第10部 1948年当時の主なできごと.事件年表
「GHQ」占領政策の転換

 (最新見直し2006.9.22日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第1期、戦後初期から(日共単一系)全学連結成とその発展」に記す。

1.1 宮城一般参賀が23年ぶりに復活する。
1.1 改正民法施行。
1.5 【平野派16名、社会党離党】片山内閣閣僚農相の平野が社会党離党声明を発表した。主に全農議員団メンバー16名がこれに従った。鈴木善幸はこのときのメンバーである。
1.6 ケネス.ロイヤル陸軍長官は、サンフランシスコのコモンウェルス.クラブで演説を行い、「日本を共産主義に対する障壁に育てねばならない」と発言した。
1.13 総同盟が組合「民主化」運動を提唱。反共分裂策動を強める。
1.15 新宿区の寿(ことぶき)産院の院長夫妻、もらい子殺しの容疑で逮捕。(寿産院事件) 1944年以来、嬰児の養育費・配給品を着服し、103人を餓死させる。 
1.16 【社会党第三回党大会】左右の対立で大荒れとなった。四党政策協定破棄を決定(西尾末広書記長辞任、浅沼稲次郎が書記長に就任)
1.21 松本治一郎、第2国会開会式で天皇に対する「カニの横ばい式」拝謁を拒否。 
1.24 日本政府は朝鮮人学校の閉鎖、生徒の日本学校への転入を各都道府県知事に通達した。三日後、「朝連」は第13回中央委員会で反対を表明、3.1独立闘争記念日に合わせて民族教育を守る戦いを全国展開するよう訴えた。
1.26 帝銀事件発生。豊島区の帝国銀行椎名町支店で行員ら12人が毒殺され、現金と小切手が強奪される。後に画家平沢貞通が逮捕された。
2月 共産党.宮本の学生指導体制確立。
2.1 沢田美喜が、混血孤児の救済施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を大磯に開設する。
2.5 予算委員会において、与党の内部分裂によって、政府予算案が否決された。片山は社会党内の左右対立の現状における政権維持の困難さを判断し、右派は左派排除論を展開し、左派は予算委員会でとった態度は党大会決定に従ったものであったと反論した。
2.6 日本共産党は「通算第9回中央委員会総会」を開き、片山内閣に対して、「深まる人民生活の破綻と産業の荒廃は、もはや片山内閣を持ってしては救えない」、「わが党人民大衆と共に、片山内閣の即時辞職を要求し、断固たる内閣打倒の党争を宣言する」との闘争宣言を発した。  
2.9 片山首相は臨時閣議で翌10日をもって内閣総辞職をすると発言し、閣僚全員の辞表をとりまとめた。こうして片山内閣は、自らの予算を一度も編成することができないまま、わずか9ヶ月で崩壊した。
2.10 片山哲内閣、社会党の左右両派の対立により総辞職。
2.13 産別民主化同盟(産別民同)結成される。細谷松太が指導。 党は細谷を除名した。
2.17 あかはたで、「現政局と民主民族戦線」を発表。
2.20 父親の治療費を得るため、名古屋の一青年が「いのち5万円で売ります」という広告を出す。民衆の反響を呼ぶが、父親の死去で取り消す。
2.21 衆議院が芦田均を、参議院が吉田茂をそれぞれ首相に指名。両院協議会が開かれる。憲法第67条により、衆議院の議決が優先されるということで、芦田が次期首班になることとなった。芦田の組閣工作が始まると同時に社会党に対する組閣協力要請が為された。この受け入れをめぐって左派が分裂した。結局、「現実左派」が大勢をリードすることとなった。芦田の組閣工作は二週間を経過して遅遅として進捗しなかった。
3.1 全逓3月闘争始まる。
3.1 政策企画室室長ジョージ.F.ケナンは、来日してマッカーサーと意見交換し、「これ以上改革を促す立法を押しつけてはならぬ。重点は、改革から経済復興に移されるべきである。追放は緩和し、次第に減少させ、遠からぬ時期に停止すべきである」(「ジョージ.F.ケナン回顧録」)と提言した。
3月 民主民族戦線に関する懇談会を各種団体と開く。
3月 前進座集団入党。 出隆、入党.このころ知識人の入党相次ぐ。
3.7 警察法施行。
3.10 【芦田内閣成立】民主党総裁芦田均を首班とする芦田内閣(48.3.10〜48.10)が成立した。片山内閣退陣から一ヶ月目であった。この内閣も又民主党.社会党.国協党三党による連立内閣であった。
3.11 「九州大学生体解剖事件」について、横浜軍事裁判所で軍事裁判が始まる。これは、1945年5月に行なわれた米軍捕虜8人への生体実験にまつわる軍事裁判であった。
3.15 日本共産党が、民主民族戦線の結成を提唱、社会党、大衆団体に申し入れ。
3.15 獄死した市川正一の党葬が東京澁谷公会堂で行われる。
3.15 日本自由党.民主党脱党派の同志クラブ幣原喜重郎派が合同し、民主自由(民自党)党を結成し第一党(152名)となった。総裁吉田茂。幣原喜重郎は党最高顧問に就任する。
3.17 社会党が、共産党が提唱した民主民族戦線結成を拒否。
3.21 第1回「NHK全国のど自慢コンクール」優勝大会が神田共立講堂で開催される。  
3.26 日本共産党が「通算第10回中央委員会総会」が開かれ「平和と民主主義、民族独立の為の宣言」を採択し発表した。以後社会党.労働組合.大衆団体に「民主民族戦線の結成」を提唱していくこととなった。その他細胞の公然化の問題などを審議。
3.26 平野派が社会革新党(平野力三党首、佐竹晴記書記長)結成。
3.29 GHQが全逓3月闘争に介入し、地域ストライキを禁止する覚書を発表。
3.31 アメリカ軍政部、山口市内の朝鮮人学校に閉鎖命令。以後、兵庫・大阪・東京などでも同様の命令がでる。この月から4月にかけて、米軍政部、各地で朝鮮人学校に閉鎖命令。
4.1 ベルリン封鎖が始まる。東西の緊張が高まった。
4.1 新制高等学校(全日制・定時制)発足。
4.2 アカハタで、「民主民族戦線をつくれ」を発表。
4.5 民主民族戦線宣言発表。
4.8 東宝争議始まる。経営不振を理由に、東宝は270人の解雇を通告し、解雇者の撮影所立ち入りを禁止した。一方、労働組合側は、会社の解雇案を拒否。東宝砧(きぬた)撮影所に立てこもり、反対闘争を展開。      
4.12 日経連が結成された。諸井貫一代表常任理事。結成宣言は「経営者よ、強かれ!」。ここまで労働攻勢に押されて来ていた経営者側が、占領政策の転換もあって立ち直ったことを指標しているように思われる。
4.17 大量人員整理に反対する東宝争議始まる。
4.17 日本民主婦人協議会(民婦協)結成
4.23 大阪城を間近に臨む大手前公園で朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。7000名余りの群集で膨れ上がった。
4.27 海上保安庁設置法公布。同法公布につき、英・ソ・中は武装軍復活のおそれありと批判を表明するも、アメリカが強行。
4.27 民自党の委員高橋英吉が、昭電融資の実態及びこれに絡む不当な政治献金の調査を委員会に提案した。この問題が俄然政治問題化していくことになった。   
4月 この頃、知識人の共産党入党が相次ぐ。
5.1 軽犯罪法公布。入墨禁止・迷信利用行為の禁止などの項目を削除し、凶器・侵入具などの携帯罪などを新たに追加。
5.1 美空ひばり(12歳)、横浜国際劇場で本格的歌手デビュー。
5.2 夏時間(サマータイム)実施。(日本の生活習慣にあわず、1952年4月11日廃止)
5.5 文部省と朝鮮人連盟(朝連)との間で、朝鮮人学校を私立学校として認可することで妥結する。 こうして朝鮮人学校は存続することになった。いわば、史上初にして最後の「GHQ」による非常事態宣言を招来させるほどの闘争を遂行した結果勝ち取られた成果であった。
5.9 東京日比谷公会堂で「母の日大会」が開催される。以後、5月の第2日曜日が「母の日」となる。      
5.12 厚生省、児童福祉法に基づき、母子手帳の配布を開始。(1966年、母子健康手帳と改称)   
5.14 イスラエルが国家宣言する。
5.18 ドレーパー賠償調査団、報告書発表。    
5.30 −31日通算第11回中央委員会。一般報告、党組織の防衛、青年.婦人.財政問題などの方針を決定。
6.1 衆議院不当財産委員会が、西尾末広副首相の政治献金(土建業者からの献金50万円)問題で紛糾。「社会党書記長個人としてのもので問題なし」と副首相が答弁したことが紛糾の原因。 
6.6. 衆参(6.19)両院で教育勅語、軍人直喩排除決議。
6.9 総同盟を除くほぼすべての労働組合、農民団体61団体と日本共産党、多くの社会党左派系議員、緑風会議員、第一議員クラブ議員ら84人の議員が参加して労農連絡会が組織された。この労農連絡会は、民主主義擁護同盟の母体となった。
6.12 民同が第一回大会を開催。6.28日総同盟が全労連から脱退。労働戦線は、共産党系の産別とそれに反対の民同.総同盟という対立の構図が形成された。
6.13 作家太宰治、東京の玉川上水に入水自殺する。享年40歳。
6.17 国鉄では、この時期、新ダイヤ実施に伴う機関車の一人乗車制反対闘争が継続中であった。北海道新得分会はその他労働条件改善要求闘争をしていたが、この日柚原秀夫闘争委員長が死の抗議自殺をした。この流れと「政令201号」反対闘争が結合されていくこととなった。 
6.23 東京地検の指揮で警視庁捜査2課、昭和電工社長日野原節三を商工省技官・課長への贈賄容疑で逮捕。(昭電疑獄事件)→7月15日起訴
6.25 日農.婦人団体.学生団体も参加する物価値上げ反対人民大会が開かれた。あらゆる産業の労働者と社共の足並みが揃い始め政府は重大な危機に面した。
6.27 全国オルグ会議
6.28 総同盟が全労連から脱退を声明。 労働戦線は、共産党系の産別と、それに反対の民同.総同盟という対立の構図が形成された。
6.28 福井県でマグニチュード7.3の大地震が発生する。震源地は福井県東北部九頭竜川下流域。発生時刻が午後5.15分頃と、夕食の準備時と重なったため多くの火災が発生、被害が増した。死者3895人、負傷者1万6375人。建物全壊3万5420戸、半壊1万1449戸、焼失3691戸。
6.28 コミンフォルム、チトー大統領の指導するユーゴを非難、除名。
7.6 西尾末広副首相、政治献金問題の責任をとって辞任。 
7.7 社会党中執は、西尾の政治責任追及で予算案に反対するなど党議を逸脱した行動をとった黒田寿男ら純正左派6名を除名。
7.10 日本学術会議発足   
7.12 他の十名も脱党し、社会党を除名された黒田寿男ら社会党正統派議員団を結成。
7.13 優生保護法公布。これにより、人工妊娠中絶などの条件が緩和される。  
7.19 徳田書記長が佐賀で右翼に襲撃され負傷。
7.20 国民の祝日に関する法律公布、即日施行。
7.22 この危機を見て取るや「GHQ」がまたもや鎮圧介入に乗り出してくるところとなった。マッカーサーは芦田首相への書簡で公務員の争議禁止などを要求。
7.31 マッカーサー書簡に基づき「政令201号」を公布施行した。全官公労働者(公務員)の団体交渉権と争議権と罷業権(ストライキ権)を剥奪した。
8.5 国労は「民族独立柚原青年行動隊」を結成し、「職場放棄」しての全国オルグ活動を組織した。彼らは、津軽海峡を渡り、職場放棄を組織しつつ南下していった。共産党がこの闘争を称賛し、「新しい型」の戦術として組織した。共産党指導の起死回生戦術であった。
8.12 埼玉県軍政部が、「不正と暴力の一掃」を県知事に指令。埼玉県本庄町では暴力団・町議・官憲のなれあいが日常化していたが、これを記事にした朝日新聞記者が、暴行・脅迫をうけた事件(本庄町事件)で軍政部の知るところとなり、この事件に嫌悪の念を抱いた軍政部は、再発無きように厳重指令をだした。 
8.13 大韓民国成立。8.15日式典が挙行される。大統領には李承晩(イ・スンマン)が就任。  
8.15 東京.皇居前広場で、朝連と共産党共催で、「生活防衛.反ファッショ人民大会」開催。金天海が民族教育闘争や不当弾圧反対闘争を激しく演説した。この時点において、共産党と朝連が共同闘争をしている様が見えてくる。同日、李承晩大統領のもとに、南朝鮮に大韓民国が樹立され独立宣言。 
8.17 横浜ゲーリック球場で、日本初のプロ野球ナイター(巨人対中日戦)が行なわれる。 
8.19 争議中の東宝砧撮影所に武装警官が大量出動、争議に介入した。労働争議(東宝争議)中の東宝砧(きぬた)撮影所に、東京地裁が財産保全の仮処分を執行。撮影所内に立てこもっていた労働組合員は400人。彼ら対して、東京地裁が「会社への撮影所明渡し」の仮処分を決定。仮処分執行のため、武装警官2000人に加え、アメリカ軍騎兵1中隊と戦車7台と飛行機3機を投入。そのものものしさは、「来なかったのは軍艦だけ」と評された。組合側は流血の惨事を避け、撮影所を明け渡したうえで闘争を継続することに決定した。         
8.26 党は「通算第12回中央委員会総会」を開き、はじめて「講和に対する党の基本方針を決定」しこれを発表した。党は、講和の条件として、民主主義の徹底、主権の完全な回復、領土問題、進駐軍の完全撤退.軍事基地化反対、戦争放棄.自衛権の承認等々9つの項目を提起した。 埼玉県本庄町で暴力追放の町民大会に1万人が参加。
8.26 共産党は、ユーゴへの批判を決議した。49.11日の第三回協議会で「殺人者とスパイの支配する党」、「帝国主義の直接の手先」なとど罵倒するという事態が生起した。スターリン主義による権威主義的な干渉であった。
8.27 共産党、社会党正統派議員団のちの労農党、産別会議、その他の民主団体によって、民主主義擁護同盟準備会がつくられた。参加人員は7百万人余と報告された。代表世話人には、平野義太郎、堀真琴、佐々木良策を、事務局長に内野竹千代を選んだ。
8.31 アカハタで、「人民の統一戦線結成さる」を発表。「民主主義擁護同盟準備会の結成は、わが国革命における一個の歴史的な事件である。中略 民族の独立は失われようとしている。この危機を打開する為には、人民の政治を確立する以外にはない。その力は、すでに人民の中に成長しつつある。ただ一つ、人民の統一戦線の結成と勝利が欠けていたのである」。
9.2 東京地検、「昭電事件特別捜査本部」設置
9月 共産党.西沢隆二青対部長、全学連の地域人民闘争軽視、反帝闘争(講和による占領軍の撤退)重視を批判。
9.8 法務省告示で在日本朝鮮人連盟(朝連).在日本朝鮮民主青年同盟(民青)が団体等規制令第4条によって解散を指定された。天照皇大神宮教(通称:踊る宗教)の教祖北村サヨが、銀座の数寄屋橋で「無我の舞」を舞う。
9.9 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立される。首相には金日成(キム・イルソン)が就任。
9.13 東京地検、大蔵省主計局長福田赳夫(後の首相)を収賄容疑で強制収容→22日起訴
9.15 主婦連合会(主婦連)結成。(会長:奥むめお)
9.16 マッチが8年ぶりに自由販売となる。
9.17 -18日党朝鮮人部拡大全国会議が開催され、善後策を協議した。党は「冷静沈着に行動せよ」と判断し、金天海らはこれに反発した。地下潜行した。党中央と朝鮮人党員間にギクシャクとした関係をもたらす転機となった。
9.18 全日本学生自治会総連合(全学連)結成。 
9.28 東京地検、民自党顧問大野伴睦を起訴
9.30 「昭電疑獄事件」で経済安定本部長官栗栖赳夫逮捕。
10.1 日警視庁、犯罪通報専用電話「110番」設置。
10.6 東京地検、「昭電疑獄事件」で西尾末広前副首相逮捕。
10.7 芦田均内閣、「昭電疑獄事件」の道義的責任をとって総辞職。
10.7 アメリカの国家安全保障会議は、「アメリカの対日政策についての勧告」(NSC13−2)を決定した。公職追放について、概要「その目的は大部分達成されたので、---更に拡大する企画は無く緩和の方向で修正する」と述べられていた。「戦後民主主義の逆コース」化の狼煙となった。
10.8 社会党の中央執行委員会で、西尾が除名された。西尾は、総同盟からも除名された。
10.8 電球・歯みがきなど111種の品が自由販売となる。
10.13 首班指名で山崎猛(民自党)首班説強まる。
10.14 芦田内閣総辞職後、民自党幹事長山崎猛の首班構想が画策されたが、10.14日山崎は突如議員を辞職した。
10.19

