトルーマン ..ソ連 北方領土占領秘話 それからまた別の大事な話、ヤルタ協定を、彼は私に話して くれました。 その時に、私は始めて、ヤルタ協定というものを知ったわけ です。蒋介石、ルーズベルトとチャーチル、スターリンの四者 会談がヤルタ協定。 ところが、この蒋介石は欠席したんですよ。そして、スター リンとチャーチルとルーズベルトの三者会談だった。 その時にチャーチルは、 「スターリン閣下、いまもう沖縄まで近づいております」と。 「あと、一息で日本本土に、最後の止めを刺すところまで、 いま来ている」と。 「どうか、あなた満州の関東軍を制して、それで東京で握手を しませんか」 ということをチャーチルは打ち出したわけです。 ところが、その時に、スターリンがこう言ったらしい。 「やります」と。 ところがベルリンには、一足先にソ連軍が入ったわけだ。だか ら、ドイツ占領は優先的にソ連が決めたわけだが、あのベルリン をまっ二つにしたという、そういう苦い経験が、連合軍にあるわ けなんです。 だから、日本の占領は、アメリカと豪州、英国の単独で、ソ連 抜きの占領を目指しているわけなんです。 ところが、当時アメリカは非常に関東軍を高く評価していた。 これは一般の人は知りませよ。だが、軍が満州へ天皇陛下お迎え して、あそこで最後の防衛戦をやるんじゃないかというのが、 チャーチル、ルーズベルトの見方なんです。ルーズベルトが、そ れをされたら大変なことになると。それを、ルーズベルトたちが 一番恐れた。 もう日本は一億玉砕という気持ちでおるでしょう。これが相当 に犠牲を払う。今度は、これ、満州でしょう。ところが、彼らは 関東軍というのは、満州事変から世界に冠たる日本の最強の軍隊 であるということを知っているわけなんです。 そこに天皇陛下をお呼びして、抗戦されたら、これは大変なこ とになる。だから、どうしても関東軍をソ連軍に任せて一つ時間 稼ぎしようというのが、ルーズベルトとチャーチルの狙い。これ は、松本治一郎の言うことなんです。 そしたら、スターリン曰く、 「わかりました。日本の占領は、百年の夢やから・・・」。 ところが、ベルリン攻略に、ソ連はいろいろなものを使い果た した。まず輸送用のトラックがない。上陸用の舟艇が一隻もない んです。 ですから、日本上陸に、上陸用の舟艇を回して欲しいと、それ からモスクワからシベリアに送る物資の輸送にトラックを1万台 要望したんですよ。そしたら、アメリカは急ピッチでトラックを 大西洋でモスクワに送ったわけだ。ソ連軍はそれに乗って、満州 へ進駐したわけだ。だから満州からの引き上げ者は、あれはアメ リカ製のトラックだったというのが、皆さんの言葉なんです。 ところが、その時に日本本土上陸を、ルーズベルトがソ連に要 請し、アメリカは日本上陸用の舟艇をソ連に送るようになったわ けです。ところが、ルーズベルトがアメリカに帰って一週間目に 亡くなった。そのあと副大統領のトルーマンが大統領になった。 そしたらチャーチルはトルーマンと打ち合わせして、舟艇を送 っちゃいかんと。ソ連に日本上陸されたら困ると。ソ連を満州に 釘付けして、完全にアメリカと英国で日本占領をやるということ で二人の話が決まった。 だから、上陸用の舟艇を送らなかったわけです。だから、ソ連 軍が満州をずーっと攻め、北鮮の一部まで届いた時に、日本は終 戦を迎えたんです。 ところが、この終戦の前に、アメリカはもう既にその時には原 爆にかかっていたわけです。8月の何日かに落とすと。だから、 それまでにソ連を満州に釘付けしておいて、この原爆を撃ったら、 日本は必ず諸手を上げて降参するということを、百パーセント読 んでいた。 ところが、ソ連は原爆をアメリカがつくっていて、そこまで出 来上がっているということまでは気がついてなかった。 その時、ソ連は、やっと満州の鴨緑江のところまで来たわけで す。一部北鮮の、日本海のほうに面したところまで入ってきたん です。あとは、北海道のほうの歯舞、国後、色丹まで、船をつけ て上がってみたけれども、 「ああ、こんなところは要らん」と引き返した。 けれども、日本占領をアメリカと英国が独占でやっているので、 歯舞、色丹、四島だけでもといって、自分のモノにしたわけだ。 で、北海道には、日本の軍がおるというのに、上陸用の舟艇が なけりゃ、上がれないんです。だから北海道の上陸はストップし たわけなんです。こうして日本は、完全にアメリカの思うとおり の、マッカーサーの思うとおりの占領になったわけだ。 スターリンはせめて、北海道を占領しようと。それで米英に対 して大分ゴネたらしですね。松本治一郎はそう話していました。 ところが、北海道に上陸する舟艇がないから。上陸できんので すよ。チャーチルとルーズベルトはオーケーして帰った。しかし 実際はトラックだけしか送らなかったわけです。 トルーマンになって、急に方針を転換し、上陸用の舟艇がソ連 に送られなかったことが、今日の日本の運命を、位置づけたんで す。 それでスターリンが、もう躍起になっているわけです。だから、 今度は思想戦で日本を覆せといって・・・。 それを松本治一郎がモスクワで聞いて、土産話に、私にしたわ けなんです。 2−7.騙されたスターリン ..思想戦による日本占領策への変更 記者:ヤルタではすべてチャーチルが主導権をもっていていて、 何もかも発言したんですね。 末安:あの時スターリンが曰く、ルーズベルトは、ただ来て 「ふん、ふん」という程度で・・・。 そりゃ。ルーズベルトは薬嗅がされて死ぬ寸前、記念写真 をとるのが精一杯。だから、すべてチャーチルが主導で・・。 それはものすごい情報です。 記者:それで、東京で、三人で握手しようというのは、何もかも チャーチルがものをいうて、ルーズベルトがそれに応じた だけ。それを松本治一郎が話してくれた。 これは大変な歴史の新事実ですね。 末安:ソ連は一杯食わされているわけだ。それなら、思想戦で 日本占領をやれと。だから、マッカーサーが日本の占領 政策を、バーッと緩めた。 東京で握手をしようといったのは、チャーチルが言ったわ けです。 「スターリン閣下、握手しましょう」と。 ルーズベルトはもう一切聞き役で、ただ「ウン、ウン」と いうだけで・・・。彼はその場にいただけ。もの言うのは、 チャーチルが一人で言ったと。 記者:舟艇は送ろうということになっていたんだが、送らなかっ た。その舟艇を送るのを止めたのが、トルーマンでしょう。 末安:トルーマンです。 記者:これも重要な証言ですね。 末安:このトルーマンに、チャーチルは電話連絡して、渡さない ほうがいいと。 記者:ああ、それも重大だ。 末安:チャーチルは舟艇を渡しちゃいかんと。 記者:チャーチルは、しかしそのヤルタ会談の現場にいたわけだ。 末安:「渡します」と、ヤルタではオーケーしたわけなんです。 スターリンが舟艇とトラックを回してくれと。 「わかりました」と、 記者:チャーチルは「わかりました」と言ったと。 末安:それでルーズベルトは帰ったわけです。それで一週間後に 亡くなった。それで、代って大統領になったトルーマンが チャーチルに連絡をとったわけです。 チャーチルは 「ボロトラックをあるだけ回せと。