第11部 1949年当時の主なできごと.事件年表
党中央分裂から「六全協」まで

 (最新見直し2007.7.2日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第1期、戦後初期から(日共単一系)全学連結成とその発展」に記す。

1.1 GHQ、「日の丸」を自由に掲揚することを許可する。 
1.15 初の成人の日が実施される。 
1.23 【戦後第3回目の第24回衆議院議員選挙実施】(民自党圧勝・共産躍進)・最高裁判所裁判官初の国民審査(憲法第79条2項(民自264名、民主69名、社会48名、共産35名、国協14名、労農7名、社革5名、諸派12名、無所属12名当選)民主自由党が264議席で圧勝。これにより保守安定政権が誕生する。共産党も35議席となり躍進した。「9月革命説」がぶたれることになる。社会党が大幅に議席を失い選挙前の111議席から48議席に転落した。
1.25 経済相互援助会議(コメコン)設置発表される。 
1.25 【占領下人民政権樹立の動きについて】共産党が「人民の戦線が革命的に統一されるなら、民自党のごときは、国会に多数を占めるとはいえ、結局、革命の波にゆられてたちまち沈む泥舟にすぎないであろう」と声明を発表。
1.26 法隆寺、火災により模写中の金堂壁画12面が焼失。   
1.31 中国.人民解放軍、北京入城。
1月 この頃大学教授の入党つづく。北大・杉之原舜一、東北大・神谷六郎、早大・松尾隆。
2.1 ジョセフ.ドッジは、ロイヤル陸軍長官一行とともに来日し、日本財政安定のための施策に活動することとなった。
2.1 労働省、労働基準監督の徹底を通達。北関東・東北地方で続出していた少年少女の人身売買を取り締まる。 
2.5 日本共産党の通算第14回拡大中央委員会で、伊藤律は、「社共合同闘争と党のボリシェヴィキ化に関する報告」を行い、社共合同運動の成果を報告した。 民族資本家までも含めて党の拡大強化方針を決定。この時野坂は、「革命の条件は成熟しつつある。政権の問題が今日ほど身近にきたことはない」と述べた。
2.11 第二次吉田内閣が総辞職。
2.14 民主党、入閣問題で連立派と野党派に分裂。  
2.16 第3次吉田茂内閣成立。民主党連立派から2名の入閣者を迎え、「経済安定9原則」の実施を強調する政策方針を発表する。この時池田隼人蔵相、増田甲子七を官房長官に抜擢した。
2.20 秋田県能代(のしろ)市で大火。風速13メートルの強風にあおられ、2238戸が焼失する。 
2.27 愛媛県の松山城が、放火により門や櫓(ともに国宝)が焼失。法隆寺金堂壁画焼失とあわせ、文化財保護が問題となる。
3.3 〜20共産党.金日成、モスクワ訪問.スターリン、南進を承認.開戦を裏付ける。フルシチョフ証言(萩原遼・朝鮮戦争)
3.7 アメリカのドッジ公使、「経済安定9原則の実施に関する声明(ドッジ=ライン)」を発表。 国民に耐乏生活を強いる超均衡予算を編成させる。経済の立て直しが課題の公共事業や補助金支出を押さえた緊縮予算であった。池田蔵相の初仕事となった。 
3.7 河原崎長十郎以下の前進座が家族を含む69名の集団入党式を挙行、山口武秀らの茨城県常東農民組合1500名の大量入党があった。
3.15 朝日新聞、モンゴルのウランバートルにある日本人捕虜収容所でのリンチ事件(「暁に祈る事件」)を報道。同収容所の「自称:吉村隊長」がソ連人に迎合し、同胞日本人捕虜を酷使・虐殺した事件。当時、大変な反響を呼んだ。 
3.31 東京消防庁、火災通報専用電話「119番」を設置する。 
4.4 団体等規制令公布。主に左翼政治団体が取り締まりの対象。団体構成員の届け出を義務づけた。党は公然化に応じたが、伊藤律の失策として総括されている。
4.4 ワシントンで、西側12カ国による北大西洋条約機構(NATO)が結成された。
4.14 社会党第4回大会(総選挙敗北後の再建大会)。委員長片山哲、書記長鈴木茂三郎を選出。
4.14 日本共産党、「第15回拡大中央委員会」開催。  
4.18 日本共産党、重要産業復興綱領発表。
4.20 −25日、パリ及びプラハで第一回平和擁護世界大会が開催された。 
4.23 1ドル=360円の単一為替レートを設定した。戦前の1j=2円に比べ、円価の180分の1への下落であったが、これが当時の実勢であった。このレートが71年のニクソン.ショックによる変動相場制導入の日まで続くことになった。こうして、次から次へと経済政策におけるドッジ公使の指導が為された。
4.26 GHQ、「円に対する公式為替レート設定の覚書」を交付。これにより、1ドル360円の「単一為替レート」が設定された。 
4.25 1ドル360円の「単一為替レート」実施。 
5.6 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府が成立。  
5.7 吉田首相は講和条約について所感を発表、条約締結後のアメリカ軍の駐留を希望した。
5.9 予讃線事件
5.10 コロンビア大学教授シャウプ博士の一行7名が来日し、税務政策における指導が為されることとなった。  
5.12 東京三田の職業安定所で、自由労働者が「仕事よこせ闘争」を開始。全国へ波及する。  
5.24 年齢の唱え方に関する法律公布。満年齢となった。 
5.30 東京都公安条例反対のデモ、警官隊の弾圧で東交労働者橋本金二虐殺。
5.31 行政機関職員定員法公布により、人員整理つまりクビが始まる。28万5124人が整理の対象となる。国立学校設置法公布。これにより、各都道府県に新制国立大学69校が設置される。(のち、大宅壮一はこれらの新制国立大学を「駅弁大学」と命名した) 
6.1 日本国有鉄道(総裁:下山定則)発足。日本専売公社(総裁:秋山孝之輔)発足。 
6.9 東神奈川車掌区、組合幹部19名の懲戒免職に対して、ストライキに突入。        
6.10 京浜東北線・横浜線で、労働組合管理の人民電車が運転される。        
6.11 東京都、失業対策事業による労務者の日当を245円に決定する。(「ニコヨン」の呼称の始まり) 
6.15 鋼広島の首切り反対闘争で警官が弾圧。
6.18 「第15回拡大中央委員会」が開催、「9月革命」への意思統一】大会の眼目は、徳田書記長の呼号する「9月革命」への意思統一にあった。徳田書記長は、9月までに吉田内閣を打倒すると強調し、「階級的決戦が近づきつつあり、労働者の闘争は革命を目指す政治性をあらわにしてきた」、「人民の要求は身の回りの日常闘争から、非常な速度をもって吉田内閣の打倒、民主人民政権の樹立に発展しつつある。民主自由党を9月までに倒さねばならぬという我々の主張は、かかる条件にもとづいている」と満々たる自信を示した。野坂も「我々が政権をとるのだ」と確言した。当然党内には「9月には人民政権が成立するのだ」という合意が普及し、新聞各紙にも9月革命説として喧伝された。
6.24 南北労働党が合同して朝鮮労働党が結成された。翌6.25日統一戦線組織として祖国統一民主主義戦線(祖国戦線)が平壌に組織された。つまり、朝鮮半島の共産主義運動ないし祖国統一運動が北主導で為され、祖国が北朝鮮になったことを意味している。
6.27 ソ連シベリアからの引揚げ再開。引揚げ第1船の高砂丸が舞鶴に入港。
6.30 共産党員.労働者.朝鮮人連盟員らにより警察署が占拠されるという事件が起こった(平事件)。
7月 GHQ民間情報教育局教育顧問イールズ(スタンフォード大学準教授)が、新潟大学で共産主義者教授の追放を勧告した演説を行った。以降翌年6月にかけて岡山大、東北大、北大などでイールズ旋風が吹き荒れた。 
7.1 公共企業体の人員整理に乗り出してきた。整理の対象は組合内の指導的党員と同調者、戦闘的分子を真っ先にしており、明らかに逆宣戦布告であった。トップを切きって国鉄9万5千名の首切りが発表された。国労内は騒然となった。
7.2 民主主義擁護同盟の結成大会が開かれた。国鉄、日農、全学連なども加わって、加盟団体90余団体、構成員1100万に及ぶ統一戦線組織となり、基本的人権と民主主義の擁護、人民大衆の生活の向上と安定、平和産業と民主的文化教育の発展、講和条約をはやめ日本の完全独立をはかる、ファシズムに反対し平和をまもる、全ての人民勢力の協同と統一の促進、世界の民主的勢力との提携という7項目の綱領を決めた。
7.4 マッカーサー、米独立記念日に「日本を共産主義進出の防壁とする」と声明。
7.4 国鉄、定員法に基づく37000人の首切り通告を開始。
7.5 下山事件発生。下山定則国鉄総裁、通勤途中に行方不明となる。6日 下山定則国鉄総裁、常磐線路上で轢死体となって発見された。      
7.5 東芝、4600人の首切りを発表。労組は7.26ストライキに突入。
7.6 下山事件発生
7.13 国鉄、63000人の第二次首切り通告を開始。
7.15 三鷹事件発生。中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、6人死亡。   
7.18 国鉄は、中闘の鈴木市蔵副委員長ら共産党員12名、高橋儀平ら革同5名を解雇した。
7.19 CIE顧問・イールズが新潟大で共産主義教授追放を講演。以降岡山大→広島大→大阪大。
8.6 広島で平和婦人会議が開かれた。
8.10 出入国管理令公布(ポツダム政令)。
8.10 東京都新宿区戸山原に鉄筋アパート14棟(戸山ハイツ)が完成。
8.12 逓信省、定員法に基づく26500人の首切り通告を開始。
8.16 古橋広之進、全米水上選手権大会で、1500・800・400メートル自由形で世界新記録。米紙は、「フジヤマのトビウオ」と称えた。 
8.17 松川事件発生。東北本線金谷川・松川間で旅客列車の転覆事件がおこり、3人死亡(松川事件)。レールの犬釘が、人為的に抜かれていたのが原因。 これらの事件はいずれも日本の争議史上に前例のない奇々怪々な事件であり世人を驚かした。今日ではこれらの事件が党員労働組合員の所業に見せかけた悪質な謀略事件であったことが判明しているが、共産党の仕業であると宣伝され続けた。これらの事件を境に労働運動が逆流に転じることとなった。 
8.18 増田甲子七官房長官、松川事件についての談話で、集団組織による計画的妨害行為と語る。 
8.21 「第16回拡大中央委員会」が開催された。一般報告、財政方針など採択。大会の眼目は、眼前の反動攻勢と謀略事件にどう対応するのかということにあったが何ら有効な対策を講ずることが出来なかった。
8.26 アメリカのシャウプ税制使節団団長、「第1次税制改革勧告文概要(シャウプ勧告)」をGHQへ提出。  
8.31 キティ台風が関東地方に上陸。都内で浸水家屋14万戸、関東地方で死者135人。 
9.8 「団体等規制令」第4条により、在日本朝鮮人連盟.在日本朝鮮民主青年同盟に対して解散が命じられた。金天海を始め朝連幹部多数が公職追放された。左翼組織に対する戦後最初の弾圧措置であった。 
9.9 中西功は、500枚にのぼる意見書を中央に提出した。これは、49年上半期闘争の指導の失敗に対する批判から出発して、過去に遡り党の戦略.戦術.組織方針の全面にわたって詳しく検討し究明していた。
9.11 明治大学考古学研究室、群馬県岩宿遺跡の発掘調査を開始する。 
9.15 「GHQ」税制改革のシャウプ税制勧告全文を発表。全文が日本語で発表される。 
9.15 国鉄、東海道線(東京〜大阪間)に特急列車へいわ号(1日1往復)と食堂車を復活させる。
9.16 政治的行為に関する人事院規則を規定。この月、静岡・三重・石川・熊本などで教員のレッドパージがさかんとなる。 
9.22 「第17回拡大中央委員会」が開催された。大会の眼目は、暴力的とも云える反動攻勢に具体的な反撃方針を立てることにあったが何ら有効な対策を講ずることが出来なかった。
9.22 松川事件容疑で多数の党員.戦闘的労働者が逮捕された。
9.23

