戦後党史プレ期 第1部 45年敗戦までの動き/米国の対日占領政策研究について

 (最新見直し2006.3.26日)

【参考文献】
「Household Industries」の日本占領期年表 石川寛仁
「戦後占領史」 竹前栄治 岩波書店 **********
「昭和の歴史8」 神田文人 小学館
「昭和天皇の終戦史」 吉田裕 岩波新書 1992.12.21
「日本の戦後上−NHK編」 日本放送出版協会


【アメリカの対日政策考ー歴史資料保管及び公開能力に於ける日米の差について】
 日本放送出版協会の「日本の戦後上−NHK編」は次のように語っている。
 「ワシントンにある国立公文書館−ここには、政治.外交.軍事.経済すべてにわたる国の重要文書が収められている。アメリカでは、国家の機密に属する文書も、原則として25年を経た時点で一般に公開される。その中に、日本の戦後処理に関する注目すべき記録が発見された。日本分割占領計画−文書番号JWPC385−1である」。

 同書の「戦後占領史」の項では、次のように記されている。
 「日米開戦は1941.12月に始まるが、それ以前から既に『対日“占領”政策の研究』にアメリカが精力的に取り組んでいたことが明らかにされている」。
(私論.私観) 米国の「「対日『占領』政策の研究」について

 この公開資料を参照して気づかされることは、如何に「日本占領計画」の「青写真」が練られていたかということである。アメリカという国柄か更にその背後のグループの能力によってか、いずれにせよ米国統治者の当事者能力は大したものだとつくづく思う。「対日研究」は太平洋戦争前よりかなり早く研究されており、何と!「対日『占領』政策の研究」として為されている。靖国神社宮司の指摘はあながち外れている訳ではないことになる。

 れんだいこはここに、アメリカン的統治能力の粋を見る。理論的研究重視の姿勢且つそのプラグマティックな議論による変遷且つ実務での更なる検証、及びフィールドバック式手法による即応化という手法が如実に明らかにされている。この当時これほどの研究は他のどこの国においても為されなかった「日本改造計画案」であった。以下、これを簡略に見ていくことにする。

(私論.私観) いわゆる「青写真」の必要性について
 日米開戦前からのアメリカの精力的な「対日占領政策の研究」を見れば、いわゆる「青写真」の重要性が知らされることになる。これが政治当局者のあたりまえの姿勢というものではなかろうか。翻って、今日、日本共産党指導部を始めとする左翼陣営が革命政権樹立後の「青写真」の研究を怠惰する姿勢は何を物語るだろうか。

 そのこと自体が革命に対して当事者足らんとして取り組む意思も能力も無いという本音を証左しているのではなかろうか、ということになる。不破流のあらかじめ理論によって縛らず、その時になって対応すれば良いなどという論理が詭弁でしかないことが、以下の「対日占領政策の研究」を見ていくうちに自ずと明らかにされるであろう。しかし、不破は、何故こういう見え透いた悪論をつくのだろうか。

 2005.9.21日再編集 れんだいこ拝

私論.私観) 【「米国の対日占領政策研究」の背景にあった文明史的位相について】

 第二次世界大戦を巨視的に見た場合、その内実は、ネオ・シオニズムの世界支配を廻るものであったように思われる。しかし、教科書レベルではこういう風には議論されない。真相はどうやら、ネオ・シオニズムの西欧諸国席巻により羽交い絞めされた英仏米に対する、その事態を拒否した独伊がアジアの日本を巻き込んで雌雄を決した世界大戦であったように思われる。かく構図を設定しなければ実相が見えてこない。

 且つ、第二次世界大戦の実体は、アングロ.サクソン国家内の権力移動としてアメリカが
英仏独に替わって覇権を確立した事件ではなかったか。同時に、そのアメ帝内にネオ・シオニズムが棲みつき、次第にコントロールを強めていくことになったのではなかったか、と捉えることが出来そうである。文明史的に見ればそう推定できる。

 従って、第二次世界大戦を、アングロ.サクソン国家を押し立て食いものにしたネオ・シオニズムに都合のよい宣伝文句でしかない「ファシズムに対する民主主義の戦いであった」と唱和する列に列なることは美名に酔わされ易い素っ頓狂であることを物語っている。文字通りの意味での
猿真似と云う。