そうすりゃ、それだけ、 一人でも多くソ連兵が満州に行くんだから」と。 記者:ボロトラックと言いましたか。 末安:いや、新車からボロから何でもいいから、あるトラックを どんどん一刻も早く回してくれと。 記者:しかし舟艇はいかんと。 末安:舟艇は渡しちゃいかんと。 記者:それはチャーチルが言ったんですね。 末安:チャーチルが言ったんです。トルーマンも舟艇を送らない ことに同意したんです。 だから、ソ連としては、「舟艇が来ん、舟艇が来ん」で、 しかしもうどんどん兵隊を輸送したわけでしょう。 記者:しかし、ヤルタ会談の現場では、チャーチルはソ連が日本 に占領軍を入れることについては、反対していなかったん ですか。 あるいはその時点でのチャーチルは、ソ連が日本本土に 入ることを認めていたんですか。 末安:いえいえ、認めてないです。 記者:その時点でのチャーチルは。 末安:その時点では、東京で握手しましょうと、スターリンに 要請しているわけです。 記者:質問の主旨は、ルーズベルトがヤルタに行った時点での 会談の内容です。 その時点では・・私の言っているのは・・日本占領もやむ を得ない、つまりチャーチルとスターリンが東京で握手す るとチャーチルが言った。 つまりチャーチルは占領容認だった。ソ連が日本にはいる のを容認していたわけですね。 末安:ところが、後段の話では、ルーズベルトが亡くなり、トル ーマンが出てくる。その時に、突然態度が変わった。 とにかく一日も早く数多く回せと。しかし、舟艇だけは回 すなと。 記者:日本占領を回避する方針に変わったわけですね。 末安:だから、スターリンが一杯騙されたと言ってね、松本治一郎 に話したらしい。 記者:そこでもう一つ疑問があるのは、チャーチル自体はどうして ・・・。つまりトルーマンの要請で、日本占領を断念したの か。 あるいは・・今の末安さんのお話ですと、電話連絡でとおっ しゃいましたが、トルーマンが電話したんでしょうか、それ ともチャーチルが電話したんでしょうか。 末安:それは、トルーマンが舟艇のほうは、どうだろうかといっ たら、 「それは回さないほうがいい」と。 記者:トルーマン主導ですね、この話は。 末安:トルーマンが聞いたんですよ、チャーチルに。舟艇を送ると いう約束になっているようだけれども・・・と聞いたんです、 トルーマンがね。ちょっと心配になったんでしょう。 そしたら、チャーチルは 「いや、送ってはいかん」と、こう言った。 チャーチルは初めから騙すつもりだった。そりゃチャーチルは、 海千山千ですからね。ヤルタ会談で、「日本で握手しよう」 なんて、外交辞令で何とでもいうんです。 それと、インパールの主導権も全部チャーチルが握っていた んだね。アメリカにどんどんと飛行機と戦車を・・・。 インパール作戦も、日本包囲戦もチャーチルの命令で・・・ あの当時の、マント・バッテン公爵が最高指令官で、インパ ール作戦はチャーチルが全部アメリカから武器を・・・。 ですから、第二次世界大戦の主役は何と言ったってチャーチル ですよ。何たって、あれだけの領土を持っていたところが、 全部パーになったんやから。 満州にソ連を釘付けして、関東軍の精鋭とソ連軍とを、あそこ でしっかりと抱き合わせして、時間稼ぎをやったわけです。そ れで、日本を完全にアメリカ得意の英米の占領下に置くという のは、チャーチルとトルーマンの考え。 それにピタッとはまって・・・。だからスターリンは、一杯騙 されたと。 だから松本治一郎さんに、共産党引っ込めて、お前に全力を上 げて、応援すると。いわゆるスターリン閣下の命令に従う、俺 は今後ソ連の主導の下で、日本に革命を起こす。我々の時代を つくると。これからはお前たちの働きしだいだということを、 松本氏は私に話したんです。 記者:一つ質問があるんです。共産党を引っ込める理由ですね。 これは松本治一郎さんは、どうして共産党を引っ込めて・・・ 末安:共産党を引っ込めるというのは、スターリンが引っ込めると 言ったんです。 それまで、日本の革命のためにモスクワと北京に、日本から 派遣教育をされていた共産党の幹部が、戦後続々と帰ってきた でしょう。 そしたら、日本にいる若い学生層から、まるで凱旋将軍のよう に迎えられて、32名の共産党の国会議員が生まれたんです。 ところが、その頃天皇陛下が国民の中に飛び込まれて努力され たので、日本人が天皇制という国家をあらためて見直したわけ です。ここまではスターリンも計算に入れていなかった。 記者:ですから、共産党はダメだと。 末安:だから、実力行使ではダメと。頭から実力行使でやったって、 日本という国柄は・・・。 社会党のほうが国民のウケがいいから、お前さんを応援すると。 今後ソ連はお前に全面的にバックアップするという特命を受け て、俺は夕べ帰ったと・・・。奥に島上善五郎等、四人の国会 議員。 それで、それが2月の話でしょう。5月のメーデーに島上善五 郎が先頭立って、皇居前で指揮をとったわけです。 この時、共産党は全然出てない。スターリンの命令を受けた彼 らの一番の仕事がこれだったんです。昭和25年度までのメー デーは共産党が先頭だった。そこでさっとバトンタッチをした。 共産党は全然出てないです。 共産党は、国民にアピールするために、環境保護・平和運動、 市民運動に関わり、パーティーをしたり、山登りなどのレジャ ーをやったり、女性へのウケを狙うような、ソフト路線に方針 を切り換えた。 そして、社会党が今度は実力行使に出たわけです。その第一歩 が三池炭鉱の争議。それまでの王子製紙やら、二、三の争議は 全部共産党が主導権をとったが、それから、今度は三井の攻略 にかかったわけ。 それで三井は第一組合と第二組合に組合が分かれた。資本家の ほうの組合と、いわゆる社会党のほうの組合とが対立したわけ です。そして、一応それは収まった。 それから2年後に原因不明の爆発を起こして、四百何十名の事 故を起こした。これが今日まで三井がいろいろと経済的に尾を 引いているわけです。 スターリン命令と松本治一郎 に戻る 周真会トップへ Copyright Shushinkai, all right reserved. |
【マッカーサー元帥とトルーマン大統領の対立】 | ||
3月、国連軍最高司令官マッカーサー元帥は、「中国本土爆撃も辞さず」と声明し、中共政権そのものを崩壊させようとする戦略を用意し始めた。が、トルーマン大統領はそうした考えを「好戦的」と判断し、こうして両者は対立した。大統領には大統領の世界戦略があった。 4.11日、トルーマンはマッカーサーを解任した。大統領はその声明で、「非常に遺憾なことであるが、私はマッカーサー元帥をその公的任務に関する事項に付き、米政府及び国連の諸政策に全幅の支持を与えることができない、との結論に達した。米国憲法が私に課した明確な責任と、さらに国連が私に与えた責任とに鑑み、私は極東における司令官の更迭をはからねばならないとの決定に達した」と述べている。日本人にとっては「寝耳に水」の「シビリアン.コントロール」を目の当たりに見せ付けられたことになった。 この時マッカーサー71歳、二千日(5年8ヶ月)にわたって日本の戦後を支配した元帥は、連合国最高司令官、国連軍最高司令官、米国極東軍ならびに極東陸軍総司令官という総ての任務を解かれた。後任にはリッジウェゥイ陸軍中将が任命された。急遽ソウルから東京へ赴任し、マッカーサーと入れ替わった。離日に当たってのマッカーサーの言葉は「老兵は死なず、ただ消え行くのみ」。 4.19日、上下両院合同会議の席上演説で、「私は日本ほど安定し、秩序を保ち、勤勉である国、日本ほど人類の前進のため将来建設的な役割を果たしてくれるという希望の持てる国を他に知らない」、「老兵は死なず、ただ消え行くのみ。あの歌の老兵のように、私は今軍歴を閉じて、ただ消え行く。神の示すところに従った自分の任務を果たそうと努めてきた一人の老兵として。さようなら」とも語っている。 マッカーサーは、1951.5.5日、米議会上院軍事.外交合同委員会聴聞会で次のように述べている。