トルーマン大統領は、ソ連の原爆実験の事実を報道。翌々日ソ連のタス通信もこれを認めた。これにより、アメリカの原爆独占体制が崩れた。 

9.25 ソ連のタス通信が原爆保有を報道。
10月 戦没学生手記「きけわだつみのこえ」(東京大学協同組合出版部)が刊行された。
10月 宮本が、「網走の覚書」を、文芸春秋10月号に発表。
10.1 琉球米軍政長官にシーツ少将が就任。米軍の沖縄軍事基地化が本格化する。
 
10.1 毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立した。
10.1 あかはたの日曜日発行を実施し、完全日刊化。
10.7 ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。 
10.15 戦後初来日の大リーグチーム「サンフランシスコ・シールズ」と巨人軍の第1戦が後楽園球場で開催される。このとき、球場でポップコーンとコカコーラが販売され、人気を集める。   
10.18 警視庁、少年ヒロポン患者の取り締まりを命令。この年のヒロポン常用者は全国で285万人。 
10.20 東京都公安条例公布。 
10月 産別会議第5回大会。77万に減退。
11.1 改正道路交通法施行。これにより、歩行者と車の対面交通が実施される。 
11.3 湯川秀樹、ノーベル物理学賞を受賞。 
11.24 銀座の金融業「光クラブ」経営者の東大生が資金繰りに困り、青酸カリで自殺する。(光クラブ事件) 
11.26 太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)結成。 
11.27 新聞の夕刊が5年9ヵ月ぶりに復活する。 
11.28 国際自由労連結成。ロンドンで、国際自由労働組合連盟(国際自由労連)が結成された。53ヶ国、59団体、4800万人が組織されていた。
11.30 対共産圏輸出統制委員会(ココム)設立。
11月 総同盟第4回大会。左派が進出した。松岡が引き続き会長に選出されたが、左派の山花秀雄と198対186の激戦によりかろうじて選ばれるという状況であった。副会長には右派の上条愛一、左派の重森寿治.山田節男、総主事は左派の高野実。
12.1 お年玉つき年賀はがき、初発売。 
12.4 社会党中央執行委員会で全面講和.中立堅持.軍事基地反対の3原則を決定。
12.5 セントラル野球連盟(セントラル・リーグ)結成。これにより、プロ野球は「セントラル」と「パシフィック」の2リーグに分立。         
12.7 社会党、平和三原則を決定。
12.10 全国産業別労働組合連合(新産別)結成。 「ファシズム及び共産党の独裁政権に反対し、かれらの企図する暴力革命を粉砕し、社会民主主義政党と協同し、社会主義の実現を目標とする」ことを綱領に掲げた。委員長金山敏(全生保)、書記長落合英一(全電工)が就任した。 
この年、アメリカン・ファッションが全盛。  この年、ビアホールが復活。


【世界労連内で対立発生】

 1.19日、世界労連執行局会議で、ディーキン(TUC)、ケアリー(CIO)、クーパース(NVV)の3名がマーシャル・プランの支持を訴え、提案が否決されると直ちに退場し、まもなく新世界労連を結成すると声明した。この流れが国際自由労連へと繋がっていくことになる。


 1月、アチソンが国務長官に就任する。これにより、アメリカの世界政策が大きく変わる。


【国際情勢の緊迫化の動き】
 49年になると国際情勢はますます厳しさを加えていった。1.25日、経済相互援助会議(コメコン)設置発表される。 アメリカの占領政策はますます反動化してくることとなった。4.4日、西側12カ国による北大西洋条約機構(NATO)が結成された。 5.6日、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。9.25日、ソ連のタス通信が原爆保有を報道。

【吉田首相−佐藤官房長官が有能官僚に政界進出を促す】
 吉田首相−佐藤官房長官は、官界から有能人物を物色し、きたる選挙に立候補させていった。次官級で、大蔵次官・池田、外務次官・岡崎勝男、労働次官・吉武恵市、農林次官・坂田英一、外務省から福田篤泰(文書課長、外相前秘書官)、北沢直吉(参事官、首相秘書)、大蔵省から前尾繁三郎(主税、造幣局長)、橋本竜伍(経済安定本部課長)、通産省から南好雄(東京燃料局長)、中村幸八(元課長)を公認した。非公認てはあるが、小金義照(燃料局長官)、運輸省から西村英一(鉄道総局電気課長)、岡田五郎(大阪鉄道局長)らが名を連ねていた。内務省関係では、本局の大橋武夫、塚原俊郎ら、司法関係で瀬戸山三男ら。外局の西村直巳(静岡県知事)、青柳一郎(山口県知事)、藤枝泉介(群馬県副知事)、福永健司(埼玉県副知事)といったところの約50名が顔を揃えていた。

【第24回総選挙と社会党の転落】
 芦田内閣の崩壊から3カ月後、1.23日、戦後第3回目の衆議院総選挙(第24回)が行われた。吉田民主自由党.共産党の勝利だった。社会党は大幅に議席を失った。民自党は264(←解散時152)は単独過半数獲得、民主党69(←90名)、社会党48(←111名)、共産党35(←4名)、国協党14(←29名)、労働者農民党7(←12名)、その他29名となった。マッカーサー元帥は、選挙の結果に対して、「今回の選挙は、アジアの歴史上の一危機において、日本国民は政治の保守的な考え方に対し、明確なしかも決定的な委任を与えた」と、満足の意を表した。

 民主自由党は264議席(←152名)という衆議院の絶対多数(単独過半数)を獲得し、2.14日、民主党内が入閣問題で連立派と野党派(閣外協力派)に分裂。連立派は、犬養健、保利茂、木村小左衛門、小坂善太郎、坪川信三、橘直治、中垣国男らの面々約32名であった。野党派の議員の顔ぶれは、苫米地義三、北村徳太郎、千葉三郎、中曽根康弘、園田直、川崎秀二、小川半次、稲葉修、有田喜一らであった。

 社会党の惨敗が目を覆った。社会党48(←111名)、民主党69(←90名)となり、社会党−民主党連合政権が労働者大衆の厳しい審判にさらされたということになる。特に社会党は、前首相片山からして落選、副総理・西尾、労働大臣・加藤勘十、同夫人シズエ、国務大臣野溝勝、冨吉栄二、吉川兼光、原彪、菊川忠雄、島上善五郎、山花らの党幹部が軒並み落選、中央執行委員総数26名中、実に半数を超える14名が落選し、結党以来最大のピンチを迎えた。

【第24回総選挙と共産党の大躍進】
 この時共産党は、選挙前の4議席から35議席、約300万票(得票数・約100万票→298万4771票、得票率・3.7%→9.8%)を獲得するという大躍進を果たした。これにより院内交渉団体としての権利を獲得した。この結果は、社会党政権への失望と反発により共産党に票が向かったゆえと考えられる。あるいは、徳球執行部の議会闘争が経験を積み重ね、漸く実を結び始めたとも考えられる。注目すべきこととして東京全7区で当選している。うち1区の野坂参三、5区の神山茂、6区の聴濤克巳は最高点。大阪でも1区の志賀義雄、2区の川上貫一、3区の横田甚太郎が最高点当選し、5区を除いて全区で当選した。都会地における中小市民.インテリ層が社会党から共産党へ支持替えしたことが明らかにされた。

 この総選挙の結果は、この間の徳球−野坂指導路線に基づく議会闘争の一定の成果であった。既述したように党の指導方針は二元的二頭立てでは有ったが、そのおかげともいうべきか諸戦線に活動を広げていた。その結果が選挙における大躍進であったと総括できる。徳球−野坂体制は宮顕グループによる分派的な不統一を内包しながらも執行部指導の成果を生み出しつつあったとみなすことが出来るであろう。党は、この選挙の結果、人民政権近しの見通しを立てることになった。


 徳球は、2月の党中央委員会総会で「反動中の反動、民自党が過半数を占めたことは、決して我々が勝利に酔っ払っておるときではなく、更に緊張し、一層の奮闘をしなければ為らないときであることを教えている」と報告している。

 1.27日、経済化学局主催で「労資協議会」が開催されている。賃金と生産(中山伊知郎議長)、労資関係(有沢広巳議長)、雇用関係(大河内一男)の三部会がもたれ、日経連専務理事、産別、総同盟等々労資団体から代表が参加した。会議終了後、鹿内信隆


【「労資協議会」開催】
 1.27日、経済化学局主催で「労資協議会」が開催されている。賃金と生産(中山伊知郎議長)、労資関係(有沢広巳議長)、雇用関係(大河内一男)の三部会がもたれ、日経連専務理事、産別、総同盟等々労資団体から代表が参加した。会議終了後、鹿内信隆日経連専務理事は、「経営者側の意見が圧倒的に迫力があり、筋が通っていた」と自賛している。

【占領下人民政権樹立の動きについて】
 1.25日、「人民の戦線が革命的に統一されるなら、民自党のごときは、国会に多数を占めるとはいえ、結局、革命の波にゆられてたちまち沈む泥舟にすぎないであろう」と声明を発表し、社会党に共闘を、労働者農民党に合同を呼びかけた。

 2.5−6日、通算第14回拡大中央委員会で、伊藤律は、「社共合同闘争と党のボリシェヴィキ化に関する報告」を行い、社共合同運動の成果を報告した。 民族資本家までも含めて党の拡大強化方針を決定。概要「広範な大衆の中に、なお根強く残っている社会民主主義者の影響を大きく克服して100万のボルシェヴィキ党を拵えていく一大攻勢が社共合同闘争であり、合同闘争は権力闘争であり、地域闘争の発展に他ならない」と「入党カンパニア」を叱咤激励している。