 米帝とは、形式上アングロ.サクソン国家にして実質上ネオ・シオニズムの支配する二重構造から成り立つ世界最強国家とみなせる。その米帝から見た第二次世界大戦とは、ヨーロッパ=大西洋戦線とアジア=太平洋戦線に分かれた二正方面の戦争であった。まず、ヨーロッパ=大西洋戦線の動きを確認する。対ドイツ−イタリア戦争とはヨーロッパ=大西洋戦線の戦いであったが、米帝は、この経過で個別ドイツ.イタリア両帝国を敗退せしめると同時に、この大戦を通じて大西洋戦域における
英仏帝国に替わっての覇権確立に成功したように見える。当初大西洋戦線はドイツ-イタリア連合の優位のうちに進んだ。フランスは領土を占領され、イギリスも本土空爆を受ける等々苦戦を強いられていた。ここに米帝が参戦することによって始めて連合国軍の優位が保たれることになった。これを文明史的に見れば、大英帝国の没落であり、「米帝イズbP」時節の到来であった。

 他方、対日本戦争とは大西洋戦域において先行して覇権確立に成功した米帝が、今度は太平洋戦域における覇権の確立を目指したものではなかったか。日帝はこの地域に「大東亜共栄圏」を確立しようとしていた。太平洋戦争とは、こうした日本帝国主義を叩き潰すことによって「米帝イズbP」を世界的規模で完成し、米帝が名実共に「世界の憲兵」としての地位を獲得することが約束されていた「勝算見込みのある最後の世界戦争」となった。

 この時世界の覇権を目指す米帝の意気は軒昂であった。但し、ここに厄介な問題が発生していた。日帝軍隊が手強く、ドイツ-イタリアには見られない異質な粘りをしていたからである。日帝軍国主義は、決定的な敗戦状況を向かえつつあったにも関わらず、天皇制護国精神の下徹底抗戦を志向していた。日本兵の羽毛より軽い生命観で盲進する神風特攻隊精神は狂気的脅威であった。これは戦局を左右するほどではないにしても、米帝側にも相当の犠牲の発生を予想させ、アメリカ国内の国民感情宥和上由々しいことでもあった。

 こうした背景があって、当時のソ帝をめぐって特殊な事情が発生していた。連合国側が第二次世界大戦を勝利的に終結させる為にはソ帝の連合国側での参戦が必要であった。歴史の摩訶不思議なところであるが、この時ソ帝は地政学的にもキャスチングボートを握っていた。なぜなら、ソ連は大西洋戦線でドイツと国境を接し、太平洋戦線において日本と接していたからである。

 歴史の仮定として、万一このソ帝がドイツ-イタリア−日本の三国同盟側に与していたら、第二次世界大戦の帰趨はわからなかったか、連合国側が勝利するにせよ相当長期の膠着状態が予想されたように思われる。こうしてソ帝はこの当時両陣営より熾烈な引き込み誘いが為されるという特殊な立場に位置していた。つまり、政治局面的にもキャスチングボートを握っていた。当然のことながら、両陣営側からも好餌な誘いが舞い込んだ。権謀術数絵巻の世界である。

 さて、当時のソ帝を率いていたスターリン元帥がどちらのカードを引いたのか。承知のとおり最終的に連合国側と誼を通じたのが史実である。その結果連合国側の勝利の構図が確定することとなった。この時のスターリンの立ち回りを考察することは興味有る課題であるが、別章に譲ることにする。

 但し、このことは米帝にとって二律背反であった。「米帝イズbP」の覇権確立の好機到来に欣然としていた一方で、同時に次なる対抗者としての共産主義国家ソ帝の台頭が予想されていたからである。しかも味方同盟軍として関係し合わねばならない苦労が待ち受けようとしていた。かくて、連合国側には、ソ帝を盟主とする国際共産主義運動も頭痛の種であったと同時にそのソ帝を自陣に引き入れなければならないという高等芸が要求されることになっていた。ソ帝を自陣に参戦させる為の好餌として出す約束事は国際的取り決めとして履行せねばならず、スターリンも又帝国主義の作法に従い勝利した暁の相応の褒美を要求していた。これらのことを考えると気の遠くなるほどの苦渋な駆け引きが予想されていた。


 「アメリカの対日占領政策の研究」の背景にあったものとして、二つの潮流を見分けねばならぬと思われる。一つは、第二次世界大戦とは、米帝の世界覇権確立をかけた争闘戦であったという文明史的地位からの考察が必要であると思われる。後一つは、米帝から見て対日帝戦において肝要なことは、ソ帝を出し抜いて大日本帝国解体且つその後の日本に対する支配権の取り込みがワンセットで要求されていた、ということが認識されねばならないということである。

