1960年下半期 60年安保闘争後の情勢

 (最新見直し2007.6.29日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第6期その1、安保闘争総括をめぐって大混乱発生」に記す。


 6.1日、社会党代議士が 議員総辞職の方針を決定、同時に第一次公認候補者を発表した。吉本隆明らは6月行動委員会を組織、全学連・ブントと行動を共にした。日高六郎.丸山真男らも立ち上がった。「アンポ ハン タイ」の声は子供達の遊びの中でも叫ばれるようになった。


 他方、児玉誉士夫らは急ごしらえの右翼暴力組織をつくり、別働隊として全学連を襲う計画で軍事教練を行ない始めた。


【 ブントが特別行動隊を結成する】
 ブントは、あらゆる手段を用いて国会突入を目指し、 無期限の座り込みを勝ち取る方針のもと、大衆的には北小路敏全学連委員長代理をデモの総指揮にあて、他方ブント精鋭隊は特別行動隊を結成した。 他国会突入のための技術準備も秘かに進めた。

 6.3日、全学連9000名が首相官邸に突入。学生たちはロープで鉄の門を引き倒して官邸の中に入り、装甲車を引きずり出した。警官隊がトラックで襲ってくるや全面ガラスに丸太を突っ込んで警官隊を遁走させている。乱闘は6時過ぎまで繰り返され、13名の学生が逮捕、16名が救急車送りとなった。警官隊の負傷93名と発表された。

 6.4日、第17次統一行動は国鉄労働者を中心に全国で560万人が参加 し、安保改定阻止の政治ストライキを打った。総評は、全国的に1時間の政治ゼネストを決行した。全学連3500名が国会デモ。この頃共産党は、いち早く来日予定のアイク訪日阻止の旗印を鮮明にした。同党の講和後も「日本は半植民地、従属国」規定からする反米独立闘争の重視であった。社会党臨時大会、総評幹事会も抗議闘争に取り組むことを決めた。


【 「ハガチー事件」発生】

 この頃の学生運動につき、「第5期その3「60年安保闘争」、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離」に記す。

 6.6日、都自連も、もしアイクが来るなら羽田デモを敢行することを決定した。ただし、この時ブ ントも革共同も大統領秘書官ハガチー・アイク訪日阻止を取り組んでいない風がある。これには政治的見解の相違があるようで、「アイク訪日阻止は、安保闘争の反米闘争への歪曲」としていたようである。恐らく新左翼は、帝国主義自立論により国内の政治権力に対する闘争「復活した日本独占資本主義の打倒」を第一義としており、これに対して党は、アメリカ帝国主義下の従属国家論により、こうした反米的な闘いこそ眼目となるとしていたようである。このことは、後日田中清玄のインタビューでも知れることでもある。田中氏は、「共産党は安保闘争を反米闘争にもっていこうと した。全学連の諸君は、これを反安保、反岸という闘争に持っていこうとした。 ここに二つの分かれ目がある訳です」(63.2.26.TBSインタビュー)と的確に指摘している。

  こうした中6.10日、安保改定阻止第18次統一行動。全学連5000名国会包囲デモ。国民会議が国会周辺で20数万人デモ。この時ハガチー(大統領新聞係り秘書)は、羽田空港で労働者・学生の数万のデモ隊の抗議に出迎えられた。ハガチーの乗った車は、どういうわけか警備側申し入れ通りに動かず、デモ隊の隊列の中に突っ込み「事件」となった。米軍ヘリコプターと警官の救援でやっと羽田を脱出、裏口からアメリカ大使館に入るという珍事態 (「ハガチー事件」)が発生した。この「ハガチー事件」は、「60年安保闘争」で見せた党及び民青同の唯一といって良い戦闘的行動であった。


【 60年安保闘争の熾烈化】
 共産党主導による「ハガチー事件」が、ブン ト系全学連を大いに刺激した風があり、以降一段と闘争のエポック.メイキングに向かっていくこととなった。全学連指導部は、「労働者のストはダラ幹によって小規模なものにされている。共産党は安保闘争を反米闘争にそらし、国民会議も右翼的なダラクした状態の中で自然成立をはばむ道は国会突入以外にない」とアジった。

 
この頃、警備側のトップ三井警視庁公安第一課長が、ブントの事務局を訪れている。「アイク訪日に対して全学連はどう動くか」の直接事情聴取であった。「『ブントは別に何もやらない。しかし、大衆の怒りがどう爆発するかは、分からない。統制ある指導をしたいと思っても、4.26以来、ブントの幹部はほとんどパクられているじゃないか。連中を早く返せ』といってやった。そのせいかどうかは知らないが、つかまっていた連中のうち、唐牛と篠原以外は、全員が保釈になった」(島氏談)と伝えられている。まさに丁丁発止の駆け引きであった。

 6.11日、23万5千人が国会、米大使館へ抗議デモ。


 6.12日、アイゼンハワーは予定通り訪日の旅に出発、6.14日、マニラに到着待機した。


【岸首相が、自衛隊出動を要請し、拒否される】

 この頃、岸首相は、防衛庁長官の赤城宗徳を呼びつけ、アイク訪日の際の警備に自衛隊の出動を要請している。赤城は、概要「それは、できません。自衛隊の政治軍隊としての登場は、支持が得られない。リスクが大きすぎる」と答えている。杉田一次陸上幕僚長も動かなかった。


【全学連の先頭部隊国会南通用門に突入、機動隊と衝突。樺美智子虐殺事件発生】

 この頃の学生運動につき、「第5期その3「60年安保闘争」、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離」に記す。

 6.15日、国民会議の第18次統一行動、安保改定阻止の第二次全国ストが遂行された。こ
の日未明から、国労.動労がストライキに入った。総評は、111単産全国580万の労働者が闘争になだれ込んだと8秒した。東京では、15万人の国会デモがかけられた。大衆は、整然たるデモを呼びかける共産党を蔑視し始めており、社会党にも愛想を尽かしていた。

 ブント系全学連は「国会突入方針」を打ち出し、学生たちを中心に数千人の国会突入が為された。この時右翼が、国会周辺でデモ隊を襲撃した。午後5時過ぎ、国会裏を通行中のデモ隊に、自称「維新行動隊」名の右翼が棍棒をふるって襲い掛かり、約80名が負傷した。これに刺激されたような形になり、先頭部隊が国会南通用門に突入突破した。京都から呼び寄せていた中執の北大路敏氏が宣伝カーに乗り指揮を取っていた。明大.東大.中大の学生が主力であった。当時のデモ隊は全く素手の集団だった。あるものはスクラムだけだった。午後7時過ぎ、警視庁第4機動隊2000名が実力排除を開始した。1500名の全学連部隊に警棒の雨が振り下ろされた。この警官隊との衝突最中にブント創設以来の女性活動家東大文学部3年生であった樺美智子が死亡する事件が起こった。

 午後8時頃、3000名の学生は再び国会構内に入り、警官隊の包囲の中で抗議集会を開いた。南通用門付近は異常な興奮と緊張が高まっていた。「社会党の代議士はオロオロするばかり。共産党幹部は請願デモの時には閲兵将軍みたいに手を振って愛想笑いを浮かべる癖に、この時は誰一人として出てこなかった」。午後十時過ぎ、再度の実力排除が行われ、警官隊は再び学生を襲撃した。都内の救急車が総動員された。この時の乱闘では死者は出なかったが、重軽傷者の数は増した。この日の犠牲者は死者1名、重軽傷712名、被逮捕者167名。

 この時都自連に結集した1万5000名の学生デモ隊は国民会議の統制のもとで国会請願を行っていた。夜11時過ぎ早大、中央大、法政大、東大などの教授たち1000名が教え子を心配して駆けつけたが、警視庁第4機動隊はここにも襲撃を加えている。現場の報道関係者も多数負傷している。

 門外に押し出された学生は約8000名で国会正門前に座り込んだ。11時頃バリケード代わりに並べてあったトラックを引き出して炎上させている。この間乱闘の最中、「今学生がたくさん殺されています。労働者の皆さんも一緒に闘ってください」と泣きながら訴えている。労働者デモ隊はそれに応えなかった。社会党議員は動揺しつつも「整然たるデモ」を呼びかけ続けるばかりで何の役にも立たなかった。


【樺美智子虐殺事件発生に見せた日共宮顕の対応】

 この時、ニュースで死者が出たことを聞き知った宮顕.袴田が忽然と自動車でやってきて、アカハタ記者にごう然と「だいぶ殺されたと聞いたが、何人死んだのか」と尋ねている。記者は「よく分からないが、自分ではっきり確認できたのは一人だけです」と答えると、「なんだ、たった一人か」、「トロッキストだろう。7人位と聞いていたが」と吐き捨てるようにいって現場を後にしたことが伝えられている。


【樺美智子虐殺に抗議し安保改定を阻止しようとする労・学五万人国会包囲デモ】

 樺美智子の死は瞬く間に伝わり、多くの人々の心をうった。特に東大では教授も学生も一斉に抗議行動に立ち上がり、教室は空っぽになった。6.16日樺美智子虐殺に抗議し、労・学5万人が国会包囲デモが行われた。国会南門通用門は樺さんの死を悼む献花と焼香の煙りで埋められた。