【第二次吉田内閣の成立】吉田は連立策を取らず民自党の単独少数内閣をつくった。官房長官に前運輸次官佐藤栄作が抜擢された。この頃から日本の再軍備への転換が急がれることになった。(民主自由党による少数与党内閣='48年3月自由党に民主党幣原派が合流)

10.19 東宝争議終結。解雇通告の撤回と引き換えに、組合幹部20人が退社。これにより、195日におよんだ争議が終結。   
10.24 通算第13回中央委員会総会。一般方針、総選挙方針を採択。
11.3

岩田義通の墓碑、愛知県一宮市北方町に建てられる。 

11月 11月産別会議第4回大会開催。民同を「反労働者的」とし、解散を決議した。しかし民同はこれに応じなかった。この大会時では125万。
11.12 【東京裁判判決】極東国際軍事裁判所、A級戦犯25名に有罪判決。(うち、東条英機ら7被告に絞首刑判決)A級戦犯35人(岸信介、児玉誉志夫、笹川良一ら)全員有罪宣告(天皇の戦争責任免責)。      
11.12 文部省、小学校学籍簿に5段階の相対評価法の採用を通達する。
11.20 福岡県小倉市の主催で、初の公認競輪が開催される。4日間の開催で、入場者は5万5000人。
11.28 法務政務次官田中角栄、炭鉱国営疑獄に連座→次官辞任(その後の控訴審で無罪判決)。
11.30 国家公務員法改悪案が成立。公務員のストライキ権などが剥奪された。吉田内閣の当面の任務として手がけられたが、政令201号を受けて、「公務員の現業.非現業の区別をなくし、公務員として法で拘束し、団結権.団体交渉権を制限する、又、争議行為.政治活動を禁止し、待遇問題については、政府に勧告する機関として、臨時人事委員会を人事院に改組し拡充する」という骨子になっていた。
12.2 首席黒田寿男とする労働者農民党結成。その宣言では、現下社会党指導者は勤労大衆を欺いており、ブルジョア第三党に転落したときめつけ、他方日共を独善的偏向を持ち極左的闘争主義の傾向が見られるとして排し、新しい社会主義政党の結成を目指す、としていた。この時の党綱領を起草したのが対馬忠行であり、対馬は後にトロッキーの紹介に努める事になる。
12.3 「国家公務員法」が公布施行された。 これ以降、国家公務員には争議権がなくなった。
12.7

「昭電疑獄事件」で芦田均前首相逮捕。芦田首相も逮捕されることになる。前首相が逮捕されると云う空前のことが起こった。(前首相の逮捕は、1885(明治18)年12月22日に日本の内閣制度が発足して以来初めて)→16日起訴=当時検察では若手検事が台頭しており、「政権から完全に独立した正しい検察庁を俺たちが作るんだ」という気運があった。以後もロッキード事件の田中角栄の例があるのみである。この背景には、GHQ内の民政局(GS)と参謀第二部(G2)の対立があり、G2側からの巻き返しの一環として圧力があったとも取り沙汰されている。

12.10 世界人権宣言。
12.11 トルーマン米大統領は、デトロイト銀行頭取ジョセフ.ドッジをGHQの財政顧問に委嘱した。
12.18 アメリカ政府が「日本経済安定9原則」を指示。日本経済のドル支配体制への組み込み、日本独占資本の復活をいそぐ。
12.23 衆議院本会議内閣不信任案を可決→衆議院解散(憲法第69条第7条解散)=『なれあい解散→ '49年1月総選挙→与党=民主自由党大勝→吉田『ワンマン』=独裁者という和製語。東大教授宮沢俊義は、 '48年11月8日付『朝日新聞』で「国会の解散は、第69条でできるほか、第7条によってもできる」と主張した。その理由は「第7条は天皇の国事行為として国会の解散を認めており、それは内閣の助言と承認に基づいて行われる。したがって解散権は内閣にある」というものであった。これに対して '48年11月12日GHQ民生局長(GS)ホイットニーは、片山哲に対して国会の解散は、第69条によってのみ行われるとの談話を発表し、第7条説は旧天皇制の思想につながると反論した。法務庁法制局(現内閣法制局)は「解散権は内閣にあり」との解釈を確定→松岡衆議院議長は、「日本国憲法第69条及び第7条により解散する」という解散詔書を朗読。
12.23 東条英機ら7被告に東京・巣鴨拘置所で絞首刑執行。
12.24 A級戦犯」容疑者を釈放する方針を決めた。これに伴い岸信介.児玉誉士夫ら19名が巣鴨拘置所から出獄した。
この年、女性のロングスカートが流行。  この年、男性のアロハシャツ・リーゼントヘアが流行。この年、日本脳炎で死者2620人。


【平野派が社会党離党】

 農相を罷免された平野は、1.5日、全農派議員16名の名を連ねて社会党離党声明を出した。鈴木善幸、土佐の佐竹晴記らが従っていた。この結果、社会党の衆議院議席は124と減じた。野党の吉田・自由党の議席121と比べて、その差3となった。この後も平野問題は片山内閣の頭痛として尾を引いていくことになった。


 1月、社会党支持の総同盟が中央委員会で、「組合民主化運動に関する決議」を採択。


【占領政策の転換】

 「アメリカは、戦後の初期には、蒋介石の国民党が支配する中国をアメリカ帝国主義のアジア支配の拠点にしようとし、その見地からも日本の弱体化をはかって民主化政策をすすめてきたが、中国革命の前進、世界と日本の平和、民主主義と社会主義の勢力の前進に直面して、アメリカ帝国主義は、日本をかれらの世界支配の重要拠点としてかためる政策に転換し、反動支配体制の強化にのりだした」(「日本共産党の65年」)。

 1.6日ケネス.ロイヤル陸軍長官は、サンフランシスコのコモンウェルス.クラブで演説を行い、「日本を共産主義に対する障壁に育てねばならない」と発言した。占領政策の全面的再検討の必要ありとする要旨であり、当時のアメリカの対日政策の転換を物語っていた。概要「戦争機構(軍事.産業)建設に有能であった実業指導者は、日本の経済復興にも寄与するだろう」、「我々は、自立すると同時に今後、極東に生ずべき他の全体主義戦争の脅威に対する制止役として役立つほど、充分に強く且つ充分に安定した自足的民主政治を日本に建設するという、同様に確固たる目的を固守するものである」と締めくくられていた。

 48年になると冷戦構造が朝鮮に波及した。北部にソ連邦の支持する朝鮮民主主義人民共和国が、南部にアメリカの支援する大韓民国が成立した。この後この分断がアジアの火薬庫になっていくことになる。こうした国際環境の変化により「GHQ」の対日占領政策に明らかな変化がみられることになった。日本をアジア支配の重要軍事拠点=「アジアの反共の防壁」として位置づける対日従属化政策が押し進められることになった。日本経済産業の自立化を促進し、全体主義的戦争の脅威に対する制止役、反共の防波堤を期待することとなった。

1.8日マッカーサー元帥は、ウエップ裁判長とキーナン主席検事を総司令部に招き、東条尋問の経過を聞き、東条の責任の明確化と天皇の免責つまり不起訴を確認した。この時のことをキーナンは次のように回顧している。「天皇を裁判から除外するということは、連合諸国が政治的見地からした決定であり、検察当局のあずかり知るところではなかった」。

 3.1日政策企画室室長ジョージ.F.ケナンは、来日してマッカーサーと意見交換し、「これ以上改革を促す立法を押しつけてはならぬ。重点は、改革から経済復興に移されるべきである。追放は緩和し、次第に減少させ、遠からぬ時期に停止すべきである」(「ジョージ.F.ケナン回顧録」)と提言した。対日支配の確立と、日本の軍事基地化の推進、日本の反動的支配層と日本独占資本を目下の同盟者として育成する政策を露骨にすることとなった。この政策転換は「ポツダム宣言」の蹂躙であり、仮面をかなぐり捨てて民主革命の正面からの敵対者として仁王立ちすることとなった。以降この方向が具体化され、10.7日国家安全保障会議は、「アメリカの対日政策についての勧告」を決定した。その要点は、日本をアメリカの冷戦戦略ないに組み込むことにあった。


 この頃よりGHQ内の「民政局GS」 .「参謀第二部G2」の勢力争いの観が生まれている。


【社会党左派「五月会」の結成】
 この当時、社会党左派は五月会をつくっていた。主要メンバーは、鈴木、加藤、松本、稲村順三、安平鹿一、赤松勇、田中松月、武藤運十郎ら。70名前後が結集していた。中間派の旧日労系は時局懇談会をつくっていた。浅沼、永江一夫、加藤りょう造、西村英一、菊川忠雄、河野密らが集まっていた。

【社会党第三回党大会】

 1.16日、社会党第三回党大会開催。左右の対立で大荒れとなった。「4党政策協定を破棄する」という左派の緊急提案が、366対345票という僅差で可決された。片山内閣の足元を揺るがす大事件となった。政府が追加予算財源確保のために予定している鉄道料金、郵便料金の値上げ反対も決議した。この決定もまた予算審議における政府の立場を困難なものにした。