マッカーサーは、国家的成熟度として「我々アングロ.サクソンが45歳なら、日本人はまだ12歳の少年である」と認識していたようである。この12歳の少年を何とか成人に導かんとして5年8ヶ月(65歳から71歳までの間)にわたって最高権力者として君臨した、というのは紛れようの無い史実である。 マッカーサーはその後1964年84歳で死去。バージニア州ノーフォークにマッカーサー記念館。吉田は、次のように追想している。
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【港湾労働者のスト】 |
3.4日、大阪港で南朝鮮向けの米を積み込み中の軍船ヴィクトリア号の作業中に、アメリカ兵と労働者の間に争議が発生した。これがきっかけとなって、大阪の港湾労働者がストに突入。4.6日全港湾大阪地本の闘争宣言には、「我々は輝かしい闘争の伝統をもっている世界の港湾労働者に、決して遅れをとらず、全日本の労働者の先頭にたって闘う」とある。4.13日48時間スト、15日から無期限ストに入った。このために神戸港が完全に機能麻痺している。名古屋でも4.15日24時間スト、16日から無期限ストに突入した。この港湾労働者の闘いは、「戦争反対、平和の要求」という政治的闘争を帯びており、これが後の労働運動に影響を与えていった点で重要である。 |
【総評第2回大会開催】 | |
3.10日、総評の第2回大会。高野派(総同盟・表見左派)と新産別派(総同盟・主流派)、総同盟刷新派(総同盟・右派)が激突し、ことごとく対立した。講話問題と平和運動に対する左右両派の態度が食い違い、規約改正問題、運動方針、行動綱領、組織問題、自由労連加入問題などで三案が持ち出され、紛糾を重ねた。
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【世界平和評議会日本委員会の動き】 |
2.21日、ベルリンで開かれた世界平和評議会第1回会議。「日本問題の平和的解決についての決議」を採択。「対日単独講和を結ぼうとする一切の企図を非難する。世界平和評議会は、講和条約は、中.米.ソ.英の間で、まず交渉され、その後、全関係諸国により採択されねばならないと考える。講和条約締結後、占領軍は即時、日本から撤退、日本人民に対する民主的平和的生活の保障、公然、非公然の一切の軍事組織と軍事機関の禁止、全工業の平時態勢への転換」を要望していた。 3.27日、日本委員会は、平和擁護全国活動者会議を開いたが、常任委員会に対して激しい批判が出始め、執行部側は一方的に閉会宣言している。 |
【第11回目の昭和天皇とマッカーサーの会見】 |
●朝鮮の戦況質問 マッカーサー元帥が米大統領に罷免された後の51年4月の最後の会見で、天皇は、極東国際軍事裁判(東京裁判)に触れ「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度につき、この機会に謝意を表したい」と語った。これに対し元帥は「私は戦争裁判の構想に当初から疑問を持っておりました」と語り、「ワシントンから天皇裁判について意見を求められましたが、もちろん反対致しました」などと述べ、裁判を求めた英国やソ連を「間違い」だと主張した結果、天皇が不訴追になった経過を明らかにした。 朝鮮戦争さなかの51年5月に始まるリッジウェー会見で天皇は「(国連軍の)士気は」「制空権は」など一貫して戦況について質問。「仮に(共産側が)大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるか?」とも尋ねていた。リッジウェー司令官は「原子兵器の使用の権限は米国大統領にしかない。野戦軍司令官としては何も申し上げられない」と答えながらも、地図を前に詳細に戦況を説明した。 講和条約調印直前の51年8月の会見で同司令官は、日本が主権を回復したら国防上の責任を果たす必要がある、と指摘。天皇は「もちろん国が独立した以上、その防衛を考えるのは当然の責務。問題はいつの時点でいかなる形で実行するかということ」と述べた。続けて「日本の旧来の軍国主義の復活を阻止しなければならない」とし、「それにはまず軍人の訓練と優秀な幹部の養成だ」との考えを示していた。 ■会見は計18回 昭和天皇・マッカーサー会見は45年9月〜51年4月、リッジウェー中将(のち大将)との会見は翌年5月まで行われた。いずれも内容は秘密にされたが、マッカーサー会見第1回全文と第4回の前段については、作家の児島襄氏(故人)が通訳の記録を雑誌や著書に公表。第3回記録も国会図書館に保管されているのが見つかった。松井氏は死去の直前、会見内容のごく一部を産経新聞94年1月6日付朝刊で語っていたが、全容を示す手記は今回初めて明らかになった。(2002.8.1日朝日新聞記事「昭和天皇とマッカーサー元帥 占領期の会見詳細判明」) |
【「二つの共産党」による選挙戦 】 |
4.23.30日、全国にわたって第2回一斉地方選挙が行われた。党は、都道府県議6名当選。市区町村議489名当選。この選挙戦で党の分裂が深刻な様相を見せた。大衆の面前で主流「臨中」派と統一会議派との抗争が展開されたのである。主流派は社会党の受け入れ為しに一方的に社共の「統一候補」として社会党候補者を推薦するという選挙方針をとった。東京都知事に加藤勘十を、大阪府知事に杉山元治郎を推した。 統一会議派は、反帝の態度が曖昧な候補の推薦を無原則的と批判し、独自候補の擁立を促した。主流派がこれを入れないとみるや東京都知事に哲学者の出隆、大阪府知事に関西地方統一委員会議長の山田六左衛門を出馬させた。こうして両派による泥試合が展開された。戦前戦後通じて初めて「二つの共産党」が別々の選挙戦を戦うという珍事態が現出した。特に宮顕系の統一会議派は、主流「臨中」派の地方選挙方針を激しく批判しつつ、独自候補運動の正当化を喧伝した(「党活動」3.10日付け「革命的議会主義と当面の地方選挙闘争」他)。 だが、統一会議系の独自候補擁立方針に対しては、同じ反対派の中から異論も出た。中西派は、機関誌「団結」紙上で、党内が別々の候補で争うことに反対し、選挙候補の統一を呼びかけた(「団結」第23号「地方選挙闘争の基本問題」他)。福本グループの「統一協議会」は、国会選挙以外の地方選挙は一切ボイコットせよと主張した。野田ら「国際主義者団」は、「平和綱領」を承認する候補者だけを支持せよと呼びかけた(「火花」3月第5号「地方選挙と日本プロレタリアートの任務」他)。こうして事態はますます混乱するばかりとなった。 選挙戦を通じて、主流.国際派両派の争いは激化し、相互悪罵戦の泥仕合となった。党外大衆の困惑は不信と失望へと向かった。投票結果はそれぞれ惨敗となった。得票数等の詳細は公報したものを入手していないので分からない。 |