 この時野坂は、「革命の条件は成熟しつつある。政権の問題が今日ほど身近にきたことはない」と述べた後に続けて、更に「第一に、日本の占領は、ポツダム宣言に従って為されている。ポツダム宣言は、平和な民主的な政府が出来れば、占領軍は撤退することを明記している。---第二に、大衆の圧倒的支持さえあれば、我々は政府をつくることができ、同時に、連合国の承認を得ることも出来る」と、何ら根拠のないことを底なしの楽観で語っている。

 この時徳球は、一般報告の中で次のように述べている。
 概要「理論拘泥主義が極めて強烈な害毒を流したこと。また現に流しつつあることに対して重大な関心を払わねばならぬ」。
 「上級機関の決定を根掘り葉掘り正しいか正しくないか検討するという馬鹿げた規約無視までやってのけるのがこの特徴である」。

(私論.私見) 「入党カンパニア」について 

 小山弘健は「日本共産党史」の中で、「真の統一戦線の可能性を根こそぎ破壊してしまった」、信夫清三は「戦後政治史」の中で、「共産党は自らの足で将来における統一戦線の可能性を踏みにじってしまった」と慨嘆している。田川和夫は次のように述べている。
 「戦後日本革命運動史1」の中で、「伊藤律は、ゾルゲ事件に関係して特高警察との黒い関係を噂されていた人物であった。このような人物が戦後、共産党幹部として浮かび上がったこと自体、スターリン主義の腐敗があるのだが、徳田球一の懐刀となり、政治局員、書記局員を兼ね、共産党の事実上のスポークスマンとしての役割を伊藤律が果たし、党の組織活動の中枢に座ったことから生じた反労働者的行為は、単に一個人の問題に帰せしめられることではないのである」。

 れんだいこはこれらの見解と真っ向から食い違う。後日追って論じてみようと思う。

 2.1日、ケネス・C・ロイヤル陸軍長官が随員多数を連れて来日し、マッカーサーに日本の再軍備、日本の軍事基地化を迫った。マッカーサーに抵抗する権限はなく、受諾した。


【米陸軍省が「ゾルゲ事件報告書」を突如発表、伊藤律にスパイ容疑を被せる】
 この頃の2.10日、アメリカ陸軍省は「極東における国際スパイ事件」と題する3万2千語に上る文書を発表した。通称「ウィロビー報告」と呼ばれている。この報告書は、ゾルゲ事件は伊藤律の密告により始まったとして、伊藤律とゾルゲ事件との関係を示唆し、次のような機密文書を意識的に漏洩している。「ゾルゲ一派は日本共産党とは連絡がないものと思われていた。しかし共産党の北林トモは明らかにこの一派の命令に従っていた。共産党員伊藤律は彼女が共産党を裏切ったと思い込み、彼女に仕返しすることを望んだ。そこで彼女がほんとうにスパイであるとは知らずに、警察に彼女をスパイであると通報した。警官は1941年9.28日、彼女を逮捕し、10月には関係者全部を検挙した」。

 つまり、「ゾルゲ事件の発覚に伊藤律の責任があり、その伊藤律が現在日本共産党の中央委員をして飛ぶ鳥を落とす勢いを見せている」という、伊藤律を痛打する内容となっていた。アメリカ陸軍省の「ゾルゲ事件報告書」は次期党指導者として固まりつつあった伊藤律の政治的立場をぐらつかせた。そういう意味での政治的な文書であった。以降党内に「伊藤律スパイ説」が潜伏することになり、北京機関時代に査問の材料に使われ、53.9月の除名に至る伏線となる。

 新聞各社がこの情報に飛びつき、「発端は伊藤氏取り調べ」、「伊藤律氏が密告す」と報じた。伊藤律は「私は関係無し、矛盾に満ちたデマ作文」と反論したが、伊藤律へのボディブローとなった。翌2.11日党中央はこれを躍起となって打ち消し、赤旗紙上で「ゾルゲ・尾崎事件の真相 共産党関係なし 特高憲兵警察の邪悪な謀略」を発表し、「伊藤律密告説」を打ち消している。

(私論.私見) 「ウィロビー報告」の政治的役割について 

 この伊藤律とゾルゲ事件の関係に付き、今日判明している事実は、特高が有能党員の片鱗を見せていた伊藤律の経歴に傷を負わそうとして用意周到な仕掛けが為された結果、伊藤律がそうした罠を見抜けず誘い込まれたという経過である。しかし、この当時にあってはそういうことは不明で伊藤律のなにやら胡散臭さのみ浮き上がらせられるという政治的効果を生んだ。アメリカ陸軍省ルートの政治的エポック期のタイミングであることの胡散臭さのほうを見るべきであろうが、そういうことにはならず、統制委議長宮顕の伊藤律追撃が為され、年末には査問に向けての政治局合同の会議が開かれている。


【この頃の野坂の不審な動き】
 増山太助「戦後期左翼人士群像」によると、次のように伝えられている。
 「49年の初頭から、私は書記局事務として本部勤務の毎日を送ることになったが、驚いたことに、野坂は密かにGHQ通いを続け、同時にアカハタの高橋勝之を使って連日のようにソ連大使館内のソ連共産党組織と連絡を取っていた」。

【この頃の学生運動】
 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第1期」に記す。

 9.1日、共産党.全国学細代表会議で、党中央の官僚主義に批判が集中した。この頃になると、共産党の機関と全学連指導部の間に意見の対立が深刻になっていた。共産党は穏和化を指導し、全学連指導部は急進主義的に更に闘おうとしていた。志田(伊藤律とならぶ徳田の側近)、大島(関東地)を粉砕した武井委員長の声望と権威が高まった。

【第三次吉田内閣が発足】
 2.11日、第二次吉田内閣が総辞職し、2.16日、第三次吉田内閣が組閣された。民主党連立派との連立により民自・民主の連立政権として内閣を続投させた。これ以降、6年余の吉田時代が始まる。官房長官・増田甲子七、幹事長に広川弘禅が留任、佐藤栄作は政調会長になった。この時池田隼人蔵相、増田甲子七を官房長官に抜擢した。民主党連立派から2名入閣。単独政権の基礎を築くことに成功した。 池田隼人は47年に石橋湛山蔵相の抜擢で大蔵省主税局長から事務次官に抜擢され、このたびの選挙で初当選したが、いきなり蔵相に抜擢されたことになる。これには田中角栄、吉田の娘婿浅生太賀吉、根本龍太郎の「池田さんこそ、適任ではないでしょうか」の後押しがあったことが判明している。佐藤栄作も初当選での政調会長就任であった。 

【「吉田学校」蠢き始める】

 選挙で予想以上に大勝したこの時点から吉田閥が形成され、「吉田学校」と称されるようになる。吉田は選挙前から、政局安定と政策責任と言う観点から、「私が校長になって、吉田学校で人材を育成する。その卒業生達で、戦後保守党の本流を形成させたい。是が非でもそうしたい。そのワンマン校長になる、これが私の理想なんだ」、「我が国の政治家は、政治を功利的に、自己本位に取り扱いすぎる嫌いが多い。どうかすると、金儲けの道具とする極端なものもある。況や、何ら主義主張もなく、ただ金をもって人を集め、集めてもって勢力とし、又金を集めるそのボス的存在は、市井浮浪の輩の類であって、政界に共に処すべからざるものである。役人上がりには政党教育を与え、政党育ちには行政教育を与えたい」と語っていた。吉田閥は、御三家と云われた林譲治・益谷秀次・大野伴睦を筆頭に、今回の選挙で当選した30余名の官僚出身者が囲み、更に田中角栄、根本竜太郎、麻生太賀吉らの党人派が連なって構成されていくことになった。

 この時より官僚政治家の登場となる。主なメンバーは、池田隼人(大蔵次官).佐藤栄作(運輸次官)、岡崎勝男(外相次官)、増田甲子七(北海道長官)、大橋武夫(戦災復興院次長)、前尾繁三郎(大蔵省造幣局長)、西村直己(高知県知事)、遠藤三郎(農林省総務課長)、坂田英一(食糧配給公団総裁)、福田篤泰(総領事)、吉武恵市(労働次官)らであった。橋本竜伍(橋本龍太郎の父)、加藤精三(加藤紘一の父)もこの時の当選組である。

 この頃から吉田は、週末には大磯の別邸に向かうようになった。


【ドッジ・ライン発足】

 2.1日、トルーマン大統領は、GHQ最高経済財政顧問ジョセフ・モレル・ドッジ公使(元デトロイト銀行頭取にしてドイツ占領行政に参画し、その後もアメリカ金融資本の中枢に位置していた)をGHQの経済顧問として、インフレに悩む日本経済再建のために来日させた。ドッジは古典的な経済理論に立つ財政均衡論者で、前年末、マッカーサーが吉田首相に提示していた「経済安定9原則」の実行を促すとともに、超均衡予算、税負担の増大、大幅な経費節減など「ドッジ・ライン」と呼ばれる一連の緊縮財政政策を指示した。概要「日本経済は、両足を地につけていない。竹馬に乗っているようなものだ。片足はアメリカの援助、もう一方は国家の補助金と、二本脚の『竹馬経済』である。竹馬の足があまり高くなり過ぎると、転んで首の骨を折る危険がある。この日本の脚を切って、自分の脚で立たない限り、本当の経済再建は有り得ない。フラクション(摩擦)はあっても、『経済安定9原則』を実施して、フィクション(まがいもの)を切ることだ」という見解を示していた。

 この「ドッジ・ライン(プラン)」について、マッカーサーは、「今日の処置がめざしている目的について政治的紛争が起こることも絶対に許されないであろう。これにたいして思想的立場から反対することも許されず、その達成を遅らせたり、くじいたりしようとする企図は公共の福祉を脅かすものとして抑圧されなければならない」と述べ、左派運動を恫喝するコメントを発表している。

(私論.私観) 「ドッジ・ライン(プラン)」について

 「ドッジ・ライン(プラン)」は、今日から見て、戦後日本の復興計画としての適切な処方箋に為り得ていたが、問題は、この指示がGHQの指示・勧告でもなくアメリカ本国政府の生粋の直接命令として打ち出されたものであったことにある。GHQは「ドッジ・ライン(プラン)」に対する一切の反抗、妨害を断固として抑圧すると恫喝し、無条件で受諾することを強要したが、このことは我が国の国家の基本政策策定に対し、政府−官僚が担当能力と意思を持たない悪慣習の前例となったように思われる。

 3.1日、ドッジと池田蔵相会談が行われた。席上ドッジは、予算の収支均衡による超緊縮財政の必要を説いた。この結果、価格補給金と公共事業費が圧縮され、所得税減税はとりやめられ、廃止を予定されていた取引高税は現行どおり、鉄道運賃や郵便料金は大幅アップとなった。池田蔵相は、「辞職の腹を決めて、箱根の奥へ閉じこもってしまった」(宮沢氏回想)。こうして国民に「非常な耐乏生活」を強いるドッジ・ラインが発足した。