 この頃森戸−稲村論争が党内に発生している。森戸は、万年野党根性を排し、政権の座を積極敵に利用して現実的な諸政策の実現に取り組むべしとした。左派を野党的心理と公式的社会主義的な考え方である、現実的な社会主義の党への脱皮をせねばならふと批判した。これに対し稲村は、少なくとも社会党のイニシアティブ−で連立内閣を運営すべきであり、そうならないのであれば連立の意味がないと主張していた。これに加勢して鈴木茂三郎は、連立の要件には「あくまで社会党そのものの主体性が確立し、社会主義政党としての立党の精神に立って、真に党一本の姿として連立に参加することが必要」、概要「社会党の政策が政府の政策をリードし得るような連立の仕方でなければ意味が無い、社会党に筋金が入らなければ保守政党の為の防波堤的役割を演ずるに過ぎない」とした。いずれにしても今日的命題でもある。


【朝鮮学校の閉鎖通達と反対闘争】
 1.24日、日本政府は朝鮮人学校の閉鎖、生徒の日本学校への転入を各都道府県知事に通達した。三日後、「朝連」は第13回中央委員会で反対を表明、3.1独立闘争記念日に合わせて民族教育を守る戦いを全国展開するよう訴えた。4.23日大阪城を間近に臨む大手前公園で朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。7000名余りの群集で膨れ上がった。共産党関西地方委員会もこれを全力で応援した。16名の代表が選出され、大阪府庁舎で知事交渉に臨んだ。交渉は進捗せず、午後三時過ぎ群集がどっとなだれ込んだ。米軍、武装警官がやってきて乱闘が開始された。朝鮮人側に死者1名、負傷者20名、警官側に負傷者31名が出て、179名が検挙された。こうした戦いは以降も各地で発生した。4.24日の神戸で発生した同様事件「阪神教育闘争」では「GHQ」兵庫県軍政部の介入によって非常事態宣言が発せられた。京阪神の朝鮮人1572名が逮捕され、4.26日にはこの闘争を支援していた共産党員、組合幹部ら133名が検挙されている。

 
結局、5.5日の朝連教育対策委員長と文部大臣折衝で、「教育基本法と学校教育法を遵守する」枠内で、「私立学校の自主性の範囲内で朝鮮人独自の教育を行うことを認め、私立学校として認可する」覚書が勝ち取られた。こうして朝鮮人学校は存続することになった。いわば、史上初にして最後の「GHQ」による非常事態宣言を招来させるほどの闘争を遂行した結果勝ち取られた成果であった。この当時の闘争は次のように回顧されている。「あの時は、共和国の樹立は間じかだったし、玄界灘を隔てて祖国とつながっているという実感がびんびとあつたよ。毎朝、わくわくするような思い出新聞を開いていたよ。今ここを全力で走り抜ければ解放が勝ち取れると思っていた。短距離走だね。だけど、やがてそれが中距離走になつて、いつのまにかマラソンになつたよ。そして、今はゴールが見えない−−−」(余利慶)

 南朝鮮を廻る動きとして、47年頃に米ソ共同委員会が無期休会され、「信託統治案を廃し国連監視下に総選挙を実施する」との米国案が国連総会で決議され、その期日が48.5.10日と定められていた。南朝鮮人民はこれに抗議し、2月「三日間ゼネスト」を打った。これに米軍と右翼テロの弾圧が襲い掛かり、数万人が検挙され、死傷者数千人が発生した。


【東大「新人会」の動き】
 「新人会」の流れは翌年48年まで続く。渡辺らの活動に反対の党員からの連絡により、48.1.30日当時中央の統制委員会の責任者だった宮顕も参加する細胞総会が開かれた。48.2.7『アカハタ』報道の『日本共産党決定・報告集』によると、細胞総会には約80名が出席して、会の今後の方針を協議した。席上、渡辺らの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められた」ものの、除名処分に関しては「賛成27、反対26、棄権3」であった。「除名処分に反対した人たちの意見を調べてみると、事実は除名にあたいするが、しかしながらその当時は組織も弱かった、指導部の人たちも関係しておったのであるから情状をくんでやって、離党をすすめればよいという」状態であった。さらには、「こんなわかりきった規律違反に対して、なぜ相当数の人々が反対するかというと、もし除名して新人会の運動に圧迫を加えるなら党や細胞のいろいろなことをバクロするというすてぜりふを中村、渡辺がのこしたので、要するに後難をおそれた」(48.1.8『アカハタ』)と指摘されている。こうして大衆討議の結果、非民主的ボス性を除去することになり、渡辺、中村は脱退した。

(私論.私観) 宮顕−渡辺関係の通底について
 
 党中央を掌握した「六全協」後に見せる宮顕は党員の非を責めるのに非情なまでに冷酷であった。それを思えば、この気の渡辺に見せる温情は何なんだろう。むしろ宮顕−渡辺には底流で繋がりがあると窺うべきではなかろうか。その後読売新聞社長に君臨した渡辺と宮顕率いる日共の親密な関係を思えばあながち勘ぐり過ぎではなかろう。 


 3月頃、党本部に学生対策部ができた。青対部長宮本顕治、部員御田秀一、東京都担当者木村三郎という顔ぶれとなった。

【マッカーサー米国で大統領選予備選挙に立候補し敗退する】
 この頃マッカーサーは米国大統領選に出馬している。マッカーサーの祖父が副知事を勤め、父親も退役後に住んでいたウィスコンシン州で名乗りを挙げた。3.9日、ウィスコンシン州予備選挙に共和党大統領候補として立候補したが、27名の代議員のうち8名しか獲得できずに惨敗した。マッカーサーはあきらめず闘いを続行したが、ネブラスカの予備選挙でも5位に終わり断念した。帰国せずの選挙選であっことや、ウィスコンシン州の選挙戦で上院議員のジョセフ・マッカーシーがなりふり構わぬ攻撃でマッカーサーを非難し、同性愛者ではないかとほのめかしたことや、他にも強い反対勢力が存在したことにより敗北したものと思われる。

 「回想録」の中で次のように書かれている。
 「日本の占領が順調に進んでいる間に、世界の他の地域ではいろいろな事が起っていた。米国では、共和党大統領候補指名の運動の真っ只中に突然、私の名前が登場していた。私は候補者ではなく、立候補運動をすることも断わった。またもや一国の首班になりたいというような気持ちは、私にはさらさらなかった。その仕事は日本占領だけでもう十分だった。政界に顔を使われるのを断わることについて、もっとはっきりした態度を示さなかったのは私の大きな間違いであった」。

 3.17日、チャーチル首相の音頭で、西ヨーロッパ連盟(WEC)が誕生する。チャーチルの娘婿のダンカン・サンディスが会長、ジョセフ・H・レティンジャーが事務総長。ジョセフ・H・レティンジャーは、イエズス会神父にしてフリーメーソンの第33階位で、NATОを創設することになる。


【この頃の学生運動】
 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第1期」に記す。

 6.26日、授業料値上げ反対ストで学生運動史上初の全国ゼネストとなり、114校、約20万人が参加した。日本の学生運動史上初の全国ストライキとなった。この運動の流れで「全日本学生自治会総連合(全学連)」の結成決議が為された。この闘争の過程で共産党の学生細胞が全国の大学.高校に誕生し、拡大強化した。早大共産党細胞がこの闘争で入党者を急増させている。共産党はこの頃約5千名の学生党員より成る約300の学校細胞を組織した。

【「民主民族戦線」の呼びかけについて】

 この頃党は、2.6日党は「通算第9回中央委員会総会」を開き、片山内閣に対して、「深まる人民生活の破綻と産業の荒廃は、もはや片山内閣を持ってしては救えない」、「わが党人民大衆と共に、片山内閣の即時辞職を要求し、断固たる内閣打倒の党争を宣言する」との闘争宣言を発した。  

 「第9回中央委員会総会」では、従来の「民主人民戦線」方針を見直し、民主主義と民族独立を保障し民族を破滅からすくう「民主民族戦線」の結成の方針を決定し、各界に働きかけることになった。「民主民族戦線」は次のように定式化された。「民主民族戦線は民主主義の徹底と人民生活の安定と向上、民族の自由独立の方向で一致する限り、日本のあらゆる階層と手を携えて進む共同の大戦線である」、「民主民族戦線政府のスローガンは人民の為の自主復興、世界平和の大目的の運動である。それは新しい人民の国家建設の大運動である」(「アカハタ」主張「現政局と民主民族戦線」2.17)。

 「民族の独立」というテーマがこの時期に端源を発している点で注目される。なお、統一戦線理論に設けられていた統一基準が大幅に緩和された方針であることが知れる。この方針に則って3月には社会党に「民主民族戦線」の結成申し入れを行い、「社共合同運動」を展開した。


【片山内閣総辞職】

 2.5日、予算委員会において、与党の内部分裂によって、昭和22年度補正予算の政府案が否決された。委員会の委員長は社会党左派の鈴木茂三郎であり、積極的可決に尽力するどころか曖昧な態度を取った。公務員に0.8ヶ月の生活補給金を支給するが、その財源を国鉄運賃と郵便料金の値上げで賄うとする政府案に対し、「この政府案は、公務員組合と国民の利害を衝突させる陰謀だ」という声が生まれ、鈴木委員長もこれに同調し、予算委員会が野党と社会党左派だけで定足数を満たすと、さっさと開会を宣言し、冒頭、社会党左派の黒田寿男が「政府案を撤回し、組み替えの上、本委員会の審議を求むべし」との動議提出が為され、賛成23、反対1でこれを可決し、政府案を否決した。この時、委員会に出席していたのは与党では社会党左派、野党の自由党委員だけであり、民主、国協、社会党右派委員は控え室に居たままであった。

 社会党左派の鈴木茂三郎は、与党の予算委員長でありながら、政府の追加予算案に反対するという不可解な対応を執ったということになる。この、まさに社会党左派のクーデター的反乱が片山政権崩壊の引き金を引いた。この背景には、「安本」と大蔵省の対立、社会党左右両派の対立があった。

 片山は社会党内の左右対立の現状における政権維持の困難さを判断し、右派は左派排除論を展開し、左派は予算委員会でとった態度は党大会決定に従ったものであったと反論した。この時のことを西尾氏は次のように回想している。「左派の雇う宣言以来、左派の倒閣運動はもはや与党の同士としてこれをみることが不可能なところまできている。こんな状態では、とても連立内閣の重責を背負っていくことができない。この際は、むしろ潔く政権を投げ出し、党内の左派問題を処理することに専念する方が賢明である、と私は考えるに至った。そして、その旨を片山総理に進言した」。

 片山首相は容易に決断しかねたが、「もう桶のタガがガタガタになってしまったからなぁ」と時局を受容していくことになった。総辞職の要因のもう一つの理由として、「GHQ、マッカーサー司令部の極東政策に関する変化が、私に辞任を決意させる大きな理由になっていた。即ち、だんだんと、GHQ内部の情勢が変わってきて、日本にも軍備を持たしめよう、その軍隊は海外派兵をもさせられるかも知れないような情勢になってきたということは軽視できない重大な変化であり、その片鱗が現れ始めたことを、私は察したのである。‐‐‐私としては元来絶対に平和を愛好し、戦争放棄を尊び、この憲法を忠実に実行したいと誓約をしていたのだから、それを自分で変更するが如きは、とても忍び得ないことであると考えたのである。というわけで、退陣を決意した次第である」(「回顧と展望」)。但し、この説に対しては、西尾氏や都留重人氏は懐疑的で、モウロクボケの云わしめたことではないかと反論している。真相は不明であるが、非公式打診としてマッカーサーから片山首相に伝達が為されていたと云うのが実際に近いようである。

 2.9日、片山は臨時閣議で翌10日をもって内閣総辞職をすると発言し、閣僚全員の辞表をとりまとめた。こうして片山内閣は、わずか9ヶ月で崩壊し、自らの予算を一度も編成することができないまま2.10日、総辞職となった。社会党内の左右対立がもたらした満身創痍の野垂れ死にとなった。

 その旨をマッカーサー元帥に報告に行った片山が、元帥に「なぜ辞めるのか。もう一度やってみてはどうか」と繰り返し慰留したというエピソードが伝えられている。
最終的に特別声明を出し、「片山首相とその閣僚は小塚に良心的な、そして愛国的な指導を与えてきた」と賛辞を贈っている。


 片山内閣は、内閣の諸経費を切り詰め、交際費(機密費)を止め、宴会も殆ど中止した。待合料亭政治も一掃した。しかし、政権を維持し、責任与党としての気概で情況を切り開く能力を逸していた。どちらが大事かというと論を待たない。


(私論.私観) 片山内閣の史的総括について
 奇妙なことに社会党自体が片山内閣の総括をしきれていないのが今日に至る病である。片山内閣がなぜ短命に終わったのか、その限界がどこにあったのか、その政策に見るべきものがなかったのかを再検証することこそ、次期の政権担当能力を身につける一里塚であり、それを為し得ない社会党の脇の甘さがその後の運命を決定つけたように思われる。

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように総括している。片山・芦田両連立政権の果たした役割」の見出しで、「果然、片山首相の組閣第一声は『国民の皆様にはこのうえにも耐乏の生活を続けていただきたい』というもので、労働者人民の期待を全く裏切るものであった。そして、片山内閣が最初に打ち出した政策が『新物価体系』なるもので、これは物価を戦前(1936年)の65倍とし、賃金は27倍とする、つまり実質賃金を半分以下に抑え込むというひどいものであった。