【主流派内に「自己批判書」騒動起こる 】 |
「二つの共産党」による選挙戦が行われたこの頃の3月から5月にかけて奇妙な現象が主流派内に起こった。主要な地下指導者と椎野「臨中」議長たちの相次ぐ自己批判声明が発生した。3.25日付けで志賀義雄の「自己批判書」が口火を切った。「1−2月頃に旧全国統一委員会が解放戦線を発刊してはっきりと分派行動の再開に乗り出したのを知って、これと闘う気持ちになった」と、告白していた。 |
【民対全国代表者会議が四全協決定を確認】 |
5.10日、民対全国代表者会議が開かれ、四全協決定を確認し、2月〜3月の「祖国防衛・日本再軍備反対闘争月間」運動の成果と欠陥を検討し、「在日朝鮮人運動の当面の任務」を決定した。 |
5月、青年共産同盟の運動を受け継いで、日本民主青年団として発足。 |
【「宮本百合子葬」が盛大に執り行われる 】 |
5.23日、「宮本百合子葬」が東京の共立講堂で開かれた。その葬儀には党から花環が送られたが、宮本百合子祭には、臨中からボイコット指令が出ていた。「『宮本百合子祭』を大衆的にボイコットせよ!」(51.4.18日「党活動指針」。ねじれであった。その論拠は、「百合子祭を平和擁護のカンパにアであるかのように言っているが、筋金の入った集会が、たとえ文学であろうと、平和のためのものであろうと、地域的な小集会に至るまで禁圧されているとき、百合子祭が許可されているということは、その性格が危険ではないという当局の認識があるのではなかろうか」(伊豆「真実と文学と人間性」)。「この催しの前後に平和のための集会を同じ共立講堂で行おうとして、二度とも不許可になったという話を聞いていた私は、それが許可されたばかりでなく、約3千人に近いその大会合に、一人の警官の姿も見えなかったということをきいて、驚きと怪しみの念にたえなかった」(岩上「蔵原の文化理論について」)。 |
【社会主義協会が設立される 】 | |
6月、社会主義協会が設立され、雑誌「社会主義」が創刊された。社会主義協会の主要メンバーは、山川均、大内兵衛、大田薫、岩井章、高野実、清水慎三、岡崎三郎、高橋正雄、向坂逸郎らであった。このうち、高野実、清水慎三、高橋正雄、大田薫は分離していくことになる。次のように自賛している。
社会主義協会は他にも「理論戦線」、「唯物史観」を発刊する。その主張は、「マルクス・レーニン主義を、日本の歴史に具体的に適用し、日本における社会主義革命を達成することを、その使命」とし、次の諸点に特徴が認められる。1.社会主義革命を目指す。2・社会主義革命は武装蜂起路線を否定し、平和的移行により達成する。3・国家権力を奪取して生産手段を原則として国有にし、その土台のうえに勤労大衆の精神的、物質的福祉を増進してやむことのない計画的な社会をつくる。 |
【椎野臨中議長統一を呼びかける 】 |
こうした自己批判運動は、地下指導部からやがて合法公然指導部に及んで行った。7.6日椎野臨中議長は、「党の理論的武装のために、私の自己批判」を発表した(前衛.51.8月第61号、党活動指針7.30日付)。それは、これまでの理論軽視の自己批判であった。自己の理論水準の低さを反省し、これまでの理論軽視の傾向や経験主義助長の傾向を自己批判していた。こうして突如予想もされない 自己批判の連続的発表となった。一方で、分裂問題については、「統一会議」の動きに対して「分派」.「空論主義者」と呼び徹底批判を強めた。 |
【自己批判運動をめぐる国際派各派の対応】 | ||||||||||||||||||||||||
反主流派各グループは、こうした主流派の自己批判の姿勢に様々に対応することとなった。この経過を見ておく。 7.15日、まず宮顕が「欺瞞と歪曲の書」見解を発表した。 7.16日、宮顕派が、都統一会議指導部名で、椎野文書への批判を声明。 7.18日、宮顕派の関東統一会議が、椎野文書否定の上、統一申し入れ。 これに対し、7.18日、春日(庄)らの関西統一委員会が、椎野文書の肯定的評価と統一の申し入れをした。7.19日、この文書を公表。 7.20日、春日派の東北統一委員会が椎野文書肯定の上、統一申し入れ。 7.25日、春日(庄)が「党統一闘争の発展のために」を発表。 7.31日、春日派が東北統一委員会「全国ビューローの通達」に対する我々の見解を発表。 8.1日、亀山が、「統一と解放」紙に、「椎野自己批判をめぐって」を発表。 8.10日、宮顕派が、全国ビューロー機関紙「建設者」に「欺瞞と歪曲の書」の要旨掲載。 8.13日、春日派の関西統一委員会が、復帰・統一を決議、8.16日それを公表。 統一問題に対する態度を次のように整理することができる。相次ぐ党中央の自己批判の動きをどう受け止めるかの評価を廻って、宮顕派は、「徳田党中央の責任追及による『上からの統一』」、春日派は一応党中央への合流、中西.福本派は下からの統一、国際主義者団は主流派粉砕の新党コース、神山派は上から下までの組織的統一というふうに見解が分かれた。こうして党中央の自己批判は反対派内部に決定的な意見の対立を発生させていくことになった。 これを図式化すれば次のようになる。
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【宮顕派と春日(庄)派との対立、訣別】 | ||||
この過程で、同じ「統一会議」派内の宮顕系と春日系が最も鋭く対立し、この対立は深刻な様相を見せていくことになった。宮顕は自己批判について欺瞞的として否定的態度をとり、春日は肯定的に受止めようとした。この対立が深まり両者は決別していくことになった。関東と関西の間に違いが生じ、関東系は主として宮顕を支持し、関西系は春日を支持した。
これに対し、春日の反宮顕の非難が注目された。宮顕派の関東と関西の間に発生した食い違いに対して、関西派の態度が正しいとした。党の統一の好機であるとして、「上からの統一」方式と宮顕派の「第6回党大会の中央委員会回復せよ」の態度を「形式的正統主義」と激しく非難した。宮顕派に対し次のように批判した。
前年来の宮顕のセクト的策謀ぶりを暴露し攻撃した。
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【春日(庄)派の党合同の動き】 | |
こうして、春日は、「彼らの自己批判に見合って我々の側もこの際自己批判を示し、統一のための条件を成熟させなければならない」として、榊宗一郎名で「党統一闘争の発展のために」を発表した。春日に続いて春日(小)の影響力の強い関西地方統一委員会グループは、椎野の自己批判の積極的意義を認めようとする立場から7.18日、関西地方委員会議長・山田六左衛門も同様趣旨の文書「同志椎野の自己批判と我々の態度」を発表し、椎野自己批判の積極的意義を認めようとする態度を示した。「(椎野の)自己批判はすでに貴重な芽を含んでいる。それ故に我々はこれを歓迎し、これを正しく発展さすよう全力をあげて援助し協力しなければならぬ」と説いた。 このあたりのことに関して、亀山氏の「戦後日本共産党の二重帳簿」)には次のように書かれている。