 ドッジ・ラインの影響は、企業淘汰(整理)と労働者の首切り、失業の嵐を発生せしめていくことになった。


 3.3日、和田博雄氏が社会党に正式に入党している。和田氏は、第一次吉田内閣の農相、片山・芦田連立内閣時の安本長官を勤め上げていた有能テクノラートであった。この背景には同氏の「日本の政治を良くするためには健全な社会党を築き上げねばならない」という信念があったと伝えられている。元々森戸氏と並んで右派系のホープとして期待されていたが、その後の歩みは左派系へと転籍し、政審会長、書記長として党内地歩を固めていくことになった。但し、鈴木委員長とはウマが合わず、次期を担う後継者作りに貢献した。


【(続)占領下人民政権樹立の動きについて、入党者相継ぐ】
 野坂は、国会対策について、「革命の条件は成熟しつつある。政権の問題が今日ほど我々の身近にきたことはない」、「民主人民政権は今や現実の問題となった」(新国会対策に関する報告)とのべ、さらに占領下人民政権樹立の可能性について語った(「政権への闘争と国会活動」前衛4月号)。  

 伊藤律が中心となって昨年来進められていた社共合同方針による社会党員の共産党入党政策に加速がついた。3.2日糸川二一郎(戦前から友愛会、総同盟で労働運動に従事し、戦後、社会党を経て労農党中央委員、同神奈川県本部委員長)入党。3.7日河原崎長十郎・中村*右衛門以下の前進座が家族を含む69名の集団入党式を挙行。3.11日桑原栄貞(労農党執行委員)、その他労組幹部の集団入党が相継ぎ、連日アカハタに掲載されていった。4.25日「4.24神戸闘争一周年記念人民大会」の際に金天海共産党政治局員の呼びかけに応え朴成大朝連県本部委員長以下358名の大量入党。6.5日山口武秀菊池重作の指導する茨城県常東農民組合1500名の大量入党があった。但し、こうした切り崩し政策は日農にひびをいらせることにもなった。全金属委員長和田次郎、日鉱連委員長小沢義雄ら200名が、都下の学校教員130名が集団入党している。

 この年徳球はメーデーの挨拶で、「我が共産党は9月までに吉田内閣をぶっ倒すために、大運動を展開しているが、この闘争に諸君が奮起されることをお願いする」と述べた。 「9月革命説」がまことしやかに噂されるほどであった。

 この頃シベリア抑留者が続々帰還しつつあった。帰還者の中にはソ連の思想教育の結果共産主義思想を受容し帰国後入党する者も多かった。集団入党もあちこちでみられた。この流れは革命の援軍到来の印象を与えた。

【共産党の産業防衛闘争、社会党の経済再建運動】
 この頃党はどうやら民族資本の後押し闘争を指導している形跡がある。「闘争の目標は民族を売る独占資本家とその政府、吉田内閣の打倒であることはいうまでもない。それゆえに、あらゆる闘争は、全てこの目標に集中するように発展せしめねばならない」(3.2日党政治局会議)と云いつつ、「民族資本が統一戦線に組織されて、はじめて、労働者の地位がまもられる現状である。‐‐‐労働者階級が産業資本を自分の同盟軍とみなすだけでなく、積極的に民族資本を啓蒙し、敵は労働者階級でなく、買弁資本であることを理解させなくてはならぬ」(49.3.12日付け「党活動指針」)とするなど民族資本との提携運動まで指針させている。

 共産党が指導権を握る産別会議は、「防衛会議を工場に町につくれ」などのスローガンの元に、国鉄の人民電車事件や地域人民闘争を展開した。「いかなる些細な要求といえども、これを取り上げ、この貫徹のために権力への闘争まで高めなければならぬ」(共産党政治局)と、経済闘争と政治闘争の結合目指して指導している。

 これに対して、総同盟と民同派は、共産党のやり方では産業を破壊してしまうという立場から、「経済再建運動」を展開した。この立場から、4月には「経済再建中央会議」を結成している。その趣旨を、「労資学界のいずれを問わず、真に祖国を想い経済再建に熱意を有する有志を結集して、総合的見地から合理的経済政策を考究立案し、焦眉の急務たる経済の復興再建を推進する」としていた。これには、労働者側から落合英一(産別民同)、加藤閲男(国鉄)、清水慎三(総同盟)、高野実(総同盟)、細谷松太郎(産別民同)、武藤武雄(炭労)、山花秀雄(総同盟)等々。経営者側から今里広記(日本精工)、大塚万丈(特殊鋼管)、工藤和四郎(復金)、郷司浩平(同友会)、堀田庄三(同友会)、水野茂夫(国策パルプ)等々。学識経験者からは稲葉秀三(国民経済研究協会)、内海清温(建設技術研究所)、仁科芳雄(科学研究所)等々。

【徳球と宮顕の、宮本百合子擁立を廻る対立】

 この春頃、徳球書記長は、参院選に宮本百合子の出馬を要請していた。が、宮顕が頑強にこれに反対している。徳球は不快感を丸出しにしたと伝えられている。宮顕が、百合子の出馬をなぜ拒否したのかについて、「百合子追想」(1951.1.30執筆)に次のように書かれている。

 「徳田らによる宮本百合子の参院選出馬問題は私も反対した。彼女は獄中以来肉体的に破壊されており、『当選しさえすれば、後は議会に出られなくてもどうにでもなる』というような無責任な便宜論は彼女を納得させ得なかった。一個の生命を社会発展に沿わないような形で早く浪費的に破滅させるのは無知と愚鈍である。---彼女は、これらの様々な、多くの場合、日陰の声としてささやかれる要求や非難に対して、本当に『やむを得ない場合』のほかは、直接一々弁明したりしようとはしなかった。ただ参議員議員への出馬は、たとえ当選しても、この健康からだけみても議員としての義務も尽くせないから、自他の期待を欺く結果になるといって辞退した。私は事故の理性と良心をかけて革命運動に参加してきた人間として、当然払うべき『犠牲』というものは、それを義務感以上の感情をもって遂行することを当然と考え、そのように努力してきた人間に属するといっても一応さしつかえないだろう。だが明らかに生活の非科学的な無計画的な設計によって、一個の生命を大局的な社会発展に沿わしめないような形で早く浪費的に破壊させることは、社会的階級的にも無知と愚鈍であると考えざるを得なかったからだ」。

 宮顕独特の回りくどい言い方であるが、要は徳球の下で進められる議会闘争に百合子が一枚かむのを良しとせず、いろんな理屈をもちだしていることになる。それにしても、「無知と愚鈍」呼ばわりはひどい言い方ではある。

 蔵原は文化部長を解任され、宮顕は党機関誌「前衛」の主幹の地位を追われた。徳球と宮顕の対立の激化であった。


【社会党第4回党大会】

 総選挙の惨敗を受けて4.14日から三日間社会党第4回党大会が開催された。先の総選挙でみじめな敗北を期した社会党は、党の立て直しを目指しての転機を図った。それまでの社会党を第一期として捉え、「第一期社会党の一つの終わり、ここから党の理論的にも組織的にも質の変わったものとしての再生をはかる」ことを目指した。運動方針の起草委員長には鈴木茂三郎がなり、草案の執筆は稲村順三が担当した。稲村は、向坂逸郎、大森義太郎らと共に戦前からのいわゆる労農派マルクス主義者であった。彼は、党再建に当たっては、党の性格を社会主義政党として明確に規定することが重要とする視点を持っていた。これに森戸辰男が穏健社会民主主義者の立場から別草案を提出し、「森戸・稲村論争」となった。

 「森戸・稲村論争」は、「昭和24年度日本社会党の運動方針を廻る論争」(社会党機関紙「社会思潮」7月号に掲載)に明らかにされている。「党の基本的な性格」をめぐる大論争となった。両氏とも、戦後社会党の結党時に、社会党の党是や性格や組織論を明確にすることなく、僅か三か条の綱領で発足したことは「まずかった」と認識することでは一致していた。この同じ認識から出発する今後の社会党構想において、両者は対極的な見解に分岐する。

 左派・稲村は、概要「終極の目標を社会主義社会の実現に明確にさせ、その革命遂行に向かう方針、政策を確立せねばならない」とした。かっての連立政権の評価に対しては、「社会主義革命の視点が失われたために、目前の便宜主義、極度の日和見主義に陥らざるを得なかった」と否定的に総括し、「勤労階級の階級政党」を目指せとした。これに対して、右派・森戸は、概要「社会党は、民自党や共産党の『無責任な煽動』に対置される『責任政党』として立党する必要がある。社会主義革命は何よりも経済を重視して為されるべきであり、そのプロセスも、民主主義の下では長期にわたり、漸進的、段階的、建設的、平和的に進めねばならぬ。いわゆる劇的な形で行われるのではない」。その連立政権は、その意味で一定の役割を果たしたと積極的に評価し、「勤労国民大衆の党」を目指せとした。

 但し、両者とも「我々の目指す革命が議会を中心に平和的に推進されるべきという点」においては一致していた。党の性格として、稲村は「労働者中心の勤労大衆の政党として階級的政党であらねばならぬ」と云い、森戸は「そういう階級闘争論の全面化ではなく、国民政党であるべきだ」と主張していたが、労働者階級と小ブルジョア階級を含めた「勤労大衆の政党」という点では両者は全く同じであり、両者の違いは、前者が「労働階級のヘゲモニー」を唱えるのに対して、後者は「いかなる階級のヘゲモニーも存せず」と否定する点にあった。ここに、社会党左右両派の根深い見解の相違が表れており、この後果てしなく繰り返される論争となった。

 結局は、勝間田清一氏がまとめ役になり、稲村草案を下敷きに、森戸案を部分的に取り入れるという折衷的な運動方針案を作成することとなった。「階級政党」か「国民政党」かの論点は、「階級的大衆政党」との表記になった。「この大会で論争は決着がつかず先送りとなった」ということである。この時提起された綱領も「法三章」に纏められ、@・吾党は勤労階層の結合体としての国民の政治的自由を確保し、以って民主主義体制の確立を期す。A・吾党は資本主義を排し社会主義を断行し、以って国民生活の安定と向上を期す。B・吾党は一切の軍国主義的思想及び行動に反対し、世界各国民の協力による恒久平和の実現を期す、となった。更に、「社会党の政治目標は結局は政治革命に重点を置かなければならない。社会改良主義との区別を明確にしなければならない」などの4項目の付帯決議を採択した。これが「社会党の再建論議」の経過であり、貴重な論争となっている。

 人事面では、議席を失った片山哲が委員長に再選され留任した。党運営の実権を握る書記長には、左派が推す鈴木茂三郎が390票を獲得し、右派推薦の浅沼稲次郎の261票を大きく引き離して就任することになった。党内での左派勢力の台頭が明らかになった。