 一方、社会党の一枚看板であった炭坑国家管理法案も資本家と結託したブルジョア政党の反対で骨抜きにされてしまった。これは鉄や石炭などの基幹的な生産財やエネルギー資源に国家資金を投入して生産を増強し、それをテコに経済復興を図ることをめざして採られた『傾斜生産方式』の一環で、中小資本の多い石炭については国有管理に移すというものであった。しかし、成立した法案は国管とは名ばかりで、経営権を資本家の手に残したまま、国家資金を湯水のように注ぎ込むことで、彼らに莫大な利益を保障するものであった。

 こうした中で、労働者の怒りの高まりに押されて、この年の暮れには鈴木茂三郎、加藤勘十、山花秀雄、岡田宗司ら左派『五月会』の面々は『われわれは現連立内閣に対して批判と行動の自由を留保する』と『党内野党宣言』を発するに至った。明けて48年2月10日、官公労の生活補給金0.8カ月分の財源を国鉄運賃と郵便料金の値上げでまかなうという補正予算案が鈴木を委員長とする予算委員会で否決されたことから、片山内閣はわずか8カ月であえなく瓦解してしまった」。

【芦田内閣の成立】

 片山内閣の崩壊を受けて、自由党は「派憲政の常道からすれば、次期内閣は野党第一党の自由党が担当すべきである」と出番を主張したが、「片山内閣は社会党の党内事情によって行き詰まったのであって政策的に破綻したものではないから、依然として政権担当能力資格がある。新憲法下では、国会で多数の指名を受けた者が首班に就くべきである」と切り返し、民主党の芦田総裁と社会党の西尾氏の取引によって政権を自由党に渡さず、民.社連立内閣が構想されることになった。 

 2.21日、衆議院で指名投票が行われ、芦田216票、吉田180票で、芦田首班を決定した。但し、参議院では、吉田104票、芦田102票となり、吉田が指名されるという事態に陥った。両院の指名が食い違った場合には、両院協議会が開かれ三分の二の獲得により決定される規則であったが、表決の結果両氏とも至らなかった。結局、憲法第67条の衆議院の優位性により衆議院の議決が優先されるということで、芦田が次期首班になることとなった。この経過で、社会党左派は自由党吉田との連携を見せている。つまり取り込まれたということであるが、相当の工作資金が飛び交っている。この史実は、社会党左派の本質を見極める上での重要事であろう。

 芦田の組閣工作が始まると同時に社会党に対する組閣協力要請が為された。この受け入れをめぐって左派はこの過程で、連立を良しとする加藤、同シズエ、野溝勝、安平鹿一らの「現実左派」と、野党化を主張する鈴木、黒田、原彪らの「純正左派」の対立を見て、五月会内部が分裂した。結局、「現実左派」が大勢をリードすることとなった。芦田の組閣工作は二週間を経過して遅遅として進捗しなかった。3.3日森戸論文「政局危機と社会党の態度」が「社会新聞」紙上に発表され、政権責任与党に向かうべし論をぶち上げた。

 ようやく3.3日、民.社.協三党の政策協定委員会が開かれ、協定が成立した。自由党は野党宣言をし、再び下野した。
こうして3.10日、後継として民主党総裁芦田均を首班とする第47代内閣となる芦田政権(48.3.10〜48.10)が成立した。片山内閣退陣から一ヶ月目であった。この内閣も又民主党.社会党.国協党三党による連立内閣であった。閣僚の配分は、社会8、民主6、国協2となり、社会・民主対等の7.7から8.6へと社会党ポストが増加した。これは、民主党が幣原派の脱党での議席132から83に減っていたことに因る。

 民主党は、首相・外相芦田均、官房長官・国務省・苫米地義三、蔵相・北村徳太郎、厚相・竹田儀一、安本長官栗栖赳夫、建設院総裁・一松定吉の6名。国協同党は、運輸省・岡田勢一、賠償庁長官・船田亨二の2名。

 社会党からは、副総理・西尾末広、商相・水谷長三郎、法相・鈴木義男、文相・森戸辰男、農相・永江一夫、逓相・冨吉栄二、労相・加藤勘十(社会党左派)、国務省・地方財政委員長・野溝勝(社会党左派)の8名が入閣した。社会党左派も入閣したことになる。

 但し、鈴木茂三郎は入閣を是とせず、先の森戸論文に答えて、「社会党の進むべき道−森戸辰男氏の論稿に寄せて−」を同じ機関紙「社会新聞」に発表している。その骨子は、連立に加わることによって党の主体性が損なわれてはならない(主体性の確立論)、階級闘争の観点を失してはならない、「党に筋金が入らなければ、社会党は保守党の為に防波堤的役割を演ずるに過ぎない」、野党として足腰を鍛えよう等々と主張していた。

 片山内閣同様「GHQ」内の民政局系(ホイットニー局長、ケージス課長)の強い支持を受けていたとも云われている。「芦田内閣を、頭のてっぺんから靴の先まで支持する」と激励があったと、芦田首相自身が語っている。


 芦田内閣は、「外資導入」を第一義的な政策に掲げた。次に、2920円ベースによる新物価体系の作成にとりかかっている。

 芦田政権は弱体ではあったが、この政権下で多くの重要法律が制定されている。中小企業庁設置法、石炭庁設置法、国家行政組織法、建設省設置法、海上保安庁設置法、水産庁設置法、教育委員会法、日本学術会議法、地方財政法、検察審査会法、軽犯罪法、警察官職務執行法、経済調査庁法等々を成立させている。


【産別から民主化同盟の動き】

 2.13日、産別から放逐された細谷らは突如として「産別会議民主化同盟」(民同)を旗挙げした。全逓・印刷・電工・電産・機器・港湾・日映演・車輌・化学・生保の各単産の有志と、中立系組合有志約60名が結集していた。

 民同は、1・労働組合の独立自主性を主張し政党の組合支配の反対を標榜、2・共産党フラクションの指導の排撃、3・従来の如く資本家の欠点のみを指摘してきた生産闘争をあらため、今後は労働者の責任も追及し職場秩序の確立をはかる、という3項目を旗印にしていた。

 2については「共産党を排撃するものではなく、共産党フラクを排撃し、組合民主化を確立」すると宣言していた。いわゆる「組合民主主義」の確立とこれによる総同盟、中立を問わずの労働戦線の統一を目指すことになった。

 イデオロギー的には、生産復興闘争における「資本家にも責任を負わせ、自らも責任を取る」立場での労使協調路線を採用していた。民同は結成当初よりGHQの物心両面の援助を得ており、政府.資本家からの資金援助も受けていくことになった。これが戦後労働運動の方向転換ののろしとなった。「民同の誕生はまた、50年代以降、左右両派に分解しながらも、いわゆる『ニワトリからアヒル』への転換を生み、60年代に至る総評の運動を形成していくことになる」(田川和夫「戦後日本革命運動史」1)。

 この時徳球書記長は、いかにも徳球らしい対応を見せている。概要「フラク会議は秘密主義であった。フラク下部党員が労組の指導者であるところから飛び出して、労働組合の意志を独裁的に決める態度に出ているところもある。浅い経験からフラク活動の行き過ぎのあったことは認める。以後はこれを是正して公開、多数決主義を取れいれていく」(48.3.2日「共産党議員団と全労連の懇談会での席上発言」)と述べ、「産別民同」の動きに対して素直に反省の弁も為している。

 この民同の旗挙げと前後して、産別労組内に分裂工作が進行し始めた。産別金属内に反共組織が誕生、国鉄にも反共連盟、電産にはみどり会、全日通には白通会、全逓にも民主化連盟等々がつくられていった。総同盟も民主化運動を展開していた。

(私論.私観) 「民同をどう観るか」について

 「民同をどう観るか」について、田川和夫氏は、「戦後日本革命運動史1」で次のように記している。
 
 「民同とは、共産党排撃の合言葉であり、そのような運動に対する総称である。そしてまた、共産党フラクに対立する社会民主主義者の組合フラクであった。(勿論、社会党の組合対策として民同が生まれたというより、民同の誕生によって彼らが社会党に入党していったのだが)しかもそのような運動を統一していく理念が反共主義であり、組合主義である以上、どのように共産党の誤謬を現象的に批判しようとも、このような民同の誕生は戦後革命を敗北させようとする帝国主義の攻撃の一側面を為すものであった。白を黒という共産党に対して、白を白ということは誰でもできる。だがそういったからとて共産党の誤謬を根底から乗り越えることにはならない」。

 「一連の組合の分裂と民同の形成とは、いうまでもなく、GHQの労働政策に沿ったもの、換言するならば、占領下における合法主義的な組合運動を形成することを意図したものなのであった。つまり、民同の結成は、2.1ストの中で最も鋭く露呈したように、労働者階級の闘いがアメリカ占領軍との公然たる対決を先鋭化させながらもその爆発を回避した時点で、再びそのようなストライキ闘争の爆発の中に労働者の闘いが組織されないように、『占領』という合法の枠の中に引きずり込む運動だったことは今更云うまでも無いことだ。アメリカ帝国主義が冷戦政策に転換していくにあたり、たとえ、共産党が『解放軍規定』に固執し、労働者の闘争を武装解除していっているとはいえ、やはり、共産党が労働運動の主導権を握っている場合には再び2.1スト的情勢が産み落とされるかも知れない、という帝国主義にとっての危機感がまた民同発生を助ける労働政策となって現われたというべきである」。

【この頃の労働運動「3月闘争」】

 芦田政府の2920円ベース闘争が始った。まず2.20日前後の頃より国鉄、続いて全逓、全財、教員組合へと広がった。芦田内閣は、2・27日の閣議で、サボを含めて全ての争議行為の処弾を決めた。これが労働者を逆に刺激した。全逓全組織が核となり、全官公労、電産、全日通、炭労、全炭、全繊同盟へと広がっている。いわゆる「3月闘争」が発生した。

 「3月闘争」の詳細は「戦後日本労働運動史」を参照するとして、2.1ゼネストの挫折後の労働運動の実態として「この3月闘争こそは、敗れたりと云え、1940年代の−2.1ストにも勝って−最も階級的な闘いであった」、「なるほど『3月闘争』は敗北した。しかしこの敗北は、2.1ゼネストの中止とも、また翌49年夏の闘わざる壊滅とも異質の、名誉ある敗北、あるいは革命的敗北と呼びえるものであったと思う」と安東氏の「戦後日本共産党私記」では高く評価されている。

 「3月闘争」は、3月中旬を過ぎた頃から一部組合が妥結していった。「3月闘争の再度の挫折は、戦後革命を押しつぶす楔を打ち込ませる重大な契機となっていった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)
この背景に、野坂の「政治的融通性を説いてベース賃金受け入れの勧め」があったとされている。他方で徳球書記長は、3.26日の中総で「大衆団体依存主義、組合第一主義がやはり抜けていない。党は大衆団体の後に隠れて、公然と活動もせず、党員も増えていない」と自己批判している。徳球急進主義−野坂穏健主義の特徴が良く現れている。


【ケナン米国国務省要人が来日、マッカーサーに対日政策の転換を促す】

 2月下旬、ジョージ・F・ケナン米国国務省政策企画本部長が来日し、マッカーサーと膝詰め談判している。ケナン氏は「封じ込め政策」を推進しようとしており、この観点からマッカーサーの従来の政策を根本的に否定していた。47.10.14日にマッカーサー宛に次のような要旨の文書を提出している。

 「世界の情勢を見渡してみると、この時点における我々の最大の危険、最大の責任、そして最大の可能性をはらんだ舞台は西ドイツと日本という二つの占領地域であることが、まざまざと我々の目に映ってきた。この両地域は、東と西における最大の工業基地群の中核であった。この両国を共産主義の圏外に確保し、その巨大な資力を、建設的な目的の為にフルに活用できるようにすることが是非とも必要であった」。
 概要「(にも関わらずマッカーサーは国務省の助言に耳を貸さず)マッカーサー総司令部が遂行してきた占領政策の本質は、ざっと見るだけでも、日本の社会を共産主義の政治的圧迫に抵抗できないほど弱いものとし、共産主義者の政権奪取への道を開くことを目的にして立てられた政策の見本のようなものでしかないことが分かった」。「その後、マーシャル国務長官と何回か話し合った結果、私自身が準備でき次第日本に赴いて、全体の問題を直接現地で検討し、困難でデリケートな問題をマッカーサーと具体的に話し合うこととなった」。

【この頃の人民闘争】
 3月、徳球書記長は、中央委での報告で次のように述べている。
 「人民闘争は、職場闘争あるいは部落、隣組みから出発しなければならぬ。職場闘争は決してゆきづまらない。それは常に新しい問題を生み出し、漸次高い段階に進んでゆく。同時に職場闘争は横に拡大されねばならない。一職場から他の職場へ、一企業から他企業へ、労働者から農民、市民へ」。