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8.16日、宮顕派の全国統一会議系の全国代表者会議(埼玉会議)が開かれる。 8.18日、宮顕派の関東統一会議指導部が、モスクワ放送を受け入れ、組織解消を声明。 8.19日、党中央が第20回中央委員会を開き、「新綱領」の提示と「党統一の決議」を行う。 |
【宮顕派分党の解体】 | |||||||||||||||||||||||
こうしていよいよ宮顕系国際派は追い詰められ、分派組織の解体を呑まざるを得ないことになった。この時の対応は四コースに分かれた。これを図式化する。どのコースを取るかによって、各人各様の人間模様が生まれた。
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6月、第一次追放解除。石橋湛山、三木武吉ら政財界要人2985名の追放解除が行われた。更に8月、鳩山一郎、大麻唯男、緒方竹虎、前田米蔵、松野鶴平、松村謙三、河上丈太郎(社会党)、河野密(社会党)らが追放解除された。
【吉田茂内閣、第2次内閣改造を実施 】 |
7.4日、吉田茂内閣、第2次内閣改造を実施。引き続き自由党単独内閣を形成し、増田甲子七幹事長、広川弘禅総務会長、吉武恵市政調会長の布陣で政局運営にあたることになった。佐藤栄作は、郵政相兼電気通信相として入閣。 |
【スターリン裁定為される】 |
日本共産党問題がモスクワで討議された。8.12日前後、日本共産党の分裂問題についてスターリンも参加してモスクワで会議が開かれた。ソ共側は、首相兼ソ共党書記長・スターリン、第一副首相・マレンコフ、副首相兼内務省要人・ベリヤ、党政治局員・書記局員・モロトフ。中共側は、対外連絡部部長の王稼祥。日共北京機関からは徳球.野坂.袴田.西沢。反主流派からは袴田が幹部として呼ばれた(袴田の場合は国際派の代表として中国、ソ連に派遣されていたが、王稼祥に説得されて、「五一年綱領」原案を認めてこの会談に出席している。加えて、スターリンから自己批判書まで書かされた)。つまり、ソ共・中共・日共主流派・日共反主流派代表の一同が会したことになる。 |
【 党中央徳球派の党内整風運動と反発】 |
こうしてスターリンとコミンフォルムの権威によって、反徳球派の圧倒的多数の人々は党中央徳球派に屈服することを余儀なくされる。が、この時主流派は、国際派に対して分派活動としての自己批判と「51年綱領」の承認と「四全協」の規約の承認を前提としたことから復帰自体も円滑に進まなかった。「その後も、幾度かの『分派狩り』が、総点検運動の名において行われた。右手に除名処分の剣を持ち、左手に慈悲の免罪符をかざしながら、手荒い説得と教育の三ヵ年が引き続いた」ようである。 |
【 全学連中央=国際派の動揺】 |
コミンフォルムが所感派の方を正しいと裁定したことに拠り、全学連中執派のメンバーは非常に衝撃を受け、これを契機に再び多くの学生活動家は党中央の指導に服していくようになった。全学連内部の苦悩が頂点に達した。しかし、全学連委員長武井ら20数名は国際派の首領格であった宮本顕治グループと行動を共にする途を択ぶ事になる。宮顕復党後は更に混迷を深めていくことになった。 安東氏の「戦後日本共産党私記」によれば、三つの意見に分かれたようである。一つは、自己批判と復党を急ごうとした流れであり、不破が急先鋒であった。力石は負けたのだから仕方がないとして復党に向かった。これが多数の流れとなった。宮本と軌を一にしていることが知られる。一つは、我々は基本的には間違っていなかったと反発する流れであり、武井と福田らが主張した。復党を拒否することになったが、これは少数派であった。さらに、三つ目の流れは、双方共に分派であったこと、所感派は悪い分派で、我々は良い分派であったことは譲れないむ。復党は流れに任せるという主張であり、安東らが主張した。復党拒否派は次第に孤立していくことになったようである。 |
【 「第20回中央委員会」開催、徳球派が「武装闘争路線」宣言する 】 | |
8.19−21日にかけて「第20回中央委員会」が秘密裡に開かれた。第19回中央委員会総会以来1年4ヶ月ぶりであった。講和会議が開かれる直前の時期であった。この会議の眼目は、反対派受け入れに当たっての無条件屈服要求方式を採用すること、後述する新綱領の下での全党の理論的統一を獲得することにあった。会議では、新綱領草案、「党の統一に関する決議」など5つの決議が採択された。「4全協」で採択された改正「党規約草案」も承認された。「党の統一に関する決議」では、反対派復帰に当たり徹底的な自己批判が要求される無条件降伏の道を採択した。
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スターリンと毛沢東とは、日共の武装闘争についても多少の意見の相違はあったが、戦略的には一致してその必要を認めていた。その限りでは、中・ソはまだ中ソ友好同盟条約にもとづいて蜜月であった時代である。そのことを立証するものとして、後にフルシチョフが事実を暴露して日共中央委員会にあてた公開書簡がある(タス通信・一九六四年七月二十日付第七八三号、「日本共産党中央委員会あて一九六四年四月十八日付ソ連共産党中央委員会書簡」)。 これは、この前年(六三年)三月、日ソ両党代表間で会談がおこなわれた際、日共代表団が、朝鮮戦争当時、ソ共が五一年綱領と〈極左的冒険主義戦術〉とを日共に押しつけたのは〈内政干渉〉であるとして抗議したのにたいして、ソ連側でそのような事実はないと反駁したものである。書簡によれば、一九五〇年一月のいわゆるコミンフォルム批判の論文は「スターリン個人の発意で発表されたもの」であり、五一年綱領については、「その草案が日共指導者(徳田・野坂両同志その他)の諸君と、その直接参加のもとに、スターリン自身の手で仕上げられたものであること」を言明している。 |
【「山村根拠地建設」、各地での火炎ビン闘争が発生】 |
こうした方針から「山村根拠地建設」、「自衛組織づくり」に向かうことになった。山村工作隊が組織され、各地での火炎ビン闘争が発生した。 志田重男がリーダーとして指揮をとった。「栄養分析法」
.「球根栽培法」等で中核自衛隊の組織、戦術等が指示された。 ところで、奥吉野・奥有田に「独立遊撃隊」を作らせながら、数カ月で補給さえ放棄した。この無責任は各地の山村工作隊に共通しているようである。 |
【全学連中央委員会総会、この当時の学生運動】 |
この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。 8.26日、全学連は中央委員会総会を開き、50年以来の闘争の総括をした。分裂主義者にたいする決議と闘争宣言、「全日本学生へのアピール」を採択した。武井委員長が再選されている。 |