 6.16日、樺美智子虐殺に抗議し、労・学5万人が国会包囲デモが行われた。


【「6.15樺美智子虐殺事件」に関する社共の態度】

 日共は、当夜緊急幹部会を開き、この日の惨劇について声明を発した。岸内閣を批判した後に続けて、樺美智子の死をめぐって一片の哀悼の意をも示さぬまま、「トロッキストの挑発行為、学生を弾圧の罠にさらした全学連幹部、アメリカ帝国主義のスパイ」に責任があるという非難を行った。「我が党は、かねてから岸内閣と警察の挑発と凶暴な弾圧を予想して、このような全学連指導部の冒険主義を繰り返し批判してきたが、今回の貴重な犠牲者が出たことに鑑みても、全学連指導部がこのような国民会議の決定に反する分裂と冒険主義を繰り返すことを、民主勢力は黙過すべきでない」。

 社会党は、樺美智子氏の死に対して党としての指導力量不足であるとする見解を述べている。「社会党はかかる事態を防止するため数回、学生側及び警察側に制止のための努力をした。しかし力だ足らずに青年の血を流させたことは国民諸君に対し、深く責任を感じ申し訳ないと思う」。


【「60年安保闘争」に対する毛沢東の見解】

 樺美智子が虐殺されるや毛沢東は彼女を「日本人民の民族的英雄」と称えた。毛沢東談話が為され次のように紹介された。「勝利は一歩一歩とらえられるものであり、大衆の自覚も一歩一歩と高まるものである、と指摘した。毛沢東首席は、日本国民が反米愛国の正義の闘争の中で一層大きな勝利を勝ち取ることを祈った。樺美智子さんの英雄的な犠牲に対して、毛沢東首席は尊敬の意を表した。首席は、樺美智子さんは全世界にその名を知られる日本の民族的英雄となった、と述べた」。「人民日報」も、「中国人民は、岸政府の逆コースと、人民を虐殺する暴行に対して限りない憤慨を表明すると共に、死傷した日本の愛国的学生とその御家族に心からの慰問の言葉を送るものである」、「烈士の跡を踏みしめて前進せよ」と伝えた。

 彼女をトロッキストと指弾した日共指導部の態度と鮮明に食い違った。ここまで中共よりにシフトしてきていた日共と毛沢東との齟齬がこのあたりから表面化していくことになる。但しこの時点では、間接的な対立として内化する。 


【政府が臨時閣議で、アイク米大統領らの訪日中止決定】

 政府は、6.16日午前零時過ぎから急遽臨時閣議を開き、「樺美智子事件」の衝撃で不測の事態発生を憂慮することとなり、アイゼンハワー米大統領の訪日延期要請を決定した。佐藤栄作蔵相.池田隼人通産相らの強硬論と藤山愛一郎外相.石原国家公安委員長らの政治的収拾論が錯綜する中で、アイク米大統領らの訪日中止要請が決まったと伝えられている。

 岸首相は記者会見で、「都内の野球場や映画館などは満員でデモの数より多く、銀座通りも平常と変わりはない。これをもって社会不安というのは適当でない」と語った

 6.17日、「暴力排除と民主主義擁護に関する決議」を自民党単独で可決した。


【岸首相、自衛隊の出動を要請】

 いつの時点かはっきりしないが、岸首相はアイゼンハワー大統領の訪日に固執し、防衛庁長官赤城宗徳を南平台の私邸に呼んで自衛隊の出動を要請した。赤城はこれに反対し、内閣不一致をさらけ出した。

 当時の自衛隊陸上幕僚長杉田一次は、陸幕が「アイゼンハワー大統領訪日に伴う処理要綱(案)を完成し、大統領訪日に際し、諸行事にいささかも齟齬を来たさないような態勢ができつつあった」と、治安出動を含めた諸準備が為されていたことを明らかにしている。


【マスコミが「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を声明】
 6.17日、在京7社の大手新聞社(朝日、読売、毎日、日経、産経、東京、東京タイムズ)は、紙面に「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を発表、翌日には地方紙も同調して、同じ宣言を掲載している。「6.15日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった」とし、政府だけでなく、野党各党に対しても「この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の収拾に協力すること」を求めていた。

 6.17日、経団連など財界四団体も、「暴力排除と議会主義擁護」の声明を発表している。

 自然承認の日は目前に迫りつつあった。


 国会デモはその後も空前の動員数を示した。全国の各大学は自然発生的 に無期限ストに突入した。


 6.17日、社会党顧問・川上丈太郎が国会議事堂前で右翼に刺され負傷。


【新安保条約自然成立】

 6.18日、国民会議は、「岸内閣打倒.国会解散要求.安保採決不承認.不当弾圧抗議」の根こそぎ国会デモを訴えた。30万人が徹夜で国会包囲デモをした。ありとあらゆる階層の老若男女が黙然と座り込んだ。この時共産党の野坂は、宣伝カーの上から「12時までは安保改定反対闘争だが、12時以降は、安保条約破棄の闘争である」と馬鹿げた演説をしている。こうしているうちにも時計の針は回り、12時を越すと共に新安保条約は自然成立した。

 6.19日午前零時、新安保条約が参議院通過、自然成立、発効した。この時4万人以上のデモ隊が国会と総理官邸を取り囲んでいたが、自衛隊の出動を見ることもなく、事故なく終わった。イタリアの「ラ.ナチオー紙」記者コラド.ピッツネりは「カクメイ、ミアタラヌ」と打電している。毎日新聞に「こんな静かなデモは初めてだ。デモに東洋的礼節を発見した」とコメントつけている。

 この時のことを島氏はこう記している。

 「1960年6.18日、日米新安保条約自然承認の時が刻一刻と近づいていたあの夜、私は国会を取り巻いた数万の学生.市民とともに首相官邸の前にいた。ジグザグ行進で官邸の周囲を走るデモ隊を前に、そしてまた動かずにただ座っている学生の間で、私は、どうすることも出来ずに、空っぽの胃から絞り出すようにヘドを刷いてずくまっていた。その時、その横で、『共産主義者同盟』の旗の近くにいた生田が、怒ったような顔つきで、腕を振り回しながら『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』と誰にいうでもなく、吐き出すように叫んでいた。この怒りとも自嘲ともいえぬつぶやきを口にした生田−」(「文集」)。

 6.22日、第19次統一行動。総評.中立労連が政治ゼネスト第3波600万人、国会請願デモ10万人。党は、党組織を大挙動員する。都自連に結集した学生は8000名。


【岸首相退陣表明】

 6.23日、新安保条約の批准書交換、岸首相が 退陣の意思を表明。芝白金の外相公邸で、藤山・マッカーサーの間で批准書が交換されたのを見届けた後、岸首相は「ここに私はこの歴史的意義ある新条約の発効に際し、人心を一新し、国内外の大勢に適応する新政策を強力に推進するため、政局転換の要あることを痛感し、総理大臣を辞するの決意をしました」と辞意を表明した。


【岸退陣後の後継争い】

 岸辞意表明後、自民党内は後継人事に揺れることになった。川島正次郎幹事長が調整したが石井と池田の公選論が押し切り、池田隼人(通産相)、大野伴睦(副総裁)、石井光次郎(総務会長、朝日新聞出身の党人派)、藤山愛一郎(外相)、松村謙三らの面々5氏が立候補した。総裁選の投票日は7.13日に設定された。池田.大野決戦が予想され、池田優位といわれた。池田を擁立したのは、池田派、佐藤派、岸派。

 この時、岸派は三派に分かれた。岸は自派閥もまとめきれなかった。岸、赤木、椎名らは池田を支持するが、他方は池田を支持しない派で、石井を推す福田派と大野を推す岸派の大番頭・川島正次郎派に割れた。岸派に近い藤山愛一郎はみずから出馬した。かくして前総裁派閥である岸派はこの公選で3派ないし四派に分裂してしまった。

 大野を擁立したのは、大野派と河野派と川島派。石井を擁立したのは、石井派と三木武夫派。大野と石井は、第一回投票で上位になった方に決選投票で票を集めるという「二・三位連合」を組んだ。藤山は自派と福田派だけの立候補となった。


 岸退陣の動きの中で、農相福田赳夫は、岸の了解を得て、民社党委員長西尾氏を後継首相に担ぎ出した。「左翼にも影響力を持ち、自民党も社会党も支持出来る内閣」として白羽の矢が立った。「革新陣営で彼の右に出る現実政治家は見当たらない」(大野伴睦)と評価されていたからであった。福田は東京.麻布の知人宅で西尾と3回会った。しかし西尾は「西尾首班となれば、私は政治家としてここで死ぬことになる。西尾が日本のためもっと必要とされる時期があるんじゃないかと思う」として最終的に断った(福田「回顧90年」)と伝えられている。こうして西尾が棚ぼた政権を拒んだことにより、この構想は費えた。同時に非常にも歴史は二度と民社党に政権取りの機会を与えぬことになった。 