 つまり、職場での対職制との闘争から闘いを積み上げ、地方権力の樹立を視野に入れた地域闘争として展開せねばならぬと指導していることが分かる。

【文化人の共産党入党相次ぐ】
 この頃文化人、知識人の入党が相継いでいる。東京大学ギリシャ哲学教授出隆。作家の森田草平.藤森成吉.野間宏.武林夢想庵、哲学者梅本克巳、山形高校教授小松摂郎、歴史家服部之総、画家内田巌、彫刻家本郷新、地質学者井尻正二。

【東宝争議】

 4.8日、1200名の首切り発表に反対する日映演東宝労組は、4.17日無期限ストライキに突入した。「撮影所という華やかな場で行われた労資両勢力の決戦」となった。以降、労組員は砧の撮影所内に立て篭もり、以来8.19日の武装警官2000名、米軍戦車7台、飛行機3機、騎兵隊1中隊が出動した仮処分の執行の日まで闘いぬかれる事になった。「来ないのは軍艦だけ」と言われた弾圧が強行され、話題を撒いた。著作として、「『天皇』と呼ばれた男」(宮島義男著、山口猛編、愛育社)等がある。


【資本の攻勢】

 4.12日、経営者団体連合会(経営連合)が改組して「日本経営者団体連盟」(日経連)が結成された。諸井貫一代表常任理事。結成宣言は「経営者よ、強かれ!」。ここまで労働攻勢に押されて来ていた経営者側が、占領政策の転換もあって立ち直ったことを指標しているように思われる。

 当時日経連内部では、労働組合との関係をめぐって喧喧諤諤の論争が発生していた。対強硬派は品川白煉瓦社長青木均一、日清紡社長桜田武、東宝社長渡辺、保土ヶ谷化学社長磯村らであった。これに対し、対穏和派は日本特殊鋼管社長大塚万丈、日鉄社長三鬼隆、秩父セメント社長諸井貫一らであった。


【民主自由党結成される。日本自由党に民主クラブが合流】

 3.12日、幣原率いる同士クラブ28名は斎藤隆夫派らの無所属議員8名を加えて民主クラブを結成していた。
 5月、この民主クラブ36名が、吉田茂が率いる日本自由党112名に合流、その他を加えて152名で民主自由党(総裁吉田茂、幹事長山崎猛)を結成した。第一次保守合同と云われる。この時、民主クラブは日本自由党の僅か四分の一勢力でしかなかったが、吉田は対等合併の配慮を見せている。この民主自由党が大発展していくことになる。

 この時田中角栄は、党選挙部長、県支部幹事長の役を引き受ける。田中は、異能異才を発揮し、選挙事情を網羅した全国選挙地図を作成している。議員の生年月日、学歴、家族構成、人脈、資金力、選挙区の人口構成、有権者数、支持率、その地区の産業構造、所得水準、選挙参謀の動きまで調べ上げていた。全国の選挙区の情報、情勢がインプットされたことになる。この合流劇の背景には、「社会主義は終わった。これから先は通らない。先の読めるのは保守党だ」との判断が働いていたと伝えられている。


 南朝鮮で、5.10日予定の選挙直前の5.7日より大量検挙が行われ、5425名が逮捕、350名が殺害された。このような事態の中で李承晩一派とごく少数の無所属が立候補し、選挙が強行された。この流れで、大韓民国政府がデッチ上げられることになる。
【イスラエル独立宣言】
 5.14日の夕刻、イギリス軍がパレスチナ撤退した直後の流動下で、ユダヤ国民評議会のメンバー300名がテルアビブの美術館のホールに集まり、デビッド・ベングリオンが先の国連決議に基づき国家独立を宣言した(「イスラエル国と称されるユダヤ人国家のエレツ・イスラエルにおける樹立」)。パレスチナの3分の2を支配(7%の土地しか持っていなかった民族が一瞬にして突如57%の土地を獲得した)することになった。

 ベングリオンは、ホールに掲げられたテオドール・ヘルツルの肖像の前に立ち、厳かにイスラエルの独立宣言を読み上げた。「我々、ユダヤ市民およびシオニズム運動の代表たる国民評議会は、イギリスによる委任統治が終わるこの日、自然的および歴史的権利、そして国連総会決議に基づいて、ここパレスチナに「イスラエル国」と号するユダヤ人国家の建設を宣言する。(後略)」

 独立宣言書のサインの筆頭には、ダビッド・ベングリオンの名前があった。(ちなみに、イスラエル第二代大統領のイツハク・ベンツビは4番目で、ゴルダ・メイヤは25番目。ほとんどはマパイ党かヒスタドルートのメンバーであり、イルグンのような極右組織のメンバーは勿論、ハイム・ワイツマン博士も独立宣言にはサインしていない)。初代大統領にはハイム・ワイツマン博士が就任し、首相にはダビッド・ベングリオンが任命された。

 当時の米大統領トルーマンは宣言のあと、わずか11分後に国連代表に通知せずに承認発表。大統領選でユダヤ人票を確保するためという動機であったとされているが、ユダヤ人ロビイストによるアメリカ政府への圧力が奏効したものと思われる。

 ソ連もアメリカ、グアテマラにつづき三番目の承認国となっている。スターリンがなぜこのような行動をとったかについては 明白でないが、イスラエルの成立はイギリス帝国主義の力が中東から後退すると読みこれを歓迎した、と考えられている。(概要は、パレスチナ問題を解くための歴史4、現代史篇1(イスラエル建国史)に記す)

【労働戦線の動き】
  6.12日、民同が第一回大会を開催。6.28日、総同盟が全労連から脱退。労働戦線は、共産党系の産別とそれに反対の民同.総同盟という対立の構図が形成された。 総同盟と産別民同は「全国労働組合民主化協議会」を結成する。この流れが翌年の全労会議準備会を経て総評結成の母体となっていくことになる。

【東欧諸国での血の粛清】

 6月、コミンフォルム第2回会議が開かれ、ソ連軍に依存せずに独力で人民政権を樹立したユーゴのチトー政権が非難され、ユーゴが除名された。それを契機に、東欧諸国において、30年代のソ連の血の粛清にも匹敵する粛清が強行された。この時以来、秘密警察政治がソ連から輸出された。ポーランド共産党書記長・ゴム二カ、ハンガリー内相ライク、ブルガリア副首相コストフ、ルーマニア共産党政治局員パトラスカヌ、チョコ共産党書記長スランスキー、チェコ外相クレメンティス、ブルガリア副首相などの東欧各国の共産党幹部が次々と「チトー主義者」の烙印を押され、投獄ないし処刑された。それ以来東欧の共産党と政府首脳は、ハンガリーのラコンに象徴されるような「モスクワ帰り」によって構成されていくことになる。(田川和夫「戦後日本革命運動史1」参照)


 6月、衆参両院が、教育勅語の排除を決議。


【昭和電工事件発覚】
 この頃開会中の第二国会では、不当財産取引調査特別委員会で、戦後復興過程での政財界の腐敗.汚職面が暴露されつつあった。5.26日、委員会に喚問された鉄道工業専務飯田清太は、前年の総選挙の際、土建業者が自由.民主.社会三党に献金し、社会党の西尾末弘書記長にも50万円渡したと証言が為された。いわゆる昭電事件の発覚となった。西尾氏はこの金を届け出していなかった。6.1日、喚問された西尾氏は、「書記長としての西尾個人が受け取った」と弁明し、認めた。

 並行して昭和電工事件に関連して戦後復興資金の不当融資の状況、その工作資金の使途が取り上げられ委員会が沸騰した。6.6日、関係者の逮捕が始り、6.23日、昭和電工社長日野原節三が商工省課長への贈賄容疑で留置された。この摘発はその後も続き、政界から官僚まで捜査の手が伸びていった。昭和電工事件で事情聴取された者は約2000名、逮捕者64名(うち現職国会議員10名)。裁判結果は、有罪2名のみ。

 6.24日、野党各派による西尾国務相不信任案が衆議院本会議に上程された。西尾氏は辞任要求を拒否し、この不信任案は209票対178票で否決されたが、社会党左派は粛党議員連盟を結成して、西尾の辞任を執拗に迫った。7.6日、西尾氏は副総理を辞任した。芦田連立内閣は大黒柱を失うことになった。

【昭和電工事件とは】
 昭和電工は戦前の財閥・森コンツェルンの有力企業で、戦後の財閥解体政策を受け、社長が森暁から日野原節三に代わった。日野原は中小企業から叩き上げ、日本水素の社長を経ての就任であった。やがて森一族と幹部社員を追い払い始め、愛妾秀駒こと小林峰子の経営する杉並の料亭で接待外交をし始めた。復興金融金庫からの不正融資を受け、昭和11.11月にその融資額6億3520万円、翌年9月に5億3520万円、12月には12億8420万円引き出していた。

 この事件を警視庁が捜査に入り、刑事部長・藤田次郎と捜査二課長・秦野章(後の警視総監、参院議員)が指揮を執った。しかし突然更迭される。秦野は後に次のように証言している。「GHQ高官達も、昭和電工からカネを掴まされていた。警察の担当ではGHQの悪事が漏れるとでも思ったのだろう。僕等は抵抗したが、突然転勤になった。捜査は完全に検察の手に移った」。その背景には、鳥居子爵夫人と毎晩のように派手に付き合うニューディーラー派のGS次長ケーディス大佐とG2の確執があったとされている。

 「自由民主党史」は次のように記述している。
 「こうした(昭和電工事件追求の)司法の動きの背景には、この頃の米国の対日政策の『改革から復興へ』という漸次的転換に伴って、それまでGHQ内で圧倒的な力を持っていた民政局に対抗して、G2(参謀第二部)を中心とする反民政局勢力が無視し得ない発言力を持つようになったという状況の変化があった。即ち、芦田連立政権の倒壊は、民政局とG2の権力争いによりGHQが全体として『指導力』を弱体化させてきたことを物語っている」。

 7月中旬、徳球は九州へ出向き、佐賀市の公会堂で演説中、反共団隊員の炭鉱夫から爆弾を投げつけられ負傷した。

 7月、教育委員会法公布。教育委員を住民が選挙で選ぶ公選制を採用。11月に各教育委員会が発足。


 7.28日、李承晩が初代の大韓民国大統領に就任する。


 8.15日、光復節の日、韓国政府の独立宣言。9月末、金日成が首相となる朝鮮民主主義人民共和国を宣布した。こうして、朝鮮半島にニ国家が誕生した。


【この頃の「天皇処遇問題」とマッカーサーの天皇処遇観】

 極東国際軍事裁判が結審しつつあり、それに伴って天皇の処遇問題が話題になりつつあった。カナダ政府代表のハーバート・ノーマンによって、この頃のマッカーサー会見記が残されており、この頃の5月から6月にかけて流れた天皇退位説に関するマッカーサーの貴重な言行が記されている。「私が最近の天皇退位の報道について尋ねたのに対し、マッカーサー元帥は、それは天皇を貶めるためには、どんなことでもする、左翼がかったアメリカの特派員のグループによるものだと答えました。もう一つの噂の源泉は、天皇がアメリカとあまりにも協調し過ぎて、彼らを見捨てたと感じ、不満を抱いている、パージになった人々や頑迷な反動主義者たちです。彼は、天皇には退位の意思は無いが、もしそうしたら、危険な空白を残すだろうと云いました」。

 「天皇には退位の意思は無い」とするマッカーサーの見解は他にも裏づけられている。当時、アメリカの全権公使だったW・J・シーボルト著「日本占領外交の回想」によると、10月の終わり頃の会見で「退位などということは大変愚かなことで、国民に対して大きな害を与えるということを忠告しよう」と語った、とある。この態度は、マッカーサーのみならずワシントンの立場もそうであった。

 この当時の天皇は、「もしも連合軍が望むのならば、喜んで退位するつもりでしたが、そうでなければ、現状を維持するつもりでした。マッカーサー元帥は、天皇に、これは人為的な事柄だつたのだから、退位の必要は無いといって安心させました」(ハーバート・ノーマンの1949.1.8日本省あて報告書)とある。


 8.4日、九州遊説中にダイナマイトで負傷した徳球書記長の歓迎大会が日比谷で開かれた。この時徳球は、「困難が来るごとに、新しい戦術をあみだして敵の意表に出ることは、全労働者階級の指導者としての共産党の天才のゆえんである」と見得を切っている。

【労働運動の高まりと「政令201号」】
 この時期労働攻勢は以前にも勝る規模と力量を見せていた。6月には全官公労と民間労組の共闘組織が作られ、6.25日には日農.婦人団体.学生団体も参加する物価値上げ反対人民大会が開かれた。あらゆる産業の労働者と社共の足並みが揃い始め政府は重大な危機に面した。

 この危機を見て取るやGHQがまたもや鎮圧介入に乗り出してくるところとなった。7.22日マッカーサーは芦田首相への書簡で公務員の争議禁止などを要求した。書簡は、前年10月に施行されたばかりの国家公務員法の改正を示唆していた。この背景にはフーバーの再来日が関係しており、フーバーは「施行された国家公務員法は、我々のミッションが作ったものと基本的に差異がある」、「公務員は全体の奉仕者であって、私企業労働者と区別されるべきで、スト権・団交権の否定は当然」との観点から全面改訂を要請していた。