【 「1ドル=360円の為替レート制定】

 4.23日GHQより、「昭和24.4.25日を期して1ドル=360円の公式為替率を実施するように日本政府に指令した」旨の発表が為された。こうして、1ドル=360円の単一為替レートが設定された。戦前の1j=2円に比べ、円価の180分の1への下落であったが、これが当時の実勢であった。こうして、次から次へと経済政策におけるドッジ公使の指導が為された。これによる中小企業の打撃は深刻となった。

 このレートが1971(昭和46)年12.14日のワシントンのスミソニアン蔵相会議での変動相場制への移行(ニクソン.ショック)の日まで、この固定相場が続くことになった。


【 「団体等規制令」の公布】
 第三次吉田政府は、「GHQ」の後押しを得て労働攻勢に大鉈をふるう治安政策を矢継ぎ早に出してきた。戦後、戦前の司法省解体の後を受けて法務庁が生まれていたが、この法務庁を法務府に、その配下の特別審査室(旧内務省第二局)を特別審査局に昇格させた。初代局長は、戦前、治安維持法下において思想犯専門の検事であった吉河光貞を就任させた。戦前の治安官僚の公然たる復活であった。この流れが、公安調査庁を生むことになる。

 4.4日、「団体等規制令」(政令64号)が公布され即日施行された。1952年の破壊活動防止法と公安調査庁の直接の前身として、いわゆるポツダム勅令の一つとして制定された。この政令により政治団体は構成員の届け出を義務付けられることになった。46.2.23日公布の「政党、協会その他の団体の結成の禁止に関する件」が「右翼的国家主義的団体」を取り締まっていたのに対し、このたびは「秘密的、軍国主義的、極端な国家主義的、暴力主義的及び反民主主義的な団体及び個人」と規定し、左翼団体.個人を対象としていたことに重要な変更があった。

 「占領軍に対して反抗し、若しくは反対し、又は日本国政府が連合国最高司令官の要求に基づいて発した命令にたいして反抗し、若しくは反対すること」など七項に該当する「政党、協会その他の団体は、結成し、又は指導してはならない」とし、さらに公職の候補者を支持したり、日本と諸外国の関係を論議したりする政党は届け出義務を負うことが義務づけられた。

 なお、この法令は「公職の候補者を推薦し、政府・地方公共団体の政策に影響を与える行為をする団体」の役員及び構成員の氏名その他の履歴の届け出義務を課していた。機関紙も法務総裁に提出することが義務付けられていた。この頃、相次いで公安条例が制定された。

 党は、これに対して争う方針を取らず、有力党員の登録を促した。数を誇示し、当局に圧力を加えるという名目で積極的に特別審査局(後の公安調査庁)への登録を推進し、その数は10万名を越えた。この届け出により主な党員が公然化したため以後のレッド.パージの際のデーター提供となり、そっくり政府当局に利用され、党員が職場から追放されることになった。

 伊藤律の意見によったと云われているが、当時、党本部にいた増山太助氏(50年分裂時の際主流派)は、「それはおかしい」として次のように述べている。
 「あの時、届け出を拒否すれば合法政党として認められなくなると、下からの登録反対の動きを押さえ、党中央の殆どが届出に賛成した。機関決定すれば、伊藤はスポークスマンだから、その推進に努力する、それは当然です。ここから伊藤律スパイ説を引き出すのは、全くおかしい」。

【反動攻勢の宣戦布告と労働者・学生の闘い】
 5.30日、東京都公安条例反対のデモ、学生・労働者ら約3000名のデモ隊が都議会に押しかけ、これに約500名の警官隊が襲い掛かり、東交労働者柳橋支部の橋本金二氏が墜落死する事件が発生した。翌31日金属、電産、東交、全官公労、全学連など約8千名が虐殺抗議、公安条例反対大会を開いた。この日もまた武装警官隊1000名が大会を襲撃し、乱闘の末65数名が検束された。

 5.31日、行政機関職員定員法公布。人員整理つまりクビが始まる。28万余が人員整理。
 
 5.31日、大量人員整理を狙う行政機関職員定員法公布。

【「人民電車」事件】

 6.1日、国鉄は公共企業体として発足した。これを契機に国鉄の東京鉄道当局は労働強化を押し付けてきた。その先に待ち受けていたのは9万3700名の大量人員整理であった。国鉄労働者は当然の如く反発し、職場大会を開き「闘争態勢の強化」を次々と決定していった。

 6.9日、東神奈川車掌区が、組合幹部19名の懲戒免職に対してストライキに突入。同電車区も呼応し横浜線、鶴見線が全線ストップし、京浜東北線のダイヤも大幅に乱れ始めた。この闘いは蒲田車掌区、三鷹電車区、千葉車掌区、池袋電車区、下十条電車区、品川電車区、田町電車区へと波及していった。       

 6.10日、国労神奈川電車区で、「人民電車事件」が発生。これは労組管理の人民電車が横浜の東神奈川駅から京浜間を往復した事件で、前日の首切りへの抗議デモの一環であった。電車の正面に「人民電車」と白ペンキで書かれ、窓には赤旗をなびかせて無賃乗車で走った。当局側は赤信号で進行を阻止しようとしたが、後続にGHQ専用の白帯車が控えていたため、押し出されるようにして走ることになった。「人民電車を走らせて無警察状態をつくり、革命への突破口とする」と熱っぽい議論が為されていたと、新聞記者の鈴木卓郎が記している。

 翌6.11日、GHQの労働課長代理エーミスは事件を重視し、下山国鉄総裁並びに鈴木市蔵国労副委員長を呼びつけ、国電ストの即刻中止とストが中止されるまで国鉄当局側は団体交渉に応じてはならない旨指令した。


 6.15日、日鋼広島の首切り反対闘争で工場占拠中の労組員を武装警官が弾圧、32名が検挙され負傷者50数名を出した(日鋼広島事件)。
 6.17日、新潟県の東芝加茂工場のストライキに武装警官隊が突入、140名が検挙され、工場が暴力的に接収されるという事態が発生した。
  


【「第15回拡大中央委員会」が開催、「9月革命」への意思統一】
 このような中6.18−19日にかけて「第15回拡大中央委員会」が開催された。大会の眼目は、徳田書記長の呼号する「9月革命」への意思統一にあった。徳田書記長は、9月までに吉田内閣を打倒すると強調し、、「大衆の革命化に対する立ち遅れを急速にとりかえし‐‐‐結論として吉田内閣打倒はま近いが、その後にできる民主勢力の連立政権に対しては、我が党も参加できるし、また参加せねばならない」、「階級的決戦が近づきつつあり、労働者の闘争は革命を目指す政治性をあらわにしてきた」、「人民の要求は身の回りの日常闘争から、非常な速度をもって吉田内閣の打倒、民主人民政権の樹立に発展しつつある。民主自由党を9月までに倒さねばならぬという我々の主張は、かかる条件にもとづいている」と満々たる自信を示した。野坂も「我々が政権をとるのだ」と確言した。当然党内には「9月には人民政権が成立するのだ」という合意が普及し、新聞各紙にも9月革命説として喧伝された。しかしその中身は連立政権への参加を革命と言い換えていたことになる。

 ちなみに、人民政権とは、「それは共産党、労農党、社会党その他民主的勢力、更に労働組合、農民組織、その他の大衆団体の代表によって作られる人民政府である」(野坂「国会活動についての報告」)というものであった。野坂は、3月の「政権への闘争と国会活動」でも、「占領下にあって、このような政府ができるか」と問い、「出来る」と答えて指導していた。その理由は、概要「日本の占領はポツダム宣言に従って為されている。そのポツダム宣言は、平和な民主的な政府が出来れば、占領軍は撤退することになっている。連合国軍は、人民政権に反対する理由はなく、これを認めることが当然である」(同書)、「大衆の圧倒的な支持さえあれば、我々は政府を作ることが出来、同時に連合国の承認を得ることも出来る。国会内の闘争を国会外の闘争に結び付け、また国会外の闘争を国会に持ち込み、次の国会を吉田内閣を墓場に追い込む国会にせねばならぬ」(同書)という極めてオポチュニティーな国際的信義に根拠を置いていた。そうした野坂の考えがいかに現実から遊離した甘い見通しであったか歴史が無慈悲に示していくことになる。占領期間は一応終わったことになっているものの、米軍による極東地域における日本の反共の砦化が一層進行している事態に対して、意識的かどうかは別として大いなる隠蔽であり欺瞞でしかなかった。

 党は、この大会で、「一、全ての戦争犯罪人とファシスト分子の追放、二、平和産業の無制限拡大と軍事的潜勢力の一掃、三、対外依存政策によらない自力再建、人民大衆の生活安定、四、できるだけ早い講和、講和会議への民主勢力の参加、五、全ての民主的な諸国との平等の講和と友好互恵の貿易、六、完全な独立、中立の確保」という六項目の「講和綱領」を決定し、結語を採択した。

 この大会で、「党の機関運営について」のやや統制的な動きが為された。統制委員山辺健太郎報告により、「今後戦略戦術の問題であるとか、その他党の基本的な政策に重要な関係のある問題は、党外の雑誌では一切論じない。党内で論じる」ことを決定した。党外で理論活動を展開する「神山問題」等の対処をめぐっての執行部の統制的な傾向の現れであった。


 この後、徳球の街頭演説は、「どうせ自由党は狸の泥舟だ。今に泥が溶けて沈没するだろう。共産党が政権をとるのはもうすぐだ」と煽っていた様子が伝えられている。

【朝鮮労働党の結成】
 6.24日、南北労働党が合同して朝鮮労働党が結成された。翌6.25日統一戦線組織として祖国統一民主主義戦線(祖国戦線)が平壌に組織された。つまり、朝鮮半島の共産主義運動ないし祖国統一運動が北主導で為され、祖国が北朝鮮になったことを意味している。こうして、北に樹立された祖国を守り、祖国統一の統一戦線たる祖国戦線に結集することが第一義的課題となった。祖国戦線創立大会で韓徳*が在日朝鮮人代表中央委員に選ばれ、この勢力は北朝鮮と朝鮮労働党の指導に依拠することになった。日本共産党に依拠する朴恩鉄らと対抗していくこととなった。

【シベリア抑留兵の帰還】
 6.27日、ソ連シベリアからの引揚げ再開。引揚げ第1船の高砂丸が舞鶴に入港。この時捕虜抑留中に共産主義教育を受けた兵士の「コミュニスト宣言」が人目を引いた。彼等を乗せた復員列車が上野へ着くと共産党系団体と共に人民大会を開いた。その後代々木の共産党本部に向かい、徳田書記長や野坂政治局員の前で集団入党式を行った。

 若槻「シベリア捕虜収容所」(P.254)は、1949年の「赤旗梯団」の“代々木参り”を次のように記している。代々木での「集団入党式」には徳球書記長、野坂参三政治局員、伊藤律政治局員も参加し、熱烈歓迎を受けた。引揚者の“代々木参り”を出迎えた徳球書記長は、概要「党は諸君が日本の民主革命を達成するために力を蓄積してきたこと、諸君が反動を破る力を示されていることに対し、大いに感謝している。諸君のつかんだマルクス・レーニン主義で日本の実情をよくとらえ、実際の活動をしてもらいたい」と演説した。