 この時池田擁立の裏方は大平が取り仕切っていた。その大平に知恵と手法を授けたのが佐藤派に置いていた田中であった。田中は「田中メモ」を大平に渡し、大平はこれを活用して采配を振るった。メモには、総裁選に関する政策の大綱から具体的な運動のやり方、金の使い方まで、重要なところは赤インクでびっしりと書かれていた。


【樺美智子国民葬】 

 6.23日、樺美智子国民葬。参加者約1万名。共産党は不参加を全党に指示した。その夜、全学連主流派学生250人が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」としたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。党は、これをトロツキストの襲撃として公表し、6.25日アカハタに党声明として「百数十人のトロツキスト学生が小島弘、糠谷秀剛(全学連中執)、香山健一(元全学連委員長)、社学同書記長藤原らに率いられて党本部にデモを行い、『宮本顕治出て来い』、『香典泥棒』、『アカハタ記事を取り消せ』などと叫んだが、党員労働者によって排除された」云々と顛末を報じている。


 この後まもなくデモ参加者も急速に潮を引いていくことになり、この辺りで「60年安保闘争」は基本的に終焉し、後は闘争の総括へ向かっていくことになる。6.25日「人民日報」は、「安保闘争における樺美智子を『日本の民族的英雄』と称えた」毛沢東の談話を掲載している。


【60年安保闘争の評価と後遺症】

 安保闘争は、南朝鮮の李承晩政府打倒の闘争と共に国際的にも高く評価された。国民会議が結成され、17次にわたる統一行動を組織し、社共統一戦線を作り出し、総評他の諸組織をこれに結合させていた。安保は改訂されたが、イゼンハワー大統領の来日を阻止し、岸内閣を打倒させた。政治的な偉大な経験と訓練を生み出した。この時代の青少年にも大きく影響を与え、政治的自覚を促した。この時から幾年か後、再び学生運動の新しい昂揚を向かえるが、この時蒔かれた種が結実していったともみなせられるであろう。

 党は、この一連の経過で一貫して「挑発に乗るな」とか「冒険主義批判」をし続け、戦闘化した大衆から「前衛失格」・「前衛不在」の罵声を浴びることになっ た。こうして安保闘争は、戦後反体制運動の画期的事件となった。「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌・出版物からも、鋭い党中央派批判を発生させた。「戦前派の指導する擬制前衛達が、十数万の労働者・学生・市民の眼の前で、遂に自ら闘い得ないこと、自ら闘いを方向づける能力の無いことを、完膚無きまでに明らかにした」(「擬制の終焉」60.9月)が実感を持って受けとめられた。「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌.出版物からも、鋭い中央派批判を発生させた。

 藤原春雄氏の「現代の青年運動」(新興出版社)は次のように記している。

 「党は、安保闘争の中で、闘争に対する参加者の階層とそのイデオロギーの多様性を大きく統一して、新しい革新の方向を示すことが出来なかった。逆に、違った戦術、違った思想体系、世界観の持ち主であることによって、それに裏切り者、反革命のレッテルを貼ることで、ラジカルな青年学生を運動から全面的に排除する政策を採った。その為、安部闘争以後の青年学生戦線は深刻な矛盾と対立を生んだ」。

 他方で、川上徹氏のような捉え方もある。次のように総括している。

 「このように極『左』的妄動の中心になって、挑発的、分裂主義者としての役割をはたしたトロッキストとの闘いの経験は、それ以降の運動の高まりの中で絶えず発生してくる小ブルジョア急進主義的傾向との、あるいはそれを利用するトロッキスト との様々な策動に対する民主運動、学生運動の闘いにとって豊かな教訓の宝庫となった」(著書「学生運動」)。
(私論.私観) 川上徹氏の60年安保闘争の総括について

 いろんな総括の仕方があるということだろうが、「道遠しの感がある」。

(私論.私観) 60年安保闘争の総括について

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」は次のように総括している。

 「60年安保闘争ではこの国民会議を中心に23次にわたる統一行動が繰り広げられることになるのだが、しかし、60年に入って新安保条約の調印、国会承認という正念場を迎えてもなお総評幹部たちの間からは『安保は重い』といったつぶやきが聞こえる有様で、春闘の賃上げ闘争と抱き合わせの形で時限ストを打つといった闘いが関の山であった。

 だが、それも当然であろう。というのは、彼らは安保闘争を単に平和主義、民族主義、民主主義の観点から提起したに過ぎず、何千万労働者大衆の搾取・抑圧に基礎をおくブルジョアジーの支配に反対し、そして今や再び帝国主義的な自立と発展の方向に歩み出そうというブルジョアジーの野望に反対する労働者の階級的な闘いの一環として安保闘争を位置づけ、組織しようとはしなかったからである。

 そして、社会党や総評に輪をかけてこの闘いを民族主義的な方向にねじ曲げ、解体し、足を引っ張ったのが共産党であった。宮本体制が確立しつつあった共産党は、新安保条約が『依然として対米従属の屈辱的条約』であると憤慨し、『安保闘争のほこ先をアメリカ帝国主義にも向けさせる』(『七〇年党史』より。文中『にも』などといっているが実際には反米民族闘争に還元)ことにこれ努め、また大衆闘争を『請願デモ』などの合法的な『整然たる行動』に押し込めるために狂奔した。そして、全学連などの自然発生的な闘いの高揚に恐怖し敵対し、それを『極左挑発行動』と非難し、彼らに『挑発者』、『トロツキスト』、『帝国主義の手先』等々のあらゆる悪罵・中傷を浴びせることに血道を上げたのである。

 こうして、60年安保闘争は社共の醜い日和見主義とその反労働者的な本性を白日の下にさらけ出し、労働の解放のためには社共に代わる新たな労働者党の創設がどうしても必要なことを決定的に明らかにした。この点でそれは大きな歴史的な意義を持ったのであった。

 あれから40年、これが真実であったことは、今では誰もが認めるところであろう。この日和見コンビはその後の資本主義の相対的な安定と繁栄の中ですっかり体制内に取り込まれ、その片方の主役であった社会党はその支持母胎であった総評もろともブルジョア的な堕落を重ねた挙げ句、組織的にも消滅してしまうという劇的な末路をたどり(今では見る影もない小政党にやせ細った社民党がわずかにその衣鉢を継いでいるに過ぎない)、もう一方の主役である共産党もまたその日和見主義を全面開花させ、『「対米従属』の色眼鏡は今なおかけたままだが、もはや『資本主義の枠内での改革』しか言わない俗悪な改良主義政党に転落してしまっている」。

【安保闘争後の共産党中央】

 安保闘争後、ブント全学連が挫折と混迷を深めたのに対し、共産党中央にはそうした陰は微塵も無く、ひたすら党勢拡大を目指していくことになった。袴田の「私の戦後史」によれば、「60年安保前」には、党員4万名足らず、アカハタ本紙4万部だったものが、闘争が峠を越した9月の時点で、党員8万名、アカハタ本紙10万部近くに倍増させていたとある。以降、この党勢倍増運動に拍車がかかっていくことになる。このことが際立った特徴となった。


 6.20−25日、ルーマニア労働者党第3回大会に米原中央委員が出席。大会参加の各国代表の会議でのフルシチョフの中国非難に同調せず、自主的態度をとる。


【民青同盟6回大会と共産党】

 この頃の学生運動につき、「第6期その1安保闘争総括をめぐって大混乱発生」に記す。

 
6.27−29日、先の「第7回党大会第9回中委総」の新方針に基づき日本民主青年同盟第6回全国大会。 同盟の新しい性格と任務を決定。「青年同盟の呼びかけ」と「規約」を採択し、同盟の基本的性格と任務を確立した。マルクス.レーニン主義の原則に基づいて階級的青年同盟の建設の方向を明らかにした。

 「60年安保闘争」後、民青同中央はいち早くポスト安保後に向けて指針していることが注目される。その様はブントが満身創痍の中分裂を深めていくのと好対照である。この時同盟中央が作成したよびかけ、規約をめぐって党中央と対立している。

 宮顕書記長が自ら大会方針に筆を入れ、青年同盟を「階級的立場の同盟ではなく、市民的民主主義を追求する民主的組織」とし、同盟の性格を「労働者階級を中心とする人民の民主主義の立場に立つ」等々訂正した。しかし、同盟6回大会では、宮本書記長の修正個所が批判を浴びて、当初同盟中央が決定したように「労働者階級の立場に立って、人民の民主主義的課題のため」に闘うよう改められた。

 この経過は党史で次のように述べられている。

 「党は、1960年(昭和35年)3月の第9回中央委員会総会第7回党大会で、日本民主青年同盟についての新しい方針を決定し、青年運動の発展に新局面をひらいた。民主青年同盟は、この新しい方針に基づいて同年6月に第6回大会を開催、『青年同盟の呼びかけ』と『規約』を採択し、青年同盟の基本的性格と任務を確立した。それは、新しい情勢のもとで民主青年同盟の当面する任務を、平和・独立・民 主・中立の日本の建設と青年の諸要求の実現の為にたたかうことにおき、その民主的大衆的性格と、『科学的社会主義』(『』は私の書き込み)を学び日本共産党の導きを受けるという共産青年同盟以来の先進的性格を統一したものであった。これによって、民青同盟は、それまでの性格と任務についての様々な混乱に終止符を打ち、その後の発展の確固とした基礎をおくことになった」 (「日本共産党の65年」165P)。