 ソ帝は参戦と同時に戦利の分け前にありつこうとしており、堂々と大ロシア主義的に日本の領土的取り込みを画策していた。
こうした時勢を受けて、米帝の狙いは、大日本帝国の解体自体には苦労は無く、それは既に自明のところであった。問題は、その後の日本の米帝側への取り込みを如何にして達成するのかという難題として屹立していた。米帝の「対日占領政策の研究」はこの観点からのそれであり、生易しいものではなかった。

 この課題にどう立ち向かったのかが「アメリカの対日占領政策の研究」の経過である。但し、こうは云えそうだ。米帝にとって好都合であったことは、米帝側のこうした「対日研究」能力の高さに比べてソ帝側のそれはあまりにもお粗末だったことである。この時点でのソ帝の要望は最大限日本の東北地方以北の領土の取り込みしか明らかにしておらず、取り込んだ領土の治世方針につきろくに検討さえも為されていない段階であった。天皇制廃止程度の方針は当時にあっては共通の認識であり、それ以降の個々の課題への取り組みの「青写真」こそが必要であったにも関わらず見えてこない。今だ明らかにされていないだけなのかどうか判明しないが、むしろこうした構想そのものが無かったのではなかろうか、と思われる。れんだいこには、アメリカ的統治能力とロシア的それの差として、米帝側の知性の卓越さばかりが浮き彫りとなって見えてくる。

 2005.9.21日再編集、2006.3.26日再編集 れんだいこ拝


【「米国の対日占領政策研究」の経過の検証】

  以下、アメリカの「対日占領政策の研究」の変遷をアウトライン的に見ていくことにする。初期においてはおおまかなものであり、本格的な研究が為されるようになったのは、日米開戦後の1942(昭和17).8月に特別調査課SRの中に「東アジア政策研究班」が編成されてからのことであるようである。分かりやすく云えば、これがホップ.ステップ.ジャンプのホップに相当する。

 
レオ.パスボルスキー国務省調査課長の音頭で、極東通であり、クラーク大学の歴史.国際関係論の教授でもあったジョージ.H.ブレイクスリーが主任となり研究を進めたその他メンバーには戦前東京帝大の研究生であり、コロンビア大学や陸軍軍政学校で日本史の講義をしていたヒユ−.ボートンをはじめJ.W.マスランド(スタンフォード大学)、R.A.フィ−リ−(元駐日大使グル−の秘書)など多くの知日家が含まれていた。

 彼らは、対日戦争勝利を前提にした「占領政策」の研究に着手し、天皇制存続の是非、日本領土の適正範囲、戦後日本経済の在り方などについてかなり突っ込んだ議論をしていた。特にブレイクスリー起草の「対日戦後処理に適用される一般原則」という文書は、戦後処理の目的、領土.経済.政治の一般原則に触れ、天皇制、武装解除、重工業、賠償、教育などの改革の必要性を示唆していた。

 次の動きとして、翌1943年(昭和18).10月、国務省内に部局間極東地域委員会(FEAC.Far East Area Committee)が設置された。ジョージ.ブレークスリーを議長、ヒュー.ボートンが幹事になった。FEACは、国務省内の関連各部課間の連絡と事務レベルの意見調整を図るための「国.地域委員会」(CAC)の一つとして設置されており、以降対日政策の研究はこの委員会に集約されることになった。CAC文書として起草され検討が続けられた。これはホップツーの動きと云える。

 この流れを受けて1944年(昭和19).1月、「戦後計画委員会」(PWC.Postwar Programs Committee)が設置され、具体的に政策立案することになった。PWCは、国務長官、次官、次官補、局長級のトップレベルによって構成されていた。これがステップの動きと云える。
当時、国務省のメンバーは、長官コーデル.ハル、次官エドワード.ステチニアス、国務次官補ロング、元駐日大使.極東局局長ジョゼフ.グルー、次長バランタイン等で、先のFEACメンバーと共に、いずれも知日派.日本派と呼ばれる人たちで構成されていた。ここでブレークスリーらが中心になって起草した文書及びCAC文書に更に実務的政治的見地からの検討が加えられた。こうして承認され確定された文書が「日本に関する合衆国の戦後目的文書」(44.5.4日.PWC文書)であり、これが国務省の最終的且つ公式の政策文書となった。