 シベリア兵の引き揚げは、次第に強制労働の実態を知らすことになり、引揚者の集団入党にも関わらず共産党の人気を悪くした。以降、国会で引き揚げ問題が議題に上るときには「コラッ共産党、シベリアの捕虜をどうしてくれる」と野次られることになった。(「『異国の丘』とソ連・日本共産党」参照)


【平事件の発生】

 6.30日、共産党員.労働者.朝鮮人連盟員らにより警察署が占拠されるという事件が起こった(平事件)。この事件は日本共産党福島県石城地区委員会が宣伝活動用に設置した掲示板を、平市警察署長が占領軍軍政部からの指令により撤去命令を発したことに抗議するところから発生した。約150人の群集が警察署を占拠して「警察は人民の管理に入った」と気勢を上げた。群集約500人に増えて約8時間にわたつて占拠した事件となった。平市警察署襲撃に先立って隣接の内郷町警察署及び湯本警察署も同様に襲撃したともある。「この革命は全国的な革命であり、中共軍も間もなく上陸してくるからここを占拠しているのだ」との伝聞が為されていたと云う。

 7.1日、福島全県下から武装警官隊が動員され、平市署を占拠した労働者の逮捕に向けて逆襲撃が開始された。この時は「建造物浸入」、「公安条例違反」名目で検挙されていったが、7.4日になると容疑が騒乱罪に切り替えられ、平市一体を戒厳令状態にして事件関係者の検挙が続いていった。

 7.1日、共産党の東北地方委員会と福島県委員会は、連名で次の声明を発表している。概要「労働者による平市署占拠事件は、いわゆる平事件として吉田内閣の心胆を寒からしめた。福島県10万の組織労働者は、農民と共に、今や平市において、郡山市において、福島市において英雄的闘争を開始した」。


 6月、ベトナム国が樹立され、バオ・ダイが元首に就任。


 7.1日、毛沢東が「向ソ一辺倒」を発表する。同日、劉少奇をスターリンの下へ送り出した。


【民主主義擁護同盟の結成大会】
 7.2日、民主主義擁護同盟の結成大会が開かれた。国鉄、日農、全学連なども加わって、加盟団体90余団体、構成員1100万に及ぶ統一戦線組織となり、基本的人権と民主主義の擁護、人民大衆の生活の向上と安定、平和産業と民主的文化教育の発展、講和条約をはやめ日本の完全独立をはかる、ファシズムに反対し平和をまもる、全ての人民勢力の協同と統一の促進、世界の民主的勢力との提携という7項目の綱領を決めた。

【謀略事件の続発】
 7.1日、公共企業体の人員整理に乗り出してきた。整理の対象は組合内の指導的党員と同調者、戦闘的分子を真っ先にしており、明らかに逆宣戦布告であった。トップを切きって国鉄当局は首切り基準と整理人員を発表し、7.4日には第一次首切りとして3万700名の個人通告を行った。合計9万5千名の首切りが発表された。国労内は騒然となった。

 
かかる中、7.6日、下山事件(国鉄総裁下山定則氏が、常磐線北千住−綾瀬間で轢死体で発見された。自殺説、他殺説に分かれており、今日も解明されていない)。

 7.15日、三鷹事件(中央線三鷹駅で、無人電車が暴走、6名が死亡、14名が重軽傷となった)、8.17日、松川事件(東北本線松川−金谷川間で列車転覆、3名死亡)が発生した。これらの事件はいずれも日本の争議史上に前例のない奇々怪々な事件であり世人を驚かした。吉田内閣の内閣官房長官・増田甲子七は、翌8.18日「今回の事件は今までに無い凶悪犯罪である。三鷹事件を始め、その他の各種事件と思想的底流において同じである」との談話を発表、新聞やラジオはこの談話を大々的に報道した。
(私論.私観) 

 今日ではこれらの事件が党員労働組合員の所業に見せかけた悪質な謀略事件であったことが判明しているが、共産党の仕業であると宣伝され続けた。これらの事件を境に労働運動が逆流に転じることとなった。

【反動攻勢本格化する】
 7.4日、マッカーサー、日本は不敗の反共防壁と声明。
 7.4日、国鉄、定員法に基づく37000人の首切り通告を開始。
 7.5日、東芝、4600人の首切りを発表。労組は7.26ストライキに突入。
 7.13日、国鉄、63000人の第二次首切り通告を開始。
 7.14日、新産別(民同)が結成された。新産別は、共産党的な政治的引き回しから決別して、経営者をも納得させる「建設的な業務管理」によって「全体の企業整備を正しく発展」させるという方針を採択した。
 7.18日、国鉄は、中闘の鈴木市蔵副委員長ら共産党員12名、高橋儀平ら革同5名を解雇した。民同は、この解雇に対して公労法の規定を持ち出し、「解雇された役員は職員ではないからもはや組合員ではない。従って、解雇役員を中闘の中にとどめておくと組合の合法性が失われ、法外組合となって団交さえ拒否される」と主張し、中闘や各級機関からの解雇役員の排除を主張し始め、露骨な労資協調゛りを見せた。
 7.21日、民同が中闘からクーデター的に脱落し、自前の連絡会議を開いた。いわゆる「ゼロ号指令」を出し、声明で「我々はここに共産党の組合支配を断ち切り、新たな闘争を臨時国会と合法的団体交渉、苦情処理の場面に移行して戦術転換を決意した」と述べている。
 8.12日、逓信省、定員法に基づく2万6500人の首切り通告を開始。

【党の変調指導】
 この頃共産党は次のような奇妙な指導をしている。「情勢は革命に有利に展開しつつある。問題は我が党がいかに正しく奮闘するかにかかってきた。不正摘発、税、食糧、治水、地方財政、そして労働攻勢と、吉田内閣の致命的な弱点に徹底的な攻撃を組織することである。ストライキのみが闘争ではない」(8.2日アカハタ)、「大衆闘争の発展を阻む大きな原因はストライキマン的な戦術病である。闘争の型におぼれ、その型が実現できるか否かで、勝負を決める傾きが、今なお強く残っている。国鉄闘争でもストライキに一切をかける穴掘り主義が克服されていない」(8.5日アカハタ)。

【 「第16回拡大中央委員会」開催】
 このような中8.21日、「第16回拡大中央委員会」が開催された。一般報告、財政方針など採択。大会の眼目は、眼前の反動攻勢と謀略事件にどう対応するのかということにあったが何ら有効な対策を講ずることが出来なかった。

【国際的平和運動の動き】
 この頃から世界的に平和擁護運動が始まり、48.12.6日のハンガリー.ブタペスト会議、2.25日、世界平和大会召集の為のアピールが発せられた。

 4.20−25日、パリ及びプラハで第一回平和擁護世界大会が開催された。

 7月、「GHQ」民間情報教育局教育顧問イールズ(スタンフォード大学準教授)が、新潟大学で共産主義者教授の追放を勧告した演説を行った。以降翌年6月にかけて岡山大、東北大、北大などでイールズ旋風が吹き荒れた。

 8.6日、広島で平和婦人会議が開かれた。

 8月末、ソ連が原爆実験に成功する。


【この頃の学生運動】
 9.1日、共産党.全国学細代表会議で、党中央の官僚主義に批判が集中した。この頃になると、共産党の機関と全学連指導部の間に意見の対立が深刻になっていた。共産党は穏和化を指導し、全学連指導部は急進主義的に更に闘おうとしていた。志田(伊藤律とならぶ徳田の側近)、大島(関東地)を粉砕した武井委員長の声望と権威が高まった。

【矢継ぎ早の反動攻勢】
 9.8日、「団体等規制令」第4条により、在日本朝鮮人連盟.在日本朝鮮民主青年同盟など朝鮮人4団体に対して解散が命じられた。金天海を始め朝連幹部36名が公職追放された。左翼組織に対する戦後最初の弾圧措置であった。

【「中西意見書」の提出と封殺】
 9.9日、中西功は、500枚にのぼる意見書を党中央に提出した。通称「中西意見書」と云われているが、「戦後日本革命の性質と日本共産党の綱領・戦略・戦術について」というのが題名である。第6回大会後も、「現政治情勢の特質と労働者階級」(「民主評論」48.4月号)、「日本ファシズムを廻る理論的諸問題」(「潮流講座経済学全集」)などを発表していたが、それらを総纏めして中西理論を開陳していた。

 「中西意見書」は、現状分析で戦後日本の支配体制を「二重性を持つ特殊な二重体制」論としての認識を示し、49年上半期闘争の指導の失敗に対する批判へと向かっていた。過去に遡り党の戦略.戦術.組織方針の全分野にわたって詳しく検討し究明し、「49年闘争の欠陥について、労働者階級が、全勤労大衆と共に、敵の攻撃を撃退し得るならば、革命情勢に入り得る可能性があったのに、独占資本に対する偉大な決定的な闘争を、ストライキを主要な闘争形態として、意識的計画的に準備しなかったことにあるとし、産業防衛闘争に名を借りた、労資協調主義・地域人民闘争における地方主義と議会主義・ストライキ闘争の回避と抑圧など全面的な批判を展開した」(田川和夫「日本共産党史」)。次に、革命の戦略論に言及し、中西が戦後から一貫して社会主義革命の戦略方針を第一義にしており、民族的独立の課題に対しても「これに従属化する戦術的な中心問題」に過ぎぬとし、独特の統一戦線論を主張していた。

 「中西意見書」は、綱領問題からして基本的に徳球執行部と相違していた。しかし、彼の指摘した徳球執行部の闘争戦術批判.党内官僚主義批判には聞くべきところ大なるものがあった。その為に却って党内から封殺される運命となった。この頃から党内における徳球の家父長的指導への批判が高まっていくこととなった。

 9月、教育職員免許法が施行される。


【「シャウプ税制勧告」が為される】
 9.15日、「GHQ」税制改革の「シャウプ税制勧告」シャウプ税制勧告全文を発表。

 コロンビア大学教授カール・シャウプを団長とする7人使節団が来日し、税制改革を勧告した。
「シャウプ税制勧告」は、税の公平を重視する立場から逆進的な間接税中心主義を退け、所得税(直接税)中心主義を採っていた。「分権的な地方自治の確立こそ民主主義の基本」とする立場から、地方自治の財政基盤強化を図っていたことも意義があった。

 9.22日、松川事件容疑で多数の党員.戦闘的労働者が逮捕された。

【 「第17回拡大中央委員会」開催】
 このような中9.22日、「第17回拡大中央委員会」が開催された。大会の眼目は、暴力的とも云える反動攻勢に具体的な反撃方針を立てることにあったが何ら有効な対策を講ずることが出来なかった。徳田は、「将来に対する十分なる用意をめざして、真に大衆に根を下ろすこと」(「党の緊急任務の遂行について」)を訴えるばかりで、官民を通じて44万にのぼる大整理が断行され、党員及び戦闘的労働者が首切りされている重大事に、何らの抵抗を組織し得ないと云う致命的弱点を暴露した。「平和革命コース論」の非現実性であり破綻であったが、党内が戦略戦術の見直しに向かう気運は生まれなかった。