(私論.私観) 党史の欺瞞的記述について

 この文章の中に前述のいきさつを嗅ぎ取ることが出来るだろうか。本当にこのような観点から「民青同第6回大会」が勝ち取られたのだろうか。私は史実の偽造と受け取る。それと、この時点で「科学的社会主義」とかの表現を本当に使っていたのだろうか。実際には 「マルクス・レーニン主義」を学ぶと書かれていたのではないのか。この部分が書き換えられているとした場合、後に用法が例え転換されたにせよ、その時点で使われていた表現はそのまま歴史的に残して担保すべきではなかろう か、と思うが如何でしょうか。こうした改竄がやすやすとなされねばならない根拠が一体どこにあって、党中央はなぜそんなことまでするのだろうかが私には分からない。「プロレタリア独裁」についても同じ事だが、なぜ過去にまで遡ってかような修正をなす必要があるのだろう。どなたか執行部側の正義の陳述で説明していただけたらありがたい。


【日共の「第11中総」】

 6.29−7.1日、「第11中総」が開かれ、当面の安保闘争の発展と党建設についての幹部会報告を確認。訴え「愛国と正義の旗の下に団結し、前進しよう」などを採択。「安保反対の民主連合政府」を提唱。第8回大会を総選挙後に延ばすことに決定し、党員倍加運動に全党あげて取り組むことを決定する。

 7.5−6日、全国都道府県委員長会議において、山口県委員長の原田長司が、わずかに反中央的な発言をしたが、たちまち中央主流の松島から反撃され、つるしあげをくらう始末だった。 


【全学連第16回大会】

 この頃の学生運動につき、「第6期その1安保闘争総括をめぐって大混乱発生」に記す。

 7.4−7日、全学連第16回大会が召集された。 この時、全学連主流派は、全学連第16回大会参加に当たって都自連の解散を要求したようである。 この第16回大会こそ全学連統一の最後のチャンスであったが結局、民青系都自連と革共同関西派が締め出され、それらが別に大会を開いたので三派に分かれて開催されることになった。運動論・革命論や安保闘争についての総括について意見がそれぞれ違っても、全学連という学生組織の統一機関としての機能を重視すれば賢明な対処が要求されていたものと思われるが、既に修復不可能であったようである。


 こうして全学連第16回大会はブントと革共同全国委派だけの大会となった。代議員数は約270名、どうにか「定足数を上回る」状態であった。大会では、それぞれの派閥の安保闘争総括論が繰り返され、議論百出となりもはや求心力を持たなかった。

 委員長に唐牛、書記長に北小路を選出した。「6.19以後の学生と労働者、人民の闘いは、日本帝国主義が安保にかけた二つの政治的目標−国際的威信の確立と国内政治支配の確立−を反対物に転化せしめたがゆえに安保闘争は政治的勝利をもたらした」と総括し、60年秋こそ決戦だとした。


【民青同系が「全自連」結成に向かう】
 これに対し民青同系都自連は、全学連第16回大会参加を拒否された結果、自前の全学連組織を作っていくことになり、7.4−6日全国学生自治会連絡会議(「全自連」)を結成した。日共がこれを指導し、党員の学生がほぼその指導部を制していたが、もはや全学連指導部の奪還が不可能との判断で、全学連との対抗分裂組織をつくっていったということになる。

【自民党総裁選】
 大野の作戦は万全のはずであったが、大会直前になって波乱が起きた。次第に石井派、大野支持派が切り崩され、大野、河野、川島で対策を協議した結果、大野は「身を殺して、仁を為す。わしは降りる。石井君を推す」と述べ、「党人」政権のために立候補を辞退して石井を支持することになった。かくて、池田対石井、藤山の対決に収斂していった。幹事長で大野支持だった川島も、「わしは大野支持だったが、大野が辞退した今となっては石井を推す義理はない」として池田支持に鞍替えし、岸兄弟も「禅譲密約」を破って池田支持に傾き、この流れが大勢を決した。

 7.14日、自民党の総裁公選が行われ、池田は、自派に加え、佐藤派、岸派、川島派、決選投票の際には藤山派の支持を取り付け、石井は、自派に加え河野派、大野派の支持を取り付け関が原の戦いに向かった。

 第一回目の投票は、池田246票、石井196票、藤山49票、松村5、大野、佐藤各1となった。池田は過半数を制せず、池田・石井の決選投票になった。結果は、池田302票、石井194票で池田の圧勝となった。第4代自民党総裁に就任した池田の勝利は、吉田学校の復活でもあった。

 7.14日、首相官邸の中庭で池田首相の祝賀レセプションで、出席していた岸元首相が右翼の暴漢に襲われ刺傷する事件が起こっている。犯人は荒巻退助で、「岸は安保で不手際があった。このまま辞めさせる訳にはいかない」と供述したと云う。

 7.15日、第二次岸内閣総辞職。 辞任の理由を岸はこう述べている。

 概要「何か特別な党内事情があつた訳ではない。自発的に辞めたのです。一つは、安保改正が達成されたこと。その二は、アメリカ大統領の訪日をことわったという国際信義に背いたことの当然責任をとったということである。アイクをことよったのは治安に責任が持てなかったからです」。

【第一次池田内閣成立】
 7.19日、第一次池田勇人内閣が成立。池田を支えたのは、大蔵省以来の同僚で盟友の前尾繁三郎、大平正芳、黒金泰美、宮沢喜一、鈴木善幸、その他の秀才達であった。池田内閣は、池田派(入閣5名)・岸派(入閣3名)・佐藤(入閣3名)の三派を主流、これに石井派(入閣2名)、大野派(入閣1名)、川島、藤山派が支持する体制となった。河野派、三木派からの入閣はなく、冷や飯を喰うことになった大野、河野、三木派は反主流化する。この総裁選でキャスティングボートを握った川島は、小派閥の長ながら以後要所要所で影響力を発揮することになる。

 官房長官・大平正芳、幹事長・益谷秀次、総務会長・保利茂、政調会長・椎名悦三郎。法相・小島徹三、外相・小坂善太郎、蔵相・水田三喜男、文相・荒木万寿夫、厚相・中山マサ、農相・南条徳男、通産相・石井光次郎、運輸相・南好雄、郵政相・鈴木善幸、労相・石田博英、建設相・橋本登美三郎、自治省・国家公安委員長・山崎巌、行政管理庁長官・高橋進太郎、防衛庁長官・江崎真澄、経済企画庁長官・迫水久常、北海道開発庁長官・西川甚五郎。 

 池田は、「私の任期中は刑法改正も再軍備もしません」と声明した。まず経済復興からというのが信念であった。「忍耐と寛容」、「所得倍増」を旗印に掲げた。「経済のことはお任せください」、「毎年7.2%の成長確保で10年間で国民の所得を二倍にしてみせます」。所得倍増計画の骨子は、社会資本の充実、産業構造の高度化、貿易と国際経済協力の促進、人的能力の向上と科学技術の振興、二重構造の緩和と社会安定の確保の5つを柱としたものであった。

 年平均7.296%の成長を続ければ、10年間で所得が2倍になるという点にあり、その為の政府政策として、@・毎年1000億円以上の減税、A・公社債市場の整備、B・道路の整備や鉄道の近代化など公共事業の拡充を行う、としていた。この政策は見通し以上の効果を上げ、1973(昭和48)年のオイル・ショックが起きるまで年平均10%以上の成長を持続させ、この間に国民所得を約2倍半に拡大していくことになった。消費者物価の上昇があったにせよ、それを上回る所得となったことは疑いない。

 池田の政治姿勢は次の通り。
 「私はかって、いつ終わるともわからない長い闘病生活の間に、一つの堅い信念というべきものを持った。それは『人間はいかなる境遇にあろうとも、誠意を持って世のため人のために尽くし、自ら努力を怠らない限り、必ず生きていく道はある』ということである」(「均衡財政」)。
 「私は、それはそのまま一つの民族についてもいえることだと思う。8400万人というわが国の人口は、世界においても決して少ない数ではない。その8400万人が、誠心誠意、平和を愛し、人類の福祉を願って勤勉に働く限り、どうして生きていけなくなる筈があろうか。我々日本人が、今日ほど、他の民族から愛せられたことが、かってあったであろうか。私の接する外国人はみな日本人の勤勉を賞賛している」(「誠意と努力の哲学」序文)。
 「共産主義は予見できる将来において自由な民主主義に勝つことは出来ない」(新聞インタビュー記事)。