 
PWC文書は、「天皇と天皇制」、「宗教政策」、「民主化政策」、「アメリカ占領軍の軍政の在り方」などが研究討議され先のCAC文書よりもかなり具体化されていた。 「日本に関する合衆国の戦後目的文書」によれば、戦後政策の基本目的は、「日本がアメリカ及び他の太平洋諸国に対する脅威となることを防止する」及び「日本に他国の権利と国際的義務を尊重するような政府を自立させること」と規定し、占領の期間を三区分し、第一期を武装解除、軍事施設の破壊、軍事占領、第二期を軍事査察、経済統制、民主主義思想の普及、文民政府の樹立、第三期を日本の国際社会への復帰の期間とした。CAC文書.PWC文書では、その他戦後目的の他に個別的な政策研究も行われている。

 この経過で最も頭を悩ましたのは天皇の扱いをどうすべきかであった。知日派の委員の中でも天皇制の廃止か存続かをめぐっては意見が真っ向から対立していたからである。更に占領行政を間接統治で行うのか直接統治で行うのかも意見が分かれており、天皇制の取り扱いがこれに絡んでいた。天皇制を残し、それを利用して間接統治する方法をソフトピース=A天皇制廃止による直接統治をハードピースと呼ばれ、一年余りの討議を経て、結局ソフトピース&式が答申された。結局、日本国民の意思に委ねるという柔軟な政策を用意することとなった。「外側から天皇制を廃止しようとする試みは、日本人の現在の態度が続く限りは、恐らく効果が無いであろう」という態度を取ったということである。

 次に論議を呼んだのは日本の分割占領方式を巡ってソ連をどう待遇すべきかであった。
ここは説明を要する。日本の最高戦争指導会議は、戦局の帰趨は見えてはいたものの、最後の望みの綱としてソ連の抱き込みに懸命になっていた。対ソ連戦を予想して関東軍70万が満州に釘付けにされていたからであった。対ソ連戦の防御の必要さえなければこの関東軍をして本土防衛に当たらせることになり、そうなれば戦局はともかくも連合国軍の被害が大きくなることが懸念された。米英はそうはさせじとソ連の自陣営取り込みと参戦を画策した。結果的にスターリンの最終的な腹は米英側と組むことにより日本の戦後分割に一役加わろうと意欲することとなったので、日本の最高戦争指導会議の努力は水泡に帰した。他方アメリカは日本占領を極力単独主導で行おうと意欲していたので、ソ連を引き入れたいし占領計画には入れたくないと云うジレンマの中で作戦を遂行しつつあった。まさに虚々実々のマキャベリズム的駆け引きが始まっていた。

(私論.私観) 「日本に関する合衆国の戦後目的文書」について

 この文書における日本の占領期間を三区分し、それぞれの期間につき要点を明確にさせているその内容を見れば、戦後対日占領政策がほぼ正確にこの文書のとおりに遂行されたことで知らされることになる。何ともはや、米国の統治能力の高さであり、「青写真」はかくも大事であるという格好の例証であると思われる。

【「降伏後における米国の初期対日方針」の歩みについて】

  以上が政府の国務レベルの動きである。当たり前といえば当たり前でもあるが、この国務レベルの動きとは別系統で、陸.海軍省もそれぞれの軍務的立場から占領地域の軍政について検討を重ねていた。海軍は「占領地域局」、陸軍は「民政局」を創設して独自に研究を進めていた。研究課題として、戦後の「軍政」の観点から、天皇、皇族、枢密院メンバー、帝国議会議員、内閣、裁判所判事や知事を戦犯として逮捕する計画が検討された。その実施においての手引き書として「民事ハンドブック」や「民政ガイド」を各分野にわたって作成した。これらの編集は陸軍.海軍.国務.農務の各省、戦略局、外国経済局の各代表から構成される民事研究委員会によって為されたが、この委員会のメンバーの一部の者は占領開始後「GHQ」に来て実際に占領行政に関与している。「民事ハンドブック」が分析を主とした実態調査書であったのに対し、「民政ガイド」は実務の際の具体的な参考手引書となった。

 1944.11月末になると戦局の帰趨が見え、戦後政策に関する最終的な実施要綱について打ち合わせが為されている。国務.陸軍.海軍三省間の調整をはかるための委員会の設置が提案され、1944(昭和19).12.1日、「国務.陸軍.海軍三省調整委員会SWNCC.State,War,Navy Cordinating Comittee)が設置された。この委員会はスウィンクと呼ばれ、SWNCC文書がアメリカの対日基本政策指針文書となった。