 これをめぐってはGHQ内部で激論が交わされた形跡がある。フーバーとキレン労働課長が対立し、キレンはAFLの紙パルプ組合の副組合長からGHQ入りした組合運動育成擁護派であっただけに、「スト権はともかくとして、団体交渉権や調停、仲裁の権利まで奪うことは絶対に承服できない」、「日本の公務員労組の特殊性(全労働者の40%は官公労組員)を考えれば、公務員から団交権まで剥奪してしまうのはアナクロも甚だしく、共産党勢力の排除には決して役立たない」として、マッカーサー元帥列席の「御前会議」でもフーバーと対立し、延々7時間余の激論が交わされた伝えられている。マッカーサー元帥の最終的判断はフーバーを支持した。破れたキレンは労働課長を辞め、「石もて追われる」ごとく帰国していくことになった。

 7.31日芦田内閣は、マッカーサー書簡に基づき臨時措置法「政令201号」を公布施行した。この時の労働大臣は社会党左派の闘士・加藤勘十であるが、弱腰に終始している。こうして、全官公労働者(公務員)の団体交渉権と争議権と罷業権(ストライキ権)は剥奪されることになった。「政令201号」は即日施行されたが、わずか三か条の簡単なもので、概要「国又は地方公共団体の職員の地位にある者は、---いわゆる団体交渉権を有さず、公務員は何人といえども、同盟罷業又は怠業的行為をなし、その他国または地方公共団体の業務の運営能率を阻害する手段をとってはならない」というものであった。当時の労働大臣は社会党の加藤勘十であった。芦田内閣は「GHQ」の期待に応える能力が不足しているとみなされるようになった。


  「政令201号」に対し社会党はほぼ無抵抗の態度に終始し、総同盟.産別民同は、書簡を出すにいたらしめた原因は「共産党の極左主義」にあると党を攻撃した。併せて、「産別会議の暴走がこの結果を招いた」として産別会議を攻撃していくことになった。こうして、「政令201号」に対するリアクションが、その後の共産党フラクションに対抗する民同運動のさきがけとなった。

【国鉄の戦闘的労組が全国オルグ活動を展開】

 国鉄では、この時期、新ダイヤ実施に伴う機関車の一人乗車制反対闘争が継続中であった。北海道新得機関区分会はその他労働条件改善要求闘争をしていたが、6.17日、柚原秀夫分会闘争委員長が死の抗議自殺をした。この流れと「政令201号」反対闘争が結合されていくこととなった。

 8.5日、国労新得機関区分会は、文会員112名中の59名で「民族独立柚原青年行動隊」を結成し、「職場放棄」しての全国オルグ活動を組織した。この動きが北海道全土の機関区に影響を与えていった。遂に彼らは、津軽海峡を渡り、職場放棄を組織しつつ南下していった。これがきっかけとなって職場放棄が全国的に広がった。共産党がこの闘争を称賛し、「新しい型」の戦術として組織した。共産党指導の起死回生戦術であった。その結果、自分達が「経営管理」の位置に着ける日を待望しつつ1489人が職場離脱、そのうち1002人が免職、検束者584人にのぼることとなった。

 全逓もこの職場放棄闘争に取り組み、職場離脱者451人、逮捕状336人、検束者196人、免職者269人に及んだ。各地で武装警官との衝突が発生した。労働組合員が逮捕・投獄を覚悟し、武装警官の暴力に屈せず燎原の火の如く各地に闘争を沸き起していったこの経験は、その後無い。多大な犠牲者を生み出す結果となったが、組合運動を地域闘争に拡げた点と悲壮で勇気ある行動が人心を引きつけていった成果があったものと思われる。惜しむらくは、この闘いを指導する前衛党が不在であったことにある。

 8.26日、第3中総で、徳球は「この線に沿って非常な犠牲が伴う献身的精神が高揚したことは大きく評価しなければならない。職場放棄はその一つの現れである」と「職場放棄闘争」を激励し、「現在の闘争は、著しく階級意識を鮮明にし」、「階級闘争の激化に一段の発展をもたらしている。換言すれば、革命へのテンポが急速になったことを意味する」と鼓舞している。だがしかし、徳球のアジは空転させられていく。それが日本の党運動の一つのパターンでもある。 この時期の党の運動方針は「赤色労働組合主義」に則していたが、政治戦線や労働戦線を混乱させたともみなされている。


 8.19日、4月から首切り反対闘争に入っていた東宝砧撮影所労組に2000名の武装警官隊が襲撃し、仮処分が強行された。この時GHQの戦車4台と米兵憲兵150名が参加し、「こなかったのは軍艦だけ」という暴動鎮圧作戦が為された。


【ユーゴ問題について】
 6月、「コミンフォルム」の第2回協議会で、ユーゴスラビア共産党の内外政策に「反共産主義」、「反国際主義」などの非難を加え、8.26日、ユーゴへの批判を決議した。49.11日の第三回協議会で「殺人者とスパイの支配する党」、「帝国主義の直接の手先」なとど罵倒するという事態が生起した。スターリン主義による権威主義的な干渉であった。

【昭和電工疑獄事件のその後と芦田内閣の倒壊】

 昭電事件を廻っての関係者の逮捕は続き、7月には取締役藤井孝が逮捕され、9.10日、元農林次官・日本肥料理事の重政誠之、9.13日、大蔵省主計局長・福田赳夫、9.16日、元自由党総務・松岡松平、9.19日、民自党顧問・大野伴睦、9.22日、興銀副総裁・二宮善基らが逮捕された。9.30日、昭電事件で経済安定本部長官・来栖赳夫が逮捕され、現内閣に司直の手が及ぶこととなった。10.6日、昭和電工疑獄事件に関連して前副首相西尾が逮捕される。社会党は中央執行委員会を開き、「芦田内閣即時総辞職」を党議決定した。

 10.7日、異常事態となり芦田内閣は退陣を余儀なくされた。こうして芦田内閣は政権担当僅か7ヶ月の何ら為すところも無い満身創痍の退陣となった。芦田元首相は民主党総裁も辞任した。この経過の背景にはGHQのG2(情報第2部)の意思が働いていたとも云われている。G2のウィロビー局長は、「知られざる日本占領」で、「これを摘発したのは、主として他ならぬG2であった」とある。


 10.8日、社会党の中央執行委員会で、西尾が除名された。西尾は、総同盟からも除名された。 
(私論.私観) 昭和電工疑獄事件摘発の胡散臭さについて

 事件の主役となった西尾末弘は、「西尾末弘の政治覚書」の中で次のように書いている。「この程度の贈収賄容疑で一つの内閣が崩壊するというような奇怪な事件の背景には何が隠されていたのか」。今日明らかになっているところはこうである。GHQ内にニュー・ディーラー派(G2派)と軍事派(GS派)との対立が発生しており、その抗争が親G2派的であった片山―芦田連立政権を倒壊させていくことになった。その手法も、GS派は集めたスキャンダラスな情報を「ニューヨーク・タイムス」などの紙上に掲載させ、それを日本の新聞に転載させるという手の込んだ工作で政治問題化させている。

 「利権を廻って蟻のように群がる汚職の日常化が独占資本主義の再建にとって必須の前提条件になつていたということは、帝国主義段階における資本主義の末期的症状を意味する寄生性と腐朽性のこの上なき現われであると云えるが、昭電疑獄はまたその一角を為していただけなのであった。だがしかし、大量のリベートが政・官界に流れ込みながら、昭電疑獄のみが摘発されたところにこそ、昭電疑獄の有している政治的資質がまた存在していたと云わねばならぬ。なぜなら、昭電疑獄の摘発は、中道内閣の崩壊・ブルジョア独裁の強化という政治的諸関係の変化を推進する最も強力なテコに使われたからであった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。

(私論.私観) 片山−芦田内閣時に見せた社共の対応について

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように総括している。「
民主党の芦田が後継首相となって三党連立は継続したが、西尾が副総理格で入閣した他、左派からも『五月会』の反対を押し切って加藤勘十、野溝勝の2人が入閣。また引き続き予算委員長の座にあった鈴木は先に否決した国鉄・郵便の値上げを盛り込んだ新年度予算案を今度は通してしまうといった具合で、左派もまた右派に劣らぬ無節操ぶりを暴露したのであった(なおこの時、予算案に反対投票して除名された最左派の黒田寿男、岡田春男らは同年末、労働農民党を結成した。また寒村は脱党して旧労農派を中心とする新たな社会主義政党の結成をめざしたが、このいわゆる「山川新党」は幻に終わった)。

 芦田内閣は悪名高い政令201号を発して官公労働者のスト権を奪うなど労働者の闘いを抑圧しつつ、労働者への犠牲の強要で経済復興を進めていった。しかし、同年10月、昭電疑獄で西尾が逮捕されるに及んで芦田内閣は崩壊した。

 社会党が入閣したこの二つの連立政権の果たした役割は何であったか。二・一ストが不発に終わったとはいえ、その後も騒然たる社会情勢の中で、たとえ米占領軍の後ろ盾があったにせよ、いまだ基盤弱体のブルジョア政権が正面から労働者階級に対決して資本主義的再建を図ろうとしても、それは労働者階級の激しい反撃を呼び起こし、再び深刻な危機を招きかねなかった。労働者階級の味方を装いながら、労働者の階級攻勢の衝立となることができ、同時にまたブルジョア政権が単独ではやれないような労働者への露骨な犠牲転嫁によって戦後日本の資本主義的復興への道を切り開くことのできる政権が必要であった。ブルジョアジーのこうした要請に応え、その醜悪極まる役割を演じたのが社会党が加わった両政権に他ならなかった。

 こうして二・一ストを挫折に導いた共産党のおかげで戦後の激動期を乗り切り、引き続く続く混乱期に社会党=片山政権の手で資本主義的復興へのレールを敷くことに成功し、ようやく自信を取り戻したブルジョアジーは、政権の座に復帰した吉田自由党の単独ブルジョア政権の下で、ドッジ・プランによる超緊縮政策でインフレを終息し、また国鉄の10万人首切りに代表される企業・行政整備の「合理化」を強行しつつ、折からの朝鮮戦争特需に支えられて50年代初頭には完全に息を吹き返すのである。

 また政治的にも、米ソ『冷戦』の激化、中国革命の勝利、朝鮮戦争の勃発と続く国際的な激動の中で、日本を『アジアの反共防壁』、『兵器工場』に仕立てようという米帝国主義の『占領政策の転換』によって講和に向けた交渉が進展、ブルジョアジーは51年のサンフランシスコ条約によって独立を達成した。ブルジョアジーはこうして経済的にも政治的にも資本主義的復活を勝ち取ることに成功するのだが、実にその最大の功労者は彼らが戦後の危機と混乱を脱して復活への足がかりをつかむのを可能にした社共両党であった」。


【日経連第1回全国経営者大会】
 9.9日、「経営者よ、経済再建の先頭に立て」をスローガンにして日経連第1回全国経営者大会が開かれた。大小経営者約500名が参加していた。この時保土ヶ谷化学社長磯村は「経営者よ、赤旗を踏みにじって進もうではないか」と檄を飛ばしている。これに対し、GHQのヘプラー労働課長は、「労働組合の活動を抑圧せねば事業を遂行して行けないというのは、経営者の力が足りないからである。日本の民主化における労組の役割は大きい。従って、経営者は組合の抑圧などを考えず、まず労働者の利害を考え、次に経営者の利害を考え、その調和するところによってゆくべきである」と演説している。

 夏頃、党本部の青対部長が宮顕から志田に代わった。この頃から、対立が激しくなった。この頃の宮顕系東大細胞として沖浦、力石、武井、小久保らが「木戸御免」となっていた。


【全日本学生自治会総連合(全学連)が結成】

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第1期」に記す。

 48.9.18日、145校の代議員250名が参加し、国立大学系の学生運動と早稲田大学を中心とする私学系が合体し、「全日本学生自治会総連合(以下、全学連と記す)」が結成された。全学連は、各大学の自治会を基盤にこれを連合させて形成されたところに特徴が認められる。自治会数268校、員数22万人。「全国学生のあらゆる正当な要求を民主主義的方法をもって実現し、教育復興闘争を通じて民主主義日本の建設に寄与することを目的とし、次の事業を行う。1.学生生活の安定と向上、教育の機会均等、2.学問の自由と民族文化の擁護、3.教育機構の徹底的民主化、4.教職員の生活権確保、5.学生戦線の統一と拡大強化、6.平和と民主主義の防衛」を目的及び事業として決定した。


 
事務局本部は東大に置かれ、初代委員長に共産党東大細胞武井昭夫 (東京大学)・副委員長高橋佐介(早稲田大学)・書記長高橋英典(東京大学)・中執に安東仁兵衛、力石定、沖浦和光らの執行部を選出した。全学連は、これより以降50年あたりまで武井委員長の指導の下で一致団結して各種闘争に取り組んでいくことになった。党は、「当面の学生運動における方針について」で学生運動の指針を与えた。


【大学法案の国会上程反対闘争】

 芦田内閣が倒れて第二次吉田内閣が成立すると、12月頃下条文相は大学法案の国会上程強行を言明した。その翌日、熊本の五高が抗議ストライキに立ち、ついで九州学連18校がストライキに入った。ストライキは冬休みとともに一応たち消えになった。