この年共産党は、51年秋から、トロツキスト追放キャンペーンの激しさをました。 |
【講和条約締結前の弾圧】 |
8.14日、共産党機関紙20紙の発行停止。8.15日、全国一斉平和集会の禁止。8.16日、旧軍人を含む13000名の追放解除。8.26日、正規軍人20100名の追放解除。9.3日、GHQと政府は、講和会議を目前にして、占領政策違反の名目で党の合法指導部と残された「臨中」委員、国会議員その他に弾圧を加えた。まずは18名(椎野.河田.鈴木.杉本.輪田.保坂浩明.福本和夫.岩田英一.山辺健太郎.西沢隆二.岡田文吉.岩本巌.上村進.砂間一良.細川嘉六.堀江邑一.川上貫一.木村三郎)、9.6日にはさらに西館仁を加えたので合わせて19名の公職追放が命ぜられた。1年前の中央委員追放に続く党中央への弾圧であった。GHQの指示を受けた警察は、全国300ヶ所にわたって党の機関を捜査した。椎野等は既に事態を察知して地下に入っていたので、公然面に残された8名(岩田英一.堀江邑一.細川嘉六.山辺健太郎.福本和夫.砂間一良.上村進.川上貫一)が逮捕された。 |
9.8日、特高関係者の追放解除。
【講和条約締結】 |
朝鮮戦争、マッカーサーの解任等々対日講和を阻害すると思われた事件の出来にもかかわらず、講和への動きは着実に進んでいった。この頃朝鮮戦争は既に膠着状態に陥っていた。8.16日、講和条約草案の全文発表。8.22日、全権、全権代理及び随員が発表された。全権は、吉田茂首相、池田隼人大蔵大臣、苫米地義三民主党最高委員長、星島二郎自由党常任総務、徳川宗敬(むねよし)緑風会議長、一万田尚登日本銀行総裁。全権代理は、吉武恵市自由党政調会長、大野木秀次郎自由党参議員議員会長、松本六太郎農民協同党委員長、鬼丸義斎民主党最高委員。一応超党派の体裁を整えていたが、社会党.共産党抜きの「超党派」であった。随員として、宮沢喜一、白州次郎、麻生和子(吉田首相の娘)らが選ばれた。8.31日、日本全権団が羽田を出発した。 9.4日より講和会議がサンフランシスコのオペラ.ハウスで開かれた。アチソン米国務長官が議長席につき、トルーマン大統領が開会挨拶した。参加国は52カ国。冒頭から波乱含み。ソ連代表グロムイコが発言し、概要「この米英草案は、平和の条約というよりは極東における新しい戦争準備のための条約である。これは日本軍国主義再建を防止する保障を含んでいないのみならず、逆に侵略国家としての日本復活の為の条件をつくっている」。こうして米ソの対立が露骨化した。吉田.トルーマン会議が持たれた。 9.8日、単独講和平和条約が締結された。48(46)カ国が調印した。ソ連.ポーランド、チェコスロバキア、中国.インド.ビルマが調印しなかった。この条約の締結によって日本は占領統治体制から脱却し主権を回復することになった。 |
【日米安全保障条約締結】 | ||
この条約の調印の5時間後日米安全保障条約が締結された。「平和条約の効力発生と同時にアメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内に配備する権利を日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する」。両条約は52.4.28日に発効されることにされていた。吉田首相は、「この条約は評判が良くないから、後の政治活動に影響があってはならない」として、彼一人が署名した。アメリカ側は、アチソン国務長官、ダレス顧問ら4名が署名した。署名前吉田は次のように声明している。
10.26日、衆議院通過。自由党、民主党、社会党右派その他の307名が賛成し、社会党左派、共産党、労農党、その他の47名が反対した。11.18日参議院通過という経過で戦後日本の主権が回復された。「講和は占領の終焉であると同時に、独立国家としての戦後処理の新たな出発となった」。 |
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この規定だけでは真実に迫れないが、おざなりなかような規定で納得するのが戦後左派運動の貧困と云える。 ここで付言しておけば、吉田には自由主義陣営への確固とした信頼と共産主義陣営に対する不信が牢としてあったようである。「例のマルクス主義的世界観というか、米国を資本主義、帝国主義の権化と考え、その対外的働きかけをことごとく何らかの邪心ある行動の如く思いなす思想風潮」の鼓吹者としての共産主義者的見方の観点を否認しており、「共産政権誕生以来、ソ連は5千万人、中共は2百万の国民を殺したといわれる。人民を多数殺戮するような国に、何の進歩、何の発達、何の自由があり得るのか」と批判している。 吉田首相のもう一つの意図は、日本の軍事費を節約して、経済再建に集中することにあった。2006.4.9日付日経新聞の「私の履歴書」の宮沢喜一氏のbX「安保、日本から瀬踏み」は次のように記している。
2006.4.9日 れんだいこ拝 |
【台湾の国民政府を、中国の正統政権として認める】 |
この時、吉田首相はダレス国務長官の勧告を受け入れ、台湾の国民政府を、中国の正統政権として選んでいる。そうする以外、早期講和が難しい情勢によったと伝えられている。 |
【講和条約による独立如何問題考】 | |
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吉田首相には次のような認識があった。
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【山陰線鉄橋爆破計画】 |
田中宇氏の「マンガンぱらだいす」(風媒社、95年刊)情報によると概容次の通り。 この頃、京都府下で日共武闘派(主として朝鮮人鉱山労働者ら)によるが「山陰線鉄橋爆破計画」、京都府精華町の「米軍弾薬庫爆破計画」、京都府日吉町の「天若ダム(八木町の発電所)爆破計画」ががあった、とされている。これに後の自民党幹事長・野中氏が関係していたと云う。50〜52年頃、日本共産党を上部組織とする組織、在日朝鮮人連盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦)に参加していた在日朝鮮人らの証言で裏付けられる。マンガン鉱山労働者のイ・ジョンホ(李貞鎬)は、概容「(95年現在)自民党国会議員の野中も、当時はバリバリの共産主義者で、京都府S町の細胞(暴力革命の行動単位)のキャップだった。野中と一緒に細胞会議をしたこともある」と証言している。 この背景には、朝鮮戦争の動きが絡んでいた。「京都府北部には戦時中日本海に面した重要な軍港だった舞鶴港があり、朝鮮戦争が始まると、そこから軍需物資が搬出され、朝鮮半島に上陸した米軍に補給された。そこで、当時京都府内にいた在日朝鮮人の共産主義者らは、米軍と戦う北朝鮮軍の支援には、米軍用の物資搬出を阻止するのが最善と考え、舞鶴港に物資を運ぶ山陰線の、鉄橋爆破を計画した」(田中前掲書、P.234)。 |
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【労働者同志会結成される】 |