 1945.1月、スウィンクの下部機関として極東小委員会が設置され、極東小委員会はさらにいくつかの作業班を編成してSWNCC文書の起草に当たった。例えば、天皇制についてはE.O.ライシャワー、統治機構改革についてはH.ボートンをそれぞれ主任とする作業班が担当した。これがジャンプの動きと云える。

 1945.2月、アメリカ大統領ルーズベルトとソ連最高指導者スターリンとの間でヤルタ会談が開かれ、対日戦へのソ連参加を密約した。

 沖縄戦後いよいよ日本本土侵攻が現実化することになり、SWNCC極東小委員会は、H.ボートンを中心として対日初期占領政策の要約「敗北後における米国の初期対日方針」をまとめ、6.11日、報告した。これが占領原典となった。この報告案作成の時点においては如何なる形で対日戦が終結するのか具体化されず、あらゆる場合に対処できるよう対日政策を直接軍政.間接軍政両様の観点からのマニュアルが作成されるという配慮が為されていた。これがジャンプ後の地均しの動きと云える。

 興味深いことは、この時点までは、戦後日本は米英ソ仏(後に仏は中に交替する)四カ国の共同占領構想が敷かれていたことである。米英仏(中)といっても事実上はアメリカ主導が約束されていたから実際にはソ連の分割統治との絡みが懸念されていた。東北地方まで含まれるかどうかは別にして少なくとも北海道以北.千島.樺太がソ連の占領区域として承認されつつあった。

 6.27日、アメリカ陸、海、国務省で組織された三省共同委員会が開かれ、起案されていた日本占領政策付属第二項の「同時に天皇の憲法上の権限と行政機構能力は一時停止される」を修正し次のように決議した。

 「日本が無条件降伏又は完敗した場合は、直ちに連合国最高司令官が日本帝国の内外問題について最高権限を行使する。同時に天皇の権限と国家政策の立案制定に関係する全機構の権限と機能は、軍政府によって行使される」。

 この修正案の真意はどこにあったか。天皇を戦争犯罪人指定から救う意味が含まれていたと解する向きもあるが、連合国軍政府の全権を確認したと受け取るべきであろう。

 アメリカ統合参謀本部会議は、九州進攻予定日を11.1日に確定し、日本が予定より早く降伏した場合、即刻日本に進出できるように、日本占領責任者として内定されていたマッカーサー陸軍大将に指示することも議決した。

 
ここから歴史の摩訶不思議が又始まる。ところが、こうした時期の7.16日、アメリカ大統領トルーマンの下に原爆実験成功の知らせが届いた。その意味するところは、ソ連の力を借りる必要が無くなったということであった。ここからアメリカとソ連の駆け引きが沸点化していくことになる。

 20.8.6日、広島へ原子爆弾投下、8.9日、長崎にも投下、同日ソ連参戦。「ドイツ降伏後、日本は少なくとも18ヶ月間は戦い続けるであろう」という予測がはずれ、思惑より早く8.14日に日本はポツダム宣言の受諾をアメリカ側に通告してくるところとなった。8.15日、日本は正式に無条件降伏を表明した。8.16日、スターリンはトルーマンに対し、日本の釧路、留萌を結ぶ線を境に、北海道の北半分を要求してきた。トルーマンはこれを拒絶した。

 SWNCCは一刻の猶予も無く実際的具体的な方針案を作成することが必要となり、陸軍省代表マックロイが事態の重要性と緊急性の見地から修正案の起草に当たり、8.22日付けで「初期方針最終案」を作成した。この文書が一部コメント加味された上で最終的に承認された。降伏後における米国の初期対日方針と改められ、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥に内報される一方で、トルーマン大統領に提出された。大統領は9.6日にこれを承認し、9.22日、ホワイトハウス指令として公表するところとなった。これが地均し後の最終検定の動きと云える。

 後に、トルーマンはその回想録で次のように述べている。「私はポツダムに於ける苦い経験から、ソ連には日本の管理には参加させない決意を固めた。私は心の中で、日本に対して勝利を得たら、マッカーサー元帥に完全な指揮で、管理させることを決めた」。マッカーサーは、8.30日、厚木基地に到着した。日本の戦後の運命は、この最高司令官の指揮に委ねられることになった。

 最終確定案の特徴として、対日占領政策が直接軍政から間接軍政に修正されていた。日本の予想を上回る早期降伏がアメリカに間接統治方式を採用させることになった形跡が認められる。こうして対日占領政策は占領史上稀なタイプの間接統治方式という方法により具体化されていくこととなった。間接統治の最も強い影響は天皇及び天皇制の取り扱いに現れることとなった。「最高司令官は米国の目的を達成する限りにおいては天皇を含む日本政府機構及諸機関を通じてその権限を行使すべし」となったからである。