 9月、共産党.西沢隆二青対部長が全学連の地域人民闘争軽視、反帝闘争(講和による占領軍の撤退)重視を批判している。

【アメリカの対日政策の転換】
 10.7日、米国国家安全保障会議が「NSC13.2」を決定。中国が中共軍の手に落ちることが確実になり、戦略上日本を共産主義に対する防壁とする必要が生じた。その為には日本経済を速やかに復興させ、頼りがいのある同盟国とせねばならない。かくして「GHQ主導の民主化政策」から「本国政府主導の経済復興政策」へと転換することになった。この観点から、国家安全保障政策の戦略の一環として、「日本経済の安定と復興を目的とする9原則」が提示されることになった。

【民自党幹事長・山崎猛の首班構想浮上】
 芦田内閣総辞職後、民自党総裁・吉田茂による第二次組閣の機運が高まった。しかし、GHQ・GS派の後押しで「民自党幹事長・山崎猛の首班、民自・社会・協同の連立内閣構想」が画策された。10.7日、民生局次長・ケージスの次の言葉が伝えられている。「次期首班を、野党第一党の自由党が占めることは憲政の常道として認める。しかし、総裁の吉田茂は、超保守的(ウルトラ・コンサバティブ)で、首相として好ましい人物ではない。幹事長の山崎猛を首相とすることが望ましい。この山崎内閣は、諸般の情勢からして、自由党の単独内閣ではなく、共産党を除く、各党の挙国一致連立内閣であることを期待する」(戸川猪佐武「小説吉田学校」)。つまり、総裁の吉田ではなく、幹事長の山崎を次期首相に期待したことになる。

 敗戦よりこの時まで歴代内閣にあっては、原則において、GHQの指示や指令、示唆の枠外に出ることは許されていなかった。問題は、このたびのケージスの「山崎首班挙国連合論」がGHQの絶対命令的指令なのか要望なのかやや不明であったことにあった。筆頭副幹事長・広川弘禅と顧問・星島次郎がこの線でまとめ役になった。この動きの背景には、第一次吉田内閣時に吉田が党人派を冷遇していたことが伏流していた。

【山崎首班構想、田中角栄の発言で潰える】

 10.10日、総務会が開かれ、GHQの筋書きによる山崎擁立に向けた議事が進行し、辞任止む無しと考えていた吉田の総裁辞意表明が為されようとしていた。ところが、この時一年生議員田中角栄が、「ちょっと待った。会長、発言を求めます」と立ち上がった。発言の認可を得た後、「私には、何としても解せません。もちろん、我が国は敗戦国だ。が、いかに敗戦国だろうと、筋が違う。いかに占領軍とはいえ、日本の総理大臣に誰がいかんなどというのは内政干渉では無いか。アメリカの内政干渉をやらせてはいけない。総裁である吉田首班で行くのが憲政の常道ではないかと私は思う」と主張した。続いて、「外交官である吉田総裁に聞きたいが、占領軍がこのような内政干渉をするのはいかがなものか」と述べ、吉田総裁の見解を仰ごうとした。

 ここから議論の流れが一変し、「吉田首班で行け!」、「GHQの遣り方は間違っている」という結論になった。この時より田中角栄はGHQに睨まれることになった。

 10.14日、山崎は突如議員を辞職した。GHQの意向であると言う錦の御旗に乗って騒動を起こしたことに責任を取った形となった。こうして、「約1週間にわたって、政界を騒然とさせた山崎首班問題は、虹のように跡形無く消えていった。総司令部民政局からは、何の意向も示されなかった」(戸川猪佐武「小説吉田学校」)。
 


【民主自由党が発足、吉田が総裁に就任】
 この時の事情について、吉田は「回想十年」で次のように述べている。「昭和22.5月から翌23.10月までの約1年半ほどの間は、片山及び芦田の両内閣、すなわち社会党と民主党の連立内閣時代であった。この間、自由党も私も野党たる経験を得た。又野党として、次の選挙に備えるたる広い範囲にわたって、地方遊説を試み、私として初めて行った土地も多く、よい勉強になった」、「片山内閣は退陣したが、引き続き社会、民主両党連立のもとに芦田内閣が成立した。これが『政権のたらい回し』だと当時非難を受けたことは、多くの人のなお記憶するところであろう。一方救国新党結成の機運はこの頃から急速に促進され、先に新党参加のため民主党を脱党した民主クラブの36名と自由党とが結集することにより、23.3.15日新たに民主自由党が発足し、私が総裁に推された」。

【第二次吉田内閣の成立】
 10.14日、国会で首班指名の選挙が行われた。自由党が少数党であったため、決選投票となった。衆議院では、吉田茂184票、片山哲87票、三木武夫28票、黒田寿男9票、徳田球一4票、斎藤晃1票、民主党は白票86票、無効1票となり、1位の吉田は過半数を制せず決選投票となった。決選投票では、吉田185票、片山1票、民主・社会党の大部分が白票213票で、民主自由党総裁吉田が首班指名を獲得した。

 こうして10.19日、第二次吉田内閣(48.10.19〜49.2)が組閣された。吉田は連立策を取らず民自党の単独少数内閣として出発した。外相を兼任し、官房長官・佐藤栄作(前運輸次官を議席を持たぬまま抜擢)、副総理に林譲治、幹事長広川弘禅。

 「それから、総務会でだ、山崎首班はおかしいと、勇ましい演説をした男‐‐‐若いのにひげをはやしていた‐‐‐チョンガリ(浪曲)風の声からしてなかなか宜しい‐‐‐そう、その田中君をだ、どこかの政務次官に起用してくれたまえ」。後日の判明で、幣原と池田セイヒン(池田成彬・三井財閥の大御所)の推薦もあったと伝えられている。こうして、弱冠29歳の角栄が法務政務次官に抜擢された。後日の判明で、幣原と池田セイヒン(池田成彬・三井財閥の大御所)の推薦もあったと伝えられている。「吉田茂は、小学校卒で土建屋上がりの田中が法律にめっぽう詳しいのに感心して、一年生議員をいきなり法務政務次官に抜擢したと云われている」(田原「使える男・角栄誕生」)。

 内閣官房次長に橋本龍伍を補任経済安定本部・中央経済調査庁・物価庁の各長官は泉山蔵相が兼任。

 この頃から日本の再軍備への転換が急がれることになった。これは、「GHQ」にとって、早晩予想される朝鮮戦争に対する後方支援基地として日本にその役割を担わさせるために必要な政策転換であり地政学的な必要があったという事情により、吉田内閣はこの要請に応えていくという使命を担わされることになる。国内的にも公然と独占資本主義の再建工作に着手していくこととなった。 このたびの吉田内閣の成立は、GHQ内のGS路線からG2路線への転換を明確に象徴しており、国内での中道内閣の終焉を決定づけるターニング.ポイントでもあった。

【「ドッジ.ライン」発表される】
 12.18日、GHQは日本経済再建に関する9原則=ドッジ.ラインを発表した。ワシントン発有無を言わさぬ強権的手法で日本経済再建に乗り出そうとする計画書であった。「日本人の生活のあらゆる面において、より以上の耐乏を求め、自由な社会に与えられている特権と自由の一部の、一時的な放棄を求めるものである」としていた。驚くことに、この計画に対して、社会党、労働組合は云うに及ばず共産党も期待表明しているようである。

【ソ連陸海軍総政治局によるシベリア抑留関東軍の帰還に際しての赤化政治教育指令】
 10.25日、ソ連陸海軍総政治局は、「祖国に帰還したに日本共産党に入党する必要があることを意識せるべく捕虜の直接教育指令aE432/とsh」を発した。それまでの「民主運動」から大きく質的転換を為し、帰還後の「アメリカ占領下における日本の政治的変革」を目的とした政治教育を意味していた。日本共産党を「民族を破滅から救う党」として位置付け、スローガンは、「天皇島に敵前上陸」、「代々木(日本共産党本部)の旗の下に集れ」、「日本の共産主義革命の達成に全力」、「天皇制打倒、人民政府樹立」、「万国の労働者団結せよ」などであった。発行されていた「日本新聞」』は、日本共産党のアカハタ記事を広く転載するようになった。この指令後、ラーゲリ政治局は、捕虜全員にたいし、「日本共産党の行動綱領」(1947年12月21日第6回大会改定)の宣伝と教育を強化した。

 ソ連共産党は、日本人捕虜の「共産主義化」と「日本共産党入党運動」を目的としており、その推進のためソ連軍政治将校(共産党員)を250人、「日本新聞」にも63名の共産党員を配置し、政治講習会を頻繁に開いていった。1948年だけでも7285回開き、延べ128万7千人を参加させた、とある。(「『異国の丘』とソ連・日本共産党」参照)

【極東国際軍事裁判結審】
 11.12日、市ヶ谷の法廷で開かれていた「A級戦犯」25名に判決が下された。46.5.3に幕を開けて以来2年6ヶ月の審理となった。ドイツのニュルンベルク裁判が11ヶ月に満たなかったことを考えるとかなり長期化していたことになる。東条英機.広田弘毅.土肥原賢二.板垣征四郎.木村兵太郎.松井石根.武藤章の7名が絞首刑、荒木貞夫.木戸幸一.平沼騏一郎.賀屋興宣.小磯国昭.梅津美治郎他16名が終身刑、東郷茂徳禁固20年、重光葵同7年が言い渡された。28被告のうち、公判中に松岡洋右.元外相と永野修身.元海軍軍令部総長が病死し、大川周明.法学博士は精神障害で免訴となった。広田弘毅は只一人文官で戦争に主役を演じていた訳でもないのに極刑となった。

 「東京裁判の評価は、半世紀を過ぎた今も定まってはいない。『平和に対する罪』など国際法上で明確に確立されていなかった戦争犯罪の概念を適用したことに加え、占領政策を円滑に行う為の政治的判断から天皇が免訴されたこと、関東軍防疫給水部(731部隊)の細菌実験などが意図的に除外されたことなど、多くの問題をはらむ」とある。(読売新聞「東京裁判」2000.9.14)。インド代表パル判事は終始同情的で、判決日にも来日せず、むしろ全被告の無罪釈放の意見書を本国から送付してきていた。ウェッブ裁判長(オーストラリア)とザリアノフ判事(ソ連は、自国の法律では死刑という刑がないという理由で死刑に対して反対投票している。

 インド代表パル判事の主張は今日傾聴に値する。同氏は、大東亜戦争がアジアの周辺諸国に与えた独立運動への影響の意義を高く評価していた。1943.8.1日にバー・モウ首相による英植民地ビルマの独立、同年10.14日にホセ・ペー・ラウレル大統領による米植民地フィリピンの独立、英植民地インドの独立の志士チャンドラ・ボースの自由インド仮政府、インド国民軍運動を支持し、それらの運動の契機に日本の果たした歴史的役割があることを指摘していた。結局、日本は敗れ、これら独立の志士たちを窮地に立たせることになってしまったが、インドネシアでは、日本敗戦後も少なからぬ旧日本軍がスカルノたちの独立戦争に合流し、再植民地を策すオランダと戦って、独立達成に寄与した。こうして、植民地独立の波は、戦後、アジアの米英の植民地だったフィリピン、インド、パキスタン、ビルマから始まり、1960年代にはアフリカに波及、英仏などの植民地から一挙に32カ国の独立国を誕生せしめた。かくて、戦前71カ国だった世界の独立国は、戦後の植民地独立で103カ国も増え(ソ連、ユーゴ解体で増えた18カ国を加え)現在、192カ国にも達している。このような戦後の植民地独立という大変動を生んだ最有力な契機が大東亜戦争だったことをパル判事指摘していたのである。この観点から、「東京裁判は、戦勝国が裁判という法律的手続きの装いを着けて、復讐の欲望を充たしたもの」とその偽善性を批判し、「国際法上、全被告の無罪」意見書を提出した。彼は「(満州を含む全中国からの日本の撤退を要求した1941年11月26日の)ハル・ノートのような最後通牒を突きつけられたら、モナコのような小国でも戦っただろう」と(プライドある国家としては当然の)対米開戦に理解を示していた。
 
 判事は絞首刑になった東條首相はじめ7人の遺灰を祀った熱海伊豆山の興亜観音を訪れ頭(こうべ)をたれた。パール判事は、67年に故国インドで他界したが、産経新聞によると、最期まで「日本の子供たちが(東京裁判に毒され)罪悪感を背負って卑屈、退廃に流れて行くのを見過ごせない」と東京裁判の影響を憂い続け、「日本人よ、日本人に帰れ」と訴え続けていた、という。この観点からの先の大東亜戦争の史的総括が残されていると云える。

 この日、天皇はマッカーサー宛に次のメッセージを送っている。これを見ると、マッカーサーが、極東国際軍事裁判の結審のこの日に当たり、天皇の退位ないし自殺の懼れに対し配慮したメッセージを送っていたことが分かる。「閣下が過日、吉田首相を通じて私に寄せられたご懇篤かつご厚情あふれるメッセージに厚く感謝します。我が国民の福祉と安寧を図り、世界平和のために尽くすことは、私の終生の願いとするところであります。今や、私は一層の決意をもって、万難を排し、日本国家再建を速やかならしめるために、国民と力を合わせ、最善を尽くす所存であります」。