【社会党系構造改革派の動き】
 社会党内で、58.59年頃より、「構造改革の修行時代」と云われる構造改革路線の研究会が雌伏していた。貴島正道・加藤宣幸・森永栄悦が「構革三羽烏」と呼ばれ、その他レギュラーメンバとして、佐藤昇・松下圭一・田口富久治・増島宏・北川隆吉・中村賢二郎・上田耕一郎らがいた。佐藤昇や上田耕一郎はこの当時れっきとした共産党員であり、「月1回、一、二年のごく短い期間ではあったが、構造改革の旗の下に社共のワクを越えてこうした集いがあったことは日本の革新運動史上稀有のことではなかろうか」(貴島)と書かれている通りであった。その背景の問題意識として、「(従来式の古典的マルクス主義は)現代資本主義の変化をリアルに捉える眼を曇らせる教条の武器となり、現実の運動を指導する武器としては次第に遠いものに感ぜられるようになった」(貴島)気分があったようである。

 この流れが江田書記長に憑依していくことになる。

【60年安保知識人のその後の動き】

 安保闘争後、60年安保闘争のイデオローグの一人であった清水幾多郎氏は、香山健一もと全学連委員長らと「全学連を守る会」を作った。この会に森田実らも加わって、8月、「共産党の犯した重大な誤りについて徹底的な批判」を加え、非共産党的ラジカル左派の結集を呼びかけて、「現代思想研究会」を組織した。「現代思想」誌を発刊し、同時にキューバ革命1周年を記念して、講演と映画の夕べ「キューバ革命」を開催したりした。

 先に雑誌「現代の理論」の発刊禁止ののち、現マル派の理論家たちは、主に「経済分析研究会」に拠り、季刊「日本経済分析」などによってその影響を強めた。安東仁兵衛.佐藤昇.長洲一二.石堂清倫.井汲卓一.前野良.大橋周治.杉田正夫、その他の論客たちが結集していた。国家独占資本主義や日本帝国主義の復活の問題に取り組み、労働運動の転換の必要を提起した。またイタリアのトリアティの理論及びイタリアの共産党の構造改革の路線を紹介しつつ、党及び労働運動の流れを、反独占社会主義革命の現実的・具体的な展開として「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」へと向かうべきと主張した。これが新政治路線として左翼ジャーナリズムをにぎわかしていくことになったが、「平和共存」時代における「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動を指針させようとしていたことになる。次第に日本の反独占社会主義革命の戦略をイタリア構造改革方式の適用によって具体化しようとする傾向に統一されていった。それは日本の権力を独占資本の権力として規定し、平和.民主.独立.生活向上の為の闘争を反独占を基調に置いてとらえつつ、反独占社会主義革命の現実的.具体的な展開を構造改革の政治路線として確定しようと云うのであった。こうした構造改革的見解は左翼ジャーナリズムに大きく進出し、党主流の2段階革命の戦略方針と対決する姿勢となってきた。

 佐藤昇氏は、「構造改革論は、イタリア一国の枠を越えて西欧の資本主義国の共産党の共通の路線として確認された」として、構造改革論を次のように規定していた。

 「構造改革は、民主主義革新ないし改造とも呼ばれ、社会主義革命による根本的変革に先立って、独占資本主義の政治経済構造を民主主義的に改造し、それによって独占支配の基礎を掘り崩し、反独占統一戦線を作り上げ、階級的力関係をかえ、社会主義への道を切り開こうとするもので、独占の政策変更とその部分的変革を目指す闘いである」。 

【共産党系構造改革派の動き】

 ここで、この当時党内外に発生した構造改革派の動きを見ておく。党内では、この間引き続いて宮顕が起草した「党章草案」をめぐって春日(庄)グループが激しく反対していた。これを構造改革派という。

 ここで構造改革論について見ておくことにする。構造改革論の源流は、イタリア共産党書記長トリアッチの提言から始まるようである。彼は、ソ連共産党第20回党大会における演説で、「イタリア共産党は、10月革命の道をしないで、イタリアの道を歩むであろう」と述べ、ついで帰国後は、国際共産主義運動の「多中心性」を提言すると共に、イタリア共産党第8回党大会において、資本主義諸国が社会主義に向かう道の一つとして「社会主義へのイタリアの道」を決定した。

 その主張するところによれば、「現在では、民主主義的制度に対する圧倒的多数の人民の積極的な支持と経済構造の改革と勤労大衆の闘争によって、支配者である資本家階級の暴力を阻止できる条件が出来ている。この民主主義的諸制度は、独占グループの階級的な試みに対抗して、これを発展させることが出来るものである」との認識に立って、「イタリア共和国憲法を尊重しつつ、ファシズムに代わって登場した独占との闘いの為に、労働者、大衆の広 い戦線として、これを動員して、国民の多数を左翼に獲得し、憲法に示されている経済、政治などの諸構造の改革を、当面の目的として社会主義建設への道を前進する」というものであった。

 つまり、構造改革派とは、言ってみれば、資本主義の内部における 「反独占民主主義」によって資本主義を改良し、資本主義の外部にこれに代わる「人民民主主義」、即ち「社会主義的民主主義」の建設を目指すということになる。プロレタリアートの独裁についても、「社会主義社会の建設は、 資本主義を打倒する革命、社会主義の勝利、共産主義への移行などの間に過渡的な期間を設定する。この過渡的な期間に於いては、社会の指導は、労働者階級及びその同盟者に属しており、プロレタリア独裁の民主的性格は、旧支配階級の残存に反対し、圧倒的多数の人民の利益において、この指導が実現されると云う事実から生まれている」(1956.6.24.イタリア共産党 中央委員会報告)としていた。この理論が構造改革論と言われるようになり、 春日(庄)グループらが宮顕系党中央に反対する論拠としてこれを採用することになった。

 こうして誕生しつつあった春日(庄)ら構造改革派は、「党章草案」に見られた戦後日本の国家権力の性格規定においてのアメリカ帝国主義による「従属」規定に対して、日本独占資本の復活を認めた上での日本独占資本主義国家または帝国主義の「自立」として規定し、そこから当面の革命の性質を、 「党章草案」的ブルジョア民主主義革命から始まる二段階革命論に対し、社会主義革命の一段階革命論を主張することにより党中央と対立した。

 興味深いことは、構造改革派の社会主義革命の一段階革命論は、新左翼系の革共同・ブントとも同じ見方に立っていることであり、左派的な主張であったということにある。が、構造改革派の特徴は、この後の実際の革命運動の進め方にあり、「平和共存」時代における「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命→改革運動を指針させようとしていたことにあった。つまり、見方によっては、実践的には「敵の出方論」を採用していた党路線より右派的な革命路線を志向しようと していた訳であり、他方で日本の革命方向は社会主義革命であるというヌエ的なところがあった。こうした構造改革論は宮顕式綱領路線と相容れず、宮顕はこのちぐはぐ部分を見逃さず、右派理論として一蹴していくことになった。

 ところで、以上のような解説以外に付け加えておくことがある。どうやら、春日(庄)ら構造改革派の離党には、「60年安保闘争」におけるブント指導の全学連の評価問題が絡んでいたようであり、春日(庄)らは、ブント的運動を宮顕系の言うようなトロッキストの跳ね上がりとはみなさず、党指導による取り込みないし連帯を指針させていた節がある。こうした見解の対立のほかに遠因もあった。かの党分裂時代に春日らは国際派に属したが、所感派の党の団結と統一の呼びかけに呼応したのが春日グループであり、最後まで頑強な抵抗を見せたのが宮顕グループであった。つまり、こうした春日派と宮顕派の折り合いの悪さが内向しており、この機に抜き差しなら無い対立へと浮上していったともみなせる。

 結果は、党中央を掌握していた宮顕派が優位に立ち春日(庄)派が党を飛び出していくこととなった。「六全協」以降の椎野.志田グループ追い出しに次ぐ第二弾の粛清となった。こうして、翌61年の第8回党大会に至る過程で春日(庄)ら構造改革派は除名され、集団離党していくことになる。その学生戦線として民青同の幹部が連動し分派を結成していくことになるようである。
ちなみに、現在の党路線とは、外皮を宮本系の民族的民主主義革命から始まる二段階革命論で、中身を構造改革系の「平和・ 民主・独立・生活向上の為の闘争」に向かう「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動と連動させていることに特徴が認められる。これは、若き日より不破委員長自身のイデオロギーが構造改革系寄りであったことと関係していると思われる。


【宮顕の秘書グループ暗躍】

 7月、三井三池の会社側は、機帆船4隻で第二組合員を入坑させようとし、第一組合と衝突し、警官隊も含めた乱闘で300名が負傷した。第一組合は三川鉱ホッパーをピケで固め出炭を阻止した。裁判所は、ピケの排除を内容とする仮処分を決定した。総評、炭労側は、全国から2万人の組合員を動員して仮処分の実力阻止をはかった。警察側も1万人を動員して執行の支援にそなえた。


 7.17日、全学連、三池争議に3 50名の支援団派遣。


 7.18日、宮顕書記長、「三井三池の闘争に全党から応援隊を」と呼びかける談話を発表。 


【ブント第5回大会】「戦後学生運動・安保闘争総括をめぐっての大混乱期」の項で概述)