9月末、労組内のオール左派を結集しようとして「労働者同志会」が結成された。メンバーは、岩井・国労共闘部長、宝樹・全逓企画部長、平垣・日教組組織部長、大田・合化委員長、岡本・駐労委員長、市川・金属委員長、平林・全日通委員長等々であった。大田以外はいずれも30歳前後の若手俊英で、左派社会党を支える実戦部隊となった。 |
【警察予備隊の進化】 |
10月、吉田政府とマッカーサーとの協議で、正規の将校不在のまま創設されていた警察予備隊に、旧軍の中佐、少佐クラスの軍人を400名ほど入隊させている。 52.6月にも元大佐クラスの軍人10余名を採用している。こうして次第次第に指揮官を増やしていくことになった。この間の流れは「泥縄式の編成であった」と云われている。しかし、師団の編成は米国式になり装備も米軍提供のものであり、大枠を米軍との強調に向かうことしか出来ない仕組みにされていた。 |
【反対派各グループ解体される】 |
8月下旬から9.10月にかけて、反対派各グループはなだれをうって解体していった。国際権威の異威力の前にスターリン裁定に一言の異存もなくその指導に従うことになった。徳田派の粉砕を叫んでいた国際主義者団がいち早く復帰の方針を定めた。8.23日「臨中」への「申入書」で、「自己の分派を一切の痕跡を断つまで解消させる」決意を述べた。スターリン裁定の効果であった。9月には団結派が解散大会を開いた。「論評に指示されたリン注の基本的正しさと反対派の間違いを無条件に認め、4全協とリン注を承認し、自らのグループ解体と無条件復帰申し入れとを確認した」(「党統一の勝利的発展と我々の態度」)。 |
【新「臨中」が任命される】 |
9.22日、小松雄一郎を議長に、塚田大願、梶田茂穂が新「臨中」に任命された。もっとも、このメンバーに実質的な権限は持たされなかった。 |
【統一会議が解散決議発表】 |
10月、統一会議指導部は「党の団結のために」を発表した。「自分らの主観的意図にも関わらず、日米反動に利する結果になったことを認め、ここに我々の組織を解散するものである」と宣言した。こうして、春日は、宮顕は、関西や中国その他の統一会議系地方組織、国際主義者団、団結派、神山グループなど、いずれも組織の間解散を行った。中央指導部は、彼らの復帰に対して、新綱領と4全協規約の承認、分派活動の自己批判を容赦なく要求した。 こうした屈服を拒否したのは一部の新日本文学会、武井昭夫.安東仁兵衛らの全学連グループらであった。 |
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【「武装闘争路線」の推進】 |
こうして主流派の下で一本化した党は、極左冒険主義に突入していくこととなった。とはいえ、9.3日の弾圧に対して党として反撃することはなかった。 旧反対派の復帰は、下部機関の無茶な罪状告白式自己批判強要の為遅々として進まずといった按配で闘う素振りさえ見せることが出来なかった。 |
【伊藤律に代わって志田が党中央を牛耳始める】 | |
この頃伊藤律は、地下の日本国内最高指導部の一員として宣伝面を受け持ち、機関紙発行を担当、当局のアカハタ発禁に抗して名称を変えたアカハタ継続紙を相次いで刊行していたが、五全協を前にしたこの頃機関紙印刷局で当局側に機関紙の発送先の全国住所簿を押さえられる打撃を受けた。五全協開催に当り、この問題が下部から集中的な批判を受け、伊藤律は窮地に立たされた。これが伏線となって、五全協で伊藤律が最高指導者の地位を志田に譲ることになる。 この辺りの事情について、宮地氏の「北京機関と自由日本放送(藤井冠次)」が次のように記している。
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【民戦中央常任委員会が、「在日全体同胞におくるアピール」を発表】 |
10.3日、民戦中央常任委員会が、「朝鮮人強制追放陰謀に対して在日全体同胞におくるアピール」をだし、全国各地で人民大会がもたれ、兵庫県下里村、福岡市、神奈川県大和町、大阪市東成あたりでデモをともなう暴力的闘争が展開された。 |
【 戦後党史第二期】/ 【ミニ第B期】=党中央「四全協」後の新方針で極左路線志向 |
分裂した党中央の旧執行部であった徳球―伊藤律系は1951.2.23日の「四全協」で武装闘争路線を採用する。この間伊藤律が党を指導したが、51.10.16日からの「五全協」で志田派に主導権を奪われる。以降、党中央は軍事路線に突っ走りことになるが組織された軍事戦にならずことごとく失敗する。やがて53.10.14日徳球書記長が亡命先北京で客死する。後ろ盾を失った伊藤律は失脚させられ、志田派のワンサイド天下になる。この期間を【 戦後党史第二期/ミニ第B期=志田派の軍事路線】とみなすことができる。 |
【「五全協」開催】 | |
10.16−17日にかけて徳球派は秘密裡に「第五回全国協議会」(「五全協」)を開いた。ともかく分派闘争の終結後の19中総以来初めての一本化された指導部の下での大会となった。会議の眼目は、新綱領(「51年綱領」)の採択や軍事方針の具体化、党規約の改正など党の前途を決定する重要な問題を討議することにあった。だが会議は主流派の強引な手法でリードされ、反対意見は全て分派主義者のレッテルを貼られて圧殺されると云う非党内民主主義的方法で進行した。 |
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【志田体制確立される】 |
この大会で、伊藤律は宣伝担当からも外され、権限を奪われた。後釜に座ったのが志田重男である。 |
【「五全協」後の武装闘争】 |
「五全協」直後、「内外評論」の「球根栽培法」に、新綱領に基づく具体的指針として「我々は武装の準備と行動を開始しなければならない」という論文が発表され軍事方針を明確にした。「われわれは直ちに軍事組織をつくり、武器の政策や、敵を攻撃する技術や作戦などを一般化する初歩的な軍事行動から着手し、さらに軍事行動に必要な無数の仕事を解決しなければならない」とのべられていた。ここでは、問答形式によって、労働者農民が軍事組織をつくる方法、抵抗自衛闘争が軍事問題発展の環である理由、パルチザンを組織することの可能性、軍事組織の活動の方法と内容、敵の武装力に対する内部工作の必要などを平易に解説していた。「栄養分析表」では、時限爆弾、ラムネ弾、火焔手榴弾、速燃紙などの製法、使用法の解説書などが、まかれた。 まず党中央に、一般党組織と別個の「中央軍事委員会」が設けられ、関東、北海道、東北、中部、西日本、九州の6ブロックに、それぞれ地方軍事委員会が置かれた。その直接軍事行動の中心は「中核自衛隊」で、レッド・パージで職場を追われた若い労働者、尖鋭な学生党員、在日朝鮮人党員等で編成され、一般細胞の党員とは別個に厳秘に付されて組織された。 更に、ゲリラ戦の根拠地設定の任務を指令された「山村工作隊」.「農村工作隊」が、職業党員や学生党員で組織されて奥多摩や富士山麓等の山岳地帯、或いは農村に展開していった。中核自衛隊は昭和27初め頃、約8千名といわれた。 又、武器として時限爆弾、ラムネ弾、火炎手榴弾(キューリー爆弾)、タイヤーパンク器等の製造法を詳述した指令書は「球根栽培法」「栄養分析表」という秘密パンフによって流された。この様な秘密軍事論文で、中核自衛隊が「武器は敵から奪い取る」として直接行動を開始したのは昭和26年の暮頃からである。 |