 11.18日、全官公労東京地闘は、吉田内閣打倒、国会解散、要求貫徹人民大会を開催。


 11.20日、全官公労が要求貫徹労働者大会を開催。


 11.30日、改悪公務員法成立。


 12.12日、公共企業体労働関係法も国会を通過した。


【戦後党史第一期】.【ミニ第4期】
 吉田内閣の再登場により支配階級は反動攻勢を強め始める。執行部は【ミニ第B期】の【徳球−野坂−伊藤律執行部】から【徳球家父長体制】に転じ、「9月革命」を呼号する。党は、地域人民闘争を更に社共合同運動へと高め、戦後革命の階級決戦に向かう。この期間を戦後党史【ミニ第C期】とみなすことができる。 

【社共合同運動、社会党切崩し入党運動の展開】
 この時期党は、伊藤律政治局員の指導で、社会党の西尾末広の逮捕などで同様を見せる社会党に「社共合同」方針で接近を試みた。11.7日、「共社合同に関して」という中央委員会政治局声明を出している。「青森の共社合同に始まり、全国各地に、また労農団体の中に、我が党への大衆的参加がひろがっている。民族を売る腐った4党(自由・民主・社会・国協)と闘わねばならぬ人民大衆の中に、マルクス・レーニン主義の党日本共産党は巨大な発展の時期を迎えた。我が党への決然たる参加こそ、まじめな社会党員、労農党員及びあらゆる民主主義者、さらに全人民にとり、輝かしい前進である。この偉大な革命的前進を、我が党は心から人民大衆に訴える。これこそ、平和と人民民主主義と民族独立への大道である」。

 「社共合同運動」とは、「党ボルセビーキ化による人民の統一と革命の巨大な前進」という名目ばかりの党の合同であり、実際には社会党組織を切り崩す党勢拡張運動に過ぎなかった。しかし、この運動は党の在り方に疑問や批判を持つ社会党地方組織や下部機関に大きな影響を与えていくことになった。


 この呼びかけに社会党政権に幻滅を感じていた社会党内左派系の一部の者が呼応することになった。11月末日、農青森県連合会の社会党党員の大量入党を皮切りに、主に農民組織を中心に各地で入党運動が見られた。大沢久明.大塚英五郎(青森)、小原嘉.伊藤富雄.青木恵一郎(長野)、深沢義守(山梨)などの有数の農民運動指導者が仲間と共に入党した。組合からも、全逓委員長土橋一吉などが入党した。12.23日青森で社共合同大会、続いて岩手.福島.栃木.長野.香川などでも。総選挙でも社共合同のスローガンが掲げられる。

 12月初旬、追放を免れた朴恩鉄をキャップにした党民族対策部(民対)が朝鮮人部に替わって新たに組織された。朴恩鉄は、戦前来の党員で、当時党中央政治局員で徳田の側近の一人だった志田と親密な関係だった。この時点より、朝鮮人だけの細胞を解散し、日本人細胞組織に吸収すること、指導を党機関があたること等々在日朝鮮人運動に対する全面的指導権を確立する動きを強めた。

【前首相芦田逮捕される】

 11.28日、東京地検昭和電工特捜本部は、芦田衆議院議員を逮捕したい旨を衆議院に申し入れた。この時国会開会中で、国会開会中に議員を逮捕するには国会の許諾を要した。こうして芦田前首相の逮捕についての議員運営委員会が開かれたが、12.6日、本会議に上程して決をとることになった。表決の結果許諾140票、反対120票の僅差で逮捕が決定された。この時許諾を要請したのは、自由党.国協党.社革党.労農党.共産党であり、反対したのは社会党.民主党.新自由党.第一クラブであった。こうして、12.7日、芦田首相も逮捕され、前首相が逮捕されると云う空前のこと(明治の内閣制度開始以来初めて)が起こった。以後もロッキード事件の田中角栄の例があるのみである。この背景には、GHQ内の民政局(GS)と参謀第二部(G2)の対立があり、G2側からの巻き返しの一環として圧力があったとも取り沙汰されている。

 奇妙なことに、芦田の公判における検察側の起訴状には昭電融資はあまり明確でなく、「岡組や梅林組の進駐軍関係工事に対する政府支払いの促進に便宜を図った謝礼として各50万円づつを収賄」としていた。芦田は、これを全面的に否定し、「政治献金として受け取ったものが職務に関して賄賂になるとは夢想だにしなかった。検察庁が私を逮捕、拘禁するのは政界から私を葬り去るのが目的だと感じた」と強く反論している。結局、一審、二審とも無罪で、検察側は上告を断念している。


【講和問題の浮上】
 日本の講和条約締結問題が浮上してきた。この頃は既に「GHQ」の実体はアメリカ帝国主義の出先機関と化しており、アメリカ帝国主義は講和後も居座り続け長期的な対日支配を画策していた。こうして日本に対する講和の問題は、アメリカ陣営に付くのか(単独講和)、ソ連邦も含めた諸国との講和(全面講和)を選ぶのかという問題とアメリカ軍の引き続きの進駐を認めるのか撤退を要求するのかという、この先日本の国家的命運の道筋が問われていた。

【徳球執行部と宮顕グループとの対立】
 既にこの頃徳球執行部と宮顕グループの間に抜き差しならない対立が生じていた。党は、第六回党大会で新しい情勢における戦略的展望の確立のため、「戦略ならびに戦術に関する基本的方向は、ブルジョワ民主主義革命の徹底と同時に社会主義革命の過渡的任務を遂行することにある。これが、わが民族の独立を確保する道である」として、「この基本方針を個々の具体的な問題にいたるまで最終的決定にまとめるために」(同大会決議要旨)起草委員会の設置を決議した。メンバーは徳田球一.野坂参三.志賀義雄.伊藤律.宮本顕治.鈴木市蔵.竹内七郎.渡部義通の8人であった。ところが、この起草委員会は活動を果たさず結局反古にされることになった。この原因は、既にこの頃徳田グループと宮本グループとの関係が抜き差しならないところまで対立を深めていたことにある。今日の時点での評価は、「その基本的原因は、書記長である徳田が綱領問題についての起草のイニシアチブを個人的にとろうとする意図によって、政治的にも組織的にも、集団的活動の正規の運営がはたされない点にあった。従って党は民族独立の課題を明確な戦略的展望に定式化するには至らなかった」(「日本共産党の65年」P123)と総括されているが不自然であろう。

(私論.私観) 分派活動について

 問題は、この場合書記長は徳田であるのであるから、今日的な規約では明らかに宮本グループの方が執行部の方針に従わない分派的動きをしていた証左であり、この当時においてはこうした分派活動に対する制限はかなり緩かったということを逆に知るべしということになるであろう。

 既に徳球はこの頃より宮顕グループを徹底排除するようになった。今日「徳田を中心とする家父長的個人指導の傾向が強まり、個人の専決による指導が人事もふくめて支配的となり、党中央委員会内でも、党の政策や方針の民主的、集団的な検討が保障されなくなった。これは、党内での官僚主義を助長し、伊藤律などの不純分子の党の指導中枢への潜入をゆるし、政治上の誤りを拡大する重要な要因となった。」(「日本共産党の65年」P129)と総括されているが、単に両グループの確執がここまで強まっていたということであろう。

 徳球と宮顕の対立は、徳球からする宮顕の「理論拘泥主義」反対にあったとされている。事実は、この頃宮顕は徳球執行部のすることなすことことごとくに反対を強めていったということである。この反対は為にするものでありかなり無原則期的でさえある。例えば、執行部の「占領下での人民政権樹立」方針に対しては、これをアメリカ占領軍との対決を避け、吉田内閣及び国内反動勢力との闘争に解消する右翼的戦術であると「左」から敵対した。執行部の大衆の日常的な要求と闘争を地域人民戦争へと結びつけようとする運動に対しては、これは左翼日和見主義であると右から敵対した。このような抜き差しならない対立を深めていったことにより、「徳田同志は、戦後の党再建の当初においては、かなり集団指導を重んじていた」が、「党のあらゆる問題の指導が一身に集中される機関運営のもとで、次第に家父長的個人中心指導の傾向を強めた。政治局、書記局の運営は、徳田同志の専決で推進されることが多くなった。政治局と書記局のなかにも機関の集団指導をかためるよりも、むしろ徳田同志の専決を助長する権威主義がつよかった。機関の構成においても書記局員が政治局で多数を占めるようになっていた。」、「機関の集団指導は軽視され、徳田区同志を中心とする指導的グループが形成されていった。」(「50年問題について」)

(私論.私観) 宮顕グループの反徳球闘争の根拠について

 ここに至るまでもこれ以後においても宮顕は徳球とことごとく対立した。そりがあわなかったということであるが、なぜそりがあわなかったのか別途解明されるべき意義がある。なぜなら、宮顕の主義主張に一貫性はなく唯徳球執行部に対立するだけの内部的攪乱者としてのみ存在してきた軌跡があるから。徳球が煙たがったのは無理もないと云えよう。


【GHQの「日本経済安定9原則」指令】

 12.16日、アメリカ政府が「日本経済安定9原則」を指示。GHQは、米国務省と陸軍省が策定した「支出抑制型による総予算の均衡財政」、「物価統制の強化・拡大」、「貿易の促進と為替管理、単一為替レートの設定」、「重要国産原料・製品の増産、工業生産の拡大」、「賃金安定」、「アメリカの対日援助の削減化」など9項目の経済政策を指示した。

 9原則は、国際情勢の流動化に対応して、予定より急いで日本の国家的復興を為し遂げさせ、対米従属国家としての国際社会への再登場を促す為の施策であった。これにより、日本経済のドル支配体制への組み込み、日本独占資本の復活をいそぐ為の指針、通貨価値の安定を通して物品ごとにまちまちであった為替レートの統一、1ドル=360円の固定為替レートの実施、輸入依存から輸出能力を持つ経済への転換が押し進められていくことになった。

 この背景に有った事情として、東西冷戦の激化に伴うアメリカの対日政策の変更があった。中国でアメリカの意向に反して共産主義者のイニシアチブでの建国革命が必至となり、これに対抗する反共の砦の橋頭堡として日本の再建が急がれることになったと判断できる。それまでの財閥解体や農地改革などの経済民主化路線から変更させ、「反共の砦」としての位置付けから早急な日本経済の自立化へと切り替えることになった。かくて戦後日本はアメリカ帝国主義のアジア政策の要に据えられることになった。


 12.13日、泉山三六蔵相院内泥酔事件事件発生、泉山は翌12.14日蔵相を辞任し議員辞職。蔵相は大屋商工相が臨時代理。経済安定本部・中央経済調査庁・物価庁の各長官は周東秀夫農相が臨時代理。


 12.19日、共産党中央委員会書記局は、「経済復興9原則に関して」声明を発表している。「今発せられた経済復興のための9原則は、ポツダム宣言無条件受諾とこれに伴う降伏文書によって日本政府が忠実に実行すべき義務を負うものである。また終戦後の我が国経済を復興するために執らねばならぬ基本的原則たることは争い無きところである。

 ただ問題は、この原則を実行するに当たって『誰が、誰の為に』するのかというところにある。詳しく言えば、労働者階級を先頭とする人民の政府が人民の為にこの原則を実行するのか、これに反して、独占資本を中心とする民自党、民主党、国民協同党、社会党の反動政党が、腐敗・堕落した高級官僚とともに独占資本化、大闇業者のために実行するかにかかっている。我が共産党こそまさに人民の生活の安定の為にこの原則を誠実に実行する唯一の政党である」。

【A級戦犯の死刑執行】

 12.23日午前0時、執行。絞首刑が宣告された7名は、切り取った髪の毛と爪を刑務所を訪れた家族に与え、この日に備えたと伝えられている。


【A級戦犯容疑者釈放】

 12.24日、「A級戦犯」容疑者を釈放する方針を決めた。これに伴い岸信介.児玉誉士夫ら19名が巣鴨拘置所から出獄した。

 その後、次のように続々と追放解除となる。

 1950.10.13日、石井光次郎・平野力三ら1万90名の公職追放が解除。11.8日、重光葵らA級戦犯の仮出所が発表された。11.10日、旧軍人3250名が初の追放解除となった。1951.6.20日、石橋湛山・三木武吉ら2958名の第1次追放解除。7.4日、8.2日、第1次・第2次教職追放解除。8.6日、鳩山一郎ら1万3904名の第2次追放解除、8.27日、元軍人2万1000名が追放解除となる。これ以降1952.4.27日まで、127回にわたって19万5205名が追放解除となり、残り6072名が講和条約発効と共に自動解除となる。

 12.23日、補正予算を成立させた後、野党提出の吉田内閣不信任案が可決され、内閣は衆議院を解散した。「なれあい解散」と云われる。


【野間宏に対する査問会議】
 増山太助氏の「戦後期左派人士の群像」によれば、48年に入って、野間宏の「崩壊感覚」に対する批判会議が開かれたとある。この会は宮本顕治・百合子が主催して新日本文学会のグループ会議の形式で行われ、まず百合子が口火を切った。みんなして取り囲むような形での人身攻撃に終始したようで、「全身が怒りのかたまりのようになり、爆発しそうになった」とある。




(私論.私見)