 9.28日第17中総で、先の中西意見書は志賀報告により次のように断罪された。「同志中西は党中央部が彼の意見を取り上げないと不平の口調でいったが、彼は第一、自分だけが正しい理論家であるといううぬぼれに支配されている」、概要「中西の思想は左翼日和見主義である。その社会主義革命論は、ブハーリン流の純粋独占資本主議論の誤りであり、他方トロツキー的偏向の変種であり、他方ローザ・ルクセンブルク流の誤りである」、「同志中西は、党の規律と党内民主主義との関係がよくわからない。今後党指導部は、この点を十分考慮して、同志中西の指導に当たるであろう」(志賀「同志中西の偏向について」)。

 この志賀の「同志中西の偏向について」に対して、高知聡氏は「日本共産党粛清史」文中で次のように批評している。「批判は、提出されている結論と、そこに至るまでの相手の思考過程の分析を一方に持ち、それへの自説の対照によってのみ成立する。相手の言い分を理解できなければ、優越した批判は生まれない。志賀らは、中西理論が異端であることを嗅ぎ分けているが、思想闘争を為し得る能力を持ち合わさず、ただ断片的な論断を下しているに過ぎない」。

 この時党は、中西に対し、「党の指導機関は、同志中西の傾向に対してたえず忍耐強い態度で指導してきた。だが党の基本組織で活動した経験の少ない同志中西は、党の規律と党内民主主義との関係がよくわからない。今後党指導部は、この点を充分配慮して、同志中西の指導にあたるであろう」と述べ、次のような党内規律を課している。興味深い面があるので以下記す。
一. 論文を書くとき、必ず中央委員会の同意を得て、発表すること。
二. あらゆる場合に党の方針に反した意見を、勝手に発表しないこと。
三. 党の決定に従って行動すること。
四. 党の方針に反した従来の著書は今後出さないこと。
五. 彼は従来どおり、国会内と党本部内で仕事をしてもらうこと。

 党は、「9月革命」の流産を総括すべきであったがお茶を濁した。野坂は、概要「9月革命−人民政府の不成立は、吉田内閣の露骨な弾圧政策と、社会党や民同の破廉恥な裏切りのせい」だとして、党の主体的な自己批判をしなかった。もともと可能性が合ったのか無かったのかの詮議と、流産に対する主体的な総括こそ求められていたというべきであるが、こうした反省は為されなかった。このことが、やがて翌年早々のコミンフォルム論評となって徳田−野坂執行部批判として立ち断ち現れることになる。
 

 「情勢の急速な発展と、党の緊急任務の遂行について党員諸君に訴うを決議。


 9.24日、九州大学で赤色教授に辞職勧告。続いて富山、新潟など多くの大学でも。10.29日 早大.島田総長「私学法は時代錯誤の暴挙」と声明。


 10月、文部省が学内細胞を禁止。



【49年当時の党勢について】
 1945.12月の第4回大会当時には1083名にしか過ぎなかった党員数は、その翌年1946.2月の第5回大会時には6847名に増え、1947.12月の第6回大会時には、46年に比して「党員数は約10倍に増大し、経営・農村・居住等における細胞が第5回大会当時に比して著しく強固となり飛躍的に発展した」、「四国・北海道を除いて地方委員会が確立し、各府県委員会も大体確立されていった。更に、1949年末までに党員数は20万を超え、1922.7月の結党以来45年の敗戦まで、ついに一千名を超えることのなかった日本共産党が、再建後4カ年間にして、その大衆的基盤を確立し、資本主義国の中でも『有数』な共産党の一つに数えられるまでに成長していた。
【49年下期当時の党の方針の特質と要点】
@〈世界情勢に対する認識〉について

 この時期「冷戦時代」が朝鮮半島で熱戦に転化しようとする気配にあった。党にとっても、国際共産主義運動の連帯課題としてアメリカ帝国主義との戦いが緊急になりつつあった。こうして「日本の完全な独立、中立の確保」がスローガンにされていくことになったが、今ひとつ党に緊張感がかけたものがあったように思われる。
A〈国内情勢に対する認識〉について

 既に「GHQ」は「逆行指令化」に転じていた。党は、「民主主義的諸権利の擁護と人民大衆の生活安定」をスローガンとしたが、〈世界情勢に対する認識〉と同様今ひとつ党に緊張感がかけたものがあったように思われる。

(私論.私見)

 @.Aにつき 激化する国内外の諸情勢に対して明確さを欠いた対応が目立っている。

B〈党の革命戦略〉について

 天皇制を打倒するという主張がますます後退しスローガンから無くなりつつあった。政 体についても不明瞭となった。

C〈党の革命戦術〉について

 この時期先の総選挙での躍進に自信を深め人民政権の樹立を目指す闘争が呼びかけられ始めた。野坂の「平和革命コース理論」のもと急進的な運動を排斥する穏健路線が公式の見解ではあったもののにも関わらず急進化し始めた証左である。

D〈党の当面の具体的な運動方向〉について

 議会主義への傾斜グループと大衆闘争グループへと党の運動が二極化しつつあった運動が、この時期「9月革命.人民政権樹立」に向けて歯車がかみあい始めていた。但し、宮本グループは「民族の独立」が優先課題であると主張し、「GHQ」の占領下にも関わらず人民政権の樹立が可能であるかの見地は日和見的との批判を為し続けた。執行部内部の混乱が見え始めたということと、何かにつけて反対する宮本グループの姿が浮き彫りになるつつあった。

E(党の大衆闘争指導理論)について


(私論.私観)

 B.C.Dにつき但し、


F(党の機関運営について)

 こうして、徳球と宮顕の対立は飽和点に近づき始め、徳球の「党指導における粗暴で節度にかける態度」がいっそう激しくなり、党機関の民主的運営は保障されず、指導体制内部の対立も深められる結果となった。この頃の徳球グループの実務は伊藤律が担当していた。伊藤律は、徳球書記長の秘蔵っ子的な期待を受けて党指導の矢面に立った。

 この経過は今日では次のように総括されている。「伊藤律は、こうした党の条件を出世主義者特有の敏感さでとらえ、徳田同志に取り入った。彼は自己の地位をかためるために、幹部間の不和を拡大することを意識的におこなった」、「こうして、徳田同志を中心とする家父長的個人指導の体制は派閥的傾向を強め、党中央の団結に重大な危険となっていた」。


G〈左翼陣営内における本流意識〉について  

H〈青年戦線.学生運動〉について

 党の指示によって、青年政治戦線の統一、青共、民学同合同の申し合わせを行い、民主 青年合同委員会を発足させた。  党内の分裂を受けて全学連内部にも主流派と国際派が対立を見せた。

I〈大会後の動き〉
 

 党員数20万以上。


【中華人民共和国の成立】
 10.1日、毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立した。毛沢東が天安門上で世界に向けて宣言した。中国はこうして百余年にわたる帝国主義の侵略と支配を脱して社会主義の道に踏み出すことになった。国際共産主義に与える影響大なるものがあった。党は、「人類解放の大事業の上に、ロシア革命に次ぐ偉大な貢献を為し遂げようとしている」との賛辞を添えて祝意を述べた。

 中華人民共和国成立の歴史的意味は次のように確認されている。
 「49(24年).10.1日、中華人民共和国が正式に成立した。このことは、世界の情勢を大きく変える画期的なできごとであった。6億の人が資本主義体制を離れた。社会主義陣営は世界人口の3分の1を占めることになったのである。また中国革命の勝利は、アジアや中近東の植民地、従属諸国の民族解放闘争を大きく前進させるきっかけともなったるこの結果、単一の世界市場が崩れ、社会主義と資本主義の二つの体制の力関係が、社会主義に有利に転換するという、戦後国際情勢の変化の特徴はいよいよ決定的なものになった」(「昭和史」)

(私論.私観) 中国建国による中国共産党の世界共産主義運動に与えた影響について

 中国革命の成功は国際共産主義運動に別の意味でも大きな意味を与えていくことになった。従来スターリン書記長が指導するソ連共産党が世界の共産主義運動を指導してきたが、中国共産党も又大きな影響を与えていくこととなった。ソ連共産党と中国共産党が 一枚岩である場合には国際共産主義運動の統一が保たれるがその後の史実は微妙に二元指導的な動きへ と移行していくことになり、やがて「中ソ論争」.国境紛争へと発展していくことになる。以後日本共産党に与える影響もこの二元的な方向から強められることになる。


 この中国革命の成功は、同時期の我が日本の「9月革命」運動の破産との対比で考察されるに値する。


【ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立】
 10.7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。

 共産主義封じ込めを図るアメリカにとって、日本をアジアの反共の防波堤とする戦略が強まった。

【全学連の第3回全国大会開催される】
 11.2日、早大大隈講堂で、全学連の第3回全国大会が開かれた。代議員230、評議員111、委員長に引き続き武井を選出。

 この頃、党の指示によって、青年政治戦線の統一の立場から青共同・「民学同」など四団体の合同の申し合わせを行い、民主青年合同委員会を発足させているが、階級性の抜き去られたものであったようである。その為、先進的活動家の離反をみているということである。この時の党の指導者が誰であったのか等々知りたいが不明である。

【アジア太洋州労働組合会議が開催され、劉少奇演説がぶたれる】
 11.6日、北京でアジア太洋州労働組合会議が開催され、国家副主席の劉少奇が中国全国総工会名誉会長の肩書きで、植民地・半植民地の労働者階級の任務について次のように述べた。概要「労働者階級と被圧迫人民は、労働者階級と共産党に指導された反帝国主義民族統一戦線と共産党の指導する民族解放軍の創設、大衆闘争と軍事行動の結合以外のもっと容易な、楽な方法で帝国主義者とその手先の弾圧を打倒し、人民民主主義国家を樹立することは出来ない」、「大部分の植民地・半植民地においては、民族解放闘争の主要な闘争形態は武力闘争である」、「植民地・半植民地の民族解放闘争の指導者は、プロレタリア階級とその政党である共産党でなければならない」、「中国人民が勝利を獲得するために国内において実行してきた基本的な道であるこの道は、また、同じような事情にある他の植民地・半植民地国の人民の解放のための基本的な道となるものである」

 つまり、中国の「人民解放軍」路線を日本を含むアジア・太平洋全域に拡大する方針を打ち出してた。いわゆる「劉少奇テーゼ」と云われ、「毛沢東の道」を指針させていた。それは、中国革命勝利後、モスクワで開かれた毛沢東・スターリンの首脳会談で合意されたアジア戦略であった。この会談で、スターリンは、中国式革命方式を評価し、毛沢東を信任し、中国革命方式によるアジアの植民地・半植民地国の武力解放を中国共産党の指導に委ねた。