 この頃の学生運動につき、「第6期その1安保闘争総括をめぐって大混乱発生」に記す。

 7.29日、ブント第5回大会が開催された。この大会は大混乱を極めた。「60年安保闘争」が事実上終息し、安保闘争の挫折が明らかになったことを受けて、「ブント−社学同−全学連」内部で、安保条約の成立を阻止し得なかったことに対する指導部への責任追及の形での論争が華々しく行なわれることになった。論争は、この間のブント指導の急進主義的闘争をどう総括するのか、その闘争の指導のあり方や、革命理論をめぐっての複雑な対立へと発展させていくこととなった。ブント書記長・島氏は燃え尽きており、既に指導力を持たなかった。この過程で指導部に亀裂が入り、この後8.9日から10月にかけて東京のブント主流は三グループ(それぞれのグループの機関紙の名前をとって、革命の通達派と戦旗派とプロレタリア通信派)に分かれていくことになった。

 革命の通達派は、「もっと激しく闘うべきであった」と「もっと左から」総括した。8.14日いわゆる星野理論と言われる「安保闘争の挫折と池田内閣の成立−安保闘争における理論的諸問題」を発表して、ブ ント政治局の方針を日和見主義であったと攻撃した。それに拠れば、「安保闘争の中で、現実に革命情勢が訪れていたのであり」、「安保闘争で岸政府打倒→政府危機→経済危機→革命」という図式で、権力奪取のための闘いを果敢に提起すべきであったという。「ブントの行動をもっと徹底して深化すべきで あった」、「政治局は階級決戦であった安保闘争を過小評価した」と左から批判した。革命の通達派は東大派とも言われ、東大学生細胞の服部信司・星野中・長崎浩らによって構成されていた。

 これに対し、戦旗派は、ブント的闘争を否定する立場に立ち、「やや右から」、「組織温存の観点が欠落した一揆主義であった」と総括した。11.11日「小児病的空論主義粉砕−プロレタリアート党建設の為『戦旗』の旗のもとに結集せよ」で、革命の通達派の主張を「「笑うべき小児病的主観主義」、「小ブル急進主義」と規定し、革命の通達派的総括は「前衛党建設を妨害する役割しか果たさない、マルクス主義とは縁のない思想だ」と反論した。彼らに拠れば、概要「この間のブント的指導は、安保闘争の中で前衛党の建設を忘れ、小ブル的感性に依拠した小ブル的再生産闘争であり、プチブル的運動でしかなかった」、「その根源はスタ ーリニズムに何事かを期待する残滓的幻想にあり、前衛党建設のための理論的思想的組織活動の強化を為すべきであった」と主張した。革共同の影響を受けた総括をしたことになる。戦旗派は労対派 とも言われるが、森田実・田川和夫・守田典彦・西江孝之・陶山健一・倉石・ 佐藤祐・多田・鈴木・大瀬らが連なった。唐牛委員長・社学同委員長篠原浩一郎もこの派に属したようである。

 プロレタリア通信(プロ通派)派は、全学連書記局派とも言われるが、「両者の中間的立場に立って」、「ブント=安保全学連の闘いは正当に評価されるべきだ」と主張した。9.18日「プロレタリア通信」復刊第一号で、戦旗派を概要「マル学同と陰に陽に一致しているらしい、反論の必要も認められないほどのブント内部の日和見主義的部分」とみなした。革命の通達派に対しては、「同盟の革命的再生にとって最悪なみの」と批判した。この派には、青木・北小路敏・ 清水丈夫・林紘義らが連なった。

 こうして、安保闘争の総括をめぐって「ブント−社学同−全学連」の分裂が必至となった。つまり、ブントは結成からわずか2年で空中分解することになった という訳である。結局ブントは、革命党として必須の労働者の組織化にほとんど取り組まないうちに崩壊したことになる。60年始め頃から露呈し始めていたブントの思想的・理論的・組織的限界の帰結でもあった。こうしたブントの政治路線は、「革命的敗北主義」・「一点突破全面展開論」と言われる。これをまとめて「ブント主義」とも言う。ただし、この玉砕主義は、後の全共闘運動時に 「我々は、力及ばずして倒れることを辞さないが、闘わずして挫けることを拒否する」思想として復権することになる。

 こうして東京のブントは分裂模様を見せたが、「関西ブント−社学同」は独自の安保総括を獲得して大きな分裂には至らなかった。東京ブントにあって、明大や中大ブントは分裂せずに独自の道を歩んだ。この流れがのちの第二次ブント再建の中心となる。ここまでの軌跡を第一次ブン トと言う。


 このブント創出から敗北と崩壊の過程について、島氏は、戦後史の証言ブントの中で次のように語っている。

 「確かに私たちは並外れたバイタリティーで既成左翼の批判に精を出し、神話をうち砕き、行動した。また、日本現代史の大衆的政治運動を伐り開く役割をも担った」、「あの体験は、それまでの私の素質、能力の限界を超え、政治的水準を突破した行動であった。そして僅かばかりであったかも知れぬが、世界の、時代の、社会の核心に肉薄したのだという自負は今も揺るがない」、「私はブントに集まった人々があの時のそれぞ れの行動に悔いを残したということを現在に至るも余り聞かない。これは素晴らしいことではないだろうか。そして自分の意志を最大限出し合って行動したからこそ、社会・政治の核心を衝く運動となったのだ。その限りでブントは生命力を有し、この意味で一つの思想を遺したのかも知れぬ」、「安保闘争に於け る社共の日和見主義は、あれやこれやの戦略戦術上の次元のものではない。社会主義を掲げ、革命を叫んで大衆を扇動し続けてきたが、果たして一回でも本気に権力獲得を目指した闘いを指向したことがあるのか、権力を獲得し如何なる社会主義を日本において実現するのか、どんな新しい国家を創るのか一度でも真剣に考えたことがあるのか、という疑問である」。

(私論.私観) ブントの解体をどう観るか


 池田内閣は、三池対策の急務を説く財界の要請をうけて収拾工作にのりだした。労組側にピケの撤去と、中労委のあっせん案に応じることを勧告するとともに、この平和的解決に難色をしめす三井鉱山側を説得した。総評は、中労委への解決一任を呑まざるを得なかった。8.10日、中労委あっせん案が示されたが、その内容は指名解雇を認めるものだった。


【ソ連と中国の対立表面化】

 8月、ブカレスト会議で、フルシチョフが突然、中国を罵倒する演説を行った。以降、8月から9月にかけて、中国内のソ連技師数千名の総引き揚げとなった。これにより、中国の建設途上の工事がストップとなり投げ出された。黄河の大建設工事、山門峡の工事、内蒙古の大発電所建設工事、武山の大製鉄工事などの谷設計図他の青写真まで引き上げられた。こうしてソ連と中国の対立は後戻しのきかない事態に突入した。


 8.31日、ソ連は突然核実験を再開した。革共同派とその学生同盟組織であるマル学同は直ちに米ソ核実験反対闘争を提起した。広範な学生の支持を受け、多くの学生自治会の役員選挙で勝利を得た。


 9月、アカハタ紙上で党指導の批判者への攻撃を続ける。党内構造改革論者は党外出版物で活動する。


【池田内閣が「所得倍増政策」発表】

 9.5日、池田内閣が「所得倍増政策」発表。


 9月、清水.浅田・三浦・香山らが「共産党の犯した重大な誤りについて徹底的な批判」を加え、非共産党の新左翼への結集を呼びかける「現代思想研究会」が発足した。清水幾太郎責任編集の下に理論研究誌「現代思想」が発刊されていくことになった(昭和36.6.23日国鉄東局特別扱承認雑誌第1100号)。

(私論.私観) 「現代思想」の役割と紆余曲折について

 手元に「現代思想」昭和36年10月号がある。今これを読むのに、この頃の宮顕系共産党の虚妄をいわば的確に指摘しており、理論水準は高いというべきであろう。問題は、ここでも宮顕運動=共産党本筋運動=スターリニズム運動とする観点からの批判であり、宮顕運動がいかに本来の左翼運動からの異邦人的なそれであるのかの視点が無いことに気づかされる。

 この観点の齟齬により、反宮顕運動の果てに反「共」運動化していく素地が醸成されていくことになったものと思われる。しかしてそれは、宮顕のもう一つの狙いであり、その掌に乗っていると見なさねばならぬ。そういう限界があったことが惜しいように思われる。


【浅沼社会党書記長刺殺される】

 池田首相は、総選挙の投票日を11.20日頃に設定し、その為の解散国会(第36臨時国会)を10.17日に召集した。こういう背景で、10.12日、日比谷公会堂にて選挙管理委員会主催の「三党立会演説会」が開催されることになった。三党首とは、池田自民党総裁、浅沼社会党委員長、西尾民社党委員長で、テレビ・ラジオを通じて全国放映されることになった。

 10.12日、浅沼社会党委員長が、日比谷公会堂に於ける自民・社会・民社の立ち会い演説中に大日本愛国党員山口二矢(17歳)によって刺殺される。山口は、事件の背景を語ることなく、11.2日に東京少年鑑別所で自殺「」している。