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【全学連執行部内の所感派と国際派の指導権争い】 |
10.6日、都学連において国際派執行部は辞任し、反対派に指導権を渡した。しかし、この時点では、全学連中執は国際派が掌握していた。 |
【祖防全国委員会指示】 | |
10.21日、祖防全国委員会は次のように指示している。
11月、祖防委全国会議では「祖防委の性格と責務および当面の方針」がだされ、本格的武装闘争を展開するようになった(朴慶植「在日民戦の活動と運動方針問題」『在日朝鮮人史研究』第7号、1980.12月号)。 |
【「五全協」後の歩み】 |
10.22日、中央への攻撃がそれ以上為されない様子を見て、臨中指導部議長に小松雄一郎を、指導部員に塚田大願と梶田茂穂の二人を届け出、一応合法中央機関の形だけを整える動きもみられる。
一方で、党に対する弾圧が次第に激しくなり、地下組織はもとより、公然面の各機関も、容赦のない捜索や検挙、取り調べを受けた。 11月、共産党.このころ「球根栽培法」「栄養分析表」など武装準備のための非合法出版物ぞくぞくと刊行し、このころより山村工作隊を組織し始めた。
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【志田の画策による伊藤律の中国行き要請】 |
10月中旬の頃、志田と伊藤律の二人だけの会談の席で、北京からの徳球書記長の伝言なるものを伝えた。概要「伊藤律に北京に来て欲しい。来る来ないはキミ(伊藤律)自身で決定していい」とのことであった。伊藤律が「行くことにする」と答えると、志田は、「キミが北京に行く以上、党の政治局にいる必要は無い。だから政治局を降りろ」、「政治局の他の者(長谷川浩、椎野)には自分の口から云うから、云わないで欲しい。律さんのことは俺に任せてくれ、といっておくから」と云った。伊藤律が去れば「3人委員会」が崩壊し、国内指導部は志田の独裁になるのは目に見えていた。椎野はお人よしで、既に志田の言いなりに動いていた。「志田の陰謀」とまで伊藤律は言っている。
こうして伊藤律は秋口の頃中国へ向けて密航している。伊藤律が去った後の国内指導部は、志田・椎野・紺野与次郎らが掌握するところとなった。 |
【伊藤律の北京機関へ登場の際の逸話】 | |||
北京機関に登場した際の様子が伝えられている。徳球書記長、野坂、西沢が歓迎してくれたが、野坂があれこれ日本の様子を聞き始めると、徳球が突如怒り出した。「正式な会議も開いていないのに。余計なことをしやべるな」と叱ったとのことである。その後徳球と伊藤律の二人きりになった時、徳球は次のように云った。
伊藤が「返したら危ない。何を言うか分からない」と答えると、「それじゃ、ここに缶詰にして仕事をさせないでおこう」と云ったと伊藤自身の口から伝えられている。
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【社会党左右両派へ分裂】 |
10.23日、社会党第8回臨時大会が浅草公会堂で開催された。既に7月に対日講和草案が発表され、9月に講和会議がサンフランシスコで開かれたが、この間の平和(講和).安保両条約問題をめぐっての運動方針をめぐって左右対立を激化させた。左派は両条約反対の全面講和を主張し、右派は両条約賛成で多数講和を支持した。更に、中間派として「講和賛成、安保反対」論も飛び交った。 |
【この頃の江田三郎の動き】 | ||
2003.2.22日付け毎日新聞の岩見隆夫コラム「近聞遠見」に、この頃の江田三郎の動きが次のように明らかにされている。
当時の同紙記者・飯島博はのちに江田の回想録に次のように書いている。
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【サンフランシスコ講和条約の議会承認】 |
10.26日、衆議院、講和(307対47票).安保(289対71票)で両条約を承認。 11.18日、参議院、講和(174対45票).安保(147対76票)で両条約を承認。吉田内閣は批准書を作成し、11.19日、天皇の認証を得て、11.28日、アメリカに寄託、翌52.4.28日、発効となった。 |
【反戦学生同盟(反戦学同)の結成】 |
11月、全学連国際派の系流が反戦学生同盟(反戦学同)を結成した。この時の武井委員長の意見書に「層としての学生運動論」が展開されているとのことである。それまでの党の指導理論は、「学生は階級的浮動分子であり、プロレタリアに指導されてはじめて階級闘争に寄与するものに過ぎない」と学生の闘争エネルギーを過小評価しているのが公式見解であった。武井委員長は、意見書の中で、「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」という学生運動を「層」としてみなすことにより、社会的影響力を持つ一勢力として独自的に認識するよう働きかけていったようである。その後の全学連運動は、この「層としての学生運動論」を継承していくことになり、武井委員長の理論的功績であったと評価されている。 |
11.25日、鹿地旦事件。
12.7日、都学連大会において「全学連中執不信任決議」が為された。 |
12.18日、警視庁練馬警察署印藤巡査殺害事件。
【吉田茂内閣、第3次内閣改造を実施】 |
12.26日、吉田茂内閣、第3次内閣改造を実施。首相・外相吉田茂、官房長官・保利茂、幹事長・増田甲子七(留任)、法務総裁・木村篤太郎、蔵相・池田隼人(留任)、文相・天野貞祐(留任)、厚相・橋本竜伍(留任)、農相・広川弘禅、通産相・高橋竜太郎(留任)、運輸相・村上義一、郵政・電通相・佐藤栄作(留任)、労相・吉武恵市、建設相・野田卯一(留任)、経本長官・周東秀雄(留任)、国務相地方自治・岡野清豪、国務相防衛問題担当・岡崎勝男、国務相警察予備隊担当・大橋武夫、国務相・山崎猛の顔ぶれとなった。 |
【この頃の宮顕】 | |||||
この頃の宮顕について、宮顕自身が「経過の概要」の中で次のように記している。
この時期に宮顕が為したことは、宮本百合子全集等の刊行とその解説書きであった。
1975年4月号「文芸春秋」の「離反者たちの共産党論議」において、宮顕は次のように回顧している。
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この頃の宮顕の様子としてもう一つ重要なことが次のように伝えられている。元統制委員増田格之助氏は、「宮本はボクシング方式の減点法をとっていて、活動している同輩がミスを犯すのを採点していた」(高知聡「日本共産党粛清史257P」)と伝えている。その失点を握って、相手を押さえつけていくのが「六全協」後の宮顕の政治技術となる。果たしてこれは当人の性格とか技術の問題だろうか、何の意図があってかと思料すれば、私には胡散臭さばかりが見えてくる。 |
(私論.私見)