 袴田里見「私の戦後史」(朝日新聞社、1978年、88p)に、「この植民地・半植民地の中には、インドシナ、マレーシア、インドネシアなどと並んで日本も入っていた」とある。

【第9回目の昭和天皇とマッカーサーの会見】

 2002.8.1日付け朝日新聞報道に拠れば、通訳を勤めた外交官松井明氏の昭和天皇とマッカーサーGHQ最高司令官との会見記を認めた手記が見つかったとの記事が載っている。1980年ごろ書き残した「天皇の通訳」の写しで400字詰め原稿用紙で246枚にわたり、講和交渉や独立後の日本の安全保障、朝鮮戦争の情勢など、高度に政治的な内容が詳細に明かされている。これまで会見内容は、ごく一部しか明らかになっておらず貴重な史料となっている。

 松井氏は全11回に及ぶ天皇・マッカーサー会見のうち第8〜第11回と、マッカーサーの後任のリッジウェーとの会見全7回の通訳を担当。自ら通訳を務めた会見の大半を一問一答形式で克明に記している。

 49年11月の第9回会見録で、天皇は共産主義の脅威を強調して、「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如(ごと)き事態となることをおそれます」と、朝鮮戦争を予見するかのような発言をしていたとある。これに対してマッカーサー元帥は「米国としては空白状態に置かれた日本を侵略に任せておくわけにはいきません」と発言し、「数年間過渡的な措置として英米軍の駐屯が必要」との見方を示したとある。元帥の立場はその後も数カ月間揺れるが、この会見で初めて、「講和後の米軍駐留」という安全保障の根幹に触れる構想を天皇に伝えていた点が注目される。

 【松井明氏(まつい・あきら)】 08年パリ生まれ。東大法学部卒。31年外務省入省。調査局長などを経て49年7月から53年3月まで昭和天皇の通訳。その間、吉田茂首相秘書官としてサンフランシスコ講和会議に随行。スウェーデン大使、国連大使、フランス大使などを歴任した。94年4月、86歳で死去。清浦奎吾内閣で外相を務めた松井慶四郎氏の長男。(2002.8.1日朝日新聞記事「昭和天皇とマッカーサー元帥 占領期の会見詳細判明」


【労働戦線の新たな動き】

 11月、総同盟第4回大会。左派が進出した。松岡が引き続き会長に選出されたが、左派の山花秀雄と198対186の激戦によりかろうじて選ばれるという状況であった。副会長には右派の上条愛一、左派の重森寿治.山田節男、総主事は左派の高野実。

 11.11日、民同諸派が私鉄総連の新構想に基づいて、全国労働組合統一準備会を組織し、この日第1回会議を開き、11.21日には第2回会議を開いた。この過程で、日本労働組合総評議会(総評)の結成が確認され、規約、憲章、当面の闘争目標などが作成された。
 
 12.10−12日、全国産業別労働組合連合会(新産別)結成。「ファシズム及び共産党の独裁政権に反対し、かれらの企図する暴力革命を粉砕し、社会民主主義政党と協同し、社会主義の実現を目標とする」ことを綱領に掲げた。委員長金山敏(全生保)、書記長落合英一(全電工)が就任した。


 11.16ー19日、ハンガリーで、第3回コミンフォルム秘密会議が開かれた。ソ連の理論家スースロフは、次のように報告した。

 「歴史的経験に拠れば、帝国主義反動勢力は、その立場が絶望的になればなるほど怒り狂い、戦争のような冒険主義に出ようとする危険性を増す」。

【講和問題議論沸騰す】

 この頃、日本の国際社会への復帰をめぐって、全面講和と単独講和の両論議論が急速に沸騰していった。11.24日社会党の曽弥益氏が「講和問題に対する党の一般的態度」論文を発表して、これが叩き台となった。党内討議を経て「全面講和、中立、軍事基地提供反対」の「講和三原則」を打ち出すこととなった。後にこれに再軍備反対が加わって「平和四原則」というスローガンになる。


 12.16ー翌2.17日、毛沢東が訪ソし、スターリンと直接会談を繰り返す。毛沢東は、12.21日のスターリン誕生祝賀式典に出席し、ソ連事情を視察する。


【沖縄の軍事基地化強まる】

 12.21日、アカハタの一面トップで、スターリンの70歳の誕生日を祝う記事を掲載。「全世界の勤労者の偉大な指導者」、「平和政策の偉大な旗手」との讃辞を贈っている。

 12.30日、ソ連が突然に沿海州軍管区軍法裁判所で、山田乙三関東軍司令官ら12名の元関東軍の軍人たちに細菌戦に対する責任を問い、2年から35年にわたる強制労働刑を宣告した。ソ連は、この宣言をアメリカ、イギリス政府に通告し、国際軍事法廷の設置を提議した。


【宮顕による伊藤律査問の動きと不発】
 当時統制委員議長であった宮顕は、この頃伊藤律査問の動きを見せている。委員には山辺健太郎、増田格之助がいた。彼らは律の疑惑に対して、「婦人問題」を突破口に査問しようとした。「伊藤律のアカハタ婦人問題について統制委員会議長としてこれを問題にしたが、政治局.統制委の合同会議で『政治性の欠如』等として非の決議を受けた。これに反対する」(「経過の概要」)と記されている。

【日・ソ・中各共産党連携で革命工作】(脇田憲一「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」その他参照)

 これは今日も未解明なところであるが、この頃ソ連の指令による「日本革命計画」(「コミンフォルム指令172号および同行動計画」)が発令されている形跡がある。不発に終わったためか考察されていない。当時の国際共産主義運動と本家ソ連共産党と各国共産党間の関係を探ることのできる貴重な史実であると思われる。

 「日本革命計画」指令は、1949(昭和24).12.16日付で「革命闘争指令1号」として日共政治局員、革命オルグに指示されている。指令によると日本を関東、東北、関西、九州、四国、北海道の6地区に分け、それぞれに設けられた革命機関が一斉に蜂起するよう指示されていた。

 
その指令とは次の内容であった。(1)、発電所、送電線、送電施設などを破壊する。(2)、共産党の活動を妨害する重要人物の行動を監視し、反動的人物を暗殺する。(3)、民同派組合への浸透をはかり。反動的幹部を排撃する。(4)、吉田−李承晩協定により共産主義的・進歩的朝鮮人を本国送還させようとする意図を粉砕する。(5)、党員は闘争の先頭から退き(筆者註・地下に潜ることか?)、大衆と密着し、内部指導を強化する。(6)、GHQ・吉田反動内閣の公然たる弾圧政策に対処するための行動計画を早急に準備する。

 
同指令の行動計画は次の通り。1、八月一五日から九月一五日までのあいだに全国一斉に蜂起する。2、今や日本共産党と中国共産党との連帯・支援関係の樹立に成功した。日共党員を含め約五〇万人が行動に決起できる予定であり、すでに中国共産党オルグや、朝鮮人オルグが秘密裡に日本上陸を完了している。3、一二、三万丁のピストルで武装する。海上保安庁の役人を買収することによって、より多くの武器を容易かつ確実に入手することができる。4、海岸線に近い都市でまず行動を開始する。5、失業した自由労務者により、発電所および鉄道(輸送機関)を破壊する。6、職安闘争を強化する。渋谷職安での例では、二人の指導者が一〇〇人の失業者を行動に立ち上がらせるのに成功している。7、朝鮮への軍事物資の輸送を妨害する。

 この「日本革命計画」をめぐって、GHQとソ連共産党が裏で激しく攻防し、国内では吉田政府と徳田共産党が争ったという構図になっている。これを察知したGHQは、昭和25年5月3日、日共は侵略の手先である、と非難を声明、続いて6月6日、日共中央委員24名の追放を指令していくことになる、所謂レッド・パージである。当然この背景の考察を深めるためには、アメリカ本国でのレッド・パージについても見ておく必要があるであろう。 

 この文書は1970年代の後半に、アメリカの外交文書公開の「二五年原則」によってGHQ労働課の秘密文書として公開され、「占領研究」で知られる竹前栄治氏の「戦後労働改革GHQ労働政策史」(東京大学出版会、一九八二年)により紹介された。米・メリーランド州の国立公文書館に保管されており、当時GHQ民生局でパージ(追放)を担当していた日系U世のM・ウチヤマ氏(日本名・内山幹雄・帰国後カリフォルニア州地裁判事)が、昭和25年4月24日付で提出した報告書に詳しい。


 竹前氏は、「GHQが入手したこのようなコミンフォルム関係文書の内容が果たして真実であるかどうかは疑問である。しかし、このような情報が単にレッド・パージをするためにでっちあげられたものであるとも断言はできない。当時のGHQ関係者からの話を総合してみると、少なくともレッド・パージ作成計画の真には、彼等がこのような“コミンフォルム情報”なるものに基づく対共産党イメージをもっていたことは疑う余地はない」と述べている。


【「S・Sテーゼ」について】

 亀山幸三は、「戦後日本共産党の二重帳簿」の中で、興味深いことを書いている。それによると、1949年の終わり頃、徳球の了解の下に「S・S(シークレット・サービス)テーゼ」を作成し、共産党の財務活動の一環として事業に関わる際のテーゼを作成している。概要「共産党活動資金を獲得するための特別財政を持つ特殊グループとして一般党組織の外につくられ、S・Sの最高指導部は共産党の最高委員会に直属し、『ブルジョア社会内におけるプロレタリア戦術の最も巧妙な適用』として活動させる。通常のブルジョア的方法を最高度に採用するが、『あらゆる場合に冒険主義的傾向を絶対に排斥する』。」と性格規定していた。結語は、「S・Sは、1946年2月に党中央財政部が創立されて以来の最もよき伝統と性格を受け継ぎ、その中核として闘ってきた同志達によって創設せられ、この後も共産党の勝利の日まで益々拡大発展させる必要がある云々」とされていた。


【徳球対宮顕の罵倒合戦】

 増山太助の「戦後期左翼人士群像」は次のような史実を伝えている。12.29日、「宮本、青山両論文の検討会」が関係者を集めて本部の食堂で開かれることになった。「宮本、青山両論文の検討会」とは、宮顕の前衛7月号掲載「統一戦線とインテリゲンチャ」論文に対して、青山敏夫が前衛12月号掲載「知識人の統一戦線の問題」で反論を行い、これに対し宮顕が「宗派的な傾向の克服のために同志青山に答える」論文で再反論したことの党内的対応の必要から急遽設営されたものであった。

 しかし、この検討会は両者の考えを平等に取り上げる検討会にはならず、徳球書記長と宮顕との間で本題そっちのけの、「どちらが相手を支配するのか」−まるで「官僚主義」を競い合う息詰まる舞台になった。

(私論.私観) 徳球対宮顕の抗争について

 増山氏はこの時の両者の議論内容を明らかにしていないが失当であろう。党史上、徳球対宮顕の抗争内容を克明に明らかにしておくことはかなり重要なことであり、内容に触れぬ対立の様子のみの開陳はいただけない。





(私論.私見)