 池田首相の追悼演説(衆院本会議)は次の通り。

 「沼は演説百姓よ。汚れた服にボロカバン、今日は本所の公会堂、明日は京都の辻の寺云々」。

 社会党河上丈太郎の演説(衆院本会議)は次の通り。

 「本日、私は、この本会議場において、今はなき淺沼君のために、党を代表して演壇に立っております。この際、私は、無量の感慨をもって、今を去る三十一年前の昔のことを思い出します。昭和三年、わが国に初めて普通選挙が実施され、私もまた、革新陣営を代表する初の無産政党議員の八人の一人として国会に選出されたのであります。当時の八人の中で今日議席を持っているのは、西尾君と水谷君と私の三人になっております。昭和四年三月五日の夕刻のことであります。その八人の同志の一人、山本宣治君が、右翼に殺されました。私は、その死を追悼する意味において、その翌日、衆議院の本会議において、質問の形式をもって演説をいたしたのであります。その私が、三十一年後の今日、このたびは私の最も敬愛してきた淺沼君が凶刃に倒れ、その死に関連して政府に対して質問をいたさなければならないことは、私にとって、まさに断腸の思いであります。(拍手)

 山本宣治君は、治安維持法の緊急勅令に最も強い反対者でありました。そのとき、私は次のようなことを申したのである。『山本君の死は、今日のうっせきしているところの、日本の陰うつなるところの反動政治と反動思想との犠牲であると、かたく信ずるものであります。』、『私はこの意味を探らなければならない。来たるべき将来の民衆は、この山本君の死と、そうして治安維持法――通過されたこの案に絶大なる意義を見出して、山本君のしかばねを踏み台として、将来の民衆が再び立つときがあるであろうと私は信ずるのであります』。こう私はその際演説で述べたのであります」。

【社会党第19回臨時党大会】

 浅沼委員長刺殺事件の翌日社会党第一九回臨時大会が開かれた。急遽浅沼委員長の追悼集会となったが、後任については「総選挙終了まで空席とし、委員長事務は江田書記長が代行する」ことが、満場一致で承認された。この時、江田書記長は、後の「構造改革路線」の走りともなる方針案を提起していたが、ほとんど討議も行われないまま大会決定となった。 「構造改革」路線は炭労の石炭政策転換闘争などとして展開され、党内に激しい論争を呼び起こした。

 このことは、先に民社党が出て行ったことにより社会党は左派一色に成ったわけではないということを語っている。「河上派といった残留組に加えて、安保闘争が終息した直後、今度は『構造改革論』を掲げた新右派勢力=江田派が登場してくるのである」(社労党「日本社会主義運動史」)。

 ちなみに、運動方針には「独占資本の構造改革」に対決する「われわれの構造改革」なるものが盛り込まれていた。これは従来の「抵抗闘争」や「恐慌待望論」的な闘いでは「国民諸階層の生活向上」を勝ち取ることはできない、「われわれが政権に参加する以前においても、保守政権に対して、政策転換の要求として、強力な大衆運動を背景にせまらなければならない変革である」(方針書)と説明されていた。

(私論.私観) 江田三郎の「構造改革路線」の評価について

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように記している。

 「『抵抗闘争』への批判は安保と同時に闘われた三池闘争における向坂協会流の『合理化絶対阻止』とかの狭い急進組合主義の破綻をついて持ち出されて来たものである。『構造改革論』はイタリア共産党の構革理論の受け売りで、宮本体制からはじき出された佐藤昇ら共産党系の構革派が江田のブレインとなって社会党に持ち込んだものである。62年7月の『江田ビジョン』が端的に示しているように、それは『米国の生活水準の高さ』、『ソ連の徹底した社会保障』、『英国の議会制民主主義』、『日本の平和憲法』の四つの指標を掲げ、その実現をめざして改革を積み重ねていくというものであり、ベルンシュタイン流の露骨な改良主義以外の何ものでもなかった」。

 10.17日、池田首相は、浅沼追悼演説を行っている。追悼文が読まれ始めると、衆院本会議場は粛として声なく、社会党議席はいうまでもなく、自民党議席からも目頭を押さえる光景が見られた。この演説は池田政権の発足時の危機を乗り切らせることにもなった。


【社青同の結成】

 この頃の学生運動につき、「第6期その1安保闘争総括をめぐって大混乱発生」に記す。

 10.15日、社会党の青年運動組織の結成がなされた。社会主義青年同盟 (社青同)の誕生である。遅まきながら社会党は、党の民青同育成方針にならって、ポスト安保直後のこの時点で自前の青年運動創出の必要を党議決定し、 誕生させたということになる。社青同は、階級的な青年運動を志向していた。社会党内の左派的潮流を形成していく。同盟の性格と任務として、「独占資本の攻撃に対する統一政策、政治路線、組織路線を明らかにし、活動家の大同団結による青年の強大な戦線をつくり、指導する青年同盟」とし、「労働青年を中心に各層青年の先進的活動家の結集体」、「すぐれた活動家の個人加盟組織」、「日本の社会主義革命の勝利の為に闘う政治的実戦部隊」とする階級的な青年運動を志向していた。

 特徴的なのは社会党との関係であり、「一応社会党から独立した組織とし、現在の社会党に対しては批判はあるが、これを支持し、社会党との間に正式に協議会を持ち、社会党大会には支持団体 として代議員を送る」関係として位置づけた。つまり、党と民青同との関係ほどには統制しない緩やかな組織結合を目指したということになる。この社青同は この後社会党内の左派的潮流を形成していくことになる。ブント運動の花粉が意外なところに運ばれ結実したとも考えられる。


 10.20日、第23次全国統一行動、全国40カ所で新安保反対・浅沼暗殺抗議全国大会。

 この頃社会党の江田三郎書記長が、トリアッチ路線に範をとった構造改革路線を提唱。左派の「改良主義批判」によって葬り去られた。


 10.24日、池田首相が衆院を解散。「安保解散」と云われる。


 11.1日、三井三池争議で、総評、炭労ともに中労委裁定の受諾を決め、ついに三池争議は収拾にむかった。この間、最高時には1日1万人以上の警官隊が動員され、3月から12月にかけての警官動員数は延べ74万人といわれ、安保闘争ピーク時の43万人をはるかに上回るものであった。これにたいし、総評など組合側は、全国から延べ37万人を動員したといわれた。三池闘争は戦後15年間の労働運動の総決算の意味をもっていた。


【第29回衆議院議員総選挙】
 11.20日、第29回衆議院議員総選挙(池田首相、前尾繁三郎幹事長)が行われ、自民党と社会党が善戦し、民社党が大幅に議席を減らした。政権交代可能な健全野党を標榜していた西尾・民社党は緒戦で致命的な打撃を受ける格好となった。自民党は保守系無所属議員の入党で300議席の衆院勢力となった。内訳は、自民党当選議席296名(改選前283、+13)、社会党145(122、+23)、民社党17(40、−23)、共産党3(1)。

 日共は、得票数11 5万6733票(2.9%)獲得し、前回の101万を14万増やした。安保闘争の中心地東京では、前回より1万票少なく、得票率も前回より0.6パーセント減らしていた。議員数は前回の1名に対し3名当選(大阪1区志賀義雄、同2区川上貫一、京都1区谷口善太郎)した。自民296、社会145、民社17、諸派1、無所属5。結党したばかりの民社党は38議席から17議席へと大きく転落した。自民党は保守系無所属に入党を加えて300名の大台に乗せた。 


 自民党の派閥を見ると、池田派が55議席、佐藤派53議席となり、池田派が第一派閥に躍進した。

【「81カ国共産党.労働者党会議の声明」】

 11.10−12.1日、「81カ国共産党.労働者党代表者会議」に、党代表団団長宮本書記長・袴田・西沢富夫・米原が参加した。モスクワ会議への代表派遣という重大問題について中委総会にはからず、単に全員でない幹部会をも っただけで勝手に決めた。結局自分らの派閥だけで代表を決定した。

 1957(昭和32)年の12カ国共同による「モスクワ宣言」からまる3年経過していた。大会は、予備会議と本会議を通じて国際共産主義運動の諸問題(兄弟党の相互援助、帝国主義の性格付け、民族解放闘争の評価、平和共存の意義、戦争の不可避性の問題、ユーゴ修正主義を廻って、革命の平和的移行の可能性について、国際連帯と団結について等々)について討論が行なわれた。アルバニア労働党第一書記のエンベル・ホッジャが「ソ連は、マルクス・レーニン主義の原則に反した大国主義である」と激しくフルシチョフ批判をしたことが注目される。本会議は、予備会議から本会議までえんえんと二カ月間も続いた会議となった。

 「共産党・労働者党代表者会議の声明及び全世界諸国人民への呼びかけ」が全員一致で採択された。12.7日モスクワにおける「81カ国共産党・労働者党会議の声明」が発表された。57年秋に出されたモスクワ宣言を受け継いだ今度の新声明は、世界の共産主義運動の綱領的文書たる意図を持ち、全世界の民主主義・社会主義の勢力に共通の方向と方針を与えようとするものだった。