(私論.私観) 「降伏後における米国の初期対日方針」の歩みについて

 これが対日占領政策研究の流れである。政治当局者の責任とはこのようなものであり、反面教師的であろうとも、揺れ動く局面にかように熾烈に関わるものだということがしられねばならないのではなかろうか。どこかの国のどこかの指導者らののほほん見識とは凡そ隔絶した実務リードではなかろうか。これ以上はくどくなるので控える。 


【ソ連の対日政策】
 長谷川毅・氏の著作「暗闘ースターリン、トルーマンと日本降伏」(中央公論新社、2006.3月初版)は、第二次世界大戦終結期のソ連の対日政策を検証しており、画期的な研究となっているとのことである。(2006.3.26日付毎日新聞「今週の本棚」に於ける五百旗頭氏の書評を参照した) れんだいこがれんだいこ史観に沿って纏めれば次のようなことになる。

 スターリン率いるソ連の「戦後の対日支配研究」は、米国のそれに比べるとあまりに粗雑で、無能さを晒している。ロゾフスキー、マイスキー、マリクらの意見書があるとのことだが、太平洋への出口を獲得するという意味での対日分割支配の一翼に列なるという程度の戦略目標を指針させているに過ぎない。米国の「戦後の対日支配研究」のように、実践的な占領政策になっていない。

 1944.9月、スターリンは、ワシレフスキー元帥を対日戦の総司令官に予定し、対日戦争の準備立案を命じた。

 1945.2.4日、スターリンは、資本主義陣営の盟主米国ルーズベルト.英国チャーチルと南ロシア・クリミヤ半島の保養地ヤルタで会談した。ソ連の対日参戦が議題にされ、参戦密約を交わした。かくて、連合国とソ連共同の対日占領計画が敷かれることになった。田川和夫氏は、著書「戦後日本革命運動史1」の中で次のように批判している。
 概要「この時、コミンテルン解散が打ち合わせされており、ソ連が帝国主義諸国の『革命の輸出』を行わないとの誓約をさせられている。つまり、露骨なパワーポリテックスが演ぜられたことになる。このようなヤルタ協定の締結は、反ファッショ戦争の美名のもとに、米英仏帝国主義と野合し、帝国主義戦争に対するレーニン主義的原則をかなぐり捨てたスターリン主義の反革命的本質をますます露骨にさせていくことを意味していた。かくて、帝国主義とスターリン主義と複合的分割支配たるヤルタ協定を基軸とする戦後世界体制が成立した」。

 同5月、イタリアに続いてドイツが降伏し、いよいよ日本の殲滅が政治日程に上った。日本は、より有利な降伏を求めてソ連の外交に期待する戦略を打ち出し(高木惣吉、佐藤尚武駐ソ大使の外交交渉)、かくてソ連は第二次世界大戦終結のキャスチングボートを握った。スターリンは、両陣営の外交交渉を操りながら、最終的に。6.27日、対日戦争を正式に決定した。日本外交は最終的に水泡に帰した。7.17日、ポツダム会談が開かれたが、丁度この時点で米国は秘密兵器原爆の製造に成功した。こうなると、ソ連参戦は却って厄介と成り、トルーマン大統領はソ連の参戦を抑制し始めた。ポツダム宣言はソ連抜きに押し進められ、ヤルタでの約束を守って8月中旬に対日参戦するというスターリンの意向を踏まえて、戦後日本の取り込み合戦が始まった。

 スターリンは、ポツダムからワシレフスキー元帥に電話して、8.11日予定の対日戦を10日繰り上げるよう指示した。実際には、二日繰上げの広島への原爆投下後になった。米英は、8.15日の日本降伏後直ちに占領軍を送り込んだ。以降、GHQ権力は、事前の研究成果を踏まえて果敢に対日占領政策を実施していった。これらの動き全てに対し、ソ連の出る幕は無かった。ソ連は明らかに能力で負けていたことになる。
(私論.私観) 「降伏後における米国の初期対日方針」の歩みについて

 アメリカに比べてソ連の対応の能力欠損は明らかであろう。れんだいこが思うにそれはスターリニズムのもたらした災禍であった。その愚劣なるスターリニズムをもたらしたものは何か誰か、これについては別途検証する。

 2006.3.26日 れんだいこ拝





(私論.私見)