 中ソ共産党が再び衝突したが双方の意見を取り入れる形で折衷させた。中ソ対立の背景には、国際共産主義運動の在り方を廻っての思惑の違いがあった。ソ共はこれまで通りの一元的指導を当然視し、中共はこれまでのソ共の指導に疑問をもち始めており二元的在り方を追及しようとしていた。「フルシチョフと毛沢東との『大国主義』の対決」でもあった。対立の要点は、フルシチョフの新路線問題、「革命の平和的移行」理論について、中印国境紛争、朝鮮戦争時の両国の対処の仕方を廻って、原爆の製造技術供与等々果てしなく及んでいた。

 イタリアの構造改革コースをめぐる西欧 での対立的見解をも適宜に取り入れた。こうして折衷的産物を生み出す会議となった。

 声明は、アメリカ帝国主義を、「最大の国際的搾取者」、「世界反動の支柱」、「国際的憲兵」、「全世界人民の敵」と規定し、「現代は資本主義の全般的危機の発展と社会主義の有利な力関係の変化、勝利の時代である」、「社会主義世界大勢の力量と国際的影響力の急激な成長、民族解放運動の打撃による植民地体制の著しい崩壊の過程、資本主義世界における階級闘争の激化、資本主義世界体制の一層の衰退と腐朽である。世界の舞台では、帝国主義に対する社会主義勢力の優位、戦争勢力に対する平和勢力の優位がますます明らかになっている」と宣言していた。この頃フルシチョフは「アメリカに追いつき追い越す」、毛沢東は「東風は西風を圧している」と豪語していた。
 
 声明は、各国共産党の自主性、独立性、平等性を次のように強調していた。

 「全てのマルクス・レーニン主義党は、独立した平等の党であり各国の具体的情勢に応じ、マルクス・レーニン主義の諸原則に従って、それぞれの政策を立て、しかも互いに支持しあっている。それぞれの国の労働者階級の事業を成功させるためには、全てのマルクス・レーニン主義党の国際的連帯が必要である。それぞれの党は自国の労働者階級と勤労者に対して、国際的な労働運動、共産主義運動全体に対して責任を持っている」。

 同時にソ連共産党の位置と役割について、次のように述べている。

 「各共産党.労働者党は、国際共産主義運動のもっとも経験豊かな、鍛え上げられた部隊であるソ連共産党が、世界共産主義運動の一般に認められた前衛であったし、今後も引き続きそうであることを一致して声明する。‐‐‐その経験は、国際共産主義運動全体にとって原則的な意義を持っている」、「労働者階級の事業の勝利を目指して闘うには、各共産党の隊列と万国の共産主義者の大部隊の統一をますます強く団結させ、その意思と行動を統一しなければならない。国際共産主義運動の統一を不断に強化することに心を使うことは、それぞれのマルクス・レーニン主義党の最高の国際的義務である」。

 毛沢東は、「ヘビにも頭がある」として、指導的党の存在を容認。日本共産党もまた「ソ連共産党の役割に特別な意義づけ、いわば世界を指導する党という意義づけを与えようという提案」に反対し、イタリア共産党の妥協的仲介を拒否し、80数項目の修正を提案(宮本談話-1991.9.26.赤旗)する等「自主独立路線」的見地から異議を唱えつづけた。「中ソ論争の収拾を目的としたが、失敗」と評されているが、正確には国際共産主義運動の分裂の促進にひとはだもふたはだも脱いだ格好である。

 日本革命に関する指針として、 「ヨーロッパでは社会主義革命、日本では反帝反独占の民主主義革命」と規定され、「アメリカ帝国主義の政治的・経済的・軍事的支配にあるヨーロッパ以外の発達した個々の資本主義諸国」のために、民族独立民主主義革命と社会主義革命との二段階の戦略的な任務が指示されていた。この時、日本代表団は、「アメリカ帝国主義の政治的経済的支配下にあるヨーロッパ以外の個々の資本主義諸国」という悪名高い項をいれさせ日本における民族問題の主張を裏付ける根拠とさせたといわれている。

 党内にこの規定をめぐって論争が生じた。党中央派は、旧党章草案の基本路線が支持されているのだと主張し、反党章派の構造改革派は、反対に日本の構造改革コー スに基づく社会主義革命の方針の正しさが立証されていると主張した。問題は、モスクワ声明を権威の拠り所として双方が見解の正しさを証明しようとしていたことにあり、そういう日本における革命コース方式を何らかの国際的基準によって権威付けよ うとする双方の国際権威主義の態度そのものに存在した。

 なお、国際共産主義運動におけるソ連.中国共産党の指導権威をめぐって遣り取りされた模様である。毛沢東は「ヘビにも頭がある」として、指導的党の存在を容認したが、日本共産党代表団はこれに反対し、イタリア共産党の妥協的仲介を拒否したほか80数項目の修正を提案したと云われている(宮本談話-1991.9.26.赤旗)。

(私論.私観) この時の「日本の現状規定論争」秘話について

 袴田は、「私の戦後史」の中で、貴重な史実を明らかにしている。それによると、袴田が従属規定による民主主義革命論を演説したのに対し、オランダやイギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国の代表がこぞって反対したということである。特に東ドイツ(ドイツ社会主義統一党)代表が、「日本は、既に充分発達した資本主義国ではないか。それなのに、アメリカに従属しているとか、独立闘争が必要だとか、民主主義革命だとか、何をとぼけたことを云うのか。社会主義革命こそ、あなたたちの課題ではないか」と絡んできたということである。当然ながら、袴田はこれに反論しているが、対米従属規定の疑義に関わる重要な逸話であるように思われる。

 この時、ソ連と中国の対立問題について、アジアの共産党幹部が集まり、フルシチョフと話し合いをしている。日本からは宮本・袴田他、北ベトナムからはホー・チ・ミン、第一書記のレ・ズアン、インドネシアのアイジット議長など、7、8人で「技師の引き上げ」に抗議したと伝えられている。

 この会議の後、アルバニアがフルシチョフのスターリン批判を批判したため、ソ連は同国への経済援助を停止して断交したが、中国はアルバニアの要請で同国への援助を約した。こうして中ソ対立は国際共産主義運動の団結に亀裂を波及させていくこととなった。両国共産党の対立は国家関係の対立へと発展していった。


 12月、「第14中総」は、選挙結果の評価で意見が対立した。「総選挙の結果と当面の任務」を決議したが、その採決では、中野.西川.亀山.神山の4人の中委が保留を表明し、ここに満場一致という13中総までの中央の先例が破られた。


 12月、南ベトナム解放民族戦線が創設される。


 この頃の動きは次の通りである。

【「第一次池田内閣第二次改造成立」】
 12.8日、第一次池田内閣第二次改造成立。池田改造内閣は、池田・岸・佐藤の三派を主流とする体制となった。河野派、三木派からの入閣はなかった。官房長官・大平正芳、幹事長・益谷秀次、副幹事長・鈴木善幸、総務会長・保利茂、政調会長・福田赳夫。法相・植木庚子郎、外相・小坂善太郎、蔵相・水田三喜男、文相・荒木万寿夫、厚相・古井喜実、農相・周東英雄、通産相・椎名悦三郎、運輸相・小暮武太夫、郵政相・小金義照、労相・石田博英、建設相・中村梅吉、自治省・安井謙、行政管理庁長官・北海道開発庁長官・小沢佐重喜、防衛庁長官・西村直巳、経済企画庁長官・迫水久常、科学技術庁長官・池田正之助。

 12.27日、池田内閣は、閣議で国民所得倍増計画を決定した。以降日本経済は高度経済成長時代を向かえていくことになる。

 財界四天王(小林中、水野成夫、永野は重雄、桜田武)及び経営評論家・三鬼陽之助らがこれを支持し、首相を囲んでは天下国家を論じ、政策に睨みを利かせた。

【「第14回中総」開催」】

 12.18−28日、「第14回中総」開催。先の選挙結果の評価で意見が対立した。「総選挙の結果と当面の任務」を決議したが、その採決では、中野・西川・亀山・神山の4人の中委が保留を表明し、ここに満場一致という13中総までの中央の先例が破られた。その他「共産党・労働者党代表者会議の声明」及 び「全世界諸国人民への呼びかけ」に関する決議を採択。

 既にこの時、春日(庄)ら党内反対派の面々は「宮本一派から分派と云われるのを避ける為、個人的意見の交換は勿論、口をきき、一緒に食事をすることさえ避けていた」と伝えられている。個々バラバラに切り離されてしまっていたということになる。この経過に対して、片山さとし氏は、「日本共産党はどこへ行く」で、次のように述べている。

 「私はこの中央委員会を冬の陣と称し、内濠も完全に埋められてしまったと評価した。後は天守閣の焼け落ちるのを座って待つだけであった。この期に及んでどんなにじたばた騒いだところでムダであった。宮本の密室民主主義の中にからめとられて、官僚主義のカゴの鳥になっていた批判派は、いとも容易く宮本の手で首を絞められてしまった。あわれな末路ではあった」。






(私論.私見)